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 投稿番号:100634 投稿日:2004年04月07日 01時40分31秒  パスワード
 お名前:愛媛・秋月家
丸に抱き茗荷紋の秋月氏

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

皆様はじめまして。愛媛県在住の秋月の苗字を名乗る者です。(以下愛媛・秋月家と略させていただきます)我が愛媛・秋月家の家紋は丸に抱き茗荷紋で、墓石のある寺院は曹洞宗です。秋月氏で有名なのは九州:日向高鍋藩主であった秋月家ですが、三つ撫子紋であり、我が家の家紋とは違います。
そこで、色々と調べた結果・・・豊臣秀吉の九州征伐にて秋月氏の日向高鍋への転封に代わり、黒田長政の三男長興が秋月氏の発祥の地:現在の甘木市秋月(秋月藩)に入った1624年、同じ年に黒田長興は天台宗日照院を創建していること、そして、長興から第8代目の秋月藩主黒田長舒は第7代目日向高鍋藩主秋月種茂の次男であり、また第5代目秋月種頴の母は第5代目秋月藩主黒田長邦の娘であり黒田家とは血縁関係にあったということです。
そこで、唯一九州の秋月家との繋がりがあるとすれば、黒田長政の三男長興が秋月の地に来て秋月藩主となった同年、天台宗の寺院を作ったということは、最澄や円仁が請来した異国の神「摩陀羅神」のシンボルの茗荷・茗荷紋にまず繋がり、我が愛媛・秋月家の禅宗:曹洞宗(開祖の道元は、天台宗で修行)にも繋がってくるように思えます。そして、日向高鍋藩に転封となった秋月家は、転封後も秋月の地に来た黒田家とは深い繋がりであったことまでは分かりました。
そこで、黒田家と繋がりの深かった秋月一族のうち、両家の家紋を使用せずに信仰の茗荷紋を用いたという説はどうでしょうか?実際に両家の確執を考慮して、家紋を変えるという事実は歴史上あったと聞いております。

皆様のなかで、どのような情報でもかまいませんし、秋月氏と丸に茗荷紋との関係を知っていらっしゃる方がおられましたら書き込みをお願いします。


[1]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年04月07日 02時02分00秒 ) パスワード
  

追加です。
「日本の苗字7000傑」では、秋月の苗字の方は約7600人、秋月氏は九州の日向高鍋の秋月家と、その他、清和源氏の流れにも秋月氏という姓はあると記されていました。また、私と同じ四国でしたら、徳島の阿波郡秋月邑発祥の秋月氏もあります。しかし出自不詳です。特に徳島の「秋月」は三好長慶で有名な三好氏の家臣十河氏が秋月の地で、抱き茗荷紋であったと聞いております。私が調べて分かった範囲は、この九州:日向と徳島:阿波の秋月についてのみです。
清和源氏との繋がりは、残念ながらまったく分かりません。
しかし、同じ秋月氏の苗字は、広島や名古屋でも見かけましたのでお心当たりのある方、よろしくお願いいたします。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月07日 15時11分24秒 ) パスワード
  

まず最初に「全く分かりません」と書いてハッキリしておきます。


幕末の会津藩に秋月悌二郎胤永という武士がいて
朝廷と幕府の融和を図ったり
鳥羽伏見の戦いや会津戦役で藩主容保に恭順を進めたり
官軍に降伏後は高須藩に幽閉され
のちに許されて熊本大学や東大の先生になったそうです。


そこで思うのですが
高須藩というのは美濃国にあった尾張藩の飛び地でして

幕末に高須の3兄弟が尾張藩主・会津藩主・桑名藩主になりました。
ですからこの秋月さんは元は尾張藩関係だったんじゃないかと。

この美濃高須藩というのは私の家のホンヤさんと引っ張り合いがありまして
それで(やっぱり平家関係かな?)と思うのです。

          ↓

筑前の朝倉郡秋月というところに帰化人阿智使主の一族が平家一門が滅んだ後に移住したという話があるそうです。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月07日 15時31分05秒 ) パスワード
  

愛媛のどこか?それにもよるのではないでしょうか?


伊予松山は加藤+久松が治めたところですから尾張と非常に関係がありますから
江戸時代に尾張の秋月家から伊予に移ったというのも有りうるのではないでしょうか?


秋月家の御本家の方に系図を見せて頂くか
図書館で分限録で調べてみてはいかがでしょう?


史上どうしようも変えられない家というのもありますが(木曾義仲とか源頼朝とか)
本姓は錯綜する家の方が多いのでは?と思います。
家紋も拝領したのを記念に「現在に至るも使用す」ということもありますし。


分限録と系図でアイデンティティを確認して家紋はいつから使用したのかお調べになるのが良いと思います。
他にどんな家紋があるのかも分かると良いですね。
[4]小林雅成さんからのコメント(2004年04月07日 19時17分45秒 ) パスワード
  

秋月さんへ

ご指摘のように少なくとも九州、四国、和歌山県に秋月の地名があり、そこに住んでいた清和源氏、藤原氏、後漢の霊帝の子孫、出自未詳の家などが、秋月を名乗ります。
おそらく大蔵氏で平姓の家があるから、『ここでもかいととけばダメもとでレスあるかもしれん!』ということでかかれたんでしょうけど、ご質問の内容は一般の人には回答は無理ですよ。家紋のプロならともかく、名字が地名姓で、ベスト30位になりそうな家紋ですから、あちこちの家で使っているんですよ(^^;;)平家がらみですとレスは付きますが、そうでないと返事は期待しないほうがいいですよ。
[5]nyaoさんからのコメント(2004年04月07日 22時10分32秒 ) パスワード
  

「筑前の朝倉郡秋月」の追加情報です。

筑前の朝倉郡秋月とは、現在の甘木市秋月地区のことです。自家用車だと国道322号線を南下して八丁峠を甘木市側へと越えると、程なく秋月に着きます。この国道322号線は久留米市まで続いているので、以前のスレッドで上がった高良内とセットで探訪するのもお奨めです。
比較的古い街並みが保存されていますが、平家を偲ばせるものは少ないようで、史料に当たる場合は甘木市街にある市立図書館や県立朝倉高校ならば、多少の手がかりがあるのではと思います。
なぜ高校に史料が?と思われるかもしれませんが、朝倉高校の歴史部や先生方が考古史料などを集めていたため、校内図書館に史料が集積されていたのです。高校時代はさほど気に留めていなかったのですが、今思えば史料の大半をろくに見ず卒業…惜しいことをした!
[6]田中愛造さんからのコメント(2004年04月07日 23時49分48秒 ) パスワード
  

ご承知のごとく筑前国秋月氏は、大蔵氏族で原田・秋月・田尻の三氏が有名です。家紋も(七宝に花菱)替紋(五七桐・秋月撫子)種封系は(定紋、同じ・替紋丸に剣菱・三ッ盛リ撫子)。
 筑後の秋月は、三善姓問注所氏、天文年中井上城主問注所治部少輔鑑景、筑前秋月党にあり秋月治部少輔と改む。
 土佐の秋月は、南路志に「高知城下の唐人町は、長曾我部氏高麗陣の時韓人三十人召捕、居宅せしめられし也、慶州の士朴好仁は妻子ありて其の子を秋月長次郎と云う」とある。
 阿波の秋月は、延喜2年板野郡田上郷、秋月粟主女の名みえ、又、後年に秋月左衛門尉光吉の女(伊沢四郎太郎俊景、妻)とみえる。
 讃岐の秋月は、寛弘2年大内郡入野郷秋月秋丸を載せるが、阿波同族らしい。
紀伊の秋月は、名草郡秋月村、地士秋月三四郎・秋月久兵衛とあり、根本を辿れば阿波の発祥でないかといわれる。秋月重光紀伊徳川家に仕え、家紋九枚笹・陰九枚笹五十俵三人扶持、清和源氏未勘とあり。
 信濃の秋月は、家紋、釘貫。備前の秋月は、家紋、桐。
 
