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投稿番号:34184 投稿日:1999年05月08日 16時05分13秒
お名前:服部 明子
 

服部明子の日本オカルト紀行完結編


コメントの種類:その他


今、都落ち前夜を書いています。
なかなか「伊賀」の段に至りません。
伊賀で何があったのか書きたかったのに
全然辿り着けず「迷子」になったのでしょうか?


なかにしさんからのコメント(1999年05月08日 22時56分47秒)
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 ぼちぼちで結構ですので、よろしくお願いします (^_^)。
 私の方も、椎葉(その2回目)と五家荘に着手しました。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月08日 23時16分54秒)
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なかにしさん:

「日本で1番怖い所」って読んだことがあります。
16年くらい前に読んだ時すっごく怖くなって猫を抱き締めて外に飛び出したんですが
私は関東地方の岩井市?の国王神社?かな???とぼんやり記憶してましたが
どうやら市川市「八幡の薮知らず」という所のようです。


やわた

多分平 将門を祀ってる場所と思うんですが。
この森に入った人は2度と生きては出られない、とか。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月11日 14時43分14秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年05月11日 22時18分10秒

服部 明子さんからのコメント(1999年05月14日 13時30分31秒)
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伊賀の話で、ある人の事を書くと、いろいろヤバイことがシュッタイし、
これは、お話を100%本当の事を書いてはマズイのだな、と思うように
なってしまいました。

私は写実系というか自然派というか事実を書きまくりたいけれど
書く人・書かれる人は納得でも「読む人」に問題があると
ホントの所は書けなくなるのですねぇ。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月15日 02時54分59秒)
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その10:伊賀物語 <愛は時を超えて>


1999年4月5日小倉から名古屋に向かう。
名古屋では旧友に会い、昔の私は暗くて仕事がさっぱり出来ない人だった、と
言われる。仕事がさっぱり出来ない、というのは自慢している訳ではないが、
正直な所、今でも全く変わってはいない。今の私は明かるく無能だ。

この再会の後、翌日、名古屋から始発の関西本線で伊賀に向かう予定であった。
結局は時間を有効に使う為、翌朝早く伊賀で行動したく、三重県に急遽向かう。
その晩、全く睡眠を取ること無く、つらつら来し方を考えてみた。

室町時代に書かれたとされる「浪合記」によると服部家ホンヤは「宗清」の子
孫と書かれているそうだ。しかし私にはその感覚に遭遇したことは無い。宗清
が頼朝を助けたことにより、一族の中で孤立し、且つ、生き延びたとはいえ彼
自身が心の傷から終生逃れ得無かった事は明瞭である。トラウマ体験を共有は
出来ても、私には「宗清」が先祖だったとは思えない。

では、私自身の先祖は誰だったかと訊かれると答えに詰まるが、宗清と同じ伊
賀平氏出身の服部一族ではありながら、伊勢平氏出身の平忠盛・清盛に仕えた
服部家貞の末子に生まれ、伊賀国大山田村の平田を継いだ「平田家継」だった
のではないか、更に、彼の娘だった気がする。

それは平家一門の都落ちの後、寿永3(1184)年、藤原忠清・平信兼(北
条政子と結婚する予定だった山木兼隆の父)と共に平田家継が伊賀で蜂起し、
源氏方大将佐々木秀義を甲賀郡油日谷で殺したものの、力尽き倒れたシーンに
私はトリップし果てしない孤独の淵に落とされ、私は平田家継との「繋がり」
に愕然としたからだ。

今春、壇の浦を前にし、彦島の清盛塚に参り、古戦場跡を見下ろしても、過去に
ここに来たことは矢張り無い、と思った。平家方の女性達が身を投げた崖に行っ
ても私は観光客的気分しか持ち合わさず、不幸な女性達の哀しい運命に我が身を
よじって涙する感情には全く陥らなかった。ただの訪問者であった自分が悲しい。

では壇の浦の合戦当時、私は一体どこに身を隠していたのか?

