シャベリン(アーツ) 大阪屋 式日
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 投稿番号:100227 投稿日:2002年01月23日 20時50分34秒  パスワード
 お名前:林原英祐
比企一族(その3) 御影比企物語

コメントの種類 :その他  パスワード

『御影比企物語』を最後に書く事にしました。

 このスレッドは小生(林原英祐)の書き込みであります。
と言うことで、それなりに動機が必要です。少しクドイ(抽象的)に
なるかもっ知れませんが、お許し頂いて、思う所を書きます。

ちょっと 耳を澄してごらん…聞こえてくる!
 (58歳誕生日のお告げ)  

 はじめに   『貰ってくれない贈り物?』

 歳を取ってくると不思議なもので、今まで考えられなかったような事が突然自分の心のなかに芽生え、日増しに大きくなってくる。その事から逃れられない。若い頃には思いもつかなかったような事が、?………… そんな経験は御座いませんか??

 小生は現代の『IT』社会を風刺して、『優先順位を考慮して自動消滅するメモリ−』『忘却してくれるフロッピ−ディスク』等、漫画的に思い続けている。

 折しも、『ISO14000』時代…ゴミは掃除するのでは無く、出さないように!!パ−ソナル・コンピュタ−の初期的な病が『大容量のメモリ−』と『超高圧のペンティアム』…次から次へと『記憶保存の山』、二度とアウトプットする事の無い情報を記憶して残す。『使われない情報の山』…………………

 人間には『忘れる!』と言う大変便利な能力があることを今日ほど思い知らされた時代は無かったと思う。

 記憶容量(他人のポケット)の時代と名付けられる。
 風刺的に言うなら、『麻酔技術』が発達したことで『医学』が飛躍的な発展をした。のと同じように、『情報の消滅』技術が発達しないと『PC社会』の発展は無い。

 そんなつまらないことを考えている時、小生のコンピュタ−が強い反応を始めたように思える。

人間の脳(PC)も『入力(input) 』と『出力(output)』のバランスで成り立っていると思う。
若い時代に一生懸命入力した情報が、少しづつOUTPUTされ使い果して人生の終末を迎えるようにうまく造られているとしたら、残された人生でどうやって使い果してやるかが大切な仕事である。
『内なる声を聞かなければならない!!』

 学ぶ心は、情報が何かに役だった時に初めて生き甲斐を味わう事が出来る。

内なる声を聞く年齢に到達(35歳〜40歳)した頃、人々の記憶力は着実に低下を開始する。逆な表現をするなら、その歳をして、OUTPUT元年として位置付けられる。

神懸かりの時代(今の様にPCが発達していない時代)にあっては、人は天なる声を耳にした等とそのことを表現したのかもしれない。

又、時には『夢枕に先祖が……』と前置きしたかもしれない。

しかし、いかなる場合にあっても、『内の声』であると考える。

 人は、物心付きし『その日』からINPUTを開始して、自分のフロッピ−に情報の保存を開始する。

機械より便利な『忘却』と言う『フィルタ−』を通して、鮮明で大切な情報だけを残して、その他を捨て去る。

『ペンティアム』の電圧が高い人は、一度に多くの情報を処理出来るが、低い人は少しづつしか引き出せない。

 小生は『人間ペンティアム』の事を『愛着心』と呼んでいる。

『愛情…恋心』でも良い。『RAM(書き込み自由)』の事である。

 同世代の仲間達が、少しづつ記憶力が低下して、『メモ』を取る様になったころ、小生はよく『冗談』で

『書かなければ覚えられないような事は覚える努力をするな!』
『どっち道、そんなに重要な事では無い、直ぐ忘れるから!』
『気持ちだけ、覚えた気持ちになっても、本当は覚えていないから!』
『書き込むのには特性のインクが必要で…それは恋心のようなものだ(それが無い)』 
『でも、それは君の勝手だから、止めはしないけど??』

でも、ROM領域(読み出し機能)については無限大である。

但し、INPUTされている場合に限ってですが…(時々、他人の入力した情報を読み出す人と会いました。読書) 問題は読み出し効率が非常に低いそうです。

PCよりも『電圧』が低いのでしょうか?60歳を超える頃から、急に発起して『生涯学習』を云々される方にお目にかかりますが、無駄な抵抗だと思います。

その人の勝手だとおもいますが、『内なる声』に耳を澄される方が良いと思います。

『内なるフロッピ−』に保存された情報で出口を見失って窒息寸前の状態にあるものが沢山待機しているそうであります。
 
考えて見たら、自宅の書斎(本棚)に眠る未処理の蓄積DATAは際限がありません。

ちょうどそれと同様、いやそれより数十倍の規模で眠っていると考えます。

 考えただけでも、恐ろしくなる程の『ゴミの山』と言う事です。(ISO14000?)

 家電製品リサイクル法が実現して、エアコンやテレビが何千円出さないと廃棄して貰えない時代がやってきた。

同じような意味で、先日、亡くなった実弟の葬儀でのこと、納棺に際して、葬儀屋さんが『あれダメ、これダメ……燃えないゴミだから…』

 さて、皆さん、その内に人が『あの世』に旅立つ時の標準が制定され、『三図の川』の手前の関所で『この世』に残してきた『情報』が産業廃棄物で困るから、自分で処理をされた方だけに『通行証』を与えるが、未処理の方は「もう一度」帰って処理してからお戻り下さいと言われるかも知れません。

そんな時代に私達は不合格では………


 残された時間に於いて、『内なる声』に耳を澄して、聞き耳を立て…出口を失っているINPUT情報で忘却出来ない程鮮明な記憶DATAを整理して、地獄の『えん魔様』に嫌われないように努めたいものであります。まだまだ仕事は沢山残っています。

 素直になって、内なる声に命じられるまま… 小生は棄てるのに忙しいのです!                    合掌

[1]林原英祐さんからのコメント(2002年01月23日 20時56分48秒 ) パスワード
  

 御影比企物語                 


第1章 はじめに                   

  昭和34年2月24日、兵庫県姫路市(当時は印南郡)大塩町で『比企 雅』が妻の『比企 繁』と一人娘の『林原 禮(旧姓比企)』と『禮』の生んだ孫『大作』『英祐』『利彦』に見取られながら、静かに78歳で往生するのである。

 大塩町の『林原家』は二代御影比企家の当主『比企 雅』の一人娘『禮』の嫁ぎ先で、『禮』の夫『林原士朗』は、既に昭和23年(1948)8月に34歳の若さで没している。

 いわば未亡人家庭で、不憫に思った『祖父母』が娘の処に身を寄せていたのだろう。

『比企 雅』が本来初代御影比企であるのに、二代目とするのは、御影での『先代福造』の妻(後家)『たま(中川一歸の6女)』…小生の言う『4代目比企尼(後家)』に気を遣ってのことである。

御影比企家の初代は越前比企家の7代榮信の4男(福造)の別家をもって『初代』とした。

「福造」は東京に居宅を設けていたのであるが、39歳で若死にしたので残された後家『たま…当時37歳』が『雅…当時2歳』と実質2人で船出をしたことに敬意を示して、『たま(4代比企尼)…初代』『雅…二代』とした。

 ついでに書きますが…『御影比企家』とは…

比企福造−−+         +−比企 佐(長男)
比企たま−−+−−比企 雅−+--+   秀子        (比企尼C)      繁−+ +
                +−比企禮(林原)(比企尼D)
                + 林原士朗
                +
                +−比企 能(次男)
                +   和子
                +
                +−比企 重(三男)
                    富子
                        のことを言う。


御影比企家は平成7年(1995)の比企 重の卒去を以て絶えることになる。実質的には、林原禮が現在86歳で健在であるが、彼女と共に『終わる』ことになる。

 話がそれたが、元に戻して…

 昭和34年(1959)2月の『比企 雅』の葬儀が姫路の大塩町(田舎町)で取り行われた時のことである。
小生(英祐…雅の孫)は17歳(高2)であったと覚えているが、村の真言宗(亡父士朗の関係)の『御坊さん』が祖父(比企雅)の戒名を書くことになり、『比企の菩提寺(福井の清源寺…浄土宗)』から送られてきた『戒名』を見て、こんな「戒名」を書いたことが無い。
普通は『書くだけでも書き代を頂かないと、、云々』でもめていたのを覚えている。
その時初めて『比企家』に出会ったと言えば、少し大袈裟でありますが、物事との出会いは実際にはそんな出会いが多いものである。
とその後、知りました。

 『圓相院殿融譽雅山居士』と言うのが、その時の祖父(比企雅)の『戒名』であったのです。

私の『歴史』との出会いは『院殿号』との出会いであったと思っています。

 『院殿号』がどうのこうの言うのでは無しに、その事が『きっかけ』になって、日本史が自分(高2)に近付いてきたのです。正にその日から『私の歴史観』が動き始めたと思っています。

私はそのような『主観的な…』歴史観を恥ずかしいと思った事は一度もありません。勿論、『私の中には…』院殿号以外に「何十倍の不幸と」「何百倍の幸せが」付録として付いて来るからです。  

 間違っても『偏差値教育』の原点である『ナクヨ(794年)ホトトギス平安京』が歴史観の出発にならないと言うことだけは確かなことです。

『高2』の小生が、『比企尼』に興味を持ったのはそれからずっと後のことになります。

祖父『比企雅』の葬儀は神戸の寺院で再度行うということで、遺体を荼毘に付す程度の密葬がしめやかに行われたのであります。    
 序でに書いておきますが、御影比企家(菩提寺…福井清源寺の過去帳によれば…)
知り得る『院殿号』は…
『比企福造』の『神隆院殿』(1885) 妻『たま』の『淑芳院殿』(1929)
『比企 雅』の『圓相院殿』(1959) 妻『繁』の『宝樹院殿』(1977)
『比企 佐』の『正覚院殿』(1970)
『比企 能』の『香雲院殿』(1990)        以上6名です。

 さて、それから、約40年の歳月が流れ、2001年『天の声』が聞こえてくるのですが、具体的な『天の声』は、50年間以上も音信不通であった『比企本家の子孫(越前比企家の11代当主比企忠の実孫)である比企知子さん(北海道在住)』から『お便り』を頂戴することから始まるのである。確か平成12年の12月のことであったと記憶している。

 その『便り』のなかで、『比企本家』に伝わる『比企系図』を明治42年(1909)(約100年前)に『比企忠(タダス)』さんが『識者』となって再編集したものがあり、『変体仮名』で書かれてあるので『毛筆』と『変体仮名』を勉強しておくようにとの連絡があった。 
それから、1ヵ月程して『現物(写し)』が届いたのである。

それを私は『天の声』と名付けたのです。

 前置きが少し長くなりましたが、そのようにして私の鎌倉、越前、そして御影の比企の旅が始まったのであります。

 既に、『比企一族(鎌倉)』と『越前比企物語』を書き終えました。

 そして、滅びる寸前の『御影比企物語』を書き始めましたのですが、
 その『はじめに』において、『因縁話』を書き記(しる)します。

『御影比企邸』は第二次世界大戦の神戸空襲で全焼しました。現在は跡形もなく『他人手』に渡り、振興住宅に変わっていますが、場所(住所)は東灘区住吉町であります。

 JRの『住吉駅』から100M程西へ行った所にありました。JR『住吉駅』の50M程南西に『摂津住吉神社』があります。

なぜそんな事を書くかといいますと、かって『鎌倉比企物語』のなかに出てきました。薩摩藩島津家の祖と言われている『島津忠久』の生誕の秘密(源頼朝の落胤説)を思い出して欲しいのです。

 島津家に残る『島津家系図』によれば、現代訳で申しますと…

 『源頼朝の落胤を宿した丹後内侍(比企尼の嫡女)は北条政子(正室)の嫉妬を恐れて西国へ逃れようと、摂津国住吉神社まで辿り着いて、臨月を迎え、密かに神社の岩の上で独りで「島津忠久」を生み落とす』とある。……雨の日であったと、、、

 私は今も『御影比企家』が何故『摂津住吉』に住み着いたのか、『丹後内侍』に聞きたいと思っている。

 比企尼の偉大さは日本史の鎌倉幕府(源頼朝)とともに、必ず併記されているが、私は北条政子の向こう張って生きた『頼朝の恋敵』…『丹後内侍』の存在が『大和撫子』のもう一方の『顔』(妖婦)として好きである。

 少し言い方を変えると、『良妻賢母(建て前)』の比企尼の存在よりは、『妖婦的な(本音)』の丹後内侍の方が、何世紀にもわたる『子孫』への影響を持ち続ける『力』のようなものを感じるのです。

 私は『主観的な歴史観(院殿号との出会い)を恥ずかしいと思ったことは無い!』と前段で書きましたが、その昔、書物が発達する以前に人々が口から口へと語り伝えた歴史等はむしろ、そのような『主観』エネルギ−によって支えられて伝わったと思うことがあります。

 人類の歴史と言うものがあったとしたら、そのような期間の方が、ずっと長い期間の歴史であったと考えます。

 『戦争』の歴史観についても、いろいろ異論のある所ですが、私は敗戦で藻屑のように消えていった『小さな生命達』のなかに『主観的』な歴史を感じるのです。

 『平安京』を794年と覚えることは何かの『きっかけ』になることは有りますが、その事で、何かが『出発』すること(エネルギ−)に繋がる可能性は小さいと思います。

 自分自身の内にある『感性』のようなものが、『天なる声』を聞けるように研ぎ澄まされていないと、一生、聞こえずじまいになることが多いと考えます。

 講釈が長くなって恐縮ですが、この件(くだり)の『落ち』は『御影比企家が摂津国住吉に住み着いたのは、比企家の先祖(丹後内侍)の御導きによるものである!』と言う因縁めいた話で括りたかったのです。

 今一つは『比企の女系の歴史』観についてであります。

 『系図』などは『男性の血の流れ』を中心に繋がりを表しますが、女性の場合、外から流れ込む『他人の血』であります。

昔は『女紋』と言って、『嫁』が里の家紋を『紋付き』に刷り込み、「女の子」に引き継ぐという『慣わし』を聞いたことがありますが、それは形の問題で、『嫁と舅』の歴史に刻まれた『伝達』は非常に現代的(近代)なものを感じます。

 かっこいい言葉で言いますと『ソフトの伝達』であります。

 私は、『入り嫁(他人)』に乗り移る『血統』の『教え(家風)』等は現代でも興味深く、又新しい問題であると考えます。

 『比企家』が鎌倉、越前、御影と続く中で、『女系』によって特徴付けられるとしたら、どうしても、この『入り嫁(他人)』の『血』が何を以て「共通性」に繋がるかに応えなければならないと思うのです。

 そして、謎が謎を呼び、行き着く先が『丹後内侍』の『妖婦性』や『天なる声』や『夢を見た!』と言う話にしか、辿り付かないのです。

 このような『歴史』を勉強し始めてから、私は『出会う沢山の人々』を200年か500年前に『同じ谷に住んで居た人』とか、『前世の家族』とか、『戦場で共に戦った戦友』とか、『自分の御先祖様』とか、……ではなかったか??? と思えるようになりました。

 時々、そんな思いで振り返って『再会』を約束する場合も増えております。考えて見ましたら『こんな話』前に『お祖母ちゃん』に語って聞かされたことなかったかしら??


じゃあ、又
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年01月25日 03時04分58秒 ) パスワード
  

>村の真言宗の『御坊さん』が祖父(比企雅)の戒名を書くことになり、
>『比企の菩提寺』から送られてきた『戒名』を見て、
>こんな「戒名」を書いたことが無い。
>普通は『書くだけでも書き代を頂かないと、、云々』でもめていたのを覚えている。


これは本当にそうなんです。
戒名って書いて頂くのに「相場」というのがあるのです。

記憶にはっきりしませんが「院殿号」は想像を絶する金額を払わなければ書いては貰えません。

戒名で家格や階級が分かるのですよ。



摂津住吉村は私の母方の先祖が戦いに敗れ落ち武者となって隠れ住んだ場所であります。
ここで姓を河野から内野と変え、紋を折敷3文字紋を松皮菱の尻合せに替えた
と家書にあります。


まさか住吉が出て来るとは思いませんでした。。。
[3]林原英祐さんからのコメント(2002年01月28日 21時45分46秒 ) パスワード
  

第2章 『比企 雅』のこと …『活字型』ではなく『映像型』で…
 
神戸の六甲山に、日本で何番目かに古い『ケーブル・カー』があり。

 その頂上駅にある『ケーブル』引き止め部の直ぐ下に『真鍮』で出来た「古い銘板」があり、良く見ないと分からない程度の文字で『フレザ−商会』の名がある。

 これが、御影比企家の当主(2代)『比企雅』の勤めていた会社である。

 いつ頃から、勤めたのか定かな情報はない。

 京都帝国大學の工学部の卒業で当時としては珍しく『英語が堪能』であったと聞く。

 卒業して、直ぐにこの会社に入ったかどうかは別にして、計算で推測すると、30歳代は大正の初期(明治16年8月21日生)頃になる。

 とすれば、1910年頃のことである。

* 乃木希典夫妻殉死    1912.9
* 森鴎外『阿部一族』発刊 1913.1 
* 第一次世界大戦に参戦  1914.8

 そのような『世相』を背景に考えると、『航空機』の発達していない『船』の時代に米国の『フレザ−商会』(貿易商社)に入って、何度か『米国』に船で航海したと考えると、それなりに『凄い人』であったと想像する。

 最終は『フレザー商会 日本総支配人』であったと聞く。

 日本の『明治維新』から始まった『文明開化』『富国強兵』の歴史をまっしぐらに突き進んでいった真っ直中にいた人だろうと考える。

 『雅』お爺さんから直に聞いた話として、…

★『大阪道修町』の話 

 日本の『薬屋』は、ごく最近まで『富山のマン金丹』だった、西洋医学の輸入により『薬学』も西洋風に急速に変わっていった。
 当初は米国の『リリ−社』等の輸入品が主流であった。自分(雅、爺さん)はその輸入業に尽くした。だから『武田の長兵衛(武田薬品の祖)』や『塩野義三郎(塩野義製薬の祖)』は良く知っている。彼らと一緒に今日の薬品業界の発展に尽力したから……』と
 住んでいる居宅も御影の近くに沢山いたので家族で付き合っていた。

★又、別の話で、

『日本猟友会』に入って、『銃』をやっていたが、若い頃は100発98中程度にはクレ−射撃も当たっていた。『審査員』の資格も持っている。(自慢話の一つでした)
 御影の家は『洋館の4階建て』で地下室もあった。第二次世界大戦の神戸空襲で焼けてしまったが、確かに700坪程度の跡地は戦後、僕達の遊び場所であった。

★母(禮)に聞いた話

 母が娘の頃、宝塚歌劇団に熱中していた頃、父(雅)もよく一緒してくれた。何組かは忘れたが、『組長』をしていた『初音礼子』と懇意になり、『礼子』の名は自分の『禮子』をあげたのだ。私(孫、英祐)が成人してからも、『宝塚新芸座』の「座長」の「初音礼子」さん(生前)とはお会いしたのを覚えている。

★母(禮)が男兄弟の中の一人娘であったせいもあって、野球がすきで、『水原』『三原』黄金時代の『早慶戦』を見る為に、東京のホテルに泊まって観戦に出かけた話等…
 いまだに、別当、土井垣、時代からの『阪神』の熱狂的フアンが自慢話にでる。

★戦後、父(士朗)を34歳で失い、未亡人家庭で貧乏のどん底にあった姫路の内に、丹波地方から、時々、母(禮)の応援に駆け付けてくれる『その頃の女中さん達』を目にして、母がどんな家に育ったのか?『思い』が膨らむことがあった。

★今も『雅、爺さん』の私への伝言は『切手収集(国内外)』として伝わっている。
 時々、海外の使用済み『切手』(貿易商時代の)を整理していて、やっぱり『爺さん』は「偉い人やったんや!」と感じさせられることがあります。それも、もう『貰い手』が居なく淋しい限りです。

 そうそう、もう一つ「驚かされた話」は『雅、爺さん』が昭和34年に姫路でヒッソリと死んだ時、後に『一文』のお金も残さなかったという話、これも『爺さん』らしい『アメリカ風』の徹底した現実主義(合理的)と感心させられました。

 とにかく、きっちりとした『明治の気骨』と『鹿明館時代の匂いの漂う』『ゼントルマン(紳士)』でありました。

又、夢に出てくるでしょう(面識もあることですから)。

[4]服部 明子さんからのコメント(2002年01月28日 23時23分23秒 ) パスワード
  

「大正製薬」が出て来ましたね。

確か大正製薬には「長尾氏」という重役がいらっしゃったはず。
越後の長尾氏の末裔とお聞きしたように記憶しています。
上杉謙信がどうのこうのという長尾さんです。

ここでもそういうご縁があったかも知れませんね。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年01月28日 23時24分57秒 ) パスワード
  

書き忘れましたが
長尾さんのお屋敷は芦屋にあった筈。
記憶違いとしても神戸あたりというのは確かです。

いろいろな見えない糸で本当に繋がってるのを感じます。
[6]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月02日 00時02分37秒 ) パスワード
  


私は、1180年代に武蔵国に下って、蛭が小島の頼朝の成長を心待ちにして、仕えた「比企尼」のイメージを、現代のロマンとして想像し続けている。


随想 私達の両親(昭和の比企尼…林原禮のこと。……御影比企家の嫡女)

    昭和47年4月30日結婚に際して  林原英祐(当時29歳)

 不思議に、私の記憶の出発が、昭和23年8月4日に始まるのは面白いと思います。

向かえの『健午ちゃん』の庭で兄ちゃんとトッチン(弟)と三人で遊んでいました。

 夏の日差しが西に傾き、僕達やんちゃ盛りの子供が走り回るには最適の時間…その日もいつものように、暗い病床の父の傍から逃げ出した幼い三体は外気を一杯吸って汗みどろで遊んでいました。…………

 床に伏せる父を持つ私の家では私達は少なくとも母の負担であったろう。当時よく向かえの『梶原さん(健午ちゃんの姓)』の家にお世話になっていた事を覚えています。  

 その日もいつものように遊んでいました。母方の祖母(比企繁)が母の応援で私の家に身を寄せてからどれくらい経っていたかは忘れましたが、とにかく私達3人を向かえの家へ呼びに来たのは、確かに『お祖母ちゃん』であったと記憶している。

子供心に邪魔をするお祖母ちゃんの言葉が腹立たしく映った。
 そんな時、さすが年長の兄は聞き分け良く私達2人の手を取って帰宅させた。

夕食にはまだ早いのに私はそんな事を考えていたようだ。弟は黙ってしっかりした足取りで付いて来た。

 家に入ると、母さんはいつもの様に父さんの床の横に黙って座っていた。何も変わっていなかった。玄関の隣にある座敷の間、床は西向きであったし、父は眼を見開いて天井の一角を見据えている様だった。でもずいぶん前から父さんの眼はいつも焦点が無いようであった。

「天井の木目模様に恐れていたと言う…」父さんの話を後になって聞かされたが…多分、もう、その時、父さんは怖い天井を見ないで済んでいたのかも知れない。いつもより楽で安らかな顔立ちであった。

 父が、母さんに言った。『礼子!(本当は禮と言うが、父さんはいつもこう呼んでいた)ずいぶん薄暗くなったが、今何時か?』と…  母はその時少し驚いてはいたが、…

 『4時半よ?まだ明るいわ!変な事言わないで!!』と子供をさとすように言っていた。

私達にも少しその会話は妙に思えた。祖母の顔は既に崩れかかっていた。

一生懸命何かを堪える様子がうかがわれた。

 父は恐らくその時既に、自分の去る時を知っていたのであろう。考えるに、父の当時の生活を聞かされる所によれば半年も1年も前からその日を知っていたらしい。

 生命の限界の前で闘った父さんの勇気と人間味を少しでも今日理解出来ることは私にとって幸せである。

 次の言葉は『礼子!******居るか?』と、私達には母さんの名前しか聞き取れなかったが、母さんが私達を招き寄せるところから恐らく私達の名前を口にしたのだろうと思った。

私達3人はとにかく母の言うよう床の近くに寄った。父が床に伏してから、こんなにも父の近くに寄ったのは初めてだった。

母はいつも父の傍に私達を近寄せなかった。
父の病気が肺結核で、当時、感染を一番恐れていたと後に聞かされた。
 私達3人を前に、父は意外にもはっきりと言ったのを覚えている。

そして、『次の言葉』が父さんが私達に贈った最後の言葉になってしまいました。

 『3人共、母さんの言うことを良く聞くんだよ!それから立派な人間になるんだよ!………………………………。』後半に何を言ったか、いまだに知らないが、母は多分聞き取っているだろうと思う。

その事については今まで聞いたことがない所を見ると母さんとの内緒話を言い残したのであろう。

 一日置いての葬儀は、私達にとって楽しいものであった。たくさんの伯父ちゃんや伯母ちゃんが遠くの従兄弟達が…………複雑な大人の世界をよそに、兄弟3人は御祭りのようにはしゃいだ。

 でもその中でいまだに忘れられない光景が一つあります。

 父さんの葬儀はみじめな程質素であったと後にに聞かされたが当時私達がそんな事を知る由も無い。

とにかく、お花が必要だと言う祖母の発言で母は屋根に咲き誇った『カボチャの花』を沢山集めて来て、一つづつ私達の手に持たせ、最後のお別れに両手で合掌させた。

「カボチャの花」が棺桶を埋め、私達3人は順序よくカボチャの花と共に、父さんに『さようなら』をした。

「父は遠くへ行く!」と母は言う。

浅黒かった父の顔は透き通る様な薄青色に変わった。そんな父の鼻や頬が所々黄色く色付いて見えるのは先程の私達の入れたカボチャの花の花粉がついたのか、母が泣きながら指で拭き取っていた。その色相は美しいものであった。


