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 投稿番号:100714 投稿日:2004年11月24日 18時59分31秒  パスワード
 お名前:夜代
家紋「菊水」について。橘姓楠木氏則岡家
キーワード:楠木正成
コメントの種類 :質問  パスワード

我が家の家紋は「菊水」と言うそうなのですが、
鎌倉時代後期に、楠木正成が貰い受けた家紋なんだそうです。
祖母に聞いてみると、我が家は楠木正成の子孫の直系に位置するとか‥。
・・・信じられません;
誰かこの家紋について詳しく知っていらっしゃる方は情報を教えてください。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月25日 06時17分46秒 ) パスワード

菊水紋はイコール楠木正成というイメージです。

我が家も当時菊水紋を使ってたと聞いてます。
(わたしも嘘だろ〜と思ってましたが他からも聞いてへえ〜っと改めて日本の紋ってややこしいと思いました)


楠木正成の場合は後醍醐天皇さんが盃に菊を浮かべて下賜して以降使用したと言われてますから
楠木氏もその前は橘紋を使ってたかも知れないですし他の紋だったかも。

楠木正成にあやかって他の家でも菊水紋を使用したでしょうし。


他には楠木正成の一統の橘さんや楠さん和田さんその他橘姓系の家が使用してますね。
源氏系や穂積系の鈴木さんも使用だそうです。

源氏系でも南北朝の時、新田側で楠木氏と懇意にして養子など頂いてたら当然菊水紋使用ということもありますでしょう。


家紋は錯綜するから何ともいえませんが
ホンヤさんにあたるお家が系図をお持ちでしょうから早めにコピーなさいますように。
[3]太郎さんからのコメント(2004年11月26日 00時44分07秒 ) パスワード

私の知り合いで、菊水さんという人がいます。

家紋名がそのまま苗字になっているような苗字ですね。
こういうのって、珍しいのでしょうか?
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月26日 02時10分55秒 ) パスワード

菊水なんて変わってますね。
初めてです。

でも蚊取り線香のブランドに菊水というのがあったような?



昔、徴兵制度があった時、新兵さんは殴られるのが当たり前で
足利出身という地名でさえ殴られる理由だったと聞いたことがあります。逆賊扱い
でしたら新田さんとか楠木さん菊水さんなんて殴られるところ免除だったかもですね。忠臣扱い


やっぱり名字とか家紋とかいろいろ奥が深いですね。
[5]布袋竹さんからのコメント(2004年11月26日 10時46分44秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

新田といえば、鹿児島・宮崎の県境近くに、新田山という場所があります。
ニッタでなく、シンデンと呼ぶようですが、ここは平家落人集落とか
刀鍛冶の子孫が住み付いたと言うことでしたが、それらしい佇まいはみせていましたが
二人にハナシを聞いたら、ひとりは全然知らず・もうひとりは、そんな話を聞いたと
だんだん風化されているのですね。
先日11.23の祭日、末吉町の住吉神社の流鏑馬の帰り、近くだったので寄ってみました。
あ、また付近に悪七兵衛景清の墓と呼ばれる石塔群があり、ここにも寄ってみました。
景清の墓との伝承は、この付近は平氏の所領が多かったので、鎌倉時代の古墓を琵琶の音で語った
盲目の僧の物語と結び付けられたものでしょうネ。

菊水から外れました。菊水紋は東シナ海の甑島に行くと、いくつか見られます。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月26日 12時40分28秒 ) パスワード

>菊水紋は東シナ海の甑島に

菊水紋と甑島ですか。

組み合わせが謎です。
東シナ海にも南朝方の武士が亡命したんでしょうかねえ。


足利義満の時代に南朝方の武士が捕らえられ偽って倭寇として中国に引き渡されて釜炒の刑に処されたと聞くので
やっぱり東シナ海にも落人として渡ったんでしょうかねえ。

それとも時代がもっと下がって元寇の時代に東シナ海に取り残された?移った?のでしょうか?
こういうお話はちゃんと記録されるといいなと願っています。
[7]布袋竹さんからのコメント(2004年11月27日 09時25分36秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

甑島は九州本土から40−60キロの西の、東シナ海に浮かぶ列島です。
大きく上・中・下の3つの島からなり、この中甑島・下甑島に菊水の紋があります。
各島の集落は数えるほどしかない島ですが、その半数以上に
平家のオチノヒト(落人)の伝説が残されています。

楠木正行は軍に殉死したとされているが、難を逃れて船で甑島に逃れてきたという
伝説が残っています。その墓と言われる供養塔もあり、正行の子孫として菊水の紋の
和田家があります。

楠木一族はこの正行の名前の付いた中甑の山だけでなく、下甑島にも逃れてきて
下甑島にも、武家屋敷町の中に菊水のついた家が残っているので、小川・島津氏の中で
うまく士族「郷士」で続いていたのでしょう・

島だけでなく、本土・国分方面にも、楠木正勝らが隠遁したと伝えられているそうです。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月28日 03時07分25秒 ) パスワード

布袋竹さん
ありがとうございました。


>正行の子孫として菊水の紋の和田家があります。

和田氏はもともと楠木氏と親戚だそうですからこれはすんなり理解出来ます。


源氏系池田氏は正行の末裔として菊水紋を使用だそうですから
なるほどと思いました。
南朝方の源氏系でしょうね。
[9]楠木正子さんからのコメント(2007年05月17日 09時25分43秒 ) パスワード

私の実家も菊水のご紋で子供の頃から、先祖は楠木正成だと聞かされていました。同じ菊水のご紋の方って先祖は親族?家族?え?
[10]楠木正子さんからのコメント(2007年05月17日 10時31分42秒 ) パスワード

元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。
 先にも述べたように、楠木氏は勢力を持つとはいえ所詮河内地方の土豪にすぎない。それにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。『太平記』には、天皇が京都を脱出して東大寺から鷲峰山を経て笠置山に行在された時、南訶の夢により、「この辺に楠木と名乗る武士やある」と下問し、これにより正成は召し出されたことになっている。他方公家方の歴史書である『増鏡』には、勅命によって笠置山に集結した武士の中に正成の姿が見えたことで、天皇が安堵したという記述がある。楠木氏と関係の深い金剛寺や観心寺が歴代天皇の庇護が篤かったことを考えると、両者は以前より何らかの形で結びついていたと考えるほうが自然であろう。
 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。この族には「非利法権天」としたためられている。
  非は利に勝つことあたわず
  利は法に勝つことあたわず
  法は権に勝つことあたわず
  天は明にして私なし
あやまりやまちがいは利、すなわち力にはかなわない。この力も取り決めや法則によって執行できるものである。しかし、この法則は権力によってつくられるものであり、最高のものではない。天、すなわち真理の前においては権力も束の間のものでしかない。いつの時代でも天こそが私心なき平等な心なのである。つまり、真実に基づいて行動すれば、必ず至誠天に通ずるということであり、正成の信念を軍旗が象徴しているのである。
 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わる。天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、正成の天皇方への参戦は重要な意味を持っていた。すなわち、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになったからである。正成の情勢判断の確かさが遺憾なく発揮されたのである。それは決して勢力の勝る方に靡いて時流に乗るという軽薄な判断ではない。忠孝の理想のもとに、歴史の流れを冷静な視点で見つめ、北条氏の前途を確固たる自信を持って見極めていたのである。そうした信念のもと、夥しい敵軍に包囲されながらも、孤立無援の奮闘した正成は大いに称えられてよいだろう
[11]SAKURAさんからのコメント(2007年05月17日 10時50分18秒 ) パスワード

実家は長野県下伊那なのですが我家も女紋は菊水です。
楠木正成の家来の恩地左近の子孫だと伝えられています。
新宮という地名や川がありお天皇様などの祠お神明様など…山の名前や地名に落ち延びる前の故郷の地名が付いているようです。
あまり古い物は残ってはいませんが、仏壇には古そうな山伏が背負っていたような箱の中に入った仏像があります。
母は落ち延びた時に背負って来た物では無いかと言っています。
お寺には過去帖が残っているとは聞いていますが…我家独自のお寺があったのを離れた経過があり見た事はありません。
太平記で楠木正成が菊水の家紋をいただいたのを見て、両親から聞いていた事は本当だったんだとびっくりしました。
以後、地主であったり古城という小さい城の家老だったとも伝えられていて跡地も我家が管理しています。
我家のルーツを父にもっとよく聞いておくべきだったと思っている所です。

朝、テレビで菊水楼(奈良)が出てきて家紋を見たので検索していて偶然にも辿り着きました。
楠木正子さんのご先祖の家来だったかなぁ…??
[12]mamboさんからのコメント(2008年01月09日 14時36分21秒 ) パスワード

和田氏の末裔の者です。
和田氏は楠木氏とは姻戚(親戚)関係となります。
和田とかいて「にぎた」と読みます。
私が父から聞いた我が家の祖先は正成(長兄)の弟、三男楠木正氏氏から連なるものと聞き伺っております。
正氏は三男坊という事もあり、和田氏へやられたんでしょうね、文献によって楠木正氏とかいてある場合と、和田正氏と書かれているもの、両方あります。
もちろん我が家の家紋は菊水紋となります。

ところでSAKURAさんの書き込みに非常に興味を持ちました。
女紋で菊水という事があるんですね?
女紋は母から娘、そしてそのまた娘へと継がれて行く紋なので、例えお父さんが菊水であっても、娘は母方の紋を継いで来たはずです。
また、恩地氏の家紋が菊水紋を使用しているという事も初耳です。
恩地氏は大阪府八尾市辺りの神主の出自であり、同地を統治していた名氏と考えられます。
おそらく楠木氏に仕えるまでは、楠木氏と同盟(対等)関係にあったのでは?と推測されます。(家格としては恩地氏の方が上と思われます)

そういった事を踏まえ考えた時、果たして恩地氏が菊水紋を使用するか?(歴史の古いお家柄だこそ、余計に自身の家紋を尊重するはずです、当時の通念で考えれば)という事です。
恩地氏が菊水紋を使用する事は楠木軍の一将として出陣時以外は考えにくいと思います。

しかし、確かに長野辺りには菊水と関係のある様な地名は沢山ありますね?
恩地氏の云々という事より、ご先祖が大楠公に肖って頂戴されたと考えられた方が現実的だと感じます。
[13]Goさんからのコメント(2008年03月29日 18時26分11秒 ) パスワード

家のら家も菊水紋です。
苗字は城なんですが関係あるんですか??
子供の頃から楠木家と関係があるように聞かされています。
最近結婚が決まり気になったのでよろしくお願いします。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年03月30日 07時29分05秒 ) パスワード

Goさん

全く分りませんが
平家+南朝方の流れ
というのは思います。


御名字の城氏とは
古代の「城氏」=きし
または桓武平氏平貞盛の弟の繁盛子孫の「城氏」=じょうし
から来ているのでしょうか?

中古代の秋田城介は日本史上時々目にします。
九州では筑前・肥後に城氏がいらっしゃるそうです。


平家の城氏は歴史に出てきます(城助茂)。


ムカシ子供の時に「城」と書いて「たち」さんとおっしゃる家がありました。
多分三重県の館氏と関係があるのかなと思います。
やはり平家がらみでしょうね。


紋が菊水で家伝に南朝方のお話があるんでしたら
元は平家で南朝方だったということでしょうね。


名字や家紋は事情でしょっちゅう変わりますから
やはり御親戚の方の集まり(お正月とかお盆とか)で話題に出して
いろいろお訊きになったら良いと思いますよ。
[15]ミケーレさんからのコメント(2008年10月06日 14時37分12秒 ) パスワード

うちの家紋は菊水で、名も楠です。本家は浄土真宗本願寺派の寺です。みなさんが言う様に、名・家紋は変わる事があるので、家系図でも残っていない限り判断は難しいでしょう。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月07日 02時26分43秒 ) パスワード

ミケーレさん

バリバリ「楠で菊水」ですかあ!
その上
浄土真宗でしょ。

反織田信長ですね〜


江戸時代はどうなさっていらっしゃったんでしょう?
実に興味があります。
ミケーレさんの御先祖さまもどこかの藩に「名家」ということでお抱えになってたんでしょうか?


>名・家紋は変わる事がある

それは確かですが
御先祖さまのことを誇りになさってください。

お祖父さまや伯父様方は軍隊でも良い扱いだったのでしょうね。
(足利出身者は住んでた所が足利というだけで殴られたなんて話ですよ)

そういうのも含めて楠家のアイデンティティなんですから
しっかり一族の皆様からお話をお聞きになってください。


もし明治維新で姓を名乗る時に楠姓や菊水紋を使用したとしても
そこには何かの理由があったはずですから
      
>>家系図でも残っていない限り判断は難しいでしょう。

なんてお思いにならないでください。


世間に胸を張って「うちは楠姓で菊水紋」とおっしゃってください。
[17]案山子さんからのコメント(2008年10月27日 00時50分08秒 ) パスワード

私の実家の家紋も菊水です。
そういえば、浄土真宗でした。
父は香川出身で、姓は楠ではないのですが、先祖が平家の落人だと言ってました。
ここにカキコしている皆様と何か関係があるのかしら?
[18]楠木さんからのコメント(2008年12月06日 22時02分25秒 ) パスワード

我が家は楠木で菊水です。
詳しいことは分からないですが、浄土真宗はたしかです。
直系ではないでしょうが・・・・
[19]右田さんからのコメント(2009年01月16日 16時25分37秒 ) パスワード

うちの家紋も菊水です。
姓は「右田」みぎた で、楠ではないのですが、
以前の「和田」と書いて、にぎたさんとは
読み方が似ていてきになりました。

現在は、東海地方にすんでいますが、
親戚の話では、先祖は九州からきたらしいです。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月16日 23時25分33秒 ) パスワード

右田さん

大内氏を滅ぼした一門の陶氏は
大内氏の一門の重臣、九代大内盛房の弟で右田氏を称した盛長の末
だそうですよ。

陶氏が毛利に滅ぼされた時
杉氏・右田氏と共に亡んだそうです。


大内氏は日本の名族の1つですから
日本史の中にちゃんと書かれていますから
時系列的にお調べになれば「先祖は九州からきたらしい」という
「九州」というのが何故か
というのが分ると思いますよ。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月16日 23時33分25秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ou_migta.html

など右田氏はいろいろ出てますから必要無かったですね。
ごめんなさい。
消そうかと思いましたが記念に残しておきます。

他の人には検索しなくても済みますしね。
[23]橋本さんからのコメント(2009年01月17日 17時45分31秒 ) パスワード

我が家は橋本で家紋は菊水です。
実家は岐阜県、浄土真宗で楠木さんと同じです。
橋本正員の子孫とのことです。
楠木正成の家臣ではないかと思いますが
先祖は和田家から、わかれているようです。
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年01月18日 00時32分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

右田さんへ
 
貴家の伝承で先祖が九州から来たとすると、
周防国佐波郡右田保発祥の多々良姓大内氏族ではなく、
豊後国玖珠郡右田邑発祥の豊後清原氏族です。
 
右田氏に至る略系譜は下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01214a.htm
 
また菊水紋は、楠木氏族以外でも多くの家が使用しています。
 
 
橋本さんへ
 
橘姓楠木氏と熊野国造和田氏は親戚で、橋本氏は和田氏から分かれていますね。
橋本正員に至る略系譜は下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02125.htm
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月18日 10時35分42秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん

思い違いと訂正レス
ありがとうございます。
ぺこり
[27]いろいろ知りたい子さんからのコメント(2009年09月23日 18時49分34秒 ) パスワード

九州の福岡に住んでます。
私の実家も 楠姓で、家紋は菊水 宗教は、浄土真宗西本願寺派です。
名字の楠も “楠木”では無く あくまでも“楠”
家紋の菊水も 菊の部分に こだわりがあるようです。

「楠 正行」の 子孫だと 聞いた事がありますが、何せ 幼き時の事なので
詳細は 分かりません。
[28]前田さんからのコメント(2009年10月23日 15時38分47秒 ) パスワード

九州の前田ですが、家も菊水紋なんですが、何かわかりますか?
[29]中村岳夫さんからのコメント(2010年01月08日 00時29分21秒 ) パスワード

菊水家紋の長野県の北部の中村です。

楠系の祖先は、正成の三男の楠正儀の子、楠正秀らしいです。

正秀が長野に来たときの姓は芋川で、
140X年に芋川長知の若宮城が落ちて、
芋川氏が断絶したところに、正秀が芋川を復興したとなってます。

正秀は、1446年に阿瀬川城にて戦死しますので、
それより前となるようです。

私の祖先は、芋川のすぐ近くの字中村に引越し、性を中村に変えたそうです。

戦国武将の芋川親正は、1500年代後半の人ですが、
断絶したところから、それまでの記録がわかりませんので、
正秀とは系列が違うのかもしれません。
家紋も菊水とは違うようです。
芋川親正は、その後上杉家とともに、会津から米沢へ移ります。

[30]清水さんからのコメント(2010年03月07日 09時32分52秒 ) パスワード

東京に住む清水といいます。私の祖父の戸籍に「士族」と記述されていたそうです。家紋は菊水です。以前からどのような家系だったのか興味がありました。どなたかわかる方がいると嬉しいです。
「裏菊水」という家紋があると聞いたことがあります。この件もご存知の方はいらっしゃいませんか?
[31]石倉さんからのコメント(2010年03月13日 22時49分50秒 ) パスワード

兵庫の石倉と言います。

当家も菊水です。

本家は神戸市の西部ですが、先の大戦の空襲に遭い菩提寺・先祖の墓もろとも

爆砕され、また後に再建されたものの阪神大震災で全壊し、先祖にまつわる物

は全て消失しました。

残されたものは唯一家紋が入った風呂敷のみとなりました。

ただ幼少の頃の記憶の中に、水牛の角と思しき角が付いた甲冑が本家の床の間

に鎮座していたのがとても怖かったのが残っております。

親類一族も先祖にまつわる話を伝承された者もなく、今となってはたどるすべ

を知りません・・・。
[32]酒井さんからのコメント(2010年09月13日 00時03分08秒 ) パスワード

こんばんは〜私も菊水です!幼い頃親父に家の家紋わ菊水やから覚えとけとよくいわれてました!親父の出身地は分かりませんが大阪に住んでます
[34]さんからのコメント(2010年10月25日 14時45分25秒 ) パスワード

兵庫県神戸市にすんでいる平です。
うちは家紋は菊水というか「きくながれ」とおしえられてきました。
お墓の家紋を見るとにています。
うちの父方は沖永良部島で、浄土真宗西本願寺です。
たしか26代目と聞いたことがあります。
小刀と衣類が家宝としてあったそうですがおじいさんのころに
どこかに行ってしまったようです。
なにかおわかりになりますでしょうか?
(コメント再投稿をしました)
[35]山田さんからのコメント(2011年03月04日 16時40分03秒 ) パスワード

6年も前の記事に返事をするというのもなんですが、
皆さん最近まで語られているようなので便乗させてもらいます。

私の母方の祖父が言うには我が家も楠木正行の子孫のようです。
祖父は私が生まれる1年前に亡くなったので直接聞いたことは無いのですが、
先祖は長野の山奥に逃れ、その地形から性を取り「山田」と名乗って隠れたそうです。
私は未だ祖父の本家に行った事が無いので見た事はありませんが、
先祖が逃れた際に一緒に持ってきた摩利支天の像が大事に保管されているそうです。

第二次世界大戦時に祖父が天皇家の近衛の隊長(?)として選ばれたので、直系では無くとも分家の一つか近しい系列にあるのかもしれません。
ちなみに浄土真宗です。

投稿者様、ここにいらっしゃった近しい縁をお持ちの皆さまにとって少しでも有力な情報になればと思います。
[37]ようこさんからのコメント(2011年03月06日 18時43分14秒 ) パスワード

私の旧姓は、三田と言います。実家の父方の家紋が菊水です。浄土真宗西本願寺だとか・・あまり気にしないで過ごしておりましたが、4,5年前に占いで見てもらったら、「あなたの後ろに凄いご先祖様がいて、その方が守ってくれています。」と、言われました。それ以来、「ご先祖様」のことが気になり・・父方の祖父は朝鮮総督府のお役人であったことは聞いてましたが、菊水の家紋ということは、楠木正成の関係者だったのでしょうか・・どなたか教えていただけないでしょうか?
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月07日 01時00分25秒 ) パスワード

ようこさんへ

初めまして。
全く見当違いかも知れませんが。


菊水紋使用:
有名使用者は楠正成。
後醍醐天皇より拝領。
ということで  楠家の代表紋。


橘氏系:橘・楠・和田・甲斐・庄・内島・橋本・松村・吉川

源氏系:松平・正行子孫系池田・坂野・山瀬

藤原系:竹村・内田

穂積系;鈴木
[39]ようこさんからのコメント(2011年03月08日 06時37分11秒 ) パスワード

空の青海のあをさんへ

ありがとうございました。

今日は天気も良いとのことで、車で20分くらいに

ある千早赤阪村までドライブに行ってきます。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月08日 15時45分09秒 ) パスワード

ようこさん

いかがでしたか?


何か霊感を感じましたか?

結局ここは「村」のままのようですね。
大阪府唯一の村というのもいいですね。


楠正成が生まれた場所、という感じはありましたか?
[41]ようこさんからのコメント(2011年03月20日 10時33分41秒 ) パスワード

空の青海のあをさんへ

千早赤阪村は、以前、仕事場所のひとつだったので良く知っている場所です

が、占ってもらう以前のことだったので、無意識で働いていましたが、今回は

意識過剰のハイな気分でドライブしてしまいました。もう少し春めいていたら

ヨモギとか採れるんですが、ただ寒くて・・・(笑)

四季の移り変わりがはっきりしたいい場所ですよ。吸い込まれるとか霊感とか

は感じられる様な感じないような・・でした。


[42]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月20日 11時46分33秒 ) パスワード

ようこさん


車で簡便に行ってしまうより
電車とかバスとかで時間をかけて足でも歩いて
心の摺り合わせをなさりつつの方がパワーが「来易かった」かもですね。


何度もいらっしゃってたら、そのうちに向こうから来ますよ。
御先祖さまが「なんだ、もう来て行っちゃったのか」と思っていらっしゃるかも。
ふふふ
「最近の馬は足が早いのお」とかおっしゃっているかも。
[43]ようこさんからのコメント(2011年03月20日 17時37分09秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

そうですね・・・近鉄富田林駅から金剛バスってのが出ているらしく、そのバ

スだと、思い過ごしかもしれないご先祖様に会えるようです。もう少し暖かく

なってきたら、リュックでも背負ってハイキングに出かけてみようかと思いま

す。日ごろの仕事から離れてゆっくり空気を吸うのもいいかも・・ですね

ありがとうございました。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月21日 01時59分54秒 ) パスワード

ようこさん


わたくしの場合はいろいろ体験がありますが

伊賀に行った時
名古屋方向からで

別に何も期待はしてなかったのですが

その電車内はすごく寒くて(山の中だから、しょうがないのね)と思ってました。


ところが、突然、顔の辺りのみ  ボウ〜  っと生暖かいというか
                       ヒトの体温というか

感じましたよ。

他の部分は寒かったです。


あ、迎えに来てくれた
って思いました。


それで先祖って守ってくれているというのを実感しています。

ようこさんも御先祖さまが守ってくださっているようでお幸せだと思います。


うちも楠正成がどーたらというのは母方父方双方にありますから  (母方は菊水紋を使ってた時期がありましたから)
ようこさんが御先祖さまを実感できますように
と願っているのですよ。にっこり
[45]ようこさんからのコメント(2011年03月22日 17時07分51秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

無性に行きたくなって、やはり車で行きました。仕事の合間に向かったので急

ぎ足でしたが、楠公産湯の井戸を階段を下りて見てきました。後は車で、金剛

山麓にある千早城跡、下千早城跡、上千早城跡を通っただけでした。途中、頭

が重くなってきて、気が遠くなってくるような感じがして、空の青海のあをさ

んみたいに顔の周りのみが・・・とか全然ありませんでした。山の上まで行っ

たので、気圧のせいかも知れないですね(笑)。時間がある時に再度行ってみ

ます。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月23日 01時41分27秒 ) パスワード

ようこさん


お仕事の合間、ですか。

いいですね。


>頭が重くなってきて、気が遠くなってくるような感じがして、
>山の上まで行ったので、気圧のせいかも知れないですね(笑)。

あらあら

よく分かりませんが「気圧」が関係するというのは「高い山」なら分かりますが。


なんだか不思議な体験ですね。


いよいよ御先祖さまに御対面というのでしょうか。
また行ってみてください。
[48]さなえさんからのコメント(2011年04月12日 11時05分02秒 ) パスワード

おじゃまします。

ようこさんも、伊賀にいってらしたのですね(^^)。わたしも、また行きたいです。千早城とかも・・・

わたしは、最近まで歴史とかぜんぜんわからなかった人ですが、先祖をたどって・・・平熱さんにお邪魔させていただいているしだいです。パソコンも上手く使えませんので、そのところ許してくださいませ。

ところで、以前スレッド・伊賀餅と伊賀忍者の関係のほうで、ときおさんに教えて頂いた本「鬼の太平記・まんじゅう伝来史」があるんですが・・・楠木正成さんのことや菊水紋のこと「非理法権天」の本当の意味(作者の想像かもしれないけど、こちの方がしっくりする)など書かれていて、興味深い本でしたので、お知らせしますね。ときおさんの言われるとおり、わたしには難しい本でしたが・・・何かに読まされた気がします。先祖の気概のようなもの感じましたよ。不思議ですねええ。        では(お邪魔しました)。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月14日 01時25分31秒 ) パスワード

昨日NHKの番組を見ていたら
「菊水」という御名字の麻布大学の先生が出演なさっていました。

「極める」というシリーズの「動物行動学」についての番組です。


良い名字ですよね。
トクですよね。
軍隊に行っても殴られずに済む名字でしょうね。



日本人には「楠」とか「菊水」とかには、良いイメージがありますよね。
[50]さなえさんからのコメント(2011年04月14日 09時05分32秒 ) パスワード

[48]で、わたしまちがちゃったので、訂正します。
伊賀にいったのは、空の青海のあおさんで、ようこさんが、千早へですね?

