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 投稿番号:101640 投稿日:2018年07月04日 05時30分25秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]T(課題確認54):111:熯速日の謎
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101637_59.html
長上郡の服部氏族C](課題確認53):110
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレで東海地方の古代史にお詳しい酔石亭主さんのご降臨がありました。
ラッキー!



三つ柏さんの書き込み:

>「熯速日(ひのはやひ)」は織物の神であるという根拠は何か。
>ひょっとして織物の道具に、「杼(ひ)」(シャトル)というものがありますが、
>それは縦糸に対して、横糸を左右に走らせる小道具であります。
>両先端が尖っていて、神話の世界では、機織り女がホトを「杼」で突いて死ん
でしまうというようなシチュエーションでも使われております。

>「ひ」のはやひの「ひ」が、この「杼」なら、正に織物と関係するので、
> 織物の神として納得ができるのですが……。


酔石亭主さんから:

>かなり真相に肉迫されましたね。
>熯速日は

     名前、字義、その出自、
     また他社で焼速日命と表記されることからしても、

>火の属性を持つ神となります。

>その神を織物の神とするために極めて巧妙な仕掛けが施されており、そうした部分を解析して初めて納得できるものとなります。

>何かを仕組んだのはもちろん秦氏(と服部連)でしょう。
     彼らが祖神を設定するに際しては、
     できる限り古い神で、他の氏族の神と重複しない神
        (文句の出る恐れのない自然神)で、
     音で織物に関係できる神を考えたのだと思われます。
     そうした条件に適合するのが熯速日でした。

>機織り女がホトを「杼」で突いて死ぬ話の「杼」は、実は男根に見立てられており、死んだ機織り女が天岩戸に籠って後天照大神となって出現する死と再生の神話になっています。

    (この部分は大和岩雄氏の見解)

>熯速日は女神のようですから機織り女に擬せられ、同時に男根に見立てられる「杼」を音で表せるので、機織り関連の最古の神話の中に位置づけでき、機織りの祖神とするにはぴったりの形となってしまいます。


>もちろんそうした仕掛けの意味は後世になってわからなくなってしまうので、12世孫に「杼」の持つ裏の意味に通じる麻羅宿祢(マラで男根を意味する)を持ってきて祖神の設定を完了させました。

>以上の操作で、本来は火の神だった熯速日がそうとはわからないように織物の祖神に仕立て上げられた訳です。

>裏でいろいろ操る秦氏の面目躍如と言ったところでしょうか。


>秦氏は自分たちの祖を始皇帝や徐福だと言上し「姓氏録」にそのまま記載させてしまうほどですから、この程度の裏技は簡単だったと思います。


>従って、神服神社の熯速日と麻羅宿祢までは実在ではなく造作された祖神であり、実態としては応神天皇期に秦氏と彼らに近しい機織技術者が渡来し、摂津国で技術者が地元民に機織技術を教え、次第に地元民とも融合し、後代に彼らが服部を称し服部連を賜ったとなりそうです。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月04日 14時27分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。酔石亭主様の推理・論理も
完璧ではないか、『新撰姓氏録』というものの成り立ち・経緯を考える
と、出自の造作は、その時における氏族の力次第で可能だったのではな
いかと推察いたします。

 ちょっと用事にて中断――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月04日 16時27分01秒 ) パスワード

三つ柏服部さん

はい。


酔石亭主さんのお陰で
服部半蔵の家が「ほのはやひの命」の子孫を称し、
允恭天皇から織部司に任じられ、服部連として諸国の織部を宰領した
という先祖ロンダリングのハナシの流れが見えました。


織物系のはずなのにお社の名称が微妙に違うとかお祀りしている神様のお名前が微妙に違うというのは
お互いに   脛に傷があるから  そこのところは追及は無しで  という談合と忖度ということなのかなと。


そうか・・・日本人はもともと一神教タイプではなくて相手の息の根を止めるという主張はして来なかったのでしょうね。


古代日本人には金子みすずではないけど「みんなちがって みんないい」という包容力があったのかも。


うちの先祖は「允恭天皇の御代に」とか「織部司」とか「服部連」とか  
大きな権威をくっつけてケムに巻いて  
そういう喰えないところがなかなかカワイイな、と。

どうせ真相なんて分かりゃしないんだから、と後ろ向いて舌を出してるのが見えるようで

現代の学者達がア〜でもないコ〜でもないと  元々存在などしない真実を求めて書いているのが、なるほど、この人はこう考えるのかと結構楽しいです。


ヒンドゥの神々は今でもどんどん増えて戦っているそうですが
エンエンと神々を生み出し戦わせる、そういうのも面白いな、と。
                      日本なんて800万で「大勢すぎる」と思ってるのに。


最近 auの三太郎コマーシャルをずっと見てたのですが  <AU>って<英雄>の音にも通じますでしょ
英雄譚とか伝説とか神話とかは   もともとはauのコマーシャルのような  なにげないハナシだったのかなと。


とにかく楽しいですよね、原点を追及するって。

酔石亭主さんには本当に感謝です。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月04日 22時13分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本代表サッカーが終り、残念無念の境地が暫く続きましたが、勝負の
世界はこんなものか……長友の割り切り方がとてもドライで、返ってすが
すがしさを感じました。

 サッカーに夢中になっている間に、野菜畑の草がすっかり伸びてしまい、
「芝刈り」ならぬ本当の「草刈り」に汗を流しました。おかげさまで疲れ
てぐっすりと眠れ、元の睡眠のリズムを取り戻せました。

 さてさて、これからまたレスにカムバックいたします。何かの謎を中心
に追って行かないと、モチベーションが保てませんので、私としましては、
「天穂日」と「服部連」を中心にして進めて行きたいと思います。

 あを様、そもそも「服部氏族」とは何だったのでしょう? 「伊賀の服部
一族」を除外した場合、残るのは単なる「機織関係一族」……。天下を取
った訳でもなし、大大名・大大臣を出したわけでもなく、大財閥を形成し
た訳でもない……。
 ただ、「三河(伊賀)の服部一族」が有名になり、徳川の天下取りにおい
て寄与し、徳川の深部に食い込み、うがった見方をすると秀忠や家光を通
して、徳川家を乗っ取った……?
 もちろん、徳川の中枢に食い込み、成功していたとしたらそれはグレイト
なことであり、評価されると思いますが、服部氏族の本当の評価は、もっと
根源的な所にあるのではないか……?

 私は、"勘"ではありますが、服部氏の価値は、その祖にあると思ってお
ります。服部氏の祖は、古代において王家の中枢に近い所にいたのではな
いかと睨んでおります。それは、やはり大和政権の前の時代、具体的には、
海部氏の時代(丹後王国、丹波王国、投馬国の時代)か、それよりずっと遡
るのか、いずれにしましても、王家にとって「衣服」が「三種の神器」み
たいな時代に、服部氏の根源はあるのではないかと思っています……?

 そんな方向性で、しばらくは探求してみたいと思います――

[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月05日 06時51分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もう一つ、究極の推論を言いますと、これは私の"勘"ですが、熯速日と
天穂日は日本書紀によると兄弟であった。もっとも、日本書紀の信憑性は
20パーセント、また古事記の場合は信憑性50パーセントと言う研究者
もあります……そこのところはさておいて、熯速日の後裔が「服部氏」、
「天穂日」の後裔が「土師氏」というわけであり、服部氏と土師氏が同族
であったということになります。これが、実態面においてどれだけの協調
作業(コラボレーション)があったかが証明されれば、全くの由縁なき話で
はなくなると思います。

 この遠江においても土師氏の痕跡はみられます。例えば、土師氏の祖の
天穂日を祀る神社は、有名どころでは、高天神城の戦いで有名な高天神城
(現掛川市)の一角に、というよりも山の上に天穂日を祀る天神様があり、
その隣にこの城を造ったという訳であります。この辺りには土方氏が多く
分布しておれます。土方氏の出自については、土師氏なのかあるいは違う
のか、2つの説があり、今のところ比定できていません。

 天穂日を合祀している神社は、旧浜松市内だけでは「八柱神社」が14
社、その他が8社であります。八柱神社が特出して多いと思いました。

 論旨の推敲と陳述は途上ですが、ここで一旦中断いたします――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月05日 14時41分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


全く横ですが

遠江の土方氏は
状況証拠的に
ご先祖さまは応神天皇の長子の大山守皇子おおやまもり の みこ  だと思っています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%AE%88%E7%9A%87%E5%AD%90

以下コピペ:

大山守皇子(おおやまもり の みこ、生年不明 - 応神天皇41年(310年?))

記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
応神天皇の皇子で、母は高城入姫命(品陀真若王の女)。
仁徳天皇・菟道稚郎子の異母兄に当たる。
大山守命とも。


応神天皇40年1月、菟道稚郎子の立太子の際、山川林野の管掌を任されたが、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。

応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀り、皇太子を殺害するために数百の兵を挙げた。

しかし、この謀は前もって大鷦鷯尊(おおさざきのみこと。後の仁徳天皇)と皇太子の察知するところとなり、
菟道川(うじがわ)の渡河中に渡し守に扮する皇太子の計略によって船を転覆させられ、救援を請うも空しく水死した。

遺骸は考羅済(かわらのわたり。現在の京都府京田辺市河原)で見つかり、那羅山に葬られたという(那羅山墓)。

現在、この墓は奈良市法蓮町所在の円墳に比定され、宮内庁の管理下にある。


なお、子孫は遠江国に下ったらしく、後裔氏族として土形君(ひじかたのきみ。城飼きこう郡)・榛原君(はいばらのきみ。榛原郡)などが知られる。


実は実は  身近にいるので。歩いて10分ほどのところに。
それで思い出したのです。
でも土師氏との関係は分かりません。
ひょっとすると遠江に流れて来て土器作りをしてたのかもですね。


そして   土方歳三は元は武田の家臣であったのが滅亡後に家康から仕官の約束を破られて多摩の百姓になった子孫  というのを
一族の人が平熱で書いてたように記憶しています。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月06日 15時19分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。私も、改めて土方氏を調べてみましたが、土師
氏との関係は今のところ見つかっておりません。

 服織神社が何故「天穂日」を祭神にしたかという謎は、高天神社が何故
天穂日を祭神にしたかという謎よりも理屈的には難しい。

 私は、この背景に「土師氏」の存在を強く感じております。
 この地と土師氏との関係でエピソードに載るものが一つあります。
 それは、「光仁天皇天応元年六月、遠江介土師宿祢古人等十五人が、
朝廷へ奏上、「我が祖先は吉凶の祭事に従事していたのに、現今は専ら
凶儀に預る、願わくば土師を改め、住地によって菅原となさん」と請願
し、許可されたと続日本紀にあるという。
 浜名湖畔には、往古出雲系遠江国造と同族である土師連の統率した土師
部等の族も住んでいたらしいということですが、この地方にある古墳から
出土する「埴輪」を見れば、その事実は一目瞭然であります。