 翌日の昼下がり、私達は『父の骨』をこの目で見た。母は又泣いた。

そして母は『これがお父さんだ!』と私達に教えた。私達は泣き崩れる母さんの姿を見て悲しかった。母さんが泣かねばならぬそんな出来事が悲しく思えた。

子供にはよくそんなことがあるものです。父は遠くへ私達の傍から去った。

 私達はその日以来『父さん』と呼ぶ事を知らぬ人生に旅立たねばならなかった。

その時、兄(大作)7歳、私5歳、弟(利彦)3歳のことである。
参考までに母さんが32歳、父(士郎)33歳であった。                       
 夏も盛夏から残暑に差し掛かりつつあった8月上旬の播州姫路大塩町の出来事である。

それが、第二次大戦の敗戦(昭和20年)3年後(昭和23年)敗戦から出発した日本国民の平均より少し過酷な私達の人生の始まりの日でありました。

 『父さんに……!』

・私達は貴方の事を忘れたのではありません。
・例へ、仏壇に塵が積もり、一輪の花が消えることがあっても「父さん」を忘れておりま せん。
・母の胸に、私達の身体のなかに、時々「父さん」は目覚めます。
・「父さん」は去世して無力です。でも私達は「父さん」を知っています。
・一本の線香をたくよりも、私達はする事がたくさんあります。
・「父さん」は私達の中にだけ残された潤いが有って幸せ者になれるからです。
・母さんは今でも貴方の事を愛しています。それは私達だけに解るのです。
・唯一つ「父さん」にお聞きして詫びたいのは…
・「父さん」の言った『立派な人間』の意味が未だに解らないと言う事です。
・そして、その為に「父さん」は私から離れるかもしれません。
・私は無智か、それとも父さんの子供なのでしょう。
・鳥はいつか、この大地から飛び立って天に向かうのです。
・そして、その鳥こそ父さんの落とし子なのです。
・今年の夏、父さんの帰りたかった向島(尾道)の山に貴方の墓標を立てます。
・もう25年(回忌)だそうです。そして私達3人もきっとそこへ参ります。

 『昭和23年の秋、屋根一面に蔦を這った「カボチャ」は120余個の大きな実をつけた。』………

この話は家族4人で語り伝えた『当家の不思議な話』である。

 父が生きている内から私達の家族は充分『貧乏』であったと言う。

数年間、一家の働き手が『肺結核』で床に伏した家族が、又、身体一つを財産として生きて行こうと言う家庭がこのような状況下で如何に生き続けるか以前から母の悩みの種であったろう。その多くは理解出来そうに無い。

 私達兄弟3人の幼い仕草は、母を益々孤独化し、生きることの難しさと重大性を毎日感じさせたに違いない。

後で聞けば、母は余りにも世間知らずであったらしい。娘時代をなんの苦労も味わう事なく過ごしたらしい。

人生のはりつめた緊迫を身を以て感じることは彼女の往年の生活を知るものにとっては余りにも痛々しく感じられたと聞く。

 そして、当時の世相からして、母の再婚ばなしと、私達幼児3人の身の振り方がしばらくの間、親類縁者の中で取り沙汰された。

 そんな中で私達は無気力な生活をした。考えるに、その時こそ「私の物心つきし日」と名付けるべきと思う。

 私達が能動的に「母を感じ」真にあらゆる物から離脱した純粋の母性の光が何であるかを知らされた。

そんな時、私達の母の中に、小さな、ごく小さな社会への、人間世界への一種の矛盾とそれに対する際だった選択の瞬間があったと今想像する。

 母さんは私達だけの母さんに、その日からなった。それは「大袈裟」なことである。当時の世相はそのような事を許す社会ではなかったし、マレな選択であったと思う。

 土曜日の夜になると、よく東灘の住吉に居る母方の祖父母の所へ私達は連れて行かれた。私達には楽しみの一つであったが、何の為に神戸に出掛けていくのか当時の私達にはよく解らなかった。

でも幼年時代の記憶の一頁によく古着屋らしき所へ出掛けたのをかすかに覚えている。後になって知ったのだが、その時、母は自分の持参した花嫁道具(着物)のほとんどを売りさばいていたらしい。

母は美しく高価な着物を数多く持っていたらしい。随分永く元町のガ−ド下の古着屋通いをしたものだ。

そしてこれまでの母に、よくそれだけのことがやってのけられたと感心する。これが母の最初のチャレンジだったと思う。

 娘時代を4階建ての洋館に2〜3人の女中を傍に育った母によくもそこまでの環境への順応が出来たと驚く他はない。

でも当時の敗戦の焼け野原のなかにはこんな女性はたくさんいたのかも知れない。

 時はしばらく流れ、そんな生活費もしだいに底をつき始めた頃、母は生活保護を受ける手続きを取った。

誰がそんな事を教えたか知らないがとにかく無事に貸与される運びとなった。

しかし、育ち盛りの私達3人を抱える家庭では当時の生活保護費は衣類代にもならなかった。

当時の金額にしていくらであったかは忘れてしまったがとにかく惨めなものであった。

よく母は自分の食べる物を食べずに私達に与える事があった。未だにその癖が治らぬ事がある。

習慣とは恐ろしいものであると考えさせられる。

 神戸帰りに元町で『うどん』を食べさせて貰うのが私達の外出の楽しみの一つであった。

古着屋の帰りによく連れて行ってもらった食堂の名前は『びっくり食堂』と言ったが今は痕跡も残っていない。

いまだにあんな『おいしいうどん』は食べたことが無い。とってもおいしかった。

でも母は殆ど注文せずに私達3人に食べさせ自分はお茶をのみ子供が残した残飯を整理するだけだった。
もちろん、自分の大切な着物を今日も一枚売さばいた淋しさ等、私達が知る由もない。

 母の着物姿を想像すると、常に思い浮かぶ姿がある。ここにも私達だけの共通の母さんのイメ−ジがあった。

ほとんど同じ柄の物であった。色こそ染め替えられて次第に地味になっていったが、縦縞の1.5センチぐらいの柄の着物であった。疎らに金糸が光るのを母が気にしていたようだ。この着物を忘れることは出来ない。

 そして寒くなれば、無地のビロ−ドの様なコ−トを一つ持っていた。今もこうしたものは持っていると思うが最近目に触れるのは『共通の帯』だけになってしまった。

 母はパ−マを決してかけなかった。化粧もほとんどしなかった。こんな中に私達に共通の母さんに対するイメ−ジがのこる。

何か暗闇ででも僕たちには母さんを見つけ出せるような自信がある。その時代の特有の母へのイメ−ジであったのかもしれない。

 私達兄弟3人が小学校に行き始めた頃、母は仕事をする事を真剣に考え始めていた。

そして、まず最初に手を付けたのが『和裁教師』であった。母が自分の娘芸で身に付けた腕が社会で仕事(プロ)として成り立つ事を知ったのはその時だったらしい。

 これが母の2番目のチャレンジであったと思う。

 私の家に町の年頃のお姉ちゃんが数多く出入りするようになった。私達にたくさんのお姉ちゃんが出来た。お姉ちゃん達は母のことを『先生』と呼ぶ。

私はとっても嬉しかった。他の母ほど外見こそ美しくは着飾っていないが私達は『先生』と呼ばれる母が自慢であった。

美しい盛りのお姉ちゃんと見比べてとても嬉しかった。母がとっても美しく大きく私達の目に写った。

 母が仕事をし始めた頃から、急に生活保護の調査員が私達の家庭を訪れる回数が増え始めた。

昼に来てお姉ちゃんの下駄の数を数えて帰ったり、食事時に茶の間につかつかと上って来て食卓のオカズを覗いたり、御飯の米と麦の比率を問題にしたり、随分ひどかった。

母はよく仏壇の前へ私達を座らせて泣いた。母は女であったし、私達は幼かった。全く抵抗する事は出来なかった。母が泣いている時何が悲しいかを理解することは出来なかったが、泣く母を見て3人共泣く他はなかった。………

 母が例え何人の生徒(針子)を教えたとしても当時の田舎町でいくばくかの月謝が私達の生活費に足りたとは今考えても考えられない。

 しかし、世間の実際はそんなに甘くはなかった。しばらくして、『生活保護』は打ち切られるはめになった。そして母は仕方無く内職の強度を増さねばならなくなった。

『和裁』『洋裁』『茶道』『華道』『刺繍』『機械編み』に渡る教師と内職の夜なべの仕事が続いた。

私達3人が寝付く時、傍に座って仕事をする母の姿は夜中に目を覚ましても朝起きても常に一緒であった。『母は何時寝るのであろう??…』私達は知らなかった。

 そして母は倒れた! 『結核性肋膜症』であった。母は背中を切った!そして入院した。傷は縫い合わせる事が出来ない程化膿が進んでいた。今でも母の背中にその傷跡が大きく残っている。

 私と兄が台所の仕事を覚えたのはその頃からであったと思う。自分が食べる為に仕方無かった。

弟が空腹のため泣くのがやりきれなかった。カマドで炊く御飯の煙に悩ませながら泣き泣き兄と御飯をよく炊いたものです。オカズに苦労したのも覚えています。

小学3〜4年の私達には少々無理だったのかも知れません。学校で友達もそんな事は教えてくれそうにありませんでした。

 小学校も高学年に入った頃、僕達3人で内職に『にわとり』を飼いました。最初に飼ったのは雑種の3羽の「にわとり」でした。山で『竹』を切ってきて鳥小屋も造りました。

 兄ちゃんの鳥は『ブリマスロック系』で『親ドリ』と名付けました。

僕のは『雉』に似ていたので『キジ』と名付け、弟のは真っ黒だったので『カラス』と名付けました。

 3羽共、僕達の本当の友達で僕達の事を良く知っていて良く言う事を聞いてくれました。

卵をよく生んでくれました。
僕達の口に入るのは少なかったけれど、お母さんのお手伝いだ出来たことが私達の喜びでありました。
母さんは僕達に何時もこんな宿題を課せ自分達の力で解決させるように導きました。

その内に3羽とも死にました!!母が処分した鶏の死骸を鳥屋さんに返して貰いに…泣き泣き行くのを母は止めませんでした。
結局死んだ鳥は帰って来ませんでした。幾度もそれから同じ事を繰り返したようです。

母に話すと不思議にその話を何時も一生懸命に『そうか…そうか…』と聞いてくれました。
 
今考えると、母さんはその頃全ての事を知っていてまるでなにも知らないような顔をしていたのが解ります。教育とはそんなものかも知れませんねえ…。

 僕達が中学に入る頃、母さんが和裁を止めなければならなくなった理由を知ったのはそれからずっと後のことであります。

 僕達3人の男の子が成長して、大人に近付くにつれての悩みがあったと後に聞かされました。町の年頃の娘さんが家に出入りする事を避けようとしたんですってね。

 僕達が高校に入学する少し前から、母さんは今までに無い『喜び』の様な物を顔に現し始めたのを覚えています。

そして、あの痛々しくハラハラした「母さんの仕事」は全盛期を迎え、自信に裏打ちされた。

誰にも後ろ指差されない「胸を張った仕事」を選ぼうとしていたのです。   

 最後の母さんのチャレンジは『学習塾(寺子屋)』の開業だったのです。

地元の田舎町ではありましたが、町の小学校、中学校で3人の兄弟を全て『首席』で卒業させたのは「母さんの塾」の宣伝にはこれ以上のものはありません。

学校の先生も全員を味方に巻き込んでの開業でありました。
そして私達はいつの間にか『ジャッキ』で物を挙げるように逆さ吊りにされていたのです。

高校に入ってからは兄弟3人は『母さんの寺子屋』の講師にさせられました。私達3人は『マザコン』であります。

本当の『マザコン』であると思います。胸を張った『ナザコン』かも知れません。(嫌われます!)

 『母さんに……
・他人が僕達に苦労をしたかと問えば…
・母は別にして…
・私達3人は口を揃えて『苦労をした!』とは答えないだろう。
・なぜなら、少なくとも、僕達の中に苦労の…貧乏の…何であるかを知る者がいないから、・間違って他人がその幼年期の楽しい思い出を聞くなら…
・私達3人の話の中に物の欠乏と愛の存在を感じるだろう。
・そして、3人の話が余りにも楽しそうで、余りにも目が輝いているのを見て…驚かされ るだろう。ある人は感謝に満ちた大人っぽさを感じるかもしれない。
・その時、人々は僕達の母の存在が何であるかを知るだろう。
・真の母性はどこにでもある。誰にでもある。人々が気付かないだけである。
・教育とはそんなものであると母から教えられたと思っている。
・私達はそんな母のことが自慢である。
                                以上

          ……1972年4月30日 当時、英祐29歳
              原文のままを(写)としてワ−プロで整理した………
                  (昭和の比企尼…林原禮のこと…)

 
 平成10年11月 三男 利彦が死去した。(卒年 54歳)
 
 母(禮)を一番大切にした末っ子「利彦」が、不幸にも…先に旅立った…
母(禮)は86才で尼崎市武庫之荘に健在である。(H13.12)


弟(利彦)の通夜の席でのこと、弟の嫁(明美)に母(禮)が指図するように言った言葉、『明美ちゃん!その「ご飯」の盛りをもっと多くしてやって!!』

傍で聞いていた私が思わず「詰まる」ものを感じたのを「誰か?」が気付いただろうか?????

次回は5歳で別れた「父(士朗)」のことを書きます。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年02月02日 12時53分10秒 ) パスワード
  

32歳で3人の男の子を抱えての未亡人生活は本当に大変だったでしょうね。
でも身につけた教育や教養って支えになるものなのですねぇ。
手に職を付けるという言葉がありますが
大切なことなんですねぇ。
真剣に考えたことがありませんでした。

本当に立派なお母さまですね。
そして子供達もまっとうに育って、そして主席で卒業出来て、
お母さまは孟母でいらっしゃったのですね。

お父さまはご心配でしたでしょうね。
時代が時代ですから。


ではお父さまのお話の続きを楽しみにしております。
[8]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月02日 18時24分53秒 ) パスワード
  

随想:昭和の比企尼(禮)の夫:父『林原士良』 について    林原英祐

 父の事は余り詳しく知らない。

5才で死別しているので知っていればおかしい。

母とか祖父母とか伯父さんとかに『聞かされたこと』が中心となって頭に入ったと思う。

 例えば、尾道の向かえの『向島』の『江の奥』と言う谷には『林原』と言う『家』ばかりで、父の祖父の代以前から『庄屋』をしていた。だから「墓地」があんなに立派なのだ。

 又、その谷(江奥)から、当時、兄弟3人(省三:栄:士良)全て『大学』を卒業するなどは稀な事であった。等『田舎の自慢話』も随分聞かされた。

 父(士良)は広島の中学を出て、旧制の『大阪高等学校』を卒業後、大阪大学の工学部(造船科)を卒業し、三井造船(玉野造船所)に入社したそうである。

その後、戦前は、満州鉄道の『大連造船所』に勤務していた。と母(禮)によく聞かされた。

父母にとって『大連』は『スィ−トホーム』の地であったせいか、引き揚げる前の大連はそんなに悪い印象の地としては語らない。

むしろ良い想い出として聞いた(何故か、仲代達也と新珠三千代の演じた『人間の条件』の中国の光景が頭に浮かぶ…)勿論、小生(英祐)は未だ生れていない昭和17年未明の話である。

 その後、昭和17年になってから、日本に引き揚げて『尼崎(立花)』で私が生れる。

その頃、に父(士良)は、迫りくる『第二次世界大戦』を意識していたかどうかは別にして、播州姫路の海岸にある『塩業の町』大塩町で『武智造船所』を開くのである。

 後に聞かされた話であるが…

武智さんは、私の同世代の方なら、『武智鉄二』(白日夢…ポルノ監督)を御存知と思うが、その方の『お父さん』が御影(芦屋)の大富豪で当時『造船王』とまで言われた方だったそうで、その方に『認められ』…海軍の造船所『武智造船所』を開設したそうです。

 父を知る『父の友人(故人)』や『伯父さん達(故人)』の話によれば、『頭がすばらしく良い人間』でそのため『ヤマ気』が多く、『一発屋的』な面が、沢山のエピソ−ドを残しているそうです。(冗談半分に…生きて居なくて良かった!苦労させられていただろう。大金持ちになるか?乞食をしているか?どちらかである。云々……)

 そういえば、少し前(昭和50年代後半)の話ですが、母の友人がNHKのテレビを見ていて『特集…浮体工法「関西新空港」』の中で、姫路(大塩町)の武智造船所が出てきていた。

その中で、戦前戦中に鉄材が不足してきた時に『コンクリ−ト』の『タンカ−』を研究していた『造船技師』がいて、何隻かの『コンクリ−トタンカ−』を姫路で進水させている。

現在調査しているが所在が掴めない。生存も定かでない等アナウンサ−が言っていた。と… 多分御主人のことだと思うという電話が入った。

 母から聞いて、感激して(少し大袈裟だが…)NHKのディレクタ−に電話して話を直にききました。その時、母が密かに死んだ父から預かっていた『20枚程度のキャビネ版の白黒写真』をお送りして関係者にこれは貴重な資料だと感心されたのを覚えている。

 当時の海軍の造船所の中で『極秘裏』に進められた『秘密の計画(コンクリ−トタンカ−)』は多分表沙汰になると処罰される計画だったと思う。

にも関わらず、父(士良)が『造船技師魂』でどうしても『内緒』で写真を取って残したかった気持が伝わってきて、何かジ−ンとくるものを感じました。何となく、嬉しかった。そんな父が自慢でした。

 昭和23年8月4日に父は結核で亡くなっていますが、その後35年も経ってから、その写真が一度は表に出たのだから、それは素晴らしい事だとおもいます。

 母は(平成13年4月現在…86才)で存命ですが、残念ながら、その父の形見の写真は『結婚写真』と一緒に『阪神大震災』の時に家屋全壊で失ったそうです。

それでも、私達の記憶のなかに立派に残っているのですから、良いと思います。

 私はこの『コンクリ−トタンカ−の話』を戦中の全ての欠乏した中での『知恵の実例』として『語り伝える』つもりです。

 結局、関西新空港は『埋立て方式』で『浮体工法』は採用されませんでしたが、関西新空港を見る度、聞く度に『父(士良)』が蘇ります。

 武智鉄二監督のポルノ映画を見た時も『父(士良)』を思い出したのを覚えています。

考えてみたら、人々が過去を『歴史』を思い返すのは。必ずしも、一般論として思うのではないと思います。

関わり(主観的)のようなものが出発になるものです。
 
『西暦794年…平安京…ナクヨ、ホトトギス平安京!』等は漫画であって、歴史の初等教育が、このような形で年表を暗記することから始まるのはおかしいと考えます。

 父方の祖父(頑固者だったそうです)『庄吉』の口癖が『禮子さん!(母の事)…ワシは世が世なら「切腹者」じゃ!』『比企家(母の里)』と縁組をするなど考えただけでも恐ろしい!』と言ったという話を聞きました(父の兄伯父さん…省三)その事が、母方の歴史に興味を持たせました。

その事で『日本史』を良く知っています。鎌倉時代から現代まで興味を持ちました。それは別におかしいことでは無いとおもいます。

 父が早く亡くなったお陰で、父のことも以外と良く知っているのかも知れません。

現在のような『平和』で『物に満たされた』時代に浸っていると『どちらでも良い話』で片付けられる話です。

『中国』等は良く学習していて驚かされることがあります。家族団欒の夕食の席で、急に自分達の祖先の話をとうとうと話始める等、よく見かける光景です。

私たちの世界にも以前はそんな光景を目にすることがあったのですが、今は皆さんテレビなどで忙しくそんな光景は昔の話になってしまいました。 (完)

それじゃ又、夢を見たら書き込みます。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年02月03日 00時03分54秒 ) パスワード
  

阪神大震災でお父さまの記録になる物が無くなってしまって残念ですね。
でも1つはNHKで、1つはこの「平熱」で、そしてもう1つ原稿として残っているのですから
お父さまの記録は全てこの世から消えてしまった訳ではなく
いつか将来どなたかが堀り起こして再び世間に出るかも知れません。

「コンクリート・タンカー」のお話で、か
「比企家の歴史」で、か

検索なさった時に林原さまのお父さまの研究が再び人々の記憶に残されるでしょう。
お父さまはお喜びと思いますよ。

凄い時代になったね、と。


本当に素晴らしい歴史のお話をありがとうございました。
ネットで検索なさる方達のお役に立ちますから
蔭ながらその方達にも感謝されると思います。
[10]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月16日 11時54分46秒 ) パスワード
  

続編 『林原 禮』(昭和の比企尼)の独り言(86歳)

平成14年2月15日
母(禮)から『一通の手紙』が届いた!(前文は略しますが、小生の要請に応えてのものでした。)
86歳の高齢ですが、文章がしっかりしているので、原文のまま写して残す!



「覚えていることを書きましょう。あやしい覚えですよ。

雅(マサシ)のこと(解説 御影比企の当主、禮の実父)
 
明治16年の生まれ、2歳の頃父(福造)死亡、母(たま)と福井(手寄上町拾番地)の家に皆で同居(忠・彰・しげ(忠の妹)達の両親など)

県立福井中学を卒業後、京都の家へ同居、京都には忠(雅より15歳位年上と思う、京大に勤めていた)がいたから、学校は大阪の工業専門学校(阪大の前身:工学部機械)に京都から通学。

 卒業後、大阪に独立している。
今の、大阪駅の近く(此花区福島)に家を持ち、『日支テレジン商会(貿易商)』(神戸の海岸通り昔の居留地にあった)

 結婚は大正のはじめと思う。長男『佐(タスク)』大正3年2月12日うまれ(福井の堀家(母の里))、その頃(母親タマ)大阪に連れてきていた。
 
私(大正4年5月15日生れ、大阪福島)、私が病弱なので、空気のきれいな武庫郡住吉村へ転宅する。次男『能(シノブ)』からは住吉村で生れる。

『能』大正6年生、『重』大正7年生、だから『住吉』へは大正5年に来たと思います。

 阪大の工学部が出来たのは遅いと思います。

 会社が合併して、『フレザー商会』になったと思います。

 アメリカへ行ったのは、、、
その頃は外国へ行く人は普通には無く、華族か(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵〜戦後なしになった)大変な用事のある人でないと行けなかった。

『ハワイ』「ロサンゼルス」「ニューヨーク」「ワシントン」と廻ってきています。

 お船で「近衛」さんと一緒だったと話してくれました。

 会社が招いてくれたので、行けたのでしょう。
 大正7年か8年の頃と思います。

 丁度、私が親和高女を卒業して、京都の女専(今、府立大学に合併した)の寄宿舎に居た時に外国から手紙が良く来ていたので覚えています。

『フレザー商会』は東京と横浜と大阪と神戸、、、くらいかしら??
日本の総支配人ということです。英語がペラペラでした。

 『シオノギ』等は小さい薬局の頃からの出入りです。「薬」を輸入していた。

 ピアノもドイツ製で、私が小学校2年頃輸入してきた物です。

 戦争で20年に全滅です!(解説、ここでぷっつりと終わっている)



中川稔子のこと(解説、私が今回一番知りたかった人、すごい人だと思っている。)

比企たま(旧中川たま)の兄の子、「たま」(雅の母)の里である中川の嫁が亡くなって、後に来た嫁の子供で、「たま」の兄がなくなったら、稔子(小さい子供)を置いて帰ってしまった。

      ので、兄の子供なので「たま」が引き取って育てた。

 私より、7つか8つ年上だと思う。 
 「繁(私の母)」が良く育ててくれたと思う。

 独りで生きる為に、大阪の日本赤十字の学校へ入れ卒業する。
『緒方先生』が大阪日赤病院に居られた頃に、看護婦をしていた。
梅田で独立開業された頃、引き抜いて病院を止めて『緒方病院(眼科)』に勤めていた。

 緒方先生が、大分の臼杵(うすき)というところの出の人で、別府の駅前の流川の所に、500坪の病院を建てて『眼科病院』を開く。母屋も同じところに有った。

 奥さんが病弱で早く亡くなられた。先生の姉さんが「出戻り」で居られて、お世話されていたのを手伝っていた。

 まだ大阪に居た頃に、次男の彰(?)NHKのアナウンサーをしていた、後に出世して『総合論説委員』になった「あの緒方さんのこと」を連れて住吉の家へよく遊びにきていた。のを覚えている。

 緒方病院の婦長として最後まで先生を見送って上げた。籍は入れなかったけれど、母親(あきらちゃん等へ)の役目は通していた。

 先生の死後、「あきら」が東京へ『稔子』を引き取る話も度々出たけれども、『稔子』が別府の地を離れたくないと言い『独り暮らし』をして残った。

 ある昔からの知人が世話(老後を考えて)をしてくれて、『上野』という独り暮らしの老人と60歳をすぎてから結婚した。

『雅(父)』が生きていて、後(自分の死後)が心配だから結婚してくれと許した。

『上野稔子(中川)』となった。(別府でなくなった。)

上野さんは山口県萩市の人で前の奥さんが萩焼の名人(田原陶兵衛)からでているそうです。(亡くなったときに、田原陶兵衛の萩焼の食器がひと揃え置いてあった)

疲れましたので、今日はここまでにします。続きは又かきます!

