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 投稿番号:100685 投稿日:2004年09月16日 13時20分20秒  パスワード
 お名前:makkie
梶原景時について
キーワード:梶原景時
コメントの種類 :人物  パスワード

はじめまして。makkieと申します。
梶原景時について今勉強しています。

景時についての資料はなかなか少なく、どうしたものかと途方に暮れています。そんな時、こちらのサイトを拝見致しましたので、あまりに素人で場違いなのかと思いましたが、思い切って質問をさせていただくことにいたしました。よろしくお願い致します。

私が特に興味を持って調べているのは、景時と現在の岐阜県の関連についてです。いろいろと調べたところによると、景時と美濃の関わりは、ほんの少ししかわかっていません。
一つは、景時は美濃の守護であったということ。
二つめは、美濃の守護であったときに山口城を築いたということです。
二つとも詳しいことはまるでわかっていません。

岐阜との関わり以外でも、景時に関することでしたらどんなことでも結構です。何か情報をいただけるととても助かります。

突然失礼いたしましたが、よろしくお願い致します。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時06分48秒 ) パスワード
  

まず岐阜知事の梶原氏のお話が載ってます:

http://www.microkids.or.jp/ishizu/oribe/kajiwara.html
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時11分46秒 ) パスワード
  

>私が織部を知ったのはまだ副知事だった10年近く前のことだ。
>愛知県犬山市の興禅寺住職から「梶原景時公顕彰会」の名誉会長を引き受けろというお話をいただいた。
>興禅寺は景時が建立した寺だ。
>美濃の守護であった時、私の両親の出身地にほど近い山口城(岐阜県本巣郡本巣町山口)を居城にした縁もあって
>個人的にはむしろ親近感を持っていた。

>何より名字が同じなので、住職からのお話を受けた。名誉職とはいえ何もしないわけにはいかない。
>これを機に郷土史家の倉知勉、滝喜義両氏から景時についていろいろとうかがった。
>景時は曲折はあったものの結果としては北条氏の陰謀滅ぽされた。



郷土史家の倉知さんや滝さんについては岐阜県教育委員会に問い合わせれば連絡先を教えて頂けると思いますよ。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時13分14秒 ) パスワード
  

梶原知事さんのお話のその2:

http://www.pref.gifu.jp/s21401/kenkyu/6/html/060405.htm
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時25分56秒 ) パスワード
  

下の方に古田織部のパラグラフがあって
(転載を禁ずとフラッシュがかかってるので以下のようにまとめてみました。
全文は御自分でお読みください)


「今年は古田織部の生誕450周年の年に当たる」という箇所から
「古田織部が生まれた本巣郡本巣町」
「古田織部は本巣町の山口というところで
 当地では山口城と呼んでいる
 そこの城主の子として生まれて育った」

「山口城というのは美濃の守護であった梶原景時も住んだと言われ
 源氏の政権を北条氏が奪うため頼朝側であった梶原景時を殺し
 梶原一族は滅亡」
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時41分16秒 ) パスワード
  

>山口城というのは美濃の守護であった梶原景時も住んだと言われる

なんてハナハダ疑問に思ってます。(住んだというより京への道中に泊まった辺りじゃないの?)

政治の中枢にある為には鎌倉に居た方が有利だし
特に北条一家の動きがアヤシイし

本当にこんな遠くに住んでたりしてたのでしょうか?
ノンビリ鎌倉を離れてていいのか?梶原クン!
それとも離れてたから蚊帳の外に置かれて結局は殺されることになったんでしょうか?


