| [1] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月26日 20時01分19秒 ) | パスワード |
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角谷考宣様
かくたにと昔は読んでいたのでしたら、そちらの方が正しいのでしょう。
周囲の人が谷をやと読むか、たにと読むかでかわってきますね。
>楠木正成が先祖だといっていた
橘氏族ですね。橘氏は海洋系部族の線が濃いですから、伊勢平氏は瀬戸内海の水軍を配下においていたので、その意味では海洋系部族ともいえますけど、、。
>落人伝説
私の記憶が正しければ、かくたに氏の落人伝説は近畿地方だったような気がします。
| [2] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月26日 20時47分34秒 ) | パスワード |
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小林雅成さん。コメントありがとうございます。カクタニ氏の落人伝説があるというのは、新しい情報でしてとても興味深いです。近畿地方ということでしたら、また先祖探しも違った側面から必要になりそうです。楠木正成が先祖だというのはどうも調べてみても結びつかないようなので、やはり僕自身はかなり疑いがあります。ということは、単純にこの桃井太郎直重というかたが、この奥三河に住んでいたということも簡単にはいえないので、やはり、簡単には先祖というのはわかりませんねー。先祖探しをはじめたばかりなので、いろいろ教えてください。
| [3] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月27日 01時24分16秒 ) | パスワード |
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角谷考宣さま
私の想像では南北朝時代に南朝方だったからじゃないですか?
桃井さんは南朝方で「浪合記」に出てたと思います。(私の父方先祖とお仲間になります)
それに三河というのも合うし。
鎌倉幕府時代は関東だったんじゃないかしら?その後、南北朝時代に三河に定着したんじゃないかしら?
三河の名門の大河内さんなどともお仲間と思います。
私は非常に納得しますよ。
足利尊氏のママは上杉さん出身で丹波かあっちの方ですから「近畿地方関係」というのも分かります。
近畿から関東に移動して三河で定着したというの納得します。
私の母方の南北朝時代は「楠正成の菊水紋を使ってた」とも伝わってます。
母は「うちは楠正成となんとかだった」と親しかったことに強調点を置いて言います。
母方末期は新田さんにくっついて敦賀に下向(=退却=いえいえ日本陸軍の表現では「転進」と言うべきですね)
する途中、琵琶湖の北で道に迷って一族350騎と中間達が凍傷でむざむざ虐殺されるに至りました。
日本史上記録に残る寒さと大雪だったそうです。
桃井氏は清和源氏で上野国桃井郡御出身その後いろいろあって足利や新田さんに付いたのかしら?
足利尊氏や新田義貞を調べたら出て来る名家と思いますよ。
| [4] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月27日 20時27分17秒 ) | パスワード |
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角谷考宣様
暇潰しのギャンブラーさんがいっている線が濃いですね。明智光秀と同じ紋か、足利氏や新田氏の使用した引両紋をつかっていたら、清和源氏ですね。
かくや、すみや、かどや、かくたに、すみたに、かどたになどいろんな読み方でしますね。
藤原氏流の角谷さんだど、家紋が違うのですぐわかります。
源平の合戦当時、ご先祖様は三河にいた小林より
| [5] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月27日 23時25分31秒 ) | パスワード |
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暇潰しのギャンブラーさん、小林さん、非常に貴重な意見ありがとうございます。やはり先祖さがしをする上で、家紋とは重要な意味がありそうですね。あまり家紋というのは気にしたことがなく、若輩者ですので。今うちの実家の連絡をとり、調べてもらっています。また詳しいことがわかりましたら、ご報告させてもらいます。近いうちに僕の先祖もわかってきて、皆様とのつながりというのが、わかってきたらおもしろいですね。でもここ最近、南朝というのにとても興味があり、よく十津川村や吉野の方に遊びにいきがてら、勉強していたところなので、やはり角谷というのをしらべていると、どうしても南朝の方に縁があるようなきがしてなりません。やはり、知らないまにそういう縁というのは自分の周りに集まってきているようなきがします。またよろしくおねがいします。
| [6] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月28日 02時01分18秒 ) | パスワード |
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小林雅成さま
ありがとうございます。
角谷考宣さま
家紋が分かるといいですね。
家紋は1つだけとは限りませんのでお盆の時などお年寄りにいろいろ尋ねてみてください。
やはり十津川とか吉野に引っ張られますか。
私も同じです。
なにか懐かしいのです。
それで南朝と知って納得したり。
御先祖さまがお喜びと思いますよ。
| [7] | ![]() | 多聞さんからのコメント(2004年03月28日 03時54分35秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様 自分探索致すと同姓同名があり多聞に変えました、又宜しく。
角谷さん 小林先生は家紋の大家です、角谷氏の家紋ご披露すれば如何ですか。(姓氏家系)1、和泉の角谷氏、日根郡市場村の名族にして、與右衛門と云う人著はる。「角谷氏は元木下太夫と称せしが、白河法皇熊野行幸の時、母屋に(つの屋)を出して、御座の間を作り、以って御宿に充て奉る。因りて角谷の姓を賜ひ、本陣を勤む」と傳へらる。2、紀伊の 角谷氏、林、スミヤ等條を見よ。又伊勢・志摩に存すとあり、林條には、紀伊国名草郡六十谷邑角谷氏は林大和守貞長の後也と云う。藤井
條を見よ。又続風土記、名草郡直川荘六十谷村に「地士角谷六左衛門。家傳に曰く、其の祖を林大和守貞長と云う。御花園院・土御門院の両朝に仕う。貞長の曾孫を大学頭本久という、多病に依りて致仕して城州伏見に住し、六左衛門号す。その子藤代太夫曲水という。元和の頃・伏見にて南龍公に謁し、当国に来り当村に住して、農民となり、林を藤井と改めて、又角谷という」と見ゆ。
かなり廻りくどいが忙しかったので辛抱して下さい。纏める間が無く・・(姓氏名字)には矢張り、紀伊国名草郡に起こったのは紀姓あるいは藤原姓という林氏から戦国期角谷氏に改めた系である。他伊勢・志摩及び羽前・羽後にみえる。家紋花菱・木瓜・丁字・梅鉢とあります。
