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 投稿番号:100602 投稿日:2003年12月29日 08時56分35秒  パスワード
 お名前:宮の善六
【柳営婦女伝系】記載の大橋・大河内・西郷
キーワード:大橋氏 華陽院 源応尼
コメントの種類 :質問  パスワード

 はじめまして。大橋氏、堀田氏、津島を中心に戦国の人物を調べている大阪在住の者です。この「平家物語を熱く語る!!」は極めてレベルの高い情報が満載されておりまして、非常に役に立っております。
 大橋氏を調べていて、(ひょっとしたら基本的なことかも知れないのですが?)、皆目わからないことがあります。それは【柳営婦女伝系】の「華陽院殿」、続群書類従研究会の刊行本ですとP.127〜137に見える、華陽院・大橋氏・西郷氏・大河内氏の関係です。この点について、アドバイスをいただけましたら、とても助かります。
 まず【柳営】のp130以降、良王の孫?:太郎納言(大橋貞広)の子として、大橋定安、川口盛祐(帯刀先生・華陽院の最後の夫とされる人物)ほか数人が挙げられていますが、その兄弟(定広の子)の位置に、信貞(松平弾正左衛門)、貞光(松平左近将監)の二人か掲載されています。さらに大橋定安の子の位置に、再び、信貞(松平弾正左衛門)があって、「実は(松平)光重弟、光茂は男子無く、信貞を子と為す。岡崎城を譲り、いわゆる岡崎弾正左衛門昌安がこれなり。信貞は大永二年に岡崎城を避ける・・・」となってます。そして、この大橋定広の「子」らしき人物が、あの西郷弾正左衛門である(これは常識なんでしょうか?)らしいのですが、その松平弾正左衛門の娘の婿養子(の位置?)に徳川清康がいて、その清康の子の位置に大橋重一(実は大河内元綱の子)と堀田帯刀正純室がいます。素直に読むなら、重一は清康と西郷信貞の娘の子であることになります。西郷信貞が大橋氏の出身である(という風にも【柳営】系図が読める)こと、私には非常に大きな驚きでしたし、一般の西郷氏に関する解説では触れられていない点ではないかと思います。
 これらとの対比で問題になるのですが、p132〜133、於富方(華陽院)と大河内元綱の二人が、大河内光任の子の位置に来ていて(すると華陽院と元綱は兄と妹)、元綱の子の位置に大河内(大橋)重一がいます。以上二つの異なる「重一」の系譜上の位置を両方とも正しいとするならば、「重一」は大河内元綱もしくは松平清康の子であり、どちらかが実父、他方が養父ではないかという想像が産まれます。
 以上より【柳営婦女子伝系】の系図は非常に多くの問題を含んでいるように思います。加藤光圀先生の【尾張群書系図部集】の大橋氏・大河内氏(傍流)の系図と比較して、我流の「突飛な推測」は一つ思いついておりますが、その前に尾張の一族・系図にお詳しい皆様のご教授をいただきたく、ここにスレッドを起ち上げるものです。
 よろしくお願い申し上げます。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月29日 12時18分45秒 ) パスワード
  

宮の善六さん

初めまして。
川口さまがレスして下さいますでしょうから少々お待ちになってくださいませね。


私は「大河内」さんは南朝方でご一緒だったとは知ってましたが
ですから当然徳川氏とも親しい関係にあったと思ってましたが

三河の名門の大河内さん(数年前男の子がいじめで自殺なさってますよね)
やっぱりお仲間のお子さんだったのですねえ。
このお子さんのニュースを耳にした時、私の昔のお仲間の御子孫だ、ってピンと来たのですよ。


それから神戸の旧家で宗良親王の自筆のお歌集が発見されたという最近のお話
御存知ありませんか?
宗良親王は良王君のお父上です。


西郷家が大橋家と繋がってましたか。
これまたビックリ!


