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 投稿番号:100612 投稿日:2004年02月03日 05時07分58秒  パスワード
 お名前:Yoshida-K
大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏

コメントの種類 :質問
本人によりコメントは削除されました。 2005年01月22日 14時28分18秒
[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 07時56分45秒 ) パスワード
  

お役に立つほどの情報はないです。。。


大蔵氏:
私の持ってる情報では大蔵氏は九州の名門で漢族です。
応神天皇の御世の帰化族・阿智使主12世の孫種材(たねき)に始まる。
播磨国明石から北九州へ。
子孫は日向国高鍋3万石、子爵。
その他の子孫に原田甲斐。


それから伊東系で原田氏というのもありますが
こちらは当然平氏ですね。

>原田氏の家紋「三つ引両」
確かに平氏で「三つ引両」の原田さんっていらっしゃいますね。


甲斐国の武田の家臣に平家出身の服部姓の武士がいて仕えてました。
ですから他に平家の武士が武田に仕えたというのは充分考えられます。

その前の南北朝時代に宗良親王を奉じて浪合村まで転戦してますから
甲斐に流れて永住した平家で南朝方の家というのがあったと思います。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 08時32分29秒 ) パスワード
  

私は全く土地鑑の無いところなのでネットで調べてみました:


信州と越後にまたがる秋山郷は、中津川渓谷沿いに点在する12集落からなる山間の秘境。
民家は雪囲いの木に囲まれ、山の斜面に狭い耕地が段々に開ける山里は、平家の落人の里ともいわれる。
全長10qにも及ぶ中津川渓谷には両岸に巨大な奇岩が並び立ち、雄大な渓谷美が素晴らしい。
冬、雪に覆われた渓谷は水彩画さながらの幽玄の世界となる。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 09時52分51秒 ) パスワード
  

上記補足:

平家の落人の里と言い伝えられる秋山郷は信濃川の支流である中津川上流に位置する越後7集落と信州5集落の総称。

[6]川口 信さんからのコメント(2004年02月03日 14時09分52秒 ) パスワード
  

>私もお役に立つほどの情報はないです。

 http://www.engineer.gr.jp/akiyama/  山梨県郷土史 原田・・・

 ここには『原田一族』の本の紹介があります。

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/hoi_01.html  戦国大名―補遺1
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/harada_k.html  武家家伝:原田氏

 http://www.him.ne.jp/channel/knowledge/surname/ha/  ハ行―その1
 
 上記は検索すると見つかりますのでご存知と思いますが。
 尾張群書系図部集には塙(原田)氏とあります。塙右近大夫−直政(重友、原田備中守)織田信長に仕える。春日井郡大野木城主。

 参考のところに塙氏は平氏にして先祖塙二郎盛 銙(朝の月をとった偏)より、代々常陸の国塙村の城に住す。とあります。
[7]Yoshida-Kさんからのコメント(2004年02月03日 15時53分21秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2005年10月09日 16時11分09秒
[8]小林雅成さんからのコメント(2004年02月04日 03時09分33秒 ) パスワード
  

Yoshida-K様(吉田さん?、芳田さん?)

原田氏はね、私が調べた岡山県内だけでも、細かい分類すると22種類も家紋つかってますねん。(研究会データベース、『岡山の家紋データブック』より引用)地名があるから(岡山県久米郡原田)とうぜんやろいわれるかもしれへんけど、やっぱ、多いですわ。

「日本紋章学」はね、それ以前の文献にとどまらず、沼田頼輔博士がご自分で調べたり手紙で教示されたりしたのものせているとおもいます。だからそれ以前の文献さがしてもでてきまへんっちゅうケースはあるんとおもいまっせ。

太田亮博士はね、デスク・ワークの人やったから、個々の家がどんな家紋つこうたかは若干の例外(山梨?の学校に勤務されていたときに諏訪地方のフィールドワークされた形跡など)除いて『姓氏家系大辞典』にそこまで希望するのは無理なんですわ。実際のところ。

丹羽基二氏はね、太田亮博士を乗り越えよう、乗り越えようおもうて野望抱いてはったんやけど、過去諸般の事情があって、結局角川書店の『姓氏家系大辞典』を超える薀蓄もりだくさんの辞典を刊行することはできなかったんですわ。新人物往来社の『姓氏家系大事典』は、外見で角川書店の分の四分の一から5分の一ぐらいのボリュームしかありまへんで(苦笑)なのに1万円以上する(^^;;)だれが買うんやろ?もっと安う売れば売れるんちゃうかなと思うのはなにわのあきんどのおせっかいでしょうか(^^)

と、いうことで、無料で知りうるのはその程度とちゃいますかと家紋分類屋(紋章学者とも言う(^^;))の私はそうおもうのでした。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月04日 03時11分45秒 ) パスワード
  

川口さま
さすが!



>丸に揚げ羽蝶は公家平氏も使っていて、
>日本紋章学の蝶紋の説明をみると
>「雲上明覧」に蝶紋をつかった公家平氏に西洞院、平松、長谷、交野、石井の家があり、
>西洞院、平松、石井が丸に揚げ羽蝶を使っていると書いてありました。


これは別スレッドの妹尾家のところで話題になってる家々ですね。
(あちらにも書き込ませて頂きますね)
これらの家は平時忠卿の(いとこ?の)系統ですね。

そうするといよいよ・・・と別スレッドの空想が膨らみます。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月04日 03時32分49秒 ) パスワード
  

>私が調べた岡山県内だけでも、細かい分類すると22種類も家紋つかってますねん。

岡山だけでも22種類ですか。
揚げ羽蝶のバリエーションなら平家かな?と連想が行きますが
(平家の人って対外的にあんまり平家って、と思うのです。伊勢伊賀じゃ胸を張れるでしょうけど)

ホントに家紋から探るというのは難しいですねえ。
[11]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月04日 21時13分48秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

堂上平氏の丸に揚げ羽蝶
びっくりしますねーーー

そういえば、平松家には『平家物語』平松家本が伝わってますから、意外と自分達が平家の一族であるということに誇りを持っていたのかもしれませんね。
代々公卿で、中には権大納言やら中納言等もつとめている人もいる家ですから、江戸時代には平家であることが大変名誉なことだったのではないでしょうか。

時忠に比べたら、地味な存在ですが、信基ってある意味時忠より偉大です。
(『平家物語』で信基を時忠の子息と誤記しているところに何か特別な意図があるように感じてしまいます。)
[12]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月05日 02時12分59秒 ) パスワード
  

Yoshida-K様

西洞院家の甲斐守というのは室町時代の時基のことでしょうか?
余談ですが、おそらく時基と同じ頃の人と思われる人に安居院知信という人がいますが、この人も甲斐守ですね。
(堂上平氏は南北朝時代に安居院と西洞院に分かれています)
南朝と北朝が一応一つになり、そして応仁の乱が起ころうという丁度そのころの人達と思われるので、親戚の烏丸家はバリバリの南朝ですし、ギャンブラー様が[1]で仰ってる甲斐に永住した平氏を、もしかしたら庇っていたかもしれませんよね。
って、話が飛躍しすぎてしまいました。申し訳ありません。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月05日 02時26分43秒 ) パスワード
  

>(『平家物語』で信基を時忠の子息と誤記しているところに何か特別な意図があるように感じてしまいます。)

>>『平家物語』で信基を時忠の子息と
そうなんですか?
気がつきませんでした。


>>何か特別な意図があるように感じてしまいます。
昔はゆうし(融子?)でしたか
義親子の契りとかやってましたから(義兄弟はもっと多いですよね)
やっぱり信基と時忠が義親子ごっこをやったというのはアリかもですね。

信基にすれば時忠卿の子になっておけばいよいよ天皇家に近くなって「得」ですから。


いやあ〜
いよいよ妹尾家との関係が浮かんできます。
[14]Yoshida-Kさんからのコメント(2004年02月06日 05時13分24秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2005年05月20日 00時42分36秒
[15]小林雅成さんからのコメント(2004年02月06日 20時59分15秒 ) パスワード
  

Yoshida-K様

>なぜか氏姓本に載っていませんね。
明治以前の古文書が存在するとか、それ以降に調査が行われていれば、載りますが、そうでなければ、地方の交通の便が悪いところはほっておかれるのが現状ですね。まごびき、ひまごびきが多いですよね(^^:)

>明治以降に苗字の許可と共に家紋も増えたからかな・・?
これはね、やはり地方により異なります。全国共通の物差しなどないとおもってたほうがいいかも(^^)ちなみに江戸時代、名字は公称禁止やけど、家紋は葵以外はその藩の大名のでもないかぎり禁止じゃないからね、それ、わかっとらん人がぎょーさんいてはります。

>南都留郡の調査は無いような・・
なくても県庁所在地の甲府にはでているでしょ?多分。他の道府県ではよくあるケースやから。原田家が山梨県のデータににあるかどうか確認してみたら?

私事ですが、引越しと東京出張のため書き込みできません、よろしく!

