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 投稿番号:100621 投稿日:2004年03月08日 03時56分52秒  パスワード
 お名前:西海大寺さんの代理
小城町三間寺の千葉氏・神埼郡鴨池氏

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

こんにちは!

僕は現在は福岡市に住んでますが、父の代まで佐賀県小城郡小城町大字松尾(俗称:三間寺)で代々生活してきたと聞いております。現在でも墓はそこにあり、供養もそこで行っております。

小城と言えば、かつての天領であり、その昔は、九州千葉氏の本拠として築かれた地です。

平家物語を語る場で、源氏の流れを汲むと思われる九州千葉氏について語るのは少し気が引けますが、少し我慢して聞いて下さい。

僕の先祖の家系は代々小城町三間寺にある円通寺という寺の守護を職業としてきたらしいのですが、寺侍というのでしょうか? その円通寺に今も残る千葉氏から寄贈されたという鐘があります。千葉氏のお姫様のお墓もあります。

しかし、不思議な事に、その寺侍であった我が家の家系を自分なりに調べてみたのですが、家紋、苗字ともに平氏の流れを汲むものだと聞かされました。家紋は梅鉢、しきたりとして、男は梅鉢に丸囲いを着け、女は梅鉢のみで囲いを着けることが許されていないのです。

さらに、本寺の円通寺の歴史をみると、時代により、宗派をコロコロと変えるなど、とても興味深く、しかし、整理して理解がつかないようになります。

皆さんの中でもし、この小城町三間寺という地について知識をお持ちの方がおられれば、是非とも教えてください。本気で自分のルーツを探しています。

またこのサイトには立ち寄らせていただきますが、仕事で時間が限られているので、よければ僕の携帯のEメールに送っていただければ光栄です。

アドレスは howlong-they-moan-me@ezweb.ne.jp か takuyaiba@hotmail.comにお願いします。

追加情報ですが、今付き合っている彼女が、元々は神崎郡の大地主で、姓を鴨池と名乗っていた一族の末裔らしいです。現在は、井手という姓ですが、先祖代々、祐徳神社と深い繋がりがあるらしく、ずっと神道の神官の一族であったと聞いています。神崎郡の大地主で、神官一族の末裔、更には、鹿島の祐徳神社との深い関係・・・まさかと思いこのサイトに足を進めました。平氏の血を引く者でしょうか?  

もしそうであれば、なお更自分のルーツが知りたい。我が家も元々は小城と三日月町の大地主であった事実と、小城が千葉氏(源氏)の流れを汲む地であるという前提・・・

別に事実や史実がどうであれ、僕の気持ちは変わりませんが、もし、遠い昔からの縁があると思えれば、そこにロマンスを感じます。先祖代々の地を去り、福岡で産まれた僕にとって,佐賀県と、遠い昔の先祖が住んでいたであろう小城は魅力で一杯です。無機質なコンクリートの中で育ち、故郷をしらない最初の世代なので、(父の代までは小城)自分の先祖の遺伝子が視覚や聴覚や嗅覚から得た情報の裏付けを知り、後世に伝えるのが僕の義務だと感じてます。

やはり、僕にも佐賀人の血が濃く流れています。理屈を追い求め、事実を追求し、善悪をはっきり見極める、そして、理解した上で、初めてものを言う。それが出来なければ、自分は意味が無い。そうして自分を律する事が日々の勉強であると考えてしまいます。自分自身の出所を知らないと言う事は、自分としての正体(identity)が無いという事だと思い、更には、identityが無い者はこれから先の国際化、多元化される時代に生きる人間としてあまりにも魅力が無いと思い、悲しくなります。
仕事柄、外国人とよく接するのですが、自分が日本人であり、日本人はどこから来た人であり、自分の先祖は日本の中のどこどこのどこから来たひとで、祖父さんがいて、父がいて、そして自分が今存在するという説明内容が無いととても苦労します。一般的なアメリカ人みたいに、自分は自分で今生きて互いに接している者同士の事を分かり合えればそれだけで良いとはどうしても思えません。
例え自分の先祖が河原乞食であったとしても、「僕の先祖は〜川の土手で〜時代に〜をして生き抜いた」と「生き抜いてきた先祖達」を誇りに思いたいのです。アメリカ型追及のこの時代にこんな話しをすると馬鹿げているとよく言われますが、日本の歴史上で重要な役割を果たしてきた佐賀県の方にならご理解いただけるのではないかと思いました。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月08日 03時59分05秒 ) パスワード
  