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月08日 02時17分37秒 ) パスワード
  

ネットでいろいろ出てますね。


http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/akazuhisa.html

あきづき・かずひさの肖像画に残念ながら紋が見えません。
熊本でゆかりの場所があったりしますから
案外紋が彫ってあったりするかもですね。

[8]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年04月08日 23時30分15秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、小林雅成さん、nyaoさん、田中愛造さん、早速の投稿誠にありがとうございます!!「平安物語を熱く語る」という主旨より離れてしまい申し訳ございませんでした。しかし、皆様より大変参考になるご意見や情報を投稿していただき、大変嬉しく思いました☆
私は、愛媛は東予地方の出身です。祖父は9人兄弟で9人兄弟の長兄の家にも手がかりとなる資料はなく、お恥ずかしながら本家本元の秋月家の本家が分かりません。さかのぼっていくと大昔にどこからか移り住んできたということのみで言い伝え?られています。ただ、我が秋月家と深い繋がりのある親族(分かっている範囲では、明治時代にはすでに親族だったようです)の荒木家は、隅切り鉄砲角に三ッ葉葵の伊予西条藩松平家に仕え、本家には昔藩主より拝領の槍があったいたと聞いており、荒木本家の墓標は文政より刻まれております。

色々とご参考となる投稿ありがとうございました。引き続き何か情報がありましたら、よろしくお願いいたします。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月09日 09時35分03秒 ) パスワード
  

東予なら我が家は川之江にもお墓がありますよ。線路のところ。(これで分かったら一族かもですね)
ま、四国一円にお墓がありますから川之江だけじゃないですけど。


伊予は徳川幕府によってズタズタにされた国の1つですから
天領も多かったでしょうから
問題は四国にいつ来たのか?ですね。


もともとが伊予国の人だったら河野関係の資料に出てるかも知れないですし(記憶に無いです)
その後鎌倉時代に動いたのかも知れないし
南北朝時代かも知れないし
戦国時代も考えられるし。


宗教は・・・これは個人の信条で変わりますから・・・御先祖さまが途中で変えたというのもありです。
それにお寺さんも宗旨替えというのをやるんですよ。
永平寺とか比叡山とか高野山は宗旨替えはちょっとやらないと思いますけど。
結構歴史のあるお寺でも宗旨替えはやってますし、お寺が消えるなんて沢山ありますし。


河野氏関係のお寺さんも秀吉の四国征伐で河野氏関係の資料は破壊され尽くしています。


宗教よりは家紋の方が確実だと思いますし
家紋よりは系図の方がとも思いますが系図は捏造というのもありですね。
故意だけでなく無知からの捏造というのもありです。


河野氏関係の資料でちらちら見てみましたが今の所は載ってなかったです。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月09日 09時45分44秒 ) パスワード
  

それでビックリした1つを書きますと
河野氏の不倶戴天の敵である奴田の姓を名乗ってる家が家来にあったのですよ。
奴田なんて河野通信の父親と兄を殺した男の名字じゃないか!と。


何十年も調べてて今日初めて見つけたのです。
人間関係とは思ってたより複雑なんだと思いました。


>実際に両家の確執を考慮して、家紋を変えるという事実は歴史上あったと聞いております。

家紋を確執から替えたという事は充分ありえます。これは小林先生の領域ですね。


だけど家紋も江戸時代って我が家の系図からすると「勝手に好きに替えた」なんてありえないです。
うちはとうとう家紋は許可が出なくて16世紀から同じのを仕方無く使ってますし
明治時代にも結局は意志で戻していません。
それが我が家のアイデンティティという事で泣く泣く使用しています。


主人の家と家紋が同じだから遠慮して替えたというのは大いにありえると思います。
どころか、遠慮すべきですし。同じ紋は許されない筈です。江戸時代。
これも小林先生の領域ですね。

小林先生がどのようにお答えになるのか実に興味のあるところでございます。
[11]小林雅成さんからのコメント(2004年04月10日 18時52分05秒 ) パスワード
  

緒言:大(マハー)なるは、ルージャなる哉!尚、月神の信仰は砂漠の灼熱の昼を避けて夜行動するアラブ的なものしにて、、。ペルージャ。もろこしの人、姓始めにありて、後に居住地を姓に因み名付く。平邑あれど、その由来を記さず。
我が邦の古きことに鑑みてこれ隠蔽ならんか。

もろこしの高僧にナーガール・ジュナ(龍樹)、秋月氏またらの神を引用するに、『中論』の伏線あらん。天竺にナーガ族、インダスの流れ、部族の抗争に、バーラタ戦争、日ノ本にありては、加藤清正、蛇の目(eye of the snake)、
リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルバ・ヴェーダを紐解きて諸氏の参考の用に供す。
*********************************************************

>家紋を確執から替えたという事は充分ありえます。
どこでもあると思いますよ(^^)国が変わったり、藩がかわったり、おなじ国でも幕府直轄地とそうでないところはかなり違うと思いますが。

>「勝手に好きに替えた」なんてありえないです。
そう。但し、昔は全国版の家紋事典なんて存在しなかったから、旗本以上の史料に立脚してそれで説明できないのは『勝手に使用している』と断定しているだけ。


大(マハー)蔵氏の末裔が、ルージャ(龍、蛇、永、長、中、那賀、名賀、全て同じグループたる一族がシンボルとする漢字です、一番大きいのは中華人民共和国ですし、日本にも中国地方という呼称)、であることは、家紋辞典に茗荷紋の使用家で藤原氏族が比較的多いと記述されている通りです。藤原氏をさかのぼれば、藤原鎌足→中臣鎌足→中臣連鎌子、つまりルージャ。

『大(マハー)なるは、ルージャなる哉』は日本では私ぐらいしか言っていないとおもうので、平熱掲示板で出会った家紋データベース屋さんがサンスクリット語混じりのわけのわからん仮定でうちの家紋の説明をいとも簡単にしてしもうたぐらいに受けとめてください。京都の人は何故大文字の送り火をするのだろう?送り火が見えなくなる建設工事を近所でされたらクレームが出るのは何故なんだろう?
『何でだろ〜、何でだろ〜、な、な、ななんでだろう〜!』

後世ルージャの一族は他の部族と混血し、現在では源平藤橘すべてにごったまぜ状態にあります。分布で多いのは栃木、茨城、佐賀、長崎、和歌山など(東京、横浜、大阪は言うに及ばず)です。民間伝承で、似たようなフォークロアを有しているという特色があります。

別の説明:鍋島杏葉のように、これも九州ですが、杏葉と茗荷は形が良く似ているため混同されているという説明もできます。

別の説明:冥加として商人と見なす説も適応できないわけではありません。





[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月11日 00時13分16秒 ) パスワード
  

壮大ですね・・・
[13]小林雅成さんからのコメント(2004年04月11日 09時53分17秒 ) パスワード
  

上の文が余りに書き散らかしたような印象でわからないかもしれないので、要点だけ:

1、藤原氏族、詳しい説明〔11〕を参照。清和源氏族だという反論も想定済み。

2、実は鍋島も藤原氏族だったりする。

3、仏教用語ではなくて歴史用語で冥加とくればピンときますね!

