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[13/69]比企一族
林原英祐さんからのコメント(2001年07月17日 22時43分52秒 )

 *丹後内待について  丹後内侍は鎌倉時代を代表する『最後の御家人…安達家』の祖とも言うべき『安達藤九郎盛長』に嫁いだことで有名である。
                                       その前、京都時代に『惟宗広信』に一度嫁いでおり、薩摩藩の祖と言われる『島津忠久』と『若狭忠季』比企禅尼の長女 を生んでいる。                                                    『丹後内侍』が歴史上、名前が出るのは『源範頼(頼朝の弟)』の妻に安達盛長との間の娘を嫁がせているからである。                                                            1193年(源範頼生害の時)6歳になっていた嫡子は父と共に自害して果てたが…4歳(範円)2歳(源昭)は『比企尼』と『丹後内侍』の助命嘆願により、「武蔵国比企郡吉見庄」を範円の子『為頼』に与えられたと『吉見系図』に記されている。                                                                           同じように、滅び行く『比企家』の跡を最後までカバ−した『御家人』は『安達家』であったと考えられる。
                                       『安達家』は『安達藤九郎盛長』の嫡子『景盛』の娘(後の松下禅尼)を3代執権北条泰時の嫡子『時氏』に嫁がせている。                                                          『松下禅尼』は700年後の今日にあっても、『良妻賢母』の手本とされる『子育ての才女』であった。『比企尼』の長女『丹後内侍』の孫娘にあたるのは単なる偶然では無いと思われる。(比企尼の20余年の頼朝の世話に通じるものがある)
                                       その後、『安達家』は意識的に『北条氏』との婚姻関係を深めていくことで、『三浦氏』に代わる『御家人』筆頭の位置を確保する。8代執権『北条時宗』の父はこの『松下禅尼』の次男『北条時頼』である。
                                       『比企尼』の嫡女「丹後内侍」は実質的な『比企尼』のブレ−ンとなって京都では公家社会に深く入り込み、『尼』が武蔵国に下ると共に京を捨て「行を共にしている」、武蔵に住み着いてからの『婿』…安達藤九郎盛長は先に結婚してから、『比企尼』の命で『頼朝』に仕えさせたと言うのが実態のようである。                                                その意味では『丹後内侍』は『安達家の祖』的な存在の人であったと考えられる。
                                       後の北条執権の隆盛時代(頼時…時宗)に『安達家全盛期』を迎えるのであるが、『丹後内侍』は地下で何を考えていただろう?

 *丹後内待の人柄を想像する(私の主観)

 時代的な背景は別にして、私は「比企尼」以上の激しさを感じる。一番不可解なのは、明子先生も前に触れられている、京都での「島津忠久」の頼朝のご落胤説や、実質的な「安達家」の滅亡の直接的原因とされる。「安達景盛」の頼朝のご落胤説などが付き纏うのは、ある種の「妖婦」的な印象が離れない。
 多分、あの「嫉妬心」の深かったとされる「北条政子」の逆鱗に触れぬはずがない。 私は、この「丹後内待」こそ全ての悪夢の元であると思っている。

 
 *若狭局について

 比企筋の女性で一番高い位置にあって、一番悲しい最期を迎えたのが『若狭局』である。別名『讃岐局』と言われる。
 
 比企尼の養子『比企能員』と渋河兼忠の娘の間に生まれた『比企家』直系の娘で祖母『比企尼』の力で頼朝の嫡子である2大将軍『源頼家』の側室となり、世継『一幡』を生んでいる。
 
 1203年『比企の乱』で「比企能員」が北条時政に誅殺され、翌日、鎌倉比企谷の『小御所』において『一族』全てが『一幡』を道連れにして自害すると言う、痛ましい最期を遂げるのであるが、
 
 当時(鎌倉時代)の習慣からすると、『若狭局』の考え方さえしっかりしていれば、「生き延びることは可能であった(女子には寛大)」と考えると、
 
 何か『若狭局』の育ち(お嬢様)と人の良さのようなものが滲み出て悲しくなる。

 作家平岩弓江さんが小説『かまくら三国志』のなかで『比企三郎』を中心にして、この若狭局との兄妹愛を描いているが、多分平岩さんが描いたような人であったように思えてならない。
 
 もう一つの『ロマン』は『若狭』と言うことばである。父『比企能員』は35万石程度の領地を治ていたとあるが、『北陸大将軍』に任じられていたともある(吾妻鏡)。
 上記の『丹後内侍』は京都時代に惟宗広信に嫁ぎ『島津忠久』と『若狭忠季』を生んでいる。
 
 結果として、江戸時代『越前福井藩…比企家』が現在の「比企家」の出所となっていることが何か因縁めいた関わりのようなものを感じて、謎(不思議)と『ロマン』を秘めている。
 

 参考までに『小御所(比企館)』で最期を遂げた『若狭局』の兄弟:姉妹達をあげると……嫡子(兄)比企余一兵衛尉、比企三郎、比企弥四郎時員(先祖)、比企五郎、河原田次郎(娘婿)等である。
 他に、難を逃れた子孫は…『比企能本圓顕(鎌倉妙本寺開祖)弟…当時2歳』『竹御所(鞠子)当時2歳…実子』

*若狭局の人柄についての想像(私の主観)

  作家、平岩弓枝女史が「かまくら三国志」の中にえがかれている「若狭」が見事に当たっていると思っている。比企の女性史の中で唯一、「女の子」らしい女の子はこの「若狭」だけである。たくさんの鬼が出てくる中で、ひときわ目立つ存在の「若狭」に拍手をおくりたい。

