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 投稿番号:100628 投稿日:2004年03月26日 19時35分55秒  パスワード
 お名前:角谷考宣
角谷家(丸に剣片喰紋)のルーツは?
キーワード:角谷
コメントの種類 :落人伝説  パスワード

はじめまして、角谷(かくや)ともうします。今京都にすんでいるのですが、先日愛知の私の祖父がなくなり、その葬儀のさい、角谷家のルーツというのをその死んだ祖父の弟という方とはなしていて、とても興味をもち、調べていたところ、このページまでたどりついたしだいです。偶然この落人伝説の場所の愛知の富山村というのが、祖父の実家、水窪というところに、あまりに近かったことと、祖父の弟という人が、祖父の実家は昔からのそこそこの家がらだったということをきいたのと、その祖父の弟がいうには、楠木正成が先祖だといっていた、(多分調べていてちがうような気がする)ことから、検索していました。そこで、この落人伝説のなかの、熊谷貞直という方の子供である、桃井太郎直重という人が角谷と号すという、部分なのですが、これは角谷という名字はこの人が名乗りはじめた、と理解してよろしいのかおききしたくて、投稿させてもらいました。もしこの方が角谷と名乗りはじめたとしたら、ひょっとして、角谷家の始祖である、可能性が高いので、もしこの点でなにか知っておられることがありましたら、ぜひ教えていただきたいです。宜しくおねがいします。ちなみに祖父の父親の代では角谷というのを、かくたに といっていたらしいです。全国の角谷という名字はどれがほんとのよみかたなのでしょう?これほど、いろいろ読み方がある名字もないですよね〜。

[1]小林雅成さんからのコメント(2004年03月26日 20時01分19秒 ) パスワード
  

角谷考宣様

かくたにと昔は読んでいたのでしたら、そちらの方が正しいのでしょう。
周囲の人が谷をやと読むか、たにと読むかでかわってきますね。

>楠木正成が先祖だといっていた
橘氏族ですね。橘氏は海洋系部族の線が濃いですから、伊勢平氏は瀬戸内海の水軍を配下においていたので、その意味では海洋系部族ともいえますけど、、。

>落人伝説
私の記憶が正しければ、かくたに氏の落人伝説は近畿地方だったような気がします。
[2]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月26日 20時47分34秒 ) パスワード
  

小林雅成さん。コメントありがとうございます。カクタニ氏の落人伝説があるというのは、新しい情報でしてとても興味深いです。近畿地方ということでしたら、また先祖探しも違った側面から必要になりそうです。楠木正成が先祖だというのはどうも調べてみても結びつかないようなので、やはり僕自身はかなり疑いがあります。ということは、単純にこの桃井太郎直重というかたが、この奥三河に住んでいたということも簡単にはいえないので、やはり、簡単には先祖というのはわかりませんねー。先祖探しをはじめたばかりなので、いろいろ教えてください。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月27日 01時24分16秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま

私の想像では南北朝時代に南朝方だったからじゃないですか?
桃井さんは南朝方で「浪合記」に出てたと思います。(私の父方先祖とお仲間になります)
それに三河というのも合うし。
鎌倉幕府時代は関東だったんじゃないかしら?その後、南北朝時代に三河に定着したんじゃないかしら?
三河の名門の大河内さんなどともお仲間と思います。

私は非常に納得しますよ。


足利尊氏のママは上杉さん出身で丹波かあっちの方ですから「近畿地方関係」というのも分かります。
近畿から関東に移動して三河で定着したというの納得します。



私の母方の南北朝時代は「楠正成の菊水紋を使ってた」とも伝わってます。
母は「うちは楠正成となんとかだった」と親しかったことに強調点を置いて言います。

母方末期は新田さんにくっついて敦賀に下向(=退却=いえいえ日本陸軍の表現では「転進」と言うべきですね)
する途中、琵琶湖の北で道に迷って一族350騎と中間達が凍傷でむざむざ虐殺されるに至りました。
日本史上記録に残る寒さと大雪だったそうです。


桃井氏は清和源氏で上野国桃井郡御出身その後いろいろあって足利や新田さんに付いたのかしら?
足利尊氏や新田義貞を調べたら出て来る名家と思いますよ。
[4]小林雅成さんからのコメント(2004年03月27日 20時27分17秒 ) パスワード
  

角谷考宣様

暇潰しのギャンブラーさんがいっている線が濃いですね。明智光秀と同じ紋か、足利氏や新田氏の使用した引両紋をつかっていたら、清和源氏ですね。

かくや、すみや、かどや、かくたに、すみたに、かどたになどいろんな読み方でしますね。
藤原氏流の角谷さんだど、家紋が違うのですぐわかります。


源平の合戦当時、ご先祖様は三河にいた小林より
[5]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月27日 23時25分31秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、小林さん、非常に貴重な意見ありがとうございます。やはり先祖さがしをする上で、家紋とは重要な意味がありそうですね。あまり家紋というのは気にしたことがなく、若輩者ですので。今うちの実家の連絡をとり、調べてもらっています。また詳しいことがわかりましたら、ご報告させてもらいます。近いうちに僕の先祖もわかってきて、皆様とのつながりというのが、わかってきたらおもしろいですね。でもここ最近、南朝というのにとても興味があり、よく十津川村や吉野の方に遊びにいきがてら、勉強していたところなので、やはり角谷というのをしらべていると、どうしても南朝の方に縁があるようなきがしてなりません。やはり、知らないまにそういう縁というのは自分の周りに集まってきているようなきがします。またよろしくおねがいします。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月28日 02時01分18秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

ありがとうございます。



角谷考宣さま

家紋が分かるといいですね。
家紋は1つだけとは限りませんのでお盆の時などお年寄りにいろいろ尋ねてみてください。


やはり十津川とか吉野に引っ張られますか。
私も同じです。
なにか懐かしいのです。
それで南朝と知って納得したり。


御先祖さまがお喜びと思いますよ。
[7]多聞さんからのコメント(2004年03月28日 03時54分35秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様  自分探索致すと同姓同名があり多聞に変えました、又宜しく。
 角谷さん  小林先生は家紋の大家です、角谷氏の家紋ご披露すれば如何ですか。(姓氏家系)1、和泉の角谷氏、日根郡市場村の名族にして、與右衛門と云う人著はる。「角谷氏は元木下太夫と称せしが、白河法皇熊野行幸の時、母屋に(つの屋)を出して、御座の間を作り、以って御宿に充て奉る。因りて角谷の姓を賜ひ、本陣を勤む」と傳へらる。2、紀伊の 角谷氏、林、スミヤ等條を見よ。又伊勢・志摩に存すとあり、林條には、紀伊国名草郡六十谷邑角谷氏は林大和守貞長の後也と云う。藤井
條を見よ。又続風土記、名草郡直川荘六十谷村に「地士角谷六左衛門。家傳に曰く、其の祖を林大和守貞長と云う。御花園院・土御門院の両朝に仕う。貞長の曾孫を大学頭本久という、多病に依りて致仕して城州伏見に住し、六左衛門号す。その子藤代太夫曲水という。元和の頃・伏見にて南龍公に謁し、当国に来り当村に住して、農民となり、林を藤井と改めて、又角谷という」と見ゆ。
 かなり廻りくどいが忙しかったので辛抱して下さい。纏める間が無く・・(姓氏名字)には矢張り、紀伊国名草郡に起こったのは紀姓あるいは藤原姓という林氏から戦国期角谷氏に改めた系である。他伊勢・志摩及び羽前・羽後にみえる。家紋花菱・木瓜・丁字・梅鉢とあります。
 (系図研究)にも林氏(林連粳虫系)末裔、林俊武楠木正成に属し千早城に楯籠りとあり、この子孫名草郡六十谷にあり藤井氏、さらに角谷氏と改めた。とあります。
[8]皇竹さんからのコメント(2004年03月28日 19時01分37秒 ) パスワード
  

角谷考宣様
角谷という姓は三重県伊勢地方に多い姓です。
わたしの妹も角谷家に嫁いでいます。

以前私はこの「平熱」で一人口伝の事を書いたことがあります。
もう一度書きます。

「私は壇ノ浦で入水したが、意識不明のまま助けられ、
とある隠れ家に運ばれました。
そこには尊いお方と、兄らしき人を、
家来従者らがを囲んで何か相談をしている所でした。
夜陰にまぎれてそこを脱出、播磨の海岸に漂着。
休憩後すぐ丹波の山奥へ、
源氏の探索も厳しく、
私と兄は二手に分かれ再起を図ることにした。
尊いお方らは兄弟とは別にさらに山奥へ。
私は能登へ、兄は伊勢へ。
危険は身にせまる。
平姓を捨て、角谷と名を変えた。
系統を区別するため、
兄の方をカクタニ、弟の方をカドヤと称した。
外部の目をそらすため、家来、従者すべてカドヤ姓を名乗った。
伊勢と能登は連絡を絶えず取り合っていたが、
能登の生活は苦しく伊勢へ移住したものが多かった。
しかし伊勢から能登へ嫁いだ女性もいた。

尊いお方は安徳帝。私とは清邦、兄は知盛のこと。

以上が一人口伝の内容のごく一部で、
代々口づてにのみ伝えられてきたものです。
もう秘密にしておく時代ではないと、
平成元年に一部の人たちに発表されたものです。
その記事が7月20日のある新聞記事に出ました。
この方、一人口伝の主は勿論角谷さんといわれます。
口伝は4系統に伝えられたが、
一家は断絶とのこと、残るは3系統とのことですが、
それも今となっては不明だそうです。

その当時、何か言い伝えがあるかどうか全国の角谷さんを
調査をしたいと言っておられました。
現在は可なり高齢になっておられます。
角谷考宣様に置かれましても、以上の内容に関連したことが
ありましたらご一報下さい。





[9]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月28日 21時34分39秒 ) パスワード
  

多聞さん、皇竹さんはじめまして、皆さんのお話は一つ一つとても興味深く、とても感動しております。もともと歴史がすきなのですが、ここまで深く皆さんが知っておられるとは、投稿させてもらってとてもよかったなあ〜と心から思っています。ところで家の家紋なのですが、家の母親がいうには、丸に剣片喰紋(まるにけんかたびら)という家紋でとても多い家紋だそうです。また暇潰しのギャンブラーさんがおっしゃるように家紋はひとつだけでないとのことですので、いろいろまた親戚にも聞いてみたいと思ってます。あと皇竹さんのいうような、口伝はうちには伝わってないとおもいます。また親戚にもきいてみたいのですが。また小林先生が家紋の大家とのことですので、なにか、こころあたりありましたら宜しくおねがいします。お世話になります。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 01時52分06秒 ) パスワード
  