[11]服部 明子さんからのコメント(2002年02月16日 12時34分19秒 ) パスワード
  

皆さん優秀なんですねぇ。

お母さまのお父上さまは当時、日本をリードなさるお立場にいらっしゃったのですねぇ。

大正時代に洋行って普通の人には考えられない「夢」のお話ですね。
ドイツからピアノを輸入なさったのですか。
凄いですね。
どんなピアノだったのでしょうね?
日本ではスタインウエーが有名ですが
オーストリアに手作りのピアノを作ってるところがあって
そこのをドイツ経由で輸入なさったのかも知れませんね。


戦災に遭うまで、どんなに豊かな生活をなさっていたか
ちょっとだけ拝見しましたが
日本のエリートの暮らしをなさっていらっしゃったのですねぇ。
[12]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月18日 20時27分48秒 ) パスワード
  

結び 『後書き』     林原 英祐(禮の次男)

 鎌倉比企家が『女系』と歴史家に言われたとあるが、その後、越前比企家にその伝統はどのように伝わったかを探索することが、小生のロマンであった。
 
そして、結果として『家風:後家猛女』の流れを検証した。その代表選手として、ベストEを以下に上げて、『女系比企一族』の謎の結びにしたい。

前に、『女紋』の話を述べたが、『比企家』への「入り嫁」が血筋(ハ−ド)とは関係無しに、嫁ぎ先で家風(ソフト)に染まるなどは、現代にあっても、『貴重な教訓』に思えてならない。

 考えて見れば、今日のコンピュ−タ−社会(全盛期)にあっても、ハ−ドの恐しいまでの発達と、それを補完するソフトの遅れが『漫画的』に浮き上がって来ている中で、比企家の入り嫁(猛女達)の奮闘は教示的で意味深い物を感じさせる。

 鎌倉時代から伝わる『比企尼』の話、『松下禅尼』の話等は比企一族の血筋の中にある話であったが、越前福井の比企家の話は、入り嫁達(他人)の話であります。

 そして、E代比企尼とした林原禮(小生の母)は御影比企家(比企雅)の嫡女の話であり、その『禮』と共に、女系が絶えるという話であります。

 何か、鎌倉中期の『竹御所』の悲話を思い出すような話であるが、多分『血筋(ハ−ド)』は絶えるが、お婆ちゃま達が残した『家風(ソフト)』は「とこしえに…」生き続ける信じます。

そして、大袈裟な話とすれば、『東洋』が『西洋(アングロサクソン)』に勝利するのはそのような『ソフトの継承』技術であると考えます。

 地下に潜った『比企筋』の血が『女紋』のようにして、生き続ける話は楽しいと思いませんか?

 隣の家で、そして街角で『比企尼』の『猛女』達に出会う時、鎌倉時代から永く引継がれた我が国の文化そのものを感じ『誇り』に思えませんか?

 私は、戦後(比企の乱)800年の比企残党の戦いを感じるのです。そして、その事が歴史そのものであると考えています。
 
イメ−ジとして、薩摩の国から『サツマ芋』を代用食にしながら、青年達を送り出す家族愛に勝るものは無いと思い続けています。(明治維新にあった話…)

最後になりますが、、、越前福井『比企家』の比企尼E名の駅伝レース(タスキ渡し)

●初代越前比企尼『リヨ』(1697〜1773)享年76歳…生田十左エ門の娘
           『3代比企佐左衛門榮搶の後妻』…心光院常譽妙照大姉
 先妻『リノ』が1歳の乳飲み子(4代榮禎)を残し19歳の若さで他界する。
先妻の鈴木家は松平藩の重臣(家老)の出で、苦心の策として鈴木家の親戚筋の
生田家から、一度『鈴木家』に養女に入れて『比企家』の後添えとして、入っている。

後妻『リヨ』の役割は、嫁いだその時から嫡男『榮禎(1歳)』の養育が待っていたことである。

私はこの『後家リヨ』は『乳母』のような存在の人でまさに『比企尼』そのものであったと考えている。
 3代「榮搶」が47歳という比較的、若死であったことを考えると、『後妻リヨ』の比企家に於いて果たした役割は大変なものであったと推察する。

●二代越前比企尼『チヨ』(1754〜1834)享年75歳…筒井仁右ヱ門の娘
           『5代比企佐左衛門榮脩の後妻』…専求院清譽白法大姉
 6代榮庸(越前比企家の最高峰)の実母であり、その嫁『キン(3代尼)』を育てた姑である。

 『チヨ』は「亀之助(後の6代榮庸)」と『捨五郎(後の真田源五郎幸孝)』と「三十郎(後の本多門左エ門)」の3名の男子と菅沼平兵衛室『ナヲ』を育てている。                              

子宝に恵まれた『比企尼』であったと考える。

●三代越前比企尼『キン』(1789〜1870)享年81歳…横田作太夫の娘
           『6代比企佐左ヱ門榮庸の後妻』…智照院光譽妙貞大姉
 福井松平藩の重臣『横田家』から『比企家』に後妻として嫁いだが、嫡男『榮信』を35歳の若さで失い、『跡目相続』で活躍する。
 
養子『8代比企幸次郎栄貞』(先代の孫)の相続に成功するが、『栄貞』も25歳で病死する。
 不幸の連続の中で、『7代栄信の妻』…『モト』に思いを託し、孫『9代栄徴』の養育に全てを掛ける。

『榮貞』(キンの養子)の死亡時点での、、、
 『キン』(当時62歳)の取り巻き…
  ★3人の娘達  @嫡男『榮信』の後家『モト』(当時30歳)
            A8代榮貞の室(キンの実娘)後家『リュウ』(当時29歳)
            B鈴木主税重榮の妻(キンの実娘)『ジュン』(当時30歳)
  ★3人の孫達  @9代当主『榮徴』(当時12歳)
            A10代『儀長』(当時10歳)
            B別家『福造』(当時6歳)
 
明治維新の松平春嶽の片腕といわれた『鈴木主税重榮』の妻『ジュン』(キンの嫡女)の事が知りたいが、記録が残っていない。

●四代越前比企尼『モト』(1822〜1890)享年68歳…津田弥太六の娘
           『七代比企五郎左ヱ門榮信の室』…清壽院儀譽賢哲大姉
 上記の家族『後家キン一家』の後継者は自然な形で『キン』から『モト』に移って行った。

『モト』の苦労は、嫡男『榮徴』の育成と次男(加藤家養子)と三男(儀長)、四男(福造)の養育であった。男子4名の子育ては並大抵ではなかったかと創造される。

『モト』婆さんが『嫡男(榮徴)』を49歳(比較的若死に)で失うのであるが、その時点での「モト」67歳で次男儀長47歳が相続する。

1889年(明治22年)のことである。その当時の福井比企家の家族構成は、、、
後家『モト』67歳を中心に、家長(次男)『儀長』(47歳)妻『サダ』37歳、後家『先代榮徴の妻(サミ)』42歳、後家『別家比企福造の妻(タマ)』42歳と、

子供たち(従兄弟たち)
『忠』(9代榮徴の嫡男)23歳、『彰』(10代『儀長』の嫡男)5歳、『雅』(別家福造の嫡男)6歳のいとこ達が同居していた。

そして、『タマ』が中心的な後継者になっていくのである。
『モト』婆さんは若くして、名誉の死を見た『別家福造』の妻、『タマ』が気になって仕方が無かったと創造される。

●五代越前比企尼『タマ』(1857〜1929)享年72歳…中川一歸の六女
           『別家:比企外五郎福造の室』…淑芳院殿明譽玉成大姉

私の実母の『禮』の敬愛する「お婆ちゃん」は、この『たま』婆さんである。
実際は「禮」は3代「モト」婆さんと瓜二つの人生を送るのであるが、「たま」を通じて伝わるものがあるのか、とにかく「たま」婆さんの大ファンである。

 前節で「たま」の姪(中川稔子)について、「禮」の独り言を書きましたが、私はこの「稔子」婆さんの壮絶な生き方がこよなく好きである。
考えてみたら、実質的にこの「稔子」の母親的(伯母さん)な存在が「たま」婆さんであったことが今回始めて、私の知るところになったわけで、感激である。

「稔子」(私たちは通称『別府のお婆ちゃん!』と呼ぶ)の存在は「鎌倉の比企尼」そのものの面影を残す話である。

仏教的な表現になるが、別府で独り旅立った(死去)とき、片付けにいった「仏様」の脇に「田原陶兵衛」(萩焼の)名器(一人分、、自分が使っていたものらしい)が置いてあった等は、余りにも「美しい話」ではないかと思える。

母の口癖に、「中川家」は越前福井松平藩では比企の上席の家柄であったと言っていたが、何か、「稔子(別府の)お婆ちゃん」にノックアウトされた感じですね!!
すばらしい『品位』のある話に接して、心が洗われる気持ちである。

比企系図に出てこない『アングラ』な中川稔子婆ちゃん(失礼、上野稔子)に拍手喝采である。そして「たま」婆さんはその事一つを取り上げても、すばらしい5代比企尼に相応しい人である。


●六代(番外)越前比企尼『レイ』(1915〜2002)享年87歳…比企雅の嫡女
           『林原士朗の妻』      …

私の母親で、既に『主演女優賞』の人ですので省略します。

MEMO(猛女婆さん達)
               享年 『タスキ』期間   『後家』暦      記事 
『リヨ』婆さん(1697〜1773)76歳(19年間) 42年間  先妻の乳飲み子(榮禎)
『チヨ』婆さん(1754〜1834)75歳(45年間) 18年間  5代榮庸を手塩にかけて
『キン』婆さん(1789〜1870)81歳(48年間) 23年間  実子『榮信』35歳で死去
『モト』婆さん(1822〜1890)68歳(33年間) 40年間  主人「榮信」と35歳死別
『タマ』婆さん(1857〜1929)72歳(14年間) 45年間  主人「福造」と39歳死別
『レイ』婆さん(1915〜 2002?)87歳? 50年間を超える。主人「士朗」と34歳死別
以上
共通して言えることは、、、
@長寿であること。A後家暦が長いこと『尼』。B子育てに専念したこと。C主人と若く死別していること。D駅伝レースのように、タスキが繋がっていること。など、、、

また、母(レイ)から『独り言』が着いたら書きこみます。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 00時11分49秒 ) パスワード
  

>「比企の尼」達に共通して言えることは、、、
@長寿であること。
A後家暦が長いこと『尼』。
B子育てに専念したこと。
C主人と若く死別していること。

「比企の尼」達は800年に亘って大変な人生を生き
とうとう林原さまのお母さまで絶えてしまいますが

将来どなたかが「比企の尼」の存在を思い出した時
このスレッドが役に立つと思います。

800年頑張り通した「比企の尼」達の満足そうなお顔が浮かぶようです。
ご先祖さま達が林原さまに感謝なさっていらっしゃると思います。
[14]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月19日 20時16分15秒 ) パスワード
  

 比企 佐(タスク) 比企雅の嫡男

手紙が出てきました!
昭和43年2月18日 『比企佐(タスク…比企雅の嫡男)』から比企 元(本家)へ

『元』氏は以前書きました「比企系図」ん編者「比企忠」の嫡男で日本国有鉄道の理事を勤めた比企本家最後の当主である。
 
 比企 佐は母(禮)の実兄で甲南高校から青山大学を卒業した温厚な長男で塩野義製薬の秘書部長が最後の勤めでした。歴史に大変興味を持って最後まで勉強していましたが、病魔には勝てず、不完全燃焼で56歳で亡くなりました。

 無念であったろうと、心境を推察して、ここに、小生の「まとめ」を供養する。天国でお楽しみあれ!!


 前文を略す。…(手紙文の引用)無念の跡

 私の道楽の御朱印船貿易の勉強…これは南方へ行って余り何も南方の事を知ら無さすぎだから日本に帰ったら、何ぞ南方関係の勉強をしてやろうと思っていたのが、結局これになってしまいました。

 そして、御朱印船を大阪より出した『くすりや』があるので『くすりや一族』を探していた処、くすりや一族が道修町でも相当盛業で明治前まで営業していたし、その前は堺におり、断続的に判ってきた。その協力を会社(塩野義)の社史編纂室長がしてくれていたのでした。

 彼は『薬屋甚右ヱ門』の御朱印船もよいが、お前の比企の家系の方が余程面白いのと違うかと言うことで、始まった家系の勉強に足を突っ込んだ訳です。彼は僕と入社同期で名前は(ひきめ)と言う変わった名前で彼も興味で(ひきめ)の研究を始めてそれで僕にも提案した訳です。

 そして、遂に『吾妻鏡』の古本を入手しました。本屋のおやじに先生ですかと問われた。古本で8,000円もするのだから仕方がないでしょう。

 太田亮著『家系・系図の入門』と言う本によると系図は殆ど偽作物らしいです。
藤原秀郷まで藤原で良いと言うことです。しかし、戦国以後は信用出来るものであるそうです。

 福井の比企が何故、江戸で16歳の子供が300石もの大禄で召し抱えられたか、この点何か訳がないといけないと思います。

 いずれ、会社へ出ることが出来、少し暇ができれば、昨年の丁度一年遅れになりますが、全国の比企姓に一度手紙してみます。中には一人や二人は興味のある人もいるでしょう。

 それはさておき、近き御先祖の儀長、福造、忠様等に関しては事細かに30、40項の履歴書が書いてあり、父『雅』のは小学校より書いてあります。小学校が4年制やったことが判ります。

 『元』様の分も紳士録で少々、写してありますが書き込むのには少なすぎ他人のことみたいですので、もっと詳しい履歴書とか、特徴とかを特別に作ってお送り下さい。お願いします。

 それから、初めに出て来る比企数馬義重は別にして、東郷城主長谷川藤五郎(姪…オイとこの頃は読んで良い)也。東郷は福井市郊外にあり、東郷城主11万石長谷川藤五郎秀一は小田原城攻めの北条氏に2度、豊臣方の大将として名が出てくるし、豊臣の姓を賜り東郷侍従豊臣秀一(亦、長谷川藤五郎)となる。

 今度はこの長谷川をどうしても調べたいと思っている。それには一寸達者になって図書館にいけなくてはどうにもならない。

 比企数馬義重は相州生国武蔵姓源とあり姓は源と言うのも一つの鍵である。

福井の鎧や兜をみられたことがありますか?、、僕のまことにおぼろげな記憶では中学3年頃に行った時に鎧等が『真っ黒』で「旗さしもの」も黒に金糸であると聞いて赤とか黄を想像していた年頃で失望した覚えがあります。

 しかし、福井は黒がどうも藩の色であったらしいことが判り、あの時に見せて貰っておけばやかったなあと今頃思っています。

 又、堀を埋めてからの大阪夏の陣で越前は抜け駆けをして真田幸村以下の首を上げて遂に城内に火をつけて落城させてしまうのであるが、大阪の堺の童歌に『かかれ越前衆、なんだかかれ越前衆、命知らずの真っ黒の旗』と言うのが本にある。

 しかし、比企数馬義重は寛永10年。16歳で召し出されるのであるから、この人は勿論、大阪の陣に参加している訳もない。

 朝起きて、床の中で『歯を磨く』ような生活しか出来ない今では、なかなか思うようには何も出来ません。

 先ず、御先祖様の加護により、健康を回復して、それから『謎の比企姓』に取り組んでみます。
 どうぞ、お手数ですが、履歴書詳しくお願いします。お体を大切に…敬具


 元 様                             佐より
                         S.43.2.17記


 英祐補足…昭和45年4月22日(その約2年後)御影比企の2代目『佐(タスク)』は、持病の『喘息』が悪化して帰らぬ人と成りました。

その思いが私に乗り移ったのでしょうか?『正覚院殿清譽佐山居士』の御冥福と、比企氏の謎の解明をお送りします。
                                  合掌   
 『佐』伯父さんは小生の母『禮』の実兄で、56歳の若さで死去している。

 従姉妹の『公子(長女)』『邦子(次女)』は、もう、その叔父さんの歳に近付いていると思うが、 先日、邦子(辰巳姓)に便りを出した。

[15]服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 22時51分09秒 ) パスワード
  

不思議なご縁があったのですね。
 
>比企 佐は母(禮)の実兄で甲南高校から青山大学を卒業した温厚な長男で
>塩野義製薬の秘書部長が最後の勤めでした。

>御朱印船を大阪より出した『くすりや』があるので『くすりや一族』を探していた処、
>くすりや一族が道修町でも相当盛業で明治前まで営業していたし、
>その前は堺におり、断続的に判ってきた。

>お前の比企の家系の方が余程面白いのと違うか
>と言うことで、始まった家系の勉強に足を突っ込んだ訳です。


見えない糸に結ばれている、というのを感じます。

「くすりやさん」と「比企家」は何等かの関係があったのかも、でございましょうね。
ヒキメ役とは昔、悪霊退散に弓を鳴らした係のことだそうで
藤原氏と昔お知り合いだったかも、ですね。

今は知らない同士だけど、昔は先祖が親しかったり、本当は血で繋がってたり、
そういう事があったのかも。


「御影比企家」が絶えてしまうのは惜しいですけど
御影比企家に繋がる方がこのスレッドをいつか見にいらっしゃるかも知れませんね。

そして越前比企家の流れの方にとっても非常に参考になりますから
佐伯父さまのなさりたかった事が完成されて
そして後世の「比企一族」の方達がお喜びでしょう。

「比企の尼」達の苦労が分かって貰えるといいですね。
[16]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 13時08分16秒 ) パスワード
  

ドイツのピアノのお話で資料が出て来ました:

私が書いたピアノはウイーンの製造会社 Bo:sendorfer という会社です。
o: は Oにウムラートなんですがドイツ語のフォントが使用できないので o: で代用しました。

1828年から製造しているのですよ。
ベッセンドルファーとでも発音するのでしょうか?
今でも手作りなんです。
時々アメリカに売りに来るようです。


多分これが住所と思います:

L. Bo:sendorfer Klavierfabrik GmbH
1010 Vienna, Bo:sendorferstrabe 12 ← STRAβEだと思うのですけどね
Austria




他にもピアノで有名なところと言うと Schimmel のようです。
日本人はスタインウエイでしょうけど。


私のドイツ語はもう錆びて使いものにならないのですけど
以上が「夢」のドイツのピアノのお話のフォローです。
どんなピアノだったのでしょうね?
[17]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 14時41分39秒 ) パスワード
  

検索しましたところ、ありましたよ!
「ベーゼンドルファー」ですって。
やっぱり私のドイツ語はだめですねえ・・・

高価なピアノなのでアメリカのお金持ち(我が家のマザー)にご案内が来て知りました。


http://www.people.or.jp/~piano-world/shoukai/shoukai2.htm
以下コピーですがこれからサイトの方にご許可を頂きに行って来ます。

 4)ベーゼンドルファー
 現在でも製造を続けているウィーンのメーカーで、1828年にイグナツ・ベーゼンドルファーが操業を開始しました。創業以来、量産を試みず、丁寧にピアノを製作してきました。時代の変化にもうまく対応し、イギリス式アクション、鉄のフレームの他、ソステヌート・ペダル(グランドピアノの真中のペダル、アップライトの真中のペダルとはまったく違います)も採用しましたが、あの優しい、柔らかな音色は素晴らしいとしかいいようがありません。家主は現代において最高のピアノを製造しているのは、例外はあるかもしれませんが、ベーゼンドルファーではないか、と考えています。

 現在のベーゼンドルファーは他のメーカーと違った特色をいろいろ持っています。他のメーカーはケース(独特の形をしたグランドピアノの外枠)をしっかり固めて響板をきちんと鳴らそう、と考えますが、ベーゼンドルファーはピアノ全体を鳴らそう、と考えます。そこで、ベーゼンドルファーはケースの木を響板と同じスプルースという松の一種を使います。

 ということで、他のメーカーとかなり異なった特色をもっていますので、人によっては扱いづらい、と感じるようです。それは家主も同じです。とくにフォルテ(強く)の音をどう処理していいのか、いろいろ課題は残されています。

 とはいえ、あのピアニッシモ(非常に弱く)の美しさは比べるものがなく、家主は大好きです。

 もう1つ、ベーゼンドルファーの特色を紹介させていただきますと、エクステンドキーというのがあることです。現代の通常のピアノですと鍵盤は88鍵ですが、ベーゼンドルファーの場合、225cmや275cmのモデルでは92鍵、290cm(インペリアル)では97鍵と低音部にさらに鍵盤がつけられております。これはただ単に低い音が出る、というだけではなく、それだけ、とくに右のペダルを踏んで弦を共振できるようにした場合、これらの太い弦も共鳴してよりたっぷりとした音が出る、というわけです。
[18]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時13分02秒 ) パスワード
  

以下のメールでご許可を仰ぎました:


初めまして、も失礼なのですが
事後承諾で申し訳ございませんが

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100227_17.html

にベーゼンドルファーのピアノについてコピーさせて頂いてよろしいでしょうか?
もしご不快にお思いでございましたら
URLだけでもご紹介させて頂きたいのですが。


実は源頼朝の乳母だった比企家のご子孫の方が
お祖父さまが昔ドイツからピアノを輸入なさったというお話を書かれたので
ベーゼンドルファーかしら?
とわたくしがフォローの書き込みをしたのです。

それで検索しましたらお宅さまの「ぴあのわーるど」のサイトと出会いまして
どんなピアノなのか掲示板に許可無くコピーさせて頂いたのです。

わたくしの夫の両親は(義父の本職は物理学者でしたが)
義父はNYのメトロポリタンでトスカニーニの指揮でオペラ歌手になるか
物理学者になるか迷った人で
義母はピアノがうまく一族にはアメリカでは有名な指揮者がいてという家庭の出身で
義父は子供の時にドイツから亡命して来たバイオリンニストについてバイオリンを習ってた人で
義父の父親というのがこのドイツ人のパトロンをしていました。

義父の父親は医師で、その友人にはイングリット・バーグマンの夫だった歯医者もいます。
残念ながらイングリット・バーグマンは1950年ごろ不倫をして51年に双子を生んでいますが。
ロッセリーニ監督だったように記憶しておりますが。

それで今年の正月早々義母にベーゼンドルファーからピアノを買って欲しいという案内状が来たのです。
多分ウイーンの住所らしきものを上記URLに書き込みました。

という訳でベーゼンドルファーというピアノを上記のサイトで紹介するのに
お宅さまの書き込みを利用させて頂いてよろしうございましょうか?


ながながとお目障りなメールを致しました。
事後承諾で申し訳ございませんが
ご許可頂きたくメールを差し上げた次第でございます。

スミス 服部 明子
[22]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時50分36秒 ) パスワード
  

<11>に書き込んだ時はベーゼンドルファーからの手紙を処分してたと思いましたが
今日机周りの整理をしたらヒョッコリ出て来たのです。

1月25日から27日にかけてベーゼンドルファーがピアノをアメリカに持って来るから
1月25日は(先方が希望する?)予約客のみ
1月26日は希望者の予約を受け付け
1月27日に一般公開する
と書かれています。

として
These Viennese Masterpieces will be available for inspection and purchase <only> at
Keyboard Concepts.


アメリカでのベーゼンドルファーの代理店はキイボード・コンセプツというお店だけの
独占販売だそうです。
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時53分59秒 ) パスワード
  

更に案内状の紹介:

....direct from the Bo:sendorfer Factory in Vienna, Austria.
This collection will include the 290 Imperial, the new 280 Concert Grands, a rare 200
Chopin in Pommele Mahogany, and the extremely rare 214 in Satin Rosewood. Many are
"one of a kind" works of art that can be found nowhere else in the world.



案内状の質疑応答分より:

「どうしてベーゼンドルファーのピアノはそんなに高価なのか?」という
アメリカ人の素朴な質問にこう答えてます:


材質を揃えるのと人材確保が大変だから。
徒弟制度で、コースをマスターするのに12年以上かかる。
そして1台のピアノを作るのに5年かかる。
世界中で毎年400人しかベーゼンドルファーのピアノが持てない。


スタインウエイとどっちが良いのか?という質問には

The choice is obvious.
B:osendorfer.
[24]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 16時01分24秒 ) パスワード
  

英語の部分はかなりドイツ的な(オーストリア的な)語調の文章です。
[25]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 16時55分51秒 ) パスワード
  

30分ほど前に「ぴあのわーるど」の家主さまよりご許可頂きました。
<m(_ _)m>ぺこり


どうしてご報告の書き込みが遅くなったか、と書きますと
送付直後に例の(いつもの)「強制終了」が掛かってしまったので
マシンを切ってリスタートして
メールを再送付するのに
モタモタしていたのです。

このままで良いとおっしゃって頂きましたので
皆さんも詳しくは上記URLでピアノとは?というご説明を読んで下さいね。
[26]林原 英祐さんからのコメント(2002年03月19日 21時05分48秒 ) パスワード
  

しばらく、ご無沙汰していました。失礼の段お許しください。
今日は又、結構な(高尚な)お話をありがとうございました。
小生、ピアノの話は無学につき、今度母に会います時にこの服部先生のご教示をコピーして渡します。
ひょっとしたら、ボケが発覚するかも?リトマス試験紙に丁度良いと考えます。
とにかく、元気で仕方がありませんから、この英語も??
ところで、最近 ホームページビルダーの勉強をしていまして、出来れば、今日まで明子先生に教えていただいた「比企物語」を索引を付けて「ホームページ」に作ってみようと志しています。
さて、考えどおりに出来ますか、お楽しみに、、、じゃあ又、書きます。ありがとうございました。とりあえずお礼まで、、
[27]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 01時00分30秒 ) パスワード
  

下記でも検索出来ました。

http://www.boesendorfer.com/intro.html
http://www.bosendorfer-jp.com/

ただし、わたくしのマシンでは
上のURLのドイツ語または英語選択に英語を選択したところ出ませんでした。
下記のは日本語のHP(日本ベーゼンドルファー社のHP)で行けました。


どんなピアノだったか、他にもベヒシュタイン、シンメルその他ありますから
ロマンですね。
下のURLでは世界の名ピアノ勢ぞろいに行けます。
1800年代のピアノ達。
豪華けんらん!


