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 投稿番号:100205 投稿日:2001年11月15日 09時09分48秒  パスワード
 お名前:
杉原氏と向島の林原一族
キーワード:備後
コメントの種類 :その他  パスワード

先日話題に登った杉原氏について研究されている方のHPをご紹介致します。

http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/

杉原を姓とする諸氏族中、史上最も著名なるは、伊勢平氏桑名流と称する杉原氏なり。
室町幕府に仕えて備後、安芸に住まいし、広く山陽、山陰に繁行す。
また古く分かれて尾張に住まいせし一族は豊臣秀吉の興隆に伴って諸候に列せしも、徳川時代に及びて断絶す。
支庶は幕本の士となり、また一族には木下氏を名乗りし流れありて、諸候となるものニ家(尚示注・足守木下、豊後日出 木下)。相継ぎて明治にいたる。

[1]さんからのコメント(2001年11月15日 09時29分46秒 ) パスワード
  

備後杉原氏は、南北朝期前半までは向島にまで勢力を伸ばしていました。
後に渋川氏に攻められて撤退しましたが、その後も庶流が島に留まっています。

「備後向島岩子島史」によれば、江奥部落柏原(はせばら)谷主屋(おもや)を中心とする林原一統、向島東村の榊原一統、津部田部落の木梨一統がそれである、と言われているそうです。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年11月15日 10時18分03秒 ) パスワード
  

お邪魔してごめんなさい。


>豊後日出 木下

この木下家は秀頼の子供というお話もありますよね。
大坂城落城の折りに助けられて脱出して豊後木下家となった、とか。
[3]さんからのコメント(2001年11月15日 10時48分01秒 ) パスワード
  

そういえば、秀頼が落ち延びたという言い伝えがあるって、私も聞いたことがあるような。
なるほど、具体的に伺ったのは初めてです。
[4]さんからのコメント(2001年11月15日 10時50分52秒 ) パスワード
  

以下は「備後向島岩子島史」からの抜粋です(仮名遣い等、一部読み易いように訂正)。
抜粋と言ってもちょっと長いので、少しずつ書きたいと思います。
ただ、昭和10年代の著書であり、著者の解釈に当時の世相が多少反映されているとは思います。

****************

杉原氏は其先鎮守府将軍貞盛(平貞盛)の裔孫とあるがその後に二説がある。
太政大臣清盛入道浄海の嫡男小松三位内大臣重盛の子・左少将維盛の末葉で、維盛西国の戦場に遁れ、熊野浦にて入水の体を装って世を忍び生を保ちその孫、鎌倉に仕う、前記杉原胤平は貞盛より13世なりと云う説(軍記物語、盛衰記)、及び平清盛の高祖父正衡の兄貞衡の裔で平貞盛10代の孫が光平で、その孫が胤平であるという(山口県木梨家系図)説であるが、何れにしても平姓である事は間違いない。

さて胤平兄弟は何れも官軍に組して相当働いた事は前記の通りであるが、この子信平、為平は足利尊氏に従属した。その従属に関して父胤平が野心の為に我が子を差し向けたとの説があるが、これは全くの虚説で、胤平は若年の不品行は別として桜山慈俊等と志を同うし、愛国勤皇の精神に燃えて慈俊滅亡した後も、後醍醐帝御還幸を護衛した位であり、弟勝平をも新田義貞に従わしめて勤皇軍に働かした事は前記の通りであり、かつ我が子信平、為平が血気に早って足利尊氏に従ったので警状を遺したり、信平が筑前多々良浜で勤皇菊池武敏と戦った軍功を父に報じても賞言一つなさず、尊氏から木梨13箇村庄、蘆田郡10数箇庄を給わったと聞いても一生同居しないで死んだというのを以っても明らかである。
[5]さんからのコメント(2001年11月15日 12時01分38秒 ) パスワード
  

次に信平、為平は前述のごとく父胤平の意に叛いて叛逆足利尊氏に従属をして筑前菊池武敏と戦った軍功によって木梨13ヶ村を領し、延元2年3月、尊氏の命によって木の庄村鷲尾山城を築いて、同年12月24日、深津郡本庄福山の麓能満寺から引き移った。

