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 投稿番号:100531 投稿日:2003年07月06日 23時46分47秒  パスワード
 お名前:暇なギャンブラー
古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏4

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

<古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏3>が重くなって来ましたので
新しくスレッドを立てました。

続きはこちらへどうぞ。
<古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏3>はサーバーが負担にならないように
書き込めないようにしますね。

ご了承ください。

[1]そりちゃんさんからのコメント(2003年07月07日 00時21分32秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさま、ありがとうございます。
さて、最近桓武天皇周辺をいろいろ調べているうちに、
天智・天武と藤原氏の関係につきあたりました。
その辺りをいろいろと調べていてわかったことは、
物部氏も蘇我氏も出雲系だということです。

物部氏は出雲系とわかりますが、蘇我氏は隠れ出雲の
ようです。なぜ、それを隠していたのかまでは、まだ
理由が判然としていないのですが、彼らはいわば
同郷出身者であり、現在にいわれているような対立は
少々オーバーなようです。
守屋を物部氏の傍流とする説もあり、そう考えると
あの対立は物部一族の意思ではなかったとも考えられます。

両者と秦氏の関係はまだはっきりとわかりませんが、
蘇我系の聖徳太子の家人に秦川勝がいたということは
蘇我氏と秦氏の関係をそのまま物語っているようにも
思えます。

ところで、藤原鎌足はあんなに蘇我氏を叩いていたのにも
かかわらず、不比等は蘇我の娘を妻にしています。
また、京家を除く他三家は蘇我氏の娘を母としています。

何故でしょう?

出雲に国譲りさせた時の神、鹿島のタケミカヅチとフツヌシを
氏神にしたのは、「出雲系」を押さえ込むという意図が
あったように思います。

物部は追われ、蘇我氏は壊滅状態、では秦氏は?
藤原種継の父はどのような理由で秦朝元の娘と結婚したのか?

一説には天武天皇は蘇我系嫡流の血をひいていたなんて話も
あります。父親が聖徳太子だというトンデモ説です。

真偽はわかりませんが、天武系天皇家がのちに天皇家の
菩提寺からしめだされていることから考えても、
正当な血をひいていなかったことが推測されます。

ただ、天武が出家して吉野に籠ったときに、山伏らを暗躍させた
という伝承がとても気になります。
もしや秦氏が・・・?
[2]そりちゃんさんからのコメント(2003年07月09日 23時02分20秒 ) パスワード
  

八咫鏡についてですが、他のスレにもありましたが
鏡の裏面に古代ヘブライ語で
旧約聖書、出エジプト記のなかのモーゼが神に
名前を問うたときの神の言葉、
「私の名は、私は私である」が刻まれているそうです。

「地名・苗字の起源99の謎」鈴木武樹著より
秦・ハタを地名とする土地ということで、
ハタ・ハッタ・ヤタ(!)が挙げられています。

とすると、八咫鏡の「八咫」は元々は「八田」=「秦」で
あったのではないでしょうか。

三種の神器はいつから現代に伝わる三品となったのでしょう?
その辺りに秦氏の痕跡が残っているかもしれません。
[3]さちこさんからのコメント(2003年07月10日 00時15分36秒 ) パスワード
  

>八咫鏡の「八咫」は元々は「八田」=「秦」で
 あったのではないでしょうか。

私もそう思います。

三重県北部の菰野について他のスレで書きましたが、
秦や服部、矢田さんが多いです。
(例の服部組と矢田家は親戚です)
服田とかいてハッタという家もあります。

八田と書いてハッタと読むのは三重県北部では常識です(笑)
明治になって東儀秀樹氏の、東儀家が
静岡県の三島大社に関係してたらしいですが、
宮司さんは矢田家です。

熱田神宮の草薙の剣、
製鉄技術と関係していた、一族。
この辺りを支配していた尾張氏や、
海部氏。この辺りが関係してそう。

海部氏に関しては、
海産物を都に献上していただけではなく、
日本の海上交通権を支配していたという説もあります。
多分、そうだろうなと思います。

八岐の大蛇の八も秦に関係するかも?


[4]秦義則さんからのコメント(2003年07月10日 22時37分26秒 ) パスワード
  

秦氏と天孫族とのかかわりについて考えてみました。

3・4世紀のには邪馬台国の流れを汲む日向の天孫族の国や宇佐の国、出雲王国、それに大小さまざまな国が有ったのだと思います。

隋書に九州は豊という地域に秦王国があったとされています。随書は600年頃の書物ですが、その頃に王国と言われるまで発展していたようなので、それよりかなり以前から豊といわれる地域に秦氏は居住していたのだと思います。

秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた 弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族で。弓月君は127県の3万〜4万人の人夫とともに九州に渡来したとされていますが、この人々が秦王国を築いたのでしょう。

ここで秦王国と宇佐の国がダブって存在するように思われますし、宇佐氏は秦氏とも言われています。
宇佐神宮の建設自体は700年代に入ってからです。

古事記では、素戔嗚尊が高天原から一度新羅に寄ってから出雲にやって来て、この地域に農耕を広め国を作ったとされています。八岐大蛇のお話しも、斐伊川の水害を治めたという事からきたのかも、また、火山の溶岩流を堰きとめたからとも言われています。火山のあるところに鉄が産出されるからです。

素戔嗚尊と奇稲田姫との結婚から、大国主命が生まれます。大国主命のところに少名彦命がやって来て一緒に国を治めたりもしますが、日向の天孫族から攻められ、結局話し合うことで国を譲ってしまいます。

出雲の素戔嗚尊も少名彦命も秦氏の神であり、宇佐の月読命も秦氏の神であることから、宇佐にも出雲にも秦氏が関係しているように思います。
日本書紀では素戔嗚尊のお話しが月読命に変わっている部分もあります。

弥生人が日本に渡来してくる過程で、選民思想を持ち支配を目指した渡来人と、縄文人たちとも同化しながら文化や技術を伝えた渡来人がいたのかもしれません。
縄文人たちとも同化融合しながら拠点を広げたのが秦氏で、選民思想を持ち支配を目指したのが天孫族だったのかもしれません。

出雲に縄文人がいて、そこに大陸から弥生人たちが稲作や機織などを伝えながら上手く生活していたのかもしれません。

秦氏は九州や出雲だけでなく直接、大陸から近畿にも来ていると思われます。
それが天日矛一族です。
「昔、新羅の国の阿具(あぐ)沼のほとりでひとりの乙女が昼寝をしていると日の光が虹のように照らした。その時から乙女は子を娠み、やがて赤い玉を生んだ。新羅の王子、天日矛がその赤い玉を得て、床の間に置いておいたところ、その玉は美しい乙女になった。天日矛がこの乙女を妻とした。しかし、乙女は小舟に乗って日本に渡り、難波(なにわ、現在の大阪)に留まった。今、姫許曽(ひめこそ)の社に祭られている阿加流(あかる)姫がこれである。一方、日矛は妻を追ってきたが、難波に入ることができず、但馬国(兵庫県の北方)に留まり、その地の神となった」。
とされています。
天日矛の子孫に田道間守(たじまもり)がいて橘を全国に広げて行きます。

一方、日向の天孫族は縄文人たちとの同化融合を許さず、権力で支配しようとしたのでしょう!
大陸では高句麗、百済、新羅があり、それぞれの系統の渡来人たちがやってきていたのだと思います。
とりあえず、日本ではそれぞれの系列の渡来人たちは仲良くしようと、三島体制を敷いていたのでしょうか?
各地で渡来人たちが三島体制のもと政治を行っていたのでしょうが、やがてそれが崩れる時が来ます。
権力で支配し倭を統一しようとする動きが始まったのです。
天照大神という神を持つ天孫族の東征です。

縄文人達と同化融合していった渡来人達の影響力を恐れたからなのかも知れません。
天照大神と月読命は、高天原で一緒に暮らしていましたが、天照大神は地上界に食物の神保食(うけもち)がいると聞き、月読命に見に行かせるのです。保食は口から飯、魚、鳥獣を出して月読命にご馳走しますが、月読尊は「汚らわしい」と保食を殺してしまいます。以下は上記『古事記』と同じ内容ですが、『日本書紀』では、保食を斬り殺してしまった月読尊に対し天照大神が「汝は悪い神だ、二度と顔を見たくない」と言ったので、二人は昼と夜に分かれて住むようになったということです。そして保食から生まれた農作物を採って人々に与え農耕を教えたのは「天照大神」だとしています。

これは勝者が作ったお話で、天孫族の神、天照大神を正当化したたえるためのお話しなのでしょうか?素戔嗚尊が乱暴物だったというのと同じような気がします。

争いを望まなかった渡来人と好戦的な渡来人、天孫族。
やがて天孫族が倭を統一し大和朝廷となるのですが、その他の渡来人を抑えるため、地方に左遷したり、権力の場から追放し、神官や僧侶、技術や芸術の世界にのみ生きることを許されたのかもしれません。
物部氏も大物主命を祖としている事より、出雲系だと思いまが、その物部氏は6世紀に滅ぼされるのです。聖徳太子の一族も滅ぼされ、秦氏も闇に消えてゆくことになるのです。
[5]さちこさんからのコメント(2003年07月11日 21時57分18秒 ) パスワード
  

秦さん!当たってる!
私もそうだと思います。

でも天孫族。天照に無理に系図を繋いだのも成り上がりだったからでしょう。(笑)

難しい漢字は忘れましたが、
天照大神はハタ織の神様です。

服部家を検索して調べてると、
掲示板等でよくこんな事が書かれてます。

 伊賀の服部家は一応、平氏を称しているらしいですが(汗)
 忍者の服部家?平氏としてますが(笑)
  
もっとひどい事を書いたのもあります。
なんだか、悔しくてね。
こんな服部家に誰がした?という気持ちです。

このスレッドが、
秦氏及び服部家イメージ向上になればいいなと思うのですよ。

秦氏、
帰化人などとされながら、
東北の縄文人、九州の弥生人などと平和的に文化で融合していた思う。

でも、その一方で秦氏系一族が持ってる軍事的脅威も考えられます。

平家が壇ノ浦で滅んだわけでない、
秦氏も消えたわけでない。

御祭神だとか地名だとか、
神社や、宗教に残ってますね。
頑張ろう!
[6]そりちゃんさんからのコメント(2003年07月11日 22時53分32秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年07月13日 00時28分22秒
[7]秦義則さんからのコメント(2003年07月13日 19時30分25秒 ) パスワード
  

服部家は名門だよ!
僕んちは分家の分家の、そのまた分家だし、
落ちる所まで落ちてるよ〜

さちこさん、みなさん、イメージアップに頑張ろう!

>天照大神はハタ織の神様です。
そうだよね、天孫族は正当化するために天照大神を使ったんだ!
ヤタガラスの話もそうだよ!
熊野で道に迷った時に神武を助けるがごとくヤタガラスが現れて道案内するなんて、
おかしいよ!
ヤタガラスも秦氏に関係しているのに、
自分達が不利になるように、ヤタガラスが道案内する訳ないのに、

誰かが道案内をしたとして、ヤタガラスの話をこじつけて、正当化したとしか思えない。
意図的な歴史の改ざんだと思うよ。
所詮は勝者の歴史なんだよね。

だから、聖徳太子や河勝が頑張ったのにな〜

天孫族だって渡来人なのに、自分達は日本人で、その他は帰化人だ何てね。

そりちゃんさん、コメントもったいないよ!
ぜひコメントしてください!

[8]そりちゃんさんからのコメント(2003年07月13日 21時47分43秒 ) パスワード
  

秦さん

すみません、ちょっと勢いで載せてしまった部分も
多いので(恥)。
反省です。

お詫びに秦氏の紹介です。

秦 火炬(はたのたいまつ)
生没年不詳
奈良時代の播磨国赤穂郡(兵庫県)の人。郡司ないしその一族か。
名は、「かきょ」ないし「ほく」とも読める。天平勝宝5(753)年
から7年にかけて、前播磨守大伴犬養が設定した荘園「墾生(はりう)
山」の地の目代として、塩田経営を任されたが、製塩設備の築成に失敗
したため、経営の破綻をもたらした。

秦 立人(はたのたつひと)
生没年不詳
奈良時代の下級官人、造東大寺司写経所の写経生。
天平宝字5(761)年、写経所から100文の銭を借りたが、返済
しないまま他の7人を逃亡。翌年、彼らが名前を偽って雇夫として石
山寺で働いているとの風聞があったことが鳥取国万呂の書状にみえて
いる。その後の経緯は不明だが、7年1月から4月にかけて、雇人と
して造東大寺司に勤務し、功銭を支給されている。

秦 朝元(はたのちょうげん)
生没年不詳
奈良時代の官人、医術家。大宝年間(701〜04)に唐に渡った
父弁正(べんせい)法師(俗姓秦氏)と唐人の母との間に生まれた
朝慶(ちょうけい)、朝元兄弟の弟。父と兄が唐で死去したのち、
養老2(718)年に帰国した遣唐使に従って日本に戻り、翌年
忌寸のカバネを賜った。5年在唐中に修得した医術が賞され、アシ
ギヌ、糸、鍬を賜った。漢語にも堪能で、天平2(730)年、
弟子二人をとって通訳を養成することを命じられた。5年、入唐
判官として再び唐に渡った際、玄宗皇帝に謁見。父が唐で客死した
ことを哀れまれ賞賜にあずかった。帰国後の同9年図書頭、18年
主計頭を歴任。「万葉集」巻17にこの年の元正太上天皇の雪見の
宴に参加したことが見え、唐から麝香を持ってきたことが知られる。
藤原種継の母を朝元の娘(すなわち朝元は種継の外祖父)とする
伝えもある。


商売や金銭トラブルで歴史に名が残っているところが
秦氏らしいですよね。

続きはまた後日。
[9]さちこさんからのコメント(2003年07月14日 00時31分30秒 ) パスワード
  

平熱では伊賀の服部家が平氏。
常識になってますが、

でもね、よそに行けばトンでも説に近いですよ。


>聖徳太子や河勝が頑張ったのにな。

秦さんそうですね!

