近藤栄次朗 くりらじ シャベリン(アーツ)
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 投稿番号:100367 投稿日:2002年09月22日 22時08分00秒  パスワード
 お名前:代理投稿
平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔

コメントの種類 :人物  パスワード

「源平武将軍装美を競う」より新しいスレッドを立てさせて頂きました。

[6] takahiroさんからのコメント(2002年09月22日 19時47分00秒 )


池大納言平頼盛の第2子、平為盛は、平家一門の中では、
知名度のあまり高くない人物であると思われますが、
為盛につき、経歴として残されている事績を記します。

 池大納言平頼盛の第2子として生まれる(生年未詳、1150年頃と思われる)
 蔵人に補される
 紀伊守に補される(1175年12月)
 右兵衛佐に補される
 紀伊守重任(1180年1月)
 加賀守に補される(1181年7月)
 兄保盛と共に熊野討伐に出陣(1181年9月)
 兄保盛と共に諸国追討計画、南海道方面大将に任ぜられる(1182年、実施されず)
 倶利伽羅峠合戦討死す(1183年5月12日)

 兄弟に保盛、仲盛、知重、光盛、保業、静遍
 姉妹に藤原基家室、平清経室、平清宗室

 
 為盛が討死した倶利伽羅峠には、五輪の塔「為盛塚」が弔われている
 
 「為盛塚」(小矢部市教育委員会による説明碑)
   為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)砺波山の
   源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、
   加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎をひきいて源氏に逆襲したが、義仲の
   部将樋口兼光に首をはねられた。この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもの
   で、墓は地、水、火、風、空を表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の
   建設である。市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
               昭和46年12月 小矢部市教育委員会 

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年09月22日 22時11分09秒 ) パスワード
  

当然とはいえ
親戚結婚していますね。

>姉妹に藤原基家室、平清経室、平清宗室

3人とも「 一族 」の男性のような気がします。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年09月22日 22時33分57秒 ) パスワード
  

メールをさせて頂きましたが
その前に友人に送りましたのが文字化けしていたそうでございますから
こちらにてメールの内容を掲載いたします。



ご投稿
ありがとうございました。

埋もれては惜しい情報でございますから
新しくスレッドを立てさせて頂きました。


為盛どの姉妹が藤原基家・平清経・平清宗と結婚しているというのは
従兄弟との結婚のようでございますね。

清経・清宗は名字からも分かるように平家の従兄弟達。

藤原基家はどなたか分かりませんが
藤原基実(平清盛の娘の盛子の夫・24歳?で亡くなる)の子供の1人だったかも知れませんね。
それかおばばさまの宗子さんの一族。

多分藤原基実の次男か三男では?と思います。
[3]takahiroさんからのコメント(2002年09月23日 01時04分16秒 ) パスワード
  

服部明子様

 新しいスレッドの樹立、ありがとうございます。


 藤原基家について調べてみました。
 服部様の仰るとおり、藤原基実の同族でした。

 藤原北家関白道長の嫡男、頼通の五代孫が藤原基実(清盛の娘盛子の夫)
 で、関白道長の次男、頼宗の四代孫が藤原基家(頼盛の娘の夫)でした。

 (藤原基家と平頼盛娘の間には、藤原陳子(北白河院陳子)が生まれて
  おり、陳子は後、守貞親王の室となり、後の後堀川天皇を産み、国母
  となっています。八十六代目天皇、後堀川天皇には、女系を通し平頼
  盛の血が流れている事を、今回調べていて発見しました。)

 藤原宗子(池禅尼)は、関白道長の兄、関白道隆の五代孫、宗兼の娘で
 した。宗子は平忠盛の正室となり、忠盛との間に、家盛、頼盛の二子を
 もうけています。

 また池禅尼の父、藤原宗兼の妹は藤原家保の室となり、家成を生んでお
 り、家成の二代孫、隆房は清盛の娘の夫であり、また家成の娘、経子は
 平重盛の室になっており、また家成の子、成親の娘は平維盛の室になっ
 ています。


 確かに服部様の仰るとおり、当時は、平家一門同士の婚姻、また平家一
 族と藤原一族の婚姻は多く行われ、血族関係は錯綜していたようです。


 今後とも平為盛について、また頼盛一族について、機会があれば記して
 いきます。
 
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年09月23日 01時36分54秒 ) パスワード
  

takahiro さま

ありがとうございました。
上記拝見しまして藤原基家公がニッコリ微笑んだ感じがしました。


>藤原基家と平頼盛娘の間には、
>藤原陳子(北白河院陳子)が生まれており、 >陳子は後、守貞親王の室となり、後の後堀川天皇を産み、国母となっています。
>八十六代目天皇、後堀川天皇には、女系を通し
>平頼盛の血が流れている事を、今回調べていて発見しました。


凄い発見ですね。
後堀河天皇は
1221年の承久の乱の後、仲恭天皇の後に皇位におつきになった天皇ですね。
[5]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 09時29分30秒 ) パスワード
  

『古事記伝』を著し、古道を宣揚した伊勢松阪の国学者、本居宣長も
 平頼盛の末裔を称しています。

 以下、その系譜を記します。

 平頼盛六代の後胤・本居県判官平建郷、其の子本居兵部大輔武遠、
 其の子同兵部大輔武秀、其の子同左馬助直武、始めて伊勢国司顕
 能卿に仕え、直武の子同民部小輔武基、其の子同和泉守武久、其
 の子同左馬亮武貞、其の子同左衛門尉武延、其の子同左馬亮武重、
 其の子同兵部大輔武利、其の子同惣助武連なり。左馬助主より此
 の惣助武連まで八世相継いで北畠殿に奉仕せらる。かくて武連主
 の世にありて、天正四年に北畠殿亡び給いたりき。

 さて此の惣助武連に二男あり。長男、正右衛門延基(大阿坂住)
 ー庄右衛門ー新兵衛ー新右衛門ー林之右衛門(絶家)にして、
 次男、左兵衛武秀(号道観)は後に蒲生氏郷に属し、奥羽九戸の
 戦に討死し、妻は懐妊の身にて、伊勢の一志郡小津村油屋源右衛
 門に身を寄せ、小津七右衛門(号道印)を生む。道印小津源右衛
 門の女を娶り、三郎右衛門と喜兵衛とを生み、喜兵衛の男定治・
 三郎右衛門の後を継ぎ、その養子道樹定利(実は小津源右衛門の
 男)は即ち宣長たる也。

 (宣長は二十三歳の時に、姓を先祖の本居姓に戻しています。)

 横山高治著「伊勢平氏の系譜」には次のような記述があります。

  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな(宣長)

  だいたい時代を逆のぼると東国の源氏やそれをかついだ板東
  武士団は騎馬に長じ、戦略にたけていたが、文字も読めない
  荒くれ者が多かった。それにひきかえ平家一門は歌人の忠盛、
  忠度、舞いの名手の維盛、学者の重盛・・・と和歌を愛し、
  芸術を解する公達が多かった。

  「朝日に匂ふ山桜」を詠んだ宣長が「昔ながらの山桜」の忠
  度を慕ったというのは思い過ごしであろうか。
  
  心やさしい宣長は、先祖(北畠一門)の奮戦の地「桜峠門」
  あとに立ち、そこにさらに遠祖の平家一門の滅亡も思い、
  「朝日に匂ふ山桜」と詠んだのである。

 また同著には、本居家に縁続きの人物として、松阪の郷土史家
 でもある、服部哲雄氏(松阪市の東海印刷社長)のお名前も登
 場していました。

 服部明子様と同姓でしたので、目にとまりました。


 今回は、平頼盛末裔の家系に連なるということで、本居宣長の
 家系につき記しました。
 
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 12時25分27秒 ) パスワード
  

伊勢・伊賀は伊勢平氏=平家の本貫地ですから
石を投げれば平家の子孫に当りましょうね。

それにしましても本居宣長のご先祖さまが池の大納言・頼盛公とは。


ありがとうございました。
[7]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 14時10分06秒 ) パスワード
  

>伊勢・伊賀は伊勢平氏=平家の本貫地ですから
>石を投げれば平家の子孫に当りましょうね。

 伊賀の家系では、本居姓にならび、安村姓も桓武平姓頼盛流を
 称しています。
 (頼盛流に限らなければ、更に多流の桓武平姓の系譜が伊勢・
  伊賀には伝えられてますが、ここでは頼盛流に限り記載させ
  て頂きます。)

 安村氏 桓武平姓 

  「忠盛ー清盛、弟頼盛(池大納言)ー内蔵頭保範ー若狭主保
   忠ー越中守範正ー左兵衛尉保光(範正嫡男也。然り謂、男
   子なき故、盛眞を以って養子となし、家を譲る)、弟盛眞
   ー右衛門佐盛範ー大和守保元ー左衛門佐兼盛ー丹後守頼直
   ー伊賀守盛安ー左衛門尉安範ー丹波守頼元ー河内守義保ー
   右京大夫盛頼ー将監定元ー三郎左衛門尉元頼、弟定信ー若
   狭守氏忠ー長門守氏盛ー清兵衛忠勝ー伊賀守保元ー備前守
   之安」
                   安村系圖より
[8]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 14時11分11秒 ) パスワード
  

伊勢平氏(平家)の本貫地である伊勢・伊賀とともに、紀伊国は頼盛
が長く知行国主を務めていた地であり、ここにも後に、頼盛流の系譜
が伝えられています。

熊野那智社社家、潮崎氏は頼盛の子息、河内守保業の末裔を称してい
ます。

 潮崎氏
  桓武平氏 紀伊国牟婁郡潮崎荘より起る。那智山管内。

  「潮崎氏は平相公清盛の弟・池大納言頼盛卿の孫河内守保業の子
   保定の裔なり。承久三年、紀州に流さる。因りて此の地に住す。
   其の子保定・地名の潮崎を以って氏とす。潮崎氏此より此の荘
   を領す。」(続風土記)

  また同じく続風土記、牟婁郡那智山社僧坊舎條より。

  「清僧執行天台座主、○潮崎尊勝院。寛文記に、尊勝院は池大納
   言平頼盛の後、当院の主となりしより、神職を相続し、姓を潮
   崎といふ。頼盛の子孫・当郡潮崎荘に居住し、其の地を押領せ
   しより、潮崎を氏とせしなり。家系に尊念といふあり、『那智
   山執行法印、昇殿』とあり。又、代々の系を挙げて、皆瀧執行
   と記せり。」
   
  またこちらは日高の塩崎氏ですが、同じく続風土記より。

  「池大納言頼盛卿の孫河内守保業、承久の乱・当国塩御崎に逃れ、
   塩崎荘を領す。嫡子保秀は那智山廊坊の養子となり、濱宮勝山
   に居城す。次男塩崎左京亮保則は塩崎荘を領し、高川原村に住
   す、左京亮より六代塩崎六郎左衛門重政・此の地に退去し、五
   郎左衛門と改む。浅野家の代官を勤め、代々当村に住す。」