(系図研究)にも林氏(林連粳虫系)末裔、林俊武楠木正成に属し千早城に楯籠りとあり、この子孫名草郡六十谷にあり藤井氏、さらに角谷氏と改めた。とあります。
| [8] | ![]() | 皇竹さんからのコメント(2004年03月28日 19時01分37秒 ) | パスワード |
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角谷考宣様
角谷という姓は三重県伊勢地方に多い姓です。
わたしの妹も角谷家に嫁いでいます。
以前私はこの「平熱」で一人口伝の事を書いたことがあります。
もう一度書きます。
「私は壇ノ浦で入水したが、意識不明のまま助けられ、
とある隠れ家に運ばれました。
そこには尊いお方と、兄らしき人を、
家来従者らがを囲んで何か相談をしている所でした。
夜陰にまぎれてそこを脱出、播磨の海岸に漂着。
休憩後すぐ丹波の山奥へ、
源氏の探索も厳しく、
私と兄は二手に分かれ再起を図ることにした。
尊いお方らは兄弟とは別にさらに山奥へ。
私は能登へ、兄は伊勢へ。
危険は身にせまる。
平姓を捨て、角谷と名を変えた。
系統を区別するため、
兄の方をカクタニ、弟の方をカドヤと称した。
外部の目をそらすため、家来、従者すべてカドヤ姓を名乗った。
伊勢と能登は連絡を絶えず取り合っていたが、
能登の生活は苦しく伊勢へ移住したものが多かった。
しかし伊勢から能登へ嫁いだ女性もいた。
尊いお方は安徳帝。私とは清邦、兄は知盛のこと。
以上が一人口伝の内容のごく一部で、
代々口づてにのみ伝えられてきたものです。
もう秘密にしておく時代ではないと、
平成元年に一部の人たちに発表されたものです。
その記事が7月20日のある新聞記事に出ました。
この方、一人口伝の主は勿論角谷さんといわれます。
口伝は4系統に伝えられたが、
一家は断絶とのこと、残るは3系統とのことですが、
それも今となっては不明だそうです。
その当時、何か言い伝えがあるかどうか全国の角谷さんを
調査をしたいと言っておられました。
現在は可なり高齢になっておられます。
角谷考宣様に置かれましても、以上の内容に関連したことが
ありましたらご一報下さい。
| [9] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月28日 21時34分39秒 ) | パスワード |
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多聞さん、皇竹さんはじめまして、皆さんのお話は一つ一つとても興味深く、とても感動しております。もともと歴史がすきなのですが、ここまで深く皆さんが知っておられるとは、投稿させてもらってとてもよかったなあ〜と心から思っています。ところで家の家紋なのですが、家の母親がいうには、丸に剣片喰紋(まるにけんかたびら)という家紋でとても多い家紋だそうです。また暇潰しのギャンブラーさんがおっしゃるように家紋はひとつだけでないとのことですので、いろいろまた親戚にも聞いてみたいと思ってます。あと皇竹さんのいうような、口伝はうちには伝わってないとおもいます。また親戚にもきいてみたいのですが。また小林先生が家紋の大家とのことですので、なにか、こころあたりありましたら宜しくおねがいします。お世話になります。
| [10] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 01時52分06秒 ) | パスワード |
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>尊いお方は安徳帝。私とは清邦、兄は知盛のこと。
皇竹さま
昨日ちょっと調べていて
治承4年(1180)の平家の所領に
丹波国は清邦となってました。
関係ないと思ってましたが
皇竹さまがお書きになりました書き込みを拝見し背筋がゾーっとしました。
もう凄い!
これぞ平家の怨念かしら?やっぱりオカルトかかってるのかしら?
もし皇竹さまの書き込みがございませんでしたらこのレスも発生しませんでしたから。
やはり小さな事でもちょっと書いておけばそこからいろいろな情報がどんどん出て来ますね。
| [11] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 02時03分09秒 ) | パスワード |
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角谷考宣さま
タイトルをちょっと変更しておきました。
この方が検索し易いでしょうから。
御希望がございましたら御遠慮なくね。
私には清邦という人物は全く興味の範囲内には存在してなかったのですが
思わぬ所で思わぬ形で繋がって来まして
改めて日本人というのは見えない糸でしっかり繋がっているのだと思いました。
角谷氏が南朝方で繋がるとは確信してましたが
その前は平家でしっかり繋がっていたようですね。
平家は南朝方に加担したというのがますます自信になって来ました。
| [12] | ![]() | 皇竹さんからのコメント(2004年03月29日 09時34分39秒 ) | パスワード |
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平家は南朝方に加担・・・.
私もそう思います。
特に三重伊勢地方に落ち延びた平氏の末裔は北畠家にくみ込まれています。
南朝方が兵を集めたとき、先祖が平家の武士であった血が騒いだのでしょう。
徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。
この件、詳しい方教えて下さい。
戦前までは不敬罪という法律があり、
天皇について語ることも、書くことも許されませんでした。
南朝に関係するためか平家の子孫の方はまだ
身を潜めている人が多かったと聞いております。
子孫の方たちだけでなく、
それを研究する人たちも公安の厳しいマ−クを付けられていました。
子孫の方のご苦労お察しいたします。
今は良き時代です。
こいう事を自由に語り、研究することが出来ます。
| [13] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 09時40分54秒 ) | パスワード |
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>徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。
そのようなことがありましたか。
徳川氏が倒されたくなかったから警戒したのでございましょうか?
| [14] | ![]() | いつも通りさんからのコメント(2004年03月29日 13時07分53秒 ) | パスワード |
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> 播磨の海岸に漂着。休憩後すぐ丹波の山奥へ、
ともに浅田農産ルート上。鬼でしょうか?