[16]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 02時02分11秒 ) パスワード
  

Yoshida-K様
小林雅成様

 家紋については分かりませんが、小林雅成様の言われていました、岡山の原田氏はれっきとした「平氏」として有名です。

 子孫には菅家(有元氏)と縁組みから菅家七党の原田氏として後醍醐天皇の船上山の直後元弘3年4月京都の「四条猪熊の戦い」で壮絶な戦死をしています。大正年間に贈位の恩典がなされています。

知られている系図では、「桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
文禄年中に平(原田)弥右衛門衛門忠佐の退城の時まで17代の470年に亘る存在です。この様なことですので、子孫の方や原田氏に属した関係諸氏が多く居られます。

岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。



[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 ) パスワード
  

小林さま

引越し、大変ですが頑張ってください。



ときおさま
>岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。

岡山は南朝の勢力が莫大だったように感じます。


でも尾張でも南朝方の根拠地「津島神社」の目と鼻の先に「妙興寺だったかしら北朝方の根拠地」がありました。
これに気がついてから「目と鼻の距離で敵と対抗してたんだなあ」と思いました。(適切な表現が分からないです)

まるでヤクザのシマ争いみたいだったというのが現状だったのかしら?と。
で、時おり、チャンチャンバラバラやってたのかしら?と。
こんな風にイメージが変わりました。


>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。

バリバリの平氏ですね。
そうしますと大蔵氏系とは異なるようですね。

でも原田種直のママは頼盛の娘ですから半分は平家。
この関係が分かるといいですね。
[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
 
 肥前原田因号原田次郎
 天喜五年春叙五位下
 任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任 
 康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命



「忠次」は
 忠高長子康和元年卒


「忠仲」は
 忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
 有功同年4月卒

「興方」
 忠次三男嘉承二年任左衛門尉
 保安四年二月藤原仲時殺高科師春
 仲時被収繋座連及興方遂配作州
 保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)

*以上の様に記述が有ります。大蔵氏との関わりはどうなんでしょうか。

[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 08時27分59秒 ) パスワード
  

岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。

平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。

でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。
その後平正盛に従い義親追討。


ここで伊勢の平家と親しくなって後には南朝方。
分かり易いです。


それに塙氏のように「原田備中守」の名乗りを織田信長に頂いたように原田備中守は名門なんですね。
素性がハッキリしている。


でも九州にいたから大蔵姓原田氏とも関係があったでしょうね。
ちょっと調べに行ってきます。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 09時10分19秒 ) パスワード
  

備中の原田氏は別姓・藤原ともいう、という説明を見掛けましたが


>「興方」
>忠次三男嘉承二年任左衛門尉
>保安四年二月藤原仲時殺高科師春
>仲時被収繋座連及興方遂配作州
>保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

この藤原仲時という人物を調べていたら↓こんな記事がありました:

http://www.asahi-net.or.jp/~ne4k-tgc/kanda/030620/030620.htm



獣医師の始祖  by 桑島 功

わが家は大祖父の明治初期の代から、船橋で動物病院を営み、私はここで生れ育った。
私の少年時代には、五,六人の職人が出入りしており、牛馬の蹄鉄を装着する装蹄師を兼ねていて、
朝からトンテンカンと庭先で鉄を打つ音を響かせていた。 

獣医師の始祖となると、初代として伝えられるのが804年に遣唐使として唐に渡った平仲国(たいらのなかくに)である。
史書によれば、仲国は唐の馬師皇に馬医の術を師事したほか鍼灸を学び、帰国後その技術を諸国に広めた。

戦国時代に仲国の子孫藤原仲時の時代に、姓を桑島に改めた。


みごと平と藤原がこんがらがってますね。(笑)
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 09時20分08秒 ) パスワード
  

川口さまからの情報で:


>源平のころ、原田種直が大宰少弐となり、平重盛の女婿として平家のためにおおいに気を吐いた。
>しかし、平家没落とともに没落した。

そうしますと原田種直の母は頼盛の娘で妻は重盛の娘。
平家とは何重にも固められてますね。
種直の子は75%平家の人間ですねえ。事実上は平家になってしまいますね。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 09時35分08秒 ) パスワード
  

同じく川口さまの情報から:


>原田という地名は、全国各地にあり、
>この地名を負い発祥した原田氏の流派は複雑多岐に亘っている。

>次に全国原田氏を流派別にみると、
>甲斐の原田氏、
>藤原南家工藤氏族の原田氏、
>平姓三河の原田氏、
>大蔵姓の原田氏、
>天草の原田氏、
>桓武平氏の原田氏、
>豊島の原田氏のほか、多くの原田氏がある。


甲斐の原田氏は、山梨郡下岩下村(東山梨郡春日居町下岩下)と、巨摩郡西郡筋鰍沢村(南巨摩郡鰍沢町)の名族といわれているけれども、その発祥・出自等は明らかではない。

次に山梨県下の原田氏と関連があるのではないかとみられるのは、藤原南家工藤氏族の原田氏である。
この原田氏は遠江国佐野郡原田庄の発祥で、原田という地名は、天慶(938〜46)と正安(1299〜01)年代の文書に載せられていると、姓氏家系大辞典は載せている。この流派を尊卑分脈による工藤二階堂系図にみると「原工藤太夫維仲-出羽権守師清-遠江権守清仲-清延(原田権守)」と載せてある。
佐野郡原田庄に隣接して孕石村があり、同じ藤原南家工藤氏族の孕石氏は、この地の発祥で、原田氏と深い因果関係にある。原田庄の領主原左衛門尉忠泰の玄孫忠頼の弟高忠が原田庄孕石村(静岡県掛川市孕石町)を領し、孕石を氏にしたのが始まりとされている。その七世の後孫讃岐守光尚は、今川義元に仕えたが文武に秀で、功が多かったという。光尚の男主水佑元泰は和泉守に任ぜられ、その後武田信玄、勝頼二代に仕え、高天神城を守った。元泰の子は元成で、父に同じく武田家に仕えた。甲斐国志は武田家臣に孕石忠弥という者がいたと載せているが、原田氏との関係等明らかではない。


次に平姓で三河の原田氏も山梨県下の原田氏と関係があるのではないかといわれている。この原田氏は三河(愛知)の豪族で、原田次郎太夫種直の後裔であると伝えている。


ふぅ〜む・・・
南朝方だなあ〜という印象を感じます。
そうすると元は平家だなあ、と。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月09日 03時11分02秒 ) パスワード
  

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100236_37.html

に菅家流粟井氏からの書き込みが出ています。


南北朝の時代
後醍醐天皇の旗の下
結集したというのが読めますね。

でも北朝方に寝返ったり
そういうのも読めて来ますし
ああ、日本の歴史を生きたんだ、と感慨深いものがあります。
[25]Yoshida-Kさんからのコメント(2004年02月11日 13時11分01秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年02月11日 13時12分26秒
[26]Yoshida-Kさんからのコメント(2004年02月11日 13時13分59秒 ) パスワード
  

改行を間違えてしまいましたので修正です。

色々な情報ありがとうございます。

>家紋については分かりませんが、小林雅成様の言われていました、岡山の原
>田氏はれっきとした「平氏」として有名です。

>子孫には菅家(有元氏)と縁組みから菅家七党の原田氏として後醍醐天皇の
>船上山の直後元弘3年4月京都の「四条猪熊の戦い」で壮絶な戦死をしてい
>ます。大正年間に贈位の恩典がなされています。

この原田氏を知る詳しい資料はどのようなものがありますでしょうか。
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月11日 13時43分58秒 ) パスワード
  

Yoshida-Kさん

もっと多くの情報が集まるよう検索し易いようにタイトルをちょっと変更してみますね。
どなたかから大蔵氏系原田家など情報が来ますように。
[28]田中愛造さんからのコメント(2004年02月12日 03時08分42秒 ) パスワード
  

寛政譜によると。
 平氏支流原田 藤左衛門種成が時嗣なくして家たゆ。庶流原田権兵衛種茂が今の呈譜に、大蔵氏にして阿多倍十九代の孫春種(寛永系図秋月譜に、対馬守春実に作る)筑前国御笠郡原田村に住せしより、子孫原田を以って家号とす。其後裔原田次郎大夫種直、平相国清盛につかへ、太宰少弐となる。平氏没落のとき囚人となり。鎌倉に在り。数年ののち頼朝将軍種直が弓馬の術に長ぜるを惜しみ、赦免ありといえども故郷にかえる事を恥じて、三河国久木村に閑居す。種支はその末孫なり。
一、種友家(種支、三河足助450石)家紋 丸に三引
二、種重家(三河加茂(400石)家紋 丸に三引 重桔梗
三、種貞家(遠江横須賀750石)家紋 丸に三引 八重桔梗
四、種守家(神田の館200俵)家紋 丸に三引 重桔梗
五、種春家(武蔵・下総・伊豆内600石)家紋 重桔梗 丸に三引
六、種盛家(300俵)
七、種信家(250俵)
  この内種友家は絶える。大蔵原田氏は99%種の名を使う。
 



