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 投稿番号:100738 投稿日:2005年01月24日 10時30分42秒  パスワード
 お名前:黒髭
頼盛の子孫は如何に行き抜いたか?
キーワード:shigeyo
コメントの種類 :人物  パスワード

古いスレッドが重くなってきましたので勝手に新しいスレッドを作りました。

takahiroさん,田中愛造さん,暇潰しのギャンブラーさん,その他の方々,お許しを。

まず,初声(??)は世界遺産指定で注目の紀伊半島から。

紀伊那智山の平頼盛の子孫について。

取り敢えず尊勝院潮崎氏には平氏の子孫は入っていないことは以前のスレッドで確認できたと思いますが,問題は廊之坊塩崎(潮崎でもOK)氏ですね。この一族には頼盛末裔伝説があります。これはtakahiroさんのおっしゃる通りで『紀伊続風土記』に詳しいですね。

それによると,頼盛の曾孫保秀が那智の社僧・御師の一族である廊之坊の養子になり塩崎氏を名乗ったとのことですが・・・・。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月24日 11時26分12秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100367_88.html
「平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔」の続編です。
[3]黒髭さんからのコメント(2005年01月24日 23時28分46秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん,ご配慮多謝。

ところで,頼盛の子孫の系図ってどうなっているんですか?

頼盛┬保盛┬頼清
  │   └保教
  ├為盛
  ├仲盛
  ├知重
  ├保業
  ├光盛
  └静遍

ひとまず,これでいいのかな
[4]黒髭さんからのコメント(2005年01月26日 21時12分05秒 ) パスワード

頼盛の系図,修正・追加します。只今,勉強中です。

頼盛┬保盛┬頼清
  │  └保教
  ├為盛─家保
  ├仲盛
  ├知重
  ├光盛
  ├保業┬保秀
  │  ├保則
  │  └保定
  └静遍

これでいいのかな?
[5]黒髭さんからのコメント(2005年01月29日 10時55分28秒 ) パスワード

紀伊那智山の平頼盛の子孫についての続報です。

>「取り敢えず尊勝院潮崎氏には平氏の子孫は入っていないことは以前のスレッドで確認できたと思います」と書きましたが,自らフェイント情報を提供。

実は尊勝院潮崎氏の嫡流の中に,泰済という人物がいます。泰済は父親の済賢が歳とってから授かった子供であったらしく,父親の死後,遺産をめぐる騒動に巻き込まれています。結局,1380年代まで生き抜き,那智執行という那智山の最高指導者になったようですが,この人物は『熊野那智大社文書』のなかで三位公とか三位房と名乗っています。尊勝院潮崎氏は,普通,寂○房と名乗るはずです,それが三位房と名乗っているわけです。三位とは鎌倉期における平保教(保業かな)の官位だったはずですね。
おや,これはと思いませんか? 興味のある人はこれを追及してみませんか?

>「問題は廊之坊塩崎(潮崎でもOK)氏ですね。この一族には頼盛末裔伝説があります。これはtakahiroさんのおっしゃる通りで『紀伊続風土記』に詳しいですね。それによると,頼盛の曾孫保秀が那智の社僧・御師の一族である廊之坊の養子になり塩崎氏を名乗ったとのことですが・・・・」について

現在,色々な情報を集めて系図を作っていますが,保秀って誰の子,誰の孫かな? 誰か知りませんか?
廊之坊は那智山史上に14世紀後半に登場し,末期に那智執行になる人物も出て来ています。これって状況は何を現わしているか?

さてさてどうなるか?
[6]黒髭さんからのコメント(2005年01月29日 11時12分25秒 ) パスワード

>「保秀って誰の子,誰の孫かな?」

だいぶ前のスレッドを見ていたら,「頼盛─**─保業─保秀」という系図ができそうです。でも,保業って頼盛の六男じゃなかったかな? このへんが言い伝え系図の限界かな?
[7]takahiroさんからのコメント(2005年01月30日 00時47分10秒 ) パスワード

黒鬚様

 興味深い御説、ありがとうございます。

 頼盛─保業の系譜については、『朽木文書』にて見る事ができます。

 以下は、『朽木古文書・第十二軸・甲十號』における、「一三四」「一三五」「一三六」(池流平氏系圖)を纏めましたものです。

 
◎池大納言頼盛─池河内守保業─池宮内大輔光度─宮内大輔為度─河内大夫維度─河内大夫宗度─河内次郎顕盛─万寿丸経氏(出羽四郎兵衛尉・朽木兵庫助時綱子)

(朽木兵庫助時綱の子・万寿丸経氏が、外戚の因により、池大納言頼盛6代末裔・河内次郎顕盛の家統を引継ぐ。)


なお、『尊卑文脈脱漏』によると、

◎保業:河内守従五位下 元暦元年六月五日任河内守

◎保業の子息としては、先に挙げた宮内大輔光度の兄として、伊賀守従五位下保房の名が見えます。

◎また、宮内大輔光度の子として、先に挙げた宮内大輔為度(ここでは河内大夫為度)の兄として、近江守貞度の名が見えます。


ただ、先のスレッドにても記しましたが、承久の乱において京方につき、自害の果て相伝の領地没収の憂き目に合ったのは、平頼盛子息・保盛の子である『平保教』であります。

潮崎氏に入ったという「平保秀(あるいは保定)」は、承久の乱を逃れた末の紀伊下向と捉えるなら、この『平保教』の末裔であると思われます。

ゆえに、「保業」は「保教」の訛伝ではないかと、先のコメントにて挙げました。


この保教の子孫は、『尊卑文脈』においては記されておりません。(尊卑文脈脱漏』においても。)


(ちなみに、保教末裔を伝える『安村系図』においては、「保教(範)」の子として、若狭守保忠、成忠、保知の3名が記されています。)


「平保秀(あるいは保定)」については、もう少し資料を当たってみたいと思います。


今回紹介頂いた、「三位房泰済」については、大変興味深いですね。


ちなみに、頼盛の子息の中では、平光盛が「池三位」と称されていました。


「三位房泰済」について、何か新たな事が判りましたら、お教えいただければ嬉しく思います。


私も資料の内で関連しそうなものと出会えば、ここにおいて紹介します。


(また、他の池家に関する『朽木文書』原文についても、折をみて紹介します。)
[8]源太平太さんからのコメント(2005年04月10日 15時40分40秒 ) パスワード

ここで質問なのですが、頼盛流の嫡流はどこになるのですか?

その嫡流というのは伊勢平氏の嫡流だとみてもいいのでしょうか。
[9]takahiroさんからのコメント(2005年04月18日 16時18分51秒 ) パスワード

源太平太様

 返信遅くなりました。

 頼盛流の嫡流に関してですが、頼盛子息のうち、長男は保盛であり、嫡男は光盛であると思いますので、素直にみれば、頼盛嫡流家は光盛家とみてもよいのではないでしょうか。


 ただ、光盛家は光盛の代にて断絶、あるいは女系を通して久我源氏の流れへと合流しています。

 この周囲の事柄に関しては、『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)に非常に興味深い言説が展開されています。


 同著においては、『「皇統」という幹を中心として、その周りを皇族や、源氏をはじめとする皇親賜姓氏族が取り囲んだところの、広い意味での「氏」的な存在を、仮に「王氏」という言葉でよぶ』こととしたい、として、「源氏と日本国王」に関しての言説が展開されています。

 つまり、○○源氏、○○平氏をすべて「皇統」を幹としたその派生の「王氏」と捉え、その「王氏」を統率する氏の長者を「源氏長者」としてとらえ、ある意味、「王氏」の嫡流として捉えられています。

 則ち、この「源氏長者」/「王氏の嫡流」は、時代により幾多の変遷を余儀無くされます。

 詳しくは同著を参照願いたいのですが、その中に、平頼盛(その子息光盛)の池大納言領を相続した久我源氏に関して、次のような一文があります。


 『源氏長者の権能とされるもののほとんどすべては、「平氏」をも含む「広義の王氏」全体の権能であった。とするならば、久我家がそうした源氏長者の地位を、「宣旨」によって公認されることで、公家社会に生き残った「平氏」所領の正統な継承者として認められたということも、十分に考えられる。』


 同著には、「源氏長者一覧」として弘仁五年(814)から明治四年(1871)までの八十七代にわたる歴代源氏長者が挙げられています。

 最後の源氏長者は「久我建通」であり、彼は清和源氏・徳川慶喜から源氏長者の地位を継承しています。

 武家源氏(清和源氏)では、徳川家が十四代、足利家が六代、その地位に就いていますが、それ意外の六十七代はすべて公家系の源氏が就いています。

 また、歴代源氏長者の元には、「宇宙といふ御印」および「応仁天皇の御物、按摩面の矢の羽八枚」が継承されてきたとされています。

 そしてこの継承の品は、現在は、最後の源氏長者「久我建通」から預けられた石清水八幡宮に所蔵されていることが近年の調査で発見されたとも記されています。


 源太平太さんがどのような観点から源氏の嫡流、および平氏の嫡流に関して調べておられるのかは判りませんが、上記紹介しました『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)は非常にお薦めです。
[10]takahiroさんからのコメント(2005年04月18日 16時44分58秒 ) パスワード

>その嫡流というのは伊勢平氏の嫡流だとみてもいいのでしょうか。

もう一つの御質問に関してですが、「嫡流」の定義が一つではないと思いますので、私もよくは判りません。


○忠盛─清盛(忠盛長男)─重盛(清盛長男)─維盛(重盛長男)─六代

○忠盛─清盛─重盛─清経(重盛正妻子)

○忠盛─清盛─宗盛(清盛正妻子)─清宗

○忠盛─家盛(忠盛正妻子)

○忠盛─頼盛(忠盛正妻子)─保盛(頼盛長男)─頼清─保清

○忠盛─頼盛─光盛(頼盛正妻子)
[11]takahiroさんからのコメント(2005年04月18日 16時57分27秒 ) パスワード

追記

なお、佐々木紀一氏の論文「小松の公達の最期」においては、重盛家の嫡男は都落ち前には「維盛」から「資盛」へ移っていたのではないかとの論考が展開されています。


追記2

平熱の皆様へ

諸事情の為、以前のようなペースでの返信投稿はできないかもしれませんが、今後とも宜しくお願いします。
[12]源太平太さんからのコメント(2005年04月20日 16時37分42秒 ) パスワード

お返事ありがとうございました。

ということは、頼盛流の男系での子孫で嫡流と言う事になれば
保盛の子孫となるのですか?
[13]takahiroさんからのコメント(2005年04月26日 13時11分57秒 ) パスワード

先の『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)からの引続いての引用ですが、

『…承久三年(1221)、池大納言家領の一つである播磨国在田荘を「安堵」された平保業(頼盛の子)の子孫は、その後、鎌倉に下向して、幕府滅亡に至るまで歴代の将軍家に勤仕し続けている。また池大納言家領の内、半数近くを父頼盛から伝領した平光盛も、建保7年(1219)の源実朝右大臣任官に際して、坊門忠信や西園寺実氏らとともに鎌倉に下向し、実朝の鶴岡八幡参詣に付き従っている。

 ところが光盛は、この参詣の最中(帰路)、雪振る鶴岡八幡宮の大石段で、主君実朝が甥の公暁に斬り殺される現場に遭遇してしまう。ほうほうのていで京都に逃げ帰った光盛は「あんな恐ろしいところに二度と行けるものか」とばかりに二度と鎌倉へと足を向けることはなくなり、その子たちも関東に伺候することなく出家するなどして、その「家」は事実上断絶する。そして、それに対応するかのように池大納言家領は、久我家へと流出していくことになるのである…。』

先のコメントにて記しましたが、頼盛家の嫡流は光盛の流れであると思われ、そしてその光盛家は上記のように、半ば意図的にその「家」を断絶してしまっています。

生残った「王氏・平家」の嫡を継ぐ光盛家は、「王氏」の嫡流である「源氏長者」の宣旨を受けた久我家へ吸収されたとみるのが最も妥当ではないでしょうか。

私は[9]においても、「光盛家の断絶」について記していますが、しかしそれは上記のような意味、中央(京都・鎌倉)においての光盛家という意味においてであり、薩摩八木氏に見られるように、地方に下向したという光盛末裔(男系)の伝承は存在します。

またそれと同じ意で、地方に下向した保盛末裔(男系)の伝承を伝える家系も、和泉国大鳥郡の上神・小谷氏、伊賀国山田郡の安村氏等、存在します。

(京都においては、仁和寺宮諸大夫家として近世まで存続した尾崎・若林家が保盛末裔の伝承を伝えています。)


それらのどの家が頼盛家の嫡流を伝えているのか、今の私の手持ちの資料では判明し得ません。


頼盛家の嫡流の証の一つになり得る平家宝刀「抜丸」については、以下に二点の参考資料を上げることができます。


○頼盛子息仲盛の末裔を伝える「平氏下村家系図」からの抜粋

『平家相傳守刀並法華経所持也 文治四年戌申賜日向國臼杵郡之内財部村』


○「朽木文書所収・平宗度譲状」からの抜粋

『 「池殿」(包紙)

