服部明子の平家物語研究室

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■ 千葉江州、服部明子対談・近江の街道遊歩

服部 明子 「平家物語を始めとして、京都は外せないところですので、皆様も幾度となく訪れられていると思いますが、今日はちょっと京都を通り過ぎたところから源平由来のものを眺めていきたいと思います」

千葉 江州 「JRで京都から山科のトンネルを抜けると滋賀県になります。車では名神高速道路で京都東ICを下りて京滋バイパスに入って少し行けば滋賀県です。かつて近江国と呼ばれたこの地はそっくりそのまま滋賀県に名称が変わってしまったのですが、京都と同じように盆地に集落が栄えたところでもありました。ただ、やや西寄りに琵琶湖という大海が横たわっており、西岸と東岸、北岸と南岸で随分風景も違ってきます。

西岸の堅田(かただ)には山本義経、柏木義広の兄弟が勢力をもって平家に盾を突いていたことで知られています。吉川英治の「新平家物語」にも山本義経は源義経と象徴的な出会いをする場面を用意されていました。二人義経の掛け合いは何処までが史実であったのか分かりませんが、面白い話ですね。義経同人説もあるようですが、山本義経も鎌倉政権が成立して間もなくの頃より史上から姿を消しているようで、何らかの脈絡があるのではと疑問を生じさせたのでしょう。

琵琶湖の岸は葦の生い茂った状態に当時はあったのでしょうが、今ではそのようなところを見付けるのも難しくなっています。山本義経らは琵琶湖の水上交通を握っていたのでゲリラ的な活動ができたのは理解できますね。義仲に味方したり、鎌倉に寝返ったりしつつ要領よく立ち回っていたようですが、鎌倉の政権が守護として佐々木氏を置いて以後は振るわなくなったようですね。」

服部 明子 「山本義経は<義経>という名前の偶然の一致で源義経と混乱されたのでしょうか?
それとも? この人物は近江源氏山本義定の子供とも言い、源範頼・義経が鎌倉から来ると歴史から姿を消して?いますが近江出身の佐々木源氏兄弟の勢力下にでも入ったのでしょうか?それとも佐々木との反目で消えていったのでしょうか?面白そうですね。吉川英治の「新平家」では新宮の息子として書かれていましたよね。チビで出っ歯で品が無い、などとかなり悪意が入っていましたが源義経の特徴そのまま?のようでもあり、これも歴史の謎ですねぇ。常盤御前の息子なら源義経はハンサムだったでしょうが父親に似ればブ男だったかもしれませんし、先祖返りでご先祖の誰かに似て醜かったかもしれませんし、山本義経は源義経の身代わりに損な外見にされたのかも知れません。歴史上の3流以下の人物はこういう扱いをされるのか、と気の毒になります。」


千葉 江州 「西岸には比叡山が聳えています。平家物語には欠かせない大立ち回り役者を輩出した延暦寺がありますね。私から十代前にこの寺に入って蓮華院の主にまで栄達した人物がおりました関係上、延暦寺は訪れます。平家物語に限らず京都の鬼門筋に鎮座するこの寺には都の権門達も梃子摺った様が描写されています。今年も5月のGW終わり頃に訪れたのですが、桜はまだ残っていましたよ。少し標高が高いので少し遅れての花見ができました。

御存知のように豊織時代にその山全体が烈火に覆われた経緯がありますので、平家物語時代を臨んできた建物は数少なくなっています。延暦寺へ辿り着くまでの道でところどころ京都の町並みが見える箇所があるのですが、源平時代の僧兵達はここから強訴のために下りて行ったのですから、逆に帰りの上りはさぞかし辛いものがあるなあと思ってしまいました。今では車で易々と延暦寺まで乗り付けることができますから有り難いことです。

服部 明子 「私は雄琴方面から比叡山に上ぼり、京都に下りました。この道を比叡山の僧達は都に雪崩込んだのか、と感慨深いものがありました。かなり距離がありましたから、駅伝のように各坊所で待ち受けてて、リレー形式で京都に入ったのかしら?と空想しました。比叡山に登ぼるにも大きな山ですからどこかで泊まったのかしら?とも思いました。」