鬼なら、酒呑童子か子分の茨木童子
平清盛と藤原邦綱が色濃く検索にかかります。
この他丹波関連は
平貞盛(平国香 子)
1169(仁安4)1月 平教盛(平忠盛4男 母 太皇太后宮権大夫藤原家隆娘)
1178(治承2)1月 平知盛(平清盛4男 母 平時子)
1178(治承2)1月 平経正(平経盛長男)
1175(安元元)10月 平師盛(平重盛5男。母 藤原家成4女)
藤原惟方(良門流 藤原顕頼 子 母 権中納言藤原俊忠娘俊子)
1172(承安2)藤原成親(魚名流 藤原家成3男 母 中納言藤原経忠娘)
藤原成経/丹波少将(魚名流 藤原成親 子 母 参議藤原親隆娘)
| [15] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 13時46分50秒 ) | パスワード |
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>平清盛と藤原邦綱が色濃く検索にかかります。
邦綱は清邦の実父ですね。(清邦は清盛の融子)
邦綱はすごく要領の良い人で清盛に近づいていいとこどりして1181年に平家の没落を知らずして亡くなった人。
それで私には清邦は印象に残らなかったのですか。
私の先祖は邦綱と清邦親子を(あの親子は要領がいい)とでも反感を持ってたのかしら?と思います。
| [16] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月29日 19時17分59秒 ) | パスワード |
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角谷考宣様
>丸に剣片喰紋(まるにけんかたびら)という家紋でとても多い家紋
とても多いというか、場所によっては第一位(大阪府)、第2位(和歌山県)の家紋です。詳しくは、今年6月に全国家紋分布事典(仮称)がでますので、それを参照してみてください。
このように丸に剣片喰は多すぎて判断しかねるというのが現状です。名字によっては複数氏族のルーツを表す場合もあり、やはり角谷家の系図ですとか、墓石や周辺史料をあたってみないとなんともいえません。考宣というお名前も情報いっぱいのように私には思われますが、、。
***************************************
皇竹様へ
>徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。
(仮定条件)彼の本姓賀茂氏族としますでしょう。後白河天皇が祇園(賀茂氏族のメッカみたいな土地ですよ(^^;)でのお遊び相手の女御を忠盛さんにくださった件がほんとならば、ただ単に弾圧する積極的な理由がみあたらんのですけど。清盛のサポーターになるのならわかるんですけど、、。
それから、安徳帝ではなくて、後醍醐帝の子孫を擁立ないし、かくまっていたのが隠密にばれて幕府に内密にいろいろ工作されておとりつぶしってのは可能性としてありますよ。だってそんなこと成功すれば、幕府は転覆されますもん。でもこれは、平氏にかぎったことではなくて源氏系の大名もかなり圧力あったのでは?別に外様にかぎらず、尾張や紀伊や水戸でも内密に帝の子孫はかくまっていたとおもいますよ、だから熊澤天皇みたいなのが出てくるんですよ(^^;)
| [17] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月30日 00時18分31秒 ) | パスワード |
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>考宣というお名前も情報いっぱいのように私には思われますが、、。
「考宣」さんという漢字
って非常に非常に古風な日本的で藤原貴族系?のお名前と拝見致しましたが。
「情報」が詰まっているのですか。
| [18] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月30日 06時31分25秒 ) | パスワード |
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暇潰しのギャンブラー様 小林雅成様 お世話になってます。考宣という名前にそれほど歴史的な意味はないと思います。ただ角谷と字画がいいということで孝宣でなく考宣にしたとのことです。ただうちの母方のほうは、鈴木家でこちらのほうは、家系図があり、藤原家の南家である藤原武智麻呂の代から母の父のお兄さんまでの家系図があるのを確認しています。だいぶ長い家系図でして、途中に血筋が途絶えて、養子をもらったりしている代もあることは確認していました。そんなことから、暇潰しのギャンブラーさんが僕の名前から、藤原氏と結びつけられたのには、なにかやはり先祖の因縁というのを知らず知らずに受けているのかと、感じずにはおれません。怖いものですねー。家系の因縁というのわ。
| [19] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月30日 09時48分08秒 ) | パスワード |
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角谷考宣さま
母上さまの方は鈴木家でも藤原南家系でいらっしゃいますか。
で、やはり三河なんですか?
矢作の名門の鈴木家というのも南朝方にいらっしゃって「浪合記」に出てますが
この系統になるんでしょうか?
碧海郡近辺でしょうか?碧南とか安城とか。
それとも豊田のあたり?こちらは尾張になりますか?
家系図を見ていると御先祖さまから何かを訴えられるような気になって来ますから結構好きなんです。
ある代では血を吐くような思いが書かれていたり。
こうして自分が存在するのかと感慨深いです。
そう言えば岡崎に鈴木家という遠い親戚がありましたっけ。
すっかり忘れていた遠い親戚を思い出したりして日本人って本当に何重にも繋がりますね。
いろいろな意味で。
| [20] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月30日 18時45分45秒 ) | パスワード |
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角谷考宣様
>ただ角谷と字画がいいということで孝宣でなく考宣にした
やはり、考より先に孝でしたか。この【こう】は重要語でして、私は名字のルーツ判定には頻繁に使用します。
>宣
この漢字は、藤原氏の場合は談山神社にまつられしものの末裔と解します。つまり中臣連鎌子→中臣鎌足→藤原鎌足と呼称をかえていった御先祖の血をひいているということをいっているわけです。
>暇潰しのギャンブラーさんが僕の名前から、藤原氏と結びつけられた
書き込み見ればわかるけど、ギャンブラーさんは普通の人ではない。
inspirationの豊かな人ですがな(^^)
| [21] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月30日 20時53分29秒 ) | パスワード |
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小林さんが名前というのでルーツ判定なさるというのは、とても驚きです。親はそこまできにしているのかなあ、というのが素人目からのかんそうですね〜。
暇潰しのギャンブラー様 僕の母親の三河の新城の山奥の出でして、その先祖がどこからきたのかは、わかりませんが、鈴木というのも日本ではものすごく多い名字なので、いつのころから鈴木の姓がでてきたのか興味深いです。鈴木という姓はつきつめたら、たくさんでてきそうですねー。ただよく藤原鎌足からの家系図のコピーですが家にあったものです。でもそういう古い家ほど先祖からの因縁もきつく、母方のほうは、男がみんなだめになっていくという状態で、みんな早死にしていってます。女性ばっかりなんですよー。
談山神社とは、奈良の桜井から東にいったところの神社ですかねー。つい最近通り過ぎた覚えがあるのですが、またほかにもあるのでしょうか。そこも藤原氏と関係があるのですねー。
しかし、皆さんの知識には驚かされるばかりで本当によく勉強されているようで本当にたのもしいかぎりですねー。
| [22] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月30日 22時01分14秒 ) | パスワード |
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談山神社のサイトですご参考までに。桜井市にあります。
御祭神 藤原鎌足公
www.tanzan.or.jp/
引用文:中臣鎌子は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。西暦645年の5月、中大兄皇子(後の天智天皇)と彼は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。
>でもそういう古い家ほど先祖からの因縁もきつく、母方のほうは、男がみんなだめになっていくという状態で、みんな早死にしていってます。
多分、先祖供養のやり方が充分でないのだとおもいます。私は仏教ですので、その範囲でしかわかりませんが。
墓石を西に向けたり、真言密教の秘術を使いすぎるとよくない?とかも聞いたことがあります。
| [23] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 00時19分33秒 ) | パスワード |
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>西暦645年の5月、中大兄皇子(後の天智天皇)と彼は多武峰(とうのみね)の山中に登って、
>「大化改新」の談合を行いました。
>後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
おやおや「談合」とは既にこの時代から?と笑ってしまいました。
>多分、先祖供養のやり方が充分でないのだとおもいます。
平熱が
「角谷考宣氏」によってやっと御先祖さまが成仏できる機会になった
という事かも知れませんね。
今年のお盆に間に合うかも知れませんね。
御先祖さまに気持ちが届くと良いですね。
| [24] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月31日 00時22分52秒 ) | パスワード |
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そうですね〜やはり先祖を供養することが大事ですよね〜。幸いうちの家は冥徳供養という先祖供養をやってますので、ご先祖様から助けていただいたことはとても多く、ホントに明るい家になってます。でもやはりこうやってご先祖様のことを調べてルーツを探るというのは、やはり一番の先祖供養かもしれませんねー。
談山神社のご祭神が藤原鎌足公であったのも、また驚きです。つい最近その横を通り過ぎ、名前だけは覚えていたのですが、談山神社と聞いて、やはり深い縁を感じずにはおれません。人間というのは知らず知らずのうちに、何者かにうごかされて、そうさせられてるのかも。ここのページによしてもらってから驚きの連続です。角谷家のルーツ探しは始まったばかりなのに。
| [25] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 00時39分22秒 ) | パスワード |
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>僕の母親の三河の新城の山奥の出でして
上記に書きました南朝方の鈴木氏は
後醍醐天皇の8番目だったかしら?の宗良親王を戴いて吉野から浪合村まで転戦したのです。
三河の新城でしたら信州の浪合村の近くなので
お母上さまの御実家または御ホンヤさんにお尋ねしてみてください。
南朝方だったと聞けたら最高!