こんらんさせました、ごめんなさい。
[51]さなえさんからのコメント(2011年04月14日 09時15分59秒 ) パスワード

楠木正成さんは、忍者の親分的存在、弱者の見方、反勢力側なイメージですが・・・わたし(服部党?)にとったら、「カッコイイ!!」の一言です。菊水紋もなんだか、意味深・・・です。

今日も、思ったことをかいちゃったけど・・・よかったかな?どうも〜(^^)
[52]今井 綺羅さんからのコメント(2011年07月24日 00時29分03秒 ) パスワード
URL=http://yamabukimiku@yahoo.co.jp.

私の家も、菊水です。
家は何百年も昔お寺だったそうです。上杉謙信もいらした寺です。印もあります。もう自分の家じゃないからあるか分かりませんけど・・・。他の人に譲って分家になってしまいました。苗字は、今井です昔は斉藤でした。私の家はひいひいおじいちゃんの時代まで名前が戦国武将に近いように心がけていたそうです。高熱で亡くなったといわれているおじいちゃんは今井信秀だったそうです。まあ、こんな感じです。
[53]さんからのコメント(2011年08月05日 15時56分57秒 ) パスワード

私の母方が、姓『楠』、家紋『菊水』です。
曾祖父が貿易を生業としていた、というのは聞いたことがあるんですが、先祖については知りません。
楠木正成がご先祖様なんでしょうか??
それとも、たまたま…?
当方、山口県の者です。
[55]庄司さんからのコメント(2013年03月17日 22時12分47秒 ) パスワード

庄司ともうします。私の里は、和歌山の龍神ですが、家紋が菊水です。楠から和田ではなく、庄司を名乗った人がいるようです。お婆さんが十津川村の玉置氏で、何れも熊野国造です。
[56]さなえさんからのコメント(2013年03月18日 18時15分46秒 ) パスワード

庄司さんへ

 わたしは、一昨年十津川村に少しですが行くことができ、玉置神社で神秘的な体験ができました。近くに龍神温泉があることも知り、「すごい地名だな・・・」と思っていました。何の参考にもなりませんね。先祖(服部)がお世話になったかもしれませんので、「ありがとうございますね。」

お彼岸のせいか・・・、頭がほわほわしています。ごめんなさいませ。

[61]颯風さんからのコメント(2013年08月20日 13時41分09秒 ) パスワード

こんにちは。私の家の家紋も菊水です。

祖父の出身が大分県日田の津江です。
姓は室原で、祖父は蜂の◯城の室原◯幸氏の従兄にあたります。

日田は豊後国玖珠はすぐ近くのようですのでルーツは
清原源氏なのかな…?

しかし菊水紋の方が多くてびっくりしました…
とても珍しがられるので…先祖がどこかでつながってるのかな?
と思うとワクワクします。
[69]辻の坊さんからのコメント(2013年10月28日 00時23分12秒 ) パスワード

我が家も菊水、浄土真宗です。
現在、宮城県に住んでいますが、祖父の代まで奈良県の下市におりました。
楠木正成の子、正行から池田教正の流れだと確認出来ています。
江戸初期には天河で能楽に携わっていました。
古くから伝わる家系図は偽物だと思っていましたが、専門家に鑑定を依頼したところ、
本物であると確認され驚いています。
又、天河神社にて当家の位牌を見ていただいたところ、遠縁であることも確認できました。
全く、驚いております。
[72]和田 倭さんからのコメント(2013年12月16日 18時05分00秒 ) パスワード

我が家も 祖父の代まで下市に住んでおりましたが その前は天川村和田です。
苗字も和田ですが 宗派は浄土宗です。多分下市に 「西迎院」が 浄土宗なので
改宗したのでしょう。

天川村和田は 和田孫三郎正頼が天川に移り住み 和田という地名になったと聞き及んでおります。(近くに天河神社あり南朝天皇や皇子が住んでいた)そこで南朝をお守りつつ天川和田に住んだものと考えます。その天川村和田は 浄土真宗の「豊永時」なので和田に住んでいた頃は 浄土真宗であったと思います。以前天川村和田を訪れた時には お寺の中に石碑があり 和田某(多分ご先祖様)と有りましたが今はもう石碑は無くなっているようです。また 現在天川村和田には 和田姓はどなたもおられない。

和田正頼の父親は 和田和泉守正武で岸和田古城 堺城岸寺城(大饗城 オワイジョウ)を拠点として南朝側として戦っていた模様です。

その家系を辿りますと 5代前に和田成氏と言うご先祖があり 熊野国造家 和田に繋がります。

この和田家の読み方は ワタ若しくはワダであり ニギタやミギタとは 読みません。 ニギタやミギタは 橘系又は藤原系で 河内に来たものです。

その 成氏の子供に正俊 その息子正玄(正遠)が 楠木正成の親となります。
では なぜ楠木と名乗ったのでしょう。

私は成氏より数えて13代前に 真主と言うご先祖がおられますが その真主は橘島田麿(奈良麻呂の子供)の子供で 熊野国造家に養子に来られた後 その三代後の広方が 橘の姓を後醍醐天皇時代 改姓許された経緯がありますので その橘と熊野本宮に関わる楠木で 橘朝臣楠木と名乗ったものと解釈しております。

なので 楠木家も元々は 和田(ワタ、ワダ)上古(646年)までは熊野国造家として名乗っており 広方より3代のみ橘で 又和田庄司、和田国造を朝廷から賜りまた和田の姓に戻しています。

その正成の子供で正儀 末裔の方々が又熊野に戻り神職を現在もしていると聞いております。

鎌倉後期より南北朝時代に河内を拠点としたので 同じく河内拠点の和田という姓が 3系(熊野国造家、藤原系 橘系)入り乱れて混乱する所以です。

参考ですがhttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02125.htm
[73]和田 倭さんからのコメント(2013年12月16日 18時44分22秒 ) パスワード

補足

楠木正成が 何故楠木姓を名乗った原因は 前回橘姓の関係もありますが

正成の父親が 橘盛仲の娘を嫁に迎入れた後 和田姓から 楠木姓を名乗ったようですね。 
父親は千早七郷領主 和田正玄(正遠) 左近大夫・千剣破館に住す。

長男 楠木俊親、 次男 楠木正成、 三男 楠木正氏、 四男 楠木正季、

五男 楠木恵秀 となりますが この楠木姓は 元々和田姓です。
[74]名無しさんからのコメント(2013年12月29日 17時02分09秒 ) パスワード

はじめまして

我が家は、菊水紋を使用しております、姓は「中村」と申します。
浄土真宗西本願寺派です。
出身は甲信越地方です。

何か皆さんと関係があるのでしょうか?
[75]中村岳夫さんからのコメント(2014年07月26日 21時42分35秒 ) パスワード

名無しさん、2010/01/08のコメントを書いた中村です。
もちろん浄土真宗です。
祖先は長野県北部の芋川です。
共通するところがあるなら、遠縁かもしれませんね。

[76]ヤスさんからのコメント(2014年09月20日 11時32分23秒 ) パスワード

私の家紋も菊水です。
苗字は「大塔」、かつて本籍は奈良県吉野郡大塔村戸野でした。
現在は大塔町となっているみたいですね。
現在の戸籍は何かと面倒だったので、現在両親が住んでいる静岡の住所に移してしまいましたが。
[77]名無しさんからのコメント(2014年12月27日 01時51分58秒 ) パスワード

中村岳夫さん
2013/12/29に投稿したものです。

私自身は違うのですが、曽祖父は長野県の黒姫付近の出身なので、おそらく遠縁ですね。
びっくりしました。
[78]青木どなうさんからのコメント(2015年02月03日 23時11分52秒 ) パスワード

「芋川」姓についてですが、1189年、藤原鎌足の後裔といわれる弥次郎兼定が信濃の国の上水内郡(現在の長野市飯綱町)に来て、荘園を築き、地頭となり、姓を改め「芋川弥次郎兼定」と称したのが始まりだそうです。

その後、楠正成の子、正儀の四男正秀が芋川長知の娘を娶り後を継いだため、
「菊水」紋を使うようになったようです。

ただ、家紋は「対い鶴に若松」で「菊水」は裏紋として使われたようです。

何年も前に、長野県立博物館で「武田・上杉 信濃武士」展が開かれ、
芋川家伝来の甲冑が展示されていましたが、「対い鶴に若松」紋が使われて
いました。

私もかつて芋川姓を名乗っていた一人です。



[79]中村岳夫さんからのコメント(2015年04月08日 17時02分38秒 ) パスワード

私の祖先(中村で菊水紋)も柏原(黒姫あたり)の出身です。

中村祖先と小林一茶の祖先が、
芋川を出て、柏原(黒姫あたり)を開拓(に参加)したと記録に残ってました。

私の祖母も一茶の末裔か親戚らしいです。

青木どなうさん
当家菊水紋の中村(芋川)と違う、芋川親正の家紋が、
「対い鶴に若松」だったのでしょうか?
その展覧会見たかったですね。
[80]庄司さんからのコメント(2015年11月20日 07時43分14秒 ) パスワード

私の親方の父親は、和歌山の庄司で、家紋は菊水です。
和田から楠へ、そして庄司を名乗ったとみています。
父方の母親は、十津川の玉置です。何も熊野国造系との認識です。
[81]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月12日 22時48分17秒 ) パスワード

今は亡き父方のご先祖が楠木氏で、菩提寺の墓の家紋も菊水だそうです。戦前のある日、当時の国民学校の宿題で、各家の家紋を持って来ることがあったそうです。その時大層先生はびっくりしたそうです。そのときは話半分で聞いていましたが、良く考えれば、当時の世相からして相当の根拠と説得力がなければ掲げることの出来ない家紋であると私でもわかります。最近我が家の戸籍をとりましたが、江戸時代の萬延年間生まれのご先祖様まで遡れました。姓は「則岡」亡き父曰く家各は家老級で子爵の資格があったとのこと。以上長々と書きましたが、私は「則岡」家の菩提寺さえわかりませんので、それだけでも判れば満足です。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月13日 02時47分39秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


全く分かりませんが、関連することを調べてみました。
有田市や和歌山県の教育委員会の編纂する史料に出ているかも知れません。
大きな図書館で土地の歴史の本をお読みになって
そこからいろいろ辿ってみてください。


ネットでいろいろ検索してみました。

わたくしとは父方母方で南朝方時代に繋がっているということで
下記の情報をコピペしておきます:



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%89%87%E5%B2%A1


【名字】則岡
【読み】のりおか

【全国順位】 12,654位
【全国人数】 およそ500人


現和歌山県と三重県南部である紀伊の豪族は古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏楠木氏族。

近年、和歌山県に多数みられる。「岡」は岡(丘)の地形を表す。




http://norioka-derma.com/index2.html

八尾の美容皮膚科の女医さんのサイトです。
八尾とか東大阪は四条畷に近いのでご先祖さまがいらっしゃった所かも知れないですね。
八尾や東大阪にも親戚があるので四条畷が近いというのを知りました。


則岡氏関連のポータルサイト:

http://www.google.com/search?q=%E5%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E5%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...9427.17429.0.18251.18.18.0.0.0.0.379.2245.0j13j0j1.14.0....0...1.1j4.64.psy-ab..4.6.1160...0j0i7i4i10i30i42k1j0i4k1j0i7i4i30k1j0i4i30k1.-GdDYQ53mGA


こんな記事がありました。
菩提寺捜しの最短距離かも。

http://www.sankei.com/region/news/150816/rgn1508160031-n1.html

有田・豊龍山無縁寺、引き取り手ない3736体守り続け 和歌山


■「英霊たちの礎あって今がある」 

 太平洋戦争の戦場で散り、祖国に戻っても引き取り手がないままとなっていた英霊3736人の遺骨が、有田市宮崎町の山上にある豊龍山無縁寺で、長年にわたって手厚く供養されている。

 昭和25年、放置された遺骨に心を痛めた地元の男性が引き取ったことが始まりで、60年以上たった今も、地域の人たちが供養塔を清掃するなど大切に守り続ける。「英霊たちの礎があってこそ今がある」。平和への祈念の思いは、年月を経ても変わることはない。

 「周囲に植わっているのは桜の木。戦場で散っていった英霊の思いを表現しようと植えられたと聞いています」

 無縁寺の世話をする住民らによる「講」の代表、桝井陽造さん(82)は、真夏の青空を見上げながらつぶやいた。紀伊水道を見下ろす高台にたたずむ山寺には、再び故国の地を踏むことなく戦場で命を落とした英霊たちが静かに眠る。

 この地に英霊が安置されたきっかけは、終戦直後にさかのぼる。有田郡箕島町(現・有田市箕島)で興行師をしていた故・則岡豊松氏が、舞鶴港(京都府舞鶴市)や文里港(田辺市)などで、引き取り手のない遺骨が放置されていることを知った。

 「祖国のために命を落としたのに、放置されているのは気の毒だ」と、供養を決意。昭和25年4月に舞鶴港に引き揚げられた270体の遺骨を引き取り、無縁仏となった英霊を祭るため、慰霊塔を建立。「無縁塔」と名付けた。その後も遺骨を引き取り、同年12月には陸軍兵ら2874人、27年8月には海軍兵ら592人を祭った。

 則岡氏はさらに同年ごろ、有田市宮崎町の高台に無縁寺を開き、英霊の供養にあたった。44年に則岡氏が亡くなった後も、毎年春と夏に市内仏教会の協力で大法要が営まれ、毎月29日の月例法要では読経と慰霊塔の清掃を行っている。同寺周囲は「ウエノ公園」と名付けられ、花見など住民らの憩いの場として愛されている。

 ただし、戦後70年を経て住民らの高齢化も進み、活動の拡大には課題も多いという。それでも桝井さんらは、新たな桜の植樹など供養の地の保全を検討したいとしている。

 桝井さんは「戦場で散っていった英霊たちがいたことを風化させてはならない。将来にわたって供養していきたい」と話した。(秋山紀浩)



*数年前に有田市の住民を紹介した番組には母や伯母にそっくりな顔の女性がたくさん映っていました。
     南朝方の子孫なのだろうなと眺めていました。
[83]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月13日 22時33分20秒 ) パスワード

「空の青海」様、早速のコメントありがとうございます。父の所在地も全く記載せずに投稿してしまいました、申し訳ございません。「則岡」家は代々和歌山県和歌山市に居住しております。私自身は、現在大阪府南部の泉佐野市に住んでいます。貼り付けていただいたサイトで、「則岡」家が【楠木氏正儀】流「河内 正則」の流れを汲む家系であるとわかり、冗談半分で聞いていた父の話が、まんざら偽りではないと感じ、感激しました。それと先ほどのサイトで、もう1つ興味深い記述がありました。この家系は「河内」氏の後に、「畠山」姓を名乗っていたことです。すっかり忘れていましたが、父は生前、先ほどと同様のことを言っていました。近々本腰をいれて菩提寺を探し、お参りしたいと思います。これから私は「楠木」氏の末裔との誇りを持って、微力ながら、世のために生きたいと思います、本当にありがとうございました。

            「則岡」流島崎氏
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時18分11秒 ) パスワード

では役に立つかも知れないサイトのご案内です:
http://24senzo.net/blog-entry-52.html
武士の先祖探し・家系図作成 

則岡家も載ってますよ。<の>欄にあります。我が家の親戚も載ってます。にっこり


江戸時代には各藩で土地の名家を召し抱えたのです。
支配するのに楽ですからね。

その時に紀州家に仕えたのかも知れないし
もっと前の南朝方の時代に新田家=徳川家=と御縁があったかも知れないし。


土地の史料を読めば出てるかも知れないですよ。




■紀州藩士に見られる名字(苗字)
〜文久元年(1861)『文久元紀士鑑 乾』より〜

相川 青木 赤尾 赤城 赤沢 赤堀 赤見 浅井 朝岡 朝倉 朝比奈 芦川 阿曽沼 安達 渥美 阿部 天方 天野 雨森 鮎沢 荒井 荒川 荒木 荒巻 有賀 有地 有馬 有本 淡輪 安藤 


飯田 飯村 飯室 井内 猪岡 井口 池内 池田 池永 石井 石川 石黒 石桁 石田 石谷 石野 石橋 井関 井田 板坂 板橋 伊丹 市川 井出 伊東 伊藤 糸川 稲生 稲垣 稲川 稲葉 乾 井上 猪飼 猪谷 茨木 井辺 今井 今村 妹尾 入山 岩倉 岩田 岩西 岩根 岩場 岩橋 岩本 


植木 上田 植柘 上野 植野 上原 上松 上山 宇佐美 宇治田 臼杵 宇多 内田 内村 宇藤 宇野 海野 梅沢 梅田 梅本 浦上 


江川 榎坂 榎本 江原 江馬 遠藤 


大井 大石 大岡 大草 大崎 大嶋 大須賀 大菅 太田 大高 大竹 大谷 大野 大橋 大畑 大村 大森 大屋 大藪 岡 岡井 小笠原 岡田 岡野 岡部 岡見 岡本 岡山 小川 荻野 奥津 奥野 小倉 小栗 尾崎 長田 小関 尾関 小田 小田切 落合 小野 小野田 尾寄 


垣村 垣屋 角谷 筧 蔭山 葛西 笠原 笠本 梶間 柏木 数見 片岡 片切 片野 片山 勝 勝田 勝野 加藤 金沢 金田 金谷 金津 金森 金原 加納 神中 神前 神谷 亀井 川合 河角 川角 川上 川北 川口 河嶋 川尻 川瀬 河村 川村 


木川 菊嶋 貴志 岸田 岸和田 祇薗 喜多 北沢 喜多野 喜多村 北村 木梨 衣笠 木野 木下 木村 木本 


九鬼 切刀 久喜 草野 楠見 久世 工藤 久野 久保 久保田 窪田 熊倉 熊沢 久米 倉垣 倉地 倉林 栗生 栗原 栗本 黒川 黒田 桑原 桑村 桑山 


小池 小泉 小出 幸田 上月 河野 小浦 小久保 小坂 越場 小芝 小島 小嶋 越山 小谷 後藤 小波 小林 小堀 駒木根 小森 小柳 小山 権田 近藤 


西郷 斎藤 才村 佐伯 坂井 酒井 榊原 坂西 坂部 崎山 佐久間 桜井 佐々木 佐武 幸野 佐津川 里 佐藤 里村 佐野 寒川 沢 三刀屋 山東 


塩路 塩谷 志賀 茂田 芝井 柴田 柴山 渋谷 嶋 嶋川 嶋田 鳥淵 嶋村 嶋本 清水 下条 下村 下和佐 十倉 十河 白井 城 新 仁井田 新喜田 新谷 新藤 神野 陣屋 


菅田 菅谷 菅沼 菅野 須川 杉浦 杉田 椙谷 杉山 鈴木 鈴村 須田 墨田 住山 諏訪 


関 関口 関根 千 千賀 仙石 千本 


外山 曽根 薗田 大沢 


高 高井 高岡 高垣 高木 ・木 高瀬 高田 高橋 瀧本 田口 武井 竹内 武内 竹下 竹田 武津 武光 竹村 竹本 竹森 田代 伊達 立石 田所 田中 谷口 田原 田淵 玉井 玉川 田宮 田村 田屋 多羅 田和 丹沢 


筑紫 千田 

月山 辻 辻野 辻村 津田 土田 土生 土屋 筒井 堤 妻木 津山 


出嶋 寺内 寺崎 寺嶋 寺田 寺村 


藤堂 土岐 徳田 戸口 徳永 得能 豊嶋 戸田 殿井 土橋 土肥 富上 富田 富永 鳥居 


名井 内藤 仲 中井 永井 長井 中尾 中川 長坂 長阪 中沢 中嶋 長嶋 永田 中西 中根 中野 長野 中原 中村 長屋 夏目 名取 七沢 波切 奈良 成田 成瀬 南部 


二上 西浦 西川 西田 仁科 西端 西村 西山 丹羽 根岸 根本 根来 


能得 野口 野沢 野志 野嶋 能勢 野田 野々山 信時 野間 野村 野本 則岡 野呂         ココですね
 
                          あとは手抜きで編集無し(笑)





萩原 橋垣 橋爪 橋本 長谷川 初嶋 服部 花井 花岡 花房 羽端 馬場 浜田 浜名 浜野 早川 林 早瀬 早淵 速水 原 原田 畔田 伴村 畔柳 日井 日置 東 東使 彦坂 久田 肥田 日根 百武 平井 平尾 平賀 平川 平田 平塚 平野 平松 広井 広田 深津 福岡 福嶋 福田 福富 福原 藤井 藤木 藤田 藤野 藤宮 藤村 藤本 淵村 舟橋 古田 古屋 北条 星野 細井 堀田 堀 堀内 堀江 堀尾 本間 前川 前嶋 前田 前野 真木 牧 牧野 牧村 正井 正木 真崎 真下 益田 増田 増山 松尾 松岡 松沢 松下 松嶋 松田 松平 松原 松見 松村 松本 松山 的場 真鍋 間宮 丸井 丸山 三浦 三上 三木 三雲 三倉 三毛 三嶋 水上 水嶋 水野 三田 三谷 三田村 三井 皆川 南出 美濃部 三橋 宮井 宮居 三宅 宮崎 宮地 宮本 宮脇 三好 三輪 向笠 武藤 宗方 村井 村岡 村上 村河 村田 村辻 村中 村松 村山 室 室川 毛利 望月 守 森 森上 森川 森沢 森下 森田 森本 門奈 安井 保田 安原 矢田 柳河 矢野 八幡 藪 矢葺 薮谷 藪見 山川 山岸 山口 山崎 山沢 山下 山澄 山田 山高 山名 山中 山野井 山林 山村 山本 結城 湯川 遊佐 由比 由布 由良 横井 横山 吉岡 吉川 吉田 吉見 吉村 吉本 四宮 李 若尾 若林 脇 脇田 和佐 和田 渡辺 郭 諌川 鷺谷 衝 巽浅 堀場 
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時26分32秒 ) パスワード

江戸時代の掟として藩主や上司より家格の上の名字や家紋を使用することは遠慮したのです。

それで楠木姓を遠慮して「河内」姓を名乗ったかも知れないし。

ということで「河内」さん:
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B2%B3%E5%86%85

【名字】河内
【読み】かわうち,かわち,こうち,こううち,こおち
【全国順位】 525位
【全国人数】 およそ37,900人

由来
祖先の領地を称号とする、地名から発したものなどがある。

清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏などがある。   ココ

他にも全国の河内地名より多流の起源(ルーツ)がある。また、現広島県西部である安芸国佐伯郡下河内村が起源(ルーツ)である。近年、現広島県西部である安芸地域に多数みられる。河内に関連する氏は多い。



楠木正成なんてモロに「河内のおっちゃん」って感じじゃないですか?