わたくしからのレスもこちらに引越しさせて頂きます:



西海大寺さん

初めまして。

>家紋は梅鉢、しきたりとして、男は梅鉢に丸囲いを着け、女は梅鉢のみで囲いを着けることが許されていないのです。

丸をつけるのは「武士」という意味だと聞いた事があります。
もちろん丸をつけない家もありますが、そういう話を我が家のホンヤから聞いたとこがあります。

このレスを新たに新スレッドとして立てさせて頂きますね。



それから九州千葉氏も千葉の千葉氏の流れでしたら
坂東平氏から源氏方になったのでもともとは平氏ですから御安心を。
[2]田中愛造さんからのコメント(2004年03月10日 03時22分17秒 ) パスワード
  

 先ず、鴨池について(姓氏家系大辞典)には、「豫章記」に出て来るのは伊予国越智氏に綴られし氏族であり、南朝方に鴨池新左衛門がある。
 然し、肥前国小城郡に存在するのは鴨打氏(カモチ)であり、もし鴨池氏であるとするならば、私の所見では、明治の壬申戸籍により書き換えられたのでは無いだろうか?鴨打氏は、元、同族の筑後の蒲池(カマチ)氏から出たのでは無いかとされたがその根拠は薄い、。蒲池氏は藤原純友流・源氏松浦流・宇都宮氏流と変身していったものだが、嵯峨源氏ー源久ー直(下松浦)−囲(山代)−固、より出ている。
 鴨打氏は、九州千葉氏(西千葉)千葉一族で、本姓は嵯峨源氏肥前松浦党一族。第52代嵯峨天皇ー源融ー昇ー仕ー宛ー綱ー久ー持(波多)ー辞(鴨打)−賢ー強ー賦ー登ー滋ー増ー満ー敦ー通ー長ー正ー秀(美濃守・千葉に招かれ小城郡芦刈城〔芦ヶ里〕に拠る)−輝ー胤宗(筑前守・千葉氏家老・妻、千葉胤繁の娘)ー胤忠(陸奥守・乙宮神社に関係す)・・子孫鍋島家臣となる。
 千葉氏や三間寺・円通寺に関係あるがサイト上に詳しいので省くが、一切が符合するので鴨打氏を指しているのではあるまいか。また歴史上の中で鴨池に変じたのかも知れません。私の所見であり、信じないで下さい。
[3]ときおさんからのコメント(2004年03月10日 07時15分53秒 ) パスワード
  

田 中 愛 造様
ギャンブラー様

このスレに横入りしてすいません。いつも愛造様の書き込みを楽しみにしています。

 「カモチ」の呼び方ですぐ脳裏に浮かぶのが有ります。鳥取県西部ですが、知る人ぞ知る名所で有ります。タイガースのファンもご存じとかです。
 愛造様、この「カモチ」との関係はどうでしょうか。 


ギャンブラー様 きっと行きたく成りますよ。なにせ「おかげ」有りそうですから、最近は・・・?。さらに、南朝方ですから。でも、遠いですね。

私はおかげ・・・お金持ちには成って居ません・・昔にお札をもらったような気がするのですが・・・・。

交通のアクセスはあまりよくありませんが、下記のHPに出て居ますので、参考にして下さい。

金持神社(かもちじんじゃ)
http://www.san-in-tabi.net/kankou/map2/hino/kane/


「宝くじに当たった」「子宝に恵まれた」なんてうわさ
1333年に、この地の豪族、金持景藤が隠岐を脱出した後醍醐天皇に奉じて挙兵した
http://www.mainichi.co.jp/women/alacarte/furusato/031009/249.html