[29]田中愛造さんからのコメント(2004年02月12日 18時24分16秒 ) パスワード
  

塙(ばん・はなわ)平氏支流 原田
 家傳を按ずるに、平氏にして先祖塙次郎盛幹(朝=夸)より代々常陸国塙村の城に住す。其の後胤右馬允(初名二郎)頼重にいたり、康安の頃斯波家に属し、尾張国春日井郡山田庄にうつり、大野木熊野小田井豊羽等に住す。これより連綿して重友にいたる。重友(喜三郎・左衛門佐・従五位下・九郎左衛門後備中守直政に作る。)
 織田右府信長に仕え尾張国大野木を領す。(略) のち宇治真木島城主、終身原田を称す。
重友(直政)−安友(直安)−宗安(罪あり追放さる)家紋 丸に万字
頼安(直篤・安友の子)−直貞ー直利=直章(梶川頼照三男)=直方(舟橋玄恂三男)=直堅(舟橋玄篤の男)ー直博(寄合・500石)家紋 丸に州浜・二瓶子・瓜の内に揚羽蝶
直昌(略す)家伝(直政五代の孫・寛永系図は藤原の支流とし、寛政譜は平姓といい、その呈譜に載る先祖の出所等大同小異ありてその姓氏のごときもいずれか是なることを詳にすることあたわず。故にしばらく(中略)藤原の支流に收む。)家紋 丸に州浜・丸に万字                        とあり。
 然るに、塙氏は桓武平氏常陸大掾氏族と云われ、又、桓武平氏千葉氏族海上氏末裔とも云われるが、千葉・東・海上各氏からの形跡は見受けられない。因みにこの氏族は、月に九曜・九曜に菊・満月です。千葉氏は常・胤の字が通字ある。
 三浦氏支流 会津光盛ー泰盛ー盛宗(海上次郎)なら多分ピタリと来るのだが?
[30]田中愛造さんからのコメント(2004年02月13日 01時29分38秒 ) パスワード
  

山梨県姓氏大辞典(指したる情報は有りません)
  甲斐では、天正起請文に、遠山衆の原田仁兵衛(二兵衛)、城織部同心の原田五右衛門、井伊兵部同心前土屋衆の原田又右衛門、蔵前衆の原田織部。
 原田二兵衛は天正10年徳川家から山梨郡立2貫700文本領安堵手前作7貫文本給安堵、子孫は山梨郡下岩下村に住す。又、天正17年甲斐検地のとき、奉行をつとめ、各に7ヶ条の定書を発給した原田佐左衛門種雄がいる。近代で都留郡秋山村出身の原田善左衛門がいる。(略)代々庄屋名主役。【山梨鑑】に南巨摩郡本建村の本泉寺住職原田海晴が載る。県内498戸。秋山村・甲府市に多い。(丸に片喰・丸に橘)
  
[31]Yoshida-Kさんからのコメント(2004年02月13日 02時15分57秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2005年10月09日 16時09分40秒
[32]小林雅成さんからのコメント(2004年02月14日 17時08分53秒 ) パスワード
  

Yoshida-K様へ

>この原田氏を知る詳しい資料

美作菅家党の原田氏は、簡単なのやったら小生の『岡山の家紋データブック』があるし、詳しいのは岡山県立図書館いって文献を調べなはれ!ネットで調べれるなんて所詮は一部よ〜ん(^^)
原田氏は、同じく久米郡の秦氏との対立関係から、背後をかためるために菅家と親戚になったんよ。

[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月15日 05時08分34秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

お帰りなさい!

>原田氏は、同じく久米郡の秦氏との対立関係から、背後をかためるために菅家と親戚になったんよ。

面白いですね。
私はこういう政治力学の動きってワクワクするんですよ。
[34]小林雅成さんからのコメント(2004年02月16日 20時23分58秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

かえりました。

>私はこういう政治力学の動きってワクワクするんですよ。
権謀術数のどろどろは私はあんましすきくないです。
当該世代の男と女がワンペアー、好きでもないのにいえの力学で一緒になるんですからね。他人の話ならいいけど、ギャンブラーさんも好きでない人と一緒に暮らせっていわれたら息が詰るでしょ?(^^;)
[35]立梶の葉さんからのコメント(2004年05月25日 10時50分06秒 ) パスワード
  

こういう部屋があるとは知りませんでした。
高棟王流の公家平家諸流は、たしかに揚羽蝶や
丸に揚羽蝶の家紋を現在も使用しています。
西洞院家の庶流になる当家では、理由はよく
わかりませんが、立梶の葉というのでしょうか、
その紋も揚羽蝶と併用しております。
[36]静岡人さんからのコメント(2004年06月21日 03時00分37秒 ) パスワード
  


こんにちわ。上のほうに
>原工藤太夫維仲-出羽権守師清-遠江権守清仲-清延(原田権守)」
とあるのは今の掛川市ですね。

そこには原田という地名があり、原田さんが比較的多いようですが、
家紋は何を使っているのでしょうね。
[37]小林雅成さんからのコメント(2004年06月22日 19時45分42秒 ) パスワード
  

静岡人様

>家紋は何を使っているのでしょうね。
今年6月に発行された柏書房の『都道府県別 姓氏家紋大事典』に静岡県原田氏の数種類の家紋名が掲載されております。
東日本編の852ページをご参照ください。


[38]小林 春夫さんからのコメント(2004年07月25日 14時11分48秒 ) パスワード
  

江戸時代の越後高田藩榊原家の家老に原田の名があります。
天正18年徳川家康(権現様)の命により館林時代の榊原康政の時、家老に成ったそうです。その書面には、「本国筑前於参列 原田権左門種正 初名又十郎」記載されています。家老の原田家の分家で原田帯刀、第二次長州征伐で戦死しており、その正式の名が「原田帯刀大蔵種敷」と有ります。種と大蔵の名を使用しているので、天正15年豊臣秀吉より取り潰しに合った大蔵系の原田家と思われる。
今 この種正が高祖城の本家の流れなのか、高祖城時代の分家、それとも筑前国から三河国をへての原田家なのか調査しております。
もし 判る方がおられましたら、教えてください。
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年07月25日 16時38分04秒 ) パスワード
  

東三河のすごい山の中に原田さんとおっしゃる名家があったと記憶してます。
設楽か・・・あっちの方です。

前々からここの御先祖さまはどなた?と思ってましたが小林さまの書き込みで(おー、なるほど)と納得です。


戦国時代家康がまだ織田信長の下にあった時に活躍してたような印象を受けてます。
[40]かしわやさんからのコメント(2004年07月27日 23時17分49秒 ) パスワード
  

みなさまへ

お久しぶりです。
村の先祖をまつるお役目をこの夏に引き継ぐ事になり
一応、瞑想とかしています。
(といっても一度、儀式とか途絶えてて
ほとんど伝わってないから
特になにするわけでもないんですけどね)

>上記補足:

>平家の落人の里と言い伝えられる秋山郷は信濃川の支流である中津川上流に位置する越後7集落と信州5集落の総称。
上を読んでいてドキドキしてしまいました。
我が家も隠れ里(というより海賊兼水軍の塒?)みたいな所に
すんでいるので落人の里とかって言われてます。
(実際は海賊の貴種への憧れかと思いますけど)

その村は淡路島にあって「なかつ」村といいます。
(ある本では昔々の言葉であ=天 わ=地 と言う事で
天と地との道の島という意味という解説をしていました。)

ネットで知合った遠い親戚かもという人の村にも
確か「なかつ」という地名があったような…。

中津国(字があってるかとっても不安^^;;)って
確かこの世という意味ではなかったでしょうか?

もしかしてこの世で頑張ろうぜという意味だったのか
はたまた単なる偶然なのか…。

では、失礼します。
[41]Yosida-Kさんからのコメント(2004年07月31日 01時40分00秒 ) パスワード
  

>東三河のすごい山の中に原田さんとおっしゃる名家があったと記憶してます。
設楽か・・・あっちの方です。

苗字舘
http://www.climbcom.com/m/bunpudetails/0052.html
を見ますと、3位や5位がきっとその三河の原田さんですね。

寛政家譜 第9 p409〜には
鎌倉で囚われ後に三河国久木村に閉居す(かなり略しています)。とあり、大蔵系種直の末裔のようですね。他にも足助に住むなど。

大蔵系ですかね。家紋は何を使われているのでしょうね。
[42]Yosida-Kさんからのコメント(2004年07月31日 01時54分47秒 ) パスワード
  

>寛政家譜 第9 p409〜には
>鎌倉で囚われ後に三河国久木村に閉居す(かなり略しています)。
>とあり、大蔵系種直の末裔のようですね。他にも足助に住むなど。

[28] 田中さんにすでに詳しく述べられていました。三河と言うことで、この関係でしょうか。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年07月31日 10時43分43秒 ) パスワード
  

「苗字館」http://www.climbcom.com/m/

これ面白いですね。
独立してスレッド立てますね。
ありがとうございます。


なるほど東三河に多いようですね。
代々凄いお家だったらしいという雰囲気は受けてましたし
家康の伝記にも三河の豪族原田氏が出て来るので何者なんだとは思ってました。
[44]田中愛造さんからのコメント(2004年08月01日 01時28分51秒 ) パスワード
  