それで「楠木姓」を遠慮して「河内」で登録したかも、ですね。

「畠山」姓については全く想像が付かないです。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時46分40秒 ) パスワード

有田ですが

http://www.norioka.com/
「かねしん」則岡醤油さん
明治40年創業

かねしん 則岡醤油醸造元
〒649-0313 和歌山県
有田市千田357
TEL 0737-82-2620 
FAX 0737-82-4552
フリーダイアル 0120−82−2621
mailto:kaneshin@norioka.com


もしかするとご先祖さまがいらっしゃった場所は
和歌山市内かも知れないし、有田かも知れないし、新宮か、田辺かも知れないし。

この醸造屋さんのご本家さんが和歌山の菩提寺をご存知かも知れないし。
もし機会がお有りでしたらいらっしゃってみてはいかがでしょう?
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時59分18秒 ) パスワード

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000211112

 紀州藩士を調べる資料として、主に次の資料がある。



1.『和歌山県史 近世史料1』(和歌山県史編さん委員会/編 和歌山県 1977年)
2.『和歌山県史 人物』(和歌山県史編さん委員会/編集 和歌山県 1989年)
3.『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上・下』(和歌山県立文書館/編 和歌山県 2011-2012年)
4.『南紀徳川史 第5冊・第6册』名臣伝部分(堀内 信/編 南紀徳川史刊行会 1931年)
5.『三百藩家臣人名事典 5』(家臣人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1988年)
6.『舊和歌山藩士族名簿』(徳義社/編 和歌山県立図書館 1977年) 
7.『元禄期紀州藩士名簿 和歌山城下町絵図にもとづき作成した』(結城 進/編 結城進 1990年)
8.『紀伊国地士由緒書集』(結城 進/編 結城進 1995年)

 その他、『和歌山県立図書館郷土資料目録』(和歌山県立図書館/編集 和歌山県立図書館 1983年)p65-67に掲載されている「A18 伝記 印譜 家史」「A18.1 伝記−江戸時代以前−」に所蔵資料の記載があるので、最寄りの都道府県立図書館等で確認することができる。






意外でしょうが


http://www.jtb.co.jp/kokunai_guide/area/wakayama/kainan_arida/spot/kainanshi/A3500440/

長保寺

紀州徳川家歴代藩主の眠る寺。

国宝の大門、本堂、多宝塔のほか、鎮守堂(重要文化財)、紀州徳川家廟所(史跡)と歴史的価値が高い。

住所
和歌山県海南市下津町上689

TEL073-492-1030

交通
公共交通: JR下津駅→徒歩40分
車: 阪和道海南ICから15分
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 15時02分11秒 ) パスワード

http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9_%E5%AE%B6%E8%80%81


紀州藩


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/13 13:38 UTC 版)

家老
附家老•安藤家 - (紀伊田辺城主3万8千石)幕末に紀伊田辺藩として独立、維新後男爵
•水野家 - (紀伊新宮城主3万5千石)幕末に紀伊新宮藩として独立、維新後男爵
家老連綿•三浦家 - (紀伊貴志領1万5千石・藩主外戚)維新後男爵
正木頼忠(藩主・頼宣の外祖父)- 為春−為時−為隆=為恭=為脩−為積−為章−為質=三七−英太郎−修−孝昭•久野家 - (伊勢田丸城代1万石)
久野宗成−宗晴−宗俊−俊正−俊純−輝純−昌純−純固•水野太郎作家 - (7千石、正知の代に1万石格)安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。
水野正重−義重=重増=忠知=知義−正実=正珍−正純=正清=正知=正義•渡辺主水家 - (3千石 恭綱は松平頼純の庶長子)
渡辺恭綱−豊綱=則綱=親綱−載綱=登綱−沿綱−為綱•村上与兵衛家 - (3千5百石)
•伊達源左衛門家 - (3千石)
•戸田金左衛門家 - (3千2百石)
•加納平次右衛門家 - (4千石)
•水野多門家 - (3千石)
•朝比奈惣左衛門家 - (3千石)
•岡野平太夫家 - (4千石)

支城
•松坂城 - 松坂城代預かり(三重県松阪市)
•田丸城 - 城代久野家預かり(三重県度会郡玉城町)

別邸など
•巖出御殿の臨春閣は、慶安2年(1649年)の建築だが、現在は神奈川県横浜市の三渓園にある。
•西浜御殿は、文政4年(1821年)に建てられたもので国の名勝に指定されている。
•田母沢御用邸(栃木県日光市)は、紀州藩江戸上屋敷の一部を移築し、それを核に明治、大正時代に建て増した建物である。
•和歌山城二の丸御殿は明治18年(1885年)大阪城に移築されたが、昭和22年(1947年)失火により焼失した。
•和歌山城本丸御殿は取り壊されたが、御台所のみが和歌山市の光恩寺に庫裡として移築された。

幕末の領地
•紀伊国 ◦海部郡 - 59村
◦名草郡のうち - 147村
◦那賀郡のうち - 170村
◦伊都郡のうち - 87村
◦有田郡のうち - 134村
◦日高郡のうち - 115村
◦牟婁郡のうち - 272村(うち60村を度会県に編入)

•伊勢国 ◦飯高郡 - 115村
◦三重郡のうち - 1村 
◦河曲郡のうち - 35村
◦一志郡のうち - 58村
◦多気郡のうち - 97村
◦度会郡のうち - 147村

•近江国 ◦坂田郡のうち - 2村(大津県に編入)


明治維新後に、大和国吉野郡1村(五條代官所管轄の旧幕府領)、北見国紋別郡が加わったほか、一志郡1村(津藩領との相給)、飯野郡1村(津藩領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。
[89]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月14日 23時36分16秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 度々とても詳細な情報提供ありがとうございます。早速今週末にも、和歌山県立図書館、余裕があれば、有田市の「かねしん」則岡醤油店さんにも訪問したいと思います。
 実は亡き父も、生前に有田市は「則岡家」ゆかりの地であると言っていました。 彼の地には「上野山家」という一族がいて、この一族も「則岡家」と何らかの関係があったようです。
 それと、先の書き込みで「畠山氏」との関係について触れましたが、あなた様に貼り付けていただいたHPに以下の記載がありました。

「南朝北朝御和睦足利将軍義満公厳命依りて
管領畠山右衛門佐基国家に養育、成長後、家名を則岡氏と号する。」
※【楠木探訪録 その62 則岡氏】より抜粋

 また当家の菩提寺の件ですが、父より聞いた私の記憶では、和歌山市内の「寺内町?もしくは寺内通り」にあると言っていましたが、宗派は全く判りません。
 話は全く変わりますが、今年のGWに長男と「観心寺」・「桜井の駅」そして「湊川神社」を巡りました。息子は大変感動していました。どうやら我が子にも「大楠公」の血が流れているようです。
 来年息子は大学受験ですが、「神戸大学」に入学し、そのかたわら「楠木同族会」に入会し、活動したいとのことです。
 その為にも、早急にご先祖と我々を結ぶ証拠となる資料等を手に入れたいです。

             則岡流島崎氏




[90]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月15日 15時20分41秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さんへ

息子さん、志望校に合格できると良いですね。
応援していますね。


>息子は大変感動していました。どうやら我が子にも「大楠公」の血が流れているようです。

きっとご先祖さまからのパワーが来ているのかも、ですね。
将来、息子さんが則岡氏の長老になって、一族の菩提を弔ってくださる存在になるかも、ですね。



上野山氏というのは初でしたので調べてみました:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1


【名字】上野山
【読み】うえのやま,かみのやま
【全国順位】 3,430位
【全国人数】 およそ3,700人


現和歌山県と三重県南部である紀伊の豪族、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)佐原氏流がある。近年、和歌山県に多数みられる。 

「山」は山の地形を表す。「野」は自然のままの広い地を表す。「上」は下や中に対し、高いところや奥を表す。


もともとこの辺りは、源平時代に平家との関係が出来て、南朝方だったということで
戦国時代は浄土真宗=本願寺=一向宗=ということで信長に敵対したのでしょうね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1

上野山(うえのやま/かみのやま)は、日本人の姓。日本の地名。

上野山(うえのやま)は、和歌山県有田地方の姓。
有田市では最多、有田郡一帯に多い。
紀伊国那賀郡上野山村(貴志川町)にその地名がある。

ただ紀州藩士の上野山氏は、元は上山氏だった[1][2]。                へぇ〜
上野山(かみのやま)は、出羽国上山に由来。                    斎藤茂吉の出身地ですね。山形県上山市



うえのやま
上野山 - 新潟県糸魚川市の大字。
上野山 - 新潟県三島郡出雲崎町の大字。
上野山 - 新潟県岩船郡関川村の大字。


上野山 - 和歌山県東牟婁郡串本町の大字。                  ココ
上野山 - 和歌山県紀の川市貴志川町の字。                  ココ


かみのやま
上野山 - 福島県郡山市の大字。
上野山 - 宮城県仙台市太白区の大字。


驚きました:

「南朝北朝御和睦足利将軍義満公厳命依りて
管領畠山右衛門佐基国家に養育、成長後、家名を則岡氏と号する。」

畠山右衛門佐基国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%9F%BA%E5%9B%BD


畠山(河内)氏
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/hatakeyama.html
県立図書館でこの史料が手に入ると良いですね。




お寺さん捜し:恐らく、寺町通り、のようですね。または「元寺町」
http://www.jiin-bochi.com/area/wakayama.html

こちらが面白かったです。
http://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298204-d8828256-r354768136-Teramachi_Street-Wakayama_Wakayama_Prefecture_Kinki.html

以下の情報はコピペ
多くのお寺が並んでいます。
1633年の紀ノ川大洪水のさいに、城の東北部(現元寺町)にあった寺の多くが、お城の南側の、現在地に移転して新しい寺町となったそうです。

首大仏のある無量光寺など、見どころの多いスポットです。



“紀州徳川家により寺院が集積された通り”

和歌山市内中心部にある日赤和歌山医療センターの近く、国道42号線の小松原4丁目交差点から東に向かい、屋形通りへ抜ける道を「寺町通り」と呼びます。

もともとは、紀州藩の初代藩主である浅野幸長公が現在の「シティ ワカヤマ」のあるあたりを「寺町」と定めたことから、この周辺に寺院が多く建立されていたのですが、紀州徳川家の初代である徳川頼宣公が藩主になった頃に多くの寺院が和歌山城の南側に移転し、現在の寺町通りが形成されてきたようです。

これに伴い、以前の寺町は「もとの寺町」、つまり現在の地名である「元寺町(もとでらまち)」と呼ばれるようになったのです。

寺町通りには現在もなお多くの寺院が建ち並んでおり、周辺地域にはかつての城下町のたたずまいを偲ばせる景観を残した場所も数多くあります。

コピペ終了


何宗だったのでしょうね。
和歌山には3000ぐらいお寺があるようで?
見付けるのはなかなか難しいでしょうね。

宗派が分かれば検索し易くなりますのにね。


則岡流島崎氏さん

父方母方で何かすっごく近いものを感じます。
わたくしの母方も南朝方として菊水紋の旗も使っていたと聞いています。

今に至る間にはいろいろあったのでしょうね。
ひょっとすると  有田  では親戚だったかも知れないですしね。
にっこり

[91]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 02時10分07秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 今年は私にとって生まれて初めてと言っても良いくらい、「楠公」フィーバーに沸いた1年となりそうです。
 GWの息子との「楠木氏」ゆかりの地を巡った後すぐに、私のスマホのフェイスブックに【楠木 正儀】の末裔の「初田 弘枝」様のサイトが現れました。
 この方は皆様ご存知の「楠木同族会」の代表者?で、私は初めてこの会の存在を知りました。仕事面では、7月から戸籍謄本等を請求するなどして、お客様の相続人調査を行う業務の担当となりました。
 その一環として、勉強のために、我が家の戸籍謄本を取得し、自分の出自がある程度の年代まで判明しました。
 そして今週に入って、このサイトを通じ「空の青海のあを」様との運命的な出会いがありました。
 冗談半分で聞いていた、いくつもの亡き父の「楠木氏」の話が、あなた様の数多くの詳細な情報提供により、次々と現実味を帯びていきました。
 また、内向的な私が何かに背中を押されるように行動するようになったのは、あなた様を始めご先祖様や亡き父が、私を動かしてくれているように思えてなりません、これらの出来事を通じ、私の人生も大きく変わるような気がします。
 一度「空の青海のあを」様とお会いしたいです。


               則岡流島崎氏

【追伸】

「則岡家」の爵位の資格の件ですが、あなた様からいただいた資料を拝見するに、亡き父の誤解であると思います。
 当時、明治新政府は、「楠木氏」一族に石高に関係なく優先的に爵位を付与する方針をとっていたそうです。
 その方針を受け父曰く、当時の「則岡家」の当主が東京に赴き、爵位の申請を行いました。結果的には爵位は頂けず、ある一定の金銭を貰って来ました。当時は「日露戦争」まっただ中であったことが原因だったとのことです。
 家系図、刀剣などの宝物は、没落士族の例に漏れず、ある寺院に借金のかたにとられたそうです。その後、一族の者が金銭を都合し、家系図等を返還してくれるよう働きかけましたが、相手にされなかったそうです。
 たらればの話は不毛ですが、これらが手元にあれば、「則岡家」も現在とは違った境遇となっていたかもしれません。私の祖母が常に「世が世であれば…」と口癖のように言っていたそうです。
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月16日 04時00分15秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


ウッカリ消してしまいました。汗


簡単に書き直します。


ご先祖さまからパワーが来てますね。
本当に「向うから」情報が飛び込んで来るんですよね。
今はスマホ経由ですか。
わたくしの時代は本屋さんの棚からでしたが。その後、テレビになりましたが。




一族の中には数人ご先祖さまのことを話したくてしかたない人がいるものですよ。
皆さんが大勢集まる席が出来ると良いですね。

なぜなら  系図のコピーを誰が持っているか  など思わぬ情報が得られます。
当然菩提寺のことも知っている人がいるものですよ。

ムカシは電話帳で住所が分かったものですが
とにかく則岡姓の方と連絡が取れると良いですね。


今のところは 醤油屋さん  でしょうか。



>「則岡家」の爵位の資格の件ですが、あなた様からいただいた資料を拝見するに、亡き父の誤解であると思います。

これはあながちお父さまの勘違いということではないと思います。
ムカシは養子や猶子などの制度がありましたから、その関係上の事だったかも知れません。
お嫁にいらしゃった方の御実家の事だったかも知れないですし。

      こういうお話を一族の皆さんと共有できると良いですね。
      必ずどなたかがご存知ですから。
      でもどんどん鬼籍に入られてしまうので急がないと、ですね。

>当時、明治新政府は、「楠木氏」一族に石高に関係なく優先的に爵位を付与する方針をとっていたそうです。

分かります。
何故なら明治天皇が「正統は南朝方」と言ったから。
(それで伊藤博文は明治天皇のお言葉に冷や汗を流したなんてハナシですね)


      この北朝方子孫であるはずの明治天皇は南朝方子孫の大室寅之祐という噂がありますね。

      
      だから南朝方の皆さんは明治時代に贈位・追位なんかされてますね。
     


>家系図、刀剣などの宝物は、没落士族の例に漏れず、ある寺院に借金のかたにとられたそうです。
>その後、一族の者が金銭を都合し、家系図等を返還してくれるよう働きかけましたが、相手にされなかったそうです。

我が家は明治時代にあるお寺に寄進しましたが、そこは江戸幕府の始まりから16代で終わって、
今は全く事情を知らない和尚さんになっています。
 
わたくしも明治時代の先祖が寄進した寺宝を見せて欲しかったのですが
そのお寺の事情が分かって頑張れませんでした。


相手にされなかったのは  もしかするととっくに売っ払らっていて、お寺には無いからかも  ですね。

名古屋の有名なお寺でも、勝手に土地を3桁億円で売って、裁判沙汰になってました。
戦後は、特に最近は、お寺も台所事情が大変ですからね。      


則岡系一族の皆さんと連絡が取れると良いですね。


わたくしも伯母が系図のコピーを持っていて、それをムカシのファックス用紙で巻紙状に印字して、知る限りの一族に郵送しました。
そして系図には書かれていない部分を知らせて欲しい、と添えたところ
コピーには書かれていない(本物には書いてあった)情報を知ることが出来ました。      
[93]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 20時06分53秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

今日、和歌山県立図書館に行ってきました。
あなた様に教えていただいた
『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上・下』と「太田 亮 博士」が作成した『姓氏家系大辞典』のうち、紀州藩氏「則岡家」と「畠山家」に関する部分をコピーしました。
 前者の資料については、江戸時代に作製されたものなので、読むこと自体が難しく、内容を確認するにはかなりの困難が伴いそうです、当分この図書館通いは続くような気がします。
 それと、先ほど「則岡醤油」さんと連絡が取れました、やはり「楠木氏」の流れをくむ家柄だそうです。ただ、この一族は代々有田市に住んでいるとのことです。
 「則岡醤油」さんは、一族の中では、分家筋なのですが、本家は既に途絶えているので、有田市では事実上、最後の「楠木氏」となるようです。
 実はこの話の流れで、訪問をお願いしたところ、快く承諾していただきました。日程も決まったので、その時が非常に楽しみです。
[94]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 20時30分06秒 ) パスワード

すいません、先程の書き込みの訂正です。

有田市では事実上、最後の「楠木氏」となるようです。
              ↓
            「則岡家」

と訂正させていただきます、お気を悪くされた方、申し訳ございません。       
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月17日 06時23分00秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
記念にたくさん購入なさって則岡流島崎家の一族の方にお配りになってください。


わたくしがとった方法は
まだバブル時代でしたから関係の市の教育委員会歴史編纂課にお手紙で史料を送ってもらいました。

そしたら!なんと!土地の歴史の学者を紹介してくださって冷や汗でした。
中には有名な国立大学の教授もいらっしゃったりして・・・恥


更にその土地の歴史の本の後書きに紹介してある色々な関連本を買うのに
大きな本屋さんに取り寄せて貰って
取りに行った時にその土地の歴史研究家を紹介されたり。


     もうね、いろいろな考えが噴き出すように湧くのです

     そして協力してくださる方やテレビの番組やらにも出会い
     先祖からのパワーが来ているのをつくづく実感しました。

     不思議な事もいろいろ起きましたし。


古文が読めると良いのですが、苦手でしたら
古文書の読み方を教えてくれる所が見つかると良いですね。
大学とか
教育委員会系とか
どこかでこの情報を得られると良いですね。

昔の文書は形式に則ってますから、それが分かったら固有名詞と繋げて解釈出来るかも。


先祖調べは1人でやるとしますと膨大な時間と大変なお金がかかりますが
お彼岸の時とか盆正月など、ご親戚の方が大勢気軽に集える機会が出来ると良いですね。
絶対いるはずです。話したくて話したくてたまらない人が。
その人をどうやって見つけるか。


醤油屋さんと楽しい時間を過ごせますように!
[96]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月23日 18時15分40秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 久しぶりに投稿します、かなり核心に近づきました。
 あれから2人の「則岡家」一族とお会いすることが出来ました。
 そのうち1人は「和歌山市 則岡家」のご本家の方です。
 いずれの方も、初対面とは思えないくらい歓待していただきました。
 お二人に菩提寺と「則岡家」の系図作成の2点について申し上げると、大層喜んでいただきました。
 また、ご本家より当家の菩提寺を教えていただき、ご本家自らお寺に連絡していただき、延宝年間まで遡った過去帳の一覧を入手することが出来ました。
 ご本家とお話していく中で、亡き父が言っていたこととつながった点がいくつかありました。
 やはり「則岡家」の出自の地は「空の青海のあを」様がおっしゃっていた「和歌山県有田市」でした。
 「紀伊続風土記二」によると、「在田郡 宮原荘 南村」現在の「有田市 宮原町」の豪族とのことです。
 もともとは楠木氏の拠点である「河内」の国に居住していましたが、南北朝統一後、足利管領家一門の「畠山氏」に仕え、「楠木正儀」の孫の「河内小次郎則綱」が有田市に赴任し、この地の「岩室城」の城代となりました。
 父が言っていた「則岡家」が家老の家柄というのは、このことから来ているのだと思います。
 当家が和歌山市に入ったのは、「則岡 甚兵衛 久宗」が「豊臣小一郎秀長」に仕えた後、初代紀州藩主「徳川 頼信」家臣となり、現在に至るようです。
 まだ例の「則岡醤油」様とはお会いしていませんが、家系図の作成に区切りが付けば、ご本家と一緒に有田市を訪問し、様々な「則岡家」ゆかりの場所を巡る予定です。


「則岡流 島・氏」

[97]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月24日 03時24分35秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

かなり詳細のお裾分けをありがとうございました。
それでタイトルをちょっといじっておきました。
     夜代さん、ごめんなさい。タイトルはいつでも変更し戻せますのでお知らせを。


なるほど  有田の豪族でしたか。

それでワタクシが有田に母や伯母の顔に似た人がかなりいらっしゃると書いたのでしょう。
だから、何か、「有田について書いてやれ!有田!」と吹き込むパワーを感じていたのかも。

もう忘れてしまいましたが  有田の山奥にも先祖がいたのをどこかで読みました。
それで  岩室城  という名前にひっかかりを感じます。



>延宝年間まで遡った過去帳の一覧を入手することが出来ました。

膨大な過去帳の中から古い資料を捜し出して来るのは結構大変なことなので
お寺さんにもしっかりお礼をなさってくださいね。
にっこり

延宝年間なんて江戸時代初期の方ですものね
かなり大変な作業だったと思います。


>「楠木正儀」の孫の「河内小次郎則綱」が有田市に赴任し、この地の「岩室城」の城代となりました。
>父が言っていた「則岡家」が家老の家柄というのは、このことから来ているのだと思います。

良かったですね。
お父さまのお話の欠けてた部分が見つかって、ちゃんと繋がって。
お父さまのご仏前には(勘違いしてたことを)しっかり謝ってあげてください。


           苦笑いなさるかもですね。
           (僕はきちんと教えたよ。君がちゃんと聞いてなかっただけ)  
           とおっしゃるかも。ふふふ



>当家が和歌山市に入ったのは、「則岡 甚兵衛 久宗」が「豊臣小一郎秀長」に仕えた後、
>初代紀州藩主「徳川 頼信」家臣となり、現在に至るようです。

母方の我が家の家書には「秀吉に仕えて2郡を拝領して何たら」と書かれています。
同じような流れだったのでしょうね。
我が家もその後江戸幕府に仕え、紀州の○家から嫁が来ています。



>まだ例の「則岡醤油」様とはお会いしていませんが、
>家系図の作成に区切りが付けば、ご本家と一緒に有田市を訪問し、
>様々な「則岡家」ゆかりの場所を巡る予定です。

とにかく系図を写して、流れを把握し、醤油屋さんのお話についていけるように予備知識が出来ているといいですね。


そして系図のコピーは近い御親戚にもあげてくださいね。
ただし写させてくださった本家さんのことや
日付や
則岡流島崎氏さんのご住所とお名前は
ちゃんと書いておいてくださいね。

      後世にとんでもないのが出て来る可能性も無きにしもあらず。
      和歌山の本家さんや有田の現宗家さんに後世に於いても敬意を払うようにとの老婆心からです。


           必ず出て来るから
           とんでもないのが
 
           筋目は通させないとね。


将来ご先祖さまが大勢でお迎えに来てくださった時に、すぐに、(あ、この人は誰々だ)と分かるといいですね。
いつかご先祖さまに会えると思うと楽しみですよね。


ひょっとするとワタクシとも平家時代・南朝方時代・反信長・桃山時代・江戸時代で800年+に亘って繋がっているのかもですね。
[98]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月29日 22時59分44秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 ご忠告ありがとうございます。あなた様のお言葉を肝に銘じ、慎重に事を運びます。
 先週、和歌山市の当家の菩提寺からいただいた、過去帳の一覧表を拝読し、気づいた点がありました。
 明治期以降に死亡された方は、『@戒名A没年月日B俗名』の全てが記載されていましたが、江戸時代以前になると、Bがありません。更に男性に至っては、Aも無く、@と命日のみでした、したがって、現在は江戸期の「則岡家」は空白状態となっています。
 これは、本丸に行くしかない‼と思い、本日有田市へ行ってきました、結果は以下のとおりです。


●有田市役所で現在よりもう一代遡った戸籍(除籍)謄本が手に入った‼

氏名は「則岡増右エ門」本籍地は【有田郡宮原村大字南**番地】、生没年は不詳ですが、長男の「文平」が【天保4年〜明治37年】の生涯ということを勘案すると、【文化】若しくは【文政】年間に活躍された方と推察されます。
 以上により、私のルーツが有田市にあると公的に証明されました。

●有田市役所の学芸員と情報交換できる関係を構築した‼

現地に訪問する前に、電話で私が「則岡家」の人間であると伝えたうえで、有田市での菩提寺等の情報を問い合わせすると、私に興味を持っていただき、本日1時間ほど、市役所内で懇談していただきました。
 その中で、先に述べた江戸期の「則岡家」の空白期間について問うたところ、男性と女性で違う寺院に葬られている可能性があるのではないか?という意見をいただきました。
 それを受け、有田市内でも比較的「則岡」姓の多い地区の寺院を教えていただき、早速訪問しました。
 ご住職にお話を伺うと、この寺院は例の「則岡醤油店」さんの菩提寺で、しかも檀家の代表的存在らしいです、びっくり‼
 本来なら、すぐに「則岡醤油店」さんにごあいさつすべきなのですが、時間の関係上できませんでした、明日再度訪問しようと思います。
 ご住職には、大変な作業になるとわかったうえで、江戸時代の当家の空白期間の方と思われる方8名の戒名一覧をお渡しし、俗名や没年を調べていただくようお願いしました。
 ここが埋まれば「則岡家」の系図はできたも同然なので、頑張ります。


           則岡流島崎氏
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月30日 02時23分24秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


