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2002年8月13日公開
2005年11月12日沖ノ島の写真を追加

 

      
筋山砲台跡

火の山砲台や老の山…

下関は、戦前、大陸の窓口として発展するとともに、アジア諸国への侵略の窓口ともなりました。そのため、街は、同時に重要な軍事要塞でもありました。
 その往事をしのぶ軍事施設がいまでも市内各地に点在しています。比較的知られているのが「火の山砲台」跡や「老の山砲台」跡ですが、こうした施設について戦争遺産として保存し後生に伝えて欲しいという声があります。老の山の地元自治会では、防空壕を活用して資料館をつくって欲しいと市長に要望しています。

 彦島には、老の山以外にも、現在の「彦島南公園」(通称・海軍山)や「田の首」の山(通称・陸軍山)などにも軍事施設がおかれていました。
 「田の首砲台」は、残っていませんが、隣接する筋山砲台は、現在まで国有地として開発の手が入っていないため、当時の姿をほぼ完全に残しています。教育委員会の担当者は、「今まで見てきた下関の軍事施設遺産のなかでは、最高に保存状態が良い」と語っています。

筋山砲台
 明治 年(1888)着工、翌年完成。6門編成の砲台。隣接する田の首砲台、さらに老の山砲台は、海底電線を通じて壇之浦の要塞司令部と連絡した。尚、田の首、筋山砲台は大正9年(1920)、要塞整理によって廃止された。
(原書房「日本築城史」より・図面も)

地図と解説文は近藤栄次郎さんのページから引用させていただきました。

 この筋山砲台跡を2001年12月23日に訪れ、写真とビデオ撮影を行ってきましたので紹介します。

ビデオ映像を見るためにはリアルプレーヤーが必要です。
ここからダウンロードしてください。BASIC版は無料で使用できます。
遅い回線
画質低
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画質高
modem
56k
DSL
CATV
256k
DSL
CATV
512k
彦島筋山砲台跡・攘夷戦時代の砲台

 

筋山砲台跡・外観

 上の写真は筋山砲台跡を造営するために人力で掘られたV字谷の底です。左手は内陸側で右手が海峡側です。右手に砲側庫(ほうそくこ)が並んでおり、その背後に砲台がすえられていました。12月という季節にもかかわらず雑木・雑草が生い茂っています。砲台のすえられていた土台や底へ上るための石段、砲台と砲台の間を結ぶ通路などはかすかに石組みが残っているものの、原型を想像するのは困難な状態です。

 砲側庫というのはその名の通り、砲台のすぐ側にある倉庫のようなもので、弾薬を収めたり、兵員が控えたりする場所です。彦島筋山砲台には1号から6号までの砲台が築かれ、それぞれに対応する砲側庫が準備されました。現在も造営された6組の砲台がそのまま残っている貴重なものです。ちなみに、兵舎は砲側庫とは別に建築されていました。

 通路はこのようになっています。はっきりとはわかりませんが、通路はさらに一段低くなって凹字型に石が組んであるようです。写真の撮影地点は1号砲側庫付近から6号砲側庫方向を見ています。彦島筋山砲台の一番奥から正門方向を見ていることになります。

 これだけの施設を国策として2年で完成させたのだそうです。

 

筋山砲台跡・砲側庫

 この写真はV字谷の上から砲側庫を見下ろしたところです。1つの砲側庫には1つの入り口とその左右に一組の窓があり、砲台は砲側庫の裏手の一段高くなった部分にあり、砲側庫の脇に砲台へ続く階段が残っています。砲側庫1つと砲台1基が組になり、これが6組並んでいます。写真は1号砲側庫です。

 砲側庫は遠めに見ると樹木に埋もれているように見えますが、意外と原型をよくとどめていてほとんどの砲側庫が内部にも入ることができます。

 壕の入り口の高さは2メートル程度で、入り口には扉が取り付けられていた形跡が残っています。入り口の上には御影石に砲側庫の番号が掘り込んであります。内部は奥行き6メートル、幅5メートル、天井はカマボコドーム上に中央が高くなっており、最も高いところで2.7メートルです。