〔補足的敷衍〕
ギャンブラーさんを参考にさせていただくと、縄文・弥生時代の話ですので、私は平家よ!というご意見は少し控えていただいて、

服部氏を遡ること孝元天皇の皇子、大(マハー)彦命が古いことはagreeしてもらえるとおもいます。

my theorem:『大(マハー)なるは、ルージャなる哉』

服部氏のうち藤原氏族と伝えている家が、丸に二つ引きを使用しているのはご存知の通り。引両紋は典型的なルージャなので藤原氏というのは祖先の言い伝えを忠実に受け継いでいるのですが、ギャンブラーさんのおうちが藤原氏という伝承は無いですよね?ですから、マハーなるもののうち部分集合でルージャがおり、マハー全てがルージャであるわけでは無い。
現時点では、これは仮説で、全てが説明できる(?)とはおもっていません、ですから【哉】という断定ではないな漢字を最後に付けています。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月11日 10時57分01秒 ) パスワード
  

ますます難しくなりました。
「冥加紋と杏葉紋」が混同されるというのは分かります。


歴史用語の「冥加」?

商工業者の営業税。
献金の意味から次第に運上に変化。


冥加金:

(1)社寺へ奉納する金銭。神仏の加護の祈願、またはそれへの謝礼の意味で納める。冥加銭。

(2)近世の雑税の一。商工業者・旅宿・質屋などが、営業免許・特権付与の代償として領主(大名)に献上する金穀をいう。原則として銭納であったが、物納もしくは労役の場合もあった。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月11日 11時13分14秒 ) パスワード
  

>my theorem:『大(マハー)なるは、ルージャなる哉』
>丸に二つ引き

この二引両紋は難しいんだそうですね。
人類最古の象形文字の太陽の神?にまで至るなんて聞いてます。


また母方河野氏の三文字紋は松岡先生によるとやっぱり人類最古のメソポタミア文明まで遡るとか。
火星のマルス神になんたらなどとどこかで読んだ記憶です。


ワタクシも「大(マハー)なるは、ルージャなる哉」の哉かな?

[17]小林雅成さんからのコメント(2004年04月11日 14時11分24秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>ますます難しくなりました。
やさしく説明したつもりなんだけど(^^;;)論文調ではないからわかりやすいかなって(自己満足?)

>冥加金:
そうです。冥加金の意味です。
町奉行日記読んでいるとちょくちょく出てきまして、その他の説明(下記註)で納得いただけない場合、商人の子孫の人にはこういった苦し紛れ(笑)の説明もします。
こういう説明もavailableだということで、決定的な説ではないです。

(註)
1、平家の旧知行国では、鷹の羽紋を使っている家で、平家方の武将であった家のご子孫が鷹の羽ではなくてそれとセットで使用される茗荷紋を使っているケースがかなりありますよ、で納得されなければ、2、仏教の冥加の話をします。でもうちは天台宗ではないのだけどといわれれば、3で冥加金の話をするんです。

**************[16]のレス*******************************

>この二引両紋は難しいんだそうですね。
複数説が存在しますね。もともとルージャが日本に渡ってきたのは単一ルートではありませんから、当然伝承もバリエーションがあります。

>人類最古の象形文字の太陽の神?にまで至るなんて聞いてます。
学説の1つによると、一つ引が太陽を表し、二つ引が月を表すそうです。あらあらここにも秋月さんの月が出てきましたね(^^)

>人類最古のメソポタミア文明まで遡るとか。
このような研究は、比較紋章学といいます。日本のイエ制度に繋がる紋を家紋と呼称し、それ以前の縄文式土器ですとか、古墳の壁画の模様で、家紋にそっくりなのは、比較紋章学として扱います。
昭和50年代にこの分野で大衆受けした本を書かれたのが、早稲田大学を出た吉田大洋氏です。ただし、現在までに研究者はまともに相手にしていないようですが、、。
彼の著書について私見を述べますと(1)文様とか、紋章、家紋などをごっちゃにして用語統一をされていない、都合のいいところで紋章の起源を、家紋といったりしています。(2)故宮博物館や、インドの博物館の展示品に家紋そっくりのがあるといって写真は撮ってきて本に掲載しているが、いったい博物館のどの階のどのあたりの展示コーナーにあるのか?、所蔵品には分類番号がついていてもおかしくないが、所蔵品分類番号のような後で他人が検証したいとおもっても出来るように配慮していない。などが指摘できます。
ただし、アジア各地を飛び回って取材したフットワークの軽さは評価にあたいするでしょう。惜しむらくは、早稲田大学卒でマスコミにコネクションが豊富にありながら、充分活用できているとはいえない状況でしょうか。
吉田氏に影響を受けたと思われる商社マン定年組の岩田明氏は、これも各地を旅されて十六葉菊にちなんだ本を書かれています。最近リニューアル版が出た。

>ワタクシも「大(マハー)なるは、ルージャなる哉」の哉かな?
ギャンブラーさんのご主人はアメリカ人でしょうから、もしかしたらご存知かもしれませんが、紀元前の話ですが、ヘブライの民が北のイスラエル王国と南のユダ王国に別れて住んでいた頃、神殿では、太陽神と蛇の神を同時に祀っていたと、ヨセフ・アイデルバーグが書いているのですが、ホントかどうか知りたいのです。ご存知ないでしょうか?
[18]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年04月12日 00時09分45秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、小林雅成さん、投稿ありがとうございます。
大変興味を持って投稿文を拝見させていただきました。
ただただ皆様の博学多才ぶりに感心する次第です。私はとても会話について行けるレベルではありませんので、投稿を読ませていただくだけですが、まさに『ここでもかいととけばダメもとでレスあるかもしれん!』の気持ちで投稿させていただいたことは、正解でした。皆様ありがとうございます。
平家物語とはかけ離れてしまいますが、どうぞよろしくお願いいたします。
これからも、投稿を読ませていただきます。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 00時32分04秒 ) パスワード
  

これは面白いですね。

      平家の旧知行国では、鷹の羽紋を使っている家で、
      平家方の武将であった家のご子孫が鷹の羽ではなくて
      それとセットで使用される茗荷紋を使っているケースがかなりありますよ

浅野家の鷹羽紋と考え合わせると浅野はやっぱり南朝方だったのかな?と想像が行きました。
      浅野は清和源氏系土岐氏で美濃出身だと言ってるそうですが
      この土岐氏が南朝方についたというお説を思い出しました。

浅野家の御先祖さまは本当は平家(平家方)だった、というならもっと面白くなります。



>でもうちは天台宗ではないのだけどといわれれば
宗教は変わるというのが分からない人には困りますね。



>比較紋章学。
>日本のイエ制度に繋がる紋を家紋と呼称し、それ以前の縄文式土器ですとか、古墳の壁画の模様で、
>家紋にそっくりなのは、比較紋章学として扱います。

ああ、なるほど。
遡ると言い出したらアダムとエバの落書きに落ち着きますものね。



>もしかしたらご存知かもしれませんが、
夫は全然「ご存知ない」系の人です。

だいたいキリストに弟妹(合計5〜6人)がいたのさえ知らないのですから。
最近古い番組の再放送で
ある学者が聖書の説明をする番組で(ヨセフ・アイデルバーグ?)やっと私の言に納得した人です。



>紀元前の話ですが、ヘブライの民が北のイスラエル王国と南のユダ王国に別れて住んでいた頃、神殿では、
>太陽神と蛇の神を同時に祀っていたと、ヨセフ・アイデルバーグが書いているのですが、
>ホントかどうか知りたいのです。ご存知ないでしょうか?