千葉 江州 「叡山から西へ下りて行くと八瀬の方角へ辿り着きますが、更に北へ進路をとれば鞍馬になります。牛若丸が鞍馬寺に稚児としていながら、野生児的に育ったのでしょうか?そう思いたくなるほど鞍馬ってところは野趣溢れた風景が現在まで残されているところですね。高校生の頃には遠足と称して京都に現地集合して一日で20kmくらいを走破するような強行軍の徒歩を強いられた思い出があるのですが、高尾の神護寺も鞍馬もそうやって歩いた苦痛の思い出のあるところでもあります。でもそうやって地に足の着いた歴史の勉強をさせられたのかなあと今になって思い返すことが多いですね。

平家絶頂の頃は即ち対抗勢力がぐうの音も出ないほど叩きのめされていた時期でもあり、かえって世の中は静謐になっていたのではないでしょうか?その都を文覚や弁慶らが往時の都を闊歩していた姿を見ただけでも痛快だったことでしょうね。でも彼らのネグラは高い山にある神護寺や延暦寺だったのですから、往時の人達の中でも抜きん出た健脚を誇る猛者(アスリート)だったことは間違いないでしょう。」

服部 明子 「20キロの<遠足>ですか?昔の人は健脚でしょうから、やはりその日の内に登ぼり、逆に、京の都に雪崩込んだのでしょうか? 比叡山の強訴に脅える京の姿が納得出来ました。 」

千葉 江州 「京都の八瀬の方から叡山へ上がってくる途中に四明ヶ岳があります。ここから平安京を眺めながら藤原純友と平将門が密約を交わした場所として知られたところです。純友は西日本を、将門は東日本をそれぞれ分け取りにしようという豪快な内容だったのですが、それぞれ共目的を達することなく鎮圧されてしまったですね。豪傑同しが都の鬼門で物騒なことを相談していたなんて当時の人達も随分と驚いたことでしょう。勿論よく出来た作り話だったと思いますが…。

叡山から東の方を臨みますと今度は眼下に大津の風景が開けています。瀬田のところから堅田の琵琶湖大橋まで目に入ってきますから、義仲が北陸から大挙攻め上ってきたのも見えたのでしょう。叡山の僧兵も平家の都落ちで追い落としに一役買ったことでしょう。中央付近には少し形の奇麗な山が見えますが、それが三上山です。野洲郡にあるこの山は古くから伝説のあることでも知られています。

私の先祖達が移住してきたのは三上山の少し東側に行った在所なのですが、まったく同年に遠い一族に当たる大名の遠藤家が三上山に転封されてきました。その三上山は近江富士とも呼ばれるあまり高くはないのですが、非常に形の美しい山です。三上山というと古典をよく御存知の方は俵の藤太の百足退治を思い出される筈です。三上山に住んでいた龍神が大百足にその聖地を奪われ、瀬田の橋の上で困窮していたところに東国への帰途にあった藤太が通りかかり、龍神は藤太に百足を退治てくれるよう懇願したのでした。藤太は得意の弓矢で難敵大百足を倒して龍神の願いを叶えてやりました。龍神はお礼にと、宝物であった食べても尽きぬ俵を藤太に授けたのですが、その時以来藤太は「俵の藤太」と呼ばれるようになり、宝物のお蔭で家の子郎党を大勢養う優勢の豪族になったとされる伝説を子供の頃によく聞かされたものです。

俵の藤太は実は藤原秀郷の別名でもありました。彼は平将門の乱を鎮圧した人物としても知られています。将門の勢力がだんだん大きくなってきたので、その味方に参じようと将門の陣を訪ねたところ、将門は一緒に昼餉を摂ろうと誘い、秀郷もお相伴したのでした。でも将門の御飯の食べる様は幼児のようで、ぼろぼろとお椀から御飯粒を零すのを見て、将門は将たる器にあるまじき人物と悟って陣を辞し、将門を討伐する軍の先頭に立ったとされます。結局将門は俵の藤太が放つ名人級の弓矢によってこめかみを射抜かれて絶命しています。その将門の血が将門の娘を通じて千葉一門に継承され、その末裔である遠藤家が三上山に戻ってきたということで何やら因縁めいたものを感じます。 」

