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 投稿番号:100691 投稿日:2004年09月28日 22時02分20秒  パスワード
 お名前:alba
はじめまして

コメントの種類 :質問  パスワード

はじめまして。先日、奇妙な夢を見て以来、今まで気にも留めなかった自分の
ルーツというものを調べているうちにこちらのサイトに辿り着きました。

私の苗字は角谷(カクタニ)というのですが、過去のこちらのスレッドの中に
角谷氏は平知盛伝説に関係しているという記事を拝見し、非常に興味を持ちました。
父にもこのことを話してみたところ、とても興味深そうにしており、「うちも
平氏の流れを汲んでいるのなら嬉しい」と話していました(父は平家物語好きなのです)。
しかし、私は自分がそんな立派な家系だとはなかなか信じられず、自分自身で探ってみようと思ったのです。
けれども私は今まで興味の対象が西洋史だったので、日本史に関しては大変疎く、
調べようにもなかなか進まない状態です。
こちらにはお詳しい方がたくさんおられるので、ぜひとも家系を調べる時のポイントなど、
なんでも構いませんのでお教えください。

ちなみに、家紋は丸に二本竹だそうです。それから父の実家は島根県隠岐島で、
曽祖父は宮大工をしていたそうなのですが、いつ頃から隠岐に住み始めたか
ということは今のところ分かっていません。

個人的な質問で申し訳ないのですが、コメントを頂ければ幸いです。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月29日 01時59分16秒 ) パスワード
  

albaさん


最初に「全く分かりません(ぺこり)です」と書いておきます。
でも状況証拠からは 平家→南朝方 というのは感じます。


家系を捜すには
まず明治の初めの御先祖さままでの戸籍を(除籍謄本と呼ぶそうですよ)御自分から遡って全部取得する。
取得理由は先祖供養のためとでもすれば良いと思います。(800回忌の為とかね)

それから本家筋を捜す。
明治初期の御先祖さまの所在地に同じような名字の人がいらっしゃればかなり心強いですね。


家紋は・・・・いくらでも替えますし変わりますし1つだけ使用とは限りませんし。
でも「竹の紋」というのは珍しいですね。


竹じゃなくて矢紋の変形で似たのがありますね。
矢の軸の部分の切り口がVなんですよ。
albaさんとこも切り口はV字ですか?


竹の紋から御親戚筋を捜すというのもアリかもですね。


隠岐の島に是非行ってらっしゃってください。
ここで同じ名字とか同じ紋とかを使っていらっしゃる家が見つかると良いですね。
隠岐島での菩提寺が分かると良いですね。
[2]アカコッコさんからのコメント(2004年09月29日 15時48分34秒 ) パスワード
  

  チョット一言! 

 〉まず明治の初めの御先祖さままでの戸籍を(除籍謄本と呼ぶそうですよ)御自分  から遡って全部取得する。

 これには問題があります。戸籍法が今では変わっておりまして、80年前までしか取得できません。四代、五代前のご先祖様の名前が判っていても、戸籍には婚姻関係や親戚関係、何とかで、個人のプライバシーに係るとかで発行してくれませんでした。
 多分、毛筆で書かれていて、活字化が難しいので、そんな風に成ってしまったのではないかと、邪推しております。




 〉竹じゃなくて矢紋の変形で似たのがありますね。
 〉矢の軸の部分の切り口がVなんですよ。
 〉albaさんとこも切り口はV字ですか?

 『丸に並び切り竹」は「並び矢」に似ていておますが下のところがV字で、チョット違っておりますが、『丸に横並び切り竹』は「丸に二つ切竹矢筈それこそうりふたつです。

 

愛知県に角谷姓が多いのも、関係しているかも知れません。後醍醐天皇、松江藩等も。

[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月30日 00時20分41秒 ) パスワード
  

>丸に二本竹

>>『丸に並び切り竹」は「並び矢」に似ていておますが下のところがV字で、チョット違っておりますが、
>>『丸に横並び切り竹』は「丸に二つ切竹矢筈』それこそうりふたつです。


紋は複雑怪奇ですねえ。(小林先生に叱られそう。矢と竹は全くちゃうでぇ〜と)