ハリウッドの聖書系映画では「牛」みたいな動物を拝んでるシーンを見たことがあります。
それで神の怒りをかった、と。


蛇はキリスト教では嫌う生き物ですね。
蛇というより地を這う生き物は。
今回の「キリストの受難」でも悪魔のイメージとして蛇が這ってましたね。


旧約聖書に書かれているかもですね。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 00時45分21秒 ) パスワード
  

ラスベガスに住んでいるのですが
砂漠の太陽とは灼熱苛烈!
凄いですよ。

太陽が出てる時は外に出るのに目を開けてはいられないのです。
冬でもサングラスは必需品。

で、太陽が落ちるとド〜ンと気温が下がります。突然寒い。冷え込む。
(夏は日中53℃にもなって夜中でも40℃を下回らず暑いのですが)


更に蛇は砂漠には毒蛇がいろいろ棲んでいます。
ガラガラ蛇だけじゃなくてサイドワインダーとか他にも。
そうそう映画インディ・ジョーンズの「失われた聖櫃」にもいろいろな蛇が出て来ましたっけ。


エジプトとかシナイ半島とか
あの辺りの太陽や蛇は畏怖の対象だったというの納得します。
ま、どこでも太陽は神になりますが。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 12時26分46秒 ) パスワード
  

さきほど義兄宅から戻りましたがけっこう聖書に詳しい義兄も知らないと言ってました。
国が2つに分かれたのは知ってましたけど。


ユダヤ人は一神教で偶像崇拝は禁止なんですが

ユダヤ人の歴史を見ると時々偶像崇拝をやってるようで
1番有名なところでは
モーゼが山から下りてきたら人々は金の小牛(ゴールド・カーフ)を崇拝してて激怒したという記述がありますね。


ヨセフ・アイデルバーグは日本人はもともとはユダヤの子孫だと
失われた7族の1つだとか10族の1つだと言ってますね。


秦の始皇帝はダビデの子孫だとか聞きますから日本人がユダヤの子孫でもおかしくないですけど。
ま、ユダヤ人が日本まで来たというのは有り得ると思います。


1つモーゼに関してのハリウッド式ジョークを披露しておきます。
モーゼが山からおりて来た時うっかり蹴つまづいて3枚与えられた石版の内、1つを落としてしまい、
人間は神から10戒のみ与えられたとした、と。

だから人間は15も戒律を与えられないことになってラッキーだった、と。
[22]小林雅成さんからのコメント(2004年04月12日 20時14分14秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>浅野家の御先祖さまは本当は平家(平家方)だった、というならもっと面白く
管見によれば、秦氏族ではないかなと思っております。数年前、安芸国を調査でめぐりまして、なんとなく感触は得ております。秦氏族のうちで面長顔系統は藤原氏といっても違和感ないですし、私のように、ぶりっと横にでている顔は源氏といってもつじつま合わせればいいわけですし(爆笑)小中高校の歴史の教科書に載っている【伝】源頼朝像は、あくまでいい伝えでして、実際は足利氏のようですので、ほんまの源頼朝の顔なんて、近くでまじまじ見た人は側近以外にそんなに多くないとおもうのです。側近同士も利害関係で殺し合いしていますでしょ!

>遡ると言い出したらアダムとエバの落書きに落ち着きますものね。
それでもそんな本がでるのは、1つには売れないと商売にならないという出版社さん側の論理があるようです。

>だいたいキリストに弟妹(合計5〜6人)がいたのさえ知らないのですから。
ほんとですか?新約聖書は最初がマタイの福音書で、第一章がイエス・キリストの系譜をずらずら説明しますでしょ?仏教徒の私でも知っていますよ(^^;;)

>ハリウッドの聖書系映画では「牛」みたいな動物を拝んでるシーン
牛は、lost ten tribesのうちのダン族のシンボル(?)なんです。秦で有名な広隆寺は昔、牛を祀っていたらしいです。現在は住職が替わってから途絶えていると太秦の近所に住む人にききました。
日本は明治になってから、牛の肉を食べ始めましたが、本来食べるものではなく、崇拝するものだと思います。岡山県にも田倉牛神社があり、牛は神様としてまつってあります。この神社は平家落人逃亡ルートとして名高い日生町〜備前市三石の三石から約3KM北西に位置しております。ダンは純粋なヘブライの民というよりは、多分にエジプト系統がはいっていますから、、。

>今回の「キリストの受難」でも悪魔のイメージとして蛇が這ってましたね。
それで、へヴィ・メタル系統は蛇がでてくるんですね(笑)

>ユダヤ人は一神教で偶像崇拝は禁止なんですが
私の記憶があいまいでした、おそらくユダヤ教が確立する前の段階だとおもいます。

>ヨセフ・アイデルバーグは日本人はもともとはユダヤの子孫だと
結局彼は、古代ヘブライ語と日本語の関連する語彙集を作っていると書き残して著書の日本語版が出た翌年死去しています。この遺稿を読んでみたいのですが。

>ま、ユダヤ人が日本まで来たというのは有り得ると思います。
過去会った人で日本人なのに私はユダヤ人の子孫だという人がいて、不思議に思ったことがあります。

>だから人間は15も戒律を与えられないことになってラッキーだった、と。
way of thinkingがアメリカ人らしいですね(^^;)
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月26日 09時51分44秒 ) パスワード
  

「新選組!」第16話に秋月悌次郎出てましたね。
残念ながら紋は「丁度」見えませんでしたが。

会津藩公用係として新撰組との関わりでこれから出番が多くなるでしょうか?
楽しみです。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月26日 14時43分50秒 ) パスワード
  

再放送を見てるところです。

なんだか三ツ星のような紋に見えましたが(確信ゼロ)
だいたい初めて見る役者さんなのでどれが誰だか区別がつかないので間違ってるかも知れません。

あ、○には入ってなかったです。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月26日 14時53分22秒 ) パスワード
  

家紋の本をちらちらめくって見ました。

どうやら「大蔵氏系秋月家の三盛撫子紋」でしょうか?