今年、4月4日、赤間神宮の七盛塚前にて塚石の人々の息吹きを感じようと試み
た。石の前に立ち、自分も石になるのだ。身じろぎもせず、自分が石になると彼
らの姿が見えて来る。すぐ立ち去る観光客の前には彼らは決して姿を現わそうと
はしない。

石の前に立つこと、一体どの位の時を要したか。彼らの出現に伴なう草摺りの音
が聞こえて来るのを待って待って待ち続けた。中でも遠い過去の記憶に幽かに存
在する懐かしい<人>の草摺りの音を聞き出そうと耳をそば立てた。しかし、聞
こえず。ぞろぞろ人が出て来る音は聞こえるのに、だ。

待っても待っても<わたし>の捜し求める恋しい人の草摺りの音は聞こえない。

この日の私は七盛塚の石群に、壇の浦の底深く身を沈めた一族との対話を楽しみ
にしていた。1993年の時のように、平知盛さまをお育てした「家長」伯父は
私の来訪を喜んでくれるだろう、との期待があったからだ。しかし無情にも答え
は「否」。「家長」伯父は今回は、私の訪れには全く気が付かぬかのように眠っ
たままだ。

七盛塚の1つに加えられる「資盛さま」は内大臣重盛さまにお仕えした貞家嫡男
「貞能」伯父が大切にお育てした若き殿だ。ご次男だけあって自我がお強く、人
から愛されることを望む困ったお人だ。世間が兄君の「維盛卿」を美しいと誉め
讃えるのが気に喰わぬらしい。だが高貴なあたりにお仕えする女房達にすこぶる
人気が高いのは「資盛さま」の方だ。

「資盛さま」の人気が高いのは兄君「維盛卿」の美しさとは一味異なるからだ。
<わたし>の父・家継は資盛さまには武士の荒い血が時々顕われて、それが女房
達には「やんちゃな公達」に思え、たまらなく母性本能をくすぐられるからだ、
と言う。資盛さまの腕白ぶりが政治事件にも発展し、一時期、都にいられなかっ
た事もあったらしい。伊賀の田舎で父が噂を伝え聞き「平家は元々は武士なのだ
から」と、幼い資盛さまの中に既に表われた武士の家の子としての資質に大いに
満足したそうだ。それは私がまだ幼い時に起きた事件で、私には全く記憶が無い。

「資盛さま」が武士として、壇の浦に沈んだご最期を誇りとし一生愛し続けたの
は女院にお仕えしていた時代の名で記すと「建礼門院右京大夫」という女房だ。
右京大夫のお名前を私が思い出したのは壇の浦の戦さから随分経った、ある日、
「言の葉の もし世に散らば 忍ばしき 昔の名こそ とめま欲しけれ」と彼女
がお答えした、と世間の噂に聞いた時だ。

「晴れがましい勅撰の和歌集に今回わたくしのような者の歌も載せて頂けるので
したら、詠み人の名として世間に出して頂きたく願うのは、昔、華やかな世界に
出仕していた頃、平資盛さまとわたくしが、恋し恋された数々の美しい想い出に
満ちた、あの懐かしい若い頃の名で、おとがめ覚悟の上で、載せて頂きとう存じ
ます」

私にこのような勇気があっただろうか?「忍ばしき」昔の名で載せて欲しい、な
どと?

右京大夫の開き直りに「女は怖いものだ」と世間は噂した。どんなおとがめが鎌
倉から下だるやら。定家先生も、とんでもない女の歌を選んだものだ、と袖引き
目引き噂した。(平家全盛の、あの日々の名でこそ載せて頂きたい、か。。。)
平家と関わった過去を恥とも、悔いとも、隠しもしない人がこの世に未だいらっ
しゃったのか。私は嬉しくて涙がこぼれた。

自分達2人の恋が人々の口に<永遠に>のぼることこそ右京大夫の望んだことな
のだ。「わたくしが愛したのは平資盛さま。平資盛さまが愛したのはこのわたく
し」と右京は大きな声で世間に胸を張って「わたくしとは、こういう女なのでご
ざいます」と宣言したのだ。

2人の恋の想い出が人々の心に刻まれ、人々が永遠に資盛さまと右京大夫の恋を
語り継ぐのであれば、その時こそが2人の恋の勝利の時なのだ。権力の前に背を
丸め、平家との係わりに慌てて頬かむりした世間こそ恥を知れ!と。恥ずべくは
世間の方ではないか!と。