その後、信平の後、光信、光盛、元盛を経て元直に至り、その勢力拡張のため旧縁深い吉原親信を鳥尾城より出でしめて、この島の大町西ヶ丸古城を修して居らしめた。

その後光恒に至り、天文12年6月、雲州尼子氏に攻められて(光恒は)自殺し、弟和泉守も尾道坊地坂で戦死し、光恒の子高盛は捕らえられたが、後大内氏に頼って城を回復し、城名も釈迦峯城となし、名も元清と改め勢力回復を図ったが、木頃城石原忠直と隙を生じ、誘い出されて殺された。

その子元経、孫広盛等は難を避けて一時向島に隠れたが、再び郎党並びに吉原親冬等の来たり参じ、元経を援けて、忠直を討ち元亀元年午2月、鷲尾城を取り返した。
忠直は堪えかねて八幡渋川氏に投じたという。
このため渋川氏は当向島に厳しく手を伸ばし、吉原氏もその重圧に堪えず天文20年に世羅郡杉山城に移った。
この事あって後、広盛は向島の縁故を取り返そうと永禄11年春、重楽寺の全身椙原寺を起こしたという。

天正に入り勢力再び振るい、尾道権現山(千光寺山)に城築、天正12年この城に移り、元経も同15年3月20日此処に卒し善勝寺に葬る。(西国寺宝塔側の墓ともいう)
子広盛が継いでいたが、天正19年、豊臣秀吉は山城停止命令を出したので、権現山を退いて木梨の家城に移った。
文禄4年毛利輝元の旨によって、弟経珍(土生村淵上城主)と共に周防瓜止庄に移転してこの地方と縁を断った。

なおこの間、島の支配は初め高須村松尾城の杉原氏管轄になった時代もあった様である。

因に、杉原姓については、その祖平維盛が紀州熊野の奥、杉原の庄に住んだから名乗ったという説と、この地方は奈良平安の昔から榲原保と称し、これを領したので、杉は榲に通じせしめて杉原を称したともいう。
浄土寺文書、木梨家文書には椙原氏(榲、椙は同字)とあり、毛利家文書、備後六郡誌、古跡誌、通志、県史等皆杉原を用う、何れを是とするや、杉原氏が榲原保を領して相通じたというのが正しいのではあるまいか。
[6]さんからのコメント(2001年11月15日 12時10分13秒 ) パスワード
  

続きはまた明日。
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年11月15日 12時54分33秒 ) パスワード
  

お疲れさまでございました。
では続きを楽しみにしていますね。
[8]さんからのコメント(2001年11月16日 10時18分08秒 ) パスワード
  

それでは、昨日の続きを。

********************

以上は杉原氏と向島との関係を述べたのであるが、杉原氏もこの島を海の護りとして重要視する事永年、この間重要なる一族及び縁故者を配置したが、これら一族の者は(杉原氏が)防州に移った後もこの地に住み、同族を増して今日に到った者が多数あると思う。

例えば東村神主家は本島唯一の杉原姓を名乗っており、その祖が奥(木梨村杉原氏)へ毎年俵を馬に乗せて持ち行きたり。
尾道千光寺大鐘は杉原一族の小鐘、古鏡等を集めて鋳たもので、この宅(東村神主の杉原家)からも出した(今も千光寺大釣鐘の銘にあり)との伝えあり等すれば、同家も杉原一族としてこの島に住んで今日の納税やその他の行政に携わっていたものであろう。
また江奥部落柏原(はせばら)谷主屋(おもや)を中心とする林原一統、東村榊原一統、津部田部落木梨家一統等はこの系統にあらざるか、その姓の異なるは後の支配者たる渋川、村上諸氏に遠慮して、土民百姓となって住んでいたものと思われる。
即ち江奥林原一統は明治の終わり頃までは祭りに立幟を禁じた伝統風習があった事も、遠慮程度が子孫にまで伝わった証左ではあるまいか。
林原、榊原等の一族は観応の初め、吉原親清が去ってこの地に移ったものらしく、木梨は天文中年頃、元経がその子広盛、吉景、経吉等とこの地に難を避けた後、吉景の子、盛景がこの島に留まったに始まると称する説と、広盛が防州退去の際、盛景はこの地に、兄盛経は世羅郡堀越にそれぞれ一族を残したという説がある。
何れにしても杉原氏の子孫(杉原氏は元経より木梨と称し、自分も木梨民部大輔と称した)たる事は間違いないと思う。
その他にも杉原、木梨一族に関係があったものもあると思うが判然できないのが遺憾である。
現在、林原姓の家が江奥部落を中心に44戸あり、榊原姓の家が東村に23戸、木梨姓の家も相当ある様である。
[9]さんからのコメント(2001年11月16日 10時26分00秒 ) パスワード
  