紀伊国は平家の信仰の篤かった熊野三山も擁していますので、その所
縁もあり、潮崎氏祖は紀伊国へ下向(配流、隠遁)されたのでしょうか。

頼盛末裔を称する一系譜として、ここに記載します。
[9]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 15時38分19秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年09月24日 15時47分30秒
[10]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 15時46分47秒 ) パスワード
  

(誤記がありましたので、改めて投稿します)

次に和泉国大鳥郡に伝わる、頼盛子息保盛の末裔の関係資料を記します。

 小谷氏 桓武平姓 和泉国大鳥郡の名族

 「平頼盛の男河内守保盛の子僧都心圓、頼朝の帰依を得て上神郷を領す。
  其の弟頼晴、上神左近将監政員と改称し、建久七年東山城を築く。五代
  四郎政有に至り、寛喜三年小谷城を築き、小谷殿と称す。九代権之進則
  常、元徳年中宮方に属し、笠置に戦没、十一代常儀は仁和右京亮といひ、
  西山城を築く。十三代政貞、明徳年中京都内野の合戦に功を建て、十九
  代匠□に至りて小谷を氏とす。二十二代小谷甚八郎政種に至りて三好氏
  と抗し、元亀二年八月、三好の将一宮長門守の家臣木村肥前に攻められ
  て戦死し、三城陥落すと云ふ。」                     
                        (小谷氏家譜より)

また小谷城郷土館パンフレットには以下の記載があります。

 「小谷氏の家伝によると、源頼朝・義経が平清盛に捕らえられ、殺されそ
  うになったとき、清盛の継母の池禅尼が、幼少で可哀想だと言って、命
  乞いをしました。そのため、頼朝は伊豆に流され、義経は鞍馬寺に送ら
  れました。月日は流れ、頼朝・義経は成人して、京に攻め入り、平家一
  門を西国へ走らせました。頼朝は池禅尼の実子頼盛とその子孫だけは、
  京に呼び戻し、昔からの平氏の居住地に住まわせたといいます。
  しかし、源氏の世の中では、京都に居づらく、仁和寺の寺領である若松
  荘(堺市大庭寺・大平寺・和田・豊田・片蔵・田中・鉢ヶ峯・富蔵・釜
  室・畑・逆瀬川)の地頭となって、赴任して来ました。この地に移って
  から、池禅尼の孫である平頼晴は、最初に城を築き、小谷氏の始祖とな
  りました。」

また、上記小谷氏との関連は判りませんが、仁和寺宮諸大夫家として存続し
た、頼盛子息保盛末裔を称する系譜、尾崎氏も存在します。

[11]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 19時32分02秒 ) パスワード
  

 讃岐の頼盛流末裔

尾池氏 桓武平姓 

  「横井城(在横井村古河上今日中屋敷)、尾池玄蕃頭之を築く。
   玄蕃は平頼盛の裔也。頼盛の母を池禅尼と云ふ。因りて世人
   頼盛を称して池殿と云ふ。其の五世孫に尾張守に任ぜらるる
   者あり、因りて其の子孫・尾池を以って氏と為す。建武の時
   に當り信州に尾池玄蕃頭保俊なる者あり。細河定禅に従って
   此に来る。之を以って横井、吉光、池内に於いて采地二千貫
   を得。永禄八年松永彈正久通・将軍義輝公を戮す。時に元妃
   烏丸氏方に娠めり、近臣小早川外記、吉川斎宮・元妃を奉じ
   て遁れ来り尾池玄蕃(通称嘉兵衛)光永の家に匿る。数日に
   して義辰を生む。遂に尾池を冒し、光永の嗣と為す(後改名
   保耀)。<後略>」

                   「全讃史」より

   
[12]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 20時04分07秒 ) パスワード
  

山吉氏(池氏)
  
  越後国蒲原郡山吉邑より起る。   

  「平大納言頼盛の後裔池源五は伊豆守と称し、後に山吉小次郎
   と云ふ。」 

                  (池氏家譜より)

  また「國邑志稿」には、越後國蒲原郡中之島村に

  「池大納言の墓と云ふものあり、池五十嵐は當國の名家なれば、
   其の池氏の先世の墓なるべし。」

  との記載が伝えられています。


  また池氏には、播磨国在田荘領家の頼盛流池氏(後朽木氏)が
  あり、この池氏については、次回投稿します。
 
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 23時05分45秒 ) パスワード
  

池の大納言の末裔について凄い情報量ですね。

朽木家が池の大納言の末裔とは。

そして「池」という名字もあったのですか。


ちょっとタイトルを変更しようかと思っております。
ご了承下さいませ。
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 23時11分37秒 ) パスワード
  

今、ふっ、と思ったのですが。
平 頼盛公がお喜びになってるご様子が脳裏をかすめました。
世に出してくれてありがとう、とおっしゃってるようでした。
[15]takahiroさんからのコメント(2002年09月24日 23時16分00秒 ) パスワード
  

服部明子様

 スレッドのタイトルの変更、お任せ致しますので、宜しくお願いします。

 引き続き、頼盛末裔に関する情報を投稿していきます。
[16]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 00時16分18秒 ) パスワード
  

播磨国在田荘領家 頼盛末裔 池氏 朽木氏

  『角川日本地名大辞典・兵庫県』における「中世・在田荘」の項
   に以下の記載があります。  

  「寿永三年四月五日に源頼朝は、池大納言平頼盛の母池禅尼が平
   治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため、平家没官
   領中の頼盛の家領三十四ヶ所を返還した。この下文案に、「在
   田荘 播磨」が見える(久我家文書1)。頼盛の孫兵衛佐保教
   がこれを伝領したが、貞応元年と推定される五月二日付池河内
   前司入道平保業宛北条義時書状(朽木文書/鎌遺2814)と「尊
   卑分脈」によれば、保教は承久の乱に京方に与して没落、「承
   久乱於八幡自害了」とあり、乱後に在田荘は鎌倉幕府に没収さ
   れた。承久三年八月二十五日には、幕府が「播磨国在田道山荘
   預所職」を平保業に与えている。(同前/同前2813)」

   そして時代が下り、

  「元享二年十一月二十六日・二十八日に平宗度が、嫡子増一丸(
   次郎顕盛)に「播磨国在田上荘満願寺村地頭代官職」、次子亀
   松丸に「播磨国在田上荘満願寺村内久重・菊延・宗光三名」を
   譲っており(朽木文書/纂集)、池氏は在田上荘内に所領を持
   ち続けている。」

   と記載されています。


   そして上記、「平(池)次郎顕盛」と「朽木氏」の関係は以下
   の通りです。

  「武蔵の朽木氏 朽木義綱の後也。その曾孫経氏(萬寿丸)はじ
   め池大納言頼盛が七代河内次郎顕盛が猶子となり、元徳二年九
   月本郡石坂村等を領す。新編風土記、石坂村條に「当所は池大
   納言頼盛より河内次郎顕盛まで伝来せし知行なりしを、外戚の
   因あれば、朽木兵庫助時綱が子、朽木萬寿丸に興へしこと知ら
   る云々」

   そもそも朽木氏とは、

  「近江国高島郡朽木荘より起る。佐々木高島氏の族にして、尊卑
   分脈に、佐々木四郎信綱ー高島隠岐守高信ー五郎左衛門尉頼綱
   ー左衛門尉義綱(従五下、出羽守、朽木)」

   とあります。


   なお、冒頭に記載しました、承久の乱に京方に与して没落した
   平保教とは、頼盛子息保盛次男です。保教に替わり在田荘を伝
   領した平保業とは、頼盛子息で、保盛とは兄弟になります。

[17]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 00時36分12秒 ) パスワード
  

池大納言家領について

 これまで度々出てきました「池大納言家領」とは、

 源頼朝が平清盛の継母池禅尼に助命された恩義に報いるため、平家都落
 ち直後に禅尼の実子の池大納言頼盛を鎌倉に招いて返付した、平家没官
 領のうちの頼盛領三十四ヶ所の事を指します。

 この三十四ヶ所とは、『吾妻鏡』および『久我家文書』で確認できます。


 以下『吾妻鏡』より。

 1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 4月6日 甲戌

  池前の大納言並びに室家の領等は、平氏の没官領の注文に載せ、公家よ
  り下さると。
  而るに故池の禅尼の恩徳に酬いんが為、彼の亜相の勅勘を申し宥め給う
  の上、件の家領三十四箇所を以て、元の如く彼の家の管領たるべきの旨、
  昨日その沙汰有り。これを辞せしめ給う。この内信濃の国諏訪社に於い
  ては、伊賀の国六箇山に相替えらると。

   池大納言の沙汰

    走井庄(河内)   長田庄(伊賀)   野俣道庄(伊勢)
    木造庄(伊勢)   石田庄(播磨)   建田庄(同)
    由良庄(淡路)   弓削庄(美作)   佐伯庄(備前)
    山口庄(但馬)   矢野領(伊豫)   小島庄(阿波)
    大岡庄(駿河)   香椎社(筑前)   安富領(同)
    三原庄(筑後)   球磨臼間野庄(肥後)

   右庄園拾七箇所、没官の注文に載せ、院より給い預かる所なり。然れ
   ども元の如く彼の家の沙汰として、知行有らんが為、勒状件の如し。
      壽永三年四月五日

   池大納言家の沙汰

    布施庄(播磨)     龍門庄(近江)   安摩庄(安藝)
    稲木庄(尾張)

   以上由緒有りと

    乃邊長原庄(大和)   兵庫三ヶ庄(摂津) 石作庄(同)
    六人部庄(丹波)    熊坂庄(加賀)   宗像の社(筑前)
    三ヶ庄(同)      眞清田庄(尾張)  服織庄(駿河)
    国富庄(日向)

   以上八條院御領

    麻生大和田領(河内)  諏訪社(信濃、伊賀六箇山に相替えられ
    をはんぬ。)

   以上女房御領

   右庄園拾陸箇所、注文此の如し。本所の沙汰に任せ、彼の家元の如く
   知行有らんが 為、勒状件の如し。
      壽永三年四月六日
[18]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 00時53分49秒 ) パスワード
  

 これまで頼盛流末裔のうち、
 主に保盛流、保業流につて記載してきました。
 次に、為盛流、仲盛流、知重流について記載します。
 光盛流、及び僧都静遍については、その次に記載します。