とうに平家の世が終わり、今は鎌倉どのの息のかかった者しか大手を振っては歩
けぬ世の中だ。「忍ばしき」昔の名などを出してきては、どのような処罰を被る
ものやら分からぬではないか。少し前迄は、平家に多少なりとも関わった者たち
は、全て引きずり出され情け容赦無く傷付けられ殺され尽くしたものだ。そんな
嵐のような日々が早く終わるようにとのみ願い、私は伊賀の山深い喰代の小屋に
息を潜め、春の訪れのみを願って生きていた。

美しくたおやかで書も琴も見事にこなす右京大夫が女性として立派だとは知って
はいたが、一人の人間として毅然とした態度を貫く人とは全く知らなかった。私
の生き方と比べると何と見事な女性だ。私はこれまでの自分を恥じた。

私はその時まで、右京大夫を平家の御曹子を手に入れて得意になっている年上の
愛人、と思っていたが、何故資盛さまが右京大夫を愛したか、その理由がやっと
分かった。そして亦、右京大夫ほどの女性を夢中にさせた資盛さまも男として見
事な武士であった。あぁ、このお2人の恋は永遠に人々の記憶に残るのだ。

今年、4月4日、赤間神宮の七盛塚の石群の前に立ち、私は壇の浦の戦さの後、
行方知れずになった<わたし>の恋しい人の出現を待った。そうして資盛さまの
塚石を見ていると「平家は軟弱」と見下だされるのがだんだん腹だたしく悔しく
なった。そして逆に、天皇を中心とした人々も、決して卑怯な人々ばかりではな
かった、と。

その代表が資盛さまの恋人、右京大夫だ。きらびやかな平家の御曹子、資盛さま
との恋の日々を世間はすっかり忘れていたというのに右京大夫は今さら改めて平
家のときめいた世を世間の人々に思い出させたなんて、当時の人々には考えられ
ない大胆な発言だったろう。さぞ噂にもなっただろう。こう考えると<わたし>
も世間を恐れず<あの人>の行方を尋ね歩くべきだった、と後悔する。

壇の浦での一門の最期のご様子は春の遅い伊賀の山の中にも直ちに伝わり、潔い
見事な滅び方であった、と旅人が噂した。どなたさまが入水をし、あなたさまが
切り死にをし、こなたさまが捕らえられた、との噂を聞くたび、私は(藤原の景
俊さまは如何なる仕儀に相成ったのでございましょう?)と尋ねそうになった。

やがて伊賀の身内が一人また一人と壇の浦から伊賀に逃れて来た。その喜び、そ
の悲しみ。とても語ることは出来ない。

今年、里帰り旅行の下関での第2日目、私は赤間神宮の七盛塚の前に佇み、壇の
浦から伊賀に逃れて来た人々の話を思い出そうと試みた。木曾義仲の軍が京の都
に雪崩込んで来て、そして私達平家一門は京を出た。私が都を出たのは倶利伽羅
峠で平家が大敗した直後だから、寿永2(1183)年5月の中頃だ。

倶利伽羅峠の戦いには伊勢の古市の藤原景綱さまのご嫡孫お二人が維盛さまをお
助けしてご出陣した。私の父・平田家継の無二の友である藤原忠清さまのご嫡男
忠綱さまと、忠清さまの弟御でいらっしゃる景家さまのご嫡男景高さまが侍大将
としてご出陣になったのだ。総大将維盛さまの美しさには私も目を奪われた。

この遠征パレードを遠目に眺めてうっとりしていた私に声を掛けて来た若者がい
た。これが藤原の景俊さまだ。前述忠清さまのご末子になる。イヤなヤツに声を
かけられ、折角のいい気分が台無しとなり、私は内心腹を立てた。相変わらずの
憎まれ口を叩く景俊さまに私はツンと視線を外した。この人と私が一生微笑みを
交わし合うことは無いとは思ってはいたが、全く別な意味で確かに一生、微笑み
合う事は無かった。

一体いつからこんなに仲が悪くなったのか、記憶に無い。親達は酒に酔っても酔
わなくても、互いに命をくれてやる仲だ、と声高に語り合う。それも昨日今日の
仲ではなく、両家が未だ東国にいた時からの固い契りだと言う。このことは私と
景俊さまの仲でも同じ事であった。私は景俊さまのお傍を離れず、景俊さまも常
に私をいたわって下さった。何があっても必ず私の味方になってかばって下さっ
た。私は景俊さまとの仲がずっと続くものと思っていた。