でも、ますます 平家→南朝方 の状況証拠が揃って来ましたでしょうか?
[4]小林雅成さんからのコメント(2004年09月30日 19時23分12秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

アカコッコって、誰やねん(^^;

>>『丸に並び切り竹」は「並び矢」に似ていておますが下のところが
>>V字で、チョット違っておりますが、
>>『丸に横並び切り竹』は「丸に二つ切竹矢筈』それこそうりふたつです。

>小林先生に叱られそう。矢と竹は全くちゃうでぇ〜と)

『丸に横並び切り竹』とか、『丸に二つ切竹矢筈』のあたりは、使用家は服部さんだとおもうんです。それで、まあ家紋研究者が分類して辞書を作る時にこっちは、切り竹にして、こっちは矢筈という分類しちゃうとおもうのですが、当の服部さんにとっては、本家の紋をちょっとアレンジして、『こんなの出来ましたけど!』ぐらいの認識かもしれないのです。竹を使用して武器を作っていたかどうかも検証する必要がありますし、竹と矢はまったくかんけーないのかって言い切れるほど、私はまだ全国の家紋を見ているわけではありませんので、、。(形態的にではなく、隠喩的な用法も考慮すべしという意味合いです。)
[5]albaさんからのコメント(2004年09月30日 20時40分11秒 ) パスワード
  

皆さんご意見ありがとうございます。

>丸に横並び切竹
たしか、うちの家紋は切り竹ではなく、笹が付いていたような気がします。
やはり家紋だけでは調べることはできませんよね。

>戸籍
80年前までしか取得できないとは知りませんでした。
取得できる限り取得して、少しでもご先祖を辿ることができればと思います。
[6]さちこさんからのコメント(2004年09月30日 23時03分09秒 ) パスワード
  

小林先生。

あえてこう呼ばせていてだきます。
私も服部家関係で家紋の事は悩んでます。

服部家は矢紋。

並び矢。
違い矢。

矢車。

これは白い矢羽系。(白くはないのですが矢羽に柄がついてる)

矢筈と言うのは二通りあって矢羽柄を黒くべッターと塗ったのと、
切り竹矢筈があります。これも服部家の家紋ですが。
この違い教えて下さいませ。

>alba様
角谷さんと言うのは、
北勢の電話帳で少し調べてたら鈴鹿の白子あたり(白子、江島、若松など)
に集中してます。

網元だった角谷家の話も白子には残ってるようです。
この辺りで角谷ならやはり平家でしょね。

隠岐の角谷家とはどう関係してるのか判りませんが、
隠岐と言うのは一つの島いくつかの島が集ってます。

大きくは島後と、島前に分かれます。

私が今回行ったのは島前でした。

島前は、

後醍醐天皇の黒木御所がある西ノ島、
後鳥羽上皇の墓がある海士、そして知夫村と三つの島があります。

あくまでも私の調べた所、角谷というのは、
後醍醐天皇ゆかりの西ノ島、浦郷という所に多いように思います。
港です。
浦郷近くに由良比女神社というのがあって並び矢の紋でした。

隠岐は過疎の島です。
人口が減っていることが島一番の問題です。

観光にも積極的ですがなんとなく正直いって伸び悩んでる感じです。


albaさん。

ルーツが隠岐と思ってるのなら、
行ってみるのが勿論一番と思いますが、何しろ交通が不便。。

観光協会などに連絡してみるのもいいかも。
隠岐に限った事ではないかも知れませんが島の人は皆親切です。

元島民だった方から隠岐の歴史を知りたいとの事であれば、
島民あげて熱烈歓迎だと思います。



[7]小林雅成さんからのコメント(2004年09月30日 23時48分14秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

先生とよばれるのは、嬉しくもあり、悲しくもあり、腹がでていて、頭も禿げかけなので、呼称としては妥当性があると思いますよ(^^;

>私も服部家関係で家紋の事は悩んでます。
そんな、悩まなくてもいいでしょうに!、服部家はわかりやすいとおもうけど。
例えば、鈴木さんなんかは、全国で130種類以上の家紋を使い分けています、他人が見れば、???の世界ですよ。其の点、服部家はバリエーションがあるとはいえ、一応はるかな昔からの伝承をまもっている印象を受けますよね(^^;

>並び矢。
>違い矢。
>矢車。
神を表すものとしてみるのか、単に武具としての矢(つまり武士であるぞというシンボルですよね)なのか、おとなしいのか、放電しているのか?
はたまた、産鉄系統?なのか?やっぱり、ヒッタイト?