1199年結城朝光を讒言して逆に弾劾され鎌倉を追われ甲斐の武田有義を擁して謀反を企てるも失敗し
翌年1月上洛の途中で駿河の清見関あたりで在地の武士に襲われ一族と共に敗死。

頼家が阿呆だったから。
そういう小説はいくつか読んだ記憶です。


安田元久の「鎌倉幕府ーーその政権を担った人々」を参考になさってください。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 01時42分52秒 ) パスワード
  

<2>と<4>につきましては著作権云々に引っ掛かるようでしたら削除させて頂きますので御連絡ください。
ぺこり
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 03時46分32秒 ) パスワード
  

静岡市郊外に梶原一族が自害した梶原山と呼ばれる場所があるそうですよ。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 03時53分33秒 ) パスワード
  

http://www1.e-machisite.net/shirai/kagetoki%20story.htm
梶原景時 散華
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 03時56分48秒 ) パスワード
  

http://www.kamakura-burabura.com/jinbutuk.htm

これによると「清水市」になってますね。
没地に今は小学校があるようですね。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 04時07分14秒 ) パスワード
  

http://www.geocities.jp/pappakun12/yamagutimemo.html

山口城のサイトです。
1185〜1189年の間に築城されたのでは?と書かれてますね。
[11]makkieさんからのコメント(2004年09月17日 09時34分03秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

ありがとうございます!
たくさんたくさん情報を寄せていただき、大変ありがたいです。
すべてのサイトを見せていただきました。
ギャンブラーさんが5番でおっしゃっているように、景時が美濃の守護だったということは、今ひとつ確信が持てないですよね。
ほとんど情報がないですし・・。
でも、邪魔になったからあえて遠いところへ追いやられたとかも考えられるのでしょうか?そもそも、その頃の景時は、誰に仕えて?いたのでしょうか。
もう少し調べてみようかと思います。

本当にありがとうございました。
また何かありましたら教えてくださいね!
[12]ふかさんからのコメント(2004年09月17日 12時40分32秒 ) パスワード
  

景時が美濃の守護というのは事実のようです。
また駿河の狐崎/きつねがさきで討たれたようです。
絵本ヤマウバ物語という古文書に出ています。
[13]アカコッコさんからのコメント(2004年09月17日 13時21分10秒 ) パスワード
  

だんだん活発な意見が出されて興味深々です。

 〉ギャンブラーさんが5番でおっしゃっているように、景時が美濃の守護だったということは、今ひとつ確信が持てないですよね。

 その根拠は下記よりからの引用だと思いますが。

 『明細記』に文治三年(1187)12月7日、梶原平三景時が当地より、霊鴨を献上したという。背腹とも白く雪のうようであった。景時は当時美濃国の守護だったのである。

 文治3年は後鳥羽天皇の時代で、鎌倉幕府、開幕以前のことになります。

 梶原一族滅亡の際、尾張に縁のあった家人が幼少の子供(豊丸)を連れて羽黒村に隠れ住んだといわれております。『梶原内羽黒七人衆と山姥物語』より

 この本には梶原拓氏、瀧喜義氏等も文を寄せております。

 
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 14時30分15秒 ) パスワード
  

瀧喜義さんも御一族かも知れない「瀧一族」というのは愛知県じゃないかと思いますが大変な資産家でいらっしゃいまして


もともとは梶原一族なのかも知れませんね。

わたくし的には北朝方だったんじゃないかなという気がします。
(なんか南朝方だったようには思えないのです)
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 14時35分41秒 ) パスワード
  

当時の御家人というのは(御内人とか)
鎌倉と京の間に所領地をあちこちに持ってて
往復するのにそこで宿泊してたのじゃないかと空想してます。

山口城も標高差は100mと読んだのだったかしら
そんなに高い山じゃないし

さらに当時の城というのは「柵」に毛が生えた程度ですから(安土桃山とか江戸時代の城とは違うという意味)

別荘みたいなもんだったんじゃないかなと思います。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 14時40分49秒 ) パスワード
  

梶原さんは寒川神社の所が本宅でしょ?相模一ノ宮っていうのかしら。
当然鎌倉にもお屋敷はあったと思いますけど。


で、守護というよりは美濃の守護の上に存在してたのかな?とも
なんせ鎌倉幕府の重鎮ですから。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 14時44分48秒 ) パスワード
  

鎌倉幕府初期の美濃の守護は大内惟義だったのでは?