絶対にいけないのは景俊さまの方だ。でも、不仲の原因が何だったのか、どこか
ら始まったのか、さっぱり覚えてはいない。1つ1つ過去の会話を思い出してみ
ると、私の名前が「明子」(あきらけいこ)なのを、お前の親父は何を気取って
付けたのだ、とからまれた。都の身分高い貴族の嫁にお前なんかが行けるとでも
思っているのか、と罵られたこともあった。初めてぞろりとした絹物を着、化粧
をして町に出たのを、ちっとも似合わないぞ、とからかわれたこともあった。女
の姿形をくさすヤツは許せない。絶対に、だ。以来、私達は犬猿の仲となった。

倶利伽羅峠の合戦に赴く平家の若者達をきゃーきゃー騒いでお見送りした。行列
の美々しさをほれぼれ眺めている私の耳元で「これで終わりだ」と告げた人がい
た。声に聞き覚えがあったから振り向くと、藤原の景俊さまだったという訳だ。
(こんな佳い日にこんなイヤなヤツに出会ってしまったなんて)と思ったけれど
「これで終わりだ」とはどんな意味なのか、この時の私には見当も付かなかった。

この日、藤原さまのお屋敷で、久し振りに実家にお戻りの景俊さまと、お父上の
忠清さまが大喧嘩なさったそうだ。景俊さまが龍ならおじさまは大龍でいらっし
ゃるから、家の子・郎党どもが大変恐れたと聞いた。お2人は刀を抜いて、切り
合いそうになるまで激しく口論したそうだ。喧嘩の原因は今となっては景俊さま
が正しかったことになる。おじさまは景俊さまに「平家の先行きに疑いを持つよ
うな不吉なヤツは、もう1度この家から出て行け」と、罵ったそうだ。

景俊さまは治承4(1180)年早々、日頃の乱暴ぶりがこうじて家の子を傷付
け、おじさまに勘当され、出奔してしまわれた。この日、3年ぶりにご実家にお
帰りになったという訳だ。アイツんとこの、いつもの父子喧嘩だろう、とウチで
は解釈して笑っていた。未だ平家の将来に何の疑問もいだいてはいなかった幸せ
な日々の一コマであった。

伊勢の古市の景綱さまの流れの忠清さまのお家は激しい気性の息子達ばかりが生
まれて来る、と私の父は言う。その割りにお育てした清盛さまのご次男・基盛さ
まは若くしてお亡くなり遊ばしたが、そのお子さまの行盛さまはなかなかの風流
な歌詠みの貴公子でいらっしゃる。

同じ景綱さまの流れでも景家さまの方には脆さがある、と私の父は言う。景家さ
まがお育てした清盛さまのご三男・宗盛さまではお人が良過ぎて平家一門を引っ
張っていけるのか、と父は心配する。宗盛さまのお心の寛さ・人を信じて疑わな
いご気性が、喰えないあのお方・後白河上皇さまに太刀打ちなど出来るものか、
と父は危ぶむのだ。

あぁ、治承4(1180)年が平家一門の悲劇の始まりであったとは誰に予感出
来ただろう。私達はあのままずっと平家の世が続くものとばかり信じて疑わずに
いた。もし、気が付いた人がいたとしたら、伊豆の遠縁を頼って東国の空気を吸
って来た景俊さまだけだ。だが今となってはあの時の景俊さまに何が出来たとい
うのだ。あの頃、東国でどのようなうごめきがあったのか、皆、たかを括ってい
たのだから。

倶利伽羅峠での敗け戦さには肝を潰したどころではなかった。平家一門では一番
の武勇のお家の藤原さまは侍大将として忠綱さま・景高さまを、それぞれご嫡男
を維盛さまの補佐にお出しになったのに、武運拙くお二人とも戦死なさった。平
家が負けるとは都の人々にも信じられない戦さであった。この時の平家一門の嘆
きは空を覆い、地は涙の海となった。そして景家さまは子供達が死んだのを嘆く
余りにお亡くなりになった。

倶利伽羅峠での敗戦後、木曾軍が都に乱入して来るとの噂が流れ、都は上へ下へ
の大混乱に陥った。藤原景家さまのお家では、ご当主景家さま・ご嫡男景高さま
及びご次男もお亡くなりになったので、ご本家の忠清さまが末子・景俊さまを養
子としてお入れになった。「平家の後見」「平家第一の勇士」と讃えられた景家
さまのお家が、ご三男の景経さまのみお残りでは、とのことだった。

