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 投稿番号:101647 投稿日:2018年10月17日 14時28分05秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]X(課題確認58):115
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族C]W(課題確認57):114服部中家の謎解明
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101644_49.html
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



>引佐町渋川にある「東光禅院(通称は東光院)」へ行って、
>『當寺古記 御由緒書 注解』という本をほとんど紙代だけで頂いてきました。
>住職他三人の郷土の研究家で解読し、注釈をつけたもので、十年かかったということです。

>東光院は、亀之丞(直親)が信州の松源寺へ逃げ、
>足掛け十二年後に井伊谷に戻って来る途中に、いずれも寄宿した所であります。

>また、同じく、虎松(直政)が鳳来寺へ逃げ、
>足掛け七年後に龍潭寺に戻って来る途中に、いずれも寄宿した所でもあります。

いいですね
今でもちゃんと歴史が続いているって。

直親直政親子がお世話になったお寺を訪問できたってさぞかし感慨深いものがあったでしょうね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月17日 23時52分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。
 つくづく、歴史は"深い"と感じています。調べれば調べる程、人や出来事の
点と点がどんどん線でつながっていきます。無限の立体織物のようです――


 1841年(天保12年) 水野忠邦、改革に着手。
1851年(嘉永4年)  井伊直弼、井伊谷の井伊家代々の墓に詣でる。
          水野忠邦死す。
 1853年(嘉永6年) ペリー浦賀に来航。
 
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月18日 00時16分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 途中で操作ミスで、改ページになってしまいました。

 1854年(嘉永7年) 井伊直弼は長野主馬(しゅめ)に井伊家の系譜編纂を命
          ずる。長野は翌年井伊谷と渋川に調査に入る(その時の
          依頼文書が東光院に保存されているそうです)。
          その後、江戸に戻った長野は「井伊氏家系図」を作成
          し、直弼公に提出。その功があり、百五十石を給せら
          れ、士籍に列し、名を主馬から主膳(しゅぜん)へ改名
          した。
 1858年(安政5年) 井伊直弼、大老就任。
          安政の大獄。
 1860年(万延元年) 桜田門外の変。井伊直弼死す。

 水野忠邦と井伊直弼は、ほぼ一世代違っています。井伊直弼は、祖先の
故地をおろそかにしなかった。今の自分は、祖先あっての自分、祖先から
のつながりは、永遠のもの――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月19日 03時18分32秒 ) パスワード

友人のお話:

彦根城ですけど
長浜城に行った時、そこの学芸課長と石田三成賛歌で盛り上がって聞いたたわけですけど,

彦根城は長浜城の建物半分,佐和山城の建物半分で建てられたそうです。

まあ,彦根城の大手門が,佐和山城の大手門を移築したと言う話は聞いてましたけど,
長浜城の建物も移築したとはびっくりしました。

これには訳があるようです。
最大の理由は,早く彦根城を築城したいと言う徳川家のお家事情と共に,
井伊直政が彦根に行って驚いたのが,豊臣秀吉と石田三成の人気が大変高い。


それで,井伊氏が秀吉も三成も逆賊と言ったら,一揆がおきて,ハチの巣をつっついたような騒ぎになる。

それで,直政と直孝が,頭絞って考えたのが,初代直政は暫く佐和山城にいる。次の直孝は,彦根城に移るけど,
秀吉と三成の後継者が井伊家と言う形で,
長浜城と佐和山城の建物を半々で持ってきたそうです。

それで,一揆が起こらないようにしたそうです。


これは,同じことが古代でもいえると思います。

弥生時代の方形周溝墓ですけど,これ北海道から薩摩まである。
これに墳丘を足すと四隅突出型古墳になるそうです。

それで,最近,方形周溝墓も出雲の墓でないかと言われています。
つまり大和朝廷が出来る前の弥生時代の後期,日本全国を出雲が統一していた。


日本書紀に,神武以前に大和にいた饒速日(にぎはやひ)と言う人がいます。
この人物ですが,大国主命だと言われています。


日本書紀も古事記も,大国主命の存在を分かりにくくするために
大和では饒速日,関東では大国魂,出雲では大国主と言う風に,
名前を地方で変えたと言うのが古代史の定説です。



日本書紀も古事記も,初代神武天皇は饒速日家に養子に入ったことになっています。
それで,饒速日のイスズヨリヒメを押し倒して2代天皇の綏靖天皇を作ったことになっています。

これは,日本書紀も古事記も同じですので,
      正しいかどうか分かりませんが,
日本書紀と古事記を作った時にこの話があったものと思われますし,

日本書紀にも書いてありますけど,日本書紀,古事記以前に,帝紀,国記,旧辞等の図書があり,
大化の改新で,蘇我邸が焼け落ちるとき,佐伯某と言う人物が炎の中に飛び込んでこれらの図書(三つ全部かどうかは書いてありません)を運び出したと言う記述がありますので,
これらの図書に書いてあった可能性もあります。


帝紀,国記,旧辞は,どうなったかの記録がありませんが,
古事記を,大和言葉で読むと「ふるごとふみ」になります。

意味は,古いことを書いた本と言う意味です。



歴史書ですが,もう一つ意味があり,昔昔の物語になります。
しかも,古事記は推古天皇まで。
日本書紀は,天武天皇までですので,
古事記は,日本書紀のダイジェスト版だと言う文科省の教科書検定官のたわごとが正しいとは思えません。


しかも古事記ですけど,
これ、鎌倉時代に卜部家と言う陰陽師の家で,大掃除していたら屋根裏から転がり出てきたものです。

ですので,江戸時代まで誰も古事記を相手にしませんでした。

古事記の代わりに,日本書紀と先代旧辞本紀(せんだいくじほんぎ)で日本の古代を論じていました。



ところが,本居宣長が古事記を持ち上げてから,
日本書紀と古事記になるわけです。


これが確定したのが,明治天皇の時代です。


先代旧辞本紀の方も,序文に聖徳太子が出て来ますので,平安時代以降に成立したのかもしれませんけど。


聖徳太子が出てくるのは,平安時代だと言われています。
明治天皇は,インカ文明を破壊しつくしたコルテスと同じ文化の破壊者だと思いますが,
私は,この先代旧辞本紀と古事記が,帝紀,国記,旧辞でないかと思っています。


どれがどれか分かりませんけど。


だから,先代旧辞本紀と古事記の記述が似ていて,両方とも推古で止まっている理由だと思います。


それで,日本ですけど,
遣唐使が唐の玄宗の前で
「倭は雅でないから,日本と言う小国を併合した。だから,今後,日本と呼んでくれ」
と言ったと旧唐書(くとうじょ)に書いてあるのが,日本の初見だと言われていますが,

この日本は,
神武以前に日本を統一していた出雲を日本と言ったのだと思います。


つまり,大和朝廷も,出雲の後継者だと言いたかったのではないかと思います。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月19日 03時23分11秒 ) パスワード

つまり  井伊家は彦根を治めるのに  秀吉と三成の後継者  というポーズをとった
ということです。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月19日 10時22分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いい話をたくさんありがとうございました。色々深いものがあり、勉強に
なりました。忘れないように、しっかり頭にインプットしておきます。

 この中で出てくる『先代旧事本紀』ですが、これにまつわる話を記してお
きたいと思います。話は長くなりますので簡潔にまとめますと、幕末の井伊
直弼の時代に「長野主膳」という人物がおりましたのはご承知のとおりです
が、一方江戸中期(1679年)にも、「長野(永野)采女」という人物が『先
代旧事本紀大成経』の出版にかかわっておりました。
 どちらも祖先は「箕輪城主長野業政」であるようであります。井伊直弼の
祖先の井伊直政も、その後の箕輪城主であり、井伊氏と長野氏との不思議な
つながりを感じています――
[6]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月22日 15時33分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秋はスポーツのシーズンということで、昨日は芝刈りに行ってきました。
天気は秋空で澄み渡り、気温はやや暑い程でありました。これは良いスコア
が出そうだとハイな気分になっておりましたが、結果的には意気消沈。夜にニュースで流れたボクシングの村田選手の敗戦と相まって、ウィスキーの水
割りがグイグイと進んでしまいました。

 さて、水野忠邦が浜松城主だったということで、歴代の浜松城主を見てみ
ますと、第十三代浜松城主であります松平資俊(宗俊)は、「桂昌院(家光の
側室、綱吉の母)」の弟・宗資の子、つまり、桂昌院の甥であることがわか
りました。

 桂昌院で思い出すのは、松平忠輝の家老の花井吉成の子・花井義賢の妻が
桂昌院の姉であったことであります。

 つまり、花井吉成は桂昌院の義理の伯父であったことになります。

 この桂昌院、綱吉の母としてさまざまな活躍をしているということ、注目
に値します――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月22日 22時57分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>松平忠輝の家老の花井吉成の子・花井義賢の妻が桂昌院の姉

ビックリ!

母方は歴史の裏舞台に埋もれて分かり難いものですが調べてみると思わぬところと繋がっているのですねぇ。


平安時代は息子より(美しい)娘をたくさん持つのが出世の近道でしたが
江戸時代も当たり前ですが美しい女性は出世の早道なんですねぇ。


女性には2つの生き方がある、という言葉を思い出します。
「◎◎になるか、◎◎のオトコの妻になればいい」



>この桂昌院、綱吉の母としてさまざまな活躍をしているということ、注目に値します

美しくて賢い女性は後世にもしっかり名を残しますね。
ちょっと検索に行って来ます。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月26日 00時36分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 季節や時節の変わり目で、このところ集中力を欠いております。

 桂昌院については、春日の局のいわゆる配下にありましたし、また家光
の側室として、同時にその子・綱吉の実母として、比類なき権力的立場に
あったと思います。天海や公海や道海との関係も特筆に値します。
この辺のことは、今後時間をかけてまとめて行きたいと思っています――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月26日 02時14分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>桂昌院については、
>春日の局のいわゆる配下にありましたし、
>また家光の側室として、
>同時にその子・綱吉の実母として、
>比類なき権力的立場にあったと思います。
>天海や公海や道海との関係も特筆に値します。               すごい人物が出て来ましたね

ということで検索して来ました:


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B5%B7_ (%E5%83%A7)

公海
(こうかい、慶長12年12月12日(1608年1月29日) - 元禄8年10月16日(1695年11月22日))

江戸時代前期の天台宗の僧。
父は花山院忠長。
母は本願寺教如の娘。

師の天海の没後に日光山貫主を継承する。


略歴
1620年(元和6年)天海僧正の門に入る。
1643年(寛永20年)に天海が没するとその法をついで東叡山寛永寺に住し、
天台宗の総本山である比叡山・徳川家康を祀る東照宮のある日光山を管理下に置いて
天台宗一宗を管領するようになった。

1647年(正保4年)に僧正に任じられ、翌1648年(正保5年)には大僧正に就任した。

後に守澄法親王に三山の管理者の地位を譲った。
天海の遺志をつぎ山科(現在:京都市山科区)毘沙門堂を復興している。


2 a
https://kotobank.jp/word/%E6%BD%AE%E9%9F%B3%E9%81%93%E6%B5%B7-1091529

潮音道海
ちょうおんどうかい  (1628―1695)

江戸前期の黄檗(おうばく)宗の僧。
肥前(佐賀県)に生まれ、13歳で慈雲寺泰雲(たいうん)のもとで出家。

その後、医王寺の瑞巌(ずいがん)について修行、18歳のとき京都に上り学習した。
近江(おうみ)(滋賀県)瑞石(ずいせき)山永源寺(えいげんじ)の如雪文巌(じょせつぶんげん)(1601―1671)などに参学した。

1654年(承応3)長崎に行き、黄檗宗の道者超元(1602―1663)について修行し、東明寺にとどまり、
隠元隆(いんげんりゅうき)や木庵性(もくあんしょうとう)に学ぶ。

1661年(寛文1)京都黄檗山万福寺に赴き、ふたたび隠元、木庵に参じた。

1664年、木庵とともに江戸に行き、池田秀峰(いけだしゅうほう)、黒田泰岳(くろだたいがく)に招かれて大慈庵に住し、
上野国館林の藩主徳川綱吉が創建した万徳山広済寺に招かれると、木庵を開山とし、自らは2世となる。