ご自分のHPをお作りになられるのですか?
いいですね。
そうしますと画像も発表できますものね。
頑張ってくださいね。
ご先祖さま達もお喜びと思います。
[28]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 02時14分45秒 ) パスワード
  

http://www.bosendorfer-jp.com/

の下の方のアンティークのピアノの紹介サイトも素敵ですが
輸入中古ピアノの欄に行ってびっくりしました。

1998年のベーゼンドルファーが600万円
1940年代もののスタインウエイが850万円←こちらは鍵盤が象牙使用だから


お母さまが小学校2年生あたりでしたら当然鍵盤は象牙で
当時でももの凄い宝物だったのでしょうね。


お母さまの心のピアノ
せめて製造会社だけでも思い出して頂けるといいですね。
[29]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 02時44分25秒 ) パスワード
  

どうしてワタクシがピアノのお話に拘るのかと申しますと

母の家は海運業をしてましたが(後、没落)
近所の母の友人の家は陸送業をやってて(当時は馬を使用・現在も盛業)

母の友人の家にはピアノがあった、と。
母はせいぜいお琴でしたから。

ワタクシの子供の頃は友人宅に行けば床の間にキンキラキンの袋に入ったお琴が立てて
掛けてございました。


母の友人の娘がわたくしと同じクラスで
いかにもお金持ちのお嬢さま
それは母の友人の若い頃と同じ。


母は「あそこの家はお金持ちなんだから」とよく申しておりましたが
わたくしにはピンと来なかったのですけど
どの程度のお金持ちだったのかピアノ1つでも分かろうという事でして


「御影比企物語」にはそういう大正時代のロマンが残っているからでございます。
ロスに住んでいる旧華族の方達のお話の華やかさと違って個人が「脳力」で成し遂げた
という成功物語には今に生きる私達にも充分夢を与えてくれます。


そしてワタクシが子供の頃に母の友人の娘に対して持っていた対抗意識の愚かさも
ズバリわたくしには反省となって身に応えます。


昔の記憶を残して置かれるというのは子孫の方にはとても助かります。
子孫の方達にだけではありませんし。


林原さまの「比企物語」は本当に壮大なロマンでございますよ。
[30]服部 明子さんからのコメント(2002年03月22日 02時16分26秒 ) パスワード
  

キーボード・コンセプツのHPより
http://www.keyboardconcepts.com


ベーゼンドルファー:オーストリア製

B・endorfer is the most prestigious piano in the
world. Made in Vienna, Austria since 1828, by the
most experienced master-craftsmen, the tone and
touch are second to none. B・endorfer FAQ's
www.bosendorfer.com


シンメル:ドイツ製
Schimmel Pianos have been precisely handcrafted in
Braunschweig, Germany, since 1885. One of the
finest piano manufacturers in the world.
www.schimmel-piano.de
[31]林原英祐さんからのコメント(2002年09月01日 14時49分09秒 ) パスワード
  

 しばらくのご無沙汰でした。

 今年のお盆は無事に過ごせたと思っていましたら、、、、
 又、夢に悩まされています。

 比企筋が女系の家系だと歴史家は皆しっている!と言う「天の声」が今から30年も前に会社の友人によってもたらされ、、、

 そのことで、比企家の主観的な歴史観から逃れられなくなりました。と書きましたが、、

 私の比企家探索(物語)が「比企筋」の姫たちをないがしろにして、「入り嫁」達の話に集中したことが、どうもご不満な姫たちがいるのでしょうか?

 時々、出てくるのです???
 だから、想像も交えて書く事に致しました。


後編追章 比企家の嫡女達

『比企家』が女系で世継ぎに恵まれず、永い間常に「御家」が絶えることの危機に晒されてきたとすれば、神(もし存在すれば、、、)が、助け舟をだして「嫡女」の名に相応しい女性を「はめ込むこと」も又、忘れなかったのでは?と言うのが、私のひいき目にみた『歴史の仮説』なのです。

 以前、御影比企物語の終章に比企家の不思議「女系」を女紋の話など引用しながら、入り嫁達の話として、6名の代表的な「比企尼」の存在を上げてお話を締めくくりました。

 「系図」などに記事として残ります記録は「入り嫁」のことは比較的詳しく残っているのですが、比企家の実娘たちの話は、他家に嫁ぐことを最後に記録から消えてしまいます。

 ところが、何度も目を通していますと、その少ない「他家」の寂しい姓『二文字』の中に何かを言いたげな重みを感じるのです。

 そこで、残された嫁ぎ先「二文字」を頼りに、想像も加えながら推理小説を書くことにいたしました。

 まず『九人の比企娘』を選ぶことにしました。


@初代比企義重の嫡女『山原傳左エ門友勝の室(名前不詳)』(1636~1689)卒齢53歳

* 山原傳左エ門友勝の父は山原勘右エ門友政と言い、戦国時代『織田信長』『豊臣秀吉』の家臣であった「長谷川藤五郎秀一」の槍持を務めた家柄で、その誼で『藤五郎秀一』の実姉を妻としていた。

* 「傳左エ門友勝」は「長谷川藤五郎秀一」の甥(姉の子)ということである。

* その妻として、比企義重の嫡女(其)が嫁いでいたことが、後に二代越前比企家の世継(養子)を成功させることになる。それは後のことで、その段階では知る由も無い事でした。

* この『山原家』の次男(四郎兵衛榮翦)が二代越前比企家の当主となる。

A初代比企義重の次女『高塚甚兵衛の室(名前不詳)』(1646~1666)卒齢21歳

* 高塚甚兵衛の妻になった『義重』の次女は嫁いで直ぐに『娘』を産む事にになるが、「乳飲み子」を残して、若干21歳で若死にする事になります。

* その残された娘(其)が二代比企四郎兵衛榮翦(養子)の正室に迎えられるのであるが、多分『田原家』に嫁いだ『姉(叔母)』が早く母に死別した『姪』のことを不憫に思い、何くれと無く、世話をしていたのであろうと想像する。

* だから、『榮翦』と「高塚の姫」とは兄弟のように育った「幼馴染」(従兄妹同士)で自然な形で「言い名づけ」のような『縁』につながっていったと考えるのが妥当でしょう。

* この二人(『榮翦』と「高塚の姫」)の間に三代『比企榮禎』が産まれたときは越前比企家にとってこの上無い最高の状態であったと思います。

* 多分、21歳で『幼子』を後に『想い』を残しながらこの世を後にした『母の想い』が適えられたのだろうと思いたい。

B二代比企四郎兵衛榮翦の嫡女『堀庄左エ門の室(レン)』(1686~1770)卒齢84歳

* 二代比企榮翦には「比企榮禎」と言う世継に恵まれたことはもとより、84歳と言う長寿に恵まれた『レン』と言う嫡女がいた。

* この娘の嫁ぎ先「堀家」に私は興味を持っています。

* と申しますのは、以前、越前比企物語の最後に書きました1677年(延宝5)、「初代比企義重」の嫡男『藤四郎』の板取駅(宿)での自害(不審死)についてです。

* 私は、松平直堅(権蔵)騒動の犠牲と断じたのですが、真偽の程は分かりません。全て歴史の謎であります。そのときの犠牲者の一人に『堀十兵衛』と言う人が登場するのですが(史実)、、、

* 堀十兵衛は時の藩主(光通)の命で「直堅」の説得に当たるのですが失敗して、今宿の地で『腹を切ってしまいます!』

* その「堀十兵衛」の孫がこの『堀庄左エ門』だと思います。以前から「比企家」と「堀家」は親戚の間柄であったと推察されます。(私の祖母[比企雅の妻]シゲも堀家の出です)

続きは又書きます。
[32]服部 明子さんからのコメント(2002年09月01日 23時36分40秒 ) パスワード
  

今年のお盆は良いご供養が出来たものと思っておりましたが・・・

「堀家」とは深く強く結ばれた関係だったのですねぇ。
それは矢張り同じ血と涙を流した過去があるからでございましょうね。

早く続きを拝見させて下さいませね。
[33]林原英祐さんからのコメント(2002年09月02日 21時07分19秒 ) パスワード
  

昨日の続きです、、、

C三代比企榮搶の嫡女『加藤所左エ門の室(ミヤ)』(1719~1782) 卒齢63歳

* ものの本によれば、、、、曽祖父・加藤宇之助重成は肥後守清正の父・弾正右衛門兵衛清忠の弟。重成の孫・内蔵助重政は加藤家改易後の寛永15年(1638)、三代・忠昌に召しだされるが、越前に赴く道中病死し、子の『重直』が替わって召しだされたとある。

* その名を「加藤所左エ門重直」と記されてあります。

* 多分この「比企榮搶」の娘『ミヤ』の婿「加藤所左エ門」は上記「加藤所左エ門重直」の子になると考えます。

*七代比企榮信の次男『虎五郎』が加藤文太(福井士族)の養子になっている(明治11年)加藤虎五郎信興と号す。

D五代比企榮脩の嫡女『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』(1790~1845) 卒齢55歳

* 実は、夢枕に立つ女性は、この『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』と言う人です。何故か解かりません。

* 先日、仕事の関係で随分社会的には地位の高い人で「菅沼」姓の方にお会いしました。おもわず「貴方の故郷は福井ではありませんか?」と聞いてしまいました。

* 実はその方は『お父さん』を戦争で亡くされ。お母さんとご苦労されながら、今日大成された方で、ご本人は京都ですとおっしゃっていらしゃいましたが、、小生はほとんど病気と言う感じです。聞かれたご本人は変な気持ちになられたのではと少し心配です。

* 「北陸歴史ねっと」にも参加することに致しました。ひょっとしたら、『菅沼』さんが連絡をくれるかもしれませんから。

* お寺は『花蔵寺』と書いてありますが、福井の方にお聞きしますと、本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?

* 実は平成13年12月25日に足羽1丁目の臨済宗妙心寺派の華蔵寺の山内御住職様から頂戴しました「お便り」によりますれば、『当寺の檀家にお問い合わせの「門野家」「菅沼家」はあります。御子孫もご存命でっす』とありました。

* 多分、この『菅沼』さんは実在する方であると信じます。だって『テレパシー』のようなものが迫ってくるのですから、、、

E六代比企榮庸の嫡女『鈴木主税重榮の室(ジュン)』(1822~????)卒齢不詳

* 鈴木主税重榮は余りにも有名です。「橋本左内(安政の大獄で刑死)」の産みの親とされる越前松平藩の家老職であった鈴木家は比企家12代に渡る江戸時代の系図に4度も姻戚関係として登場してきます。「横田家」「生田家」なども縁者だと推察されます。

* お寺は「孝顕寺」が菩提寺です。

*孝顕寺の住職の便りでは、「主税重榮」の直ぐ横に『女;蝶子の墓』と言うお墓があると言われていましたが、娘(普通、女とは娘のことを言う)とはいったい誰なのか、『ジュン』の痕跡を探す旅に出たい心境です。

* 世直神社の世話人「山方典和」さんの便りによれば、鈴木主税重榮の子孫は養子「福井藩士雨森藤四郎の弟鈴木傳之丞重徳(若死)と実子小太郎重弘(相続)、そして実孫鈴木薫さん」、といわれていました。

* しかし、御子孫も絶え、現在はいらっしゃらないと言われていました。

F六代比企榮庸の次女『真田源五郎の室(リュウ)』(1824~1887) 卒齢63歳

* ものの本によれば、、、「真田五郎兵衛信正」のことを、父は真田弾正忠幸隆の次男・兵部大輔昌輝。

* 昌輝は天正3年、長篠の戦で戦死し、当時2歳であった信正は叔父・安房守昌幸に養育された。信正は慶長16年、松平上総介忠輝に7百石で仕えるも、断絶により浪人。

* 元和4年、三代松平忠昌に召しだされた。と、、、

* 間違いなしに、あの『真田家』であります。

* ところが、この『リュウ』は故有りの和順離縁をして里(比企)に帰っています。比企家の大事(七代比企榮信の若死による世継ぎ問題)により『御家』の犠牲になり8代比企榮貞の正室(再婚)として、役割を果たすことになります。 

* しかし、その八代当主「榮貞」も25歳で死んでしまいます。しかし、必死で御家の為に一生を捧げる「ジュン」に打たれるものを感じます。これが比企家の娘たちの家風であると思えるからです。

G九代比企榮徴の嫡女『比企榮(シゲ)』(1878~1945)終戦行方不明没 67歳

* この人は、越前比企家が仕事(サラリーマン)の関係で「東京」と「御影」に別れて出て行ったとき「戦前(第二次世界大戦)」のことですが、一人残って「比企の屋敷」と「菩提寺(清源寺)」の墓守を志した『女傑』だと聞いていますが、

* 結論から申しますと、、福井空襲の時に一人「福井の家」を守りながら、行方不明になられたと聞いています。記録によれば、昭和20年7月19日空襲で行方不明死亡届を受理(認定)してもらったと書かれてあります。

* 遺品を清源寺に葬り、祭ったとあります。

* 今回の私の探索で福井市の教徳寺からのお便りによれば、先々代の住職(現在の住職の祖父)の時代、住職は昭和17年に亡くなられたそうですが、、その時代(戦前)に永代経帳に「比企榮(シゲ)」の名前で『拾円』の寄贈が書き込まれてあります。御連絡して頂きました。

* 当寺としては稀な記録でありますので気が付きました。当時の額では「相当高額な金額です」と書いてこられました。

* 考えてみましたら、行方不明死亡(空襲)の福井残留の最後の女傑『榮(シゲ)婆さん』の足跡がこのような形で判明したのも、お引き合わせによるものと、感激です。(お便りを下さった教徳寺の現住職「羽野文雄」さま、ありがとう御座いました)

H別家比企雅の嫡女『林原士良の妻』(大正5年~)

* この方(私の実母)は、既に以前の結びの項に『6代比企尼』として登場していますので、省略致します。(現役?ですから、、、)


 以上で越前比企家の娘(姫)達の嫁ぎ先の詳細と致します。多分、比企筋の血筋を背負って活躍されたのだろうと想像されますが、今となっては「謎々話」として残るだけです。
 
 越前福井に在住のご親戚の皆様「や〜い」、お便りをお待ちしています。    それじゃ又
[34]服部 明子さんからのコメント(2002年09月03日 02時08分14秒 ) パスワード
  

「菅沼」氏(本姓藤原)の中でも静岡等の愛知県近くの菅沼氏は南朝方だったそうで
私にも何かテレパシーを感じるものがございます。

福井の菅沼氏から何かご連絡があると良いですね。
福井と京都は近いので
私の知人も本当は福井ですけど京都出身とおっしゃいます。

上記の菅沼氏も改めて問い合わせたら福井だったとお気づきになるかも知れませんね。

何か良いお問い合わせがありますように!
[35]林原英祐さんからのコメント(2003年02月15日 21時42分49秒 ) パスワード
  

父(林原士良)の白昼夢(武智鉄二監督の『白日夢』をモジッテ、、、

先日(平成14年12月)生まれ故郷(厳密には育ち故郷!)で小学校の同窓会が35年ぶりに開かれました。前に書きました姫路市大塩町での話しです。

この町(播州の塩田町)が私たちの人生の背景を語る町になるわけですが、私たちが何故「大塩町」(姫路の下町)に住み着いたか(昭和18年頃----戦前)は私達だけしか知らない意味深なわけがあります。

もちろん、私たちの家族の所帯主(父----林原士良)の仕事のためであります。

話は少し逸れますが、同窓会の翌日姫路に住んでいます友人を誘いまして、『姫路シーサイドゴルフ』(昔の塩田を廃田にして18ホールの立派なパブリックコースが出来ている)でゴルフに興じました。

その時、の何番ホールか正確には覚えていないのですが、確かショートホールだった『テイーグランド』に立ったときの前景に「父の思い出の全て」である!『武智造船所跡』のヨットハーバーが登場したのです。

前にも書きましたが、小生が5歳の時にお別れ(病死)した父親のことは事実関係で申しますと余り知らない!記憶に残っていないのですが、最近母方のご先祖(比企)様のことを『服部先生』のお陰を持ちまして勉強する機会を得まして、少し歴史、、、オセンチ(病気)がヒドク、その為か、その景色に釘付けにされたと言うお話であります。
 
自宅に帰りまして、その景色が頭から離れず、インターネットの検索欄に「武智造船所」と思わず打ってしまいました。ここから今日のお話が始まります。


『.近代世界艦船事典The Encyclopedia of World , ...』からはなしがはじまります!!!
『引用文』

第二次大戦の日本のコンクリート船。

太平洋戦争開戦により(中略)とにかく船腹の不足に苦しんだ日本では、昭和17年末頃からコンクリート船建造が計画されました。舞鶴工廠が中心となって実験と研究をし、新設の武智造船所でコンクリート製被曳航油槽船5隻、武智丸級コンクリート製輸送船3隻が建造されたのでした。

舞鶴工廠では戦前からコンクリート船に関する基礎研究を行っており、船舶建造に適したコンクリートの配合、構造、修繕などについて知見を得ていました。開戦後にコンクリート製浮桟橋(橋船)を試作のため建造し、漏水箇所がなく水密性に問題がないことが確かめられ、また曳船を衝突させる実験を行ったところ全く損傷が無く、衝撃に対する強度が十分にあることが確認されています。

この成功により、舞鶴工廠では800総トンのコンクリート貨物船の本格的な設計を行い、艦政本部の承認を得ました。

武智造船所というのが、なかなか興味深い存在です。
創業者の武智正次郎は元々は土木工学家で、浪速工務所というコンクリートの杭打ちを行う土木工事会社を大阪で経営していました。しかしながら太平洋戦争開戦による工事の激減、鋼材の不足が起こり、更には職員工員が招集されることを憂慮した武智氏は、東條内閣にコンクリート船の建造を建白、これが認められてコンクリート船の建造を行うことになったものです。
コンクリート船建造のための工場用地を探索した結果、兵庫県曽根町(現:兵庫県高砂市)の廃塩田跡地に適地があり、ここに武智氏の名前を取って「武智造船所曽根工場」が建設されたのでした。施設としては2本の素堀り船渠を建設し、この中で各3隻を建造することとなっていました。コンクリート船建造専用ですので、起重機などの設備は殆どありませんでした。

武智造船所で最初に建造されたのは、コンクリート製被曳航油槽船というものでした。
これは改E型船(880総トン)とほぼ同じ大きさの無人無動力のバージで、タンカーや護衛艦に曳航されて南方から内地へ原油を輸送する目的を持っています。要するに、同時期の被曳航油槽船をコンクリートで造ったものです。
鋼製被曳航輸送船と同様、満載状態の船体はほぼ水線下に没し、わずかに船首楼が水面に出ているのみとなります。船体の断面形状が円に近い形をしているのが鋼製と大きく違う点です。鋼鉄製のものとほぼ同大ですが、コンクリート製のため船殻重量が増大し、積載重量は鋼鉄製の1400トンに比べて1200トンへ減少しました。
第1船は昭和18年6月に起工し、11月までに計5隻が完成、海軍雑役船となりました。しかしながら危険な海をこんなもの曳いて走りたがる船員がいる筈もなく、所期の目的に使われないまま各地の港でタンクとして使用されたに留まったものが多いようです。この点は鋼鉄製の被曳航輸送船と全く同様です。

被曳航油槽船建造の成功に伴い、今度は改E型船程度の貨物船をコンクリートで建造することとなりました。これが武智丸級です。これもまた改E型船をコンクリートで造ったようなものでして、外観・大きさともに改E型船とほぼ同じとなっています。

最初に3隻が海軍雑役船として建造されることとなり、第1船は昭和19年3月に進水、造船所名にちなんで「第一武智丸」と命名されました。進水後の第一武智丸は三井玉野で艤装工事を受けて同年6月に竣工、引き続いて「第二武智丸」「第三武智丸」も竣工しました。

完成した3隻は日本近海を中心に時には南方にまで航海をし、好成績をあげたとされています。航空機から銃撃を受けても弾丸の直径の穴があくだけでモルタルを盛っておけば修理でき、また至近距離で機雷が爆発しても全く損傷がなく、鋼船より強靭であることを示したということです。

この頃から船腹の不足と鋼材の欠乏はいよいよ烈しくなり、昭和19年9月、遂に海軍は戦時計画造船にコンクリート船の大量建造を組み入れるに至りました。計画では武智丸と同型のE型程度の貨物船の他、D型程度(2500総トン)の貨物船が加えられ、また新設工事中の大規模造船所など多数の造船所で建造を行う予定でした。

しかしながら、当初年間5万トンを建造する計画は戦況の悪化に伴い繰り返しの縮小を余儀なくされ、昭和20年8月のG型船大量建造計画の際、コンクリート船の建造は中止となったのでした。

終戦時には第四武智丸が進水して艤装中であったのみで、計画造船として竣工したコンクリート船はありませんでした。

海軍による武智造船所での建造の他にも、コンクリート船の建造は計画されていました。

これらについては調べてはみたものの全く得るところがありませんでした。何かご存知の方がいらっしゃればご教示下さいますと幸いです。

<運輸通信省の計画>
運輸通信省海運総局という役所がコンクリート船の建造を計画し、日本土木造船会社に建造命令が下り、愛媛県松山市の三津浜造船所で建造されました。「第一国策丸」という気の毒な名前のこの船は総トン数265トン、当初ガソリン油槽船として建造中に貨物船に改造され、戦後竣工しました。

<陸軍の計画>
世界最強の海上陸軍である日本陸軍もまた、コンクリート船の建造を計画していました。
満州で川南豊作氏の関与の下に2000総トン型の建造工事を行っていたものの成否については不明、とされています。
--------------------------------以上が引用文であります。


母、林原禮(87歳生存-----林原士良の妻)の話による武智鉄二(映画監督)さんの父がこの武智正次郎(芦屋の造船王)さんだと思います。

母の話によれば、この大塩の武智造船所(正確には隣町、印南郡曽根町)の所長(父の若さ、当時30歳程度から推察して、多分所長代理か何かだったのだと想像します)が父(林原士良)であったと聞かされています。

この辺りの話は以前に父親『士良』のことと題して、同稿の[6]と[8]項に少し詳しく書きましたので省略しますが、とにかく、、、これは『夢』の話ではなしに『白昼夢(武智監督の映画は『白日夢』ですが---)』の出来事でありました。

話はまだ続きます-------------『武智丸』(第一-------第四武智丸、実際に進水したのは第三武智丸までらしい?)のその後について『文献』に記されてあります???

引き続き『引用文』-----------

日本のコンクリート船の戦後。

コンクリート製被曳航輸送船の終戦時の状況については、私の調べた範囲ではわかりませんでした。
5隻建造されたうちの1隻が、広島県音戸町の漁港に防波堤として残されています。

武智丸級は、戦争中に第三武智丸が失われ、第四武智丸は艤装中に終戦を迎え、終戦直後に荒天により沈没、戦後解体されました。

第一と第二の武智丸は終戦まで健在で、第二武智丸は終戦後のごく短い期間に大阪商船に貸与されたようです。

現在、第一武智丸と第二武智丸の2隻は広島県安浦町で、これも防波堤となって残存しています。

結び

この話が、今日の「お話し」のオチなのです。

父の故郷は広島県御調郡(みつきぐんと読む)向島町であります。父の霊が自分の造ったコンクリートタンカーに乗って里帰りしていたと言うお話です。広島県安芸郡音戸町は距離にして『70KM』程度、そこから100余KMであの『平家物語』の「壇ノ浦」があります。少し神がかりなお話しになりましたね。

広島県安芸郡音戸町に残る防波堤になった『武智丸』の写真が載っていました。
2.武智丸写真集へ
3.被曳航油槽船写真集(その1)へ
4.被曳航油槽船写真集(その2)へ

 以上で今日のお話は終わります。(平家物語には少し遠いですかね?100KM余り離れたお話でした)

 今日から、私は音戸町の防波堤(武智丸の残影)を父(士良)の墓石とします。近い内に最初の墓参り

 (55回忌)に行くことに致します。こんなことまでインターネットは有り難いですね!感謝いたします
[36]服部 明子さんからのコメント(2003年02月15日 23時02分25秒 ) パスワード
  

林原さま

オカルトかかったお話でございますね。
さすが「平熱」です。面目躍如!

>同窓会の翌日姫路に住んでいます友人を誘いまして、
>『姫路シーサイドゴルフ』(昔の塩田を廃田にして18ホールの立派なパブリックコースが出来ている)で
>ゴルフに興じました。
>その時、の何番ホールか正確には覚えていないのですが、
>確かショートホールだった『テイーグランド』に立ったときの前景に
>「父の思い出の全て」である!『武智造船所跡』のヨットハーバーが登場したのです。


素晴らしい展開となりましたね。


>今日から、私は音戸町の防波堤(武智丸の残影)を父(士良)の墓石とします。

本当に良い御供養になりますね。
お父さまの全身全霊の思いが籠もっていますものね。


身近かにお父さまの遺した形見があったなんて
本当にお幸せな発見でございました。

もしかしますと林原さまの御先祖さまも源平の戦さに参加なさっていらっしゃったのかも知れませんね。
そして比企氏との繋がり
南北朝の戦いでの繋がり
そして御両親さまの御結婚。
そしてネットで亡きお父さまとの邂逅!

素晴らしいお話でございますよね。
驚いております。
今の世の中にもお父さまの遺産が人々の役に立ってると分かったなんて感激ではございませんか。


インターネットの力って改めて驚いております。
「平熱」がきっかけでわたくしも素晴らしいお話をお伺いすることが出来まして感激しております。


本当に良い御供養になったと存知ます。
[37]林原英祐さんからのコメント(2003年05月04日 22時52分59秒 ) パスワード
  


55回忌の「父の法要」武智丸

平成15年5月3日晴れ、連休の中日でしたが、発起して新幹線に乗りました。

目指すは広島県豊田郡安浦町字三津口、、、勿論、60年の人生で初めて訪れる未知の土地!