服部 明子 「藤原秀郷が登場しましたね。私は今年4月の里帰りでは栃木県田沼の秀郷の墳墓に参りました。唐沢神社の方ではありません。面白かったですよ。墳墓を捜している時に、町の人に場所を尋ねましたら途端に雷鳴が轟き渡りましたから。聞かれたのかしら?と思いました。 」

千葉 江州 「叡山からの眺めでもう少し近くに視線を移しますと義仲寺が麓にありますね。義仲は鎌倉軍に敗北して北陸落ちをした際に、この叡山の麓で三浦党の石田某の放つ矢玉の餌食になり命を落としてしまったのですが、今も義仲寺で祭られているのは御存知の通りです。義仲はこの道を通るのは生涯で二度しかなかったのですが、上りは平家を追い立てる勇壮な上洛でありながら、下りはとうとう故郷には辿り着けず、近江の泥田に馬足を取られて的になった。何か空しい一生のようにも思えますね。」

服部 明子 「私も行って来ました。「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」と句が詠まれていましたね。小さなお寺ですが供養されていて嬉しかったです。石山寺の近くの場所には今井兼平のお墓があるそうですね。青嵐町?とかに。こちらは行けませんでした。機会があったら行ってみようと思います。」

千葉 江州 「義仲の描かれ方も少し将門と似通ったところがあるように思えてなりません。新平家物語でも薄汚れた椀で猫間中納言相手に昼餉を共にしようとさあ一緒に食えと催促する場面が出てきましたよね。どうしても鎌倉殿を是とするには義仲を非としなければならない勧善懲悪のシナリオが見て取れそうです。いくら木曾の山奥で育ったからといって、そう下品に人間育つとは思えないのですが、田舎者のレッテルを貼られてしまうところに義仲にも同情の余地があります。」

服部 明子 「義仲の「猫ご飯」の話、将門の「食事マナー」の話。底にあるのはどういう意味なのかしら?と思います。東南アジアの人のお弁当を見ますと「ご飯の上」に汁系のおかずが乗っていて私にはげぇっとなりますが、日本の「丼物」と思えば理解も出来ますから、当時の人々には「あんな食べ方を」と軽蔑はしても理解はして上げなかったということでしょうか?ご飯は白いまま食べるものだ、落とした飯粒なんか大将たる者拾って食べるな、という意味だったのでしょうか?今1つ分かりません。」

千葉 江州 「義仲のいい時期も平家を都落ちさせて少しのほんの一瞬だったですねえ。後は無理矢理後白河法皇に急かされて西国討伐に仕向けられ、挙げ句の果てには水島で大敗してしまう。負けが込むと今まで手を捏ねて追従していた者達もどんどん逃げ去って、気が着けば元の親衛隊のみになっていた。その上、後白河法皇は鎌倉の頼朝を上洛させようと手引するなど義仲にとってはヤラレ放題。遂には落日の身の上ながら、皮肉にも後白河法皇から旭将軍の名を賜るなど位打ちにも近い処遇だったですよね。征夷大将軍の宣下を受けてわずかの期間でその生涯まで幕引きを迫られようとは彼自身夢にだに思っていなかったことでしょう。

少し源平時代から下って織田信長の時代には安土に異様な城郭を築いていたのですが、叡山辺りから見ると周辺には高い建物はなかったでしょうから、非常に目立ったことでしょうね。現在の風景では大津から少し左手側に大津プリンスホテルが琵琶湖に面して屹立しているのですが、非常に湖に映えていますから、ちょうどそのように琵琶湖に姿を映す巨城が大津プリンスホテルの位置からもう少し左手に見えたことでしょう。天下に号令を下さんとしていた信長の腐心は想像を絶した形で実現されたんでしょうね。

ちょっと叡山から見回した限りでも源平ものに関わる事物がたくさんあります。まあ日本の歴史の大部分がこの京都を中心にして回ってきた経緯がありますから、この辺りに集中してあるのは当たり前なのですが、それにしてもちょっと移動するだけで「何それの由緒のある事物」に行き当たってしまうのに街の歴史の重みを感じたりしますね。でも近江の入り口辺りでのろのろしていると先へは進めませんので、少し東に転じてみましょう。