 たいたい(代々)このいへ(家)につた(伝)へ給ハるうちかたな(打刀)二郎あきもり(顕盛)にゑいたい(永代)をかき(限)りて、ゆつ(譲)りわた(渡)すところなり、…(後略)

 かりやく(嘉暦)三ねん(年)六月十三日

             たいらむねのり(平宗度)
                (花押)      』               

*頼盛-保業-光度-為度-維度-宗度-顕盛-(朽木)経氏    


2点の資料とも、「平家相傳守刀」、「たいたい(代々)このいへ(家)につた(伝)へ給ハるうちかたな(打刀)」とのみで、残念ながら「抜丸」との固有名は出てきませんが、「抜丸」の可能性もないことはないとのことで、ここに上げておきます。

(なお、「朽木文書」においては、顕盛から経氏への『平顕盛譲状』にも、「ちうたい(重代)の大刀うち刀の事」ととして、上記「刀」は再度登場します。)


頼盛家の嫡流はどの家が継いだのか。

光盛家の意図的な断絶により、より広義の王氏「源氏長者」久我家へ吸収されたのか、あるいは頼盛家の中での何らかの合意がなされ、地方への下向により嫡流血脈の存続は図られたのか、史的真実はどこにあるのでしょう。

また源太平太さんのお考えもお聞かせ下さい。
[14]takahiroさんからのコメント(2005年04月28日 15時03分38秒 ) パスワード

追記

 [13]にて平仲盛末裔下村氏について少し言及しましたが、もう少し補足します。


◎平頼盛の三男仲盛の子、若狭守盛為(或いは盛重)は文治四年に日向国臼杵郡の内財部村を賜り、平家相傳守刀並びに法華経を所持して下向す。

○若狭守盛為(或いは盛重)の長男、三河守盛順、財部と号す。

○若狭守盛為(或いは盛重)の二男、治部少輔盛朝、池上と号す。

○若狭守盛為(或いは盛重)の三男、伊代介重兼、下村と号す。


◇下村伊代介重兼の長男、孫三郎重氏、下村家を継ぎ法華経を相伝す。

◇下村伊代介重兼の二男、左馬頭重治、平家相傳守刀を相伝し木下を号す。


 また同系統の系図を伝える平為盛末裔「平氏鬼丸系図」によると、

◆財部三河守盛順の二男、河内守頼実、森山と号す。


 以上にみるように、平仲盛の末裔は鎌倉初期、日向の地において数流の苗字を輩出しています。また財部三河守盛順の三代孫・頼明の娘は、日向の領主伊東家の当主である伊東佑安の室となっており、伊東家の史書「日向記」においても、財部氏が「倍木」の地を知行している記録が残っています。この「倍木」とは、現在の「日置」であり、仲盛末裔が下向したという「財部(現高鍋)」のすぐ隣接地に当たっています。なお、この伊東氏は平家全盛期、小松家の家臣であった伊東家の末裔に当たります。

 また、後(十六世紀末)に上記下村家の一流は、大隅国にて平維盛の子、六代御前の末裔を伝える根占領主・禰寝重長の後見役に就き、また平光盛末裔を伝える薩摩八木氏はこの時期、敵対関係に合った島津十六代大守義久と禰寝重長の間の折衷役の役目を果たし、両者を和睦せしめています。
 和睦後、禰寝氏は義久臣となり、島津氏の薩摩大隅平定に貢献しますが、同時期、平為盛末裔を伝える鬼丸氏もまた義久臣であり、先の禰寝重長没後、禰寝一族は重長を祭神として祖霊神を祀る神社を建立しますが、この神社は鬼丸神社と命名されています。(禰寝氏と鬼丸氏との関係は、同じ平氏末裔であるという関連のみ意外は現在のところ判っていません。)
 十六世紀末というと、平家一族の壇之浦の滅亡後、およそ四百年後となりますが、薩摩・島津氏の元でも、同じ平孫を伝える家同士、意識の上では親近性を有し続けていたのかと、興味は尽きません。

 また上記、木下左馬頭重治の末裔に相伝された「平家相傳守刀」は、木下家において、昭和20年までは相伝継承され続けてきたとのこと、しかしながら日本の敗戦により占領軍から武器供出令が発せられ、米軍の手に渡るよりはということで、自家で廃棄処分になされたとのこと、また現在でも木下家においては、「木下家氏神講」を組織され、『此の会は祖先(桓武天皇の後裔平家系図に拠る)を同ふし血の通って居る同族または、縁故関係者が相椅り相助けてお互いに協力し、良く祖先を祭ると共に…<後略>』と始まる9項目に渡る規約を定められ、互助会を運営されているとのこと、HN布袋竹様に提供頂いた資料にて、頼盛末裔の現在の一端を知ることができました。
[15]takahiroさんからのコメント(2005年04月28日 16時24分09秒 ) パスワード

追記2

◎平保教に関する資料

石清水文書之四・石清水皇年記下 承久三年七月二十八日・自害事より

『内蔵頭平保範逃隠善法寺故検校房、宮寺守護武士息津四郎、京使内記左近等搦取之間、伏釼畢、為追討同類各乗馬登山、彼房主卿寺主於房武士等足ヲハサム、付縄将去武士之許了、』

承久の乱に京方として破れ石清水八幡宮に隠遁中を発見され自害し果てた平保教に関する資料ですが、ここでは平保教は「内蔵頭平保範」として記述されています。

尊卑分脈においては、平保盛の二男として「保教 左兵佐・内蔵頭・木工頭 承久乱於八幡自害了」と記されています。

「教」「範」ともともに「ノリ」と訓じるのだと思われますが、平保教末裔を伝える「安村系図」においては、石清水文書と同記述である「保範 内蔵頭」として記されています。

ただ「安村系図」においては、保教は頼盛の子の位置に記されており、これは訛伝であろうと思われます。


*頼盛末裔に関する資料、引続き、折をみてではありますが、当スレッドにて紹介していきます。
[16]takahiroさんからのコメント(2005年04月28日 17時07分29秒 ) パスワード

◎平保教に関する資料2

藤原定家著「明月記」・正治元年四月十九日より

『…年来所養育小男(保教)、保盛朝臣子□□□庶子自鎌倉被召出。此事親能卿触申入道(俊成)殿。事甚恐惶。今朝相具冠者行向謝披、大略優免之由語之。件男(保教)本自元服、極不可有事也。自今以後猶可招殃禍事歟。…』

 上記に見えるように、平保盛の子(庶子であったようです)、保教は幼少の頃、歌人として著名な藤原定家の猶子に入っていました。正治元年、則ち1199年に至っても、平家末裔への目は厳しかったのか、保教に対して「鎌倉被召出」との命が定家の元へ発せられ、定家をして「事甚恐惶…、自今以後猶可招殃禍事歟…」と不安に陥れています。

 『明月記』からはその後、保教は更に藤原保家(藤原基家と平頼盛娘の子)の元へと猶子に入った事が判り、また承久の乱の後、自害した保教の父・保盛が愛息を失った悲しみを定家に歎いている記述も見られます。
[17]takahiroさんからのコメント(2005年04月29日 01時26分17秒 ) パスワード

 スレッド「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」から[62]菊千代様の御投稿、平頼盛にも関連してきますので、勝手ながらこちらにも資料として転載させて頂きます。

 『原田家譜「霊光史略」によると原田種直の室は重盛の養女(右馬助平家盛の娘)となっています。この家盛という人物は清盛の弟で、早世したとか源平合戦を逃れたとかちょっと伝説的な人物ではあります。頼朝が池の禅尼に助命されたのも、我が子の家盛によく似ていたからだとか。<菊千代様御投稿 >』

 
 原田種直の室は平頼盛の娘であるとの記事は以前より諸所にて散見しておりましたが、実はこの女性が、頼盛の同母兄家盛の娘であり、重盛の養女となっていたとは、菊千代様御紹介の原田家譜「霊光史略」にて初めて知りました。

 一般に伝わる原田種直の室は平頼盛の娘であるとは、「家盛の娘」が「頼盛の娘」と訛伝したのか、或いは「重盛の養女」が「頼盛の養女」と訛伝したのか、或いは実際に「重盛の養女」から「頼盛の養女」になり、種直の元へ嫁いだのか。

 重盛の養女が原田種直の元へ嫁いだのは永歴元年(1160)二月、家盛の生年は1120年代前半、死去が久安五年(1149)三月、頼盛の生年は天承元年(1131)。両者の生年より見れば、「霊光史略」『重盛の養女、実は右馬助平家盛の娘』は史実に則しているように感じられます。


[18]takahiroさんからのコメント(2005年04月29日 01時59分50秒 ) パスワード

 同じく、スレッド「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」より[35] 立梶の葉様からの御投稿もこちらに参照させて頂きます。  

『高棟王流の公家平家諸流は、たしかに揚羽蝶や丸に揚羽蝶の家紋を現在も使用しています。西洞院家の庶流になる当家では、理由はよくわかりませんが、立梶の葉というのでしょうか、その紋も揚羽蝶と併用しております。 <立梶の葉様御投稿>』

 当スレッド[14]において紹介致しました、平家末裔を伝える家々もまた、嫡庶により区分はありますが、財部家、下村家、木下家、禰寝・小松家、鬼丸家すべてが梶関連の紋を使用しています。

 立梶の葉様の御投稿と合わせて鑑みますと、揚羽蝶紋と同じく梶紋もまた、平氏に共通する紋と捉えてもよいのかと考えられてきます。

 メモのようになりましたが、ここに投稿しておきます。

 
 
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年04月29日 10時07分14秒 ) パスワード

takahiroさま

お疲れさまでございました。
連休始めということでごゆっくりお休みになってください。
[20]takahiroさんからのコメント(2005年05月03日 01時33分14秒 ) パスワード

ギャンブラー様、いつもながら温かいお言葉ありがとうございます。

私が初めて『平家物語を熱く語る』へ頼盛子息「平為盛」について投稿しましたのが、2002年の初秋の頃でしたので、もう既に2年半以上前のことになるのですね。

今回はここで、再度、「平為盛」についての関連資料を投稿します。


●「為盛塚」(小矢部市教育委員会による説明碑)

為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎をひきいて源氏に逆襲したが、義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので、墓は地、水、火、風、空を表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の建設である。市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
               昭和46年12月 小矢部市教育委員会 


上記は、小矢部市教育委員会による「為盛塚」の説明碑です。
おそらく典拠は、下記『源平盛衰記・巻第二十九』からであろうと思われます。


●『源平盛衰記』巻第二十九より

去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十餘騎を具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、餘すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其體等倫に異也。二百餘騎を率して、北の山の上より落し合て押圍み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を盡て討れにけり。知度朝臣は難遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。


 上記に拠りますと、平為盛は寿永二年五月十二日に砺波山・倶利伽羅峠の合戦にて討死していることになります。しかしながらその後、様々な史料を探索していくと、倶利伽羅峠の合戦の以後における平為盛の生存を証す「4点の史料」に出会うこととなりました。

 以下、その4点の史料を年代順に紹介していきます。 


 まずは、慈円著『愚管抄』における寿永二年七月二十四日の平家都落ちに関する記述からです。


●『愚管抄』寿永二年七月二十四日より

暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。


 上記によりますと、平為盛は寿永二年七月二十四日の平家都落ち時においても生存しており、山科にて京の防衛に当たっている頼盛の使者として、先に都を落ち行く宗盛一行へと追い付き、一門の今後についての言葉を得ようと使者の役目に努めています。

 後に、『愚管抄』の著者・慈円の元へは、平頼盛子息、光盛が師事しており、慈円はこの光盛から頼盛一族に関する情報を得ていた可能性が高く、慈円による『愚管抄』に描かれる頼盛一族に関する情報の信憑性はかなり高いものであると考えられます。


 次に紹介しますのは、史料といいますより、平家物語の二つの異本からのものです。

●『平家物語・長門本』より

頼盛池殿ニ火懸テ。子息保盛。為盛。仲盛。光盛等引具シテ打出ラル。


●『平家物語・延慶本』より

八月六日平家解官事…<中略>…右兵衛佐為盛…<後略>


 上記に見ますように、『平家物語・長門本』においては平家一門都落ちの時点においても平為盛は頼盛一族と共に行動しており、また、『平家物語・延慶本』においては、都落ちの翌月における平家一門解官事の項に「右兵衛佐為盛」の名を連ねています。