 確証も得られずにコメントするのを躊躇って居りましたが、私なりの推測を致しますが間違いはご留意下さい。
 先ず、端的に云って、高祖系の原田氏は別名・別称が多く理解が困難ですが。
 原田隆種高祖城主の子(1種門2種吉3繁種4親種)があり生き残った種吉が親種の子信種に跡を継がせ、その子嘉種が会津保科正之に仕え弐千石を食む。弟の種房も二百石で会津藩士、嘉種の子種長より9代種英までを、高祖系(本家)と考えます。
 徳川家康は榊原康政に36人の家来を与え、其の筆頭格が権左衛門種政で、藩主康政も又三河の出であります。しかし三河の籐左衛門種友(種支)系の旗本12家には種政や父種高の名が出てこない。三河には源左衛門家、権左衛門家、籐左衛門家と多く又、同姓同名が多いのも難題の一つと考える。更に、権左衛門や種正も各所に見られる。且つ又、松平廣忠家臣としての同系原田(種)系や佐賀藩士の分流も見られ、大蔵原田の家系は膨大すぎてこの場では書けない。ただ種正に関係する事は、館林ー姫路ー村上ー姫路ー高田にと藩の移行により越後で明治をむかえたので、越後の原田氏家紋を調べると、丸に三つ引紋・九曜紋とある。
[45]田中愛造さんからのコメント(2004年08月01日 02時08分09秒 ) パスワード
  

訂正・・原田嘉種の弟・種房は五百石でした。
 尚、会津藩や高田藩の給帳・分限帳を調べれば子孫や一族の姿が見えてきます。
[46]小林 春夫さんからのコメント(2004年08月02日 14時28分28秒 ) パスワード
  

田中愛造様 コメントありがとうございます.
貴殿の推測では種直(源氏から放免後,三河国久木村住)の流れではと、私も同意見です。
権左衛門種政は種正の事でしょうか?
種正の父は種高なのですか?
越後高田の図書館での調べで、「本国筑前於参列 原田権左門種正 初名又十郎」と記載されている分で、「本国筑前於参列」は種正自身の生れた所、それとも種正の先祖の地を指しているのでしょうか?
本家の原田家が豊臣秀吉から取り潰しに有ったのが天正15年.榊原家の家老に賜ったのが天正18年、年代から見て取り潰しに有った後、一族の一部が家康に仕官したのでは当初、私は推測したのですが、福岡の金龍寺、及び福岡市図書館の資料を見てその時代、家康との接触は朝鮮征伐が始まるまで、無かったのではないかと、推測できるので福岡の原田家の流れではないと思われる。
福岡市図書館の資料に「大蔵朝臣原田家一族忠臣旗頭名簿」に原田次郎左衛門種正と記載されている。他に寛永年間 徳川の旗本で原田種正800石(三河久木、種友の流れ)と資料有り。両方ともフルネームと時代的に違うので、榊原家の家老の原田家と違うと判断できます。

[47]Yosida-Kさんからのコメント(2004年08月03日 19時01分37秒 ) パスワード
  

下記のページを見つけました。興味深く読みました。
大蔵一門 原田氏
http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.index.htm

愛知(三河)の大蔵系が話題になっていますが、上のほうで藤原氏系の原田氏は掛川市で栄えた原氏の系統であると言うことも話題になっていました。ところで大蔵氏ではない原田氏は他にどのような系統があるのでしょうか。

桓武平氏原田氏がどこから出たものなのか、どなたかご存知でしょうか?
[48]田中愛造さんからのコメント(2004年08月04日 03時02分24秒 ) パスワード
  

小林春夫様
 私事で忙しく、ご返事遅くなり済みません。
 種高−種政(権左衛門)ー種治と、私は理解致して居りますが余り確証が無く違いが有れば御留意の程を願います。大蔵原田氏は98%本国筑前にして通名(種)の字を使っており、全国に分派したるも、小林氏のおっしゃると通り先祖を指してるものと解釈が正しいと思います。高祖城・高祖神社・金龍寺に於いての資料や高祖城主原田家累代の墓も在りますが、本家信種は小早川隆景の来攻に無血開城後、慶長3年朝鮮で戦死し、領地没収・高祖城廃城で子孫・家臣は、会津保科や黒田・小早川・鍋島等に仕え、終わりを告げております。
 然るに、寛政譜を見ると、(大蔵氏にして和泉守種次清康君に奉仕す。)とあり。種次(和泉守)−重種(和泉、廣忠卿に仕う、三河没)−景種(九郎左衛門、東照宮に奉仕し慶長19年三河没年85歳)−種正(勘兵衛、12歳御小性勤後に大番組頭加増八百石慶安2年没)ー種延(勘右衛門、普請奉行)−種要(源八郎、御納戸頭・寄合)=種春(兵部、西城御先弓頭)−種殖(兵左衛門、)−種收(兵五郎)ー種昌と云う家も在り。家康の先々代よりの関係を現している。之も根っからの三河国人と考えると、種直系の一族は古い時代から三河に存在した事の証かも知れません。

yosida-k様
 暇潰しのギャンブラー様が先にご説明されており、多分重複するのでさしひかえます。尚、誤りも多く見られるものの最も詳しいのが(姓氏家系大事典)図書館にあります。お調べください。
[49]Yosida-Kさんからのコメント(2004年08月07日 01時33分59秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年08月07日 01時35分00秒
[50]Yosida-Kさんからのコメント(2004年08月07日 01時36分27秒 ) パスワード
  

大蔵原田氏は多いですね。

大蔵姓ではない平家方の原田氏について
[16]にときおさんが書かれている平忠常の5男から始まり、
岡山の稲荷山城主原田興方までについてかかれていますが

中央町役場公式ホームページにもありますね
>保安5年(1124年)原田左衛門尉興方が原田に稲荷山城を築き、以後
>468年間勢力を張り、文禄元年(1592年)17代で亡んだ。とありま
した。

17代がどのような者であったのか興味が出てきました。
何か詳しい資料などは存在するのでしょうか。

今度岡山に関する資料を見てみようと思います
[51]吉田家末裔さんからのコメント(2004年08月12日 23時33分04秒 ) パスワード
  

大掾氏族の末裔に吉田氏とありますが、それは現在福島県田村郡に所在する吉田氏、影山氏と何か関係があるのでしょうか?吉田氏の家紋も三亀甲に胡瓜の花という変わったもので、何か落ち武者伝説を抱えていると言う話も聞いたのですが・・
[52]ときおさんからのコメント(2004年08月14日 04時35分48秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年08月14日 04時38分01秒
[53]ときおさんからのコメント(2004年08月14日 05時09分00秒 ) パスワード
  

Yosida-K 様
改行で文が乱れましたましたので、やり直ししました。オリンピックのLIVEを見ながらでしたので。

>原田氏17代がどのような者であったのか
以下は知られているものでの概略です。原田家の家老家の子孫から出た資料のよう
です。江戸時代に出た「作陽誌」ですので、すべて漢文調です。

4代忠廉(門)は菅原・有元(三穂太郎)満佐の第五子
5代忠頼の子「原田三郎佐秀」は元弘三年、菅家一門として京都四条猪熊戦で戦死
7代頼勝は 元弘元年属官軍入笠置城、建武三年従尊氏有戦功 
8代忠勝の母足利次郎左衛門氏夏女、建武四年承将軍命討備中国三村山城守秀仲斬
9代忠平の母は有元菅四郎女
10代原田政平は越尾式部少輔持近の次男幼名菅原菅大夫、応永五年伊賀守応永八年
 家督相続原田三河守平正改


15 平 原田 貞佐 忠長子初名小次郎後改三河守晩備前国福岡之戦傷左足世
            曰無足三河者遙此天正十四年十二月卒法諱伝徳院月山道
            源誕生寺有墳
16 平 原田 行佐 貞佐子号三郎左衛門属宇喜多麾下天正廿年四月卒法諱西
            方院山及巖宗徳稲荷山山麓有墳
17 平 原田 忠佐 行佐子号彌右衛門朝鮮之役家奴因酔相闘撃行隊騒擾秀吉
            怒犯軍禁責忠佐卒使放還作州忠佐失志没世不復出元和七 
            年九月卒諱寂静院月窓浄教西幸村有墳忠佐子依父遺命出
            家称願誉住誕生寺
 三河守家司池上内蔵助子池上十右衛門妻者貞佐娘也十右衛門末成農在此村伝系譜
 文義繁多其間有少疑者今摘其要書此

*天文12年?山名氏兼の攻撃に落城し原田忠長(14代)は自刃し、忠長の子小
 次郎貞佐は家老池上内蔵助と共に逃れています。
 原田貞佐は宇喜多氏に随身して再興し稲荷山城主と成った。その子三郎左衛門
 行佐、孫の弾左衛門忠佐は朝鮮在陣仲に不首尾によって秀吉の命により作州に
 放還され、ここに原田氏が滅亡するに至ることがわかります。

