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正願院尊了書 高さ五百センチ、幅九十センチ、厚さ三十五センチ花崗岩の碑は、台座を含めると高さ七百五十センチもの大きいものである。題字は正願院尊了が寄託し、碑文は泉道雄が書いている。 お軽は、享和元年(1801)大森岩松の次女として少女時代は島一番のお転婆娘であったそうで、姉が早く死んだため、十七歳の時、向井家から次男の幸七を婿養子に迎えた。二人はひともうらやむほどの仲であったという。ところが正直者の幸七に好きな人が出来、家に帰らぬようになった。 心から夫を信じていたお軽は、悲しみの毎日を送りましたが、とうとう寺通いを始めるようになった。一時は死のうと思ったお軽は、西教寺八世住職、現道師の法話を聞くうちに生への望みを取りもどすことが出来た。 お軽は、現道の弟超道に俳句を、現道次男の大龍に和歌を教わり、何百もの句や歌を残しました。しかし、お軽は文字を知らず、これらの句や歌は、現道並師口述筆記のお陰で残すことができたと言われる。 安政三年(1856)正月十六年、五十六歳の生涯を閉じた。辞世の歌に、「亡きあとに軽を尋ねる人あらば弥陀の……」と詠んでつき、下の句は聞き取れなかったという。 お軽のことは、弘化四年(1847)に発行された『妙好人』の第三編に所収されており、生存中に登載された妙好人はお軽一人だと伝えられている。 『妙好人』は行状の立派な念仏者を妙好人と呼び、浄土真宗では、その人たちを特に集めて本にしたものである。 また、同行とは、心を同じくして仏の道を修めることで、禅宗では「どうあん」、真宗では「どうぎょう」と読み、その道の信者を指している。 真宗の人々は、加賀の千代・大和の清九郎と長門のお軽の三人を三同行と呼んでいる。 お軽の墓は、夫幸七と一緒に西教寺近くの笹原墓地にあり、今も遠くから多くの人達が墓をたずね、線香の絶えることがない。 (下関の記念碑) |