筋山砲台跡・砲側庫の内部

 上の写真は壕の中に入って入り口を振り返ったところです。内部はレンガ積みで床面はコンクリートで平らになっています。壁も単調な平面で特に造作はありません。

 上の写真の通り、砲側庫の最も奥には排気のためと思われる通気口(?)が地上まで続いています。上を見上げるとこの煙突はかなり長く、壕の上に非常に大量の盛り土がしてあることがわかります。天井部分の構造はレンガ組みをモルタルで固め、その上にコンクリートが厚く塗られ、さらにその上に盛り土をして植樹がしてあるのだそうです。

 以上のことから砲側庫を透視すると上のスケッチのようになると思います。
 間口5メートル、奥行き6メートル、天井の最高部2.7メートル。レンガを積み上げ、モルタルを塗り固めています。天井はさらに1メートルほどコンクリートが天井のカーブに沿って入れられ、さらに数メートルの盛り土、その上に草木があります。
 砲側庫の奥には地上まで通じる通気口(砲撃の際には大砲との会話にも使われたのではないかと想像します)があります。

筋山砲台跡・スケッチ

 砲側庫と砲座の位置関係を受けから見ると上図のようになります。
 砲側庫はV字谷の底に作られた通路から階段数段で下に降りた位置にあります。通路の中央は凹上に石が組まれています。砲側庫の脇には裏手の砲座に上がる階段が作られ階段を上り詰めた位置に砲座があります。砲座は階段状の丸いくぼ地ですが、腐食した植物などで埋まっているため内部構造はわかりません。砲座の周りは丸くすり鉢状の地形になってます。

 上の図は彦島筋山砲台のかつての姿の想像図です。

 砲座は手前の6号砲台は現在の状態ですが、1〜5号には砲塔を想像して描いてみました。砲塔のデザインは下関(1888年着工)に10年遅れて同様の砲台が築かれた北海道函館山(1898年・明治31年着工)に現存している砲台を真似ました。

 6号砲塔の前には門のようなレンガ積みの構造物の残骸が残っていましたので、1915年に作られた門司検疫所彦島措置場の門をまねたものを描いてみました。今回の現地調査では1号砲塔の方から現地入りしましたが、6号砲塔からふもとの道路までは幅1メートルほどの道が現在も残っています。

 実際にはこのほかに兵舎や監視台などがあったはずですが、場所やその構造については情報がありません。1号砲台側(上のスケッチの奥側)にはもう場所がありませんので、6号砲台向かって左手に広い更地がありますので、そこに関連する施設がまとまって造られていたのではないかと想像できます。

 砲台の向こうは関門海峡、そして北九州です。

和歌山市沖友が島の砲台跡 >>地図

 和歌山市と淡路島洲本市を隔てる友ケ島水道は幅およそ8キロでその中央付近に総称を友ケ島と呼ぶ沖ノ島、神島、虎島、地ノ島があります。現在、この四島は海水浴場・キャンプ場として夏には大勢の観光客でにぎわいますが、第二次世界大戦までは軍事要塞として使用され一般人の上陸は禁止されていました。

 沖ノ島には彦島筋山砲台跡とそっくりの砲台や弾薬庫が戦争遺跡として残っており海水浴客が足を伸ばして見学する光景が見られます。

 筋山砲台跡と一見そっくりの構造ですが、筋山砲台跡にある弾薬運搬用の軌道(溝)がこちらにはありませんし、こちらは窓の上にアーチが作られているなど(彦島筋山は一枚岩が乗せてあるだけ)よく見ると多くの違いがあって興味深いです。

関連サイト
 北海道遺産:函館山と砲台跡 
 門司検疫所彦島措置場 

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