>矢筈と言うのは二通りあって矢羽柄を黒くべッターと塗ったのと、
>切り竹矢筈があります。これも服部家の家紋ですが。
どっちが古いのか、系図をたよりにさぐるしかないでしょうね。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月01日 01時23分12秒 ) パスワード
  

albaさん

>取得できる限り取得して、少しでもご先祖を辿ることができればと思います。

そうですね。

「先祖の800回忌に御先祖さまの分も全部一緒に供養したいと思いますから
 分かる限りの御先祖さまのお名前を知りたいんです」
とおっしゃって取れると良いですね。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月01日 01時33分59秒 ) パスワード
  

>服部家はバリエーションがあるとはいえ、一応はるかな昔からの伝承をまもっている印象を受けますよね(^^;


という事は「誇り」にしていいかなと。
そういう家だったのかなと。


私はalbaさんの書き込みに対してパワーを感じるのです。平家+南朝方だろう、あたりの。
それで、分からないけれど、どこかで繋がってる気がするんです。

やっぱり隠岐までいらっしゃるのが良いでしょうね。
何度も通ってると有形無形の何かを得られるでしょう。
[10]albaさんからのコメント(2004年10月01日 20時49分26秒 ) パスワード
  

さちこさん

隠岐は本当に不便なところですよね(^_^;)
私も幼いころに何度か行ったことがありますが、当時は先祖のことなんて全く
気にもかけていなかったので、菩提寺にも行ったことはありません。
調べるためだけでなく、供養のためにもいつか必ず行かなくちゃと思います。


暇潰しのギャンブラーさん

>書き込みに対してパワーを感じる

そんな風に言っていただけるなんて恐縮です(^_^)
私も、今まで何とも思っていなかった先祖のことが急に気になるなんて不思議だなと思います。
何より、夢をみたということが不思議で・・・。
こんなことを言うと変な人だと思われてしまうかも知れませんが、
本当に大昔にタイムスリップしたのかと思うくらいリアルで変な夢でした。

これが先祖の導きであれば嬉しいです。
[11]さちこさんからのコメント(2004年10月01日 22時17分27秒 ) パスワード
  

albaさん。

隠岐には行かれたことがあるのですね。

私が感じた浦郷と言うのはあくまでも私がそう感じただけで、
隠岐すべてを調べたわけではありません。
私等よりも逆に教えていただきたいことがあるかもしれません。
よろしくお願いします。

隠岐への旅は短い滞在だったのですが帰りの船便が忘れられません。

別府港から境港へのフェリー船だったのですが、
ちょうどお盆の時期で隠岐から本土へ帰る人達で満席状態でした。

そして出航の時。

かッかッッ紙テープです!
え〜今時、何処に売ってるの??
と言う感じですが、隠岐にはあるのね。(笑)
さすがに蛍の光は流れませんでしたが、
隠岐音頭が流れてました。

帰省と言っても昨今の日本では慌しい、
車の渋滞、新幹線の乗車率何パーセントとか。
 「お見送りの方は白線の後ろにお下がりください」
 「間もなく発車します」
 「扉閉まりま〜す〜」

そしてバイバ〜イ!こんな感じです。
ドライですね。

でも船での別れと言うは余韻があります。
船が港から離れテープが切れてもずっと手を振る人たち、
動き出した船をずっと走って追いかける子供達。

何人かの子供達は岸壁まで走ってきて、
Tシャツを脱いだかと思うと海にドッポン〜!