 服部明子様、タイトルの変更ありがとうございました。

 
[19]服部 明子さんからのコメント(2002年09月25日 01時52分54秒 ) パスワード
  

凄く詳しいですね。

>三十四ヶ所とは、『吾妻鏡』および『久我家文書』で確認できます。

貴族?の久我家とも関係があったのでしょうね。
池の大納言家の執事をしてたのかも、ですね。
[20]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 02時26分39秒 ) パスワード
  

池大納言平頼盛末裔 為盛流 仲盛流 知重流

 川崎大十氏著『さつまの姓字』は、旧薩摩藩内(現鹿児島県、宮崎県一部)
 に伝えられる家系譜を収集した書籍ですが、その中にも「頼盛流」の系譜
 が伝えられています。


 鬼丸氏 桓武平姓 頼盛末裔為盛流

   京都北白川鬼丸(京都市左京区)から興る。
   桓武平姓で、桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-国香-貞盛-維衡-正
   度-正衡-正盛-忠盛-頼盛-為盛-家保(初代鬼丸氏)-家衡-家貞-家房
   -家政-家時-家知-家徳-家信-家盛-家親-家清-家俊-家通-家雅-彦次-
   家則-家次-<以下略>と続く。
   頼盛子息家保は京都北白川鬼丸に居住し、その子家衡が鬼丸氏を称す。
   平家没落後家衡は京都を遁れ、文治五年春日向国臼杵郡財部に下向す。
   現当主は初代家保より二十九代目を数える。


 財部氏 桓武平姓 頼盛末裔仲盛流
   
   頼盛-仲盛-盛重-盛順-と続く。
   盛重が文治四年日向国臼杵郡財部邑に下向し、その子盛順が財部氏を
   称する。
   盛順-頼光-頼明-明元-頼徳-頼格-頼資-頼誠-頼興-頼節-頼譜-頼知-頼
   稔-頼守-頼経-頼郡-頼実-重実-忠重-<以下略>と続く。   


 下村氏 桓武平姓 頼盛末裔仲盛流

   桓武平姓財部氏の同族で、始祖盛重の三男重兼が下村氏を称する。
   重兼-重氏-重連-頼重-重光-光盛-光明-重政-重房-重宗-重治-重本-重
   利-重興-重誕-重尚-重安-重僖-重苗-<以下略>と続く。

 以上が、川崎大十氏著『さつまの姓字』の記載より、まとめたものです。


 なお、為盛末流鬼丸氏が文治五年春に、仲盛末流財部氏、下村氏が文治四
 年に下向した、日向国臼杵郡財部とは、現在の宮崎県児湯郡高鍋町で、こ
 の地は池大納言家領三十四ヶ所の一、日向国国富荘の北辺に当たり、おそ
 らくその所縁から、この地への下向が為されたと思われます。

 
 頼盛末裔知重流、池氏については、以下の伝承が伝えられています。

   大隅国曽於郡松山城は池氏の拠りし地と伝う。『地理纂考』に、

   「文治四年池大納言頼盛第四子武蔵守知重の男従五位下隠岐守重頼下
    向して当城を築きしといふ。」

   と伝えられています。


 為盛は頼盛の第二子、仲盛は第三子、知重は第四子であり、おそらくこの
 三兄弟の末裔は平家滅亡後、協同して行動していたように思われます。
 
[21]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 02時45分06秒 ) パスワード
  

上記[20]、
「頼盛子息家保は京都北白川鬼丸に居住し、その子家衡が鬼丸氏を称す。」
 を、
「為盛子息家保は京都北白川鬼丸に居住し、その子家衡が鬼丸氏を称す。」
 へ訂正します。

服部明子様、久我家文書については、光盛末流に関しての記載の際、述べよ うと考えています。

今回、平頼盛末裔に関し、なるべく原典をあげながら記載をしていっていま
すが、誤記や、私の捉え違いがございましたら、是非御指摘をお願いします。
[22]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 04時51分00秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年04月15日 19時43分15秒
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年09月25日 07時33分12秒 ) パスワード
  

<信仰>については私の脳裏からいつも抜けています。



頼盛の信仰の篤さは母・池の禅尼譲りかも知れません。
それに母・池の禅尼が藤原貴族出身なので
武門の出身である事を忘れるな、と訓戒する兄・清盛とは
一線を画すのでしょう。

池の禅尼が信仰深いことは頼朝の延命に描かれていますが
そういえば
頼盛も頼朝の延命に働いたのを読んだ記憶があります。


頼朝が頼盛に34箇所を安堵したというのはその辺の事情があったからかも知れません。


そういえば伊豆に流された頼朝が父や兄弟の霊を弔うようにと重々さとされて送り出された
というのもその辺りの信仰心を語っているのかも、です。
[24]takahiroさんからのコメント(2002年09月25日 09時57分14秒 ) パスワード
  

服部明子様

 毎回、ものの見方を先に広げられる御示唆を頂きありがとうございます。

 今後とも、池禅尼と頼盛による頼朝助命の経緯について、ならびにそこか
 ら派生しての、一門都落ち時の頼盛の京都残留の経緯については、考察し
 ていければと思います。

 私はつい、「頼盛礼賛」的な見方をしてしまいますので、そうあまり片寄
 らないよう注意して、

 そうしたうえで、平家盛も含めました、池禅尼一族(禅尼、家盛、頼盛、
 頼盛の子息子女、ならびにその末裔)について、今後とも考察していけれ
 ばと思います。

 今後とも御協力、よろしくお願い致します。
 (引き続き、頼盛末裔につき、投稿します。)

 
[25]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 03時18分47秒 ) パスワード
  

頼盛は記録上、子息を七人残しています。

 保盛 為盛 仲盛 知重 光盛 保業 静遍 の七人です。
 この内、母の名が判明しているのは、光盛一人です。
 光盛の母は八条院女房で、この八条院女房の父は、
 
 法勝寺上座法印権僧都寛雅(村上源氏正二位権大納言源雅信の子)でした。
 また、その兄は法勝寺執行法印権僧都俊寛でした。

 つまり頼盛は、俊寛僧都の妹を後室に迎え、光盛を生んでいます。
 (1177年の鹿ヶ谷の陰謀にて俊寛が配流になる六年前。)

 光盛は、母の出自の高さから、頼盛の嫡男としての扱いを後に受けてい
 るようです。

 頼盛長男、保盛は、生年未詳ですが、おそらく1150年頃と思われ、
 光盛の生年は1172年で、約20歳の年の差がありました。
 (光盛以外の他の六人の母については、記録がなく、全員同母であるか
  否かは未詳。)
 
その頼盛家嫡男、光盛は、記録上では一男七女を残しています。 

 嫡男 教性
 嫡女 安嘉門院宣旨局
 次女 尼正縁
 三女 尼戒阿
 四女 三条局
 五女 冷泉局
 六女 安嘉門院左衛門督局 
 七女 安嘉門院内侍局

後に光盛は、頼盛より引継いだ遺領のうち九ケ所と、他の由緒による家領
二ケ所の合わせて十一ケ所を、七人の娘に分譲しています。

後、七人の娘のうち、安嘉門院宣旨局と三条局は、引継いだ頼盛遺領を、
その姻戚関係から、久我家へ譲っています。
(この婚姻関係というのが、光盛の母が村上源氏の出自であり、久我家も
 また村上源氏である事を指すのか、或いは他にも関係があったのか、現
 在の私の資料では判りません。)

例えば、「真清田社荘」の領家は、

 祇園女御(白河寵姫)→池禅尼(平忠盛室)→平頼盛→光盛→光盛女宣
 旨局→久我通相室→久我家領

と伝領されています。

以上のような経緯により、頼盛遺領の一部が久我家へ伝領された事により、
「池大納言家領」を知る際に、「久我家文書」が、史料の一部として用い
られています。
[26]服部 明子さんからのコメント(2002年09月26日 09時26分19秒 ) パスワード
  

takahiroさま

久我家と村上源氏の関係について少々書き込みます。


久我通光(1187〜1248):後鳥羽院の近臣
村上源氏の久我(土御門)内大臣通親の3男。
母は藤原範兼の娘。
母が後鳥羽上皇の乳母で在子の母でもあったため順調に出世。
異母兄通具を越えて村上源氏の嫡流を継ぐ。
承久元(1219)年内大臣となる。

しかし承久の乱(1121) でケン責を受け数年間篭居。
後に姪である源通子を母とする後嵯峨上皇のもとで 1246年 太政大臣・従一位に。
[27]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 09時50分37秒 ) パスワード
  

[25]の訂正

 誤:法勝寺上座法印権僧都寛雅(村上源氏正二位権大納言源雅信の子)
 正:法勝寺上座法印権僧都寛雅(村上源氏正二位権大納言源雅俊の子)

なお、雅俊の兄、雅實という人物が、村上源氏久我家の祖となっています。

 村上天皇ー具平親王ー師房(賜源姓)ー顕房(中院)ー雅實(久我)

また、光盛の嫡男、教性は尊卑分脈によると、仁和寺僧になっており、また
光盛自身は、貞応元年(1222)従二位に昇った後、寛喜元年(1229)7月に薨去
しています。
[28]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 10時13分43秒 ) パスワード
  

服部明子様

>久我通光(1187〜1248):後鳥羽院の近臣
>村上源氏の久我(土御門)内大臣通親の3男。

>異母兄通具を越えて村上源氏の嫡流を継ぐ。


久我家と村上源氏の関係についての補足、ありがとうございます。


私の[27]での補足と合わせると、

村上天皇ー具平親王ー師房(賜源姓)ー顕房(中院)ー雅實(久我)ー雅定
ー雅通ー通親ー通光(久我嫡流)

となります。

雅實の弟が寛雅、寛雅の子が俊寛で、その妹が頼盛後室の八条院女房宰相局
という関係になります。


久我家と村上源氏の関係についての具体的な補足、ありがとうございました。



 
[29]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 10時50分45秒 ) パスワード
  

誤記ばかり申し訳ありません。

 誤:雅實の弟が寛雅、寛雅の子が俊寛
 正:雅實の弟が寛俊、寛俊の子が寛雅、寛雅の子が俊寛
[30]服部 明子さんからのコメント(2002年09月26日 11時29分52秒 ) パスワード
  

名前が似てますから打ち間違えてしまいますよね。

私もよくします。
お気になさらないで下さい。

[31]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 12時00分06秒 ) パスワード
  

頼盛長男保盛末裔について

 保盛には記録上、三人の子息がいます。

長男 頼清
次男 保教
三男 光雅

 長男頼清は建長七年(1255年)に従五位・非参議となり、文永三年
 (1266年)に死去しています。なお尊卑分脈には頼清の子として、
 阿波守従五位下保清が記されています。

