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 投稿番号:100736 投稿日:2005年01月20日 19時08分02秒  パスワード
 お名前:myym
三村氏と家紋(梅鉢?)
キーワード:梅鉢 剣方喰 三柏 三村 備中 信濃 信州
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

備中三村氏子孫の者です。平家物語とは直接関係ありませんが,博識の方が多く集うところですので,投稿させて頂きます。お赦し下さい。

さて,備中三村氏ですが,伝承・系図・各種文献等によれば,鎌倉御家人であった三村親泰・親時など(吾妻鏡)の子孫が,信州洗馬郷の地頭となり,さらにその一流が備中星田郷の地頭となり国人として力を付けていったもののようです。
このような経緯から,信濃三村氏と備中三村氏は「親」という通し字と「丸に剣方喰」「丸に三柏」という家紋を共通しています。

私は三村家親の弟といわれ,三村期・毛利期の備中成羽城主であった三村親成(ちかしげ)の次男で,水野備後福山藩家老であった三村親良以下の子孫です。
系図や各種資料によれば,確かに家紋は「丸に剣方喰」「丸に三柏」なのですが,我が家やその周辺(岡山県倉敷市内)の親成流三村氏は,「梅鉢」も家紋として使っているのです(墓に使用していたりします。亡き祖父によれば前田家と同じ紋とのこと)。

各種文献では,三村家の家紋といえば「丸に剣方喰」「丸に三柏」しか紹介されていません。また,親成の孫にあたる大寄合・三村親澄の代に分かれた方の子孫で,関西で大学教授をしてらっしゃる方の話では,家紋は「丸に剣方喰」しか伝わっていないと言います。

なぜ,親成流の一部は梅鉢も家紋としているのかご存知の方いらっしゃらないでしょうか?私は同じ岡山である美作菅家党と何らかの関係があるのかなとも思っております。

関係ありそうな周辺情報でも構いません。ご存知の方,是非是非ご教示ください。
よろしくお願いします。


[1]田中愛造さんからのコメント(2005年01月21日 01時23分48秒 ) パスワード

三村様

 貴方の仰る通り、全国各地の三村氏は梅鉢紋の家は使われて居りません。美作菅家党との婚姻に因り持ち込んだものと解釈致します。源・平・藤・御村別・越智・諏訪より出自が在りますが、其のどれもが使って無いのも珍しくも有ります。
 備中の三村家の消息が知れたのも、私にとって幸いでした。家親の女が水野勝成に嫁ぎ勝重を生んだ背景で、水野家の家老職に在るのも納得できました。
[2]myymさんからのコメント(2005年01月21日 19時14分13秒 ) パスワード

素早いコメントありがとうございます。

常陸三村郷発祥の三村氏以外のことはよく分からないのですが,我が家など親成流の一部がを使用しているのは確かです。
嗣子断絶によって備後福山藩水野氏は改易され,親成−親良−親安−親澄と代々家老職等にあった三村氏もその正嫡筋は−水野家と縁戚に当たるということもあったようですが−「武士は二君にまみえず」として下野帰農しております。分家筋はそのまま100石前後の身分で阿部氏に仕え,その子孫は備後福山で今も続いておりますが,こちらは梅鉢紋は使用していないようです。
私は帰農して地主のようなことをしていた正嫡筋の子孫にあたり,梅鉢紋を使用しているのは我々の系統だけのようです。
親澄から私までの間は記憶によれば10代ほどなのですが,その間に梅鉢紋も使用するような出来事があったのでしょうか?いわゆる「牢人(=浪人)」であったにもかかわらず,やはり美作菅家党との婚姻が関係しているのでしょうか?

なお,備中三村氏の消息についてですが,私の知る限り江戸時代まで身代を保っていたのは,備後福山藩士であった系統・讃岐高松藩士であった系統くらいでしょう。
勝成の後継ぎは藤井氏女との間にもうけたもので,家親の孫にあたるわけではありません。勝成と藤井氏女が出会ったのは,勝成が毛利期の成羽に寄食し,親成の世話になっていたときです。
Wikipedia[三村親成]の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90
や[三村氏]の項
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%89%E6%9D%91%E6%B0%8F&redirect=no
などを参照してみてください。




[3]myymさんからのコメント(2005年01月21日 19時18分38秒 ) パスワード

田中さん,すいません。

さきほどの投稿ですが,読み返してみると言葉足らずですね。
丁寧さに欠けました。
少々押し付けがましい生意気な文面にも読めてきました。

他意は御座いませんので,引き続きご教示頂ければ幸いです。
投稿前にきちんと読み返すべきでした。
失礼しました。

[4]小林雅成さんからのコメント(2005年01月23日 01時09分33秒 ) パスワード

備中国三村氏子孫様

三村氏は岡山県内で観察されるだけで梅鉢を含む19種類以上の家紋を使用しています。
そのうち10種類ほどは、拙著『岡山の家紋データブック』にあげておきました(丸善・岡山シンフォニービル店で販売)をご参照ください。

>三村家の家紋といえば「丸に剣方喰」「丸に三柏」しか紹介
繰り返しますが、岡山県の家紋をうんぬんするのに小生の著書を文献として扱わないのはいかがなものかと存じます。

>美作菅家党と何らかの関係があるのかなとも思っております。
菅家党は南朝方ですので、南北朝期に南朝側で姻戚関係にあったのかもしれませんね。美作菅家党の子孫は岡山市でも分布はみられますが、本格的な拠点は、勝田郡、英田郡、津山市、久米郡などです。

無論、梅鉢は他のルーツの家でも使用していますので、イコール菅家党というのは、拙速な判断とも、、。
[5]田中愛造さんからのコメント(2005年01月23日 23時40分35秒 ) パスワード

小林様
 久し振りのご登場ですね。
 氏のご本「岡山の家紋」には、(三村)角字・片喰・桐・鷹の羽・引両・目結・木瓜・矢・等々と解釈されて居られますね。又共著である「姓氏家紋大辞典」では伊予の御村別姓三村氏と源・平・藤・越智系による家紋の同化が見られ、家紋に依る追求は困難が生じて大変だと拝察致します。全国の家紋を見ましたが、梅鉢が見られず、唯、似たような九曜紋が宮城県三村氏に有りますが、まさか梅鉢と見間違う事も無かろうと思われます。家系の事なら何とか理解を致しますが、又のお出まし期待致します。
[6]小林雅成さんからのコメント(2005年01月24日 08時27分58秒 ) パスワード

田中愛造先生

ご無沙汰しております。

三村氏ご指摘のように倉敷市や岡山市の三村氏も梅鉢を使用しています。

家親直系は、矢紋、その系統に属して鷹の羽紋、さらに県内には矢と他の紋の合成紋など、分流・異系統を判別しやすくもあり、わかりにくくしている面もあり、、。

昔から家紋を伝えている家は、家系に仮冒ありといえども家紋に仮冒なしとみたいと個人的にはそうおもっております。
[7]myymさんからのコメント(2005年01月24日 17時55分50秒 ) パスワード