 土師氏について、今ものすごく関心を抱いております。土師氏の全貌を
見極められたらと願っております。

 次回へ――
[7]酔石亭主さんからのコメント(2018年07月06日 20時17分08秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

唐突ですみませんが、2018年06月02日の以下の記事にびっくりです。

>遠江の蛭子森古墳の近くに内藤家がありますが、家伝によると内藤家の
家祖は秦川勝の子貴平で、「蘇我入鹿の乱」を避けて、太子の皇子三人を
伴って遠江長上郡へ避難して来たと伝えられております。

お二人の議論はあまりにも膨大なのでとても読み切れず、見落として
いました。さらにチェックしたら家伝の内容は『遠江織物史稿』に、
その証拠は『濱名郡豊西村史』に書かれていたと理解していいよう
ですね。この記事のお蔭で遠江における秦氏と服部の動きがほぼ私が
想定していた通りに復元できそうです。具体的には以下の通り。

蘇我入鹿の乱とは643年末の山背大兄王一族の殺害と、翌年における
入鹿の独断専行政治と理解される。645年は入鹿が殺害されたのだから
入鹿の乱にはならない。この状況と内藤家の伝承を踏まえて復元すると、

644年に秦川勝の播磨への避難があった。しかしこの時点では川勝は
既に死去していたと考えられ、実態は秦氏一族の避難となる。
聖徳太子の孫である蜂子皇子は秦氏の蜂岡寺(広隆寺)に匿われていて、
秦氏と共に避難したと推定できる。
644年に富士川周辺で秦川勝が大生部多を討った話も、推定年齢80歳
前後となる川勝にできるはずがない。そもそも中央の政局が緊迫化して
いる状況で、中央を秦川勝が離れることはない。従って、川勝死去後
彼を奉じる秦氏の一団が東国に避難した際、彼の名において実行した
ものと考えられる。富士川に至る前に秦氏の一団は遠江に入り馬込川を
遡り、千手観音出現伝承や後代の内藤家の伝承を残した。
彼らはさらに東に進み、久能山と安倍川、富士川、大磯の金目川などに
来て久能山と大磯でも千手観音出現の伝承を残し、最終的に秦野まで
至った。と言ったストーリーになりそうです。

以上、644年に蘇我入鹿の専横に嫌気さした秦氏の一団が北へ、西へ、
東へと逃れた動きがあり、秦川勝の子貴平(実際には渡来技術者の秦氏)
に関する内藤家の家伝もその文脈の中で位置付けすることができます。
こうした秦氏の動きに乗った形で摂津の服部氏も浜松にやって来たので
しょう。

「遠江国風土記伝」のデジタル版コマ番号93には、「畑屋 本字幡屋 
昔神服部之處」とありました。幡屋は秦屋かもしれないし、そうでない
としても有玉南町辺りと推定される畑屋は秦氏の半田町の南隣に位置し、
やはり秦氏と服部氏は密接な関係があったと理解されます。

昔畑屋が服部氏の居住地だったとすれば、三つ柏服部さんのご先祖の地
かもしれず、やって来たのは644年と言うことになりそうです。

お二人の議論のお蔭で、ずいぶん理解が進みました。本当にありがとう
ございます。将来ブログに浜松の秦氏を書く際は引用させてくださいね。

[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月07日 00時07分33秒 ) パスワード

酔石亭主様

 幾つかの点と点が線でつながりました……みごとな洞察力というか概観
力・鳥瞰力・統合力ですね。感服いたしました。

 実は、私の手元にはたくさんの資料があるのですが、それらはワンフレ
ーズではまとめきれず、ある程度長々と書かなければ説明できないものが
多いので、ジレンマがありました。
 『遠江織物史稿』は、昭和41年に遠州織物工業組合の全面的バックア
ップにより、元浜松工業試験場長の山本又六氏が遠州織物・日本の織物の
歴史をまとめ上げた労作であります。非売品でありますので、浜松中央図
書館郷土室にはあると思いますが、時として古書店に出ている場合も稀に
あります。私は古書店にて仕入れております。
 『・名郡豊西村史』も又、浜松中央図書館郷土室にあります。私はそれ
をコピーしましたが、後に古書店で『・名郡誌(上下本)』を入手しましたら、
全く同じことが書かれておりました。
 『遠江織物史稿』は『・名郡誌(上下本)』を参考にしておりますので、
大筋はそこから引用したのかも知れませんが、いろいろな情報を加えて、
総合的にとらえております。そのほんの一部ではありますが、記します
(P273〜P274)――
 「半田に朝日山があって六所神社を祀るが、ここも朝日波多加神社の跡
 との説がある。栲幡千々姫命を合祀することは注目に値する。朝日波多
 加神社は秦族の祭神であると云われるから、此の地方は秦氏繁衍(はんえ
ん)の中心地であったのではあるまいか。笠井の南に貴平(きべ)部落があ
 る。ここの旧家内藤は秦姓で、秦川勝の五男貴平が、入鹿の乱を避け、
 上宮太子の皇子三人を奉じ、遠江に蟄し連綿今日に及ぶといわれる。
  今の豊町(元の羽鳥村)に服部神社があって、天穂日命を祀っておる。
 元中野町村、飯田村と対岸の岩田村、富岡村、池田村は、秦氏と関係の
 ある山城松尾神社の社領であったことは、嘉永三年二月の池田庄券文に
 見え、本社使檪谷禰宜秦宿祢等が列名署判しておる。」

 なお、覇田郷、幡多郷について、また畑谷村について、そして服部氏の
移動について、次回以降に記すことにいたします――

 (灘の酒で「貴平」というお酒がありますが、秦氏に関係していそうで
す。浜松では地名・貴平のことを、「きへい」と呼んでおります。
又、伎倍(きべ)という地名が近く(旧麁玉郡)にあり、万葉集に詠われて
おりますが、機織り技術者の里というような意味にもとれなくもありませ
ん。)
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月07日 02時40分45秒 ) パスワード

4時間ほど前に酔石亭主さんのコメントに感動し
フランスのパヴァールとウルグアイのカセレスに感激し
ご飯を食べて
三つ柏さんのコメントを拝見し
今からジムへブラジルvsベルギーの試合を見に行くところです。


                      ワタシ的には本日のブラジの対戦相手は日本だったのですが。


ベルギー戦があんな結果になったのは一重にワタクシのせいなのです。

日本が2点入れてから
自転車を漕ぐ脚が疲れて来て

                      あ〜 
                      電池切れ〜

などと思っていたらベルギーに2点入れられ

                      も〜
                      体力無いもんね〜

と思ったら終了ギリギリ直前、さよならゴールに。


ワタシの精神力の足りなさが日本を負けにさせてしまいました。
土下座


セネガル戦はホントによく戦いました。
向こうは高身長で脚が長い上に(日本人選手の平均は出場国の中で下から3番目だとか?)
もともと傾きの異なる骨盤と、それに嵌る大腿骨の角度が日本人には不利だし

          そういう肉体的ハンディにも関わらず

日本はよく戦いました。
その前のコロンビアに勝った時には信じられなった。
負けるに決まっていると思ってたから見てなかった。
「日本が勝った」というテレビの解説に(いつのハナシ?何の試合で?)と全く信じられなかった。

では今からジムに行って見て来ます。
[10]酔石亭主さんからのコメント(2018年07月07日 15時32分23秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

超貴重なお宝情報ありがとうございます。久し振りに大興奮です。

早速ネットで検索したところ、『浜名郡誌』のデジタル版があったので
内容をチェックしました。そこには、「三皇子に供奉したる某、遠江国に
蟄居し、姓を内藤に改め」と書かれており、『遠江織物史稿』のように
秦氏との関係まで触れられてはいませんでした。
多少不安はありますが、内容から判断すると山本氏は内藤家に直接確認
したのでしょうから、これを基礎資料とするしかなさそうです。

今後もお時間があるときで結構ですので、お宝情報を掲載いただければ
幸いです。それとは別にお二人の掲示板の議論を最初からじっくり拝読
させていただく必要もありそうです。あまりにも膨大なので、いつ読了
できるかわかりませんが…。

>あを様、そもそも「服部氏族」とは何だったのでしょう? 

大和王権の諸制度(国造、氏姓、部民制度)などが固まってきた5世紀末
から6世紀頃、機織りの職能集団が品部としての服部(はとりべ)となり、
朝廷に織物を献上するようになったのが、服部の始まりだと思われます。
彼らは機織りに関係する職能集団の品部の名前であり、同じ祖先から出た
豪族(=氏族)ではないので、氏族或いは一族と捉えると、微妙なずれが
生じるかもしれません。

その後、勢力の強かった摂津と大和の服部が朝廷から服部連を賜り、地位も
向上したため、自分たちに箔を付けるため祖神の設定が必要となり、大和の
服部連は祖神を天之御中主神十一世孫天御桙命に設定し、摂津の服部連は
祖神を熯之速日命十二世孫麻羅宿祢としたのでしょう。或いは「新撰姓氏録」
編纂の際にそう申告し、掲載されただけとも考えられます。

同じ服部連でも祖神が異なるのは、それぞれが別の機織職能集団だったから
でしょうね。ここからも、彼らが秦氏のような血縁集団ではなく、職能集団
であったと理解されます。ただ、秦氏と服部との関係は深く、部分的に重なって
いた可能性も否定はできないので、微妙且つ悩ましい部分です。
[11]酔石亭主さんからのコメント(2018年07月07日 21時12分23秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

2016年11月2日の三つ柏さんの記事に「内藤家由緒書」の内容までありましたので、原資料として確認できました。ここまで収集された努力には頭が下がります。

やはり長上郡の服部氏族を最初から全部読むべきですね…。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月08日 21時44分07秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 昨日は、夜会がありましたが、ちょうどタナバタでもあり、ゆかた姿の
若い女子達もちらほら町に出ていました。

 タナバタ豪雨という言葉がありますが、昨日・一昨日と豪雨のため、
沢山の犠牲者と被害者が出てしまいましたこと、心よりお悔やみとお見舞
いを申し上げます。

 タナバタといえば、平林章仁氏が『七夕と相撲の古代史』の中の第六章
の三「タナバタ考」でこう述べられており、服部連の織部司を理解するの
に役立ちます――

「つまり、タナバタとは棚のある機(はた)、機台に組み込まれた立体的な
機のことであり、それを用いる技術もそれで織られた布も、機台(棚)のな
い原始機より高級である。要するに、オトタチバナとは、高級な機台付き
の機で、布を織る若くて美しい織女のことである。