でも、もしかすると
三茗荷紋かもですね。


他にも似た紋として三葉柏紋や三こうほね紋というのもありますねえ。
でも秋月さんで名を出してる武士の紋は大蔵系秋月さんの三盛撫子紋だけみたい。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月26日 14時59分00秒 ) パスワード
  

よく分かりませんが

愛媛・宇和島って東北の雄藩である仙台の御分家ですよね。
ということは会津藩の秋月家と親戚になる仙台の方が愛媛に来たということもありですよね。
その時に(または後世)撫子紋から茗荷紋に替えたというのもありでしょうし。

[27]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年04月27日 00時28分08秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさんへ
NHKの新選組に秋月悌次郎がでていましたので、かなり目を凝らして見ていたのですが、紋所は確認できませんでした。また度々機会があると思いますので楽しみにとっておきます。

あと、下記のHP幕末関連史跡便覧に秋月悌次郎の墓が写っており
微かに家紋が見えるのですがよく分かりません・・・
http://homepage1.nifty.com/~juno/siseki/s_tokyo_03.html

皆様、今後も投稿の程よろしくお願いしますm(_ _)m
[28]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年04月27日 00時36分02秒 ) パスワード
  

この人!同じ秋月でも・・・秋月種高さんという東大医学部卒で、現在東京警察病院でお医師(形成外科副院長)さんをされている方がいらしゃいました。(HPあり)やはり「種」が付いているということは恐らく本家本元の日向高鍋の秋月さんなんでしょうね。。。
[29]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月27日 02時57分33秒 ) パスワード
  

秋月悌二郎胤永
秋月種高


ちょっと系統が違うかもですね。
胤の方は「千葉氏系」という意味かもしれません。
錯綜しますね。



あのお墓の画像を御自分で取り込んで拡大したら見られるかもです。
私が拡大鏡?を使ってみたところでは
黒丸に三つ○(三つ星)みたいになってるようでした。
普通は白い背景に黒い紋模様を描くと思いますが
この画像は逆ですね。(白抜き?)
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月27日 04時10分05秒 ) パスワード
  

記憶違いかも知れませんが

秋月悌次郎は会津藩丸山胤道の子で秋月氏に養子に行ったと思います。
丸山氏というのは千葉氏の一族でそれで「胤」を使用です。

九州日向などの秋月さんは「種」の字をお使いですね。

会津藩の秋月氏が代々「胤」を使用してれば?
または代々「種」なのか?


私が再放送で「秋月悌次郎らしき人物」を見たシーンは
松平容保公でしたっけ?
に「いよっ!征夷大将軍!」と声をかけた人物を特定したのは壬生浪士隊でという話が出た席に
ほんの一瞬秋月悌次郎の姿が見えました。この時家紋も見えました。

(秋月悌次郎は第16話では全部で3シーン映ってたと思います)

他の人達は反対側に座ってましたから。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月10日 09時53分07秒 ) パスワード
  

本日の「新選組!」18回の32分ごろの秋山悌次郎の紋
○無しの3つ星のような紋に
まるで梅の花のようなヒラヒラがついてたように見えましたが。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月10日 10時00分22秒 ) パスワード
  

やっぱり三盛撫子紋でしょうか?
茗荷にも似てるし
蔦のようにも見えた。これはちょっとカタチに無理があるかも。


秋月家の紋は正式には撫子で、ちょっと系統が違う家は遠慮して似た茗荷を使用するのかしら?
などと考えたりもしてみました。


[33]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年05月16日 21時30分06秒 ) パスワード
  

会津藩士秋月悌次郎(丸山胤道の次男:胤永)氏ですが、暇潰しのギャンブラーさんの言われる通り、丸山氏というのは千葉氏の一族であり「胤」を使用しており、家紋は↓のHPで見る限り九曜紋のようです。

http://f-s-mahoroba.tsukaeru.jp/isinji/isinji-date/1900/T-AKIZUKI.jpg

千葉氏には、下総千葉氏と肥前千葉氏があり、どちらも九曜に半月紋で、江戸時代前までは九曜紋だったそうです。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月16日 23時32分09秒 ) パスワード
  

左が悌次郎さんのお墓ですね。
右は本当に丸山家の本家・本姓千葉氏の九曜紋使用ですね。

[35]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年05月19日 00時22分37秒 ) パスワード
  

秋月種実の家老板並左京進氏の遠縁の方(父方の祖母が板並家)のホームページを発見したのですが、板並左京進氏の時代の板並家は、丸に並び鷹の羽の家紋であったのが、現在の板並家は丸に抱き茗荷紋だそうです。
また、言い伝えによれば板並家は菅家一族の後裔とされているそうです。
なぜ板並家も現在では茗荷紋なのでしょうかねぇ。。。。
[36]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年05月19日 00時36分20秒 ) パスワード
  

現在の板並家は、「丸に抱き茗荷紋」ではなく、「抱き茗荷紋」でした。訂正いたします。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月19日 00時47分05秒 ) パスワード
  

>板並左京進氏の時代の板並家は、丸に並び鷹の羽の家紋であったのが、
>現在の板並家は丸に抱き茗荷紋だそうです。
>また、言い伝えによれば板並家は菅家一族の後裔とされているそうです。

菅家がらみというのが理由でしょうか?

紋や名字は遡るのは本当に大変ですね。
[38]小林雅成さんからのコメント(2004年05月19日 00時52分55秒 ) パスワード
  

愛媛・秋月様

>丸に並び鷹の羽の家紋であったのが、現在の板並家は丸に抱き茗荷紋
ほかのスレッドでも何回か書き込んでいますが、鷹の羽紋と茗荷紋はペアーで使用する氏は結構存在します。

>言い伝えによれば板並家は菅家一族の後裔とされているそうです。
確認しましたが、『姓氏家系大辞典』には菅原氏とは記載されていませんでした。よくにた名字で美作菅家党に梶並氏がおりまして、菅原道真の後裔です。
[39]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年05月19日 01時09分46秒 ) パスワード
  

板並家の板並清左衛門は、秋月種実の七女マツを妻とし、清左衛門の子 板並権太郎は秋月種実の孫にあたるそうです。
[40]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年05月19日 01時30分58秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様、小林雅成様さっそくのご回答ありがとうございます。

お恥ずかしながら、貴ホームページの他投稿「太宰府天満宮:平家との関わり:鐘ヶ江氏」を今拝見しまして、菅家一族とは菅原道真公の後裔であることを知りました。

さすがは皆様、お調べになるもの早いですね。
言い伝えによれば板並家は菅家一族の後裔とされていると書いてあったのは、たまたま見つけました ↓この板並(本人さんは板並氏ではないと思いますが。。。)さんのHPです。
http://sakyo.web.infoseek.co.jp/kakeizu.html

今後も平家物語を熱く語る貴HPに寄らせていただきます。ありがとうございます。
[41]愛媛・秋月家さんからのコメント(2004年12月22日 01時46分38秒 ) パスワード

大変ご無沙汰しておりました。愛媛・秋月家です。

また最近秋月の由来が気になりまして、親に聞いてみたところ愛媛・秋月家
は徳島から来たと聞いたことがあると聞きました。
そこで、徳島(阿波)の秋月を調べてみました。

まずは、田中愛造様の「阿波の秋月は、延喜2年板野郡田上郷、秋月粟主女
の名みえ、又、後年に秋月左衛門尉光吉の女(伊沢四郎太郎俊景、妻)とみ
える。」をヒントに秋月を探ってみましたら、

徳島の板野郡土成町秋月(安国寺風土記より)に秋月城跡があることを
知りました。

いつ頃か分かりませんが土豪秋月氏がここに居館を構えたとあります。
そして、この秋月氏は文永年間守護職の小笠原氏から世継ぎを迎えた
とあります。秋月城跡案内板
残念ながら、「文永3年に阿波国秋月城を築城したのは小笠原長直」
であることまでしか分かりませんでした。

阿波の守護職(初代)の小笠原長房は、信濃守護の小笠原長経の弟で
父は、小笠原長清に当たります。
この小笠原家は清和源氏義光流に組します。
「日本の苗字7000傑」の「秋月に『ほか清和源氏など』」に繋がるので
はないでしょうか。


「旧国名別苗字大観」では、阿波の秋月は、「出自不詳。阿波郡秋月邑
発祥。」まででしたが、たまたま親から「徳島」と聞いて調べていまして、
この阿波の秋月と清和源氏に繋がる史実を発見した次第です。

その後、「細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。」とあります。
 秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩をしめていた。秋月城跡案内板
細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられています。

残念ながら家紋に関する情報はありませんでした。

「平家物語を熱く語る」のHP趣旨から大きく外れてしまって申し訳
ございませんでした。

[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月22日 02時38分29秒 ) パスワード

世界的にも日本の名字は多過ぎて複雑怪奇で難しいですけど、本当に難しいですね。
結局霧の中に戻ってしまったということでしょうか?