良かったですね。
そしてワタクシともどこかで<<本当に>>繋がっていそうですね。


女性と男性では菩提寺が違う可能性があるのですか?
この可能性については知らなかったです。


>有田市内でも比較的「則岡」姓の多い地区の寺院を教えていただき

さすが!
プロはいろいろご存じですね。

市役所とか県庁とか、歴史編纂をしている処も!  情報  が欲しいのです。
この人達も 則岡流島崎氏さん同様  新たな発見が欲しいのです。


いろいろな知識を得ておいて、その後、醤油屋さん=現則岡家総本家さん=にお会いしたら
お話が理解し易そうですね。


和歌山で醤油というと「湯浅さん」しか知らなかったです。
古くは平家がらみ以降からになります。


最近、本当にごく最近ですが、和歌山の醤油って湯浅サンと則岡サンか、と思っていたせいか
明治維新で旧佐幕派の元尾張藩士が北海道の八雲に開拓に行き   (駅弁の烏賊飯で有名な「森」駅の、まぁ、近くです)
その旧藩士の中の服部というのが醤油屋さんになっているのを知りました。

                  北海道ですから昆布風味の醤油のようですよ(謎)



伊賀の服部というのは楠正成の姉妹(姉?)を妻にして
その子が観阿弥ということです。

母方が後南朝で最後まで頑張りました。菊水紋<も>使っていました。
今は・・・
戦国時代に大坂方として敗れ落人になり、住吉大社に保護を求め、この時、名字を変え家紋を替え
そのまま江戸時代を過ごし
幕末近くにやっと名字は戻せましたが家紋は許されませんでしたので
現在の家紋は落人時代のままのものを使用しています。

母方家書にはそういう事が記されています。


     母方の先祖が堺の浜で討ち死にした話には泣けました。


則岡流島崎氏さんのお家も家書にいろいろなエピソードを書き入れられると良いですね。

まだまだ階段の1段目2段目を上がったばかり。
ライフワークになさってください。
たくさんの本を読んで情報を得、ご先祖さまゆかりのいろいろな場所を訪ね、大勢の一族関係者に会ってください。

     そうしますと黄泉路の旅が楽しみになって来ますよ。
     キャハハ
[100]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月01日 12時07分51秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 今日も有田市に行きました。
 例の「お醤油さん」にご挨拶した後、心当たりのあるもう一箇所の寺院を訪問しましたが、先代のご住職とお話が出来ました。
 その方は、「則岡家」一族のことは、あまりご存じではありませんでしたが、生まれ故郷が、私と同じ市で、町も同じでした。
 また、私が勤務する会社の社長とも懇意にしているとのことです。
 世間とはせまいものだと感じると同時に、有田市とは「ご縁のある土地なんだなあ」とつくづく感じました。
 今日は特段の成果はありませんでしたが、ご報告まで。


                則岡流島崎氏



 
[101]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月01日 16時02分50秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


>今日は特段の成果はありませんでしたが

いえいえ<<<世間とはせまいものだ>>>本当に世間は狭いってお分かりになったのは大きな収穫だと思います。


知らなかったとはいえ
本当に!
自分の周りは実はご先祖さまがらみの人が結構たくさんいらっしゃいます。

これは「日本」という島国ゆえの特殊な世界だからでしょうね。
日本人は8代遡るとみんな親戚、と言うそうですよ。
知らないだけ。

     知らないだけ。だって自分の祖父母達4人の数代前さえ既に知らないんですものね。

            ワタクシの場合は実家の近所が父方の親戚だらけでしたが
            父が言わない人だったので、
            つい最近まで、全く知りませんでした。
            小学校の同級生にも親戚の子達がいたのに全く知りませんでした。


                 これは祖父母が死んだら「代替わり制度」がある家だったので。
                 でないと最短でも600年間分の親戚一同と付き合わなきゃいけないですからね。笑

                  

            母方は
            母の従姉妹の旦那さんが甲賀出身で並び矢紋
            母の旦那さん(父)は伊賀出身で並び矢紋

                   甲賀と伊賀は山を挟んで北と南になります。

               母の従姉妹宅に行って袱紗包みを渡された時
               我が家の袱紗を母の従姉妹が返してくれたのだと勘違いしてしまいました。 


               この母の従姉妹の婚家の名字と母の姉の婚家の名字がこれまた関連性があります。
          

                  母の姉は八千草薫の顔にそっくりです。
                  若い時の母はNHKのアナウンサーの久能木=黒田=渡邊あゆみの顔にそっくりでした。
                  

                       
仕事で不特定多数(汗)の日本人と出会いましたが
(この人、いやだな)と思う人は名字が「先祖の敵」だったり
(この人、いい人だ)と思う人は名字が「先祖の友」だったり
知らない人を見ると「血わき肉おどる」感じがしました。

     DNAに先祖の記憶が刷り込まれていると思っています。


でも  1人だけ父方母方の敵に共通する名字でしたが  お殿様のような品性を感じました。
思わず「素敵なお名前ですね」と言ってしまいました。
今でも、その人がどういう人だったのか、思い出すと知りたくなります。
上記のレスに書いた母方が落人時代に替えた紋をその家は副紋で使っているのです。
その家の代表紋ではありません。



>有田市とは「ご縁のある土地なんだなあ」とつくづく感じました。

驚きますよね。
きっとご先祖さまがらみですよ。

ひょっとすると共通するDNAを持っているかもですね。


ネット上でも  時々  何か引っ張り合うパワーを感じる人がいます。
    同じ話題を共有しているのですから当然でしょうけど。

則岡流島崎氏さんもそのお1人です。
則岡流島崎氏さんとは有田がらみでしょうか?


そうかと思うと  この人は関係無い人  という遮断や拒絶を感じる人もいますし。


ネットなのにね。
先祖がらみなのかな、と思います。
[102]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月13日 23時06分06秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 お久しぶりです、前回の投稿から土日祝日、挙句の果てに平日にも休暇をとり、ひたすら和歌山県立図書館や有田市に通い詰めていましたが、大した成果はありませんでした。
 しかし本日、無いものと思っていた「則岡家」系図が見つかりました‼
 場所は、東京大学内の「東大資料編纂室」HPでも閲覧が可能で、プリントアウトも可能です。
 ついに「大楠公」と繋がりました、大感激です。
 今まで色々とアドバイスをいただきありがとうございした。

            則岡流島崎氏

 
    
[103]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月14日 01時55分21秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


良かったですね。
これでハッキリ胸を張れますね。

「書式」で提示できるというのが一番ですよね。


思わぬ所にあった、というのが笑えますね
でも東大の編纂室なら箔付けになりますね。


こういう裏付けを手に入れていろいろな人からお話を伺うのがいいですね。
良かった良かった!
[104]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月17日 21時37分20秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 家系図と150年振りの再会を果たしてから、いまだに興奮が収まりません。
 ご本家に報告すると、涙を流して喜んでおられました。
 今週末、ご本家と家系図を持ってお墓参りに行ってきます。
 家系図を眺めていると、点であった父の話が更に繋がりました。
 「大楠公」から数えて現当主は第25代目にあたります。
 紀州藩士の「則岡家」は「有田市則岡家」の庶流で、当家の次男や三男など家督を相続できなかった者が、仕官したようです。
 「上野山家」との繋がりについては、同家は有田市宮原南村の大庄屋で、娘などを「則岡家」に嫁がせていたようですが、その逆に「則岡家」の娘も「上野山家」に嫁がせているなど密接な姻戚関係を結んでいたようです。
 また新しい発見があれば、報告させていただきます。

               則岡流島崎氏
[105]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月17日 22時50分14秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
ご本家さんにも喜んで頂けて、本当に良かったですね。

「あの事件の時は、このご先祖さまの時代だったのか」と分かるのがいいですね。
何百年も経っているのに、喜びや涙をご先祖さまと共有できるのは、良いご供養になります。


>家系図を眺めていると、点であった父の話が更に繋がりました。

良い親孝行になりましたね。
お父さまは草葉の蔭で喜んでいらっしゃいますよ。

     「僕はちゃんと事実を伝えていたけど、君はハナシ半分に僕の話を聞いてたのが、
      これからは書式で証明しながら後世に伝えることが出来るから
      僕は君を誇りに思うよ」

本当に良い親孝行と先祖供養になりました。


東大にあった系図は、ご先祖さまが御所に納めたものと藩主に提出したものでしょうね。
家宝になりましたね。
[106]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年11月19日 19時32分12秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 ご無沙汰しております。
 今日一つの区切りを迎えました。
 様々な感情が錯綜し、気持ちの整理がつきません。
 が…
 これまでの報告です。

@父の遺影と供に、「則岡家」本家の墓参りを行いました。
A有田市教育委員会より、地元「愛郷会」の会長さんをご紹介いただきました。
B本日、「愛郷会」の会長及び副会長さんのご案内で、当家の菩提寺及び先祖の 墓参りを行いました。「愛郷会」の皆様が、当家の墓を定期的にお手入れして いただいていました。
 ちなみに副会長さんのご先祖は、「伊賀」におられたそうです。
C同じく、当家の縁者である「宮崎定直」公の墓参りを行いました。
D同じく、当家の屋敷跡をご案内いただきました。
E同じく、当家の先祖が務めていた「岩室城」跡をご案内いただきました。

 今はただ感謝の気持ちでいっぱいです。
 皆様、本当にありがとうございました。


               則岡流島崎氏


 
[107]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月19日 22時29分55秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
読ませて頂いて鳥肌が立ちました。
ありがとうございました。


13世紀初めのわたくしの先祖の墓は某県の教育委員会が手入れしてくれていました。
本当に皆さまには感謝ですよね。


お父さまには良いご供養になりました。
則岡流島崎氏さんにはこの先の将来、ご先祖さまに会えるのが楽しみになりましたね。


「結果」が出て、良い先祖供養になりました。

でも「早かった」ですね。
きっと大変な努力をなさったのでしょうね。


ご先祖さまの記憶が途切れることが無く、ご子孫に繋げることが出来て、本当に良かったです。


いくら頑張っていても、方向違いを調べててはご先祖さまには辿り着けません。
良い時にお調べになりました。


日本人は繋がっていますが
本当に父方母方でわたくしも<伊賀と紀州とで>則岡流島崎氏さんと繋がっていたようですね。
しみじみ


ご報告をありがとうございました。
[108]則岡流島崎氏さんからのコメント(2018年07月30日 17時00分35秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様
大変ご無沙汰しております。
仕事の多忙な時期も過ぎ、やっと昨年の自分を振り返ることが出来るようになりました。
先ずは「湊川神社楠木同族会」に息子共々入会を許されました。
次に、有田市教育委員会の学芸員の方と再び懇談しました。
学芸員曰く、「則岡家」の家系図はこれまで詳細な物が現存せず、有田市では、その血筋等が永い間謎に包まれていたとのことです。
ですので、今回私が「東京大学資料編纂所」で見つけた家系図はとても貴重な資料とのことです。
教育委員会も「宮原愛郷会」等の地元の団体から強い要望があったようで、当家について、何らかの研究を行うようです。
私の感覚では、来年の春辺りに一定の報告がなされるのではないかと感じています。
更に、最近になって、大阪府河内長野市が「大楠公、小楠公」を題材とした大河ドラマを誘致するため、署名活動等の誘致活動を行っています。
署名はインターネットでも出来ます。HPのアドレスは下記のとおりです。
もしあなた様の周りで、ご興味のある方がいましたら、ご案内頂ければ幸いです。

sangyoukankou/gyoumu/1382619264209.html
[109]則岡流島崎氏さんからのコメント(2018年07月30日 19時24分16秒 ) パスワード
URL=http://shimazaki611651@gmail.com


すいません🙏河内長野市のアドレス間違っていました、正しくはこれです。

http://www.city.kawachinagano.lg.jp/kakuka/kankyoukeizai/sangyoukankou/gyoumu/1382619264209.html
[110]空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月01日 02時36分52秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
これでご先祖さまに喜んで頂けますね。


大河ドラマで取り上げられるといいですね。
わたくしも楽しみにしています。


最近つくづく思うのは
日本人の人口が減少して外国の方達が日本に定住することになって
日本人が絶滅危惧民族になって行くから今わたくし達が先祖のことをハッキリさせておきたいのかな、と。

だって日本人と外国人が交雑していくと何時か「昔むかし日本人という民族がいて」と過去のハナシになりますものね。
100年も経たずに。


則岡流島崎氏さんは本当に良いことをなさいました。

>学芸員曰く、「則岡家」の家系図はこれまで詳細な物が現存せず、有田市では、その血筋等が永い間謎に包まれていたとのことです。
>ですので、今回私が「東京大学資料編纂所」で見つけた家系図はとても貴重な資料とのことです。

ご先祖さまに喜んで頂けますね。
この先、則岡流島崎氏さんのご子孫にご先祖さまからのご加護がありますよ。
[111]未来さんからのコメント(2018年08月30日 11時28分32秒 ) パスワード

こんにちは。
今井と申します。

私の家柄は新潟県魚沼市の山奥集落にある曹洞宗の分家筋です。私の村は本当に山なので落武者たちが逃げ延びるところには最適な所だったみたいです。
そして、私が生まれる前に亡くなったおじいちゃんの家系は菊水の紋で、楠木正成の子孫だそうです。
壊す前のうちに家系図や巻物、壷などの家宝もあったそうですが、取り壊す際に捨てられたそうです。
もしかしたら、親戚のうちに証拠となるものがあるかもしれませんが、訳あって縁を切ったらしいです。

そこで質問です。
菊水の紋を持っているからといって、楠木正成の子孫と言えるのでしょうか?あと、どのくらい楠木正成の子孫はいるのでしょう?直系はいるのですか?
生まれる前に家系図なども捨てられたそうです。どうやれば、他に楠木正成の子孫と知ることができますかね?
[116]則岡流島崎氏さんからのコメント(2018年12月10日 13時52分19秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

ご無沙汰しております。
現在、真剣に交際している女性がいます。
先日、彼女と湊川神社で、大楠公の墓参を行いました。
その後、彼女が、「足利尊氏」公の末裔、「東根」家の出身と判りました。
またひとつ、私の使命が増えた気がします。
先ずは、ご報告まで。
[117]則岡流島崎氏さんからのコメント(2018年12月10日 14時04分00秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

たびたびの、コメント欄の削除申し訳ありません。
ちなみに、「東根」家は、山形県東根市で興り、最終的には「蜂須賀」藩に仕え、兵庫県淡路島に在住しました。
「空の青海のあを」様が淡路島について、コメントされていましたので、本件のコメントを追加させて頂きました。
[118]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月11日 03時05分45秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


お久し振りです。ぺこり


よくある日本人の名字の知人が後醍醐天皇や北畠親房をボロクソに言ってたのですが
        まさか自分の先祖が南朝方とは知らず
最分かったそうです・・・
        フコーですね。笑


本当に自分の名字は簡単に先祖の分かるのがいいですね
と言いたいところですが
簡単に先祖が何をやらかしたかが分かる名字ですと、これまた、子孫は大変!


則岡姓は簡単にご先祖が特定できて、その上に、希少姓で
そのご先祖さまが<日本人が大好きな>英雄であると分かるなんて
実にラッキーですよね。


東根さんは「佐藤錦」が最初に頭に浮かびましたが
あのあたりは縄文時代からの土地ですから今に至るまでいろいろあったのでしょうね。

元々東根さんは土地の有名な豪族系ですから
日本史に深く関わって来たのでしょうね
日本史の流れそのまま、桓武平氏系・清和源氏系の両方も交錯しているでしょうね。

    秋田の城氏(平家系)ともかかわったでしょうし
    南朝方とも関わったでしょうし
    足利家とも関わったでしょうし
    戦国時代も大変な血と涙の日々を送ったのでしょうね。
    

東根氏ともなれば山形県教育委員会がしっかり研究しているでしょうし
ご先祖さまが掴み易くていいですね。


ここ暫く魚沼や吉野や和歌山の先祖に思いを馳せていました。
     藤並にも先祖の一部がいたな、と。
     湯浅という名字に親近感を持つのはとなりの町だからだろうな、とか。

わたくしのDNAは則岡流島崎氏さんのDNAとかなり共通しているのを感じていました。
ほっこり
[119]浅井 守さんからのコメント(2019年04月08日 09時47分24秒 ) パスワード

興味のある記事だと思います。
私たちは,八尾市で,恩地左近満一(従4位)について研究してます。
楠正成公の家来の恩地左近とされています。
1 恩地城も陥落し,地元に資料は皆無です。
2 老人からの言い伝えだけです
3 恩地左近満一の御廟があり,毎年左近祭を開催しています
  (供養,僧10名,町会40人)
4 後裔の方かせおられました,
  
  ご教示くださるものがあればお願いします,
 
[120]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月08日 13時50分01秒 ) パスワード

浅井 守さま

従4位恩地左近満一公については楠公8臣のお1人という他には全く知りませんが
八尾ということで出て来ました。


親戚が八尾や東大阪などにいるので
四条畷の道路標を見掛けたりした時には  (おぅおぅ!)  などと思ったりしていました。


とにかく八尾市や大阪府教育委員会の編纂している史料などたくさんお読みになってお調べください。
恩地左近満一公への良いご供養になりますから。
[123]則岡流島崎氏さんの代理さんからのコメント(2019年04月09日 02時43分32秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さんへ
元号を書き換えておきました:


空の青梅のあを さま

ご無沙汰しております。
先の「浅井 守」さまの投稿に関連するかも知れませんが、大楠公から8代目の当家の当主「勘解由左衛門尉 貞久」が一時期「河州八尾久宝寺村」を知行していた。と当家の系図に記載されています。
なお、この当主は、文禄元年7月9日91歳で亡くなったとされています。
もしかすると、「恩地左近満一」公と何らかのご縁があったかも知れませんね。
[124]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月09日 03時16分15秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん
浅井 守さま

>大楠公から8代目の当家の当主「勘解由左衛門尉 貞久」が一時期「河州八尾久宝寺村」を知行していた。と当家の系図に記載されています。
>なお、この当主は、文禄元年7月9日91歳で亡くなったとされています。

8代目
文禄元年

ということで  文禄でしたら  8代目+9代目+10代目の時代  でしょうね。
ムカシの人がちゃんと記録しているのが分かりますね。


八尾市久宝寺町の地図を見て来ました:
https://www.mapion.co.jp/m2/34.62639279,135.59163714,19

久宝寺町の北東に  恩智川  というのがありますね。
ということは  恩地氏がこのあたりの豪族だった  というのが分かりますね。



また従兄が八尾に住んでて母の従姉が東大阪の六万寺に住んでいるのですが
地図を見てて
母の従姉宅には瓢箪山で下車するので 近くに服部川があってビックリ。  
          伊賀にも一級河川の服部川があるので。


母の従姉のオットは元は甲賀の出身で家紋が○に並び矢。
ワタシの父は元々は伊勢伊賀の出身で家紋が○に並び矢。
          これにはビックリしました。


日本人ってやっぱり「土地」を動きたくない民族なんだなと。
服部川とか恩地川とか、先祖に関わる土地からは動きたくないんだな
とビックリでした。


方向音痴なので八尾と東大阪が   こんなに近かったの?!  と驚きました。
「字」が違うから  八尾と東大阪ってものすごく離れてる  と思ってました。
その上にムカシの知り合いが  石切  に住んでいたことを地図を見て思い出しました。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%81%A9%E5%9C%B0

【名字】恩地
【読み】おんち,おんじ,おち,おんぢ,おむち
【全国順位】 6,856位
【全国人数】 およそ1,300人


恩智と起源をともにする。

恩智神主、坂上氏、凡河内氏等がある。
近年、和歌山県や大阪府に多数みられる。   和歌山なんて  南朝  だものね。

語源は「隠田」「恩田」と同じで「かくし田」からきており、未届けの私有地で税を納めない田、秘密の耕地のことである。

へぇ〜


いやぁ
ビックリ
ご先祖さまのお仲間に700年ぶりに出会ったなんて。
[125]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月09日 13時35分14秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

元号のご訂正ありがとうございます。
それにしても不思議なご縁ですね。
「浅井」様が導かれるようにこちらへお越しになられたように感じます。
話は変わりますが、これまで当家の先祖を、更に詳しく調べていましたが、以下の理由で休止しています。
ある時、大楠公の末裔を名乗る寺院を発見しました。
その寺院の系図は、某自治体の文化財に指定されています。
是非拝見したいと思い、早速そちらへ電話しました。
寺院の方にご快諾頂きましたので、早速翌日、この寺院を訪問しました。
ご家族の方が応対されましたが、皆さん一様に沈んだ表情でした。
すると、第一声が、「住職が昨日急死しました。」とのことでした。
そんな状況にも拘らず、住職の息子さんが、お相手をしてくれました。
そういうこともあり、私が行動すると何か起こるのではないか?と恐くなってしまい、お休みさせて頂いている状況です。。
[126]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月09日 15時30分35秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

お気落ちなさいませんように。
ご住職は安堵なさったのですよ。

ご住職に血の繋がった息子さんがいらっしゃっても
他の筋でもちゃんと将来に「繋いでいく確信」がお出来になって
良かった!良かった!
と安心なさったのだと思います。


わたくし達日本人は本当に血や地で何重にも繋がっていて
実際にどこかで出会っているのに気づいていない。

則岡流島崎氏さんがお寺に来てくださると知って
ご住職は「ご先祖さまに良い報告が出来る」とお喜びになったのですよ。


わたくしももっと早く若くして母方父方の先祖のことを知っていたら
    宿命の人に出会っていたのに   ← 和歌山の人  実際に血でも繋がってたと思います、父方母方で
とちょっと悔しいです。

でもオットと結婚して母方父方の先祖のことが客観的な裏付けで知ることが出来たのですから
これがワタシが自分で獲得した「赤い運命」だったのだ、と。


>私が行動すると何か起こるのではないか?と恐くなってしまい、お休みさせて頂いている状況です。。

いえいえ
これぞ!ご先祖さまパワーです。

恐れるのでなく、感謝なさってください。


Y染色体は  自分の命をも投げ出して戦う  男性の染色体です。女性には無い。
わたし達の先祖は誰に命を捧げたか
ものすごくハッキリしてますよね
後醍醐天皇。


今、日本の皇室の終わりの始まりなのかな、と思います。
日本が外国から移民を大量に入れ続けたら?と想像してみてください。
  
     アメリカが世界中から移民を受け入れるようになったのは1965年以降です。
           その前はヨーロッパから移民が来てました
           南北戦争があって、奴隷解放があって、アメリカは奴隷替りの人手が必要でした
           日本の明治政府は棄民政策でハワイに奴隷替わりを放出しました
           サンフランシスコで大地震があって日本からの移民が劣悪な生活をしているのがバレました
           それで日系人排斥が起きました

     で、1965年以降アメリカはいろいろな国から移民を入れることになりました

     この50年でアメリカはヨーロッパ系の国でなくなりました。
     まもなく白人が少数人種になります


つまり日本も移民を受け入れれば50年後には本来の日本人種が半数以下になります
ということは
日本に天皇制は必要なのか?
という政治問題に「いずれ」なります。


だからご先祖さまが我々にパワーを送って「家を守ってくれ」と伝えて来ているのですよ。


最近のハワイの事件ですが、ある若い囚人が行方をくらましているのがニュースになっていたのですが
この人の顔写真は100%白人に見えました
でも名前は日本人の名字でした   フツーの日本人の名字でした  クラスに1人はいるような
そして身体的特徴は身長が160pでした。    身長は東南アジア系かも

      昨年ハワイは日系移民150周年を迎えました(元年者と呼ばれる時代から150年経ちました)


150年後の日本はこういう感じなのでしょう。
この囚人のアイデンティティは  きっと苦しみばかりだったのかも  です。泣


いずれ日本人という分類は死語でしょうね。
    「うん、日本人の血<も>少し入ってるみたいだよ」
という時代がすぐソコに来ているんです。



だからご住職は別系統でも大楠公の家が続いていることが分かってとても安心なさったのだと思います。
生前中に分かって良かった!と。
[127]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月09日 19時38分50秒 ) パスワード

空の青海のあを 様
激励ありがとうございました、お陰様で気持ちが楽になりました。
昨年の秋に、則岡家先代ご当主の七回忌法要がありました。
分家から参加したのは、私だけでした。
無事法要が終わり、食事会の際に、先代の奥方から分家の中で、私だけを招待した理由をお聞きしました。
また、現在の則岡家の菩提寺のご住職からも、「これからも則岡家を護ってください、あなたを頼りにしています。」と言われました。
そのお言葉に身の引き締まる思いがしました。
その後、昨年末に、有田市の則岡家の菩提寺の墓参を行いました。
その時にも帰る際、背中越しに同様の意思が伝わって来ました。
これから、微力ながら、私の使命として、則岡家、楠木家いや日本と大君の為に自分の全てを捧げます。

[128]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月10日 05時18分33秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