禅僧でありながら神道や真言宗の教義にも通じていた。

元禄年8月24日に68歳で死去。
『摧邪輪(さいじゃりん)』『坐禅(ざぜん)論』『霧海(むかい)南針』など40巻余の著書がある。[廣瀬良弘]


2 b
潮音道海 ちょうおん-どうかい   1628−1695 江戸時代前期の僧。


寛永5年11月10日生まれ。
黄檗(おうばく)宗。
山城(京都府)万福寺に隠元隆・(りゅうき)をたずね,その法嗣木庵性瑫(しょうとう)の弟子となり,のち法をつぐ。

寛文9年上野国館林藩主徳川綱吉にこわれ,広済寺をひらいた。
元禄8年8月24日死去。
68歳。
肥前小城郡(佐賀県)出身。
俗姓は楠田。
号は南牧樵夫。


なるほどね。
やっぱり力のある所で学ばないとね。
そして、その後の運で思わぬ力を持てるのですねぇ。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月26日 16時06分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 目からウロコの本があります。それは、本というよりも小冊子で、集英社
の『青春と読書』という月刊のPR誌であります。何故目からウロコかとい
いますと、この本の中には竹村鉱太郎氏連載の『広重の絵で読み解く 江戸
地形の秘密』が、毎回歌川(安藤)広重の違った絵(版画)に基づいて解説され
て行く。それは広重の天才的な驚きの構図(視点)と構成(パースペクティブ)
あったればこそでありますが、竹村氏の地形に対する洞察と相まって、相乗
効果の感激・感嘆をもたらしてくれます。
 具体的に述べたいのですが、残念ながら広重の絵がないと説明できないの
が残念です。
広重の絵には完全に魅了されてしまいまして、特に江戸の景色を描いてい
る版画集は入手したいなあと思っております。東京にも最近ちょくちょく行
きますので、よけいに興味を引かれています。

 あを様には、竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける』を近日中
にお送りいたします。正に目からウロコであります――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月26日 23時01分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
楽しみにしています。

>広重の天才的な驚きの構図(視点)と構成(パースペクティブ)

それを読み解く人もいるというのがスゴイですね。


わたくしはハワイに来てやっと=海を見て=地球は丸いというのが分かりました。

海には毎年行ってましたが近視的に見てたのでサッパリ気づきませんでした。

そういうのに気づく才能のある人がいるのですね。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月28日 06時18分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、江戸(東京)に行き、江戸城跡を見てまいりました。具体的には、
東京よりメトロ東西線で九段坂(靖国神社側)で降り、通りへ出るとそこは
「田安門」で、北の丸の入り口であります。

 江戸古地図では、江戸城の北の丸の更に北に田安家と清水家は並んで建
っており、そこは現在では「日本武道館」の八角形の建物が建っております。
現在の地図には、田安門と「清水門」は載っておりましたので、是非この
二つは見てみたいと思っておりました。

 田安門は、位置的には江戸時代と同じと思われます。また、武道館を挟
んで北へ回り込み、下った所に清水門もありました。これも古地図と比較
して、位置的には昔と変わらないと思われました。

 田安門の説明看板――
 「重要文化財 旧江戸城田安門(昭和36年6月7日指定)
江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(すけなが 道潅)によって創ら
 れたとされる。天正18年(1590)、徳川家康の居城となり、文禄元年
 (1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣、寛永
 13年(1636)に総構(そうがまえ)が完成し、大城郭としての形が整えら
 れた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われたもの
 の、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。

  田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門とその
 右手の奥の櫓(やぐら)門からなる。門の創建年代は明らかではないが、
 現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から、寛永13年(1636)に建て
 られたものであると考えられている。
  しかし櫓門の上部は、破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去
 されていたものを、昭和36〜41年度の修理で復旧整備したものであ
 る。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現在唯一の建物であり、高
 い価値を有している。」
とありました。
 
 清水門についても、説明看板は――
 「〜前段・中段は、ほぼ田安門と同じのため略す〜
  清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有して
 おり、門から北の丸に至る石段とともに、江戸時代の状況を色濃く残し
 ている。」
    
 江戸城(遺構)は、石垣も掘も門も敷地も広大で立派なものでありました。


 次回は、「半蔵門」について竹村公太郎氏の説を記してみます――
 
[13]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年10月29日 10時52分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日の江戸城跡を訪れた時、皇居の「乾門」(江戸城郭の内部の門)周辺
に警察のものものしい警備体制がしかれておりました。地元の警察官に訊い
たところ、高知県で行われる行事に参加するため、これからお出かけになら
れるとのことでありました。
 何というラッキーかと思いながらも、三十分も待つ時間的余裕はありませ
んでしたので、その場を後にしてしまいました。

 皇居から皇室が城郭外部に出る場合、あるいは城郭外部から皇居へ皇室が
訪れる場合、どの「門」をお使いになるのかということで、竹村公太郎氏は
『日本の謎は「地形」で解ける』の中で、次のように書いておられます(要
約)――
 「半蔵門は緊急脱出用の裏門ではない。皇室が「公式行事」の時にお通り
 になる門が「半蔵門」である。逆に言うと、半蔵門は公式行事以外には通
 れない重要な門であるということである。」
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月29日 13時14分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ものものしい警備体制

雰囲気だけでも感じることが出来て良かったですね。

逆に巻き込まれる臣民は大変な目に遭うそうですが。
例えば  工事中ですと  ストップしないといけないとかね。
ま、何かあったら大変ですからね。

     工事している人達だって何か事件が出来ともなれば事情聴取でまる一日拘束されるでしょうし。


>城郭外部から皇居へ皇室が訪れる場合、どの「門」をお使いになるのかということ

小室圭さんが秋篠宮家に行くのに「待ち構える報道陣の裏をかいて」
不在中だからと皇太子殿下家専用門から侵入したとして
誰が許可したのかの犯人捜しが行われたでしょうし
警備だって責任を問われたでしょうし
大問題ですよね。



>半蔵門は公式行事以外には通れない重要な門

そうでしたか。
それで報道で「半蔵門」という名がわざわざ放送されるのですねぇ。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月01日 08時30分20秒 ) パスワード

織田信長暗殺後の神君家康公伊賀越えコースを考えてみました。
距離感を知らなさ過ぎるから。


ということで伊賀と宇治田原=喰えない爺さんの服部貞信の住んだ所=の距離を見てみました。

https://www.google.com/search?ei=ajHaW-b8JqqC0wLZwJ2IDQ&q=%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E3%80%80%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%80%80%E5%AE%87%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E3%80%80%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%80%80%E5%AE%87%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...29457.43500..44292...0.0..0.237.3135.0j19j2......0....1..gws-wiz.......0j0i71j0i4j0i8i7i4i30.4cN7ajOH1V8

54 min (39.0 km) via 国道422号線 と 国道307号線
58 min (37.4 km) via 国道163号線 と 府道62号線
1 h 13 min (48.4 km) via 国道163号線

ま、最短コースを更に斜めに横切ったのだろうな、と。



神君家康公伊賀越えの道

このコースは宇治田原を東西に横断し、山城と近江を結ぶ交通路「信楽街道」のルートを基に、
「伊賀越え」で徳川家康が通ったと考えられる道をたどるモデルコースとして設定したものです。

信楽街道は、宇治田原の西の玄関口である郷之口から、贄田(ねだ)、立川、湯屋谷を通り、最も東の奥山田の裏白峠を越えて信楽に至るもので、
国道307号のルート以前に東西を行き来する主要な交通路でした。

現在は自動車では通れない場所もありますが、その痕跡をたどることが可能です。

コースの始点には案内板が、道中の数カ所には道標が建てられています。


コースデータ
・全行程距離:約8km          命からがら山道を行ったのは2里だった?
・所要時間:約5時間(見学・休憩時間含む)
・高低差:約200m



ふぅ〜ん、なんて眺めていたら、こんなのに邂逅しました。

http://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=133


宇治田原と平家方伊賀の服部氏の関係に  あれ?  と思いました。


本姓藤原俗姓足利呼び名田原又太郎忠綱の墓       ← (註:源姓足利氏とは違いますよ)

治承4年(1180)、以仁王の平家追討令に呼応して挙兵した源頼政は平等院に布陣し宇治川を挟んで平家軍と対峙した。

その頼政軍を攻めて武功を揚げた平家方の武将足利忠綱は、
地元の伝承では郷之口北堂山にてその後の平家の滅亡を嘆いて自刃したとも、
宇治川合戦で負傷してたどり着き息絶えたとも
いわれる。



住民は供養塔を建て又太郎社を祀ったが現在は郷之口の斎田神社に合祀される。現在は軍人墓地の一角に碑が建っている。

TEL     0774-88-5850

住所    京都府綴喜郡宇治田原町郷之口南堂山

定休日    なし(笑ったぁ〜)

アクセス  京阪宇治線「宇治」駅、JR奈良線「宇治」駅、または近鉄京都線「新田辺」駅から京都京阪バス(維中前、工業団地、緑苑坂行き)で「下町」下車、徒歩5分

関連URL
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/



ウイキ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%BF%A0%E7%B6%B1

足利 忠綱(あしかが ただつな)
平安時代末期の武将。
鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏5代当主。
治承・寿永の乱において、平家方について戦った猛将。


足利俊綱の子として誕生。
藤姓足利氏は下野国足利荘[1]を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、
同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた[2]。

『吾妻鏡』によると治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、
小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、
足利氏が受けなかったことを恥辱として平家方に加わったという。

忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、平家の有力家人・藤原(伊藤)忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。

宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。


忠綱は勧賞として父・俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。


しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった。


巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる[3]。

藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、
一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、
この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。


忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる[4]。


                       (許可を貰って東国に帰った記憶だけど)


その後、治承5年/養和元年(1181年)になると現地で競合する足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、
一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、
佐位(西さんだと思う)七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、
藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった。


寿永2年(1183年)2月、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、
上野国山上郷龍奥に籠もった[5]。


その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いたと『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条にあるが、その後の消息は不明である。


9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った[6]。

俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した[7]。


『吾妻鏡』は、忠綱を形容して
「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」
と記している。


なお、忠綱は平家方として西海に赴いたとされるが、
「頼朝に背いた先非を悔い」平家方に加わるというのは腑に落ちない行為であり、
汚名返上のために平家追討軍に参加したとも考えられる。     ヲイヲイ平家の敵ではありませんかぁ〜



『吾妻鏡』文治元年(1185年)4月15日条は無断任官者を列記した周知の記事であるが、
頼朝に
「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」
と罵倒されている兵衛尉忠綱は境遇が一致しており、
足利忠綱の可能性もある。

足利市緑町の福厳寺は忠綱が開基となって父母の供養のため寿永2年に創建されたとされる。




なお俊綱の滅亡は志田義広の蜂起と同年に起こったとするのが一般的な解釈であるが、
『玉葉』養和元年(1181年)8月12日条に俊綱謀反の記事があること、
寿永元年(1182年)が『吾妻鏡』最終所見である和田義茂が、寿永2年(1183年)に追討軍を率いることは不自然であることから、
義広蜂起と俊綱滅亡は別個の事件とする見解もある。

ただし、野木宮合戦の年次自体も旧説では寿永元年説だったものがその後の研究で寿永2年説が有力になった経緯がある。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BF%8A%E7%B6%B1
忠綱のパパ:

散位・藤原家綱の子として誕生。
藤原姓足利氏俊綱も当初は源氏と協力関係にあり、
保元の乱では下野から八田知家と並んで源義朝配下として参戦している。

しかし、新田義重が金剛心院領新田荘の下司に任じられて在地への関与を強めると、藤姓足利氏と義国流は競合することになる。


仁安年間(1166年〜1169年)、俊綱はある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となり、
平重盛が新田義重に足利荘を賜うという事態となった。


俊綱の愁訴により足利荘改替は何とか回避されるが、新田氏との対立は決定的となった。


俊綱は権益保持のため、重盛の家人で同じ秀郷流藤原氏の藤原(伊藤)忠清に接近したと推測される。


治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、俊綱の嫡子・忠綱が忠清の軍に加わり宇治川を先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。

忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野国十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを願い出た。

しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった(『源平盛衰記』)。

藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、
一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、
この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。


なお、藤姓足利氏は終始平家政権側だったするのが一般的な解釈であるが、
平家に対する恩賞の不満から一時的に頼朝に帰順していたとする見解もある[3]。


寿永2年(1183年)2月、忠綱は志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野山上郷龍奥に籠もった[4]。

同年9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野に下った[5]。

俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害された[6]。

頼朝は桐生六郎を「譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり」として斬首した。

                          アラアラ
                          頼朝もパパが殺されてるからねぇ


俊綱の遺領は没収され、
足利荘は足利義兼が一元的に管理することになるが、
俊綱の子息兄弟や郎従眷属でも帰順した者には処罰を禁じ、妻子らの本宅や資財も安堵した。

藤姓足利氏の嫡流は途絶えるが、一門の多くは御家人として存続し鎌倉政権に組み込まれることになる。

                          へぇ〜


命のやりとりの残酷な戦いの時代ですね。

なのに宇治田原に忠綱の碑があるのは何故に?
おそらく忠綱と婚姻関係があったからかもですね。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月01日 10時46分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日より、急に冬が来たように寒くなりました。夏から冬へと、秋抜きの
気候構成になって来たような感じがいたします。

 何でこんなに気候が変化して来たのか、Co2が一番の原因なのでしょぅ
が、それは森林伐採と火力のますますの利用という、ブレーキの利かない文
明の暴走にあることは間違いないことと思われます。
 核融合発電と水素ガスの利用の研究に、政府としてもっと力を入れること
が肝心だと思っていますが、浜松ホトニクスはレーザー技術で核融合の一歩
手前まで来ておりますこと、頑張ってほしいと思っています。電気自動車も
大元の電気エネルギーは火力発電が主ですので、火力発電所のCo2が問題
であります。空飛ぶジェット飛行機も思いっきりCo2をまき散らしていま
すので、何とかならないのか……何ともならない?

 さて、「半蔵門」をまだ実際に見たことがないので、近日中に見に行って
まいります。服部半蔵が半蔵門の前あたりに居を構えていたということです
が、半蔵正成は1596年に亡くなり、麹町の安養院に葬られた(その後西
念寺と改められ、四ツ谷に移された)ということでありますので、江戸城の
拡張工事の最中に亡くなったと思います。
 半蔵門という名前がいつから正式名になったのか、誰がその名前をつけた
のか、半蔵の評価が高かったと解釈できるならば大変嬉しいのですが……。

 服部半蔵正成の評価については、まだまともに取り組んだことがありませ
ん。わかっているようでわかっていないのが半蔵正成であります。それは
伊賀忍軍の頭領であり、家康の側近として秘密政策に携わっていた者として、
本当の所はカムフラージュされていると思われるからであります。

 でも、やはり「伊賀服部家」の謎は、「半蔵」に始まり「半蔵」に終わる
ような気がします。私も、まともに取り組むのは避けていたきらいがあり、
改めて振り返りながら、その真の姿を追ってみたいと思っています。

 竹村公太郎氏がいうように、「半蔵門」は江戸城の「正門」であったとい
うこと……その正門を守備した「服部半蔵」は、家康から警備について、一
番信頼されていたということができると思います。それは半蔵へのある意味
最大の論功行賞(評価)だったのかも知れません。その評価とほぼ時を同じく
して死んでいったということは、幸せな最後であったのかも知れません。
 だが、その死因も実は謎めいており、また息子の半三正成からは没落が始
まっていますので、いずれにしてもすべてが謎のブェールで覆われていると
いうこと、真実を見つけるのは容易ではありません。

 半蔵正成と言えば、家康の長男の信康との関係を思い浮かべます。正成は
晩年に麹町清水谷に庵を建て、信康の遺髪をまつって信康の菩提を弔ったと
いうことですが、信康事件(1579年)と半蔵との関係、これも真実はどうであ
ったのかという問題もあります。
3日前に、二俣の清瀧寺(せいりゅぅじ)の信康廟に行ってまいりました。
 以前と変わったことは特にありませんでしたが、寺発行の『信康と二俣城』
という小冊子ができていましたので、それを購入してまいりました。
 「信康廟」の中を改めて崖の上から覗いてみますと、廟の入り口を入った
所の右側に、4つの墓(ささやかな)が祀られていました(既知のことではあり
ますが)――
 @青木又四郎吉継(1572年の三方原の戦いで戦死)
 A中根平左衛門正照(     〃      )
 B大久保七郎右衛門忠世(二俣城主)
 C吉良於初(初之丞)(信康に殉死)
この@とAは信康とはどういう関係があったのだろうか? 改めて調べて
みたいと思います。大久保忠世、吉良於初についても、深掘りして行きたい
と考えます。

 その他で改めて気になったのは、信康廟の手前下に、遠山家の墓、服部家
の墓、奥の方に永井家の墓等があったことです(既知のことですが)。
 服部家の家紋は、「丸に剣方喰」でありました。永井家については、「永
井梨の切り口」と「丸に三つ柏」でありました。これは善地の永井家と同じ
構成でありました。服部家については、羽鳥南2キロの清心寺の服部家の紋
と同じでありました。

 いずれにしても、二俣という所は、天竜川の扇状地(遠州)の元締め的な場
所に位置していますので、「天竜市」の歴史も深堀りしてみたいと思ってお
ります――
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月01日 10時49分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがクロスしました。じっくり読んでみます――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月01日 15時42分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

我々現代人は余りにも知らなさ過ぎると申しますか
読めなさ過ぎると申しますか
どうしても現代の自分の環境から一元的に見てしまいますね。


>「信康廟」の中を改めて崖の上から覗いてみますと、
>4つの墓(ささやかな)が祀られていました
    @青木又四郎吉継(1572年の三方原の戦いで戦死)

信康の死は  天正7年9月15日(1579年10月5日) ですから三方原の戦い(元亀3年12月22日=西暦1573年1月25日=の後ですね。


青木さんと言えば名古屋じゃ立派な身分のお家です。お金持ちという意味。
で、調べましたら!ビックリでした。家康や秀吉に繋がりました。
そこまでスゴイお家というのは知らなかった。


      秀吉の母の「なか」さんは名古屋の御器所の出身で、御器所は平清盛が父から相続した土地ですから、当然、南朝方ですし

      「関」というのは、美濃の関と伊勢の関の関係がどうなのか?知りたいところです。伊勢の関は丸々、平家の一族の関ですし。


     青木さんの家がスゴイ家なのは今でもです。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/aoki/aokiitizoku1.htm
以下コピペ:管理人さん、情報をありがとうございました。無断コピペ、ごめんなさい。


秀吉と家康とを繋ぐ青木一族

 歴史の挟間にはなかなか興味深い人物群がいる。その一つがここで取り上げる青木一族であり、秀吉・家康が天下人になる過程で興味深い浮沈を展開した。

 1 青木民部少輔一重の一族と松平氏

  多少の縁というほどでもないが、かって大阪在勤時に豊中市曽根に住んだことがある。その北西方近隣にこの青木一族から出た幕藩大名家があった。すなわち、摂津麻田藩一万十七石という大名家としては最小レベルの藩主青木氏であり、その陣屋は現豊中市蛍池中町(伊丹空港のすぐ東隣)にあった。阪急宝塚線でいえば、曽根駅から北西の宝塚方面へ三つ進むと蛍ヶ池駅となる。その領地には酒所の伊丹を含んでいたが、酒税行政にも携わったこともあった。

  麻田藩主の初代を青木民部少輔一重といい、一般に武蔵七党の丹党青木氏の後裔とされている。天文廿年(1551)に生まれた一重は初め忠助、所左衛門と号し、重通、一治ともいったが、その父、刑部卿法印浄憲(1529〜1613)とともに信長・秀吉・家康の時代に活躍する。

  はじめ今川氏真に仕えた一重は、武功により黄金を褒美に賜ったこともあったが、永禄年中に氏真が没落すると家康の召しでその配下となり、元亀元年(1570)の姉川合戦で勇名を現す。朝倉方の有名な武士を討ち取る武功をたてるのである。

  すなわち、『信長公記』の姉川合戦の頚注文冒頭には、朝倉義景家臣で有名な武勇の士、真柄十郎左衛門のところに「此頚青木所左衛門是を討とる」と註がある。青木所左衛門一重は当時家康の家臣であり、のちに秀吉に仕えて摂津麻田一万石の大名になり、晩年は幕府に仕えた。同書の著者、太田牛一の子の牛次はこの一重に仕えている。なお、『当代記』には、真柄十郎左衛門直元を討ち取ったのは家康家臣の匂坂式部とあり(匂坂一族と郎等という所伝もある)、『寛政譜』では一重が討ち取ったのは、直元の子、十郎三郎直隆とされるが、文献の成立年代を考えれば、『信長公記』の一重の武功を一概に否定できないと藤本正行氏は記述する(『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』(JICC出版局、1993.2))。

 真柄一族はいずれも武名高かったが、姉川合戦で、十郎左衛門直隆、その子隆基、直隆の弟直澄が一時に戦死し、直澄を討ち取ったのが匂坂式部と『戦国人名事典』にある。この辺の人名や事績には多少とも混乱があるが(直元=直隆で、十郎三郎のほうの直隆は直澄の誤記か)、真柄一族の勇者を討ち取ったという青木一重の武功は信頼してよさそうである。

  このときの武功の刀は、美濃の名工関孫六兼元が製作したという「青木兼元」であり、「真柄斬り」という異名もあって、刃長2尺3寸3分、反り4分強、伝説のある業物である。関孫六が天下無双の斬れ味をしめす実例としてあげられる。この孫六はその後、一重の遺言により形見として丹羽家に贈られたが、一重がかつて丹羽の家臣だったという事情からである。

この逸話を記憶しておいてほしい。

関孫六の居住地は美濃赤坂(現大垣市赤坂)であったが、青木一重の生地青木村(現大垣市青木)もその東方ごく近隣であった。

  事典・系譜等の資料に拠ると、このあと、一重は元亀三年(1572)の三方ヶ原合戦のとき本多太郎左衛門尉の一隊で高天神城を押さえる働きをしたが、食邑不満のため家康のもとを去って丹羽長秀に仕えた。

 秀吉柴田対立の合戦では、幼年の主君丹羽長重に秀吉方となることを進言し、戦後に長束正家等とともに秀吉に属して使番・黄母衣衆となった。天正十三年(1585)には摂津国豊島郡等で一万石を与えられ、同十六年(1588)には従五位下民部少輔に任じた。

  関ヶ原後も大坂城に出仕していた一重は、七組番頭の一人となり大坂冬の陣に参加して大坂城の二ノ丸追手門升形など二方面の守将を務め、城南方面で真田幸村が守る真田出丸の激戦でも勇ましく戦った。冬の陣が一応和睦となり、翌元和元年(1615)の夏の陣の直前に豊臣秀頼の和議謝礼使として駿府城の家康に会見したが、その帰路、武功を惜しむ家康の内命を受けた所司代板倉伊賀守勝重のため、京都で拘禁されてしまった。そのため、一重は大坂入城ができず、まもなく合戦が始まると、主を欠いた青木勢を率いて養子左衛門正重(外甥で、斉藤義龍の家臣小寺宮内右衛門則頼の子)が大坂に入城して戦ったが、遂に大坂落城となった。

  一重はその後に剃髪して宗佐と名乗ったが、同年内に幕府に召し出されて旧領の摂津麻田で一万二千石を領した。同五年(1619)には引退して養嗣の甲斐守重兼(弟可直の子)に家督を譲り、死去したのが寛永五年(1628)八月のことであった。その時々の一重の運命は奇妙な変転をするが、最後は始めに仕えた徳川氏のもとにあって大名として生涯を終え、子孫も藩主として明治を迎え子爵に列している。なお、同藩当初の一万二千石は、のち弟の可直に二千石分知されている。