* 他スレのことですみません。吉備団子様のサイト立ち上げが遅れているそうです。いくつものサイト立ち上げをされているようです。




[4]田中愛造さんからのコメント(2004年03月11日 01時15分25秒 ) パスワード
  

ときお様   有難う御座います。取り留めの無いことばかり書いてます、やっとお出ましですか?最近何方も出ないもので・・・
 鴨池氏の地名も見ますが、書かれた内容と一致・符合しないので、ときお様探して下さい。藤原氏族姓氏一覧には〔鴨池・藤原姓。地下家伝ニ見ユ。〕とあり、藤原氏族系図7巻調べましたが出ませんね。矢張り郷土誌で無いと、大地主・大庄屋あたりを調べないと、と思います。又、勉強させてください。待ってます。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月11日 02時27分54秒 ) パスワード
  

>鴨池について(姓氏家系大辞典)には、「豫章記」に出て来るのは伊予国越智氏に綴られし氏族であり、
>南朝方に鴨池新左衛門がある。


ということは私の母方の一族ですね。
予章記も善応寺文書も持ってるのですが引越でどこに入ってるのか分からないです。
今週は家の補修の予定がバッチリ入っててストレス過剰状態なので脳みそ休眠状態です。


>金持景藤が隠岐を脱出した後醍醐天皇に奉じて挙兵した

いいお名前!
倉持さんというのは知ってましたがこの武将は金持さんですか。
やっぱり景気の良い先祖を持つっていいですよね。
って、キャッシュなわたし。
[6]嘉村孝さんからのコメント(2004年03月12日 21時57分58秒 ) パスワード
  

西海大寺様
久しぶりに拝見させていただきましたら、我が故郷神埼郡や隣の小城郡の話しが書いてあって嬉しくなりました。
円通寺をはじめ関東の中山法華経寺と関係深い松尾山光勝寺、鍋島家菩提寺・星巌寺などよく存じております。小城の町は、県道から北は中世の町、南は江戸時代の町といわれますが私は北が特に好きです。
千葉氏は石橋山の戦いのあと、頼朝を助けたために小城の地頭になり、戦国時代は戦国大名的規模にまでなって、鍋島藩祖鍋島直茂は一時千葉氏の養子になったこともありますね。その縁で、最初の子である元茂が七万五千石の支藩に封ぜられたわけで、天領ではないと思います。比較的近い七山村は天領とか。

ところで、室町時代朝鮮の「海東諸国記」に、小城の千葉氏が朝鮮との貿易を営み、山越えで博多を通じて交易している記事が出てきます。正に西海大寺様の現在の地元・博多と祖先の地は昔から繋がっていたということで、一筆しました。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月13日 00時35分01秒 ) パスワード
  

>比較的近い七山村は天領とか

ヨソ者には「七山村は天領とか」なんて分かり難いです。
天領ともなると要害の地なのか豊かな土地なのか有名人を出した地なのか?
それとも危険地なので天領になったのか?

ちょっと検索に行ってきます。
[8]嘉村孝さんからのコメント(2004年03月13日 20時08分00秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

失礼致しました。場所は玄界灘に近い山村。
元は譜代の唐津藩で、唐津藩は藩主がくるくる変わり、その一部を上地したので、江戸時代の途中で天領になったわけ。
傾斜地の多い、みかんの産地。でも最近はみかんがだめ。

それより、万葉集の玉島川上流と言った方がよいかもです。大伴旅人の鮎の歌で有名です。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月14日 02時30分18秒 ) パスワード
  

嘉村孝さま


万葉集の中で「松浦河」と歌われている川は、
現在の松浦川でなく、現在は「玉島川」と呼ばれる川のことなんだそうですね。

この川は神功皇后(息長足姫おきながたらしひめ、または足姫たらしひめ)の鮎釣り伝説の場所でもある、と。



早速岩波の佐々木信綱編の新訓「万葉集 上巻」を引っ張って来ました:

巻五: 

松浦河に遊ぶ序


余以(やつがれすで)に暫く松浦の県に往きて逍遥し、いささか玉島の潭(うら)に臨みて遊覧せしに、
忽ちに魚を釣る女子等に値(あ)ひき 云々



0853 漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ良(うま)人の子と
    
0854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみあらはさずありき
    
0855 松浦河 河の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
    
0856 松浦なる玉島河に鮎釣ると立たせる子らが家路知らずも
    
0857 遠つ人松浦の河に若鮎釣る妹がたもとを我こそ巻かめ
      
0858 若鮎釣る松浦の河の川波の並にし思はば我恋ひめやも

0859 春されば我家(おぎへ)の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
        
0860 松浦河七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ
        
0861 松浦河 河の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
        
0862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ
    
0863 松浦河玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ
    

<人の羨しさ>なんて表現すっかり忘れておりました。


わたくしの小学校時代の隣の席の男の子が佐賀県西松浦郡鎮西町だったかの出身で
わたくしの母方には京士族の松浦家の娘が嫁に来ているので御縁を感じてたのですけど
ロマンに溢れた土地なんですねえ。
[10]西海大寺さんからのコメント(2004年03月14日 20時11分14秒 ) パスワード
  

