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 投稿番号:101639 投稿日:2018年06月30日 10時00分15秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について6

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、別系「平賀氏」との関係
他、全国の「平賀」「木原」「松葉」の地名由来等
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

★藤原冬嗣と同じく良峯安世と同母兄弟である
藤原真夏
異父弟:良岑安世
藤原真夏の妻は・・・三国真人・橘清友の娘
三国氏・橘氏との姻戚関係が見える

火の国肥後の益城「木原」との関連

他系との関連を含め
これからも、調査を進めて参ります。

こちらは
松葉宗益 後裔 平賀氏について5 コメント91より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101634_90.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月30日 11時11分48秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

〉みやちゃんの 今までの話から
どうやら 相良村藤田のことを 言っているらしい
と 見当をつけて・・・

この「見当」とは
〉お代官様の御屋敷
つまり、外城「四浦城」の城代が住した地域の「見当」と言う意味だったのですね!

私の理解不足でした。すみません(..)

がっ!しかし(ー_ー)!!

白石様から「藤田」について教えて頂き、私、大変なヒントを頂いたようです(p_-)

相良村字藤田には「藤田氏」がいらした・・
ここです(p_-)

「藤田氏」は相良藩士分限帳には全く見えません・・
さらに、相良史誌にも「名」が残ってはいない・・・

しかし、私の友人にもそう言えば・・藤田さんはいたなぁ〜・・(p_-)
と思い・・球磨郡内・人吉市の「藤田姓」の分布を調べて見たのです。

https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E8%97%A4%E7%94%B0&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C

人吉市12軒 錦町5軒 あさぎり町8軒 多良木町2軒 湯前町3軒 
相良村3軒 山江村5軒 球磨村・五木村・水上村0軒

人吉・球磨には「藤田家」は38軒 となります。

字「藤田」も存在する「藤田氏」・・・郷士だったのかな?(p_-)
と考え、日本の苗字七千傑様のサイトで「藤田氏」を検索したのですが・・
驚きの結果を得る事が出来ました!!

日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観をご覧ください!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm

菊池隆則 ⇒ 兵頭経高 ⇒ 兵頭経頼 ⇒ 藤田経家 ⇒ 出田経信・・以降「出田氏」

「出田氏」です!!
「出田氏」の名は、私が今、熟読している(p_-) 南藤蔓綿録の「戦国時代」の記述にもバンバン!その名が複数の「出田氏」が登場しています!

ちなみに、分限帳内の宮原村の項にも江戸末期まで「出田氏」の名が記録されています。
宮原村の出田氏は、私の住む「宮麓」にいらっしゃったのですが明治時代まで
「宮麓内」の記録には「その名」が残っていて、
其の後(時代は解りませんが)、別の場所に移っていかれました。

「出田氏」の人吉・球磨郡内の現在の分布を調べると
https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%87%BA%E7%94%B0&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C

人吉市1軒 錦町3軒 あさぎり町1軒 多良木町2軒 湯前町4軒 他地域0軒
人吉・球磨郡内 11軒

出田氏・・人吉以外の分限帳の在郷藩士の名は「一武村」「宮原村」「久米村」「多良木村」に見えますので
「分限帳」の「出田氏」の記述とほぼ一致しています!
がっ!しかし・・これって少なすぎる・・!!

戦国時代以前の南藤蔓綿録の記述はまだ、熟読していないのですが
戦国時代の「出田氏」の記述(複数の方の名)から推測すると、現在の人吉・球磨郡内の出田氏の軒数「11軒」は
あきらかに、少なすぎる・・そう感じました。

「出田氏」は・・嫡流系統以外の方々は「出田」ではなく別の姓を名乗られたのではないか!?
そう考えたのです・・

つまり、全国でも極めて珍しいと言われる「相良藩の郷士の多さ」に
繋がっているのでは?と・

その一例が「出田氏」ではなかったのか? と推測しました(p_-)

「相良藩の郷士の多さ」は、嫡流系統以外の子息の方々が、分家して土地をもらって
半農藩士として、郡内の様々な地域に居住された事が一つの要因で
しかし、その事によって、相良藩では、いざ!と言う時は
様々な系の方々が団結して「戦」に臨んでいた。
つまり、兵力を維持する事が出来た訳ですね・・

「出田氏」と同族の姓は「藤田氏」である・・

つまり、郷士「藤田氏」は「出田氏」の一族ではなかったのか・・?
と、私は推測してみました。

嫡流以外は「別の姓」を名乗る・・
藩主家「相良家」が、最たる「例」だと思います。

残念な事に郷士の方々の姓を知るには資料が必要で「相良史誌」や「分限帳」では確認出来ません。

白石様から頂いたコメントからの調査を進めて
「相良史誌」や「分限帳」では確認出来ない「郷士」の方々の「姓」から、実は球磨の「真実」が見えるのではないのかな・・
と私は、そう考えました。