阿波の秋月家という古い家も確かに「秋月氏」として出色の1つだそうで
こうなりましたら
徳島県板野郡土成町秋月の秋月姓の方にお訊ねするより?
ホンヤさんはどこの家か訊けると良いですね。

こうして地道に辿っていくより仕方無いのかも。


秋月姓でも秀吉の時代に半島から連れて来た人の子孫に秋月姓を名乗らせたという秋月姓の方もいらっしゃるようで
日本の名字は現代から遡って調べるのは本当に難しいですね。


どなたか系図をお持ちの方が見つかると良いですね。


私のNYの従弟が
「すっごく気に入ったお店があって11年通ってたけどヒョンな事から最近名刺を貰ってビックリした!うちの一族だった」
と知らせて来ました。
11年も赤の他人のお店だと思ってたのに実は「血で繋がってた」からヨソに浮気せず通ってたから?


ヒョンなことから秋月家のことが分かるかもです。
諦めずに地道に研究なさってください。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月22日 02時52分13秒 ) パスワード

吉野川流域の徳島線のにしおえ?駅や阿波川嶋駅の近くで結構交通の便の良さそうなところではありませんか。
阿波の秋月氏はここの豪族だったのでしょうね。
結構調べ易いように思いましたが。
役場の歴史を編纂してる課に問い合わせてみてはいかがでしょう。

あれだけ交通の便が良く、更に地名が古代のまま、という印象を得ましたから
是非とも徳島県板野郡土成町秋月にいらっしゃいますように。


現在秋月さんが存続してなくても土地の有力者から昔のお話が聞けると良いですね。
[44]田中愛造さんからのコメント(2004年12月22日 18時16分54秒 ) パスワード

愛媛の秋月様
 良くお調べで感服致しました。家紋は丸に九枚笹ですね、四国に於いての秋月氏は殆どが阿波の出で、讃岐・伊予も同じです。唯、伊予には大蔵系(七宝紋)も存在致します。同系として紀伊の秋月も又阿波の出とされ、紀伊の名族秋月氏は2系統在ります、今世では混同して清和源氏支流、矢張り丸に九枚笹・陰九枚笹としての家紋を使用(秋月重光・紀州藩、仕)と云う。
 1266年小笠原直長築城と伝えられしが確かな記録は無い。草木茂る丘に(史跡秋月城址)の碑が立つ、今も空濠の一部が残り、秋月氏代々の墓所があり五輪塔が集中するとの事。「足利氏所領奉行人交名」(倉持文書)に阿波郡秋月庄が永仁の頃1293-に見えるらしい。左衛門尉光吉と云い重光と云い、通字が光かも知れませんね。
[45]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月23日 03時25分50秒 ) パスワード

>紀伊の秋月も又阿波の出とされ

紀伊と阿波というと古くは源平時代に平家から源氏に鞍替した話を連想してしまいます。
それで「清和源氏」かな?と。
[46]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月23日 12時14分17秒 ) パスワード

和歌山県和歌山市秋月で地図を検索しましたらありました!
ビックリ!


秋月って名称は結構普通名詞なんですか?
どこにでもある地名なんでしょうかねえ?
[47]布袋竹さんからのコメント(2004年12月23日 15時18分41秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

秋月は地図・やはり検索で10ヶ所、といっても、上下・1条とかありで
7ヶ所ですか。
これまでに出てこないところ

北海道旭川市  3
広島県安芸郡江田島町
山口県周南市
長崎県長崎市
[48]田中愛造さんからのコメント(2004年12月24日 00時22分54秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
 ご無沙汰です。日本に於ける姓氏はご存知の通り、古代豪族や帰化系を除くと源平藤橘に代表されますが、多くは母系や血縁によって苗字を替え、更に没落防御と名族意識に左右され姿を変身し、帰化系から橘・平家から源氏と様々な様相見せている。寛永系図や寛政譜を見ても堂々と名乗っている。南方系や北方系民族形態を正したいものです。
 さて、秋月氏の名称地名は布袋竹様が云われる通り、列島七ヶ所です。夫々の謂れは県別の地名名鑑にあり省きます。多分何処でもの地名では在りません、特に紀州はギャンブラー様にはご縁が御ありかと思って居りましたが?例の海南の近くです。
[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月24日 02時39分57秒 ) パスワード

布袋竹どの

ありがとうございます。
長崎は九州ですから、ま、理解出来ます。
北海道は当然最近100年ぐらいでしょうし。
ということは、あんまり普通の名称ではない、ということになりますね。
わたくしには秋月=九州限定でした。


田中愛造さま

紀州は母方の系図で繋がってますし
さらに現在の親戚も父方母方双方で海南に繋がってます。

何重にもがんじがらめで繋がっていて驚くばかりです。
こういうのが日本人の血縁関係なんでしょうねえ。

ボツボツ切れて関係無いみたいですが見えないところで確かに繋がってるんでしょうね。
ロマンですねえ。
[50]愛媛・秋月家さんからのコメント(2005年10月31日 04時05分21秒 ) パスワード

皆様お元気でしょうか。
また、久しぶりに秋月の由来が気になりまして調べてみました。

その結果、2点気になる歴史の流れを発見いたしました。

なぜか、徳島の国分寺は宗派を3度も改宗しているのに気づきました。
阿波国分寺は、行基菩薩が開基と伝えられています。
その後、法相宗から弘法大師により真言宗となり、寛保年間(1741〜1743)
には、曹洞宗に改められています。四国88箇所の第15番札所です。
なぜ、曹洞宗なのかは・・・よく分かりません。

ただ、徳島市内にある丈六寺は、「阿波の法寺」とも呼ばれる古刹で
室町時代末期、阿波国守護細川成之が曹洞宗の寺院として再建しています。
金岡用兼を開山としているお寺です。

少しは、愛媛・秋月家(曹洞宗)にも繋がるのかな?などと思ったりもしました。

もう一点は、「天正年間(1573-92)、戦国時代、秋月光秋が守る秋月城は落城
した」という史実を発見しました。
確か、紀伊の秋月も又阿波の出とされ、秋月重光という人物が紀州藩に仕え
ていたと、田中様より書き込みしていただいていたことを思い出し、「光」繋
がりで、「紀伊の秋月は、名草郡秋月村、地士秋月三四郎・秋月久兵衛と
あり、根本を辿れば阿波の発祥でないかといわれる。秋月重光紀伊徳川家に
仕え、家紋九枚笹・陰九枚笹五十俵三人扶持、清和源氏未勘とあり。」
に辿り着くように思いました。

ちなみに、伊予西条藩(紀伊徳川家支藩)の城跡まで、車で20分もあれば
着きます。

長文となりましたが、また何か分かりましたら書き込みさせていただきます。
[51]漂流者さんからのコメント(2008年01月30日 17時48分41秒 ) パスワード