だからそれ以前に梶原クンが美濃を俺は欲しいんだと唾つけてたのかな?とかね。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 15時29分33秒 ) パスワード
  

18の書き直しです:


大内惟義は美濃の前の1184年は伊勢の守護になっています。

1187年(文治3年)3月3日幕府美濃国の守護大内惟義の申請で同国に新駅を設置する

だそうですから梶原クンが美濃の守護だったとしたらそれ以前になりますね。



3月3日 乙巳
  美濃の国守護人相模の守惟義、当国の路駅に新宿所々を加うべきの事を申す。その沙
  汰有り。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 15時32分11秒 ) パスワード
  

19の書き直しです:

1192年(建久3年)6月21日 幕府は美濃国の御家人に守護大内惟義の指示に従って京都の群盗を捕らえるよう命じたそうですから

美濃という場所は京にとって重要な位置を占めてた、ということになりますね。

やっぱり梶原クンが美濃を欲しがったというのは納得です。



6月21日 庚申
  美濃の国の御家人等、守護相模の守惟義が下知に従うべきの由仰せ下さると。これ洛
  中の群盗等を鎮められんが為なり。
   前の右大将家政所下す 美濃の国の家人等
     早く相模の守惟義が催促に従うべき事
   右当国内の庄の地頭中、家人の儀を存ずる輩に於いては、惟義が催しに従い勤節を
   致すべきなり。就中近日洛中強賊の犯その聞こえ有り。彼の党類を禁遏せんが為、
   各々上洛を企て大番役に勤仕すべし。而るにその中に家人たるべからずの由存ずる
   者は、早く子細を申すべし。但し公領に於いては催しに加うべからず。兼ねて又重
   隆・佐渡の前司の郎従等を催し召し、その役を勤めしむべし。隠居の輩に於いては、
   交名を注進すべきの状、仰せの所件の如し。
     建久三年六月二十日      案主籐井
    令民部少丞藤原         知家事中原
    別当前の因幡の守中原
     前の下総の守源朝臣
     散位中原朝臣
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 15時50分54秒 ) パスワード
  

[13]アカコッコさんからのコメントの補足です:


12月7日 甲戌
  梶原平三景時霊鴨を献ず。背と腹白く雪に似たり。美濃の国より出来すと。景時は彼
  の国の守護なり。二品殊に賞翫し給う。これ吉瑞と謂うべきか。爰に善信申して云く、
  天武天皇の御宇二年八月、帝野上宮に遷座し給うの時、鎮西より三足赤色の雀を献ず。
  仍って改元朱雀元年と為す。明年三月、備後の国より白雉を献ず。また朱雀二年を改
  め白雉元年と為す。同十五年、大和の国より赤雉を進すの間、年号を改め朱鳥元年と
  為す。彼の御宇、大友皇子の逆悪を平らぐの後、天下静謐して、奸邪寝謀の節なり。
  佳例たるを以て、随って瑞物多く西国献ずる所なりと。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 16時03分59秒 ) パスワード
  

http://www3.plala.or.jp/KakuhouARC/92kunihann.htm

国と藩の大名の動きのサイトです。

これにも梶原クンは出てこないですねえ。出て来るのは播磨国守護。


美濃国守護は 平家時代に源則清で後に 源義広→大内惟義→土岐成頼→斉藤ですねえ。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 16時14分23秒 ) パスワード
  

大内惟義という人物は源義光の曽孫だそうで(平家時代にも相模守護を任され?)
一の谷の戦いの後は義経に従い
伊勢伊賀美濃相模の守護を歴任し
梶原クンの残党狩りもし、と御活躍なラッキーな人なんですねえ。

http://www3.plala.or.jp/KakuhouARC/92kunihann.htm でも
あちこちに名前が出て来ますねえ。

[25]makkieさんからのコメント(2004年09月17日 16時14分48秒 ) パスワード
  

みなさん、いろいろと情報をいただき、ありがとうございます!
景時が美濃の守護だったのかどうかということについて、文献がいくつかあるようですね。
21番や22番で、せっかく抜粋を載せていただきましたが、残念なことに、素人の私にとっては文章が難しく、どういう意味のことが書いてあるのかわからないのです!ものすごく有力な情報ですか?

