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■六連島の歴史

3.農業

六連島の状況は、漁業を主とする蓋井島とは同じ響灘の海島でありながら対照的である。

 島の台地は、北の台、西の台、南の台の三地区に区分され、狭い森林部を除く大部分が畑作耕地として利用され、肥料としてはうち寄せる海藻を採取し、利用していた。

 島には斜面部分以外に湧水はなく、従って、斜面部分を除いて台地状では稲作は行われていない。集落は島の東側に位置し、戸数58戸である。同島の集落の形勢は16世紀末の6軒の入百姓から始まったが、暗影4年(1775)までに現在の戸数にまで増加し、以降、大幅には増減していない。

 現在の生業主体は下関市場へ出荷する路地野菜類と園芸作物類で、戦前までは小麦と甘藷が主に栽培されていた。水耕は、島の南斜面と東側斜面で、湧水を用いて10軒ほどの家が耕作しているが、1軒当たり1反程度の耕作面積に限られている。漁業は農業の片手間に行われる程度で、漁業を専業とする家は3軒に限られている。この点から、六連島の集落は、島に位置しながらも基本的に畑作農村であるといっても良いと思われる。

 戦後の安定期に入るや、下関市区や北九州地区への野菜の販路が容易に拡大し、園芸作物の栽培も兼ねて行うようになり、漁労依存の島から、農耕に重きを置く島へと変貌してきている。しかし、この場合、女性の生業における活動が重要となってきている。

 年齢階梯(かいてい)的習俗の強い島であったが、女性の野菜・園芸植物の栽培面における活動力が物を言う時代に入ってきているようである。
(「下関市史」民俗編)

石高
田畝数 2反9畝 田高 3石6斗6升
畑畝数 43反8畝13歩 畑高 16石7斗5升

   
 「豊浦藩村浦明細書」には上記のようにあって、安政5年(1858)当時、畑作中心の生業形態であったと判断される。

物産

 島の東方に空方という谷状を成せる所ありて、其所に人家集いて、現今寄留共65の戸数に、460余の人口がある。多くは農業に従事している。

 その反別は、畑、37町4反127(売買価額1坪1円位)、宅地、1町6反619(売買価額1坪3円位)、田、1町6反503(売買価額1坪1円位)、山林原野、14町9反919(売買価額1坪1円位)。他に6畝2歩の官有地あり、山林原野が比較的価額が高い、それが、この島の特色とのこと、おもしろい所である。

 物産は次のごとし。

160円位 椎、桃 50円位
2500円位 100円位
3000円位 枇杷(びわ) 500円位
午蒡(ごぼう) 2500円位 雲丹(うに) 3500円位
野菜類 1000円位 雑漁 500円位
雑穀類 500円位 海藻類 50円位
柑橘類 30円位

    
 この小さな島には、枇杷(びわ)が多い。年収500円というのを見ても、この島随一の財源である。その当時になると実に見事なもので、黄果累々として枝もたわむばかり。緑葉の間に露見するところは珍しい口径、椎(この島では馬刀椎と呼んでおって普通のよりはよほど大きい)、桃などのごとき果実はみな山林にあるのだ。本島の山林田畑が、他に比較して価格の良いのもここである。

 芋、牛蒡(ごぼう)、雲丹(うに)、枇杷(びわ)の多種は名物中の生産に重きをなしているが、苟(いやしく)も六連島牛蒡といえば品質の良いものとして取り引きせられているのに見れば、甚だ盛んに栽培せられておることがわかる。惜しむべきことは、こと地味の好適せる牛蒡の名地も地域極めて狭いので、思うように作れぬのである。六連島牛蒡の名を知らぬ青物やはまだ斯界には青二才たるを免れぬのじゃ。
(「硯海の楽土」)

牛の正月

 旧暦正月11日は、牛の正月である。このに日なると、これまた奇想天外だ果樹には鉈(なた)を以て切形を付けて、この日に炊いた福入りという餅の粥を塗りつけて、「これを食わするからよく実れ」と宣告する。こんな妙な慣習は、初めてである。同島に果物の実がよく実るのも全くこれがだめだといって大に得意がっておるが、あるいはそれかも知らんという。
(「硯海の楽土」)

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