 ところで、古代の機織り技術はかなり特殊で高度、それゆえ限定された
ものであって、誰もが容易に織ることができるという状況にはなかった。
 例えば、『続日本紀』和銅四年閏六月丁巳条には、高級絹織物の技術者
である挑文師(あやとりし)を諸国に派遣して錦・綾を織る技術をはじめて
教え習わせたとある。大宝令制下での錦・綾の織成は、織部司が担ってい
たが、増大する需要をまかなうために独占的技術の拡大を図ったのである。

 その結果、翌年七月壬午、はじめて伊勢以下二十一国に錦・綾を織らせ
ることができた。ただし、これらは民間でなく、諸国の国衙工房で生産さ
れ、西街道(九州)諸国の調の繊維製品も大宰府の工房で織成・染造して京
進された。

 このように、奈良時代の初めにあっても高級絹製品の技術は中央に独占
されていたわけで、これ以前の機織り技術の実情も推して知るべしである。
 また、こうした情況から、我が国の古代社会では織女自身が極めて特別
な存在であったことが知られる。
              〜中略〜
 機台付の高機や地機は、錦・綾など高級絹織物の技術と共に、古墳時代
に渡来系工人によって伝えられたとみられている。このタナバタ(高機・
地機)を用いる新しい機織りは、特別に高度な技術が必要なため、きわめて
限られた専門技術者に担われていた。それは、複雑な組み織りの布を織っ
たり、様々な色に染めたり、規格化された布を裁断して縫い合わせるなど、
現在の機織り・染色・裁断に近い技術であった。
              〜中略〜
 もちろん、こうしたタナバタで織られた高級絹織物は希少な貴重品であり、
それを着用できたのも一部の限られた人々であった。織物それ自体が貴重品
であり、その貴重性ゆえに神への代表的な供物となり、幣帛(へいはく)と称
された。
 さらに、神に供える大切な布を織ること自体が、神を迎えて喜ばせる予備
的行為とみなされ、機織りが祭祀と不可分な儀礼となっていったのである。
祭儀にかかわる神話・説話の多くに織女があらわれる理由の一半は、ここに
ある。」

 ということで、1600年〜1500年前より絹織物産業(養蚕・製糸・
織布・製縫)は、高度な技術を伴った産業として、ある意味、国策産業
として中核を担い、同時に祭祀にも絡む存在でもあったということになり
ます。

 「神服部」の「神」というのは、祭祀に絡むということを言っているのだ
と理解できました。
 地方においては、式内社のような神社が、絹織物産業の中核になり、それ
に絡んで祭祀も行われたのだと推察いたします――

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月09日 06時51分02秒 ) パスワード

機織りと土器づくりの関係
友人よりメールで頂きました:


このたび豪雨で浸水した真備町にも吉備真備公園も存在して居ます。
この真備町の北隣が「秦」地区でしたね。

当然浸水した区域は低地です。
当時は「吉備の穴海」につながる河口です。

浸水した北と南の丘陵部が古代の居住区ですね。
当然浸水した区域の南に成ります。



服部八幡神社と御崎神社

御崎神社は吉備津彦に退治された「うら」を祭る神社です。
おんざき・みさきとも言います。
「うしとらみさき」とも言われます。
吉備津神社のお釜殿の釜のしたに埋められた人物の神社です。
本当の古代吉備一族の統率者と思います。


服部の神社と御崎神社の抱き合わせに意味がありそうですね。



710-1302 倉敷市真備町服部

「真備町服部」の南に接して「玉島服部」の地区です。
元々同一の服部地区(約10キロ平方)と思います。


「玉島服部」の西隣は「陶(すえ)」地区です。
古墳時代からの須恵器の大生産地です。


                        ココ、興味深いですね
                        

当時の日本の中心地である奈良の都にと送られた所です。
その積み出し港が新幹線新倉敷駅の北側の地点です。

https://www.google.co.jp/maps/ @34.6106244,133.6703152,1830m/data=!3m1!1e3 



平家関連:
「水島の合戦」の土地

https://www.google.co.jp/maps/ @34.5915313,133.6831793,14895m/data=!3m1!1e3  

番号398の上の濃い色が「乙島」源氏の本陣の島  
番号47の横がほんのり丸く見えるのが「柏島」平家本陣の島

新倉敷駅は、当時は海の底でした。
もたい(甕)の海と呼ばれて居た所です。
倉敷や岡山までは「吉備の穴海」といわれた海と島の場所ですね。

以上コピペ
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月09日 07時01分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川瀬勇氏の『日本民族秘史』の中に――

 「仁徳天皇の御代に、秦の民を諸国に分置して、機織りの業に従わせ、
 波多氏と称した。
  幡多郡はそれが集団的に配置された所である。」

という一文があります。

 これに沿って遠江・浜松地区を見てみますと――

 @覇田郷と、A幡多郷が「和名抄」に取り上げられているということで
ありますが、「角川日本地名大辞典22 静岡県地名大辞典」によります
と、秦氏の分布からして、@はもちろんのこと、Aも同じく、半田地区を
中心として内野地区にかけての地域のことをいうのではないかと分析して
おります。

 また、同辞典では、「畑屋村」のことについて――

 「幡屋村とも書く。有玉畑屋村ともいう。馬込川上流域に位置する。村
 名の由来は、「はた」は「幡」で、昔「神服部」の住地によるかという
(風土記伝)。また、羽鳥村の服部(はとり)が、移住開拓した土地で、機屋、
 服屋(はたや)ともいう。」

とありました。

 これらのことは、『内田旭著作集三』の中の、「地名愚考 一、畑屋並
びに覇田考」に書かれておりまして、私は既に畑屋地区に服部氏が住んで
いないかの調査は行っております。ゼンリン住宅地図で調べたり、お寺の
墓地の墓を調査してみましたが、服部家は二軒程あり、地区のお寺には墓
は見つかっておりません。つまり、羽鳥に住んでいたから服部が多いかと
いうと、どうもその推測は外れるようであります。ここのところが「謎」
であります。

 次回は、この内田氏の著作に書かれている推測を基に、試論を述べてみ
たいと思います――
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月09日 09時43分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

>羽鳥に住んでいたから服部が多いかというと、どうもその推測は外れるようであります

難しいですね。
勿論1500年も昔の人の子孫がずっと同じ場所に住み続けるにはイロイロあり過ぎました。



でも楽しいですね。
一体どこに消えたのか?
機織りの人々と土師氏は結構ご近所さんだったのか?
なぜ家紋に三つ柏紋を採用したのか?


>次回は、この内田氏の著作に書かれている推測を基に、試論を述べてみたいと思います

楽しみにしていますね



今、ドジャーズvsエンジェルズの試合をテレビでやっています。
10時間前にジムで今日はLAAとLADの試合があるという宣伝があって大谷の顔が出てたから
「じゃ、見るか」となって
私のテレビでは見られなかったのでジムに行ったら違う10時間前とは違うチャンネルで始まってたので
急いで戻ってチャンネルを変えたら  スタメンには大谷の名前無し。


Wカップ優秀の予想はイングランドかフランスかと思いますが
結構クロアチアかも。

それにしてもスェーデンとイングランドの試合の時のサポーター席は  パステルカラー系で
南米の国々のサポーターがいる時の原色系とはずいぶん違うなぁと感心しました。

時々  日本の旗を通路でカメラに見せてる人がいますが(韓国のじゃないと思う)  この人を見つけるのも楽しみの1つです。
[16]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月09日 12時00分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 過去レス訂正:灘の酒「貴平」→「喜平」
        「被害者」→「被災者」

 試論として――
 当家の本家の当主は37代目と親から言われているそうですが、それは
常識的には、初代当主が現在地に定着してから37代目ということだと考
えます。
 現当主は81歳、それ以前を平均22歳で長男をもうけたとすると、初
代の22歳の時は、「1167年」となります。
 1167年の頃、この地方で何があったかといいますと、「1160年
に羽鳥庄が京都の新熊野神社に寄進された」という記録が残っております。
つまり、服織神社の祭神も、今までの氏神系から、熊野系に変わってしま
ったのではないかと推察されます。

 このことについて、内田旭氏はその著作集三の「地名愚考 一、畑屋並
びに覇田考」の中で、このように述べておられます――
 「服織神社は長上郡に坐(い)ます式内社である。式内社となってから、
 若一権現(羽鳥庄が新熊野神社領になったため)となるまでに250年を
 経た。式内社となる以前、何年かを加えて創設時代としなければならな
 い。若一権現以前の長き間、羽鳥村の住民は、服織神社の祭神を祖神と
 するものがあり、職業神とするものがあり、産土神とするものがあった。
  それ故に、若一権現に代った際、村民の心中に大きな動揺があったに
 違いない。神社に親密であればある程、安住の地を他に求めたのであろ
 う。行く先をどの辺に選んだか、南の方はすでに松尾大明神領になって
 いた。そこを避ければ、西の方か、北の方か……西方には西畑屋、東畑
 屋という所がある。この東西のハタヤこそ、羽鳥住民の一部が移住した
 所ではあるまいかと考える。」

 つまり、宗教(神道)の宗派が変わってしまったということで、それに耐
えられない人々は、その地を去って移動したということになります。当家
の祖先においても、ひょっとしたら北に移動したのかも知れません。
服織神社の真北約2qの所で、天満宮を奉斎しております――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月09日 15時02分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


「熊野神社」に反応しました。


>1160年に羽鳥庄が京都の新熊野神社に寄進された」という記録が残っております。
>つまり、服織神社の祭神も、今までの氏神系から、熊野系に変わってしまったのではないかと推察されます。


1160年の一番大きな事件は  平治の乱  ですね。
これが熊野神社に変わった原因かも知れないですね。

このあたりの時代
つまり平家が力を持った時代。


ということはもう1度平治の乱や平家が力を持った頃の遠江の国の歴史を読み返さないといけないように思います。


平家と熊野神社はかなりの引っ張り合いがありました。
特に清盛は義朝を討つのに熊野へワザとたらたらと行って
義朝は罠にかかって敗れてしまいます。

     実行部隊長は藤原(伊藤・平)忠清の父の古市伊藤武者景綱



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E
『平治物語』(へいじものがたり)
平治の乱の顛末を描いた軍記物語。


作者不詳。

平治元年(1159年)、後白河上皇方最大の武力勢力であった平清盛が熊野参詣に出かけた隙を狙って、
かねてから藤原通憲(信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた藤原信頼が、
保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝を語らって挙兵する。

上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、
熊野から引き返した平清盛に敗れ、
信頼は処刑、義朝も暗殺される。

以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多い。

『保元物語』や『平家物語』と同様、和漢混淆文で叙述されている。

諸本によって内容に異同は大きいが、
悪源太義平(源義平)の武勇譚や、
源義経の母である常盤御前(常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへと赴く哀憐の話が中心を占めている。

『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴である。



今日は大谷が代打で出てホームランを打ち逆転。
ホントいい仕事をする!
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月09日 15時11分52秒 ) パスワード

大谷はホントに愛されてます。

It's a SHO=翔=show= time!
       大谷翔の活躍を御覧ぜよ!