>尊いお方は安徳帝。私とは清邦、兄は知盛のこと。


皇竹さま
昨日ちょっと調べていて
治承4年(1180)の平家の所領に
丹波国は清邦となってました。

関係ないと思ってましたが
皇竹さまがお書きになりました書き込みを拝見し背筋がゾーっとしました。


もう凄い!
これぞ平家の怨念かしら?やっぱりオカルトかかってるのかしら?
もし皇竹さまの書き込みがございませんでしたらこのレスも発生しませんでしたから。


やはり小さな事でもちょっと書いておけばそこからいろいろな情報がどんどん出て来ますね。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 02時03分09秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま

タイトルをちょっと変更しておきました。
この方が検索し易いでしょうから。
御希望がございましたら御遠慮なくね。



私には清邦という人物は全く興味の範囲内には存在してなかったのですが
思わぬ所で思わぬ形で繋がって来まして
改めて日本人というのは見えない糸でしっかり繋がっているのだと思いました。

角谷氏が南朝方で繋がるとは確信してましたが
その前は平家でしっかり繋がっていたようですね。


平家は南朝方に加担したというのがますます自信になって来ました。
[12]皇竹さんからのコメント(2004年03月29日 09時34分39秒 ) パスワード
  

平家は南朝方に加担・・・.
私もそう思います。
特に三重伊勢地方に落ち延びた平氏の末裔は北畠家にくみ込まれています。
南朝方が兵を集めたとき、先祖が平家の武士であった血が騒いだのでしょう。

徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。
この件、詳しい方教えて下さい。

戦前までは不敬罪という法律があり、
天皇について語ることも、書くことも許されませんでした。
南朝に関係するためか平家の子孫の方はまだ
身を潜めている人が多かったと聞いております。
子孫の方たちだけでなく、
それを研究する人たちも公安の厳しいマ−クを付けられていました。
子孫の方のご苦労お察しいたします。

今は良き時代です。
こいう事を自由に語り、研究することが出来ます。



[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 09時40分54秒 ) パスワード
  

>徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。

そのようなことがありましたか。
徳川氏が倒されたくなかったから警戒したのでございましょうか?
[14]いつも通りさんからのコメント(2004年03月29日 13時07分53秒 ) パスワード
  

> 播磨の海岸に漂着。休憩後すぐ丹波の山奥へ、
ともに浅田農産ルート上。鬼でしょうか?
鬼なら、酒呑童子か子分の茨木童子

平清盛と藤原邦綱が色濃く検索にかかります。

この他丹波関連は
       平貞盛(平国香 子)
1169(仁安4)1月 平教盛(平忠盛4男 母 太皇太后宮権大夫藤原家隆娘)
1178(治承2)1月 平知盛(平清盛4男 母 平時子)
1178(治承2)1月 平経正(平経盛長男)
1175(安元元)10月 平師盛(平重盛5男。母 藤原家成4女)

     藤原惟方(良門流 藤原顕頼 子 母 権中納言藤原俊忠娘俊子)
1172(承安2)藤原成親(魚名流 藤原家成3男 母 中納言藤原経忠娘)
     藤原成経/丹波少将(魚名流 藤原成親 子 母 参議藤原親隆娘)

[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 13時46分50秒 ) パスワード
  

>平清盛と藤原邦綱が色濃く検索にかかります。

邦綱は清邦の実父ですね。(清邦は清盛の融子)

邦綱はすごく要領の良い人で清盛に近づいていいとこどりして1181年に平家の没落を知らずして亡くなった人。


それで私には清邦は印象に残らなかったのですか。
私の先祖は邦綱と清邦親子を(あの親子は要領がいい)とでも反感を持ってたのかしら?と思います。
[16]小林雅成さんからのコメント(2004年03月29日 19時17分59秒 ) パスワード
  

角谷考宣様

>丸に剣片喰紋(まるにけんかたびら)という家紋でとても多い家紋
とても多いというか、場所によっては第一位(大阪府)、第2位(和歌山県)の家紋です。詳しくは、今年6月に全国家紋分布事典(仮称)がでますので、それを参照してみてください。

このように丸に剣片喰は多すぎて判断しかねるというのが現状です。名字によっては複数氏族のルーツを表す場合もあり、やはり角谷家の系図ですとか、墓石や周辺史料をあたってみないとなんともいえません。考宣というお名前も情報いっぱいのように私には思われますが、、。

***************************************
皇竹様へ

>徳川家康は平氏の裔を弾圧したようですね。
(仮定条件)彼の本姓賀茂氏族としますでしょう。後白河天皇が祇園(賀茂氏族のメッカみたいな土地ですよ(^^;)でのお遊び相手の女御を忠盛さんにくださった件がほんとならば、ただ単に弾圧する積極的な理由がみあたらんのですけど。清盛のサポーターになるのならわかるんですけど、、。

それから、安徳帝ではなくて、後醍醐帝の子孫を擁立ないし、かくまっていたのが隠密にばれて幕府に内密にいろいろ工作されておとりつぶしってのは可能性としてありますよ。だってそんなこと成功すれば、幕府は転覆されますもん。でもこれは、平氏にかぎったことではなくて源氏系の大名もかなり圧力あったのでは?別に外様にかぎらず、尾張や紀伊や水戸でも内密に帝の子孫はかくまっていたとおもいますよ、だから熊澤天皇みたいなのが出てくるんですよ(^^;)
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月30日 00時18分31秒 ) パスワード
  

>考宣というお名前も情報いっぱいのように私には思われますが、、。

「考宣」さんという漢字
って非常に非常に古風な日本的で藤原貴族系?のお名前と拝見致しましたが。
「情報」が詰まっているのですか。
[18]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月30日 06時31分25秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様 小林雅成様 お世話になってます。考宣という名前にそれほど歴史的な意味はないと思います。ただ角谷と字画がいいということで孝宣でなく考宣にしたとのことです。ただうちの母方のほうは、鈴木家でこちらのほうは、家系図があり、藤原家の南家である藤原武智麻呂の代から母の父のお兄さんまでの家系図があるのを確認しています。だいぶ長い家系図でして、途中に血筋が途絶えて、養子をもらったりしている代もあることは確認していました。そんなことから、暇潰しのギャンブラーさんが僕の名前から、藤原氏と結びつけられたのには、なにかやはり先祖の因縁というのを知らず知らずに受けているのかと、感じずにはおれません。怖いものですねー。家系の因縁というのわ。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月30日 09時48分08秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま


母上さまの方は鈴木家でも藤原南家系でいらっしゃいますか。
で、やはり三河なんですか?

矢作の名門の鈴木家というのも南朝方にいらっしゃって「浪合記」に出てますが
この系統になるんでしょうか?

碧海郡近辺でしょうか?碧南とか安城とか。
それとも豊田のあたり?こちらは尾張になりますか?


家系図を見ていると御先祖さまから何かを訴えられるような気になって来ますから結構好きなんです。
ある代では血を吐くような思いが書かれていたり。
こうして自分が存在するのかと感慨深いです。


そう言えば岡崎に鈴木家という遠い親戚がありましたっけ。
すっかり忘れていた遠い親戚を思い出したりして日本人って本当に何重にも繋がりますね。
いろいろな意味で。
[20]小林雅成さんからのコメント(2004年03月30日 18時45分45秒 ) パスワード
  

角谷考宣様

>ただ角谷と字画がいいということで孝宣でなく考宣にした
やはり、考より先に孝でしたか。この【こう】は重要語でして、私は名字のルーツ判定には頻繁に使用します。

>宣
この漢字は、藤原氏の場合は談山神社にまつられしものの末裔と解します。つまり中臣連鎌子→中臣鎌足→藤原鎌足と呼称をかえていった御先祖の血をひいているということをいっているわけです。

>暇潰しのギャンブラーさんが僕の名前から、藤原氏と結びつけられた
書き込み見ればわかるけど、ギャンブラーさんは普通の人ではない。
inspirationの豊かな人ですがな(^^)

[21]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月30日 20時53分29秒 ) パスワード
  

小林さんが名前というのでルーツ判定なさるというのは、とても驚きです。親はそこまできにしているのかなあ、というのが素人目からのかんそうですね〜。

暇潰しのギャンブラー様 僕の母親の三河の新城の山奥の出でして、その先祖がどこからきたのかは、わかりませんが、鈴木というのも日本ではものすごく多い名字なので、いつのころから鈴木の姓がでてきたのか興味深いです。鈴木という姓はつきつめたら、たくさんでてきそうですねー。ただよく藤原鎌足からの家系図のコピーですが家にあったものです。でもそういう古い家ほど先祖からの因縁もきつく、母方のほうは、男がみんなだめになっていくという状態で、みんな早死にしていってます。女性ばっかりなんですよー。

談山神社とは、奈良の桜井から東にいったところの神社ですかねー。つい最近通り過ぎた覚えがあるのですが、またほかにもあるのでしょうか。そこも藤原氏と関係があるのですねー。

しかし、皆さんの知識には驚かされるばかりで本当によく勉強されているようで本当にたのもしいかぎりですねー。
[22]小林雅成さんからのコメント(2004年03月30日 22時01分14秒 ) パスワード
  

談山神社のサイトですご参考までに。桜井市にあります。
御祭神 藤原鎌足公

www.tanzan.or.jp/

引用文:中臣鎌子は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。西暦645年の5月、中大兄皇子(後の天智天皇)と彼は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。

>でもそういう古い家ほど先祖からの因縁もきつく、母方のほうは、男がみんなだめになっていくという状態で、みんな早死にしていってます。

多分、先祖供養のやり方が充分でないのだとおもいます。私は仏教ですので、その範囲でしかわかりませんが。
墓石を西に向けたり、真言密教の秘術を使いすぎるとよくない?とかも聞いたことがあります。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 00時19分33秒 ) パスワード
  

>西暦645年の5月、中大兄皇子(後の天智天皇)と彼は多武峰(とうのみね)の山中に登って、
>「大化改新」の談合を行いました。
>後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。