嘉村孝さん、有難うございます。
私、姓を井上と申します。 小城町の千葉氏と朝鮮が交易していたとは初耳でした。
貴重な情報を有難うございます。確かに、現在でも、円通寺の中には非常に色とりどり
な古い木製仏像のようなものがゴロゴロしていたので、もしかしたら、朝鮮式のもの
ではないかとおもいます。今度また、詳しく見に行ってきます。
嘉村さんは御歳はおいくつ位でしょうか?世代によっては小城町の円通寺付近をご存知
ならば、昔のぼくの父の家をみた事があるかもしれないですね。
大きな仁王門があったと聞いておりますので、結構目立っていたとおもいます。
貴重な情報をどうも有難うございました。
[11]嘉村孝さんからのコメント(2004年03月16日 01時34分47秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

古くは今の玉島川は、鏡山の下を通って、松浦川に注いでいたそうです(大宰管内誌にあるとのこと)。

歌の話になりましたが、あのあたりを治めた松浦党。元は河原の左大臣源融から出て、渡辺綱などもその子孫。名前は一字が特徴で、葉隠に出てくる波多三河守も「親」と一字。
そして、鏡山のふもとの鏡神社には源氏物語のモデルともいわれる源融と紫式部とにまつわる碑が立っています。
今日は、確定申告で忙しかったので、詳しくは後日。

井上様

円通時の仁王さんは、本当に古いですよね。
ただ、朝鮮貿易は千葉氏だけではなくて、筑紫山地のまわりの氏族みんなといってもよいものです。山の南側を、私は「佐賀の滝線都市」といっております。その滝口に千葉、江上、少弐、渋川などがいて、山越えで貿易したというわけですす。そのあたりは海東諸国記を。岩波文庫で時々復刻ありです。
小城についてはとりあえず「小城町史」がよいでしょう。また、昔の簡易裁判所の跡地が資料館になっており、充実しております。

私は「トオネンとれば・・40歳近辺。悔しい!」
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月16日 03時27分00秒 ) パスワード
  

嘉村孝さま

確定申告
大変ですね。

日本は17日が締め切りじゃなかったですか?ギリギリですね。(笑)