 次男保教は、承久の乱(1221年)において京方として戦い、石清水
 八幡宮内善法寺にて自害しています。

 この保教は、藤原保家の猶子となっていたといわれ、藤原保家とは、藤
 原基家と頼盛娘の嫡子で、北白河院陳子の兄弟になります。
 (藤原保家とは、藤原家成の父、藤原家保とは別人物です。)

 三男光雅は、延暦寺僧になっています。

 保盛自身は、承元四年(1210年)正三位となった後、翌年建暦元年   
 (1211年)出家しており、没年は未詳です。

 安田元久氏はその著『平家の群像』<平頼盛の立場>の中で、

 「保盛や光盛の子孫で、頼清以外にこの後に政界に進出したものもなく、
  この家は没落したものと思われる。また為盛・仲盛らの経歴について
  はほとんどわからない。頼盛は、その一身に関する限り、討滅の難を
  のがれ、再び京都政界に復帰することができたが、しかしその時はす
  でに、公卿そのものの政治的権力と地位とが失われつつある時代であ
  った。いわば斜陽の階級の中に、ようやく生きる場所を見出したにす
  ぎない。しかもその中で、頼盛の子孫の没落は、より急速であったと
  言わねばならない。」

 と記されています。

 光盛ー教性、および保盛ー頼清ー保清でもって、尊卑分脈においても頼
 盛の系譜は途絶えており、おそらく前記安田氏の記述通り、頼盛子孫の
 京都政界での地位は没落したものと思われます。

 そして後に、頼盛の仁和寺関係の所領、また池大納言家領関係に、所縁
 を求め下向(隠遁)した子孫の系譜が、地方に伝えられています。

 (仁和寺宮諸大夫家、尾崎氏は、そのまま京都に存続しています。また
  播磨国在田荘領家池氏は、領家職だけを有し、京都に居住していたの
  か、現在の私の資料では未確認です。)
[32]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 12時11分23秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年09月28日 01時34分32秒
[33]takahiroさんからのコメント(2002年09月26日 12時37分30秒 ) パスワード
  

頼盛末裔を伝える系譜、伝承(当スレッドにて挙げてきたもの)

 伊勢・伊賀 : 本居氏 安村氏
 紀伊    : 潮崎氏(塩崎氏)
 和泉    : 小谷氏(上神氏)
 讃岐    : 尾池氏
 越後    : 山吉氏(池氏)
 日向    : 鬼丸氏 財部氏 下村氏  
 大隅    : 池氏

 京都    : 池氏(後朽木氏)
       : 尾崎氏

以上は私が個人的に収集しました資料を元にしていますので、これ以外にも
伝えられている系譜、伝承は、存在するかもしれません。
(まだ資料は得れていないのですが、伊勢の稲垣氏、上林氏も、頼盛末裔の
 系譜、伝承を伝えているようです。)

今後とも新たな資料がありましたら、頼盛末裔の系譜、伝承を記載します。
[34]服部 明子さんからのコメント(2002年09月26日 13時29分19秒 ) パスワード
  

頼盛流末裔の方達がこのスレッドを見て下さると嬉しいですね。
[35]takahiroさんからのコメント(2002年09月28日 01時57分07秒 ) パスワード
  

服部明子様

 上記のお言葉、ありがとうございます。

 追加史料として、以下、「愚管抄」からの一門都落ち(寿永二年七月)
 における、頼盛に関する部分を、記載します。

 (ここで、同年五月の倶利伽羅合戦において討死にしている為盛が記載
  されていますが、これは「愚管抄」筆者、慈円の、他の頼盛子息との
  誤記なのでしょうか。)

 私はあまり古文に明るくないので、原文のまま、投稿します。
[36]takahiroさんからのコメント(2002年09月28日 02時15分18秒 ) パスワード
  


<原文>

かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事(こと)火急(くわきふ)になり
て、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納
言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あ
しざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはす
て候(さふらひ)ぬる由(よし)故入道殿(こにふだどの)に申(まうし)
てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」と云
(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山
しなへむかいてけり。かやうにしてけふあす義仲・東国武田(たけだ)な
ど云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるに
てをのゝきあいける程に、廿四日の夜半(よは)に法王(ほふわう)ひそ
かに法住寺殿(ほふじゆうじどの)をいでさせ給ひて、鞍馬(くらま)の
方(かた)よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、あふみ
の源氏がりこの由仰(おほせ)つかはしけり。たゞ北面下臈(ほくめんげ
らふ)にともやす、つゝみの兵衛と云(いふ)男(をとこ)御輿(みこし
)かきなんどしてぞ候ける。暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はら
さはぎて、辰巳午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内を
ぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落
(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。六はらの家に
火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いでき
て、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。その中(なか)に頼盛が
山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)
の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽にをひつきて、「い
かに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑけれ
ば、はせかへりてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落ければ、
心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそ
のころ院のおぼゑしてさかりに候ければ、御気色(みけしき)うかゞはん
と思(おもひ)けり。この二人鳥羽より打(うち)かへり法住寺殿に入り
居ければ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事由(こと
のよし)を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比
(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院(はちで
うゐんの)辺(へん)に候へ」と御返事承(うけたまは)りにけり。もと
より八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻はしうとめなれば、
女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申いるゝ者も
なくて、御返事をだに聞かざりければ、又落てあいぐしてけり。

[37]服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 06時51分04秒 ) パスワード
  

takahiro さま

「愚管抄」のこの下記の部分、わたくしも古文は読めないのですが、「平家物語」と随分異なりますね。


その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。
かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして
鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、
返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、
はせかへりてその由云ければ、
やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。


頼盛一行が何故京にとどまる事になったか
実は宗盛率いる平家一族の冷たい仕打ちがあったから
そこに原因があったようでございますね。


「平家物語」では

池の大納言頼盛の卿も、池殿に火かけて出でられたるが
鳥羽の南の門にて、「忘れたる事あり」とて、
鎧に付けたる赤印どもかなぐり捨てさせ、
その勢300余騎、都へ帰り上られけり


随分様子が違いますね。
この後、平家物語では越中の次郎兵衛盛継が頼盛軍の動きに腹を立て
「矢をかけて脅してやろう」
と言いますが宗盛が止どめます。



資盛は資盛で八条院の女院におすがりしてなんとか打開策を計ろうとしますが
取り次ぎもして貰えず諦めて都落ちの一行に加わります。


宗盛一行の平家と
資盛に代表される重盛系平家の立場と
清盛の腹違いの弟の家(池の大納言家)の場合の
3つ立場が対照的に描き出されていますね。

みんなそれぞれの事情があって去就を決する難しさ。
よく描かれていますね。
(涙)

今迄池の大納言家の事を良く思ってなかったわたくしには
この愚管抄のくだりは
謝罪のスレッドを立てなくてはなりませんね。
[38]服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 07時43分38秒 ) パスワード
  

「頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞て先づ<子の兵衛佐為盛>を使ひにし」

>ここで、同年五月の倶利伽羅合戦において討死にしている為盛が記載されていますが、
>これは「愚管抄」筆者、慈円の、他の頼盛子息との誤記なのでしょうか。


takahiro さま


昔の書きモノは漢字も適当ですし
書き誤る、または、後世の人が写し間違うという事態も生じますし
内容も今とは違って確実な事が書かれている訳ではございませんので

「都落ちの時に頼盛が子の為盛を使いに出して」

というのは
書き間違いと思います。よくあります、こういうの。
頼盛が「為盛の子」を使いに出した、と書きたかったのかも知れません。
または御指摘のように頼盛には他にも「為盛」を称する幼い子供がいたのかも知れませんね。


わたくしは、この為盛は絶対に倶利伽羅峠で討ち死にした頼盛の子の為盛とは別人と思います。
と申しますのは
官職名が「兵衛佐」になっているからです。
兵衛佐なんて身分が余りにも低うございますから。
普通正6位下ですもの。

倶利伽羅峠で討ち死にした為盛でしたら当時は大人でございますから
どこかの「守」になってる筈ですもの。

それで「頼盛の孫」だと思いました。
多分年齢は10歳から14歳前後。
頼朝が平治の乱の時(13歳)従5位下・右兵衛権佐の官位を受けていますから。




日本史の昔の記事は
同じシーンを描いた他の人の作品と突き合わせる
という作業が必要だそうです。
でなければ、1つの記述だけでは史実には出来ない、と聞いています。


平家物語でサブに使うとしましたら
「源平盛衰記」が良いそうです。
こちらは詳しく記されているそうです。
でも1冊1万円あたりで売られてて10冊ぐらいあるので
買えませんが。
この本が図書館にあると良いですね。
[39]takahiroさんからのコメント(2002年09月28日 09時28分58秒 ) パスワード
  

服部明子様

 私の史料の範囲では、寿永二年当時の官位は、兄保盛が正四位で、為盛
 は従四位下でした。

 右兵衛佐も務めていますが、その任官がいつの事であったかは、わかり
 ません。1170年代の若い頃であったのでしょうか。

 他の任官では、紀伊守と、加賀守を務めています。

 慈円は、服部様の推測されたように、為盛の子か、あるいは他の頼盛の
 若い子息、孫と誤認していたのでしょうか。

 (またこのスレッドの冒頭で記載しましたように、為盛が討死したとい
 う倶利伽羅峠には、鎌倉期建立の五輪の塔、「為盛塚」が弔われており、
 この五輪の塔は、昭和44年9月20日に史蹟として、市の文化財に指定され
 ています。)

 「源平盛衰記」における、頼盛一行の都落ちの記述も、探してみようと
 思います。
 
 有益な御教示、ありがとうございました。

 また、今後は、このスレッドにては主に引き続き「頼盛末裔」について
 の記載を、そして新たに立てて頂いた「頼盛都落ち」のスレッドへは、
 「頼盛」についての記載を、投稿していこうと思います。 
 
[40]川口 信さんからのコメント(2002年10月02日 20時17分58秒 ) パスワード
  

 >平家物語でサブに使うとしましたら 「源平盛衰記」が良いそうです。 
 >こちらは詳しく記されているそうです。 でも1冊1万円あたりで売られてて
 >10冊ぐらいあるので 買えませんが。 この本が図書館にあると良いですね。