>現在、林原姓の家が江奥部落を中心に44戸あり、
>榊原姓の家が東村に23戸、木梨姓の家も相当ある様である。

これは昭和11年9月当時の調査結果です。
[10]いつも通りすがりさんからのコメント(2001年11月16日 10時34分28秒 ) パスワード
  

隈さん おはようございます。

ごさんべえのページ http://www1.harenet.ne.jp/~gs-msmz/
リンク http://www1.harenet.ne.jp/~gs-msmz/links.htm  に

杉原姓もろもろ http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/
杉原尚示さんが倉敷市亀山十六の割の杉原氏の紹介と全国の杉原家調査を報告

と言うのがありました。
[11]さんからのコメント(2001年11月16日 11時25分18秒 ) パスワード
  

いつも通りすがりさん、おはようございます。

>杉原尚示さんが倉敷市亀山十六の割の杉原氏の紹介と全国の杉原家調査を報告
>と言うのがありました。

杉原尚志さんは倉敷の方ですが、岡山の足守藩主の初代はおねね様の兄・木下(杉原)家定なのですね。
倉敷は備後地方と近いので、この辺りの杉原さんは「尾張系」と「備後系」が入り混じって複雑、だそうです。

もっとも、元を辿れば同じ一族ですけど。
[12]さんからのコメント(2001年11月16日 14時16分42秒 ) パスワード
  

続いて、藤原百川の子孫であるという吉原家についての記述があります。
杉原氏と関係のある話が出ていますので、合わせて載せます。

この吉原氏の子孫が、向島西村の庄屋さんになっています。

いつも通りすがりさんのご先祖様とは違うということですので、名前を公表させて頂きますね。

********************

●吉原氏(大町、西ヶ丸城)

吉原氏は元藤原氏、藤原百川が和気清麻呂の進言によって御調、榲原両保を荘園として給わったのが宝亀年代といわれており、その後榲原保は嘉応の頃、椙原八幡が岩清水八幡宮の別宮となって、祭政一致の別宮政治が行われるまで約400年は荘園政治及び御調八幡別宮政治が行われていた様である。

吉原氏としての支配はこれよりずっと後世で、元弘の初め杉原胤平が安那郡からその勢力を西方に延ばすため、尾道の前島たる向島に往右より縁故多い藤原氏を迎えておくを得策とし、京都・加茂斎院次官で藤原百川の裔たる親章(後親行入道)をして大町に西ヶ丸城を築かしめた。

親章の方でも、当時元弘の乱れに護良親王の令旨を奉じていた事を北条氏に知られん事を恐れ、諸公卿に準じて当荘園に隠れ城を求めていた際だから、杉原氏の話は追手に帆をかけた訳である。

元弘2年6月、田村、秋長諸氏と共にこの島に隠れて地方民を手なずけて島主となったが、杉原胤平の子信平、為平が父の意に反して叛将足利尊氏に従属したので、正平の初め頃親章の子親清はこの地を去って山縣猿喰城に移った。

その後この島への勢力は杉原、渋川両氏互いに勢を争った事140~150年間であった様だが、大要は杉原氏の前半と渋川氏の後半支配となっていた様である。

明応の終わり頃となると杉原、渋川両氏の抗争激しく当時渋川の勢力範囲である向島を杉原氏の勢力たらしめんと山縣鳥尾城にいた吉原親信を誘って、この島統治方を申し入れた。
この時杉原元直は木梨鷲尾山城にいたらしい。
親信はやや振るわざる折とて直ぐに当城大町西ヶ丸城を修築してこの島の支配に任じた。時は明応8巳未年という。

その後(吉原氏は)親冬を経て元親に至り、杉原氏の勢い衰え渋川氏ますます振るうにつけて向島吉原を排除に努めるため、その重圧に堪えかね、大内義隆の援けにより、(吉原氏が)世羅郡に杉山城を築いて移ったのが天文20年辛亥5月とある。よって再び(向島は)渋川氏の支配となった。