天照大神と秦氏。
日本書紀(或いは古事記)
暴れん坊のスサノオが、
天照のいる服屋にイタズラをしたという話、
確か、服屋=はたや、と読んだのででは?

古代史に関して最近書き込みが多く、
この件はリンクできませんでした。
天照と秦氏の関係を妨害する、
百済系の陰謀かもね?

桓武天皇の母、
高野新笠、
百済系だとされますが、
私は秦氏系だと思う。

高野神社というのが各地にあるのですが、
秦氏に関連あるところばかり。

父が和氏としてますが、(ほんまかいな?)
母方は土師氏としてます。

菅原道真の菅原氏が土師氏の子孫としてることからも、
その関係がうかがえます。

高野新笠の墓は、
太秦や松尾大社の近くの大枝陵です。(今の西京区)
大枝=大江に通ずるのです。

亀岡への道ですね。

高野新笠、百済系なら何故こんな秦氏の本拠地に墓があるのか?

>商売や金銭トラブルで歴史に名が残っているところが
 秦氏らしいですよね。

そりちゃん!
 ありがとうございます。
 凄く参考になりました。

甲斐の武田氏に仕えていた金春流(秦氏)の能楽師の系統が、
武田氏が信長に敗れたあと、

大久保長安として、
家康に仕えました。

石見、佐渡、土肥の金山を開発し、
徳川幕府の財源を作りました。
(資金だけでなく、流通や街道の整備などにも貢献しました)

でも、徳川幕府が少し安定すると、

徳川幕府の基礎を築いたのに関わらず、
長安の息子の代になり、
金銀を着服していたとか(少しはあったかも)、
幕府の転覆を謀ったとして(多分にあったかも)
一族自害させられます。

この事件に関しては謎が多いのですが、
石高に換算すると、
百万石を越えていた大久保家(秦氏)への、
幕府側の警戒心だったと考えられます。

服部家、(半蔵のほうですが、)
大久保家と親戚関係だったことで、(大久保家から嫁をもらっていた)

とばっちりをうけました。

恩知らずの徳川家が。。。ぶつぶつ。。

服部家や秦氏が消えて、
藤原政権や、徳川政権、安定した時代がが続くというのも、
歴史は繰り返すというか、面白いです。



[10]秦義則さんからのコメント(2003年07月14日 22時40分07秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん、ご先祖様を調べていただいて、ありがとう。
まあ、皆さんのご先祖様でも有るかもしれないけれど・・・

あまりぱっとしない人もいるけど、
それで、歴史に名を残している所がすごい!

秦 立人さん、お金を返さず、7人を逃亡させるなんて、う〜ん・・・

さちこさん、桓武天皇の母、高野新笠は絶対秦氏だよ!
天皇家に新羅の血が入るのを良しとしなっかた時代があるんですよ!

だから、「くだらない」百済じゃない人をそう呼んで、
秦氏が百済なんて白々しい・・・白々しいとは「新羅のようだ」っていう意味じゃないかな?

土師氏やその系統の菅原道真も秦氏だそうですよ。

土師氏のこと、このようにかかれてますよ!
http://www.kitombo.com/mikami/0930.html

秦氏は名を変えて色んな所で、辛抱強く生き続けていたんですね!
[11]さちこさんからのコメント(2003年07月14日 23時31分24秒 ) パスワード
  

秦さん、

 >「くだらない」百済じゃない人をそう呼んで、

その件だけは反論〜!(笑)

秦氏は最先端技術で日本に渡来して来たのですよ。

秦氏曰。
「こんな、つまらない物、作ったの百済やない?」

 百済やない=くだらやない=くだらない

日本は標準語だけではありません、
このほうが発音とかを考えても自然です。

新羅らしい=白々しい。これは〜?
へりくつ、考えてみます。

そりちゃん。
続き楽しみにしてますね。
[12]そりちゃんさんからのコメント(2003年07月15日 21時50分27秒 ) パスワード
  

>百済やない=くだらやない=くだらない

納得ですね〜、さすが本拠地ですね!

さてさて、お楽しみの続きです。

秦 到貞(はたのむねさだ)
生没年不詳
平安後期の画家。到貞(ちてい)とも。
法隆寺の記録に摂津国大波郷(兵庫県)の住人とある。延久(1069)年、
法隆寺に絵殿が作られた際、その障子絵として「聖徳太子絵伝」(東京国立
博物館蔵)を描いた。これは聖徳太子の伝記を描いた作品として現存最古の
ものであり、かつ最も優れた作品とされる。また同年、木造聖徳太子像(法
隆寺蔵)の彩色を行っていることが、その胎内墨書銘から知られる。
なお14世紀に編纂された法隆寺の記録集「嘉元記(かげんき)」や「法隆
寺別当次第」では『秦到真』と記されている。

次はハタつながりで羽田姓の人物です。

羽田 八国(はたのやくに)
生年不詳〜朱鳥元(686)、3
壬申の乱(672)の際の武将。八国は矢国とも書く。
当初は近江朝廷側であったが、犬上川(滋賀県犬上郡)のほとりの戦で近江
方が大混乱に陥ったときに、子の大人(うし)と一族を率いて大海人皇子
(のちの天武天皇)方に投降した。ただちに大海人方の将軍に任命されて
近江の北方にある越に進軍した。7月13日、村国男依らが近江方を壊滅
させたが、この日八国も出雲狛(いずものこま)と共に三尾城(滋賀県安
曇川町三尾里付近)を攻略した。天武12(682)年12月、伊勢王ら
と共に天下を巡行して諸国の境界を定める仕事を行ったが、このときには
うまくいかず、2年後に伊勢王らが再派遣された。八色の姓では真人を与
えられた。朱鳥元(686)年3月病になり僧3人を与えられたが同月没
した。時に大弁官直大参であったが、壬申の年の功により直大壱位が追贈
されている。

羽田 八代(はたのやしろ)

羽田(八多、波多とも書く)氏の祖とされる人物。八代は矢代とも書く。
実在については不詳。羽田氏は今の滋賀県八日市市の羽田町あたりに本拠
をもつ豪族で、継体天皇の即位を支援したとみられ、その祖と伝える羽田
八代の地位も高い。「古事記」孝元天皇の条では、武内宿禰の子に蘇我氏
や平群氏など、古代豪族の始祖9人を系譜づけているが、波田八代はその
筆頭に掲げられている。「日本書記」では、応神天皇の時代に百済国の無
礼を咎める使者として派遣されたことを記し、またその娘黒媛は、履中天
皇が皇太子だったときに妃に立てられたが、住吉仲皇子に犯されたという
事件が伝えられている。こういった羽田父娘の伝承は、新興勢力の羽田氏
によって作られた架空の話であろう。


羽田氏の名前に「八」がついているのが非常に気になります。
八国のは一説では、大海人と「内応」していて、突然寝返ったのも
打ち合わせ通りであった、といわれています。
大海人は諸説ありますが、百済人でないことは確実です。
新羅出身であったとしたら。
羽田氏=秦氏とすれば、味方するのも当然ですね。

秦到貞が聖徳太子と関係しているのも、偶然ではないと
思います。

漢字の語源をバラバラに調べたのですが、漢字辞典によると、
「秦」という字は上の部分が両手を表し、
下の内の「禾」は作物をあらわしているそうです。
「農業」の意味かとも思いましたが、大意は
「生み出すこと、育てること、作り出すこと」でしょうか。
街を作ったり(建築)蚕を育てたり(養蚕)
さまざまな商売にたずさわったり(生産)
そのまま「秦氏」を表現していませんか?

[13]秦義則さんからのコメント(2003年07月15日 22時54分25秒 ) パスワード
  

さちこさん
お見それいたしました〜

くだらないとは、
そんな下手な仕事は「くだらやない?」
秦氏は関西人やったんや!
標準語のはずないもんね。

当時の新羅と百済の文化や技術にはかなりの差があったんでしょうね。
百済は中国系?
新羅は西域系?

中国における秦はかなり西に位置しているし、
漢民族ではなかったのかもしれませんね。
秦には西域の文化が入っていたと思われるし、
中国の秦と新羅との関係がどうなのか、はっきりしないけど、
確か、大避神社には秦の始皇帝も祭られているとか・・・

シルクロードを通ってキリスト教も入っていたのかもしれません。
西域で生まれたカバラが風水となり日本で陰陽道となったのかな?

そりちゃんさん、ありがとう!
秦は生産を表す字だったんですね。
勉強になりました!
[14]さちこさんからのコメント(2003年07月16日 00時01分56秒 ) パスワード
  

>さちこさん
お見それいたしました

悪ノリして、もう一つ。

秦氏曰く。

「こんな、アホなことしたの百済の連中やろ」

百済の連中=くだらのれんちゅう=くだらんれんちゅう。

そりちゃん。
色々調べて下さりありがとう。
凄く参考になるので感謝です。
日本の古代史を調べると、

八、羽、矢、織、服。
この四文字が秦氏のキーワードかも?

記紀など今の日本人には、
神話としか理解出来ない部分が、
編纂された当時にはそれなりに認められていたはずです。
勝者の一方的な歴史書だったわけでもないように思うのです。

私はどうしても秦氏贔屓になってしまって。
[15]さちこさんからのコメント(2003年07月16日 00時13分04秒 ) パスワード
  

>八、羽、矢、織、服。
 この四文字が秦氏のキーワードかも?

自分で書いて訂正。
織=ハタ
服=ハタ。
(昔は同じに読めたらしい)

これでつい四文字と書きましたが。。

織田家と服部はどうしても混乱してしまいます。
織田家も本当は秦氏ですよね??
[16]さちこさんからのコメント(2003年07月16日 22時16分51秒 ) パスワード
  

壬申の乱に関してこんなことが書いてありました。

天武天皇は忍者らしいぜ?

http://village.infoweb.ne.jp/~fwht5110/H30.htm

「壬申の乱」ですけど、
天智が死ぬ間際に位を譲ると言ったのを「罠だ!」ととった天武は、
母の菩提を弔うということで頭を丸めて吉野に行きます。
結局は天智の子供である大友の皇子と戦うことになるんですが、
この時に実は大友の皇子の大津京に天武の息子が2人いました。
大友にしてみたら大事な人質ですから、
シッカリ見張りをしていたはずなのに、
これが上手いこと脱出するんです。
そして天武の伊賀越えに合流するわけです。
こんなこと誰かが手引きしなきゃ上手くいきっこないです。
そこで登場するのが天武の娘であり、大友に嫁いだ(嫁がされた)十市の皇女。
天武は娘に近江朝の情報を内通させていたんじゃないだろうか?
2人の皇子の脱出も手引きしたんじゃないだろうか?
それじゃなかったら、あんまりにも手際がよすぎるような...。
そんな感じで考えてくと、天武の動きって堂々としてないでしょ。
まさに忍者的行動に見えてしまうんだな〜

天武天皇。
詳説あって判らないことも多いですが、

よそのスレッドでは少し恥ずかしいので(?)書けなかったのですか、
秦熱ならということで。

尾張の古文書にこんなことが書いてありました。

「皇極天皇 伊賀国地主一伏大明神之公家義宮 
 五拾七代之朝臣服部伊賀守平姓家純」←(これに関してはよく判りません教えてください)

皇極天皇といえば天武天皇のお母さんですよね。

天武天皇自身が忍者であったとは思えないけど、
背後にあったものは?と考えてしまいます。

天武天皇の忍者に多胡弥という人もいたらしいです。
胡=西域=秦氏を連想します。

以前、韓国に行った時、
百済と新羅では死んだ人の埋葬の仕方がちがうと言う人がいました。

新羅は土葬だけど(死体を焼かない)、
百済はインドから中国に入ってきた仏教だから火葬にする。

真偽のほどは判りませんが、
火葬というのはヒンズー教的ですよね。
インドとかバリ島を連想しますが。。

西域という乾燥した地域の人々が、
土葬(有力者は古墳か?)
高温多湿の地域では火葬が好まれるのかもしれないです。






[17]秦義則さんからのコメント(2003年07月22日 22時42分50秒 ) パスワード
  

昨日、休みだったので甲山から六甲へ行こうとして、
阪神タイガースがオープン戦前に祈願する事で有名な
西宮の広田神社に立ち寄りました。
http://www.kyoto-np.co.jp/news/flash/2003feb/28/CN2003022801000207F1H10.html
http://www.kumagaya.or.jp/~tigers/jinja/hirota.html
かなり、大きくて綺麗な神社なんですが、
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/2034/jinja/hirota/000225.html
結構歴史のある神社らしいのです。

由緒によると、
神功皇后が皇后摂政元年(201年)に新羅(しらぎ)遠征を行った帰り道、大坂の沖にさしかかると船が海上を回って進むことができなくなった。そのため、今の武庫川の河口のあたりに引き返し、皇后は神に祈りを捧げた。すると、まぶしい光が船をつつみ、四柱の神様が立たれ、皇后と話しをされた。神様の言葉に従い、皇后は天照大御神を廣田の森にお祀りしたという。

神功皇后・・・三韓征伐?に行き、応神天皇の母とされています。
その応神期にたくさんの秦氏がやってきているという、
この親子、なんとも怪しい・・・

応神天皇は大和じゃなく、九州生まれとか・・・

下のような説があるほど、怪しい・・・
http://www.kitombo.com/mikami/1112.html
[18]さちこさんからのコメント(2003年07月22日 23時49分46秒 ) パスワード
  

>この親子、なんとも怪しい

そうなんですよ秦さん!
三韓征伐などといって、
神功皇后実は新羅で妊娠してきたのではないの〜。
応仁天皇は誰の子か?
と思いますよね(笑)

(これレッドカードUか?)