おやおや「談合」とは既にこの時代から?と笑ってしまいました。



>多分、先祖供養のやり方が充分でないのだとおもいます。

平熱が
「角谷考宣氏」によってやっと御先祖さまが成仏できる機会になった
という事かも知れませんね。

今年のお盆に間に合うかも知れませんね。
御先祖さまに気持ちが届くと良いですね。
[24]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月31日 00時22分52秒 ) パスワード
  

そうですね〜やはり先祖を供養することが大事ですよね〜。幸いうちの家は冥徳供養という先祖供養をやってますので、ご先祖様から助けていただいたことはとても多く、ホントに明るい家になってます。でもやはりこうやってご先祖様のことを調べてルーツを探るというのは、やはり一番の先祖供養かもしれませんねー。

談山神社のご祭神が藤原鎌足公であったのも、また驚きです。つい最近その横を通り過ぎ、名前だけは覚えていたのですが、談山神社と聞いて、やはり深い縁を感じずにはおれません。人間というのは知らず知らずのうちに、何者かにうごかされて、そうさせられてるのかも。ここのページによしてもらってから驚きの連続です。角谷家のルーツ探しは始まったばかりなのに。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 00時39分22秒 ) パスワード
  

>僕の母親の三河の新城の山奥の出でして


上記に書きました南朝方の鈴木氏は
後醍醐天皇の8番目だったかしら?の宗良親王を戴いて吉野から浪合村まで転戦したのです。

三河の新城でしたら信州の浪合村の近くなので
お母上さまの御実家または御ホンヤさんにお尋ねしてみてください。
南朝方だったと聞けたら最高!

事情があって浪合村から戻る途中新城で留まったのかも知れません。



結局は「結婚」って昔からの因縁とかで男と女がくっつく事かしら?と思います。
昔は非常時があったから利害関係で家と家が結んだけど
今のようになってもやっぱり奥底でDNAの昔の馴染みの記憶で引き合うのでは?と思います。
日本の場合は皇紀2664年の間に亘って既に刷り込まれているんじゃないかと。


私の父と母は大変な障害を乗り越えて結婚しましたが
歴史的に見ると何度も血と涙を共有しあった先祖を持っています。

母は武将タイプですが父には憧れのお姫さまに映ってどうしても結婚したかったのです。
父が母の武将タイプの性格を見抜いていたら絶対結婚はしなかったでしょう。
父は私と姉にもお姫さまになって欲しかったのに(姉はそっちになりましたが)私は暴れ馬になってしまい
父は失望でした。

今でも父は母をお姫さまだと信じていますねえ。目が醒めない所・惑わされている所が非常に不思議です。
[26]角谷考宣さんからのコメント(2004年03月31日 01時31分01秒 ) パスワード
  

これは一度実家に帰って、家系図もって帰ってきて、研究することが多そうです。でも暇潰しのギャンブラーさんのおっしゃることはとてもよくわかります。結婚の考え方は、まさに僕もそうおもっていました。まさに先祖の因縁でもしかしたら、前世からの因縁というのも、あると思うけど、そういう複雑なしがらみから、今の周りの人間関係って、形成されてると思います。ギャンブラーさんにおきましても、そのように経験的に認識されてるようで、ほんとに人間とは業の深いものなのかもしれません。その歴史的な部分から、現世で何か、すべき使命があるのかも。 許しあうこととかー。
[27]皇竹さんからのコメント(2004年03月31日 14時35分32秒 ) パスワード
  

角谷考宣さん
私は以前熊谷伝説をこの「平熱」へ書いていたことを
すっかり忘れてしまっておりました。
大変失礼しました。
最近もの忘れがひどくなり、ボケてきました。

さてご指摘の熊谷貞直の子桃井太郎直重が角谷姓を名乗ったことにつて・・・。
観応年中(1350-1351)に貞直が井伊政道(道政?)に頼まれて
皇子(宗良親王?or尹良親王?)を井伊谷(南朝の一大拠点)へ供奉した。
その時桃井氏を頼り、その縁で桃井氏の娘並江を娶り一子をもうけた。
この子桃井太郎直重が角谷を号したということですが、
角谷家伝記によれば、「其節桃井氏の末は同山内に角谷を開移す。
今の熊谷氏はこの桃井氏の末葉なり。今は門谷と文字を改む」とあります。
桃井氏についてはこれ以上のことは調べておりませんので、分かりません。

少し補足しますと、
熊谷家も桃井家も新田氏と並んで南朝方の有力家臣です。
貞直が桃井氏を頼ったのもその縁があるのでしょう。
その桃井氏は貞直から皇子を預かり、大切にお守りしますと言って、
新しく別殿を建てられました。水久保の内裏といいます。
水久保=水窪(富山村の隣天竜川の対岸)
何か結びついてきますね。

桃井太郎直重の名は見つかりませんでしたが、
暇潰しのギャンブラーさんの言われるように
下記「浪合記」のHPを参照されては如何でしょう。
http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html

貞直は皇子を桃井氏に預けた後、三州河内に至り多田氏を頼る。
この多田氏は多田蔵人行綱の弟が入って開いた土地で(1337延元2)
河内は生国の名をとってつけたと云う。
その後、田辺藤四郎国量が入って、市原郷を開いたという(1342)。
国量は多田氏を頼り、その娘を妻に迎えている。
紀州田辺の出で、熊野権現をこの地に勧請している。
熊谷貞直は桃井氏と別れたあと左閑辺を開き(1352年)、
多田氏の娘を妻にした。
桃井氏の娘との子の他4人の子を成した。
長子小丹治貞常(後直常)は家督を継ぐ。
二男小弥太直宗は信州伊奈郡南条に住し、飯沼の郷主六郎の婿となる。
三男次郎兵衛直秋は多田利太夫の婿に。
四男次郎右衛門は当郷北境和知野川端を開き住す。
熊谷家の定紋は蔦に鳩。
これにより、鳩は食べず、殺さずという。

熊谷家伝記は貞直から12代下って貞遐(さだよし)が
明和5(1768)に整理編纂したものです。
私は貞直の書いたものしか読んでおりません。全部で8巻くらいか。
もし参考にされるのでしたら、図書館で当たって見てください。
私は近くの蟹江町立図書館でみております。






[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 15時11分23秒 ) パスワード
  

皇竹さま

面白くなってきましたね。

井伊家もからみますか。
遠江国引佐郡井伊谷ですか。
なるほどこれで井伊家と徳川家の結束の固さが分かりますねえ。


最近テレビで「みずくぼ」水窪というのを見ましたが
富山村ですか?
私は富山<県>だと勘違いして眺めてました。

いいなあ〜
土があって草があって田んぼがあって
そう思いながら見てました。
[29]小林雅成さんからのコメント(2004年03月31日 22時39分48秒 ) パスワード
  

愛知県富山村が天竜川を挟んで水窪町(みさくぼ?)と向き合っているのですが、この町内に水窪川(天竜川に合流?)があり、さらにその分流で、水窪河内川という小さな川が地図で確認できます。

私事ですが、天竜川を遡り、岡谷市までいくと同じ家紋を使っている小林家が存在し、岡谷市〜天竜川〜岡山、その間現在では何千万人もの人がすんでいるにも関らず、データベース駆使しても同じ家紋の小林さんを発見できないのはルーツが違うから。

小生のご先祖様が源平の合戦の時期に三河国から忽然と姿を消し、戦国時代大永年間になって播磨の山奥に現れるまで、約400年余りの空白が埋まりそうな感触が、、、。

[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月31日 23時55分25秒 ) パスワード
  

小林雅成さま


>小生のご先祖様が源平の合戦の時期に三河国から忽然と姿を消し、
>戦国時代大永年間になって播磨の山奥に現れるまで、
>約400年余りの空白が埋まりそうな感触が、、、。

南北朝の戦いの転戦転戦の結果でございましょうか?


昔は名前を聞けば・家紋を見れば「どこの誰兵衛」とすぐに分かったのでしょうけど
江戸時代の「移動の禁止令」で日本人の多くが自分の本来の出自さえ分からなくなったのでしょうね。


わたくしには天竜川=南朝方武士とインプットされていますが
これからドンドン人口が減っていよいよ日本人のアイデンティティが分からなくなっていきますね。
「ウチは天竜川沿いに残った北朝方」なんて高らかに名乗る人が書き込んでくれると良いのですが。
[31]小林雅成さんからのコメント(2004年04月01日 02時16分12秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

>南北朝の戦いの転戦転戦の結果でございましょうか?
おそらく、うちの場合は播磨の那波水軍経由だとおもいます。その前はわかりません。江戸の前期も意図的にルーツを隠した形跡(位牌の俗名を削ってある)がのこっているので、系図がうまくつながらないのですわ。それから、揖保川を遡って播磨の山奥についたってのが私の想定なんだけど。広瀬氏、宇野氏などがキーになる家なんだけど、おそらく広瀬氏は曽根連の後裔かと、、。
私は、後醍醐帝の子孫と伝えている人に今まで2人会っています。それも会おうとしてではなく、全然知らなくて会って話ししたら、そうだったというケース。それ以外にも後醍醐帝の子孫そいう人1人知っていますし(有名な熊沢天皇ではないよ(^^)意図せずにそういう経験するひとっていっぱいいるのでしょうか?

東京であった数十億借金があるという不思議な男性も『うちは南朝。今の天皇は北朝だから、勲章は要らん』とのたまわっていたし、蜂須賀党の人にも会ったし、多分南朝でしょうか?
信濃の村上氏が南朝についてその後、瀬戸内海にでて水軍化したという話がホントならば、うちも同じようなケースかもしれません。諏訪湖の水源を握っていた先祖は天竜川の河口に至る利権をものにしていたはずですから。

>日本人のアイデンティティが分からなくなっていきますね。
たぶん、神様のおぼしめしかも知れません。『聖書』にも聖書の民を全て分類し解説することは、よくないことだというような一節があったような??
今後は、『名門、旧家以外はよ〜わかりまへん』でもしょうがないとおもいます。

>「ウチは天竜川沿いに残った北朝方」
名前の示すとおり、龍・蛇をシンボルとする反体制的な《まつろわぬものども》を想起させるネーミングですから、体制側の人がいるのかな?