 次に紹介します史料は、大きく年代が飛びますが、『吾妻鏡』の建保六年・六月二十一日、二十七日、七月五日の項目です。

 建保六年とは、1218年であり、鶴岡八幡参詣時に源実朝が甥の公暁により暗殺された建保七年の前年に当たります。建保七年の実朝暗殺の場には、平光盛が居合わせますが、それは実朝の右大臣任官の拝賀に光盛が鎌倉へ赴いていたからでした。その1年前、建保六年には平為盛が、源実朝の右大将任官の拝賀に鎌倉へ赴いていたことが、『吾妻鏡』の建保六年・六月二十一日、二十七日、七月五日の項目から判ります。

●『吾妻鏡』建保六年より

六月二十一日 

 午の刻、忠綱朝臣件の調度等を御所に運ばしむ。御車二両(檳椰・半蔀)・九錫の彫弓・御装束・御随臣の装束・移鞍等なり。これ皆仙洞より調え下さると。仲章朝臣奉行としてこれを請け取る。小時将軍家忠綱朝臣を簾中に召し御対面有り。慇懃の朝恩殊に賀し申さると。数刻の後退出す。晩に及び池の前の兵衛の佐為盛朝臣・右馬権の頭頼茂朝臣等また下着す。凡そこの御拝賀の事に依って、参向の人すでに以て数輩、皆御家人等に仰せ毎日経営す。贈物花美を尽くす。これ併しながら庶民の費えに非ざると云うこと莫し。

六月二十七日 

 将軍家大将に任じ御うの間、御拝賀の為鶴岡宮に参り給う。早旦行村の奉りとして、御拝賀有るべきの由を下向の雲客等に触れ申す。申の斜めにその儀有り。先ず南面に出御す。文章博士仲章朝臣(束帯)御簾を上ぐ。陰陽少允親職(束帯)車寄の間に参り反閇に候す。陰陽権の助忠尚(束帯)廊根の妻戸に入り御祓いを勤む。伊豫少将實雅御車を寄す。南門を出御し西行す。

 行列
 <中略>
 殿上人(一行)
 新蔵人時廣   一條大夫頼氏   花山院侍従能氏  一條少将能継
 伊豫少将實雅       前の因幡の守師憲   右馬権の頭頼茂朝臣
 前の左兵衛の佐為盛朝臣  文章博士仲章朝臣   一條中将信能朝臣
 <後略>

七月五日 

 下向の雲客前の兵衛の佐為盛・花山院侍従能氏等帰洛す。


 以上、平為盛に関する箇所のみ抜粋して紹介しておりますが、ここにおいて平為盛は、「池の前の兵衛の佐為盛朝臣」、「殿上人・前の左兵衛の佐為盛朝臣」、「雲客・前の兵衛の佐為盛」として記述されています。

 『尊卑分脈』、『尊卑分脈脱漏』より判明しています平為盛の官位官職は、「従四位下 紀伊守 加賀守 (左)兵衛佐」ですので、『吾妻鏡』における為盛に関する肩書きはすべて正確に著されていると思われます。建保七年の平光盛による源実朝・右大臣任官拝賀の為の鎌倉下向は比較的よく知られていますが、その前年、建保六年に平為盛が源実朝・右大将任官拝賀の為に鎌倉下向を為していたことは、『吾妻鏡』に記載されていながら、あまり知られていないようにも思えます。


 以上、計5点の平為盛に関する史料を紹介してきましたが、倶利伽羅峠の合戦における討死を描く『源平盛衰記』と、平家一門都落ち後における生存を描く『愚管抄』、『平家物語・長門本』、『平家物語・延慶本』、『吾妻鏡』、どちらが史的真実を伝えているのでしょうか。2年ほど前、「為盛塚」に関してその説明板を建てられた小矢部市教育委員会へ問合せの連絡を取りましたが、何か行違いがあったのか未だ返信をもらえていません。(同じく平家関係で他の市町村、あるいは教育委員会へ問合せを行った際はどこも迅速・丁寧に返信をいただいているのですが。)


 平為盛に関し、この場において引続き考察を続けてまいります。
[21]takahiroさんからのコメント(2005年05月03日 23時48分45秒 ) パスワード

【訂正】

『…上記は、小矢部市教育委員会による「為盛塚」の説明碑です。おそらく典拠は、下記「源平盛衰記・巻第二十九」からであろうと思われます。』

として、先項においては「為盛塚」と「源平盛衰記」との関連を示しましたが、しかし、熟考してみるなら、「為盛塚」の建立時期は鎌倉期とされており、一方「源平盛衰記」の成立時期は鎌倉後期以降(〜南北朝期)とされている事から、決して、「源平盛衰記」を典拠に「為盛塚」が建立されたわけではなく、両者はほぼ同時期に建立・成立されたと見る方が適当であると思われます。

 即ち、鎌倉期には既に、砺波山にて平為盛は平知度とともに戦死したとの伝承が存在していたと思われます。

 ではなぜ、後に、「愚管抄」「吾妻鏡」に死したはずの為盛の名が登場するのか、現在私の手元の諸資料ではその矛盾は解明し得ませんが、ただ、考え得ることは、砺波山にて平知度とともに戦死した為盛に近しい者(為盛子息、或いは頼盛子息)が実際に存在したのではないかということです。

 参考としてですが、為盛末裔を伝える鬼丸系図においては、為盛の子は早世しており、その子(為盛の孫)が文治五年春に播磨国を経、日向国臼杵郡財部(仲盛末裔の下向先)へ、家人十九人を率い下向したと伝えられています。

 現在再び、「為盛塚」に関する資料を小矢部市役所様へ請求していますので、また何か判明すればここに投稿します。


 なお、系図纂要「平朝臣姓」によると、平為盛<討死倶利伽羅>、平知度<死于倶利伽羅>とともに、知度の子として「重義」の名が記載され、<与父同死>として、知度には子息「重義」が居り、父子ともに倶利伽羅において戦死している旨が記載されています。他の資料では見えない所見ですので、ここに補記しておきます。
[22]takahiroさんからのコメント(2005年05月04日 00時35分47秒 ) パスワード

 再びの訂正ですが、

 先項にて、「系図纂要」からの引用として、平知度の子には重義が居り、父子共に倶利伽羅において戦死していると紹介しましたが、再度「源平盛衰記」巻二十九を精読しますと、平知度の敵方、源義仲臣・岡田冠者親義の係累に太郎重義が登場しており、重義とは平知度の子ではなく、岡田親義の係累(子?)であることが判ります。重義が平知度の子であるとは、系図纂要作成者の「源平盛衰記」の誤読であると思われます。

『知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。』
[23]みつる さんからのコメント(2005年11月04日 22時12分34秒 ) パスワード

我が家の先祖は、真柄十郎と父から聞き、さらにその先を調べると頼盛の子、保盛の17代目と書かれていたHPをみつけてこのサイトに入ったのですが、どこにもその様な内容は無く、単なる伝承かと・・。もしご存知の方がいたら教えて下さい。
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年11月04日 23時39分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

みつるさん へ
越前国今立郡真柄邑発祥の真柄氏は八木氏の支流である。
八木氏は古代の八玉彦命後裔の八木造、八木宿禰を祖とするものと思われるが、
中世以降は源氏、平氏、藤原氏、菅原氏、日下部氏、滋野氏などを称する。
但馬発祥の八木氏は日下部氏と桓武平氏頼盛流の二流があるが本来は同族と考えられる。
系図纂要の日下部氏系図に拠れば、貞政を真柄氏の祖としている。
真柄十郎が日下部氏か頼盛流かは断定出来ないが、朝倉家臣という点からは日下部氏が妥当ではないかと思われる。
なお頼盛流八木氏の子孫は薩摩に下向している。
[25]takahiroさんからのコメント(2005年11月04日 23時40分30秒 ) パスワード

真柄姓とは旧越前国を発祥とされるのでしょうか、旧越前国は頼盛と大変由縁深い地であり、武生には頼盛の長男である保盛が開いたという城福寺が存在しますが、確か「真柄」とは武生市内の地名でしたでしょうか。なお城福寺の住職は保盛の後裔が代々継いでいると聞き、現住職は24代目であり「池」の姓を名乗られていると聞きます。「真柄」姓もその由縁の御姓なのでしょうか。今、手持ちの資料ではこのあたりまでしか書けませんが、また何か判りましたら投稿します。
[26]takahiroさんからのコメント(2005年11月05日 07時52分06秒 ) パスワード

真柄姓とは、日下部氏流八木氏あるいは平氏頼盛流八木氏の系でしたか。平氏頼盛流八木氏であるなら、頼盛の嫡男光盛の後裔となりますね。光盛は京都では男系子孫を残しませんでした。子(男系)は皆地方へ下向させていたのかもしれませんね。
[27]みつる さんからのコメント(2005年11月16日 18時23分44秒 ) パスワード

ちなみに、家紋は梶の葉です。
[28]やわらさんからのコメント(2008年11月17日 10時31分42秒 ) パスワード

頼盛の子孫では池氏が御家人となりましたが、池顕盛の代に朽木家の者を猶子にしているみたいですね
朽木経氏は養子ではないようですが、顕盛には男子はいなく、男系の子孫は残っていないのでしょうか?
また池氏の分家などは存在していたのでしょうか?
[29]super0さんからのコメント(2008年11月18日 12時50分02秒 ) パスワード

【桓武平氏頼盛流】
 忠盛の五男、頼盛は清盛とは異母兄弟であり、平家西奔に従わずに後白河法皇を頼ることになる。
 その後、池禅尼に恩義のある源頼朝に招かれて鎌倉へ赴き、厚遇を受けて官職所領を回復する。 
 江戸時代の国学者本居宣長は、池大納言頼盛六代の後胤、本居縣判官建郷の裔と称する。

 
            ┌心円
            │
       ┌─保盛─┼【上神】頼清(政員)──保清……(2代略)……政有……(13代略)……匠鑁【小谷氏】
       │    │
       │    ├保教─┐
       │    │   ↓
       │    └光惟 ※
       │
       ├─為盛─┬俊盛
       │    │
       │    └家保──家衡【鬼丸氏】
       │
       ├─仲盛─┬貞成──貞親
       │    │
       │    └盛重─┬盛順【財部氏】
       │        │
       │        └重兼【下村氏】
       │
 【池】頼盛─┼─知重……【池氏】【松尾氏】
       │
       │【山名】重国──重村──盛重─┐
       │               ↓
       │
       ├─【八木】光盛───┬盛定════盛重──盛武……〔薩摩八木氏〕
       │          │
       │          ├宣盛【八木氏】
       │         ※ │
【藤原】通基─│─基家      ↓ └景家【平川氏】  ┌保光
       │  ║                 │
       │  ╟──保家════保教─┬保忠──範正─┼盛真……【安村氏】
       │  ║         │       │
       ├─女子 ┌保房──保長 ├成忠     └頼家
       │    │       │
       ├─隆弁 │   ┌貞度 └保知
       │    │   │
       └─保業─┼光度─┴為度──維度──宗度──顕盛════経氏【池氏】
            │
            └保定──保秀【潮崎氏】         ↑
                                 │
        (宇多源氏)【朽木】義綱──時経──時綱──経氏──┘




コピーさせて頂いたものですがこの中にどれほど信用するに足りる家系図があるのかは不明です。池顕盛のみ子孫の中では確実なようですが。
[31]森本杜櫻さんからのコメント(2008年12月22日 15時48分35秒 ) パスワード
URL=http://www.miyazaki-web.net/

森本と申します。初めまして。検索してたらこちらのサイトに来ました。
子供の頃、母から(旧姓 鶴田)都城市図書館館長を務めた鶴田本家の鶴田利業(としなり)氏が、自分の家系に興味を持って調べたというもののコピーを貰い、以来ずっと興味を持っておりました。
こちらの内容と少々関わりがあるようなので投稿させて頂きます。
少々読みにくいので誤字が出るかもしれませんが、引用(最近の者は男女として)致します。

系図が壊れたのでサイド投稿し直します。

鶴田姓の出自について

桓武天皇(第50代)−葛原親王−高望王(賜平姓)┬国香
                        ├良将
                        ├良兼−将門
                        └良文(村岡姓)→@
@┬忠道
 └忠頼┬忠恒
    └将恒┬武基┬武家
       └武恒└武綱(秩父姓)┬重綱
                  └基家(河崎姓)−重家┬重実
                             ├重国(相模国渋谷庄司)−→A
                             ├金王丸
                             └家季
A┬光重┬重直(渋谷太郎)
 ├高重├実重(早川次郎)・・・・・・・後に東郷姓
 ├時国├重保(吉岡三郎)・・・・・・・後に祁答院姓
 ├重助├重諸(一説には重茂、大谷四郎)後に鶴田姓−−重行−頼重−重成
 ├盛重├定心(曽司五郎)・・・・・・・後に入来院姓
 └近重└重貞(落合六郎)・・・・・・・後に高城姓

○高望王の子、良文は武蔵国大野郡村岡に住み村岡と名乗り、のち秩父郡に住み、武基は秩父別当と称した。武綱・基家はそれぞれ、前九年の役、後三年の役に源氏に従い戦功があり、武蔵国豊島郡谷盛庄、相模国渋谷庄を与えられ、重家の頃渋谷庄に移ったといわれる。