事情があって浪合村から戻る途中新城で留まったのかも知れません。
結局は「結婚」って昔からの因縁とかで男と女がくっつく事かしら?と思います。
昔は非常時があったから利害関係で家と家が結んだけど
今のようになってもやっぱり奥底でDNAの昔の馴染みの記憶で引き合うのでは?と思います。
日本の場合は皇紀2664年の間に亘って既に刷り込まれているんじゃないかと。
私の父と母は大変な障害を乗り越えて結婚しましたが
歴史的に見ると何度も血と涙を共有しあった先祖を持っています。
母は武将タイプですが父には憧れのお姫さまに映ってどうしても結婚したかったのです。
父が母の武将タイプの性格を見抜いていたら絶対結婚はしなかったでしょう。
父は私と姉にもお姫さまになって欲しかったのに(姉はそっちになりましたが)私は暴れ馬になってしまい
父は失望でした。
今でも父は母をお姫さまだと信じていますねえ。目が醒めない所・惑わされている所が非常に不思議です。
| [26] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年03月31日 01時31分01秒 ) | パスワード |
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これは一度実家に帰って、家系図もって帰ってきて、研究することが多そうです。でも暇潰しのギャンブラーさんのおっしゃることはとてもよくわかります。結婚の考え方は、まさに僕もそうおもっていました。まさに先祖の因縁でもしかしたら、前世からの因縁というのも、あると思うけど、そういう複雑なしがらみから、今の周りの人間関係って、形成されてると思います。ギャンブラーさんにおきましても、そのように経験的に認識されてるようで、ほんとに人間とは業の深いものなのかもしれません。その歴史的な部分から、現世で何か、すべき使命があるのかも。 許しあうこととかー。
| [27] | ![]() | 皇竹さんからのコメント(2004年03月31日 14時35分32秒 ) | パスワード |
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角谷考宣さん
私は以前熊谷伝説をこの「平熱」へ書いていたことを
すっかり忘れてしまっておりました。
大変失礼しました。
最近もの忘れがひどくなり、ボケてきました。
さてご指摘の熊谷貞直の子桃井太郎直重が角谷姓を名乗ったことにつて・・・。
観応年中(1350-1351)に貞直が井伊政道(道政?)に頼まれて
皇子(宗良親王?or尹良親王?)を井伊谷(南朝の一大拠点)へ供奉した。
その時桃井氏を頼り、その縁で桃井氏の娘並江を娶り一子をもうけた。
この子桃井太郎直重が角谷を号したということですが、
角谷家伝記によれば、「其節桃井氏の末は同山内に角谷を開移す。
今の熊谷氏はこの桃井氏の末葉なり。今は門谷と文字を改む」とあります。
桃井氏についてはこれ以上のことは調べておりませんので、分かりません。
少し補足しますと、
熊谷家も桃井家も新田氏と並んで南朝方の有力家臣です。
貞直が桃井氏を頼ったのもその縁があるのでしょう。
その桃井氏は貞直から皇子を預かり、大切にお守りしますと言って、
新しく別殿を建てられました。水久保の内裏といいます。
水久保=水窪(富山村の隣天竜川の対岸)
何か結びついてきますね。
桃井太郎直重の名は見つかりませんでしたが、
暇潰しのギャンブラーさんの言われるように
下記「浪合記」のHPを参照されては如何でしょう。
http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html
貞直は皇子を桃井氏に預けた後、三州河内に至り多田氏を頼る。
この多田氏は多田蔵人行綱の弟が入って開いた土地で(1337延元2)
河内は生国の名をとってつけたと云う。
その後、田辺藤四郎国量が入って、市原郷を開いたという(1342)。
国量は多田氏を頼り、その娘を妻に迎えている。
紀州田辺の出で、熊野権現をこの地に勧請している。
熊谷貞直は桃井氏と別れたあと左閑辺を開き(1352年)、
多田氏の娘を妻にした。
桃井氏の娘との子の他4人の子を成した。
長子小丹治貞常(後直常)は家督を継ぐ。
二男小弥太直宗は信州伊奈郡南条に住し、飯沼の郷主六郎の婿となる。
三男次郎兵衛直秋は多田利太夫の婿に。
四男次郎右衛門は当郷北境和知野川端を開き住す。
熊谷家の定紋は蔦に鳩。
これにより、鳩は食べず、殺さずという。
熊谷家伝記は貞直から12代下って貞遐(さだよし)が
明和5(1768)に整理編纂したものです。
私は貞直の書いたものしか読んでおりません。全部で8巻くらいか。
もし参考にされるのでしたら、図書館で当たって見てください。
私は近くの蟹江町立図書館でみております。
| [28] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 15時11分23秒 ) | パスワード |
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皇竹さま
面白くなってきましたね。
井伊家もからみますか。
遠江国引佐郡井伊谷ですか。
なるほどこれで井伊家と徳川家の結束の固さが分かりますねえ。
最近テレビで「みずくぼ」水窪というのを見ましたが
富山村ですか?
