Web Communication Board http://www.hikoshima.com/bbs Web Communication Board最新記事 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_14.html#14 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[14]:三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月16日 15時03分26秒 ) 空の青海のあを様  遠江の「服部中家」の主要な系譜について、まとめてみました―― (代) (氏名)  (生没年 誕生年は逆算推測) (経歴・属性)  初代 服部保次 (1526~1587) 桶狭間の戦いで戦功。信長下より家康下へ。                引佐郡刑部領主となるも暗殺さる。 2代 服部保正 (1565~1616) 保次の長男。大阪夏の陣に出陣、翌年死す。                 妻は、紀伊臣「川井刑部重長」の娘。     服部保信 (1582~1640) 保次の次男。大阪夏の陣に出陣。                 妻は、「内藤平右衛門某」の娘。     服部保光 (1589~1615) 保正の長男。大阪夏の陣で天王寺にて討死。  3代 服部保俊 (1593前後~1651)保正次男。1642年、荒井の関所番。                 妻は「水野太郎作清次」の娘(実は、花井                 吉成と茶阿局の子・お八との間の子と推定。                 1613年の長安事件が背景にあり) 服部保久 ( ~ ) 保正の三男。     服部保重 (1615前後~1641)保俊の長男。                 妻は「柴田筑後守康長」の娘―柴田康長と                 「永井右近大夫直勝」の娘との間の子。  4代 服部保継 (1617前後~1654)保俊の次男。                 妻は「徳山(とくのやま)五兵衛直政」の娘。 徳山氏は清和源氏土岐氏族で明智氏共々                 頼光が始祖。  5代 服部保秋 (1640~1683) 保重の長男で保継へ養子に入る。                 妻は、「長谷川久三郎正相」の娘。  6代 服部保房 (1659~1719) 保秋の長男。                 妻は「永井伝八郎茂虎(白元の曾孫)」の娘。  7代 服部保貞 (1693~1759) 実は、保房へ養子に入った「長谷川久大夫                 徳栄」の長男。  8代 服部保弘 (1713~1789) 実は、保貞へ養子に入った「長谷川久大夫                 徳栄」の六男。            次回には、これらの細かな説明に入ります―― 2018-08-16T15:03:26+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_13.html#13 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[13]:空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月16日 01時59分06秒 ) 三つ柏さん 「日本人」ですね。 でも後100年もせずに「日本人」は混血に混血の末、崩壊して 先祖のことがますますワケ分からなくなるでしょうね 今はその寸前の先祖捜しをしているのでしょうね。 全く赤の他人と思っていたのに実は赤い糸で結ばれていた なんてね。 2018-08-16T01:59:06+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_12.html#12 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[12]:三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 20時18分27秒 ) 空の青海のあを様  寛政重修諸家譜を信じれば、遠江に配流された宗忠の子の宗久は、頼朝 将軍に仕え、遠江国川井村に住したと書かれておりますので、源氏姓を賜 ったかも知れません。  さて、服部中保正の妻は、川井刑部重長の娘でありました。その重長の 父は久定、母は「鈴木三郎大夫某」の娘となっております。鈴木三郎大夫 を名乗ったのは、「鈴木重時」、即ち「井伊谷三人衆」の一人であります。 1569年の堀江城攻めにて討死しており、龍潭寺にその墓があります。  重時の子に「重好」がおりますが、保正と重好は重時を通じて義兄弟と いうことになります。重好は、のちに水戸藩の家老となります。  明日は、服部中家の代々について、整理してみます―― 2018-08-15T20:18:27+09:00 山内一豊 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100851_50.html#50 山内一豊[50]:>>削除<< 2018-08-15T16:56:03+09:00 2018年8月:灼熱の盛夏 http://www.hikoshima.com/bbs/hikoshima_slink/103951_22.html#22 2018年8月:灼熱の盛夏[22]:空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月15日 15時17分08秒 ) NHKの「満願」とかいうドラマの第1回を見た。 いろいろ凄かった。 業務上知り得た「交渉の仕方」というのを思い出した。 相手のプライドをへし折ってはいけないとかね。 それにしても  あの液体  コレラに汚染されてたのですか。 きっと商社マンはああいう過酷な仕事をやってたのだろうなと思いました。 大使で赴任しても、蛇口を捻ったら泥水しか出ない、というハナシを聞いたことがあるし。 屍の山の上に私の幸せがあるのかな なんて考えさせられた。 2018-08-15T15:17:08+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_11.html#11 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[11]:空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月15日 13時55分11秒 ) 三つ柏さん 源氏説があっても良いのです。 ウチのホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃったのは 南北朝の時に後醍醐天皇から源氏姓を頂いてますから。        わたくしはそのような立派な家であるホンヤさんに比べたらウマの骨ですから        とても「源氏」とは言えません。 なのでどこかで川井氏が源氏との関わりを持った時に源氏姓を賜ったのかも。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF 信西 改名 藤原通憲 → 高階通憲 → 藤原通憲 → 信西 7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる 氏族 藤原氏(藤原南家貞嗣流) → 高階氏 → 藤原氏 鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、 更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、 通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。                        頑固オヤジ! 保元の乱後 信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。 平治の乱 信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。 平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する[7]。 信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、                        ヲイヲイ!宇治田原!!!ですよ                        戦国時代に、呉服明神の服部貞信が引っ越した所ですよ                        ココはどういう場所なのかマタマタ気になります 郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、 郎党を尋問した追手に発見された。 掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。 掘り起こした時には、目が動き息もしていたという[8]。 追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた[9]。 また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された[10]。                        信西の息子達は流刑の宣告を受けた。                        流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって                        信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。                        その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。                                      コレですね。 で、信西の孫に有名な女性がいます。小督の局。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9D%A3 小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳) 平安時代末期の女性。 本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。 藤原通憲(信西)の孫。 桜町中納言・藤原成範の娘。 高倉天皇の後宮。 類稀な美貌の箏の名手であったと伝えられる。 始めは冷泉隆房の愛人だったが、 高倉天皇に見初められ寵姫となる。 しかし中宮の建礼門院徳子の父であり、隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、 治承元年11月(1177年12月)に坊門院範子内親王(高倉天皇第2皇女)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。 元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが[1]、その後の消息は不明。 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられている。 2018-08-15T13:55:11+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_10.html#10 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[10]:三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 13時07分33秒 ) 空の青海のあを様  原田和著『遠江資料集』(今から59年前に出版)の中に、「当院(長松院) 河井宗忠公事蹟畧(リャク)記」というものが載せられておりました。10頁 にわたって書かれておりますが、内容的には河井(川井)氏藤原説、及び源氏 説、その他諸説について白黒つける程のものではなく、長福寺松堂和尚の 「松堂録」に書かれてる「菊源氏成信侍中補庵宗忠庵主戦死す」をもって、 河井(川井)宗忠を源氏出とする方向に傾いてはいます。   この辺のことは、今の所はっきりとしませんので、河井(川井)宗忠は、 『寛政重修諸家譜』に取り上げられた信西の遠江に配流され川井村に住ん で川井氏と名乗った子孫の支流(あるいは本流)であったと信じたいと思い ます――  信西の末裔とすれば、信西の息子は清盛の娘を娶っておりますので、平家 方とみていいと思います。