仲哀天皇は本当に字からして可哀想です。
意味があったのでしょうね。

秦氏と阪神。
もし古代にプロ野球があったら秦氏一族阪神ファンそんなイメージです。

先日、東儀秀樹氏も言ってました。
きっぱりと「特に応援する球団はないが、昔からアンチ巨人です。」

関西のイベントなので決してリップサービスではないということで、
「今年は阪神応援してます!阪神好きです。」
との事でした。

私も特に贔屓のチームはないですが、
中日時代から星野監督が好きなので。

もしも古代にプロ野球があり、阪神が優勝したら。。。

秦河勝、感極まり道頓堀川に。。ドボ〜ン!
一族、後を続き「阪神ばんざ〜い!」
次々と川に飛び込む。

ふと見ると聖徳太子が。。。

「誰や誰や?どさくさにまぎれて聖徳太子を道頓堀に突き落としたん?」

「服部か?」わっははっ!(こんなイメージ)

それに対し藤原氏は。。
「やっぱり野球は巨人でしょ?」(こんなイメージ)

大阪市、
道頓堀の清掃作業始めてるようです。
大阪太田知事は町の美化のためで阪神優勝で道頓堀に飛び込む事を、
推進してるわけでないと言い訳してますが(笑)
おもろいな〜。

話、ずれてますね(笑)

阪神がんばれ!

[19]秦義則さんからのコメント(2003年07月23日 23時42分17秒 ) パスワード
  

恥ずかしながら〜今日、誕生日でした〜
ココにお邪魔するようになって、何度目かの誕生日です。
皆さんいつも、ありがとう!

阪神、強い!
また例年どうりかと、半信半疑(阪神半疑)だったのですが、
今年は優勝かな?

1番ファースト天日矛、2番サードスサノオ、3番ショート河勝!4番キャッチャー聖徳太子、5番ライト法然、6番セカンド少名彦、7番センター大国主命、8番レフト弓月君、代打、桓武天皇!・・・なんてね!

つよいぞ〜
[20]さちこさんからのコメント(2003年07月24日 21時32分57秒 ) パスワード
  

秦さん。
お誕生日おめでとうございます!

今年と違い去年は猛暑で秦バテ続出でした。懐かしい。。
あれから、もう一年ですか。。。

色々ありがとうございました。
来年もまた、
秦熱で御誕生日、迎える事が出来るように。

秦さんの投稿で色々なこと教えて頂きました。
本当に感謝です。

これからも秦氏及び服部家復活に頑張りましょう!
絶対に、影の存在で歴史から姿を消した一族ではないです。

野球があったので次は、サッカーネタ。

http://www.asukanet.gr.jp/asuka-daisuki/cont05_06_04kemari.htm

  ↑

明日香村蹴鞠保存会に関してのサイト。
秦氏。必見!

何故、服部さんや、勝川さんが?

不思議なのですよ。

蹴鞠といえば平安貴族が輪になっていたのを想像しますが、
古代は今のサッカーに似たルールだったそうです。






[21]秦義則さんからのコメント(2003年07月25日 21時48分53秒 ) パスワード
  

さちこさん、みなさん、ありがとう!

そうそう!去年は秦バテでした!
僕は熱まで出したのを覚えています。
なのに今年はまだ梅雨も明けず、
冷夏です!

もう一年ですね!

明日香村蹴鞠保存会
の代表が服部さんだなんて、因縁ですね!

みなさん、これからも宜しく!
[22]さちこさんからのコメント(2003年07月25日 22時49分45秒 ) パスワード
  

それに。
明日香村伝承芸能保存会、会長:勝川喜昭氏
ですよ!

勝川、下から読んだら、川勝です。

去年ニュースでワールドカップの事を取り上げた時、
明日香村の蹴鞠と、サッカーの共通点をあげてました。

詳しい事は抜きにして、
ゴールのネットの変わりに、
しめ縄が張ってあって相手のしめ縄を越えて
鞠を蹴り入れたら勝ちになるのだそうです。

「サッカーの発祥の地は明日香村!」

と言ってはしゃいでいたおじさんがいたけど、
あの人が服部さん?
[23]秦義則さんからのコメント(2003年07月28日 22時45分09秒 ) パスワード
  

神功皇后は本当に行ったのでしょうか?
仲哀天皇には大中津姫との間に香坂王と忍熊王という王子がいたそうです。
仲哀天皇が崩御し、皇后が凱旋して三韓征伐を果した上に、誉田別命(応神天皇)が生まれ、
天皇になれないのではないかと不安になった王子たちは神功皇后に反旗を翻したそうです。
中部以東(犬上の祖先倉見別、吉野の祖先五十狭茅宿禰)の兵を赤石(明石市)に集結して亡き父の墓を造ると言って淡路島の石を積みあげて要塞(明石城)とし神功皇后軍への大迎撃作戦をとったとか。
神功皇后軍は誉田別命を奉じて武内宿禰が敵の背後にあたる紀州の水戸に上陸するという経路と、皇后は明石海峡を通り、難波の住吉進むというものだったらしいのですが。
この話し、神武天皇の東征とダブって考えられる所があります。
事実、応神天皇=神武天皇とする説もあるようで、
とすると、神功皇后が朝鮮半島に渡ったのは、自分の正統性を認めさせに行ったのかもしれませんね。そして秦氏を連れて帰ってきた。
その時代、本当の歴史が隠されているのかもしれません。
[24]秦義則さんからのコメント(2003年08月24日 22時06分54秒 ) パスワード
  

お久しぶりです。
みなさんお元気ですか?
子供達の夏休みもわずかになってきましたね。

お盆に川西市の母親の実家に寄ったのですが、
仏壇に数百年前からあるという位牌があって、
家紋は引両紋、奥家、清和源氏に繋がる家系で、
1000年近く遡れる家系図があるとききました。
実際には見ていないのですが、
機会があったら見せてもらおうと思っています。

川西は源氏縁の地ですし、
北摂一帯を源氏が領有していたとか。

僕の秦家と奥家は代々姻戚関係を結んでいたようです。

池田、川西、箕面は西国街道で昔からにぎわった土地柄。
平家も源氏もこの主要街道を利用したんだと思います。

あまり知られていないですが、赤穂浪士の四十八番目の義士、萱野三平という人がいます。
萱野三平邸が今も箕面市にあります。
http://www2.city.minoh.osaka.jp/SYOUKOU/kayanosanpei.htm

この萱野を調べてみると、古代朝鮮の伽耶国に由来するとありました。
ここでも秦氏に繋がって行きます。
面白いHPがありましたので紹介しておきます。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page193.html
[25]albamaximaさんからのコメント(2003年08月25日 10時29分41秒 ) パスワード
  

突然、失礼します。

池田銀行の頭取も服部さんです。
http://www.ikedabank.co.jp/t/t0201.html

このHP、興味深いですね。

宝塚の山本にも松尾神社があって、隣の駅の中山には
聖徳太子の建てた中山寺があります。
山本は接木発祥の地で園芸がさかんです。
松尾大社には遠的の弓場もあります。
また、坂上(さかうえ)さんという人が多いです。

奈良の法隆寺の近くにも松尾寺があって、小さい頃から
奇妙に感じていて、そこから秦氏にはまっています。

また、丹波笹山に畑さんって名前も多いように思います。

これからも楽しみにしています。
[26]秦義則さんからのコメント(2003年08月25日 23時04分37秒 ) パスワード
  

albamaximaさん、はじめまして。
今後とも宜しくお願い致します。
僕達の住んでいる所は、本当に歴史の宝庫で、シルクロードなんですよね!

丹波や亀岡、京都、池田を初めとする北摂が僕の一族と関係の深いところなんです。
当然丹波には秦氏が多くいて、
家紋に丸に十の字が多いのですけど、島津氏もそうなんですよね。

山本は接木発祥の地といわれているんですが、
池田の細川も同じように言われています。

つまり、庭師の仕事、庭師には代々秦氏が多いのです。
確か、明治のころだったか、パリ万博で日本庭園を造ったのも秦氏でした。
庭師として出入りして、諜報活動をする人たちもいましたね。
お庭番です。忍者の事で、服部氏と関係が深い。

各神社に犬飼さんがいて、村の田畑を荒らす害獣駆除に活躍するんですけど、
狼と犬との混血で忍者犬、今で言う警察犬のようにも使われていましたね。
諜報活動の拠点として稲荷神社や八幡神社があるんです。
八幡神社は武士の守護神。
稲荷神社は空海が広めた。空海も秦氏に関連しているようですし・・・
どんどん、空想は膨らんで行くんです!

坂上さんも秦氏ですしね。

もう、いたるところ秦氏だらけです!

今後とも宜しくお願いします。
[27]albamaximaさんからのコメント(2003年08月26日 09時01分58秒 ) パスワード
  

秦さん、レスありがとうございます。

昨夜、明窓出版から発行されている、【後醍醐天皇・竹内文書】竹田日恵著、と
いう本を購入して読み始めました。
なんだか目がぱちぱちしてしまう内容で、ここでは何とも言えないのですが、
だれかご存知でしたらひとつ教えて下さい。

楠木正成は、秦氏と関係ありますか?
[28]秦義則さんからのコメント(2003年08月27日 21時04分28秒 ) パスワード
  

albamaximaさん、こんばんは
サンカ衆を研究したHP
http://www.kumanolife.com/index.html
に下記のような記述がありました。
参考にしてくださいね。


忍者や修験道と深く関係していた楠正成が活躍した南北朝時代からサンカを考えてみました。考えたと云っても、ほとんど何らかの本の受け売りにすぎません。南北朝時代を考えると、どうしても南朝贔屓になってしまうのですが、後醍醐天皇や楠正成達に代表される南朝方の人達に惹かれるからでしょうか。それとも南朝を支えた人達を想うとサンカを始めとした闇の住民達が浮かんでくるからでしょうか。楠正成と云えば南朝の大忠臣としての顔と、まつろわぬ 民を率いて奇想天外な戦術で北朝の武士団を翻弄させた山の民のリーダーとしての顔があるとされています。また楠正成は能の世阿弥と血縁関係があったとされ、山の民の聖地とされる天川とも深い関係があったようです。(熊野も山の民の聖地です)さらに楠正成は辰砂(水銀の原料で丹生とも呼ばれ、古代、中世において重要な物であり、また漂泊の民である山の民が渡り歩いた聖地霊山の多くは水銀・鉄・金・銀・銅を産出したところであり、水銀や鉄に関する神々が祭られている)とも深い関係があったと云われています。朱砂とも云われスサノオと結び付ける研究家もいるようです。そして朱砂、水銀は渡来系の秦一族とも深く関わっていたとされています。秦氏とは古代におけるハイテク技術を持った渡来系集団で、秦の始皇帝の五世孫と称していたようですが、その出自は謎とされていて、中国系ユダヤ人との説もあります 。その秦氏ですが、どうも古代王権に疎まれ、一族は各地に分断されたと云うことです。そしてなぜか南朝、後醍醐天皇を支えた勢力図と秦一族が分断され居住させられた地域が一致するとの話しがあります。そのことから南朝と秦一族が深く関係していたことが考えられます。伊賀服部氏が秦一族と深い関係があったとされ、楠正成との血縁関係もあったとされているので、秦一族が山の民とされた人達と融合したのかも知れません。サンカを代表とした山の民が、体制から除外された人達に対して同情の念を持つのは、同じ境遇にあった縄文の民として当然の心情だったのかも知れませんし、融合するだけの共通 の目的や価値観があったのかも知れません。これまた飛躍していますが、以前、山の民である山伏の様式が古代ユダヤの様式に通 じるものがあるとの話を聞いたことがありますが、秦氏がユダヤ系の渡来人ならば頷けるものがあります。スサノオとサンカについても書きたかったのですが別 の章にて書きます。
追記
僕の知人である、言霊に通じた人との共通の認識として、日本には太古、知られざる文明があり、その文明を断片的に受け継いだのが縄文?出雲族?の人達で、そして、その文明を目指して幾つかの民族が渡来し、縄文人と平和的 に融合したのがサンカを始めとした山の民のルーツではないかとの話を、信頼している方に話したところ【日本に「古事記」や「日本書紀」以前の文明があったのは、間違いないですね。 「知られざる文明」というより、 意図的に「隠された文明」と見ていますが、「竹内文書」や「宮下文書」を調べれば、 面白いことがわかるかもしれません。 「秦氏」や失われた「十(十二〜十三?)支族」に言及すると、 熊野ライフの品格を下げることになるかもしれませんね……。 少なくとも今の日本と、ユダヤ教徒国家イスラエルでは、 直接的には何の関係もないので、ページでは説明に時間がかかります。 古代ユダヤ人というより、シュメールからの流れは、 日本の成り立ちと深い関係がありますね……。 ただ、シュメール神話は、聖書や他の影響力ある書物と同じく、 為政者によって改竄されているので、 「ニビル」や「アヌンナキ」の話など、鵜呑みにしない方がよいと思います。】 との答えがかえってきました。その意図的に隠された文明を継承していたのがサンカの人達をはじめとした山の民であったと僕は感じています。

