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 投稿番号:100708 投稿日:2004年10月27日 22時48分24秒  パスワード
 お名前:今市屋平右衛門の子孫 URL=http://www.cometweb.ne.jp/ara/
「保元物語」
キーワード:保元物語
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

10月25日、J−TEXTにて「保元物語」流布本をアップしました。
「平家物語」とも関連が有ります。
「平治物語」も近日公開予定です。

平家物語協会 今市屋藤四郎

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 02時10分11秒 ) パスワード

今市屋平右衛門の子孫さま

感激です〜
早速お邪魔します。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 02時20分41秒 ) パスワード

これが読みたかったです:


『官軍方々手分けの事』

内裏にも此よし聞えければ、同五日、めされて参る武士は誰々ぞ。
まづ下野守義朝・陸奥新判官義康・安芸判官基盛・周防判官季実・隠岐判官惟重・平判官実俊・新藤判官助経、軍兵雲霞のごとく召具して、高松殿に参じけり。

(略)

明れば六日、検非違使ども、関々へ越けるに、基盛宇治路へ向ふに、白襖の狩衣に、浅黄糸の鎧に、うはおりしたる烏帽子の上に、白星の冑をき、切符の矢に、二所藤の弓もち、黒馬に黒鞍をきてぞ乗(っ)たりける。其勢百騎計にて、基盛、大和路を南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎ばかり、ひたかぶとにて、物の具したる兵廿余人、上下卅余人、都へ打(っ)てぞ上りける。基盛、「是は何の国よりどなたへ参ずる人ぞ。」と問せければ、「此程京中物忽のよしうけたまはる間、その子細を承らむとて、近国に候者の上洛仕にて候。」と答。

基盛打むかひて申けるは、「一院崩御の後、武士ども上洛の由叡聞に及間、関々をかために罷むかふ也。内裏へ参る人ならば、宣旨の御使にうち列て参じ給へ。然らずはえこそ通し申まじけれ。かう申は、桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳。」とぞ名乗(っ)たる。

(略)


『親治等生捕らるる事』
去程に高松殿には、基盛すでに凶徒と合戦すと聞えければ、兵、我も<と馳来る。基盛、たかき所にうち上りて下知せられけるは、「敵はたゞ其勢にてつゞくものもなし。御方多勢なれば、をの<組で一々に搦取(っ)て見参に入よ、伊賀・伊勢の者ども。」と申されければ、伊藤・斉藤、弓手・妻子より馳よりて、一騎が上に五六騎七八騎落かさなれば、親治たけく思へ共、力なく自害にも及ばず生捕られにけり。誠に王事もろい事なき謂にや、宗徒のもの共十六人からめ取(っ)て、基盛、射向の袖に立たる矢どもおりかけ、郎等あまた手負せ、わが身もあけに成(っ)て参内し、此由を奏聞して、又宇治へぞ向はれける。親治をば北の陣を渡して、西の獄にぞ入られける。主上御感の余に、其夜臨時の除目おこなはれて、正下四位になされけり。聞書には、「宇野七郎親治己下、十六人の凶徒、搦まいらする賞なり。」とぞ記されける。 
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 02時23分51秒 ) パスワード

基盛さま17歳の大手柄。
当時は数え年ですから満16歳の年の初陣ですね。


[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 02時53分09秒 ) パスワード

十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。

折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。


清盛にあひしたがふ人々には、弟の常陸守頼盛・淡路守敦盛・大夫経盛・嫡子中務少輔重盛・次男安芸判官基盛、郎等には、筑後の左衛門家貞・其子左兵衛尉貞能・与三兵衛景安・民部太夫為長・其子太郎為憲、河内国には草苅部十郎太夫定直・瀧口家綱・同瀧口太郎家次、伊勢国には古市伊藤武者景綱・同伊藤五忠清・伊藤六忠直、伊賀国には山田小三郎惟之、備前国住人難波三郎経房、備中国住人瀬尾太郎兼康を始として、六百余騎とぞしるしたる。


兵庫頭頼政に相随兵誰々ぞ。先渡辺党に省播磨次郎・授薩摩兵衛・連源太・与右馬允・競瀧口・丁七唱を始として、二百騎計也。


佐渡式部太夫重成百騎、
陸奥新判官義康百騎、
出羽判官光信百騎、
周防判官季員五十騎、
隠岐判官惟重七十余騎、
平判官実俊六十余騎、
進藤判官助経五十余騎、
和泉左衛門尉信兼八十余騎、

都合一千七百余騎とぞしるしたる。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 03時01分56秒 ) パスワード

為朝の活躍:


巻之二
『白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事』 


安芸守は、二条河原の川より東、堤の西に、北へ向(っ)てひかへたり。その勢の中より、五十騎計先陣にすゝんで推よせたり。

「爰をかため給ふは誰人ぞ、名のらせ給へ。かう申は、安芸守殿の郎等に、伊勢国の住人、古市伊藤武者景綱、同伊藤五・伊藤六。」とぞ名乗ける。

八郎是をきゝ、「汝が主の清盛をだにあはぬ敵と思ふなり。平家は柏原の天皇の御末なれども、時代久しく成下れり。源氏は誰かはしらぬ。清和天皇より為朝までは九代也。六孫より七代、八幡殿の孫、六条の判官為義が八男、鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引しりぞけ。」とぞの給ひける。