泳げる所まで泳いで船に向っていつまでも手を振ってました。

「感動した!」

その光景にウルウルし涙してたら、
今度は漁船がやってくる。
漁に出る船かなと思っていたら、
フェリーの先回りをし親戚一族を見送る船でした。
大きく手を振って、言葉は聞こえませんが、
「元気でな〜来年もまた帰ってこいよ〜」

そんな感じ。
もう一度隠岐に行ってみたいです。

小林先生様、

秦熱に引っ越します。






[12]albaさんからのコメント(2004年10月02日 23時19分14秒 ) パスワード
  

さちこさん


いえいえ、教えるだなんてとんでもないです(笑)
ただ父の実家だから少し知っているだけで、隠岐のことを詳しく調べたことはありません。

お盆の時期は大勢の人が帰郷してきて、その送迎ぶりは確かにすごいです。
紙テープは私も見ました(笑)
隠岐は、古語辞典に載っている言葉がいまだに方言として使われているような田舎
ですが、住んでおられる方たちは温かい人ばかりです。

あと、お盆の終わりに先祖を送る時も独特で、シャーラ船という全長10mくらいの
藁や木で作った大きな船を海に流すんです。
「ヤーハトナ〜」と盆踊り唄を歌いながら。
これは見ると本当に感激しますよ。
[13]さちこさんからのコメント(2004年10月03日 23時27分34秒 ) パスワード
  

今回はお盆休みにお気に入ったのですがもう少しよく調べて隠岐に行けば良かった。
シャーラ船もう一日隠岐にいれば見れました。
残念でした。

隠岐に行ったのは初めてだったのですが、
何となく懐かしい感じがしました。
島の人は私を見送ってくれた訳でもないのですが、
また戻ってくるからねそんな気持ちでした。

日本全国何処へ行ってもよく似てはいるのですが、
県民性というかやはり地域の特色があります。
言葉や習慣の違いだけでなくて人の雰囲気のようなもの。

島根も私の住んでる三重県とは日本海側と太平洋側で離れているし、
島根の出雲大社に対して三重の伊勢神宮。
当然県民性も違っているだろうと思ってました。

出雲大社は子どもの頃に行った事があるのですが、
身近にある天照大神の伊勢神宮が優しい感じなのに対して、
出雲のほうはしめ縄が大きくなんか黒っぽくて威圧感があって恐い感じがしました。
今回行ってみて出雲大社こんなに小さかった?と驚きました。
神社が小さくなったのではなくて私が大きくなったのでしょうけど(笑)

何と表現したらいいのか判りませんが、
予想に反して島根県(勿論隠岐もです)なんか三重県に似ている。
流れる空気というか何か雰囲気的に。
出雲市で伊藤さんというのを結構見かけたので苗字ランキングで調べたら、
伊藤家がトップでした。(伊藤家は伊勢が本拠地です)
島根が三重県臭いのは伊藤家のせいだ!と判りました(笑)

気になったので出雲と伊藤で検索したりしてみたのですが、
これと言った理由も見つかりませんでした。

思い当たる事といえば伊勢風土記。
こんな神話のような話が・・?と思うのですが。

伊勢風土記によれば、
その昔伊勢の国は出雲系の伊勢津彦命が治めていたそうです。
しかし神武天皇との戦いに敗れ、
尾張から三河そして天竜川をのぼって信濃国に飛んで行ったそうです。

信濃の諏訪大社もまた出雲系の神様なのですが、
私の住んでいる四日市という所は何故か諏訪神社のお祭が一番盛大なのです。
諏訪太鼓はもちろん諏訪が本場ですが、
それについで2番位に諏訪太鼓が盛んだろうと思います。

諏訪太鼓は武田信玄が出陣の時に鳴らしたものが始まりとされてますが、
諏訪にしてみれば元は武田信玄も侵略者なのでこの説は??
尾張の津島祭が信長ゆかりの祭と言われるのに似てるなと。

まあそれはともかく、
でも伊勢の国でほら貝鳴らして、
「信濃国は武田信玄公御出陣の・・・」とか言って太鼓を打つのですが、
よく考えれば違和感ありますよね。
何故伊勢で武田信玄?

平家はどうなった?という感じです。(笑)

回りくどい書き方だったかも知れませんが、
神話の時代に伊勢から信濃へ飛んでいった伊勢津彦。
権力者は神武天皇へと変わったけど出雲系庶民は伊勢に残り、
信濃との関係を続けていたのではないかと思うのです。

戦国時代、信濃から伊勢へでてきた一族は多いです。
その筆頭は楠氏です。

ややこしくなり自分でも判らなくなるのでこの辺にしますが、
これと同じような関係が伊勢と出雲にあったのではないかと思うのです。
だから出雲に伊藤家が多い?
でも本当不思議。



>お盆の終わりに先祖を送る時も独特で、シャーラ船という全長10mくらいの
 藁や木で作った大きな船を海に流すんです。
 「ヤーハトナ〜」と盆踊り唄を歌いながら。
  これは見ると本当に感激しますよ。
 

シャーラ船、
ショウロウ流しが訛ったのでは?
みゃ〜みゃ〜と名古屋弁みたいに。

いや逆かもしれません。
新羅=シーラ=シャーラ=ショーリャ=ショウロウかも。

「ヤーハトナ〜」

どんな発音でしょう?