田中様・小林様,色々ご教示下さりありがとうございました。
家紋も奥が深う御座いますね。

小林様が『岡山の家紋データブック』を物している方とは!!大変頼りになる方にレスして頂いた訳で,有難う御座います。
御著作はおそらく目にしたことがあろうかと思いますが,当時は自分の家系に大して興味も持っていなかったため,三村氏の家紋をチェックしていませんでした。
きちんと拝読させて頂きます。
小林様ご指摘のように,梅鉢を使用しているからといって美作菅家一党との縁組があったと考えるのは早計で,素人考えですね。親成流の中でも,備後福山から赤澤氏を頼って備中勇崎へ移住した本家筋のみが梅鉢を使用しているらしいことからして,わざわざ備中南部と美作とで縁組などがあったとは考え難い気もします。
岡山県内の三村氏が19種類以上の家紋を使用しているとは初めて知りました。
驚きです。
ただし,家紋に仮冒はないとしても,系図とはまた違った問題があると思います。
例えば,私は6年ほど前に備中三村氏発祥の地である美星町を1ケ月掛けてフィールドワークしたことがあるのですが,三村姓の墓石の家紋は意外とバラバラなのです。
この点を地元の方に尋ねたところ,「備中三村氏発祥の地にある三村姓といっても,殆んどはいわゆる傍流も傍流で要は苗字を名乗れない農民として生きて来た。当時大事であったのは『株』単位のつながりである。株内には同姓ばかりでなく,異姓が混じっていることも多々ある。そのような人々が家紋を大事するといった感覚を持ち,伝えて来たとは思えない」とのこと。「私らも苗字は違っても三村氏の子孫じゃという自覚はあるが,あんたとこみたいに代々がはっきりしとる家と一緒に考えたらいけんで」と笑われてしまいました。誠に示唆に富んだ言葉だなあと感じた記憶があります(非常にユニークな方で他にも色々美星のことを教えて頂きました)。
そのような点を峻別して考えてみたいのですが。
またもや素人考えかも知れませんね。
ともあれ,小林先生の御著作を精読させて頂きたいと思います。





[8]小林雅成さんからのコメント(2005年01月24日 20時42分48秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

三村ご子孫様

赤澤氏を頼ったのは、赤澤が小笠原の一族だという伝承からもわかりますね。
つまり、信州で地頭職をしていたころに、小笠原氏の”メッカ”地域にいたことから、当然付き合いができてくる。三村氏は備中に移る。瀬戸内海に活路を見出したその分流が赤澤氏。主要家紋:菱、桐

実は、その赤澤氏のうちさほど多くはないのですが、梅鉢紋を使用している一派があります。
赤澤氏との姻戚関係をたぐっていってはいかがでしょう?

農家の家紋使用は確かに武家に比べると乱れていて統一感に欠くかもしれません。しかし
本家、分家のレベルで言うと非常に整然とした使用が少なくありません。ですから、武家と農民では
使用開始時期により差異が生じている『重層決定』命題(簡単に言えば色々あって一筋縄ではいきま
せんよという意味)は念頭におくべきでしょう。

小生『こかー同じ村じゃけど同じ名字でもつこうとられる紋が3種類もあるがな、同じ株なんかな?』
村人『あそこと、ここと向こうは違います。』
小生『あーあー、ほんなら、血ぃはつながっとらんのんじゃな!』

というような会話はよくしますねぇ(^^)
[9]myymさんからのコメント(2005年01月26日 18時43分00秒 ) パスワード

>その赤澤氏のうちさほど多くはないのですが、梅鉢紋を使用している一派があります。赤澤氏との姻戚関係をたぐっていってはいかがでしょう?

そうなのですか!?
なるほど,備後福山から備中勇崎に移住して来て係累しか梅鉢を使っていないことからしても,その可能性はあるかと思います。
貴重な情報ありがとうございました。
[10]三村昌義さんからのコメント(2005年01月27日 15時42分15秒 ) パスワード

関西で大学教授云々と出て来ている者です。うちでは、家紋は「丸に剣かたばみ」しか使っていた記憶がないというのが、一族の長老の話です。一時、わが家系では、「鷹ノ羽のぶっ違え」を使っていたのですが、これは数代前の人の嫁さんが、宗旨をはじめ、すべて自分の里のものに勝手に変えていたことによるらしいのですが、鷹の羽を使っておられるところもあるのですね。
うちの祖先は、親澄の次の代から二代にわたって、つてを頼って桑名藩へ単身赴任しています。これは水野家断絶の後、阿部氏が入るまでのしばらくの間、すぐ桑名へ移った松平氏の家臣とのつてだろうと思います。その後、親澄の孫は、母方の姓の小池を名乗って阿部氏に仕え、さらにその子は船頭役を勤めていますが、何があったのか、福山を出奔、京都へ出て、結城水野氏の家臣にもぐりこみ、京都留守居役を勤め、維新を迎えています。このあたりは系図に記してあるだけで、真相は不明です。どなたか、小池という家をご存知ありませんか。結城水野氏のような小藩にキ京都留守居役なんてあったのでしょうか。
[11]田中愛造さんからのコメント(2005年01月29日 01時24分36秒 ) パスワード

小林先生
【重層決定】いい言葉ですね。流石に家紋学者ですね、無理やり引っ張り出して済みません。茲の平熱には矢張り必要不可欠の存在です。小生には田圃の田中で結構です先生とはおこがましく、決してその様な地位・学歴は有りませんので宜敷くお願い致します。
 三村氏に関しては、同じ岡山の井瀬伴 著(瀬戸の軍狼)に三村一族の興亡が描かれているらしいです。岡山ハイブリットweb(紀伊国屋書房)で在庫本が有るそうですよ。少し調べて見ましたが、何分にも多忙で13日〜27日まで九州4回・大阪・紀州と一日も休み無く移動致し、お役に立てず済みませんでした。此れからもご指導願いおきます。
[12]小林雅成さんからのコメント(2005年01月30日 13時11分10秒 ) パスワード

神戸山手の三村先生へ

お初にお目にかかります、岡山で紋章の研究をしております小林と申します。
今春からは、大阪のカルチャースクールで家紋のうんちくを教える予定です。

三村教授のお話で、一族の長老とおっしゃるのは武士を続けていて京都にて維新を迎えられた流派の現在の取りまとめ役的な方を示されておりますでしょうか?それとも岡山県内では電話帳で調べて約1000世帯もあるような三村一族の【うぢの長者】的色彩を帯びた方を指し示していらっしゃるのでしょうか?