[29]albamaximaさんからのコメント(2003年08月27日 23時20分20秒 ) パスワード
  

秦さん、ありがとうございました。
先祖の一部が和歌山の紀ノ川上流の龍門山の中腹なのですが、その家の先祖が熊野水軍です。そういえばその辺りは丹生都姫神社がたくさんありました。

ある香道の家元の先祖は敏達天皇で家系図に、聖徳太子、楠正成(楠木は間違えらしいですね)などがいて、日本の文武や帝王学を一子相伝で伝えてきた家系らしいです。そして京都の方なのになぜか茨城の笠間稲荷で毎年特別な儀式を行われているようです。何度かお会いしたことがあるのですが、確かに意図的に何かを隠していらっしゃるようで、とてもミステリアスです。エジプトとも関係があるようなことを匂わせていらっしゃいます。

私が勝手に推測していることなのですが、日本文化は古いしきたり、例えば茶道などは袱紗のたたみ方、しまい方、足の運び方、お茶碗の扱い方など細かいことまで、古代からのしきたり通り行います。これは昔のしきたり通りの動作を受継いで行くことによって、自分の前世のことを無意識に思い出したり、前世の縁を呼び寄せたり、するのではないかと感じています。

例えば樹齢2000年の古木に出かけます。その木を前世の自分も前々世の自分も見てたかもしれないのです。その木の前で過去の自分と繋がるのです。そうすると時間はあってないようなもの(私はよく分かりませんが・・・)と言われておりますが、その問題までも、クリアできるのかもしれません。

お能のストーリーも何かを意図的に隠しながらも伝えているようですね。
「秘すれば花」でしたよね。
また、知ってしまうと、黙っていなくてはならないと自ずから感じること、もしくは言葉でなく以心伝心でしか伝えることができない何かなのかもしれません。

[30]さちこさんからのコメント(2003年08月27日 23時41分56秒 ) パスワード
  

少し夏休みで御無沙汰です。

秦さん、萱=伽耶。
貴重なお話しありがとうございます。

私の通っていた学校が萱生城跡にありました。
近江の八日市から伊勢へ繋がる八風街道沿いにあり、
この道は昔から近江の秦氏と伊勢の秦氏を経済的に繋ぐ道でもあったそうです。
鈴鹿山脈を隔て伊勢商人、近江商人です。

服部半蔵の墓。
代々半蔵家を世襲していた服部家の墓が、
桑名の萱町にあります。

九州旅行へしばらく行ってましたが、
鹿児島は面白いところです。
日本各地を旅すると当然、各県のお国柄というものがあります。
日本が均一的と言っても田舎へいくとやはり色々な風習があったり。
あ〜。
これが日本の元風景かとも思うのです。

でも!でも!
鹿児島は何か違う!

フェリーから降りて車を運転した瞬間、
「車は右側通交だった?左?」
そんな感覚を覚えました。

宮崎や大分へ行くと日本の風景だなという感覚があるんですが(笑)
何かが違う鹿児島!
いい意味で個性的な県だと感じました。
とても好きです。また、行ってみたいですたい。
言葉は宮崎や大分よりも発音がはきっりしていて判りやすい感じでした。

albamaximaさん。

楠木正成の時代、
秦氏渡来からかなりの年月が経ってるので、
血縁関係を結び帰化人秦氏も日本の国に定着し、
南朝系が秦氏とは言い切れませんが、
この時代にも秦氏なのか出雲系なのか、
はたまた、縄文系なのかよく判らないネットワークがあったのはおそらく事実です。

服部家も秦氏なのか、
それ以前の昔から機織りや呪術に関していた家なのかよく判りません。

ただやはり、
聖徳太子の時代には秦氏とは密接な関係があったと思われます。

楠木正成と伊賀の服部家が親戚関係にあったのは有名な話です。
[31]秦野さんからのコメント(2003年08月29日 17時40分58秒 ) パスワード
  

突然乱入してすいません、私は秦野といいます。
まだ高校生のガキです(笑)
私も、自分の名前にずっと疑問を持ってて、ここを見て
もしかしたら秦氏と何か関係があるかもしれないと思って
投稿させていただきました。m(_ _)m
和歌山に住んでいて、周りは秦野だらけです!!
近くに服部の集落もあります・・何か分かることがありましたら
お願いします!!
駄文失礼しました。
[32]albamaximaさんからのコメント(2003年08月30日 14時09分11秒 ) パスワード
  

秦野さん、こんにちは!
和歌山のどの辺りにお住いなのでしょうか?
近くの神社の由来など調べてみてはいかがでしょうか?
先祖のことを知ることはとても大事なことだと思います。
その過程でこの事象はご先祖様が喜ばれているのでは?導いて下さっているのでは?
と感じてしまうような不思議なこともあります。

名所旧跡を巡ったり、日本古来の文化に接したりしたときに、何かを感じると思うの
ですが、その感じを大事にしてみたらいいと思います。

[33]秦野さんからのコメント(2003年08月30日 18時59分27秒 ) パスワード
  

初めまして!
和歌山県の紀ノ川下流域に当たると思います。
分かりました!すぐ近くに神社があるので
調べてみますね!!ありがとうございます〜(*^▽^*)
[34]albamaximaさんからのコメント(2003年08月31日 00時22分32秒 ) パスワード
  

秋風の吹上に立てる白菊は
   花かあらぬか波の寄するか
          菅原 道真

の吹上は和歌山の紀ノ川下流域のことだそうです。
当時、菊の花はたいへん珍しく、そこは菊の名所だったらしいです。
なぜ、菊の名所だったのでしょう?
地元のあなたでなければなかなか調べられないことですね。
ぜひ、お願いします。
そして、謎が解けたら教えてくださいね。

[35]秦野さんからのコメント(2003年09月01日 21時58分50秒 ) パスワード
  

和歌山県史より抜粋
   寛平の御時せられる歌合に
   すなはまをつくりて菊にの花うえたりけるにくわえたりける歌
   吹上の浜のかたに菊うえたりけるをよめる
  秋風のふきあげにたてるしら菊は 花があらぬか波の音する
          藤原朝臣
とありましたが・・・このことでしょうか??
もう少し調べてみます!

[36]秦義則さんからのコメント(2003年09月01日 23時07分25秒 ) パスワード
  

秦野さん今晩は!

僕とは遠いところでつながっているかもね。
僕は池田氏出身で秦氏の伝説の町です。
血族は亀岡や京都、丹波につながっています。

丹波には昔、新羅からやってきた天日矛という人がいて、その子孫に田島守がいます。
彼は橘を日本に広めたことで有名で、
そのひとつが和歌山なんですよ。
伊予もそうなんだけどね。

紀ノ川で有名な紀氏がいるけど、秦氏との関連もあるようですね。
熊の水軍の地、神武は苦戦して和歌山から上陸し大和をめざした地。

ヤタガラスでも有名でサッカー発祥の地、

和歌山も秦氏と深くかかわっていると思いますよ。

これからもよろしくね!
[37]albamaximaさんからのコメント(2003年09月03日 09時33分29秒 ) パスワード
  

秦野さん

和歌山県史に出てくる藤原朝臣のお歌、菅原道真のお歌とそっくりですね。
藤原朝臣というお方は紀ノ川上流に八角円堂を建てていらっしゃる藤原武智麻呂と
いうお方ですね。

秋風の吹上に立てる白菊は 花かあらぬか浪のよするか

私の推測では
白菊=白山の菊理姫=新羅の神=新羅
花と浪=新羅の花郎(ファラン)=新羅の美しい兵士(お化粧していたらしい)

★お稚児さんは男の子でもお化粧してますし、お相撲さんの回しは化粧回しといいますよね。

ということを意味していて、吹上辺りで起こった大事な歴史的な事件を隠して伝え
ているような気がしています。

藤原朝臣のお歌も気になりますね。
[38]ななしさんからのコメント(2003年09月25日 11時18分59秒 ) パスワード
  

秦さんへ

はじめまして、ななしと言います。

山の民で亡くなった明治生まれの祖父(1899年生まれ)が
言っていた事を思い出しました。

細かいところは忘れてしまいましたが
おおよそ下の通りだったかと。

山にはおそろしい(畏しい?)人もいる。
山の人は普通の人以上に力があったり、
一日で何里も移動できたりするが
姿形は人と多少違っているらしい…。
ある民家で惨殺事件があったが犯人は山の民であると
噂されている。
なぜなら、人の仕業とは思えない程ひどかったから。
(上の事件を祖父が小さい頃に神戸あたりで聞いた模様)

祖父の話を聞いて、
明治の頃の山の民への「畏怖」を感じます。
明治の頃はまだ、山の民がいると世間で
認識されていたようですね。

それと、空海が秦氏と関わりあるとしたら
とても不思議な気がします。

私の母方の祖父の家は隠れ里で
平家の落人の里と言われています。

そこで、信仰されているのは天照大神と
真言宗なのです。
特に空海(弘法大師)を熱心に信仰しています。
故に江戸時代、空海のご紋にちなんで
屋号を柏屋としたくらいですから。

それに、真言宗は明らかに
他の宗派と一線を画す所があります。
それは、一番えらいのを大日如来とする所です。
あくまで、お釈迦様は預言者というか
大日如来のご使者という事になってるかと。
なので、神仏混交において真言宗と天照大神を
一緒に祀っていたようです。

そんな、弘法大師が秦氏と関わりがあったとしたら
もしかしたら秦氏と天孫の和解を求めていたのかも??

すみません。最後のあたりは少し興奮のあまり
飛躍しすぎかも…。

では、失礼します。

[39]秦義則さんからのコメント(2003年09月26日 23時39分20秒 ) パスワード
  

ななしさん、はじめまして!
 
弘法大師空海のと秦氏の関係から言うと、弘法大師の師として知られる伝灯大法師勤操大徳は
弘法大師の『勤操大徳影の讃序』によると、父は秦氏、母は嶋史氏であると伝えられています。
つまり、勤操大徳自身が秦氏なんです。

日本の神社で一番数の多いのが稲荷神社で、その総本社は京都の伏見稲荷。
伏見稲荷は秦氏の氏神で、
そしてこの神社を全国的な神社に発展させたのも弘法大師空なんですよ。
二番目に多いのが八幡神社で、これも秦氏の氏神。

惟喬親王を祖とする山の民、木地師。
木地師の里、滋賀県永源寺町にある蛭谷と君ヶ畑。この村は六畑のひとつで、秦氏の里でもあったのです。

新羅の神、スサノオ。秦氏の神であり、山の民サンカの神でもあったのです。

三韓征伐に行った神功皇后とその皇子、応神天皇。
側近の武内の宿彌

応神期に大勢の秦氏が渡来しているんです。

聖徳太子と秦河勝など古代史の謎解きですね。

これからもよろしく!

[40]えりかさんからのコメント(2003年10月03日 22時34分07秒 ) パスワード
  

はじめまして。全く関係ない内要でごめんなさい。
TVでみていってみたいと思い、探したのですがどうしても見つかりません。
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、おしえてください。

多分場所は、中国のしん(秦?耳できいただけなので違うかもしれませんが)
ナレーションでは、水面に浮かんだ神殿と言ってたこと。水の都といってました。
そこには中国の仏様がいらっしゃいました。
水面に浮かんだ、日本で言うと宮島みたいな感じです。
赤い柱で、漆ぬりっぽい神社です。
中には船の形をした大きな置物(結構おおきかったので本当の船かもしれません)
どなたかご存知のかた、または似た感じの所をしってたらおしえてください。
お願いします。
[41]秦義則さんからのコメント(2003年10月04日 23時18分52秒 ) パスワード
  

えりかさん、はじめまして。
中国で水の都といえば蘇州なんですが・・・
上海から列車で1時間ぐらいのところ、
古くは三国志で有名な呉の国です。

秦の時代に立てられた寺院なんでしょうか?
ちょっと、まだわかりません。
ごめんなさいね。
[42]秦義則さんからのコメント(2003年10月04日 23時54分08秒 ) パスワード
  

神功皇后は5世紀ごろに三韓征伐と偽って大陸に渡っているんだけど、実際のところ、後ろ盾がほしくて新羅へ渡ったのではないでしょうか?新羅との密約が成立し、応神天皇のときに秦氏がどっと渡来してきます。そして、九州、豊国に秦王国を築いた後、出雲や吉備や畿内に勢力を拡大して行くんだと思います。
欽明天皇の即位(539?)には秦の大津父が深くかかわっているようです。
その時代の勢力地図に百済系の天孫族と新羅系、高句麗系があったのだと思いますが、
天王星が万世一系でなかった頃、それぞれの支援があって大王を決めていたんでしょうね。
物部氏と百済系蘇我氏は宗教で対立し、百済仏教の蘇我氏が勝ったのでしょうけど、
聖徳太子(574-622)は何故か百済系じゃなくて新羅系仏教を進めようとして、蘇我氏と対立するようになる。
太秦、広隆寺(秦河勝が603年に建立)の弥勒菩薩は明らかに新羅のものでしょう。蘇我氏が天皇を揺り動かすほどの勢力を持つことを危惧し新羅系秦氏をバックにつけ蘇我氏と互角に渡り合える力をつけたのでしょうね。
ただ、秦氏は新羅仏教の中に原始キリスト教の理念も植え込んだのだと思います。弥勒菩薩そのものがメシア思想の典型だと思います。
聖徳太子は後世につけられた名で厩戸皇子と言うのですが、これは厩で生まれたキリストと同じ意味ですね。聖徳太子そのものがメシアだったのでしょうね。
蘇我氏にしても、「我は蘇り」と聖書にある言葉のようですし、「秦」という字をバラバラにすると、「三・人・ノ・木」となり原始キリスト教に通じる精神を表しているという人もあります。
秦伊呂巨によって和銅四年711年に建立された伏見稲荷。空海は東寺の守護に稲荷神を当たらせているし、稲荷神社とともに真言密教を広げています。空海も真言密教を広げるのに秦氏の後ろ盾が必要だったと思われます。真言密教の中にカバラの要素が含まれているんだと思います。
阿部晴明につながる陰陽師にもカバラが入っているんでしょうね。
闇の世界に秦氏がいた、それは、太子信仰のタイシとも、サンカともいわれ、惟喬親王を祖とする木地師にもつながってるんだと思います。闇の歴史に秦氏ありです。
[43]ハタでなくシンさんからのコメント(2003年10月10日 00時38分00秒 ) パスワード
  

話を外れてよいでしょうか?大分には秦を「ハタ」ではなく「シン」と読む方がおられますが、この「ハタ」と「シン」では何か系統が違うのでしょうか?ご存知でしょうか。
[44]秦義則さんからのコメント(2003年10月10日 22時19分41秒 ) パスワード
  

はじめまして!