即ち吉原氏の本島支配は、元弘時代20年間明応以後52年間となっている様だ。_当時この島は北方は尾道水道、南方は布刈瀬戸通過の外航路に挟まれ東西交通の要地として住民も相当に多かった事は、各所に散在する当時の墓によっても知られる。
なお、本島南岸航路発達は平安末期からで、治承4年高倉上皇厳島行幸記にも見え、元弘以後は相当頻繁であった様である。

よって海上権征服の意味において、杉原、渋川両氏がこの島の支配権を永年に渡って争ったのも当然だと思われる。

*******************

以上です。
吉原氏も南朝方で、仲が良かったんですね。
[13]服部 明子さんからのコメント(2001年11月16日 22時43分17秒 ) パスワード
  

御調という地名は後醍醐天皇の隠岐流しに出て来る地名ですね。
ここを通って流されたのか戻って来たのか
そんな理由で記憶があります。

日本史上の重要ポイントです。

杉原一族の南北朝時代の奮戦振りが目に浮かぶようです。
御調という地名も後醍醐天皇にまつわる命名かも。
杉原一族からどのようにいつ林原姓や榊原姓や木梨姓が生まれたのか分かりませんが
御調の南朝方武士として活躍した過去があったのはこれで確かになりましたね。


御調の南朝方は武運つたなく世を忍んだその歴史に今こうして光が当てられた。
そう思います。


楠木さんや新田さんが今でも名を残しているということは
そこは元が平家の所領で
平家滅亡後もここに居住し
後醍醐天皇のゴタゴタでは負けた南朝方関係者が安全な所という理由で
こちらに移って来たのかそのまま定住したようですね。


お疲れさまでございました。
[14]さんからのコメント(2001年11月19日 13時09分53秒 ) パスワード
  

新田さんの中には「杉原一族である」と伝わった家もあったのですが、備後向島岩子島史では「新田は源氏なので」違うだろう、と書かれています。
もしかすると、新田義貞に従った杉原勝平の関係者の子孫では、という気もするのですが。

備後向島岩子島史の別ページの姓氏録を見ると、
木梨姓は、杉原信平が結局足利家について備後木梨荘を貰った事に由来する。
林原姓は、杉原為平の流れで、一説には藤原氏菊池隆益立家とも。
榊原姓は、良く分からないのですが、
「清和源氏、足利義康の後(伊勢国一志郡榊原に住す)立家、榊原康政等の先祖、一に木梨杉原の分流という」となっています。

ということは、林原家や榊原家の場合、もともと杉原氏の家臣だったのが姻族になった可能性も?

また、上には書かれていませんが、この他に「高原」家が杉原光平末裔・元興立家と掲載されています。
[15]林原英祐さんからのコメント(2007年04月30日 01時11分11秒 ) パスワード

ご無沙汰致しております。

 5月の連休に入りましたが、今年から「家事手伝い」が本職になりましたので、実感がわきません。

 暇に任せて、インターネットをさわっていますと、キーワード『武智正次郎』で検索いたしました中に、、、、

[PDF]
英 知 の 結 晶 。 一 枚 の 写 真 。 存 在 す る と い う 事 実 。
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
ドである。現地である安浦漁港へいけば設置さ. れてからの事は分かるだろうが。 武智正次郎 ... 係の会社を創業しており特許工法による特殊工. 事を得意とした。 武智家はかなりの発明家だったらしい。 省線(今の ...
www.prominence.tv/~mikeneko/takechi.pdf - 補足結果 - 関連ページ


というPDFを発見しました。
その中に、以下に紹介します。小生の『一文』が引用紹介されていました。



 以前書きましたときに、『服部明子先生』にひょっとしたら、林原さんの書き込みが誰かの目に留まれば、それだけでも、、お父さんも喜ばれるし、林原さんの存在にも意味が出てくると励まされたのを思い出しました。

