服部明子の平家物語研究室

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■ 千葉江州、服部明子対談・京都を熱く語る

服部 明子 「京都は源平時代にも虚々実々の駆け引きの舞台となった場所。清盛も義仲も義経も後白河上皇には翻弄されました。直接京都に係わらなかった頼朝は後白河上皇の手には乗りませんでした。私が京都で唯一訪ねようとした平家物語関連の場所は「祇王寺」でしたが外から見た様子や雰囲気は最高でも「偽物」って突然思い、入るのは、止めました。比叡山は京都の東北にあって(鬼門)京に邪悪な災いが入らないように阻止する為に延暦寺が置かれた、と聞いていますが確かに霊的な凄い<パワー>を感じました。天皇家との関わりが深く歴史の舞台にしばしば登場する比叡山は歴史的には荒法師の巣のイメージですが、現在のサラリーマン僧侶達はお札やら土産物を販売する軟弱な売り子に見えました。ひょっとすると、昔の比叡山の毎日の生活も現代の僧侶達同様、退屈な日々で、あり余るエネルギーを持て余した若い僧達が、何か面白いことはないか、と暴れ回ったってことかしら?と思いました。時代が彼らに爆発を許したのかしら?と。」

千葉 江州 「祇王寺も大原の奥にありますが、人造のにおいがしましたか・・・。確かに京都の寺社を巡っていてもどうも造り付けのにおいのするところが多いのは致し方ないのかも知れないですね。ただ、神護寺のような山奥の寺はやはり雰囲気が残っているように思います。これも何度も京都が戦火にあったために余程幸運でなければ当時の建物がそのまま残ることがなかったことと現在における客寄せのための美化によって人造物化してしまったんでしょうか。でも大原付近の寺社は京都の街中から随分離れているので当時の姿を伝えているはずですが、それでも美化に勤めてしまうと本来のわびさび感が欠如してしまうんで
しょうかねぇ。ある程度朽ちた土壁が取り巻いて、適度に寂びれた境内となっていた方が雰囲気を醸し出すのに寄与するのかも知れないですね。比叡山延暦寺は私の家とも関係が深いこともあるのも一因かも知れませんが、特に霊的なものを感じるよりは親近感の方が強いんです。確かに、僧侶のサラリーマン化は言い得て妙ですが、それでも千日回向を行われる阿闍梨は半端じゃありませんよ。絶食や夜中の山中走破などの苦行を積まれていくのですが、叡山にもこんな崇高な修行僧がいたのかと感動させられること請け合いです。 」

服部 明子 「あれは凄い修行ですよね。達成出来なければ「死ね」と。山の登り道を、腰を板で支えて伴走する若い人も、凄いな、と思いました。全速力で走って行くんですから。」

千葉 江州 「小京都のことで週刊ダイアモンドにブランド価値の特集の中で取り上げられていました。日本に点在する本家・小京都は53市町村もあるとのことです。京都が各地の小京都と称する地域に呼び掛けて全国京都会議を運営しているそうですが、加盟している小京都の市町村が年額5万円也を払って小京都のお墨付きを京都からもらっているとの内容です。」

服部 明子 「でも「5万円」とはどういう内訳なのでしょうね?上納金のようで嫌ですね。いかにも「京都」って感じで、嫌だな、と思いました。山口なんて小京都と呼ばれる代表的な町と思います。ただし大内氏の作った山口ですね。高山も小京都でしょう。津和野もいいですね。結局、有力者が町を切り開いて栄えたら、それで「都」ということで「京」ということと思います。」

千葉 江州 「小京都の中には千葉氏に関連するところとして、九州佐賀の小城町、三重県伊賀上野市、岐阜県郡上八幡町そして岡山県高梁市が上がっています。高梁だけはちょっと違って治世者ではなく作業従事者サイドで助力したところですね。備中松山藩の水谷(みずのや) 家に仕えていました臼井村胤が城下の区画整備などにタッチしていた筈です。若しかすると私の家もこの臼井氏から出ているのであれば千葉宗仙も従事していた可能性があるので・・・。そうなれば素晴らしいのですが。

伊賀上野は鎌倉中期から室町初期まで守護であった関係もあり、多少貢献していると思うのですが、その痕跡は分からないですね。ただ、小城町と郡上八幡は明らかに千葉系の痕跡が残っておりますので・・・。でも九州千葉や東氏・遠藤氏の功績ですから素直に私の系統が噛んでいないので誇ることができないのが残念ですね。

それじゃあ本来の発祥地である千葉はどうなんだというと、既に1160年頃には表八千軒裏八千軒と号するほどの城下町になっていたので、ついぞ小京都の称号を名乗ることができなかったんでしょうね。でも日本でも屈指の古さを誇る城下町の一つとして記録に残ることだと思います。ある本で源平時代の日本各国の旧国名下での人口を推定したものが載っていたんですが、その当時で下総の人口は13万人と推計されていましたから、表裏合わせて16000軒で各軒に少なくとも4人づついたすれば、それだけで6.4万人ですから下総の人口の50%が城下町千葉に集中していた計算になりますね。」