 電子図書でページアップされてます。
 源平盛衰記:巻1〜36巻
 
  http://www.j-text.com/sheet/seisui1.html

 (読み仮名付き)と(読み仮名なし)があります。seisuiの後の数字を変えれば好きな巻に行き着きます。なにしろ膨大な量なので少しずつ読んで見ては如何ですか。

 
[41]服部 明子さんからのコメント(2002年10月02日 23時02分25秒 ) パスワード
  

川口さま

ありがとうございます。
これは親切ですね。
[42]川口 信さんからのコメント(2002年10月03日 10時28分54秒 ) パスワード
  

S3108 頼盛(よりもり)落留事
池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)も、池殿の亭に火を懸て、鳥羽の南、赤江河原まで落給たりけるが、赤旗赤符ちぎり捨て、此より都へ帰上る。八条女院の御所、仁和寺(にんわじ)常葉殿に参篭し給へり。落残る勢僅(わづか)に百余騎(よき)也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許より度々被(二)申送(一)けるは、平家追討の院宣を下給る上は私を存ずべからず、御一門の人人恨申べきにて候、但御あたりの事は驚思召(おぼしめす)べからず、故池尼御前に遁れ難き命を被(レ)助進せて、今に甲斐なき世に立廻れり、其御恩争か奉(レ)忘べきなれば、如何にも報い申さんとこそ存ずれ共、後れ進ぬれば力及ばず、今は故尼御前の御座と深思進すれば、頼朝(よりとも)角て世に立廻り候はば、朝恩にも申替て御宮仕申べし、ゆめ/\■(いつはり)飾の所存にあらずと被(レ)申たりける上、法皇仰之旨も有けるを憑て留給ふ。又同き侍に、弥平兵衛尉宗清と云者あり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)平治の逆乱にきらるべかりけるを、此宗清、池尼御前の使として、兎角詞を加て死罪を申宥たりけるに依て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)思忘給はず、国国の兵を差上せ給ける時も、穴賢池殿の殿原に向て弓矢を引事有べからず、又宗清兵衛に手かくなとぞ被(二)誡仰(一)ける。平治に頼朝(よりとも)助りて、寿永に頼朝(よりとも)遁給ふ。周易に、(有朋下P192)積善之家有(二)余慶(一)、不善之家有(二)
P0759
余殃(一)と云本文あり。誠なる哉此言、人に情を与るは、我幸にぞかへりける。

前記紹介の「源平盛衰記」巻31の文です。(都落ちは31巻にあります)
[43]服部 明子さんからのコメント(2002年10月03日 10時43分23秒 ) パスワード
  

川口さま

ここまで捜すの大変でしたでしょうね。
感謝致します。


><42>の兵衛佐(ひやうゑのすけ)

これは頼朝の事ですね。
[44]takahiroさんからのコメント(2002年10月03日 12時32分33秒 ) パスワード
  

川口信様、「源平盛衰記」巻31における「頼盛都落ち離脱」に関する記述
の紹介、ありがとうございます。

当記述によると、「頼盛都落ち離脱」の要因に、「頼盛と頼朝」との関係
が、大きく捉えられているという印象を持ちました。

これで、「平家物語」、「愚管抄」、「源平盛衰記」の3種の当該箇所の
記述を読み得た事となりました。

また私は昨日(『中世を読む為の書3点について』にても紹介しましたが)、

「平家物語と平頼盛一家」
   東京大学国語国文学界編集『国語と国文学』
   1971年9月号(多賀宗隼著)

の複写を入手し、頼盛と平家一門との関係に関する、様々な教唆を得ました。

更に当該箇所に関する史料を入手し、その中から、より客観化した「頼盛都
落ち離脱」に関する考察をしていきたいと考えています。
[45]服部 明子さんからのコメント(2002年10月09日 00時44分48秒 ) パスワード
  

takahiroさまより教えて頂きました:


 「兵衛佐」は、元々は相当位階が「正六位上」であったのが、延暦十八
 年(799年)四月二十七日以降は、「従五位上」に引き上げられてい
 るようです。
[46]takahiroさんからのコメント(2002年10月09日 01時14分04秒 ) パスワード
  

服部明子様

 上記補足頂き、ありがとうございます。
 もう少し「頼盛系」と位階について、記します。
               *
 平家滅亡前までの「頼盛系」の位階は、頼盛を除くと、皆比較的低
 かったようです。(清盛、重盛、宗盛子息系に比べて。)

 頼盛は、正二位権大納言ですが、寿永年間までは、子息は、

 保盛:正四位下(後、鎌倉政権下で正三位まで昇官)
 為盛:従四位下
 仲盛:正五位下
 知重:従五位下
 光盛:正五位下(後、鎌倉政権下で従二位まで昇官)
 保業:従五位下

 と、なります。

 清盛、重盛、宗盛子息系の、若年での三位(公卿)以上の昇官は、
 やはり平家嫡流の、ある意味異常な「栄華」の結果であったと思
 います。

 上記位階は、「尊卑分脈」及び「続群書類従所収平氏系図」から、
 引用しています。



[47]川口 信さんからのコメント(2002年10月09日 11時49分56秒 ) パスワード
  

 takahiroさま ご挨拶が遅れまして。宜しくお願い申し上げます。
以前のコメントに
【武蔵の朽木氏 朽木義綱の後也。その曾孫経氏(萬寿丸)はじめ池大納言頼盛が七代河内次郎顕盛が猶子となり、元徳二年九月本郡石坂村等を領す。新編風土記、石坂村條に「当所は池大納言頼盛より河内次郎顕盛まで伝来せし知行なりしを、外戚の因あれば、朽木兵庫助時綱が子、朽木萬寿丸に興へしこと知らるると云々」】
 とありますがこれが事実であれば、平家スレお得のオカルトであります。
それと言うのは川口久助宗次の妻になったのは、朽木元綱の子、兵部少輔宜綱の娘であります。もっと詳しい経緯・情報がお分かりでしたらご披露くだされば幸いです。
[48]服部 明子さんからのコメント(2002年10月09日 12時31分47秒 ) パスワード
  

あらら・・・
これで takahiro さまと川口さまが繋がってしまいましたか・・・

[49]川口 信さんからのコメント(2002年10月09日 13時48分00秒 ) パスワード
  

 朽木家について調べました。
 http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/kukki.htm
 
 足利将軍義晴に忠節をつくした稙綱の孫も元綱に三人の子があり、長男宣綱が家を継ぎ知行六千三百余石。弟友綱、稙綱にそれぞれ二千余石、千百余石を分与した。稙綱はのちに累進し、土浦三万石の大名に出世した。その二男則綱が三千石の分知を受けている。

 またまたびっくり・・・・・・
 朽木宜綱の子供達の嫁先に大志万さんのところに書き込みしました大島光継の系統と婚姻関係がありました。
 川口家に嫁いだ娘の姉が大嶋義唯の妻に、宜綱の跡取:智綱の子、定朝の妻に大嶋義近の娘がなっており、二重の婚姻関係が出来ておりました。これは朽木家関係を調べなければ分からなかったことでtakahiroさまに感謝いたします。
[50]服部 明子さんからのコメント(2002年10月09日 14時30分57秒 ) パスワード
  

またまたビックリですね。
大志万さんにはなんか感じるものがありましたが
大島家でも繋がってましたか。


朽木家は信長の朽木越えの時に協力して運を開きましたね。
[51]takahiroさんからのコメント(2002年10月09日 19時52分11秒 ) パスワード
  

川口信様

 こちらこそ今後とも宜しくお願い致します。

 「頼盛末裔と朽木氏」に関する資料は、上記以外にもう少しもっていますので、
  後程記載させて頂きます。

 上記紹介頂きました「朽木氏に関するサイト」、拝見しました。

 その上でもう一度、自身の頭を整理しますと、

 朽木祖義綱の三代孫が、経氏(頼盛七代孫河内次郎顕盛の猶子となる)、経氏
 九代孫が元綱で、元網の子が宣綱、そしてこの宣綱の一女が大嶋義唯妻、三女
 が川口宗次妻となる、

 経氏が、頼盛七代孫河内次郎顕盛の猶子となったのは、「外戚の因あり」との
 事ですので、つまり、経氏十代孫宣綱の娘二人の血を通じ、大島様、川口様の
 家系へ、頼盛の血が受継がれている、

 との整理で、間違っていないでしょうか。

 頼盛の長男、保盛系の系譜の流れが、朽木氏を通し、大島家、川口家の系譜へ
 つながっていることが、川口様より頂きました御示唆により、判明しました。

 ありがとうございました。

 では資料については、後程投稿します。
[52]takahiroさんからのコメント(2002年10月09日 20時02分31秒 ) パスワード
  

[51]訂正

頼盛の長男、保盛系の系譜の流れが:誤
頼盛の子息、保業系の系譜の流れが:正
[53]takahiroさんからのコメント(2002年10月10日 00時53分01秒 ) パスワード
  

川口信様

 御期待に添えるかわからないですが、朽木氏と頼盛末裔についての資料を
 記します。(前回記載の資料よりも、少し詳しいくらいですが。)

 以下は、『寛政重修諸家譜 巻第四百十五』からの抜粋です。

  「宇多源氏 佐々木庶流 朽木

   佐々木太郎判官定綱が四男近江守信綱、承久三年宇治川の合戦に先が
   けの勲功ありしにより、はじめて近江國高嶋郡朽木荘をあたへられ、
   その地に住し、今にいたるまで代々これを居所とし、信綱が四代の孫
   義綱にいたりて称号とす。」

  とあり、以下、義綱、時経、義氏、と各代の記載が続き、四代として、

  「経氏 

    初頼氏 萬壽丸 出羽四郎 四郎兵衛尉 出羽守 従五位下
   
    経氏はじめ池大納言頼盛が七代河内次郎顕盛が猶子となり、元徳二
    年九月二十二日顕盛が領地丹後國倉橋郷のうち余保呂村、をよび相
    模國鎌倉郡甘縄魚町東頭の地、武蔵國比企郡石坂村、安房國葛原村
    等をあたへられ、のち父義氏が譲をうけて朽木荘を領し、等持院尊
    氏に属す。<後略>」

  と、あります。

 以上は、頼盛関連の記載のみですが、私が朽木氏と頼盛関連で持っていま
 す資料は、現在の所、これですべてです。

 『寛政重修諸家譜 巻第四百十五』所収、「朽木氏」の項には、朽木氏各
 代に関する事績が、詳細に掲載されております。

 また、朽木氏と頼盛との関連については、「朽木文書」を見れば、更に詳
 細が判明するとは思いますが、未だ私は未見です。
  
 今後とも新たに資料が手に入りましたら、紹介させて頂きます。     
[54]川口 信さんからのコメント(2002年10月10日 07時48分03秒 ) パスワード
  

早速のご教示頂き有難うございます。

 私もまた調べてみます。
 
お忙しいと思いますが平頼盛関係のURLがありましたので。ご存知でしたらご容赦を。

 「生き残った一族」:
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/kotennko13.htm

 「武家家伝 薩摩八木氏」:
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_yagi_k.html

 

[55]takahiroさんからのコメント(2002年10月10日 14時04分06秒 ) パスワード
  

川口信様
 
 [54]にて紹介して頂きました情報は、ともに初見でした。
 誠にありがとうございました。

 特に後者の資料は、「頼盛末裔を伝える系譜を紹介する」という、当スレ
 ッドにとり重要ですので、上記アドレスより、薩摩八木氏について、あら
 ためて簡略に記させて頂きます。