丸に剣片喰は、大阪府・兵庫県で第1位の家紋(*)でありまして、これだけをもって家系を断定できるとは現在小生は唱えておりません。分布からすると古代○氏族(一部伏字)の末裔とも大胆に推定できますが、それがつるぎを有してそれまでのトライアングルの幾何学的な安定を離れ、トポロジカルなダイナミズム(ピーター・フランクル?)を有するようになるわけですが、さてそれは南北朝なのか?鎌倉中期あたりなのかは判然としません。

>「鷹ノ羽のぶっ違え」
この用語はすこぶる示唆的でありまして、ぶっちがえが鷹の羽(名詞)を後に付いて形容しております。
これは現代日本語からは想起しにくいのですが、ルーツの一端を紐解くのではないかと存じます。加えて、形状は呪術的な封印を表す他に、偶数尊重の氏族のシルシでありまして、これですべてを包摂するとはいいませんが、
ぶっちがいの典型が騎馬民族系統の匈奴です。系譜研究者はヤバイのでこれを直接表現せず、ぶっちがいに封印を、騎馬民族のいったんとして
『武士に好まれた』というオブラート表現を使っています。いやはや(^^;)

>宗旨をはじめ、すべて自分の里のものに勝手に変えていたこと
うちの家でそれをしますと親族会議にかけられて糾弾されますけど、おおらかなのですね、三村様のご一族は。

だいぶ脱線しました。本題に戻しましょう。

>結城水野氏のような小藩にキ京都留守居役なんてあったのでしょうか。
専門の先生のホームページを検索してご質問されたほうが的確な答えが返ってくるとおもいます。

(*)小生が一部執筆で加わりました柏書房の『都道府県別 姓氏家紋大事典』を参照。
[13]小林雅成さんからのコメント(2005年01月30日 14時08分54秒 ) パスワード

田中先生

お褒めいただきありがとうございます。

>田圃の田中で結構です
これこそが、意義のある言葉であり、大和の民がどのような構成であったのかをたぐる原初形態をゆうしているといっても過言ではありません。

丹羽基二氏の『日本苗字大辞典』のコンテンツを評する人はいますが、なぜこのような体裁なのか、なぜこのような分類なのかを目から鱗で評する人が輩出しないのは残念であり、彼がベストセラー作家でいつづけられる最大の理由ではないかと存じます。つまり、後輩を育成するのをおこたったので、極めて経済学的な目的は図られたが、姓氏研究は尻すぼみになっている。

また、脱線しました。要は田中先生のご先祖は紀元前後、どこで何をしていたのか?つまり、2000年前、田中先生とよく似たDNAをもった先祖は名字からたぐりよせることができるのか?それは中か?

>井瀬伴 著(瀬戸の軍狼)
自費出版のようですが、紀伊国屋の販路に載せることが出来るのですね、便利になったものです。
[14]田中愛造さんからのコメント(2005年01月31日 02時54分40秒 ) パスワード

小林先生
 小生も同感です!丹羽基二氏の本は30冊ほど持って居りますが、どれも同じで改良研究の後も無く、新に立ち上げた追化が見られず苦慮致して居ります。代表する第一人者としては其の必要性が皆無で然るべしとのお考えかも?姓氏・苗字関係の本も300冊を越えますが、幾分かは処分致しました。足で聞く人が少なく考古学者の如く探究する心が欠けているのが現状でしょう。かって系図学会に居られた小林先生に何があったか少し解る様な気が致します。
 dnaは恐らく皆同じかもですね、源・平・藤・橘、皆混ざり合い、北方系民族或いは南方系民族で秦氏+ユダヤの民と考えます、飛躍しすぎでしょうか。偶像の神に支配された日本人の本質は、カンナ混然一体と大和同化に意味するもは・・小生の口にも封印が必要です。
 今は出版社も形振り構わず、其の内、国営放送も新聞もタダになりますよ。
[15]小林雅成さんからのコメント(2005年01月31日 23時41分17秒 ) パスワード

田中先生

>どれも同じで改良研究の後も無く
1冊目内容(A,B,C,D,E)、2冊目(F,G、a,c,e、H,I)、となると3冊目は(J,K,i,f,h,g、L、M)のような書き方をされるのですね。Aの書き替えがaという感じです。最後のまとめを後書きで【意図せずに、こんな本できちゃいました!】でしめくくるのです。ネタ切れなんだろうかと心配しますが、やはりあれだけ書くとネタ切れだとおもいます。若い子らが読んでも新鮮なのかもしれませんが、私にはこれって丹羽氏の昭和50年代に書いて現在絶版になっている本の内容によく似てはるなぁとおもうわけであります(^^;)

最近でている本にも目をとおしているのですが、ベストセラーの頃の勢いがないですね、惰性でかいているような。小生は、あきんどですので価格に似合う内容でないと購入しません。

>足で聞く人が少なく考古学者の如く探究する心が欠けている
みんな国会図書館か大きな図書館にいって本読んで孫引きしていればうんちく垂れることができるとおもっているようです。現実はそんなに甘くはないのですが、、。

平熱の別のスレッドで、ころも氏がうちは平家ちゃうの?という書き込みに対し、よしひろ氏が柳田国男先生の説を鵜呑みにして九州の平家の落人はみんな信憑性ないでゆうてはるんですわ。なんか平家をよくご存知ないようで(^^;)、安徳天皇をカモフラージュするために、いっぱいエイリアス(身代わり天皇)を作ったのは明白なのにそのへんの事情がわかってはらない。本にかたよるとそんな言説をする若者が増えますね。

田中先生、ご理解頂けるとおもいますが、ほんとうに知ろうとすると、蜂・蚊には刺されるは、山道でずっこけるは、墓地公園で浮浪者に遭遇してびっくりしたり、不審者にみられて職務質問されるは(^^;)の連続です。私などフィールドワークで年中顔は日焼けで黒いです。

>かって系図学会に居られた小林先生に何があったか少し解る
私は特には何もなかったです。論争もしませんし、除名にもなりませんし、年会費払ってまで続けるのあほらしいかっただけです。同じように、森岡浩先生も1年ぐらいで見切って退会していますね。私の場合は丁度学会の期間が切れるところで現在の師匠にこっちこないかと誘われてそれで移っただけです。師匠や丸山氏(家系研究協議会)などは何かあったのかもしれませんが、昭和50年代の昔話です。

しいてあげれば、丹羽氏にサインもらったぐらいです(^^;)小柄な高齢者ぐらいの印象しかのこっていません。その後の人生経験で、児玉党の人にあったりして、ああ、丹羽氏と顔つきが似ているなぁという人にも遭遇しました。

>飛躍しすぎでしょうか。
飛躍ではないとおもいますが、日ユダヤ同祖論者にみられるとなんなので、著書では直接言及しないようにしています。

ああ、脱線ばかりになってもうて、脈絡のない文章になりました。
[16]田中愛造さんからのコメント(2005年02月01日 01時32分52秒 ) パスワード

小林先生

 ご返事、有難うご座居ます。
 矢張り同じ様な事やってはりますね。若い頃、鳥取の池田公墓所にて一日中調べて居ましたら、近隣の三人が来て(何しとるンや)と墓荒しと間違われ、おまけに夕立に遭うやらでした。
 小生も辛口でして、物申したいのですが、この場を(平熱)あくまでも良識の場として守りたく、ご遠慮致して居ります。日ユ論は、小林先生のご指摘通り封印致します皇室論にも繋がりますので。大阪でのカルチャー立上がりましたら、是非平熱でご案内下さい。ご指導有難うご座居ました。
[17]三村昌義さんからのコメント(2005年02月01日 16時11分54秒 ) パスワード