○渋谷重国は、源頼朝の挙兵以来、頼朝を助けて戦功があり、光重の代には承久の乱(1,221年)や三浦、千葉氏の誅伐(1,247年)に戦功があって千葉氏の遺領の東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城(たき)の地頭職が与えられた。

○応永八年(1,401年)島津家は総州家(伊久)と奥州家(元久)との間に反目が続いて不和であったが、鶴田氏は奥州家につき、他の渋谷四族は総州家についた。数度の合戦の結果、鶴田氏(重成)は破れて菱刈に遁れる。

○元久の用紙久照(伊久の第三子)は櫛間(現:串間と推測 投稿者注)を経て志布志に陣を構えたが敗戦の後、三股(北殿城)に逃れたが、その末路は明らかでない。

(都城島津家『諸家系譜』十五)
◎貞信(肥前守)−貞明(飛騨守){文禄二年没(1,593年)朝鮮出陣没}→B
B−貞隆{物奉行役、家禄百二十六石}−貞重−知貞┬典貞・・・早鈴町鶴田家
                        └貞経(貞長)−貞宣−貞清{寛延元年生(1,748年)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(私注:↓貞清が何処に繋がっているのかコピーでは解らず) 池田嘉右衛門長女
貞清−−−−−−−−−−┐             タイ(明治 3年)┐
(納右衛門・文化12年生)├┬休右衛門(天保14年)┐         ├→
ノブ−−−−−−−−−−┘|          ├┬虎蔵(明治元年)┘
(高橋軍兵衛次女)    |  トヤ(寛永 2年)┘├福次(明治九年)
             |  (鎌松右衛門長女)├ユミ(明治19年)
             ├納助(嘉永 5年)   └野右衛門(明治22年)
             └小一郎(嘉永7年・山内)

→−源二(明治24年)−利業(調べた人)・男・男(安西)・男・女・女(中田)・女(山下)
 ├マツ−┐
 |   ├男
 |持田氏┘
 ├虎吉−−−−┐
 |(明治30年)├−男・女(秋沢)・女(酒見)・女(藤崎)男・女(山下)・男・男・男・男・女(田中)
 |ヤナキ−−−┘
 ├貞清−−−−┐
 |(明治33年)├女・女(竹之内)・女(丸目)・女┐・女(末長)・男┬男・女(上坂)
 |スマ−−−−┘           森本┴私  女┘
 | テル−−−┘
 ├源一−−−−┐
 |(明治37年)├男・男・男・女(山下)・女(岩元)・女(押川)
 |キミエ−−−┘
 ├貞行−−−−┐
 |(明治42年)├男・男・男・男・男(高畑)
 |チエ−−−−┘
 └貞則−−−−┐
  (明治42年)├男・女(鶴)・男・女(神坂)
  ミユ−−−−┘

私個人的に裏付けを行ってはおりません。
よって歴史的事実と人物との誤記や勘違いがあれば申し訳ありません。
以上サイトの隅を汚して申し訳ありません。
[32]手乞さんからのコメント(2011年05月22日 17時57分12秒 ) パスワード

平頼盛の子孫について調べていましたらここに着きました

頼盛の子孫を称する家系のうち信憑性のあるものは仁和寺宮諸大夫家の若林氏・尾崎氏だと聞いてまいりました。

この2つの家は現在でも存在するのでしょうか。

[33]あじさいさんからのコメント(2011年05月26日 21時30分01秒 ) パスワード

平頼盛 が 目につき この スレをあけてみました。

31] 森本杜櫻さん  鶴田姓

私が今住んでいる 大阪高槻赤大路に 鶴田さんが いらっしゃいます。
パートで知り合った人ですが おばあさんが 鶴田姓だそうです。
家に 白蛇様をまつる 小さな 社があります。

このあたりや 茨木 富田などには おおきな 昔ながらの 屋敷がたっております。鶴田さんとこも 会社に土地を売ったそうで そのあとも なお 家土地は 大きなものです。しかし、駅前再開発の波にあらわれ 昔の歴史も忘れられようとしています。又 西日本は 関が原以来 厳しいものがあり、本来の歴史が埋もれたままになっていることも考えられます。

赤大路いったいは 藤原の荘園だったそうです。近くの不動産屋さんは ここらから 高槻駅あたりまで 田んぼ田んぼだったと言っており、私の家のあたりなど40年くらい前までは 駅まで 林の中の細い道を歩いていっていたそうです。今は その 面影など まったく 見られません。

踏み切りのむこうには 代官の墓が 残っています。
赤大路の由来は 
菅原道真が大宰府に赴くのをしたって 後を追ってきた 側室が 出産がせまり ついに 命尽き果てたとき 道を血で汚したことを 村人にわび、自分はこの地の守り神になろう と 遺言したといい、安産の神様として 「子安神社」が 建てられ、地域を 赤大路というように なった。

その人のことは 「尼子さん」と 呼んでいました。
昔 鶴田さんと 尼子さんは なんか つながりがあったんかいな?と 尋ねたことがあったことを 思い出しましたが
私的には
このあたりには 北川 尼子 東 などの家が 多くあり
九州の私の家のつながりに 似ているなあ と 思いました。

渋谷 祁答院など も うちを 追いかけていると 出てきたので 
ふ〜ん と 思い 興味深く 読ませて いただきました。

このあたりには 高倉天皇安産祈願の平氏ゆかりの話がある「鴨神社」があります。
[34]木村正明さんからのコメント(2011年09月29日 01時33分49秒 ) パスワード

源平の戦いの後平を名乗って生きられた者と言えばここにたどり着いた。
平家の滅亡後に源頼朝は池の禅尼の恩義に報いた、これが平頼盛の一族が生き残れた理由であろう。頼朝はまた平治の乱で敗走の途中で相伝の家人により湯殿でだまし討ちにされた父義朝の荒れた墓を弔ってくれた平康頼を阿波国麻植保の保司に任命し恩義に報いた。
この麻植保には 平康頼と共に二人の平を名乗る者が行動を共にし家人の鶴田氏と四人が来た。この伝承は僅かに郷土史に伝わるだけのものだが郷土では否定する者はない。当時の阿波国は遠流の地として考えられていて吉野川を挟む北岸には土御門上皇の流されていた御所という地がある。平康頼も一人では心細いので二人の平を名乗る者をさそったのであろ。二人の平もすでに源氏の世となってしまった都に留まるよりは新天地を目指して平康頼と行動を共にしたのであろう。後に承久の乱で上皇側に付いたとして保司職は没収され平康頼は三代で絶家した。世間の風は冷たく平を名乗る二人も改姓した、一人は木邑を他の一人は田室を明治の前頃まで名乗っていた。平康頼の勧請した熊野神社や玉林寺のある(旧、麻植郡)吉野川市鴨島町山路寺谷の地は現在では木村と田村の二家で占める。
木邑家の先代古墓は文化年中に改墓され木村大明神として祀られたが、その当時本家を名乗る者は居なかったようで、話し合いで当家が本家となったが、熊野神社の脇にあり元々の本家であった屋敷ではあるようだ。本家が絶えたのならば代わりの者が本家を名乗っていたであろうが、誰も本家を名乗らなかったのは本家が家を譲って何処かへ行ってしまったと言う事であろうか。その当家には戦後まで反りのない刀が伝わっていた。平将門の乱頃から反りのある刀が使われたようで、反りのない刀はそれ以前になる。平家に伝わっていた名刀抜け丸も反りのない直刀ではなかったか。
[35]木佐貫末孫さんからのコメント(2011年10月11日 09時02分18秒 ) パスワード

       ├─仲盛─┬貞成──貞親
       │    └盛重─┬盛順【財部氏】
       │        └重兼【下村氏】
      
 【池】頼盛─┼─知重……【池氏】【松尾氏】
 
下村氏(下村伊豫守平重兼)→大隅国根占に移住し木下左馬頭と号し木下姓を名乗る→木下重貞指宿で戦死→木下家の遺児が指宿に移住する→分家して木佐貫姓を名乗る→子孫が知覧・加世田・川辺に移住した と伝えられていますが、正確な資料をおもちの方教えてください。加世田地方に「木下家家系図」が存在しているとは聞いているのですが。
[36]木村正明さんからのコメント(2011年10月15日 06時40分06秒 ) パスワード

takahiroさんのコメント[15]に付いてのお尋ね
平康頼は平保盛の目代として尾張に在任中に知多郡野間荘にある源義朝の墓が荒れたままになっているのを知り、これを修理して小堂を建てた上、六人の僧を置いて丁重に供養させ、その上、堂の保護のために水田三十町歩を寄付している。義朝は平治の乱で敗走の途中に立ち寄った相伝の家人の長田父子によるだまし討ちに遭い湯殿で殺された。その首は恩賞目当てに平清盛に差し出された。
 源頼朝は池の禅尼から受けた恩義に報い、またこの父親義朝に対する恩義に報いるために平康頼を阿波国麻植保の保司に任命した。麻植保には平康頼と共に二人の平を名乗る者が行動を共にした。この伝承は僅かに阿波国の郷土誌に伝わるだけのものにすぎない。
保とは、荘園の小さなものと言う説もあるが、もともと天領のことで、私領を庄と言って区分していた。したがって、阿波国麻植保から上がる年貢は、宮中にある内蔵寮へ納める事になっている。内蔵寮とは、太政官(第一位)左弁官(第二位)中務省(第三位)内蔵寮(第四位)、のように大宝令に定められた、官職制度の第四位にあたり、宮中の蔵の収支を管理する所を言う。「ふるさと森山」
 そこで takahiroさん にお尋ねしたいのですが[15](2005年04月28日 16時24分09秒 )のコメントに依りますと「尊卑分脈においては、平保盛の二男として「保教 左兵佐・内蔵頭・木工頭 承久乱於八幡自害了」と記されています。」との事ですが、ここで「内蔵頭」とは「内蔵寮」と関連が有るのではないかと思えてなりません。
お手持ちの資料で保教は何処の兵を動かしたのか、何処の領地を没収されたのか、までは解らないものでしょうか?
 承久の乱では平康頼の二代目清基や行動を共にした平を名乗る者は状況を探るために上京していたであろうが、状況が不利になりまだ麻植保の兵をまだ動かしていなかった様で言い逃れは出来ると考えていたのであろう。清基は保司を解任されたことに異議を唱えるために鎌倉に赴いた。しかし清基から阿波守護佐々木経高に宛てた手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたために動かぬ証拠となってしいまい、再び麻植保に帰ってきたとの記録はありません。平康頼は三代目で絶家し、平を名乗っていた二人も平を捨て木邑(木村)と田室(田村)に改姓した。平の誰であったかは寧ろ意図的に伝承されず歴史の闇に葬られた。僅かに平であったとだけ伝わる。二家の祖神は平康頼の勧請した熊野神社の脇と少し離れた所にある。
[37]takahiroさんからのコメント(2011年10月16日 01時02分34秒 ) パスワード

2005年以来の久し振りの投稿になります。takahiroです。皆様のご投稿を興味深く拝読致しました。その中で、私に返信できるものがございましたら、順次返信投稿をさせて頂きます。資料を確認しますので、少々お時間を下さい。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月16日 05時07分01秒 ) パスワード

takahiroさん

楽しみにしております。
ぺこり
[39]takahiroさんからのコメント(2011年10月19日 23時19分16秒 ) パスワード

木村様

>お手持ちの資料で保教は何処の兵を動かしたのか、何処の領地を没収されたのか、までは解らないものでしょうか?