シンと読む人がいること知っていました。
やっぱり九州に多いですか?

弓月の君、一行が日本にやってきて九州に秦王国を築いたのです。
当時、自分達は秦の始皇帝の末裔といって大陸から渡ってきたとしたら、
自分達の名をシンと発音してもおかしくないと思います。

ハタというのは、古代朝鮮語で海を意味する言葉だったらしいから、
海から来た人という意味の当て字だったのでしょうね。

だから、自分達を海を渡ってきた人と、名づけた人と、自分達を自らシンと発音した人とがいたのかもしれません。

九州のほうがより原型に近いのかもしれませんね。

僕自身は京都嵯峨野から、丹波系です。

九州の佐賀や大分を中心とした宇佐や豊国も秦氏系です。

元は同じ何でしょうね。
[45]ハタでなくシンさんからのコメント(2003年10月11日 10時04分46秒 ) パスワード
  

ご返答有難うございます。
うう〜ん、九州でも「ハタ」がほとんどのような気もしますが、学生時代に
九州を周った時に気付いたことで、豊前(宇佐)辺りでは「ハタ」でしたが、
豊後:大分(豊国?)までいくと「シン」と発音するようです(電話帳より)。
この「シン」という発音から、中国やインドの「シン」と発音する人とも
関連があるのか解りませんが、これらの大元はもっと西のほうまで行って
しまうのでしょうかねえ? いずれにせよ有難うござましたお邪魔しました。


[46]ハタでなくシンさんからのコメント(2003年10月11日 20時32分12秒 ) パスワード
  

ちょっと見つけたので。多分ご存知でしょうけど。

http://www3.coara.or.jp/~primrose/kawara4.html

ほんとにお邪魔しました。失礼します。
[47]さちこさんからのコメント(2003年10月11日 22時53分46秒 ) パスワード
  

ハタでなくシン様

はじめまして!

貴重なご意見ありがとうございます。
どうぞご遠慮なくご意見下さい。
大変興味深いお話しですので。

秦が何故日本にきて「はた」
と発音されるようになったか?

中国にしても、朝鮮半島にしても、
秦は、シン、チン等と発音してます。

韓国では済州島に秦さんが多いそうです。
でも日本とは発音が違うのですよ。
やはり、シンさん。


服部と書いて読めない、ハットリ。
秦と書いて読めない、 ハタ。
ハットリ=ハタ。
語源は同じ説は、私なりに色々調べて多分間違いないと思います。

香春神社、
平野国臣を思い出します。

「我が胸の燃える思いに比べれば煙は低し桜島山」

薩摩と桜島の雄志をたたえる詩とされてますが。??
何故このように解釈されたのか不思議です。
[48]さちこさんからのコメント(2003年10月11日 22時58分57秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年10月11日 23時00分03秒
[49]さちこさんからのコメント(2003年10月11日 23時22分55秒 ) パスワード
  

「我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し桜島山」
が正しいです。失礼しました。

服部家と薩摩少し面白い物があったので。

http://www.minaminippon.co.jp/bunka/hayato/9-7.htm

 薩摩のために代々働いた長崎の商家、服部家の墓があった。 
 墓には誇らしげに薩摩に仕えたことが刻まれていた。
 商人を通じ、ライバルである長崎の動向を常にうかがっていたのだろう。
 全国で行商する富山の売薬商人とも結託していた。

薩摩の服部家、
国分煙草の栽培を始めたのが、
伊賀の服部家からでた服部宗重でしたね。
島津家も秦氏だし。。

江戸時代にも何らかの秦氏一族のネットワークがあったのでは?
そんな思いがする今日この頃です(笑)



[50]田中愛造さんからのコメント(2003年10月13日 02時10分48秒 ) パスワード
  

おじゃまします。
秦の語源は、ご存知の如く、中国の通称(シン)ですが、日本では(ハタ・古くは・はだ)とも読まれており、朝鮮では(チ゛ン)といい、韓国氏族名発祥地は(豊基・プンキ)と(晋州・ジンジュ)から出ています。然し、日本読みではチ゛ンはシンでしよう。  因みに、宇佐八幡宮の辛島氏も、韓島氏と云われた時代があります。
  私の記憶違いでしたら、お許しください。
[51]秦義則さんからのコメント(2003年10月13日 12時12分25秒 ) パスワード
  

はちこさん、お久しぶりです。
田中さんはじめまして!
貴重な情報ありがとうございます。

服部家はすごいですね!
江戸時代にも大活躍。

はっとり、と、はたとは元は同じだよね。
くれはとり、あやはとり、服部、僕の近くの服部天神は秦氏ゆかりだし。

富山の薬売り、大和の薬売り、イガの忍者、みんな服部さんの親戚かな?
[52]さちこさんからのコメント(2003年10月13日 21時24分45秒 ) パスワード
  

薬売りは侮れないです。
我家の常備薬は奈良、橿原です。
半年に一度薬屋さんがやってくるのです。

橿原神宮の近くですね。
ここの薬効くのですよ。

熊の胆とか鹿のなんとか?
今は売ることが出来なくなったものもあるそうですが。

ドラッグストアー出来て薬売りもあきまへんな〜などと、
愚痴をこぼしていくのですが、
結構色々な情報知っているのです。

「もう自分の代で終わりやろ」

そんな事を言ってます。

私は子供の頃からお腹が痛いときや、
風邪をひいた時ここの薬を飲んできました。

天狗印の薬屋さん。
ずっと残っていて欲しいです。

田中さん。
いつもありがとうございます。

何故、はた=はっとり、語源は同じ説かというと、
私自身、電話などで急いでいる時、
「ハットリです。」
とゆっくり言わず。

「ハッティです」になってます。

逆にかかってくるときも、
「ハテェさん?」
になるのです。

服部家なら判るはず(笑)

以前、韓国の慶州にいきました。
時間がなっかたのでタクシーで観光しました。

運転手さんは日本語が少し得意な方で、
「はっちりぃさん」と発音してました。

ある遺跡についた時、
日本語のボランティアガイドが案内するということででした。
なんやら怪しい話だなと思ったのですが、
日本語を勉強しているという可愛い女子大生だったので、
まあいいか、騙されてもと思いついていきました。(笑)

彼女ははすごく、
親日的で日本文化のことも知っていて、
日本語も堪能でした。
でもやはり、「ハットリ」とは、はっきり発音できませんでした。

ハッデェさんという感じかな?

親切に案内が終わった後、きました!
「ハッデェさん、私は学生で、近くの土産物屋でアルバイトしてます、
 買わなくてもいいですからよかったら覗いて下さい」

やはりな。。
と思いつつ、ここはお人よしの日本人で良かろう、
そう思い行きました。

この店では日本語バッチリのおばちゃんが、
てぐすね引いて待ってました。

「ハタさん、お待ちしてました!」

韓国では、半日で、
ハットリがハタに化けたお話しでした!!


ハタとは何か?
昔は、ハタ=ハダ=ハディ=ハドリ=ハットリ
が考えられます。

伊賀では製鉄が盛んだったという話。

http://www.iwashinbun.co.jp/data/people/peaple57.html

製鉄のヒッタイト、これは欧米的発音で、
自らはハッティと発音していたそうです。

製鉄技術をもった者を古代日本では、
ハタ、ハトリと発音したのではないかと思うのですが。

伊賀の敢国神社をはじめ、
伊賀には製鉄を
関連させる神社が多いです。
[53]秦義則さんからのコメント(2003年10月13日 22時53分41秒 ) パスワード
  

僕自身、さちこさん、というところ、
キーボードの打ち間違いで、
はちこさん、と書いてしまって、すいませんでした!

と思っていたら、必ずしも間違いじゃなかったんですね。

はち、八、鉢は秦氏と関連する文字

はち=ハッデェ=ハディ==ハドリ=ハットリ

服部さんだ〜

ということで、お許しください。

服部一族と秦氏一族、絶対親戚だよね!

子供の頃、僕のうちに大和の薬売りがよく来ていて、
おまけに紙風船をもらいました。
虚無僧も来ていて、お金をあげていました。

僕のお婆ちゃん今年の4月で満100歳になったのだけど、
大和高山の井上家の出で、茶筅の里、竹を切り出し、干して薄く削って、先を割って作るんです。
先の本数が多いほど高価で、また、褐色の煤竹を使ったものも高価ですね。
僕の家にももらった茶筅が数本あります。
結構器用じゃないとできない仕事。

そのお婆ちゃんの母、つまり、曾婆ちゃんは加藤家の出、
清正と繋がるらしい。
僕の母は奥家、足利家に繋がるらしく、多田源氏系。
父はもちろん秦一族ですが・・・

ルーツって面白いですね。みんなが親戚になってしまいそうですね。
[54]ハタでなくシンさんからのコメント(2003年10月26日 22時31分50秒 ) パスワード
  

またおじゃまします。この秦氏シリーズNo4まで続いてますが、シリーズNo1だけが探せなかったので、初さんがたまたまそのシリーズNo1に書き込みしてくれたことで読むことができました。有難うございます。一般的に秦氏は大陸から渡来してきた人と思ってましたので、何回もいくつも別々に渡来して同じ一族というわけではなかったと感じてますが、いかがでしょうか?全ての文化を持ち込んでくる海の向こうの人たちの総称にも感じてます。当時、日本の人口のかなりの%で、渡来人がいたようにも思えますし、実はほとんどがそうではないかとも考えます。
[55]秦義則さんからのコメント(2003年10月27日 22時31分18秒 ) パスワード
  

おひさです。
弥生人そのものが、渡来人といえば渡来人なんでしょうね。
九州福岡からの距離は、大阪までと、韓国のソウルまでとがほぼ同じなんです。
ただ、地続きか海があるかで、ずいぶんと違いはあるけれど、
島伝いに、九州にやってくるのは、それほど大変じゃなかったのかもしれませんよ。
三国志の時代に呉は大きな軍艦を作る技術がありました。

ただ、渡来系種族にそれぞれの神とか、トーテムを持っていたと思うので、
秦氏が日本にやってきた渡来人全ての総称だとは思えません。
天孫族は秦氏を区別して卑しい身分に落としてしまいましたから。
漢氏も渡来系だし蘇我氏も紀氏も辛島氏も賀茂氏も中臣氏も物部氏も渡来系だらけ

トーテムについては賀茂氏(鳥族)ツヌガアラシト(牛族)スサノオ(牛)辛島氏(兎)ナガスネヒコ(馬)
なんて、考えられないでしょうか?
自分達は秦氏じゃないと言った人たちもいたはずで、特に百済系や高句麗系は新羅系との違いをはっきりさせたかったと思いますよ。
当時の天皇家が百済系に近かったからだと思います。

ただ、秦氏は単に新羅というのではなく、もっと西域から来ているように思いますが・・・弓月国、そしてその西、大秦(シリアのほう)まで、ルーツがあるように思えるのです。
それはユダヤを迫害したのと似ているような気がしてならないのですが・・・
[56]さんからのコメント(2003年10月27日 22時51分14秒 ) パスワード
  

ハタでなくシンさん

すいません、初です。 偶然見つけた1だったのですが、このHP
もの凄い情報量ですね、秦氏シリーズも4まであったなんてびっくりです。
フツツカものですがよろしくお願いします。

私は秦氏に興味が絶えません。
秦氏の相対する氏として、藤原や蘇我より
東漢氏が気になる今日この頃です。というのも、以前は秦氏より、東漢氏が史書の裏に暗躍していたと考えていたからなのですが、
それは、中国南北朝を経て隋になり漢族は史上初めて国を失い、
気がつくと、日本だけが漢の地だったからです。
鮮卑(隋、唐)を認めない、漢帝のみを帝とみる勢力が日本に
必ず吹溜りだったはずで、それが東漢氏だと仮説を立てていたからです。
それは滅亡の百済もまた、漢の陣地であり、 秦氏は景教という面もありますが、漢帝に憧れない大陸人勢力だったと思えるのです。



[57]さちこさんからのコメント(2003年10月29日 00時57分04秒 ) パスワード
  

初さん。

ようこそ秦熱へ!