  一重を丹党青木氏の後裔とするのは、『寛政譜』にそうした系図が記載されるからであり、それに拠ると、丹武綱四世孫青木直兼の子孫につなげており、直兼の後、「実直−実村−実時−実季−重実−重直−一重」と記している。ところが、太田亮博士は、『新編美濃志』の記事により、「其実美濃の青木氏にして丹党と云ふは後世の附会なるが如し」と既に看破している。

  この記事とは、青木刑部卿法印浄憲の先祖は当村(美濃国安八郡青木村)より出て、始めの名は加賀右衛門尉藤原重直と称す、土岐家に仕え斎藤に属し信長公秀吉公に従い、慶長十八年大坂城にて戦死、その子一重も美濃に生まれ徳川家に奉仕し、後秀吉公にも属し御一統の後諸侯に列し子孫繁栄す、とあるものである。『寛政譜』には大名家の青木氏のほか、なお一流の青木氏があり、その呈譜には「世に丹治氏を称すと雖先祖藤原氏利仁より出るが故に勅許をかうぶりて藤原氏となる」とあるので、これも傍証となろう。丹治姓の系譜を見ても、年代に比して世代数がきわめて少なく、歴代の接続に大きな疑問があって、太田亮博士の指摘が妥当だと考えていた。

  以上の青木浄憲・一重の事績を鈴木真年翁はその著『華族諸家伝』青木重義条で次のように記す。最初の青木氏の利仁流藤原氏という系譜部分は後にあげるとして、青木親子については、

「青木加賀右衛門重直初メ土岐範頼ニ仕ヘ濃州大桑ニテ八千貫ヲ領ス土岐家没落ノ後斎藤道三入道二仕へ道三生害ノ後織田右府二仕へ後豊臣太閤二仕ヘ剃髪シテ勧持院民部卿法印浄憲ト号シ後東照公ノ御伽衆ニ列ス男青木所左衛門一重永禄十一年戊辰遠州浜松ニ来リ東照公ニ仕ヘ元亀元年姉川戦ニ真柄十郎左衛門ヲ撃取リ同三年十一月三方原役ニ高天神ノ押トナル天正七年暇ヲ乞ヒ上京シテ丹羽長秀二仕ヘ後豊臣太閤二仕ヘ黄母衣衆ニ列シ天正十六年聚楽行幸ノ時従五位下ニ叙シ民部少輔ニ任ス慶長四年秀頼二仕ヘ大坂二在リ同十年七組番頭トナリ七千石ヲ加賜フ同十九年大坂役武功アリ元和元年正月豊臣秀頼命ニヨリ和議ノ使者駿府ニ到ル旧年武功ノ名有ルヲ以テ釣命有リテ駿府ニ留ル同夏大坂落城後二条城ニ召シ出サレテ摂州浅田及備中国ニ於テ本知一万十九石余ヲ賜フテ摂津国浅田ニ住ス」

 上記の概要と若干異なるが大筋はかわらない。

 一重の諸弟については、重経・直継・可直が知られる。

その弟で、川澄(一に渥美)素由の養子となって源五郎と名乗った重経は、
三方原合戦で討死したが、その子源五郎勝吉も父とともに大須賀康高(家康の部下)の配下の勇士として知られた。次の太郎兵衛直継は、秀吉に仕えて毛利征伐の際に播州神吉で討死した。

次の弟可直は次郎右衛門と号し、はじめ池田輝政に仕えたが、慶長十五年には召し出されて駿府に奉公した。その子に、三直・重寿・直澄がおり、このうち源五重寿(重兼)は伯父一重の養嗣となり、次郎右衛門直澄は元和八年に父可直の遺跡を継いで五千石を領した。


  さて、次に美濃青木氏の系譜である。前掲『華族諸家伝』に拠ると、
「利仁将軍四世従五位下越前押領使為時孫匹田掃部允為永四世匹田斎藤武者所以忠二男次郎頼忠建久年中近江国甲賀郡青木ニ移住ス因テ氏トス七世青木武蔵守以季等持院将軍ニ仕ヘ勲功多シ五世青木加賀守以重義教将軍ニ仕ヘ永享四壬子年美濃国大野郡揖斐庄ノ内ヲ賜フ曾孫青木加賀右衛門重直」と記される。

  この記述とほぼ符合する系図が鈴木真年翁と同好の士、中田憲信編の『諸系譜』第三冊ノ一に「青木家系譜」(以下、「青木系図」として引用)に見える。このほか、東大史料編纂所には数本の青木氏系図があり、同系図は福井県武生の青木長之助家に伝わる青木氏系図(「長之助家系図」として引用する)とかなりの類似を見せている。

  青木氏系図の最初の部分は神代の天児屋根命から始まり、中臣・藤原の系図となり魚名の後裔、利仁流疋田斎藤氏となるが、青木次郎頼忠までは一般にあまり問題がなさそうである(仔細に見れば、疋田斎藤氏の出自や頼忠の父などの問題があるが、ここでは取り上げない)。青木の苗字が起った甲賀郡青木荘の地は南北朝期の文書に見えるものの、現在比定地は不明となっている。頼忠から以季(一に以秀)までの七代は『尊卑分脈』に歴代の名が見えており、青木系図はこれより稍詳しい程度である。

  分脈は一般に室町初期の人物まで記載するから、武蔵守以季が尊氏とほぼ同時期の人であったことは信頼できそうであるが、「青木武蔵守以季等持院将軍ニ仕ヘ勲功多シ」という記事は青木系図からは確認できない(長之助家系図には、源尊氏公・義詮公に仕えて屡々書を賜ると記す)。以季の子の義季については、青木系図では、「武蔵守。建武中候吉野皇居尽軍忠賜綸旨数通、後属足利義詮及細川頼之康暦二年戦死」(康暦二年=1380)と記事がある。

  その後は、「子の以藤(民部少輔。応永十八年卒、年四十七)−持通(次郎、武蔵守。仕義持公、永享四年卒。この弟に孫四郎以常あり)−通久(次郎、武蔵守。仕義教公、永享五年卒)、その弟以重(加賀守。仕義教公、永享四年分賜美濃国大野郡揖斐庄内)−重貞(加賀守)」(この部分の系図は後ろの記述に用いるが、「A部分」として引用)、まで見えている。真年翁の前掲記述は別の系図資料に拠るものであろうが、重貞の後は「重実−重直(加賀右衛門尉)−一重」と続いたものとみられる。

  一方、以重の長兄・通久の後裔には家康の父・松平広忠の生母が出ている。すなわち、前掲青木系図に拠ると、通久−教方(仕義教、義政公)−方頼(武蔵守、伊賀旗頭)−頼利(武蔵守、仕将軍義晴)と嫡系はあげるが、方頼の四弟・筑後守貞景は「明応元年避六角高頼之乱、来住参河国碧海郡後帰住于甲賀、天文十三年(註:1544年)九月卒」と註される。貞景の長子又太郎貞義はそのまま参河国に住んだが、その弟四郎兵衛義俊は父や弟左京進貞季とともに甲賀に帰った。(教方の後の系図については、吉継までの間、異伝があり、後述の〔補注1〕を参照されたい)

  四郎兵衛義俊のすぐ次の妹が松平次郎三郎清康の妻となって、広忠の母となったとされる。義俊の子の又四郎吉継は家康公に仕え、その子孫は徳川家に仕えたものや摂関家の鷹司家に仕えた者を出したと青木系図に記される。初めて鷹司家に仕えたのは青木志摩守吉次(吉継の孫)であり、本理院殿(鷹司信尚妹で、将軍家光の正室。その甥が教平)の御由緒で鷹司教平公房輔公に仕え寛文七年には正四位下に叙され同九年(1669)九月に卒した。子孫はそのまま江戸期中鷹司家に諸大夫として仕えて明治に至るが、青木系図はこの青木氏に伝えられたもので、明治初期の吉順・その養子吉元及び一族の世代まで及んでいる。青木吉順は鷹司政通公輔熈公に仕え、安政六年任美濃守、元治元年叙従四位下、明治三年京都府貫属士族、などという経歴が記載される。

  話を室町後期の青木貞景に戻して、
貞景の弟には、甲賀郡夏見(現甲賀郡甲西町夏見)に住んだ青木五郎貞久がいた。

その妹には、蒲生郡の大族で六角定頼(前掲高頼の子)に仕えた蒲生左衛門大夫高郷(享禄三年〔1530〕卒、氏郷の曾祖父)の妻となったものがあり、その子梵純は母姓により青木玄蕃允と名乗った。

 
   青木貞景の娘がなぜ松平清康の妻となったのだろうか。          家康関連ですよ〜

その事情は不明だが、青木系図が一部事情を示唆してくれる。
すなわち、青木貞景は下向した参河で天野隆正の娘を妻として義俊を生んだと記されるが、その妹で清康妻となった女性は同母であったことが推される。清康の父・信忠は天野弾正資久の娘を母とすると伝え(『新田族譜』)、世代を対応させると資久は隆正の父であった可能性がある。

 清康は、最初の妻たる西郷弾正左衛門昌安入道の娘を離縁した後、祖母天野氏につながる青木氏の女に婚縁をもったものであろう。三河の天野氏は中山七名の領主天野弥九郎、岩戸城の天野麦右衛門などを出す、古くからの額田郡の土豪であり、現在伝える系図の伊豆の天野遠景後裔とは別系(額田郡古族の末裔か)であった可能性がある。『姓氏家系大辞典』所載の天野麦右衛門の家系には、「正」の字を持つ者が多く見え、これらが天野隆正の一族であったか。

〔補注1〕 上述の教方以下、吉継までの系譜には異伝が『浅羽本系図』にあり、年代的に見ると、こちらのほうがほぼ妥当ではないかとも考えられる。その大きな差異は二つあり、

@ 教方の長男を武蔵守政久とし、代々、武蔵守を名乗る系統は、それ以下、「政隆−隆頼−頼元(改頼利)−利依」と続け、政隆の弟・備後守通国以下もその子・政春−義春と続ける。本文の方頼は浅羽本の隆頼に当たるようであり、将軍義晴に仕えた頼利の世代は浅羽本のほうが妥当である。

A 教方の次男を六郎隆久とし、その子に筑後守隆道(又の名を吉道)及び六左衛門隆吉をあげ、前者の筑後守隆道には「若年の時江州を出て駿州に来、今川に仕え後に三州に居。天文元年(1532)十二月死、六十九歳」と記事をつける。その子には、女子(松平清康妻広忠母、永禄四年八月四日卒)、四郎兵衛隆重(又の名を吉継。元亀三年十二月二十一日味方原合戦討死卅四歳)、権十郎隆員をあげる。吉継の子の四郎兵衛吉久は、天正十年(1582)十一歳で召し出され相州で千石下されたが病気で仕えず、元和元年(1615)四十三で早世、と記される。

  両方の青木系図を比較してみると、各々一世代分が脱落しているようであり、すなわち、具体的に推定系図を記してみると、次のようなものではなかろうか。

 「教方─六郎隆久─筑後守隆道┬女子(広忠母)
              (=貞景)   └ 兄弟に四郎兵衛隆重 ─ 吉継 ─ 吉久
                               (=義俊)  (=義継)      」

  東大史料編纂所に所蔵の「青木系図」の一つには、筑後守貞景の弟・伊豆守康春(初め義時)の家の系図が主に記載されるが、そこには「貞景−義俊−義継−吉久−吉重」とあげて、吉重の子孫は水戸家に仕えると記される。
  こう考えると、筑後守貞景の経歴も青木系図とは少し違ってくる。各種青木氏関係系図を突き合わせると、兄弟とともに近江を出た貞景は、駿州に下って今川義元に仕え、遠州の二俣城を預かったとされよう。貞景の女子には、甥の青木伊豆守義勝の妻、松平善兵衛正親の妻もあったことが系図に見える。

 (以下に続く)http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/aoki/aokiitizoku2.htm

2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族                 秀吉ですよ〜

  母縁につながる秀吉・秀長兄弟に仕えて戦国期大いに立身出世した武士に、青木紀伊守一矩(系図では「秀以」という表記が多いか)がいる。その子孫は関ヶ原合戦・大坂夏の陣により没落して、越前武生の町人で造り酒屋になったと伝える。先に見た青木一重の割合近い一族であったと伝えられる。