ところで、景時が尾張に興善寺を建てた1174年頃、景時は平忠盛の目代として尾張に赴任していたそうです。この時に、尾張や美濃と深く関わりを持った可能性があるのでは?と考えていました。
例えば山口城を築いたのもこの頃なのだろうか、と。

そのあたりは、みなさんはどうお考えになりますか?
よろしくお願い致します。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 16時50分31秒 ) パスワード
  

平忠盛は清盛のパパですから
>景時は平忠盛の目代として尾張に赴任していたそうです
というのは時代的にかなりキツイかと思います。

ペイジ・ボーイかお稚児さんみたいな感じで尾張に来てたんでしょうかねえ?
目代として、というのは(ええっ?)ですが、ま、誰かの代わりとかでは有り得るのかもですが
わたくし的には疑問です。


平忠盛の生きてた時代は1096年〜1153年だそうですよ。
梶原景時は生年月日ははっきりしないけど死んだのは1200年の1月。61才だったと何かで読んだ記憶です。
1200−61=1139年頃の生まれでしょうか?それか昔の年齢の数え方で1140年生まれか?


尾張の守護は上記の表から 平時忠 弥平兵庫宗清 で 私の史料では1180年当時は平時宗になっています。


>例えば山口城を築いたのもこの頃なのだろうか、と。

これは無理だと思いますね。
梶原クンが頼朝に仕える前は親戚の大庭さんの下で顎で使われてたのですから。
1180年に大庭さんを裏切って頼朝の命を救っている。


妙国山興禅寺の縁起の文章は打ち間違いじゃないでしょうか?
引っ張って来ましたが著作権で問題ありでしたら削除しますのでお知らせください。ぺこり

1174年に菩提寺として建てた、とありますが
誰の?


この下記の文章はわたくし的には論理が混乱してるのですが
普通の日本人の普通の日本人に対する標準的日本語ではこうなるのでしょうか?
非常に意味不明なのですがそれは私がアメリカ人だからでしょうか?


源頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺である。


当時は真言宗の寺として名高かったが、頼朝の死後、景時父子が滅ぼされて、景時の孫の豊丸と遺族および家臣の一部が、この羽黒にのがれて館を築いて住みついた。これが興禅寺の北東の竹やぶの中に残っている羽黒城跡で、今は堀のごりと高台のみが、その昔をしのぶよすがである。その後、梶原家は衰えて寺も衰徹し、1479年に臨済宗妙心寺派になって、寺も復興に向かい、景時から19代の茂助景義が織田信長に仕えて羽黒三千石の領主となって寺を再興した。しかし、1584年の小牧・長久手の戦の兵火にあって焼失し、1596年に梶原屋敷内に再興されたものである。今もこの付近の地名を城屋敷といい、寺には梶原景時の首を葬った景時の墓があり、近くには、景時が主君頼朝から与えられた名馬磨墨を葬ったといわれる磨墨塚も残っている。
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 16時58分11秒 ) パスワード
  

やっぱり美濃の守護だったというのは84年〜87年とするのが合理的かなと思います。
山口城を作ったのもその時だったのではないでしょうか?


*繰り返しますが城と言っても江戸時代のお城を連想しないでください。柵で囲った砦を連想するのが妥当では?
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 17時13分49秒 ) パスワード
  

そうそう1つ忘れてましたが
わたくしの母方の例で恐縮ですが

16の
>で、守護というよりは美濃の守護の上に存在してたのかな?とも
>なんせ鎌倉幕府の重鎮ですから。
についてですが


その国に昔から守護または実力者がいても
鎌倉からお飾りを頂くという
今でいうと天下りのお飾り社長さん

そういう形で梶原クンが美濃国の守護だったとか守護の上に君臨してたんじゃないかな?と思うのです。
[29]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月17日 22時57分46秒 ) パスワード
  

1174年の菩提寺建立というのが事実としたら
誰の為の菩提寺なのか?