今日は大谷の人生の計画表が紹介されてました。

いつ結婚するか
とか
いつ最初の子供が生まれるか
とか

37歳で長男に野球を教え始める
だったかな?


みんな笑ってました。
ホントに大谷は愛されキャラです。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月10日 12時08分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに、あを様の言われるように、1160年前後の政治状況を見てみま
すと――
 @1156年 「保元の乱」
 A1158年 平清盛長男・重盛、遠江守となる。
 B1159年 「平治の乱」
        源義朝、野間にて、長田忠致(ただむね)により暗殺さる。
        源頼朝、捕縛後、池禅尼等の助命嘆願により、伊豆配流。
 C1160年 平清盛三男・宗盛、遠江守となる。

 このAの平重盛の遠江守の就任を境にして、遠江の武士団は源氏から平氏
方へ寝返ったようです。
 その後の20年間は平氏の天下。

 D1180年 4月、源頼政、以仁王を担ぎ、平氏追討の令旨を諸国に
        送り、挙兵。
        8月、源頼朝、挙兵。
        10月、富士川の戦い。
 E1181年 平清盛、病死。
 F1185年 壇ノ浦にて、平氏滅亡。
        
 というように、1160年前後は、正に源平の権力闘争・戦いの真った
だ中にあったということが言えます!

 ここで、一つ訂正がございます。それは、羽鳥庄が新熊野神社に寄進さ
れた年ですが――

 正しくは、1181年(養和元年)

であることがわかりました。ある資料と他の資料とを見比べ、間違いであ
ることがわかりました。
 なんと、この年は平清盛が亡くなった年でありました。

 新熊野神社といえば、清盛の亡くなる約20年前の1160年、後白河
法皇の創建であります。造営に当ったのは清盛・重盛親子。

 その約20年後、清盛が亡くなった後の白河院と宗盛、頼盛等の関係は
複雑微妙な関係であります。
 これは、私の勝手な推測ですが、「羽鳥庄を新熊野神社に寄進」したの
は、平宗盛が白河院を喜ばせようとしたものではなかったのかということ
であります……。 

 いずれにしましても、この1185年の平氏滅亡に至る30年間あたり
が当家の初代の出発となりそうなので、源平の興亡に正に影響を受けてい
るということは、ほぼ間違いないことだと思います―― 
   
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月10日 23時00分16秒 ) パスワード

あと4時間ちょっとで試合が始まります。


顔を洗って出直して来ました。
顔を洗ってる時にハタと気づくことがありました。


平治の乱の前の保元の乱。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
保元の乱(ほうげんのらん)

平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

負けた側:
源為義(河内源氏)
平忠正(伊勢平氏) 三つ柏さんがうちのご先祖さまでは?と気になさってた清盛の叔父   
平家弘(伊勢平氏)*下に書きます
源頼憲(摂津源氏)


本題に入ります:

平治の乱の後、内海(野間)に逃れて来た源義朝を暗殺した長田氏はもともとは源氏に仕えてました。
主殺し、ですね。

ここの辺りに三つ柏さんのお家の家紋の秘密があるのかもですね。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BC%98
平 家弘(たいら の いえひろ、生年未詳 - 保元元年(1156年))

平安時代末期の武将。伊勢平氏の傍流平正弘の子。母は主計允佐伯貞義の娘。官職は従五位下右衛門大夫。

一族は平正度の弟正済の流れを汲み、信濃国に高田郷・市村郷(水内郡)、麻績御厨(筑摩郡)、矢原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。

                       ヲイヲイですね
                       ヒバリさんのお家にも繋がるのかもですね

家弘は京において崇徳上皇に近侍し、
久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。
仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。

こうした縁から保元元年(1156年)の保元の乱においては、一族を率いて崇徳上皇方に参加。
藤原頼長の行った除目によって源為義とともに判官代に任ぜられ、春日面の門の守護にあたる。

味方の敗戦が決まり総崩れとなると、子の光弘とともに上皇を警護して戦場を脱出。
この際、上皇の後を追って出家しようとしたが、上皇の反対によって思い止まったという。

最後は京都大江山にて、子弟とともに源義康(足利尊氏の先祖)の手によって斬首されている。

                        へぇ〜



平良兼流の長田氏は抱き柏紋・丸に剣柏紋・丸に並び柏紋使用。


今からジムに行って来ます。
2時間後に休憩して
またジムにサッカーを見に行きます。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月11日 12時29分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


いろいろ齟齬のあるお話をつらつら書きます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%95%B7%E7%9B%9B

三つ柏さんが「服部氏は平忠正の子孫じゃないか」と初めの頃にお書きだった服部氏ですが


上記URLの終わりあたりでヒットしました。


以下コピペ:
平長盛(たいら の ながもり)

平安時代末期の武将。平忠正の長男。
弟に忠綱、正綱、通正がある。長盛のみ父の偏諱が含まれない名前だが、「長」の字は父が仕えていた藤原頼長からの偏諱(「盛」は伊勢平氏の通字)と考えられる。


兄弟:
(伊賀服部氏祖?)長盛、
忠綱、
正綱、
通正、
維盛、
中根正持?


子:
長光、宇都宮業綱室


崇徳上皇に親しく仕え、その北面・蔵人となり、新院蔵人と呼ばれた。

保元元年(1156年)の保元の乱においては、父や三人の弟とともに上皇方として参戦。
敗戦に伴い、一家全員捕虜となり、従兄弟の平清盛の手によって処刑された。

                 この時、清盛は1118年生まれで1156年の事件なので清盛38歳です。
                 清盛が38歳で、清盛の従弟でしょうから
                 長盛は30代半ばあたりでの斬死でしょうね。



一女は宇都宮業綱に嫁ぎ、平頼綱の母となったという(『系図纂要』)。

                 コレ、びっくり!
                 平頼綱は鎌倉幕府で恐怖政治をやって執権北条貞時に暗殺された人です。

                 平頼綱は9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。


                 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1
                 平頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、
                 実際は平姓関氏の流れとする。


                     関氏は平資盛が事件を起こして伊勢に追放になってた時に世話をしてもらってた平家一族。

                     鈴鹿の関の主人=平信兼=の息子が山木兼隆で実は北条政子の婚約者だった。
                     山木兼隆は頼朝に血祭にあげられて殺された。


                 平頼綱は伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。


                     北条家が鎌倉幕府の執権になったから平頼綱の家は北条家家臣ということになった?
                     北条時政は力のあった平家の一族の山木兼隆に娘の政子を嫁がせたかったのに。


                      ↓ ココ

また後世、江戸幕府幕臣の服部氏は、伊賀国に住んだ長盛の一子長光の後裔を称している。

                      これ、ビックリ!
                      江戸幕府幕臣の服部氏は伊賀の半蔵系か伊勢鈴鹿あたりの出身の政信や中保次系かと思ってました。


そうすると徳川幕府の幕臣の服部氏には平忠正系もいた?
では調べないといけないですね。
ヲイヲイ
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月11日 12時51分10秒 ) パスワード

江戸末期の幕臣で服部と言ったら  皆さん半蔵の家と同じ「車に並び矢紋」をドラマではつけてますけど
これは単に時代考証の担当者が手を抜いた?


服部貞勝は幕末にゴローニン事件を解決した人物で
ご先祖さまは  あの!伊賀で神職だった服部貞信です。伊賀の呉服明神の。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%8B%9D

服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))

江戸時代後期の旗本。
松前奉行、勘定奉行などを務めた。

旗本服部貞徳の長男。

母は酒井忠香の養女。

通称は久太郎、頼母、久右衛門。
官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。

室は高家旗本の戸田氏朋の娘。
子女に服部貞陽ら。


中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。
1786年(天明6年)3月22日、将軍・徳川家治に御目見[2]。
1794年(寛政6年)5月22日小姓組となり、
1796年(寛政8年)10月4日に家督相続、1400石を継ぐ[2]。

1797年(寛政9年)12月18日に中奥番士[2]、
1805年(文化2年)御徒頭、
1806年(文化3年)西丸目付、
1807年(文化4年)本丸目付と昇進し、
1810年(文化7年)、駿府町奉行となる。
1812年(文化9年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。


翌1813年(文化10年)9月、前任者より引き継いだロシアとの国際紛争「ゴローニン事件」の解決にあたる。


1816年(文化13年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。
1819年(文政2年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務。同年6月に行われた小判の吹替えにより同年末迄に銀相場が高騰し、世間の奢侈的な風潮の中、幕府の支出増加による財政悪化を解消するため、貞勝の上申により出目(改鋳利益)獲得を目的として小判に遅れること1年後、丁銀の貨幣吹替えが行われた(文政丁銀)。

但し貞勝は同年9月、小普請組支配となっている。


1824年(文政7年)死去。
墓所は服部氏の領地であった赤堤村(東京都世田谷区赤堤3丁目)の西福寺。
同年に子息の貞陽が建立した、幕府侍講成島司直の撰文、戸川安恵揮毫の墓碑が残る。


寛政重修諸家譜では服部貞信の家は平氏で平貞盛の子孫で服部家長の末って申告してるのに。
で、家紋は  卍紋。


貞信の家もやっぱり平家一族なのは確かなのでしょうね。
半蔵の家は半蔵亡き後、正就・正重  子と孫の代で失脚していきますから

貞信の家としては、目の上のたん瘤であった半蔵の家が幕府から追い出されたから
貞信の家が徳川幕府内にとって「伊賀の服部家の頭領」になった  乗っ取った  つもりだったのかなと思いました。


ややこしいハナシをごめんなさい。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月11日 13時13分14秒 ) パスワード

平忠正(清盛の叔父)の妻の1人に伊賀の服部系の女性がいても少しも不思議じゃないですよね。
この女性が長盛を産んだんじゃないかと思っています。


当時、伊賀は誰が持っていたか?清盛が相続したのは確実だと思っています。
そして管理運営してたのが平貞能の6男の伊賀の服部家長だったんじゃないかな?