広島駅で降りまして、呉線に乗り換え、呉駅を通過、三原に向かって6駅目の駅が私が目指した「安浦駅」でありました。

インターネットで探索(検索)致しました限りでは「漁港」とありましたが、比較的開けた土地に見受けられました。駅から東に向かいまして約1km、、一生懸命歩きました。

やがて海の見える場所に出ました。
そこから少し行くと「劇的な」場面の展開が用意されていました。

漁港(ヨットハーバーと言ったほうが相応しいような?)らしい向こうに『真っ黒い』コンクリートの波止のようなものが浮かび上がって参ったのでございます。

目を凝らして見ますと間違いなしに「目指すコンクリートタンカー」そのものです。

横に2隻がお尻をくっつけた形で直線に並べられてあります。
予想以上に大きなものでありました。

近づいてまいります200mほどの間に、瞬間でしたが、55年前の父親(林原士良)の思いが頭をよぎりました。

私がこんな形でここを訪ねることを想像したでありましょうか?

場所が以前にお話いたしました「父親のふるさと向島」に予想外に近かったのにも驚かされました。

「水の守り神武智丸」と書かれた文字がくっきりと読めるようになりました。

そして、5歳で別れた「よく知らない父親」とのご対面を実現したのです。

間違いなしに、これは父親「士良」の墓標そのものであります。

村の高齢の方(釣りを楽しんでいらっしゃった)に聞きました話では、
「最近、地味ではありますが、訪れる方が少しずつ増えています」
「先日も千葉県の大学教授が学生を連れてこられて、コンクリートのサンプルを持って帰られた。」
「あの戦争(第二次大戦)の最中にこのようなものが作られたのはロマンである」
 「昭和48年頃に滅却の話が出たが、補強して残したことが、今となっては良かった。」等など、、

 そこで、持参した「おにぎり」で昼食をしましてしばしの再会を楽しみながら、再度訪れる日を誓いつつ、場所を後にしました。

 帰り道、昭和23年8月34歳の若さで「結核(当時は不治の病)」で死んでいった父が「死ぬまで向島に帰れば元気になるかもしれない!」と言い続けて帰らぬ人になったと母から聞かされたのを思い出して、結局こんな形で帰っていたのだと納得いたしました。

 お父さん、お静かに、安らかに「お眠りください!」、安浦町の皆様に見守られながら50余年の歳月を「水の守り神」として活躍されていたのだと考えると「拍手」を送りたくなりました。又必ず参りますから、、、

 それでも、この漁港は姫路(詳しくは高砂市曽根町)の武智造船所跡「曽根ヨットハーバー」と姫路シーサイドゴルフ場の景観になんと似ていることか、すぐ隣に安浦ゴルフクラブが隣接しており「気味の悪いもの、、」を感じました。

合掌

[38]服部 明子さんからのコメント(2003年05月04日 23時32分02秒 ) パスワード
  

>「水の守り神武智丸」と書かれた文字がくっきりと読めるようになりました。

水の守り神でありお父さまの墓標でもあり
素晴らしい遺産になりましたね。

お父さまは死しても人のお役に立っていらっしゃる。
なんという誇りでございましょう!


安浦
やっと分かりました。
呉と三原の真ん中あたりですね。

三原は母方先祖の母親が沼田(ぬた)の出身だそうですから
よく出掛けてました。
思わぬ所で繋がりました・・・?・・・

向島もどこにあるか分かりませんでしたが
御蔭さまで尾道の近くというのが分かりました。

本当に「向島」に行けてたらお元気になられたのかも知れませんね。

安浦とはほんの少し離れているだけですね。
やっぱりお戻りになったのですね。
向島に戻れたという事ですね。

ものすごい御供養になっていますね。
お名もお作も残り、そして55年ぶりに御対面。
凄い感慨!

「心の宿題」をやっと終えたという事でございますね。
良うございました!
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月08日 14時18分14秒 ) パスワード
  

9月の日経に現代の地方豪族の1家として岡山の林原家が取り上げられていたそうでございますね。
現代に至るも資産16桁や17桁のようで
更に地元への貢献度も高く
豪族の御子孫としての面目躍如。

たいしたものでございますね。


記録として失礼ながらこちらにも書き込ませて頂きました。
[40]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月08日 16時17分16秒 ) パスワード
  

突然、失礼致します。

大分前に話題にのぼっていた、ドイツのピアノのことですが・・・・・・

べーゼンドルファー、べヒシュタイン以外で、ブリュートナー、グロトリアン等の有名なメーカーがあります。

日本べーゼンドルファー社では、ブリュートナーや、その他のメーカーのピアノも扱っています。アンティーク・ピアノもあって、アンティークのベーゼンドルファーは大変素晴らしい音色で、感激致しました。スクエア・ピアノやジラフ・ピアノ、フランスのプレイエル社の2台ピアノを1台にしてしまったというような珍しいものもありました。エラール(フランス)、スタインウェイのロール・ピアノ(鍵盤がえらい長い)等、どれでも演奏させて下さいます。
べーゼンドルファーは、本当に感動しますね。低音部が、素晴らしい。ピアノの枠は薄く、カーブは、他のメーカーのように板を丸めるのではなく、削るのだそうで、楽器全体を響かせるための工夫だそうです。
ブリュートナーは、他のメーカーのアリコートとは違い、高音部を4本弦にしているので、響きが面白いです。

べヒシュタインは、ユーロピアノというところで、いろいろ見ました。プレイエルやホフマン、ザウター等があります。アップライトなのにアクションをグランドと同じに作っている唯一のメーカー・シュタイングレーバーもありました。べヒシュタインの響板は、他のメーカーとは全く別の仕組みで、フレーム等の金属を鳴らさないようにしている唯一のメーカーです。指先に大変神経を使い、美しい音色を追求するのに最も適したピアノで、弾くのにそれはそれは神経を使います。ザッと気持ちのままに雑に弾くと、でこぼこと不ぞろいな音になってしまい、とても弾き難いので、べーゼンドルファーよりも扱い難いかもしれません。

それぞれにクセがあり、曲によっては不向きなものもあるかもしれません。
3台くらいあると理想的でしょうね。
その意味で、何でも弾けてしまえて便利なスタインウェイが、一番流布しているのではないでしょうか。スタインウェイはやはりいいですよ。

戦前というと、べヒシュタインかなあ、という気がします。なんとなくですけど・・・・・
[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月09日 00時39分44秒 ) パスワード
  

林原さま家<け>に来たドイツのピアノってどれだったのでしょうね。
幻のピアノ。


日経ビジネスに取り上げられた岡山の林原家
面目躍如。


私は子供の時についてた先生が
凄い大きな豪華な現代的なお屋敷(新築)にグランドピアノを持ち込んでて
大家さんは暗くて古〜い農家に住んでたのが印象に残ってます。
[42]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月09日 01時57分39秒 ) パスワード
  

林原さまのご邸宅にあったピアノはグランドだったのでしょうか。

べヒシュタインの7、80年前のもの(グランド)は、日本国内でもけっこう
見かけます。現役で素晴らしい音色を奏でています。べヒシュタインは大変長持ちするピアノで、オーバーホールすれば、ずっと使えるそうです。

弦の数、分からないですかね。普通、低音部は巻線で、中音部以上が各音3本ずつなのですが、高音域がもし4本だったら絶対ブリュートナーなのですが。

もし、アップライトで、音色の素晴らしさを誇っていたなら、グロトリアンかもしれません。べヒシュタインのアップライトも素晴らしいですが・・・(フジコ・へミングさんもリストがお得意なだけあって、べヒシュタインがお好きなようですが、アップライトでも充分素晴らしいと仰っているとか)

戦争で、ヨーロッパのピアノ・メーカー(ドイツのみでなく)は皆ダメージを受けたそうで、唯一スタインウェイだけがアメリカにあったので助かったとか。それで、戦後はスタインウェイが最も有名になり、日本でも重宝されているのです。でも、戦前は他のメーカーも沢山あり、スタインウェイよりも大きかった会社も多かったそうで、戦前の日本はべヒシュタイン等、ヨーロッパのピアノを輸入することの方が多かったのではないでしょうか。日本のディアパソンはべヒシュタインの影響を受けているメーカーですし。
[44]林原英祐さんからのコメント(2007年02月08日 15時22分26秒 ) パスワード


しばらくのご無沙汰です。

私の曾爺さん『比企福造』の謎々について、、、(贈られた写真が何かの声?)

 先日、比企の「モト」祖母さんの珍しい写真(明治初期)が出てきたと書きました。
 
 その時、比企知子さん(北海道在住、、で小生に比企の探索に火を付けた方)がついでにモト祖母さんの子供たち、、、「儀長爺さん」と「福造爺さん」の写真も同封して下さいました。

 弱冠20歳そこそこの和服(紋付)の似合った福造爺さん の写真が私に何かを語りかけている様で、、、

 私から数えて4代、私の母(比企禮)、その父(比企雅)、その父(比企福造)、、、
 私が、勝手に「御影比企一族の祖」として位置付けた方です。

 比企一族の中で、小生が比企に興味を持って、探索を開始した動機について書いた行がありますが、『祖父(比企雅)が姫路の地で無くなった時に、戒名に院殿号(福井の菩提寺から、、)が送られて来て、地元のお坊さんとの間で位牌に書き込むことでひと悶着ありました。、、、』

 その『院殿号』の元が、、、
 この『福造爺さん』であったのです。

 爺さんと言いましても、実際は明治18年に弱冠39歳で亡くなっているのですから少し変な言い回しになりますが、私から数えて4代も前の曾爺さんに当たる古い話ですから、『爺さん』としておきます。

 前置きはこの位にしまして、本題の『比企福造(ひきふくぞう)の謎々』に迫って参ります。


>何故?院殿号なのか?
 
 小生が始めてこの院殿号に出会ったのは、以前にも書きました、祖父比企雅が姫路市の大塩と言う塩田の町で亡くなった時(高校2年生ー17歳)でありました。それからずうっと『何故?何故?』が続いているのですから、約50年間(半世紀)の探索になる訳であります。
 親戚一同(私の母を含めて、、)皆が「合言葉」のように口にするのは、『福造爺さんは大変立派な方で、、、』と言う一言で語り伝えてきたようです。

 しかしながら、何が立派なのかが具体的に語られることがありません。

 だから、比企知子さんから送られてきた比企の系図らしきものに拝見した時、一番に調べたのはこの比企福造爺さんの行(くだり)でありました。
 鎌倉時代の「比企尼」や「比企能員」の話は福造爺さんへの興味のづっと後の話であったわけであります。

 話の筋を分かり易くするために、もう一度『比企系図』の比企福造の記事(小生の口語訳)を再掲します。

 読み易いように年表形式で列記します。(これは以前「比企一族(その2)越前比企物語」の[18]と[21]に書き込んだものと重複しています。)

             
● 弘化4年      (1847)  (福造1歳) 比企家7代当主『比企五郎左ヱ門榮信』の4男として生まれる。幼名朔輔 後に『福造』号を名乗る。
       *母は榮信の正室で津田弥太六の娘モト
       *モトは明治23年12月19日卒68歳 於清源寺 戒名『清壽院儀譽賢哲大姉』 

● 嘉永3年 6月4日 (1850) (福造4歳) 父、榮信(35歳)と死別している。(母モト婆さんは28歳で後家になった)その後、嫡男榮徴が幼かったため、本多多門左ヱ門二男を8代当主、『比企幸次郎榮貞(テルサダ)』を養子として迎えいれている。
       *榮貞は血統としては、比企5代当主比企佐左衛門榮脩(テルノブ)の4男(幼名三   十郎)が本多家に養子として入り、本多門左ヱ門を継いでいるので、『5代榮脩』の実孫に位置する。

● 嘉永5年 正月7日 (1852) (福造6歳) 養子8代榮貞も又、25歳の若さで他界している。(時に、母モト30歳)実子『比企家9代当主 比企他五郎榮徴(後名佐門)』は重なる不幸の為弱冠12歳で家督相続することになる。

  嫡子(幼少)『榮徴』が家督相続を許された時点での、越前比企家の家族構成は、、、、
  
  実母 比企モト(当時30歳)
  当主 比企他五郎榮徴(後佐門)(当時12歳)     1841年生
  3男 比企三五郎儀長(後佐門養子)(当時10歳)  1843年生
 ●4男 比企外五郎福造(後に別家扱い)(当時 6歳) 1847年生
  次男 虎五郎は加藤家に養子縁組(当時11歳)(加藤虎五郎信興号)

  ★祖母 先々代 榮庸の後妻 比企キン (当時62歳) 1789年生     
  ★義母 先代 榮貞の妻 比企リュウ (当時29歳)  1824年生
         *リュウは6代榮庸の娘で母はキン(横田作太夫の娘)
          −−−実の母娘関係
         *初婚は真田源五郎(5代榮脩3男:捨五郎が養子先の息          子:リュウの従兄弟)も…    
         *7代榮信(卒35歳)死去の時、後の9代榮徴幼少の           為、8代榮貞の養子縁組の流れを受けて「御家」の犠牲          になって協議離婚を強いられ8代榮貞の正室と成るも…          僅か2年間で榮貞と死別29歳の若さで後家となる。                        (母キンとの絆は強い) 




 比企外五郎福造 の成人後の年表

● 元治元年11月(1864) (福造18歳) 茂昭公、長州御征伐副将を仰せつかったに付、御供を命じられた。

● 慶応元年 2月 (1865) (福造19歳) 罷帰する(福井に帰った)
● 明治元年 9月 (1868) (福造22歳) 奥羽御征伐に付、会津地方へ罷越する。
● 明治2年 2月 (1869) (福造23歳) 罷帰する
● 明治3年    (1870) (福造24歳) 福井藩に於いて『3人扶持』で召し抱えられた。第2番遊撃隊に編入、藩兵を以て東京取締を仰せつかり、同月出発した。

● 明治4年11月2日 (1871) (福造25歳) 東京府取締組を仰せつかった。同月9日同組取締組小頭を仰せつかった。

● 明治5年5月14日 (1872) (福造26歳) 司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。

● 明治6年1月14日 (1873) (福造27歳) 1等巡査 兼逮部を仰せつかった。同年同月16日大分県出張を命じられた。3月6日御用済みにて帰京した。17日司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。5月18日一等巡査を仰せつかった。

● 明治7年1月10日 (1874) (福造28歳) 権少警部 1月22日 警視庁権少警部 2月22日 少警部 3月19日 一等功労金10円賜
  明治8年1月20日 (1875) (福造29歳) *権中警部に任じられる。12月8日 中警部に昇格する。

● 明治10年1月4日 (1877) (福造31歳) 権大警部に任じられる。1月15日 二等中警部 2月15日 九州地方に出張を命じられた。4月1日 陸軍中尉(征伐総督本営)兼二等中警部、、4月4日 別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)、5月16日 別働第三旅団歩兵第三大隊副官、8月1日 御用で帰京した。12月2日 権大警部(太政官)兼務を任じられた。

● 明治11年2月19日(1878) (福造32歳) 御用有り、鹿児島へ出張を命じられた。3月30日 二等警視補(太政官)を兼任、6月28日 今般、鹿児島の逆徒(注:西南の役)征伐の際、尽力その功少なからずに付…『叙勲五等』 金 500円を賜った。

● 明治12年1月19日(1879) (福造33歳) 御用済み(鹿児島警視出張所)にて帰京した。

● 明治13年1月17日(1880) (福造34歳) 一等警視補を兼任 2月12日 『従七位』(太政官)を叙す。3月、明治10年『九州騒乱(西南の役)』の際、出張軍務従軍の外、警察本務に服し勉励に候うに付『慰労手当金20円』を賜った。3月25日 後備軍躯員(太政官)を仰せつかった。

● 明治14年1月13日(1881) (福造35歳) 兼補八等出仕(陸軍省) 4月9日 陸軍憲兵大尉(太政官) 同日 東京憲兵分隊長(陸軍省)、4月22日 東京憲兵第四分隊長を仰せつかった。7月26日 『正七位』(太政官)に叙す。

● 明治16年8月21日(1883) (福造37歳) 私儀、嫡子『雅(マサシ)』誕生
12月15日 補東京憲兵隊第一大隊中隊長(陸軍省)、12月17日 東京憲兵第一大隊第一中隊附(陸軍省)を仰せつかった。

● 明治18年 3月19日(1885) (福造39歳) 本職を免じられた。『補東京憲兵隊第三大隊中隊長(陸軍省)』、『東京憲兵第一大隊第一中隊付(陸軍省)』、4月7日 叙『勲四等旭日小綬章』(太政官)を賜った。(39歳での高位叙勲である)、6月29日 本職を免じられた。『東京憲兵隊第二大隊長心得(陸軍省)』、7月20日 大阪に於いて、39歳という若さで死去している。

 戒名『神隆院殿福譽造本大居士』 墓地 福井清源寺(比企家菩提寺)
 『嫡子:雅(マサシ)』が数え『3歳』の時のことである。


 
 若干39歳の若さでこの世を去った『福造』の生涯は謎に包まれている。
そして、死後、比企家の菩提寺、清源寺より末代の『院殿号』が授けられている。

 越前比企家で最初の『院殿号』であることは、記録上も明らかであり、その意味する処が不透明であります。

 確かにいえる事は、鎌倉時代の比企家の謂れとは全く関係の無い『院殿号』であることは間違いの無い話だと思います。

 多分、福造個人の生き方の中にその理由があったと考えるのが妥当な線だと私は想像しています。 

 「死者に口無し!」の言葉が残された人々に一層の謎かけを呼んでいます。

 この『福造』さんは偉大な人であったことだけが、『御影比企家』の家族達全員に『院殿号』の拝受と共に語り伝えられて来たわけでありますが、、、


 『福造』が大阪で死去した!!』
 
 との連絡を東京で『妻タマ』が受けて、船で大阪に出向き『福造』の遺骨を取りに行くくだり、「タマ」27歳、長女「ツネ」5歳、長男「雅(まさし)」3歳、付添:「儀長」伯父)は悲惨な光景であっただろうと考えます。

 その辺りの様子が祖父(雅)の手紙(昭和30年1月28日付)の中に克明に書き残しているので、後程引用文として書きます。

 その前に、もう一度ここまでを整理しますと
  
比企家に語り伝えられている「福造」爺のこと

*「西南の役」で大きな功績を認められて勲4等旭日章(弱冠39歳)を賜った。
*福井の清源寺(比企家菩提寺)で末代の『院殿号』を約されている。(大きな寄付か?) 
*その経歴にかかわらず、詳細が残っていない。(意識的に消している感がある)
*昭和30年1月28日付の比企雅(東灘区魚崎町)…比企福造の息子…から比企元様(東京都中野区)…比企本家(比企忠氏の長男)宛の手紙のなかで…………
*昭和25年に『比企本家』が福井清源寺(比企菩提寺)から墓地を東京青山墓地に移すに際して…『青山墓地に比企福造の分骨埋葬の痕跡があるとの情報を得た…云々』の手紙が残っている。(比企雅の『比企元様』への返信手紙の形で書かれたもの)



手紙文の写(引用)
 
(前文)、略す…

先日、お手紙頂き内容拝見いたし実に驚きました。
 なにしろ、今日ではその時の事情を知っている関係者は全部他界後ですから、更に判りませんが私の聞き伝えておる所では、……

★ 私の父、福造は東京に住うて居て私も東京で生れましたが、私の2歳の時に東京から大阪の鎮台(戦前の第4師団の事でしょう)へ単独転任となって翌明治18年7月20日に大阪で病死?した訳です。
 
★ その当時、私の母(たま)は私の姉(明治19年福井にて病死)と私とを連れて船で東京から大阪へ来て、大阪で福井から『儀長伯父』(彰サンの父)と加藤伯父(比企家から加藤家へ養子に行った)との2人の伯父と落合って父福造の遺骨を持って直接、福井へ落ち着いた。

★ 大阪で葬送した事は確実で、その時、神式にて葬儀を営んだものらしく、神前に誅言(その時のノリト)も大阪神宮教會所の斎主少教正大野阿曽美氏及び、大原美能理氏によりて書かれたものが私の手元に残って居ります。


★ 東京へ分骨したと言う事は何も聞いていませんでしたが、もしお申し越しの様に比企福造としての墓地が青山にあったとか遺骨と言う箱があったとか言うことから考えると元様のお考えの様に『西南戦争』の功労者とか何とか言う事で…

★ 或いは東京へ分骨して納骨して居たのかも知れません。

★ 又或いは青山墓地が軍とか警視庁の合同墓地であったかもしれぬ等と言う考へも無駄ではないと思います。

★ 戦前に私が遊就館へ行って西南戦争の只一枚しかない想像油画につき説明を求めた時も何等の記録もないので説明が出来ぬ。これは警視庁の管轄時代のもので大震災で総ての記録がなくなって居て判らぬと言われた位で、とても此の墓地の記録も残って居りますまい。

★ 尚又、我々の此の事については少しも考えも及ばなかった事で全然無智の事ですから仕方ありません。もし、昭和18年まで台帳に在りながら無縁となった事は返す返すも惜しい事で七坪半もあったと言う墓地を失った事は実に残念千万と存じます。勿論、一度無縁と処理せられた以上、例え遺族が残っていて異議申し立てをしてもそれは取り上げない事と存じますがどんな物で しょうか、いずれにしても、こう言う事実が判った事については父福造の霊も浮かばれた事と存じます。

★ 尤も福井の清源寺に遺骨を納めて以来引続き供養回向はして来ましたし、昨年は私の戦後の宿望がかなって墓石も新しくして『シゲ』(注、雅の妻)と共に父の70回忌を懇ろに営んで来ましたので何の遺憾もないのですが、仰せの通り25年に元様が青山へ墓地を移されたために此の問題が判った訳で、さもなかったら暗から暗に葬られた事でしょう。

 これ全て墓地を新設されたためのお引合わせとしか思えず誠に有り難いことと存じ厚くお礼申し上げます。 ………………後略……………  以上が「雅」お爺さんの『手紙文』の抜粋です。

 
 話は少し逸れますが、、、

 @私は、この青山「分骨』論が大変気になっていました。
 病気で死んだ爺さん(福造)が例え「お上」に仕えていたとしても、分骨までして青山墓地に葬られるなど考えられないと思っていました。


 もう一つの疑問は、、、、

 Aもし仮に『青山共同墓地(軍と警察)』に殉職者扱いで手厚く葬って頂いているとしたら、何故親族にそのことを知らさなかったのか、、、、
 親族の誰一人としてその事を知らされず、もちろん『お参り』することもなく、今日まで過ぎ去ったということは「公に出来ないお上の事情(胸を張った死に方ではなかった。)があったのではと考えてしまします。

 とりあえず、今日はここまでを整理いたしました。
 続きは次回とします。

それでは、、、
[45]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月09日 01時58分56秒 ) パスワード

謎がますます深まりましたね。
政治が絡んでいたのなら闇を解明しなくてはいけないですから難しいですね。


でも良い御供養になりますよね。
今年の春のお彼岸は久し振りの良い機会ですね。


最近ベーゼンドーフのピアノを買ってくれ〜攻勢が凄いです。
その上の林原さまの書き込みで、
因縁めいてましたのよ。


もうあと少しですね。
いろいろ謎が解き明かされるといいですね。


「院殿号」なんて凄〜い!
これって殿様用ですものね。
[46]林原英祐さんからのコメント(2007年02月09日 06時21分16秒 ) パスワード



先に述べました、、、

 @福造爺さんの「遺骨」は本当に青山共同墓地(軍と警察)に殉職者として葬られていたのか?と言う疑問。

 Aもし、それが本当であれば、、何故今日まで、100年間以上もその事が遺族に明確に出来ない理由が何なのか?