父親だったら素直に納得出来ますが。
父親がここで亡くなったとして特に死亡年が1174年なら尚更納得出来ます。

この人の父というのがちょっと謎めいてたのだったかしら?
景清?景長?
どっちか分からないという謎があるそうです。


京に大番役として出てたというのは分かります。
その縁で何かあったのか?


確かに大庭も梶原も1180年以前は平家方です。
大庭の家も兄弟で敵味方に分かれているし
梶原が大庭に対抗して源氏方に寝返ったのも理解出来ますし
平家の中では浮かび上がれないから源氏についてチャンスに賭けたというのも分かります。

さてさて真相は?
[30]アカコッコさんからのコメント(2005年05月04日 15時15分51秒 ) パスワード

 連休はそろそろ終盤ですが皆様は如何でしたか。下手に出かけて災難にでも遭ったと思い、近くの馬込にある慈眼山・万福寺に散歩がてら行ってきました。
 
 以下大田区教育委員会発行(昭和59年)『のびゆく大田区』より一部転載。
 万福寺は梶原景時の旦那寺(菩提寺:先祖代々の位牌をおさめてある寺)で境内には梶原景時の墓と言われている五輪塔(現在は梶原三河守の墓だとも言われておりハッキリしていない)があります。
 また最近では『磨墨』の銅像が作られておりました。鞍には笹竜胆の紋が附してあります。
(宇治川の戦いでの先陣争いで有名な佐々木高綱の乗馬「池月」(洗足池にあり)と梶原景季の乗馬「磨墨:するすみ」)
これで私は両方の名馬の銅像を見たことになります。銅像なのでどちらが名馬か判定に苦しみます(笑い)
 池月については他スレ『初めてです、名馬池月伝説』が詳しいです。
 
 なんで梶原景時の関係が大田区に有るのか言えば、源頼朝に従った武将のうち、葛西清重は田園調布・沼部・下丸子を含む丸子荘に、渋谷庄司重国は大森に、梶原景時は馬込に、畠山重忠は六郷に、荏原氏は代々中延(品川区)に住んでいたようです。
 大田区内を通る鎌倉街道は、朝比奈切通から金沢・光明寺・師岡・平間(川崎大師の有る所)を通って下丸子から池上・高輪・浅草から下総へと続いていていました。

 またその馬込「臼田坂」には『磨墨』の供養のために建てられた『塚』があります。今度、訪れてみたいと思います。
[31]源太平太さんからのコメント(2005年05月04日 15時24分34秒 ) パスワード

質問があるのですが、梶原景時の子である梶原源太景季についてです。

梶原氏は平氏なのになぜ景季は「源太」と付けられたのでしょうか?
[32]aさんからのコメント(2006年06月08日 19時00分51秒 ) パスワード

このスレ随分使われていないようですが。
私は万福寺にかなり関係のあるのです。
万福寺には【梶原殿】という建物?みたいなものがあります、葬儀などもそこでやり
二階は万福寺や梶原景時についての資料が公開されています。そこそこ量はあります
ただ事務所などには入らないよう
[34]名無しさんからのコメント(2019年02月21日 14時45分38秒 ) パスワード

今更ですが、今後このスレッドに訪れる方へ

『吾妻鏡』6巻文治3年(1187)12月7日条に
文治三年十二月小七日甲戌。梶原平三景時献靈鵯。背与腹白似雪。自美作國出來云々。景時者。彼國守護也。二品殊賞翫給。是可謂吉瑞歟。爰善信申云。 天武天皇御宇二年八月。 帝遷坐野上宮給之時。自鎭西献三足赤色之雀。仍改元爲朱雀元年。明年三月。自備後國献白雉。又改朱雀二年。爲白雉元年。同十五年。自大和國進赤雉之間。改年号爲朱鳥元年。彼御宇平大友皇子逆悪之後。天下靜謐。而奸邪寢謀之節也。以爲佳例。随而瑞物多西國所献也云々。