[32]箱柳永田さんからのコメント(2004年04月01日 03時03分28秒 ) パスワード
  

小林雅成さま
丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
 三河西尾が本拠です 酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所で すので、恐らく、平氏+南朝の線で決まりだと思います。


>鈴木という姓はつきつめたら、たくさんでてきそうですねー。
長田の支族に徳川家の三河代官を勤めた鈴木八右衛門があります。家紋は調べられなかったです。
  長いこと、お休みしてました、ぼちぼち再開します。 
[33]川口 信さんからのコメント(2004年04月01日 07時53分04秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま、そして平熱の皆様、興味深く読まさせております。

 学生時代の同級生に角谷(かくや)君がおりました。其の頃はまだ家系や、姓氏については関心が無かったので、深くは聞いておりませんでした。地方の出身者が沢山おられましたので、もしかして。

 余談になりますが、「ダスキン」の社長さん:鈴木氏は愛知県碧南市大浜の角谷家に生まれ、鈴木家の養子に入ったとurlに書いてありました。大浜と言えば徳川家や箱柳永田さまにも縁浅からぬ所です。


[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月01日 08時38分22秒 ) パスワード
  

>後醍醐帝の子孫と伝えている人

沢山いらっしゃるでしょうね。

だいたい後醍醐天皇ってお子様が30数人でしたっけ?女子も入れて全部で50数人でしたっけ?
たくさんお子さんがいらっしゃいますから
各親王さんがそれぞれ各武将の娘達に手をつけてましたら凄い数のお孫さんが生まれているでしょうね。

川口さまの前身の大橋家なんて絶えているんでしょうかねえ。



>丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です

おやおや角谷氏はいよいよ大変!あちこちに繋がってしまいますね。
酒井家は徳川家の前身の得川氏が養子に入ったところでしたよね。
やっぱり角谷氏というのはコテコテの南朝方なんでしょうねえ。(笑)


>「ダスキン」の社長さん:
>鈴木氏は愛知県碧南市大浜の角谷家に生まれ、鈴木家の養子に入った

凄い人が出て来ましたね。
だんだんオカルト度が恐ろしくなって来ますね。
ふふふ
[35]一読者さんからのコメント(2004年04月01日 13時28分01秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

>東京であった数十億借金があるという不思議な男性も『うちは南朝。今の天皇は北朝だから、勲章は要らん』とのたまわっていたし>

に関して、「裏切られた三人の天皇ー明治維新の謎(増補版)」(鹿島昇 新国民社)の本の中に、
・・・実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子、満良親王の御王族で大室寅之祐である。・・・
  「検定不合格 教科書になれなかった史実」(竹下義朗 雷韻出版)
  「真実のともし火を消してはならない」(中丸薫 サンマーク出版)
などにも、詳しく載っています。
[36]角谷考宣さんからのコメント(2004年04月01日 18時14分45秒 ) パスワード
  

皇竹様
>角谷家伝記によれば、「其節桃井氏の末は同山内に角谷を開移す。
今の熊谷氏はこの桃井氏の末葉なり。今は門谷と文字を改む
 
ということは僕の思っていた、桃井氏が先祖というのはちょっとわからなくなってきました。つまり今は門谷になったということですよねー。

>箱柳永田様 はじめまして、丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
 三河西尾が本拠です 酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所で すので、恐らく、平氏+南朝の線で決まりだと思います。

この家紋ということから。平氏と南朝というのは確信させてもらっていいのですかねー。やはり角谷家は平氏の落人ということかー。

>川口様はじめまして。 
学生時代の同級生に角谷(かくや)君がおりました。其の頃はまだ家系や、姓氏については関心が無かったので、深くは聞いておりませんでした。地方の出身者が沢山おられましたので、もしかして。

川口さんのお年がわからないのでわからないのですが。僕の最近亡くなったおじいさんの長男(亡くなってます)が確か碧南市の辺でして、葬儀のときその次男(長男は亡くなっている)という方がはじめてあったのですが、来てまして、その方は今60近い方なのですが、その息子さんの可能性とかありそうです。というのは 角谷(かくや)となのっているのはとても少なく、おそらく川口さんの同級生の(かくや)君はかなり近い親戚だとおもいます。偶然ですねー。

 
[37]角谷考宣さんからのコメント(2004年04月01日 20時56分17秒 ) パスワード
  

いろいろサイトで調べていたら、今僕は京都の日野というところに住んでいるのですが、近くには日野誕生院、頼政道とか、結構史跡の多いことにきずきました。結構源氏やら、藤原家やら平家とも縁の深い土地だったのだなあ。愛知の豊橋から、こんなところに家を構えてしまうのも、何かの縁なのかも。京都はいいとこですよー。
[38]多聞さんからのコメント(2004年04月01日 22時02分50秒 ) パスワード
  

先に調べた通りの(続き)
和泉  本姓(木下氏)日根郡市場村発祥
紀伊  本姓(林 氏)名草郡六十谷邑発祥
伊勢  本姓(平 氏)知盛末裔説、壇ノ浦の戦いで入水したとして後、生き残り平
           姓を捨て、角谷姓を名乗り伊賀を経て伊勢に住み着いたと云
           う(角谷隆平氏、一人口伝)に有り。
伊豆  本姓(? 氏)小田原北条氏に角谷氏あり、伊豆国那賀郡仁科郷沢田村(西
           伊豆)三島社の永禄9年(1566)棟札に「当地頭北条左
           衛門大夫代官角谷藤六」、同郷一色村(西伊豆)熊野神社の
           元亀元年(1570)棟札に「大旦那北条左衛門大夫、代官           角谷因幡守」とある(伊豆志稿)。相模玉縄城(神奈川県)
           城主北条綱成の代官に角谷氏がいた、なお、貞享3年(16
           83)頃伊豆下田(下田市)に角谷経氏がいた(静岡名字)
越中  本姓(? 氏)射水郡高場(富山県新湊)宝暦の頃(1751~63)角谷九平同
           郡放生津に移り漁業に転進・・・亀次郎清虎(俳号松月)−
           松次郎(新湊漁業組合組合長・市議)明治・大正・昭和で二
           代に渡り組合運営に尽くす。
他・私の庭の(鯰庵)の釜師、亡角谷辰治郎氏(人間国宝・一圭、茶之湯釜師)−英明(三男、陶芸家)が居ります。
                                                
[39]小林雅成さんからのコメント(2004年04月01日 22時33分02秒 ) パスワード
  

箱柳永田様

>丸に剣片喰紋は徳川と遠戚の酒井(大館の名で浪合記に登場)の代表紋です
存じてますよ(^^)うちは津山松平藩の御用商人で、呉服問屋でしたから、家紋は必須職業知識です。

>酒井、長田は同根で天竜川河口は長田の開発した所
天竜川河口は長田の開発とは興味深いです。酒井、長田ともこれまでの人生で
かかわりがある家です。酒井氏にいたっては、現在協同で仕事していますし。

********************************************
一読者様へ

>すり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子、満良親王の御王族で大室寅之祐である。・・・

う〜ん、南朝方の男性のコメントはあくまで本人のコメントで、私の意見ではないからね(^^)
大室寅之祐の話は、同和の親玉の所にあそびにいったときに出たよ。親玉は、私の先祖についても心当たりあるみたいで、『うちの親族で、昔大室姓を名乗っていて現在は別の名字を称している家がある』といったら驚いていたよ(^0^)


 
[40]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 01時46分00秒 ) パスワード
  

>つまり今は門谷になったということですよねー。

昔は漢字について今のような法的限度は無かったので
書き方や読み方を
いろいろな都合で(勝手に?)使ってたようですよ。

かど=すみ
門=角=隅=住=澄
これらは混用されたと思います。



>伊豆  本姓(? 氏)小田原北条氏に角谷氏あり
>相模玉縄城(神奈川県)城主北条綱成の代官に角谷氏がいた

この時代あたりの北条氏は伊勢出身の北条氏なのかしら?と思うので
一緒に伊勢から来たのかしら?と想像しました。

伊勢でしたらやっぱり平家系なのかしら?と。
[41]田中愛造さんからのコメント(2004年04月02日 14時29分37秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様  何時もご苦労様です。四柱推命では多聞の名は大凶と出たので田中に戻ります。
 伊勢新九郎は妹の嫁ぎ先の、駿河今川義忠に寄宿から始り、浪人分の身では其れほどの家来は無かったと考えられます。従って伊勢から一緒であれば、後の北条氏家臣団では相当な地位が約束されたと思われます。又、上司である相模玉縄城主北条綱成は氏綱の女婿で福島家から来た者で、其の代官だと伊勢からとは無理があります。然し1560〜1680の存在では120年間角谷籐六〜角谷経氏まで4・5代は居たことになります。二代氏綱ないし三代氏康が伊勢から呼び寄せたのなら、地位は格段に上位にあるはずですし、地元誌には何か残っているかもしれませんね。
 私には、平氏・籐氏の匂いがします。
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 14時53分45秒 ) パスワード
  

>四柱推命では多聞の名は大凶と出た

大凶転じて大吉となす、
だったかも知れませんでしたのに。
でもやっぱり大凶というのは不吉ですね(笑)


角谷氏は伊勢新九郎以前からの土着だったのでしょうかねえ。
南朝方で定着した子孫だったのでしょうか?
代官でしたらやっぱりその土地の元からの有力者だったのかしら?。


伊勢新九郎の伝記物に角谷氏というのが出て来るかもですね。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 15時25分51秒 ) パスワード
  

伊勢新九郎についてチラチラ見たら
小笠原氏に自分の出自は「よく調べたら伊勢の関出身」なんて書き送っているそうです。
(これは粉飾なのか事実なのかよく分からないようです)

妹尾氏のスレッドだったかに出てる美作の「ハガ」さんという漢字の難しい武将が評定衆にいて
ちょっとビックリ。(ハガさんのハは「併」が土扁)このハガさんは歴史的には室町幕府奉公衆なんだそうですよ。早雲がハガさんを引っ張って来たんだろう、ですって。

という事は
伊勢新九郎は備中からこのハガ氏を引っ張って来た?
そうすると南朝関係というのはいよいよハッキリするけれど
その前身はやっぱり平家なのか?