 薩摩八木氏 桓武平姓 頼盛末裔光盛流

  頼盛ー光盛ー盛定ー盛重ー盛武ー盛継ー盛親ー盛治ー盛武ー盛家ー盛直
  ー盛重ー盛広ー盛安ー信盛ー信貞ー正信ー豊信ー元信ー宗信と続く。

  盛定、盛重の代に、但馬、土佐、日向を経て、薩摩へ下向する。

 今後とも資料の御示唆等、よろしくお願い致します。
 
[56]takahiroさんからのコメント(2002年10月10日 15時20分40秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年10月11日 01時02分52秒
[57]takahiroさんからのコメント(2002年10月11日 01時02分00秒 ) パスワード
  


[33]にての記載を更新します。

頼盛末裔を伝える系譜、伝承(当スレッドにて挙げてきたもの)

 伊勢・伊賀 : 本居氏 安村氏
 紀伊    : 潮崎氏(塩崎氏)
 和泉    : 小谷氏(上神氏)
 讃岐    : 尾池氏
 越後    : 山吉氏(池氏)
 日向    : 鬼丸氏 財部氏 下村氏  
 大隅    : 池氏
 薩摩    : 八木氏
 京都・近江 : 池氏(河内氏、後朽木氏)
       : 尾崎氏(若松氏)

以上は私が個人的に収集しました資料を元にしていますので、これ以外にも
伝えられている系譜、伝承は、存在するかもしれません。
(まだ資料は得れていないのですが、伊勢の稲垣氏、上林氏も、頼盛末裔の
 系譜、伝承を伝えているようです。)

[58]川口 信さんからのコメント(2002年10月11日 08時36分37秒 ) パスワード
  


 和泉: 小谷氏(上神氏)記載のURLがありました。

 http://www.interline.or.jp/~masaki_t/sensyu/meike/kotani.html   
 
 『寛政重修諸家譜 巻第四百十五』を借りてきて読んでみました。takahiro
さんのご教示以上の事は記載がありませんでした。朽木文書は国会図書館にあるみたいですね。今度国会図書館のホームページ(www.ndl.go.jp)が出来たみたいで調べて見たいものです。
[59]takahiroさんからのコメント(2002年10月11日 13時26分11秒 ) パスワード
  

川口信様
 小谷氏(上神氏)記載のURLの御紹介、ありがとうございました。
 このURLも私は初見でした。
 私は未だネット上の情報には疎いのかもしれません。
 誠にありがとうございました。

 私は京都在住なのですが、今月7日に京都府内精華町に、国会図書館
 関西館が開館しましたので、近々行ってみようと楽しみにしています。

 朽木氏と頼盛末裔とに関する資料を入手しましたら、また紹介させて
 頂きます。
[60]takahiroさんからのコメント(2002年10月12日 10時44分51秒 ) パスワード
  

川口信様より紹介頂きました、『一門』の中において、
頼盛一族の「都落ち離脱」は、以下の章に扱われています。

8 章   源 氏 の 掟

 1 都 落    http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/i-181.htm

 2 義仲入京   http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/i-182.htm

「平家物語」、「愚管抄」、「源平盛衰記」等からの資料が矛盾すること
なく、巧みに一連の流れとしてまとまっており、自然に読めました。
ただ、主人公が光盛であるからか、私の眼からは、池大納言家から見た「
一連の流れ」のようにも感じ取れました。

『一門』では、光盛の眼からみた平家一族の光芒が、西園寺実氏を聞き手
という設定の元、流暢に語られており、興味深く読み進んでいます。
[61]takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 02時29分19秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年04月09日 12時26分21秒
[62]服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 03時08分54秒 ) パスワード
  

後堀川天皇は父方でも母方でも平家(武門の平家と堂上平家)の血を受けて
いるのですねえ。

こうして見ると、平家の滅亡後、平家の血が疎まれたという事は無い、という訳ですね。
平家の存在は朝廷の中にしっかり根を下ろしていますね。
平家の始祖・正盛が平家に「雅」を重視したというのが成功しているのですね。
[63]takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 04時10分20秒 ) パスワード
  

藤原実氏
 ‖
 ‖━━━━大宮院<女偏に吉>子
 ‖     ‖
藤原貞子   ‖━━━━┳━━━━後深草天皇
       ‖    ┃
      後嵯峨天皇 ┃
            ┗━━━━亀山天皇

上記「藤原実氏」は、実宗─公宗─実氏という系譜で、この実宗の室が
藤原基家(室・平頼盛女子)の娘であり、
また、
上記「藤原貞子」は、隆房(室・平清盛女子)─隆衡─貞子という系譜
から、
後深草天皇と亀山天皇には、平清盛と頼盛の血が、女系を通して受継が
れており、その血は今上天皇へと受継がれています。
この事は、まさに服部様の御指摘通り、
『平家の始祖・正盛が平家に「雅」を重視したというのが成功している』
証左であると思われます。
[64]takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 04時25分18秒 ) パスワード
  

実宗─公宗─実氏:誤
実宗─公経─実氏:正

ちなみに上記藤原(西園寺)実氏とは、小説『一門』にて、主人公平光盛の
聞き手役として設定され登場している人物です。
[65]yamayosiさんからのコメント(2003年01月05日 18時50分15秒 ) パスワード
  

あけましておめでとうございます。

 正月にうろうろしておりましてようやくここにたどり着いたものです。
我家の苗字を探しているうちにここに参りました。
 残念ながら平家物語は受験勉強か吉川平家程度の知識しかありません。

 教えていただきたいのは、読み方でありまして
私の名前 山吉 の読み方です。
 私は ヤマヨシと読みます。私は9代目なのですが先祖は吉(キチ)と読みます。

ずっと石川県で農民をしたり、加賀前田様の家老だった本多の殿様の料理人をしていたようです。(ここまでは資料というか、遺品があります)

 その先になると良くわかりません。邑は越前から流れてきた人と新潟から船できた人の2系統があります。(過去帳を預かる寺がきれいに2つに分けているんですが)

と簡単な自己紹介でしたが、このログに出てくる山吉さんはなんとお読みするのでしょうか?

 なんかこれで自分のご先祖が、平家か橘か決まるように思うのですが。
まぁ 所詮は現在もたくさん?田んぼあるんで百姓の出なんでしょうけど。

 本多様 以前の大河「葵 三代」の渡辺いっけいさんの弟さんの末裔
 最近の平家物語で感動したこと。
 地元金沢には アンサンブル金沢というプロオケがあります。自分も地元のアマオケでViolaという楽器を弾いているんですが2年ほど前、第九を合同演奏した際に隣で
一緒に弾いたロシア人の方が日本語で「あなたは無常についてどうかんじますかぁ?
 といわれ 「いやぁ、、、」ずっと難しい突っ込みを受けたことがあります。
 でその方は来日するまで、日本人はいまだに草書体で字を書いていると思ったらしく、本国から自分の持ってきた草書体の書を、読んでくれとみんなにせがんでいたそうです。

 日本人でもうまく説明できない無常観なんて英文の本読んでわかるんだろうか?
 あんまりたいした事かけなくてごめんなさい。

 またきます。
 おやすみなさい。






[66]川口 信さんからのコメント(2003年01月05日 20時38分36秒 ) パスワード
  

 ヤフー検索では
 http://websearch.yahoo.co.jp/bin/query?p=%bb%b3%b5%c8%cb%ad%bc%e9&hc=0&hs=0


 山吉さんにおいてはすでにご存知とは思いますが。
 長尾・越後上杉家家臣に山吉豊守(やまよし)殿がおります。
 よく分からないのですが同氏は越後なので同一族かもしれません。
[67]takahiroさんからのコメント(2003年01月06日 10時46分23秒 ) パスワード
  

[65]yamayosi様

 当ログにおける『山吉』は、読みは『やまよし』です。

 太田亮著「姓氏家系大辞典」巻三を原典としています。

 石川県ではないですが、福井県には、平頼盛、藤原宗子の御廟所が在
 ります。

 http://communities.jp.msn.com/1qqpm5cd74qp2g21tge9a1t5a4/of.msnw

 http://groups.msn.com/1qqpm5cd74qp2g21tge9a1t5a4/of.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=2

 「城福寺」と言いますが、私も一度訪れてみたく思っています。

 yamayosiさんも、頼盛末裔を伝える姓を受継がれているのですね。

 また図書館、資料館等行きました際には、『山吉』姓について、もう
 少し詳細に調べてみます。
[68]littlepineさんからのコメント(2003年01月06日 19時04分00秒 ) パスワード
  

 早速の回答ありがとうございました。
takahiroさん。
武生へは得意先もあり時々行きます。明日にでも行けるのですが、雪の熊坂峠の渋滞
は大変なので、まぁ桜の花の満開の頃ゆっくり行きたいと思います。
 今度はお寺の本寺、末寺の関係を探してみようと思います。

川口さん。
 ありがとうございます。越後の山吉はおそらく、大石蔵之助が吉良邸に討ち入った際ただ一人だけ刀を取って赤穂浪士と戦った、吉良家の山吉新八さんの同族ではと思います。
 重傷を負いますが一命を取止め、功績を認められ上野介の実子の会津上杉家に入ります。
というより、討ち入りに備えて上杉から派遣されていたのだと思いますが?
で その後明治維新で子孫が青森県知事なったそうです。

 杉浦日向子さんの本の中にあった話です。

この話で自分以外の同姓をはじめて知りまして、うれしくてルーツ探しが始まったんです。 


画家の池 大雅はここの池の池ですか
[69]takahiroさんからのコメント(2003年01月06日 19時47分40秒 ) パスワード
  

画家の池大雅は、本名は「池野」というそうですので、頼盛末裔の「池氏」とは
繋がりはないと思います。

http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection/item/J_134_755_J.html

桜の季節、武生の城福寺へ行かれましたなら、是非どのような所であったか、お教え
下さい。

城福寺は藤原宗子(池禅尼)所縁のお寺であるとのこと、私は最近「池宮版平家」を
読み進めているのですが、この中で頼盛母堂、藤原宗子は絶世の佳人として描かれて
います。(現在上巻が刊行されています。)
[70]川口 信さんからのコメント(2003年03月29日 12時22分56秒 ) パスワード
  

桓武平氏国香流系図(展望社刊行)を読んでおります。

 その中に清盛公の室と弟たち他の項目があります。
 それによると為盛の子供と思われる名前が見出せます。清盛系系図は五頁に亘り、為盛の子供、従五下駿河守俊盛の名前があります。
 