レスを拝見して3時間ほどグシュグシュと涙を流していました。


>帰る際、背中越しに同様の意思が伝わって来ました。

でしょ?
ご先祖さまからのパワーが感じられましたでしょ?
ご先祖さまがお喜びになっていたのです。
本当に良いご供養をなさいました。


3時間
いろいろ思うところがありました。


楠姓の方はラッキーですよね
日本3大忠臣に認定されてるから。

日本人でしたら誰かから「うちはクスノキです」と聞いたら、まず、反応が違いますものね。



50年後、悠仁さまの御世で皇室が終わらなければ良いのに、と願っています。
わたくし達の先祖が命を捧げて守って来た皇室を自分達の代で無くして良いのか
と思います。

まさに自分が日本史を生きている、って思います。


[129]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月10日 14時46分28秒 ) パスワード

空の青梅のあを 様

畏れ多くも、あなた様と私は何か感応している部分が多いような気がします。
話は変わりますが、少し前のスレで述べた、「東根」家の彼女と話してたのですが、本来、木の幹である嫡流筋の方がすべき大役を、枝の血筋の我々に任されているのか不思議だね!と話していました。
[130]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月10日 20時22分38秒 ) パスワード

空の青梅のあを 様

今、NHKBS放送で英雄たちの選択「打倒信長〜天正伊賀の乱」が放送されています。
彼等の戦術は、大楠公のそれと似たものがありますね!
[131]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月11日 10時35分11秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

もしワタクシが宿命通りに和歌山の人と結婚してたら
きっと自分の先祖のことを深堀りしてみようなんて思わなかったでしょうね。

このように則岡流島崎氏さんとも知り合うことは無かったでしょうね。


    和歌山のヒトとの間に赤い糸はちゃんとカレとワタクシの間に落ちていた
    カレは糸に気づいて拾った
    ワタシは拾わなかった。
    でも結構良いところには近づいてたんですよ
    ただお互いに若かったから(わたしは18歳だった。女子校を出た直後)
    結構2人の話は弾みましたよ、
    でも、もう1つ会話を進めてくれてたら
    わたしはO型だから
    手鍋提げて押しかけ女房になってたのに。

        当時のワタシは父方のことを全く知りませんでした。100%知らなかった。
        母方のことも吉野と和歌山の事は知りませんでした。
        だから表面的な楽しい会話で終わりました。残念っ



    今思うと、好きなタイプで吉沢悠に似てたけど精悍さのある人だったな
    現代の若いヒトで言うと成宮寛貴に似た感じかな
    と思います。
    外見は好みだったけど、カレの家=先祖=がイマイチ分からない人だったから、それで終わりました。

    年齢も下の名前も知らないです。笑
    何を研究してるヒトかは知ってました。
    高校時代の進学時、この学部に行きたかったのですが父に反対されました。女がそんな学問を研究してドーするんだ?と。笑
    ココでワタシは自分の宿命の追及は止めました。出資者の意向に逆らうなんて考えもしなかったから。

    このヒトと結婚してたらワタシはプライドの高い幸せな奥様になってただろうなと思います。



でも則岡流島崎氏さんには別のルートで別の意味でちゃんと出会ってたでしょうね。



>本来、木の幹である嫡流筋の方がすべき大役を、枝の血筋の我々に任されているのか不思議だね!と話していました。

そんなものですね。

本家さんには本家さんのトラウマとかお有りでしょうからね。

例えば
楠氏には紆余曲折があった
   尊氏と親しくしてた時期もあった
   北朝とうまくやっていこうとした正成の息子もいた
   日本一の忠臣だと言われる家に生まれた苦悩

そういうのを忘れたかった本家さんもいらっしゃったでしょう。
素直に先祖を受け入れられるヒトばかりじゃないですからね。

さる超名家のヒトも系図を廃棄したヒトがいて、御所にお願いして写させてもらった、という話を聞いたことがあります。


我が家の父方はホンヤさんがしっかりしている=認められている=から
我々末席は自分の家のことなど知らなくていい
そんな感じです。

歴史書に書かれているし
    信長公記に悪口が書かれているし
尾張徳川藩の新しいご当主が決まればホンヤさん宅に挨拶に行くし
宮さまが遊びに行けば新聞記事になるし
NHKの歴史番組でも取り上げられたりするし。

だから我が家はホンヤさんがしっかりしてくれているから「馬の骨です」とホンヤさんに言えるし。
    

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%B0%8F

北朝を擁立した足利幕府の時代に朝廷(北朝)に仇をなしたとして逆賊として扱われていた。
寛正元年(1460年)3月28日に楠木氏の一族が処刑された際に東福寺の大極正易はその日記(『碧山日録』)に
楠木氏は無辜の民を戮殺した積悪の報によって滅びたと記している。

ところが、『太平記』の流布によって正成に対する同情的な見方が広がった戦国時代には
楠木正成の末裔と自称する楠木正虎なる人物が現れ、
逆賊扱いであった楠木氏の名誉回復のために、
朝廷や松永久秀に援助を求めて名誉回復に尽力した。


今年になってワタクシが松永久秀を結構好きだという理由が何故か分かりました。

実は和歌山のヒトではない男性が松永久秀の親戚だったのです。
父から反対されて結婚には至りませんでしたが
下の名前を知っています。笑
母方で遠縁になる男性でした。

この男性は社会的になかなかアタマの良いヒトだそうで
経済的にラッキーだよ
と、このヒトを知る人達から言われました。

手鍋提げても、という感じじゃなかったです。
空中分解してラッキーと思ってました。
宿命のヒトでも運命のヒトでもありません。


わたくしは自分の宿命など蹴散らし自分の運命を切り開くタイプだからオットと結婚したのだろうと思います。


まさかオットが「自分はムカシ蟹だった」とか言う人とは思いませんでしたけど
        厳島神社に行きたがって、とうとう連れて行ったら、水の中を覗き込んで「ムカシ、ここにいた」なんて言いました。

オットのお蔭で母方先祖の詳しい本が目に飛び込んで来ましたし
その後
父方のことも知るようになり

オットと結婚しなかったらぼんやりと母方は「源氏」で「南朝」としか知らなかったと思います。

なんで源氏?と反発してました。せいぜい源氏方でしょ?と思ってました。
その思い違いが今年になって分かりました。


一応我が家の母方がらみの人々の家にはわたくしの持っている家書を巻紙にコピーして郵送してあります。

勿論、わたくしの行動に賛成する人ばかりではありません。


でも縁あって、養子に入ってくださった家(名古屋と高山)には家書のコピーぐらいあげても良いじゃないかと思っています。

どうか寛大な心で、皆で、先祖に感謝しましょうよ
とわたくしは願っています。



>天正伊賀の乱

また別なオトコの出現ですが
こちらは父方のお仲間の家のヒトで
カレの母親もわたくしの父方の一族になります。


このヒトと電話で何十年ぶりかで話した時
     オカルト的な経験をしたので電話をした
「伊賀攻めで、当時の悲惨な状況がミエル人に会ったことがある」
と教えてくれました。


この電話のずっと前に、数年前に、オットと伊賀に行った時、不思議な体験をしています。
電車で伊賀に近づいた時、
顔のあたりにヒトの体温を感じました。

    山の中だから電車の中は寒かったんですよ。
    あの体温からすると  若いオトコの体温  だったと思います。


とにかくオットと結婚してからオカルト経験しまくりです。
オットの家がオカルトがかってますから。


あ、オットの家は物理系の家なので笑っちゃうんですが。
[132]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月11日 14時32分11秒 ) パスワード

空の青海のあを 様
近々本当にあなた様と出逢うような気がしています。
私は、ずっと自分はうだつの上がらない、ヘタレと思っていました。
しかし思い返すと、オカルトな人間だとわかりました。
小中高と私にちょっかいを出した人は、皆さん死亡なされる等の末路を辿りました。
お付き合いしている彼女は、所謂見える人で、初めて出逢った際、私の背後に物凄い男性の気を感じたそうです。
彼女が「東根」家の一族と知ったのは、私と出逢ってからです
彼女はしょっちゅう、お城が焼けている夢を見ていたそうです。
その際、天守閣の最上階の隠れ部屋で、家族と隠れていたとのことです。
私と出逢って、その城が「東根城」と確信し、永年の疑問が説けたそうです。
[133]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月11日 16時18分50秒 ) パスワード

先程の続きです。
空の青海のあを 様がおっしゃってた以下のご主人のエピソードですが・・・
【オットが「自分はムカシ蟹だった」とか言う人とは思いませんでしたけど
        厳島神社に行きたがって、とうとう連れて行ったら、水の中を覗き込んで「ムカシ、ここにいた」なんて言いました】
実は、私も、とても共感出来るのです。
幼児期、則岡家へ里帰りしたとき、そこの居心地が悪く、しょっちゅう愚図っていました。
そんなとき、父は決まって万葉集で有名な「和歌の浦」に連れて行ってくれました。
潮が引くと、そこは干潟となります。
そして紀州藩主が造った「観閣堂」という建物を伝い、干潟へ降りるのです。
そこには無数の穴があり、全て小蟹の住み処となっています。
しばらくすると、無数の小蟹が出てくるので、その時に彼等と遊ぶのです。
父は何時までもニコニコと、ずーっと私が蟹と戯れる姿を観ていました。
此処が私の原風景であり、前世は此処にいたのではないかと思ってしまいます。
つい最近、初めて「東根家」の彼女を連れていきました。
そこは殆ど代わっておらず、干潟で幼児期の私と父が遊んでいる姿が見えました。
[134]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月11日 17時07分58秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

ホントにオカルトかかりますね。

実は吉沢悠の名前を上記に出したのですが・・・さっき見た  連続ドラマ 不発弾〜ブラックマネーを操る男〜 に 杉本匠 役で出てました。
笑っちゃいました。

まさか吉沢悠が出てたなんて。
ドラマを見てた時に・・・似てるけど・・・そうかな?・・・と
最後のクレジットで確認するまで分かりませんでした。


理由は、昨年見た  満願 第2夜「夜警」(2018年8月15日、NHK総合)の 川藤隆博 役がすっごく情けない姿だったので
え?こんな汚れ役をやるヒトになっちゃってたの?と涙してました。


久し振りに吉沢悠の知的なカッコ良い姿が見られて幸せ気分です。
でも  デリバティブをやるヒトの役  なのかな?と思ってます。
こんなのインチキなのに。

    ムカシ昔の大ムカシに  デリバティブの数式を見たことがあります。
    親戚の子が金融の勉強をしてたのです。

吉沢悠がこんな詐欺師のような役をやるのかと。
設定は  MITを出てる?笑

吉沢悠には汚れ役も詐欺師も似合わないのに。。。泣


と、見終わって則岡流島崎氏さんのレスを拝見して、ココロを落ち着けて戻って来ました。


>お付き合いしている彼女は、所謂見える人で、初めて出逢った際、私の背後に物凄い男性の気を感じたそうです

初めて出会った時に  ピン!  と来るのは
先祖がらみでしょうね。


実はジムで時々出会う男性がいて
このヒトはひょっとすると先祖がらみじゃないかなと考えています。

初めて見掛けた時は  マラソンのゼッケンをつけてました。
2回目にジムで見た時は  背筋がピンとした姿勢が  とても美しかったです。

3回目に見た時に「雲仙」のホテルの手拭いを持っていたので「出身は長崎か?」と尋ねたら
「広島だ」と言ってました。


母方先祖の母親が竹原の奥の出身ですし、関係者(主君)が竹原で亡くなってるし、
こわくて名字が訊けません。

でもこのヒトの後ろ姿が父方先祖の関係者にソックリなので   上記に書いた「何十年ぶりか」の電話のヒトの先祖にソックリ
もし関係者の名字だったら?と思うと訊かない方が良いように思います。


ワタシはいわゆるミエル人というほどではありません。ぼう〜っとした影あたりです。
感じる人です・・・先祖関係者には  血湧き肉躍る  感じを経験します。
たぶん、物理的に見てるのでなく、イメージが浮かぶ、そんな感じです。と、思いたい。


でも何度もアブナイ体験をしています。
よく今まで生きているな
そんな経験を何度もして来ました。
直近では昨年9月です。笑


わたくしにとって一番オソロシイ場所が実家で、
特に実家の2階には昼間でも自分1人在宅の場合、
考えることさえオソロシイです。


オットと結婚してからは   ミエタことが何度もあります。たぶん。
それで何十年ぶりかで電話しました。
その内訳:
ある本を読んでいたら
吉野朝忠臣4名家7名字4名姓に電話のヒトの家の「姓」が出てました。 
                        我が家は7名字の1つです。
それで電話しました。
電話後にその本のその箇所を読み直そうとしましたが何度調べてもその箇所は見つかりませんでした。

               なんで無いものが見えたの?です。


怖かった1つ:
オットが救急車で入院して、その夜、自分1人で夜を過ごさなくてはならなくて
そしたら屋根の上で眷属が暴れて
怖くなって入院中のオットを強制退院させました。

書き出せばキリが無いほどいろいろあります。
でも自分ではミエル人とは思っていません。
先祖からのオカルトパワーだろうと思っています。


>私と出逢って、その城が「東根城」と確信し、永年の疑問が説けたそうです。

落城を経験なさってたのでしょうね。怖かったでしょうね。
でも疑問が解けたから、今後はもう、大丈夫ですね。
良かった!良かった!


落城というと
いろいろ印象に残る落城話がありますが

諫早の西郷氏の落城の話
これがすごく気になっています。

最近諫早の西郷という地名を知りました。
西郷氏は秀吉の援助を受けた竜造寺に滅ぼされました。

西郷氏が気になる元は  懐良親王と共に九州行きに従った南朝方に先祖の一族がいたからです。
その子孫が西郷氏に仕えてました。


それでジム仲間で雲仙の手拭いを持ってたヒトの先祖が関係者だったら?と思い
いやいや広島だということで別の先祖関係者だったら?と思うのです。

      先祖のことを知り過ぎた今はアッチの先祖コッチの先祖と忙しいです。笑


同じジムに仲良くしている渡辺さんという会計士の男の子がいます。
このヒトのことは全く  血も湧かないし  肉も踊りません。
でもすっごく仲良くしています。

もし松浦という名字だったら血も湧くし肉も踊るのに。


平田という名字が好きです。前世の父か祖父です。
涙が出て来ます。

島津藩の平田靱負ゆきえ(家老)にもシンパシーを感じています。平家の子孫。
紀州藩の平田氏にも会いたいものです。

父方母方で繋がっているから。


なんか好きだな
と思うと、やっぱり、血で繋がってるんです。

先祖からのオカルトパワーとしか思えないです。
ご先祖さまは必ず守ってくれます。
[135]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月11日 18時27分52秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

あなた様とお話しを窺うに、人のご縁と言うのは、ご先祖様に左右される部分が大きいのかなと思いました。
のろけ話はしたくないのですが、私の彼女は、客観的に見ても、目が大きく、女優なみに器量やスタイルも良く、性格も抜群、おまけに生活力もあり、男には何不自由しない女性なのです。
片や、私は、イケメンでもなく、中年太りで、仕事も大してうだつの上がらない男なのですが、何故か私を好きになってくれました。(ひとめぼれだそうです。)
余りにも不思議なので、彼女に自分の何処が良いのか聞くと、「全て!」と返事が帰って来ました。
また、私の親友ベスト2は、何れも「服部」姓です。
空の青海のあを 様のお話しをお聞きしていると、この事さえ、偶然ではないのかなと思えてしまいます。
[136]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月12日 10時13分35秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


やはり先祖が介入するのでしょうか?


彼女さんが美しいかたなのは前世で姫君でいらっしゃったからかも知れないですね。


随分前に仲良くしてた老婆さん達=旧華族=は   平安時代にいた気がする  とおっしゃってました。
服装は12単衣だと言ってました。


わたくしはコレは無いです。
あるのは
    上総国の国分寺の近くに住んでいて農業をするのが嫌でしかたなかったとか

    伊賀の山奥の平田の砦にいて、一張羅の絹の着物がもったいなくて、袖を通せない自分がいるとか
そんな鄙に住む少女の姿あたりです。


それにしましても面白いですね
則岡流島崎氏さんの原風景が若野浦で蟹とたわむれる過去
なんて。
オットにそっくりですね。


>私の親友ベスト2は、何れも「服部」姓です

これは  アリ  だと思います。

能の観阿弥の母が楠氏で父が服部氏だそうですから。


わたくしの幼稚園からの親友は
東国武士だったのが木曽義仲の父と関係が出来て
木曽義仲の侍大将になり
その後
新潟に行き     義仲の家来の3兄妹(樋口+今井+巴御前)の樋口氏は新潟で直江兼続を出しました (「愛」のヒトです)上杉景勝の懐刀     
結局長野に戻り   上杉家が米沢に転封になった時に途中で降りたのでしょう
そして名古屋に来た
という人で


新潟では上杉家に仕えてたけど結局長野に戻ったということで
全くわたくしには関係は無いように思っていましたが

わたくしの母方の34代前の先祖の子供が新潟の魚沼に土地を貰って移った
というのを今年知り
なるほど
それで彼女と今でも続いているのか、と。

               女の友情はオブラートより薄いそうですが



父方母方先祖からのパワーを感じますが
テレビを見ていて
歌手や俳優に我が家の弟の顔がだぶります。

似てないけど  目元や眉やおでこがそっくりです。変顔の時はまさに弟の顔です。


で、その歌手や俳優の出身地を調べると  本名と出身地から  先祖がらみだ  と分かります。


そして姉や弟の子供達の配偶者が  父方母方に繋がる家  です。
ホントにビックリです。


こういう事が分かって婚姻関係を結べば離婚になんてならないのになって思います。
だからムカシは家と家とか遠縁関係とかで結婚したのかなと思います。
知らない他人の関係とかよそ者とかと結婚すると何かのきっかけで離婚へと走ってしまうのかなと。

なんであんな変な馬の骨なんかと結婚したのかな?と思っても
後に、新田の一族だよ、などと分かれば   スグに大歓迎です。   ゲンキンなワタシ。


ということで彼女さんを大切になさってくださいね。
[137]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年04月12日 11時15分52秒 ) パスワード

空の青海のあを 様
親身にアドバイスしていただき、ありがとうございます。
今後、足利一門(斯波家)の末裔である彼女と、楠木家の末裔である私が交わる事で、どんな化学反応が起きるのか、想像もつきませんが、両人のご先祖が何らかのご意思を示しているのでしょう。
これからも、より一層しっかりと精進します。
[138]空の青海のあをさんからのコメント(2019年04月13日 10時43分41秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

>足利一門(斯波家)

わたくしは斯波家については不思議と恨みツラミがありません。

おそらく父方が尾張斯波家に仕えていたからと思います。
この時、後に織田家も斯波家に仕えることになりましたが
織田家は後に旭日の勢いで出世していきました。

     この時の我が家の父方先祖のネタミ嫉みはかなりのものがあったと思います。

     信長の天才性については素直に認めます。


母方の一族が敦賀に行く途中、木の芽峠付近で道に迷い、その冬は歴史的大寒波の時で
馬は凍えて働かず
という状態で佐々木と斯波に見つかって
母方の一行350騎が雪に刀を刺して自害した
と「北国下向勢凍死の事」という章に書かれているそうです。


でも斯波については恨みにはならないのです
嫌いなのは  佐々木。
ムカシっから  佐々木  という名字が嫌い。


     でも20年ほど前にロスの空港で佐々木というステキなおじさまと出会い
     下のお名前がいかにも「お殿様」か「社長さん」という感じで
     佐々木氏へのわだかまりが溶けました。   ゲンキンなワタシ。


その頃に「しわさん」という人とも知り合いました。東北出身だったか?
恐らく  紫波 か 志和  と書くのかも。

しわさんも哀しい落城話があったような。


日本の歴史はかなり捻じれていますから
楠家が尊氏と親しかった時代もあります。
その時のご縁がまだ生きているのかも知れないです。



あのね
ヒトは生まれ変わる
って思っています。

悪いヤツもバカなことをやらかしたヤツも
早く死んで生まれ変わって
良いヤツになればいい
と思っています。


          わたしは人間は人間にしか生まれ変わらないと思っています。

          生まれて来る時、自分で親を選ぶんだ、という話は信じていないです。
          変な親から生まれて殺されてしまう幼い子供達には「早く生まれ変って、もう1度この世においで」と祈っています。


わたし自身は充分幸せに今生を終えるようなので
もう生まれ変わらなくてもいいと思っています。
いろいろ分かったから。
心に引っ掛かっているコトも無いし。
母方84代目としてやるべき事はやったし。


もし生まれ変って、次は男子だったら、きっとY染色体をしっかり生かして
毎日「喧嘩上等!」なんてやらかしそうです。

平和な時代ならバカですが
戦乱の時代なら英雄です。

でもきっとスグに討ち死にだと思います。
で、スグに生まれ変わったんだろうな、と思います。


>足利一門(斯波家)の末裔である彼女と、楠木家の末裔である私が交わる事で、どんな化学反応が起きるのか、想像もつきませんが、
>両人のご先祖が何らかのご意思を示しているのでしょう。

双方のご先祖さまを大切になされば、必ず守ってくださいます。
東根氏が江戸時代に預けられた蜂須賀家は尾張の南朝方です。

    小六のおばあさまになるヒト=おじいさまの正妻さん=が津島神社の大橋の出です。
    大橋と服部も元は平家の兄弟です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%B0%8F
出自の部分をお読みください。

見えない糸で、蜂須賀家と東根家、そしてやはり、彼女さんと則岡流島崎氏さんとはご縁があるのです。
お互いに赤い糸で結ばれるべきお相手なのです。

          日本人であれば必ずみんな血で回り回って遠縁親戚一族関係ですからね

お二人でお幸せな日々を作ってくださいね。
[140]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年08月19日 07時04分21秒 ) パスワード

空の青のあを海 さま

ご無沙汰しております。
ここしばらくは、東根家の彼女のことに夢中になっていました。
このお盆休みを利用して、息子と東京の皇居や鎌倉の旧跡巡りを行いました。
しかし鎌倉では、何故か訪問する予定の無かった、「鶴岡八幡宮」に訪れてしまいました。
其処を訪れて何故導びかれたのか、理由がわかりました。
其処を訪れると、鶴岡八幡宮の祭神である「八幡大菩薩」の脇に、「武内宿禰」がお祀りされていました。
実は、「武内宿禰」は当家の祖である「河内三郎楠木正則」の妻が「武内宿禰」の末裔であると、当家の系図の中の由緒書に記載されております。
彼女の父親は紀州阿瀬田庄司「田中民部 源久岡女」との事です。
また、ひとつワクワクすることが出来ました。
彼女の先祖探しと並行し、こちらも調査を行いたいと思います。
[141]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月19日 08時44分12秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま


やはりご先祖パワーが来ましたか。

本当に不思議ですよね
こちらが敬愛すれば向こうからやって来て下さるのですから。


恐らく既にご存知でしょうが

https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-12028155701.html
楠木探訪録 その62 則岡氏
に出てますね


         ブログ主さま
         勝手にコピペ  ごめんなさい


則岡氏は紀伊国の豪族。左馬頭橘正儀の子河内三郎正則の裔。

河内三郎正則の母
紀伊国阿瀬田庄
竹内宿禰末流田中民部源久岡の娘という。    
南朝北朝御和睦足利将軍義満公厳命依りて
管領畠山右衛門佐基国家に養育、成長後、家名を則岡氏と号する。



>鎌倉では、何故か訪問する予定の無かった、「鶴岡八幡宮」に訪れてしまいました。
>其処を訪れて何故導びかれたのか、理由がわかりました。
>其処を訪れると、鶴岡八幡宮の祭神である「八幡大菩薩」の脇に、「武内宿禰」がお祀りされていました。


歓迎されていらっしゃいますね。
良かった!良かった!