小林先生へ 三村昌義

ご教示ありがとう存じます。一族の長老というのは、そんな大袈裟な意味で申し上げたのではありません。うちの親戚の中で、いちばんの年寄りという意味です。今年83歳になる伯母です。うちの系統は、一族が少なく、今、三村姓を名乗っているのは、嫁に来た人も含めて、12名しかありません。
京都へ出てきた人は、三村親朋という人で、親鳳と号しています。京都の川端町に住んでいて、幕末に出た和歌集に、何首か入集していますので、多少の教養はあつた人だったようで、結城水野藩の墓所の隣に自分の墓を設けています。そんな関係で、今もわが系統の本家は、大徳寺の塔頭に墓地があります。もっとも今の住職の話では、明治の初年、廃仏棄釈で大徳寺も被害にあい、また財政的にも大変だったので、だれかれなしに墓地を分譲していた由、だから、水野家に仕えていて、そのよしみで隣の墓を作ったというのは、怪しいと思うのです。
[18]小林雅成さんからのコメント(2005年02月03日 00時58分44秒 ) パスワード

田中先生

>(何しとるンや)と墓荒しと間違われ
私の場合は、石材店の営業マンに間違われます。スーツ着て革靴、携帯電話で墓地の真ん中で話しているとそのようにしか理解されないです。

>夕立に遭うやらでした。
鳥取は雨が多いです。大名墓とか隠れキリシタンとか一般受けしそうなところをぞろぞろ移動しております。

>この場を(平熱)あくまでも良識の場として守りたく
秦熱なら大丈夫だとおもいます。

>大阪でのカルチャー立上がりましたら、是非平熱でご案内下さい。
こちらは最初は初心者向け講座なので、田中先生のように系譜の裏まで読むことが出来る方には物足りないかもしれません。

[19]小林雅成さんからのコメント(2005年02月03日 01時18分55秒 ) パスワード

三村教授へ

>今年83歳になる伯母です。
貴重な語り部ですね。ぜひ伝えられることは記録に残されることをお勧めします。

>うちの系統は、一族が少なく
武家はそういった風にあまり増えないし減らないとおもいます。爆発的に増えたのはやはり農村だとおもいます。三村という地名は、ネットで検索すると岡山県内に該当ありません。つまり県内地名を名乗ったとは考えにくく県外発祥とみてよいかと。村山ランキングで岡山県87位ですから、私見では戦国大名の系統と既に戦国時代は別ルーツを有する三村氏がいたと推定しております。

>多少の教養はあつた人
教養かなり無いと和歌集の編纂には加われないとおもいます。

>そのよしみで隣の墓を作ったというのは、怪しいと思うのです。
武家は集まります。藩主や家老の周囲に墓が出来ます。お経が聴けるのが寺墓地のロケーションとしてはベストではないでしょうか?

[20]myymさんからのコメント(2005年02月03日 18時59分56秒 ) パスワード

>>三村昌義さん
ご無沙汰です。例の歴史掲示板以来ですね。
久し振りに此処を訪れたら,三村教授の書き込みがあったので,ビックリしました。
大徳寺の塔頭の中に昌義さんのご先祖のお墓があるのですね。
どこの塔頭になんでしょうか?
あそこの塔頭で好きなお寺(という表現でよいのかな?)があります。有名所ですが。
ちょうど2月中に行こうと思っていました。
同系の三村同士とはいえ,かなりの遠縁ですが,手を合わせることができたら…と,ちょっと思ってみたりです。
親安・親澄の頃のお話,また教えて頂けると嬉しいです。
今後とも宜しくお願いいたします。

>>小林先生
この掲示でのやりとりを読ませて頂いてると,田中先生といい,すごい方々といのが分かりまして,恐縮です。ちなみに,先生の御本はまだ拝読できておりません(汗)
>三村という地名は…県外発祥とみてよいかと。
私どもが無邪気に信じている伝承では,常陸國三村郷発祥としています。
今の石岡市三村地区ですね。
吾妻鏡に三村親○,○親という御家人の名前が何人か見受けられることからも,関東発祥で良いのかなと考えております。
「親」という通し字と「丸に剣方喰」「丸に三柏」という家紋を共通とすることから,信濃三村氏と備中三村氏は同族と見てよいと思うのですが,前者は源頼親子孫を称し,後者は小笠原子孫を称しています。
この点の喰い違いについては,源氏武士団にあって源氏の子孫と称することに意味があっただけのことで,拘泥する必要もないのかな…と。
赤穂浪士の三村包常についても,藤原氏を称していたようですが,常陸出身で家紋も剣方喰,やはり常陸國三村郷発祥の同根・同族の三村氏であろうと思っています。
先生のお話に従うと,武家に限って考えるならば,このような仮説もありなのかなと愚考いたします。

>村山ランキングで岡山県87位ですから、私見では戦国大名の系統と既に戦国時代は別ルーツを有する三村氏がいたと推定しております。
そうなんですか。その点は,全く考えておりませんでした。
三村氏は鎌倉時代後期には信濃洗馬郷から備中星田郷へ移っていたようなので,岡山県で87位くらいでも決して多いようには感じないのですが…。
一岡山県民の実感としては,県下に三村という苗字は決して多くはない気がします。
そのためか,同じ三村姓の方からルーツを尋ねられたり,こっちも尋ねたりといったことも少なからずありました。
三村姓の方は,自分のルーツに誇りを持ってるんだなと感じたことはママあります。

ご教示のほど,よろしくお願いいたします。









[21]三村昌義さんからのコメント(2005年02月04日 13時00分22秒 ) パスワード

小林先生へ 三村昌義

いろいろご教示ありがとう存じます。うちに伝わる、系図には、古いところは、他の三村さんのところに伝わっているのと同様の記事が記載されているようです。myymさんのところとも同じで、常陸の三村郷から信州洗場、備中星田村という移動です。別にルートのあった三村も存在したのではというのは、ごもっともな説だと存じます。ともかく、わが系統は、天保あたりから、明治10年くらいまでのことが、あやふやなのです。系図とかそんなことに頓着しなかったとだろうと思うのですが、その一方で、三村家が絶えかけたので、三村から養子に出た人が自分の次男を三村姓に戻し、そこに子供が生まれなかったので、さらに末娘を養女に出し、どうしても三村を残しておきたかったようです。
[22]三村昌義さんからのコメント(2005年02月04日 13時14分19秒 ) パスワード

myymさんへ
三村昌義

いやいやご無沙汰です。大徳寺の大光院という塔頭です。系図には、瑞源院に葬ったとあるのですが、この塔頭は廃仏棄釈で廃絶、現在の紫野高校のグランドのところにあったそうです。大光院も同じ場所にあったのが、今のところに移転したということです。その無縁塚の中から、系図通りの戒名を記した墓碑を伯父が偶然にも発見、その時の住職の許可を得て、新たに大光院に墓地を設けました。その裏の木戸を開けたところに、結城水野家の京都の墓地がありますが、今は別の塔頭に属しているようです。勝手に、墓も宗旨も家紋も自分の実家のものに変えていた人が亡くなってから、実はうちの本当の墓は、大光院というところにあるらしいと、ぼそっと祖母が言い出したのです。それまでは口に出せなかったという、いろいろな人間ドラマが、うちにはありました。大阪の船場で商売を始めたことによる、いろいろなしがらみのせいです。
[23]小林雅成さんからのコメント(2005年02月05日 21時57分31秒 ) パスワード