  秀吉の母・大政所(従一位天瑞院)は愛知郡御器所村出身で同郡中村居住の木下弥右衛門の妻となり、秀吉兄弟等を生んだ。その系図はあまり取り上げられないが、中田憲信編の『諸系譜』第二冊(前掲青木系図の少し前のほうに掲載)には、刀鍛冶関氏出身の大政所の一族の系譜「太閤母公系図」が記載される。
 
  これに拠ると、秀吉母公の「お仲」は、大和国当麻(この地は疑問か)に住した天蓋平三郎包永(佐波多村主姓)の末流で濃州関鍛冶の流れを汲む尾州愛智郡御器所村の鍛冶・関弥五郎兼員の娘であり、姉が一人、妹が二人あった。姉は杉原七郎左衛門家利の妻、妹は美濃国大野郡揖斐庄住青木勘兵衛一董妻、尾張国愛智郡中村住加藤弾正左衛門清忠妻と記される。杉原家利は秀吉正室・北政所お禰の母方の祖父(かつ、大伯父か)であり、家利の娘には浅野又右衛門長勝の後妻(七曲という)及び杉原道松(北政所お禰の父)の妻がいたから、この伯母の縁でお禰が浅野長勝の養女となっていた。これらが全て実系でつながっていたようで、その場合、秀吉の母方の従姉妹の娘が北政所お禰という関係にあったことになる。

  さて、「お仲」の妹の一人(一伝には従妹)が嫁いだ先、加藤弾正左衛門清忠はその間に加藤虎之助清正を生んでおり、まさしく清正は秀吉の母方従弟であった。また、お仲の父・関兼員の妹お太祢が加藤小次郎清信に嫁ぎ清忠を生んだと母公系図に記される。この加藤氏は愛知郡熱田の大族加藤図書助家の支流であり(『諸系譜』第九冊ノ一)、道元禅師に従って入宋した加藤四郎左衛門尉景正の子孫とされる。すなわち、景正の子の四郎正信(法名春慶)が清正の遠祖であり、その弟・余三左衛門尉景業が熱田加藤の遠祖だと記される(『諸系譜』第十冊)。加藤景正は、貞応二年(1223)に入宋しその五年後に帰国、諸所で製陶を試みたのち尾州山田郡瀬戸村に定着して陶器製作をしたとされる。四郎正信の孫・三郎正家(その父を権中納言忠家と伝えるは誤伝。また遠山一族説もある)が清正家の始祖としてあげられ、その十世孫が清正に当たるのではないかと推される。

  木下家と同郷の尾張中村には清正の玄祖父・四郎頼方が応仁の乱頃に来住したと伝えるが(『尾張名所図絵』)、一般にこの頼方の父とされる名前(小隼人正吉)には世代等からみて疑問がある。おそらく頼方の父祖の系図を欠き、そのため一族の系図に接合させた結果ではなかろうか(按ずるに、正家−家久−家方〔五郎左衛門〕と続いて、その四世孫くらいが頼方か)。とはいえ、清正の家臣には重臣に加藤美作・同右馬允・同頼母・同主水など同姓一族(殆ど頼方の後裔か)が多く見えており、熱田加藤の支流という系譜はほぼ信頼してよかろう。なお、加藤清正家は子の肥後守忠広の代、寛永九年(1632)に不行跡で熊本五十一万石を改易になったが、重臣の加藤右馬允正方の子・左内正直は五百石の旗本として存続した。

  もう一人の青木勘兵衛一董に嫁いだ妹については、青木紀伊守(勘兵衛)一矩を生んだ。一矩は『若越小誌』には秀吉従弟と記されるが、これも事実であった。一矩の父、一董は重矩ともいい、美濃国大野郡揖斐庄住と前掲母公系図に記されるから、先に見た青木一重の一族とみられる。しかも、名前や世代を考えると相当に近い親類で、「加賀右衛門尉」という名乗りから本家筋とみられる刑部卿法印浄憲(重直)の従兄弟か再従兄弟くらいにあたるのが、勘兵衛一董(重矩)とみられる。

  一董(重矩)の父は、上掲した「A部分」に見える青木持通の曾孫の七郎重任(重貞の子)であって、持通の弟・以常の玄孫の以豊の養嗣になったと長之助家系図に伝えるが、世代等に若干の齟齬がある。(別冊歴史読本『豊臣一族のすべて』所載の青木完太郎家の所伝には、いくつかの誤記があるので要注意。下の〔補注2〕で記述する)

  すなわち、同系図では、持通の後は曾孫で重任になるに対し、以常のほうは玄孫で以豊(間の三代は、以治−幸治−矩治)となるという差異があり、年代的にみて、前者では一代の欠落があるのではないかと推定される。また、重任の兄・重藤の子に加賀右衛門尉重直、さらにその子に一重が同系図に見える。これに拠ると、重矩と重直とは従兄弟で、一矩と一重とは再従兄弟となるが、仮に一代の欠落があったとした場合、その欠落が重藤・重任の前後どちらの世代に入るかにより、重矩と重直とは従兄弟だったかどうかが決まってくる。加賀右衛門尉重直の父を重実と伝えるものもあるので、決め手はないが、一応ここでは、重貞−重藤−重実と続け、重実の弟が重任だと考えておきたい。ただ、重矩が家を継いだ時点では、尾張犬山の人とか清洲の工人であったとかともいわれて諸伝あり、身分状況がはっきりしない。

  一矩の生年は不明だが、従兄弟の秀吉生まれが1537年、加藤清正のそれが1562年とされ、一矩の経歴も清正同様、賤ヶ岳合戦から始まるから清正より若干年長くらいではなかろうか。そうすると、後述の子孫の活動年齢等から考えて、青木一重の生年1551年とほぼ同様であろうか。

  さて、紀伊守一矩はもと勘兵衛とか勘七を名乗り、名は秀以、重治、重吉、秀政ともいった。はじめ豊臣秀長に仕えて立身出世していき、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦に従軍、四国征討のときの功で同十三年(1585)に紀伊入山城主となり一万石、このとき秀吉の直臣となった。その後も順調に石高を増やしていき、播磨立石城主、越前大野城主、同府中城主(八万石)となって、慶長二年には従五位下侍従、同四年には越前北庄で二十万石を領する大大名となった。官位は従五位上紀伊守に至った。『大日本古文書』所収の毛利家文書「豊臣氏大老連署知行充行状」(慶長四年二月五日付け)には、羽柴北庄侍従と見える。
 
  しかし、翌慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では病床にあって、西軍に属し北庄城で籠城防戦体制を整えたが、東軍の前田利長に降服しまもなく、十月に死去して除封となった。その猶子、右衛門佐俊矩(一矩の弟・半右衛門矩貞の子で、善右衛門とも号した)は越前金剛院(現武生市域)で二万石を領したが、養父と同様、関ヶ原合戦後除封となり、前田利長の庇護のもとにあって死去した。その長子四郎左衛門久矩も、関ヶ原合戦後に浪人となり加州前田氏の客人としてあったが、秀頼公の招きに応じて大坂に入り元和元年の大坂夏の陣で討死した。この家の栄華はまことに短いものであった。

  久矩は福井の田代万貞斎の祖となったと伝え、その子孫の流れには志士の橋本左内(田代春綱の孫)がいるという。久矩の弟には、加州で利長に仕えた「某」(実名等記載なし。〔補注3〕)、及び荘左衛門(庄左衛門。慶長十三年卒して法名江菴宗永)がいた。荘左衛門は多病であったため町人となり、平吹屋という屋号で酒造業を営み、子孫は代々府中新町にあって明治期の長之助となり(東大史料編纂所では、この人の代の明治三十年代半ば頃に系図・過去帳を謄写して現蔵する)、同家は大正中頃まで醸造業を続けた。さらに現在まで続いて青木完太郎氏となっている。

  同家所伝の「青木氏系図」には、久矩・荘左衛門兄弟の長姉として女子をあげ、「木村常陸介室 木村長門守重成母、号二位宮内卿局 秀頼公乳母也、元和元年於大坂生害」と記すが、世代がやや合わないように思われる。木村常陸介重茲(一に重高、勝成)とは山城淀で十万石を領し豊臣秀次事件に連座して文禄四年(1595)自殺した大名であり、一説に大坂夏の陣で名高い木村長門守重成の父とされる人物であるが、久矩兄弟の叔母(父・俊矩の姉妹)に当たるくらいの位置づけのほうが妥当ではなかろうか。

〔補注2〕別冊歴史読本一族シリーズ『豊臣一族のすべて』(21巻27号、1996年7月)は、割合良くまとめられるが、青木完太郎家の所伝等青木氏関係には、いくつかの誤記とみられるものがあるので、参考のため、ここに掲示しておく。

  気のついたところでは、
@加賀右衛門尉重直を重矩の甥と記す。(前掲の長之助家系図では従兄弟)。
A重矩の養父・以豊を以常の曾孫と記す。(同、玄孫)。
B重矩の子秀以の関係で秀吉生母の姉妹の記述がある。(同、秀以には、紀伊守従五位上、一矩、重治とし、母豊臣秀吉公伯母と記すのみ)。
C持通の子孫に「華陽院」が出たと記すが、これは誤りであり、系図にはその名の記載がない。(同、松平清康妻で広忠母の女性)。

  問題の「華陽院」(けよういん)についても附記しておく。
  彼女は、青木貞景の娘が広忠を生んだ後、松平清康の妻となった女性で、名は於留(於富)といい、出家して源応尼と号した。はじめ尾張小川の城主水野忠政の妻となって、於大(広忠妻で家康生母の伝通院。1528〜1602)及び三男を生み、のち清康の室となり源次郎信康と一女(碓井殿)を生んだが、清康の死後、さらに星野秋国など数人の夫をもち、それらと各々死別している。こうした戦国の世に生きた女性として数奇な人生を送ったが、駿府にいた家康の養育にもあたったといわれ、没年は永禄五年(1562)頃といわれる。

  その出自は数説あって、尾張熱田の宮善七郎秀成(宮・岡本氏は大橋同族という)の女ないし養女とも、その実父は尾州の青木加賀守一宗(弌宗とも記す)ともいわれ、三河国額田郡の大河内元綱の養女となっている。

  「柳営婦女伝」の華陽院殿之伝に掲げる系図(『百家系図稿』巻13にも同様な系図が記載)によると、江州栗太郡の青地(ママ)左馬允頼宗の子の青木加賀守高方の子として青木加賀守一宗を置き、佐々木高頼以下三代に仕えて度々軍忠を尽くしたとし、その子が華陽院と記載される。同書には、家康生母の於大も見え、華陽院の兄の青木加賀守政信の娘で、伯母婿の水野右衛門大夫忠政の養女となったとするから、これが事実としたら、青木氏の松平氏に対する比重はさらに高まることになる。

  しかし、同系図は青地氏と青木氏とを混同するなど、いくつかの問題もあり、総じて信頼し難い。そうした前提の話ではあるが、同系図には、華陽院の甥に加賀右衛門尉重直を置くから、これが仮に正しい所伝だとすると、華陽院の父とされる加賀守一宗については、重直の祖父にあたる人物かもしれない。先に、私はその位置にある人物として加賀守重貞の子の重藤を考えたが、仮にこれらの比定・推定が全て正しければ、華陽院は青木民部少輔一重・青木紀伊守一矩の大叔母で、家康の外祖母となり、一重・一矩と家康とは再従兄弟という関係にあったことになる。ともあれ、華陽院は系譜の上でも数奇な位置にあったといえよう。

〔補注3〕久矩の弟で、加州の利長に仕えた青木「某」については、加賀藩の「諸士系譜」を見ると、青木氏が十家ほどあるうち、青木孫四郎家が比較的該当に近いのではないか、とも思われる。