いよいよ平家が都を去る時になった。ウチはウチで大変な事態に陥っていた。こ
の都落ちに、あの「宗清伯父」も同行する、と言うのだ。「どの面下げて我らと
落ちて行こうと言うのだ」「池どの同様、頼朝を頼って東に逃げれば良いではな
いか」「まあまあ、同じ一族でいがみ合うのだけは止めようではないか」伯父上
たちが口角泡を飛ばして激論するのを聞くに耐えず、悲しくなって私は家を抜け
出した。

家を飛び出しても今の平家の私には行く宛てなどある筈が無かった。月が明かる
く照っているのが心強いだけだった。明日にも捨てていかねばならない家を出て
家出娘の私が一体どこに行けると言うのだ、と屋敷の竹垣にもたれていると、月
明かりの中に人が近付いて来た。ギョッとして家の中に戻ろうとすると意外にも
景俊さまであった。

絶望の闇に突き落とされた今の私には例え景俊さまでも最早避けたいとは思わな
かった。ほんの少し前まで月明かりのみが私の味方であったように、明日の知れ
ない運命を受け入れねばならない私にとって、景俊さまは一筋の光となっていた。
私は勇気を出してご挨拶した。

「けいこちゃん、君は伊賀に逃がれる方がいい。伊賀は山また山の隠し国だ。君
は山となり谷となって身を隠せ。上つ方たちは海に逃れるつもりらしい。さてさ
て一体どれだけ生き延びられるというのか」(伊賀へ?あの何も無い伊賀へ?そ
れも一人で?)この人のお話はいつも飛躍していて、私には何を言いたいのかさ
っぱり分からない。

「けいこちゃんは伊賀の予野の花垣村を覚えているだろ?」(私の名前はあきら
けいこよ。きちんと呼んでよね!今は喧嘩をしている暇は無い、か。。。)諦め
て私は景俊さまのお話に耳を傾けた。「あそこの桜を覚えているかい?ほら、昔
伊賀に一緒に行っただろ?大山田村から伊賀の反対側の予野に歩いて行ったじゃ
ないか。たんぼの畦道を西に西にと2人で歩いたじゃないか」あぁ、そうだ。道
に迷って、とにかく西に歩けばいい、国境を超えて奈良に入ったら戻ればいいん
だから、と夜になってからは月の位置を頼りに歩き続けたっけ。幼い私は疲れ果
て、この人にもたれてウトウトした時の温かさ、頼もしさは今でも決して忘れて
はいない。

朝になって辺りが白々と輝き始めた時、小高い所に桜が見えた。「あの桜は一条
天皇の御世にこの村から献上した桜の兄弟なんだよ。ここの村の人達はこの桜を
誇りに今でも大切に守っているのさ」「もう、200年近くも?」「そうさ、桜
は何百年も生きる事が出来るんだ」「???」「人は死んでも花は残るってこと
さ。予野の花垣村の桜は永遠に残るんだ。人の心に。人が生まれ変わる度に」

永遠に?永遠に!「永遠に」とは一体どれ位の時の長さなのだろう。そして、こ
のお散歩事件の後、私と景俊さまの仲が壊れたのだ。そうだ、思い出した。大人
どもが私と景俊さまの仲の良さをからかったのだ。

「この2人はいつでも、どこでも、ぴったりとくっついて、ほんに仲の良いこと
じゃ」
「当たり前だろうが。ウチとアイツの家の者が仲違いする訳が無いではないか。
この世の終わりが来ても、ウチはアッチを、アッチはウチを守り抜くに決まって
いるではないか」
「年頃になれば、あちらは見目美しい奥方をお迎えになって、こちらは将来の確
かな良い婿殿を捜さなくては。じきの事ですよ」
「年頃になれば泥だらけになって遊んだ子供の頃の事なんかすぐに忘れて、私は
泥なんて見たことも触ったこともございませんのよ、って顔をするんだろうな」

大人どもの大笑いにカッとなって「すぐに忘れたりなど致しません。わたくし達
は永遠にお友達なのです。生まれ変わる度にお友達になって。。。」「泥遊びを
するのかい?」誰かが茶々を入れて私は泣き出した。この話が藤原さまのお家に
も伝わって、大人どもから景俊さまもからかわれたのだ。

「け・え・こちゃん!君ねぇ、なんかつまらないこと、言わなかった?」(つま
らないこと?つまらないことですって?私は景俊さまと永遠にお友達でいたい、
って言ったのよ。私とお友達でいることは、景俊さまにはつまらないことだった
の?景俊さまなんて、だぁいーーーっ嫌いっ!)