しからば、服部中家は平宗清を祖としております ので、同じ平家方。服部保正が川井氏の娘を妻にしたというのは、一つには 正にその縁(えにし)の引力が働いていたとも推察できます―― 2018-08-15T13:07:33+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101643_9.html#9 長上郡の服部氏族CⅩⅢ(課題確認56):113[9]:三つ柏服部さんからのコメント(2018年08月15日 01時22分39秒 ) 空の青海のあを様  前回、スレッドを間違えて、「長上郡~112」の方へ打ってしまいました。  いずれにしても、川井氏の祖先は、藤原通憲、いわゆる「信西」であっ たということで、この信西とは大物であった。  つまり『新説 保元・平治の乱』(小学館発行)によると――  「保元の乱で藤原頼長が死んだあと、宮廷で絶大な権力を振るったのは 信西(藤原通憲)だった。鳥羽院に仕えたものの官位は低く不遇だったが、 後白河天皇の乳母(めのと)の紀伊局の夫だったことから後白河天皇の信任 を得て側近になった。保元の乱で源義朝の夜襲の策を採用し実行させたの は信西である。   ~略~   保元の乱で大きな戦功をあげた平家一門に、信西は厚い恩賞を与えた」 とありました。  この中で、乳母の「紀伊局」の「紀伊」が何となく気になります。紀伊 という言葉には、何か人々を引き付ける秘密があるような―― (『寛政重修諸家譜』では、少納言藤原通憲(信西)の子として大納言藤原 宗忠としておりますが、この名前で有名な『中右記』を書いた宗忠は信西 より44年前に生まれておりますし、また信西の子の中にもその名はあり ません。平治の乱後、遠江に配流された大納言宗忠とは、別腹でいたのか、 または子供の名前を間違えたのか、はたまた史実が間違っているのか、一 つの課題ではあります。) 2018-08-15T01:22:39+09:00 2018年8月:灼熱の盛夏 http://www.hikoshima.com/bbs/hikoshima_slink/103951_21.html#21 2018年8月:灼熱の盛夏[21]:空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月14日 22時29分59秒 ) 先週ハワイ諸島の南に抜けた「ハリケーン」へクターが今は「台風」17号に化けたとか。 笑 https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/14/hector-transform_a_23501702/?utm_hp_ref=jp-homepage ハリケーン「へクター」の中心気圧は、一度は953ヘクトパスカルに達したが、 ハワイ諸島の南を通過しながら徐々に衰弱した。 14日になって日付変更線をまたぎ、東経180度より西に入ったため、台風17号になった。 ニックネームは「へクター」のまま変わらない。 中心気圧は998ヘクトパスカルで、ミッドウェー諸島の近海を北西に進んでいる。 ウェザーニュースによると、この先も衰弱を続けながら、日本には接近せずに消滅する見込みだ。 越境台風になるのは、2015年9月1日に越境した台風17号(ハリケーン「キロ」)以来で、約3年ぶりだという。 以下全文コピペ: by安藤健二さん 3年ぶりの越境台風です。 ハリケーン「へクター」が台風17号に変身。どういうこと? ■台風とハリケーンの違いとは? 実はハリケーンも台風も、同じ熱帯性低気圧だ。発生した場所により呼称が異なっている。 へクターの場合は当初ハリケーンとして発生したが、台風として定義される地域に移動したため、台風に変身したというわけだ。 日本気象協会によると、東アジア周辺の太平洋(赤道より北で、東経180度より西)に発生し、最大風速(10分間平均)がおよそ秒速17メートル以上のものが「台風」と呼ばれている。 一方、ハリケーンは北アメリカ大陸の周辺に発生したものを指す。大西洋もしくは、太平洋(赤道より北で、東経180度より東側)に発生したもので、最大風速(1分間平均)が秒速33メートル以上ものが「ハリケーン」と呼ばれる。 ■へクターは、どう移動した? へクターは、8月2日に初めてハリケーンとして観測されたときは、カリフォルニア半島の沖合い約2000キロの太平洋上に位置していた。その後、5つのカテゴリーのうち上から2番目の「カテゴリー4」の巨大ハリケーンに発達した。 で、 へクターの中心気圧は、一度は953ヘクトパスカルに達したが、ハワイ諸島の南を通過しながら徐々に衰弱した。14日になって日付変更線をまたぎ、東経180度より西に入ったため、台風17号になった。ニックネームは「へクター」のまま変わらない。 中心気圧は998ヘクトパスカルで、ミッドウェー諸島の近海を北西に進んでいる。 ウェザーニュースによると、この先も衰弱を続けながら、日本には接近せずに消滅する見込みだ。越境台風になるのは、2015年9月1日に越境した台風17号(ハリケーン「キロ」)以来で、約3年ぶりだという。 2018-08-14T22:29:59+09:00 長上郡の服部氏族CⅩⅡ(課題確認55):112赤堤系? http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101641_74.html#74 長上郡の服部氏族CⅩⅡ(課題確認55):112赤堤系?[74]:空の青海のあをさんからのコメント(2018年08月14日 16時07分08秒 ) 三つ柏さん >中納言宗忠その父少納言通憲がが平治の乱に興せしことにより、遠江国に配流される。 >宗忠が男・平衛尉宗久、頼朝につかえ、遠江国川井村に住せしより、 称号とす。 >松葉城の河合(川井)宗忠もいわゆる川井一統であると思われ、松葉城址を訪れ般若心経を捧げ たことを改めてよかったとしみじみ思いました。 >『寛政重修諸家譜』では、「中納言宗忠」から「川井刑部重長」までのつながりが確認でき、重長は宗忠の13代孫となります すごい! 「遠江の川井姓」の方がこのレス<73>をご覧になったら感動ものですね。 平治の乱=平治元年12月9日(1160年1月19日)=の後からだよ なんて知ったら泣けるでしょうね。 自分の先祖の足跡をハッキリ捉えられるなんてラッキーですよね。 三つ柏さんはホント良いお仕事をなさいました。 服部中家に比重がまたまた傾きました。 2018-08-14T16:07:08+09:00