私は富山<県>だと勘違いして眺めてました。
いいなあ〜
土があって草があって田んぼがあって
そう思いながら見てました。
| [29] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年03月31日 22時39分48秒 ) | パスワード |
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愛知県富山村が天竜川を挟んで水窪町(みさくぼ?)と向き合っているのですが、この町内に水窪川(天竜川に合流?)があり、さらにその分流で、水窪河内川という小さな川が地図で確認できます。
私事ですが、天竜川を遡り、岡谷市までいくと同じ家紋を使っている小林家が存在し、岡谷市〜天竜川〜岡山、その間現在では何千万人もの人がすんでいるにも関らず、データベース駆使しても同じ家紋の小林さんを発見できないのはルーツが違うから。
小生のご先祖様が源平の合戦の時期に三河国から忽然と姿を消し、戦国時代大永年間になって播磨の山奥に現れるまで、約400年余りの空白が埋まりそうな感触が、、、。
| [30] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 23時55分25秒 ) | パスワード |
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小林雅成さま
>小生のご先祖様が源平の合戦の時期に三河国から忽然と姿を消し、
>戦国時代大永年間になって播磨の山奥に現れるまで、
>約400年余りの空白が埋まりそうな感触が、、、。
南北朝の戦いの転戦転戦の結果でございましょうか?
昔は名前を聞けば・家紋を見れば「どこの誰兵衛」とすぐに分かったのでしょうけど
江戸時代の「移動の禁止令」で日本人の多くが自分の本来の出自さえ分からなくなったのでしょうね。
わたくしには天竜川=南朝方武士とインプットされていますが
これからドンドン人口が減っていよいよ日本人のアイデンティティが分からなくなっていきますね。
「ウチは天竜川沿いに残った北朝方」なんて高らかに名乗る人が書き込んでくれると良いのですが。
| [31] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月01日 02時16分12秒 ) | パスワード |
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暇潰しのギャンブラー様
>南北朝の戦いの転戦転戦の結果でございましょうか?
おそらく、うちの場合は播磨の那波水軍経由だとおもいます。その前はわかりません。江戸の前期も意図的にルーツを隠した形跡(位牌の俗名を削ってある)がのこっているので、系図がうまくつながらないのですわ。それから、揖保川を遡って播磨の山奥についたってのが私の想定なんだけど。広瀬氏、宇野氏などがキーになる家なんだけど、おそらく広瀬氏は曽根連の後裔かと、、。
私は、後醍醐帝の子孫と伝えている人に今まで2人会っています。それも会おうとしてではなく、全然知らなくて会って話ししたら、そうだったというケース。それ以外にも後醍醐帝の子孫そいう人1人知っていますし(有名な熊沢天皇ではないよ(^^)意図せずにそういう経験するひとっていっぱいいるのでしょうか?
東京であった数十億借金があるという不思議な男性も『うちは南朝。今の天皇は北朝だから、勲章は要らん』とのたまわっていたし、蜂須賀党の人にも会ったし、多分南朝でしょうか?
信濃の村上氏が南朝についてその後、瀬戸内海にでて水軍化したという話がホントならば、うちも同じようなケースかもしれません。諏訪湖の水源を握っていた先祖は天竜川の河口に至る利権をものにしていたはずですから。
>日本人のアイデンティティが分からなくなっていきますね。
たぶん、神様のおぼしめしかも知れません。『聖書』にも聖書の民を全て分類し解説することは、よくないことだというような一節があったような??
今後は、『名門、旧家以外はよ〜わかりまへん』でもしょうがないとおもいます。
>「ウチは天竜川沿いに残った北朝方」
名前の示すとおり、龍・蛇をシンボルとする反体制的な《まつろわぬものども》を想起させるネーミングですから、体制側の人がいるのかな?
| [32] | ![]() | 箱柳永田さんからのコメント(2004年04月01日 03時03分28秒 ) | パスワード |
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小林雅成さま
丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
三河西尾が本拠です 酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所で すので、恐らく、平氏+南朝の線で決まりだと思います。
>鈴木という姓はつきつめたら、たくさんでてきそうですねー。
長田の支族に徳川家の三河代官を勤めた鈴木八右衛門があります。家紋は調べられなかったです。
長いこと、お休みしてました、ぼちぼち再開します。
| [33] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2004年04月01日 07時53分04秒 ) | パスワード |
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角谷考宣さま、そして平熱の皆様、興味深く読まさせております。
学生時代の同級生に角谷(かくや)君がおりました。其の頃はまだ家系や、姓氏については関心が無かったので、深くは聞いておりませんでした。地方の出身者が沢山おられましたので、もしかして。
余談になりますが、「ダスキン」の社長さん:鈴木氏は愛知県碧南市大浜の角谷家に生まれ、鈴木家の養子に入ったとurlに書いてありました。大浜と言えば徳川家や箱柳永田さまにも縁浅からぬ所です。
| [34] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月01日 08時38分22秒 ) | パスワード |
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>後醍醐帝の子孫と伝えている人
沢山いらっしゃるでしょうね。
だいたい後醍醐天皇ってお子様が30数人でしたっけ?女子も入れて全部で50数人でしたっけ?