三村氏子孫様へ

>「丸に剣方喰」「丸に三柏」という家紋
奇数尊重ということで、なんら問題はないとおもいます。藤原氏という伝承も奇数尊重なら頷けます。

>前者は源頼親子孫を称し,後者は小笠原子孫を称して
同じでいいとおもいますが、、。分流が増えるにつけ疎遠になりますから。詳しいことはお会いしたときにでもお話しましょう。

兎に角、イエの名を残すために何でもありですので、源氏という武家のカテゴリー内なら問題ないでしょう。この意味では、私の前回の書き込みと矛盾しますが、岡山県の三村氏は全部ルーツいっしょやんかという結論。しかしながら、平安末期ぐらいで、清和源氏○○流とかきっちり分類しなくてはおさまらない人もいますので、形式的に分類するだけです。
[24]小林雅成さんからのコメント(2005年02月05日 21時59分51秒 ) パスワード

三村教授へ

>天保あたりから、明治10年
この頃は世の中がばたばたしておりますので、わからないというのも無理ない設定ですが、解けない謎ではないと存じます。たとえ隠蔽しても一族郎党、親類縁者のすべての口を封じるのは不可能です。特に家柄で結婚する時代ですからきっとメモ魔の人が記録を残しているはずです。それを探してパズルを解くことがご子孫の三村先生に課されているのかもしれません。そもそも課されていない人はこの掲示板には書き込み致しません。
[25]小林雅成さんからのコメント(2005年02月07日 01時54分25秒 ) パスワード

三村教授へ

書き込み[19]の訂正です。

久しぶりに角川書店の『姓氏家系大辞典』をひもときましたら、三村庄という地名が昔存在したようです。
とすれば、貴家:清和源氏系統以外の、地名から三村を名乗った流も可能性としてはあるのでは?と思います。
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年02月08日 00時25分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

三村氏発祥の地名としては、
常陸国筑波郡三村郷、常陸国新治郡三村上郷、常陸国新治郡三村下郷、下野国河内郡三村、加賀国江沼郡三村、美濃国不破郡三村庄、近江国蒲生郡三村庄、備中国三村庄などが存在します。
常陸、下野には上古の三村部が居たことが類聚国史に見えますから、恐らく三村氏は三村部の後裔が源姓(あるいは藤原姓)に吸収されて各地へと発展したのでしょう。
常陸三村郷地頭として小田氏(藤原氏のちに清和源氏に復姓)が見えますから、三村氏は小田氏庶流なのではないかと推測されます。
各地の三村地名は地名遷移によるものが多いと考えます。
もちろん三村氏の全てが源姓(あるいは藤原姓)というのはナンセンスと思います。
伊予では御村別姓の三村氏も存在する様です。
三村氏の家紋は剣酢漿草、三引両のほか三つ柏、五つ瓜に立沢潟などです。
家紋は殿様より拝領というケースも多く、三村氏の中に美作菅家党との姻戚関係から梅鉢紋を使用されたものと思います。
[27]小林雅成さんからのコメント(2005年02月08日 00時55分11秒 ) パスワード

Sさん(日本の苗字七千傑)、お久しぶりですね!

>常陸、下野には上古の三村部が居たことが類聚国史に見えますから、恐らく>三村氏は三村部の後裔が源姓(あるいは藤原姓)に吸収されて各地へと発展
『姓氏家系大辞典』みれば、それは無難な推論でしょうね!

>伊予では御村別姓の三村氏も存在する様です。
>三村氏の家紋は剣酢漿草、三引両のほか三つ柏、五つ瓜に立沢潟などです。
中央の書籍かき集めれば、その情報がマックスなのでしょうけれど、今ここで
話題になっているのは、辞書に無くって、でも戦国大名の末裔が『なんでうちの家紋がのっていないイレギュラーやねん!!』という素朴な疑問ですねん。
そやさかい、Sさんぐらい人気のあるサイト運営者ならもうちょっと辞書にのっとらへんデータを書いてくれるのかと期待しとったんですけど、手持ちないんでっか?あと、大学教授の三村先生の書き込みですが、『三村氏の江戸の後期の情報、個々の家の知ってはりますか』という書き込みなんですけど、それに対するレスポンスは?

>三村氏の中に美作菅家党との姻戚関係から梅鉢紋を使用されたもの
中央(東京)の近藤先生という偉い系譜研究者も同じこと別の氏の解説でかいてはるんですけど、全然現実味ないんですわ。私は岡山の地元の郷土史家と話ししますし、美作菅家党の党族会の役員とも話ししてますねん。親戚だったら一発でわかりまっしゃろ。でもわからへんから、書いてますねん。Sさんなら目からウロコ情報あるかと期待したんですけど、もったいぶらないで、書いてくださいな(^^;)
[28]三村昌義さんからのコメント(2005年02月08日 14時55分33秒 ) パスワード

小林先生 三村昌義

ご教示、ありがとうございます。かなり以前、書き込み式家系図なるものが発売され、その中に三村家用のものもあったので、立ち読みしていましたら、初代は孝元天皇だったかになっていました。『新撰姓氏録』か何かに、古代の三村部という職掌不明の氏族の先祖がそういうことになっていたような、あやふやな記憶があります。三村庄はあちらこちらにあったようで、そこから起った三村姓も当然あるでしょう。
富山県には、平家の子孫だという三村さんがおられました。
幕末近くのことに関しましては、今のところ。何の手がかりもありません。明治の初年の戸籍を調べるか、福山で本格的に調査するしかないでしょう。
[29]myymさんからのコメント(2005年02月09日 21時31分28秒 ) パスワード


>>日本の苗字七千傑さん
はじめまして。HP拝見致しました。
非常にボリュームのあるHPで圧倒されました。
スゴイです。
さて、
備中三村氏について「三村庄(小田郡/川上郡)発祥」としてらっしゃいますが、
実は「三村庄(荘)」という荘園は備中地域にはないのです。
「三村庄(荘)」という呼称は、星田郷(現・小田郡美星町星田に該当)地頭職にあった備中三村氏が実効支配していた地域を便宜的に呼んでいたものに過ぎないようです。
幻の「三村庄(荘)」などと称する向きもありますが、幻も何も元より存在しないのですから、なくて当然です。
ですから、「三村」という苗字の発祥地としては「三村庄(小田郡/川上郡)発祥」というのは間違いなのです。
伝承に素朴に従えば、備中の三村氏は常陸国筑波郡三村郷発祥で、既に書いたように家紋・通し字を共通とすることから信濃三村氏もそうではないかと思っております。
「三村庄(荘)」は通称だったようですが、広い意味での地名遷移と言えるかも知れませんね。
なお、備中三村氏は清和源氏義光流小笠原氏末と称しており(もちろん、個人的にはホンマに清和源氏だと思っているわけではなく、『三村部』の民説にも大いに興味関心を寄せるものであります)、この点、石蟹(石賀)氏と同じなのですが、実は石蟹氏は三村氏庶流とも言われているのです(系図の裏を読む必要もありそうですが)。
三村氏は、鎌倉後期に信州洗馬郷より備中星田郷へ移動していますが、備中定着間もない頃に石蟹氏は分かれたのではないかということです。
そのため、石蟹氏はすんなりと三村氏に付き従った訳ではないようです。
三村氏と石蟹氏との関係については、研究の余地が大いにあるでしょうね。
ともあれ、かかる点を踏まえ、権威ある日本の苗字七千傑さんのHPにおける、三村氏の項を訂正・修正して頂ければ幸いです。
宜しくお願いします。

