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 投稿番号:100699 投稿日:2004年10月10日 19時08分47秒  パスワード
 お名前:福田雄三
都落ちの平家と宇佐神宮
キーワード:宇佐→門司柳の御所
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

関門海峡の近くに住んでいます。
門司の大里(内裏)も下関の赤間神宮もなじみの場所ですが、宇佐神宮と平家軍団との関係がよく解りません。教えていただければ幸いです。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 00時36分36秒 ) パスワード
  

福田雄三さま

宇佐神宮のことは「検索」を利用なさいますと14ぐらいヒットすると思います。
「平熱」の検索のところに「宇佐神宮」と入力なさって
「全文」を選んで「3」日のところでは3をカーソルで消して
クリックなされば出ます。


結局は
宇佐神宮のエライ人と平家が閨閥関係・姻戚関係で
安徳天皇が入水なさったというお話は本当は宇佐神宮のお子さまが身代わりにおなりになった
早い話が安徳天皇とは従兄弟関係だからどっちにしろ二位の尼にすれば「お孫さん」。
安徳天皇生存説にはこの宇佐神宮のお子さまが絡んでいる、と。

安徳天皇生存説と入水説では宇佐神宮のお子様が身代わりになったというのが1番説得力があると思います。

確かそんな記憶です。
間違ってたらごめんなさい。
大幅に間違ってたらこのレスは消しますからご連絡を>どなたか(ぺこり)


神宮というのはそのものズバリ皇室関係ですから
宇佐神宮とは非常に位の高い存在であらしゃいまして
天皇家関係ですから平家に限定なさるより皇室でお考えになるのが良いと思います。


平家は九州でも絶大な力を持ってましたし
そこに天皇と結婚した徳子さんの妹が嫁さんとして来て?・・・・絡んできて・・・


さらに宇佐神宮は「神宮」ですから鎌倉幕府も手が出せなかったと思いますね。
[2]西海大寺さんからのコメント(2004年10月15日 19時13分20秒 ) パスワード
  

福田雄三さま

宇佐神宮の歴史のたった一部の話しなんですけど、我が家のルーツを調べていて判った事をお伝えしますね。私の先祖は代々佐賀県の小城郡小城町三間寺という地域にすんでおりました。そこに現存する円通寺という(現在は臨済宗)の寺があり、先祖はその寺の守護職をしておりました。まあ、俗に言う寺侍の侍頭の家です。しかし、この円通寺なんですが、起源は相当古く、辿ると南都六宗の頃から存在し、国教としての仏教を司っていたようです。九州の仏教布教の総本山としての扱いを受けてきた寺となるのですが、この円通寺は歴史の流れに従うかの如く何度も宗派を変えているんですよ!密教の時代もあり、黄檗宗の時代もあり、そして現在では臨済宗なんですけど。さて、一体この寺と宇佐神宮がなぜに関係しているかと申しますと、この寺が黄檗宗から臨済宗に変わったきっかけがどうも宇佐神宮にあるみたいなんです。そして、その宇佐神宮と円通寺の橋渡し役となった僧が、なんと、九州は蒲池の出身なんです。ご存知とは存じますが、この蒲池氏は九州では最も平家と関係が深いともいえる一族です。いや、平家の九州姓が蒲池だったと言っても過言ではないと思います。
この蒲池氏から、ある少年(後の僧)が黄檗の教えを修めようと、佐賀県小城町の黄檗宗の寺院に修行に来られました。そして、その少年は立派な青年となり、檀に入って僧となりましたが、何故か黄檗の教義に矛盾を見出していました。そこでこの僧は、宇佐神宮へ「神の教え」を学びに旅立ちます。そして宇佐神宮で、神からのお告げとして、「お前が探しているものはここには無い。本当に見つけたければ東へ進め!」と命ぜられ、僧は黄檗の衣を脱ぎ捨て、一路中国大陸へ渡ります。
ここで、僧は臨済の教えに出会い、感化され、日本へその教義を持ち帰ると同時に、宇佐神宮へお礼参りに出ます。そしてその御礼として、宇佐神宮の境内に「円通寺」という仏閣を設けました。 ちなみに、それとほぼ同時に、我が家の佐賀「円通寺」も改宗し、臨済宗となり、全国の三大総本山として、鎌倉建長寺、京都南禅寺、そして佐賀円通寺として扱われる事になるのです。この仏教界の革命児はその名を「神子栄尊」と称し、自らを「神の子」と認める仏教僧という悟りの境地に到達しました。