他の書き込みでご存知かも知れませんが、
私はあまり歴史に詳しくなく思いついたまま書き込んでます。

漢はアヤと読みますよね。
秦のハタと同じく何故?
不思議です。

何度も書いたかも知れないけど、
うちの先祖は、あやはとり、くれはとり、
という、機織りを伝えた帰化人だったと伝わってきました。

あやはとりは、漢服、漢織とも書き、
記紀などや、古代史を知れべた資料では、
あやはとり、くれはとりの伝承は東漢系とされてます。

もしかしたら今まで書いてなかったけど、
中国人であることを我家は主張してました。
中国からの帰化人だったと、
秦氏も同じですけど。
見栄で中国系としたのかどうかは判りません。

漢氏というのは百済系で、蘇我氏と親密だったとされますが、
我が先祖のアヤハトリ、クレハトリは、
神社の祀神等を調べると秦氏とは親密すぎるのです(笑)

たとえば太秦です。
広隆寺に太秦澱というのがあるのですが、
秦河勝と、あやはとり、くれはとりが祀ってあります。

太秦に限らずアヤハトリ等、織姫の伝承があるところは必ず秦氏絡みです。

あやはとり、初代くノ一?
[58]ハタでなくシンさんからのコメント(2003年10月29日 01時18分27秒 ) パスワード
  

初さん、わたしも新参者でして、まったくの初心者・まだまだであります。
秦さん、ユダヤ系とダブらせるとすれば、結局は現在の中東の情勢と同じことを渡来当時からこの島国でも(宗教戦争?)してたってことにもなるのでしょうかねえ。
・・・うう〜ん、秦の読み「ハタ」「シン」についてを何気なく検索して見つけたことでこんなに深いもので、またハマッてしまうとは思いもしなかったです。
表に出ないということは出せない何かがあるか、知らぬが仏であったほうがよかったりして・・・・。
[59]さんからのコメント(2003年10月29日 04時47分27秒 ) パスワード
  

さちこさん
レスありがとうございます。

呉はとりとは、凄いですねー まさに東漢氏でしょうか?
書記には、400年代に呉(宋)より織物技術者がきた とあったと記憶してます。まさに漢人だったのでしょう。 その後、中国人とは、万里北方の五胡族に滅ぼされる寸前まで行った上で混血の道を行き現在の中国人となるのですから、この頃の漢人こそが本当の中国人だろうと思っています。
宋とむすんでいたのは、百済と倭ですから両方とも漢人が流入していたと思いますが彼らからみれば、有史以来万里北方の民族を帝とした事はなく同族の土地が侵略されてきた、憎い隋唐とそれに加担する勢力こそが敵だったと考えられます。
隋帝に東の天子宣言したのは、この漢族より洗脳された当時の朝廷だったと
思います。そして秦氏は新羅系とも弓月国とも言われますが漢帝とは全く無関係な大陸人。 漢を継いだつもりの天子の朝廷が、次第に隋唐新羅系に加担する秦氏による勢力に押されていき、蘇我氏の反乱がおき、
そして百済が破れ、東漢氏も時代の趨勢は隋唐新羅という事を認める事となり
次第に、秦と東漢氏も同じ渡来という事で仲良くなっていき広隆寺に呉さんも
まつられるようになる。
こんなことを想像してみます。
[60]小林雅成さんからのコメント(2003年10月30日 12時11分33秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

横レスします。

>漢はアヤと読みますよね。
>秦のハタと同じく何故?
>不思議です。
アヤは漢字で書くと【綾】でして、例えば、香川県には古くから讃岐綾氏族という一族がおりました。東漢(やまとのあや)や、西漢(かわちのあや)もありましたね。糸偏ですので、織物の一種ですね。
ハタとの関連で、説明すると秦(state's name)に機織りのハタ(profession)の読みを合成させた感じで、漢(state's name)は綾のアヤ(profession or product)を重ねたのです。

以上、うんちくおやじでした(^^;)

[61]秦義則さんからのコメント(2003年10月30日 14時54分38秒 ) パスワード
  

さちこさん、こんにちは!
シンさんこんにちは!
初さん、始めまして!

僕の生まれた町、池田市はアヤハトリ、クレハトリの伝説の町。
呉羽町、綾羽町のある町、絹延、木ノ部のある町
二人とも池田で亡くなっていて、お墓が有るという町です。

ぼくも、クレハトリ、アヤハトリがうちの先祖と言われて育ちました。
やっぱり、親戚か〜
[62]つげとしさんからのコメント(2003年10月30日 23時43分25秒 ) パスワード
  

さちこさん、秦さんこんにちは!
シンさん、初さん、初めまして!

池田市のとなりの、箕面市には
「秦野」「萱野」「闘鶏野」という地名が並んで
残っているそうです。
近くの高槻市には「闘鶏(つげ)野神社」「闘鶏山古墳」

奈良県の「都祁」の周辺の地名にも、
そして三重県、伊賀の「柘植」の近くにも
ハタを感じます。

私の住んでいる三河でも、どうも近くにハタを
感じるこのごろです。

やっぱり、お隣さんか〜   です。
[63]秦義則さんからのコメント(2003年10月31日 21時49分30秒 ) パスワード
  

つげさん、お久しぶりです。
池田に秦野って、当然あるんですが、箕面には萱野がありますね。
このスレッドの「24」にも書き込みましたが、
萱野三平で有名なのですが、
萱が伽耶国に由来するとか。
面白いHPありましたので参考に。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page193.html

茨木から高槻にかけて三島という地域があるけど、
御島、朝鮮半島を指すという説もあって、
三島溝くい神社などは、賀茂氏とかかわりが深いとか・・・

三島、百済、新羅、高句麗を表しているとか・・・

北摂津は謎めいた地域ですね。
継体天皇陵や中臣鎌足の古墳といわれるものなどもあるしね。

つげさんも親戚だね〜
[64]さちこさんからのコメント(2003年10月31日 22時56分10秒 ) パスワード
  

つげとしさ〜ん。

ご無沙汰です。
久し振りの投稿嬉しかったです!

何か新しい発見ありましたか?

もしかしたら、
秦熱ではご存知ない方もということで、

柘植(つげ)家というのは昔伊賀において、
服部家と並ぶ有力者でした。

何のご縁があってか箕面には親戚が沢山います。
私は繊維関係の自営業を父からついでいるのですが、
大阪の船場に生まれました。

船場言葉で有名ですよね。


この船場の繊維問屋街、
高度成長期に箕面に移ったのですよ。

万博のあった頃です。

箕面には毎日電話してるし、かかってくるし、
ご縁があるの不思議です。

三河は一癖ありますね(笑)

小林さんいつもありがとうございます。
シンさん、初さんこれからもよろしくお願いします。

少し愚痴になるけれど、
ここのところ、
父の介護で大変です。

日によって症状が違うのです。
車に乗ってあちこち出かけるかと思うと、
ベッドから起き上がることも出来なくてトイレへもいけない。

思いついたらあちこちふらふら、
ボケてるんだとおもったら、

「さちこ、ここに座れと〜」と
仏壇の前で説教しだすし。。。とほほ。。です。

秦さん専門かな?

こんなでゆっくり書き込めなくてごめんなさい。
では、また。





[65]秦義則さんからのコメント(2003年11月01日 23時55分31秒 ) パスワード
  

さちこさんは、船場のこいさんでしたか〜
箕面の船場に時々行くよ。
すごく近くにあります。

さちこさんが箕面と関係あるとはびっくりしました!
池田、豊中、箕面、吹田、茨木、高槻、枚方、川西、伊丹、
僕の行動範囲です。

そう、万博の頃に移ってきたね。
市内の船場にも時々行くよ。

お父さんのこと、大変ですね。
近かったら、ヘルパーとして行くんだけどね。
[66]秦義則さんからのコメント(2003年12月29日 08時38分38秒 ) パスワード
  

今年も押し詰まり、みなさん、如何されていますか?

昨日時空警察という番組の中で、聖徳太子暗殺のなぞに迫るというのがありましたが、
はっきりと、聖徳太子と景教の関係を肯定していましたね。
実際の暗殺された年と昇天した年が1年ずれているのもキリストのように復活したからとか・・・

秦氏の故郷も西域、ペルシャまで繋がっているとはっきり言っていましたし、
ここで、やり取りしているような内容がマスコミでも言われるようになったというのは進歩だと思われます。

今年も後少し、来年も宜しくお願いいたします。
[67]秦義則さんからのコメント(2004年01月01日 22時33分08秒 ) パスワード
  

明けましておめでとうございます。

今日は宝塚市にある中山観音http://nakayamadera.or.jp/
に初詣に行ってまいりました。
聖徳太子が創建したといわれている観音霊場であり、弘法大師も修行に訪れたお堂があり、その横にはお稲荷さんが祭られていました。

ここにも秦氏の影が見え隠れしています。

シルクロードの終着駅、日本に仏教とともに持ち込まれたキリスト教があったのですね。
聖徳太子から秦河勝がいただいた弥勒菩薩。その手の形は西域に残されたキリストを描いた壁画と同じ、三身一体を表しているそうです。
弥勒菩薩そのものが救世主という意味でもあるとか・・・

フランシスコザビエルが日本で布教を始めたとき、既に福音はなされていたと本国に手紙を送ったのは有名な話です。
関西にキリシタン大名がたくさん生まれたのも、短期間にあれほど多くの人々が信仰したのも、古来より何か下地があったのかも知れませんね。

以前は秦氏が西域に繋がるなんて荒唐無稽と思っていたのですが、
この掲示板に出会ってから、あながち眉唾とは思えなくなりました。


[68]ななしさんからのコメント(2004年01月05日 22時46分29秒 ) パスワード
  

皆様、お久しぶりです。

大したこっちゃないのですが、
「自称」(ななし的には貴種への憧れによる
こじ付けのように感じてますけど…)
平家の子孫である我が一族について
カミングアウト(笑)致したく書きこみを致しました。

以前は、先代から、「言ったらあかん!」的な
指導を受けていた為、きちんとお話出来ませんでしたが
ご先祖供養が一段落したのでカミングアウトする良い機会と
思った次第です。
皆様のお役に立ちましたら、これに勝る幸せはございません。

それと、明治のはじめ頃、ななしの曽祖父のせいで
一家離散の憂き目にあい蔵も焼けてしまった為
断片的にしか、ななしは聞いていません。
ですので、ななしが聞いた範囲で我が家について
書きこませて頂きます。
申し訳ありません^^;;。

どこから書いたら良くわかりませんが、ちょっと変った風習?が
あるのでそれを書き込みます。

えっと、我が一族には「シャーマン」の役目を担う人間を
一族の中から一代飛ばして一子相伝で受け継いで参りました。
(つまり祖父から長男の子供(孫)へ継がれるという事)
「シャーマン」の役目とは「弘法大師様」の
お告げを聞く役目です。
そして、お告げに従って家業を切り盛りして財を成しました。
例えば、来年は米が不作になるからお米を取っておきなさい等…。

我一族は戦国期には水軍をしたり海賊をしていた特技?を
生かし江戸時代中はずっと船問屋(先物取引のようなものも)を致しておりました
(淡路城城下町に商売で使っていた町屋が残っています。)

その為だと思われるのですが、
我が一族は明治のはじめ頃まで血族結婚のみしか行いませんでした。
しかし、明治のはじめ頃、曽祖父が外の人間を嫁に迎え
一子相伝が崩れてしまいました…。

以上

すみません。もっと色々カミングアウトしようかと
思ったんですが、こんがらがってしまって良くまとめられません^^;;。

皆様としては、どのような事に興味があるのでしょうか。

では、失礼致します




[69]さちこさんからのコメント(2004年05月12日 10時00分55秒 ) パスワード
  

観世家宗家。秦熱に感染か?

http://www.sankei.co.jp/edit/bunka/2003/july/kiji/0728zeami.html

少し古い話題なのですが検索してたらひっかかりましたの紹介します。
450年間廃絶していた神功皇后の伝説を主題とした、
「箱崎」を復曲したという話題です。

宗家曰く。

 世阿弥も渡来人の秦氏の末裔(まつえい)に違いない。
 能楽のルーツ探しの旅じゃないけど、北九州一帯を扱った作品は、
 朝鮮半島を意識せざるを得ない空気を感じます。

何を今さらと言う気もしないでもないですが(笑)
これ以外にも廃絶されたものがきっと沢山あるのだろうと思います。
秦氏のルーツの手がかりになるものも。
今後のご活躍に期待したいです。

で、箱崎宮が気になって検索したら面白い物がでてきました。
ぜひ読んでみてください。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/spe-3/shonin/shonin_02/shonin_030508.htm

これが史実かは判りませんが、
貞重。いかにも平家、服部家という感じで話ができすぎている感じですね。(笑)
世阿弥のお導きでしょうか?