 そんなに興奮するほど、大したことでは無いのですが、、
 毎日静か過ぎる生活に慣れ親しんでいますとちょっとした事件であります。

 何時も、丁寧な受け答えで、伴奏して頂きます『服部先生』や「隈先生(林原のこと)」にご報告したくって、書き込みました。

 なお、2001年(6年前)に隈先生がわざわざ、御調郡(今は尾道市に吸収合併されました)向島町の江奥柏原谷の林原一族のことを教えて頂いたのがきっかけで、比企から林原への拡がりが出来ました。

 感謝の意味を込めて、ここに転写します。





 この筆者の方とは、ご連絡はついていないのですが、、、
 熱心な勉強家の方と勝手に推察し、ご尊敬の念でいっぱいです。

 父(林原士良)も、草葉の陰で喜んでいるでしょう。
 ありがとうございました。

 前置きはこの辺にしまして、、ご本人の文章を紹介させて頂きます。


 前文は省略します。(PDFを開いてください!)


 本文2頁からの写し、、、
 『
 一通り調べ尽くしたあと、どうしても建造に携わった人の詳細が知りたく検索項目に変更を加えついにその開発者の息子さんを探り当てた。

 検索にヒットしたのは山口県下関市にある彦島(船島=巌流島も行政区分はここの一部)の、平家BBS の記事『Click Times- 平家物語を熱く語る!! - 比企一族(その3) 御影比企物語』中にヒントはあった。

 なんとこの記事は、実際に建設に携わった林原士良氏の息子である英祐氏の書き込みであった。
僕はこの名文を読んで目頭が熱くなりました。

 このテキストは、あまりに多くの事象を包括しており魅力に満ちた文章であるが、論旨を明確にするためあえて、全文からコンクリート船についての該当箇所のみを以下引用してみる。

[以下引用文]

 神戸の六甲山に、日本で何番目かに古い『ケーブル・カー』があり。 その頂上駅にある『ケーブル』引き止め部の直ぐ下に『真鍮』で出来た「古い銘板」があり、良く見ないと分からない程度の文字で『フレザー商会』の名がある。 これが、御影比企家の当主(2代)『比企雅』の勤めていた会社である。

 例えば、尾道の向かえの『向島』の『江の奥』と言う谷には『林原』と言う『家』ばかりで、父の祖父の代以前から『庄屋』をしていた。だから「墓地」があんなに立派なのだ。
 又、その谷(江奥)から、当時、兄弟3人(省三:栄:士良)全て『大学』を卒業するなどは稀な事であった。等『田舎の自慢話』も随分聞かされた。

 父(士良)は広島の中学を出て、旧制の『大阪高等学校』を卒業後、大阪大学の工学部(造船科)を卒業し、三井造船(玉野造船所)に入社したそうである。

 その後、戦前は、満州鉄道の『大連造船所』に勤務していた。と母(禮)によく聞かされた。
 父母にとって『大連』は『スィートホーム』の地であったせいか、引き揚げる前の大連はそんなに悪い印象の地としては語らない。むしろ良い想い出として聞いた(何故か、仲代達也と新珠三千代の演じた『人間の条件』の中国の光景が頭に浮かぶ…)勿論、小生(英祐)は未だ生れていない昭和17年未明の話である。

 その後、昭和17年になってから、日本に引き揚げて『尼崎(立花)』で私が生れる。その頃、に父(士良)は、迫りくる『第二次世界大戦』を意識していたかどうかは別にして、播州姫路の海岸にある『塩業の町』大塩町で『武智造船所』を開くのである。

 後に聞かされた話であるが…武智さんは、私の同世代の方なら、『武智鉄二』(白日夢…ポルノ監督)を御存知と思うが、その方の『お父さん』が御影(芦屋)の大富豪で当時『造船王』とまで言われた方だったそうで、その方に『認められ』…海軍の造船所『武智造船所』を開設したそうです。

 父を知る『父の友人(故人)』や『伯父さん達(故人)』の話によれば、『頭がすばらしく良い人間』でそのため『ヤマ気』が多く、『一発屋的』な面が、沢山のエピソードを残しているそうです。(冗談半分に…生きて居なくて良かた!苦労させられていただろう。大金持ちになっているか?乞食をしているか?どちらかである。云々