[13]西海大寺さんからのコメント(2004年04月16日 20時16分36秒 ) パスワード
  

ひさしぶりに投稿させていただきます。皆さんは歴史の縁というものを信じられますでしょうか?
ここに来られる多くの方が歴史を具体的事例や史実というものから考察し、過去の謎解きを進められる、いわば徹底した現実主義者であると存じます。そして私もその一人と自分でも思っております。
しかし、皆様方もそうであると思いますが、歴史には史実を元に解き明かす謎解きや推理以上に面白いものがありますよね。それは歴史というものを背負ったそれぞれのもの同士の縁ではないでしょうか?
一体どこからそんな奇縁が?と思うようなところに、なぜか過去にお互いなんらかの繋がりがある者どうしが現在に出会ったり、仲が良かったり、悪かったりと・・・
一体何故そんなことが起こるのか?私はこの謎解きを非科学的要因のものと割り切ることがずっと出来ないで苦しんでおります。「偶然だよ」「何かのご縁だ」「神様が・・」「ご先祖さまが・・・」なんて言葉にはもううんざりしてしまったのです。実際、この様な言葉を否定して謎解きをしたいわけではありません。この様な言葉は、ロマンスを駆り立て、私の探究心をさらに加速させます。
その結果、過去に自分の血統に実際に起こった史実をDNA情報にそのような記憶装置があり、現在に生きる我々の人生を左右しているのではないかと科学的根拠を探りたくなってきました。
一例として、私がここに存在し、PC越しに活字化されたメッセージを皆様に送っているのも、もしかしたら私の先祖の血がそうさせているのかもしれません。不思議な事に、頭の中で考えて、考えてこうした行動に出ているわけではないのです。このメッセージも不意にPCを見たその瞬間に「そうしよう」と思いつきそうしているだけなのです。
もし、人間に目や耳から様々な感覚神経から得た情報を何らかの情報パターンに変換させて、脳やDNAという物理的媒体を通じ、後々の世代にまでその記憶情報を伝達する機能が備わっているとしたら、これからの私の生き方は180度変わる事でしょう。私は、その記憶を辿る事で,より正確に「逢うべき人間」と「避けるべき人間」、さらには「すべき事」「自分に課された宿命」を判断することが可能になるからです。実際、この様なきのうは必ず持ち合わせているはずです。なぜなら、人や動物の進化そのものが、この機能のもとに成り立っているからです。ダーウィンの進化論もそれを否定した今西キンジの棲み分け理論も生き物が種を絶やさない為に長い年月を経てある程度適応してきた事を証明するものであるからです。ここでいう「適応」とは、他ならぬ「学習能力の総合的、かつ、長期的成果」のことであり、「学習能力」を可能とする要因には必ず「記憶装置」、「記憶媒体」、「記憶読み込み装置」、「読み込み記憶処理装置」と物理的原理が必ず働いているはすです。上記の内、「記憶装置」は脳の仕事でしょう。「記憶媒体」は近年解明されつつあるDNAという遺伝子にヒントがあるのではないかと思います。その後に、記憶された情報をいかにした呼び起こし、また、それを的確に処理するのかという工程が不思議でなりません。
もし、このシステムが解明されれば、歴史学にはもちろんのこと、医学的にも遺伝性の癌や病気の情報の呼び起こしを制御したりと未然に人の命を救えるかもしれません。
そこで、未だに具体的に何をするのかなどという事ははっきりわかりませんが、このサイトに来られる方のアイディアやお力を何らかの形で役に立てたいと思います。
「こんな事はプロの研究家や施設にまかせたら」と言われるかもしれませんが、私は、今という時代は民間でも一人一人が研究家になれる時代だと思っております。情報化社会、その強みです。とはいえ、専門知識を持たない私のような人間には専門家の何十倍も難問ですが、PC分野でいえばあのLINUXをつくった若者も最初はそうでした。
興味をもたれた方がおられましたら、このスレで先ずは「何をすべきか」というお知恵をおかしください。
平家物語のロマンスも現実的な裏付けがあればきっとまだまだ感動を生んでくれることでしょう・・・
[14]鴨打具一さんからのコメント(2004年08月12日 19時07分15秒 ) パスワード
  

今日、初めて拝見しました、
まず、鴨打の読みは「カモウチ」です、「カモチ」で載せている本を私も見ましたが「金持ち」から来たとか書いてありましたが、あまり調べた感じがありません、この方の書いた本を参考に下方の本もカモチでしたが、私の調べた30冊以上の殆どが正しく「カモウチ」となっています、全国の電話帳を調べ三十四家有りましたが、アイウエオ順で違うところにあったのは2件だけです、30家には、家系調査のため調査票を送り一部は回答を頂きました、電話帳未記載の方や、携帯のため全ての鴨打ではありませんが、鴨打は50家以内と思います、
松浦一族の家紋は摂津の渡辺党の流れをくみ基本は「渡辺星」です、ただその系統により「三つ星一文字」「三つ星引き両」「三つ星二つ引き両」と色々あり、主家筋に対する遠慮から変わり三つ星になったと思われます、
鴨打の姓を頂く源は、我が家では、帝の御前で一矢で三羽の鴨を射止めて見せたのを覚えて居られたのを危急の際お助けしたときに、「鴨打」の名と「美濃の守」の官位を頂いた、と伝わっています、
私も海東諸国記を読んでいますが、千葉氏が朝鮮交易をしていたのは知りませんでした、勉強不足です、鴨打の名は度々出てきますが、元寇の役以前からで、千葉氏が肥前入りしたのは元寇の役の時ですから、千葉氏とは全く関係有りません、
海東諸国記では、名前に「殿」が付き、「図書」を受け、年12艘の貿易を認められていました、
千葉氏は「平氏一門」ですが、頼朝の挙兵に呼応し、平家討伐のため東北から九州まで各地を転戦し、各地に休息所(領地)持つ、大大名で、千葉氏の流れをくむ苗字は全国各地にあり、200は優に超えると思います、
以上、ルーツ調査の途中ですが、解った事を述べました、
まだ、現地調査まで行っていませんが、2〜3年後には本にしようと思っています、
[15]田中愛造さんの代理さんからのコメント(2004年08月15日 08時41分46秒 ) パスワード
  