景綱、「昔より源平両家天下の武将として、違勅の輩を討に、両家の郎等、大将射る事、互に是あり。同郎等ながら、公家にもしられまいらせたる身也。其故は、伊勢国鈴鹿山の強盗の張本、小野の七郎をからめて奉り、副将軍の宣旨をかうぶりし景綱ぞかし。下臈の射矢、立歟たゝぬか御覧ぜよ。」とて、能引ていたれども、為朝是を事ともせず、「あはぬ敵と思へ共、汝が詞のやさしさに、箭一つたばん。請て見よ。且は今生の面目、又は後生の思出にもせよ。」とて、三年竹の節近なるを少をしみがきて、山鳥の尾をも(っ)て作だるに、七寸五分の円根の、箆中過て、箆代のあるを打くはせ、しばしたも(っ)て兵ど射る。眞前に進だる伊藤六が、胸板・押付かけず射とをし、余る矢が、伊藤五が射向の袖にうらかひてぞ立(っ)たりける。六郎は矢場に落て死にけり。

伊藤五、此矢を折かけて、大将軍の前に参(っ)て、「八郎御曹司の矢御覧候へ。凡夫の所為とも覚候はず。六郎すでに死候ぬ。」と申せば、安芸守を始て、此矢を見る兵ども皆舌を振(っ)てぞおそれける。景綱申けるは、「彼先祖八幡殿、後三年の合戦の時、出羽国金沢の城にて、武則が申けるは君の御矢に当る者、鎧・冑を射とをされずと云事なし、抑、君の御弓勢を、たしかにおがみ奉らばやと望ければ、義家革よき鎧三領重て、木の枝に懸て、裏表六重を射とをし給ひければ、鬼神の変化とぞ恐ける。是より弥兵共帰伏しけりと、申つたへてきく計なり。眼前にかゝる弓勢も侍るにや。あなおそろし。」とぞおぢあへる。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 03時09分31秒 ) パスワード

大庭景親の先祖・鎌倉権五郎景正は左の目を射られたのでしたか:


是をも事ともせず、我さきにと懸ける中に、相模国住人、大庭平太景能・同三郎景親、眞前に進で申けるは、「八幡殿、後三年の合戦に、出羽国金澤の城を責給し時、十六歳にして軍の眞前懸、鳥の海の三郎に左の眼を冑の鉢付の板に射付られながら、当の矢を射返して、其敵をとりし、鎌倉の権五郎景正が末葉、大庭平太景能、同三郎景親。」とぞ名乗(っ)たる。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月28日 03時13分52秒 ) パスワード

「保元物語」はいいですね〜
感謝です。


軍記物の原型ですね。
「血沸き肉踊る」ですね。
12世紀の日本が実に生き生きと描写されている。
[8]田中愛造さんからのコメント(2004年10月30日 20時36分53秒 ) パスワード

 かって私は、安岡氏の家系を調べるのに「保元物語」を読んだのは、未だ記憶に新しい。其れは平氏流始祖とされる平忠正一家の誅殺であった。
 (「保元物語・中」忠正・家弘等誅せらるる事)で、当時、当代随一の学者で文化人と称されし少納言入道信西(藤原通憲)の助言として、権力者清盛の決断に、私は憤懣をおぼえ、以来、信西の御子孫には何の恨みも無いものの歴史上の嫌悪する一人となってしまった。家系を調べると其の家を愛してしまう傾向は、そうで有って欲しいと云う願いが脳裡を左右する。冷静で居られない自分はまだまだの者かとも思います。
[9]箱柳永田さんからのコメント(2004年12月20日 02時04分52秒 ) パスワード

田中愛造さん
>平忠正一家の誅殺であった

同感です、この戦いは裏側では、藤原と源氏の勢力争いで、勿論平氏は藤原のしたで行動する事になる筈でした、戦力は互角と視ていいと思います。
 清盛の裏切り(私も冷静な態度は取れません)で戦力は極端に偏り、結果は
皆様ご存知のとうり、その他の平氏は(藤原の没落と共に)衰退の道を辿ります。
 清盛にもう少し没落した平氏に対する配慮があれば、日本史はもう少し違う物になると思う此の頃です。
 平氏が清盛一族に、うらみを晴らす手段として頼朝を担いだのは妥当な選択だと思います。  
[10]田中愛造さんからのコメント(2004年12月22日 20時56分10秒 ) パスワード

箱柳の永田様
 コメント戴き有難うご座居ます。ん、金一先生?其れは兎も角。何時も素晴らしい考察を拝見致し勉強させて頂いて居ります。
 三百五十年という長きに渡り、死刑が行われずに居た時代に藤原通憲(信西)に依って復活した事実は、何を意味する物か。物語の作者は「・・死罪を止らるる由傳聞て、それも出家して安芸守の許に出にけり。・・ここかしこより這出て、悉くきられにけるこそ無ざんなれ。」と。350年とは江戸期に匹敵する。
 信西の子に、義朝の女を袖にして清盛の女を娶わせて、不和に生ったは仕方が無いが、(大事を為すには小事これまた滅す)大博学者が、聖徳太子の憲法を履き違えた如くは。憤慨と云うより寧ろ哀れに見えるのは、無学な私だけかも知れません。
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