「ヤートナ、ソレヨイヨイヨイ」は東京音頭ですが。。

小林先生が出て来そうで恐いです。(笑)
イヤイヤ熱烈歓迎でございます。

もう一つ気になったのは、隠岐の後鳥羽上皇ゆかりの海士町。
「ようこそ海士へござらした。」
これ見て驚きました。

海士と書いてアマと読みますね。
愛知県の海部郡も海部は海士と同じくアマと読むのですが、
歓迎の意味で「ござらした」は全く同じ意味なのです。

「ござらした」は少し丁寧ですね普通は「ようござった」かな?

時代劇テレビドラマを見てると武士が〇〇ジャ、〇〇でござる、
等いってますが、ジャという語尾もこの辺り多いです。

関東ではそうDA、関西ではそうYA、海部郡ではそうJYA(ジャ)

この地方の言葉が武士言葉として発達したかもしれません。
何しろ、信長、秀吉がこの地方の出身ですから。

この地方ではでもあくまでも「ござる」というのは敬語で。

「拙者が言ったのでござる」とか
「拙者忍者でござる」など自分に対してはござるは言いません。

私が召し上がりました、
私がおっしゃった。
私は忍者をしていらっしゃいます。
という感じかな?

多分三河の家康辺りが敬語の使い方間違えたな(笑)

隠岐の話からずれてしまいごめんなさい。

私自身少し時間がなく平熱から離れていたのですが、
この島に行って平熱に舞いもっどってしまったみたいです。

後鳥羽天皇、後醍醐天皇ともに鎌倉幕府倒幕計画が失敗して隠岐に流されました。
この間約百年の時が流れてますが、
後醍醐天皇はみごと隠岐を脱出、幕府軍討伐に成功!

表向きには平家とは全く関わりがない話しなのですが、
何故か平家の執念をこの島に感じます。









[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月04日 01時30分26秒 ) パスワード
  

さちこさん


>伊勢の国でほら貝鳴らして、
>「信濃国は武田信玄公御出陣の・・・」とか言って太鼓を打つのですが、
>よく考えれば違和感ありますよね。
>何故伊勢で武田信玄?


伊勢長嶋一揆の時武田の武士も大勢加わったと聞いてます。
それかも?

武田信玄は石山寺と組んで対信長包囲網をやってましたから、それ以来でしょうか?
現地のことは土地鑑が無いので間違ってるかも知れませんが。
[15]albaさんからのコメント(2004年10月04日 21時15分20秒 ) パスワード
  

さちこさん


>表向きには平家とは全く関わりがない話しなのですが、
 何故か平家の執念をこの島に感じます。


そのお気持ちは何となく私も理解できます。

「ヤーハートナ〜」というのは私が幼い頃に聞いた唄の節ですので、
もしかしたら間違っているかも知れません。

そういえば亡くなった祖母が「シャーラ船は精霊船と書く」と言っていたような気がします。
語源は精霊なのか、新羅なのか。考えてみると面白いですね。

[16]さちこさんからのコメント(2004年10月05日 01時38分57秒 ) パスワード
  

13の >お気に入ったので、は

     隠岐に行ったの誤りです。。。。

     判っていただけたと思いますが。

 いただけた、だけた、たけだ〜武田〜。武田製薬ゥ〜!←(ボッカ!)

(小林先生、関西人は悲しゅうございますね。。。)

明子さん。

確かに武田ですね。
家紋は違うけど弥富と木曽岬のちょうど境に武田さんと言う立派な家があります。
武田というのはこの地域にはあまり多くはないですが。

何故伊勢と信濃と?