 俊盛の最後」は(平家物語:巻第九)の文があります

 また頼盛系系図が二頁にわたり記載があります。その中に「安村家」の系図があります。
 一度お読みになれば、参考になると思いますが。
参考に「坂東平氏」のURLにも為盛の子供に俊盛と記載があります。
 http://www.tanutanu.net/roots/database/b/bandou1.htm
[71]takahiroさんからのコメント(2003年03月29日 16時18分55秒 ) パスワード
  

川口様

 貴重な御指摘ありがとうございます。

 上記史料の更に第1次史料は、おそらく「平家物語 延慶本」に付記されて
 いる平氏系図であると思われます。

 混同があるためか、通説では、<平家物語:巻第九「俊盛の最後」>に登場
 する盛俊は、平家侍大将平盛国の子であり、すでに保元の乱の際、父盛国と
 ともに登場しており、おそらく頼盛と同年齢くらいの人物であると思われま
 す。

 「安村家系図」、偶然私も手元に所有していましたが、頼盛の子として、光
 盛、保盛、保範とあり、この保範を安村家は祖としています。

 保範は、内蔵人保範と記載されており、また、尊卑分脈では、保盛の子に承
 久の乱で京方に与し亡くなった内蔵人保教という人物が存在しますが、保範
 と保教と同音で、ともに内蔵人職ですので、もしかすると、安村家はこの保
 教の子孫かとも推測します。

 あるいは尊卑分脈に漏れているだけで、頼盛の子保範の末裔(系図通り)が
 正しいのかも知れません。

 もう少し、調べてみます。
[72]川口 信さんからのコメント(2003年04月08日 09時13分46秒 ) パスワード
  


「平家物語」:桜楓社版・梶原正昭氏校注には越中前司盛俊とあり、また「新釈平家物語」:集英社版・松本章男氏著には越中前司盛俊として出てきます。
 
 また新潮社日本古典集成「平家物語(下)にも越中の前司盛俊とし、傍注として、盛俊は盛国の子「尊卑分脈」によれば正度の子季衡の流。季衡の孫にあたるが、年代的に不審がある。「尊卑分脈脱漏」及び延慶本・長門本によって、季衡・盛国の間に「盛遠」を一代挿入すると次のごとくになる。それが妥当か。貞盛―維衝―正度―季衡―盛遠―盛国―盛俊―盛綱とある。

「日本姓氏家系総覧(新人物往来社版)にも「桓武平氏国香流系図」と同じような系図が収録されておりますが、これも尊卑分脈を基本にしたと思われる系図、為盛―俊盛が載せられておりますが、だがその尊卑分脈には為盛の長男は記載が無し、長男が記載無しという事はもちろん次男も無し。
 尊卑分脈に記載のある俊盛は維盛の兄弟の季衡の系統に式部大夫俊盛―盛長などとありますので、これは人違いかも、盛国も乗せておりません。
尊卑分脈が全てとは思いませんが、現代において信用の置ける地位を占めております。歴読の系図には資盛の子に盛国(長崎氏祖)と載せてありますが、尊卑分脈には資盛―盛綱(長崎流)とあり、附合しません。たんなる活字の誤植であれば問題は解決するのですが。
 ヒントは出典にありそうです。(姓氏家系辞書、皇胤紹運録、尊卑分脈、尊卑分脈脱漏、日本系譜総覧)
 
 takahiro様「尊卑分脈脱漏」を探して、問題を解決して頂けるとスッキリするのですが。宜しくお願いいたします。





[73]takahiroさんからのコメント(2003年04月08日 16時18分02秒 ) パスワード
  

川口様

 いつも貴重な御教示ありがとうございます。

 従五下駿河守俊盛についてですが、以前一度調べていました事柄をここに
 記します。

 まず「国司補任」にて、駿河国の項目を参照しましたが、該当する時期前
 後に平俊盛の名は見えませんでした。

 その意味するところは、「国司補任」という書物の形成方法からみて、お
 そらく駿河守俊盛の名は、正書や史料価値として認められる公卿の日記類
 には登場していないという事であろうと思われます。

 (為盛の紀伊守、加賀守は「国司補任」に見えます。)

 では「尊卑分脈脱漏」の編者は何を出典に駿河守俊盛の名を記載したのか
 を推測すれば、私の知識の範囲では、[71]にて記しましたように、「平家
 物語 延慶本」に付記されている平氏系図からの出典であると思われます。

 また「尊卑分脈脱漏」には、資盛の末流として親真(織田信長祖)の流れ
 も記載されているなど(「尊卑分脈」には不掲載)、作為の可能性のある
 史料もそのまま取り上げられています。

 今の私の知識では以上しか記せません。

 「尊卑分脈」の成立過程について、および「尊卑分脈脱漏」の成立過程に
 ついてもう少し専門的に調べれば、また、「平家物語 延慶本」に付記さ
 れている平氏系図についてもう少し専門的に調べれば、内容のある投稿が
 できるとも思います。徐々にですが調べてみます。
[74]御池さんからのコメント(2005年01月18日 12時46分02秒 ) パスワード

 はじめまして。
 御池と申します。仕事をリタイアいたしまして、以前から気になっておりましたご先祖探求を始めたところです。
 私云では、平頼盛末流で、細川定禅と讃岐に渡り、横井城から青野城に移って、云々・・・と、確かに、「尾池氏」は、皆様のお話にも出ておりますところですが、果たして私「御池」と繫がるものか?
 別伝では、京都吉祥院村に住した時代に、細川氏・三好氏に寄り云々・・・?
 また一伝、本貫地は京左京?・・・左京本貫の「御池」は、百済渡来人・国造ですが・・・さて?、
 現在私は、わずかばかり残った近世の先祖付から、ご親戚ご縁の「家」を整理しているところですが、足利家の時代まではどうにか探れるのですが、それ以前がよくわかりません。
 尾池は、讃岐で足利義輝の子が継嗣となり、尾池玄蕃頭を継ぎ、生駒氏出羽転封の折、浪人、寛永17年?ごろ、細川家に招かれて、千石、足利道鑑と名乗ります。先年、道鑑と宮本武蔵が藩主より誘われて温泉に行ったという文書が見つかったりしましたが、道鑑の子は、姓を西山と変えて、現在に至ります。一方讃岐の由佐氏を継いだ子もいるようです。
 道鑑の次子藤左衛門は肥後細川家を立ち退いて大阪奉行曽我氏を頼ったといいます。
 しかし、足利でない「尾池」のことが判りません。また、細川定禅と讃岐に渡る以前が繫がりません。
 尾池と御池が繫がるものかよくわかりません。新潟の池さんとは音信があるのですが、
 是非、皆様のご教示をお願いいたします。

 他に、皆様の投稿の中で興味深く存じますのは、朽木氏との関係です。と、申しますのは、わずかばかり残っておりました近世武家の系譜、これを、元に、親族関係を紐解いて整理し始めたのですが、多くのご先祖が山城国から、、京・近江から、主の転封によって移ってきた家系です。中に、朽木氏もおいでになります。ただ、この系は三淵氏の別姓で、足利家の別れです。
 また、和泉国大鳥氏のことが記載されておりますが、仁木氏や奥氏が守護であったころの、守護代牧氏のことなどご存知ありませんでしょうか。皆様のご関心と少し時代が違いますが・・・。
 ついでですが、私が利用しますゴルフ場は、久我家文書による頼盛の知行、球磨郡臼間庄です。不思議な縁を感じております。
 頼盛流末裔の投稿楽しみに致しております。
 
追伸
 実は、伊勢へ行こうと思いまして、ついでに本居宣長も頼盛流を称するので、立ち寄ろうかと、夕べ話していたのが、キット、このページに誘ってくれたのだろうと・・・初めて行き当たり驚いた次第でした。
  
[75]田中愛造さんからのコメント(2005年01月19日 01時51分10秒 ) パスワード

御池様
 私は「御池と尾池」とは地名での繋がりは在るものの、姓氏としては繋がりが難しいかに思います。貴家の家伝に尾池の名が称されて居るのなら、時代と共に変化或るいは改名されたのかと拝察致します。貴方のカキコを拝見致し(姓氏家系大辞典)の尾池氏と同じであり、既に探求されたと理解いたしましたが、御池(ミイケ・オイケ)には、「御池造 百済族のして、天平寶字五年三月記に(百済人卓果智等の二人に、姓を御池造と賜う)と載せ、姓氏録、右京諸蕃に(御池造。百済国扶余地卓斤国王施比王より出づる也)と載せたり。とあり、之もまた御存知と思います。
 新撰姓氏録考証巻之十九・右京諸蕃
 御池造百済国扶餘地卓斤國王施比王之後也  
御池は地名とも思はれず、思うに朝家の為に御池などの事を仕奉れる官名と聞ゆ、職員令に園池司ありて、掌諸苑池種殖蔬菜樹果等事といへる類なるべし、美伊介と訓べし、廃帝紀、天平寶字五年三月庚子、百済ノ国人卓果智等二人、賜姓御池ノ造、とみえしのみなり、拾芥抄に三池生池といへるは此氏にやあらむ。と記されています。
 一般の百済人の後として、高野造・枌谷造・波多造・薦口造・呉服造・宇努造・三野造・取石造・山河造・御池造・飛鳥造・中野造があります。参考までに。

[76]田中愛造さんからのコメント(2005年01月19日 22時59分29秒 ) パスワード

小林氏の都道府県別「姓氏家紋大辞典」による尾池氏に、
 群馬 (丸に違い鷹の羽) 桓武平氏 
 奈良 (丸に五三の桐)  桓武平氏
 大阪 (糸輪に日の字)
 大阪・高知 (丸に立ち沢瀉)  讃岐桓武平氏
 広島 (丸に五三の桐) 讃岐桓武平氏
 香川・愛媛 (丸に二ッ引) 讃岐桓武平氏
[77]黒髭さんからのコメント(2005年01月20日 11時46分00秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年01月20日 11時53分50秒
[78]黒髭さんからのコメント(2005年01月20日 11時52分57秒 ) パスワード

頼盛の血筋を辿る旅も大きく発展を遂げ,喜ばしい限りです。

私も平頼盛系統の血筋が「表平氏」として(笑)どこでどのように行き抜いていったかに興味を持ちまして,この書き込みに注目していました。

中でもtakahiroさんの書き込みは凄かったですね。参考になりました。

でも,私は最近,これらの探索に水をさすような論文を書き,頼盛の子孫といわれている方々に恨まれるのではないか,とビクビクしています(笑)。

というのは,中世以来,紀州那智山の現地最高責任者(執行といいます)を多く出した潮崎氏(塩崎氏)は,色々な系図や言い伝えにあるような頼盛・保業・保定らの子孫ではなく,土着の古代氏族の子孫である可能性の方が高い,という,信憑性の高い古文書に基づいた実証的な説を明らかにしたからです。