 そういえば、少し前(昭和50年代後半)の話ですが、母の友人がNHKのテレビを見ていて『特集…浮体工法「関西新空港」』の中で、姫路(大塩町)の武智造船所が出てきていた。
その中で、戦前戦中に鉄材が不足してきた時に『コンクリート』の『タンカー』を研究していた『造船技師』がいて、何隻かの『コンクリートタンカー』を姫路で進水させている。
 現在調査しているが所在が掴めない。生存も定かでない等アナウンサーが言っていた。と…
 多分御主人のことだと思うという電話が入った。

 母から聞いて、感激して(少し大袈裟だが…)NHKのディレクターに電話して話を直にききました。

その時、母が密かに死んだ父から預かっていた『20枚程度のキャビネ版の白黒写真』をお送りして関係者にこれは貴重な資料だと感心されたのを覚えている。

 当時の海軍の造船所の中で『極秘裏』に進められた『秘密の計画(コンクリートタンカー)』は多分表沙汰になると処罰される計画だったと思う。にも関わらず、父(士良)が『造船技師魂』でどうしても『内緒』で写真を取って残したかった気持が伝わってきて、何かジーンとくるものを感じました。何となく、嬉しかった。そんな父が自慢でした。

 昭和23年8月4日に父は結核で亡くなっていますが、その後35年も経ってから、その写真が一度は表に出たのだから、それは素晴らしい事だとおもいます。

 母は(平成13年4月現在…86才)で存命ですが、残念ながら、その父の形見の写真は『結婚写真』と一緒に『阪神大震災』の時に家屋全壊で失ったそうです。それでも、私達の記憶のなかに立派に残っているのですから、良いと思います。

 私はこの『コンクリートタンカーの話』を戦中の全ての欠乏した中での『知恵の実例』として『語り伝える』つもりです。
 結局、関西新空港は『埋立て方式』で『浮体工法』は採用されませんでしたが、関西新空港を見る度、聞く度に『父(士良)』が蘇ります。


話は少し逸れますが、同窓会の翌日姫路に住んでいます友人を誘いまして、『姫路シーサイドゴルフ』(昔の塩田を廃田にして18ホールの立派なパブリックコースが出来ている)でゴルフに興じました。

 その時、の何番ホールか正確には覚えていないのですが、確かショートホールだった『テイーグランド』に立ったときの前景に「父の思い出の全て」である!『武智造船所跡』のヨットハーバーが登場したのです。

 前にも書きましたが、小生が5歳の時にお別れ(病死)した父親のことは事実関係で申しますと余り知らない!記憶に残っていないのですが、最近母方のご先祖(比企)様のことを『服部先生』のお陰を持ちまして勉強する機会を得まして、少し歴史、、、オセンチ(病気)がヒドク、その為か、その景色に釘付けにされたと言うお話であります。

 自宅に帰りまして、その景色が頭から離れず、インターネットの検索欄に「武智造船所」と思わず打ってしまいました。ここから今日のお話が始まります。

 父の故郷は広島県御調郡(みつきぐんと読む)向島町であります。
 父の霊が自分の造ったコンクリートタンカーに乗って里帰りしていたと言うお話です。

 広島県安芸郡音戸町は距離にして『70KM』程度、そこから100 余KM であの『平家物語』の「壇ノ浦」があります。少し神がかりなお話しになりましたね。広島駅で降りまして、呉線に乗り換え、呉駅を通過、三原に向かって6駅目の駅が私が目指した「安浦駅」でありました。

 近づいてまいります200m ほどの間に、瞬間でしたが、55年前の父親( 林原士良) の思いが頭をよぎりました。

 私がこんな形でここを訪ねることを想像したでありましょうか?
 場所が以前にお話いたしました「父親のふるさと向島」に予想外に近かったのにも驚かされました。

 「水の守り神武智丸」と書かれた文字がくっきりと読めるようになりました。
 そして、5歳で別れた「よく知らない父親」とのご対面を実現したのです。

 帰り道、昭和23年8月34歳の若さで「結核(当時は不治の病)」で死んでいった父が、
 
 「死ぬまで向島に帰れば元気になるかもしれない!」
 
 と言い続けて帰らぬ人になったと母から聞かされたのを思い出して、結局こんな形で帰っていたのだと納得いたしました。

 お父さん、お静かに、安らかに「お眠りください!」、安浦町の皆様に見守られながら50余年の歳月を「水の守り神」として活躍されていたのだと考えると「拍手」を送りたくなりました。
 又必ず参りますから、、、

