服部明子の平家物語研究室

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■ 千葉江州、服部明子対談・屋島合戦の風景

服部 明子 「千葉江州氏の「平家物語の史跡を訪ねて」はいよいよ屋島のくだりとなりました。本日もよろしくお願いいたします。」

千葉 江州 「何故平家は屋島に四国の拠点を置いていたのでしょうか?これをキーワードに屋島の風景を眺めてみましょう。義経が大物から悪天候下出航して普通2、3日はかかる工程をわずか1日足らずで阿波の勝浦へ着いたとされています。詰まり、淡路島に寄ること無く、紀伊水道を横切ったということですが、この紀伊水道は非常に荒れることで知られているところでもあります。

以前お盆時期に台風が接近していた時に大阪天保山からの高速船に乗って紀伊水道に差し掛かったところ、非常に波が畝っていて波と波の谷間に船が入った時には一瞬窓から見えるのは海の壁ばかりだったほどでした。こんな中を小さな船で出航するなど鬼人も道を空けるが如き所業だったでしょうね。

一般的には大物を出た船は淡路島の海岸伝いに南下して鳴門海峡の潮の満ち干が緩やかになったのを見計らって福良を出て鳴門の岡崎海岸か、土佐泊の海岸に着くコースを辿ったのだと思います。鳴門も潮の満ち干に当たる時間には有名な渦潮が生じます。大きな船ならば渦潮があっても突き進むことができたでしょうが、ただし、鳴門の近辺は実は座礁の名所でもありますから、意外と大きな船は鳴門の港には入れなかったと思いますよ。そのため小型の船で鳴門海峡を横切らざるを得なかったのではないでしょうか。

もう十年くらい前になりますが、鳴門から神戸へ水中翼船が出ていました。ところが、コースを少し間違えると座礁してしまって、乗客は何時間も大きく揺れる船内に取り残されてしまったことがありました。御存知のように水中翼船もさほど大きな船の類に入らないのですが、注意を怠ると座礁してしまうほど岩場が多い難所でもあります。ですから、平家が例え大きな船を保有していても鳴門を拠点とすることは難しかったと思います。」

服部 明子 「矢張り義経には<運>が味方していたのですねぇ。時代の変革期に<必要>とされて出て来た人物だった、という。。。発想が常識を超え・それが亦成功していますから。」

千葉 江州 「ずうっと西へ行きますと高松辺りは結構大きな船が着岸できる港湾があったので、結果として屋島が候補になったんでしょうね。実際問題、引田から志度に至る海岸は今も海水浴場があるなど砂浜の地になるので、小さな船の港としては利用できたのでしょうが、御座船のような大きなものは海上に投錨せざるを得ないので、いざという時に乗船するのには不都合だったのでしょう。そういう意味で屋島が選ばれたのかなあと思うのです。

また、屋島の山上に上って展望台から景色を見てもちょうど入り江のような構造になっているので、大型の船も屋島に近づけたことが想像されます。実際に屋島を攻めた義経の軍も海岸からは海上の平家を攻めあぐねたとのありますから、急に水深が深くなる構造になっていたのでしょう。

それでは徳島の南には拠点を設けられなかったのかといいますと、今度は外洋に接してしまいますので、御座船といっても中途半端な大きさになってしまったのでしょうね。もう少し巨艦でないと対応できなかったのではないでしょうか。それに時期が悪いと台風にあって船が沈んでしまう恐れだってあります。その線からも屋島は瀬戸内海にあって、台風が来ても結構海上が穏やかだったのかも知れません。また、徳島では上記でも触れましたように瀬戸内海へ回航するには鳴門海峡を通らないといけないとなると座礁の恐れが付きまといますから、やはりその線でも無理だったんでしょう。

転じて伊予は屋島と同じ条件の港湾があったのではないでしょうか。それでも京からはいよいよ遠くなってしまいますので、兵站を考えればせいぜい遠くても屋島とせざるを得なかったと想像します。小豆島を始めとして瀬戸内海には無数の適当な大きさの島が点在しているのですが、それも兵糧や水の点で難しかったのでしょうね。讃岐も水には不自由な土地ですが、眼下に穀倉地帯が広がる場所というのが魅力だったのかも知れませんね。それに讃岐平野を取り巻くように山地が難所として控えており、阿波、土佐、伊予の方面から攻められても十分戦術・戦略を練る時間的余裕が与えられたからでしょう。」