たくさんお子さんがいらっしゃいますから
各親王さんがそれぞれ各武将の娘達に手をつけてましたら凄い数のお孫さんが生まれているでしょうね。
川口さまの前身の大橋家なんて絶えているんでしょうかねえ。
>丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
おやおや角谷氏はいよいよ大変!あちこちに繋がってしまいますね。
酒井家は徳川家の前身の得川氏が養子に入ったところでしたよね。
やっぱり角谷氏というのはコテコテの南朝方なんでしょうねえ。(笑)
>「ダスキン」の社長さん:
>鈴木氏は愛知県碧南市大浜の角谷家に生まれ、鈴木家の養子に入った
凄い人が出て来ましたね。
だんだんオカルト度が恐ろしくなって来ますね。
ふふふ
| [35] | ![]() | 一読者さんからのコメント(2004年04月01日 13時28分01秒 ) | パスワード |
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小林雅成さま
>東京であった数十億借金があるという不思議な男性も『うちは南朝。今の天皇は北朝だから、勲章は要らん』とのたまわっていたし>
に関して、「裏切られた三人の天皇ー明治維新の謎(増補版)」(鹿島昇 新国民社)の本の中に、
・・・実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子、満良親王の御王族で大室寅之祐である。・・・
「検定不合格 教科書になれなかった史実」(竹下義朗 雷韻出版)
「真実のともし火を消してはならない」(中丸薫 サンマーク出版)
などにも、詳しく載っています。
| [36] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年04月01日 18時14分45秒 ) | パスワード |
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皇竹様
>角谷家伝記によれば、「其節桃井氏の末は同山内に角谷を開移す。
今の熊谷氏はこの桃井氏の末葉なり。今は門谷と文字を改む
ということは僕の思っていた、桃井氏が先祖というのはちょっとわからなくなってきました。つまり今は門谷になったということですよねー。
>箱柳永田様 はじめまして、丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
三河西尾が本拠です 酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所で すので、恐らく、平氏+南朝の線で決まりだと思います。
この家紋ということから。平氏と南朝というのは確信させてもらっていいのですかねー。やはり角谷家は平氏の落人ということかー。
>川口様はじめまして。
学生時代の同級生に角谷(かくや)君がおりました。其の頃はまだ家系や、姓氏については関心が無かったので、深くは聞いておりませんでした。地方の出身者が沢山おられましたので、もしかして。
川口さんのお年がわからないのでわからないのですが。僕の最近亡くなったおじいさんの長男(亡くなってます)が確か碧南市の辺でして、葬儀のときその次男(長男は亡くなっている)という方がはじめてあったのですが、来てまして、その方は今60近い方なのですが、その息子さんの可能性とかありそうです。というのは 角谷(かくや)となのっているのはとても少なく、おそらく川口さんの同級生の(かくや)君はかなり近い親戚だとおもいます。偶然ですねー。
| [37] | ![]() | 角谷考宣さんからのコメント(2004年04月01日 20時56分17秒 ) | パスワード |
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いろいろサイトで調べていたら、今僕は京都の日野というところに住んでいるのですが、近くには日野誕生院、頼政道とか、結構史跡の多いことにきずきました。結構源氏やら、藤原家やら平家とも縁の深い土地だったのだなあ。愛知の豊橋から、こんなところに家を構えてしまうのも、何かの縁なのかも。京都はいいとこですよー。
| [38] | ![]() | 多聞さんからのコメント(2004年04月01日 22時02分50秒 ) | パスワード |
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先に調べた通りの(続き)
和泉 本姓(木下氏)日根郡市場村発祥
紀伊 本姓(林 氏)名草郡六十谷邑発祥
伊勢 本姓(平 氏)知盛末裔説、壇ノ浦の戦いで入水したとして後、生き残り平
姓を捨て、角谷姓を名乗り伊賀を経て伊勢に住み着いたと云
う(角谷隆平氏、一人口伝)に有り。
伊豆 本姓(? 氏)小田原北条氏に角谷氏あり、伊豆国那賀郡仁科郷沢田村(西
伊豆)三島社の永禄9年(1566)棟札に「当地頭北条左
衛門大夫代官角谷藤六」、同郷一色村(西伊豆)熊野神社の
元亀元年(1570)棟札に「大旦那北条左衛門大夫、代官 角谷因幡守」とある(伊豆志稿)。相模玉縄城(神奈川県)
城主北条綱成の代官に角谷氏がいた、なお、貞享3年(16
83)頃伊豆下田(下田市)に角谷経氏がいた(静岡名字)
越中 本姓(? 氏)射水郡高場(富山県新湊)宝暦の頃(1751~63)角谷九平同
郡放生津に移り漁業に転進・・・亀次郎清虎(俳号松月)−
松次郎(新湊漁業組合組合長・市議)明治・大正・昭和で二
代に渡り組合運営に尽くす。
他・私の庭の(鯰庵)の釜師、亡角谷辰治郎氏(人間国宝・一圭、茶之湯釜師)−英明(三男、陶芸家)が居ります。
| [39] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月01日 22時33分02秒 ) | パスワード |
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箱柳永田様
>丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
存じてますよ(^^)うちは津山松平藩の御用商人で、呉服問屋でしたから、家紋は必須職業知識です。
>酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所
天竜川河口は長田の開発とは興味深いです。酒井、長田ともこれまでの人生で
かかわりがある家です。酒井氏にいたっては、現在協同で仕事していますし。
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一読者様へ
>すり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子、満良親王の御王族で大室寅之祐である。・・・
う〜ん、南朝方の男性のコメントはあくまで本人のコメントで、私の意見ではないからね(^^)
大室寅之祐の話は、同和の親玉の所にあそびにいったときに出たよ。親玉は、私の先祖についても心当たりあるみたいで、『うちの親族で、昔大室姓を名乗っていて現在は別の名字を称している家がある』といったら驚いていたよ(^0^)
| [40] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 01時46分00秒 ) | パスワード |
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>つまり今は門谷になったということですよねー。
昔は漢字について今のような法的限度は無かったので
書き方や読み方を
いろいろな都合で(勝手に?)使ってたようですよ。
かど=すみ
門=角=隅=住=澄
これらは混用されたと思います。
>伊豆 本姓(? 氏)小田原北条氏に角谷氏あり
>相模玉縄城(神奈川県)城主北条綱成の代官に角谷氏がいた
この時代あたりの北条氏は伊勢出身の北条氏なのかしら?と思うので
一緒に伊勢から来たのかしら?と想像しました。
伊勢でしたらやっぱり平家系なのかしら?と。
| [41] | ![]() | 田中愛造さんからのコメント(2004年04月02日 14時29分37秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様 何時もご苦労様です。四柱推命では多聞の名は大凶と出たので田中に戻ります。
伊勢新九郎は妹の嫁ぎ先の、駿河今川義忠に寄宿から始り、浪人分の身では其れほどの家来は無かったと考えられます。従って伊勢から一緒であれば、後の北条氏家臣団では相当な地位が約束されたと思われます。又、上司である相模玉縄城主北条綱成は氏綱の女婿で福島家から来た者で、其の代官だと伊勢からとは無理があります。然し1560〜1680の存在では120年間角谷籐六〜角谷経氏まで4・5代は居たことになります。二代氏綱ないし三代氏康が伊勢から呼び寄せたのなら、地位は格段に上位にあるはずですし、地元誌には何か残っているかもしれませんね。
私には、平氏・籐氏の匂いがします。
| [42] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 14時53分45秒 ) | パスワード |
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>四柱推命では多聞の名は大凶と出た
大凶転じて大吉となす、
だったかも知れませんでしたのに。
でもやっぱり大凶というのは不吉ですね(笑)
角谷氏は伊勢新九郎以前からの土着だったのでしょうかねえ。
南朝方で定着した子孫だったのでしょうか?
代官でしたらやっぱりその土地の元からの有力者だったのかしら?。
伊勢新九郎の伝記物に角谷氏というのが出て来るかもですね。
| [43] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 15時25分51秒 ) | パスワード |
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伊勢新九郎についてチラチラ見たら
小笠原氏に自分の出自は「よく調べたら伊勢の関出身」なんて書き送っているそうです。
(これは粉飾なのか事実なのかよく分からないようです)
妹尾氏のスレッドだったかに出てる美作の「ハガ」さんという漢字の難しい武将が評定衆にいて
ちょっとビックリ。(ハガさんのハは「併」が土扁)このハガさんは歴史的には室町幕府奉公衆なんだそうですよ。早雲がハガさんを引っ張って来たんだろう、ですって。
という事は
伊勢新九郎は備中からこのハガ氏を引っ張って来た?