長盛の子、長光は伊賀で保護されていたのかも、ですね。
このあたりの幼い子供達が伊賀で育ったというのはアリ得ますよね。


それで戦国+江戸時代、半蔵の家に遠慮して平忠正の子孫の服部氏、ということにしたのかも。
血は伊賀の服部の血をちゃんと母方で引いている、とかで?
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月11日 14時51分39秒 ) パスワード

長盛 and/or 長光  の生母が本当に伊賀の服部家長の娘または関係者だったかも。
そうすれば  服部貞信の先祖が  平氏で平貞盛の子孫で服部家長の子孫  というのは成立します。

父系で 平忠正の子孫だし。


ということで幕臣の服部氏は平忠正の子孫というのは成立可能。


服部貞信の申告は 虚偽ではなかった  となります。


以上がどこかで確認できれば遠江との関係がかなり明らかにされるのに。


それにしても過去数年間は伊賀の呉服明神の神職の服部貞信を何度も何度も読み返していたのに
ワタクシ的には  アヤシイ人  扱いでした。
ごめんなさい
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月12日 11時03分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、梅雨のあけた正に真夏の炎天下、芝刈りに行き、身心のリフ
レッシュならぬ、へとへとの疲労、帰って来て、寝てしまいました。
 それでも、まだ蘇る体力(老いぼれる前の)は残っておりますので、た
っぷり睡眠を取った後の本日、気分は爽快であります。

 サッカーも、日本が惨敗後は興味が薄れてしまい、トーナメント制は
運やミスが大きく作用するので、やはり総当たり戦の方が本当の実力が
証明されると強く思うようになりました。有名なサッカー選手の所属す
るチームも次々に脱落していき、それも興ざめの一つとなっております。

 さて、酔石亭主様の推論に基づいて、私も「試論」を展開しておりま
してが、源平の権力闘争の時代で、方向が折れてしまいました。それは
それで考慮する必要もあり、別の「試論」として試みたいと思います。
特に宗清関係と義朝暗殺の長田氏関係であります。

 内田旭氏が言うように、浜松の羽鳥庄が新熊野神社に寄進され、それ
に伴って、あるいは源平の争乱を恐れて、羽鳥村のハトリ神の信者は、
羽鳥村を退去した……? 内田氏の言うように、南西約6キロの畑谷
地区に移住した……? とすれば、その根拠はどこにあるのか……?

 以下は私の推論でありますが、一部は北2キロの善地村に移動したの
ではないか、一部は南2キロの常光村へ移動したのではないか、それは
善地と常光に服部氏はある程度まとまって存在しているからであります。
ここまでは、古代系服部氏の試論であります。
 古代史系の推論にしては、決定的な欠点があります。それは個体数・
世帯数が少なすぎるということであります。100年で4倍に増えると
すると、200年では16倍に、300年では64倍に、400年では
256倍に増えていいはずであります。1000年では無数に……?

 ここからは伊賀服部系の試論となります――
 @服部貞信系については、地元の情報が少ないので、深掘りのしよう
 がありません……ただ一つ、神君伊賀越えの後、家康の浜松に召され、
 采地として160石を賜っている。この采地が浜松のどこか特定でき
 れば、新たな展開ができるのですが……。

 A服部半蔵や服部中保次系の場合は、その采地ははっきりわかってお
 ります。

 B服部正信の場合は、采地は浜松には違いないのですが、はっきりと
 は特定できておりません。

 C服部貞信は、確かに浜松には5〜6年おりました。従って、何らか
 の痕跡が残されていてもいいはずなのですが、今のところ全く見つか
 っておりません。

 いずれにいたしましても、家康の浜松時代に仕えた伊賀系服部氏の、
正尚も含めての4系統の服部氏、この浜松においてその後裔がどのよう
に残り、地元との関係を残して来たかは、さらに今後も探求の課題であ
ります。
 但し、その中でも中保次系はかなりの情報が残されていますし、私も
さまざまな状況証拠を入手して来ました。

 あを様の納得できないこだわりの部分でありますが、私の持論としては
――

 @「丸に三つ柏」紋は、究極のところ、摂津の神服神社に関係するか、
 善地で通婚している永井氏(長田氏)に関係するか、どちらかだと思い
 ます。この永井氏の動きがわかれば謎は一気に解けます。

 A「服部」姓については、摂津服部連系か、伊賀系かのどちらかだと思
 います。伊賀系のなかでも、この地に旗本として根をおろした服部中
 系の可能性は一番高いと思っております。

 いずれにしても、今の所、状況証拠ばかりで、決定打というものを得
ておりません――

 善地という場所柄ですが、徳川時代は長く天領でありました。
服部正信の弟・政重の子・政次が今切の関所番になり、その後正保3年
(1646年)に亡くなりますが、ちょうどその頃、善地は4村に分けら
れたという記録があります。つまり善地は元はかなり大きな村であった
けれど、政策的に4村に分けられたということになります。その割には
元の"大"善地についての記録がほとんど残されていません。ある意味、
謎の多い村でもあります。

 天領というのは、重要な土地ということで、主目的としては地理的な
要所、守備的要地が多い訳であります。天竜川の西側(浜松側)というこ
とで、対今川、対武田であります。そこに武将がらみの者を配置する必
要性は十分にあったと思います。特に遠州忩劇の1568年頃から始ま
って、1582年の天目山の戦いによる武田家滅亡や、本能寺の変によ
る織田家滅亡までは要(かなめ)であった。忍将は情報収集・警備のため
最前線の要所に配置された――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 07時20分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<16>
>1167年の頃、この地方で何があったかといいますと、
>「1160年に羽鳥庄が京都の新熊野神社に寄進された」という記録が残っております。
>つまり、服織神社の祭神も、今までの氏神系から、熊野系に変わってしまったのではないかと推察されます。


1160年に羽鳥庄が京都の新熊野神社に寄進されたということで
平家繋がりは直接間接バリバリに明白ですね。


ここの所をもう1度原点回帰ということで(笑)しつこく調べてきました。

http://imakumanojinja.or.jp/
新熊野神社:いま くまの 神社

 当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。

 後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。

 当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。
その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。



 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。

 そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。

 当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。

 その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。

 それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、
現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。


ということで
平家時代   平清盛重盛父子
江戸時代   後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)の庇護は遠江にも及んだ?
に関係しますね。


つい最近まで服織神社はかなりの力を持っていたのでしょうね。
松島さんは何かご存じではないでしょうか?
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 07時57分47秒 ) パスワード

服部権大夫左京亮政信の家屋敷が分からないお話について:


まず服部信発のぶひでが尾張にいた
織田信秀と手切れになり尾張国河内に蟄居
これで名前をノブヒデから改名したわけですね。織田と同じ名前なんかイヤだ、と。

             https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-10744964108.html
             尾張国河内郡とは服部家ホンヤさんの領地です!!!
             知らなかった・・・・大恥
             尾張8郡の1つでした(当時知多郡は尾張内でなく三河内だったんですって)

                       管理人さん、感謝です

             つまり服部政信の家はやっぱり元々は服部家ホンヤさんの弟か一族ですね


服部(政秀あらため)政光の時に今川と戦い岡崎にて家康に召され仕え
のちに遠江国河の内庄において3000貫の地を給う
遠江国東村城を守る


政信の父である政光(のちに政季にも改名?)小田原の役に出て武蔵国太田庄に於いて3000石
関ケ原の時に上杉景勝戦に加わり
近江国長浜の内に1000石を加増された。つまり4000石
大坂の陣で京都で没。


    この人の2子が政信と政重。

次に続く
瞬殺がコワイので。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 08時23分04秒 ) パスワード

服部政信      家紋は矢筈車
武蔵国の父の采地ともらった500石で4500石ではあったが
弟の政重に1000石分ける。つまり政信は3500石。
慶長24年?に遠江国今切の番所番になり更に500石を加増され
采地を敷智郡に移され
開墾して合計4290石になった。


           今切で没


政信の子・政長は父より先に没


政信の子・政久は浅草本願寺の長敬寺に葬られた


政信の子・政久あらため信利
元和20年   上総国夷隅郡に采地を移され弟(服部信成)に1500石を分け、2790石に。


こうして服部信利の直系の家は絶えた。



もう1人の息子の分家を作った信成の嫡流の家は上総国夷隅郡岩熊で代々続いた。
もしかすると存続しているかも。



政成の次男=信親=の家は江戸城で勤めてたようです。
代々、市ヶ谷の浄栄寺に葬られている。


この家の家紋は源氏車の内矢筈・16葉八重菊・上藤
           家紋は源氏車の内矢筈・揚羽蝶・16葉菊
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 08時43分03秒 ) パスワード

服部政信の弟・服部政重の家について


政重は父の采地=近江国長浜に1000石を兄から分けてもらい
元和5年今切の関所番になり
采地を遠江国敷智郡に移され
寛永元年今切に於いて死す。45歳。法名 宗仙。


政重嫡男政次は寛永元年今切の関所番になり正保3年死す。41歳。


服部杢之助政重の家は
承応3年2月23日(1654年)に御書院の番士になったものの後に
3代目の服部兵吉杢之助政勝の代で(失心して)絶えた。=狂気で禄を召し上げられた

この人は大久保四郎左衛門忠重の次男だった。1647年13歳で服部家の家督を継いだ。


            20歳あたりで失心して仕事が出来なくなったということはイジメに遭ってた?


            家紋は矢筈車
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 08時58分14秒 ) パスワード

つまり服部政信の家はレス<28>のように


政信の4男・信成の家が上総国夷隅郡岩熊で
信成の2男・信親の家が東京で存続しているかもですね。



服部政信と政重の墓は今切あたりにあるんでしょうね。


でも政信の家は服部家ホンヤさん系ですから伊賀伊勢系で幕臣と言えることは言えますね。
でも長上郡の名家とは言わないですよね。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月13日 09時23分47秒 ) パスワード

とは言え
服部信成の妻は川口久助宗次の娘ですよ!
その子・信親の妻は朝比奈左兵衛利昌の娘ですよ。今川家の重臣です。


ものスゴイ名門ですよ。


川口家と言ったら家康のお祖母さまの何度目やらのお輿先の一族ですよ。
この人は美しい故に男から男へと結婚させられた華陽院さまです。



                       いやいやいやいや
                       こうしてウイキをしてるとヤッパリ父方でも繋がります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%AE%97%E5%8B%9D
川口宗勝

時代
戦国時代 - 江戸時代初期

生誕
天文17年(1548年)

死没
慶長17年3月4日(1612年4月4日)

別名
通称:久助

幕府
江戸幕府 旗本

主君
水野信元→柴田勝家→織田信長→信雄→豊臣秀吉→徳川秀忠

氏族
川口氏

父:川口宗吉
母:小島信房娘または織田信長伯母


福富平左衛門直貞娘


宗信、宗之、宗重、宗利、宗澄、宗政



川口 宗勝(かわぐち むねかつ)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。徳川家康ははとこに当たる。


宗勝の祖父・川口盛祐[1]は一族の川口宗持の養子となり、
大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り宗勝の父・宗吉を儲けた。

於富の方は水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、
また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。



天文17年(1548年)、川口宗吉の子として誕生。

当初、宗勝は水野信元に仕え[2]、永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる[3]。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える[4]。本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立したが、増田長盛・長束正家に留められたため心ならずも西軍に属した。安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。慶長11年(1606年)、徳川秀忠に許されて青菅[5=佐倉市]2500石を賜り旗本となった。

慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。


                  久助宗次さん
                  そんなに立派な人だったの?
                  知らなかった〜!