服部 明子 「台風については100%忘れて「平家物語」の合戦を読んでいました。台風を思い出したのは「大物の浦」から義経一行が九州に落ちようとして失敗した時です。日頃忘れている気象条件・地理的条件。いよいよ立体的に「平家物語」の読み方が脚光を!」

千葉 江州 「もう一つ屋島が兵站の地として利用されたことが推測されるのは、備前への進出が島伝いに可能なのがこの辺りから西の多度津だったのです。現在は多度津から本四架橋の瀬戸自動車道が児島に向けて開通しており、ずばり島伝いに備前へ抜けることが可能だったことを証明しています。

義仲が平家討伐で中国地方へ進出した際に平家の陸戦隊と戦闘に及んで大敗を喫したのが水島合戦と言われております。水島は現在の岡山でずばり屋島から繰り出された平家の軍勢がその合戦を遂行したのだと思います。平家はこの一戦で中国地方を足掛かりに畿内の西端である福原まで失地回復を果たしたのですから、橋頭堡としての屋島の兵站は大きく役立ったと思うのです。

四国の兵を迅速に本州へ移すのには屋島が位置的に最適ということは淡路島の利用価値がさほどないということに他なりません。引いては阿波に前線基地や兵站を置く必要がなかったと理解されます。逆に、福原まで進出した平家は兵站を確保するにはやはり京を奪回するしか手が無かったとも想像されます。屋島から島伝いで備前に渡る補給路が更に福原へと伸びた訳ですから、その前線基地は如何なる手段を用いても死守する必要があった筈です。そのため、一の谷に布陣しながらも別働隊を迂回して京を奪還せしめ、鎌倉軍を挟撃するのが活路だったたのだと思います。それが果たせなかったとあれば、勢い屋島まで撤退せざるを得なかったのでしょう。」

服部 明子 「水島での木曾軍の敗戦の背景がこれで分かりますね。私は単純に「海に強い平家だから陸戦しか出来ない木曾軍に勝てたのだ」と思っていました。」

千葉 江州 「平家の陸戦部隊が敗北を喫したのはわずかに富士川合戦、倶利伽羅峠の戦い、一の谷の合戦、都合三度くらいだったと記憶しています。いずれも相手に勢いが出てきて歩が悪い状況下で敗れているのですが、逆に墨俣合戦、水島合戦では記録的な大勝を挙げています。一概に平家の陸戦部隊が鎌倉軍などに比べて力負けしていた訳ではないと思いますが、烏合の衆と目されていた鎌倉軍の方が実は歴戦の結果、戦闘や駆け引きで組織的な実力を付けていたに過ぎなかったのではないでしょうか。」

服部 明子 「なるほど。平家のイメージは連戦連敗ですが、結構、互角に戦っているのですよね。」

千葉 江州 「阿波の岸が見えて船頭にここは何処かと義経が誰何したと義経記にもありますが、船頭が勝浦だと答えたのを聞いて、義経が喜んだとあります。無邪気に自分の武運があることを歓喜していたのではないでしょうか。この勝浦は現在の徳島市と小松島市の境となる勝浦川で随分南まで流されたことが分かります。この地域には平家の方人である桜庭介良遠という豪族がおり、真っ先に桜庭介を血祭りに上げたとありますね。

桜庭介と苗字に介が入っていますから、彼も阿波の在庁官人であったのかも知れません。この源平合戦のもう一つの面は既成政権の否定から戦闘が始まっている経緯がありますから、阿波においても平家の方人である在庁官吏は淘汰される運命にあった訳です。桜庭介もその線で義経に討伐されなければならない対象となってしまったのでしょう。

桜庭介の勢力範囲がどの程度であったか資料が無くて分かりませんが、渭水と呼ばれていた現在の徳島市内の南側に所領を保有していた豪族だったのでしょうか。この地域からだと府中(こう:国府のことで、徳島市の西側で名西郡に位置するところです)まで15kmもありませんから、阿波の行政を司って府中まで詰めていたのかも知れません。