あぁ、そうだ。あの事件だ。あれ以来私は景俊さまとは口をきかないことにした
のだ。道で出会っても、こちらが先に景俊さまを見掛ければ道を変えたっけ。う
っかり気が付かなくて擦れ違うことになってしまった時は気が付かない振りを通
したんだ。こういうことが度重なって景俊さまは私を見掛ける度に意地悪をおっ
しゃるようになったのだ。

伊賀の予野の花垣村の桜とは、あぁ、なんと懐かしい。伊賀の西の外れで、すぐ
隣に奈良の月ヶ瀬村がある。北には滋賀の海があって。でも、高い山々に阻まれ
て、私1人ではとうてい越えられぬではないか。

「君は伊賀に逃れる方がいい。我が軍は必ず盛り返し、京の都に戻って来るから
君は伊賀でその日を待てば良い。でも、上つ方たちは九州までも落ちて態勢を立
て直すつもりのようだから、時がかかりそうだよ。そんな遠くに女や子供まで、
みんな連れて行くなんて、戦さを何と心得ているのか、とは思うけれど、都にお
られなくなった以上、新天地を求めるより仕方ないやね。足手纏いだ、なんて冷
たいことを長年仕えてきてくれた小者達にだって言えやしないし」

「ウチのオヤジは京に残るそうだ。あの喰えないお方・後白河上皇が背後で何を
企むか知れたことじゃないからね。君のオヤジどのは伊賀に戻って兵を纏め、こ
ちらの動きと呼応する手筈になっている。木曾軍が都人に受け入れられるとはと
ても思わないが、もっと手強い相手が木曾の背後から、木曾とこっちを狙ってい
るんだよ」

父と伊賀に行けるなら、こんなに心強いことはないが、上つお方たちが足場を固
める迄、父は敵をくい止める役目を仰せつかったのか。死がすぐ真後ろに迫った
のを感じ、私の背筋は氷りそうだった。

「本当は、けいこちゃんと一緒に居られたら、とは思うけど、君が近くにいたら
気になって戦えないじゃないか。男は大切な人の為に戦うんだよ。友とか、親と
か、兄弟姉妹とか、妻とか、子とかの為に。自分の為とか主人の為というのはず
っと後だ。自分にとって1番大切な人は、ずっとけいこちゃん1人だよ。自分は
けいこちゃんの為に戦うんだ。けいこちゃんを絶対に守ってあげたいから」

私は溢れる涙を止めることが出来なかった。

「我が軍が海上を西に落ちて行けば、都で争うのは木曾と鎌倉だろう。我が軍は
結局は木曾か鎌倉のどちらかの勝者と決着をつけることになる。しばし時を稼げ
るって訳だ。そうなれば我が軍はかなりの力を養い、逆に向こうは疲弊し切って
いる訳だ。それにこっちには船がある。瀬戸の内つ海を閉鎖すれば、九州も四国
の豪族達も再び我が軍になびくだろう。勝算はこっちにあるって寸法だ」

「都に戻ったら、すぐ、伊賀へ君に会いに行くよ。また2人であの予野の花垣村
の桜を見に行こう。毎年春に一緒に見に行くことにしてもいいね。あの桜は平家
にとって、出世桜って言うから、あの桜が咲いている限り平家は大丈夫だ。村人
達が枯らせたりはしないからね。昔、東大寺と公家の2重の支配を受けて苦しん
でいた村人達を平家のご先祖が解放してやったんだ。一条天皇の息がかかるよう
になってからは暮らしがうんと楽になって、村人達は感謝して、親が死んでもそ
の子が桜を守ってくれるんだ。そうして今でも、ばんだの花を付け、あの桜は咲
いてるって訳だ」

「そうだ、けいこちゃんが桜の所で待っててくれたら捜す手間が省けていいね。
来年桜の花が咲く頃には戻って来られよう。伊賀の、予野の、花垣村の、桜の下
で必ず会おう。こっちも矢あられの中をかいくぐってでも、川床を走ってでも、
必ず君に再びまみえるよ」