ここで、注目していただきたいのが、「なぜ黄檗宗の人間が神道の神に答えを求めたか?」という疑問です。是は恐らく、神子栄尊は「神」に答えを求めに宇佐神宮へ参ったのではなく、「自分のルーツ(先祖)」に答えを訊きたかったのではないでしょうか?そして、「神」として扱われる「自分の先祖」と、「仏」の教えと存在をどうにかして両立できる教義を生涯探し求めた結果、中国大陸でであった「臨済宗」と「禅」の思想に結果を見出したのかもしれません。今でも、我が家に伝わる不思議な言い伝えがあります。

「その昔、円通寺の一番背が高い柿木の一番上の枝に、筑後の田舎から山猿が飛んできてひっかかり、身動きがつかなくなっていた。それを和尚は助けて育てたら、山猿は立派に独り立ちを果たした。そして、後に山猿は円通寺に恩返しをした。」

推測ですが、この話しの「筑後(ちっこ)の山猿は、幼少時代の神子栄尊で、普通なら、「登る」柿木に上から飛んできたというのは、それだけ円通寺に学びたい要素があったと思われ、その後宇佐神宮を経て中国で学び、帰ってきた栄尊は御礼として「円通寺」に臨済宗を届け、又、同じ名前の寺を宇佐神宮の境内に奉納することで、神(先祖)と仏の共存できる環境を築いたと考えられます。そして、実質、大分「円通寺」は佐賀「円通寺」の飛び地と考えられ、佐賀「円通寺」はバックボーンに宇佐神宮を身にまとう事となり、大分〜北九州にかけて領地を頂戴するに至ったと。
事実、この後に、佐賀「円通寺」は北九州の「宗像大社」と領地の奪い合いで大喧嘩を巻き起こし、その仲裁に九州千葉氏が入るほどの一触即発状態になっていたとの事です。つまり、その時に私の先祖は、平家一族の為に命を捨てる覚悟で「宗像大社」という神の一族と闘おうとしていたのでしょう。
この辺りで、一つ気になるのは、北九州「宗像大社」と大分「宇佐神宮」の関係です。 元来、仲がよいわけではなかったのでしょうね!
「宗像大社」は「海人一族」の氏神で日本土着の一族(潜水漁法のポリネシア系)の象徴だが、「宇佐神宮」は、「皇室」との繋がりが深い後期渡来系の一族の象徴であったでしょうから、渡来系文化の情報発信源の一部として代々活躍してきた「宇佐神宮」と「円通寺」は当然の如く「宗像」を嫌っていた事でしょう。

長々とすんません。
[3]陣内正人さんからのコメント(2008年06月19日 22時22分03秒 ) パスワード
URL=http://www.jinnais.com

大野城市白木原で設計事務所を営んでいる57才の男性です。
白木原は韓国では新羅の王族が避難したところで有名なんだそうです。
そんなこんなで興味があり「白木原 新羅」とネット検索なんですが・・・・
白木原で魏志倭人伝に記載されているなどいろんなことがわかりました。
 (省略)更に
私のお寺も古いと云う事で「小城円通寺」と検索し此処に辿り着いて驚き。
 以前から
 小城の円通寺の檀家であることを誇りにしてきました。
会合の自己紹介には「生まれは玄海町、小城の円通寺檀家」と始まります。
亡き父から円通寺なんだから恥じないようにと今日まで来ましたが、何がどう違うのか分からずそれが今解りとてもうれしいです。

  西海大寺さん ありがとうございました。

 ところで平家物語を熱く語る!!なんですが・・・すみません。

祖母はまつら海賊の末裔で佐賀県玄海町仮屋の神社は平家派なんでしょうか?

[5]ヌーンズさんからのコメント(2018年09月08日 07時57分30秒 ) パスワード

コメントではないのですが先祖が平家の方に教えて欲しい。私は今海外に住んでおります。母からもらった古い鏡、母が言うのにはこの鏡は何百年も前の物とのこと、ただの古い鏡だと思っていたところ、今日ネットで歴史ミステリー<安徳天皇>を見ていた時、安徳天皇は生きていたその証が四国にあり、古い鏡が写り、その鏡に何となく私のと似ていると思い さそく探し出してみると、全く同じ蝶々絵そして絵の横に藤原何とか?と書いてありましたが、私のは名前のところが消し潰されてなんて書いてあるのか分かりません。私の母の先祖は武士ではなく商人で九州の長崎あたりだと思いますがそこのお殿様に刀を持つ事が許されていたと聞いています。TVではこの蝶々の絵は平家の家紋とのこと、どうして平家の家紋が入った鏡が有るのか分かりません。平家の家来の方は、みな平家の家紋が入った物を持っていたのでしょうか?そしてTVでこの世に一つしかないような言い方、何百年も前でも偽物を作って売っていたのでしょうか?どなたかこの平家の家紋の入った鏡のこと教えて欲しいですよろしくお願いします
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