ネットで秋月を調べているとここに辿り着きました。
4年前のスレッドですが、コメントさせて下さい。
私も愛媛の秋月姓を名乗るものです。代々、我が家では「秋月家は城をお取り潰しにあって九州地方から愛媛に流れ着いてきた」と聞かされています。そして、我が家が秋月家藩主の直系であるという風にも聞いています。しかし、何の資料も家計図も残っていないため、真相はわからず…秋月の由来が気になるところです。
[52]mino阿弥さんからのコメント(2008年02月13日 13時41分56秒 ) パスワード

「美濃国諸家系譜」(東大史料編纂所蔵)の中に「秋月氏系図」があります。
(阿多信王(漢名高貴王)本朝人皇三十七代孝徳天皇御宇大化年中
阿多信王初めて日本に来り、播州明石の浦に着岸し大蔵谷に住すと云う。)
から始まっています。
愛媛の曹洞宗は、薩摩の島津氏菩提寺福昌寺の関係もあるようです。
私は、わかりませんが。ザビエルも滞在したとか。
西園寺氏の地にもあるようで、道後の義安寺、下難波の大通寺も
曹洞宗に転宗したそうです。
ご参考まで。
[53]通りすがりの農民さんからのコメント(2008年05月11日 03時58分48秒 ) パスワード

このスレとは関係ないかもしれませんが、たまたま見ていて、きになったもので、、、
自分自身秋月家とは、なんの関係もないのですが、小、中学校時代の先輩に秋月家の当主の流れをくむ方がおられましたよ。
私は3番目の方と同級生で、1つ上の長男の方とは、中学時代色々と話す機会があり、会話の中で、当主の流れくむことと、秋月家の当主の家系では、代々、名前に種とゆう漢字をつかっているとゆうことを言っておられたのを覚えています。
個人情報にあたるため実名はあげませんが、その先輩も、父親も名前に種とゆう字がはいっていましたね。
今の所在は調べてませんが、出身は宮崎県のかたですね。
[54]秋月さんからのコメント(2010年03月08日 03時09分23秒 ) パスワード

私、甘木市の秋月氏の本家の嫡流嫡子の秋月と申します。我が家の家紋は、三つ撫子ですよ。古代からの色々な遺品が残っております。
大分の、大友宗麟の居城であった、大分県大分市大分から錦町にまたがる府内城(本来の府内城。現在の府内城は観光のために近代になって作られたものです)の敷地内に、親戚一同かたまってすんでおりますが、学術的発掘により、徐々に散りつつあります。私自身は、東京に住んでおります。
[55]彦左さんからのコメント(2010年11月19日 22時37分35秒 ) パスワード

定年退職し故郷の北海道に戻っていますが、会社時代の先輩に和歌山の秋月さんがいました。
私の拙い歴史認識の中で「紀州では古代氏族の紀氏に次ぐ名族の秋月氏」があり、投稿の中にもある和歌山市内の地名「秋月」は古代氏族秋月氏に由来(逆か?)すると資料で目にした記憶があります。
これが正しければ中世の秋月氏は紀州秋月氏の末裔か各地にある秋月の地に依拠する氏族名かとも思うのですが?
[56]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年11月20日 13時05分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

彦左さんへ
 
紀伊秋月氏は、「寛政重修諸家譜」の清和源氏支流に収められている紀伊国名草郡秋月邑発祥で紀州藩に仕えのちに幕臣となる。
名草郡の清和源氏としては保田氏(頼光流あるいは義光流)が存在するが、湯浅氏系図と同じで湯浅宗重は紀氏(あるいは平氏、藤原氏秀郷流)と釈然としないのである。
いずれも時の権力者を意識した出自仮冒で、紀伊秋月氏は紀伊国造の末裔かと思われる。
[58]愛媛・秋月家さんからのコメント(2012年03月23日 00時31分43秒 ) パスワード

ご無沙汰しておりました。
久しぶりに「秋月家」で検索しておりましたら、
またここへ辿り着きました。
2004年4月7日の投稿から、8年もの月日が経って
いました。
ちゃんと残っていたのですね。驚きました!

あれから、今までで進展したことはほとんどないのですが、
山口当たりから出て新居の浜(愛媛:新居浜)へ着いたと
いう史実あると聞きました。

山口県の周南市にも「秋月」という地名があるようですね。

気になるのは、九州:秋月家の先祖であります秋月文種の
次男・秋月種実は毛利氏のもとに落ち延びたという史実
があることです。

時間があるときに、また調べてみようと思います。

[59]ちょっと参加さんからのコメント(2012年03月24日 02時00分36秒 ) パスワード
URL=http://hattori.tosalog.com

秋月氏というのは、平安時代に
藤原純友(日振島を拠点にした海賊で
愛媛県におおいに関係ありです。
最近では、マニアに磯釣りでも有名な所)を
討伐した大蔵なんとかさんが初代で
同じく討伐軍の小野好古の娘が嫁さんだったらしいですよ。

源氏の源経基(義経の先祖)も討伐軍に
任命されていたような。

秋月氏は、江戸時代の山形県の米沢藩の
上杉鷹山を調べていたら出て来ました。
宮崎県の秋月氏の藩から養子で藩主になり
「成せばなる」とかいう名言を残して
藩政改革に成功したとか言う話です。

土佐の長宗我部元親が文禄・慶長の役で
朝鮮半島から連れて来た秋月氏というのは
確かに自分の地元の高知市に記録があります。
豆腐屋を始めたとか言う話です。
当時としては豆腐屋も最先端の
技術だったのかもしれません。

農人町という話ですので市内を流れる
鏡川の河畔ですね。
今は、トッブワン四国(建設時に四国で一番高いマンション)や
日航ホテルとか建っており観光で来ても
退屈しないかもしれません。
[60]ちょっと参加さんからのコメント(2012年03月24日 02時05分22秒 ) パスワード

ごめん、農人町でなく
唐人町でした。
悪しからず。
[61]秋月佐渡守さんからのコメント(2012年05月23日 12時12分28秒 ) パスワード

福岡県朝倉市秋月(秋月氏時代の居城、杉本城跡近く)にすむ嵯峨源氏者です。

秋月氏に関する文献は豊臣秀吉の九州征伐の折に多くが焼失。また、近年でも、秋月氏の家臣「大蔵家」の文書が火災に遭い焼失してしまったために多くの史実が謎のままです。

秋月の地名は古く、正暦三年(九九二)の『石清水文書』に

大宰府符 筑前国司
応下知在地郡依例命制止検田使入勘地区筥崎宮塔院所領秋月□□(庄事)在夜須下座両郡部下北山中々々

とあり、原田種雄(原田氏の前は大蔵である。(*後漢末期、霊帝−献帝−(孫)阿智王(魏の乱を避け本朝に渡来する)−十四世孫大蔵春実−(八代)原田種雄))が秋月に移住し姓を秋月と改める。

この事から大蔵、原田の関係性も親類程度に治まります。

九州はもとより、中国・四国・関東県北部まで秋月の名前が広がったのには二つの理由が考えられます。

一、九州の戦国史において、大友宗麟との攻防に毛利と手を組んだ事(毛利による大友攻略のため、秋月氏を保護する。その時に秋月氏のいた毛利領の一部が秋月の名前で現在に至る事、)