で、青菅[佐倉市]ですが
堀田家ですよ。

春日局が後妻に行った家です。

堀田といえばワタクシ的には南朝方で尾張出身の堀田だと思っています。
この家から尾張藩に養子が来て現在2代目です。

                  次は養子を迎えることになっているけど
                  いまの尾張徳川藩主さんはこの習いを守るのかどうか?


やっぱり日本ですね。
アッチもコッチも繋がって父方だけじゃなくてやはり母方にも繋がってしまいました。
あはは


また振り出しに戻りました。
平忠正の子孫が伊賀服部氏となって幕臣となったというお話。

服部政信の家も服部貞信の家も該当ですね。
こうして考えていくと長上郡の名家の服部家とも言えちゃいますね。困
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月13日 17時12分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松地方では、今日から三日間、お盆となり、それぞれ関係のある初盆
の家を回ります。「遠州大念仏」というものがあって、昔からの家はほぼ
大念仏を依頼し、庭先に招きます。もちろんお金も接待も必要となります。
太鼓をたたく動きが独特で、跳んだりはねたり、また笛の音がいかにも
お盆という感じで慰めの旋律を奏で、大きな銅鑼の音は祇園精舎の鐘の音
のように、遠くしじまの中に響き渡ります。確かに霊の供養にふさわしい
催しなのかも知れません――

 そんなことで、これから私も盆供養に何軒か回りますので、帰りました
らまたパソコンに向かうつもりです――
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月14日 07時40分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猛暑到来!――ということで、昨日あたりから7月下旬まで、35℃
前後の気温が続くという。所によっては40℃を超える所も……冷房な
しではもはや暮らせない、熱中症の危険度が高い。
 古代にもこのようなことがあっただろうか。海進・海退があったとい
うことは、地球的規模の温暖化・寒冷化があったということになる。
 暑ければ、人はやはり涼しい森林や高原や山や川沿い、湖の近くに移動
するのだろう。あるいは、北へ向かう……。寒冷化の場合は、南へ向かう
……これはある程度想定できる心理であります。
 本日は、耐暑訓練で芝刈りに行ってきます。どれだけ自分が厚さに耐え
られるか……日頃、よくサウナに入って、汗をタラタラと出す訓練をして
いますので、その効果をみるのが楽しみです!

 あを様の提起された、保元・平治の乱等、源平の権力闘争の中で、義朝
の暗殺が起こりました。この事件は、ある意味で空前絶後の事件であった
はずであります。規模は小さいけれど、本能寺の変のような唖然とする
出来事でありました―あったはずであります(でも本当のことは、脚色によ
ってわからなくなっていると思っています)。
 そんなことで、長田一族の盛衰について、改めて見直しております。色
々な資料、箱柳永田様からの情報も合わせ、もう一度考察・推理してみま
す。何故ならば、善地におきましては、永井氏(長田氏)が遠江で一番多く
まとまって住み、併せて服部家も一番か二番か多く共存している。その謎
を解くことこそ、ここに住む服部そして永井氏の謎を解くことになる……
そう考える訳でございます。長田氏には、想像以上の歴史と深い謎が秘め
られております――
 
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月16日 12時21分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:厚さ→暑さ

 猛暑に何とか耐えておりますが、パソコンに向かってもすぐ眠くなり、
困ったものです。行動力・意欲も落ち、ただ涼しい所で昼寝の連続とい
う具合であります。その内、湿度が下がってくると思いますので、そう
なれば、少しは過ごしやすくなると思います。
 お盆も終り、昨日の夕方には初盆の家庭では玄関先で送り火をする姿
が見られました。8月の盆の京都の送り火も同じ意味合いでしょぅか。

 さて、長田氏について今取り組んでおりますが、なかなかそう簡単に
は行きません。
 というのは、一つ一つの情報の信憑性がどうであるのか、その確度と
いうものを、いちいちチェックしなければならないからです。それは、
もちろん他の氏族を調べる場合にも言えるのですが、長田氏の場合は、
それに輪をかけて錯綜していると言えます。
 その理由は、次回に――
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月16日 14時24分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

熱中症には気を付けてくださいね。
夏の日本ってものすごく暑いんですよね   40度あたりにまで上がってしまいます
これは赤道近くのシンガポールやインドネシアより暑い=気温が高い=から驚きます。


    アメリカの砂漠の暑さは湿度が低いからまだ住めますが   45度を越えますが日陰は体感気温がちょっと下がります
    日本の暑さは湿度が高いので体感気温が余計に高くなります。


長田氏については数年前に古代からいろいろ調べたりしましたが
武家の長田氏は平氏なのだろうと思います。平家=伊勢伊賀の平氏=とはちょっと違う桓武天皇の子孫の平氏。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F

丸に三つ柏

長田氏
平安時代にかけてあった武家。
本姓は桓武平氏の一流である良兼流あるいは良正流[1]を汲む氏族。


良兼の孫致頼の代に長田を称して、尾張国に勢力を張り、尾張平氏とも呼ばれた。平治の乱において敗れた主君の源義朝を暗殺し、平清盛に寝返った長田忠致がいた。

歳月は流れて、義朝の子頼朝が関東で勢力を拡大すると、亡父の仇を討つべく討伐の将を派遣した。しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、頼朝は許さずに忠致は子の景致とともに粛清され、長田氏嫡流はここで途絶えた。



根拠地
尾張国知多郡野間庄 (尾張国)     野間村(野間町)、美浜町大字野間(国際空港のあるのが美浜町でしたよね

長田 長田屋敷       美浜町大字野間字新松下 長田屋敷跡   碧南市長田町(三河国碧海郡大浜郷(大浜氏))

伊勢国
など


一族
平姓水野氏(武家)
永井氏(武家)    長田親致(忠致の兄)の後裔と称した徳川氏譜代家臣の家門。    次に書きます
大浜氏(武家)
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月16日 14時36分43秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F

永井氏
松平氏・徳川氏に仕えた。

黒餅こくもちに鉄線   (黒地なのは遠くから良く見えるように、だそうです)


桓武平氏良兼流の致頼を祖とする長田氏の系統で、平安時代末期に主君源義朝を弑した長田忠致の兄である親致が永井氏の祖である。右近太夫直勝の代に、主君徳川家康の命により、主君を弑した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓された。

直勝は譜代大名となり、次代の尚政が老中に就任する他、尚政の子弟が分家を興すなど隆盛の気運にも恵まれた。

ところが1680年、直勝の曾孫・信濃守尚長が志摩鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、永井宗家は一旦改易となる。だが、尚長の弟・直圓が御家再興を許され、大和新庄藩主として復帰した。以後の永井氏は明治維新まで存続した。

また、幕末期に将軍・徳川慶喜に付き従い活躍し、明治政府の元で開拓使御用係、左院小議官、元老院権大書記官などを務めた永井玄蕃頭尚志は旗本家の出身。

永井荷風らを輩出した愛知県の豪農・永井家は安土桃山時代の頃に分かれた分家にあたる。
                父親は愛知県出身で荷風は東京生まれ
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月17日 06時29分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。長田氏・永井氏、永田氏について、あを様も
過去から何回か調査されておられます。私も、改めて情報の整理を進め
ておりますが、出だしのところで戸惑っておりました。それも何とか頭
の整理できましたので、進めてみたいと思います――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月17日 09時37分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「出だし」

はい。
ここを突き詰めると  日本の家の歴史は英雄譚・伝説・神話から始めないといけなくなって  ワケ分からなくなります。

日本最高の家格の天皇家さえ始まりから言い出すとお隣の国の方達がおっしゃる「半島で食い詰めて東海を渡った高氏一族の末」
になってしまいます。


ま、永井直勝に焦点を当てて、一応、分かっている長田親致の子孫で良いと思います。

そして長上郡の永井氏・永田氏は
恐らく  一部は長田忠致の子孫  一部は碧南の長田親政の子孫一族  一部は改易に遭った永井尚長の一族  このあたりの関係者  かな?と。

その中で、特に永井尚長の一族あたりが一番可能性があるのかな、と。


碧南の長田親政の子孫の一族が三つ柏紋を使用しているなら、碧南系かなと。
碧南でしたら西三河ですしね。
安城の隣だから家康の祖父あたりから関係があったと想像できますし。
松平家でなくても松平家の親戚の酒井家と親しかった可能性もありますし。

          三つ柏の家紋に家系の秘密が伝えられていると思っています。
[39]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月17日 15時49分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の分析と推理は、だいたい当ります。
 忠致、親致の子孫、どちらも当っていると思います。
 尚長についても、余り情報がありませんが、妻が青山宗俊の娘である
ことがわかりました。つまり浜松藩の初代藩主であり、小林へ蟄居した
青山忠俊の長男であります(こちらにも内藤家がありますが、この内藤
家は、聖徳太子の時代に入鹿の乱を避けてやって来た秦河勝の五男貴平
の末裔であり、青山家から嫁が入っております)。
 親致後裔と言われる永井直勝も浜松に住んだわけで、その一族郎党も
当然浜松に居住していたことは間違いないことだと思います。

 私がスタートでもたついたのは、磐田の中泉代官所の代官・大草氏の
磐田における祖の永田広正氏、同じく磐田の坂本神社の永田数馬氏、同
じく磐田の「一言坂の戦い」で"鍋割"の名刀を持って戦った永田正吉、
この三者について、どういう関係があるのか、はっきりしなかった。
 つまり、永田広正氏というのは、坂本神社の永田系の人間であるかも
知れない。そうすると、全ての前提が崩れるということになる。私の
推理(ストーリー)の前提条件は、大浜から長田広正が遠江磐田にやって
来て、その子がそこの代官になったということでありました。

 『中泉代官所』(磐田市発行)、『坂本神社の話』(坂本数馬著)、『大江
氏興亡三千年』(大江□舟著)、『寛政重修諸家譜』その他、また箱柳永田
様からの情報、あを様からの情報を精査し、総合的に次の結論に達しまし
た。
 つまり、大浜から長田(永田)廣正(政)はこの地にやって来た。子供はた
くさんいたようで、その内の一人が「正吉」。以下、『寛政重修諸家譜』
の大草氏の中の「正吉(まさよし)」の項に書かれているとおり……。
 坂本神社の永田氏は大江氏直系であることがわかりました。