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B9%85%E5%B2%A1

【名字】久岡
【読み】ひさおか
【全国順位】 4,548位
【全国人数】 およそ2,500人

現京都府の日本海側である丹後国竹野郡の豪族、
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵、
現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津等にみられる。

近年、高知県高岡郡に多数みられる。
「岡」は岡(丘)の地形を表す。


https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-12504517879.html
天月氏のブログ
最初っからお読みになってください。

>藤原純友の乱の戦功により、橘遠保に仕え、
>河内国赤坂郷を賜った橘姓楠氏の楠戸根千代の系統は、
>やがて河内源氏に仕えるようになる。

この>>>河内国赤坂郷を賜った橘姓楠氏の楠戸根千代<<<の部分の「戸根」に目を奪われました。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%88%B8%E6%A0%B9

【名字】戸根
【読み】とね
【全国順位】 8,197位
【全国人数】 およそ1,000人

刀禰と起源をともにする。
源平盛衰記に記述されている。
近年、関西地域および北九州市に多数みられる。



ということで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%A6%B0

刀禰(トネ、等禰、止禰、舎人)とは日本の古代から中世にかけて、公事に関与する者の総称として用いられた職名である。
近畿およびその周辺の沿岸域を中心に使われた。


「国造本記」には茨城國造に「筑紫刀禰」[1] 、道奧菊多國造に「屋主刀禰」[2]、道口岐閉國造に「宇佐比刀禰」[3]、阿尺國造に「比止禰」が見える。

ここで「トネ」は氏族名ではなく、
国造としての尊称[4]、つまり地域を治める代表者につけられた称号として用いられている。
これは中世における地域の盟主としての「刀禰」の用法に合致する。


古代において「「とね(刀禰、等禰、止禰)」を人名に含むものとしては
尾張氏の祖先火明命を同じく祖先と仰ぐ在京の「阿麻刀禰」や
和歌山の紀氏の祖先「鬼刀禰」が見られる。

ほかに、久米氏の系図に佐久刀禰、忌部氏の系図に布刀禰なる人物が見られる。
カバネとしては船頭「椎根津彦」の子孫と名乗る「等禰直」がある。


長くなるので続きはURLへ。
なかなか興味深いです。




https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%B1%E6%A0%B9

【名字】東根
【読み】ひがしね,あずまね,とうね,とね
【全国順位】 6,230位
【全国人数】 およそ1,500人

現山形県の広域である羽前国村山郡東根村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)足利氏流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)などにもみられる。
「東」は方角を表す。



彼女さんのご先祖さまも調査続行なさってください。


あ、そうそう、別スレッドの7月28日に書いた淡路島出身の先輩の名前などが分かりました。

わたくしが書いてから、まもなく、大学の同窓会誌に名前や連絡先が書かれているのが8月13日に郵送されて来ました。

こんな偶然ってホントにあるのですね。
驚きました。

この平熱のオカルトパワーにはこれまで随分驚かされて来ましたが
まさか
今でもパワーが来るとは思っていませんでした。

     お盆ですしね。
     
驚いたのは父方母方両方でかなり強く結ばれているご縁でした。
[142]則岡流島崎氏さんからのコメント(2020年10月23日 23時03分24秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

大変ご無沙汰しております。
今年の4月に退職し、母校で博物館学芸員の課程を楽しみながら学んでいます。順調にいけば再来年の4月に資格を収得します。
彼女の血筋を文書的にも立証したく、並行して山形県「東根」氏の調査も相変わらず行っています。
今年の夏に同家発祥の地である山形県東根市、山形市の旧跡等を訪問しました。また東根市での最後の当主が預かりの地となった徳島市徳島城博物館の学芸員と懇談し、同家に関する史料や情報を頂きました。更に分家が土着したと考えている兵庫県淡路市岩屋浦を訪問し当時居住していたと思われる場所を訪問しました。

以上の調査で「東根」氏の系統が3つあったこと事がわかりました。山形から徳島藩に移った時の当主「親宜」は「親春」「親重」の2子を儲けました。兄の「親春」が嫡子となり、弟の「親重」は分家し新たに家を興しました。更に宗家の「親春」は父と同じく2子を儲け、弟の「親友」が分家し家を興し「東根」氏は3系統となりました。その内、宗家と「親重」家は「東根」氏の本姓である「里見」を名乗り、「親友」家のみ「東根」姓を名乗りました。

先に行った現地調査や彼女の戸籍等や徳島藩の公文書の「蜂須賀家家臣団家譜史料」や「阿淡藩翰譜」「徳島藩士譜」、淡路島に関する市史や町誌等を読んでいく上で、私の彼女はこの3家の内「親友」家の筋で、ある時を境に淡路島に居住した可能性が高いと考えるようになりました。

理由としては、@「親友」の2代目「景央」が当初「吉三郎」と名乗っており「親友」家以外は「吉三郎」を名乗っていない事。A同家6代目の「親直」が藩校「長久館」の射術の教授職であった事。B二男の「景保」が江戸で西洋砲術を学び藩の指南役であった事。また当時の状況もそれを裏付けています。
元々淡路島は徳島藩にとって大変重要な場所でしたが、1850年頃米国からペリーが浦賀に来航し、これをきっかけに紀淡海峡から明石海峡を経由して大阪湾に侵入してくる外国船への防備が近近の課題となりました。そして京都を防衛するうえで最重要地点であった明石海峡を臨む淡路島の岩屋浦松帆に「勝海舟」等を派遣し幕府主導で大規模な砲台や湊を含む軍事施設を設置しました。徳島藩もそれを受け岩屋浦に「御屋敷」と呼ばれていた大規模な藩邸を設置し、多数の重臣をそこに派遣しました。大正5年に発行された町誌「岩屋誌」では中老「寺澤男成」他70名程の徳島藩士が派遣され当時の岩屋浦は大変な活気を呈していたとあります。また先のAの「親直」Bの「景保」が活躍した年代とこの動乱の年代がほぼあてはまり、砲術に長けた彼らが岩屋浦に派遣されたとしても不思議ではありません。

彼女の戸籍に登場する人物が先のAの「親直」B二男の「景保」が活躍した年代ともほぼ一致するということで両者は同一人物と視ています。
因みに彼女の戸籍でBと推測している者も二男です。
また彼女の先祖の戸籍住所を江戸時代天保年間の地図と照合すると徳島藩邸「御屋敷」の敷地内に位置していることが判明しました。

現状は以上のとおりですが、今のところ彼女の戸籍の人物と徳島藩側の史料に登場する人物の名前は合致していません。残る手立ては現地での聞き取りになると思います。
この調査は地元市町村の淡路市も気になるようで、先日結果が分かれば教えて欲しいと連絡がありました。話は長くなるので止めますが、廻り回って楠木一族にも関係してきそうな雰囲気になっています。以上長くなりましたが報告です。
[143]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月24日 14時37分03秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

お久し振りでございます。


>今年の4月に退職し、母校で博物館学芸員の課程を楽しみながら学んでいます

退職、おめでとうございます。
そしてライフワークの基盤も出来つつあるようで、なによりでございます。
資格が取れるよう、頑張って勉強なさってください。


           「資格」が有るのと無いのでは、全く、違いますから。



そして興味深いお話をありがとうございました。
「淡路島」の件も非常に興味深く拝見いたしました。


最近、友人達との会話から
   紀州や河内の南朝方の子孫や
   山形の「東根」にも行き着いたり
   奥州の南朝方の話題が出たりしていました。


   近頃の後醍醐天皇の評価は毀誉褒貶激しく
   しかし南朝方子孫としましては  朝廷に指図する鎌倉幕府は許し難く
   「醍醐天皇の御世」に戻したいと願う後醍醐天皇の叡慮は良く分かり


アレやコレや友人達と話が弾み

さらにわたくしの淡路島出身の知り合いを捜していて(まだ見つかってはいませんが)とても気になっていたのです。


そこへ則岡流島崎氏さまのレスがあって驚きました。
則岡流島崎氏さまが「平熱に書き込まなくっちゃ」と思ってらっしゃったのがテレパシーで伝わって来てたのかしら?と。


学芸員の資格を取得なさったらいろいろな史料に更に近づけますでしょうね。
羨ましいことでございます。

淡路市の歴史編纂に寄与できると良いですね。後世に残りますから。



淡路島ってものすごい歴史の変遷に生き翻弄され続けた土地ですよね

日本の最初に出来た島で
紀州の水軍が仕切り
細川氏が来て
三好氏が支配し
織田が来て

   このあたりから誰が支配者やら回転が早過ぎて
   淡路島の人達は覚えられるんでしょうか?
   余りにも支配者がコロコロ変わって  島民のアイデンティティって  置き去り?

徳島藩でやっと落ち着いて?
そして
明治になって兵庫県へ   なんで兵庫?

   島民の方達は独立させて欲しい
   とは望まないんでしょうか?
         自分達の  自分達による  自分達のための県
      
ということで洲本出身の友人とコンタクトが取りたいと思っていたのです。


それで則岡流島崎氏さまのこのレスに驚きました。

>廻り回って楠木一族にも関係してきそうな雰囲気になっています。

はい
そう思います。

紀州の水軍が入り乱れて入って来て  南朝方北朝方  抗争が続いたのかな?戦場になったのかな? 
など空想します。

洲本の港は「湊川の戦い」に行く南朝方北朝方の舟で大渋滞だったのかな?
など。

     確か母方の一族が兵庫へ楠正成公と新田義貞公の加勢へ行くのにウッカリ一族でも北朝方一族の舟に間違えて乗ってしまった(汗)と聞いています。


書き始めたら止まらなくなります。すみません


則岡流島崎氏さまの研究が後世の人々の役に立ちますように!
[144]則岡流島崎氏さんからのコメント(2020年10月25日 12時54分28秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

私も貴方様のレスを拝見してとても驚きました。
「最近、友人達との会話から紀州や河内の南朝方の子孫や山形の「東根」にも行き着いたり奥州の南朝方の話題が出たりしていました。」のくだりです。
私が東根氏と向き合う上で根本的に勘違いしてた事がありました。また以下の内容で私と彼女の関係にも納得がいきました。
この家は南朝方なのです。
以前空の青海のあを様が、「東根氏くらいの大きさの家になると様々な出来事を経た数奇な運命を持っているので何があっても不思議なことではない」と仰った言葉の意味が一連の調査(当初はそんな認識は全くありませんでしたが)で腑に落ちました。
この家の発祥ですが、元々山形を中心とするこの地を治めていたのは天童氏という新田源氏の里見を本姓とする豪族でした。しかし南北朝の動乱を経て足利政権が安定してきたところで奥州の覇権を目論む幕府が一門の斯波氏を羽州に差し向け其処に割って入ってきました。
斯波氏の時の当主「直家」には6人の男子がいましたが、長男「満直」が最上氏を興し、二男の「頼直」が後嗣のいなかった天童家の養子に入り当主となりました。天童家は里見氏を本姓とする一方、南朝方の北畠天童丸の末裔であったという説もあるように、足利氏の養子を受け入れたとはいえ、一貫して南朝側の姿勢を取り続け、足利方の最上家と対立していました。そういった状況下「天童頼直」は5人の男子を儲け、その4男「頼高」が分家の東根氏を興すのです。従って同家は血筋的には足利ですが、南朝側の天童一族として最上一族と羽州の覇権を懸けて争うのです。
この羽州での膠着状態が崩れたのは天正9年(1581)の最上氏による庄内・酒田攻めでした。この戦いで東根氏の当主「頼景」が討ち死にし最上氏の軍門に降ります。そして弟の「景佐」が東根家を相続し、現在の山形県東根市1万2千石の領主となるのです。
余談ですが、私達が山形県東根氏を訪れ東根一族の菩提寺に詣でご挨拶に行きました。そこで何人かの地域の人々とお話しすると、ほぼ全ての方々はこの一族を「東根」ではなく「里見」と呼んでいました。またある人は当主「頼景」は亡くなっておらず、近隣の豪族「坂本」氏を名乗り今日まで同家の命脈を保っているという方もおられました。両者が共通しているのは、何れも本姓を「里見」としているところです。こういたところでも、この土地は南朝色が強いんだなあと感じました。因みに「景佐」の末孫は徳島市内でも有数の優良企業のオーナーで、東根市の人達もこの「景佐」の筋を本流とみなしているようです。
その後徳川幕府の時代になり、最上氏はお家騒動で改易となります。同氏の家臣であった東根家も同様に改易となり、ご存じのとおり時の当主「親宜」は徳島藩預かりとなり、同藩の重臣として一族の一つが淡路島に住み現在に至るのです。
この夏に山形県東根市、徳島市を訪れて以降、淡路島を頻繁に訪問しています。この島の歴史を知れば知るほどその魅力に惹きつけられました、それと共にとても楠木一族にとって関係の深い土地だと感じています。ここから一つでも何か新しい事実が判ればいいなあと思っています。
[145]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月25日 16時12分52秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

里見五郎義胤

     新田義貞の兄上または新田義貞本人との説もありますね


日本は苗字が細分化してて現代から見るとワケ分からなくなりますね。
名家だと乗っ取られるし。


     我が父方も土地の名家の名字を乗っ取ったクチです。

        そして後醍醐天皇崩御の前年に源姓に変りました。

           余談ですが母方は後鳥羽上皇がらみで後南朝時代は後鳥羽源姓を名乗っていました。     


なので   心許した人には「実は」と明かすけれど  ヨソモノには黙っています
イチャモンをつけられたくないから
言っても<<<どうせ>>>分からないでしょうから


ということで

   >私達が山形県東根氏を訪れ東根一族の菩提寺に詣でご挨拶に行きました。
   >そこで何人かの地域の人々とお話しすると、ほぼ全ての方々はこの一族を「東根」ではなく「里見」と呼んでいました

非常にこの部分  分かります。

仲間意識  南朝方意識  ですね  心から信じられる存在。
則岡流島崎氏さまが皆さまに受け入れられた、ということですね。


今更ながら、ムカシの知り合いの洲本出身のヒト、わたくしの先祖と何らかの関わりがあったのだろうな、と思います。
恐らく向こうもわたくしの事を思い出して「どうしているのかな?」と思ってくれているのかも。

    ひょっとすると  子供さんの結婚相手が  ワタクシに関わるヒトかも  です。


実は実は   大昔のことですが  S女とC男が結婚しました   でもS女は高校時代から相思相愛のX夫がいたのです。

だけどS女とC男は宿命の2人でした。結んでいたのは南朝方同士ということ。
だからX夫に言いました「あの2人は宿命で結ばれていたの。だから君に勝ち目は無い」と。

C男の先祖は後醍醐天皇の右腕でした。
だからS女の親もC男を大歓迎でした。南朝方子孫のご近所の人達も。


勿論X夫の家も彼女の家とはエンエンと刎頸の友の関係でした。つまり血縁関係にあった。
だけどC男の家は後醍醐天皇の右腕でしたからね、X夫には勝ち目は無いです。
家格が違うもの。
S女とX夫の家では一族ですから同格(笑)


で、結局、X夫が結婚した相手はわたくしの遠縁。ま、釣り合ってて良かったね、でした。


不思議ですね
わたくしはC男を見た瞬間に(後醍醐天皇の右腕だった人の子孫だ!)と分かりましたが
全く  そういう勘の働かない人もいるんですよね。  例 X夫(笑)
S女は勘が働く前にC男に恋をしC男も彼女に恋をして2人は親や世間に大歓迎されて結婚。


わたくしに限って言えば  少なくとも5人以上の男子が  (先祖が刎頸の友の家の関係)と分かりました。
でも全員  長男でしたからね  そこでお断り。  気楽な次男が良かったので  最初に長男か次男かを聞き出してました。あはっ


今は逆に「家」の大切さをつくづく感じております。
[147]則岡流島崎氏さんからのコメント(2020年10月25日 17時59分02秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

早々のレスありがとうございます。
あなた様がこのレスで仰っている洲本市のご友人の件と私が淡路島にのめり込んでいることは偶然ではないと思っています。
また何かあれば報告いたします。
[148]則岡流島崎氏さんからのコメント(2020年10月29日 20時47分51秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

東根家の調査が暗礁に乗り上げています。

彼女の明治15年戸籍に記載されている戸主の住所に現在お住まいになられている方とお手紙でご連絡が取れたのですが、徳島藩とは全く所縁がないとのことでした。また並行して同地番の登記簿謄本を取り寄せ、過去の所有者を確認しましたが、東根家に全く関係のない人物でした。

この土地については町誌や江戸時代の古文書で徳島藩の「御番屋敷」ということは確認できており、その土地の地番は当時から現在に至るまで変わっていません。しかし東根家とは関係のない人物の土地だったので、今までの調査を根本的に否定する結果となりました。残る居住地の手掛かりは地番設定以前の戸籍に記載された住居の表示○○番屋敷なのですが、これについては現在の地番との対応関係を知る術がありません。市役所の市民課や固定資産税担当課にも聞いてみましたが、個人情報の関係なのか、なしのつぶてでした。従って東根家については一旦調査を休止し、しかるべき時が来るのを待とうと思います。

一連の調査を行う中で興味深い事がありました。
彼女の戸籍に出てくる人物の中で楠本村(現在の淡路市岩屋町字楠本)の「日指」家から東根家へ養子に入っている方がおられるのです。もうご想像がつくと思いますが、楠本村は室町幕府の世になるまでは楠木村と呼ばれていました。
大楠公が湊川の合戦の前日、家臣の吉川弥六に「八幡大神」と愛用の刀「菊一文字」を託され、吉川他数人の戦から落ち延びてきた家臣がこの土地に根を下ろしたとされています。なお、これらの宝物は楠本村にほど近い神社「松帆神社」で大切に祀られています。

話を戻します、この「日指」家はネットの電話帳等の情報によると、兵庫県下でも淡路島の淡路市岩屋町字楠本の狭いエリアに数件しか見られない姓です。しかも名家の東根家に養子に入るだけあって相当な家格があったはずです。ここからはイメージの世界になるのですが、「ヒサシ」を姓とするなら一般的には海沿いの日差しの良い場所で「日差」とする方が多数派ではないでしょうか?
その疑問は楠本村を訪れると解りました。日を指すという意味で「日指」としたのだと直感的に感じました。楠本村に落ち延びた彼等は、日が出てくる方向の大阪葛城山やその向こうの河内長野市・千早赤阪村等を望郷の念を持って眺めていたのではないだろうか。そういった意味で彼等は楠木一族であると信じています。
というわけで、今後はこちらの調査にシフトしていきます。
[150]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月30日 01時24分18秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

歴史に全く興味の無い人っています。
そして子孫に語り継がない人も必ずいます。
語り継がないどころか全否定する人もいます。

    例:わたくしの姉
    「気持ち悪いから先祖のハナシなんかするな」

        「え?お姉ちゃま、うちのご先祖さま達って気持ち悪い人達だったの?」
            笑

>市役所の市民課や固定資産税担当課にも聞いてみましたが、個人情報の関係なのか、なしのつぶてでした。


「資格」の有る無しで   違ったかも  でしょうね


役所の歴史編纂に関わっているかどうかでも違ったかも  ですね


                 「資格」とか「身分」とかは大事です。


>従って東根家については一旦調査を休止し、しかるべき時が来るのを待とうと思います。

はい
良い選択と思います。

暫く時間を置くと「邪魔」が消えて何か見えて来るかも。



>楠本村
>大阪葛城山
>河内長野市・千早赤阪村

背筋がゾォ〜っとしました。


「ムカシ知ってた知人」が淡路島出身と言ってた時に  洲本とか○本とかの地名を言ってました。

名字だった?かの記憶が無くて昨年いろいろ手を尽くして捜し回ったら中国地方の△本さんに辿り着いてしまい
△本さんには迷惑をかけてしまいました。


「ムカシ知ってた知人」はワタクシに何等かのパワーを感じていたのでしょうね、
(向こうが  昔の?  私を知ってた知人のような)明るい笑顔を記憶しています。  


河内長野!
まさに  瞳キラキラの若者の出身地です。

「瞳キラキラ」について少女漫画では瞳が3つ5つもあるように輝いているという表現がありますが
若者は3つどころか13個どころか、という感じに光り輝いている目をしてて
南北朝当時の乙女達はみんなハートをブチ抜かれたんだろうなと思いました。
恥ずかし〜い


    当時女子校育ちという温室の扉を開けた瞬間のワタクシは
    「平家」「南朝方」「反信長」系子孫の男子には
    キラキラして見えてたのかも。
    惜しいことをしました。   って、今更  too late!


    江戸幕府時代はその点、家を背負って、家紋をいっぱい見せびらかしていましたから、出自が分かって、出会いは確実で、
    都合が良かったでしょうね。


「ムカシ知ってた知人」の顔は何となく覚えていますが、恐らく20歳前後なのにウ〜ンと老けてて・・・30代に・・・見えました。
この年代ってまさに働き盛りですよね。

「源平時代」か「南北朝時代」か「反信長包囲網時代」か、その時にわたくしの先祖と共に戦ってたヒトの子孫なのかな?
その時の武将の顔だったのかな?


      NHK大河で楠木正季を演じた赤井英和みたいな感じかな?
      とにかく  関西の人  って感じでした。


母方祖父一族が大坂住吉から名古屋にも廻船問屋を開くために河内などから男衆を連れて来ていました。

     書いてて泣けて来る。



こうやって過去の記憶は日本から消えて行くんでしょうね。
タイの反王室運動を見ていると100年後の日本だなと思います。


     ベトナム人だけで40万人来てるそうですから

でも紀子さまの血を引く方が「いずれ」天皇になられるのは嬉しいです。
     ね?



則岡流島崎氏さま、研究を地道に続けてください。
行き詰っても、遠回りしたら、何か見えてくるかも、です。
[151]みわこさんからのコメント(2021年05月11日 06時41分30秒 ) パスワード

日指金六...金六って金の六角形。そう、六芒星だと気付きました。六芒星の形を思い出して見てください。そして日を指してるんですよね。日って天皇家の事ですよね...
主要な神社を結ぶと六芒星になり、その真ん中に御所が来るというのは有名な話ですが。
六芒星が天皇を御守りしてるんですよね。
[152]則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年06月15日 13時14分09秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

お久しぶりです。今年度も引き続き大学に通っていますが、残すところ博物館での実習と日本の芸術史の2科目となりました。実習担当の先生は兵庫県立歴史博物館の学芸員の方ですので、淡路島の松帆台場や岩屋浦について尋ねてみると、先生は専門外の事なので対岸の舞子砲台等の研究をしている神戸市博物館の方をご紹介して頂きました。しかしその方も舞子の台場群がご専門との事で松帆台場については詳しくは知らないとの事でした。その事を実習担当の先生に報告すると、舞子の台場群の研究を参考にしてみてはどうか?というアドバイスを頂きました。

話は変わりますが、東京大学史料編纂所には当家の文書がいくつかあります。先日その一つである「則岡文書」の端書(序文)を何気なく眺めていました。この文章は約350年程前に存命であった分家筋の文太夫久忠が書いたものなのですが、くずし字の古文書なので私にはその内容が殆ど解りませんでした。しかしどことなく我々子孫へ伝えたい強い思いと愛情を感じたので、学校の先生のご指導を受けながら現代語訳にしてみました。その後この文書をご本家や東京の分家にも送付しました。以下はその全文です、良ければ目を通して頂ければ幸いです。因みに本文は一部ですが「紀伊続風土記巻之58」349頁と「紀伊続風土記附録 巻之十 古文書之部 第十」230頁〜231頁に活字で記載されています。

「則岡文書台紙端書」     
以下の数々の書類等は、何年か前に畠山殿より頂いた書状です。その時期は畠山殿が豊臣の大坂方でおられた後、徳川家の御代に成り、御知行五千石で高家(こうけ)衆に御取立になられたより前の、五年か三年か、ご浪人であった期間でまだ南紀岩室(いわむろ)城におられた時に当家が頂いたものです。よって先祖より今に至るまで大切に虫干(むしぼし)等を致しながら代々この書状を受け継いで来たのです。その件について、畠山殿より書状を頂いた頃より当時の則岡家の先祖からの言い伝えでは、万一子孫にいたって一族の家名の存続が困難となった時は、この密書を江戸表の畠山殿へ持参して、故郷紀州の財産等は全て売り払ってしまいましたので、昔の好身で畠山様の御屋敷で、適当なお役目に御登用下さります様、御願する様にと子孫へ申伝えるものです。
 但他家からの書面もこの文書の中にあるという事を頭に入れておくように。
則岡文大夫久忠

因みに古文書の現代語訳を専門の業者に依頼すると、上記の文章だけで15,000〜20,000円するそうです!!当家の他の文書全てを現代語訳すると・・・考えたくありませんね(;^ω^)
そうなると当にライフワークとなるので、今後どうするか思案中です。
[153]空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月16日 08時06分55秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

研究
大変ですね。

徳島藩淡路島の松帆台場のように国の指定があるところは研究者もやり甲斐があるでしょうけど
明石藩の舞子砲台は研究者が少ないのですか。

勝海舟がらみなのにねぇ  
松帆台場砲台と舞子砲台で挟んで攘夷決行の現場のはずだったのに
       結局は利用されずに終わったから
舞子砲台の方は忘れ去られているんでしょうか?
       徳川幕府の崩壊で勝海舟がらみでも無用の長物になってしまったのでしょうか?


恩師が舞子台に住んでて  近くにワタクシの身内の家もあります。
大昔に恩師宅にお邪魔した時は瀬戸内海の島嶼風景の素晴らしい眺めでしたが
今は  ご存じのように  橋脚がブロックしてて   みごとに!ブロックされてて! 驚きました 
明石海峡大橋は遠くからは優雅で美しいけれど
橋脚の背後の家からは  悲し過ぎるほどの鉄の塊  にブロックされた景色になっていました。


松帆台場砲台と舞子砲台はセットで尊皇攘夷の象徴として記録されるべきですから
是非  良い論文を仕上げてください。


前回の「青天を衝け」で渋澤栄一が砲台の図面を模写するシーンがありましたが
へぇ〜  あんな風にムカシの人は作図してたのか  と驚きました。


あの回で徳井優が演じた折田要藏
湊川神社の初代宮司になってましたね。
    「紀行」の部分で紹介されてました。
ご覧になりましたか?


>くずし字の古文書

わたくしも母方の家書の文章がところどころ草書体文字なので
戦国時代の記録の部分
   「顕如」上人のハナシなのか「教如」上人のハナシなのか
サッパリ分からなくて困っています。

明治の「明如」上人のことは母から何度も聞かされていたし
お寺の碑文でも読んだので見当が付きますが

ホント!ムカシの人は楷書で書いてくれないので(希望としては明朝体!)困りますね。


   でも文語体文章は結構「読み易い」というのはアリますね。字が読めれば、ですが。

   他のスレッドに登場の「三つ柏さん」は古文書の読み方を習いに行ってらっしゃいましたよ。
   則岡流島崎氏さまも将来のライフワークの一環に古文書の解読を習いにいらっしゃってはいかがでしょう?