桜庭介にとって鎌倉軍が平家を攻めていることは情報として知っていたでしょうが、まさか自分のところへ攻めてくるとは夢にだに思っていなかったことだと思います。気の毒な人物ですが、義経が威勢を高めるための格好の餌食になってしまったんですね。

義経が桜庭介を攻めたのは馬を確保することと、有勢者を叩いておいて背後からの挟撃に曝されないことが目的としてあったのは間違いないでしょう。義経は百数十騎あまりの軍勢しか率いていなかったと言われていましたので、小さな勢力とは言え、敵対する恐れのある者は葬り去るしかなかったでしょうね。阿波には桜庭介を除くとあまり有勢者も居なかったのか、それとも勢力者が平家へ荷担する旗を出していなかったのか分からないですが、義経らは真っ直ぐ板野を目指して行きました。

義経が大坂峠を越えて、それから屋島への攻撃を行うまでの行程が分かっていません。讃岐北側の海岸沿いの志度から直接屋島に接近したコースと南部の丘陵部を抜けて三木から方向転換して北上したコースが想定されているようですね。事実この二者択一のコースしか考えられないといっても過言ではないでしょう。

海岸沿いに進むと平坦な土地ばかりと思い勝ちですが、実は志度の辺りもちょっとした峠のように隆起していまして、進むには難渋したことだと思います。志度を過ぎるとほぼ平坦な道が続くので、こちらを進んだとすれば以外に早期に見つかったのではないかという疑問が出てきます。これに対して、長尾街道を進むと少し畝った道が続くのですが、身を隠すには絶好の林が続くところですね。その分、よほど土地鑑が無いと屋島には辿り着けない道でもあったと思います。現在でも車で走っていると何か田園地帯ばかり目に入って来て、よほど注意していないと北上するルートを見過ごしてしまいそうになってしまいますから。

ところが三木辺りまで来ますと随分風景が開けてきて、北側にあの特徴ある台形の地形が見えてくるのです。三木から北上をしますと真正面に屋島が見て取れますが、当時平家が志度の海岸沿いから搦め手軍が上陸して攻めて来て、主勢力は海上から来ると想定して索敵行動を掛けていたとすれば、南方から侵略してくる敵については全くといってよいほど無警戒だったと考えられます。特に、讃岐の東南西三方には山地があって容易に越せないと高を括っていたとすれば、義経の行軍コースは自ずから決まってきそうに思えます。

義経は軍勢が多いようにカモフラージュすべく古高松と今では呼称される地域(屋島の麓付近)の民家に火を掛けさせています。当時屋島山上には知盛が不在で、驚愕した宗盛が屋島の行宮を離れて海上に逃れたとありますから、義経の作戦も図に当たったんですね。」

服部 明子 「屋島の宗盛は。。。火にも驚いて逃げ出しているのですか。。。知盛さまは居合わせなかった。。。とは知盛さまファンには慰めになりますが火攻めにあって逃げ出した宗盛をとても非難出来ないです。勝つ為には手段を選ばない、とは今では当たり前の戦法ですが、こうして日本の歴史が変わったのですねぇ。 」

千葉 江州 「屋島は台形の島ということを本や写真で既に御覧になっていることと思います。確かにその通りで、屋島山上までは結構くねくねとした道を上がっていかなければなりません。ケーブルカーもありますが、私は専ら車で上がったことしかないですね。山上までの自動車専用道路で途中にミステリースポットがあって、車をニュートラルに入れていると道が下っているように見えるのに何故か後ずさりし始めるところがあります。実は目の錯覚をさせるポイントでして、実際には上り坂になっているのに、見掛け上は下り坂に見えているのです。たまに車が来ていない時に試している人がいますよ。そんなところを通り過ぎて進んでいきますと目指す山上に辿り着きます。