このハガさんは信玄に対抗して駿河さった峠に向かった時「多聞坊文書」というのを残しているそうです。
げ〜
多聞坊文書ですってよ〜

角という漢字のつく武将はいましたが
山角上野介康定(北条評定衆)。
この人も早雲が連れて来た人物だろう、と。


私はこの辺りの人間関係がさっぱり分からないです。
北条 vs 太田道灌とか長尾とか扇ガ谷とか。さっぱり。

もうちょっと下がって武田・今川・北条あたりはちょっと場所とか人間が見えて来るのですが。


「多聞」がちょっと不気味だったので書き残します。
[44]小林雅成さんからのコメント(2004年04月02日 18時58分24秒 ) パスワード
  

電話帳CD−ROMで岡山県の角谷氏をちょっとみてみたのですが、
秦氏族、平姓、藤原氏族とバラエティに富んでいますね。

>伊勢新九郎についてチラチラ見たら
新九郎殿については、備中発祥という説もあるらしく、北條龍彦氏が『我が祖先の謎と秀吉書状を追って』という本を30年以上前に出されています。

美作菅家党のハガ氏は、久米郡発祥ですので、美作国です。お隣の御津郡にも角谷さんがいらっしゃいます。(確か薬局経営されていたはず)
美作菅家党は皆木氏の伝承によると、皆木氏は、菅原氏ですけどあとは藤原氏秀郷流と思います。原田氏は平姓です。だから、有元(有本とも表記)など明らかに秀郷流だとわかる家もありますし。








[45]ときおさんからのコメント(2004年04月02日 21時53分34秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様
小 林 雅 成 様


岡山県井原市西江原町に
北条早雲ゆかりの高越(たこしやま)山城があります。
伊勢氏の菩提寺です。

   
史蹟 法泉寺
  一、 高越城主父子の墓(供養塔)
 伊勢新左衛門行長 平 盛定
 伊勢新九郎氏茂  平 盛時(のちの北條早雲)

北条早雲が1487年に城を譲ったと言う高越(たこしやま)山城主「伊勢新右衛門尉隆資」の娘が(土居妹尾氏先祖が高越山城の近くの山城持ちだったようでして)、妹尾兼楯(大永二年八十才で没)妻に成っていますので、興味を持っていました。


法泉寺(ほうせんじ)については下記に詳しいです。
http://www.webtsc.com/kanko/ir/ebara/housenji/housenji.htm

[46]ときおさんからのコメント(2004年04月02日 22時06分44秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様
小 林 雅 成 様

下記のことがらが、何かお役にたてられるでしょうか。

・垪和氏について(各地名辞典から当地の記述を抜粋)

【美作国「真島の庄」】
・1407年長講堂領,知行主は万里小路豊房
・1429〜1441(永享年間)万里小路家支配 
           代官は垪和氏,以後しばらくは垪和氏か
・1371年,応安4(建徳2)後藤佐渡の守の先祖「後藤基清」は足利義満将軍の時に九州探題今川貞世了俊・遠江今川氏初代(今川義元6代前の範氏の弟)に従い,太宰府少弐冬助の謀反鎮圧に従軍。一族の大半が討ち死にし,本領の真島は闕所になる。1395年(応永2)将軍義満は出家し今川了俊を九州より召還する。(九州)探題を25年間つとめる
1447(文安4年)万里小路冬房は父時房より譲り受け知行安堵を幕府に願い出ている。
1487(文明19年・長享元年)4月15日の条に蔭涼軒日録主亀集証を訪ねた「後藤佐渡の守」の話
     ・真島庄が本領ー京着800石の在所
     ・真島庄は幕府御料所になる。代官は垪和筑前の守が任命される


☆ 天正の頃の当地の合戦にも「垪和氏」が登場します。又、土へんに並の「土並」でハガと読む筋の方が子孫だったと思いましたが。
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月03日 01時19分05秒 ) パスワード
  

小林雅成さま
ときおさま


この伊勢新九郎北条早雲という人物は一体何者なんでしょうね?
御本人は北条姓は入道してから使用しただけのようですね。

出自については3つ出てるそうです。
伊勢出身
京都出身
備中出身

元は伊勢平氏なんて言いながら
子孫は北条時政の北条姓と鱗紋を使用。
土地が伊豆〜相模あたりだから?
源氏の今川氏に対抗して名乗っただけなのか?

バリバリの平家(伊勢平氏)だったら蝶紋を掲げたと思うのですけど
土地を治めるには鱗紋が便利だった?
伊勢平氏より坂東平氏の北条時政の後継者を称する方がネームバリューがあった?

韮山を制したから「元北条氏の土地の人間」ということで周りから通称「北条」と呼ばれてたのかしら?
北条は名門だから北条氏の後継者として抵抗がなかったのかしら?


ある時代に岡山あたりに土着+南朝方に組した(これはゆるぎないかもですね)
アイデンティティとしては伊勢国出身をプライドとして代々持っていた(これもゆるぎないかも)


垪和氏というのは当時大変な力を持ってた家のようですね。
地方の名門中の名門の家。
漢字が珍しいのでこの家は特定が簡単?


日本の名字とか家紋は本当に複雑怪奇!これに尽きます。
[48]小林雅成さんからのコメント(2004年04月03日 18時15分31秒 ) パスワード
  

ときお様

>万里小路家支配 
>代官は垪和氏,以後しばらくは垪和氏か
万里小路家は竹輪の《勧修寺笹》で、菅家党は《梅鉢》ですからすから、
松竹梅の竹・梅でうまくいってますね(^^)

>又、土へんに並の「土並」でハガと読む筋の方が子孫だったと思いましたが。
手元の『平成参歳辛未参月 梅花餘香』(美作菅家党の名簿)にハガ氏の子孫らしき人は掲載されていないです。名前変えているのかもしれません。
北条時政の子孫の大仏氏は菅家党の家来として戦国時代に活躍しております。

***************************************

暇潰しのギャンブラー様

>この伊勢新九郎北条早雲という人物は一体何者なんでしょうね?
さぁ?普段は新九郎殿としかいわないもので、、(^^;;)

>出自については3つ出てるそうです。
うちも、三河国伝承があるとはいえ、過去帳には、《祖先は京都の人にして、、、。》という書き出しですからね。新九郎殿の家もいろいろあるんでしょう(^^)

>子孫は北条時政の北条姓と鱗紋を使用。
北条時政の系統は、秦人(はたびと)のにおいがプンプンしているのですが、嗅いでいるのは私ぐらいか(笑)

>伊勢平氏より坂東平氏の北条時政の後継者を称する方がネームバリュー
それならなんで?関東ではよりメジャーな良文流のいずれかの家を称しないのかという疑問はあります。

>ある時代に岡山あたりに土着+南朝方に組した
>アイデンティティとしては伊勢国出身をプライド
これくらいの特定でいいのでは(^^)とも思います。

>漢字が珍しいのでこの家は特定が簡単?
ときお様へのレス参照ください。

[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月04日 00時42分52秒 ) パスワード
  

この部分
『平成参歳辛未参月 梅花餘香』(美作菅家党の名簿)
非常に凝った書き方ですね。

『梅花餘香』=美作菅家党

格調高い!

梅の花が菅原姓を示し
余る香りで一党を表す?
[50]小林雅成さんからのコメント(2004年04月04日 09時56分29秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>非常に凝った書き方ですね。
表紙は筆書きで、中は活字です。余を餘と書くのは私の世代では発想しがたいですね(^^;)
系図や菅原氏の官位、美作国までの変遷などが解説してあり、そのあと記念の銅像の寄付をしている人の名前が書いてあるんです。活字化している美作菅家党の資料で、これだけ名字がのっているのは他に無いと思います。
菅家八十八家と言われていますが、実際にはもっと多いらしくて、連絡不能でこれにのせてもらっていない家もあるとおもいます。

これとは別にワープロ打ちの系図のコピーをもっているのですが、これを見るとどの世代にどんな名字を名乗りはじめたかが詳しくわかります。

>余る香りで一党を表す?
あるいは、戦国時代までの活躍の余韻が平成の時代までありますよという比喩、ないしはその二つを同時に表現しているかも。
[51]ときおさんからのコメント(2004年04月04日 12時42分37秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

当地のことも多少はヒントに、
と思ってまた、かきこしました・・・。

伊勢新九郎は

  青年期を備中荏原庄で過し武芸と学問を
  苔提寺法泉寺古潤仁泉に学び、
  三十三歳?で京に上り
  伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え
  応仁の乱で足利義視とともに伊勢に下る。

 が最有力と言われています。

詳しくは下記「沼津市」と「小田原市」の公式サイトに有ります。
 http://www.city.numazu.shizuoka.jp/c-asobou/siseki/souun/story.htm
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/001.html



土居妹尾氏先祖の傍系に(尼子氏や福島正則に属する以前)

武州松山城・上田氏時代に上田安楽斉に仕えた兼秋大学

上記数代後の傍系に
(この頃に東北、関東、北陸、山陰の大名諸家へと出仕者が出ています。)
天正年間に入り北条氏直之弟太田十郎氏房に仕えた
岩付(槻)城預かりの
妹尾(三河守)下総守兼信(延)が居ます。

下記に詳しいです。
(旧与野市の郷土史http://www5b.biglobe.ne.jp/~taisyou/kyoudo-4.htm
(武州残月記http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/busyu.htm

勿論鎌倉の北条義時の時代から関東との関わりが有りますが

伊勢新九郎には、備中や京都や伊勢の時代より関係の有る
人々がかなり存在して居たのでは無いでしょうか、「垪和氏」
の様に・・・と考えているのですが、どうでしょうか。
[52]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月04日 15時41分54秒 ) パスワード
  

>菅家88家
これは8という数字が縁起が良いから88と重ねているのでございましょうね。

>実際にはもっと多いらしくて、連絡不能でこれにのせてもらっていない家もあるとおもいます。
そうでしょうね。
88も載せておけば充分でしょうし。

>これを見るとどの世代にどんな名字を名乗りはじめたかが詳しくわかります。
名字の流行なんてのもあるのですか?名前に関する漢字についてはそう思います。今でもそうですから。
名字の流行(傾向)なんて面白そうですね。



>妹尾(三河守)下総守兼信(延)が居ます。

北条早雲はいよいよ謎が謎を呼ぶ人物だな、と。
それに三河守も称していたのですか。
元々妹尾家は三河国にも関係があったのでしょうか?(1180年当時は知度さんの知行地だったそうです)
下総守はなんとなく分かる気がします。