大津から東へ国道1号線を進んで行きますと膳所があり、石山寺を右手に過ぎていきます。結構この間はよく渋滞してまして抜けるのに時間が掛かります。栗東まで混みますが、それからは結構すいすいと動いていきます。実は栗東付近からは名神高速道路と国道は違う方向に分かれていきますので、車の量も減ってくるようです。栗東から半時間も走らせればかつて甲賀と呼ばれた町々が目に入ってきます。」

服部 明子 「私は名古屋から伊賀上野に出て、柘植に戻り、大津に出る途中で甲賀を通りました。伊賀と甲賀は山を隔てた背中合わせの町でした。ほんの数キロの距離のようでした。伊賀と甲賀は昔は同じ国の中にあったのに後に別の国に入れられたというのを読んだことがあります。でも隣同士というのはえてして仲が悪いですから別の国に入れられて対抗し合っていた、と思う方が理解し易いです。」

千葉 江州 「甲賀は忍者の里として伊賀と共に有名です。甲賀(こうが)と呼び習わしされていますが、土地では(こうか)と濁らないと聞いてます。実際に日本語のWORDで入れてみたところ、どちらでも甲賀が選択できます。甲賀は信長に盾突いたために攻められて本拠を灰燼に帰されてしまっていますから、今ある忍者屋敷と称するものは随分後世になってから建造されたものでしょうね。源平合戦の時代にはまだ忍者という職業は見当たりませんから、この当時の甲賀も農民の里だったのかも知れません。

忍者といえば伊賀と甲賀が関西では双璧となります。その伊賀と甲賀は鈴鹿山系を隔てたに過ぎない近距離に位置しています。幾分山がつの伊賀は伊勢平氏系の末裔が盤拠して勢力を数百年に渡って溜めていって一挙に戦国時代に開花していったのでしょうね。それにまだ織田家に従属していた徳川家康にいち早く味方していたことから、結果として江戸時代に勢力を盛り返すことができたのはご承知の通りです。それに引き換え甲賀は大きな街道沿いにあったので早くから情報収集に長けた侍達が忍者として発展していったのかも知れません。ただし、甲賀は戦国末期から劣勢に立たされ、結果として逼塞せざるを得なかったんでしょうね。それよりか、商売換えをして商人として立身していく術を見出したというのが正しいんでしょうか。

甲賀から少し北に入って行くと近江商人達を輩出した日野、五個荘、八日町、近江八幡といった町が連なって点在しています。兼松江商、伊藤万、伊藤忠とかいった錚々たる商社の創始者達もこれらの町から世界へ進出していったのです。近江商人の形態自体小さな商社みたいなものでしたから、天秤棒を担いで行きは薬を行商して、帰りは日本各地の物産を担いで持って返ってくる。日本の一大流通拠点の機能を荷っていたといっても過言ではないですね。

私の先祖が代々住んでいた場所のすぐ近所からも銀座中村屋の創始者が出たと聞いたことがあり、さすがに凄い土地だなと思いましたね。情報通ということでは甲賀忍者の血脈を彼らも受け継いできたのかも知れません。傭兵や忍びで日本各地の大名に雇われた経緯がありますから、日本の至るところの情報が近江で交換されていたのかもしれません。世の中が泰平になると忍者の子孫達も生活に立ち行かなくなり、やむなく先祖伝来の薬草の技術を生かして日野の薬売りとして活路を見出したのかも知れません。今でも日野の辺りには配置薬(これって日本独特の形態で欧米ではないものですね)の製造業や販売業を営んでいるところが多数残っています。(もう一つ富山の薬売りも有名で、近江の日野と同じような形態で産業が成り立っています。)

そうでないと関西屈指の穀倉地帯の近江の集落にあって、どうして世界的な流通業を興隆させていくことができたのか説明が着かないくらいです。それくらい甲賀忍者の血脈が地に染み込んでいたのではないかなあと思うのです。」

服部 明子 「甲賀忍者の末が後世の日本経済に活躍貢献した、とのご指摘はいいですね。伊賀忍者がストを起こして結束を乱し頭領が政治問題で失脚して力を失い日本の歴史から衰退して存在を消したのとは対照的で。」

