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 投稿番号:100712 投稿日:2004年11月09日 22時59分02秒  パスワード
 お名前:今市屋平右衛門の子孫 URL=http://www.cometweb.ne.jp/ara/
水鏡
キーワード:水鏡
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

水鏡 日本文学叢書本 上をJ−TEXTにて公開しました。
平家物語にも登場する人物が多数登場します。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月10日 02時22分51秒 ) パスワード

まだ第三十一代 欽明天皇 ですね。
楽しみにしております。
ぺこり
[2]今市屋平右衛門の子孫さんからのコメント(2004年11月13日 15時28分49秒 ) パスワード
URL=http://www.cometweb.ne.jp/ara/

11月12日に、水鏡 日本文学叢書本 中をJ−TEXTにて公開しました。
今月中に完了予定です。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月14日 01時37分46秒 ) パスワード

楽しみです。


>今月中に完了予定です。

ペース速いですね。
お身体にはくれぐれもお気を付けてくださいね。
[4]富山県四鏡の会 今井鏡四郎さんからのコメント(2004年11月21日 22時38分06秒 ) パスワード
URL=http://www.cometweb.ne.jp/ara/

11月20日に、水鏡 日本文学叢書本 全巻をJ−TEXTにて公開しました。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月21日 23時40分07秒 ) パスワード

ありがとうございました。
百川の娘との間にも男子をもうけてこの子が天皇になっているんですねえ。



  第五十一代 桓武天皇
 次の御門、桓武天皇と申しき。 光仁天皇の第一の御子。 御母、贈正一位乙継の女、皇太夫人高野新笠なり。 宝亀四年正月十四日、東宮に立ち給ふ。 御年三十七。 その程の事、百川が力を入れ奉りしさま、光仁天皇の御事の中に申し侍りぬ。 天応元年辛酉四月二十五日、位に即き給ふ。 御年四十五。 世を知り給ふ事、二十四年なり。 延暦元年五月四日、宇佐の宮託宣し給ふやう、「われ、無量劫の中に三界に化生して、方便をめぐらして衆生を導く。名をば大自在王菩薩となんいふ」と宣ひき。 尊く侍る事なり。 同三年五月七日、蛙三万ばかり集まりて三町ばかりにつらなりて、難波より天王寺へ入りにき。 この事、都遷りのあるべき相なりと申しあへりし程に、二十六日に山城の長岡に京たつべしといふ事出で来て、人々を遣はしてその所を定めさせ給ひき。 六月に長岡の京に宮造りを始めさせ給ふ。 諸国の正税六十八万束を大臣以下参議已上に賜ひて、長岡の京
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の家を造らしめ給ふ。 十一月八日の戌の時より丑の時まで、空の星走り騒ぎき。 十一日戊申、長岡の京に遷り給ふ。 同四年七月中の十日頃に、伝教大師比叡の山に登りて住み始め給ひき。 生年十九にぞなり給ひし。 八月に奈良の京へ行幸侍りき。 去年、京、長岡に遷り〔に〕しかども、斎宮はなほ奈良におはしましゝかば、伊勢へ下らせ給ふべき程近くなりて行幸ありしなり。 長岡の京には中納言種継留守にて候ひしを、御門の御弟の早良の親王、東宮とておはせしが、人を遣はして射殺さしめ給ひてき。 事の起りは、御門、常にこゝかしこに行幸し給ひて、世の政を東宮にのみ預け奉りしかば、天応二年に佐伯今毛人といひし人を宰相になさせ給ひたりしを、御門帰らせ給ひたりしに、この種継、「佐伯の氏のかゝる事はいまだ侍らず」と御門に申ししかば、宰相をとり給ひて三位を経させさせ給ひてしを、東宮よに口惜しき事に思して、「種継を賜はらん」と申し〔給ひ〕しを、御門むづかり給ひて、さらに聞き給はずして、この後、東宮に政を預け奉り給ふ事なくなりにしを、安からず思して、その
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隙を年頃窺ひ給ひつるに、よき折節にて、かくし給ひつるなり。 御門、奈良より還り給ひにき。 丙戌の日、行幸はありて、今日は壬辰の日なれば、七日といひしに還り給へりとぞ覚え侍る。 この頃は忌むなど申すとかや。 かくて十月に東宮を乙訓寺に籠め奉り給へりしに、十八日までその命、絶え給はざりしかば、淡路の国へ流し奉り給ひしに、山崎にて亡せさせ給ひにき。 延暦七年に去年の冬より今年の四月まで五月の程雨降らで、世の人この事を歎きしに、御門、御湯殿ありて御身を清めて庭におりて祈り請ひ給ひしかば、しばしばかりありて空暗がり雲出で来て、たちまちに雨下りて世の人喜ぶ事、限りなかりき。 今年伝教大師比叡の山に根本中堂を建て給ひき。 生年二十二にぞなり給ひし。 やがて今年とぞ覚え侍る、弘法大師讃岐より京へ上り給ひて、生年十五にぞなり給ひし。 同十年八月辛卯の日の夜、盗人伊勢大神宮を焼き奉りき。 今も昔も人の心ばかりゆゝしきものは侍らず。 十月に東宮伊勢へ参らせ給ひき。 御病の折の御願とぞ承りし。 この東宮と申すは平城天皇
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におはします。 同十二年に今の京の宮城を造り給ひき。 同十三年十二月二十二日辛酉、長岡の京より今の京に遷り給ひて、賀茂の社に行幸ありき。 同十五年に御門東寺を造り給ふ。 今年、又、藤原伊勢人といひし人、貴船の明神の御教にて鞍馬をば造り奉りしなり。 同十七年〔三月〕に勅使を淡路の国へ遣はして、早良の親王の骨を迎へ奉りて大和の国八嶋の〔御〕陵に納め給ひき。 この親王流され給ひて後、世の中心地おこりて人多く死に亡せしかば、御門驚き給ひて御迎へに二度まで人を奉り給ひし、皆海に入り波に漂ひて命を失ひてき。 第三度に、親王の御甥の宰相五百枝を遣はしき。 殊に祈り請ひて平かに行き着きて渡し奉りしなり。 七月二日、田村の将軍清水の観音を造り奉り、又我が家を毀ちわたして堂に建てき。 同十九年七月己未の日、御門「思ふところあり」と宣ひて、前東宮早良親王に尊号を奉り、崇道天皇と申す。 又井上内親王を皇太后に崇め奉るべき由、仰せられき。 各々おはしまさぬ後にも怨みの御心を鎮め奉らんと思し召しけるにこそ侍るめれ。 同二十一年正月十九日、
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和気の広世、高雄の法華会を行ひ始めき。 九月二日、伝教大師唐土へ渡り給ひて天台の教文を伝ふべき由の宣旨を下され侍りしなり。 十月に維摩会をもとのやうに山階寺にて行ひて、永くほかにて行ふべからざる由、宣旨を下さる。 これより先には長岡にして行はるゝ事もありき。 又奈良の法華寺にても行はれしなり。 同二十二年閏十月二十三日、伝教大師筑紫におはして、唐土へ平かに渡り給はんの御祈に、竈門の山寺にて薬師仏四体を造り給ひき。 同じき二十三年五月十二日、弘法大師生年三十一と申ししに唐土へ渡り給ひき。 七月に伝教大師同じく唐土へ渡り給ひき。 同二十四年六月に伝教大師唐土より帰り給ひて天台の法文これより弘まりしなり。
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