平知度は清盛の子で尾張守と三河守だったそうです。
なるほどそれで当時の影響で三河は平家方の人間が多いわけですねえ。


北条早雲という人物は私には縁の無い人だと思ってましたが
最近は気になって仕方が無いです。
でも「どうだ!オレさまの秘密に迫れるか?」とカカカと笑われています。

この人は小説になりますねえ。幅広く。
[53]小林雅成さんからのコメント(2004年04月04日 20時16分48秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

菅原三穂太郎満佐の息子忠勝が有元を称し、その子祐頼が皆木を称し、同じく息子の祐近が備中国成羽の三村氏を継いで三村を称し、祐近の息子が須一を称し、祐頼のひまご佐時が小守を称し、おなじくひまごの佐寿が山本を称し、、。

こんな感じで、「塀和(はが)氏」の箇所を見ますと、
佐延:建武二年武家方として箱根竹下の合戦で尊氏にその戦功を認められ美濃守護代となり、美濃大垣城に拠る。観応元年土岐周済南朝に与す、佐延戦うも利無く破れ美作に走り返り中島城に入る。佐延請われて塀和氏を継ぎ、大塀和郷茶臼山城に入る。(一部読みやすくしました)
つまり、もともと塀和氏は菅原姓ではなく佐延が入り婿して菅家に加わったようです。今日、データ処理していたら塀和氏は梅鉢ではなく、桐紋を使っています。
[54]ときおさんからのコメント(2004年04月04日 23時00分23秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

兼康公は「尾張守預かり」と伝承されています。

平忠盛公の意と違う方向で、母共に薩摩守忠度公と
 尾張守教盛公?に助けられています。


  薩摩守忠度憐給内無程男子を産
  尾張守江平相国ゝ給預而
后兼門妹忠度ニ付而相歎
  梟者御落胤之事殊ニ
  〜 中略 〜
兼門朝敵之雖得名讒言之訳相知
  る上者武士ヲ仕度段願上而則
  清盛召仕其時十三歳なる迄追々成長
(当方から出た写し資料より)
[55]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月05日 22時55分29秒 ) パスワード
  

昨日から夏時間が始まり時差ボケで大変でした・・・夕方から眠くて眠くて・・・


>観応元年土岐周済南朝に与す
土岐が南朝方になったというのも初耳でした。でも土岐にすれば当然の行動だったのかも。

>佐延戦うも利無く破れ美作に走り返り中島城に入る。佐延請われて塀和氏を継ぎ
この時代はアッチに付いたりコッチに付いたりワケが分からない行動をした家がいくつもありますが
ホントにアッチもコッチも利害関係政治力学で旗色を変えまくったのですねえ。


>兼康公は「尾張守預かり」と伝承されています。
ということはやっぱり清盛の側近ということで時子さんから鏡を預かった可能性が高くなりますね。


>薩摩守忠度憐給内無程男子を産

これは忠度公より御寵愛を頂いてほどなく男子をもうけたという意味でしょうか?
凄いお話ですねえ。
[56]ときおさんからのコメント(2004年04月06日 06時27分47秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

下記の様になっています。
スレッド内容から話題をそらして
申し訳ありません。

瀬尾一族可断絶由
有綸言兼門被為遠流一族
悉滅亡然兼門妹従為官女
法皇之御胤懐胎而有梟
よってテ平氏忠盛是も
可失尽由之處薩摩守忠
度憐給内無程男子を産
(当方から出た物の写しより)  

と記述されております。
伝承なので何とも言えませんが、
父を「白河院」とする説のお仲間
のようです。
[59]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月06日 09時18分55秒 ) パスワード
  

すごい違訳でしょうか?


瀬尾一族可断絶由
有綸言兼門被為遠流
一族悉滅亡
然兼門妹従為官女
法皇之御胤懐胎而有梟
よって
平氏忠盛是も可失尽由之處薩摩守忠度憐給内無程男子を産


瀬尾一族がお家断絶の危機に
兼門が遠流ということになり
一族がことごとく滅亡しようとした時
兼門が妹を差し出し
妹は法皇のお胤を頂いて豪傑を産んだ(この妹は「妻」の意味でしょうか?)

平家の忠盛も同じく理由は言えないけれど間もなく忠度が生まれることになった



>父を「白河院」とする説のお仲間
白河院という人は手癖の悪い人で!!!
禍根を残すことになりましたが!!!!
清盛・忠度・兼康の3人が実は同じ胤だった?


当たらず遠からずそういう秘密のお話でしょうか?>ときおさま
[60]田中愛造さんからのコメント(2004年04月06日 15時20分18秒 ) パスワード
  

小林先生やときお様の話に魅せられ、又、平熱の錚々たるメンバーの勢揃いでご遠慮致して居りました。最近の話題が多い新選組(新撰)の角谷 糺は、弘化4年生まれで、明治2年函館で新選組差図役として弁天台場で降伏イギリス鑑アラヒオンで護送され、後許され三重に帰ったが。糺は、桑名藩士角谷文内の子です。蕃史や分限帳・給帳にも載っていると思います。私は皇竹様の妹様にに繋がりを感じます。
[61]ときおさんからのコメント(2004年04月07日 01時17分17秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様


>妹は法皇のお胤を頂いて豪傑を産んだ(この妹は「妻」の意味でしょうか?)

 「ドキッ」・・・うぅ・・・この点については、考えつきませんでした。
 ギャンブラー様の感性のすごさい感じ入っています。あり得ることかも
 知れませんね、妹君は妻にも夫にも取れますね・・その時代背景からす
 ると・・・。
新たな資料が出てくればとも思うのですが、今となっては難しいかも知
 れませんね・・・。


>清盛・忠度・兼康の3人が実は同じ胤だった?

一地方の開発領主にしては、中央における兼康公の
 存在や地位が妙に高いことからもそのように受け取
 れるのですが・・・。


今のところ、新たな資料の出現までは下記の通りに
「いもうと」として捉えておきたいと思っています。

妹を以姓を續由縁に而妹之字
を用苗字を改妹尾太郎兼康と
号す
(当方から出た物の写しより)

従帝宣旨瀬尾一族日本間ニ
不可置ト有勅定則平相国有御受而
後ニ御嘆如申兼門妹ニ出生ノ
男子有之ヲ以蒙御宥免
瀬ヲ妹ニ改妹尾太郎ト為
(もう一つの他家の写しより)
[62]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月07日 06時02分11秒 ) パスワード
  

妻を兼門の妹分として差し出した
というのは充分考えられると思いますね
白河法皇の場合。
日本史上手癖の悪いことではナンバー1ですから。

だって自分の息子にも隠し子を押し付けてますものね。困ったオヤジです。


ま、兼門は本物の妹が産んだ子を自分の息子として育てたとも考えられますが。


妹尾家が時子さんの信頼を得ていた秘密が
実は兼康と清盛は父が同じ白河法皇だったというの
なるほどねえ。


「白河法皇」という人物が人の女を寝取ることでは被害者は崇徳天皇だけじゃないって
当時の人は知ってたと思いますね。
息子にさえそういう仕打ちをする人でしたから。


清盛が白河法皇の御落胤というのはいよいよ否定し難くなりますねえ。


>後ニ御嘆如申兼門妹ニ出生ノ男子有之ヲ以蒙御宥免
それで兼門は罪を帳消しにして頂いた、と。


こういう政治が行われていたというのは非常に「日本」ですよね。
でも「貴種」ですから天皇家に近くなって「有り難い」ことですし
天皇家にしてみれば「武力と忠誠」を確保することですし。


ひょっとしますともっと白河法皇のお胤の家が存在するんでしょうね。


兼康の子が太りすぎてて武士として役に立たなかったから殺したという記載は
この白河法皇の血が濃く出て「武士系」の息子ではなかったという事かも知れませんね。
[63]小林雅成さんからのコメント(2004年04月07日 18時44分25秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>土岐が南朝方になったというのも初耳でした。
清和源氏頼光流は、系図を買った橘氏がドロンと化けているという話を以前聞いたことがあります。この話がホントならば、橘氏族ということで土岐はばりばりの南朝びいきということになります。土岐の一族に餐場(あえば)氏がいますが、これが江戸時代の私の親戚で、辞書によれば家紋は揚羽蝶です。

>ホントにアッチもコッチも利害関係政治力学で旗色を変え
塀和氏が菅家党の名簿に出てこないのは、北朝に付いたという過去があるからかもしれません。
[64]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月08日 02時00分53秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

またまた凄い日本の裏のお話ですね。「橘氏」が出て来ますか。

土岐=バリバリの源氏という認識でした。
橘氏も日本では名誉なお家ですが時代の趨勢で源氏方になる方が「得」だったという事情があったのでしょうね。
損得勘定というより諸般の事情でしょうけど。
[65]小林雅成さんからのコメント(2004年04月08日 21時04分45秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさま

>またまた凄い日本の裏のお話ですね。「橘氏」が出て来ますか。
そこで浮かぶのが、織田信長と明智光秀です。信長は平氏だとか、藤原氏とか称していましたが、学者の間では織田弾正家(信長の系統)は剣神社の斎部宿禰姓というのがもともとだろうということになっています。ギャンブラーさまはそれ以前は秦姓を疑ってらっしゃるんですよね?
明智光秀はご存知清和源氏土岐氏族でして、信長の側近でした。実力があったのはわかるが、なんであんなに重用されたのか?なんですが、橘氏ならばわかるんです。明智光秀は、廻船を軍事利用したりした場面がありましたね。あれも海洋民族系統の橘氏ならできるワザだとおもいます。加えて秦氏のいくつかの家は橘化していますから。つまり、仮定の話ですが、織田信長と明智光秀は同族だったといえはしないでしょうか?