 
 *竹御所について

 源頼家の子供は正室『辻殿』の生んだ『公暁』(実朝を殺害した)の他に数名数えられるが、…
 
 末子で『若狭局』の娘とされている。何故なら、鎌倉比企谷『妙本寺』内に『比企能員一族の墓』『若狭局:一幡の墓』藤原頼経の正室『竹御所の墓』が全て集まっている。

 妙本寺縁起による比企能員の末子『比企能本』が晩年に開山したとある。
 
 竹御所については、最近特にその存在が注目され出した人である。
 
 『源家』最後の血筋として、3大将軍『源実朝』亡き後、京都の藤原(一條)家から4大将軍『藤原頼経』を迎えるに際して、頼経は頼朝の妹の婿『一條能保』の家系をひく九條道長の子『三寅』であるが、『血筋』として『源家』の『血』を濃くする必要があった。

 特に、執権北条氏としては『御家人達』に対する手前どうしても『源氏』の血筋が問題視されたと考えるべきである。
 

 1216年、『北条政子』の命で『竹御所(名:鞠子)』は実朝の室(坊門信清の娘…未亡人)の養女にされている。


 1219年(承久1)2歳の『三寅』が鎌倉に下向した時、竹御所は既に17歳であった。23歳になった時、政子は69歳で亡くなった。翌年1226年(嘉禄2)三寅は元服し9歳で征夷大将軍になった。
 

 1230年(寛喜2)に藤原頼経と竹御所は13歳と28歳で結ばれている。

 1225年『政子』が69歳で世を去った時、竹御所が『葬家御仏事』を沙汰している。これは、鎌倉将軍家の中に於いて『実朝夫人』が既に京都にあり、『政子』が死んだことで、実質的に『嫡女』として位置付けられていることを意味する。

 又、1231年頼朝の実子『貞暁』が46歳で高野山で死んでいるが、その時も『唯一人の血縁者として、喪に服している。』ことから、『竹御所』が鎌倉将軍家の『カリスマ』的な位置にいたと考えられる。(特に最近になって、鎌倉幕府の政治史上、再評価されはじめている。)

 *竹御所の人柄を想像する。(私の主観)

 この人は「謎々」である。最近の学者の説はこの人に集中している。次第に、北条の基礎が固まったころ、どうしても、「源氏」の血が欲しくなった。又うまく「竹御所」を掴まえておかないと「御家人」や『朝廷』に利用される可能性は極めて高かった。
 そんな中で、彼女は結構うまく立ち振る舞っていたと想像される。
 特に、源氏の血の最後の灯として、涙を誘う『死産』と、それに伴う『高齢出産死』が無ければ、歴史は違った展開をしていたのでは、

 *姫の前について

 京都守護『一條能保』の配下で後に京都守護職を勤める『比企藤内朝宗』の娘であり、『比企能員』の姪にあたると言われている。

 頼朝の口添えで、1192年30歳の北条時政の嫡子北条義時に嫁いでいる。

 北条義時の妻『決して離婚しません!』という祈請文を頼朝が義時から取ったという話は有名である。地味な義時の『恋物語』として語り継がれている。

 『姫前』は北条義時のもとで『北条朝時(名越)』『北条重時(極楽寺)』の二人を生んでいる。

 三代執権『泰時』の出目(?)に比べ『名越流』『極楽寺流』いずれも『本家直系』に位置しながら、『姫の前』のその後の消息が不明な点と、何となく、北条家の中での「遠慮がちな位置付け」が気になってならない。

 特に『重時(極楽寺)』の系統は優秀である。北条一族の側役的な役割を十二分に発揮している。
 
 又、『比企の乱』後50年の経過で『比企』に関わる人々が北条家の中にも、集まってきていたと考えられる。

 北条重時の娘は北条時宗の父『時頼』に嫁ぎ、『時宗』を生んでいる。時宗の母は『姫の前』の『実孫』に位置することになる。

 ここにも、『比企の娘』の血が流れている。
 
 『比企家』の宿敵『北条一族』に対して、あの栄華を極めた両家が頼朝の仲介でもって、縁組されたのがこの『姫前』と『義時』との一組だけであったと言うのも不自然で、本来他にも「たくさん」の良縁があったと推察するが、後の世に語り継がれた話『吾妻鏡』(北条氏の歴史書)によれば、史実を消し去った部分があるのでは無かろうかと思う。

 その意味で、当件(姫前)についても、又その系晋である北条:名越流、極楽寺流の両家が『弱々しく』感じられてならない。
 

 しかし、想像ではあるが、1203年『比企の乱』により壮絶な最期を迎えた『比企一族』がその後、今日まで続いてきた血脈の裏に『竹御所(若狭局の娘)』と『姫の前(比企朝宗の娘)』と『丹後内侍(比企尼の嫡女)』の存在が見え隠れする。

 *姫の前の人柄について思う(私の主観)

 私はこの姫が好きである。比企の乱以降、消息を絶つのであるが、私は生きていたと思っている。これは、あくまで『小説』の世界の話であるが、あの恐ろしい『北条一族』のど真ん中にそそり立った「この姫」は、一番、正々堂々としていて、気持ちがいい。

 NHKの『大河ドラマ』北条時宗のなかで、暴れまわる『桔梗』と『涼子』の無茶苦茶さが、私の心を捉えて話さない。

 最後になりますが、鎌倉幕府を滅ぼす、足利尊氏の妻が、最後に残る、「北条」の中の『比企』、極楽寺流(重時)の子、赤橋流(長時)の曾孫『登子』(最後の血)であったのは、考えすぎであろうか???

 少し、長くなりすぎました。歴史の時間のようで面白くありませんね!!
 又、続きを書きます。予告、は『比企の乱』後100年の残党の戦い!
 

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