屋島山上は今では宿泊施設、屋島山上水族館、土産物屋など大勢の観光客が訪れるロケーションになっており、松山の道後温泉と共に四国観光の稼ぎ頭といっても過言ではないでしょう。「よくぞこの地で源平合戦をしてくれた」と言われるかどうか分かりませんが、それがなかったら弘法大師の御恩に縋ったお遍路による観光に基づく経済効果だけで生活していくのは大変だと思いますね。展望台からは屋島の北側の風景が望めます。天気が良くて、瀬戸内特有のかすみが掛かっていなければ、非常に美しい瀬戸内海の島々が見渡せるところでもありますよ。

また、ここにある水族館は高松唯一のものですが、目玉商品は淡水魚の中では最大のピラルク(大きいのは4m近くもあったでしょうか)を飼育していることでしょう。いろいろなものを眺めていると半日くらいは直ぐに潰してしまいます。ところで、うどんの「わらや」というのは屋島の山上へ行くための専用道路の入り口の手前にあります。そのため、腹ごしらえして山上へ上がる人や観光のついでに降りて来て立ち寄る人でよく混んでいます。義経らの時代にうどんなるものが民間でも食されていたかは分かりませんが(もう少し後に入ってきたとの説もあるようですが)源氏の白旗ならぬ白地のうどんが屋島の麓一帯を今では覆い尽くしています。

義経軍の来襲で平家の人々はいとも簡単に海上へ逃れた訳ですが、やはり屋島の辺りは天然の良港だったことを物語っているのでしょうね。入り江のために大きな船も接岸できたことが想像されます。ここで面白い地名を思い出したのですが、屋島の対岸の少し北側に庵治石(御影石のような大理石の一種)の産地で有名な庵治という町があり、その近所に船隠(ふなかくし)という地名があります。「庵治のふなかくし」という名の料亭だったか、お寿司やだったかもその付近にあったと覚えていますが、水軍の平家を彷彿とさせる地名が残されています。

屋島の合戦で利無くして退去せざるを得なかった平家軍ですが、その戦乱の中で逃げ惑った人達の一部は四国の山間部へ遁れて行き、結果として平家落人の里なるものが数多く出現することになったのでしょうね。その中でも祖谷が最も有名な平家落人の郷と自他共に認めているところでしょう。祖谷渓谷と呼ばれる四国の中でも秘境の部類に入る山間地に開けた郷は彷彿とさせる雰囲気を持っているとされています。(残念ながらこのような表現を採らざるを得ないのは実は未だに言っていない証拠です。)大歩危小歩危と呼ばれる狭隘な地形から東部に位置する山側の祖谷へ入って行く道があるのですが、観光バス(昔ながらのボンネットバス)が行き来する道なので随分整備はされています。また、祖谷には温泉もあって、宿のケーブルカーで下って行って温泉に入りに行かねばならない野趣溢れたところだと聞いています。

祖谷の平家の遠祖は平国盛という人物の名前で伝えられていますが、確かにそれらしい名前で現在もその末裔と称する家が祖谷に在るという話はよく耳にします。また、祖谷から更に東の佐那河内に至る村々にも平家の里伝説があり、過疎の地に行けば行くほどそのような言い伝えがあるというのはどういうことなのでしょうか?人間の感情として都会には顧みられないひがみみたいなものがあるのでしょうか?私には答えが見つかっていませんが、安らぎや自然の息吹が感じられる場所に棲息することで、平家の落人達は俗世と隔絶された場所で身の安全と癒しを求めたのかも知れませんね。

ところで、これも通説なので少し眉に唾を付けながら聞かないといけないのですが、南北朝期の動乱に乗じて平家の残党であった人々が阿波の山中で事を構えることがあり、それに備えるために千葉氏の一族で粟飯原家が阿波の所領に差し遣わされ、代官として防衛に当たった、という話が伝わっているようです。現在もその末裔の粟飯原氏が木頭村辺りに残っておられ、「粟飯原家住宅」と呼ばれる県指定の史跡も存在しています。」

服部 明子 「祖谷は随分前に石川ひとみの「鳴門殺人事件」かなにかのテレビ番組で見ました。昔のバスや川に降りて行くケーブルカーも見ました。かづら橋を渡るシーンもありました。祖谷も行きたいですね。秘境というのがいいですね。ロマンがあって。平家落人伝説。う〜ん、いいですね。」


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