芭蕉の門人の曽良も諏訪の、しかも桑原の生れです。
叔父が長島の寺の住職だったと言う事で長島に来たそうです。
先祖は武田信玄の重臣だったとか。

albaさん。

話が色々飛躍してごめんなさい。
あまり考えると秦熱に感染するかもしれませんので気をつけて下さい(笑)

でも隠岐という島を故里に持つ事羨ましいです。

本当にありがとうございます。

後醍醐天皇の黒木御所跡のパンフッレトに面白い事が書いてありましたので、
こちらにまた書き込みます。
何しろ読めない字があるので。。。変換出来んがな〜。


明子さん。

伊勢三郎義盛の首塚発見!
四日市のうちから車で15分位の所にありました。
[17]さちこさんからのコメント(2004年10月05日 01時49分56秒 ) パスワード
  



http://asake.web.infoseek.co.jp/minirekisi/r-4.htm

(まず遺跡が出ますがその後です)


これも現地調査ですね。

少し何か怖いものがありますが。

勿論本当なのかどうかも判りませんこういった伝承は。
地元の人が伝えてきただけですから。

でも、こうゆーのリアリティあるのよね(笑)
[18]小林雅成さんからのコメント(2004年10月05日 06時09分59秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

>いただけた、だけた、たけだ〜武田〜。武田製薬ゥ〜!←(ボッカ!)
えらい古いCMちゃいますの、世代がばれまっせ(^^;)

>(小林先生、関西人は悲しゅうございますね。。。)
そうかな?けっこう本音でいきとらんかったら、不況やしつらいんとちゃうかな(^^)意味不明(^^;)
[19]まっつーさんからのコメント(2004年10月05日 17時28分24秒 ) パスワード
  

albaさん、はじめまして。

私も隠岐に一度行ったことがあります。
私が行ったのは「島前」の方ですが、案内をしてくださった方(タクシーの運転手さんで、実はタクシー会社の社長さんだったのですが)が、「島前」と「島後」とでは、気候も、住んでいる人の気質も、全然違うんだ、という興味深いお話をして下さいました。他にも色々なお話しを伺い、隠岐のものすごい「深さ」の一端に触れた思いがしたものでした。

その際幸運にも、後鳥羽上皇の墓守をしておられる村上家を訪れる機会がありました(そのお宅は、町指定の文化財にもなっているようです)。
村上家は、恐らく隠岐のことなら一番よくご存知とは思いますから、もしもお話を聞くことができれば(特に宮大工でいらっしゃったということですから)、何か分かることがあるかもしれませんね。
ただ、こちらのお宅は観光名所ではないと思いますから(そう思って中にずんずん入ってきてしまう人が多いそうです)、連絡をとられた上で行かれた方がいいと思います。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月06日 00時47分46秒 ) パスワード
  

>後鳥羽上皇の墓守をしておられる村上家

歌手の西川峰子さんの御結婚相手の村上さんがここのお家の方でしたっけ?



なんとかおっしゃる女優さんも隠岐の御出身でどちらかの元天皇さんの墓守かなにかなさっていらっしゃるお家でしたよね?
彼女は今70代ぐらいと思います。
こちらは後醍醐天皇さんだったかも。

(芸能界のことはよく知らないです)
[21]まっつーさんからのコメント(2004年10月06日 16時13分30秒 ) パスワード
  

>歌手の西川峰子さんの御結婚相手の村上さんがここのお家の方でしたっけ?

そうです、そうです。後鳥羽上皇の墓守をしておられる、800年位続いているお宅です。このように書くと近づきがたいような感じもしますが、とってもユーモアのある気さくな方でした。

私の実家のルーツが鳥取の方なので、その話をしたところ、鳥取の方へはるか昔お嫁に行った人がいるんですよ、とおっしゃって家系図を持ってこられたのでした。家系図の大体が頭に入っているのかな?!と驚いたものでした。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月07日 02時15分07秒 ) パスワード
  

>家系図の大体が頭に入っているのかな?!と驚いたものでした。

きっと、ちゃんと御先祖さまのお祀りをなさっていらっしゃるんでしょうね。
こういう家は続くんだろうなと思います。

村上さんも西川峰子さんと結婚なさって後鳥羽上皇さんの墓所を800年にわたってお守りをしていると世間に確認なさることが出来て御先祖さま達は嬉しいでしょうね。
[23]さちこさんからのコメント(2004年10月07日 23時33分40秒 ) パスワード
  

あなた〜に、あげる、私をあげるゥ〜。女ァ〜〜だから〜。

あれ?ピンカラトリオの「女の道」と混乱してる??