 この二つの疑問が、比企の知子さんから頂戴した「福造爺」の凛々しい写真を見ていると頭から離れないのです。




 さて、少し変わりますが、小泉総理が安部総理に代わったので、靖国神社参拝問題が少し静かになりました。
 
 当時、我々の戦中世代は少しオドオドしながら、このことをこっそり勉強していました。

 最近はインターネットと言う、こっそり勉強には大変便利なものがありますから、ゴソゴソ触っていましたら、偶然の産物で「弥生神社」というものに」出会うことになりました。

 詳しくは、、、、

 弥生慰霊堂(やよい いれいどう)と言うものなのですが、、、
 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事のままの説明を引用しますと、

 「引用文」

 弥生慰霊堂(やよい いれいどう)

 西南戦争で出征して戦死した警察職員は東京招魂社(現靖国神社)に祀られたが、これを機会として当時の警視総監は警察消防活動など(戦前は消防は警察の管轄だった)で殉じた職員の英霊を慰霊するために、1885年(明治18年)10月に招魂社を創建したのが「弥生神社」の始まりである。

 この名称は本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町に創建されたことによるもので、最初に祀られたのは1871年(明治4年)以降の殉職者94柱及び特別功労者2柱の96柱であった。1887年(明治20年)11月に芝公園に遷座した。

 その後、1890年(明治23年)4月に警視庁鍛冶橋庁舎構内に、1911年(明治44年)4月に青山墓地内に遷座した。1931年(昭和6年)10月には麹町区(現千代田区)隼町に移った。

 戦前は警視庁が管理してきたが、戦後の「神道指令」により、神社を警視庁が管理し続けることができなくなってしまったために、1946年(昭和21年)10月に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会を結成した。

 1947年(昭和22年)10月に現在地の千代田区代官町に遷座した。現在地への遷座とともに名称を「弥生廟」と改めた。その後、1983年(昭和58年)9月に名称を「弥生慰霊堂」に改称し、「弥生廟奉賛会」の名も「弥生奉賛会」に改めると同時に、従来の神式の慰霊祭からいわゆる“無宗教”形式の慰霊祭に変更し、現在にいたっている。

以上が「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事」(原文のまま)なのですが、、、

 特にその中で下記の文章が眼に留まったのです。
 (記事7行目中段からの文章を再掲しますと、、、)

 1911年(明治44年)4月に青山墓地内に遷座した。1931年(昭和6年)10月には麹町区(現千代田区)隼町に移った。

 戦前は警視庁が管理してきたが、戦後の「神道指令」により、神社を警視庁が管理し続けることができなくなってしまったために、1946年(昭和21年)10月に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会を結成した。
 1947年(昭和22年)10月に現在地の千代田区代官町に遷座した。
                           、、、、、、、云々

 
 この内容は、「雅」爺さんが「元」伯父さんに書き残している。青山に軍と警視庁の共同墓地が存在していたことを証明しています。

 多分、墓地は「7坪半」とまで明確に「元」伯父が聞いたのですから、『西南の役』に関わる殉死者としての扱いで葬られていたのでありましょう。

 具体的には、死の前後にどのような事態が発生したかは分かりませんが、、
少なくとも、その青山の軍と警視庁の共同墓地に埋葬されたことが事実であれば、そのことで、逆に、お上(国家)に殉じた死を確信できることになります。

 又、そのことはここで言う『弥生慰霊堂(やよい いれいどう)』の関連の死ではなかったかと想像するのです。

  弥生慰霊堂と言えば 合祀者 特別功労者 川路利良大警視が中心的な重要人物です。

 福造爺はその成人後の年表に記した通り、警視庁関係、 陸軍中尉(征伐総督本営)、別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)、東京憲兵隊第一大隊中隊長(陸軍省)等を歴任しています。

 特に九州騒乱(西南の役)ではあの川路利良が率いる別働第三旅団の要職に付いており、何か『暗いもの?』を感じます。職務も何か『難しい?(特務機関)』のような者であったと想像しています。

 私の頭から離れない人物として、、、

 大久保利通と川路利良と中原尚雄の3名の名が浮かびます。

 この延長線の何処かに「福造爺」の存在を描いています。

 あの『西南の役』の勃発前夜の端書(前奏曲)を思い出してしまうのです。

 1876(明治9)年 12月末、大警視川路利良(一説に、大久保利通)は、警視庁警部ら20人を私学校探索とその勢力抑制の為に鹿児島に派遣しました。

 1877(明治10)年1月11日、中原尚雄警部らは、鹿児島に帰ってきました。

 1月下旬夜、政府派遣の三菱会社の赤竜丸は、鹿児島に入港し、密かに、陸軍省草牟田火薬庫から火薬・銃弾を運び出す。私学校生徒数人は、これを襲撃します。

 2月3日、私学校生徒らは、中原尚雄警部らを、西郷暗殺計画容疑で逮捕しました。

 2月5日、中原尚雄警部は、厳しい拷問の末に西郷暗殺計画の口述書をとられました。「シサツ」と発言したが、「視察」なのか「刺殺」なのか確認されませんでした。

 2月7日、西郷隆盛は、私学校の決起を押さえることが出来ず、県令大山綱良に率兵上京の決意を伝えました。ここに西南戦争が始まりました。

 この20数名(一説には60余名)の人たちは殆どが、その後解放されて明治政府の要職に付いたという話も漏れ承っています。

 大久保利通や川路利良が不振死を遂げるのもそのすぐ後だったと思います。

 このような歴史の大きな歯車が高速回転する真っ只中で、福造爺はどのように生き、どのように死んだのか、謎が深まるばかりです。

 小生(林原英祐)の想像ですが、比企福造が「大阪で病死」とありますが、前後の記録から考えて不自然に思えます。

 警視庁(憲兵隊)の上層部に配置され、西南戦争でも特務機関的な仕事に従事し、その功績が大きかったと記されていますが、本当に普通の病死であったかどうかは疑わしく思えます。

 『御国の為に…殉じた死が…』想像されてならない。

 その後の「若年叙勲」とか、「院殿号」とか、「青山の軍?、警視庁?墓地」とか、を考えると「ひょっとしたら…親戚の誰か…儀長伯父?妻比企たま?が内緒で聞かされた話があったのではないか??…その身内の人々も今は全て無き人たちばかりです。

 いずれにしても今となっては知る術もありません。  
 
 『死者に口無し!』の話の『謎』としておきます。        以上
 
 末尾になりますが、、、川路利良という日本の警察の創設者を参考までにご紹介しておきたいと思います。

川路 利良(かわじ としなが、1834年6月17日(天保5年5月11日) - 1879年(明治12年)10月13日)は、江戸時代後期の幕末から明治時代初期の警察官僚・陸軍軍人。
通称は正之進。雅号は黄泉。「としよし」と読むことも。
階級は大警視、陸軍少将(軍職を兼ねる)、位階勲等は正五位勲二等。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。
[編集] 生涯
薩摩藩与力の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村(現在の鹿児島市皆与志町)に生まれる。1864年の禁門の変で戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。明治維新後は警視庁大警視(のちの警視総監)となり、警察制度の確立に努めた。1872年には渡欧して各国の警察制度を視察し、帰国後はフランスの警察制度を参考にした警視庁の創設に努めた。
警察と警察官の在り方を示した川路の語録は後に「警察手眼(けいさつしゅげん)」として編纂され、警察精神の基本論語として今も警察官に広く語り継がれる。
西郷隆盛らの下野後は内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。西南戦争が起こる直前にも、西郷や不平士族の動向を、帰省を口実に密偵を現地に送り込み内偵と西郷側の内部分裂を図るなど、川路の主たる実力は一般的な警察力と言うよりは、専ら乱破の類を使用した情報収集や攪乱・乖離作戦の戦術に長けていた。
1877年1月、政府が薩摩の武器火薬を大阪へ移動を開始したことに激昴した西郷の私学校生徒らが暴動を起こし、これを発端に西南戦争が勃発。2月には、薩摩軍は川路が送り込んでいた密偵全員を捉えて拷問に近い取り調べを加え、川路が西郷隆盛を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られた。そのため、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。
開戦後、川路は警視庁巡査(警視隊)で編成された別動第3旅団の旅団長(陸軍少将)として九州を転戦、激戦となった3月の田原坂戦では警視隊による抜刀隊が活躍して薩摩軍を退け、5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、薩摩軍を退けて進軍するが、その後旅団長職を免じられ東京へ戻る。
終戦後の1878年1月、海外警察視察のために東京を発つ。しかし船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまう。咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなかった。同年8月24日郵船「ヤンセー」号に搭乗し、10月8日帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日にこの世を去る。享年46。関西の政商である藤田組が汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。
日本の近代警察制度の基礎を造った人物として評価されているが、「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として現在も郷土鹿児島では人気がない。1999年に当時の小野次郎本部長らの提唱で鹿児島県警察本部(鹿児島市)前に銅像が設置されるなど、ようやく地元でも再評価の段階に入りつつある。
現在の警視庁下谷警察署のあたりが川路邸であった。現在は同署の敷地内に邸宅跡の石碑が建っている。 また生誕の地には記念碑が、鹿児島県警本部前と川路が率いた別動第3旅団の激戦地である鹿児島県霧島市(旧横川町)内とには銅像が建っているほか、警視庁警察学校には彫塑家北村西望の作となる立像が建てられている。
その功績を称えられ、1885年(明治18年)に弥生神社(現弥生慰霊堂)に祀られた。
                                   以上




  多分、遺族に多大の報奨金とお見舞い(口止め)があって、そのお金がひっそりと「福井の清源寺」に奉納されたのでは、と勝手に想像しています。

 それが「院殿号」の謂れではないかと現実的な結論に到達しました。
  
  本当の事実関係は誰も知らない(死人に口無し!)話である訳です。

  歴史には、そのような不明なことが「半分」は常に存在すると思っています。

 福造爺さん!お叱りを受けるかも知れませんが、多分遠からず当たっているのではないでしょうか、、、

 又その内にどこかでお会いして、お聞きする機会もあるかも知れませんから、それまで大切に覚えておきます. 

     合唱

[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月09日 08時59分01秒 ) パスワード

>大久保利通と川路利良と中原尚雄の3名の名が浮かびます

すっごいお話に飛びましたね。驚

日本史の裏に埋もれてしまった御先祖さま。
何か物凄い秘密を抱いてこの世を去られたのでしょうか?

ネットの力でもう少しそこの事情が分かると良いですね。
[48]林原英祐さんからのコメント(2007年04月28日 12時39分58秒 ) パスワード

ご無沙汰致しております。

 5月の連休に入りましたが、今年から「家事手伝い」が本職になりましたので、実感がわきません。

 暇に任せて、インターネットをさわっていますと、キーワード『武智正次郎』で検索いたしました中に、、、、

[PDF]
英 知 の 結 晶 。 一 枚 の 写 真 。 存 在 す る と い う 事 実 。
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
ドである。現地である安浦漁港へいけば設置さ. れてからの事は分かるだろうが。 武智正次郎 ... 係の会社を創業しており特許工法による特殊工. 事を得意とした。 武智家はかなりの発明家だったらしい。 省線(今の ...
www.prominence.tv/~mikeneko/takechi.pdf - 補足結果 - 関連ページ


というPDFを発見しました。
その中に、以下に紹介します。小生の『一文』が引用紹介されていました。

 以前書きましたときに、『服部明子先生』にひょっとしたら、林原さんの書き込みが誰かの目に留まれば、それだけでも、、お父さんも喜ばれるし、林原さんの存在にも意味が出てくると励まされたのを思い出しました。

 そんなに興奮するほど、大したことでは無いのですが、、
 毎日静か過ぎる生活に慣れ親しんでいますとちょっとした事件であります。

 何時も、丁寧な受け答えで、伴奏して頂きます『服部先生』や「隅先生(林原のこと)」にご報告したくって、書き込みました。

 この筆者の方とは、ご連絡はついていないのですが、、、
 熱心な勉強家の方と勝手に推察し、ご尊敬の念でいっぱいです。

 父(士良)も、草葉の陰で喜んでいるでしょう。
 ありがとうございました。

 前置きはこの辺にしまして、、ご本人の文章を紹介させて頂きます。


 前文は省略します。(PDFを開いてください!)


 本文2頁からの写し、、、
 『
 一通り調べ尽くしたあと、どうしても建造に携わった人の詳細が知りたく検索項目に変更を加えついにその開発者の息子さんを探り当てた。

 検索にヒットしたのは山口県下関市にある彦島(船島=巌流島も行政区分はここの一部)の、平家BBS の記事『Click Times- 平家物語を熱く語る!! - 比企一族(その3) 御影比企物語』中にヒントはあった。

 なんとこの記事は、実際に建設に携わった林原士良氏の息子である英祐氏の書き込みであった。
僕はこの名文を読んで目頭が熱くなりました。

 このテキストは、あまりに多くの事象を包括しており魅力に満ちた文章であるが、論旨を明確にするためあえて、全文からコンクリート船についての該当箇所のみを以下引用してみる。

[以下引用文]

 神戸の六甲山に、日本で何番目かに古い『ケーブル・カー』があり。 その頂上駅にある『ケーブル』引き止め部の直ぐ下に『真鍮』で出来た「古い銘板」があり、良く見ないと分からない程度の文字で『フレザー商会』の名がある。 これが、御影比企家の当主(2代)『比企雅』の勤めていた会社である。

 例えば、尾道の向かえの『向島』の『江の奥』と言う谷には『林原』と言う『家』ばかりで、父の祖父の代以前から『庄屋』をしていた。だから「墓地」があんなに立派なのだ。
 又、その谷(江奥)から、当時、兄弟3人(省三:栄:士良)全て『大学』を卒業するなどは稀な事であった。等『田舎の自慢話』も随分聞かされた。

 父(士良)は広島の中学を出て、旧制の『大阪高等学校』を卒業後、大阪大学の工学部(造船科)を卒業し、三井造船(玉野造船所)に入社したそうである。

 その後、戦前は、満州鉄道の『大連造船所』に勤務していた。と母(禮)によく聞かされた。
 父母にとって『大連』は『スィートホーム』の地であったせいか、引き揚げる前の大連はそんなに悪い印象の地としては語らない。むしろ良い想い出として聞いた(何故か、仲代達也と新珠三千代の演じた『人間の条件』の中国の光景が頭に浮かぶ…)勿論、小生(英祐)は未だ生れていない昭和17年未明の話である。

 その後、昭和17年になってから、日本に引き揚げて『尼崎(立花)』で私が生れる。その頃、に父(士良)は、迫りくる『第二次世界大戦』を意識していたかどうかは別にして、播州姫路の海岸にある『塩業の町』大塩町で『武智造船所』を開くのである。

 後に聞かされた話であるが…武智さんは、私の同世代の方なら、『武智鉄二』(白日夢…ポルノ監督)を御存知と思うが、その方の『お父さん』が御影(芦屋)の大富豪で当時『造船王』とまで言われた方だったそうで、その方に『認められ』…海軍の造船所『武智造船所』を開設したそうです。

 父を知る『父の友人(故人)』や『伯父さん達(故人)』の話によれば、『頭がすばらしく良い人間』でそのため『ヤマ気』が多く、『一発屋的』な面が、沢山のエピソードを残しているそうです。(冗談半分に…生きて居なくて良かた!苦労させられていただろう。大金持ちになっているか?乞食をしているか?どちらかである。云々


 そういえば、少し前(昭和50年代後半)の話ですが、母の友人がNHKのテレビを見ていて『特集…浮体工法「関西新空港」』の中で、姫路(大塩町)の武智造船所が出てきていた。
その中で、戦前戦中に鉄材が不足してきた時に『コンクリート』の『タンカー』を研究していた『造船技師』がいて、何隻かの『コンクリートタンカー』を姫路で進水させている。
 現在調査しているが所在が掴めない。生存も定かでない等アナウンサーが言っていた。と…
 多分御主人のことだと思うという電話が入った。

 母から聞いて、感激して(少し大袈裟だが…)NHKのディレクターに電話して話を直にききました。

その時、母が密かに死んだ父から預かっていた『20枚程度のキャビネ版の白黒写真』をお送りして関係者にこれは貴重な資料だと感心されたのを覚えている。

 当時の海軍の造船所の中で『極秘裏』に進められた『秘密の計画(コンクリートタンカー)』は多分表沙汰になると処罰される計画だったと思う。にも関わらず、父(士良)が『造船技師魂』でどうしても『内緒』で写真を取って残したかった気持が伝わってきて、何かジーンとくるものを感じました。何となく、嬉しかった。そんな父が自慢でした。

 昭和23年8月4日に父は結核で亡くなっていますが、その後35年も経ってから、その写真が一度は表に出たのだから、それは素晴らしい事だとおもいます。

 母は(平成13年4月現在…86才)で存命ですが、残念ながら、その父の形見の写真は『結婚写真』と一緒に『阪神大震災』の時に家屋全壊で失ったそうです。それでも、私達の記憶のなかに立派に残っているのですから、良いと思います。

 私はこの『コンクリートタンカーの話』を戦中の全ての欠乏した中での『知恵の実例』として『語り伝える』つもりです。
 結局、関西新空港は『埋立て方式』で『浮体工法』は採用されませんでしたが、関西新空港を見る度、聞く度に『父(士良)』が蘇ります。


話は少し逸れますが、同窓会の翌日姫路に住んでいます友人を誘いまして、『姫路シーサイドゴルフ』(昔の塩田を廃田にして18ホールの立派なパブリックコースが出来ている)でゴルフに興じました。

 その時、の何番ホールか正確には覚えていないのですが、確かショートホールだった『テイーグランド』に立ったときの前景に「父の思い出の全て」である!『武智造船所跡』のヨットハーバーが登場したのです。

 前にも書きましたが、小生が5歳の時にお別れ(病死)した父親のことは事実関係で申しますと余り知らない!記憶に残っていないのですが、最近母方のご先祖(比企)様のことを『服部先生』のお陰を持ちまして勉強する機会を得まして、少し歴史、、、オセンチ(病気)がヒドク、その為か、その景色に釘付けにされたと言うお話であります。

 自宅に帰りまして、その景色が頭から離れず、インターネットの検索欄に「武智造船所」と思わず打ってしまいました。ここから今日のお話が始まります。

 父の故郷は広島県御調郡(みつきぐんと読む)向島町であります。
 父の霊が自分の造ったコンクリートタンカーに乗って里帰りしていたと言うお話です。

 広島県安芸郡音戸町は距離にして『70KM』程度、そこから100 余KM であの『平家物語』の「壇ノ浦」があります。少し神がかりなお話しになりましたね。広島駅で降りまして、呉線に乗り換え、呉駅を通過、三原に向かって6駅目の駅が私が目指した「安浦駅」でありました。

 近づいてまいります200m ほどの間に、瞬間でしたが、55年前の父親( 林原士良) の思いが頭をよぎりました。

 私がこんな形でここを訪ねることを想像したでありましょうか?
 場所が以前にお話いたしました「父親のふるさと向島」に予想外に近かったのにも驚かされました。

 「水の守り神武智丸」と書かれた文字がくっきりと読めるようになりました。
 そして、5歳で別れた「よく知らない父親」とのご対面を実現したのです。

 帰り道、昭和23年8月34歳の若さで「結核(当時は不治の病)」で死んでいった父が、
 
 「死ぬまで向島に帰れば元気になるかもしれない!」
 
 と言い続けて帰らぬ人になったと母から聞かされたのを思い出して、結局こんな形で帰っていたのだと納得いたしました。

 お父さん、お静かに、安らかに「お眠りください!」、安浦町の皆様に見守られながら50余年の歳月を「水の守り神」として活躍されていたのだと考えると「拍手」を送りたくなりました。
 又必ず参りますから、、、

 それでも、この漁港は姫路(詳しくは高砂市曽根町)の武智造船所跡「曽根ヨットハーバー」と姫路シーサイドゴルフ場の景観になんと似ていることか、すぐ隣に安浦ゴルフクラブが隣接しており「気味の悪いもの、、」を感じました。
合掌     (以上引用させていただきました。)

 武智丸よ  永遠に

 僕は林原氏の文中に出てくるお父様がお母様へ託された武智丸(軍事機密の!)写真、残念ながら阪神淡路大震災で壊失してしまった写真がみてみたかったです。
 またもし武智丸の工法がより深く知られていたならば、現在も沈降しつつある関西新空港は浮体工法で建設されたものと確信します。

 コンクリート船を追って僕は人生というものがドラマチックであることをひさびさに感じました。
 父と子の邂逅がこのような形で果たされるとは。また、鎌倉に発する比企一族の悲劇(実は埼玉が生んだ幻の名家)や源平の事、彦島に伝わる遺跡、日本のピラミッド、明治新政府の陰で動く英国の総合商社フレザー商会(フレーザ商会ともされる)など幾多の魅力的事象に出会いました。もっとしっかりした形にしたいのですがとりあえず皆様のお目にかけたく上梓した次第です。追加原稿出来次第追ってアップしていきます。短期間のアマチュアの検索による駄文ですが関係各位には、いまだ引用、リンク等の確認はとっておりませんが落ち着きましたらご連絡さしあげようとおもいます。

☆三毛猫☆8月14日60回目の終戦記念日を前に。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100227.html 比企物語3。林原氏の原稿。1、2もあります。

以上で紹介は終わります。
全く異なった世界の方がこんな形で、『平家物語を熱く、、、』の世界に、、
それだけでも素晴らしいことだと思いました。
感動です!
[49]林原さんからのコメント(2007年04月28日 13時01分51秒 ) パスワード


追伸
ご紹介のPDFの番地は以下が正しいと思います。

http://www.prominence.tv/~mikeneko/takechi.pdf#search= '%E6%AD%A6%E6%99%BA%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E9%83%8E'
[50]林原英祐さんからのコメント(2007年04月28日 13時20分09秒 ) パスワード

追伸の追伸(誤字訂正とお詫び)

 文中の、、、、『服部先生』や「隅先生(林原のこと)」の「隅先生」は『隈先生』が正しい。訂正とお詫びを申し上げます。お許し下さい!

 「間違いだらけの人生」ですわ!堪忍してください。
[51]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月28日 14時39分10秒 ) パスワード

林原英祐さま

PDFのファイルはわたくしのPCでは見られないのですが

良かったですね。

隈さんの御先祖さまは向島の御出身ですし
縁は不思議な上に本当に世界は小さいですね。


御影は関西では特別なエリアで
その御影比企家の面目躍如で
お父さまも草葉の蔭でお喜びでいらっしゃいましょう。


隈さんの御名字は珍しいですからね
  建築家の隈研吾氏がいらっしゃいますけど
うっかり「隅さん」と間違えてしまいますね。
[52]林原英祐さんからのコメント(2008年05月29日 19時14分19秒 ) パスワード

叔父さん(比企佐==御影比企雅の長男(母の兄)を超えられたでしょうか?

 しばしのご無沙汰です。

***比企の知子さんが比企本家(東京中野在住)の跡片付けを頼まれて、古い写真や書簡を整理していたら、『英ちゃん』の叔父さん(比企佐)が本家の『元』叔父さんに出した手紙が見つかりました。捨てるのも何か残念なので、『英ちゃん』に届けます。

*** 今から50年(約半世紀)前、「知子」さんの叔父さん(比企元)が私(英祐)の叔父さん(比企佐)に多分「同じ物(変体仮名で書かれた『比企系図』)」を送って、その小冊子を解読するために、比企佐が図書館通いをしている姿を想像しながら、、、

***まだ、インターネットが無かった時代に勤める会社にあった全国の電話番号帳を頼りに『比企』を検索しようとした叔父さん(比企佐)の思いつきの凄さに感心させられました。

***今から振り返って考えると、結果的に昭和45年4月に57歳の若さで持病の喘息の悪化でこの世を去った、、「旅立ち」を考えると、熱い思いが今に伝わってきます。

***『歴史(人生)は繰り返す!!』と云われていますが、、、今の私とコピーの様に同じ光景なのですが、間違い無しにインターネットの出現だけが変わっているのです。

原文のまま、、載せることにします。
『手紙引用文』

                                        昭和42年2月7日
比企元様                                        比企佐

(前略)
1、まず、現在までに発行されている書物による調査を始めています。
  やり始めて見ると、中々楽しく、いい道楽になりつつあります。家に帰ってもつまらないテレビを見ないで、本を見る様になりました。会社を抜けて、中ノ島の図書館に行っています。
  最もよく纏まっているものの写しを同封します。(姓氏家系大事典 太田亮著 角川書店)
2.大体系図が流行したのは近くは三代将軍、寛永の頃に大名に対し家系改めがあって大名は各々家系を書いたり作ったりして幕府に提出した。大名は大名で国元で自分の家来の家系改めをしたらしい。これに符合するが如く福井藩の比企の家系が始まっている。そしてそれ以前が切れているが、以後についてはこれは間違いなく信頼できる。
3、さて、家系図写しには能員以後の系統が弐系統(1つは初めから、、1つは秀長より、、)有りますが、これは福井の比企に伝はっていたものでしょうか、それに類する古書でもあったものでしょうか、、同封ゼロックスの三項に殆ど全く一致しているので不思議な気がします。
 それで、『重(あつし)−−三男』に聞いたところでは、お父上「忠」様と父「雅」が協力して比企について随分調べ未知の人にも手紙を出して照会したとかのことです。
 そこで考えられるのは、明治の初め以来又々流行した系図家系の関心で姓を名乗っただから当然のこととは思いますが、、、『忠』様のご調査の結果が学者に伝えられたか、或いは学者に依頼された調査結果を入手されたものか、この何れかによって前記の二系統が記入されているのか。
 つまりこの弐系統の系図が初めから福井の比企にあったものか、明治時代に(或いは大正)書き加えられたものかによってかんがえねばならないと思います。
 この弐系統は福井の比企が始まった頃より更に後代にわたり記入されています。最初からえらい疑問に行き当たりましたのでお教えください。

4、日本紋章学という大正15年に15円の定価の大きな本によりますと比企の紋は五三桐、三ツ星、剱花菱の三種類になっています。これと「左金輪巴」との関係はこれから勉強してみます。
5、比企を調べる肝心の『吾妻鏡』(鎌倉方公式記録)が入手出来ずに困っています。今発売の新訂増補国史大系(32.33巻)の吾妻鏡がありますが分売しないので入手出来ずです。
京都方の記録「愚管抄」は岩波の古典文学全集の中より入手しました。英語の商業文を読むよりむつかしいのですが、『能員』が殺されるところなど事細かに出ています。
6、比企藤内朝宗
 この人物は学者も能員との関係不明としているが一族である事は間違いないとしている。
 能員が上野・信濃の守護になっている頃、朝宗は越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の守護をしている。
 どの系図にもない。

 今のところ分からない事ばかり、さて何が判らないかが判らない状態です。
日本中の電話帳から比企姓を拾ってみます。幸い会社には全日本の殆どの電話帳がある様です。
全く、えらい道楽になりつつあります。ご教導下さい。         佐より

追)添付資料(古いゼロクス文書は読めないので、読める範囲で小生が書き直した)

[引用文]
    『姓氏家系大事典』 大田亮著(昭和38年版)
4961頁「比企」(ヒキ)
 武蔵國に比企郡あり、和名抄に日岐と註す、又相模に比企谷あり、その氏名より起る、比企氏は鎌倉依頼の大族なれば項を分って言うべし。