◎先ず、保教の没収された領地についてですが、『角川日本地名大辞典・兵庫県』における「中世・在田荘」の項に以下の記載があります。

「寿永三年四月五日に源頼朝は、池大納言平頼盛の母池禅尼が平治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため、平家没官領中の頼盛の家領三十四ヶ所を返還した。この下文案に、「在田荘 播磨」が見える(久我家文書1)。頼盛の孫、兵衛佐保教がこれを伝領したが、貞応元年と推定される五月二日付池河内前司入道平保業宛北条義時書状(朽木文書/鎌遺2814)と「尊卑分脈」によれば、保教は承久の乱に京方に与して没落、「承久乱於八幡自害了」とあり、乱後に在田荘は鎌倉幕府に没収された。承久三年八月二十五日には、幕府が「播磨国在田道山荘預所職」を平保業に与えている。(同前/同前2813)」

上記によると保教は承久の乱に京方に与し播磨国在田荘を没収されています。この典拠となる「応元年と推定される五月二日付池河内前司入道平保業宛北条義時書状(朽木文書/鎌遺2814)」では、保教は「加賀兵衛佐殿」として登場しますが、論文「承久京方武士の一考察」(田中稔著)によりますと、「加賀兵衛佐」なる人物は淡路国由良荘もまた没収されています。以上より、保教が承久の乱に京方に与し没収された領地とは、資料により判明する限りにおいては、播磨国在田荘、淡路国由良荘の二箇所と看做せるのではないでしょうか。
上記二箇所とも元は「池大納言家領」であり、それを保教が伝領していたと思われます。なお阿波国における「池大納言家領」には小嶋荘が記録されています。

◎保教が承久の乱において何処の兵を動かしたかについてですが、手元の資料におきましては判明できませんでした。ただ「平家後抄」(角田文衛著)に拠ると、保教は後鳥羽院の近臣である葉室宗行の養女を室としており、この葉室宗行に誘われて倒幕の謀議に深入りしたのではないかと記されています。

木村様の質問へ答えられていないかもしれませんが、上記投稿します。

なお、池大納言家領の相続につきましては、以下の論文が参考になると思われます。
「池大納言家領の伝領と関東祇候廷臣」(岡野友彦、大倉山論集43、1999年)
「久我家領荘園の伝領とその相続安堵」(岡野友彦、史学雑誌97篇4号、1988年)
[40]takahiroさんからのコメント(2011年10月19日 23時37分50秒 ) パスワード

木佐貫末孫様

平氏下村系図、平氏木下系図につきましては、私はかつて当サイトに投稿されていました布袋竹様より資料をご提供頂きました。現在、布袋竹様が当サイトを見ておられるかは判りませんが、上記につき最も詳しい方だと思われます。
[41]takahiroさんからのコメント(2011年10月20日 00時03分45秒 ) パスワード

木佐貫末孫様

追伸

私が布袋竹様よりご提供頂きました平氏木下家に関する資料は、谷迫ハルエという方が鹿児島県旧山川町の木下家を取材して著された「木下家系図と氏神講」という取材文です。その末尾に旧山川町の木下家に継承された「木下系図」が添付されています。

当系図によりますと、応永二十年指宿にて戦死した平太郎伊予守重貞は一男一女を遺しており、男子は左馬頭重敏と記されています。

ご参考になればと投稿します。
[42]takahiroさんからのコメント(2011年10月20日 00時06分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様へ

いつも有難うございます。また近況をご報告させて頂きます。
[43]木村正明さんからのコメント(2011年10月21日 21時20分56秒 ) パスワード
URL=http://ameblo.jp/kimumasa1106/entry-10676970098.html

takahiroさま
お調べ頂いて有り難うございます、期待をさせてもらっていたので残念でなりません。
承久の乱では佐々木経高(阿波守護職)の嫡男で守護代の高重が阿波兵六百人をひきいて、父のひきいていた淡路の兵らと合流したが、圧倒的な鎌倉の大軍を支える事ができず、佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵もほとんど阿波へ帰らず、手紙など証拠となるものは戦利品として押収されていたようである。
阿波国に対しては、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り、ほとんど兵の居ない佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城は炎上し、留守を守っていた経高の二男高兼は城をすてて、名西郡神山町の山中鬼篭野村(おろのむら)へ逃げた。しかし小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、高兼は一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り、腹を切って自害した。この場所は弓折の地名として残っている。この様に上皇方に対する処分は厳しいもので、かっての阿波守護職、近江源氏は百姓となった。
 麻植保でも平康頼の二代目清基がどちらに付くか状況を探るため上京していた様で、平を名乗る者も行動を共にしていたであろうが、加わる事を固めていた上皇方が不利になったが、まだ麻植保の兵を動かしてはいなかった事から、言い逃れが出来ると考えていた様である。平康頼の二代目清基は保司職を解任された事に抗議して鎌倉に赴いたが、清基から佐々木経高に出した手紙があり軍に加わる内容が書かれていたために動かぬ証拠となってしまった様である。平を名乗っていた者も行動を共にしたと伝えられ鎌倉に行っていたのであろう。処分は厳しかったものであろう、阿波へ帰ってきたとの記録はない。小笠原長清の嫡男太郎長経の下で、平を名乗っていた者も百姓となることで辛うじて生きることを許されたのだろうが、百姓が平を名乗る事は許されなかった。平を名乗っていた者も意地が有ったのであろう、それならば平より良い姓を付けてやろうと考えたのであろう、「木邑」は日本書紀の「母木邑」(おものきのむら)から付けられた様である。無位無冠の百姓平は木邑として意図的に世間の目から隠されて来た様である。
日本書紀から抜粋
初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也

阿波国麻植保に付いてですが、「ふるさと森山」では天領であったとされ、その租税は内蔵寮に納められていた。平康頼は麻植保の保司として来ていたのであって、領地を与えられていたのではなく、保司職としての地位を与えられていたと言う事になるのではないでしょうか。
また、保教の墓は何処に在るのでしょうか。八幡とは鶴岡八幡宮の事でしょうか。
木村大明神には脇に五輪塔の空輪だけが祀られている。
何かの資料で解ることがありましたらお教えください。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月22日 13時19分14秒 ) パスワード

takahiroさま


>保教は後鳥羽院の近臣である葉室宗行の養女を室としており、
>この葉室宗行に誘われて倒幕の謀議に深入りしたのではないかと記されています。


横、乱入、ごめん遊ばしませ。
ぺこり
後鳥羽上皇や葉室家に反応しました。


葉室顕隆は白河法皇の信任厚く「夜の関白」と称された院政期を代表する公家で
葉室家は
藤原俊成卿が一時、養子に行ってらっしゃった家ですね。顕広と名乗っていらっしゃったとか。
[46]takahiroさんからのコメント(2011年11月01日 22時40分49秒 ) パスワード

木村様

>保教の墓は何処に在るのでしょうか。八幡とは鶴岡八幡宮の事でしょうか。
木村大明神には脇に五輪塔の空輪だけが祀られている。

◎保教が自害をしたと記録に残る「八幡」とは、岩清水八幡宮のことです。

石清水文書之四・石清水皇年記下 承久三年七月二十八日・自害事より

『内蔵頭平保範逃隠善法寺故検校房、宮寺守護武士息津四郎、京使内記左近等搦取之間、伏釼畢、為追討同類各乗馬登山、彼房主卿寺主於房武士等足ヲハサム、付縄将去武士之許了、』

上記が、承久の乱に京方として破れ石清水八幡宮に隠遁中を発見され自害し果てた平保教に関する資料です。

そして尊卑分脈において、平保盛の二男として「保教 左兵佐・内蔵頭・木工頭 承久乱於八幡自害了」と記されています。

保教の墓につきましては、保教の自害時にはまだ存命であった父の保盛により、一族の墓地に丁重に葬られたとも推測しますが、正確な記録は残っていないものと思われます。

なお、保教と平康頼の関係、内蔵寮と保司職について、及び承久の乱における保教の動きにつきましては、自身、もう少し勉強をせねばなりません。またその成果を、当スレッドへ投稿したいと思います。

また木村様の詳細な平康頼のご研究、および木村様のご先祖に当たられる平康頼関係者についてのご投稿をお願いします。


空の青海のあを様

いつも有難うございます。

葉室家の墓地は現在でも京都の西京区の「葉室町」にございます。その西の浄住寺は葉室家に由縁の寺院とのことですが、閑雅な美しい寺院です。

平家の滅亡後、平保教は一時、藤原定家の養子に入っていたとの記述が明月記にありますが、定家の父、俊成卿もまた平家一門の遠戚者でした。俊成卿の娘が藤原成親に嫁いでおり、その二人の娘が小松家の維盛と清経に嫁いでいるようです。維盛の嫡男六代御前は俊成卿の曾孫にあたると思われます。

保教が葉室家の養女を室にしていたことは、累代の葉室家、俊成卿、平家一門との関係に所以しているのかも知れないのですね。
[47]takahiroさんからのコメント(2011年11月02日 00時05分56秒 ) パスワード

◎保教の石清水八幡宮における自害に関する追記ですが、

「第三十二代石清水別当大善法寺祐清承久二年所領処分状 仁和寺紙屋河房地同窪屋地菖蒲谷山領」

上記資料によると石清水八幡の善法寺別当、紀祐清は、「仁和寺紙屋河房地同窪屋地菖蒲谷山領」を承久二年まで所領しており、つまりここで現れる「菖蒲谷山領」とは、時代は遡りますが平家の都落ち後に平維盛の妻と二人の子供(六代御前、夜叉御前)が一時隠遁していた地に当たると思われ、つまり石清水八幡別当家・紀氏は平家の庇護者であり、保教もまたその関係で承久の乱の敗北後、石清水八幡に隠遁しており、そこを鎌倉側の武士に急襲されたのではないかと推測します。
[48]takahiroさんからのコメント(2011年11月02日 01時21分27秒 ) パスワード

◎「明月記」における平保教について

藤原定家の「明月記」の人物索引からですが、平保教の項目について一部を抜粋・引用します。

正治1・ 1・9  従五下平保教 叙位
  1・ 4・19 冠者(平保盛子。定家養育)
建永1・ 6・4  保教(保家猶子) 初院参
建暦1・10・22 左兵衛佐保教
  2・ 4・7  左兵保教
  2・ 8・1  右(左イ)兵衛保教
  2・10・28 左兵衛佐保教
建保1・ 1・10 兵衛佐保教 加叙
  1・ 6・29 兵衛佐保教妻・武衛 歿
  1・10・17 保教第二子 鞠足
  1・11・28 兵衛佐保教 宇佐使に中持を贈る
  4・ 1・6  五位平朝臣保教 叙位
嘉禄1・10・28 (保盛)亡息 保盛回顧談[承久乱に自殺]
寛喜2・閏1・6  保教朝臣 [旧事]

上記、藤原定家の「明月記」によると、保教が左兵衛佐を辞し内蔵頭に補されたのは建保元年以降であると推測されます。内蔵頭の官職時の保教の記述は「明月記」には残されていませんでした。

また建保元年6・29の記述によると、

「兵衛佐保教妻[国融法印娘、宗行朝臣為子執婿。妻母弟也]不遂産一昨日逝亡、夜前送蓮台野方」

とあり、保教が葉室宗行の養女を妻にしていたことが判ります。保教は妻を先に亡くしているようです。


また嘉禄元年10・28の記述によると、

「隣家三位入道[保盛卿]依先日音信相謁。往時言談、亡息事等、且多蒙芳心之由謝之。」
 
とあり、藤原定家と平保盛が、亡くなった保教について回顧談をしていたことが記されています。なおこの当時、定家と保盛は邸宅が隣同士であったようで、場所は嵯峨であったと注されています。   
[49]takahiroさんからのコメント(2011年11月02日 03時27分52秒 ) パスワード

木村様2

>阿波国麻植保に付いてですが、「ふるさと森山」では天領であったとされ、その租税は内蔵寮に納められていた。平康頼は麻植保の保司として来ていたのであって、領地を与えられていたのではなく、保司職としての地位を与えられていたと言う事になるのではないでしょうか。

平康頼およびその子孫が阿波国麻植保の保司職にあった事と、平保教が内蔵頭であった事から、両者の間に何らかの関係があったのではないかとの木村様のご推測は、的を得ていると私には思われます。承久の乱において両者は情報の交換を行った可能性も高いと思われます。(先に挙げました資料「石清水文書之四・石清水皇年記下 承久三年七月二十八日・自害事」から、承久の乱当時の保教の官職が内蔵頭であった事は明らかです。)

また平康頼は平家一門が権勢を誇っていた時代、平保盛の目代として越前国、ならびに尾張国へ派遣されていたとのこと、また平頼盛と同じく後白河院の近臣であったことから、頼盛・保盛一族とは近しい関係であったと思われます。

ただ、私の所持する資料からは今のところ、平康頼と平保教の関係を直接記す資料には出会えていませんが、そもそも平保教に関して残存している資料が少なすぎるのかもしれません。

今後、平康頼と平保盛一族の関係に関する資料に出会いましたら、報告します。

なお、参考になるか判りませんが、平保教の末裔を伝える「安村氏」の系図の直系部分のみを抜粋します。<保教(範)が頼盛の子となっていますが、これは訛伝であると思われます。>

 桓武平姓 

 忠盛ー清盛、弟頼盛(池大納言)ー内蔵頭保範ー若狭主保忠ー越中守範正ー左兵衛尉保光(範正嫡男也。然り謂、男子なき故、盛眞を以って養子となし、家を譲る)、弟盛眞ー右衛門佐盛範ー大和守保元ー左衛門佐兼盛ー丹後守頼直ー伊賀守盛安ー左衛門尉安範ー丹波守頼元ー河内守義保ー右京大夫盛頼ー将監定元ー三郎左衛門尉元頼、弟定信ー若狭守氏忠ー長門守氏盛ー清兵衛忠勝ー伊賀守保元ー備前守之安」
                   安村系圖より
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月02日 07時51分15秒 ) パスワード

takahiroさま


>保教が葉室家の養女を室にしていたことは、累代の葉室家、俊成卿、平家一門との関係に所以しているのかも知れないのですね。


俊成卿が平家の公達の歌を、公的に記録した、という背景が分かりました。
ありがとうございました。
ぺこり


わたくしは俊成卿が平家の公達の御歌の先生だったから、と軽く考えておりました。

実は実は、師弟関係の他に、「家」や「血」で繋がっていたようですね。
俊成卿は平家の栄枯盛衰をずっと見ていらっしゃって、心を痛めていらっしゃった、という実感が伝わってきました。