千葉 江州 「伊賀と甲賀は確かに隣接したところにあります。実は鎌倉時代の宝治年間頃(1250年)から室町初期(1350年)のおよそ一世紀の間下総に本拠を持っていた千葉氏が本国下総の守護と共に伊賀の守護も兼任していました。(北条氏が絶頂の頃に何故か守護国が増えたところが不思議ですが…。)千葉氏も京都趣味が多分にあるようで、関係する出先の土地土地に後世小京都と呼ばれるような区画整備をして城下町を形成してきた経緯があります。肥前小城、美濃郡上八幡、伊賀上野が代表的なものでしょうか。当然本拠地の下総も猪鼻台と呼ばれる居館を中心として現在の千葉市の基となる城下町を造っています。特に、肥前の小城には祇園祭まで勧請してきたと謂われていますから相当の京都趣味だったと思います。

伊賀にも一世紀の間足跡を残してきた筈なのですが、今では見る影もありません。伊賀と甲賀とも私の家にとっては密接な関係を持つ場所だった訳ですが、何も残っていないというのも味気無いものですねえ。」

服部 明子 「伊賀は信長の伊賀攻めで蹂躙されていますから、高尚な町の作りが当時にも残っていた
としても、信長の時代に失われた、と思います。篠田監督の「ふくろうの城」はその時代が背景か、と思います。でも千葉氏の町作りは多分時代考証されていないでしょうね。忘れ去られているのでは?と思います。」


千葉 江州 「国道1号線の北側に旧の東海道が併行して続いています。結構蛇行して道が続いているのですが、歩いてみますと何と無く昔の街道を行く雰囲気は味わえます。ただし、明治以前は土の道で幅もあまりないとくれば歩き勝手のよい道とは言えなかったんでしょうね。最近の研究ではかえって大和朝廷時期の方が大規模な道路作りを展開していたことが分かってきているそうですから、江戸時代に徳川幕府の政策で道の劣悪化を促したのかもしれないですね。」

服部 明子 「大和朝廷の時代の伊賀は政権の場に近く、重要性があったかも知れませんね。大陸からの人々を伊賀に住まわせていますし。天智天皇の息子で天武天皇に敗れた弘文天皇(←おくり名ということでしょうね)の生母は名前からしますと、伊賀出身のようですね。」

千葉 江州 「敢えて関ヶ原のある北側の回廊を避けて進んでいますが、鎌倉末期から近江の中央から北部に掛けて古戦場が点在するようになりますよね。」

服部 明子 「はい。近江は戦いの十字路だった、という表現がぴったりですね。やはり壬申の乱が最初の大きな戦いで、その後は源平、そして鎌倉末期には新田の敦賀落ちがございましたし、戦国時代は「戦場」でした。のどかな田園地帯になっているのを20年くらい前に見たことがございますが(ここで日本の雌雄を決した場所だったのか)と感慨深いものがございました。」

千葉 江州 「これって東南部が東海道の本道で賑わってくるためにわざと避けたのでしょうか。御存知のように、関ヶ原の付近は冬場に雪が降り積もり易いところですから、あまり集落も大きいものができなかったんでしょうかねえ。父も日野の辺りまで雪が積もるのは大雪の年くらいしか知らないようなことを言っていましたから、よほど住み易いところだったんでしょうか。

近江もかつて都があった関係上、すなわち、百済の援護で兵を出して白村江の戦いで新羅に負けたので、新羅が日本に攻めてきても防衛できるように内陸の近江まで首都を移したというのが実状だったようですねが、随分早くから開けていたはずですが、大津の付近を外れると途端に田園風景が広がっていたと想像されます。」

服部 明子 「天智天皇は白村江で敗れて「彦島」で大陸からの進攻を防ぐつもりだった、と司馬遼太郎の作品に書かれていました。」

千葉 江州 「源平合戦時代には大軍が往来する通路としての機能しか果たさなかったのですが、それでも東海道と北陸道に平家も幾度となく大軍を繰り出しています。大軍が通過するということは近江の穀倉が兵糧として徴発されたことでしょうから、治承から寿永に掛けては随分疲弊したことだろうと想像します。それでなくともその後義仲や鎌倉の軍勢も征西のため往来していますから。