1、出自
 武蔵國比企郡より起り、秀郷の後にして、能貴を祖とすと云い、一説には小碓尊二十余餘世の斉健部他人上大國、延暦の頃武蔵介に任ぜられる。其の裔なりと。
 比企氏系図には「藤原姓にて家紋は花菱及び剣鳩酸草なり」と載せ、その太祖の由って出るところを記さず「判官能員は藤四郎と称し、比企入間高麗の郡を領し、故有りて建仁3年9月2日北条時政に誅せらる」と。東鑑に攄るに能員は四郎とも、藤四郎とも称す。永暦の初、頼朝配流の時、能員が姨母比企尼、その夫掃部允と同じく忠節を存し、治承4年まで20年の間、比企郡の田地を請所とし、世途をたすけしかば、頼朝志を得て後、其の覚え大方ならず、鹿のみならず、能員つねに呢近して勤労ひさしかりければ、建久元年上洛に際して右衛門尉に任じ、後又判官となり、頼朝崩じて後、子頼家・将軍宣下あり。能員が女若狭局これに仕えて、男女の子を産めり。去れば能員外戚として権勢益々盛んなり(新編風土記)と。又中興武家請系図に『比企・藤姓』と見ゅ。

2、氏人
 平家物語に比企藤次郎能員、また「比企藤内朝宗、同藤次郎能員」範頼に従いて平氏を攻む。又源平盛衰記に「比企藤内朝宗、同藤四郎能員」と載せ又比企藤四郎能定(三浦大介が家の子、云々)など見ゅ、、、(中略)、、、他に東鑑には、、、比企掃部允、比企四郎能員、比企藤内朝宗、比企藤次、比企右衛門尉、比企弥四郎、比企三郎、比企五郎等を挙げている。

3、後裔
 能員は建仁3年、頼家病にのぞみしとき、家督の事により、北条時政が一族を除かんとして、遂には殺され一族もあまた同じく滅亡せり。能員は一に義貞とも記す。
 建久五年の下には「右衛門尉義貞」に作る、義の字は能の字の誤なるべし。又系図によるに「能員が子四郎時員も、父と同じく自害せしが、{ }胎の婦人ありて民間に隠る。さて平産せしに男子なりければ、岩殿観音の別当・養育して児とす。成長の後上洛して、叔父・東寺の僧伯耆法印の圓顕に依りて順徳院北面の侍となる。後佐渡へ遺らせ玉ふに及んで、御跡を慕い奉り。越後に来たり寺泊に住す。其の子小太郎員長・始めは越後にありしが、叔母若狭局は頼家将軍の女竹の御所の老母たるに依り彼の御所の領地を、比企、吉見の二郡にさだめらるるに及んで、員長・其の縁族たるを以って、密かに越後より、当郡に移り住みし、文応2年2月2日卒す。
 是より右馬輔允満長、右衛門佐守長、小四郎之長、内匠助重長、藤次補榮、藤兵衛尉久榮(明応8年、武州広木大仏の城にて討死)、左馬助員信、佐馬助義次等、八代を経て世よ当郡に土着し、左馬助政員に至る。
 政員は上杉憲定(思うに朝定の誤りか、蓋し家蔵文書の内に憲定の判物ある故に誤記せしか)に仕えて、しばしば軍功をあらはし、感状数通を賜るといえども、戦争の紛れに失へりと。
されど上杉氏の宿老美濃入道三楽斎の文書を残す。これ等の文書により家譜と合せ考えるに、政員は天文中上杉朝定滅亡の後は、岩槻の城主大田三楽に属せしごとくにもみゆれば、上杉憲定と云うは全く上田憲定が文書あるより牽強せしにや。政員・三楽に仕えざる前の事実は伝を失ひしなるべし。されど三楽が文書に「進退のこと、資正請取る上は加在あるべからず」というによれば、恐らくは始め扇谷上杉へつかえし也。
 弘治年間、政員・上杉の使節として駿州今川義元がもとへ赴きし時、義元・猿楽を催してもてなし、且つ政員が馬を好むよしを聞いて、よき馬をあまたあつめて政員に見せしめけるとき、家康も駿府にありける時なれば、其の席へ出でしと云ふ。子の則員もまた父の名を継いで左馬助と称し、幼時より松山城主上田上野介がもとに倚頼す。これは資正入道・永禄年中、小田原北条氏の為に岩槻城をはなれし故、則員・松山へ移りしにや。天正年中常陸国筑波下にて真壁道無と合戦の時、及び下野國大平山にて皆川と合戦の時、二度まで鎗下の高名あり。其の後、永禄十五年に上田憲定が比企左馬助にあたえし所の書あり。思ふに此の左馬助は則員なるべし。されど上田上野介憲定は天正十三年の頃、家督を継ぎしなれば、永禄十五年と云ふは、信じがたし。蓋し此の書もと十五年丁亥とばかりありしを、年号の字を後人の書入れしものか。丁亥ならば天正十五年なるべし。若し永禄十五年ならば、元亀三年に当たれど、その年は壬申なれば干支符合せず。さて松山没落の後、則員・比企郡に蟄居せしを、越前中納言・聞き及び、慶長六年に召し出さんとしたれど、当所に引き籠って出でず。子次左衛門義久召し出だされて後、同十八年、家康・本多佐渡守に仰せて、巳に召出さるべかりしかど、かくして翌年に至り、病につきて辞しければ、やがて萬病圓百粒を賜へりと云ふ。恩春の程知るべし。元和二年三月十九日、年五十九にして没す。

その子次左衛門義久・慶長十六年、駿府へ至りし事あり。その頃、人の語るを聞くに、家康・春日下總守、同左衛門、松野摂津守等へ物語の次でに、昔今川義元・上杉の家人比企左馬助則員へ懇意をつくし、馬を揃えて見物せしめしことなど思い出し、かの則員は関東に武名あるものにて、その父左馬助政員も、しばしば軍功ありしものと聞きしが、今その子孫はいかがせしにやと尋ねけれど、下總守等しらざりければ、答を申上げざりしといえば、義久・残り多きことに思い、浜松へ行きて目安をささげければ、やがて召しいだされける。時に年十九歳、後に大阪二度の御陣にも従軍し、家光の時まで仕へ、寛永十九年八月八日没す。子藤左衛門重員・父につぎて仕へ、大御番をつとむ。其の子次左衛門久員・部屋住より大御番をつとめ、後に組頭となり、加増を賜ふ。子藤十郎稚久・家督の後、天和三年より大御番をつとめしが、栄中にて矢負鳥の虚言をかたりしこと、綱吉に聞え、糺明ありて追放せられけるより、民間に下りて後、祖先の実縁によりて当所に土着す。これより次郎四郎重久、藤五郎政久、藤四郎満久、玄仙員吉の四世をへて道作貞員に至る.(新編風土記)と云う。
 又「中山村実家は比企道作、今医を業とす。鎌倉将軍の頃、比企判官能員と聞こえしより、其の支流一旦御当家へ仕へ奉りしが、故ありて餘邑せられ、永く当所の民間に下れりと云ふ。道作は其の子孫なり。先祖能員より連綿せる系図を蔵す」と。又比企郡下伊草村の比企氏も、判官能員の庶流なりと云ふ。家に蔵する古き過去帳に「浄安居士・寛永十五年九月没す、俗名藤四郎」と。比企系図には此の人の沙汰なし。ただ岩槻より出せし文書一通を蔵す。是によれば天正十七年の頃、比企藤四郎といへる人、此の村の内、及び下足立慈林村の辺をも領せしと見ゆれば、実家にて世々ここに土着せしをしるべし。
 幕臣比企氏は家紋丸に割菱。紋譜帳には能員の紋を風折鳥帽子とす。又寛永系図に「建仁三年九月二日、能員誅せらるる時、胎内にありし子を彼の地にかくす。しかるに比企の岩殿観音堂の別当養育して子とす。建保六年、十七歳にして上洛し、順徳院につかへ、その後、越後国にいたりて十四代なり」と。

4、相模の比企氏
 鎌倉に比企谷あり、能員の邸宅のありし地にして、比企禅尼(頼朝の乳母)住あり。また東鑑に比企判官の女讃岐局など載せ、又同地の妙本寺は、能員の末男能本の開基と伝ふ。寺伝に「比企判官能員の第蹟なりしが、文永十一年、本行院日学・開基す。日学は比企能員の末男にて、大学三郎能本と号し、日蓮の俗弟子也。京に隠れ住し、後文士となりて、順徳帝に奉仕し、佐渡国の遷幸に供奉す。老後に至り、将軍頼経の夫人は能員の外孫なる故、その所縁を以って放免せられ、鎌倉に帰りて、竹御所の為に当寺を建立す」と。
 されど東鑑、建仁三年九月條に「能員の餘{ }等を探し求められ、或いは流刑、或いは死刑、多く以って糺{ }せらる。妻妾、並に二歳の男子等は好あるに依りて、和田左衛門尉義盛に預けて、安房国に配す」とあり。密かに上京せしものか。寺伝に云ふ所、事実と符合せざるが如し(新編相模風土記)。

5、源姓
 これも江戸幕臣にて、家紋丸に三ツ星、五三桐。寛政系譜に「喜左衛門勝信(佐右衛門)−伊太夫勝正」とあり。又未勘に、「長左衛門(儀左衛門)−権左衛門(小五郎)」とも見ゆ。

6、上野の比企氏
 群馬郡牟田に三角城あり、比企氏の領地と云ふ。

7、越前の比企氏
 東鑑、建久五年十二月條に「越前国志比庄、比企藤内朝宗の為に押領せらるるの山、領家の訴あり」云々と。

8、雑載
 島津氏の祖忠久は頼朝の子、比企藤判官能員の妹丹後の局の腹なりと伝ふ、島津條を見よ。東鑑、建仁三年の記に「九月二日、比企判官能員が討たれし時、同四日、島津左衛門尉忠久・大隈薩摩日向の守護職を収公せらる、能貞が{ }座故也」と。薩摩国厚地村花尾権現は頼朝と丹後局を祀る

以上、、、、ここまで引用(転記文ー昭和40年当時のゼロックス複写を拾読み転記した為、誤字脱字が多く読みにくいがご容赦あれ!)
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月30日 00時30分11秒 ) パスワード

林原英祐さま

大変な作業をありがとうございました。

昭和40年頃でしたら「青」いインクのでしょうか?
乾式じゃなくて湿式の。
本当に大変でしたね。


昭和45年4月に57歳で、ということは
大正生まれでいらっしゃいますね。
おない年の方で、まだご存命のかたもいらっしゃる年齢ですね。


>群馬郡牟田に三角城あり、比企氏の領地と云ふ。

昨日ひょんなことからヨソのサイトで「三角」という名を目にして「?」と引っ掛かっておりました。
不思議な御縁です。


御先祖さまの物凄い想いが伝わりますね。
御先祖さまが御子孫の幸せを願う想いが伝わり涙が出ます。
でもこうして御先祖さまが慕われてお喜びになっていらっしゃるのが分り
やはり家系については子孫に伝えるべきというのが改めて思われます。

改めてありがとうございました。ぺこり
[54]☆三毛猫☆さんからのコメント(2008年11月03日 01時43分09秒 ) パスワード

こちらに直接書いてしまっていいものか逡巡いたしましたが、ほかに手だてを思いつかなかったので書き込みいたします。

コンクリート船武智丸の件で林原英祐さんと連絡を取りたいと考えております。
現在SNSのミクシーに活動拠点を移しております。
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=4791519
武智丸のコミニュティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1104181
☆三毛猫☆
[55]林原英祐さんからのコメント(2009年01月26日 10時43分41秒 ) パスワード

2009(平成21年)1月13日午後2時38分
 林原禮(旧姓比企)逝く、、、享年95歳

 在りし日を偲び、、『比企筋ロマン、、番外「女系比企物語」』を再掲します。


心経(観自在菩薩、、、)
 先日、比企の知子さん(北海道在住)に皆様の大切な御祖母ちゃん(先輩)のことを整理してお送り致しました。
 その節の結びに、比企の有名な猛女たちのことをよくもここまで勉強しましたね!とお褒め頂きました。
 応えて、小生が申しました。「あの世」でお会いして、其の後の修正をして頂けるのが楽しみだ!でも、こちらはこれだけ沢山の御祖母ちゃんのことを知っているのに、お会いした時に、御祖母ちゃん達に『貴方,誰あれ?』と言われるかも知れない?と申しますと、、、
 知子さんが笑いながら、、「あの世の御祖母ちゃんは全て、お見通しですよ!」
と笑っていらっしゃいました。(英ちゃんと向こうから声を掛けて下さるそうです!)
 「禮」祖母ちゃんには大分予習させましたから、、迷わずに、御祖母ちゃん達の懐に飛び込んで行けるでしょう。
 多分、良く頑張ったね!と苦労を労って下さいますでしょう。    合掌
                             林原英祐


比企筋ロマン(番外:女系比企物語)

はじめに

ずうっと昔、小生(禮の次男:英祐)が学校を卒業して会社に勤め始めた頃の話なのですが、
 
 故有って、比企の姓(母方)を名乗っていました。

 工場で現場実習をしていた私に声をかける方が現れました。
 「比企さん!」「貴方の家は『女系』ではありませんか?」と聞かれて驚かされたのを覚えています。 その方は歴史の勉強に熱心な、確か『木村さん』と言われる方だったと記憶しているのですが、余りにも突然の事で印象が強烈で今でも忘れられません。

 小生の比企筋への関わりはその日にインプットされ目覚めたと思っています。
 そして、その枕詞は確かに『女系』と言う響きの有る言葉でありました。
 その方(木村さん)の表現を借りれば、、、「女系ゆえに、全国のタウンページに比企姓は拡がらなかった!」と妙なことを呟かれたのですが、、、、

 その程度の話題でその方とはお別れ(すれ違い)してしまったのでございます。
 若干22歳のころの小生に「受け止める感性」が無かったのでしょう。
 そのインプットが40年も経ってから『天の声』として聞こえてきたのですから、学習と言うものの不思議な力を感じます。

 私が『主観的な歴史観』にことさら拘るのは、この不思議さに囚われているのだと思います。



T、女系(そのT)、、、入り嫁達の駅伝レース
 
 鎌倉比企家が『女系』であると歴史家に言われた!
、、、と書き出したレポート(鎌倉を騒がせた5人の娘たち)がありますが、その後、越前比企家にその伝統がどのように伝わったかを探索することが、小生のロマンでありました。
 
そして、結果として『家風:後家猛女』らしきものの流れを検証しました。
その代表選手として、ベストEを以下に上げて、『女系比企一族』の謎の『件(くだり)』にしたいとおもいます。
 
前に、『女紋』の話を述べましたが、『比企家』への「入り嫁」が血筋(ハ−ド)とは関係無しに、嫁ぎ先で家風(ソフト)に染まるなどは、現代にあっても、『貴重な教訓』に思えてなりません。
 
 今日のコンピュ−タ−社会(全盛期)にありましても、ハ−ドは恐しいまでに発達しましたが、それを補完するソフトの遅れが『漫画的』に浮き上がって来ております中で、比企家の入り嫁(猛女達)の奮闘は教示的で意味深い物を感じさせると考えます。
 
 鎌倉時代から伝わる『比企尼』の話、『松下禅尼』の話等は比企一族の血筋の中にある話でありましたが、越前福井の比企家の話は、入り嫁達(他人)の話であります。
 
 そして、私が少しひいき目にE代比企尼とした林原禮(小生の母)は御影比企家(比企雅)の嫡女の話であり、その『禮』と共に、女系が絶えるという話は皮肉な落ちの着いたお話です。
 
 何か、鎌倉中期の『竹御所』の悲話を思い出すような話ですが、多分『血筋(ハ−ド)』は絶えるが、お婆ちゃま達が残した『家風(ソフト)』は「とこしえに…」生き続けると信じます。
 
そして、少し飛躍した話になりますが、最近問題になっています『東洋』対『西洋(アングロサクソン)』の対立軸でいいますと、唯一東洋が勝利するのはそのような『ソフトの継承』技術であると思えてなりません。(味噌汁の味!と云われた方が居ましたが?)
 
 わが国で永く虐げられ続けてきました女性の勇者の皆様、、、
地下に潜った『比企筋』の血が『女紋』のようにして、生き続ける話は楽しいと思いませんか?
 
 隣の家で、そして街角で『比企尼』の『猛女』達に出会う時、鎌倉時代から永く引継がれた我が国の文化そのものを感じ『誇り』に思えませんか?
 
 私は、戦後(比企の乱)800年〔西暦2003年〕の比企残党の戦いを感じるのです。そして、その事が歴史そのものであると考えています。
 
イメ−ジとして、薩摩の国から『サツマ芋』を代用食にしながら、青年達を送り出した水飲み百姓の家族愛に勝るものは無いと思い続けています。(明治維新にあった話…)
 
最後になりますが、、、越前福井『比企家』の比企尼E名の駅伝レース(タスキ渡し)
 
●初代越前比企尼『リヨ』(1697〜1773)享年76歳…生田十左エ門の娘      
 『3代比企佐左衛門榮搶の後妻』…心光院常譽妙照大姉

 先妻『リノ』が1歳の乳飲み子(4代榮禎)を残し19歳の若さで他界します。先妻の実家でありました鈴木家は松平藩の重臣(家老450石)の出で、苦心の策として鈴木家の親戚筋の生田家から、一度『鈴木家』に養女に入れてから『比企家』の後添えとして、、、入っています。
後妻『リヨ』の役割は、嫁いだその時から嫡男『榮禎(1歳)』の養育が待っていたのであります。
 
 私はこの『後妻リヨ』は『乳母』のような存在の人で、まさに『比企尼』そのものであったと考えてなりません。
 3代「榮搶」が47歳という比較的、若死であったことを考えますと、『後妻リヨ』の比企家に於いて果たした役割は大変なものであったと推察することができます。
 手塩にかけて育て、成人した「榮禎」の嫁を自分の実家である『生田家』から輿入れさせているは、何か女らしい物言いのようにも思えてならない。
 
●二代越前比企尼『チヨ』(1754〜1834)享年75歳…筒井仁右ヱ門の娘
 『5代比企佐左衛門榮脩の後妻』…専求院清譽白法大姉

 先妻『ツル』は鈴木亦吉〔重臣鈴木家〕の娘であったが婚前死のため、実質的には『チヨ』が名実ともに正室として迎えられたということです。
 
『チヨ』は後の「6代榮庸(越前比企家の最高峰)」の実母であり、その嫁『キン(3代尼)』を育てた姑であります。
 
 『チヨ』は「亀之助(後の6代榮庸)」と『捨五郎(後の真田源五郎幸孝)』と「三十郎(後の本多門左エ門)」の3名の男子と菅沼平兵衛室『ナヲ』を産み、育てています。                              
 
 子宝に恵まれた『比企尼』であったと考える。特に『榮庸』の母としての評価は高いと思います。
 『捨五郎』をあの『真田家』へ、『三十郎』をあの『本多家』へ養子にに出しているのも立派なものだと思います。
 ここで、少し気残りなのは、、、
 この菅沼平兵衛の室『ナヲ』という人が、何か大変な人(???)であったのではと思えてならないことです。
 特に根拠の無い話なのですが、テレパシーのようなものが、ビンビンと伝わってきます。気になって仕方の無い一人であります。
 
●三代越前比企尼『キン』(1789〜1870)享年81歳…横田作太夫の娘
  『6代比企佐左ヱ門榮庸の後妻』…智照院光譽妙貞大姉

 福井松平藩の重臣『横田家』から『比企家』に後妻として嫁いだのですが、嫡男『榮信』を35歳の若さで失い、『跡目相続』で活躍することになります。
 
 養子『8代比企幸次郎栄貞』(先代の孫)の相続に成功しますが、『栄貞』も25歳で病死することになります。
 不幸の連続の中で、『7代栄信の妻』…『モト』に思いを託し、孫『9代栄徴』の養育に全てを掛けます。
 
『榮貞』(キンの養子)の死亡時点での、、、
 『キン』(当時62歳)の取り巻き…
 ★3人の娘達 @嫡男『榮信』の後家『モト』(当時30歳)
        A8代榮貞の室(キンの実娘)後家『リュウ』
                      (当時29歳)
        B鈴木主税重榮の妻(キンの実娘)『ジュン』
                      (当時30歳)
 ★3人の孫達 @9代当主『榮徴』(当時12歳)
        A10代『儀長』(当時10歳)
        B別家『福造』(当時6歳)
 
 明治維新の松平春嶽の片腕といわれた『鈴木主税重榮』の妻『ジュン』(キンの嫡女)の事が知りたいのですが、記録が残っていません。
残念でなりません。
 
●四代越前比企尼『モト』(1822〜1890)享年68歳…津田弥太六の娘
   『七代比企五郎左ヱ門榮信の室』…清壽院儀譽賢哲大姉

 上記の家族『後家キン一家』の後継者は自然な形で『キン』から『モト』に移って行きました。
 
『モト』の苦労は、嫡男『榮徴』の養育と次男(加藤家養子)と三男(儀長)、四男(福造)の養育でありました。男子4名の子育ては並大抵ではなかったかと創造されます。
 
『モト』婆さんが『嫡男(榮徴)』を49歳(比較的若死に)で失うのですが、その時点での「モト」67歳で次男儀長47歳が相続します。
 
 1889年(明治22年)のことであります。その当時の福井比企家の家族構成は、、、
 後家『モト』67歳を中心に、家長(次男)『儀長』(47歳)妻『サダ』37歳、後家『先代榮徴の妻(サミ)』42歳、後家『別家比企福造の妻(タマ)』42歳と、、、、
 
子供たち(従兄弟たち)
『忠』(9代榮徴の嫡男)23歳、『彰』(10代『儀長』の嫡男)5歳、『雅』(別家福造の嫡男)6歳のいとこ達が同居していたそうです。
 
 そして、『タマ』が中心的な後継者になっていくのです。
 『モト』婆さんは若くして、名誉の死をとげた『別家福造』の妻、『タマ』が『不憫で、、』、気になって仕方が無かったと想像されます。
 
●五代越前比企尼『タマ』(1857〜1929)享年72歳…中川一歸の六女
   『別家:比企外五郎福造の室』…淑芳院殿明譽玉成大姉
 
 私の実母の『禮』の敬愛する「お婆ちゃん」は、この『たま』婆さんであります。
 実際は「禮」は3代「モト」婆さんと瓜二つの人生を送ることになったのですが、「たま」婆さんを通じて伝わるものがあったのでしょうか、とにかく「たま」婆さんの大ファンでありました。
 
 前節で「たま」の姪(中川稔子)について、「禮」の独り言を書きましたが、私はこの「稔子」婆さんの壮絶な生き方がこよなく好きです。
 考えてみたら、実質的にこの「稔子」婆さんの母親的(伯母さん)な存在が「たま」婆さんであったことが今回始めて、私の知るところになったわけで、感激であります。
 
「稔子」(私たちは通称『別府のお婆ちゃん!』と呼ぶ)の存在は「鎌倉の比企尼」そのものの面影を残す話であります。
 
 仏教的な表現になるが、別府で独り旅立った(死去)とき、片付けにいった「仏様」の脇に萩焼の名器「田原陶兵衛」が一人分(自分が使っていたものらしい)が石炭箱の中に入れて、ひっそりと置いてあった等は、余りにも「美しい話」ではないかと思えます。
 
 母の口癖に、「中川家」は越前福井松平藩では比企の上席の家柄であったと言っていたが、何か、「稔子(別府の)お婆ちゃん」にノックアウトされた感じですね!! 
 すばらしい『品位』のある話に接して、心が洗われる気持ちがいたします。
 
 比企系図に出てこない『アングラ』な中川稔子婆ちゃん(失礼、上野稔子)に拍手喝采であります。
 そして「たま」婆さんはその事一つを取り上げても、すばらしい『5代比企尼』に相応しい人であります。
 
 
●六代(番外)越前比企尼『禮』(1915〜2009)享年95歳…比企雅の嫡女
         『林原士良の妻』      …
 
 私の母親で、既に『主演女優賞』の人〔別記しましたので、、、〕ですので省略します。
 
MEMO(猛女婆さん達)
               享年『タスキ』期間『後家』暦    記事 
初代越前の比企尼、『リヨ』婆さん
      (1697〜1773)  76歳(19年間)  42年間  先妻の乳飲み子(榮禎)
二代越前の比企尼、『チヨ』婆さん
      (1754〜1834)  75歳(45年間)  18年間  5代榮庸を手塩にかけて
三代越前の比企尼、『キン』婆さん
      (1789〜1870)  81歳(48年間)  23年間  実子『榮信』35歳で死去
四代越前の比企尼、『モト』婆さん
      (1822〜1890)  68歳(33年間)  40年間  主人「榮信」と35歳死別
五代御影の比企尼、『タマ』婆さん
      (1857〜1929)  72歳(14年間)  45年間  主人「福造」と39歳死別
六代御影の比企尼、『禮』婆さん
      (1915〜2009)  95歳(   )  60年間  主人「士良」と34歳死別
以上
共通して言えることは、、、
 @長寿であること。A後家暦が長いこと『尼』。B子育てに専念したこと。C主人と若く死別していること。D駅伝レースのように、タスキが繋がっていること。など、、、


 U、女系(その2)、、、嫡女たちの奮闘(支え)

 『比企家』が女系で世継ぎに恵まれず、永い間常に「御家」が絶えることの危機に晒されてきたとすれば、神(もし存在すれば、、、)が、助け舟をだして「嫡女」の名に相応しい女性を「はめ込むこと」も又、忘れなかったのでは?と言うのが、私のひいき目にみた『歴史の仮説』なのです。
 