>>小林雅成さん
ご教示・解説ありがとうございます。
お話の広がりから、質問がフツフツと沸いています(笑)。
ちょっと前のご投稿において
>家親直系は、矢紋、その系統に属して鷹の羽紋、さらに県内には矢と他の紋の合成紋など、分流・異系統を判別しやすくもあり、わかりにくくしている面もあり、、。
という記述があったんですが、家親直系の子孫の方っていやはるんですか?
その辺は僕の中でかねてより気になっていたのです。
凄いドラマが隠されてそうですからね。
幕末の備中松山藩士三島毅は家親の4男・鬼身城主・上田実親の子孫だと言いますし、実親子孫の別系統は確か讃岐高松藩士になっていたような記憶が…。
実親の系統以外ということなんでしょうか?

>>三村昌義さん
>福山で本格的に調査するしかないでしょう
やっぱり親成子孫は福山に戻らないと駄目かもわかりませんね。
私も近所のくせに全然行ってません。
週末は京都行きます。
無事大徳寺に寄れると良いのですが…。











[30]田中愛造さんからのコメント(2005年02月09日 23時33分39秒 ) パスワード

 私の憶測?
 少し調べて見ると、富山に於ける三村姓に関しては少し違った三村氏で。謂わずと知れた加賀支藩富山に、開発村の三村氏。祖の孫左衛門が数代蒲生飛騨守に仕え250石の知行を得ていたが、二代平四郎の時開発村に住し在所の長百姓として土着(越中古文書加越能文庫)、慶長14年関野に高岡城が築城され町造りが行われ源右衛門が町割等主附を命じられ初めて加賀藩政の下役人を務めた。役儀二代の源内は改作法施工期の明暦2年射水郡無組御扶持人十村の重職に付き、同年布市村市郎兵衛の後任として引越十村を命じられ、5年間富山南部地域の加賀藩(万治3年その大半は富山藩領なり)十村役を勤め、改作法の普及徹底に尽くした。しかし、三代源内は天和から元禄にかけ浅井組・南条組の当分才許、五代助八は享保期後半の新田才許、七代源内は文政から天保にかけて山廻役、八代源之丞は弘化から安政まで、九代貞次郎(後、源内と改名)が文久から明治まで、山廻役をそれぞれ務めたが、十村役として組支配することはなかった。四代源之丞については元禄16年無組御扶持人並になったと伝えられるも明らかではなく、六代源内についても正確なことはわかっていない。(射水郡十村土筆・杉木文書・御扶持人帖)。
 三村は高岡市や富山市では多く見られる姓である。漆芸錆絵で知られる三村一族の先祖は、加州小松の橘源内である。越中射水郡に移って荒地を開拓し、湶分・江尻・開発の三か村を開いた功により、藩主から三村の姓を賜ったと伝えられる。小松屋と称し、高岡に出て漆器を始めた家には、常右衛門・八右衛門・平右衛門らの名工が輩出した。高岡における錆絵の創始者三村卯右衛門(号松斎・鳳崗、文政十年〜明治十五年)は、平右衛門に学んだ。その子兆公(安政六年〜明治四十一年)二代目卯右衛門を襲名し、弟の松斎も父の家業を継いだ(高岡史)。
 富山県姓氏人物大辞典に於いての抜粋ですが、この三村氏に限ってこの様な記事があり、追求した訳けでは有りませんが、恐らく三村の姓を賜った時前田家の家紋も頂いたのではないかと考えられます。為らば梅鉢紋も不思議でなく、同じ三村の紋と勘違いしてもと・・本来は土地柄として、美作菅家系因縁が生したものが正しいと思いますが、この様な事柄も一考と遇えて書き込みました。
[31]小林雅成さんからのコメント(2005年02月10日 00時20分25秒 ) パスワード

三村教授へ

>書き込み式家系図なるものが発売
これについては裏話もありますが、不特定多数が閲覧する場での書き込みは控えます(^^;)

>孝元天皇
この天皇は実在というよりは、ある特徴を有する部族のサンボリックな総体とでもいうべきなものかもしれません。当然、やまとことばではありませんので、やまとの大王にのちほどわたってきたテクノクラートが漢語の意味を熟考して付与したとみるが自然でしょうか。

>平家の子孫だという三村さんがおられました。
岡山県には三村氏が多いのでそんなルーツのもおるかっていうご質問ですか?
そういう辞書に無い質問はちょっと(^^;)
[32]小林雅成さんからのコメント(2005年02月10日 00時22分40秒 ) パスワード

三村氏子孫様へ

>記述があったんですが、家親直系の子孫の方っていやはるんですか?
一応、ネタ本としては『岡山の名門』なんだけど、これって私が考証したわけではありませんので。くわえて、そもそも新聞記事をまとめたものだから、申告したもの勝ちっていうのもあるかもしれない(^^;)
県立図書館で見てください!

>矢と他の紋の合成紋
これは小生か郷土史家しか知らないかも。
[33]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年02月10日 00時39分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

三村様へ
 
「日本の苗字七千傑」をアクセスいただき、ありがとうございます。
三村庄の存在が無いとのご指摘に回答いたします。
清水正健編「荘園志料」に備中国未勘郡三村庄が記載されています。
記載根拠としては43ヵ国112ヵ所の長講堂領を記載した応永14(1407)年の「長講堂領目録」に備中国三村庄が存在するからです。
三村庄が未勘郡なのは、小田郡美星町から川上郡(旧下道郡)川上町へ郡を跨いだ領域だったことによります。
さらに隣接する川上郡成羽町には成羽(梨羽)庄があり三村信濃入道が本主です。
承久の乱(1221)後、三村氏が東国から西遷されたことは美星町に洗場の地名があることから信濃国筑摩郡洗馬牧からの移動説を裏付けます。

ここからが推測ですが、何故常陸から備中へ移動したのか、上古は西南日本から次第に地名が東遷していますから、その逆に備中から常陸へ移動したのが真相なのではないかと思います。
なぜなら小田臣は備中国小田郡に栄えた上古の大豪族で、下道郡には八田郷の地名もあります。
常陸の小田氏、八田氏は表面上は藤原氏道兼流(のちに小田氏は清和源氏為義流とする)となっていますが、備中の小田、八田の地名が小田氏族の東遷とともに地名遷移したもので備中小田氏と同族なのではないでしょうか。
信濃にも清和源氏満快流や小笠原氏流の小田氏が存在しますが、その関係で信州三村氏の流れと称する備中三村氏が小笠原末流と称したのではないでしょうか。
 