意訳:珍しい「鳥(背と腹の白い霊鳥)」を献上。美作国で見つけたそうです。梶原平三景時は美作の守護だからだ、とあるので、美作守護です。

美作国守護職は景時失脚後、和田義盛に、
播磨国守護職は小山朝政が引き継ぎました。
[35]名無しさんからのコメント(2019年02月21日 14時55分07秒 ) パスワード

上のスレッドで根拠として記載されている『明細記』ですが、これかなり後世の史料かと存じます。したがって、記事にあるとすれば、吾妻鏡の写しであろうと推測できるでしょう。
ですので、吾妻鏡を準拠として、この「霊鳥」は美作で捕れたものだと考えたほうが自然ではないかと思います。

また、よく景時は五カ国守護という書かれ方をしますが、これも1184年に惣追捕使として、「播磨」「美作」「備前」「備中」「備後」の五カ国を任されたことから言われているのかなと推測しておりますが、これは梶原景時と土肥実平の両名に対する命であり、景時は「播磨」「美作」、実平が「備前」「備中」「備後」と見られているようです。


景時の邸は、『吾妻鏡』からわかるものでは、
◯十二所(鎌倉)
◯寒川一之宮(今屋敷跡があるところ)
◯京都五条坊門
あとは、本領である梶原付近にもあったと推測されます。
寒川一之宮……まあつまり、大庭御厨領はそもそも大庭氏の管轄ですので、曽我兄弟の事件のあと、景能が失脚(というか出家)したのちに、景時が継いだ?? ちょっとここの経緯は判然としません。
[36]名無しさんからのコメント(2019年02月21日 15時04分19秒 ) パスワード

尾張国と梶原景時の関係について

某氏の本では目代であったと書いておりますが、上に上がっているように年齢的に無理があります。たしか、出典は『武功夜話』だったかと記憶しているのですが、『武功夜話』もかなり後世に書かれたものになりますので、あまり鵜呑みにはできないでしょう。

尾張国の守護は小野成綱であり、この娘が景時の次男である梶原景高に嫁いでおります。

小野氏は横山党であり、景時の母も横山孝兼の娘といわれておりますから、小野氏とはつながりが深かったのかもしれません。
『尾張群書類従』には(あれをどこまで信用していいのかはわかりかねますが)景高の所領が尾張にあったことなども書いてありました。

この、『尾張群書類従』に、羽黒梶原氏の系図が載っております。なんか、無住一円とか入っていてちょっと怪しいのですが(無住一円自体は梶原氏の出だと彼の著書である『雑談集』から比定されているようですので事実なのかなぁと?宇都宮に宇都宮頼綱に嫁いだ景時の娘を頼って、行っているような所もありますし)
[37]名無しさんからのコメント(2019年02月21日 15時10分54秒 ) パスワード

◯梶原景季の仮名「源太」について

一言で申し上げると、「謎」です。色々と言われておりますが、すべてにおいて、確証となる史料がありません。
ただし、仮名は烏帽子親がつける風習が合ったようなので、その関係かもしれないと、伺ったことがあります。ただし、これも定かではなく、あくまで1つの推測です。


◯その他

まあ、とにかく、景時に関する伝承は(城を築いたとか橋を作ったとか巻狩覚えたとか温泉入ったとか)全国各地にたくさんあります。ので、今は景時と伝わっているものも、景時が〜というものではなく、親族や、弟の朝景、息子たちの事も含まれているのではないでしょうか。

特に、梶原一族は景時(と弟の朝景)は生前、西国に影響力があり(播磨守護ですし)、景時失脚後は一族が全国散り散りになって落ち延びたので、そういうこともあり、全国各地にそのような伝承関係が広がっているのかなとも考えられるかと存じます。

一番鎌倉から遠い場所ですと、「甑島」には景季らの落ち延び伝説がありますし……。

以上、長々と失礼いたしました。
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