[70]らん丸さんからのコメント(2004年08月19日 12時34分31秒 ) パスワード
  

何かの本で読んだことがありますが、秦氏は渡来人系ですが、朝鮮・中国系ではなくユダヤ系ではないかという説です。
秦氏の「秦」という意味は当時の中国で「西域の彼方にある自分達と変わらぬ文化を誇る国」(漢時代におけるローマ帝国、唐時代におけるイスラム帝国)というもので、秦氏が渡来した時代、中国にはローマ人もユダヤ人(ローマ軍によるエルサレム陥落以降、中国にやってきて土着した人達も多く、劉少奇国家主席(文革の犠牲になった人)もその末裔だそうです。)も数多く住んでいたのであながちトンデモ史観とは言えないです。さらに、聖徳太子の伝説(キリスト伝説そのものと言える内容)の発端でもあるネストリウス派キリスト教(中国において「景教」と呼ばれた)の伝来にも一枚絡んでいるそうです。
[71]さちこさんからのコメント(2004年10月01日 22時43分05秒 ) パスワード
  

http://www.pr-g.co.jp/200210mitisirube.html

 織物業をなさっているお家なのに、「塩」の字がつくんですね。

服部 滋賀県甲賀郡甲南町というところ、伊勢街道沿いに塩野温泉がある、塩野という地区があります。昔は塩野村でした。服部家はそこにあり、服部半蔵と同じ系統のようです。塩野屋の創業者である喜右衛門さんは、医者をしていた服部家の次男坊。彼が京都に出て店を興し、二代目の時に「塩野屋」としたようです。

http://www.pr-g.co.jp/200210someori.html

塩野屋の起源は滋賀は甲賀の塩野村。
弘法大師が杖で地面をコンコンと叩くと、
そこから塩分を含んだ温泉が出たという。
塩がなければ人は生きてはいけない。
これがなければ生きていけない。
そんな裂を作りたいとの思いを
塩野屋の名に込めた男がいた。





一大産地という名の普通の街並み

 ギラギラとした強い日射しで、西陣の街並みがゆらゆらと曲がって見え始めたその時、ザザーッと大粒の雨が落ちてきた。京都の夏の典型的な夕立。雨の上がった濡れた歩道を、塩野屋十四代目・服部芳和さんの後をついて、御召の糸を作る西村さんの工場へ向かって歩いていく。どこからか、おばんざい(京都のお総菜をそう呼ぶ)の煮炊きの匂いが漂ってきた。
 西陣には、五・六世紀頃に大陸からの帰化人の豪族、秦氏が養蚕と絹織の技術を伝え、その秦氏から、宮廷の織物を掌る織部司に絹織の技術が寄与されたという歴史がある。織部司が現在の西陣あたりへ集められ、西陣は織物の一大産地へと発展していった。




[72]さちこさんからのコメント(2004年10月01日 22時54分20秒 ) パスワード
  

小林先生。

服部家の家紋は武器の矢ではなく矢絣ではないか?

服部家の家紋は単純なようで奥深いのでございます。
矢絣柄は現在も中国西域、ウイグル自治区の女性の民族衣装です。

服部家は天下不武!でございます。

 
[73]さちこさんからのコメント(2004年10月01日 22時59分52秒 ) パスワード
  

>71はコピー貼り付けのみです。

私のコメントは消えてました。(何故?)失礼しました。
でも参考になると思うので削除せずに残しておきます。
[74]小林雅成さんからのコメント(2004年10月02日 08時52分14秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

>天下不武!
老婆心ながら布武ですってば(^^;)。織田信長の好きな言葉つかうの??

>服部家の家紋は武器の矢ではなく矢絣ではないか?
秦氏が大陸から引っ張ってきたのでしたら、そうでしょうね。孝元天皇の後裔と伝える一族はほとんどひっぱってきたと見ていいと思いますよ(あくまで私の推論ですけど)服部氏は、戦いでは積極的に打って出るのではなく、防衛的な性格の一族ではないかとおもうのです、ですから、矢紋は武具の色彩よりは、さちこ様のご指摘の機織りの色彩のほうが濃厚ですね(^^)

>矢絣柄は現在も中国西域、ウイグル自治区の女性の民族衣装です。
ウィグルは、トルコ系遊牧騎馬民族です。これは、どう理解するかと申しますと、服部氏は、新羅経由で日本に入ってきたという伝承との符合(新羅は源氏というぐらいですから、騎馬民族ですよ)、衣装は機織りの技術を持ち込んだ一族なら、誇りを持って伝承しているとおもうのですね、ですから、大陸からほとんど変わらない模様をつたえていると、、。別のスレッドで指摘したヒッタイトですが、これは、エイジアン・マイナーつまり、小アジア、現在のトルコのあたりにあった、世界最古の製鉄技術を用いた民族(エジプト文字について書いてあった本には、株式会社的組織であったとありましたから、商業民のよう)です。この民族は、忽然と姿を消す。ちなみに秦の一族も主要グループは商業民と思いますよ(^^;)

矢は神であるというのは、その中国とトルコの中間位置のアケメネス朝ペルシアのことを指摘したのですが、そのあたりの伝承はおありではないようですね(^^;)
[75]さちこさんからのコメント(2004年10月03日 01時08分25秒 ) パスワード
  

>老婆心ながら布武ですってば(^^;)。織田信長の好きな言葉つかうの??

小林先生。
いくら私がアホでも知ってますよ!

タァ〜ケの(注意:尾張弁で発音してください。)信長の天下布武!

信長に対抗して平和主義の服部家は、天下不武。と言う意味です。

武を用いない、不用武、武ヲ用イ不ズ。←(違うかしれません漢詩として)
その意味です。

服部家の服。
薬を服用。
ちょっと一服とか。一服もられたとか・・・。?

服というのは日本語で考えるより意味が深いように感じます。

織物に使う染料が薬に通じる。
これは納得です。

何故服部家が伊賀の地に居を定めたか、
薬草が豊富、染料にもなる。
そして伊勢や東国のへの拠点でもある。

平安時代、官僚体質の藤原家に貢物をし(勿論賄賂)
服部家が伊賀で繁栄していた可能性はあるな(笑)
「藤原氏ほんまアホやで〜。」。。。。失礼。

また伊賀はこの時代、殆ど寺院の荘園だったそうですが、
これも実質的には伊賀で儲けていた服部家の、
固定資産税(年貢)
また、相続税対策だったような気がします。ほんまに!

寺とは癒着していた服部家。
そんな体質が
信長様の、
御気に召さなかったのかも?

信長の長島での残虐行為は、
ヒトラーもフセインも足元にも及びません。

秀吉の朝鮮出兵の残虐さは信長のコピーです。
信長は同じ事それ以上の事を同じ日本人に行っていました。

と、言いつつも私、秀吉(問題外)、家康よりも信長が好きなのは何故?

隈さんの好きなソグド人も?経済発展のため虐殺された歴史があるのだそうです。
服部家とソグド人似ている。かも?

気になったので、
NHK出版のNHKスペシャル文明の道3海と陸のシルクロードの本を買いました。
あえて読みましたとは申しません。見ました。(難しい)

でもCG復元されたソクド商人の家に並び矢発見!
勿論この復元図がどこまで信憑性があるのものか判りませんが、
ソグド人の家の壁画に連続した並び矢紋のようなものが描いてありました。

単なる図柄で矢に見えるのは私だけかも知れませんが。

話変わりますが、他のスッレドで書いた楠一族の北勢の治田(ハッタ)。
マンボというアフガニスタンやイラン等のカナート呼ばれるものと同様の、
用水路がこの地域に集中してます。
全国にあるようですが特に北勢この治田が一番多いようです。




[76]小林雅成さんからのコメント(2004年10月03日 04時01分36秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

昔の書き込みみました、すでにさちこさんが、ヒッタイトの書き込みしてらっしゃいますね、おはずかしい(^^;)

>武を用いない、不用武、武ヲ用イ不ズ。
おお、そんな深い意味がごじゃったか(^^;)

>服というのは日本語で考えるより意味が深いように感じます。
遊牧の民であり、商業民であり、私の考えでは当初ガド族かとおもっていたのですが、【服】からすると、やはり古代ヘブライのダン族の可能性が高いですね、この辺は、ギャンブラーさんもなにかわかってらっしゃるようですので、、(別スレッド参照)それとも服部の中でも平姓を伝える家がダンなのかこのへんは、一族でないとわかりませんね。

>固定資産税(年貢)また、相続税対策だったような気がします。ほんまに!
これは、そうでっしゃろ。モノはつかわんと価値ないですから、名目は京都に登記しておいて、実質其の地を影響下においていることこそオイシイやりかたです、それは今でもかわりませんわ。

>と、言いつつも私、秀吉(問題外)、家康よりも信長が好きなのは何故?
信長は家紋をごらんになったらおわかりでしょうが、インキュベーターの役割をになっています。実際に孵化させたのが秀吉で、各地に動物園(?)をこさえて孵化した鳥を見世物にしたのが、家康ですから(笑)これもまた、メードインチャイナで秦氏が呼び寄せたか、連れてきたファミリーのうちの1つですね。

>ソグド人の家の壁画に連続した並び矢紋のようなものが描いてありました。
それはよく見るべきでしょう!CGもNHKだとなんの根拠もなく使うと
いちゃもんつける奴が居りますから、誰かに監修させているのが普通ですよ。
少しずれますがアケメネス朝ペルシャの王族の紋章がコノテガシワのようなんですよ、TVみてぶったまげましたもん(^^;)王族のニセのミイラが話題になっていましたが、『これ日本の家紋にあるがな、まじで』と。柏は大阪府第2位の家紋です。(『都道府県別 姓氏家紋大事典』西日本編大阪府のページを参照)

>マンボというアフガニスタンやイラン等のカナート呼ばれるものと同様の、
用水路がこの地域に集中してます。
そんなすごいのもあるんですか、そりゃもろシルクロード系統ですね(^^;)
[77]さちこさんからのコメント(2004年10月04日 01時03分22秒 ) パスワード
  

う〜ぅ!マンボォ!ジャジャジャ!ジャジャジャジャン!マンボー!

の関連です。

http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/mini/manbo/manbo2.html

ウソみたいな話ですが本当なんです。

しかもこの治田(はった)に楠正成一族がいたのです。
治田城近くの寺に長島の一向宗徒の残党が逃げ込んだので、
信長によって寺が焼かれたそうです。

この辺りは現地調査します。

楠正成。隠れ秦氏です。(笑)
[78]秦 夏海さんからのコメント(2004年10月19日 20時02分16秒 ) パスワード
  

    秦 夏海と申す者です。見てのとおり私は苗字が秦なんです(下は仮名ですが)!これは何かあるのかと思いいろんなところを調べさせてもらってます。そこでお教え出来そうなことをひとつ。「秦」さんは奈良、九州方面に多いみたいです。私の祖母が秦だったんですが出身は九州の方だといってました。ではしょぼカキコ失礼しました。
[79]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月20日 03時15分05秒 ) パスワード
  

秦 夏海さま

島津家は伝承の1つに「秦氏の末」というのもありますから
秦氏が日本に渡来して南下したのと東行したのがあるんでしょうね。
お祖母さまは南下したグループの御子孫なんでしょうかねえ。
ロマンですね。
[80]小林雅成さんからのコメント(2004年10月20日 17時33分21秒 ) パスワード
  

服部さちこ様

>ウソみたいな話ですが本当なんです。
ほんま、うそのような話ですが、あるんですねぇ(^^;)
地下用水路の場合、崩落するから、古いのは余り残らないような気がしますが、
大陸からわたってきた技術を持つ民はそうとおくない過去に伊勢に土着したのでしょうか?