三村昌義氏が孝元天皇裔ではないかと言われているのは、小田臣が吉備氏族と仮定すると孝霊天皇裔の間違いと言うことになります。

家紋は苗字に比較して数が少なく異姓異氏が多く使用しますので出自遡及が困難ですが、地名から見ると系譜や古文書消滅で解らなくなっているものが見えてくるものです。
[34]myymさんからのコメント(2005年02月10日 17時53分31秒 ) パスワード

>>日本の苗字七千傑さん
早速の応答ありがとうございます。
話が壮大、面白くなって来ましたね。
三村庄については、地元の利というものもありましょうから、きっちりと調べて改めて投稿いたします。
いずれにせよ、三村庄があるから、備中における武家「三村」姓が生まれた訳ではないと思います(この点、小林雅成さんのご意見はどうなんでしょうか?)。
ここでまたまた質問なんですが、
>承久の乱(1221)後、三村氏が東国から西遷されたことは美星町に洗場の地名があることから信濃国筑摩郡洗馬牧からの移動説を裏付けます。
とされながらも、
>その逆に備中から常陸へ移動したのが真相なのではないかと思います。…信濃にも清和源氏満快流や小笠原氏流の小田氏が存在しますが、その関係で信州三村氏の流れと称する備中三村氏が小笠原末流と称したのではないでしょうか。
と推論なさるのは矛盾してらっしゃらないでしょうか?
>家紋は苗字に比較して数が少なく異姓異氏が多く使用しますので出自遡及が困難ですが、地名から見ると系譜や古文書消滅で解らなくなっているものが見えてくるものです。
なるほど。点と点を繋ぐ作業ですね。
三村氏については、信濃と備中に通し字「親」と家紋「丸に三つ柏」「剣片波見」という共通点があります。さらには吾妻鏡に登場する鎌倉御家人三村氏はやはり「親」を通し字としてます。
地名考にかかる点を加味した場合、どう考えたら良いのでしょうか?
なんだか、我が家が梅鉢も家紋にしていることなど、「小さい小さい」と思えて来ました。
いや〜、予想外の広がりです。ありがたいですね。

>>小林雅成さん
>一応、ネタ本としては『岡山の名門』なんだけど、これって私が考証したわけではありませんので。くわえて、そもそも新聞記事をまとめたものだから、申告したもの勝ちっていうのもあるかもしれない(^^;)
繁体字使用の古い本でしたら7〜8年前に読んだことあります。
僕個人の感想としては、「あり得ない…」でした。









[35]小林雅成さんからのコメント(2005年02月10日 23時09分46秒 ) パスワード

三村ご子孫様

>僕個人の感想としては、「あり得ない…」でした。
やられましたな(^^;)やっぱ、引用はすべきでないなとおもいます。重層決定命題でお茶をにごしている程度が賢明かもしれません。
引用するごとに恥かきまんがな(^^;

>備中における武家「三村」姓が生まれた訳ではないと思います
平安期程度の遡及をもって良しとする風潮では三村氏の出生伝承で問題無いでしょう。ただS(日本の苗字七千傑)氏の小田、八田氏を援用しているのは偶然の所産なのか?あるいはハッティの暗喩としてつかっているのか?またまた脱線して秦熱を帯びてきました。
いずれにせよ、地名は小生の専門ではありませんので評価の定まらない事項についての言及は控えたいと存じます。

美星町の地名はごっつうおもろいのが列挙できますね。洗馬の地名は、長野県塩尻市の地名とでは読み仮名がことなりますが、漢字がおなじなのと、川・池の近くでもないのに、山の中で馬洗という地名は意味深です。
[36]田中愛造さんからのコメント(2005年02月10日 23時37分09秒 ) パスワード

 長野県姓氏人物では、この様な事柄が書かれています。
 中世、筑摩郡洗馬荘に拠った豪族に三村氏がある。洗馬の三村の所見は、現在の諏訪市桑原の仏法寺所蔵の旧洗馬光輪寺紙本墨書大般若経奥書で、「明徳元年十月九日明誉、前三村殿」とある(信濃史料7)。また、同大般若経221巻奥書には「大旦那源種貞」の名が見え、『三村系図』の親継にあたるとかんがえられる。備中国三村荘より起こった三村氏も源姓であるが(姓氏家系)、両者のつながりは未詳、洗馬荘へは、承久の乱後に新補地頭として入ったと推定され、芦の田にある釜井庵に館を構え、妙義山城を狼煙台などに使用したという。洗馬城(武居城)が居城とも伝える。長く勢力を保ったが、武田氏の侵攻で一旦没落し、三河へ逃れたと伝える。
 天正十年、武田氏滅亡で小笠原氏が信濃へ入ると、三村氏も旧地に戻り、天正十年と推定される六月十二日付小笠原貞慶充行状によれば、三村勘兵衛が洗馬3000貫を与えられている(三村文書/信濃史料15)。勘兵衛は貞慶から後庁の姓を与えられ、以降、後庁を称した。

 と有り、洗馬に於いての武田・小笠原・三村の動向の一部が記されて居ります。
[37]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年02月11日 15時16分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

三村様へ
 
推測のヨタ話で風呂敷を広げたようですね。
出自などは少しラフに見た方が、むしろ良く見えてくるものです。

オーソドックスな見方に立ち帰り「備中三村系図」を見ると、
【小笠原】長経─長時─【三村】親時─親屯─親実─能実─(略)─宗親─家親(弟親成、親頼)
長時は常陸三村郷に住したとありますから三村郷地頭小田氏と関係があったものと推測します。なぜなら長時の叔父清家は小田五郎を称している。
親時は信濃狭江に遷り三村を称したとありますから洗馬郷(洗馬牧)時代のことでしょう。
備中三村庄に西遷したのは親屯の代と推定します。
  
このことを踏まえて小笠原氏と三村氏との系図の繋がりを再確認しました。、
小笠原系図、小笠原系図〔松尾深志〕、小笠原諸流系図、系図纂要の四系図比較では、
小笠原系図、系図纂要によれば長経の三男に長時が見えます。
他の二系図では長持となっていますが、恐らく写本時に誤記されたものと判断します。
 
「備中三村系図」は信頼のおけるものと見て、「日本の苗字七千傑」関連頁を補訂します。
[38]myymさんからのコメント(2005年03月07日 21時20分08秒 ) パスワード