そうすると南朝関係というのはいよいよハッキリするけれど
その前身はやっぱり平家なのか?
このハガさんは信玄に対抗して駿河さった峠に向かった時「多聞坊文書」というのを残しているそうです。
げ〜
多聞坊文書ですってよ〜
角という漢字のつく武将はいましたが
山角上野介康定(北条評定衆)。
この人も早雲が連れて来た人物だろう、と。
私はこの辺りの人間関係がさっぱり分からないです。
北条 vs 太田道灌とか長尾とか扇ガ谷とか。さっぱり。
もうちょっと下がって武田・今川・北条あたりはちょっと場所とか人間が見えて来るのですが。
「多聞」がちょっと不気味だったので書き残します。
| [44] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月02日 18時58分24秒 ) | パスワード |
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電話帳CD−ROMで岡山県の角谷氏をちょっとみてみたのですが、
秦氏族、平姓、藤原氏族とバラエティに富んでいますね。
>伊勢新九郎についてチラチラ見たら
新九郎殿については、備中発祥という説もあるらしく、北條龍彦氏が『我が祖先の謎と秀吉書状を追って』という本を30年以上前に出されています。
美作菅家党のハガ氏は、久米郡発祥ですので、美作国です。お隣の御津郡にも角谷さんがいらっしゃいます。(確か薬局経営されていたはず)
美作菅家党は皆木氏の伝承によると、皆木氏は、菅原氏ですけどあとは藤原氏秀郷流と思います。原田氏は平姓です。だから、有元(有本とも表記)など明らかに秀郷流だとわかる家もありますし。
| [45] | ![]() | ときおさんからのコメント(2004年04月02日 21時53分34秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
小 林 雅 成 様
岡山県井原市西江原町に
北条早雲ゆかりの高越(たこしやま)山城があります。
伊勢氏の菩提寺です。
史蹟 法泉寺
一、 高越城主父子の墓(供養塔)
伊勢新左衛門行長 平 盛定
伊勢新九郎氏茂 平 盛時(のちの北條早雲)
北条早雲が1487年に城を譲ったと言う高越(たこしやま)山城主「伊勢新右衛門尉隆資」の娘が(土居妹尾氏先祖が高越山城の近くの山城持ちだったようでして)、妹尾兼楯(大永二年八十才で没)妻に成っていますので、興味を持っていました。
法泉寺(ほうせんじ)については下記に詳しいです。
http://www.webtsc.com/kanko/ir/ebara/housenji/housenji.htm
| [46] | ![]() | ときおさんからのコメント(2004年04月02日 22時06分44秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
小 林 雅 成 様
下記のことがらが、何かお役にたてられるでしょうか。
・垪和氏について(各地名辞典から当地の記述を抜粋)
【美作国「真島の庄」】
・1407年長講堂領,知行主は万里小路豊房
・1429〜1441(永享年間)万里小路家支配
代官は垪和氏,以後しばらくは垪和氏か
・1371年,応安4(建徳2)後藤佐渡の守の先祖「後藤基清」は足利義満将軍の時に九州探題今川貞世了俊・遠江今川氏初代(今川義元6代前の範氏の弟)に従い,太宰府少弐冬助の謀反鎮圧に従軍。一族の大半が討ち死にし,本領の真島は闕所になる。1395年(応永2)将軍義満は出家し今川了俊を九州より召還する。(九州)探題を25年間つとめる
1447(文安4年)万里小路冬房は父時房より譲り受け知行安堵を幕府に願い出ている。
1487(文明19年・長享元年)4月15日の条に蔭涼軒日録主亀集証を訪ねた「後藤佐渡の守」の話
・真島庄が本領ー京着800石の在所
・真島庄は幕府御料所になる。代官は垪和筑前の守が任命される
☆ 天正の頃の当地の合戦にも「垪和氏」が登場します。又、土へんに並の「土並」でハガと読む筋の方が子孫だったと思いましたが。
| [47] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月03日 01時19分05秒 ) | パスワード |
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小林雅成さま
ときおさま
この伊勢新九郎北条早雲という人物は一体何者なんでしょうね?
御本人は北条姓は入道してから使用しただけのようですね。
出自については3つ出てるそうです。
伊勢出身
京都出身
備中出身
元は伊勢平氏なんて言いながら
子孫は北条時政の北条姓と鱗紋を使用。
土地が伊豆〜相模あたりだから?
源氏の今川氏に対抗して名乗っただけなのか?
バリバリの平家(伊勢平氏)だったら蝶紋を掲げたと思うのですけど
土地を治めるには鱗紋が便利だった?
伊勢平氏より坂東平氏の北条時政の後継者を称する方がネームバリューがあった?
韮山を制したから「元北条氏の土地の人間」ということで周りから通称「北条」と呼ばれてたのかしら?
北条は名門だから北条氏の後継者として抵抗がなかったのかしら?
ある時代に岡山あたりに土着+南朝方に組した(これはゆるぎないかもですね)
アイデンティティとしては伊勢国出身をプライドとして代々持っていた(これもゆるぎないかも)
垪和氏というのは当時大変な力を持ってた家のようですね。
地方の名門中の名門の家。
漢字が珍しいのでこの家は特定が簡単?
日本の名字とか家紋は本当に複雑怪奇!これに尽きます。
| [48] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月03日 18時15分31秒 ) | パスワード |
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ときお様
>万里小路家支配
>代官は垪和氏,以後しばらくは垪和氏か
万里小路家は竹輪の《勧修寺笹》で、菅家党は《梅鉢》ですからすから、
松竹梅の竹・梅でうまくいってますね(^^)
>又、土へんに並の「土並」でハガと読む筋の方が子孫だったと思いましたが。
手元の『平成参歳辛未参月 梅花餘香』(美作菅家党の名簿)にハガ氏の子孫らしき人は掲載されていないです。名前変えているのかもしれません。
北条時政の子孫の大仏氏は菅家党の家来として戦国時代に活躍しております。
***************************************
暇潰しのギャンブラー様
>この伊勢新九郎北条早雲という人物は一体何者なんでしょうね?