[55] 田中愛造さんからのコメント(2004年08月15日 02時49分17秒 ) パスワード
   E-mail=afby1909@oct.zap.ne.jp

 我が国に於ける姓氏(名字・苗字)は、訓読み・音読みの読み解きにより、同姓別読みが多く大変です。「姓氏家系」では鴨打氏(かもち)と紹介し、読替を(かもうち)としており、「日本名字家系」や「系図研究」「戦国人名」他各書には、何れも(かもち)と書されております。時代や土地によって使い分けが多いのも、氏姓学の難解さかも知れません。
 日本の姓氏の数は約27万とされ、数え方も種々多様であり、8割は訓読み(大和言葉)として伝えられており、音読みする苗字は新しい苗字と云われて居ります。
 鴨打様の(家紋からの謂れ)から(かもうち)と考えるも正しくもあり、一概に何が正しいかは言い表せません。松浦党は48家と云われて居りますが、同族庶子系や同族異姓系を含むと約170家に及びます。『松浦党関係諸家系図(肥陽諸系図)』では鴨打氏略図は先に述べましたが、これは、(石志文書・正元二年政所下文)鴨打源次集とされる。また、「三浦石田系図」には桓武平氏三浦氏族の鴨打石田彦二郎繁実系もある。且つまた、根拠が無いものの(長沼賢海)などは、千葉氏の関係からも筑後の蒲池から出たのではないかと言う説もある。何れにせよ、「嵯峨源氏松浦党鴨打系図」が存在するとのこと、研究が進むものと期待します。
 室町期においての朝鮮貿易には壱岐の(志佐・佐志・真弓・鴨打・塩津留・呼子・牧山)諸氏が盛んに活動したとある。
 「戦国人名辞典」に一人だけ載って居るので、写し書きして置きます。鴨打胤忠(かもちたねただ)陸奥守・肥前国小城郡芦刈城主。鴨打胤宗の子。鴨打氏は松浦党に属し、後鳥羽院より鴨打の氏を賜ったという。永正(1504-1521)のころ、鴨打美濃守秀の子輝は千葉氏に招かれ、下松浦の地から小城郡芦刈に移った。其の子胤宗は千葉胤繁の女を正室としている。天文十四年(1545)竜造寺家兼の馬場頼周攻めには父胤宗とともに加勢し、以後、竜造寺に仕える。永禄元年(1558)の江上武種攻めでは、新付部将の監視役である検使を勤め、同五年の有馬氏小城郡侵攻にも参戦、活躍した。また、元亀元年(1570)、大友宗麟が佐嘉城に竜造寺氏を攻めたとき、鍋島直茂らとともに大友氏の今山陣に夜襲をかけ、大友軍を豊後へ敗走させた。この今山合戦で最も武勲を立てたのが胤忠であった。以後、この縁で鍋島氏に属した。  とあります。
 鴨打具一様の本が早く出版される事、楽しみに致します。
[16]西海大寺さんからのコメント(2004年09月23日 14時56分01秒 ) パスワード
  

ひさしぶりの投稿です。しばらく自分なりに小城町円通寺に関して調べていたのですが、壁にぶちあたって戻ってきました。皆さんのお力を少しお分け願えないかとおもいつつ・・・。

さて、いきなりの本題なんですが、自分のルーツである小城町の三間山円通寺にかんして調べていたところ、ある歴史上の人物に突き当たりました。彼の名は「臨済禅僧 神子栄尊(じんし えいそん)」。非常に興味深いです。まずはこの人のプロフを見てください。↓

建長9年(1195)6月26日 筑後国三潴荘夜明村に生を授かる。(ここまででピンときますね)