田中愛造さんからのコメントの「高祖城主原田家、本家信種は、慶長3年朝鮮
で戦死し、領地没収・高祖城廃城で子孫・家臣は、・・・・・等に仕え、終わりを
告げております。」と 何か似た話ですね。当地にも朝鮮釜山浦で病死した領主が
います。やはり、慶長3年ですね。跡継ぎが無かった為に多くの家士は帰農した
と云われています。しかし、跡継ぎはいたらしいですが歴史の闇に消えています
(宇喜多秀家や加賀前田家の豪姫がらみで・・・。)。

*追記 15代のところの誕生寺は、教科書に出てくる法然上人の誕生の地です。
[54]Yosida-Kさんからのコメント(2004年08月14日 12時26分18秒 ) パスワード
  

ときおさん

これはすごい。書き出すのは大変だったでしょう

何か一族の最期までを見ていくと、色々思うことがあります。
家が末長く続くことは大変なことです。

>しかし、跡継ぎはいたらしいですが歴史の闇に消えています
色々考えます

確か菅原からも原田が出ているので、混乱しそうです。
[57]雪路さんからのコメント(2005年01月20日 00時41分36秒 ) パスワード

種直に関しての質問です。

寛政譜に
筑前国御笠郡原田村に住せしより、子孫原田を以って家号とす。其後裔原田次郎大夫種直、平相国清盛につかへ、太宰少弐となる。平氏没落のとき囚人となり。鎌倉に在り。数年ののち頼朝将軍種直が弓馬の術に長ぜるを惜しみ、赦免ありといえども故郷にかえる事を恥じて、三河国久木村に閑居す。
とあります。

しかし、HARIMAYAには
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/harada_k.html

開放された種直は、源氏に味方して家を保っていた弟種成を頼って早良郡へ行き、のちに頼朝より怡土庄の地を与えられてささやかながら復活をとげた。とあって三河との繋がりがわかりません。

三河の原田氏はいつから栄えはじめたのか、種直は本当に三河に放免で来たのでしょうか。
[58]雪路さんからのコメント(2005年01月22日 14時26分28秒 ) パスワード

種直の室は重盛の娘でしょうか?
それとも頼盛の娘でしょうか?
あるいは頼盛の娘で重盛の養女でしょうか?

寛政譜などで三河の原田氏は平姓になっていますが、平姓を
賜っていたのでしょうか?

[59]Haradaさんからのコメント(2005年03月11日 20時21分30秒 ) パスワード

私は岡山原田氏の子孫です。
17代忠佐の子は誕生寺へ出家。その子は誕生寺の名高い僧「願誉」となりました。
(歴史上でも有名な僧らしいですよ)
願誉には子がいなかったと思われます。
その後の原田家は忠佐の兄弟が継承しました。土地の大庄屋として栄えたそうです。
現在も稲荷山城近くの地で原田家は続いています。
法然上人の誕生の地、誕生寺。小さい頃に毎年お参りへ行っていました。
今、思い起こせばここに私の先祖の墓碑があったんですよね。(15代三河守貞佐の墓です)先祖代々の古文書等は戦災や火災により、焼けてしまったようです。
年を重ねるにつれて「自分のルーツ」を知りたくなり、そしてたまたまこのHPを
見つけました。あまり更新されていないようだけれど、思わず書き込みしてしまいました。
歴史ってすごいですよね。まだもう少し、自分の先祖の事を詳しく調べてみることに
します。
[60]平常心さんからのコメント(2005年03月15日 03時57分17秒 ) パスワード

岡山原田さんはじめまして。
今後も参考にお付き合いいただければ幸いです。

絶えてしまったわけではなくて継がれているということで何よりです。

勉強不足ではありますが、私の把握している範囲では、
美作原田氏は作陽誌では千葉の平忠高が九州に下り、

忠高-忠次-忠仲-興方-忠光-光興-忠門と続き、

この忠門は美作菅家の養子となったと云われていると認識しています。

菅家七党では

-4忠門-5忠頼-6頼興-7頼勝-8忠勝-9忠平-10政平
              -?忠行-?忠文-?忠長
                  -15貞佐-16行佐-17忠佐

となっているようですが、1代から3代は誰を指すのか、また11代から
14代までで1名足りないので、誰なのか知りたいと思っています。

岡山原田さんは沢山家紋を使用されているといいますが、何が伝わっ
ておりますか?

岡山の原田氏には歴史の中で沢山分家があったとおもうので、
もう少し実態を知りたいなと思っています。

[61]平常心さんからのコメント(2005年03月15日 04時39分48秒 ) パスワード

自己レス

>中央町役場公式ホームページにもありますね
>>保安5年(1124年)原田左衛門尉興方が原田に稲荷山城を築き、以後
>>468年間勢力を張り、文禄元年(1592年)17代で亡んだ。とありま
>した。

1代から3代は興方-忠光-光興なようですね。
すると

1興方-2忠光-3光興-4忠門-5忠頼-6頼興-7頼勝-8忠勝-9忠平-10政平
              -?忠行-?忠文-
                14忠長-15貞佐-16行佐-17忠佐
となるのでしょうかね。
[62]菊千代さんからのコメント(2005年03月31日 06時24分34秒 ) パスワード

初めまして。
Googleで原田氏を検索していたらこちらへ辿り着きました。
私の実家は高祖城のあった怡土で、先祖は原田氏の家臣でした。
原田(はるた?)氏の落城後の行方を追っています。
 
原田家譜「霊光史略」によると原田種直の室は重盛の養女(右馬助平家盛の娘)となっています。
この家盛という人物は清盛の弟で、早世したとか源平合戦を逃れたとかちょっと伝説的な人物ではあります。
頼朝が池の禅尼に助命されたのも、我が子の家盛によく似ていたからだとか。
[63]平常心さんからのコメント(2005年03月31日 11時41分42秒 ) パスワード

元弘三年、太平記に5代忠頼の子「原田三郎佐秀」が菅家一門として京都四条猪熊戦に見えますが、このとき既に美作の原田氏は一族勢力を広げていたのでしょうか。
[64]はらださんからのコメント(2005年09月05日 18時35分19秒 ) パスワード

皆さんこんにちは。
愛知県三河の山奥で生まれました、原田です。先日実家の物置で昭和27年に発行された当地の歴史変遷書を見つけ、ご先祖探しにはまってしまいました。
本書の中に当地に伝承として残されてきた話しがいくつか紹介されており、その中にこんな話しがありました。
「大名倉柴きり伝説」・・・平家が壇ノ浦に滅びてから7年目の建久元年(1190年)の事。山また山の段戸山中大名倉の谷に一条の炊煙が上がりました。絶えて人影のなっかった原始林に最初に斧を入れたのは、筑紫の豪族原田彌次郎政信とその子二郎三郎の二人でした。(以下理由は、寛政譜の内容に随意。場所としては種直が鎌倉放免の後閑居したと言われる足助庄・久木から地図上直線距離で約10KM。当時の健脚者で谷沢沿いにいくつかの峰を越えて二日程度の位置です。)丸木の柱に萱の屋根、山作りも年々進んでやがて人家も増え、どうやら村の形も出来ましたが、なにぶん土地は狭く農耕生活には不便でした。そこでもっとよい土地は無いものだろうかと、裏山によじ登って四方を見渡すと、大名倉の背後にあって一大盆地のあるのを発見しました。開拓すれば千町の良田ともなりましょうと、一同は大変に喜んでまず開墾の一鍬を打ち下ろしました。(中略 これが私の生地 北設楽郡設楽町東納庫 旧名倉村の起こりと言う伝承。)開拓は益々進んで麦が勢い良く伸びるようになりました。二郎三郎の子次郎右衛門の頃には、開拓は益々進んで名倉二十四名と言われるようになり、彼はその名主となりました。この人は生まれつき強欲で、激しく年貢を取り立てるばかりで一向に子方をいたわりません。そこで村人の恨みの的なり闇討ちされ様としましたが。その密談を子の太郎右衛門にたち聞きされ、密談中の首謀者7人はその場に斬殺されました。 いかに名主と言えども殺人は大罪、そのうえ村の人の反抗も恐ろしいので、7人の死体を一つ穴にうめると支度もそこそこに闇にまぎれ故郷を立ち退き十余年を旅の空で送りました。太郎右衛門には二人の子供がおり兄を三郎兵衛と言って松戸をきり開き、弟の次郎兵衛は大久保を開拓しました。
 
 こんな昔話に刺激され三河北部の原田一族は、原田始祖 種直一族の直系か?と思い込み、歴史検索中です。
 私の生家も、家紋は丸に三引 屋号を 山本屋と言い私で17代目 大平3戸と言う
 当地区草分けの3軒のうちの1軒と言われています。
[65]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月06日 00時40分24秒 ) パスワード

はらださん

ありがとうございました。
西三河の原田さん一族はかなりの豪族とは承ってましたが
御家の伝承を知ることが出来、ラッキーです。


御家のアイデンティティは他人にとやかく言われることではないので
大切に御子孫に伝えていってください。


>筑紫の豪族原田彌次郎政信とその子二郎三郎の二人

お名前からしますと<彌次郎>は次男でしょうね。
原田種直が許されてから出来た子かも知れないし父と一緒に来たのかも知れないし。
そこはハッキリしませんが
筑紫の原田一族関係者ということは確か
そういうことと思います。