家の中から私を捜しに人が出て来る声がして、景俊さまは「何年かかろうとも、
必ず君に会いに行くからね。君がどこにいることになってても、君も必ず桜の咲
く時には、毎年予野の桜の所に来ていて欲しい。必ず、必ず、ね。何度生まれ変
わっても、必ずいつか、また、会おうね」と告げて足早に去って行った。今度は
心に余裕があったせいか景俊さまの鎧の草摺りの音が遠く離れて行くのを確かめ
て私は家の中に戻った。

これが景俊さまを見た最後の記憶だ。寿永2(1183)年5月まもなく15夜
になろうとするお月さまの記憶でもある。

今年、宿屋で4月5日が終わり、6日に日付が変わった頃、私は(あの人は本当
に予野に来てくれるのだろうか)と考えていた。今年は源頼朝没後800年とい
うことでか、又は、何故かは分からないが、私は<あの人>に必ず会える気がし
ていた。今年こそ私の長年に亘るオカルト体験を終わりにしたかったからでもあ
る。今年は必ず<景俊さま>に会わなければ。

2日前、と言っても4月4日、私はN氏と赤間神宮を訪ね、七盛塚の前に佇んで
景俊さまが来てくれるのを待っていた。知盛さまは現われた。教経どのも現われ
た。他にも現われた人達が大勢いらっしゃる。私は彼らに尋ねた。「飛騨の四郎
兵衛景俊さまはどこにいらっしゃいますか?」しかし、返事は無い。

感触としては上総の五郎兵衛忠光さま、飛騨の三郎佐衛門景経さま、越中の次郎
兵衛盛継さまの魂も<わたし>の恋しい景俊さまの魂も、ここにはいない、と思
った。景俊さまがここで亡くなってはいない感触はあるのだが、だったらどこに
消えたのか、平家敗北後の戦後処理の手掛かりだけでも得たいと願った。

時折寄せて来る波のような観光客の群れに交信を妨げられて私は精神を集中出来
ず、波の引いたのを確信して、とうとうある強行手段に出た。普段の私だったら
敬意を払って絶対しないことだが、今回ばかりは七盛塚の2列目の塚石群の壇に
上がったのだ。きっと、N氏は(これこれ (^^; ちょっと!) と内心焦ったこと
だろう。

私は景俊さまの塚石の表を何度も手で撫でて、6日には伊賀に行くので必ず来て
欲しい、あの時の約束を今生こそ果たして欲しい、と何度も呼び掛けた。

今年、4月6日と日付が変わった夜中、下関のホテルで2泊した夜が無事に終わ
った事を考えていた。2夜とも怖い経験をしなくて済んだ。もしホテルの部屋に
暗い影となって姿の分からない誰かが訪ねて来たら私は絶対正気ではいられなか
った筈だ。部屋におられず廊下に大声を挙げて飛び出したことだろう。

4月5日の夜から6日にかけて、私は一睡もせず来し方をつらつら考えていた。
私の一生。私の過去。私の前世の記憶。これまでの不思議な体験。それらが私の
宿命というものだったのだろうか?と。でも、明日、伊賀に行けば分かる。予野
の花垣村の桜の下に立てば答えが出ることだ、と。明日、明日こそ。。。

眠られぬままに夜を過ごしていると、天井に明かるい光が差し込み、その光は私
を見下ろす位置に移動し、納得するかのように一瞬輝きを増し、そして消えた。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月15日 03時33分19秒)
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さて、次はいよいよ「伊賀国予野の花垣村の桜」の段を書き込みたいの
ですが。。。これがなかなか書けないのです。

現存する人達が絡んで来るので、私は恥は平気で捨てられるけれど、
そうはいかない人達も出て来る、と思うとそれらの人々を考慮する余り
話が。。。

皆さんが「結末はどうなるの?こんな形で終わってしまうの?」と、私に
がっかりなさるでしょう。で、困ってます。

ま、暫く、お待ち下さいませ。
<m(_ _)m>

さんからのコメント(1999年05月15日 07時45分48秒)
           パスワード

>きっと、N氏は(これこれ (^^; ちょっと!) と内心焦ったことだろう。

 私はそれくらいのことでは焦りません (^_^)。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月15日 09時55分13秒)
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N氏へ:

いたみ入り奉ります。
<m(_ _)m>



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