  同家の所伝では、織田信長に仕えた民部を祖とし、子の善四郎が信長ののち越前府中で前田利家に仕えたとする。「某」の父、俊矩が善右衛門ともいい、その嫡子久矩が四郎左衛門といった事情や、一矩・俊矩や「某」の弟・荘左衛門が越前府中に領地をもったり居住したりしたことを考えれば、訛伝して伝えられたことも考えられる。善四郎の後は、その子善四郎定照−善四郎定政……と約250石取りの武家として続いた。


 3 その他の秀吉の一族

  秀吉母公の一族にはこのほか、小出氏があったという。すなわち、大政所お仲の妹にあたる女性(栄松院)が同郷中村に在住の小出甚左衛門秀政(1540〜1604)の妻となり、吉政・秀家兄弟を生んだと伝える。しかし、秀政は秀吉より三歳年下であって世代が合わず、おそらくは秀政の妻となった女性はお仲の姪くらいではなかろうか。小出播磨守秀政は和泉岸和田三万石の城主となり、秀頼の補佐として関ヶ原時には大坂城にあったが、西軍についた子の秀家の功績等で家名存続を許され、子孫は但馬出石を経て丹波園部藩主として明治を迎えた。小出氏は信州伊奈郡小井弖に因む藤原姓の苗字で、伊豆工藤一族の出とも二階堂支流とも称したが、実際には諏訪神党一族(神人部宿祢姓)の出であったとみられる。『百家系図稿』巻十二には、工藤一族に出る小出氏の系図が信濃と尾張に分かれて歴代が所載される。

  また、福島正則の母もお仲の妹だったという説があるが、正則は母ないし父が木下弥右衛門の妹弟という説もあるなど諸説きわめて多く、海東郡の福島氏については実際よく分からない。

  こうして見ていくと、太閤母公お仲の実家一族・関氏は、有力な鍛冶として血脈にかなりの広がりをもち、愛知郡中村を中心とした土豪たちとネットを持っていたことが分かる。青木一重が用いた関孫六も、この関一族につながる刀鍛冶の製作であった。

  また、秀吉の正妻・北政所お祢の出た杉原氏も関一族につながることは先に述べたが、室町幕府の引付奉行杉原兵庫允政綱の後裔と称された。その孫の伊賀守賢盛が美濃国池田郡一橋郷(現揖斐郡池田町南部の市橋で、青木村・赤坂村の西北約二、三キロの地)に遷住し、その子の治郎大夫隆盛が尾張国津島に移ったというが、この辺は確認できない。年代的に考えると、弘治元年(1555)に死去したという隆盛の子に杉原家利を置くのは無理がありそうである(仮に、隆盛が実際には賢盛の弟で死去年時ももう少し早かったのなら、問題は少ないが)。

  とはいえ、杉原賢盛の孫娘が市橋下総守長利(1513〜85)の妻となり、その子・下総守長勝が伯耆矢橋で大名となり幕藩大名(近江西大路藩)として明治まで続いた事情もあって、この大垣市北辺あたりの地域は注目される。市橋氏の系図も『諸系譜』第十二冊にあり、京都の公家西園寺家支流で六角堂執行池坊一族から出た専節という者が、姉の夫・美濃国住人市橋太郎長氏の養嗣となり、その子が市橋下総守長利と記される。専節は市橋壱岐守利尚にあたる人物であり、市橋氏がこれで藤原姓とも清和源氏ともいう事情が分かる。また、華道家元の池坊が小野妹子に発するという系図もあるが、これは誤伝ないし仮冒であることが知られる。

  北政所お祢の兄弟姉妹から出た杉原・木下氏、浅野氏の検討については、ここでは省略する。

  ここまで豊臣秀吉の母方、妻方の一族を見てきたが、ついでに秀吉の父方一族も見ておこう。


  秀吉の家が尾張中村に定着したのは、曾祖父の中村弥助国吉のときで、近江国浅井郡丁野村から出た昌盛法師が還俗してのことという。それ以降、その子弥助昌高、その弟右衛門尉吉高、その子弥右衛門昌吉と続いて、秀吉に至るという系図が宮内庁書陵部所蔵の『中興武家系図』巻十九に記載される。これとほぼ同様な系図が、『塩尻』『尾陽雑記』にも見えており、あながち否定しなくともいいのではなかろうか。

  始祖弥助国吉については、父が長介、兄が長右衛門と記されており、一説に浅井長政の先祖一族重政とかその子氏政が国吉の父とも伝えるが(鈴木真年翁関係資料)、かりに国吉以下の系図が正しいものであったとしても、長政・淀君にそれほど近いものではなかろう。ただ、居住地からみて、秀吉の遠い先祖を浅井郡司一族と同じくした可能性までは否定できないが、別の可能性があるかもしれない。弥助国吉が木下越中守高泰の娘を妻としたという所伝もおそらく疑問で(「越中守高泰」は高島氏とみられる。『尊卑分脈』参照)、『中興武家系図』には「妻は中村住人弥五右衛門の娘・鷹女」と記載される。

  次に、弟・豊臣秀長の実父をお仲の後夫・筑阿彌とする所伝があるが、最近は秀吉同母弟とする説も強くなっている(桑田忠親氏など)。京都瑞竜寺過去帳より書出しの「木下家系図」に拠ると、「木下弥右衛門 天文十二年癸卯一月二日死、于時秀吉七歳、秀長三歳、旭姫一歳」という内容が記載されるとのことで、この記事が正しければ秀長の実父は筑阿彌ではないことになる。しかし、弥右衛門が木下を名乗ったかどうかは確証なく(可能性はあろうが)、秀長の幼名が小竹(小筑)であったことを考えると、異母弟説のほうに私はやや傾いている。なお、桜井成広氏は、大政所が弥右衛門を離縁した後、木下の名跡を保持して筑阿彌を入り婿としたとするが、これもどうであろうか。

  筑阿彌の系譜として唯一知られるものは、鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻11所載のものであり、三河の水野氏の支族だと記される。この系図の真偽は不明であるが、水野忠政の曾祖父貞守の弟・甚五右衛門為善の曾孫が筑阿彌とされる。為善は尾張国春日井郡水野郷に住み、その孫・藤次郎為春が同郡迫間村に住みその子が筑阿彌であるというのである。

  よく知られるように、三河の水野氏と安城・岡崎の松平氏との通婚は多く、家康の曾祖父信忠は水野下野守清忠(忠政の父・信政と同人か)の娘を妻として清康を生み、その子広忠は水野右衛門大夫忠政の娘・於大(伝通院)を妻として家康を生んだことは先にも述べた。この水野氏の系図はかなり複雑であり、一般に春日井郡水野郷起源で清和源氏、一伝に桓武平氏良兼流とされるものの、仔細に検討してみると疑問も出てきて、実際には尾州知多郡の古族末流ではないかと推される。そうしてみると、筑阿彌が三河水野一族というのも当然疑問となろう。

  また、秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)が縁付いて関白秀次等を生んだ三位法印一路(三好武蔵守吉房)にも触れておく。その系譜については、大和国の三輪一族の出で宣政の子だという系譜もあるが(『姓氏家系大辞典』に所載の「高宮系図」)、確認し難いし、信頼性もどうであろうか。『百家系図稿』巻十二所載の「三輪系図」には、宣政の子には記載がないこと、当初、長尾を名乗ったことから考えて、「宣政の子」には疑問が大きい。前掲の『中興武家系図』には、中村弥助国吉の子・弥助昌高の孫に保政を置いて、「三好武蔵守尾張守 三位法印一露」と記す。この系図も確認及び信頼がしがたいが、参考のためここに記しておく。

  一路はもと長尾弥助といったといわれるから、『尾張志』に「大高村の人・長尾武蔵守吉房は秀吉公の姉婿也」とあるのが最も妥当であろう。そうすると、尾州知多郡長尾村(武豊町域)より起る古族(和邇氏族か)の末流とするのが適切かもしれない。秀吉の一族福島正則の重臣に長尾隼人がおり、正則が安芸広島太守として在ったときは、安芸東城に配置されていた。

  話はあちこちに飛んだが、こうして青木氏・関氏を中心に女系や通婚関係を通じて秀吉一族(木下氏)を概観してみると、農民よりは上位の階層、すなわち尾張中中村の小土豪クラスの出自だったものとみるのが自然そうであり、あるいは祖先の居住地などから鍛冶関係者の可能性もあろう。そのなかで、天瑞院お仲の存在の大きさが分かるが、これは早瀬晴夫氏が『織豊興亡史』(01.7刊)で指摘するところでもある。従って、秀吉の出自が江戸期に実際以上に卑下視されていたのではなかったか、という結論にも導かれそうである。

 (02.2.16一応終了、2.21などに追加修補)
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月01日 15時54分03秒 ) パスワード

さらに驚き:

半蔵門通信
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/2308/Default.aspx
第52回 紀尾井町 その2 〜清水谷公園辺り〜

《清水谷公園》
井伊家との境目付近が谷で、清水が沸き出ていたことから、「清水谷」と呼ばれました。
水が清いため、道行く人の喉を絶え間なく潤したといわれます。
明治11年、ここで明治の元勲、大久保利通が暗殺されるという事件があり、その哀悼碑が建てられています。


https://www.tokyo-walk.com/park/shimizutanikouen.html


歴史

 当地はもともと、北白川宮家の邸があった場所で、1890年に当時の東京市へ下賜された。1956年、いったん都立公園となった後、1965年には千代田区に移管され「千代田区立清水谷公園」となった。


備考

 公園のある場所には江戸時代、「紀伊」(紀州徳川家)、「尾張」(尾張徳川家)、「井伊」(井伊家)のそれぞれの屋敷があった。ここから「紀尾井町」の名が生まれたという。


 「清水谷」
江戸時代、紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、この辺一帯は「清水谷」と呼ばれていた。この事実にちなみ、公園を改修する際人工的な湧水が設置された。



へぇ〜
それで吉宗が御三卿を建てた時、1つが「清水家」なんでしょうね。

どうしてなのかな?と気になってたのです。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月03日 09時31分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日、例の本を送りました。その後で、二俣を散策してみました。ウォ
ーキングを兼ねてであります。車では駐車できなくて通り過ぎてしまう所も、
ウォーキングなら路地、獣道の奥の隅々まで行けますので、知られていなか
ったものを発見したり、巡り合うことができます。 

 二俣の町の北のはずれに山東というところがありますが、そこに光明寺と
いう寺があり、まだ行ったことがなかったので行ってみることにいたしまし
た。あるスーパーで少し買い物をし、その駐車場にしばらく車を置くことに
しました。そこからナビで見た方向へ歩き出しました。スーパーの裏山の方
向であります。裏山にはすぐぶつかりました。山に登る道が二本あり、一本
は細く急な道、もう一本はなだらかな舗装された車道。細く急な坂の方を登
ることにいたしました。
 登り切ったところに平坦な広い空間がありました。その奥で、土木作業を
している人々の姿が目に入りました。こんな山の中で何をしているのかと思
いながら側を通ると、何やら掘っているようである。さらに奥へいってみる
と、また土木作業をしている一団に出会った。その内の一人に何をしている
のですかと訊いてみると、発掘調査をしているという。少し話を聞いている
うちに、目の前の山が、前方後円墳であることがわかった。その人が言うに
は、この古墳は全長82mの前方後円墳分で、5世紀に造られたものであり、
当時の古墳としては、浜松で一番大きいものである。名前は「光明山古墳」
というと教えてくれました。
 思わぬところで、5世紀この地方最大級の前方後円墳に出会いました――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月03日 13時12分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。楽しみにしています。

「光明山古墳」って光明寺から歩いて2分なんですってね。
浜松にいた豪族ってどなただったのでしょうね。



信長暗殺の黒幕が当時のフィクサーだった近衛前久だったんじゃないかというお説は面白かったです。


日本がカトリックの支配にならなくてラッキーでした。

カトリックというか植民地支配のコツは奴隷達を文盲に置くこと。
奴隷が命令に従う程度に言葉が理解できれば良いだけの考え。

読み書きは必要無いし、読んで理解出来る人間が出て来ることは植民地経営にはマズイ。


今の中米からの不法移民キャラバンを見ているとカトリック+大航海時代のツケだなと思う。


        ハワイだって大変なんですよ

        20年ほど前某大統領がXXからわざわざ原始的な生活をしていた人々を連れて来て
        現在どうなっているかと言うと
        人々の出身地では便所という物の無い世界で
        食べる物は、食べ物が存在している所へ行って食べれば良い
        目に入ったものは手に入れれば良いという考えで

        そういう原始的生活をして来た人達の2代目は
        赤ちゃん連れでホームレスをしていて幼児はオムツ1丁で走り回ってます
        一家の大黒柱はオンナで、オンナが食べ物を持って来る役目でオトコは遊んでいればいい
        それで彼らオトコ達はアメリカでは白い眼で見られて肩身が狭いと言ってます。
        


そういう国がアメリカの南から南極近くにかけて広がっています。
1つポルトガルの植民地だった国もありますが、他はスペインの植民地でした。

ここでホンジュラスやグアテマラからの不法移民を入れたら南極近くの地方から大挙して何億人がアメリカに移動して来るやら?