 次回は、もう少しわかりやすく書いてみます――

 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月18日 02時47分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

楽しみに待っていますね。


>妻が青山宗俊の娘

これがキイ・ポイントかもですね。


青山氏は服部家と仲が良かった
その青山家と永井家が繋がっている

ということは  青山 ⇔ 永井 ⇔ 服部  この図式が完成しますね。
そうすると長上郡で服部家と永井家が親しかったのは当然になりますね。

     ただし青山家と仲の良かった服部家は  伊賀の半蔵系服部家  ですから
     「縁」に繋がるということで他の永井家や他の服部家は親しかった
     という感じになりますか。


とにかく長上郡の永井家と服部家は関係があったというのは分かりますね。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月18日 14時09分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の推理、当然の帰結であると思います。

 さて、磐田新貝の永田広正でありますが、磐田市発行の『中泉代官所』
によると、中泉代官を何代にもわたって務めた大草家の祖という。

 これについて、『寛政重修諸家譜』の大草氏を調べてみると――

 「大草 太郎左衛門政薫のむとき罪蒙りて家たゆ。寛永系図にもとは
  永田と称す。正次が時、大草にあらたむという。大草半次郎政春が
  たてまつれるこの家の系譜に。もとは大江氏たり。因幡守廣元が末
  流長田喜八郎廣正、はじめ三河国大浜に住し、のち故ありて、遠江
  国山名郡新貝村にうつり、藤原氏となり、長田を永田とあらたむ。
  政吉はその男なり。その養子政次、実は大草次郎右衛門義正が男た
  るにより、大草にあらたむという。今按ずるに、家伝の説をもって、
  長田および永井の譜に参考するに、いわゆる廣正は喜八郎白次、或
  いは喜八郎、のち甚右衛門廣正といい、其の先は平氏良兼が流れに
  して、長田左衛門尉親致が後胤なり。廣正に男子二人あり。長男を
  平右衛門重元(直吉)、二男を八右衛門白吉(重吉)という。重元が男
  伝八郎後右近太夫直勝にいたり、東照宮のおおせにより大江氏とな
  り、永井を称し、白吉が子孫は相継いで今猶平氏にして、長田を称
  す。」
  
 寛政重修諸家譜は、そのあとで、この大草家の家譜において、廣正は
元大江、及び後藤原ということ、及び廣正の子の正吉について疑問を呈
していますが、長田家の複雑な経緯・事情を考えると、カムフラージュ
的なところはやむを得ないものであったと思われます。

 次回は、その複雑な経緯・事情について記してみたいと思います。

 なお、正吉については寛政重修諸家譜には長く説明記載があり、一言
坂の戦いでの活躍――いわゆる「鍋割」と呼ばれる兜をも切り割った刀
――での奮闘も書かれております――

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月19日 02時59分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大草太郎左衛門政薫

この人物については既に名前が出てますね。
八丈島に流刑になった人。


ネットサーフィンで見つけました:下の方に青山さん、服部さんのお名前も出て来ます。

ということで
https://blog.goo.ne.jp/kamokamo312/e/b28fe65ebac956a6b1eae15fcb836a4a
長野や岡山の名代官だった大草太郎右馬政郷の父上。

政薫父子関連をコピペさせて頂きます(管理人さん、感謝です)


1778年生。
大草太郎右馬政郷の父・太郎左衛門は、わずか15歳で累代の官職と共に多額の借財を受け継ぎました。
それが遠因で48歳のときに八丈島送りとなります。


                元禄12年に赴任した第12代倉敷支配にも「大草太郎左衛門 正清」の名が見えますから、
                代々の代官職を受け継ぐ中で、大草家は借財を重ねたのでしょうか……


息子である政郷も、父の罪に連座して追放の身となりました。

彼は健気にも直ちに役所に願い出て父のいる八丈島へ赴き、九年間父と辛苦を共にしました。
その孝養が賞せられ、寛政10年、父子ともに罪を赦されます。

                             苦労したからこそ名代官になったのかもですね。



コピぺを続けます:「もなかのかわず」さんからのコメントです

                       古文が読みにくいのでちょっと勝手に編集。
                       どこで切るのか分からないけど三つ柏さんの方がお得意ですね

以下コピペ


大草太郎左衛門 (inonaka_no_kawazu)
2012-04-22 22:27:04

倉敷市史、高価で見れませんですがKamoKamoさんブログ
興味深く拝見させて頂きました。
私、読みました古文書抜粋を掲げて見ます。


大草太郎左衛門政薫實子惣領

一 十代目 大草太郎右馬政郷
寛政二戌年(一七九〇)二月二十三日 於評定所依 父の御咎中 追放被仰付
幼年に付 十五歳迄親類へ御預被 仰付候旨 
大目付山田肥後守申渡 根来平左衛門  
手前に罷在候然處
父太郎左衛門被遣候嶋へつ附添  罷越 

先途見届申度蒙御咎候身分にて
参々
奉恐入候得共奉願度段
根来平左衛門
大井巳之助
伴定五郎
右三人へ相頼
右のもの共より同月二十五日 奉願候處
三月十四日願の通被 仰付候旨


青山大膳亮殿御附札を以 被仰渡候段右の者                     アオヤマさん
頭支配より申渡候

同年(寛政一七九〇)四月十五日町奉行初鹿野河内守
於御役宅願の通被仰付候に付出船迄
籠屋敷へ被遣候段
同人申渡候同十六日父一同出船仕

翌亥年(寛政三年一七九一)四月晦日
八丈嶋着船仕父一同
八丈嶋中之郷に罷在候處
同十一未年(寛政一七九九)六月出嶋仕
同十八日  大目付 池田筑後守宅において 
父一同御咎
御免被
仰付候旨同人申渡
夫より御勘定奉行  於柳生主膳正宅伴  熊吉大井半之助へ御引渡に相成
厄介に罷成
半之助 手前に罷在候処

享和元酉年(一八〇一)十二月四日
於躑躅間  先達て父太郎左衛門に附添
配所へ罷越
孝養行届候に付御咎 御免被成候處
其後の所行も弥奇特の趣に相聞

旧家の事にも候に付 被召出  
御切米百俵被下置
小普請入被
仰付の旨
御老中 御列座 
若年寄衆 侍座 牧野備前守殿 被仰渡 
小普請組堀田主膳支配に入
同二戌年(享和一八〇二)三月十七日
彦坂九兵衛支配被成

同年(享和二年一八〇二)四月九日  於同人宅
寛永以来の系図調
御用相勤可申御用中為御手当年に銀十五枚づつ被下之旨 
牧野備前守殿被仰渡候段同人申渡
於堀田摂津守殿御宅
誓詞被仰付け

夫より御同人
御宅系図
御調所へ出勤仕候

同月十五日於九兵衛宅
寛永以来の系図調御用中小普請御役金
御免被成候旨
牧野備前守殿被仰渡候段同人申渡

同年(享和二年一八〇二)十二月六日
為冥加年始御礼登城仕度段奉願候處
同月二十五日願の通被 仰付候旨
                       読むのが面倒になって来た・・・

戸田采女正殿被仰渡候段
九兵衛申渡

同三亥年(享和一八〇三)正月三日年始御礼登城仕
夫より年々正月三日
登城仕候

文化三寅年(一八〇六)五月二十四日
岩本岩見守支配に罷成

同四卯年(文化一八〇七)七月八日
松平孫太夫支配に罷成

同七午年(一八一〇)八月十一日
土岐信濃守支配に被成

同年十月十四日
於摂津守殿御宅諸家系図調御用数年
無懈怠出精骨折候に付
別段為御手当被下之旨

御同人被仰渡銀七枚拝領仕

同九申年(文化一八一二)十二月二十三日
御用済に付 於躑躅間 諸家系図御用
骨折相勤候に付
被下之旨御老中松平伊豆守殿
被仰渡
時服二金二枚拝領仕候

同十酉年(文化一八一三)閏十一月二十五日
諸家系図副本書継御用 被仰付右
御用中小普請明支配の節

同十一戌年(文化一八一四)十二月十四日
十四日於御右筆部屋縁類御代官被 仰付候旨
御老中土井大炊頭殿被仰渡  信濃国支配仕
                       ここで長野に転勤になって、のちに、大草神社になっていくのですね

同十二亥年(文化一八一五)二月二日
日光御法會御用被仰付候旨
御老中牧野備前守殿被仰渡相勤
                        すごいね

同年(文化十二年)六月二十四日
右御用無滞相勤候に付 拝領物被仰付候旨
御老中青山下野守殿被仰渡                アオヤマさん
時服二金一枚拝領仕候


同年(文化十二年)八月二十日 於躑躅間 
支配所への御暇被下置
時服二拝領仕

同十三子年(一八一六)閏八月十九日  於躑躅間支配所への
御暇被下置時服二拝領仕候

同十四丑年(一八一七)九月二日於躑躅間
支配所への御暇被下置
時服二拝領仕

同年(一八一七)十二月二十八日
来す参向の公家衆御賄御用被仰付旨
御老中青山下野守殿被仰渡候段
御勘定奉行服部伊賀守             ココ!ココ!ココ!勘定奉行のハットリさん  ヲイヲイ
申渡相勤