と、大回りして角谷氏の剣片喰に剣神社を無理やりくっ付ける(^^)

参考論文:「織田弾正家の成立」宝賀寿男 日本家系図学会機関誌『旅とルーツ』所載
[66]北のかくたにさんからのコメント(2004年04月11日 23時24分57秒 ) パスワード
  

はじめまして、みなさん・・読ませていただきました。
同じ姓がたくさんでてるので・・おもわず書いてしまいました。
私は残念ながらかくたにですが・・ご参考まで・・

私は現在 北海道に在住ですが・・・
うちの祖父の代まで本家で(父の代から分家)・・明治17年に北海道に移り住みそこから本家になったと思われます。
そこからの系図はきちんと残っています。
何年か前におじがルーツを調べにいったところによると・・
ここからはある程度の推測も入りますが
今の石川県河北灘の周辺におり、一族をつれて北海道に入植したらしいです。
おじは「かどや」かもしれないとのこともいっていました。

>平姓を捨て、角谷と名を変えた。
>系統を区別するため、
>兄の方をカクタニ、弟の方をカドヤと称した。
>外部の目をそらすため、家来、従者すべてカドヤ姓を名乗った。
>伊勢と能登は連絡を絶えず取り合っていたが、
>能登の生活は苦しく伊勢へ移住したものが多かった。
>しかし伊勢から能登へ嫁いだ女性もいた私は角谷(かくたに)というもので>す。

ちょっと能登からは離れていますが・・もしやと思われました。
かくやさんとはルーツが違うかもしれませんが・・
ご参考まで・・・

[67]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 01時02分40秒 ) パスワード
  

北のかくたにさん

石川県御出身でしたら「それこそ」平家の末裔かも知れませんね。
そして御先祖さまは南北朝時代に暴れまわったかも知れないですし。
それに石川県なら戦国時代に尾張から移った末裔かも知れないですし。

そして更に北海道に移住したという御先祖さま。

日本全国から北海道に移住してますね。
私の友人は岐阜から北海道の名寄だか足寄だかに移住したと言ってました。
尾張でも幕末に国が真っ二つに割れ片方は北海道の八雲に移住しました。


石川県河北灘の前にいらっしゃった場所が分かると良いですね。
遡るのは大変ですが是非石川県にいらっしゃって御先祖さまの足跡を遡ってみて下さい。
石川県河北灘のあたりの歴史が分かりますといろいろ分かって来ますよ。
[68]角谷考宣さんからのコメント(2004年04月12日 01時33分36秒 ) パスワード
  

お久しぶりです。皆さんの投稿を読ませていただき、今はもういち早く、うちも家系図を調べているところです。ところがどうもみつからず、東京のとあるところから、家系図の本をとりよせているところだそうです。なのでいちはやくわかり次第また、投稿させていただきたいとおもっています。

>北のかくたに様 はじめまして、僕はカクヤといいますが、おじいさんの親のだいまで、カクタニといっていたということらしいです。しかし、カドヤとよんでいたか、カクタニとよんでいたかというのが、この伊勢の角谷氏の口伝によれば重要なポイントなのかなあ、とおもっています。なのでうちの角谷家もどこからきた、角谷家なのか、はやく家系図がてにはいるのを、いまかいまかとまっているところです。うちのおじいさんが亡くなったことから始まったルーツさがしですが、今ではうちの親戚の人たちまでも興味をもってみまもってくれてます。北のかくたに様におけましても、もしかしたら、ルーツがいっしょということで、ホントに遠い親戚だったらいいですねー。

>小林雅也様、暇潰しのギャンブラー様、とても興味のあることばかりでこちらが勉強不足なので、難しいことも多いですが、だいたい角谷家というのは、4つか5つくらいのルーツがあるということですよね。ただうちの家紋からは
推測しにくいというのが、本当ですよねー。いつから今の家紋になったのか、おそらく、どこかで変わってしまったということもあるんでしょうねー。今はともかく家系図が手に入りしだいというとこです。またよろしくおねがいします。
[69]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 02時32分04秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま

私の友人のお家は剣片喰紋で木曾義仲の侍大将の家です。
剣がついてるということは元は武士出身だったと思います。


この友人は病気になって身延山のエライお坊さんに見ていただいたら
この侍大将が部下をたくさん死なせたので「包帯と食べ物で供養して欲しい」と言ってる、と。
その武将の名を私に書いて送って来たのです。

私は少し前に古本屋で井上靖の義仲関係の本を買い(あれ?これは彼女の御先祖さまじゃないか)と思いましたが
関係ないだろうと思って母に送り母は友達に貸して・・・


それで彼女から御先祖さまの名前を知らされてビックリしました。
[70]角谷考宣さんからのコメント(2004年04月12日 17時58分42秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさま

家紋に剣がつくということは、武士だった可能性が高いんですねー。たしかにうちの実家は水窪という平家の落人伝説のある、富山村の玄関口ということで、武士だった、においはしますねー。でも木曾義仲が活躍したところも近いですし、源氏側だったのか、平氏側だったのか、タイムマシーンでもあれば、その時代にいってみたいものです。でも伊勢の角谷氏の一人口伝の内容にとても魅了されていて、なんかひっかかるものがあります。平知盛が かくたに と名乗った。 やはり、こうであったら面白いのになあー。と思います。ちなみに僕の弟の名前が知亮(ともあき)という名前だということも、ひょっとしたら、ご先祖様からのメッセージなのかもなあと、思ったりしてます。供養してほしいのかも。
[71]川口 信さんからのコメント(2004年04月12日 19時07分45秒 ) パスワード
  

角谷さんご無沙汰しております。[36]のレスで60前後まさにぴったりです。なにしろ昔のことで、角谷君はチョット親分肌でしたが。顔はやさしく細おもてでした。

 角谷家でネットサーフィンしてみました。

 下記url 2は点は北のかくたにさんに近い情報かもしれませんが。
 http://ganbo.i.pxc.jp/setose/nogami14.htm
 角谷政衛さんは、新潟県魚沼郡神立村出身

 http://www.rakuten.co.jp/hakodate/468664/470902/470923/
 
 上記url はカマンベールチーズの広告ですが商品名が「KAKUYA」です。


>ひょっとしたら、ご先祖様からのメッセージなのかもなあと、思ったりしてます。 供養してほしいのかも。

 そうですね、ご先祖様と縁の地や墓所を訪ねるのも良い方法かもしれません。そこで何か感じるものがあると思いますが。
[72]角谷考宣さんからのコメント(2004年05月08日 19時46分11秒 ) パスワード
  

皆様、お久しぶりです。昨日日本家系協会発行の「角谷一族」という本をてにいれました。期待以上のものではありませんでしたが、

桓武平氏の流れから来る、墨谷氏、住谷氏、酢屋氏、須屋氏が角谷(スミヤ)となった流れ

武蔵の名門、熊谷氏の族裔が三河にうつり、隅谷から角谷(スミヤ)になった流れ

橘氏遠保系の楠木氏系が隅屋、隅谷、酢屋、須屋になり、角谷(スミヤ)となる流れ

米沢藩上杉家家臣の角屋氏は本姓橘氏の流れらしく、元来、紀伊国から来た氏族らしい。

と細かいこともかいてありましたが、スミヤと呼ぶ流れのほうがメインでした。ただ、カクヤと読むのは、常陸の国にあって、先祖は西国から来た、ということだけかいていました。おそらく、墨谷や住谷氏が変遷していって、角谷(スミヤ)となり、カクヤとなったとのことでした。ただ伊勢志摩の角谷氏にかんしては、やはりはっきりしないようで、橘氏の流れか楠木氏のながれか?とかいてました。ここはおもしろいとこですねー。

ただ以前から平熱の皆様が書いて下さってることにやはりあてはまってまして、大筋で 桓武平氏、橘氏、楠木氏、熊谷氏の流れということで、きまりな感じでした。 あとは僕の角谷がどこから来たのかこれからしらべていきます。

[73]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月09日 00時48分00秒 ) パスワード
  

角谷考宣さま

>ただ伊勢志摩の角谷氏にかんしては、やはりはっきりしないようで、
>橘氏の流れか楠木氏のながれか?とかいてました。
>ここはおもしろいとこですねー。

いろいろ読んでると余計混乱してしまいますね。(笑)



橘氏の流れも楠木氏の流れも結局同族ですし(楠木正成は橘氏出身って聞きますから)


更に南朝方忠臣ナンバー1の楠木家と平家+南朝方の伊勢伊賀志摩は非常に強い絆で結ばれていますから
だって距離的に御近所ですものね
それに血族的には楠木正成のシスターは能の服部家と結婚してるそうですし


やっぱり角谷考宣さまの御先祖さまは<南朝方で楠木正成と御縁が深かった>というのは
自信を持って御子孫に伝えていくべきと思います。


日本は父系社会なので母の方の姓の事は普通は無視されているのですが
母方でしっかり平家だったり橘+楠木だったり熊谷だったりというのはあると思いますよ。
母方の養子に行ったり母方から養子に来たり
伝わっている断片断片は過去の事実なんだと思いますよ。

でも養子に行ったり養子に入ったりそういう事がちゃんと記録されてないから混乱してるけど

御家に伝わっている断片断片のお話を書き留めて置くと良いと思いますよ。
いつか御子孫のどなたかが断片を繋いでくださいますよ。

その人に繋いでいくのが角谷考宣さまのお役目なのでしょう。



私も自分の父方の事で最近(父方の三河と尾張の合計4家の関係が)ピッタリ繋がったのです。
断片断片聞いてた事を(こうじゃないかな?)と勝手に想像はしてたのですが
母にある事をちらっと話したら母が「それ、聞いたことがある」と言い出して
裏が取れました!

30年かかりました。


母に言わなかったらずっと断片で終わるところでした。
当人の私の父は自分の家のことなど全く興味が無くて知らないのですよ。
お盆とか正月に親戚の長老が集まる席で
父は聞き流していたのを母は(ふう〜ん私はそういう家に嫁に来たのか)と聞いてたのです。


それに最近三河の友人のことで
その家は平家なんですが
三河の平家ってけっこう多いんだなあと思っていましたら
今日角谷さまの書き込みがあって
まるでテレパシーのような感じでした。


私にとって三河って足利源氏のイメージだったんです。
その前は平家だったんだなあ、と。
[74]天皇さんからのコメント(2004年06月26日 14時14分48秒 ) パスワード
  

「萩」へマンジュウつくりにいってくる

田布施町のタブー2003春


@大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について2003
      
2003年2月14日作成

一、発端

明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し6年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。

 

情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。



これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。(橋本龍伍の戸籍) 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。



◆山口県田布施町の大室さん

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)(橋本龍伍の戸籍謄本より)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。

そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、



1.寅之祐の大室家が本当に南朝光親親王から23代も続いているのか? 

2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? 