小林先生また墓穴を掘りました(涙)

西川峰子さん。
今でいったら氷川きよしさんみたいな感じかな。

若い女の子がこぶしを回して演歌を歌う。
アイドル系が多いこの時代新鮮だったのかも。
結構ヒットしました。

父がお気に入りでね(笑)
「母と私は下衆っぽい女よの」と悪口言ってましたが。。。失礼。

旅行番組だったか、ワイドショーだったかは記憶ないですが、
彼女が隠岐の旧家の村上家へ嫁いだ話題がありました。

ちょうどその頃、我家では法事があって、
住職が服部家と村上家は古くからの親戚でなどと話してました。

うちの菩提寺の檀家は昔は服部家ばかりの寺と聞いていたのですが、
住職は村上家で古くからの親戚だった事をしりました。

村上か〜。

それで何となく隠岐の村上家の事もリンクしてしまい覚えてました、、
次第でございます。


まっつーさん。

はじめまして。

貴重なお話ありがとうございます。
やはり島前ですか。
私も行きのフェリーで島後を経由したものの、
今回は島前のみの旅でした。

勿論、島後にも行きたかったのですが、
時間がなく、島前にしました。


後鳥羽上皇、後醍醐天皇関連が目的だったからです。

帰省時だったので(高速船はこの時期予想以上の混雑でした)
思うように移動出来ず、時間がなく、
村上家は門の前から眺めるのみでした。

お話をお聞きできた事羨ましく思います。

私としては島前の黒木御所が後醍醐天皇の隠岐行在所と思っていたのですが、
というか後醍醐天皇=黒木御所(あたり前)という感じでした。

でも国指定の後醍醐天皇行在所は、
島後の国分寺になってるとの事で混乱しました。

>「島前」と「島後」とでは、気候も、住んでいる人の気質も、
 全然違うんだ、
 という興味深いお話をして下さいました。

このあたりまた詳しい事を知りたいです。
よろしくお願いします。

ここの村上家が後醍醐天皇隠岐脱出を事前に相談され、
船や人夫を全て準備したそうなのですが。


[24]小林雅成さんからのコメント(2004年10月09日 21時10分04秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

>あなた〜に、あげる、私をあげるゥ〜。女ァ〜〜だから〜。
>あれ?ピンカラトリオの「女の道」と混乱してる??
世情に疎いので、わかりまへん(^^;)さちこさんは、ピンカラトリオの世代よりずっと若いんとちゃう?
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 02時03分00秒 ) パスワード
  

昨夜夢を見ました。

それで「司葉子」だったかなと思います。
彼女は島根県の境港だかの御出身で
御生家は後醍醐天皇さんだったか後鳥羽上皇さんだったかのお世話をする家だったような記憶です。


夢です。
平家がらみの。

まだパワーあったのかなあ〜
[26]さちこさんからのコメント(2004年10月11日 23時37分27秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年10月12日 01時23分57秒
[32]まっつーさんからのコメント(2004年10月12日 19時06分50秒 ) パスワード
  

さちこさんのリクエストにお答えして、「島前」と「島後」とでは、気候も、住んでいる人の気質も、全然違う、という話をもう少しだけ詳しくしてみようと思います(記憶もだいぶあやふやにはなっているが)。
ただ、あくまで島前の方が話されたことでもあり、恐らくその方の独自の見解ですので、島後の方から見たらあたっていない、と思われることもあるのかもしれません。

もともと隠岐は、独自に朝鮮半島などとも交流していたような歴史もあるそうで(裏をとった訳ではないので、あくまで聞いた話ですが)、独立心がとても旺盛なのだそうです。ただ、島前と島後の方々は、それぞれお互いに違うのだ、という認識があるそうです。

島前は、気候がかなり温暖で、農作物を作るのにそれ程苦労しないのだそうです。それに対して島後の方は、島前に比べると冷涼な気候なのだそうです。恐らく海流の影響ではないかということでした。