本姓は「平」

父親は平康頼→平清盛討伐の首謀者の一人。 母親は三潴郡の土着人。

7歳で仏教に関心を示し、13歳で得度(天台宗)、16歳で檀に入り、そして20歳でなんと小城の松山に来て3年間の修行。

その後、信仰上の悩みで大分県の宇佐神宮へ修行に出る。

中国、福建省の寺院へ留学。

帰国後、宇佐神宮のすぐ隣に「臨済宗 円通寺(現在は妙心寺派)」を建立。
その後、宇佐神宮より「神師」の号を授かるが、恐れ多いと、「神子」に改める。

以上

ここでのポイントは、
@ 小城の松山に修行に来ていた(師匠が小城にいた。恐らくは竜宮門の坊主が師匠)

A 三間山円通寺が天台宗から臨済宗として改宗した時期に被る。

B 神子はその後に豊後の宇佐宮との交流を得ているが、ちょうどこの少し後で、三間山円通寺はなぜか北九州の宗像大社と寺社領争いで喧嘩をしており、その仲裁に千葉氏が入っている。(なぜ宗像市〜小城間に共有するような領地があったのか)(神道でしかも皇族の氏神である宗像大社と対等に喧嘩できる力がなぜ三間山円通寺にあったのか?)

C 実は 大友氏 VS 千葉氏 の背景には 二つの円通寺と、宇佐宮 VS 宗像宮 のような構図があったのではないか? だとすると、小城町三間山円通寺の歴史的価値は相当なものではないのか? いや、それ以外にも、小城町には仏教に関する偉人の通り過ぎた痕跡があまりにもはっきりと残っている。黄檗宗の潮音も岩窟和尚も。

D 最後に個人的だが、この頃の三潴郡には三池氏がいたはずだが、三池氏の中に井上姓を名乗った一族が確かにいた。この井上姓と三間山円通寺の守護職を担ってきた井上氏(自分のルーツ)との関係は?


皆さんの何らかのお力添えを待ってます・・・。
[18]鴨打具一さんからのコメント(2005年07月12日 19時01分23秒 ) パスワード

No15,田仲愛造さん代理の方へ
名前の読み方に色々ある・・との後返書、有り難うございます、
ご返事が送れましたのは昨年9月引っ越しをしました、
が、千葉市内なのにADSLが繋がらず、インターネットを一時中断していました、
然し、不便なので光にして再開しました、
いろいろな本や古文書等を調べ、源次の租・源融以降、関連氏族も含め、伝承なども加えて、現在B5判で350頁を超えました、
肥前小城の鴨打=鴨打胤宗含む・・の読みは「かもうち」です、
その確証は「太宰管内誌」に次のように書かれています、
「加毛宇知と訓むべし」
また、鴨打の謂われは
多久市の徳永行雄氏所蔵の「松浦氏大系図」松浦辞の子・理の条に
後鳥羽院宇上洛
 中略
叡感之余
賜鴨打氏任美濃守
と、あります。
前回にも書きましたように、全国の電話帳を調べて
蒲生の次に「鴨打」があり、鴨田の次には2件しか有りませんでした、
しかし、ルーツを調べて分かってきたのは、関連情報が見つかった時の喜びや
歴史の中の逸話など、学校の歴史には載っていない事柄を見つけた時の興奮は
何ともいえない楽しみですね、
[21]なんりさんからのコメント(2012年12月13日 21時29分51秒 ) パスワード

通りすがりです。

鴨打氏の城址について、情報提供します。
母方の実家の法事の際に、お寺さんの敷地内にあった看板を撮影したものです。『戦国時代の鴨打氏の城址』とあります。
https://dl.dropbox.com/u/65635340/s-SN3K0153.jpg

母方の先祖のお墓は、このお寺の中門?手前の右手すぐの所に、結構立派に立っています。昔からの檀家なのでしょう。このお寺と鴨打氏との関係は不明ですし、ましてや私の先祖との関係はなおさら不明ですが、意外なところで、つながりが見いだせてとても興味深いです。

因みに、母方の先祖も松浦党の一党で土着の豪族だったようで、龍造寺氏が旗揚げする際に助けたとの記録があるようです。古い地図には地名として残っているようです。
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