この地は琵琶湖の東南に当たる甲賀から近江八幡にかけてもなだらかな丘がある盆地になっており、日本有数の米産地帯でもあります。江州米(ごうしゅうまい)として美味しいお米の代名詞にまでなっていますね。米の銘柄としてはコシヒカリなどではなくて日本晴だったかと記憶しています。そういう関係もあって、当時から兵糧の補給地としての存在価値があったのではないかと思うのです。

穀倉地帯でありながら、近年では工業団地が各所に出来て京阪神に拠点を持つ企業の工場が多数車を走らせていても目に入ってくるところとなっています。たぶんほんの20年ばかり前の風景を見覚えている人が見ればとんでもないほど景色が変わっているところでもあると思います。」

服部 明子 「でしょうね。私のイメージ・カラーは「緑」でしたから。因みに愛知県の「日本晴れ」はマズイです。炊き方が悪かったかも知れませんが。」

千葉 江州 「この辺りに来ると源平合戦に関わるものが随分希薄になってきます。もう少し行けば伊勢なので、文字通り伊勢平氏発祥の地になる訳ですが、かといって佐々木流源氏が跳梁し始めるのは鎌倉期に入ってからですので、源氏の痕跡が認められるのはやはり尾張まで行かないとありませんね。尾張には熱田神宮もあり、義朝を謀殺した長田氏の本拠もあり、随分源氏の色が鮮明になるのですが、近江の東南地域は世の中が引っ繰り返る時にひょこっと姿を現すんですよね。

水口(みなくち)を過ぎるとますます景色は寂しくなって、更に東へ行きますと鈴鹿山系が近づいてきます。鈴鹿山系の峠を越えると更に雰囲気が変わってきます。いよいよ伊勢に入っていくことになります。」

服部 明子 「水口は甲賀地方の中心で、石田三成の懐刀の長束正家が城主でしたね。滋賀は大坂の守りということで、地名を見ていると重要人物の城がたくさんあった事が分かりますね。」

千葉 江州 「東海道筋に私の先祖達は棲んでいて、しかも蒲生氏の居城跡に屋敷があったと伝え聞きます(私の家も遠藤家と同じく因縁めいたように秀郷流と関係がありましたね)。有名な浅井氏小谷(おだに)城ではなくて、蒲生賢秀の一族に当たる人物の居城であった小谷(こたに)城です。まあ、城といっても周りに簡単な濠を巡らせた館のようなものだったんでしょう。

蒲生氏も秀郷の流れを汲む家柄ですが、氏郷が出るまではマイナーな氏族でしたね。ところが、結局わずかな期間しか大大名として存在できなかった。氏郷という人物は才気走っていたところが表面に顕れ過ぎていたために秀吉は遠ざけたんでしょうか。氏郷は信長の娘婿にされたぐらいでしたから、信長亡き後にうまく光秀を討てれば自身が後継者になれたのに、衆寡敵せず安土城を明け渡して父賢秀と共に蒲生城へ退いてしまったのは彼自身悔やんだことでしょう。随分北方に追いやられて鬱積した気分を残したまま若くして亡くなってしまいますが、滋賀県でも近江出身の武人としては人気の高い人ですね。

近江は結局佐々木氏が守護となり、京極氏・六角氏に至るまで延々と近江との関係を保ち続けた訳ですが、ご多聞に漏れず安土桃山から江戸時代に掛けて支配者の入れ替わりが進み、近江最大の大名は井伊家となりましたね。つい最近まで彦根市長は井伊家の当主だったか、その弟だったかが就任されていたと記憶しています。そこまで続けば大したものです。近江は江戸期に各家に細かく所領が振り分けられたため非常に錯綜としており、町や村単位で所領を色分けすると迷彩な図柄が出て来るほど複雑でしょう。」

服部 明子 「蒲生氏郷は伊達政宗とも虚々実々の駆け引きをしていますね。彦根の井伊家は幕末に損なクジを引いてしまい気の毒でしたから地元では支持を受けているのでしょうね。近江が細分された、というのは戦略的に重要な場所は天領だの各家に配分した、という説を読んだことがあります。戦国時代の近江は佐々木家・京極家・六角家・武田家などの名門名家が絡んで滅びていくところが日本の歴史そのもので興味の尽きない場所ですね。」


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