お家の記録を現代文に翻訳なさって小冊子にして国会図書館や大学などに寄付なさってはいかがですか?

      親友の夫君がコレをして  大学のいくつかからは拒否されたそうですが。笑

   
>古文書の現代語訳を専門の業者に依頼すると、上記の文章だけで15,000〜20,000円するそうです!!
>今後どうするか思案中です。

結構良い時給になりますね。
老後のアルバイトに最適ですね。

  
>畠山

畠山重忠は武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で、「坂東武士の鑑」「鎌倉一の武士」と称された人物ですね。

わたくしも大好きな武士です。

有力な武家は北条氏の陰謀で潰されましたが畠山重忠も無実の罪で粛清された1人ですね。
ここに坂東平氏系畠山氏は滅亡して、
子孫では南北朝時代の篠塚重広が新田四天王の1人になっていますね。
娘さんが楠木正儀の妻になってますね。


北条時政はこの事件で後妻の牧の方と共に追放されて
足利義純が重忠の未亡人(北条時政の娘)または重忠の娘と婚姻して
重忠の旧領と畠山の名跡を継承
ここに源姓畠山氏の誕生。
    で、家督争いが起きて  応仁の乱の一因  にもなりましたね。

その後
越中国は守護代の神保氏に奪われ、
河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされ、
尾州家の紀伊だけは最後まで勢力を保って江戸時代において旗本や高家としていくつかの畠山家が残った。


>「則岡文書台紙端書」
>御知行五千石で高家衆に御取立になられた

この件ですね。

江戸旗本の高家
http://homepage-nifty.com/ksatake/fjituhata120.html
順位は107位で 本地家格は 畠山家(能登) 当主名が 畠山民部大輔で
表高は5,000石 村数14で 実高が 4,706.37800石 (300石ほど足りないですね)
で領地所在が 摂津下野 で採用名が 足利菊麿 (呼び名のことなのかな?)

要するに  
畠山家も江戸幕府の大名のマナーとかの足利礼法で教える家  ってコトだったのかしら?
吉良家、みたいな。


>昔の好身で

というのは  

上記に記した
「南北朝時代の篠塚重広が  新田の四天王の1人で 娘さんが楠木正儀の妻になっていた」
件?

and/or

紀伊・岩室で転がり込んで来た畠山さんのメンドウを則岡家が見てあげてた時以来のお付き合い
       畠山さんが転がり込んで来たのは
       遠いムカシの先祖の一族が(ちょっと関係無いけど)楠木正儀の妻になってたから?


ま、両方でしょうね?


紀伊・岩室城は、和歌山県有田市宮原町東、標高270mの岩室山にあり、比高250mと結構堅固な山城。
別名としては古くは紀伊・岩村城または岩室山城。
築城年は不明ですが、源平時代の湯浅宗重が築城したと云わる。


湯浅党
ここも歴史に翻弄されてイロイロありましたね。
平家に協力したり頼朝に許されたり
楠正成と戦って敗れて楠方に付いて、
その後、南北に分かれて戦って、
勢力を失った。

        わたし自身は湯浅党にシンパシーを持っています。
        有田には母や伯母に似た女性がたくさん見受けられるし。


「則岡文書台紙端書」は  
「武士は相身互い」 
則岡家と畠山家の長い長い歴史を語っているのかも  
と思いました。
「子孫に何かあったら助けてください」って。


わたしは住吉大社に  何かあったら庇護を求める  という原風景の認識があります。
住吉大社とは古代からのお付き合いだし、白村江の戦いの時もだし、南朝方だし。
[155]則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年06月16日 11時23分48秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

早々のレスありがとうございます。
淡路市教育委員会の方によると、数年前に淡路島を代表する郷土史家「濱岡きみ子」さんが亡くなって、淡路島の歴史調査が滞っているように感じるとの事でした。またこの島の人は「宵越しの金は持たない」と言われている気質の方が多く、家の貴重な古文書等もいとも簡単に捨てたりするそうです。それが最も顕著に顕われたのが1995年の「阪神淡路大震災」で、この大災害で多くの貴重な史料が失われたそうです。
ずばり私が知りたい情報は、徳島藩から松帆台場がある岩屋浦に出向された藩士70余名が誰であったかです。
大正5年に発行された町誌「岩屋誌」によると、淡路島の岩屋浦は対岸の神戸市舞子と同様大阪湾ののど仏ともいうべき場所に位置し、国防上大変重要な場所でした。幕末にペリーが来航後、江戸幕府は大いに危機感に駆られ「勝海舟」を代表とする使節団を舞子や岩屋浦に派遣し、国営の台場等の軍事施設を建設しました。施設の運用は地元の藩が受け持ち、岩屋浦には徳島藩直参の藩士が70余名駐在しました。それに加え周辺の村々から、260名の農兵が岩屋浦に動員されました。これらの兵を束ねる者は中老格の「寺澤男成」等最低組頭以上の家格の高級官吏が勤めました。平時には「御屋敷」という藩邸に住まい、武士の子弟教育の場として「講習館」という藩校も設けられました。
このような記述を見ると、徳島藩が岩屋浦の重要性を強く認識していたことは明らかです。しかしながら自分が知っている範囲の博物館等は全て訪れたり問い合わせましたが、悉く当時の岩屋浦に派遣されている藩士の記録は無いとの事でした。それが私にはとても不自然に思えました。敢えて言うなら人為的なものさえ感じました。

当家の話に戻します。
当家の由緒書によれば、楠木正儀の男子の一人である当家の祖楠木正則は室町時代に入り南朝と北朝が和睦し、時の将軍足利義満の厳命で管領畠山基国の家で幼い頃から養育されました。その後畠山家が紀伊守護となり紀伊宮原に赴任し正則も随行しました。そのタイミングで正則は初めて則岡姓を名乗り当家の祖となります。
ここで疑問が生じたのですが、正則は楠木家の男子でありながら、何故敵方の畠山家で養育されたのでしょうか?しかも将軍足利義満の厳命によってです。
そのヒントは以下の文言の中にあるかもしれません。

「南北大明神三男小次郎後次郎左衛門尉左馬頭正儀密子三男河内三郎正則」
[156]則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年06月16日 12時23分26秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

追伸
以下のURLは岩室城のユーチューブです、是非ご覧ください。山ばっかりだけど(;^ω^)

https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%9c%89%e7%94%b0%e3%80%80%e5%b2%a9%e5%ae%a4%e5%9f%8e%e3%80%80%e3%83%a6%e3%83%bc%e3%83%81%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%96&view=detail&mid=835F8FF25C6F0994F615835F8FF25C6F0994F615&FORM=VIRE
[157]空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月16日 15時09分57秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

動画
拝見しました。
ありがとうございました。

すっごく懐かしい気がしました。
母方先祖は後南朝に仕えて  自天王とその弟宮の没後  有田に降りて来て藤並のずっと奥にいたんじゃないか
という感じがします。
これはワタクシの勝手な推測と想像と空想と希望なので忘れてください。

BGMも良いですねドラマチックで。心を震わせる、そんな音調でした。
ありがとうございました。


>徳島藩から松帆台場がある岩屋浦に出向された藩士70余名が誰であったか

徳島県教育委員会に記録があるはずと思いますが
国会図書館に何か記録がありませんか?
それか
東大の歴史編纂課か?


元農兵だから記録が無いのか?


    わたくし的には塩飽島とか  どこか  瀬戸内海の島出身者が農兵になっていたんじゃないかな、と。
    塩飽島出身者だったら  幕府に抱えられたのかな  と。


記録が一般家庭にあったとしても阪神淡路大震災でゴミとして捨てられた可能性は有りますね。
もったいない事でした。


>正則は楠木家の男子でありながら、何故敵方の畠山家で養育されたのでしょうか?

やっぱり大昔からの御縁でしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
に楠木氏は駿河出身という説があって


楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)はない。

鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。

観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる

楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる

網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定

正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる

『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。


レス<153>にわたくしが記した

平姓畠山が滅亡して →   足利義純が源姓畠山を名乗るようになり
平姓畠山氏の篠塚重広が新田に仕えて   これは  要するに篠塚重広は新田一門だから  
      新田は源氏なんだから  
義満の祖父ちゃんである足利尊氏とも親戚

ということは   楠木正儀も  ウチ(足利)と親戚じゃないか
と?


ということで当たらず遠からず  
楠木正則は楠木家の男子でありながら、畠山家で養育された  
のかも。


>将軍足利義満の厳命によって

この義満という人物は地頭力の強い人ですから常人には考えつかないことを発想しますから

楠木正則はウチ(足利)の親戚なんだからウチの親戚である畠山に預けよう  
そうすれば正則は畠山の猶子というコトだ

とでも考えたのでは?



>そのヒントは以下の文言の中にあるかもしれません。
>「南北大明神三男小次郎後次郎左衛門尉左馬頭正儀密子三男河内三郎正則」

この南北大明神とは?楠正成を神格化した表現でしょうか?

楠木正成の三男小次郎  後の  次郎左衛門尉左馬頭正儀 の 密子=晩年の子? の  三男河内三郎正則  
という意味で良いでしょうか?



最近テレビで見掛ける俳優が(河内のおっちゃんの一族じゃないかな?)と思えて仕方ありません。
     恥ずかしいのでその俳優の名前は書きません。
この俳優とわたしは南朝方で繋がってるんだろうな  と淡い期待と希望を抱いています。
それにNHKのドキュメンタリーで見た楠木一族の男性がこの俳優にソックリなのです。


日本人ですから  人口の小さな武家出身の子孫なら  どこかで繋がっているでしょうね。

もう1度あの動画を拝見しに行きます。
ありがとうございました。
[158]則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年06月16日 18時24分41秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

レスありがとうございます。空の青海のあを 様は本当に有田地域周辺の事に詳しいですね。今までのやり取りを振り返ると、恐れ乍ら貴方様と私は同じ一族だったのではないかと本当に思えて来ました。
先の投稿についてですが

>そのヒントは以下の文言の中にあるかもしれません。
>「南北大明神三男小次郎後次郎左衛門尉左馬頭正儀密子三男河内三郎正則」

この南北大明神とは?楠正成を神格化した表現でしょうか?

楠木正成の三男小次郎  後の  次郎左衛門尉左馬頭正儀 の 密子=晩年の子? の  三男河内三郎正則  
という意味で良いでしょうか?

➡ご推察のとおりです。
正則が畠山家に預けられた理由は、私的には北朝が彼を人質としたのではない  かと推測しています。

>徳島藩から松帆台場がある岩屋浦に出向された藩士70余名が誰であったか

徳島県教育委員会に記録があるはずと思いますが
国会図書館に何か記録がありませんか?
それか
東大の歴史編纂課か?

➡はい、全てあたりました。
だから関係する資料が全くない事が余計に人為的に思えるのです。以前岩屋浦を訪れた時、役場の職員や住人の何人かに藩邸や屋敷跡について聞きましたが、驚いた事に誰も知りませんでした。松帆台場については、当時としては超1級の重要な軍事施設だったので、関係者以外には情報公開されなかったのだなと合点がいくのですが、藩邸や武家屋敷跡の場所でさえ市役所の教育委員会の方が知らなかったというのは驚きでした。現在松帆台場跡がある場所は、某企業の保養所の所有となっており無断で入れません。その事も世間に広まらない理由だと思っています、対岸の舞子砲台は見学自由なのにね。
しかし保養所のフロントで見学申込書を記入すれば、誰でも無料で中に入れます。またここは台場跡も当然有名なのですが、何といってもバッテラという小型攻撃船が停泊する湊跡が完全な形で残っているのです。参考までに淡路市教育員会が作製したYouTubeを貼っておきます。
因みに学校の先生は「松帆台場の研究は舞子のそれと同じ手順でやりなさい。そうすれば何か掴めるはずです。」と仰います。不思議なことに、日本遺産に指定されているほどの重要なものなのに文献的な史料が殆どないのは珍しいそうですが、何かに導かれるように出逢った史跡なので私なりに頑張ってみます。

https://www.youtube.com/watch?v=e_wSvHnI6HA




[159]空の青海のあをさんからのコメント(2021年06月17日 02時17分30秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

>正則が畠山家に預けられた理由は、私的には北朝が彼を<人質>としたのではない  かと推測しています

なるほど「人質」とは良い表現ですね。

「密子」という言葉
晩年の子か  恐らく  正儀の死後にでも誕生した子なのかも  ですね。



動画
ありがとうございました。

もう、ビックリ!
松帆台場って  和歌に描かれていた「塩」の産地でもありましたか。
全く結びつかなかったです。

そしてロシア船を見に行った庶民。
ショックだったでしょうね。
余りにも外国は豊か。
自分達の暮らしの何とみすぼらしいことか。

    太平洋戦争後の日米の差のようなものだったでしょうね。
    憧れの文化生活。
    夢の世界。


松帆台場の建設現場
これもスゴイですね。
一生懸命軍事施設を作った幕末の日本人。
数年で作ったのですからね。
日本の土木技術ってホントに非常に高度ですね。

いやぁ、もう本当に驚くばかりでした。
動画のご紹介、ありがとうございました。


動画を拝見して  今  思い出しますと  恩師に連れられて  舞子台場に行ったような?
どこかの公園に行って間欠泉みたいな噴水で恩師の子供さん達が水遊びしてたのは記憶にありますが。

    この恩師の元の出身地は千葉で
    堀田家がらみで
    堀田と言えば南朝方で我が家の父方と関係が深く
       この堀田から尾張藩の現在の当主の父君が養子に来てますし
       養子に来た時に父方のホンヤの家に挨拶に来たと聞いています
       尾張徳川当主父君が亡くなって間もなくホンヤも亡くなりました

尽きないハナシを次々と思い出します。
恩師と授業で出会って  すごく  懐かしい気がしました
まるで血で繋がったヒトのように。

    アタマ悪すぎて  成績悪過ぎて  恥ずかしいです
    神戸淡路大震災の後に恩師宅に行ったら  
      ムカシの試験用紙を出して来て ワタシがどんな学生だったか  チェックしてた
    と奥様から聞かされて 
    こんなモノこそ震災後のゴミで捨てていて欲しかったです。 


則岡流島崎氏さまともどこかで繋がっていると思います。 

きっかけは  我が家も楠正成との繋がりで  菊水紋を使用してたことですが
我が家はもともと後鳥羽上皇から寵愛を受けていたので女紋は菊です。
わたくしの礼服の5つ紋も勿論「菊」です。

だから楠正成が後醍醐天皇から菊と水を紋に拝領して我が家が菊水紋を使用するのに抵抗は無かったどころか
名誉だった  のです。


ジャニーズのKis-My-Ft2の千賀という男の子。
もともとはワタクシの母方の一族(伊予出身)で
当然南朝方で
後村上天皇や宗良親王将軍や脇屋義助(新田義貞の弟)に仕え

それで 松帆台場や舞子台場に雇われていた農兵って  
わたし達の一族のもの達=瀬戸内海の島の人々=じゃないのかな  と思いました。
    千賀さん宅は現代に至るまで尾張に定着して来ましたが。

母方は大坂にいて明治維新後は海運業を始めました。
住吉大社とがっつりです。
だから動画の祭祀の旗に住吉社と書かれていて  思わず  やっぱりね  と思いました。


偶然目にしてもやっぱり必然なのだろうと。
[160]則岡流島崎氏さんからのコメント(2021年08月12日 17時47分35秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

ご無沙汰しております。
ここ最近はCOVIDで学校の授業もZOOMなどでの遠隔授業となっています。更に外出も自粛しているので、自宅に籠る事が日常的になりました。それで暇に任せ、下記のURLのとおり則岡氏に関するWikipediaの記事を挙げました。よろしければご高覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F
[161]空の青海のあをさんからのコメント(2021年08月13日 02時02分20秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

早速拝見致しました。
スッキリ整理されていて理解し易いですね。

今後研究が進んで更に多くの情報を掲載出来ますように。


コロナ禍での研究は制約されて大変だと思いますが
感染しないよう  お気をつけくださいね。


則岡氏関係の方達の参考になるのでご先祖さまはお喜びと思います。
[162]則岡流島?氏さんからのコメント(2022年04月11日 18時08分56秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

ご無沙汰しております。
私はこの3月に、母校での2年間の博物館学芸員課程の全てを修了し、無事資格を取得しました。
しかし資格を取得したといっても、名ばかり学芸員ですので、専門分野の学問を深めるために、他校の文学部文化財歴史学科に3年次編入しました。従って更に2年間学ぶ事となります。
話は変わりますが、先日「宮原地域協議会」という有田市宮原の地域団体の方とFacebookでやり取りをしました。
有田市宮原は「空の青海のあを」 様ご存じのとおり、管領畠山氏でも嫡流筋の尾州家が岩室城を拠点として治めていた地域です。とりわけ尾州家当主の畠山政長と総州家の義就が家督争いを始め、「応仁の乱」を引き起こした事は日本史を学んだ大抵の方はご存じの日本史上有数の大事件だと思います。
そしてFacebookのコメント欄に、私はこの事を書いたのですが、お返事では生まれて初めて聞いたとありました。
分家の能登七尾家はあの大企業「荏原製作所」を創業されたり、「畠山記念館」という素晴らしい美術館を経営されておられ、居城であった七尾城も綺麗に整備され、石川県七尾市の主たる観光資源の一つともなっています。この天と地程の現状の違いを目の当たりにして、尾州家に仕えた私の祖先の事を思うと忸怩たる思いがしました。
その後和歌山県立文書館の学芸員の方とも上記についてお話をさせて頂いたのですが、驚いた事にその方も「応仁の乱」に岩室城主の畠山氏が強く関わっていた事を知りませんでした。
その瞬間これから学ぶ大学で、中世における畠山氏の紀州の領国支配について深く学びたいと思いました。場合によってはそれが卒業論文にまで昇華すれば良いなと思っています。

則岡流島?氏
[163]空の青海のあをさんからのコメント(2022年04月12日 03時50分45秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さま

博物館学芸員資格取得
おめでとうございます。

>これから学ぶ大学で、中世における畠山氏の紀州の領国支配について深く学びたいと思いました。
>場合によってはそれが卒業論文にまで昇華すれば良いなと思っています。

ですね。
良いテーマが得られましたね。
方向が既に定まったということは  やはり  ご先祖さまからパワーが来ているのかも  ですね。


わたしは  畠山重忠が大好きで  あのような最期を遂げたことが悲しくてたまりません。
「鎌倉殿の13人」はどんどん政治の闇に入って行くので  心を強くして  見なくてはと思っています。


有田は心の古里なので  則岡流島崎氏さまの研究が楽しみでございます。

たくさん書きたい事がございますが  泣けて泣けて  収拾がつかないです。
有田・湯浅・金谷その他
先祖が歩いた土地だと思うと再び涙が溢れてしまいます。


資格があれば史料に近づけますからワタクシのような一般人の参考になることをたくさんご紹介ください。
楽しみにしております。
[164]則岡流島崎氏さんからのコメント(2022年08月13日 19時58分02秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 残暑お見舞い申し上げます。 
 この夏の大学のテストやスクーリングが、コロナ渦のため全て在宅で行われることになりました。そのおかげで私は大学に通学せずに済み、冷房の効いた部屋で快適に勉強しています。
 ところで私は今の大学に3年次で入学したので、早くも卒業論文の研究テーマの報告を学校から求められ、先日報告書を提出しました。以前こちらのHPでも申し上げましたが、テーマは【「畠山尾州家」の紀伊国における領国経営と「則岡家」】としました。
 報告書を提出後、何気なくPCで遊んでいたら下記URLのサイトに辿り着きました。内容は「畠山尾州家」について深堀りしたものなのですが、その文章は素人では真似できないほどのクオリティの高さで、豊富な資料に基づき作成されていました。更にこのサイトが立ち上げられたのが今年の6月25日となっており、私の報告書の提出に示し合わせたかのように思え、このサイト主さんとのご縁を強く感じました。そして後日このサイトに自身の「畠山尾州家」に対する思いを投稿したところ、主さんからお返事をいただきました。彼もその重要性に比して、紀伊国における「畠山尾州家」の研究が浅いと感じているようでした。また「則岡家」のこともご存じで、「畠山尾州家」に関係する一族として、機会があれば調べてみたいとのことでした。

則岡流島崎氏

記事一覧 - 179(擁護派)のモノ置き場 (hateblo.jp)
[165]空の青海のあをさんからのコメント(2022年08月14日 02時10分36秒 ) パスワード

則岡流島崎さま


台風、お盆の日本に迷惑な通過ですね。
降って欲しい所に降らず、これ以上災害は止めてくれという場所にはしっかり豪雨。

       昨年比、ホノルルは全くの少雨で、節水が呼びかけられています  


則岡流島崎さま関係者の皆さまがご無事でありますように!



>テーマは【「畠山尾州家」の紀伊国における領国経営と「則岡家」】

いいですね。
でも  難しいテーマじゃないですか?
研究のし甲斐  有り過ぎ!



     紀伊は畠山政長で細川方でしたね。
     隣の大和や河内・伊賀・山城は東軍方西軍方が激突。


この人間関係を引き摺って!!!
「畠山尾州家」の紀伊国における領国経営と「則岡家」はテーマが絞られていて  なかなか貴重な研究ですね。


頑張ってくださいね。

ご先祖さまからのパワーが来ますように!
[166]則岡流島崎氏さんからのコメント(2022年09月21日 11時53分22秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 先の投稿でお話した、畠山尾州家と則岡家をテーマとした卒業研究計画書が無事承認されました。
 講評では、管領畠山尾州家の拠点を引き継いだ武家にスポットをあてた未開拓の研究分野なので、非常に興味深いとの評価をいただきました。一方則岡家の由緒や、同家が畠山尾州家のなかでどのような位置づけにあったのかを精査する必要があると指摘を受けました。そのために則岡文書影写本(東京大学史料編纂所蔵)の内容を詳細に調べることを求められました。この文書は江戸時代に入り、7代目当主久宗が、紀伊初代藩主徳川頼信公に提示した文書です。これにより畠山尾州家と則岡家の関係が公に認められ、同地域の六十人地士に任じられたと当家で伝わっています。またこの文書は、私の大叔父の代まで受け継がれてきました。したがって、いくつかあった当家の文書の中でも、この文書が最も重要なものであることは容易に想像がつきます。それを裏付けるように8代目当主久忠がこの文書の端書で、「先祖より今に至るまで大切に虫干等を致しながら代々この書状を受け継いで来たのです。」と記述しています。
 以前当家の文書の読解を専門業者に依頼すれば、莫大な費用がかかると申しあげました。さらにこの則岡文書は、当家の文書の中で最もくずされている字体で構成されており、その解読には相当の知識と経験が必要なので半ば諦めていました。
 しかし昨日ネットで専門業者を調べていると、某大学の大学院博士課程を修了された方で、日本史を研究されている方と繋がりました。そしてこちらの依頼内容を説明すると、先方は大変興味深い文書だと仰られました。そしてその解読を信じられない費用でお引き受けくださりました。完成は来年の1月末日頃だそうです。約数百年の時を経て、この文書が再び世に出るかと思うと、武者震えがとまりません。

則岡流島崎氏
[168]空の青海のあをさんからのコメント(2022年09月21日 14時31分10秒 ) パスワード

書き直し



則岡流島崎さま

良かったですね
解読をお願い出来るかたが見つかって。

専門業者にお願いしましたら  いったい  どれぐらい請求されるやら  恐ろしいですから。

         「学生割引でお願い!」というのを文科省が指導してくれると助かりますが
          とにかく親切な方に出会えて来年早々には現代語訳が読めるようで本当に安堵致しました。



則岡流島崎さまの研究で  
紀州藩のオリジナルの地士60家の1つであることが  改めて世に出る機会でもありますし
元々が  橘三千代  →  楠正成  の流れであることが  改めて公表できる機会にもなって
ご先祖さまもお喜びでしょう。


わたくしも秋の彼岸に   則岡流島崎さまよりの朗報に   これって  ご先祖さまからのパワーなの?
と驚いております。



紀州って戦国時代ややこしい土地柄だったんですよね。
雑賀氏や根来氏が有名ですが
一応秀吉によって平定されたものの
決定的な有力者が不在ということで
だから紀州徳川家は地士に恃むという苦肉の策が生まれたわけで

     土佐のような乱暴なことにならなかったのは紀州には幸運でした



それにしても  ムカシの人の筆跡
本当に読めないですよね

我が家の家書でも  顕如なのか教如なのか  余りにも崩されてて  どっちなのぉ‼怒  とわたくしには謎です。
     親子だから  まっ  いいかっ  と。



本当に良い機会を貰えましたね。
ご先祖さま方が喜んでいらっしゃるのが我が家のことのように嬉しく思います。


良い先祖を戴けたというのは子孫には誉れです。
[169]則岡流島崎氏さんからのコメント(2022年09月21日 16時33分07秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

そういえばお彼岸ですね、あなた様に教えていただいて気付きました(#^.^#)
やはりご先祖様のお力でしょうかねえ・・・
とにかく感謝感謝です!