 それでも、この漁港は姫路(詳しくは高砂市曽根町)の武智造船所跡「曽根ヨットハーバー」と姫路シーサイドゴルフ場の景観になんと似ていることか、すぐ隣に安浦ゴルフクラブが隣接しており「気味の悪いもの、、」を感じました。
合掌     (以上引用させていただきました。)

 武智丸よ  永遠に

 僕は林原氏の文中に出てくるお父様がお母様へ託された武智丸(軍事機密の!)写真、残念ながら阪神淡路大震災で壊失してしまった写真がみてみたかったです。
 またもし武智丸の工法がより深く知られていたならば、現在も沈降しつつある関西新空港は浮体工法で建設されたものと確信します。

 コンクリート船を追って僕は人生というものがドラマチックであることをひさびさに感じました。
 父と子の邂逅がこのような形で果たされるとは。また、鎌倉に発する比企一族の悲劇(実は埼玉が生んだ幻の名家)や源平の事、彦島に伝わる遺跡、日本のピラミッド、明治新政府の陰で動く英国の総合商社フレザー商会(フレーザ商会ともされる)など幾多の魅力的事象に出会いました。もっとしっかりした形にしたいのですがとりあえず皆様のお目にかけたく上梓した次第です。追加原稿出来次第追ってアップしていきます。短期間のアマチュアの検索による駄文ですが関係各位には、いまだ引用、リンク等の確認はとっておりませんが落ち着きましたらご連絡さしあげようとおもいます。

☆三毛猫☆8月14日60回目の終戦記念日を前に。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100227.html 比企物語3。林原氏の原稿。1、2もあります。

 以上で紹介は終わります。




 全く異なった世界の方がこんな形で、『平家物語を熱く、、、』の世界に、、
それだけでも素晴らしいことだと思いました。
感動です!


 広島県尾道市向島町江奥柏原谷の林原士良が造った『武智丸』がすぐ近くの安浦漁港の『水の守り神武智丸』として、郷土の皆様のお役に立っていたという縁のあるお話でありました。

 隈先生も向島町に関わりのある『お方』と聞いています。
 心から、感謝とお礼を申し上げます。


[16]さんからのコメント(2007年05月02日 14時20分43秒 ) パスワード

林原さん、どうもお久しぶりです。

「隈先生」なんて呼ばれると恥ずかしいです、ただの歴史オタクの一主婦ですから。(^^ゞ

お父様の造られたお船に関わる不思議なご縁、本当に良かったですね。

数年前、私自身が向島に行き、祖先の墓参りをした時のことを思い出しました。
過去帳は見せて頂けなかったものの、墓石に戦国時代からの先祖代々の名が記されていて、後世に先祖の記録を残したいという高祖父の思いを読み取ることができました。
旧姓「林原」であった先祖(高祖父の母)の名前もしっかり刻まれていましたよ。
彼女は「旧・向島西村」の出身だったそうなので、おそらく実家は江奥周辺ではなかったかと思います。

みんな、「平熱」を通じて不思議なご縁で繋がっていますね。

かつて、瀬戸内沿岸の町々は今よりずっと交流が深かったようですね。
私の先祖の家も、向島だけでなく山口県の防府や下関、岡山県の倉敷とも縁組があったようです。
だからなおさら、昔の向島と安浦は「すぐ近所」だったでしょう。
やはり、縁ある場所には「引っ張られる」のですね。
[17]林原英祐さんからのコメント(2007年05月02日 15時14分00秒 ) パスワード

隈さんへ

早速のご丁寧な、お返事有難うございます。
拝見しました。

余談ですが、、、
小生も、先日、千光寺に一泊まして、わざわざ船に乗りまして、瀬戸田の耕三寺にお参りしてきました。

伯父のお墓が千光寺にあります。

千光寺山荘からの、日の出の景色と尾道水道の小型漁船の出漁風景はたくさんの文学者の心を虜にしただけ、感銘しました。

本当に、ありがとうございました。お礼まで、、林原英祐

[18]林原さんからのコメント(2014年07月05日 18時28分13秒 ) パスワード

私も向島江奥の出です。おかげさまで私のルーツが良く分かりました。
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