服部 明子 「千葉氏もいろいろな場所で栄えた、ということで楽しいですね。人口の50%が千葉に集中ということは、今の関東地方が日本の人口の25%を占めていることに比べたら、ずっとずっと集中していた、ということなのですね。これは意外な発見でした。」

千葉 江州 「飛騨高山、山口、津和野いずれも行ったことがまだないんです。日本にいながらもままならないものですね。まあ小京都という場所に興味がなかったというのが本音かもしれませんが・・・。どちらかというと自然を見るのが好きなものですから、どうしても北海道や海外の南の島や大自然の方がいいですね。

小城と伊賀上野はなぜかチャンスがあって訪れたのでした。小城では祇園祭が千葉氏によって京都から勧請された経緯があることを知り、やっぱり京都趣味があったんだと妙に納得したりしたものです。

服部 明子 「はい」

千葉 江州 「ところで京都の町を歌ったものといえば例の手鞠歌がありましたよね。「丸竹戎に押御池 姉三六角蛸錦・・・」の歌は今では京都でも聞けないんでしょうか?こうやって昔の子供は京都の地理を覚えたというんですが、今ぞろはカーナビゲーションが的確に行く先を指示してくれるのでもはや無用の長物に成り下がってしまったんではつまらないですね。京都の町屋も気が付けば探すのに苦労するほど数が減ってしまっているようですから、昔の情緒を楽しむというのはだんだんと無理になってしまうんでしょうね。

柊屋旅館の直ぐ横に高層のマンションが立つなど日本人て無神経に景観を潰していきますが、これが財産だったなんて思わないんでしょう。有識者という人達は総じてお金も権力もない人達の集合体ですから、いくら声高に叫んでも肝心なところには届かない。矛盾した構図を引き摺って京都の景観は崩れていくしかないのでしょう。

人が京阪神のような開けたところへ集まってくる限りはその棲家を広げざるを得ない。そうすればもっと効率の良い建物が要求されるのですから景観なんてことは言ってられずに入れ物をどんどん作っていく。そして京都の盆地が見渡せたのは京都を戦火から保護した連合軍の配慮だったにもかかわらず、日本人自身が無関心にそれを灰燼に帰してしまう。何時の間にこんな国民性になってしまったんでしょうね。

アメリカナイズされることが良いこととされる風潮はいまだに継承されています。でも本家本元のアメリカでも歴史的景観をないがしろにするようなことはしていないはずです。かえって歴史の浅い国ですから、少しでも歴史的な価値を見出せば徹底的に保護して保存していく姿勢っていうのは勉強してもらいたいところですよね。

京都は不協和音の中で景観を壊滅していく様はきっと他の国への反面教師として勉強材料にされることでしょう。箱庭のようなごく断片的な景色しか認識できない日本人って何だか貧租に見られているんじゃないでしょうか。」

服部 明子 「京都も、折角の建物の隣にコンクリートの箱のような建物を並べてしまう愚かさは矢はり、お金、のせいでしょう。私も京都に行って驚きました。観光対象の場所は充分その時代にトリップさせてくれますが、その場所を1歩出たら周りはどこにでもある安っぽい景色なのですから。ごちゃごちゃになっている、というのも日本人の頭の中と同じなのかな?と思います。残すのか残さないのか?残すなら、周りとの景観のバランスも考えて欲しい、と思います。結局は、土地が無いから、お金が無いから、いずれ「XX跡」という石碑が1つぽつんと残る、という形で消える運命なのでしょうね。惜しいことです。。。 」

千葉 江州 「私の大学の同級生に○小路という名の人物がおりました。ご想像の通り摂関家の遠戚になるお公家さんの末裔です。やはり古い家だけのことはあり、○小路家も鎌倉期に分家したまま代々名前になっているところの小路に面して屋敷を受け継いでこられていますね。ただし、その人の家は更に分家でご自分らの一族の墓を守っておられる住職の家系だということでした。

その人の家の前の小路は今も祇園祭の時には山鉾巡行の経路にあたっています。その山鉾ですがもう一人大学の先輩の方が京都の河原町にいらっしゃいまして、ちょうど薙刀鉾の町内に当たるお家でした。そのため、宵宵山時期にはお邪魔して鉾にも乗せていただいたこともありました。その人のお家も京都の町屋の造りになっていまして、鰻の寝床のように奥へ奥へと廊下が連なり、中庭もあって十分京都を満喫できたのを覚えています。でも祇園祭の山鉾巡行を道端で見た経験が無いものですから、全体がどうなっているのかかえって知らないのはおバカなことですねぇ。」

服部 明子 「なるほど。ドイツ語の諺、木を見て森を見ない」

千葉 江州 「祇園祭は7月の期間ずっと続くのですが、鉾山が立て始められる頃はなんかわくわく感があるのに、巡行が終わってしまった途端何が物悲しい感じで後始末が延々と続けられるんですよね。反比例して夏は真っ盛りになる。よく京都の人は耐えて祭を遂行されていることだと感心します。」