>楠正成。隠れ秦氏です。(笑)
隠れてもいなくて、そのまんまやがな(^^)とも思いますが(笑)

******************
ギャンブラー様

薩摩隼人自体が、秦の移動してきた一族のうち鼻息の荒いのだとおもいます。
鹿児島は、これヘブライの●●族やんかといえそうなのがぞろぞろありますもん。ルーツ辞典上は、分類不明ですけど(^^;)

鎌倉幕府が、島津氏を派遣したのも、異部族だと統治上反乱おきたら面倒だから同じ秦の親玉派遣となったのだと私はそう解釈しております。
[81]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月21日 03時04分48秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

>鎌倉幕府が島津氏を派遣したのも異部族だと統治上反乱おきたら面倒だから同じ秦の親玉派遣となったのだと私はそう解釈しております

ああ、なるほど。
鎌倉時代ならまだ異民族の時代の記憶があったでしょうね。
[82]小林雅成さんからのコメント(2004年10月30日 14時07分28秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/frame.htm

ギャンブラー様

【訂正です。】
島津氏は、惟宗姓ですから、もともと九州にいた豪族なのでした。(^^;)
おはずかしい、無知をさらけ出してしまいました。



[83]さちこさんからのコメント(2004年11月01日 22時48分22秒 ) パスワード

秦夏海さま。

遅くなりましたがはじめまして。
ありがとうございます。
九州にはやはり秦さんが多いのですね。




私もどういう分布になってるのか判らないので一概にいえませんが、
私の住んでる三重県も秦氏多いよね。。
服部家も秦氏とするなら全国でも有数の秦氏集中地区かも。
意外かも知れませんが。

これは松阪市の宝塚古墳の船の埴輪に関してです。
     ↓

http://www.pcs.ne.jp/user0/sakura/haniwa.html

 日本書紀 応神天皇三一年(西暦400年頃)
 朝鮮半島の国々から贈られた「五百船」が,現在の兵庫県尼崎市と西宮市の間あた りの,武庫水門(むこのみなと)に停泊していたところ,新羅の国の人の失火でた くさんの船が焼失してしまった。
 これを知った新羅の国王はたいへん恐縮して,能き匠者(よきたくみ)を派遣して きた。
 この造船技術者集団がのちの「猪名部等の始祖」であるとされ,その分れがやがて 紀伊半島を迂回して伊勢湾,いなべの奥,現在の三重県員弁郡一帯に移住したとい うのである。
 ここは木曾三川をはさんで愛知県海部郡と接しており,伊勢湾の航海と魚撈を支配 していた海人部と提携して,木曾谷から川で送られてくる巨木を用いて造船を業と したと見てまちがいはない。
 そうした時期に,伊勢平野に強大な支配力を持っていた稲作を中心とする豪族の首 長が死んで,壮大な葬儀が行われることになった時,伊勢湾が見わたされる丘陵の 一角に大きな墳丘が築かれた。

これは、三重県いなべ市のページです。

http://www.ne.jp/asahi/viento/suzuka/area/shrines/inabe/

 3世紀〜4世紀頃,武庫の水門(兵庫県尼崎市武庫川付近)
 停泊していた多くの倭 船を新羅の使者が誤って焼失させる事件があり,
 新羅王はこの謝罪に優秀な船大工を倭に献上。
 建設技術集団の彼らは摂津国・為奈(いな)兵庫県尼崎市北東)に定住。
 これが猪名部(いなべ)の祖である。
 「猪」は「伊・員・印」等とも書かれる。
 『和名抄』には「為奈倍」の表記も。 
 突出した技術力で東大寺大仏殿建設は「猪名部百世(いなべのももよ)」
 以下猪名部一族が担当。百世は一説には伊賀に定住していた猪名部とも言われる。



[84]さちこさんからのコメント(2004年11月01日 23時32分44秒 ) パスワード


>兵庫県尼崎市武庫川付近

これは池田市のあやはとり、くれはとりの伝承がある地域です。
この地域の新羅系の人たちが伊勢の員弁(いなべ)に来ていた。

>百世は一説には伊賀に定住していた猪名部とも言われる。 

とありますが百世は伊賀の人と言うか、
伊賀と伊勢は昔から密接な関係だったのでしょう。
伊賀の服部家と関係があるのは、
この地域に並び矢の紋の神社が多いことからも判ると思います。
服部友貞が信長の謀略により自害し墓があるのもこの地域です。

ましてや400年この友貞の墓を守っていたのが、
畑中家と言うのは偶然ではないと思うのです。
(ここの菩提寺の紋が葵紋というのは怪しいぞ!)


小林先生

多分、治田(ハッタ)地域に多いマンボもやはり秦氏関係ですよね。

現在残ってるマンボの多くはは江戸時代のものです。
それ故、中東の用水施設とは偶然の一致とする説も多いようです。

いつの時代に伝わったものかは判らないにせよ、
現在にその技術を伝え残って使用されているのです。
伊勢の用水路、マンボは現在も生きてる遺跡だと思います。


 









[85]さちこさんからのコメント(2004年11月02日 00時08分01秒 ) パスワード

多分全国のニュースにはならないので書いておきます。(笑)

三重県ではトップニュース!

今日名張市を除く、
伊賀の六市町村が合併して伊賀市が誕生しました!

祝!伊賀市誕生!


もし名張が入っていたら昔の伊賀国そのままです。
でも三重県では面積としては最大の市になります。

あまりよその地域のは流れないというニュースとして、
ついでに。。。

12年前アメリカへ留学していて、
ハロウィンで誤って射殺された服部剛丈君。
名古屋出身でお墓は港区家紋は丸に違い矢羽。←(同系の服部家か?)

ご両親ブッシュ氏嫌いで(?)
昨年名古屋を訪れた、クリントン前大統領に再開し、
来年の選挙では民主党(岡田民主党とは違うぞ!)に勝って欲しいと言ってましが、

今年はケリー氏支持派に、
服部ご夫妻が4万ドル寄付したそうです。


剛丈君。(当時高校生16歳)
ソニーの盛田財団の奨学金で留学したそうです。

ソニーと服部家は因縁あるな(笑)

あら?日付が過ぎました。

伊賀市誕生は昨日になりました。






[86]小林雅成さんからのコメント(2004年11月02日 02時25分40秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/frame.htm

服部さちこ様

伊賀市誕生おめでとうございます。小生の実家の田舎の議会は合併前なのですが、議員はほとんど秦の末裔ですよ(核爆)こんなことかいていいのかしらん(^^;)

>多分、治田(ハッタ)地域に多いマンボもやはり秦氏関係ですよね。
でしょうね。中国でもシルクロード経由は西の秦にからむでしょうし、地名がそのまんまですもんね。秦の始皇帝陵の地下に埋葬されていた騎馬軍団のハニワ(?)はどうみても、日本のハニワをつたえたハニシ(出雲臣族)が秦の配下だったとしか思えない間接史料だし、おもろいことだらけです。

>現在残ってるマンボの多くはは江戸時代のものです。
>それ故、中東の用水施設とは偶然の一致とする説も多いようです。
学者はのこっていないと肯定できないのですが、あんなもの、崩落しやすいから、昔のの上にどんどん新しいのができているはずですよ。但し今も使っていたら発掘できないのは、エジプトのカイロも同じようなもの。

[87]秦 龍人さんからのコメント(2005年01月31日 20時17分39秒 ) パスワード

初めまして。ご覧の通り秦姓の者です。

ふと平家と秦氏の関係が知りたくてネットサーフィンをしていたら
ここにたどり着いてしまいました(^^

というのも子供の頃に祖父の実家がある長野県南部の小さな村・泰阜(やすおか)村--田中知事が住民票を移した移してないでもめた村です(笑)--でお葬式があった時に父が僕に「うちの先祖は平家の落人なんだよ」と言ってたのが、子供心にすごく気になっていたんです。

もし、他に同じような情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら
ぜひお話しを聞かせて頂きたいです。

ちなみに長野県は全国的にも養蚕の盛んなところです。
最近はやはり減ってきているみたいですが。

あと、秦氏の家紋ってどんなものがあるんでしょうか?
うちの家紋は「丸に梅鉢」というものです。

またカキコさせて頂きます。
それでは失礼しました。
[88]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月01日 02時12分07秒 ) パスワード

秦 龍人さま

初めまして。

長野県南部でしたら「浪合村」がありますから南朝方関係はいかがでしょう?
そういう伝承はありませんか?
[89]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月04日 01時16分16秒 ) パスワード

横浜の戸塚区舞岡町に神社があります。村の鎮守様みたいな神社です。そこに、こう書いてありました。「昔々のそのまた昔、この神社の前の丘に、大きな白い幡が現れて、天高く舞い上がったかとおもったら西の方へ飛び去り、そして舞い降りたと。この幡が舞い上がった所が「舞岡」で舞い降りたところが「幡野(秦野)」だと。

以上、おお真面目に説明書がありました。  ・・・・・・・・・終わり
[90]福助さんからのコメント(2005年07月23日 10時01分36秒 ) パスワード

我が姓に関することで、大変興味深く読ませて頂きました。
ここで報告されてることは、どれくらいの信憑性があるんでしょうか。
学術的に耐え得るだけの根拠はあるのですか?
[91]源六位さんからのコメント(2005年07月27日 02時26分08秒 ) パスワード

 最近出版された日本人のルーツに関する本で、秦氏のことが
書かれていました。
 現在の中央アジアから日本に渡来した秦一族は2万人以上に及ぶ
と。特定の氏族が渡来したというよりは、国ごと移動したと考えたほうが
良いみたいです。
 当時の人口はわかりませんが、その計算でいくと現在ではかなりの
数になっていますね。
 秦氏の嫡流はずっと宮廷に仕えていた家になるんでしょうか?
[92]小林雅成さんからのコメント(2005年08月01日 23時26分11秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ていうか、多いので実際半分の1万人とみなして計算:
男女5000人づつが婚姻して子供を3人づつ作り、さらにその子供の代で子孫が同じように増えて、、、単純計算しても現代になる前に日本の人口より多くなる、これは何を表すのか?

古事記に秦氏族が大量虐殺にあったという記述はあるのか?日本書紀に、秦氏族が伝染病で死に絶えたという記述があるのか?なければ、現在存在している源平藤橘の子孫と称する一群の人々は事実を伝えているのか?はたまたオール渡来人か?というのはおのずから明らかになりましょう。
[93]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月01日 23時51分34秒 ) パスワード

ちょいと思い出しました:

近頃発表された記事より。
アメリカ原住民の先祖は1万X000年ほど前に渡来した70人。
当時の女達は出産可能な限り生んだ生まされたでしょう。


小林先生が上記をお書きになる数時間前この記事を日本の恩師に郵送してしまいました。


このスレッド99になったら「5」を立てましょう。
[94]源六位さんからのコメント(2005年08月01日 23時57分06秒 ) パスワード

>小林雅成さん

1万人渡来したと考えた場合、当時の死亡率を勘案しても現在ではかなりの
数ですね。機織などの先進的な技術を持っていたにもかかわらず、
宮廷内では何故地位が低かったのか?難しいですね。

渡来後、先進的技術を持って日本全国に散っていったのでしょうが、
そう考えると古代からの地方豪族は、大半が秦氏であったのでは?

ちなみに私は大阪府と京都府の境に住んでいまして、その付近には
機物神社と百済王神社、王仁博士の墓所があり、渡来氏族に関係のある
ものがたくさんあります。

[95]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年08月02日 01時57分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

平安時代初期に編纂された畿内の貴族名簿「新撰姓氏録」によれば、約3割が蕃別(中国、朝鮮などからの帰化族)である。
姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )の百済氏の項を参照されれば、百済氏は、天皇家、藤原氏との縁戚関係が多いことがわかる。
秦氏の勢力は全国の神社10万社の構成から大まかに分る。
稲荷社(秦氏)が3万社、八幡社(源氏)が2万5千社、その他が4万5千社。
秦氏は政界では目立たないが、商工業、芸能の分野で活躍しているようである。
[96]鳥取さんからのコメント(2005年08月03日 21時10分15秒 ) パスワード

>ていうか、多いので実際半分の1万人とみなして計算:

その計算からすると、当時の人口からして現在の人口は少なすぎますね。
単純に増やすだけの算出方じゃナンセンスかと思われます。
[97]小林雅成さんからのコメント(2005年08月04日 08時05分53秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

鳥取様

>単純に増やすだけの算出方じゃナンセンスかと思われます。
平成1年に発表された国際日本文化研究センターの埴原和郎教授の渡来系の人数に関する論文はナンセンスだというのですね(核爆)

それでしたら、貴殿の統計学に立脚したシミュレーションの概略でも拝見したいものですね。

[98]小林雅成さんからのコメント(2005年08月04日 08時16分53秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

日本の苗字七千傑(S)様

国語の読みをお伺いしたいのですが、
八幡社の【幡】という文字は【はた】とは読めませんでしょうか?
広辞苑、姓氏辞典、地名事典、大漢和辞典などを鑑みた上でS様の見解をお伺いしたいと思います。
[99]工藤さんからのコメント(2005年08月04日 19時37分55秒 ) パスワード

日本には大陸系の道教に基くシャーマニズムが伝わる以前に、独自のシャーマニズムに基く自然神「八百万神(やおよろずのかみ)」が存在した。特に辞典は見ずに書きました。この手の話しは楽しんでしたいものですね。
[100]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年08月04日 22時55分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

「幡」は一般的な読み方は、ハン、ホン、ハタ、ノボリであるが他の漢字と二字以上では特殊読みがある。
因幡(イナバ)、幡多(ハタ)、八幡(バハン、ハチマン、ヤワタ、ヤハタ)など。
また石清水八幡(ハチマン)宮の鎮座地が、山城国綴喜郡八幡(ヤワタ)となっており、同字異訓、異字同訓が多い我が国特有の混乱表記となっている。
八幡をハチマン、ヤワタ、ヤハタと読むのは後世的で、本来はバハンである。
バハンブネ(八幡船)などの用例があり、バハンとは日本のことである。
おそらく現在のマレーシアのバハン(パハン)の地名遷移であり、ゲルマン読みではヤアパンと成り、更にヤポン、ジャポン、ジャパンなどの日本を示す欧米言語の転訛に繋がる。
 
ここからがヨタ話だが、
古代系譜に登場する人物名の××命(尊)はシュメール語のミグトの転訛、天皇を表わす皇尊(スメラミコト)はシュメール・ミグトの転訛であり、バビロニア起源をうかがわせる。
日本への民族移動ルートはシルクロード経由ではなく、バビロニア−ペルシャ湾−ゴア−バハン−海南島−沖縄−鹿児島の海上ルートと推定される。
秦氏の出自が秦韓(辰韓)経由かは不明だが、ペルシャ帝国やローマ帝国の漢訳が大秦であり、ことによるとフランスの学者ラクペリー提唱の漢民族バビロニア起源説の通り遠祖は同地域発祥とも考えられる。
[101]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月04日 23時07分36秒 ) パスワード

長くなってきましたので下記にお願い致します。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100804.html
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