既にアメリカではヒスパニック系が人口のかなりを占めています。
戦後アメリカに入って来た人達はそれらの国では上層部にいた人達でアメリカに同化し
現在は経済難民。


ところがカトリック圏からの経済難民として不法移民して来た人達は2代目3代目になっても英語が話せない。
だってカトリックの教えは産めよ増やせよ読み書きは必要無し策でしたからね。


日本も明治政府の棄民策で大勢の移民を送り出しましたが
       当時の日本の1人あたりの所得はアメリカの19分の1だった
日本人1世は子供達の教育に熱心でした。
2世達は専門職に就くべく英語をマスターし資格を得て裕福な移民家庭になっていきました。


あの不法移民キャラバンの中でも亡命を認められた人達=難民申請が出た人達=が何百人だかいると聞きました。
確かにインタビューを聞いていると  英語を話す人も  混じってました。
こういう人はアメリカに来てもなんとかなるでしょう。
だから許可になったと思います。


だけど英語も話せず小さな子供をかかえた人はどうやって食べて行くのでしょう。
原始時代のようにヨソのお宅の冷蔵庫から採集生活を始めるのでしょうか?
手っ取り早く現金を得る、って?どうやって?
オンナは原始時代から存在している職業で?
オトコは売人になる?


ま、来週の火曜日にこの件についてある程度の審判が出るでしょう。
2割のアメリカ人は不法移民歓迎側だそうです。


ワタシのオットはカトリックが大嫌いで
カトリック育ちのワタシのことを  「カトリック出身の女の子は変ってる」  と言いますが

たしかに奴隷の数を増やすために産めよ増やせよ学問なんぞ必要無し策のツケが21世紀になっても尾を引いているのを見るにつけ
ワタシも幕府がキリシタンを禁制にしたのは良かったなと。


カトリックの陰謀を見破った当時の日本人ってスゴイと思います。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月04日 11時18分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 カトリックのお話、ありがとうございます。
 キリスト教関係についての知識が薄い私には、大変勉強になりました。
いずれにしても、キリスト教史について、一度総ざらいしてみます――旧
約聖書、新約聖書、ゼウス、マリヤ、カトリック、プロテスタント、イエ
ズス会、フランシスコ・ザビエル、ルイス・フロイス……モチベーション
が高まった時に取り組まないと、乗り越えられませんし、記憶からすぐに
脱落してしまいます。

 キリスト教会のミサには一度行ったことがありますが、科学的な考え方
の私にはあまりにもギャップを感じ、それ以来キリスト教には違和感を抱
いたままとなっています。但し、もちろん三大宗教の一つとして、興味は
大いに抱いておりますが、仏教の方がソフィストケイトされているように
感じられるのは私だけでしょぅか。特に密教は……。

 さて、昨日は文化の日、浜松市内で浜松ホトニクス準主催の講演会があ
りましたので行ってまいりました。テーマは「量子力学に残された100
年の謎に迫る」というものでありました。
 「量子力学」って何という疑問は、はっきり言って「古典力学」の対極
にあるものというよりも、その尖端(ミクロ・非物質)を取り扱うの科学で
ありますので、一般的にはわかりにくいものになっております。

 もう少し対極という考え方に徹するなら、「古典力学」対「脱古典力学」
と言った方がわかりやすいのか、あるいは、「古典的マクロ力学」対「最
先端ミクロ力学」と言った方がわかりやすいのか、いずれにしても、「量
子力学」の概念は、100年たった今では、さらに複雑に進化していて、
総まとめの概念とすれば「波動科学」、究極的には「光科学」と言えるの
ではないでしょうか。浅薄な知識の私が言うのもおこましいのですが……。

 しかしながら、この最先端の科学は、最古の旧約聖書と「光」の点で一
致しています。このことは、光が究極の存在であるということを奇しくも
物語っているように感じます。
 「創世記 天地の創造」の中で――
 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面に
 あり、神の霊が水の面を動いていた。
  神は言われた―「光あれ」
  こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を
 分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第
 一の日である。」

 「光(波動)」が宇宙の究極の存在であるということは、大変興味深く、
さらには人間の「霊」も、「波動の残存」という観点から解釈できるかも
しれません。

 ややこしい話を言い出してしまいました――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月04日 14時11分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日「日本史の謎は地形で解ける」を頂きました。
ありがとうございました。

またまた目からウロコがポロポロ落ちることでしょう。
楽しみです。

本当に我々は「朋の来訪を喜び」「千里の道を行き」「万巻の書」を読まないといけませんね。
先人達の教えに接することが無いのはいけませんね。



>「光あれ」

光が宇宙の究極の存在。

古代ユダヤ人って凄いですね。
よく考えたものです。


最近ある医者に通ってて
この先生がユダヤ人なのですが
彼は単純に「ユダヤ人」と言われるのを嫌ってました。

     つまり自分はアシュケナージ(中・東欧系ユダヤ人)であって
     西アジアのセム系ユダヤ人ではない
     というアイデンティティを持っているようで
     ワタシが「先生はアシュケナージなんですか?」と訊いたら喜んでました。
     アシュケナージとセム系の区別の出来る人=ワタシ=に遭ったというのが意外だったようです。


ユダヤ人もアイデンティティの差があるようでした。東アジア人に例えると中国人と半島人と日本人のような差。
お互いに2者は否定し合ってる?のかと気付きました。ヲイヲイ
多分この先生はイスラエルのユダヤ人がいやなのかも。急先鋒の人が嫌いみたいでした。

     近親憎悪、ってありますからね、
      シブリング・ライバルリー(兄弟は他人の始まり)、自分にそっくりな人間を見るのがイヤ。



科学者は信仰をもっているという方向でよく聞きますが
ホーキング博士は「神なんていない」と言ってるそうです。

      難し過ぎて全く理解できないですが要するに「神」なんていないんだ、と。


>人間の「霊」も、「波動の残存」という観点から解釈できるかもしれません。

へぇ〜
なるほどねぇ。
ヒトコトで纏めることが出来ましたね。スゴイ!
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月07日 15時22分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日、ツアーで姫路城に行きましたが、その優美さと雄大さはまさに
絵画のようでありました。ただ、私としては、千姫(秀忠の娘、秀頼と死
別)が、本多忠刻と再婚後、姫路城に転封となり、その後十年間三の丸に
御殿を建て、暮らしていたということのほうが心に残りました。

 千姫については、安部龍太郎氏の『信長はなぜ葬られたのか 世界史
の中の本能寺の変』の中で、ほぼキリシタンであったと断定しています。

 戦国時代のキリスト教の普及について少しまとめておきたいと考えま
す――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月08日 05時30分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

お化粧直しの済んだ姫路城は真っ白で輝いてたでしょうね。
夏にはきっと反射がスゴイんでしょうね。
オーラの中に浮かんでる感じかしら?
あ、白鷺城だから、「飛んでいる」感じ、と書かないといけないですね。


千姫はキリシタンだったんでしょうか?
だったら島原の乱はショックだったでしょうね。

もし千姫がキリシタンだったら幕府は、当然、全力で改竄隠滅したでしょうね。



我々現代人は余りにもホントのところを知らなさ過ぎますね。



秀忠の正妻は「小姫  おひめ」という織田信雄の娘なんですって。6歳で亡くなってますが。

ビックリでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%AB

小姫(おひめ、天正13年(1585年)? - 天正19年7月9日(1591年8月27日))
安土桃山時代の女性。徳川秀忠の正室。
織田信雄の長女。
生母は千代御前(織田信長に乗っ取られた伊勢国司北畠具教の娘)。


織田信雄の長女として誕生。生母は千代御前(北畠具教の娘)。

のちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養女になった[1]。秀吉の養女になった正確な時期については不明だが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い終結後と推測される。天正18年(1590年)1月11日(または21日)、上洛した12歳の徳川秀忠と結婚した[2]。一説には、小姫は6歳であったという。縁組は織田家と徳川家ではなく、豊臣家と徳川家の縁組という意義を強く持っていた[3]。秀吉は関東出陣前に徳川家との絆の強化を意図しており、この結果が6歳での婚儀となった[3]。

ただし、小姫の年齢が当時6歳と幼かったことから、天正18年段階では縁組の取り決めを内外に宣言する現代で言うところの「婚約式」を行ったもので、正式な輿入れが実現する前に小姫の早世があったため正式な婚姻には至らなかったとする見方もある[4]。



歴史って、面白いですね。
知らないことだらけ。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月09日 16時49分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 集英社のPR誌の『青春と読書』の中に、『テンプル騎士団』という題名
での佐藤賢一氏の18ヶ月にわたる連載があり、興味があったので目を通
しておりました。ずっと以前に、DVDで『ラスト・クルセイダーズ』という
テンプル騎士団に関する映画を見ていて、テンプル騎士団の謎が頭にこび
りついておりました。
 テンプル騎士団は十字軍の一派と見ればよいのか、説明し出すと長くな
りますのでやめておきますが、最終的には、脅威とみなされフランス国王
フィリップ4世、後にローマ教皇クレメンス5世によって一斉逮捕、そし
て拷問―自白―懺悔させられた。懺悔した後にそれを翻すと火あぶりの刑
に処せられたという。1307年から1314年のことであります。

 私が注目するのは、このテンプル騎士団は解散させられたものの、大半
は生き残り、ポルトガルでは「キリスト騎士団」となったということであ
ります。そして、佐藤賢一氏は最後にこう書いております――
 「キリスト騎士団の総長は、ポルトガル王の忠臣か、さもなくば王子達
 から選ばれた。1420年に就任したのが、ジョアン一世の3番目の王
 子エンリケこと、歴史にいう「エンリケ航海王子」である。有名なサグ
 レスの航海学校は、実のところ騎士団の破格の富を用いて建てられたも
 のだった。エンリケは騎士団の艦隊を擁して、北アフリカでイスラム教
 徒と戦いながら、同時に探検航海にも繰り出した。1418年から20
 年にはマデイラ諸島、1427年にはアゾレス諸島、1458年には、
 ヴェルデ岬を発見し、それらを植民地化するとともに、アフリカ西岸を
 南下していく新航路を開発したのだ。」

 ここでちょっと一休み――
  
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月09日 21時03分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続き――

 「さらに喜望峰を回り、インド航路を発見したのがヴァスコ・ダ・ガマ
 だが、この船長も実はキリスト騎士団の騎士だった。
  コロンブスは義父がキリスト騎士団の総長を務めており、その関係で
 キリスト騎士団所蔵の海図や航海日誌を参照できたといわれている。三
 隻の帆船でアメリカを発見した1492年の航海にも、キリスト騎士団
 に属する航海士が同行した。新大陸の発見は、ある意味ではキリスト騎
 士団の力で、つまりは元をたどればテンプル騎士団の力で行われたもの
 なのだ。
  ちなみにキリスト騎士団は、白マントに赤十字という制服も、テンプ
 ル騎士団のままだった。その艦隊も白い帆布に赤十字を描いた。映画や
 ドラマの一シーンとしても、しばしば見かける印である。インド、ブラ
 ジル、日本にも来たポルトガル船が、テンプル騎士団の印を掲げていた
 のは、こうした経緯からなのだ。」