忠度や行盛の歌が、また違って、心に迫ってきます。

貴重な情報をありがとうございました。
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年11月03日 00時53分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

麻植と言えば阿波忌部神社の鎮座地(比定地は転々として現在、徳島市二軒屋町)として有名だが、鹿ケ谷謀議の内三人が吉野川を挟んで存在する。
阿波忌部後裔の西光屋敷跡(阿波市吉野町柿原)
俊寛の末裔一族居住地(阿波市市場町)
平康頼の立てた玉林寺(吉野川市鴨島町森藤)
出典(http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/121662363744.html
 
平家閨閥図(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm#002 )、中原氏閨閥図(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#002 )を併せて考えると、西光や俊寛に比べて明暗を分けた平康頼(旧:中原康頼)が頼盛同様に鎌倉幕閣(中原氏が媒介家系)に近かったことがうかがえる。
[52]takahiroさんからのコメント(2011年11月04日 14時39分07秒 ) パスワード

>俊成卿は平家の栄枯盛衰をずっと見ていらっしゃって、心を痛めていらっしゃった、という実感が伝わってきました。


俊成卿は後白河院の寿永二年二月の院宣により、勅撰集「千載和歌集」の編纂を始めますが、この院宣の奉者が平資盛でした。五味文彦著「藤原定家の時代」には、勅撰集「千載和歌集」の企画について、

『そうした企画を考えついたのは誰であろうか。和歌に関心の薄い後白河が思いついたとは考え難い。そこに浮かんでくるのが、選集を命じた院宣の奉者である平資盛である。資盛は重盛の子であり、維盛の弟にあたる。既に見たように維盛と結婚したのが俊成の娘の子であったから、資盛が法皇と俊成を結びつけたのであろう。事実、俊成・定家は資盛邸での歌合に出詠しており、俊成は判者ともなっている。資盛は当時、蔵人頭であったが、それは院の近習として法皇の寵愛を得ていたことによる。』

と著されています。

上記、維盛と結婚した俊成の娘の子とありますが、この俊成の娘とは、後白河院に女房として仕えた後白河院京極局のことであり、京極局は藤原成親の室となり、その間に生まれた姉妹の一人が維盛に嫁ぎ、一人が清経に嫁いでいます。

また後白河院京極局は、維盛の都落ちの後、藤原(吉田)経房と再婚していますが、経房の母は俊成の姉妹であり、元々俊成と経房は遠戚者でありました。

経房は京都白河の北、吉田の神楽岡の山麓に邸宅を構え、吉田を称しますが、経房が後白河院の皇女である式子内親王の後見職についていた時期と、維盛の室であった京極局と再婚した時期は重なり、吉田の経房邸にて両者は顔を合わせていたのではないかとの説もあります。

また俊成は式子内親王の和歌の師であり、定家は式子内親王の家司として仕えていたとも言われています。


式子内親王が神楽岡吉田の経房邸にて詠まれたと思われる次の歌があります。

  鶴の子の千たび巣だたん君が世を松の陰にや誰もかくれん

           建久五年五月二日 前斎院(式子内親王)

  【訳】めでたい鶴の子がきっと数限りなく巣立つであろう君が御世を待ち望む、その松の陰にみんな身を寄せる事であろうよ。


式子内親王の和歌の研究書等では上記の歌は、君が御世・天皇の御世の弥栄を寿ぐ定型の歌の一種であると記されていますが、私にはこの歌の「鶴の子」とは、当時遠近にて身を潜めていた平家の遺児を指すのではないかとも詠めて仕方がありません。

式子内親王は経房の吉田邸にて維盛の元妻と、六代御前をはじめ平家の遺児たちの境遇について共に語り合い、その身を案じてくださっていたのではないかと。想像が過ぎたかもしれませんが、投稿します。
[53]takahiroさんからのコメント(2011年11月04日 15時35分14秒 ) パスワード

なお、後白河院はその生涯におき、各地から数社の神社を京都へ御勧請されていますが、その一部を挙げますと、

○保元二年 新住吉社(藤原俊成へ勅旨)
○永暦元年 新熊野社(平清盛へ勅旨)
○永暦元年 新日吉社(平清盛へ勅旨)
○永暦元年 三嶋社(平重盛へ勅旨)
○文治二年 新玉津島社(藤原俊成へ勅旨)
○     人丸社(藤原俊成へ勅旨)

上記の中、新住吉社、新玉津島社、人丸社は当時、俊成卿の邸内に勧請・祀られたと記録に残り、住吉神、玉津島神、人丸神は和歌の三神と称され、御皇室をはじめ、俊成・定家の御子孫にあたられる冷泉家、また歌道を志す多くの人々の崇敬を受けてきました。

上記の和歌の三神を祀る神社は、新玉津島社は現在も旧俊成邸跡地とされる烏丸・松原(旧五条)の地に新玉津島神社として鎮座され、新住吉社は後年、永禄年間に正親町天皇の勅旨により醒ヶ井・高辻の地に遷座され住吉神社として現在に至ります。人丸社は住吉神社の末社として住吉神社境内に人丸神社として鎮座されています。人丸社の御祭神は柿本人麻呂です。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月05日 02時23分12秒 ) パスワード

takahiroさま

和歌の神様をお祀りする3神社とは以下でしたか。

    ○保元二年 新住吉社(藤原俊成へ勅旨)
    ○文治二年 新玉津島社(藤原俊成へ勅旨)
    ○     人丸社(藤原俊成へ勅旨)

>上記の中、新住吉社、新玉津島社、人丸社は当時、俊成卿の邸内に勧請・祀られたと記録に残り、
>住吉神、玉津島神、人丸神は和歌の三神と称され、御皇室をはじめ、俊成・定家の御子孫にあたられる冷泉家、
>また歌道を志す多くの人々の崇敬を受けてきました。


神功皇后ゆかりの玉津島神社の、冷泉家に於ける立ち位置が、今一つ分かりませんでしたが
これで冷泉家との関係がはっきりしました。

ありがとうございました。
ぺこり



勅撰集「千載和歌集」の編纂を企画したのは資盛だったかも知れないのですか。

思わぬ所で資盛の名が出て、嬉しくなりました。



そして「鶴の子の千たび巣だたん君が世を松の陰にや誰もかくれん」は
ひょっとすると鶴の子とは敗れた平家一族のことかも知れないのですか。


改めて平家と京都の関係が浮き上がってきて
なるほど平家の末裔達が表立たなくても後世においても天皇家の血筋に入って行ったのが掴めました。

歌という教養を平家の公達たちが身につけていたということ、
天皇家や貴族達からは、敗れて京都から追われても、
平家は一族として考えられていたのだなと思うと
「教養」の大切さに思い至りました。


「平家物語」で平家の人々を記録してくれたように
改めて、俊成卿が和歌の世界で平家の存在を留めてくださったこと、
有り難く思います。


本当に貴重なレスをありがとうございました。
ぺこり
[56]takahiroさんからのコメント(2011年11月05日 15時51分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

今後、京都へお越しの際は、平家ゆかりの地とともに、俊成卿ゆかりの和歌三神の祀られる新玉津島神社、住吉神社、人丸神社へもご参詣頂ければと思います。(新玉津島神社は現在でも、旧俊成卿の邸宅跡地に御鎮座されますので、平忠度、平行盛の和歌ゆかりの地でもあります。また醒ヶ井の住吉神社は創建時の俊成卿邸地からは鎮座地を遷座されていますが、現在まで祭祀される御神体は創建時の俊成卿ゆかりの御神体であると伝わります。)


木村様3

日本の苗字七千傑様の「麻植と言えば阿波忌部神社の鎮座地(比定地は転々として現在、徳島市二軒屋町)として有名」とのコメントをお読みして、以下の事柄を想起しました。

斉部広成著の「古語拾遺」の中に、

『其高皇産靈神所生之<中略>男名、曰天太王命。【齋部宿禰祖也。】太玉命所率神名、曰天日鷲命【阿波國忌部等祖也。】・手置帆負命【讃岐國忌部祖也。】・彦狭知命【紀伊國忌部祖也。】・櫛明玉命【出雲國玉作祖也。】・天目一箇命。【筑紫,伊勢兩國忌部祖也。】』

とありますが、ここで、天太玉命の率いる神の五神の中に、

天日鷲命【阿波國忌部等祖也。】
天目一箇命【筑紫,伊勢兩國忌部祖也。】

の二神が併記されます。

この事柄と、平家物語の「殿上闇討」の章段についてですが、

平家物語の中では、平忠盛が初昇殿の時に「伊勢の瓶子は酢甕なりけり」、つまり「伊勢の平氏は眇目なりけり」と、その隻眼、斜視を囃されたとの場面が登場します。

古代、中世の物語では表向きの物語の裏に、読み取れる人には読み取れるであろうという裏の意味が潜まされていたように私には思えます。

この場合は(以下すべて私見ですが)、「伊勢の瓶子は酢甕なりけり」と囃すことで、「伊勢の平氏は眇目なりけり」として忠盛の隻眼・斜視を囃す意味以外に、伊勢平氏は酢甕・眇目=天目一箇命を奉じる伊勢忌部の背景の下に京都中央に勢力を伸ばしていた、という裏の隠喩の意味を示していたのではないかと推測されます。

伊勢平氏の氏神としては、現在では厳島神社と平野神社が著名ですが、京都進出以前は伊勢在地の多度神宮がその氏神として著名であったようです。そしてこの多度神宮の元の祭神は天目一箇命であったと説かれており(現在は別宮として一目連社として鎮座)、平家物語の忠盛への囃しはこの事柄を示唆されていたのではないかと、推測されます。そしてこれは当時、「伊勢・眇目・天目一箇命・伊勢忌部…」と、理解できる人にはすぐに連想・理解できることであったのではないかと思われます。

ここでは詳細に説けませんが、木村様のお家につたわるご先祖「平を名乗る者たち」が麻植の地、阿波忌部神社の旧鎮座地に根を張られたのは、阿波忌部と伊勢忌部の関係にまで遡りご考察されるべき事柄なのかとも、日本の苗字七千傑様のコメントをお読みして推測しました。
[57]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年11月05日 21時32分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

takahiroさん へ
 
阿波と安房と伊勢の忌部氏を繋ぐキーワードは「麻」です。
麻の本家は阿波の大麻比古神社ですが、忌部氏が移住して麻を広めた安房は総(フサ)の国からの分置で総は麻の別名とも伝えられている。
伊勢神宮からの御札を大麻と呼ぶのは有名ですね。
この三カ所に平氏が栄えたのも、麻の生命力のなせる因縁かも知れませんね。
[58]ときおさんからのコメント(2011年11月06日 01時19分41秒 ) パスワード

とつぜんの横入り、すみません。
takahiro様の見識の深さ広さと七千傑様の情報量すごさに感心しています。

>「伊勢・眇目・天目一箇命・伊勢忌部…」と、
これの、「天目一箇命」に反応してしまいました。凄く勉強になりました。有り難う御座います。「すがめ」にはそのような意味があるとは・・凄い情報ですね。

一本ダタラで、一本足で一つ目の番傘妖怪にいたりますね。一つ目小僧かな。
要するに、産鉄・製鉄民の信仰する神様の様です。 
「麻(あさ)」と「ふさ」にプラス「鉄」も入るのでしょうかね。平家の基盤となったのはと思ったしだいです。
スレッド内容からはずれていることで申し訳ありません。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月06日 02時56分07秒 ) パスワード

ときおさん


ときおさんもまさかココで  片目つぶり  が出て来るとは、と驚いていらっしゃいますでしょ?

日本の名家御出身のときおさんが、源平時代には平家と関係があったと御存知だったとしても
実はご縁はもっともっと昔っからで
それも何重にも深かったとは、
と改めて納得でしょう?