服部 明子 「印象的ですね。「コンコンチキチン、コンチキチン」のおハヤシは耳に残りますが、物哀しいですね。そして真夏が訪れる。ホント印象的ですね。日本の風物の原点と思い返しました。」

千葉 江州 「祇園祭以外では葵祭と時代祭が代表的な京都のお祭ですね。そのうち時代祭は大学生の頃に京都の悪友に引き摺られて一緒にアルバイトに行きましたよ。その時二人とも体格が良いからって言われて僧兵の格好をさせられました。その格好で都大路を練り歩き、1日3500円也くらいだったと記憶してます。下駄を履きなれないものですから案の定足の指の間に下駄緒ズレを起こして痛い思い出しか残っていないですね。それに10月末とはいっても僧兵は頭にかぶりものをしているので練り歩いていく過程では結構暑かった覚えがあります。ですので、二度とそのようなアルバイトに行くことはなかったのでした。」

服部 明子 「僧兵の頭巾って暑いものなのですか?冬に便利とは分かりますが夏は太陽の日差しを遮ってくれて「涼しいのかしら?」と思っていました。」

千葉 江州 「先日、京都を訪問した時のことですが、12年ぶりに大原を訪れることになりました。やはりご指摘されていました人造化の波はこんな辺鄙なところまで及んでいましたね。前回とは似ても似つかぬ風景に変わり果てていました。がっかりどころの騒ぎではないですね。至るところに駐車場があって、どれも平日なのに満車になっている。観光バスは入れ替わり立ち替わり人の排出吸入を繰り返し、三千院の境内はまるでラッシュアワーの通勤電車のような混みようでした。以前来た時には想像もつかないほどごった返した感じがしましたね。

山門内には新しい構造物も多数できていて景観が全く変わってしまっている。紅葉も暖かい気候が続いてあまり綺麗に色付いていないときている。人は多くてゆっくり見て回ることができない。なんか臨場感のないところになってしまったなあというのが正直な感想ですね。

12年前に訪れた時も使い捨ての写真でもって辺りの景色をパチリパチリと押さえておいたのですが、その時の写真を行く前に見てから来たものですから、余計に違う境内の中の風景に思わず拝観料を返せよ、と心の中で叫んでいましたね。人が多くって写真を取るにもなかなかタイミングが取れず苦労しました。前の時はちょうど同じ頃の勤労感謝の祝日に来たのですが、その当時は人もそんなに多くなくて心静まる思いで境内を散策できたものです。本当に時の移ろいというか、観光地化して俗化してしまうというのは残念なことですよ。おかげで廻りの寂光院にしても道路が観光バスや自家用車で数珠繋ぎとなって近づけず、諦めざるを得ない。散々な紅葉巡りになってしまいました。

気を取り直して下鴨神社の方へハンドルを切って下っていったのですが、ここも風情どころか何処かよく見た街中を走っているような感覚しか感じなかったですね。以前は神社の森も道路からたくさん見えていたのに、街路に聳え立つ建物に覆われて全くといっていいほど道路からは見えず、ようやく神社の入り口にまでいくと街路に沿って木々が見えてくる有様で、何か固定観念で持っていた京都の絵図が、心象風景の中からがらがらと崩れてしまったような感じを覚えました。

何だか殺風景な景色が続いていたので、下鴨茶寮のお店が見えてきた時には少しほっとしましたね。時間は既に午後2時を超えていたのですが、遅い昼食をここで摂ることにしたのでした。たまたま空きがあって、2階の座敷に通されましたが、そこから見える風景も高架道路や鴨川の対岸には車が行き交い、色付きの悪い紅葉が見えるだけで拍車を掛けるほど失墜感がありました。でも料理の味付けだけは京都の老舗をじゅうぶん堪能できるもので、少し気分も回復しましたね。

それでも左京区も北白川辺りまで来ますと、だいぶ昔の雰囲気が残っていて古い町屋も点在していましたね。実は白川口から山中越えで比叡山に上がっていく経路を取ったものですから、都市開発があまりなされていない所を通っていくことになりました。」

服部 明子 「一段と俗化した京都ですか。がっかりですね。12年も経っていれば景観が変わるのは仕方無いですが京都もどこにでもあるような町になっていくのですか。北白川あたりなら「いわゆる」京都らしい町が残ってますか?次回京都に行く時は、そちらに行くようにします。京都は日本の歴史の町と自負するのですから国を挙げて雰囲気を守って欲しいですが現実には人間が住んでいるのですから仕方無いですね。私は早朝の京都で観光巡りをしようとして失敗したことがあります。京都の人々の通勤ラッシュにみごとにはまってしまって(あぁ、京都にも<生活>があった)と思いました。それで、京都の人には観光客は迷惑の一言なのだろうな、と思いました。行政にとっては、手が付けられない状態なんだろうな、と。住んでる人にも不満一杯、観光客にとっても不満だらけのまま、いよいよ混沌としていくのでしょうね。惜しいことです。 」



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