 次回はイエズス会について記してみます――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月10日 02時25分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>白い帆布に赤十字

これは知らなかったです。
さすが日本人、西洋の常識に通じていなかった。



「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓で頑張ったけど当時の総長ジェラール・ド・リデフォールは捕まって斬首されてしまって
ま、そういう事もあるでしょうね。


日本のどこかの男子校のミッションスクールがテンプル騎士団と何やらの関係があると聞いたけれど
秘密事項なんでしょうね。


ま、中世は日本でも西洋でも腐ってたというのは同じでしょうね。
今は政教分離でちょっとはマシになってるんでしょうけど
教会も王も  権力は腐敗する  絶対権力は絶対に腐敗する  というのを思い出します。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月10日 02時35分41秒 ) パスワード

1つ思い出しました。

古代日本で行われていた神明裁判の盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)

    =人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)
     探湯・誓湯とも書く

に似たイギリスの裁判法に
水に沈める
というのがあって

浮いて来たら  有罪
ずっと沈んでいたら  =  死んでる =  無罪

というのがあったそうです。笑



「くがたち」のことですが
NHK大河の「真田幸村」の時に  上杉景勝だったと思いますが
禁止したハナシがあったような?
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月11日 19時22分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、秋晴れ(ほどほど暑い)で、一日芝刈りを楽しみました。それなり
に収穫もありました。

 本日は、色々調べものをしておりました。キリスト教史関係で、イエズス
会やバチカンや大航海時代、植民地主義、奴隷貿易…etc.であります。

 ところで、先日皇居周辺に行ったわけでありますが、半蔵門から一キロ弱
西の紀尾井町に「上智大学」があり、一キロ西北の四番町にも上智大比較文
化学部の学舎がありました。またその隣には、バチカン市国大使館がありま
した。
 よくよく調べてみると、上智大学はSOPHIA UNIVERSITYでもあり、イエズス
会が設立したものであることがわかりました。またイエズス会が過去のもので
なく、今も現存し活躍しているということを知りました。

 戦国時代のイエズス会には「明」の部分と「暗」の部分がありますが、今
も現存しているということで、「暗」の部分を批判することができにくく、
躊躇しております――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月12日 13時26分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

イエズス会系のミッションスクールを検索して来ました:


教育機関(世界)

イエズス会は高等教育を使命とし、長きにわたって世界中で高等教育機関を運営してきた。
イエズス会学校は数多く著名な卒業生たちを輩出している。
いくつかあげると以下のようなものがある。

韓国        ソウル            西江(ソガン)大学
フィリピン     ケソンシティ         アテネオ・デ・マニラ大学

アメリカ合衆国   シカゴ            ロヨラ大学           名門中の名門
アメリカ合衆国   チェストナット・ヒル(マサチューセッツ)   ボストンカレッジ
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.          ジョージタウン大学       名門中の名門
アメリカ合衆国 ニューヨーク           フォーダム大学       眞子さまの彼氏の小室圭さんの留学先ですね
アメリカ合衆国 ニュージャージー         セントピーター大学
アメリカ合衆国 サンタクララ(サンノゼ近郊)   サンタクララ大学
アメリカ合衆国 サンフランシスコ         サン・フランシスコ大学
アメリカ合衆国 シアトル             シアトル大学

イギリス ロンドン                ヒースロップカレッジ
イタリア ローマ                 グレゴリアン大学



教育機関(日本)

聖イグナチオ教会
1908年に再来日したイエズス会は現在、日本で以下のミッションスクールを運営している。
また、広島教区(岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)などにおける司牧を担当している。



上智学院設置校上智大学(東京都千代田区)
上智大学短期大学部(神奈川県秦野市)

六甲学院中学校・高等学校(兵庫県神戸市灘区)
栄光学園中学校・高等学校(神奈川県鎌倉市)       カトリックなのは知ってたけど、こんな超スゴイ進学校も?とビックリ

広島学院中学校・高等学校(広島県広島市西区)
上智福岡中学校・高等学校(福岡県福岡市中央区)


イエズス会系列校エリザベト音楽大学(広島県広島市中区)

へぇ〜
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月13日 07時04分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近々、皇居内部に入る道がオープンされる日がありますので、行ってみた
いと思っていますが、その前に「半蔵門」の近くの散策には行ってまいりま
す。
 戦国時代にキリスト教(カトリック)が、静かに深く浸透して行ったという
現象……解けそうで解けない謎であります。大久保長安、伊達政宗、それ以
前には織田信長、豊臣秀吉とキリスト教との関係……一度総括してみたいと
思っております。
 伊達政宗が何でキリスト教と関係したのか……宮城県限定のニッカウィス
キー「伊達」を飲み干しながら、昨日も考えておりました――
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月13日 08時01分20秒 ) パスワード





                    瞬殺された。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月14日 13時24分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 イエズス会の本部(中央協議会)も上智大学の北側にありました。つまり、
イエズス会(カトリック)は、江戸城の半蔵門の西の一等地、つまり東京の
中心に拠点を構えたということになります。
 イエズス会の他には、フランシスコ会、ドミニコ会…etc.があり、戦国
時代から布教に努めていました。
 フランシスコというのは、イタリアではフランチェスコともいわれます。
アメリカのサンフランシスコは、聖フランチェスコに由来しているという
ことですね……。

 宗教に特徴的なのは、布教をし、教線を広げて行くことであります。宗
教に備わった本性のようなものであります。この本性的衝動は、私にはよ
く理解できないのですが、いわゆる競争原理―他に負けたくないというも
のなのでしょぅか。確信的な布教と殉教、すごいことでもあり、またこわ
いことでもあります。

 私はクリスチャンではありませんが、中学の担任の先生がクリスチャン
で、先生をやめ牧師になりました。昨今、どういう訳か、TV番組の「金ス
マ」に出演している息子の家族として登場していました。その先生には、
やはり精神的影響を受けたと思っています。つまり、「人は何のために生
きるか」の厳粛な命題であり、これはその後ずっと考え、悩み苦しみもが
きました。40代以降、空海と密教により、やっと精神的な落ち着きを得
ることができました。

 1549年に、フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト
教は、織田信長の暗殺される1582年の本能寺の変の頃には、信者数は
15万人に達していたといわれております。
 また、1614〜1615年の大坂の陣の頃には、70万人に達してい
たとの情報もあります。
 現在のキリスト教徒の数は、諸派を含めて100万人強でありますので、
その頃の70万人というのは、とてつもなく多かったということでありま
すし、逆にその後の信者数の伸びが想像以上に少ない。これは江戸時代の
鎖国政策、残酷刑の影響が根本にあり、深層心理的に抑制されてきたと言
えるのかも知れません――


[36]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月16日 12時02分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は芝刈りで、こんどはひどい結果となりました。それでも懲りないで、
来週また挑戦をと考えております。

 さて、高尾山(八王子市)にツアーで行ってきます。それについては、また
ご報告いたします。

 戦国時代に何故キリスト教が水が土にしみ込むように広がって行ったかの
謎を解くために、色々調べてみました。
 浄土真宗の中に、キリスト教的なものがみられるということで親鸞、その
師の法然、そして空海、更には古代にまで遡って様々な本を再読ないしは紐
解いてみました。以前購入した本で、その当時には読みこなせなかっものも、
今回はスラスラと読めました。

 特に久保有政氏の三部作――
 @2003年刊『日本の中のユダヤ文化 聖書に隠された神道のルーツと極東
 イスラエルの真相』
 A2005年刊『仏教の中のユダヤ文化 聖書から見た釈迦の教えと聖徳太子
 伝説』
 B2008年刊『神道の中のユダヤ文化 聖書に隠された日本人のルーツと神
 社・お祭りの秘密』
を読むと、我々の何気なく営んでいる日々の習慣、慣習、そして日本文化は、
我々が知らないだけで、どっぷりとユダヤの文化を伝承しているということ
がくどいほどよくわかります。古代ユダヤ教、古代東方キリスト教、景教等
の影響を大いに受けていると言えます。特に、秦氏のもたらした"宗教的文化
的素地"は影響が大きかったのだと思います。もちろん、秦氏の系列・関係者
といえば、「聖徳太子」、「空海」、「法然」等も多大な影響を与えており
ます。
 1549年にザビエルが伝えたキリスト教(カトリック)が、日本人に違和
感なく受け入れらたと思われる素地とは、そうした長い歴史によって培われ
ていたということがわかりました――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月16日 14時43分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

高尾山、お土産話を楽しみにしています。


最近、ユダヤ人がハワイにも来てたハナシを知って驚いているのですが
イギリス=ブリテン島=にも失われたユダヤ人の到着のハナシがあるのだそうです。


聖徳太子伝説にはキリストの話が使われているなと思います。
厩戸皇子とか大勢の人の話を一度に聞いてとか。


最近の日本の歴史への回帰は近い将来100万人を超える外国人を受け入れる政策が喧伝されているからかも知れないですね。

今のうちに日本とはどういう国であったのかハッキリしておきたいという民族的欲求なのかなと。


お気を付けて行って来てくださいね。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月18日 05時47分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 親鸞の浄土真宗がキリスト教に似ているというところから、親鸞の師で
ある法然に興味が及び、8年前に購入した山田繁夫氏の『法然と秦氏』と
う本を読んでいます。購入した当時は全く進まなかったものが、今回スラ
スラと読めております。全く不思議と言わざるを得ません。モチベーショ
ンと機が熟したということでしょぅか。
 また渡辺豊和氏の『バロックの王 織田信長』も流し読みはしていたの
ですが、今回は本格的に読みたいと思っております。何故ならば、その中
にキリスト教との関係が書かれているからであります。 
 何かのキーワード(謎 テーマ)が起点になり、モチベーションが高まり、
謎に挑んで行く……これが一つのパターンであることを、つくづく再認識
させられております――
[39]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年11月19日 12時26分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、奥多摩(八王子市)の「高尾山」へツアーで行って来ました。
標高599m。リフト(又はケーブル)で中腹まで登り、そこから更に
徒歩で40分。途中の道もまた頂上も、人でごった返しておりました。
 全山的に紅葉にはまだほど遠く、たぶん最盛期は11月末くらいで
はないかと想像しました。紅葉を目当てで来た人々は、さぞかしガッ
カリしたことでしょう。私は紅葉目当てではなかったので、それはあ
りませんでしたが、ただ人が多く、大みそかや新年のお宮参りのよう
な込み具合で、人疲れしてしまいました。

 私にとっての最大の収穫は、ここ高尾山が甲州街道の街道筋にあっ
たことを実際に認識できたことでありました。つまり、江戸城の半蔵門
から甲州街道を甲府に向かって西に歩いて行った場合、神奈川県境の
手前、あるいは群馬や山梨の県境の近く、即ちいわゆる要所といわれる
場所にに高尾山は位置していました――
 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年11月19日 14時29分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>江戸城の半蔵門から甲州街道を甲府に向かって西に歩いて行った場合、
>神奈川県境の手前、あるいは群馬や山梨の県境の近く、
>即ちいわゆる要所といわれる場所に高尾山は位置していました――

希代の方向音痴なので  エッと  驚いています。
そういう方角ですか。


やはり  往く  ことは大事ですね。
自分の足で歩かないと方向とか土地勘とかは生まれないですね。

      と、方向音痴が言うか  > ワタシ orm


いろいろな場所にお知り合いが出来ると良いですね。
「地元」の人は頼りになりますから。



八王子についてウイキで調べて来ました:

中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、川越・桐生・日光(日光脇往還)など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄えた。

現在、東京都心から甲府を経て塩尻へ至る国道20号(甲州街道)と、横浜から川越方面へと向かう国道16号(東京環状)、そして青梅を経て甲府へ至る国道411号(滝山街道、青梅街道)の交点である。

また、八王子ジャンクションにより、中央自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)との交点ともなっている。


知らなかったぁ〜


高尾山は東京近辺の人が集まりますからね。
人間が多過ぎ。
子供の遠足でも高尾山に行きますしね。

紅葉でしたら京都がいいですよ〜
って、高尾山並みに混雑しますよね。

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