わたくしの存知上げている西三河の原田家の裕福さやプライドの高さを考えますと
納得でした。
[66]菊千代さんからのコメント(2005年09月12日 03時04分49秒 ) パスワード

筑前糸島原田氏の家伝によりますと、足利将軍より三引両の紋を拝領したことが記載されています。
永正5年(1508年)に原田興種が、大内義興の配下として足利義尹(義材・義稙)を奉じて上洛。
また翌年船岡山の戦いにおいての戦功により、足利将軍より白地に金入りの旗を賜っています。

三河原田氏はいくつかあるようで、筑前から三河へ来た時期も諸説あります。
当主は代々通字として“種”の文字を使用しています。
[67]平常心さんからのコメント(2005年09月24日 08時26分10秒 ) パスワード

貴重な情報をありがとうございます。

17代というと450-500年ほどで達成しますので
室町後期、戦国時代初期に三河に土着とは考え
られませんか。
[68]東京在住さんからのコメント(2005年11月06日 22時46分04秒 ) パスワード

初めてカキコします。
三河(豊田市)生まれの原田と申します。
(認識してる範囲の)親戚は皆豊田市付近に住み、お墓は大樹寺にあります。

学生時代にお世話になった中国人の教授に『あなたの先祖は劉邦ですよ』と
突然言われたことを思い出して、いろいろと検索しているうちにこの掲示板へ辿りつきました。


三河に土着した時期というお話ですが、戦国頃なのでは?と思っています。
西加茂郡三好町にかつて明知城という城あって、築城者は原田親種とのことです。
http://www.hm.aitai.ne.jp/~katochan/myouchi.htm

>原田親種は初め筑前(福岡県)の大友氏に仕えていたが、主家衰退の後、
>流浪してこの地にいたり、松平清康(徳川家康の祖父)に仕えた。
>その子重種は清康の子広忠に仕え、重種の子道種は広忠の子家康に仕えた。
>道種の子種正も幼少のころから家康に仕え、小田原・長久手・関ヶ原などで戦功をあげている。

同じ三好町の、福谷城も同時期の原田氏築城とのことですし、
この時期が大蔵系三河原田の始まりなのでは?と思っています。
(素人考えですみません。。)
[69]大日さんからのコメント(2005年11月12日 15時20分50秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年09月26日 22時40分44秒
[71]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年11月13日 04時24分19秒 ) パスワード

>しかし、平頼盛の娘と書いてあるのを見て、そうなのかもしれないなぁと思ってます。


(2)の情報は
母と妻が誤植だと思うのですけどね。
年齢的に合わないから。

妻が頼盛の娘だと思いますよ。
[72]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年11月13日 04時26分44秒 ) パスワード

(2)は消しておきます。


原田種直:

父は大蔵種平


筑前の原田荘・岩戸郷を中心に3700町を所領とした。
壇ノ浦の後、源氏に降伏。所領は没収されたが許されて筑前国イトで命ながらえた、と。
[73]菊千代さんからのコメント(2005年11月15日 16時55分53秒 ) パスワード

東京在住さん、こんにちは。

原田親種と言う人物は確かに筑前・怡土(糸島)原田氏の当主の名前ですが、大友家衰退は天正年間・秀吉の時代なので時代が数十年合いません。

私は原田氏の三河土着は室町中期〜後期の間とみています。
[74]ミッサンさんからのコメント(2005年11月15日 17時45分27秒 ) パスワード

Yosida-K様

◎原田氏を知る資料はどのようなものがありますでしようか。とのことですの
 で、以下ご参考になれば幸です。
 
●[姓氏家系大辞典]大田 亮著 (角川書店)

 姓氏家系を研究する人にとって、お世話にならない人はまずいないとのこと です。稿終わって、やっと出来上がった。この言葉に三十七年の万感の思い が伝わる。名著 原田氏についても詳しい。

●[系図研究の基礎知識] 近藤安太郎著 (近藤出版社)

 加賀の前田利家が原田の後胤(P1.069-70)第一巻 またWebでも前田利家の
 系譜でその関係が(5ページ)掲載されています。

●[大日本地名辞書] 吉田 東伍著 (冨山房)の原田参照

●[岡山県地名大辞典] (角川書店) 他に平凡社[日本歴史地名体系]

●[日本紋章学] 沼田頼輔著 (新人物往来社)

 紋章についてはバイブル的存在と言われています。
 以上は図書館で閲覧できますが、貸出しはしないかも、、、

 尚、図書館にはないと思いますが、、、

■[作陽誌]原田系図等(文章系図)も掲載されているようですが
  どこで閲覧できるか不明です。知っているひと教えて下さい。

■[大井西村誌]昭和24年3月刊行 ガリ版刷り

  一般に流布されていませんので、内容の概略を記します。
  稲荷山城,原田二十代の文章系図の概略、尼子紀伊守稲荷山城攻め
  城主忠長自殺落城。後貞佐宇喜多氏に随身して再興。その他誕生寺御影堂
  の寄進状、大正13年2月11日、勤皇の成果として贈位があり、誕生寺境内に
  忠魂碑が建立されたこと等々です。
 
 同じくYosidaーK様の

 〇原田氏がどこからでたものかとのこと、

  平 忠常の(五男)原田次郎忠高です。長男常将千葉氏です。


 

 
[75]小林雅成さんからのコメント(2005年11月15日 18時38分10秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサンへ

Yoshida-Kさんは、すでに自らの書き込みを削除されてますので、たぶん見てないでしょう。

>●[日本紋章学] 沼田頼輔著 (新人物往来社)
これは絶版ですので、図書館では書庫に保存されているか、貸し出し禁止かいずれかです。 


>■[作陽誌]原田系図等(文章系図)も掲載されている
『新訂 作陽誌』が岡山県立図書館の郷土資料のコーナー(2F)にあります。

 
[76]ミッサンさんからのコメント(2005年11月15日 20時05分32秒 ) パスワード

小林雅成様

早速返事有難う御座いました。

このWeb の開設から拝見してました。
今後とも宜しくご教授ください。

以前静岡人さんの原田氏の家紋ついてコメントなさっておりましたが、
原田の家紋は亀甲に梅鉢です。
原田系図の最初に 「家之紋梅鉢〇〇九曜亀甲」とあります。
(〇〇は折枝のようですが、、、)
余談ですが原田の当主33代?神戸で健在です。私はいとこです。




[77]菊千代さんからのコメント(2005年11月16日 01時18分37秒 ) パスワード

ミッサンさんこんにちは。
元陸軍少将、男爵・原田一道氏のご縁者の方でしょうか?
美作原田氏も大蔵一族との説を読んだことがあります。
[78]ミッサンさんからのコメント(2005年11月18日 01時24分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年07月15日 11時16分37秒
[79]小林雅成さんからのコメント(2005年11月18日 20時35分20秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

>このWeb の開設から拝見してました。
そんなに昔からは書き込んでありませんけど、、。

>原田の家紋は亀甲に梅鉢です。
拙著『岡山の家紋データブック』に載せております亀甲に梅鉢の使用家は、美作菅家党かその所縁の家が大多数です。
[80]ミッサンさんからのコメント(2005年11月18日 23時02分05秒 ) パスワード

小林雅成様

 早速のご返事有難う御座いました。

●このWebの開設から、、、ご指摘の通りです。平にご勘弁ください。

 いつもお気に入り”美作菅家”で呼び出しています。
 この範疇の”美作菅家党”Webで先生のお名前があり、このWebもその頃
 からのものと勘違いした次第です。まえのコメントでも、Yosida-Kから
 としたり、失礼の程反省してます。
 この程度の者ですが今後とも切にご指導下さい。
[81]小林雅成さんからのコメント(2005年11月20日 20時52分59秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

怒ってはいませんぞえ(^^;、血圧が高くなることはシナイ主義ですから。
Yosida-K氏のことは、本人おらへんし、ええんとちゃう?
ヘボン式ちゃうだけでしょ。

美作菅家好きゆうたら、ご親族とか?