皆様、ご無沙汰しております。

>>三村昌義さん
もう大分前になりますが、大徳寺行ってきました。
大光院は本当に端っこですね。
ちょっと中までは入れませんでした。

>>日本の苗字七千傑さん
久し振りに来てみれば「ヨタ話」で「大風呂敷」ですか。
きっついなあ(笑)。
まあ、そうかも知れませんが。
学生時代に頭の中に詰め込んだ情報で書いてしまいました。
備中三村氏子孫歴二十数年の素人ですので、大目に見てやってくだはい。
問題は
@備中三村氏は三村荘が確認できる以前より備中おり、同荘は苗字の地ではないのではないか?
A三村荘が本当に存在したのか、存在していたとして実体があったのか?(室町期の荘園に実体云々を求めても仕方ないかも知れませんが)
として、
B備中三村氏と信濃三村氏は同族・同流なのか?その本貫は?
といった辺りでしょう。
三村荘については、美星町の方から寄進云々の説明のあと「そんなもん、ないのと一緒よ。三村氏は星田郷の地頭じゃからな。三村氏が支配しとったから、そう呼ばれた時期があったというだけ」と教示を受けたことがあります。ただ、そうおっしゃる割には「中世夢が原」(中世の郷村を再現したプチ・テーマパーク?)を「三村荘」と名づけておけば良かったと反省の弁を述べてらっしゃいましたが。。
三村荘は(実体として?)存在しなかったと主張する文献も見たことがあり、改めて探してみましたが見つかりませんでした。
また、備中・信濃三村氏の関係ですが、通し字と家紋を共通とすること自体、深い関係を窺わせるものではありませんか?いささかフィーリングに頼った乱暴な推測かも知れませんが、ただの偶然ではないでしょうし、素直に考えれば同族といった方向に話が向くでしょう。
長野県朝日村の三村氏と岡山県井原市美星町の三村氏とは現在でも同族意識を持っており、朝日村の村長をしてらした三村氏がわざわざ美星町まで来て同町職員と「三村氏」話をしながら酒を酌み交わしたこともあったようです。

それはともかく、備中三村氏が小笠原氏との繋がりを系図上でそれなり説明できるとは驚きました。私は今までただの仮冒系図だと思っていましたから。
かなりの驚きです。


[39]三村昌義さんからのコメント(2005年03月08日 14時21分21秒 ) パスワード

myymさん 三村昌義

大光院はいわゆる非公開寺院なので、墓地へは庫裏に断ってからでないと、奥へは入れません。貴兄とは、是非、一度お目に掛かりたいものです。このページであまりプライベートな連絡先を開示もできませんが、何か方法はないかなあ。
[40]板橋区在住三村さんからのコメント(2005年03月14日 23時24分49秒 ) パスワード

はじめまして。HP拝見致しました。三村家のルーツを検索していましたらこちらにたどり着きました。父の実家は北海道の屯田兵村出身で、明治30年代頃、鳥取から入植したそうです。(たぶん鳥取藩士)家紋は亀甲紋の中に三つ柏です。鳥取の三村家についてご存知の方、分かる範囲で教えてください。
[41]myymさんからのコメント(2005年03月23日 18時20分54秒 ) パスワード

>>三村昌義先生
遅くなってすいません。
実は気軽にインターネットできる環境にありません。
4月初めには環境が整います。
またメール致します。
神戸方面に行く機会もあると思います。

>>板橋区在住三村さん
天正の備中兵乱時、
備中三村一門のうち伯耆へ落ち延びた系統があるのは確かです。
大した資料もありませんが、
閲覧しながらインターネットのできる環境が整い次第、
この場に投稿いたします。

[42]源三さんからのコメント(2005年03月29日 00時37分39秒 ) パスワード

久しぶりに平熱サイト来ましたところ三村氏の記述があり
僕も三村氏の出自に関心があります。実は戦国時代の家臣
に三村氏がいるのでどこからやってきたのか知りたいなと
色々三村氏のことを以前調べていたことがあり、今ここに
又うずうず探求熱が・・・。九州筑後の三村氏のことが又
何かわかり次第書き込みます。
○部さんはもういないのかな?平重衡の本が本屋に並んで
いたけど全くわからないので調べにも来ました。zzz
[43]myymさんからのコメント(2005年05月10日 20時36分41秒 ) パスワード

>>三村昌義先生
4月に先生が公開なすってるアドレスへメールさせて頂いたんですが、届いてませんでしょうか?
公開していないアドレスで送ってますが、あれは私ですので…。
今後とも、宜しくお願いします。

>>板橋区在住三村さん
どこかで関連資料を目にした記憶があるのですが、実家の手持ち資料などでは、明確な回答になるもの見つかりませんでした。
どこで見たのか思い出せません。。
ごめんなさい。
[44]三村昌義さんからのコメント(2005年05月11日 14時32分49秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年05月12日 11時06分34秒
[45]三村昌義さんからのコメント(2005年06月07日 11時01分13秒 ) パスワード

myymさんへ 三村昌義


先日、直接メールして以来、パソコンに大トラブルが発生し、以前のデーターの大半が消えてしまいました。したがって、myymさんのアドレスも分らなくなってしまい、(控えておけばよかったのですが、まさかこんなことになるとは)、或いはいただいたお返事も消えてしまったと思います。これをお読みになったら、再びご連絡ください。私のアドレスは変わっていません。この掲示板を利用させてもらってすみません。
[46]石蟹家子孫さんからのコメント(2005年11月17日 11時04分25秒 ) パスワード

初めまして。このサイトを見て石蟹という文字があったので投稿させていただきました。
 私は石蟹家の子孫です。石蟹家は今は石賀となのっています。紋は笹竜胆と伝わっているので源氏の流れではないかと思われるのですが、自分の家の歴史についてよく分かりません・・・ このサイトを拝見して、実は石蟹氏は三村氏庶流とも言われている。というのをはじめて知り、このサイトに投稿すれば何か少しでも分かることがあるかと思い投稿させていただきました。
[47]石賀さんからのコメント(2010年07月27日 17時34分14秒 ) パスワード

はじめまして、私も石賀と申します。

母は鳥取県倉吉市出身です。

石賀の名前の由来はわからないですが、確かに源●●だったと思います

先日も母と話しをしていましたが、お爺さんの名前が石賀 巌、その前が

石賀重三、その前が石賀重三郎さんで、大地主だった聞きます

関金温泉付近の地主。

相当金持ちだったらしいですが今は0です。

さくしゅう?出身で宮本武蔵と同じ里聞いています。

どうなんでしょうか?
[48]土師正樹さんからのコメント(2011年01月28日 15時57分17秒 ) パスワード

私の家の家紋は梅鉢です。先祖については、系図から天穂日命を先祖とした土師族です。土師族の中でも朝廷側についた土師(はぜ)族と呼んでいる家紋と吉備地方(備中地方)にいるる土師(はじ)族と異なっています。そのため菅原道真の家紋は梅だけですが丸い鉢はありません。もし私の先祖(土師)について興味があればインターネットに系図を調べたURLがありますので「土師家 下道郡矢田村」のホームページをみてください。
[50]庭瀬に梅鉢さんからのコメント(2014年07月09日 00時09分44秒 ) パスワード

岡山市 庭瀬城主の戸川が美作菅家
から梅鉢を使用しています。
庭瀬城つながりではないでしょうか。
庭瀬城を築城したのは三村であった
なっています。
ちょっと自分も最近柳生や軍師かんべい
関で美作の田舎がこんなに歴史に
どこでも関係していて興味が
あります。詳しい方お教え下さい。
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