一、豊臣秀吉の九州征伐により秋月氏の親類一門が各地に移封された事。勿論秋月種実・種長親子は、日向国財部に移封される。

別の考えから行くと、身分制度が改められ、姓名を名乗るようになると、尊敬できる武将や有名な人物と同じ姓名をあてがう人もいたため、れっきとした筋ではないのがこの「秋月」の名前でもあります。

戦国秋月氏においての血縁関係を見ても、原田、草野、竜造寺、高橋、長野、彦山、城井、田原、松浦、相良と江戸時代の黒田、山内などがあります。
ですので、いちおうに秋月家直系の分家とは言えません。

特に秋月家の菩提寺であった大龍寺はたぶん曹洞宗であっただろうと思われますが、高鍋藩秋月家初代種長の創建した龍雲寺から推測したものです。

[62]高坂有未さんからのコメント(2012年09月08日 01時32分49秒 ) パスワード

私は、以前から、家紋について興味があります

私の父は、岩手県二戸出身、母は、江戸川区

主人は、福島の、いわき出身です。

偶然なのか、家紋が同じ、丸にだき茗荷です。

ちなみに、私の旧姓は、谷地です。現在は、高坂です。

何かご存知の方は是非、教えて下さい。
[71]愛媛・秋月家さんからのコメント(2014年05月06日 04時17分27秒 ) パスワード

また大変ご無沙汰していました。愛媛・秋月家です。

先日、土成町秋月にあります秋月城跡へ行ってきました。
秋月城跡にある土成町が建てた石碑には、古代秋月郷と呼ばれて、土豪の秋月氏がここに居館を構えたとありました。その後、文永年間に守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられていると書かれていました。
細川阿波守和氏らは、秋月氏に迎えられて、秋月に居館を構えて四国管領として大きな勢力を誇っていたそうです。

秋月城は、南北朝から室町時代細川氏の拠点としていたが、細川詮春(細川頼之が上洛し、弟・細川詮春が阿波を領有)秋月城から勝瑞城に居館を移すと、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったとあります。その後は、天正7年に土佐の長宗我部氏に攻められて落城(土成町石碑)

この秋月城跡は、今は森本さんの森本家関係のお墓のみになっています。敷地内は墓石のみです。森本家は、細川和氏が四国管領として秋月城に来てからは、その重臣として使えており、森本家は切幡城主と秋月城主も兼ねて、勝瑞城におもむいて忠勤に励んでいたそうです。森本家と秋月家の前後は分かりませんが、森本家も森飛騨守となっています。

そして、森本家は天正7年に土佐方に服従した岩倉城主三好徳太郎の謀略にあって矢野国枝、三好越後守、河村佐馬亮等と共に脇城外におびきよせられ、飛騨守は猪尻の竹やぶの中で殺害されたそうです。

その森本家ですが、墓石の家紋を見ますと、小笠原家の三階菱紋でした。他の森本家も三階菱紋です。細川家よりも前、小笠原家から関係があるということではないでしょうか。

城跡内は、まず森本家のご本家の墓がドーンとあり、そこには森本家の歴史が書かれた石碑がありました。その横から、更に奥(墓石だけですが)へ行けるのですが、そこに筆記体で書かれていて何家か分からなかったのですが、丸に抱き茗荷紋のお墓がありました。その墓石の斜め後ろや後ろには森本家(三階菱)のお墓があり、そこから奥へと行くと秋月家もありました。しかし、目を凝らして見ても墓石が古くて家紋が読み取れませんでした。円形の枠でしたので三階菱の紋ではないと思います。残念・・・城跡ですが、私有地とのことで引き返しました。森本姓以外では、秋月の他2家か3家の墓石がありました。

家紋が読み取れたお墓は、三階菱と丸に抱き茗荷紋の2つだけでした。

この徳島の秋月の地に、丸に抱き茗荷紋も無縁ではないということではないでしょうか。

新たな発見がありましたので書き込みしておきます。
[72]愛媛・秋月家さんからのコメント(2014年06月23日 23時32分23秒 ) パスワード

秋月城跡の敷地内にありました丸に抱き茗荷紋の苗字が気になっていましたところ、先日、会社関係の葬儀に参列した際に「佐光」という苗字があるのを知りました。秋月城跡で見ました墓石の筆記体の字の2文字目は「光」というのは、はっきり読み取れていましたが、そのときは「○光?の苗字」知らないなぁ,思いつかないなぁと思っていましたところ、1文字目が佐だったことが分かりました。筆記体でしたので、「扌左(手ヘンに左?)」と見ていて、扌左光って?どんな苗字だろう?違うか・・・と思っていたのが「亻左」で解決しました。

そして、日本の苗字七千傑で「佐光」の苗字を検索しましたら、「出自不詳。現在、岐阜県美濃賀茂市や愛媛県新居浜市に多い。」と書いていました。
新居浜・・・私の本家があります。

これは、秋月と丸に抱き茗荷紋の繋がりを解く鍵がありそうだと感じました。
[73]愛媛・秋月家さんからのコメント(2014年06月23日 23時48分15秒 ) パスワード

ちなみに、「同姓同名探しと名前ランキング」という検索サイトで、「秋月」と「佐光」を見ましたら、新居浜が、秋月も一番多くいる街,佐光も一番多くいる街で驚きました。丸に抱き茗荷紋の秋月家と佐光家は何か繋がりがありそうですね。

[74]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年06月24日 01時03分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>新居浜が、秋月も一番多くいる街,佐光も一番多くいる街で驚きました
 
偶然に過ぎないものと考えます。抱き茗荷は愛媛県(伊予)に比較的多い家紋。
四国の秋月氏の多くは丸に九枚笹を使用。
確認できる佐光氏の家紋は、丸に分銅、折敷に三文字、丸に五本骨扇等。
折敷に三文字紋の佐光氏は越智姓河野氏族なので、恐らく伊予出身と思われます。
[75]お初ですさんからのコメント(2018年03月04日 20時06分06秒 ) パスワード

高知県の者です。家は姓は戸田氏になり、明治時代に何処からか移動してきたのかもしれません。本家のお墓が分からないので、ちなみに本家は近所です。
[76]お初ですさんからのコメント(2018年03月04日 20時09分25秒 ) パスワード

続けます。家紋は分家なので○に剣花菱、お寺は真言宗だと。岩本寺で、Wikipediaで調べて、関連に愛媛県の西条寺でしょうか?そこに秋月氏の名前が出ていたので調べて居ましたら、信濃松本藩主戸田光和の
[77]お初ですさんからのコメント(2018年03月04日 20時14分48秒 ) パスワード

娘が継室に居ました。家は関連あるかは分かりませんが、愛媛県は高知県との関連も強く、家の土地には林勝吉(河野氏)が支配してました。又大昔越知氏の玉澄がこの土地に訳あって来ていました。
[78]お初ですさんからのコメント(2018年03月04日 20時17分42秒 ) パスワード

話が長くなりますのでかなりかなり省略しますが、もしかすると、土佐藩や松山藩、今治藩等、久松松平家との関連もあるか調べて見てはと思います。家はそちらの関連が有りますが。繋がれば良いですね。
[79]お初ですさんからのコメント(2018年03月04日 20時40分15秒 ) パスワード

後、久松氏は菅原氏ですね。こちらに菅と出ていたので、家は明治時代初めの祖祖母は菅原道真の天満宮がある土地に藩士何人かで住み着いたらしく、伴氏です。姓は又違いますが。
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