[82]ミッサンさんからのコメント(2005年11月21日 21時07分20秒 ) パスワード

小林雅成様

”平家物語を熱く語る”熱くなったのでしょうか、己の性のつたなさを泣き」ます。ご推察の通り母の実家は原田です。話が前後しましたが。「新訂 作陽誌」の閲覧場所のご教示有難う御座いました。

子供の頃、亡き母に”すりこみ”された。後遺症の為に困っています。
その(1)、(2)

(1)作陽誌(元禄四年成)のオリジナル原田所有の系図ではないか?
 (手元にコピーあり)かっては門外不出。毛筆の古いものです。

(2)原田の寺に菅家七代の石の墓、隣の観音扉の小さい墓が平家の落ち武    者と聞いています。菩提寺は少林寺だと聞いています。
  誕生寺?(過去帳面白いかも)

  近年での記録は太平記にある勤皇の成果としての贈位の恩典(大正十三年
  二月十一日)原田の諏訪神社に収められている。
  昭和九年四月誕生寺境内に南朝作州忠魂碑が建立。(大井西村誌)に当時  の原田関係百数十人の参画者に、叔父や分家の名あり。
  
  (1)、(2)急ぐ必要もないので、現状のままにする。


 
 
[83]小林雅成さんからのコメント(2005年11月21日 22時48分24秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

知ってるでしょうけど、ここで偉い人はギャンブラーさんやからね、わては居候。

>己の性のつたなさを泣き」ます。
私の知らんフレーズを知ってはりますなぁ。

>子供の頃、亡き母に”すりこみ”された。
インプリンティングですなぁ、生物学(動物行動学?)やなぁ。

>(1)作陽誌(元禄四年成)のオリジナル原田所有の系図ではないか?
たぶんそうでしょう。長尾勝明の部下が取材したのでは?他人が知ってるはずないもの。

>隣の観音扉の小さい墓が平家の落ち武者と聞いています。
らんとう墓といいます。江戸前期ぐらいじゃないかな?

>昭和九年四月誕生寺境内に南朝作州忠魂碑が建立。
有名なのですね。拝観したことありますよ。

[84]ミッサンさんからのコメント(2005年11月22日 21時51分33秒 ) パスワード

小林雅成様

偉い方とは、数年前、日経の交遊抄でホテル大倉の方が書いておられた、
美作の歴史を研究されている。大阪外大(元総長)○○先生では?光栄です。

(1)作陽誌[元禄四年成]1688〜1704年、長尾勝明(津山藩森家家老)
 
(2)らんとう墓とは初めて知りました。
 江戸前期くらい、、、益々判りません、私の見当ですが、菅家に落ち延び、 保安五年に稲荷山城を築城した。原田四代の平興方の墓ではないかと
 思います。過去帳見れば判るのでしょうけど、、、
[85]ときおさんからのコメント(2005年11月23日 00時11分42秒 ) パスワード

小林雅成さんへ
ミッサンさんへ

ご無沙汰しておりました。

>隣の観音扉の小さい墓
確かに「蘭塔」だと思います。住職の卵塔とは違います。
津山森家菩提寺の森公の巨大五輪の隣にでかい蘭塔墓が存在します。
岡山県内には結構ありますよ。特に旧家と言われる家の墓地には。
 時代的に古くとも慶長の頃からで、元禄前後まで存在していますね。
 小林雅成さんの言われる通り中型・小型はほとんど江戸時代前期で
 すね。一部には、隠れキリシタンと言う説がありますが・・・。
石材は瀬戸内海の豊島石で出来ており、風化が激しくて年号や戒名
 の判読はむずかしいです。もっとも、文字が書かれて居る物はめっ
 たに有りません。

>菩提寺は少林寺だと聞いています。
少林寺は何カ所か有るのでしょうか。国道181号線沿いから見え
 所に在り、後背地には守護大名クラスの山城がありますが・・・?

>原田の諏訪神社
国土53号線から見えそうな、某小学校の裏を登って行った所で
  鳥居の内に住居址が在るところですよね・・・?。
[86]小林雅成さんからのコメント(2005年11月23日 00時24分45秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

>大阪外大(元総長)○○先生では?光栄です。
ギャンブラーさんいつのまに大阪外国語大学の先生に(^^;)

>菅家に落ち延び、 
菅家関係者からの話だと原田氏が菅家にビルトインされるのは、久米郡の秦氏との対抗策として婚姻政策がとられたからだとききましたけど、、。

>保安五年に稲荷山城を築城した。
1120年代の鳥羽帝の御宇ですよね、ますますらんとう墓はありえませんよ〜ん。
[87]小林雅成さんからのコメント(2005年11月23日 00時37分55秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ときお様

お久しぶりです。

>菩提寺は少林寺だと聞いています。
これは、私の記憶が正しければもともと小林氏の開基による小林寺らしいです。

そうそう、わたしの家紋講座に以前ときおさんからメールを貰ったと
のたまうSさん(巴紋改め、桐紋使用)という方が参加してますよ。部外者には
なんのことやらわからへん(^^)


小林雅成
よみうり文化センター 講師
朝日カルチャーセンター 講師
[88]ミッサンさんからのコメント(2005年11月23日 21時55分05秒 ) パスワード

小林雅成様
ときお 様

米櫃を覗いては、日銭を稼ぐ身。象牙の塔とはどう背伸びしても疎遠なので、
ゴメンナサイ。

●少林寺は津山市久米町中北上1150 п@0968-57-2303です。
秀吉に放逐されたのは、平忠佐(二十代)、元和七年(1622年頃)卒。
放逐されるまでの菩提寺が誕生寺、後少林寺と考えれば自然ですが、都合よすぎますか。らんとう墓の件ご指摘の通りだと思います。

●久米郡の秦氏との対抗策としての婚姻政策の件、この件以前も拝見し、
感服しました。菅家党の筆頭有本氏とは、忠勝次男 忠平(十二代)
母ハ有本勘四郎ヵ娘と有ります。

○作陽誌の長尾勝明森家家老。原田に津山藩の小姓がいたので、
原田系図の転載このあたりに関りがあったと、勝手にビルトインしました。

○原田系図に「四条熊野」記述がない等、疑問は多です。
[89]小林雅成さんからのコメント(2005年11月24日 11時32分22秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

>米櫃を覗いては、日銭を稼ぐ身。
??飲食関係の自営業という意味ですか?

>象牙の塔
学生で在籍するのはいいのですが、教授の話をきいていると、雑用などあり、研究に集中するのは大変みたいです。いずれの環境に身をおいていても時間を見出して(1)書籍に接し、(2)自分で考え、(3)裏をとる(フィールドワーク)が必要です。

ルーツや家紋研究でいうと、(1)だけで書籍を出す人がいますが、困ったちゃんです。名字研究家の森岡浩先生が指摘されているように【幽霊名字:存在しないのに堂々とあたかも存在するかのように書かれている名字】がそのような人々によって広まり、一人歩きしはじめます。
(1)、(2)をやって普通の研究者、(3)までやると皆が認めてくれるようになります。(1)は図書館があればかなりカバーできます。(2)はいわゆる頭の良し悪しです。(3)は時間とお金がたっぷりないと難しいです。

(1)だけがあまりに多いので呆然とします。加えて家紋帳自体の用語が統一されてないために、はたしてこれは事実なんかいな?の裏取りが必要になります。調べていたらどんどん新しい事実がでてきて、、、、(^^;;)
ミッサン様も本書いてみたらいかがです?

また脱線してしもうた(^^;)

>●少林寺は津山市久米町
丁度、岡山教室で話題が出る予定になっていたところです。久米郡、英田郡は秦氏のメッカですから、山のように出てきますね。秦熱、秦熱。

>平忠佐(二十代)、元和七年(1622年頃)卒。
今でも墓碑に平姓を使ってはるのですか?

>有本氏
有元に互用。有は、英語で言うビッグ、グレートとう意味があるようです。出雲大社の亀甲に有の字の紋、津山市の大の字の市章、出雲大社の分院では亀甲に大の字を使っていることからもわかりますね。先祖の菅原氏はルーツ表記は出雲臣土師氏族、つまり出雲に連なるですから、見事に家紋と名字が伝統に則って使用されていることがわかります。
[90]ミッサンさんからのコメント(2005年11月25日 22時42分57秒 ) パスワード

小林雅成様

>知っている、居候、、、「前田利家の系譜」の小林滋(先生)様?
もし間違いであれば、重ねての失礼お詫びします。

>米櫃、日銭、ミッサン、連想すれば飲み屋の屋号ですね、自嘲でなく、
 ”由緒正しい貧乏人”で時間給(次官級でない)の労働者です。

>象牙の塔
 (1)努力します。(2)初期化できても無理(3)上記の通りで不可

>本を書く!とても、とても、脱サラ前の勤め人の時、社史編集室の末席を汚 した時。
 奇しくも”社章の変遷”を書かされたのが、後にも先にも活字になった由一
 のものです。同僚は窓際と言っていましたが、後に産業史の研究の一助にな る思いで資料の作成をした位です。
 先生の脱線は、含蓄のある、示唆に富んだものですが、私のは有害のみで
 肥やしにもならない。

>秦氏、、渡来人ですね。桓武帝の母君も(平野神社)韓国王朝の娘。
 菅家の祖も中国の渡来人、秦氏は古代史の最たるもの、ロマンがあります。

>平忠佐の件
 岡山へは祖母が亡くなった時、その後1,2度行ったきりです。
 (3)足ではなくて手元の僅かな資料で書いています。
 永禄十二年の誕生寺御御影堂の寄進、梅花余花の記中は
 願主 原田三河守菅原朝臣 貞 佐
 諏訪神社への田地寄進、他は 平朝臣 貞 佐 花押と有ります。
 系図は平姓です。

>有本氏
 有本氏も亀甲に梅鉢ですか?私も大社の亀甲紋を借用かと思ったことがあり ます。恐れ多い、きっと原田の亀甲岩の亀甲かなと思っていました。
 お説の通りなら、神紋を重ねています。
  