                       疲れた〜  もうコピペのみで

文政元寅年(一八一八)五月
二日於御右筆部屋縁類支配高壱万石増地場所替
被 仰付候旨御老中水野出羽守殿被仰渡若年寄
上村駿河守殿侍座備中讃岐美作国御代官所に相成
同年(文政元年一八一八)五月十日傳奏御用所引拂申候同年
兼て申上置候元御代官所信濃国高井郡栗林村にて空地
場所見立新田検地仕御高入に相成候処右御取箇の
十分一一生の内被下候旨御下知にて同年より年々十分一
頂戴仕候同年(文政元年一八一八)六月十九日於御右筆部屋縁類当地
参向の公家衆御賄御用相勤候に付拝領物被
仰付候旨御老中水野出羽守殿御出座若年寄
植村駿河守殿侍座出羽守殿被仰渡銀十枚拝領
仕候同年(文政元年)七月八日於躑躅間支配所へ引越候に付御暇
被下置候旨御老中酒井若狭守殿被仰渡時服
二拝領仕八月十一日家内一同召連江戸出立九月
十三日備中国窪屋郡倉敷陣屋へ着仕在陣罷在候
然處備中国地先備前国児嶋海附洲の儀陣屋最寄
に付寄々見聞仕候處新開御取立にも相成候はば
莫大に候
御國益と奉存候間追々相糺候處形寛政九年(一七九七)
御代官三河口太忠御勘定西村佐太郎被差遣見分
吟味仕其後御沙汰止に相成候場所にて猶又相糺候処
太忠申上候内代知差上方の儀如何にも存候間御用序
申多々松平上総介家来へ及内談候処一同得心に付
同二卯年(文政一八一九)七月中仕法存殊の趣印状を以申上候処
同三辰年(一八二〇)四月七日名代御代官田口五郎左衛門へ備中国
地先備前国児嶋海附洲新開場見分目論見御用
として被差遣候旨御老中水野出羽守殿へ伺の上
申渡候段御勘定奉行村垣淡路守申渡同年(文政三年一八二〇)五月
相士御勘定佐藤五郎左衛門着に付同月二十九日倉敷陣屋
出立備前児嶋郡御用先へ充分澗水盛用水路等
夫々見分御普請御入用積立罷在候処阿久沢修理
病気に付同人御代官所当分御預所備中備後石見
代検見被 仰付候旨水野出羽守殿へ伺の上申渡候段
七月二十日御勘定奉行吟味役連名の印状至来尤
新開御用中には候え共検見旬に相成候はば佐藤五郎左衛門へ
申入て代検見並自分支配所の検見にも罷越候様別段
御勘定組頭より印状差越候に付九月三日備前児嶋郡
藤戸村出立備中備後石見国代検見仕夫より支配所村々
検見仕同月晦日備前国岡山新開御用先へ着御用
取調候處十月七日御用済に付五郎左衛門一同同所出立
帰陣仕候且同年(文政三年)出府の儀相願候処大久保加賀守殿へ
伺の上願の通出府被 仰付候旨御勘定奉行
連名の印状至来に付同十二月十一日備中国倉敷陣屋
出立同二十九日江戸着翌晦日登
城仕着御届申上同四巳年(文政四年一八二一)正月七日於羽目間箱
肴献上参上候 御目見仕候同三月二十七日於躑
躅間支配所への御暇被下置候旨水野出羽守殿
被仰渡時服二拝領仕候同年春出府中申上置候
支配所讃岐国小豆嶋直嶋の内空地の場所新開
の儀見立新田の儀に付検地御高入の上は御取箇
の十分の一一生の内被下候数例も御座候に付此度の

見立新田の儀も同様被 仰付候儀にも御座候はば
右十分一被下候儀は 御免相願度外同役共と
違い莫太の
御仁恵を以廃家御取立被成下加の追々結構当
御役迄被 仰付候身分に付心力の及び候丈は粉骨
砕身仕聊たりとも 御道筋第一に御奉公仕度
心願に御座候間別儀を以内願の通御取調方も
御座候様仕度旨御勘定奉行へ申立置候處
同年(文政四年一八二一)六月四日右新開御高入の上御取箇の十分一
被下候儀 御免相願候え共十分一の儀は仕来
の儀に付御高入の上は十分一可被下候尤右申立
の趣は水野出羽守殿へ申上置候段御勘定奉行
申渡候旨名代御代官川崎平右衛門へ御勘定組頭
守屋権之烝申達同五午歳より十分一頂戴仕候同年(文政四年一八二一)
阿久沢修理病死に付同人元御代官所当分御預所
石見備後備中国私当分御預所に被 仰付候旨水野
出羽守殿被仰渡候段名代御代官田口五郎左衛門へ
勘定奉行村垣淡路守申渡同九月朔日右当分
御預所石見備後国は大岡源右衛門御代官所当分
御預所備中国は私御代官所に被 仰付候旨水野
出羽守申渡同十月二十八日阿久沢修理より郷村受取
同十二月二十七日大岡源右衛門へ郷村引渡申候同年(一八二一)
九月備中国地先備前国児嶋海附洲新開場用水
路掘割立會として御普請役元メ並私手附被
差遣候処両人共場所引拂候に付残普請其外
用水路に拘り候取扱被 仰付候旨御勘定奉行
村垣淡路守遠山左衛門尉より印状至来に付取扱
申候同年(文政四年一八二一)十一月二十五日先祖拝領の品々願の通
御返被下旨水野出羽守殿被仰渡候段名代
御代官蓑笠之助へ御勘定奉行遠山左衛門尉
申渡同月(文政四年十一月)二十八日従
東照宮先祖永田太郎右馬拝領仕候品々左の通
東照宮
一 御親筆 一幅
東照宮より拝領物
一 御鞍 一口 木地
一 御鐙 一足 銀桜花象眼
一 御刀 一腰 志津三郎
一 御膳具 一通 御紋ちらし
内 本文御膳具内訳書並御盃其外の御品々も
有之由附都而御模様等迄も悉く明細に語候にて可然
哉に付座取いたし置候間覚え書入可被下候

一 御茶碗 一 外細内海老一疋染付
一 御水指 一 白焼物但倶蓋
一 御重箱 一 一組 梨子地御紋ちらし内皆朱但五重
右の品々名代御代官田口五郎左衛門親類御代官
蓑笠之助へ御渡被下置候に付奉請取永々
宝蔵に可仕冥加至極難有所持仕候
同六未年(文政一八二三)六月四日山田仁右衛門御役替に付
同人元御代官所当分御預所但馬播磨美作
備中国私並蓑笠之助両人立會当分御預所に
被 仰付候旨水野出羽守殿被仰渡候段
御勘定奉行遠山左衛門尉私名代御代官
田口五郎左衛門へ申渡同年(文政六年一八二三)九月右場所川崎
平右衛門御代官所当分御預所松平右近将監
御預所に被 仰付候に付同年(文政六年)十二月十五日夫々
郷村引渡申候同年(文政六年)十月八日本所吉岡町
小野寺熊太郎上地百八拾六坪外御預地
七坪願の通屋敷場所被下候旨御老中
松平和泉守殿被仰渡候旨名代御代官大貫
次右衛門へ御勘定奉行遠山左衛門尉申渡候
同七申年(文政一八二四)十一月十日於御右筆部屋縁類備前国
児嶋海附洲新開場為見分目論見罷越御用向
骨折相勤候に付被下候旨名代御代官古山
善吉へ水野出羽守殿若年寄植村駿河守殿
侍座出羽守殿被仰渡金一枚拝領仕候

                       養父が永田さんで実父が大草って出てますね

元祖 本国三河 養父 永田太郎右馬政吉
生国遠江 実父 大草次郎右衛門義正 長男
永田太郎右馬政吉―大草太郎右馬政次―
大草太郎左衛門政信―太郎左衛門政清―
大草太郎左衛門政英―大草太郎左衛門政永―
大草太郎左衛門政美―大草太郎左衛門政明―
大草太郎左衛門政薫―大草太郎右馬政郷―
一八二六文政九丙戌年五月十日亡
法名 孝徳院殿天澤良榮居士
大草太郎左衛門政修?-大草太郎左衛門政徳?-

草代官の墓碑には、逝去が発表された文政11年7月29日が歿日として記されています。
しかし、寺の過去帳には「幸徳院殿上沢良栄居士 文政九丙戌五月十日 大草太郎右馬様」とあるそうです。


以上コピペ
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月19日 03時14分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部伊賀守とは誰?
ということでマタマタ系図を引っ張って読みました:



レス<22>で書いた服部貞勝が奉行になったりと華々しい人物です。
          幕末にゴローニン事件を解決したり
          勘定奉行になったり。


ということは  大草政薫父子と服部貞勝の時代は重なりますね。



つまり三つ柏さんがお気になさってた  清盛の叔父=平忠正=の子孫のハットリ氏と服部貞勝が繋がりました。

また幕臣だった服部家とも繋がりました。


よって   長上郡の名家の服部氏とは   平忠正の子孫で  伊賀の呉服明神の神職だった  服部貞信  一族???


もう少し確信が欲しいです。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月19日 03時50分51秒 ) パスワード

で、無い知恵絞ってハナシを盛ると


保元の乱で敗れた平忠正が息子達と一緒に甥の清盛に斬られた時
嫡男の長盛は長光を残していた。



長光は伊賀で育てられた。


                  この伊賀の家というのが呉服明神の服部貞信のご先祖さまの家だった?

                  服部貞信は家長の子孫と称している。


どっちにしろ長光は伊賀の服部の関係者でもあったということですね。


                             チャンチャン


これでいろいろ話が合いますね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%95%B7%E7%9B%9B
後世、江戸幕府幕臣の服部氏は、伊賀国に住んだ長盛の一子長光の後裔を称している。


           この幕臣とは服部貞勝のことだったのか。

           確かに「幕臣」と言うと江戸住まいというイメージですから
           遠江在の服部政信や服部中保次の家より格が上だったというイメージですね。



そうしますと服部貞信は伊賀から山城国宇治田原に移ってココで家康の伊賀越えを手伝って
近江国信楽まで従ひて来国次の短刀を給ふ。
そののち遠江国浜松に於いて召されて仕へたてまつり
采地160石を賜ひ
18年関東御入国のとき
采地を武蔵国荏原郡の内に移さる。

慶長5年関ケ原に従ひ奉り
是年(今の系譜  慶長7年4月23日)山城国伏見において死す。

年70。法名 増祐。
彼地の  円龍院に葬る。


こんな感じ。


                        これが三つ柏さんのご先祖さまかも。

                        ということは三つ柏さんとこのホンヤさんは敷居が高いですね。

                        でも確信したいですよね。
[45]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年07月19日 15時52分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貞信の件ですが、あを様の推理された可能性は、ゼロに近いところから
10くらいのところまで這い上がってまいりました。

 それは――

 @忠正や貞盛からの流れが、長盛と家長の娘で合体し長光……貞信……
  貞勝とつながるという可能性が見えて来たこと。

 A貞勝は伊賀守で、大草氏、青山下野守と近い関係にあること。
  青山下野守は青山宗俊の三男の忠重で、浜松藩主でもあり、後、亀山
  藩主にもなっている。この時、市野氏の一人が亀山へ従っている。

 B赤堤の六所神社の祭神は、府中の大国魂神社から勧請したもので、ひ
  よっとしたら、大国魂神社の神紋は「丸に三つ柏」であるかもしれま
  せん。それを引き継いでいる可能性がありますので、近々東京へ出た
  時に寄って確かめて来たいと思います。

 C遠江での160石の所領ですが、服部半蔵、服部中保次、服部政信等
  に与えられた場所を考えますと、浜名湖東岸から、浜松城を挟んで
  その東の小池・石田、その南の川勾(河輪か)のようですので、このベ
  ルト地帯に違いないと思います。それは、警備のため。ひょっとして、
  羽鳥という可能性もなきにしもあらず……。市野氏や松島氏、秋鹿氏
  との関係が何かないか探してみます。

 いずれにしましても、古代服部連の後裔であるということはほぼ言える
のか、また伊賀の平氏系や南朝系である服部氏に関係するかも知れないと
いうこと、これはさらに人間関係の綾や伝承・記録を拾っていかなくては
と思っております――
  
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