と言う事であった。その後、大室家(後の大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家4代目に当たる。

さて、大室寅之祐が地家作蔵の息子で行方知れずになる1866年7月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。(そう書かれた木簡が出てきた。)(鹿島昇先生調べ)

大室近祐がワカルといってもせいぜい1863〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光親親王(1400〜)から23代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)

これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから 1845年頃迄には父、興正寺昭・(ショウコウ)坊(照景?)とスヘが田布施町麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(興正寺昭・坊は興正派門主一族)
作蔵(1824年?〜1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)



1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)

>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭・(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)



1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛(41)とスヘ再婚。大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃〜1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?) 
その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時 40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。

そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。 1866年7月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知れずとなったのであろう。(1867年3月ごろ麻郷村の人間が手分けして探した)

◆行方知れずになってから(1866年7月以後の大室寅吉)

情報 1.

(大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)

 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)

この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!

情報 2.

(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?が萩に在住しててその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝光親親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。

下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。

その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助のこと。庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊をとっくに卒業してたと言う。

 こんなのあったよ!

大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。

慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。

 情報 3.

(大室寅助とは行方知れずになってからの大室寅之祐(寅吉)のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室家の血統の寅助になりすましたわけ。)(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だから。) 

寅吉が注目を浴びだすのは1863年7月頃から。高杉が奇兵隊を結成。伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉として浮上してきた。 伊藤の玉が寅吉で慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。

(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。

そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。 通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。

その後、寅之祐は再度上ラク(薩長軍を率いて)。 慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。慶応4年1月15日からの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

1.天皇すり替えに関しての疑問

天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。

2.解説

いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島・氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治天皇」として迎え入れられた訳です。

それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年7月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇が存在しなかった事(空位)になります。(多分半年間、中川宮と慶喜が京都御所を仕切っていたと思われる。)

慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を天皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜をたすけるために木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまり薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとしたが長州がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。慶喜の背後にフランス軍がついてたが薩長の背後のイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。薩長にイギリスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見)勃発。慶喜と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。

即位前(睦仁親王時代)

即位当初の少年京都明治天皇(写真

  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。

御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。

即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇

◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。

基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。

明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。

大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)

◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報

興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。

Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭・(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??

A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭・ースヘ)

Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??

A.と言う事になりますな。結論から言えば。

Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??

A.そうです。

Q.大谷(興正寺)昭・←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?

A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。

Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??

A.間違いではありません。

Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?

A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  

 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。

幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。

佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??

これでやっと謎が解けたね。

前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。

◆作蔵について(人生何があるか分からない)

作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、41歳の独身、大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。

孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。

一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5〜6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)

大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。

孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。 そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。 大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。

大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。

さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。 やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、

>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。 >寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。 >睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。 >寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。 >睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。 性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。 遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。 官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。

当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

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急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。

*孝明天皇毒殺説が定説

南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。

*陸仁暗殺の伝承 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤(三 ケ月不明の時期あり)。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。 *暗殺の時期 大室寅之祐上京は、慶応三年三月。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。

*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。

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大室家の人々の篤くべき証言  

大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人 は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず っと大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解 説する。

実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(戸籍では寅吉) あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅 之祐を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため二才年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居す ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤 俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年 四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。  これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方 について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命 はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け よう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。

一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に 装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。その中に睦仁の皇后 になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで あったという。 この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ たのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多く は二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 しく行列を組んで田布施にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道案内をさせた。 

◆大室庄吉の子供たち 長男 儀作  (明治19年11月23日生) 長女 モト  (明治 4年 1月 8日生)次女 タカ  (明治 8年11月24日生)三女 ツネ  (明治11年11月 1日生)四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)五女 ツユ  (明治17年 6月28日生) 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)

一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁) の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠 宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自 分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ−と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあお れん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私 が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 と平身低頭した。  なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。  だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出 があったのである。  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。

明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。

鹿島本の引用要約

・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ

・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...

・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...

・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統正史」

・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」

個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。

1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎 (226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)

その他情報

俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

◆長州大室家系譜?

Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。

A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、

南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)

この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・

系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。

先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。

私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」 と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは山々なんですが、私には読めません。

系譜の最後に、

「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  

1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝

高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。

>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)

現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。

本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。

大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)

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調査結果

寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。

以上 田布施町戸籍課 

 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)

光格天皇の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )

三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)

(大室は南朝)

以上 田布施町戸籍課 

情報を整理すると

高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。

橋本の家の系図誰か教えて 

大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。

話を整理してみる。(ややこしいので)

1、明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。

2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父明治天皇、母松下豊子。(だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という名前で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)

3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。、(三笠宮の父は東久邇宮。)との一致により)テイメイ皇后と東久邇宮の間の子が三笠宮崇仁。で双子の妹の晴子さんも父母同様。今現在も京都に在住。三笠宮晴子さんは別名、糸子とよばれていた。(京都で)

4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。

高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違うから。大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。

>>明治10年頃の宮中の勢力分布が未詳のため大正天皇の実の父に関しては保留。

中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎は宮廷を追われてしまった。そう、堀川とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。

>>だけど千種(千草)が二人い たとはすぐには信じられないのであるが。

このあたりが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。だから岩倉と堀川御所に追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。

三笠宮晴子は今も生きていて御所で、いとこと呼ばれていた。山本尼の方はやすこと呼ばれた。

一部紹介します

2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。

>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。

>>大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?

>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)

◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?

熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。

政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないから共言える。

さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)

二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。

三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。

北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。

一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。

佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2〜3年後か?に最終決着が付く筈だ。

年次 事績

天保8(1837)年

9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。

弘化4(1847)年

9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。

嘉永3(1850)年

1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。

嘉永6(1853)年

6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。

安政5(1858)年

この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。

万延元(1860)年

3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)

文久2(1862)年

7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。

文久3(1863)年

4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。

元治元(1864)年

1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

慶応元(1865)年

5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写真を全員で撮る?) 。

慶応2(1866)年

1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島・説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。(刺殺では無く、毒殺されたとの説もあり)

慶応3(1867)年

1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。 7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預かる。この仏像は京都睦仁の遺体であろう。同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) 。(7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼る。これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される)。 10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が芸者連れて田布施の麻郷に帰ってくる。(寅吉を寅之祐と改名。)通史の王政復古の大号令とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)

慶応4(1868)年

明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕軍の方も錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。

 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。睦仁親王(京都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)

(慶応4(1868)年)

 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。

 慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。



[75]小林雅成さんからのコメント(2004年06月27日 00時51分20秒 ) パスワード
  

↑天皇さまへ

後醍醐天皇の子孫は全国にはかなりぎょーさんいてはるんです。
ここのスレッドは、角谷さんメインで、たまたま南朝(しょっちゅう?)で、脱線して、大室関連レスが付いたわけなんです。それをご覧になって書き込まれたんでしょうけど。

書き込まれたのはかなりボリュームあってサーバーの負担になるので、レスされるよりは新しく大室スレッド作られて、且つ原稿は何分割かして掲載してくださいね!
[76]愛芽さんからのコメント(2005年11月05日 19時32分56秒 ) パスワード

富山村は熊谷氏が南北朝時代に隠居として選んだ密かな村だったが後醍醐天皇の命により隠居を決めた熊谷氏に仕事が舞い込んだ。南信濃戦に控え一時的に息子皇子(?)を護衛することになったのだ。その際場所として選ばれたのが現在の水窪町
門谷村である。そのときに村の名は無かったが先住者はいた。その地には既に神社があり何らかの祭り事がされている土地だった。その先住者も後醍醐天皇がらみなので
スムーズに任を受けた熊谷家が村づくりを始めても不思議はない。
先住者の祀りの対象が山神メインだが、この山神の御神体は神代7代の神「大戸のべの尊」すなわち「門を守り神格化する」という神である。地名に門谷とはその通りなのである。関係者がその意味を持つ名をつけるとしたらこの場合あえて字を変えることがある。門谷の関係者が「角谷」と字を変えることはありえるということだ。
まあ、この辺の詳しい内容は御祖父さんが水窪の人ならば直系の熊谷さんがご健在なので直接聞いたらいいんじゃないですか?すぐわかるとおもいますよ。
[77]角谷 考宣さんからのコメント(2005年12月09日 20時00分03秒 ) パスワード

久しぶりに平熱を訪ねてみました。1年以上ぶりのことです。愛芽さん貴重な意見ありがとうございます。角谷家はうちの祖父の代で水窪という土地に25代もつづいている家系ということもあり、残念ながら、いまは水窪には在所はないのですが、やはり一度たずねるべきところだとおもいました。門谷村というのがあるということも知りませんで、うちの家系をさぐる上でかなりのヒントになりました。ありがとうございます。
[78]西江 漢犀さんからのコメント(2006年08月01日 13時23分23秒 ) パスワード

西江のことが 何も書いてないのが ふしぎです。西江と調べたのに西江が書いてないからガッカリしました。ところで、あなたは、西江とはどんな関係があるのですか?私、西江かんさいというものです。どうかお返事ください。
[82]大阪の角谷さんからのコメント(2014年08月05日 00時34分07秒 ) パスワード

はじめまして。
もう動いてないかもしれませんが、私の姓も角谷と書き、かくたにと申します。
父方は大阪の家で、抱き茗荷の家紋だったはずです。
こちらのスレを眺めていたのですが、中々抱き茗荷というのはしっくりきません。

父方は大阪に分家や本家と確か紀伊の方にも一家あるはずなので、近畿地方の家系というのはほぼ確定なのですが…。
我が家のルーツも同じでしょうか。
[83]名古屋の角谷と書いてスミヤさんからのコメント(2017年09月01日 10時56分56秒 ) パスワード

私、角谷と書いてスミヤ と申します。
ルーツ探し中に、こちらサイト拝見しました。
歴史にうといので、情報にびっくりしてます。
両親共に愛知県碧南市出身で、父方が、大浜の角谷スミヤ姓・母方が鈴木姓です。
平氏・南朝方、。
角谷スミヤ姓との関連もありですかね。
私も角谷スミヤ姓で先祖ルーツ、引き続き調べていきたいと思います。
関連情報ご存知の方、続報等ございましたらまたご案内くださいませ。
お邪魔しました。
[84]松本さんからのコメント(2023年08月03日 16時21分07秒 ) パスワード

角谷さんは伊勢商人、角屋の子孫です。廻船業をしていた角屋の拠点が伊勢、須佐、大浜。その地に根ずいた松本一族が屋号から、角谷を名乗った。清和源氏、松本彦太郎の子孫。
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