[91]小林雅成さんからのコメント(2005年12月03日 00時11分19秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ミッサン様

>「前田利家の系譜」の小林滋(先生)
小林雅成でグーグル、ヤフー検索してみてください。大学の教員ではありませぬ(^^;)

>由緒正しい貧乏人”で時間給(次官級でない)の労働者です。
赤貧の物書きの私よりは上でしょう。

>菅家の祖も中国の渡来人、秦氏は古代史の最たるもの、ロマンがあります。
一応、秦の始皇帝と同族の徐氏の子孫ということにしておりますので、よろしく!
ないしは秦酒君の後裔か?
薩摩の島津氏は惟宗姓ですが、あの一族にも小林氏がいますね。

>梅花余花の記中は
梅花余香ですね。手元にコピーならあります。

>系図は平姓です。
系図は千葉氏族なんだけど、姓は菅原なんですよね。別の例は鷹取氏もそうで、
姓は藤原なんだけど、系図は菅原なんですね。異なる系図が存在するのは、やはり昔は異なる部族で、
経済的利害で婚姻を繰り返し同族に収斂していったとみるのが穏当かと。

>有本氏も亀甲に梅鉢ですか?
有元氏です。地元では同じやんかといわれそうですが、、。

>私も大社の亀甲紋を借用かと思ったこと
同じ菅家党の皆木氏が後醍醐天皇より亀甲紋を下賜されたのが記述では一番古いかと。
[92]菊千代さんからのコメント(2005年12月04日 09時29分10秒 ) パスワード

>ミッサン様

明治45年5月18日、原田家菩提寺である金龍寺において原田種直公七百年遠忌法要が営まれました。
その記念として金龍寺住職である藤堂禅師が著された「霊光史略」なる本が関係者(原田霊光会会員)に配られました。
その初めのページに原田一道将軍の詩が収められ、遠祖原田種直とも書かれていました。

原田一道氏は岡山藩士で、維新後、陸軍に入り陸軍少将。
砲兵工廠提理、元老院議員、貴族院議員を歴任、明治33年に男爵とあります。
http://www.k3.dion.ne.jp/ 〜a-246ra/keizu3.htm

美作・原田氏とは別系統かもしれません。
あるいはやはり菅家と原田家が合流したのかも。
筑前には道真左遷の地太宰府があり、大蔵一族(原田家)との縁も深かったのではないでしょうか。
[93]ミッサンさんからのコメント(2005年12月06日 13時26分34秒 ) パスワード

小林雅成様

>ヤフーで検索して見て下さい。大学の教員ではありません。
 早速拝見させて頂きました。夜学の高校出とは天と地の差があります。
 恥ずかしながらグーグル判りませんでした。

>梅花余花の件
「梅花余香」ご指摘の通りです。

>有本氏の件
有元氏とはたいへんな違いです。

>系図は平姓 >大社の亀甲紋借用かと思ったこと
プロフェッショナルの含蓄、その造詣の深さ、知的雰囲気に接し幸です。
今後とも宜しくご指導下さい。
[94]ときおさんからのコメント(2005年12月07日 01時09分25秒 ) パスワード

平常心さんへ・Haradaさん


遅ればせながら・・・。61・63のレス

>1興方-2忠光-3光興-4忠門-5忠頼-6頼興-7頼勝-8忠勝-9忠平-10政平 -?忠行-?忠文 -14忠長-15貞佐-16行佐-17忠佐 となるのでしょうかね。
・ 11政頼  12忠行  13忠武 と成っています。

>元弘三年、太平記に5代忠頼の子「原田三郎佐秀」が菅家一門として京都四条猪熊戦 に見えますが、このとき既に美作の原田氏は一族勢力を広げていたのでしょうか。

・ 元弘三年(1333年)では一国人領主(原田の荘)と言うことは分かりますね。この時代当然美作の国にも、守護地頭が割り込んではいますが、皇室関係の荘園と有力社寺の荘園が混然一体として存続しており、鎌倉幕府直轄地(後の時代は室町幕府の御料地)も在ったりして居ますのでいちがいには勢力を広げていたとはいえませんね。
 150年後は法華寺領で領家代官は後藤氏が成っています。美作は戦国大名が育たなかった土地柄(戦国大名の草刈り場とも言われています。)です。在地在所の国人領主(地侍)の存在が大きかったことが分かります。下記のことがらかも分かります。

・ 有元の佐弘・佐光・佐吉の三兄弟の「佐光」は作州の西部にある南三郷の一士として船上山に駆けつけています。子孫の方が現地に今も現存されて居ます(今は本の字で有本さんですね。ミッサンさん・小林雅成さん(*^_^*))。
 古い地方史に「菅家一門の名の在る所必ず南三郷の名有り、勿論南三郷の内にも菅家一門の存在せるあり。即ち菅家南三郷混然一体のものたるべく共に船上山馳せ参・・・・吉野南朝の正朔を奉じ勤王を以て一貫せるものなり。」


[95]ミッサンさんからのコメント(2005年12月11日 16時41分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年01月19日 18時15分48秒
[96]ミッサンさんからのコメント(2005年12月11日 18時23分43秒 ) パスワード

菊千代様  ときお様

>明治45年(1912)原田種直公七百年遠忌法要が営まれました。
>美作原田氏とは別系統かも知れません。

●過日は軽軽にコメント差し上げたようです。
思いますに、「姓氏家系辞典」p4917[33]平性、三河の豪族にして、寛永系図・平性とす。後には第一項原田次郎大夫種直の裔と云い、後略

(1)原田系図に、家の紋(略) 忠高 桓武天皇五代○○正五位上上○助
平忠常五男○○原田次郎忠高号天喜五年二月、、、とあり、共通項が
平性、原田次郎です。

(2)こじつけになるかもしれませんが、系図から、
平忠常→@原田次郎忠高→A忠次→B忠沖→C興方→D忠光→E光沖→F忠門
(藤原○宗ヵ娘)→G忠頼(忠門三男)→H頼興→I頼忠→J忠勝→K忠平→
L平政→M政頼→N忠行→O忠氏(武)→P忠長→Q貞佐→R行佐→S忠佐

忠門の記述に承久三年(1219)が有り、逆算すると種直公誕生の頃になります。GHI代は頼の字を使用。で、前回の様な推察をした次第です。こんな見方もある位に思って頂ければと思います。

この紙面をお借りして、ときお様へのコメントをお許し下さい。
>1興方ー2忠光
原田系図の初代から二十代は上記の通りだと思います。

>今は本の字で有本さんですね。
原田系図では忠平 母ハ有本勧四郎ヵ娘と有り、又、「系図研究の基礎知識」
p1070の菅家党略系では有元。WEBでは,有本より有元が圧倒的に多です。
これは「小林先生の同じやんか」で決着?


[97]ミッサンさんからのコメント(2005年12月11日 21時58分49秒 ) パスワード

菊千代様
[96]の文中>GHI代は頼の字を使用。は削除します。
[98]大日(ハンドルネーム)さんからのコメント(2006年03月18日 15時22分17秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年03月22日 13時57分42秒
[99]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年03月21日 07時48分13秒 ) パスワード

スレッドが長くなりましたので新たにスレッドを立ててください。
[100]けんさんからのコメント(2006年09月26日 23時08分07秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

はじめまして、こんばんは。
大日というニックネームで書き込んでいました。
たいへん遅くなり、申し訳ございません。
原田種直の母の件に関するコメントありがとうございました。

お蔭様で原田種直の母が平頼盛の娘という事は年齢的に合わないという事、知る事が出来ました。ありがとうございます。

原田系図に、原田種直の室は、平重盛の養女(実は平家盛の娘)という事を記されています。

大熊六郎有元は豊後清原氏の「清原正高次男山田通成次男通綱」の流れかもしれないと思っています。しかし、通綱から大熊六郎有元までの系図は未発見です。

山田通成(清原正高次男)─通遠(小田氏。弟通綱)。


通綱─成綱(弟通言[古後氏/故後氏/平井氏/須立氏/長野氏/志津梨氏 原口氏/綾垣氏/大熊氏/堀立氏])─通平(弟通房[吉藤氏]、弟成通[小田氏/魚返氏/原田氏]、弟重成、弟成助[横尾氏])。
[101]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月27日 04時13分49秒 ) パスワード

>原田系図に、原田種直の室は、平重盛の養女(実は平家盛の娘)という事を記されています。

昔は養子や融子というのがありましたから
頼盛の娘でも重盛の娘でも家盛の娘でも有り得たのでしょうね。

今は戸籍謄本でキッチリ縛られているので<あんまり>嘘はないですけど。ビミョー 笑
現在の感覚の「誰の娘だ」という断定を過去の親子関係に当て嵌めるのは難しいんでしょうね。


原田系図の、原田種直の室は平重盛の養女(実は平家盛の娘)というのは合理的かもですね。


100を超えたのでスレッドを〆させて頂きます。
この続きは新しくスレッドを立ててください。
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