何重にも繋がってるんですねえ。
[2]川口 信さんからのコメント(2003年12月29日 12時29分58秒 ) パスワード
  

:宮の善六さん 初めまして。宮の善七氏については調べたことがありますが、ひょっとしてご関係があるのでしょうか?。

 「柳営婦女子伝系」の系図の読み方に問題があると思われます。

 系図の線のとおり読むと、宮の善六さんのおっしゃるとおりになります。

 華陽院殿について関係のあった家および清康公の関係などごちゃになっております。
 平姓(大橋・大河内・永井・中根・川口・長田)家紋(茗荷 一文字)の表題のとおり一緒に書かれておるので間違った解釈になるのは無理のないことです。「柳営婦女子伝系」はあまり良く考証されてませんですね。

 尾張群書系図部集(上)の(167)に記載されている「大橋家系図」の方が私の知る限り「大橋源三右衛門家」系図に近いです。参考に下記urlの系図を。

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_ohasi.html

 宮氏 始称岡本氏、大橋家同族也(とあります)。あまり疑問が多いのでお答えになっていないと思いますが。個々の家の家譜と付け合せてお読みになれば、理解出来ると思いますが、







[3]川口 信さんからのコメント(2003年12月29日 17時35分41秒 ) パスワード
  

[2] の続き

 また、尾張藩士名簿『士林沂・』にも大橋家が(代々小傳次を襲名)が記載されてます。
 「尾張郡書系図部集(上)」に書かれている大河内家(津島市)郷士の系図には疑問が多々あります。(時代が前後しており、≪参考)のところにも疑問が多いとありますが)、末尾の尾州津島大河内別系『参河志』の大河内家は『柳営婦女伝系』に書かれているもの同じです。(こちらの方が系図としてスッキリ書かれておりますが。)
 
>信貞(松平弾正左衛門)があって、「実は(松平)光重弟、光茂は男子無く、信貞を子
 >と為す。岡崎城を譲り、いわゆる岡崎弾正左衛門昌安がこれなり。

 昌安 弾左衛門 清康時代の人である。実父は西郷頼嗣であるので西郷弾正左衛門といった。そこに至るまでの来歴を見ると、西郷頼嗣はもともと岡崎城主であった。松平光重はその養子となって岡崎城に入り、光重の次男左馬允親貞もまた岡崎城に入った。親貞は子供が無いため西郷頼嗣の子信貞を養子として相続せしめた。この信貞は昌安と同一人であり西郷弾左衛門と称した。松平清康の第一番目の夫人の父にあたるので、清康関係で記載されたものであります(大草松平家)。信光―光重―昌安(信貞)―昌久―三光・・・以上「家康の族葉」(中村孝也著)より。








[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月30日 01時44分31秒 ) パスワード
  

>岡崎弾正左衛門昌安がこれなり。
>昌安 弾左衛門 清康時代の人である。実父は西郷頼嗣であるので西郷弾正左衛門といった。


昔々西郷弾正左衛門だか岡崎弾正左衛門だかの屋敷跡という所を何度も何度も車で通りかかりまして
???
なんて思った記憶があります。

なんか不思議な感じを持ってたのですけど。


その後三河には「拝郷」さんとおっしゃる御家老がいらっしゃって
そこから「郷」のつく御家は多いのかしら?と思い
何にも思わなくなって久しかったのですけど


西郷家と徳川家の関係を考えると昔の仲間としての南朝方の血の呼びを聞いてたのかしら?と。
[5]宮の善六さんからのコメント(2003年12月30日 09時56分48秒 ) パスワード
  