 以前、比企家の不思議「女系」を女紋の話など引用しながら、入り嫁達の話として、6名の代表的な「比企尼」の存在を上げてお話を締めくくりました。
 
 「系図」などに記事として残ります記録は「入り嫁」のことは比較的詳しく残っているのですが、比企家の実娘たちの話は、他家に嫁ぐことを最後に記録から消えてしまいます。
 
 ところが、何度も目を通していますと、その少ない「他家」の寂しい姓『二文字』の中に何かを言いたげな重みを感じるのです。
 そこで、残された嫁ぎ先「二文字」を頼りに、想像も加えながら推理小説を書くことにいたしました。
 
 まず『九人の比企娘』を選ぶことにしました。
 
@初代比企義重の嫡女『山原傳左エ門友勝の室(名前不詳)』(1636~1689)卒齢53歳
 
 山原傳左エ門友勝の父は山原勘右エ門友政と言い、戦国時代『織田信長』『豊臣秀吉』の家臣であった「長谷川藤五郎秀一」の槍持を務めた家柄で、その誼で『藤五郎秀一』の実姉を妻としていた。
 
 「傳左エ門友勝」は「長谷川藤五郎秀一」の甥(姉の子)ということになります。
 
 その妻として、比企義重の嫡女(其)が嫁いでいたことが、後に二代越前比企家の世継(養子)を成功させることになる。それは後のことで、その段階では知る由も無い事でした。
 
 この『山原家』の次男(四郎兵衛榮翦)が二代越前比企家の当主(養子)となります。
 
A初代比企義重の次女『高塚甚兵衛の室(名前不詳)』(1646~1666)卒齢21歳
 
 高塚甚兵衛の妻になった『義重』の次女は嫁いで直ぐに『娘』を産む事にになるが、「乳飲み子」を残して、若干21歳で若死にする事になります。
 
 その残された娘(其)が後に二代比企四郎兵衛榮翦(養子)の正室に迎えられるのですが、多分『山原家』に嫁いだ『姉(叔母)』が早く母に死別した『姪』のことを不憫に思い、何くれと無く、世話をしていたのであろうと想像します。
 
 だから、『榮翦』と「高塚の姫」とは兄弟のように育った「幼馴染」(従兄妹同士)で自然な形で「言い名づけ」のような『縁』につながっていったと考えるのが妥当でしょう。
 
 この二人(『榮翦』と「高塚の姫」)の間に三代『比企榮禎』が産まれたときは越前比企家にとってこの上無い最高の状態であったと思います。

 特に、山原家に嫁いだ友勝の室にとっては高塚家へ嫁いで若くして(21歳)1歳の幼女を残して旅立った実妹のことを考えると感慨無量のものがあったと思います。
 
 多分、21歳で『幼子』を後に『想い』を残しながらこの世を後にした『母の想い』が適えられたのだろうと思いたい。
 
B二代比企四郎兵衛榮翦の嫡女『堀庄左エ門の室(レン)』(1686~1770)卒齢84歳
 
 二代比企榮翦には「比企榮禎」と言う世継に恵まれたことはもとより、84歳と言う長寿に恵まれた『レン』と言う嫡女がいた。
 この娘の嫁ぎ先「堀家」に私は興味を持っています。
 
 と申しますのは、以前、越前比企物語の最後に書きました1677年(延宝5)、「初代比企義重」の嫡男『藤四郎』の板取駅(宿)での自害(不審死)についてです。
 
 私は、松平直堅(権蔵)騒動の犠牲と断じたのですが、真偽の程は分かりません。全て歴史の謎であります。そのときの犠牲者の一人に『堀十兵衛』と言う人が登場するのですが(史実)、、、
 
 堀十兵衛は時の藩主(光通)の命で「直堅」の説得に当たるのですが失敗して、今宿の地で『腹を切ってしまいます!』
 その「堀十兵衛」の孫がこの『堀庄左エ門』だと思います。以前から「比企家」と「堀家」は親戚の間柄であったと推察されます。
 (私の祖母[比企雅の妻]シゲも堀家の出です)
 
C三代比企榮搶の嫡女『加藤所左エ門の室(ミヤ)』(1719~1782) 卒齢63歳
 
 ものの本によれば、、、、曽祖父・加藤宇之助重成は肥後守清正の父・弾正右衛門兵衛清忠の弟。重成の孫・内蔵助重政は加藤家改易後の寛永15年(1638)、三代・忠昌に召しだされるが、越前に赴く道中病死し、子の『重直』が替わって召しだされたとあります。
 
 その名を「加藤所左エ門重直」と記されてあります。
 
 多分この「比企榮搶」の娘『ミヤ』の婿「加藤所左エ門」は上記「加藤所左エ門重直」の子になると考えます。
 
 *七代比企榮信の次男『虎五郎』が加藤文太(福井士族)の養子になっている(明治11年)加藤虎五郎信興と号す。
 
D五代比企榮脩の嫡女『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』(1790~1845) 卒齢55歳
 
 実は、夢枕に立つ女性は、この『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』と言う人です。何故か解かりません。
 
 先日、仕事の関係で随分社会的には地位の高い人で「菅沼」姓の方にお会いしました。おもわず「貴方の故郷は福井ではありませんか?」と聞いてしまいました。
 
 実はその方は『お父さん』を戦争で亡くされ。お母さんとご苦労されながら、今日大成された方で、ご本人は京都ですとおっしゃっていらしゃいましたが、、小生はほとんど病気と言う感じです。聞かれたご本人は変な気持ちになられたのではと少し心配です。
 
 「北陸歴史ねっと」にも参加することに致しました。ひょっとしたら、『菅沼』さんが連絡をくれるかもしれませんから。
 
 お寺は『花蔵寺』と書いてありますが、福井の方にお聞きしますと、本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?
 
 実は平成13年12月25日に足羽1丁目の臨済宗妙心寺派の華蔵寺の山内御住職様から頂戴しました「お便り」によりますれば、『当寺の檀家にお問い合わせの「門野家」「菅沼家」はあります。  御子孫もご存命です』とありました。
 
 多分、この『菅沼』さんは実在する方であると信じます。だって『テレパシー』のようなものが迫ってくるのですから、、、
 
E六代比企榮庸の嫡女『鈴木主税重榮の室(ジュン)』(1822~????)卒齢不詳
 
 鈴木主税重榮は余りにも有名です。「橋本左内(安政の大獄で刑死)」の産みの親とされる越前松平藩の家老職であった鈴木家は比企家12代に渡る江戸時代の系図に4度も姻戚関係として登場してきます。
 
 「横田家」「生田家」なども縁者だと推察されます。
 
 お寺は「孝顕寺」が菩提寺です。
 
 *孝顕寺の住職の便りでは、「主税重榮」の直ぐ横に『女;蝶子の墓』と言うお墓があると言われていましたが、娘(普通、女とは娘のことを言う)とはいったい誰なのか、『ジュン』の痕跡を探す旅に出たい心境です。
 
 世直神社の世話人「山方典和」さんの便りによれば、鈴木主税重榮の子孫は養子「福井藩士雨森藤四郎の弟鈴木傳之丞重徳(若死)と実子小太郎重弘(相続)、そして実孫鈴木薫さん」、といわれていました。
 
 しかし、御子孫も絶え現在はいらっしゃらないと言われていました。
 
F六代比企榮庸の次女『真田源五郎の室(リュウ)』(1824~1887) 卒齢63歳
 
 ものの本によれば、、、「真田五郎兵衛信正」のことを、父は真田弾正忠幸隆の次男・兵部大輔昌輝。
 
 昌輝は天正3年、長篠の戦で戦死し、当時2歳であった信正は叔父・安房守昌幸に養育された。信正は慶長16年、松平上総介忠輝に7百石で仕えるも、断絶により浪人。
 
 元和4年、三代松平忠昌に召しだされた。と、、、
 
 b間違いなしに、あの『真田家』であります。
 
 ところが、この『リュウ』は故有りの和順離縁をして里(比企)に帰っています。
 
 比企家の大事(七代比企榮信の若死による世継ぎ問題)により『御家』の犠牲になり8代比企榮貞の正室(再婚)として、役割を果たすことになります。 
 
 しかし、その八代当主「榮貞」も25歳で死んでしまいます。
 しかし、必死で御家の為に一生を捧げる「リュウ」に打たれるものを感じます。これが比企家の娘たちの家風であると思えるからです。
 
G九代比企榮徴の嫡女『比企榮(シゲ)』(1878~1945)終戦行方不明没 67歳
 
 この人は、越前比企家が仕事(サラリーマン)の関係で「東京」と「御影」に別れて出て行ったとき「戦前(第二次世界大戦)」のことですが、一人残って「比企の屋敷」と「菩提寺(清源寺)」の墓守を志した『女傑』だと聞いていますが、
 
 結論から申しますと、、福井空襲の時に一人「福井の家」を守りながら、行方不明になられたと聞いています。記録によれば、昭和20年7月19日空襲で行方不明死亡届を受理(認定)してもらったと書かれてあります。
 
 遺品を清源寺に葬り、祭ったとあります。
 
 今回の私の探索で福井市の教徳寺からのお便りによれば、先々代の住職(現在の住職の祖父)の時代、住職は昭和17年に亡くなられたそうですが、、その時代(戦前)に永代経帳に「比企榮(シゲ)」の名前で『拾円』の寄贈が書き込まれてあります。御連絡して頂きました。
 
 当寺としては稀な記録でありますので気が付きました。
 当時の額では「相当高額な金額です」と書いてこられました。
 
 考えてみましたら、行方不明死亡(空襲)の福井残留の最後の女傑『榮(シゲ)婆さん』の足跡がこのような形で判明したのも、お引き合わせによるものと、感激です。(お便りを下さった教徳寺の現住職「羽野文雄」さま、ありがとう御座いました)
 
H別家比企雅の嫡女『林原士良の妻』( 1915〜2009 )卒齢95歳
 

 母が大切にしていました『姿見(鏡)』の染め抜きの「布のカバー」がありましたが、、、その表面に『左金輪巴』紋が栄えていました。少し変わった『紋』だったので覚えています。間違い無しに比企から嫁ぐ時の荷物(嫁入り道具)に付けた『女紋』のようなものだったのでしょう。

 其の後、越前福井の比企家の紋が「左金輪巴」であると知りました。
 歴史書によれば武蔵や相州鎌倉の比企家の紋は武田家と同じ『菱』の紋だと云われますので異なった紋であります。

 2009年1月13日午後2時38分、享年95歳で帰らぬ人となりました。母『禮』は「年齢」も「後家暦」も最長不倒距離を達成いたしました。『比企家のギネス』に載る記録です。

 御影比企家の最後の生き残りだったのですが、、、、系図上は消える事になります。
 800年の重い流れは表面上は消えますが、、、
 たくさんの御祖母ちゃんが志していた、、『ソフトの伝達(味噌汁の味)』は密かに続いていくことでしょう。
 以上で越前比企家の娘(姫)達の嫁ぎ先の詳細と致します。多分、比企筋の血筋を背負って活躍されたのだろうと想像されますが、今となっては「謎々話」として残るだけです。
 
 越前福井に在住のご親戚の皆様「や〜い」、お便りをお待ちしています。
                         
                             合掌   
                                                                 
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月28日 11時00分28秒 ) パスワード

林原さま

お母さまの御冥福をお祈りいたします。
95歳でいらっしゃいましたか。
大往生でしたね。


今は初七日が終わったところで毎日お忙しいでしょうね。
これから49日が終わった頃に静かな悲しみがドッと襲うでしょうね。


福井の皆様よりご連絡があると良いですね。
[57]林原英祐さんからのコメント(2009年01月28日 11時07分55秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん

ありがとうございます。

林原
[58]訪問者ですさんからのコメント(2009年04月05日 22時07分31秒 ) パスワード

林原様  比企家に登場する登場する鈴木家についての情報です。


これは越前鈴木家(遠州 池田家)の祖に係る、 鈴木市右衛門の由緒です。越前 鈴木家 遠州 池田家 の系図を参照しました。

先祖は 一遍上人、足助一族、徳川家康などに関係しています。




1池田左衛門太夫 重阿弥陀仏 五月十五日
本国紀州から移遠州池田村に住みし  見付郷大原に住みし
姓は穂積親王 一遍上人が藤沢下向の節お供をし穂積の性を名乗っていた


2池田次郎太夫、次郎左衛門

3池田喜太郎
弥三郎 池田刑部右衛門吉則 (鈴木刑部右衛門重飩) 元和七年辛巳十月十三日 龍守院宝誉導珍居士
お市 弥三郎妻  英光院心誉同法大姉 廿九日
  お市の父親 鈴木孫兵衛 この孫兵衛は参河国渥美郡の住人
     足助次郎重成の末孫で二十七代の足助惣兵衛は甲州信玄に仕え
     その後故あって鈴木孫兵衛と名乗り見付町人となり
     このお市権現公に湯殿女房仕え落胤を宿し弘治二年丙辰春
     刑部右衛門嫁す男子出生 鈴木を名乗て勤仕すべしと仰せられ
     証拠として行守之太刀を下された
    
4鈴木市蔵、市右衛門重堅 弘治二丙辰八月七日巳申刻生まれ
その日は  丙辰の日也 幼名 孫四郎の公、十二才 丸公様 獄翁得林大居士 寛永十発丙十月十七日 墓は越前孝顕寺
   権現様小納戸役、その後福井藩主秀康に仕える。
     慶長19年大阪陣に難波戦記、浪波軍記に見え候   

鈴木多宮直垣(市蔵の子)
得翁善勝居士 正保二酉年八月十九日
隆芳院殿に仕え福井藩主卒の時殉死 墓は越前孝顕寺、永平寺

鈴木多宮(直垣の子)
      宮徳丸 大安院殿に仕え 病死

鈴木宇左衛門(重次)
    始め加藤清正に仕え朝鮮陣勤、その後薩摩の島津兵庫頭義弘
    に仕え琉球渡海の節軍功有り

 角川 鹿児島県人名辞典に 島津家臣に遠江浜松出身の鈴木宇左衛門重信  (重延)がいた。 鈴木万衛門の子で兄入田刑部左衛門の子市右衛門は
   徳川家康に仕えた。重信は文禄の初め 島津忠垣に仕え、大阪普請奉行  を務めた。重信の子は喜右衛門重張といい、子孫は鈴木宇左衛門という。

鈴木太郎左衛門 始め中納言様に仕え、 その後 故郷に帰る


池田弥兵衛 遠州に住し  浄量院厳阿弥大徳 寛永廿一年十一月廿八日卒
現在 子孫有り   (投稿者はこの子孫の親戚にあたる)

●女子 遠州に住し丹羽三右衛門 妻
子供鈴木彦太郎二十一歳の時市右衛門相願い出隆芳院様え召出でられ後に
   越前鈴木家の祖となる <−−−

 池田金十郎 後に伊右衛門  大原に住む 現在 子孫有り

 庄太夫(池田刑部右衛門吉久)       清雲院親誉浄居士 慶安元年戌四月十七日卒 現在 子孫有り
三代福井藩主忠昌公よりの書状有り

 吉田長助  紀州徳川頼宣候に仕えその後越前へ
その子 鈴木宇右衛門重政


(越前鈴木元祖 詳しくは 福井市資料参照 鈴木家 由緒 )
1●鈴木彦太郎重信 陽光院湖渓玄居士  明暦四戌歳四月二十四日
   遠州に住みし丹羽三右衛門の子 鈴木彦太郎二十一才の時
   市右衛門願い出て隆芳院様へ召し出で鈴木家の祖となる。
      妻 山口小弁妹

   甚太夫重則

2●鈴木彦太郎重忠  栄操院自山玄性居士 元禄十丑歳正月十六日卒
   妻 大谷儀左栄門知直娘
○鈴木甚太夫重則

3●鈴木彦太郎重英 後に長英 不眛院本光玄瑞居士 
    延享四年卯歳正月十四日卒
    久世市左衛門久三 三男 妻重忠 二女

  女子 比企左衛門栄槍妻
 見相院宝誉栄林大姉  享保三戌歳十月廿三日 寺は清厳寺

4●鈴木伝之丞長孝 後に長輝、彦太夫、藤十郎 
     万寿院僊山玄霊居士 寛政六寅歳七月二十七日卒

5●鈴木主税長賢 後に藤十郎 
      正雲院雪岩義光居士 寛政十一未年十二月五日卒

6●鈴木彦太夫長垣 環中院道契良義居士 天保八酉年十月九日 寺は孝顕寺

7●鈴木主税長栄  後に 重栄 (海福瀬左衛門正敬次男)
    純淵斎繁林重栄居士 安政三丙辰歳二月十日  品川 天竜寺
妻は 比企左栄門栄庸娘


8 女子 蝶  翠黛院心月妙光大姉 安政四巳年六月十五日 病死 十五歳
 ●鈴木伝之丞重徳 
  大徳院玄道重徳居士 安政四巳年四月八日病死 19才 孝顕寺

9●鈴木小三郎重弘 実は主税重栄次男、母は比企栄庸 娘



○鈴木甚太夫重則 
  妻は権田七左衛門娘

○鈴木甚五太夫重休 岩照院桂林高月居士 宝暦四戌年八月二十八日卒 78歳
妻は鈴木彦太夫重栄娘

○鈴木吉三郎実惟 又吉と改む  丹桂院月空智輪居士 安永二巳歳七月晦日
妻は一柳弥三右衛門娘

○鈴木甚十郎盈久  後に又左衛門
妻は上月武左衛門妹

 女子 比企文左衛門妻女約し不嫁病死
本然露心信女 明和八年卯歳二月

○鈴木又三郎推誠
妻は上月武左衛門嫡女

○女子 於金


以上は越前鈴木家 家系抜粋 及び 遠州 池田家を
郷土の 研究家の調べを合わせたものであります。
[59]林原英祐さんからのコメント(2009年04月05日 23時05分20秒 ) パスワード

訪問者ですさんへ

拝見いたし感激しました。詳しいですね!60歳(現在66歳)の手習いで書き込んで参りましたが、貴方のお便りに接しまして、やっていて良かったとおもいました。有難うございました。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。林原
[60]訪問者ですさんからのコメント(2009年04月06日 23時18分54秒 ) パスワード

林原さま

こちらこそよろしくお願いいたします。
わたしも自分の家系をしらべていますがかれこれ15年経ちます。

なかなか思うように進みません。精々4−5代前しかわかりません。
祖母の先祖は宮大工として播州二見あたりから寛永17年頃遠州の
方にやってきたようですが。

比企一族 を見ていて気づいた事ですが 母はキン(横田作太夫の娘)と
ありますが四代鈴木家の娘が横田作太夫に二人嫁いでいます。二人の内どちらかが
キンの母親に当たるのではないかと思います。


女子
横田作太夫  先妻
法号 久台院身相妙延大姉 天明五巳年三月廿二日
松岡宝岸寺

鈴木主税長賢 後 藤十郎と改める
法号 正雲院雪岩義光居士 寛政十一未年十二月五日 四拾二歳ニテ果


同服
桑山十蔵政熙 桑山十右衛門貞賢養子


同服
女子  横田作大夫後妻
法号  円明院端眼貞珠大姉 文政八乙酉年二月廿四日
松岡宝岸寺
[61]林原英祐さんからのコメント(2009年04月07日 16時35分45秒 ) パスワード

訪問者ですさんへ

 早速の「ご丁寧なご挨拶」恐縮致します。
 又、横田作太夫の娘『キン』について鈴木家との繋がりについての情報(姉妹妻)など、小生が一番知りたかった部分が見えてきました。
小生は鈴木主税重榮の神式葬儀の親族名簿の中に『横田作太夫』の名が明記してあることで、横田家=鈴木家親戚と決め付けていたのですが、、横田家が鈴木家の深い親戚関係にあったことで、、『キン』があの有名な鈴木主税重榮に自分の実娘を嫁がせた(遺業)が納得されました。

又、比企系図にある、、、女子、『ジュン」鈴木主税の室の一行について、、鈴木主税(春嶽の右腕)の歴史的な人物から、???疑念が払拭出来なかったのですが、貴方様の9.鈴木小三郎重弘のクダリ、、実は主税重榮次男、母は比企榮庸娘の一行で解けました。
又、、8.女子、蝶についても、かって孝顕寺の住職の「お便り」にあった「主税重榮の墓」に寄り添うように「蝶子」の名の墓が存在する旨の一説が思い出されました。
以上、「ご丁寧なご挨拶」と申し上げた中身についてであります。

ところで、貴方様のお持ちの資料(鈴木家)に於きまして、、
www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100220_48.html
の書き込み、越前比企物語の[11]
 小生のコメント(書き込み)をご一読頂きまして、登場いたします、、
   後妻者生田十左ヱ門娘 鈴木彦太夫養女 リヨ
   安永2年(1773)正月29日卒齢76歳 葬 清源寺
                 戒名  『心光院常譽妙照大姉』
及び、、次の[12]項書き込みの、、、、
   妻者 生田六左ヱ門娘 宝暦7年(1757)9月2日卒 葬 清源寺
                 戒名   『本了院法譽妙響大姉』    の「生田家」について何か情報の痕跡が見られないか、、お聞きしたかったのです。

後日、、[32][33]項でご登場される「生田憲雄さん」とのやり取りで十分な応答が出来なかったことが頭を過ぎりましたので、、勝手なことを申しまして失礼な話で申し訳ありませんが、もし何か解りましたら、「生田憲雄さん」がお喜びになると思います。

本当にありがとうございました。感謝感激です。文中に登場します小生の実母林原禮(旧姓比企)が95歳の大往生(1/13逝く)を致しましたが、、何か力を感じます。合掌
[62]訪問者ですさんからのコメント(2009年04月09日 22時04分23秒 ) パスワード

お尋ねの生田さんの名前は手持ちの資料の中には残念ながら見当たりません。

なお

三代 比企佐左衛門榮槍に嫁いだ リヨ の妹が 加藤所左衛門重羽に
嫁いでいます。 寿松院妙量日永禅定尼 明和元丑年九月六日

本多家の名も
三代目ノ多宮吉品公御代被召出候ヘ共、是亦病身ニテ御暇願申上、本多
孫太郎方ヘ引取病死仕候故 とあります。


忠昌公御代於越前御入国以後先祖被召出面々の記事の中に比企佐左衛門
の名が見えます。
[63]林原英祐さんからのコメント(2009年04月09日 23時45分41秒 ) パスワード

訪問者です様
早速、お返事有難うございました。
 記録から推察しますと、、、
越前福井の比企家で一番の親戚(お隣に住んでいらしたのでは?と思う)は加藤所左ヱ門さんのお宅です。今回の貴方様のお便りによりまして、鈴木家もそれに劣らない程の姻戚関係にあるのが理解できました。
 
 話は全然変わるのですが、、貴方様の御先祖、、御祖母の出所、、播州二見は、明石市の隣の東二見(山陽電車の駅名)のことですか?
 小生は姫路で大きくなりましたので、、山陽電車で通学(大阪)しました。もし『東二見』だったら、懐かしいなぁ!何か親しい縁を感じます。林原
[64]訪問者ですさんからのコメント(2009年04月12日 16時30分37秒 ) パスワード

林原様


関西の地理はあまり詳しくありません。関西を訪れたのは。中学校の修学旅行で
京都、奈良観光と宝塚劇場に行った時と70年の大阪万博に行ったぐらいですね。

祖母の実家の過去帳に先祖は法多山のお抱え大工で言い伝えでは住職が高野山に
御用命の際出頭致し帰途大和國より連れて来てこの地に永住させ建築方一切を司
しめとあり。


還岩宗本   覚真 父

寥室覺真居士 天和二年  1682年

寛永17年 1640頃 関西地方よりやって来て大正時代まで宮大工を
やっていた。還岩宗本は覺真が亡くなった年代から推測すると関西にいた覺真の
父親ではないかと推測されるます。

寺の住職さんが二見に祖母の実家の性な無かったと云っていた。
地図で見ると明石市の東部に二見がありこの辺りから来たのではないかと思って
いますが。

林原様 ご希望でしたら鈴木家の由緒のコピーを送ります。また違った発見が
出来るかもしれません。メールでご住所をご連絡ください。

資料の中に重榮比企佐左衛門榮庸の女順子を娶り二男二女を生む、長女及び長男
秀松夭す、依て同藩雨森藤四郎弟傳之丞重徳を養て子とす。後次男重弘生る。
重榮歿するや重徳其後を嗣ぐ久しからずして又歿す,重弘即ち嗣ぐと
[65]林原英祐さんからのコメント(2010年07月04日 21時15分14秒 ) パスワード

『にっぽん巡礼』
http://www.nhk.or.jp/junrei/program/2010week/index.html

「第十一回」
BShi 2010年7月10日(土)
BS2 2010年7月15日(木)

「父が残した海の墓標」
(安浦漁港防波堤・広島県)

短い「映像」ですが、放送されます。
ご覧になって下さい。
[66]林原英祐さんからのコメント(2011年11月24日 20時18分39秒 ) パスワード

 訪問者さんが本年10月其日、お亡くなりになった。との知らせを受けました。

 突然のことで、驚きにたえません。
 小生の一存で、実名を記し、貴殿の心温まるご教示に感謝と敬意を表します。たくさん教えて頂きました。本当にありがとうございました。
 心からご冥福をお祈り致します。
 淋しくなりますが、再会を信じ、後しばらく勉強を続けます。
きっと、又、、、、どこかで「お会い」出来ると信じます。
 もともと、偶然「出会った」関係なのですのですから、、「合掌」
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2011年11月25日 06時56分14秒 ) パスワード

訪問者さんの御冥福をお祈り致します。


良い邂逅でございました。
[83]管理人 aさんからのコメント(2013年08月04日 15時10分50秒 ) パスワード

重くなってきましたので閉めます。
新しくスレッドを立ててくださいね。
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