さぁ?普段は新九郎殿としかいわないもので、、(^^;;)
>出自については3つ出てるそうです。
うちも、三河国伝承があるとはいえ、過去帳には、《祖先は京都の人にして、、、。》という書き出しですからね。新九郎殿の家もいろいろあるんでしょう(^^)
>子孫は北条時政の北条姓と鱗紋を使用。
北条時政の系統は、秦人(はたびと)のにおいがプンプンしているのですが、嗅いでいるのは私ぐらいか(笑)
>伊勢平氏より坂東平氏の北条時政の後継者を称する方がネームバリュー
それならなんで?関東ではよりメジャーな良文流のいずれかの家を称しないのかという疑問はあります。
>ある時代に岡山あたりに土着+南朝方に組した
>アイデンティティとしては伊勢国出身をプライド
これくらいの特定でいいのでは(^^)とも思います。
>漢字が珍しいのでこの家は特定が簡単?
ときお様へのレス参照ください。
| [49] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月04日 00時42分52秒 ) | パスワード |
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この部分
『平成参歳辛未参月 梅花餘香』(美作菅家党の名簿)
非常に凝った書き方ですね。
『梅花餘香』=美作菅家党
格調高い!
梅の花が菅原姓を示し
余る香りで一党を表す?
| [50] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月04日 09時56分29秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
>非常に凝った書き方ですね。
表紙は筆書きで、中は活字です。余を餘と書くのは私の世代では発想しがたいですね(^^;)
系図や菅原氏の官位、美作国までの変遷などが解説してあり、そのあと記念の銅像の寄付をしている人の名前が書いてあるんです。活字化している美作菅家党の資料で、これだけ名字がのっているのは他に無いと思います。
菅家八十八家と言われていますが、実際にはもっと多いらしくて、連絡不能でこれにのせてもらっていない家もあるとおもいます。
これとは別にワープロ打ちの系図のコピーをもっているのですが、これを見るとどの世代にどんな名字を名乗りはじめたかが詳しくわかります。
>余る香りで一党を表す?
あるいは、戦国時代までの活躍の余韻が平成の時代までありますよという比喩、ないしはその二つを同時に表現しているかも。
| [51] | ![]() | ときおさんからのコメント(2004年04月04日 12時42分37秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
当地のことも多少はヒントに、
と思ってまた、かきこしました・・・。
伊勢新九郎は
青年期を備中荏原庄で過し武芸と学問を
苔提寺法泉寺古潤仁泉に学び、
三十三歳?で京に上り
伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え
応仁の乱で足利義視とともに伊勢に下る。
が最有力と言われています。
詳しくは下記「沼津市」と「小田原市」の公式サイトに有ります。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/c-asobou/siseki/souun/story.htm
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/001.html
土居妹尾氏先祖の傍系に(尼子氏や福島正則に属する以前)
武州松山城・上田氏時代に上田安楽斉に仕えた兼秋大学
上記数代後の傍系に
(この頃に東北、関東、北陸、山陰の大名諸家へと出仕者が出ています。)
天正年間に入り北条氏直之弟太田十郎氏房に仕えた
岩付(槻)城預かりの
妹尾(三河守)下総守兼信(延)が居ます。
下記に詳しいです。
(旧与野市の郷土史http://www5b.biglobe.ne.jp/~taisyou/kyoudo-4.htm )
(武州残月記http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/busyu.htm )
勿論鎌倉の北条義時の時代から関東との関わりが有りますが
伊勢新九郎には、備中や京都や伊勢の時代より関係の有る
人々がかなり存在して居たのでは無いでしょうか、「垪和氏」
の様に・・・と考えているのですが、どうでしょうか。
| [52] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月04日 15時41分54秒 ) | パスワード |
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>菅家88家
これは8という数字が縁起が良いから88と重ねているのでございましょうね。
>実際にはもっと多いらしくて、連絡不能でこれにのせてもらっていない家もあるとおもいます。
そうでしょうね。
88も載せておけば充分でしょうし。
>これを見るとどの世代にどんな名字を名乗りはじめたかが詳しくわかります。
名字の流行なんてのもあるのですか?名前に関する漢字についてはそう思います。今でもそうですから。
名字の流行(傾向)なんて面白そうですね。
>妹尾(三河守)下総守兼信(延)が居ます。
北条早雲はいよいよ謎が謎を呼ぶ人物だな、と。
それに三河守も称していたのですか。
元々妹尾家は三河国にも関係があったのでしょうか?(1180年当時は知度さんの知行地だったそうです)
下総守はなんとなく分かる気がします。
平知度は清盛の子で尾張守と三河守だったそうです。
なるほどそれで当時の影響で三河は平家方の人間が多いわけですねえ。
北条早雲という人物は私には縁の無い人だと思ってましたが
最近は気になって仕方が無いです。
でも「どうだ!オレさまの秘密に迫れるか?」とカカカと笑われています。
この人は小説になりますねえ。幅広く。
| [53] | ![]() | 小林雅成さんからのコメント(2004年04月04日 20時16分48秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
菅原三穂太郎満佐の息子忠勝が有元を称し、その子祐頼が皆木を称し、同じく息子の祐近が備中国成羽の三村氏を継いで三村を称し、祐近の息子が須一を称し、祐頼のひまご佐時が小守を称し、おなじくひまごの佐寿が山本を称し、、。
こんな感じで、「塀和(はが)氏」の箇所を見ますと、
佐延:建武二年武家方として箱根竹下の合戦で尊氏にその戦功を認められ美濃守護代となり、美濃大垣城に拠る。観応元年土岐周済南朝に与す、佐延戦うも利無く破れ美作に走り返り中島城に入る。佐延請われて塀和氏を継ぎ、大塀和郷茶臼山城に入る。(一部読みやすくしました)
つまり、もともと塀和氏は菅原姓ではなく佐延が入り婿して菅家に加わったようです。今日、データ処理していたら塀和氏は梅鉢ではなく、桐紋を使っています。
| [54] | ![]() | ときおさんからのコメント(2004年04月04日 23時00分23秒 ) | パスワード |
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ギャンブラー様
兼康公は「尾張守預かり」と伝承されています。
平忠盛公の意と違う方向で、母共に薩摩守忠度公と
尾張守教盛公?に助けられています。
薩摩守忠度憐給内無程男子を産
尾張守江平相国ゝ給預而
后兼門妹忠度ニ付而相歎
梟者御落胤之事殊ニ
〜 中略 〜
兼門朝敵之雖得名讒言之訳相知
る上者武士ヲ仕度段願上而則
清盛召仕其時十三歳なる迄追々成長
(当方から出た写し資料より)
| [55] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月05日 22時55分29秒 ) | パスワード |