まさか「鍛冶屋」さんがココに出て来るとは
smithですか
へ〜

ということで、オットも驚いております。Kissing cousin!かなんて言って。従妹にキスだったとは。
あはは


これで小林先生も出ていらっしゃると、ますます、平熱が面白いのですが
小林先生は今はタイへ救助にでも行ってらっしゃるのかも。謎



我々日本人とは昔は当たり前のことをいつの間にか失念していたのですね。
こうして断片・断片を拾って
  え゛〜
と驚くとは。


改めて深い情報を下さったtakahiroさまと7000傑さんに感謝!
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月06日 05時12分38秒 ) パスワード

takahiroさま


 <あめのまひとつのかみ>
天目一箇命。
【伊勢國忌部祖也。】


ここから「一目連」に連想が行き、多度山に連想が行き、大陸と交易をしていた平家に思いが至ります。

さすがtakahiroさま。


こうして「平家物語」を考えますと、滅びの美学だけでなく、その深さに驚きます。


昔の人には常識の前提があったんですねえ。


確かに台風の毎年襲う尾張でも、「山を見よ」とは聞いていましたが
あれは「多度山」のことでしたか。

NHKの天気予報を頼る余り、笑、伊勢伊賀一族の末裔ともあろう者が
   多度山
をすっかりないがしろにしていたとは。笑


自分チの神様だったんですねえ。




7000傑さん

「麻」ですか。
心の中の謎が解決しました。ありがとうございました。ぺこり



ウイキより:

一目連は天候を司る神とされ、江戸時代には伊勢湾での海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。柳田国男は伊勢湾を航行する船乗りが多度山の様子から天候の変化を予測したことから生まれた信仰と考察しているが、養老山地の南端に位置する多度山は伊勢湾北部周辺の山としてはもっとも伊勢湾から近く、山にかかる霧などの様子から天候の変化の予測に適した山だったのであろう。

『和漢三才図会』の「颶(うみのおほかせ)」に「按勢州尾州濃州驒州有不時暴風至俗稱之一目連以爲神風其吹也抜樹仆巖壞屋爲不破裂者惟一路而不傷也處焉勢州桑名郡多度山有一目連」との記述があるが、伊勢・尾張・美濃・飛騨では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるとの伝承によるものと考えられている。一目連神社の社殿には扉がないが、一目連が神威を発揮するために自由に出入りできるよう。
[62]takahiroさんからのコメント(2011年11月07日 16時43分02秒 ) パスワード

ときお様

再び斎部広成「古語拾遺」からですが、

宜令太玉神、率諸部神造和幣。仍、令石凝姥神【天糠戸命之子、作鏡遠祖也。】取天香山銅、以鋳日像之鏡。令長白羽神【伊勢國麻続祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也。】種麻、以爲青和幣。【古語、爾伎弖。】令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】令天羽槌雄神【倭文遠祖也。】織文布。令天棚機姫神織神衣。所謂和衣。【古語、爾伎多倍。】令櫛明玉神作八坂瓊襲五百筒御統玉。令手置帆負・彦狹知二神以天御量【大小斤雑器等之名。】伐大峡小峡之材、而造瑞殿、【古語、美豆能美阿良可。】兼作御笠及矛・盾。令天目一筒神作雜刀・斧及鉄鐸。【古語、佐那伎。】其物既備、掘天香山之五百筒真賢木、【古語、佐禰居自能禰居自。】而上枝懸玉、中枝懸鏡、下枝懸青和幣・白和幣、令太玉命捧持稱讃。亦、令天児屋命相副祈祷。又、令天鈿女命【古語、天乃於須女。其神強悍猛固。故以爲名。今俗、強女謂之於須志、此縁也。】以真辟葛爲鬘、以蘿葛爲手[糸強]、【蘿葛者、比可気。】以竹葉・飫憩木葉爲手草、【今、多久佐。】手持着鐸之矛、而於石窟戸前覆誓槽、【古語、宇気布禰。約誓之意。】挙庭燎、巧作俳優、相與歌舞。」


確かに仰る通り、

『令天目一筒神作雜刀・斧及鉄鐸。【古語、佐那伎。】』

と天目一筒神は製鉄の神として奉られているのですね。天目一筒神は忌部氏の祖神である天太玉命に率いられた五神の中の一神に挙げられていますが、神々の系譜の中では天目一筒神は天津彦根神の子神ともされています。

そしてこの天津彦根神は現在の多度社の主神とされていますが、天津彦根神の子神・天久之比之命の後裔が伊勢の桑名首の一族であり、この桑名首の一族が古くの多度社の檀越であり、高橋昌明著「清盛以前」では、平氏の多度社の檀越化は、『桑名氏の伊勢平氏一族への政治的吸収を前提として実現された、という仮説が成立する。』とされています。

再び高橋昌明著「清盛以前」からの孫引きですが、「多度大神本縁略記」には次のような説話が収録されているとして、

『多気窓蛍云く、昔忠盛の平氏なる者此国の人也、深く多度の神を信じて一千度の参詣を初められける、その願満つなむ夜の夢に一つの壺を賜ひけり、嬉しき事にして酒ぞと思ひければ酢甕也けり、それより目を煩ひ一年の間に眇めとなれども、官加階心に任せ昇殿までこれを聴すとなむ、されども孫にて在ける世に亡けるとぞ、是より伊勢の習ひとなりて目出度寿きには酢を送らぬ例となりき、<中略>按ずるに或記に就いて云く、安濃郡産品村津を目し西行程二里の中に平忠盛誕生の地有りと云々、然れば即ち忠盛の居館この処中に在り、しかるに一千度の参詣有る者なりか』

と紹介されています。


空の青海のあを様

一目連社の詳細なご紹介を有難うございます。

>確かに台風の毎年襲う尾張でも、「山を見よ」とは聞いていましたが
あれは「多度山」のことでしたか。

とのコメントに、多度社、一目連社の御神威は現在まで「生きて」伝承をなされているのですね。大きな感銘を受けました。

多度神の伊勢湾岸における航海神としての性格については、上記高橋昌明著「清盛以前」では参照として柳田国男著「目一つ五郎考」が挙げられています。私も一度読んでみたいと思います。


日本の苗字七千傑様

確かに上記「古語拾遺」の引用の中に

『令長白羽神【伊勢國麻続祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也。】種麻、以爲青和幣。【古語、爾伎弖。】令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也。】』

とございました。私は伊勢(忌部)というと製鉄の神・天目一筒神のみの印象が強かったのですが、長白羽神として「麻」にも関連していたのですね。ご教示を有難うございました。
[63]takahiroさんからのコメント(2011年11月07日 18時13分40秒 ) パスワード

最近、坂本顕一郎様のホームページ「熊野地方の落人達・正義のために戦った平維盛の子孫達」を拝見し、その詳細な考察に、熊野に落ちた後の維盛の軌跡が鮮やかに蘇るようで感銘を受けました。

その中に別段として、「平頼盛の子孫」という項目がありましたので、勝手ながら当スレッドにも添付をさせて頂きます。

http://www8.plala.or.jp/heike-kumano/contents/ct17/

この中にて、平保盛の女子が維盛の子、上湯川の兼盛の妻となる、との記述がありますが、初見の情報でした。

坂本様は著書も書かれているようですが、一度読んでみたいと思われます。

「どっこい維盛生きていた─その後の平維盛」(文芸社)
「平維盛の真実」(文芸社)



[64]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年11月08日 00時46分57秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

takahiroさん へ
 
>私は伊勢(忌部)というと製鉄の神・天目一筒神のみの印象が強かったのですが、
 
天目一箇命は天麻比止都命の別名ですが、ここにも「麻」が有ります。
多度山からは、夏至の日の出の方角に富士山が見られますが、富士山浅間大社の祭神は木花開耶姫です。
伊勢二見浦の南には、朝熊神社がありますがアサマ(更に浅間)と通じ祭神は木花開耶姫で同一です。
「お伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と言う言葉がありますが、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」も存在します。
阿多−日向高千穂峰−伊勢神宮−三島大社−鹿島神宮−高天原(鹿島神宮東方の小地名)が夏至の日の出線上に並んでいます。
倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をして伊勢の地に決まったのは、夏至に二見浦夫婦岩で高天原の方角から昇る日の出を奉拝する必然性からです。
常陸をヒタチと呼ぶのはは日が昇る日立だからです。
オマケに日御碕神社(日没宮)−気比神社−諏訪大社−鹿島神宮が春分・秋分の日の出・日没線上に並び、地祇系の三祭神が三島大社−富士浅間大社−諏訪大社と同様に線上に並んでいます。
 
興味があれば下記の仮説もご覧ください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
 
この辺りを頭に入れて考えると日本の上古史、神武東征史、源平盛衰史が良く見えてきます。
我々は長い間、古事記撰録者太安万侶の奈良期の音韻表字法則(甲乙二類)も摘要不可の迷彩工作と音韻融通法を縦横に駆使した神話的表現方式により、半島と列島の諸国家抗争史から目をそらさせ神話世界に埋没させられてきたことが解ります。
[65]takahiroさんからのコメント(2011年11月08日 17時40分27秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様

いつもご教示を有難うございます。
[64]のご投稿について、及び紹介頂きましたサイトの日本の仮説について、少し時間をかけて拝見させて頂きます。有難うございます。
[66]木村正明さんからのコメント(2011年11月11日 01時56分33秒 ) パスワード

菊のご紋が付けられていたお地蔵様
 阿波国麻殖保の保庁の在った場所の近くに一つのお地蔵様が祀られている。堂の無かった時期も在った様で風化がひどくお顔が溶けてしまっている。
戦時中に堂を修理したときに、何故か、ご紋が裏返しに取り付けられていたので、ご紋を表に直して取り付けた、なんと菊のご紋であった。
後で警察の目にとまり、こんなきたないお地蔵さまに菊のご紋を付けるとは不敬罪だとして、表に直した人は警察に引っ張られこっぴどく絞られ菊のご紋は没収されたと云うことである。寺社で使用されていた菊紋には時代による変転があり明治の太政官布告で禁止されていたようで、菊の御紋が裏返しに付けられていたのかも知れない。
今ではこの様な事件の在ったことさえ知る人は少なくなり、菊のご紋は付いていない。
 皇室の菊の御紋の起源は、後鳥羽上皇がことのほか菊花を好み制作させた調度品や太刀などに自らの印として愛用されたのが始まりとされる。
平康頼は前山の峠近くに補陀洛寺を建て、峠に至る途中に子院十二坊を建て後白河院をはじめ親交のあった人を弔っていたと云うことであるが、お地蔵様であるので、安徳帝か誰かの霊を慰めていたのかも知れない。
菊の御紋の付いたお地蔵様は後鳥羽上皇と天領麻殖保との親交を伺わせるもので、承久の乱で麻殖保の者が上皇方に付いた原因の一つかも知れない。
また、 
>保教は後鳥羽院の近臣である葉室宗行の養女を室としており、
>この葉室宗行に誘われて倒幕の謀議に深入りしたのではないかと記されています。
により保教の置かれていた状況がわかりました。
保教が「自害」ではなく「自害了」と書かれていることが気になります、発見されてから自害するまでに時間があった事を物語っており、頼朝の命の恩人の子孫を手を掛けて斬らせることはためらったが、自害に追い込み自害させたと言う事であろうか。
また、麻植保で平を名乗っていた者が承久の乱の後、たぶん佐々木氏と同様に百姓となることで命だけは助けられたのではないでしょうか? 無位無冠の百姓が平を名乗る事までは許されず、二人は木邑と田室に改姓したが、田室氏の「室」の字は「葉室氏」の一字を頂戴したものではないであろうか?
阿波守護職小笠原氏の下でこの約束は守られ記録にも残されず、子孫にすら平であったとだけは伝わるが詳細は何も伝えられていない、平が無位無冠の百姓にされたことは隠されてきたのであろう。
[67]木村正明さんからのコメント(2011年11月13日 21時15分35秒 ) パスワード

木邑家に付いて
元々の木邑家が在ったと思われる屋敷は廃家と成っているが平康頼の勧請した熊野神社のすぐ下にあり、祖神は熊野神社の脇に祀られている。熊野神社の脇を権現谷が流れ岩をUの字型に切り開いた所から水がどんどどんどと流れ出ることから付けられたのか「どんど」と呼ばれていた小さな滝があり正式には此処で身を清めて熊野神社にお参りをするものだろう。神主がこの滝には祝詞を上げていた。水は縮み上がる程に冷たく子供達の水浴び場になっていたが八百年前には夏の暑い日などに康頼公などもフンドシ一つで涼をとっていたのかもしれない。権現谷の水は樋や井手で近くの田に導かれ、田にはしめ縄が巡らされ熊野神社への献上米が作られていたが、戦時中の米の供出制度で中断された。
一級河川吉野川は在るが堤防が無く毎年氾濫する時代にポンプなどの水を汲み上げる手段が無く、米の作れるのはこうした谷川の水を利用した田だけであり当時は一等地であった。
また、平康頼公により前山の峠近くには鬼界山補陀洛寺が建てられ、峠に至る道には子院十二坊が配置されていたが、戦国時代に長宗我部の兵火に焼かれた。屋号を山(∧)茂(やまも)と言ったが∧茂(やまも)山持ちと言われ峠まで他人の山を踏まずに登れたと言うが、再建されずに山だけが管理をしていた木邑家に残されたためだろう。
 全国に拡散していたであろう木邑の姓は明治の前頃まで使われて居たが、何故木村の姓に代えられたのかは謎である。
 驚くことに、天保の大飢饉で起こった大塩平八郎の乱に関わる者で木邑権右衛門氏と言う者が居て同じ木邑の姓を名乗っていた様だ。木邑権右衛門氏は大阪夏の陣で討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言われる。木邑氏の子孫は御上に楯突いた極悪の末とされている。
 大塩平八郎の乱はわずか半日で鎮圧されたが、旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱以来、200年ぶりの合戦であった、幕府の元役人が直轄地の大阪で起こした反乱は不成功に終わったものの,幕府に大きなショックをあたえた。大塩の発した『檄文』は幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により 全国に伝えられた。
腐敗した日本を洗濯するには倒幕しか無いことを悟らせ、この乱の30年後に体制を揺るがす内戦を経過し明治維新に至ることになる。