自信はありますが,子孫の方にご意見をうかがうのが怖くて,こちらからはこれ以上,何もいっていないのですが,どう思われているでしょうか。

むつかしい問題ですね。
[79]田中愛造さんからのコメント(2005年01月20日 15時46分01秒 ) パスワード

黒髭様

 熱く語れば良いのでは無いでしょうか。?無責任な云い方ですが、真否の程は、平熱の名士有志の各位が正してくれるでしょう。私など学も無ければ地位も無く、唯、皆さんとの意見の交換が楽しみで、益してや隠れ源氏です。
 古文書も人が書いたもので其の成否は定か成らず、古代氏族から派生した我々子孫が語り合う事で先祖供養にも繋がります。気楽に古文書を紐解いて下さい。平熱有志
[80]布袋竹さんからのコメント(2005年01月20日 17時17分44秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

頼盛−為盛流れの末裔に
このスレッドの20、33、57に書かれたように
手に入った系図や見せてもらった系図、そしてtakahiroさまからご教示頂いたもので
加えたいものがありました。takahiroさまは現在お忙しいようで、書きこみがございません。
メールは頂いております。
田中愛造さまの、気楽に熱く先祖供養に・・とのことで、カキコさせていただきます。
先週の源義経の場所紹介、厳島神社の法華経典を見て、この頼盛子孫が平家伝来の宝刀と
法華経を持って、文治4年「鬼丸系図では文治5年紀伊守為盛」日向財部に・・と
4家の系図に同じようなことが書かれており、頼盛子孫は兄弟かで日向に下向したようです。
そして、オカルト的にそれぞれが後年、全部鹿児島に移ってきたようです。
薩摩半島最南端の山川町にそのひとつがあり、先日訪ねたら、友人の親戚。
そこに、終戦までこの平家伝来の宝刀が数百年も守り継がれてきていたとのこと・
敗戦の進駐軍供出ごたごたとかで、返す返すも残念なことに・・「涙・なみだ」
肝心の法華経の方は、どの系図にも書かれていません。

薩摩では系図を作れなんて、上からのお達しがあったんだよ、だから作図が
いっぱいあるんだよという人もいますが・・
丸っきりのインチキとも言えない部分も多いはずです。
この4家の家紋は、菊などもありますが、梶の葉が4家とも共通であります。
総領と庶子によって・

色んな説が出て、恨まれることはないと思いますが、否定されると・・
んーん、どうなのでしょう

[81]takahiroさんからのコメント(2005年01月21日 09時03分21秒 ) パスワード

皆様、大変御無沙汰をしております。

(ギャンブラー様、お知らせ致したい内容を纏めましたメール、後程お送り致しますので少々お待ち下さい。)


布袋竹様、いつもお世話になり誠に有難うございます。

頼盛子息仲盛末裔の当スレッドへの紹介、なかなか時間が取れず未だ為せないままになっており申し訳ございません。


もし宜しければ、仲盛末裔系図の件、布袋竹様におきまして新たにスレッドを立てて頂き、御紹介頂いてもよろしいでしょうか。

布袋竹様のお時間の許す範囲でよいですので、お願いできればと思います。


その御縁戚関係から仲盛末裔「平氏下村系図」系の系図が布袋竹様のお家に伝来している事をお聞きしました時は、その奇遇に驚き、また心からの喜びを感じました。

貴重な系図資料をお見せ頂けましたこと、心より感謝しております。


黒鬚様、はじめまして。

私も田中愛造様の御意見に大賛成でございます。


紀伊潮崎氏に関する論考、もし可能であるならば御紹介下さい。

(当スレッドはだいぶ重くなっていますので、新たにスレッドを立てられた方がよいかも知れません。)


土着の古代氏族が中央の顕名を冒し自家系譜に取入れるという事例は確かに多く行われたことであろうと思われます。


では何故、平氏なのか、頼盛なのか、そのあたりを注意深く掘下げていく事で、潮崎氏、平氏、頼盛についての何らかの新たな面が見えてくるのではないかとも思われます。

貴重な御研究内容、要旨だけでも構いませんので、お聞かせ頂けましたなら嬉しく存じます。


御池様、はじめまして。

書込みを興味深く拝見致しました。

今後とも判明されましたことがありましたなら、是非ともこの場で(あるいは新たなスレッドで)紹介頂ければと思います。


朽木家文書につきましては、私も頼盛末裔関連の数部は全て複写し手元にあります。

また適宜紹介していきたいと思っております。


「尾池氏」と「御池氏」との関係につきまして、私の方でもまた何か新たな資料に出会いましたなら、お知らせさせて頂ます。
[82]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月21日 10時32分26秒 ) パスワード

takahiroさま

楽しみにお待ちしております。
ぺこり

はい。
スレッドが100もレスがつきますと管理人さんのSAGさんの方に負担がかかりますので
適当な話題で新しくスレッドをお立てになってくださいね。

またその方がいろいろな人からのレスも付き易いと思いますし。
よろしくお願い致します。
[83]黒髭さんからのコメント(2005年01月21日 10時58分11秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年01月21日 11時00分47秒
[84]黒髭さんからのコメント(2005年01月21日 11時03分00秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年01月21日 11時12分22秒
[85]黒髭さんからのコメント(2005年01月21日 11時10分49秒 ) パスワード

takahiroさん,今日は。
改めて新しいスレッドを立ててはとのお勧めですが,肝心の平家物語からかなり離れていってしまいますので,しばらくこのまま続けます。

決め手となる文書は,刊行されています『熊野那智大社文書』5巻所収の承久元年(1219)付けの「滝本執行長済譲状案」(@)と松井美幸作成の潮崎氏尊勝院系図(A)です。

@善長房譲善宝房状案
   瀧本執行法橋長済 在判
 譲与 那智山内尊勝院房地並諸国壇越等事
  四至 限東岸    限西上道
     限南大道   限北行遊房堺
 右件尊勝院房地並諸国壇越等,先師尊念阿閽梨逝去以後長済伝領,□宝善房 宝済者,且為先師之親類,且為長済之嫡弟,惣譲渡彼宝済畢,全可有他妨之 状如件,
   承久元年十月十三日

 これは長済(善長房)が先師の尊念から譲渡された那智山内尊勝院房地並諸国壇越等を,承久元年十月十三日をもって嫡男の宝済(善宝房)に譲渡するという内容の譲状です。この相続に平氏はまったく関係していません。
 でも,問題は承久の乱後ですね。
 それで,次のAの系図が重要になります。
     
A尊念一長済一宝済一澄済一道済一済賢一泰済
   
 最初の尊念は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて死亡しています。道済は那智執行だった人物で,鎌倉時代末期に活躍した人物です。済賢もまた那智執行だった人物で,鎌倉時代末期から南北朝期に活躍した人物です。泰済もまた那智執行だったと推定されている人物で,南北朝期に活躍した人物です。

 問題は,宝済の弟に俊済(円道坊)がいて,長済から房地十間壇越等を譲られていることと,済賢の時代に定済なるものが相続に干渉してきていることです。でも,俊済も定済も平氏とはなんの関係もなさそうです。

 以上が,那智山の潮崎氏を代表する尊勝院家と平氏とはなんの関係もないという結論です。

 まあ,潮崎氏にも色々な一族がいますので,平氏が那智山以外の場所で弱小の廃絶寸前の分家あたりにもぐりこむ可能性がなきにしもあらずですが(笑)。 ちょっと過酷な言い方かな(笑)。
[86]takahiroさんからのコメント(2005年01月22日 08時38分58秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年01月23日 01時26分11秒
[87]takahiroさんからのコメント(2005年01月23日 01時25分18秒 ) パスワード

『尊勝院潮崎氏について』

この度紹介いただきました資料「滝本執行長済譲状案」と「潮崎氏尊勝院系図」から導き出される結論に対して、今の私は反証し得る資料は持ち合わせてはいませんが、ただ、「續風土記」や「牟屡郡那智山社僧坊舎條」によると、潮崎氏の宗家御自身が頼盛裔を名乗られているように読取れます。

私の見る限り、そもそも潮崎氏はその鼻祖を神代の「高倉下命」に求めており、「高倉下命」末裔の「尊念」の系譜に、承久の乱後の頼盛の子孫が養子として入ったという事で、前回紹介しました説につきましては捉えていました。

(ただ、承久の乱において没落したのは、「續風土記」の述べる平保業ではなく、平保教であり、保業は乱の後、保教の没官領・播磨国在田荘を引継いでいます。保業とは保教の訛伝でしょうか。)

しかしながら、この度紹介いただいた資料から見ると、平氏(頼盛)の裔が潮崎の家系に関わった形跡は認められないとの事。

潮崎氏の家系と頼盛の末裔の関連について、今の段階では未だ私自身は如何とも言えませんが、ただ、仮に潮崎氏が頼盛末裔と関連がなかったにしても、では何故、潮崎氏は平氏(頼盛)裔を名乗ったのかについて、つい考えてしまいます。


以下、黒鬚様の御説とは論点がずれるかも知れませんが、自身感じているところを述べます。

まずは当スレッドで紹介しました頼盛末裔の系譜を伝える越後の山吉氏(池氏)についてですが、この氏は、越後の中でも蒲原郡の出身と紹介されています。

この蒲原郡には、越後一の宮「弥彦神社」が御鎮座されています。

そしてこの「弥彦神社」の御祭神は「天香山命」。

「天香山命」は別名「高倉下命」。

すなわち、潮崎尊勝院の称する鼻祖と同神であります。

また、「天香山命/高倉下命」の末裔としては、尾張氏が著名ですが、この尾張氏の氏神社の一つは尾張の「真清田神社」。

そしてこの「真清田神社」の領家は平頼盛でした。

「真清田神社」の御祭神は「天火明命」。

この「天火明命」とは、「天香山命/高倉下命」の父神であります。

(同系の例証はまだいくつか挙げれますが、今回はここまでで止めます。)


つまり、源平藤橘では捉えきれない横の繋がりというものが、かつては(現在も)存在し、その繋がり故、尊勝院潮崎氏は、その系譜において平氏(頼盛)裔を関連つけて伝えているのではないか。

あるいはその繋がり故、頼盛の子孫が潮崎氏の家系に関連した可能性もあるのではないか、とも感じられました。


何故、頼盛末裔を名乗ったのか。

その事を考える時、「何の故もなきに」とは考えられないのではないか、と私には思えます。


大きく論点がずれたかも知れませんが、系譜を考える時の一視点として、このまま投稿します。
[88]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月24日 11時24分53秒 ) パスワード

レスは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100738.html
「頼盛の子孫は如何に生き抜いたか?」へどうぞ。
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