則岡流島崎氏
[170]則岡流島崎氏さんからのコメント(2023年02月24日 14時15分48秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

ご無沙汰しております。

前回の投稿は秋のお彼岸でしたが、今回は春のお彼岸近くになります。

則岡文書の解読ですが、翻刻がようやく折り返し地点を過ぎました。

しかしながら畠山尾州家と則岡家との繋がりの深さは、現時点でも強く感じてい

ます。

どういうわけか歴代畠山家当主の書状は他者と比較して何れも難解なくずし字

で、信じられないほど格安で作業してくれているワーカーの方には申し訳ないと

いう思いと感謝しかないです。

空の青海のあを様に報告があります。

この3月20日に本家の当主を始め、全国に散らばっている20名弱の縁者が一

同に会し、有田市内の当家所縁の史跡巡りを行うことになりました。

それにあたって、市の文化財審議委員会が全面的に協力してくれることとなりま

した。

また一族の滞在中に、私がこれまで行ってきた則岡氏研究を発表する機会を与え

ていただきました。

当家のことを勉強してきて感じることは、楠木正成公の湊川の合戦から始まり、

南北朝の動乱、応仁の乱、戦国時代、大阪の陣、そして明治維新から現代へと実

に約800年もの間絶やすことなく血筋を繋いできた則岡家の強運としたたかさ

です。

また、当家所縁の市指定文化財に関する新発見もありました。

まだまだ道半ばではありますが、ようやくここまで来れたという思いで一杯で

す。 

則岡流島崎氏
[171]空の青海のあをさんからのコメント(2023年02月25日 04時31分06秒 ) パスワード

則岡流島崎さま

背筋がゾクゾクする、深くて貴重なご報告をありがとうございました。
いやぁ、ホント!
わたくしの背後に則岡流島崎さまのご先祖さまが御降臨なさったような震えを感じました。

     畠山尾州家は   日本の名家ということで  旗本としてお家が存続出来て
     徳川家康と江戸幕府には感謝ですね。


則岡家も紀州の名家として今日まで存続できてラッキーでした。



まさに!

<<<楠木正成公の湊川の合戦から始まり、南北朝の動乱、応仁の乱、戦国時代、大阪の陣、そして明治維新から現代へと実に約800年もの間絶やすことなく血筋を繋いできた則岡家の強運としたたかさ>>>

則岡流島崎さまのような  「繋ぐ」人が時代時代に存在したから  でしょうね。

則岡流島崎さまの頑張りにご先祖さまはお喜びでしょう。



>どういうわけか歴代畠山家当主の書状は他者と比較して何れも難解なくずし字で

ホント!困りますよね。
我々は  明朝体でないと読めない!
文部省による漢字の制限以前の人は好き勝手に漢字を書いてましたからね。

ただ、驚くのは
年号あたりは正確に記されていること。

西暦変換できることから、その当時、何があったのか  から  調べることができますから助かります。



>この3月20日に本家の当主を始め、全国に散らばっている20名弱の縁者が一同に会し、有田市内の当家所縁の史跡巡りを行うことになりました。

則岡氏は絶滅危惧姓ですから、日本全国の則岡さん達が、それぞれご当地で繋いでいくきっかけになると良いですね。



>それにあたって、市の文化財審議委員会が全面的に協力してくれることとなりました。

新聞などのメディアにも広く協力して頂けると良いですね。



実は20年ほど前まで上司だった人が田辺藩の林家の人で  (大学頭)
この人のことで  昨日はずっといろいろ   思い出していたのです。

ですから今朝  則岡流島崎さまの書き込みに  本当に驚きました。


春のお彼岸が近づいて、則岡流島崎さまのご先祖さまがお喜びになっていること  ワタクシにもパワーが来たのかも。


有田には母方の伯母や母にそっくりの人が今でも大勢いらっしゃるので
わたくしの先祖も喜んでいるのだと思います。
[172]則岡流島崎氏さんからのコメント(2023年03月26日 19時05分00秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

先の投稿で報告した則岡一族の催しは無事成功裡に終わることができました。この春は比較的思わしくない天気が多かったのですが、3日間の会期中は有難いことに晴天続きでした。
催しの開催にあたり、本家の所在地である和歌山県の他、東京都・大阪府・兵庫県・広島県・島根県というように、全国各地から一族の主だった者が参集してくれました。特に本家からは、先代の奥様や現当主の他、21歳になる現当主のご嫡男も参加されました。ちなみにこのご嫡男は既に3人の子宝に恵まれ、そのいずれも男子だそうで、遠祖の楠木正成公から約800年間、則岡家は男系男子の当主が繋いできたことになります。
当家所縁の史跡巡りですが、当日は宮原愛郷会・有田市語り部の会・有田市観光協会の主だった方々がご案内してくれました。そしてこれらの方々が事前に史跡や周辺の清掃や草刈りなどをしてくださり、良好な状態でそれらを見学することが出来ました。またこのツアーで当家の文書に書かれている内容のいくつかが裏付けられました。更に地元選出の県会議員も案内メンバーに入ってくださり、その模様を自身のFacebookに掲載されています。
その夜一族の方達と史跡等の話をする中でも新たな発見がありました。一例を申しますと、菩提寺にある当家の墓は現在比較的高台の中央付近にあるのですが、本家の奥様によると、元々は菩提寺の入口に入ってすぐの平地にあったとのことです。しかし昭和20年代後半に起きた大洪水により、有田市内は甚大な被害を受け、当家の墓も多大な損傷を受けました。則岡家は明治維新を契機に和歌山市へ転出し、墓の魂である位牌なども持ち出していました。したがって災害当時、当家の墓は既に中身のないものとなっていたのです。にもかかわらず、則岡家を慕う宮原愛郷会を始めとする地元有志の方々は、当家の墓を廃棄することなく逆に一等地ともいえる現在の場所に移転したとボランティアガイドの方からお話をうかがいました。
一方その逆の例もありました。当家の縁者で宮?定直という武将がいました。彼は大阪の陣で深い手傷を負い、瀕死の状態で故郷有田に辿り着きました。そして姉の嫁ぎ先である則岡家の邸宅に身を寄せ、そこで息を引き取りました。彼は臨終にあたり、8代目当主の分大夫久忠に自身の墓を井山という高台に建てるよう遺言しました。故郷の宮?城が見渡せるからです。その後則岡家が和歌山市に転出するまでこの墓は当家が管理し、彼の死後約400年経った現在も同じ場所にあります。実は先代の時代に親戚衆が集まり、この墓は高台の場所にあり墓参しづらいので、平地に移転しようと画策したことがあったそうです。しかしそれを実行しようとすると次々と不幸ごとが起き、彼らは移転を断念したそうです。先程申したように、史跡巡りにあたり、ボランティアの方々が案内する施設の清掃や草刈りをしてくれたのですが、この墓だけは道程に強靭な蔓が生い茂り、地元の方でさえも入れる状態になかったそうです。もしかすると宮?定直が移転を画策した当家の者達との対面を拒んだのかも知れないと思いました。したがって一族では私だけが彼の墓を見たことになります。
振り返ると空の青海のあを様と出逢ってからはや5年を過ぎますが、その間永年勤務した職場を退職し、母校で学芸員課程を学び、現在も某大学で歴史学を学ぶなど、則岡家との関りが私の人生を大きく変えました。そしてそのことについて私より血筋の濃い者ではなく、枝葉の私を先祖が選んだ理由について、今回の催しをとおしてなんとなくわかってきました。
ご存じのとおり現在則岡家の家宝や文書の原本は全てありません。それについて本家その他の当家の人達の話では、私の祖父が全て処分したというのです。当時先々代と祖父は遊び友達だったそうですが、経済的に困窮した本家が、比較的裕福だった島?家から借金をし、その担保として則岡家伝来の貴重な家宝や文書を差し出したそうです。その後本家は返済する金銭が出来、家宝等を引き取りに行きましたが、既に他所に売り払われていたそうです。以上が現在にいたる経緯ですが、それらを鑑みるに島?家の私がその責任をとりなさいと先祖が言っているのかなと思うようになりました。
現在取り組んでいる当家の最も重要な文書のひとつである「則岡文書」の解読作業ですが、先月末に翻刻を終えました。次はそれを現代語訳する作業ですが、本日この業務の契約を行いました。先方は東京の某有名大学で教鞭を取っておられる歴史学の専門家です。この方は本業務の意義を高く評価してくださり、他の方が提示された数分の一の金額でお引き受けくださりました。
この度の有田市での則岡家の催しが終わり、ひとつの区切りがついたように感じています。残るは卒業研究が大きなところかなと考えています。この先の進路は正直全くわかりません。
長文失礼致しました。

則岡流島崎氏
[173]空の青海のあをさんからのコメント(2023年03月27日 02時59分54秒 ) パスワード

則岡流島崎さま

貴重なお話をありがとうございました。


背筋がゾクゾクしっ放しでした
そして
涙でいっぱいになりました。


やはり   先祖を敬愛し伝えて行く!   努力すればご先祖さまがパワーを下さるのですねぇ。


3日間
お天気に恵まれて
ご先祖さまが協力してくださっていたのかも
ですね。


>ボランティアの方々が案内する施設の清掃や草刈りをしてくれた

感謝ですね。

その方達のご先祖さまも楠木正成公とご縁があったのでしょうね
もしかすると  その方達の中にも  実は・・  という方達がいらっしゃったかも

     日本人は8代遡ればみんな繋がってしまうそうですから
     思わぬ人の家から  将来  則岡家研究を引き継ぐ人が出現するかもですね
     たぶん

     そのヒトによって  則岡流島崎さまの研究が助けになり  散逸した家宝や貴重な文書が  回収できるかも    


     則岡流島崎さまのこれまでの努力で  家宝や文書が  「早く見つけて!」と居場所を主張するようになるかも。


 
現代語訳
早く完成しますように!

     まだ始まったばかりですが、待ち遠しいですね。



やっぱり「男子」が生まれるって良いですね   
「家名」が存続するって「安心材料」です。
DNA鑑定で特定できますから。


本当に貴重なお話をありがとうございました。
[174]相良四郎さんからのコメント(2023年07月17日 11時03分26秒 ) パスワード


一読させて頂いております。

差し支えなければ後学の参考にさせて下さい。
[175]則岡流島崎氏さんからのコメント(2023年08月01日 04時15分59秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 暑中お見舞い申し上げます。
 以前あなた様に話していた紀伊国守護畠山氏と則岡氏を題材として大学に提出した卒業論文計画書が無事承認されました。ただ計画書に書かれている論文の題目は長すぎると指摘がありましたので、論文の主題を「紀伊国則岡氏について」と変更し、新たにを副題を付しました。文言は「則岡氏文書群等にみる紀伊国守護畠山氏の存亡に則岡氏が果たした役割について」です。
 次のステップは、8月中旬に大学に赴き、現時点での研究の進捗状況や内容についてのヒアリングです。それを通過すれば、いよいよ論文の作成へと進んでいきます。
 話は変わりますが、以前から取り組んでいた「則岡文書(影写本版)」の現代語訳がひととおり終了しました。驚くべきことに、9割以上解読されていました。
 以下はこの度本文書の解読に取り組んでいただいた方のコメントの抜粋です。

 現代語訳の成果として『則岡系図』の疑問点(特に則岡勘解由左衛門尉貞久の生没年の問題)が浮かび上がりました。家系研究のご参考にしていただければ幸いです。(中略)
 一方で、関ヶ原の戦い前後に書かれたと思われる一連の書状(五〜八、十一、十二通目)は、紀伊守護畠山氏の滅亡から高家旗本としての再興までの空白期間を埋めるものであり、歴史学的に重要な内容を含むものと思います。専門家による検討がなされるよう望みます。
 ただし、筆跡が不明瞭のため翻刻ができず、その結果として文意不明になった箇所もあります。それについては、別本の調査により改善する見込みがあります。
 ご用意いただいた原文は、東京大学史料編纂所の閲覧室で公開されている紙焼本(かみやきぼん=印刷複写本)ですが、かすれによる判読不能の箇所も少なくありません。当方で史料編纂所に確認したところ、則岡文書の現状は以下の通りとなっています。
 原文書:所在不明 肉筆影写本:東京大学史料編纂所蔵。明治三十四年影写(請求記号3071.66-28 )と、昭和初期影写(請求記号3071.66-76 )の二本がある。どちらも原則として非公開。
 影写本の紙焼本:史料編纂所の閲覧室で公開。ここでいう「肉筆影写本」とは、原文書を手書きで透き写しにしたものをさします。
 史料編纂所は明治・昭和の二度にわたって、『則岡文書』の透き写しを行いました。このたびご用意いただいたのは、明治三十四年影写本の紙焼本のスキャンデータであり、転写に転写を重ねたために、判読が困難になったものと考えられます。(中略)
 私は東京大学卒業生であり、現在も大学の近傍に住んでいるため、史料編纂所の利用が容易です。そのため、肉筆影写本の調査・撮影をお引き受けして、則岡文書解読をさらに進めたいと思っております。

 つまりこの方は、本文書に歴史的価値を見出し、個人的に研究を継続されるということです。近い将来この文書から発見した新たな成果が、歴史学の表舞台に立つことを切に願っています。
 また本文書のうち、以下の⑴〜⑷の書状は特に興味深く感じられました。
具体的には、
・当家と豊臣家との間に以外に深い縁があった事。
・関ケ原の合戦直前の緊迫した雰囲気が感じられる点。
・最後の紀伊国守護畠山貞政が流浪の身でありながらも、嫡男鶴千代(後の江戸幕府高家職畠山政信)に対し、ひとかたならぬ愛情を注いでいたと感じる点。
・流浪中の畠山貞政が、当家を始めとする家臣に送った書状の内容の人間臭さ。
・畠山家が高家職として、江戸へ転出して以後も、当家との交流が続いていた点。
です。
長文となりますが、ご高覧いただけたら幸いです。(というか、もうこの時点で長文になってますね(^-^;)

書状⑴
【現代語訳】
よい機会なので申し入れます。
太閤様のお相手になるものを一昨日抜きましたので、ご安心ください。
(太閤様は)一段とご機嫌よくいらっしゃいます。
さて、中納言様のご病気はこのごろいかがでしょうか。心配しております。早くご養生なさるのがよいと思います。
おついでの時に、よいようにお取次ぎください。
恐々謹言
木下大膳
十一月八日
【概要】
文禄三年(一五九四・推定)十一月八日 豊臣秀吉の側近・木下大膳大夫吉隆の書状。木下吉隆は文禄二年(一五九三)十月に大 膳大夫就任、文禄四年八月に失脚する。さらに文中の「中納言様」は文禄四年四月に病死した豊臣秀保と考えられるので、本書状は文禄三年と推定できる。史料編纂所本の書入れでは、本書状の宛先は則岡貞久とされている。一方で、『紀伊続風土記』では貞久の子・則岡三平久宗宛と明記されている。久宗は岩室落城後に、秀保の養父・豊臣秀長に仕えたので(『則岡系図』)、本書状の宛先として自然である。ただし同系図では久宗が秀長の死後(天正十九年/一五九一)すぐに浪人したことになっているが、本書状から、実際には秀保の代まで仕えていたと考えられる。本書状が吉隆の真筆かどうか確証はないが、もし信用できるものとすれば、則岡家の動向だけでなく、豊臣秀保の病状(ひいては、豊臣秀長家の断絶に至る事情)まで窺い知ることができる貴重な史料といえる。

書状⑵
【現代語訳】
〈本文〉
久しく手紙をいただいていないので、そちらの様子をうかがいたいと思っております。
聞くところによれば、又六の妻が病気だそうで、さぞご心配だろうと推察します。
申すまでもありませんが、ご油断なく養生することが肝要です。
小次郎は長らく逗留して、これまた心底を□かしく申すことです。ぜひぜひ解決するための方策は、申すまでもないことですが、(そなたの)分別が肝要だと思います。
天下は静謐になるだろうと取りざたされており、そなたにとってもめでたいことです。
五将も伏見・大坂(に滞在している?)だとか聞いています。ずいぶんお待ち申し上げています。
我々の…… のことも引き受けにくいところなので、先々になったら鶴とあちらへ問い合わせることになるかと思います。
詳しくは市太夫が申し上げます。頓首
三月二十五日政宣(花押)
天満より 浄教殿
〈追而書@〉
とかくお気遣いなさっていることと推察します。ずいぶんご養生が肝要と思います。
私どもも昼夜屋敷に詰め続けて、終わりが見えないというていたらくで、このように(あなたのことを遠方から)察するばかりです。
伏見・大坂については、まだまだ雑多な風説が流れているようですが、「いずれにして も静謐になっていくのだろう」とも取りざたされており、何も見通せない状態です。 詳しくは蔵主へよく伝言してください。 (また手紙を書くことのできる機会)をお待ちします。
〈追而書A〉
お手紙で詳しく承りたいと思います。
【概要】
慶長四年(一五九九・推定)三月二十五日 畠山民部少輔政宣より浄教宛の書状。小二郎(小次郎)の件の決着が長引いているらしく 、浄教に判断を仰いでいるようである。文中に、天下は静謐に向かっているが、伏見と大坂との間で「雑説」が流れてているという記述がある。伏見城が存在したのは文禄元年(一五九二)から元和九年(一六二三)までの短期間であり、特に、伏見・大坂間の政治的緊張は、豊臣秀吉没後の情勢をさすと考えられる。豊臣秀吉の死後、秀頼が慶長四年(一五九九)正月に大坂城に入り、徳川家康が同年三月十三日に伏見城に入った。したがって本書状も慶長四年か。「又六女房」が患っているとの記述があり、これは八通目に続くことになる。

書状⑶
【現代語訳】
お手紙を拝見しました。
このたびは市太夫が下向した際に丁寧なお心付けをいただき、涙を流してこの上なく満足した次第です。 ただ、すぐにご意見の通りに(私も紀州へ)下向したいと思うのですが、大坂の天満辺りにあれこれと取り乱しているので、それを大方片づけて、今月か来月には必ず女房衆を下向させるつもりです。
(一方、)ひの木山次右衛門が、筑前中納言殿のもとに(仕えて)いて、彼が道中から申してきたことは、 「なにとぞ(貞政たちのことを)中納言殿の耳へ入れて、我々(貞政たち)を専属の家臣にしてもらい、備前領地の片隅にでもいられるようにお世話したい」と申してきました。
あまりに親切に申してきたことなので、(次右衛門の誘いに乗り、筑前からの)返事を聞き届けたいとも思いますが、(そなたたちは)どう考えますか。
そのほか、次郎兵衛なども、「よい伝手を頼って浅野大夫殿にお抱えいただき、この辺にでも、あるいはどこでもいいので少しの(領地を?)作って、安心して落ち着けるようにしたい」と内談しています。
きっと実現する話でもないでしょうが、人々がこのように見立ててくれているので、ただ一応の(筑前や浅野からの)返事を聞いたうえで、(話が決着してから、私は紀州へ)下向しようと思います。
今月中には(返事を)聞くので、来月には必ず、女房衆もともに下向させます。
このような(他家への仕官という)話が、そうそう実現するとも思えませんが、親切に申し出てくれたものを、さっさと振り切って(紀州へ)下るのもいかがなものかと思うので、もう少し聞き合せようということでお願いしているのです。
以上の件について、(そなたたちへ)申し入れます。
その時(=仕官が決まるか、下向 の時が決まった場合)は、ご面倒ながら、よろしくお願いします。
鶴千代のことは…… (判読不能)。
(鶴千代を?)一日か二日後に下向させるので、先にそなたたちへ下し置きます。
したがって、七日に(鶴千代を)こちらから出発させるつもりなので、その心得で早馬をよこし、山口か山中まで(迎えに来て?)ください。
たびたび申すのも面目を失い迷惑千万なことで、(外聞?)を顧みずにたいそうなことばかり申し入れるのも言語道断なことで、何とも言いようのない次第ですが、それでもやはり、(次右衛門や次郎兵衛が)親切に言い聞かせてくれることですから、とにかく頼んでみているのですが、それでも仕官が叶わない場合、とりわけ鶴千代のことは、ひとえに (そなたたちに)任せます。
そなたたちに然るべく任せているので、本当に、そなたたちの心遣いには満足し、感じ入るばかりです。
鶴千代のことは、我らに(かまわず?)とも、とにもかくにも、(そなたたちに)よいようにお任せします。 (私が)もう少しの間、下向せずにいることは、決して(そなたたちへの)隔意ではないことは右に述べた通りなので、そのように心得てください。
こちらから経過を知らせるので、その時(下向できる時機が来た時)は、女房衆のお迎えを頼みます。船便が空いていれば、船で来月ごろには(女房衆を)下向させます。そのこともこちらから内々に伝えるので、(女房衆を)連れ帰るよう、(そなたたちに)お願いしなければなりません。
(その事たゝくたかましきにハ無御座候:文意不明) 各々の返事(=仕官についての、次右衛門や次郎兵衛からの返答か。あるいは、手紙に 対する、無寅たちからの返事か)聞き届けてから、(私は紀州へ)下向するつもりです。
この件がうまく処理できる、というわけにはなかなかいかないのですが、(他家への仕官を)勧めてくれる人々への(建前として、下向を延ばしている、という意味か)。
とにかく、鶴千代のことをひとえに頼みます。
めでたくかしく
十一月五日 玄心
無寅
道無     玄心
□教
〈追而書〉
追伸。お心付けをとても嬉しく思います。
鶴千代を…… どうも病気のようなので、まずはそなたのもとで養生させるように、あれこれ頼んでおります。万事は…… (以下文意不明)。また重ねて申し入れます(=また手紙を書きます)。
【概要】
慶長五年(一六〇〇・推定)十一月五日 玄心(畠山左衛門佐貞政の法名)より、無寅・道無・□教(浄教か)宛の書状。浄教・ 道無は則岡貞久・能久兄弟の法名だが、年齢上の問題がある。
文中に「ちくせん中納言」「備前領知」とあるので、小早川秀秋が関ケ原の戦功により 備前岡山藩主となった慶長五年(一六〇〇)の書状と推定。
畠山貞政(一五五七― 一六四一)は最後の岩室城主。
天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉の紀州征伐により落城し、畿内を流浪したのち、同十六年に摂津国小平野庄(兵庫県神 戸市兵庫区平野)に隠棲したという。
本書状によれば、関ケ原戦後の諸大名の転封を好機として、小早川秀秋や浅野幸長への仕官を検討していたことがわかる。
全体としては、貞政自身は仕官話が整うまで大坂に留まるつもりであり、決して紀州の家臣を見捨てたわけではないことをたびたび弁明しているらしい。
また、鶴千代を先に下向させるので、その養育をすべて一任すると述べ、繰り返し頼み込んでいる。

書状⑷
【現代語訳】
お祝いとして蜜柑一籠をいただき、満足しました。
私どもはますます健康に暮らしているので、ご安心ください。頓首
民部
二月十五日
則岡文太夫殿へ
【概要】 貞享三年(一六八六)二月十五日 畠山民部少輔基玄より則岡文太夫(分太夫久忠か)宛の書状。お歳暮の蜜柑の礼状。 畠山基玄(一六三六― 一七一〇)は玄心(貞政)の孫、政信の子。高家に列し、徳川綱 吉の信任を受けて側用人・奏者番を歴任した。
[176]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月01日 09時28分51秒 ) パスワード

則岡流島崎さま

ありがとうございます。


懐かしい固有名詞が出ていて嬉しく思いました。
    岩室城       有田はわたくしの故郷でもありますから
    木下大膳      泣けますね  政治の世界は実に残虐ですね
          など。


全く知らなかった表現も教えてくださって、ありがとうございました
    「肉筆影写本」とは、原文書を手書きで透き写しにしたもの

          お経を写す時などにやってましたが言葉は知らなかったです
          など。


いやぁ、すごい!


落ち着いたら国会図書館にも寄贈なさってください。
    と、思いましたが  学問の世界の掟は  なかなか難しいですね。

    「らんまん」を見ていて
         学者間の引っ張り合い
         学歴の重要性


とにかく   論文を書き上げ  学位を取得出来たら  次に進めますね。
大変な作業の上に精神的肉体的疲弊も待ち構えていますが
頑張ってください
則岡氏について  幅広い世界の研究者と  親しく交流できるのを楽しみになさって。



>お歳暮の蜜柑の礼状

くすっ、と笑いました。
さすが!



いいですね

ご先祖さまが日本史の中に確かに存在していたことが記されていて   且つ  認められているなんて。
ご先祖さまが大変な思いをして守って来たお家のアイデンティティが21世紀に世に出るなんて。

子孫として役目を1つ果たせた!
ですね。



まだまだ9月半ばまでは暑い日々が続きます
お身体を壊さないよう  論文を完成させて  学位取得!  果たしてください。
ものすごい重圧が  ちょっとでも軽くなりますように  と祈っています。
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