資料1『東成郡史』東成郡役所 1922
木村司馬之助 本町木村権右衛門の分家にして、天保の頃は庄屋を勤め、大塩宅に往来せり。 或時一室に呼ばれ、連判状に血判を迫られ、且本家を誘ふべき命を受けて之を通せしが、本家は事の大なるを以て、逡巡決せず、交渉中騒勤勃発し、遂に軍用金として分家ば百両を出金し、司馬之輔之に赴き、本家は加入を拒否せる代償として五百両を出せり。乱平ぎて後司馬之輔は己罪を負ひ本家を免れしめて捕へられ牢死す。(死体は大塩の名前のごとく塩潰けにされ)大塩氏の罪定まるや塩潰の死体は市中引廻しの上磔せられたり。息司馬太郎、当時八歳、本家預となり、十五歳に及び大隅国熊毛郡上屋久鳥に遠島に処せられたり。維新後赦免となり、一旦帰国せしが、再び同地に赴き、権右衛門は司馬之輔を徳とし三百石の船を造りて贈しと云ふ。司馬太郎は島地に於て日高氏に入夫し之を姓とす。孫和歌之助、大正八年七十一歳尚生存し、本町木村家と今尚音信を絶たず。鶴橋町墓地に左の墓石あり、権右衛門之を管理す。
[68]takahiroさんからのコメント(2012年01月04日 16時51分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様 皆様 明けましておめでとうございます。

[64]にて教示頂きました日本の苗字七千傑様の研究ページを少しづつですが拝見しております。姓、苗字というものを掘り下げることで日本歴史のきわめて大きな俯瞰図がみえてくるようで、その精緻なご高察に幾度も幾度も眼を見開かされる思いでした。有難うございます。さらに時間をかけて拝見します。

日本の苗字七千傑様の研究ページ及び上記ご投稿から引用しますが、

「記紀の神代編から神武紀までは、天津神(天神族)と国津神(地祇族)の戦いであり天神族の豊国建国に始まり地祇族の国家を次々と併合して、最終的には畿内を本拠とする長髄彦が率いる大倭連合王国を併合して神日本磐余彦尊が皇位に就くまでの歴史記録である。」

「この辺りを頭に入れて考えると日本の上古史、神武東征史、源平盛衰史が良く見えてきます。」

直接関連するわけではありませんが、ご高察から自身インスパイアーされた事として、以下のような事柄を想起しました。

「平清盛の血脈は華族にも劣らず」と当時看做された清盛の異常な官位官職の昇進について、現在その理由として、白河天皇ご落胤説が有力な説として説かれています。がしかし。もしかするとそれは未だ理由の半分で、理由の後の半分は実は清盛の生母とされる祇園女御(或いはその妹)の出自に求められるのではないかとの事柄です。上記に「天津神(天神族)と国津神(地祇族)の戦い」とありますが、祇園女御(或いはその妹)のその出自とは、或いは「国津神(地祇族)」系統の重要な家系(部族、一族)の出自ではないかとのインスパイアーを受けました。清盛の生母については、祇園女御(或いはその妹)説も含め、正史上では不明瞭であり、未詳とされていますが、祇園女御(或いはその妹)に限らず、その生母は「国津神(地祇族)」系統の重要な家系の出自ではないかとの閃きです。

清盛の父は尊卑文脈においては明瞭に平忠盛であるとされていますが、その父について仮に現在有力とされる白河天皇ご落胤説を採るならば、清盛は「天津神(天神族)の長:白河天皇」を父とし、「国津神(地祇族)の長?の娘:祇園女御或いはその妹」を母としたために、あのような武家貴族としてはきわめて異常と思われる官位官職の昇進を果たすことができ、権勢を得て、平家政権を樹立することが可能になったのではないかとの仮説です。

何ら史料に拠らない仮説ですが、清盛の権勢の源泉は、時の天津神(天神族)系の長と国津神(地祇族)系の長の合意の基にもたらされたものではないか、とのまるで小説の中での話しのようですが想起されました。

今までは清盛の権勢の謎を解く鍵はその多くが白河天皇ご落胤説に求められましたが、それと同時に、不詳とされる清盛の生母の謎を解くことが清盛の権勢の謎を解く大きな鍵になるのではないかとの思いに至りました。史料に拠りません思いつきのような内容ですが、ご投稿します。
[69]takahiroさんからのコメント(2012年01月04日 17時32分18秒 ) パスワード

追記ですが(上記投稿との整合性は未検証ですが)、数年前に、上賀茂神社の前宮司より、上賀茂神社では平清盛の母は賀茂氏の娘であるとの伝承が残りますとの説をお聞きしました。

白河天皇の後宮には、

祇園女御
賀茂女御 うれしき(父:賀茂重助)
賀茂女御 いわいを(父:賀茂重助)

との3名の名前も含まれますが、この「うれしき」、「いわいを」の両人のどちらかを指して、上賀茂神社での故実は伝承されてきているのでしょうか。

(先の投稿後に気づきましたが、「大河ドラマ清盛」のスレッドにおいても、清盛の生母についての投稿がなされているのですね。そちらに投稿すべきでした。失礼しました。)
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月05日 08時44分18秒 ) パスワード

takahiroさま


明けましておめでとうございます。


>その生母は「国津神(地祇族)」系統の重要な家系の出自ではないかとの閃きです。


   大山祇系?と思いましたが

>上賀茂神社では平清盛の母は賀茂氏の娘であるとの伝承が残りますとの説をお聞きしました。


そちらでしたか。


賀茂家は桓武天皇も一目置いた京都の名門ですから
なるほど!
と驚きました。


賀茂家+賀茂神社が出て来ましたら  最強  ですね。
にっこり


貴重な情報ですね。

[71]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年01月05日 12時32分20秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

天津神(天神族)と国津神(地祇族)の区分が混乱しているようですね。
 
秦韓王の素戔嗚尊が葦原中津国を平定して、地祇系の大山津見命の孫娘稲田比売を娶ったのです。
後裔の三輪氏、宗像氏、諏訪氏などは地祇系と区分されますから、素戔嗚尊は入り婿の様だったのではないでしょうか。
賀茂氏は神武帝の功臣八咫烏武津之見命の末裔ですから、神皇産霊尊を祖とする天神族です。
神武帝東征も宗像水軍、伊予水軍、紀伊水軍の活躍が大で、陸上戦は苦戦を重ねて八咫烏武津之見命の熊野迂回作戦で大和盆地を制圧出来たのです。
なお伊予三島大祝家や伊予水軍は越智姓とされていますが、大山津見命後裔の地祇系なのではないかと考えます。
平家滅亡の因として義経の活躍が誇張されますが、伊予水軍の河野一族が源氏方で屋島や壇ノ浦で平家に壊滅的な打撃を与えたのが真因です。
 
詳細は下記、神別統括系図をご参照下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900.htm
[72]産品太郎さんからのコメント(2012年02月04日 14時58分09秒 ) パスワード

はじめまして。頼盛の子孫を調べております。

頼盛の子孫にはいくつかの系統がありますが、
そのうちのいくつかは池氏を称しましたよね。

頼盛──保業(池)──光度──為度──維度──宗度──顕盛════経氏

しかしこの家系は顕盛が朽木経氏に所領を与えて血筋は絶えています。
さて気になるのですが、なぜ顕盛は平氏でも何でもない朽木氏に
所領を与えて池氏を終焉させたのでしょうか。

また保業から顕盛までの間に分家などはなかったのでしょうか?
また現代までこの池氏の系統は続いていないのでしょうか。

ご存知の方よろしくお願いいたします。
[73]産品太郎さんからのコメント(2012年02月04日 15時07分08秒 ) パスワード

連投で失礼いたします。

頼盛の子孫を称する家系は多数ありますが、残念ながらそのすべてが
信憑性のあるものとはいえません。

その中で仁和寺宮諸大夫となった尾崎家、若林家はかなり信憑性のある
といいますか、確実な頼盛子孫だといわれています。

しかしながら私はこの両家の家系図を拝見したことがありません。
ご存知の方、お手数ではございますが頼盛からの系図を載せてはいただけないでしょうか。
[74]木村正明さんからのコメント(2012年04月12日 09時23分43秒 ) パスワード

 平治元年、凍てつく十二月大晦日の夜、平治の乱に敗れ再起を図るべく落ち延びる途中長田館に立ち寄った源氏の棟梁源義朝(源頼朝の父)は飢えと寒さに憔悴して、朽木が倒れるように横になると大いびきで寝込んでしまった。
長田館の主、野間内海荘の荘司長田忠致は鎌田正清(政家)の娘婿であった。
長田一族は義朝一行が疲労のために眠りをむさぼつていた一日、秘かな会合を持っていた。
「義朝討つべし」 と景致は主張した。
「敗将の義朝を討って、その首を平清盛に差し出し帰属を申し出る。清盛は許すだろし、あわよくば恩賞を与えられ、長田家は末永く安泰を保障されるであろう。」
というのであった。
長田父子は義朝を薬師堂の湯が湧く湯殿へ案内した、武略に長けた義朝を油断させだまし討ちにするためである。郎党の橘七郎、弥七兵衛、浜田三郎に殺害を命じた。
しかし、金王丸が刀を持って義朝の背中を流しに来たので、まったく討つ隙がなかった。
やがて、金王丸が「着替えを用意しろ」と何度も言ったが、誰も来ない。そこで、金王丸はやむなく家人を呼びに行った。
その隙に、三人の者が湯殿に走り込み、ひとりが義朝を組み伏せ、あとの二人が左右から駆け寄って、脇の下を二度ずつ刀で差した。
金王丸は走り返ってこれを見て、三人とも湯殿の入り口に斬り伏せた。

[31] 森本杜櫻さんからのコメント(2008年12月22日 15時48分35秒 )からこの義朝と最後まで行動を共にした渋谷金王丸が平家であった事を知りました。
また鎌田正清の子孫の方が義経と共に阿波国に上陸し傷を受けて戦線を離脱しそのまま阿波国に住み着いて居られます。
源頼朝に任ぜられ阿波国麻植保の保司となった平康頼に二人の平が行動を共にし家人の鶴田氏と四人が麻植保に下行しましたが鶴田氏も平家で在ったことを知りました。鶴田氏は康頼の没後に康頼神社を建て神として祀り戦後まで祭司を勤めて居られました。祭礼には鶴田一族の子供達だけで御輿を担ぎ、主が冠、ちわやで正装し、しゃくを持って神輿渡御の先導を勤めていたが昭和の初期にすたれた。
詳しくは 平康頼 ウィキペディアに私が記載したものですが二人の平に付いては削除されている。
[75]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年04月12日 20時55分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>その中で仁和寺宮諸大夫となった尾崎家、若林家はかなり信憑性のある
といいますか、確実な頼盛子孫だといわれています。
 
尾崎家は保盛裔と云われているが、系図は伝わらず恐らく安村氏支流ではないかと思われる。
仁和寺宮諸大夫若林家は、残念ながら地下家伝によれば源氏で江戸期元禄以降の系譜は存在する。
 
現代まで伝わる頼盛後裔としては大正・昭和期の音楽家本居長世、昭和の映画監督小津安二郎などがある。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm

[76]平将盛さんからのコメント(2012年05月20日 17時01分11秒 ) パスワード

頼盛子孫について調べています。

長年このスレッドで子孫について論じられていますが、
確実にこの家が正統な頼盛家の子孫という結論は出たのでしょうか?

また現代の当主まで続く家系図はありますか?
[77]仁和寺さんからのコメント(2012年08月19日 19時17分30秒 ) パスワード

平頼盛の子孫として唯一近代に爵位を授けられたのは尾崎家ですね

若林盛之ー尾崎三良ー洵盛ー春盛ー福盛(春盛弟)ー透


として現代に至ります。しかしながら若林盛之氏以前の系譜が不明です。
伊勢平氏および平家の嫡流はこの家系と思われますが、盛之氏以前の系譜が
見つかりません。

※出典:華族家系大成
[89]そらさんからのコメント(2018年05月04日 00時06分26秒 ) パスワード

地元の歴史を調べていてこのサイトを見つけました
まさか小さい頃見たのが平頼盛を祀った場所や模刀だとは知りませんでした。
このサイトで平頼盛について知れて良かったです。
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