川口様
 ご教授ありがとうございます(なお<宮>は私の姓の一字、六はラッキーナンバーです)。
 結局【柳営婦女伝系】の華陽院系図は、非常に不自然である、岡崎弾正左衛門経由で大橋重一と徳川清康が結びつく直接的な伝承など全く伝わらない・・・ということがわかっただけで、大きな収穫でした。やはり中村先生の本を見ないとお話になりませんよね。年明け早々に、中村先生の本は確認いたします。
 歴史を調べ始めてまだ半年も経ってませんので、こういう常識的なところの知識に乏しいものですから、経験の深い方の確信に満ちたアドバイスは心強く感じます。厚くお礼申し上げます。
 思いまするに、あくまでも大橋家の嫡流は、
  定広(妹が大河内元綱の妻) ⇒ 定安 ⇒ 重一(大河内元綱息子を婿養子)
であり、【柳営婦女伝系】と大橋家の普通の系図に相違はありません。そういうことは同時代人なら自明であり、あるいは後代の人間でも少し系図を調べてみれば誰だって分かることなのでしょう。だったら、幕府の史官はこう考えたのではないかと想像します。
 大橋氏の正確な系図は、少し調べれば誰にでも分かる。であれば、幕府系図に多少デタラメを混入させて「系図として嘘臭く」なってもかまわない。それよりも重要な目的があるから、定安と重一の間に「清康の岡崎弾正左衛門への婿養子入り」というエピソードを無理やり挿入せざるをえない。結果として世代が二つズレて「系図としての普通の価値」は減じ不正確な系図と批判されても、幕府系図としては、幕府の史官としては、こう書くしか方策がなかった。そしてこれは史官を統括する幕府上層部の意向でもあるから、史官としてはしかたがない・・・
 おおよそ、こんなところと想像いたします? こういう雰囲気の(あるいは目的を持った)ねつ造・改ざん・消去は【寛永伝】や【重修譜】、あるいは【信長公記】など軍記類を見ていても痛感しております。
 私の個人的<納得>としては、挿入された「清康の岡崎弾正左衛門への婿養子入り」という部分について大橋重一の出自に関する事情を述べたものと、<まず>理解しておこうと思います。本来なら「重一、実は大河内元綱の子」という説明に加えて「一説に、岡崎弾正左衛門娘と徳川清康の子を元綱が養子に迎え、さらに大橋家に婿養子に入る、とも伝わる」とでも書くべきところを、あまりに生々しいので系図に直接挿入してしまった・・・こういう風な幕府史官の苦肉の策の「物語」として<とりあえず>理解いたしておきます。
[6]宮の善六さんからのコメント(2003年12月30日 09時58分27秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様
 徳川と大橋は「正史的」には、今後も絶対に繋がらないと思います。ですから、私の上記質問もすべて「歴史エンターテイメント」的なものとご理解くださいませ。(^_^;)
 宗良親王の歌集のことは初耳でした。
 西郷と大橋の繋がりですが、大橋(あるいは津島町衆)は商人ですから商売上の取引があれば無いとは限りません。また秋葉山(駿河)、津島神社、伊勢神宮を連続して代参する旅行者の往来で、伊勢・尾張・三河の人の交流は、われわれの想像を超えて深かった気がします。なにせ津島神社の御師は、伊勢神宮・秋葉山へ詣でる人のお世話もしていたらしく、まるで今日のJTBの添乗員風の人達だったようです(【愛知県史民俗調査報告書4】【牛頭天王信仰と津島天王祭】ほか)。
 特に「大河内元綱流れ」と「大橋重一流れ」は「普通の系図」でも繋がるというにとどまらず、大橋定広の娘が元綱の妻になった後、両家はほとんど区別がつかないぐらい一体化していた雰囲気が「漂い」ます。戦国時代に頻繁であった養子縁組みのことを隠してしまう、つまり系図の「実親」の情報を書き落としてしまうと、養子は実子に化けてしまいます。家と家の深い結びつきは消え失せます。妻の出自を「某氏」としてしまっても同じです。
 大河内元綱が住んでいた城・領地・菩提寺の場所というのは、ハッキリしていないのではないでしょうか。【参河志】を引用する【尾張群書系図部集】において、元綱の流れは「尾州津島大河内別系」となっており、三河額田郡におけるよりも明快です。また関係の有無が問題になる松平伊豆守信綱の大河内氏も【尾張群書系図部集】では「尾州海東郡津島郷士」となっており、やはり津島と縁が深いのです。

 以上、長々と申し訳ありませんでした。
 エンターテイメントにとどまる限り、たいへん歴史は楽しいものです。
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