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■六連島明治天皇行幸聖蹟

 陸軍大将従二位勲一等功三級男爵田中義一謹書王政古二復リテ維新ノ鴻業ナリ 萬民斉シク天日ノ明ヲ仰ギテ歓喜四海二充ツ 明治天皇御即位等五年大詔ヲ煥発シ初メテ巡幸ノ典ヲ挙ゲサセ給フ 即チ明治五年五月二十三日鳳駕東京ヲ発シテ西南二行幸シ給ヒ七月十二ロヲ以テ還幸シ給フ

 六連島灯台臨幸ハ六月十日ニシテ当日天皇供奉ノ諸官員ヲ随ヘサセラレ行在所前下関大倉波戸場ヨリ端船二乗御 同沖合ニテ日進艦二移御 午前十時六連島二着御アラセラレ畏クモ玉歩ヲ進メセラレテ燈台設置ノ状況ヲ具二天覧シ給ヒ 午前十一時御乗艦行在所二還御シ給フ

 町民深ク叡慮深遠テルニ感謝シ 比ノ尊キ聖蹟ヲ不朽二伝エテ永ク御盛徳ヲ仰ガントス 即チ聖上陛下御即位大礼奉祝記念事業トシテ本町会ノ決議ヲナシ 茲二其ノ碑ヲ立テ以テ後昆二貽ス

昭和四年十一月三日 明治節ノ佳晨
    彦島町長従六位勲六等 岡乙治謹撰

 竹崎の渡船場から六連丸に乗り、約二十五分で彦島の北西五キロメートルの沖合に浮がぶ六連島に到着する。日本で最も古い洋式灯台と言われる六連島灯台は島の右側に、白い姿を見せています。

 記念碑は、灯台から更に左山側にある。碑は、高さ百八十センチ、幅二百八十センチ、厚さ三十二センチ、台座の高さ百三十センチの花樹岩で造られた碑の題字は、田中義一が揮毫したもので、碑文は岡乙次郎の撰文により、昭和四年(1929)十一月三日に建立された。

 灯台の建設は明治三年十月に着工、翌四年十一月の約一ヵ年で竣工した。点灯は明治四年十一月二十一日である。この工事を請け負った竹下梅吉が書いた建設費用明細書によれば、竣工予定は「申二月二十二日」となっており、この「申」の年とは明治五年のことで、つまり、契約では明治五年春に完成というものであった。

 しかし、明治五年六月、明治天皇が関西及ぴ九州方面へ行幸されることになり、其の途中、六連島の洋式灯台を御覧になることが本決まりとなったために、竣工予定は急遽変更され、明治四年の秋に完工という大変苦しい突貫工事となった。灯台や灯台寮は予定通り竣工することが出来たが、付帯工事はまだ完成を見ることなく継続。ところが、再び行幸予定日が変更され、三日も早くなった。灯台へ行くための石段工事がまだ残っていたので、六連島の住民のみならず、彦島からも若衆宿(村の青年が夜間に集まって手仕事をしたり話し合ったりする特定の家のこと)の連中や老人、壮年も動員され一昼夜で作り上げたという。

 陛下の一行は、当時の精鋭軍艦である日進艦で明治五年六月一日、赤間関に御着きになり、阿弥陀寺町の旧本陣である伊藤家を行在所とされた。

 六月十二日の朝七時、御出発になり、三時間もかけて六連島に到着、島では住民が土下座をしてお迎えしたところ、陛下のすぐあとについていた西郷隆盛(1827〜1877・明治初期の政治家、薩摩藩出身)が、「立って奉迎してよい」と申し渡したという。住民にとっては、初めて耳にする新政府の思いやりのある言葉として語り継がれたということである。

 陛下は、灯台の設置、構造、役割などについて熱心に説明をお聞きになり、均台寮の雇いの外人のイギリス人クラークに酒肴料を下賜され、その他に灯台を設計したイギリス人ブランドンについても色々とお聞きになったということである。

 六連島灯台は、明治天皇にとって初めて御覧になった、当時最も近代的な洋式灯台であった。

 灯台の周囲は、花崗岩の石垣で囲まれ、其の中に、

  史跡明治天皇行幸所六連島灯台
    昭和十一年十一月 文部大臣指定
    明治四年十一月二十一日 初点

と刻まれた花闇岩の碑がある。

 その後、明治四十二年(1909)八月、竹の子鹿の台場ヶ鼻に通航潮流信号所が設置され、大正二年(1913)には巌流鳥にも灯台が建てられた。弟子待・田の首・福浦などに白灯台、黒灯台と言われるほど多くの灯台が建てられた。これらの灯台は、今も行き交う多くの船の航行の安全を見守っている。
(下関の記念碑)

 六連島灯台は、元治元年(1864)馬関戦争に敗れ、四国連合軍と講和条約を結んだ際に、開港の条例の一つとして、関門海峡の整備と灯台の設置を要求され、明治政府はこれに応じて、明治元年(1868)、英国人アルヘンリブランドン以下五名の設計技師らを招聘し、設計を始めた。明治四年には、灯台守として英国人ローランド・クラークが着任した。


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