また、島前では、あわび・牡蠣・イカ(ものすごい大きさです)やその他魚介類が、ほっといてもどんどん島の方へ流れてきたり、貝なら労せずに捕ることができるのだそうです。

そのためか、島前の人々は、がむしゃらに真面目に努力する、というよりは、人生を楽しむ、という、言ってみれば「ラテン系気質」なのだそうです。そのために、観光客を呼ぶのに今ひとつ一生懸命でないので、このままでは他の地域にどんどん遅れていってしまう、ということをおっしゃっていました。(実際、私は11月に行ったのですが、観光期間はすっかり終わっている、という雰囲気でした。ホテルに泊まったのもうちの家族だけ・・・。ホテルを、というより隠岐を貸切状態と感じた位です。)

一方、島後では島前に比べると資源が少ないために皆さん努力をされていて、港をきれいにしたり施設を作ったり宣伝をしたりして、観光業に力を入れている、ということでした。気質としては、言ってみれば真面目な「ゲルマン系」と言えるのでは、ということでした。

それから、後鳥羽上皇や御醍醐天皇が流された、ということもあり、勉学、特に文学を好む傾向にあり、隠岐の地元の方は、ご自分のお子さん方を本土へ進学させたい、という希望が強いということでした。だから島がだめになってしまう、、とおっしゃっていましたが・・・・。また、そういった高貴な方をお世話したのだ、というプライドの高さも持っているのだということでした。

また、独立心の旺盛さが起こした事件では、「隠岐騒動」というのがあります。
詳しくは(そして正確には)調べて頂くとして、大まかな概要としては、時代が江戸から明治に変わるころ、隠岐で80日間ばかり自治政府ができていた、という驚くべき話です。

少し調べたところでは、その際中心となったのは島後の人々で、島前の庄屋達などが隠岐から逃げ出したり協力的でなかったりした、という話もあるようなので、今でも島前の方と島後の方とが必ずしも一緒にやっていく、という感じでないのは、当時の記憶も関係しているのかもしれません。

ちょっと長くなりましたが・・・。

私はまた是非行ってみようと思っています。今度は島後にも。
島後の方のお話も聞いてみたいですね。
私が行った11月は観光シーズンを完全に外れていましたし、船もだいぶ揺れましたが(笑)、人が少ない分、自然の景観などを満喫できましたよ!
[33]さちこさんからのコメント(2004年10月13日 01時13分00秒 ) パスワード
  

まっつーさん。

ありがとうございます。

気がつけば隠岐に行ってもう二ヶ月が過ぎました。
私が行ったのはちょうどお盆でした。
ピークシーズンで島前もかなり(それなりに?)
込み合ってました。
確かにそれ以外の時期はのんびり出来ていいだろうなと感じました。

江戸時代から明治。
私は古いので無血革命等というのを習いましたが。
実は複雑な時代だったようです。
隠岐と言う本土から離れた島も大変だったようですね。

服部家に関しては、
圧倒的に島後に多いです。


後醍醐天皇、後鳥羽上皇関連で島前と思ってましたが。
本当にもう一度、隠岐に行きたいです。
やはり、島後にも。

またお聞きしたいこともあるのでよろしくお願いします。

過去があって未来がある、
過去を未来へ繋ぐのは今生きている私たち。
私たちもまた、いずれ過去になる。

隠岐の荒海を見てそんな思いがしました。
[34]albaさんからのコメント(2004年10月14日 22時00分15秒 ) パスワード
  

まっつーさん

初めまして。
>言ってみれば「ラテン系気質」
私の祖母の家は島前にあるのですが、そんな風には考えたことも
なかったので面白いですね(笑)。

でも、隠岐の人が誇り高いというのは確かだと思います。
私の父や叔父たちもみんな、自分の故郷に対して特別な思い入れがあるようですから。
今はそれぞれ都会で生活していても、定年になったら隠岐に帰りたいと言っていたこともあります。

私が小学生の頃、隠岐で父の知り合いの方に漁船に乗せてもらったことがあるのですが、
その時全く私が船酔いをしなかったので「さすが隠岐の子」と言われたのが
印象に残っています。
そうしたちょっとした一言の中にも、隠岐の人のプライドというのが見え隠れ
しているのではないかと思います。

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