今回、書かせて頂いた事・・・
実は、以前から考えていた事で、最近強くそう考えるようになっていました。

それは、戦国時代の矢立氏の先祖「矢立後藤左衛門」の名を見たからです。

「矢立氏」・・・少なすぎます・・

しかし、今回も白石様の「ヒラメキ」が私の「ヒラメキ」を刺激して下さいました。
ありがとうございました。

では(^'^)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月30日 15時07分47秒 ) パスワード

さらに追記(p_-)

相良藩士分限帳内の「出田氏」が江戸時代に見える「久米村」なのですが
ここに、「家城氏」の名も見えます。
分限帳は今で言う所の社員名簿と同じですよね(p_-)
つまり、相良社の「久米支店」の社員の方です。

日本の苗字七千傑様の《菊池氏(鎌倉期)》《菊池氏》姓氏類別大観
を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm#001

こちらにも「出田氏」と「藤田氏」が見えます。
さらに
菊池武本、この方から甲斐氏へと進むのですが
《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#002

菊池武本、この方の孫である「甲斐重村」。
「甲斐重村」この方の後裔に「家城氏」が見えます。
(球磨の岡本領主の「岡本氏」・永里領主の「永里氏」も見えます)

つまり(p_-)
相良社の「久米支店」の社員の方には
菊池一族 「出田氏」と「家城氏」がいらした(p_-)
と言う事です。

さらに字「藤田」には藤田氏があった・・・

この流れ・・菊池氏の香りがプンプン致します。

でっ(p_-)
私、初めてちゃんとウィキの甲斐氏の記述を読んだのです(p_-)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%B0%8F

甲斐氏(かいし)は、日本の氏族の一つ。肥後の藤原北家菊池氏流と、越前の守護代甲斐氏の二流ほかが確認される。

肥後の菊池氏の庶家のうち日向高千穂に土着した国人衆で、戦国時代に阿蘇氏重臣となった家系である。
甲斐氏は、鎌倉時代、元寇で活躍した菊池武房の第三子武本(武村とも)に始まる。
武本は家督を甥の菊池時隆と争い、鎌倉に訴訟を持ち込んだが敗訴し、憤激した武本は時隆と刺し違えて死んだと言われる(『甲斐系図』)。
武本の子の武村(またはその子の重村)は、後難を恐れて甲斐都留郡に逃れて住んだ(『甲斐系図』[1])。これが後に甲斐氏を称した由来である。

重村は南北朝初期から足利尊氏に従って、肥後守護にするとの口約束を受けた。喜んだ重村は、家号を「甲斐」と改め、延元3年(1338年)、九州に下向し、大友氏の援軍とともに肥後へ進出した。
しかし、南朝方の菊池武重と合志郡鞍嶽の麓で合戦して敗れ、その夢はかなえることができなかった。
その後、豊後に走り、次いで日向縣(あがた)に土持氏を頼って逃れて、ついには高千穂鞍岡(現、五ヶ瀬町内)に土着して同地の国人となった。
この重村の四世子孫が甲斐親宣である。

阿蘇氏の内証により、前阿蘇大宮司阿蘇惟豊が甲斐氏の先祖と同じように郷里を追われて鞍岡に隠れ住んだ境遇に、甲斐親宣はいたく同情して、永正14年(1517年)、阿蘇惟豊に与力して矢部浜の館に復させ、それにより地位を確立。
敵対勢力を破り、惟豊を阿蘇郡に戻し、以後、その重臣として阿蘇氏を補佐することになった。
天文10年(1541年)、その子甲斐親直(宗運)は、島津氏に内通して阿蘇大宮司に背いた御船房行を益城郡の御船城に攻めて御船城主となり、筆頭家老として軍事外交両面において阿蘇氏を支えた。
以後、甲斐氏は肥後、日向、豊後、薩摩の各地に拡大した。

現在、甲斐姓は、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。

なお、家紋は阿蘇氏と同じ「違い鷹羽」である。親宣は「三つ巴」を用いたこともあったが、これは高千穂神社の神官三田井氏の麾下にあった時、その家紋である「三つ巴」を用いたもので、阿蘇氏の重臣となってからは「違い鷹羽」を用いたと言われている。

ウィキの系図にも「家城誠昌」と言う方の名が見えます(p_-)

★甲斐姓は、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。

★甲斐重村の曾孫の方が「家城誠昌」

さて(p_-)
江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部
この辺りを中心として栄えた「甲斐氏」の系である「家城氏」が
何故?久米村にその名を残していらっしゃるのか・・(p_-)

非常に興味が湧いてきました。

さらに甲斐氏と言えば・・米良氏。
日本の苗字七千傑様の《米良氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm

米良重房、この方の孫となる方に「甲斐重盛」 以降米良姓「甲斐氏」

何だろう・・通字は「重」ですね。
そう言えば・・本姓を源とする「天氏」は米良氏と合流したと言われています。
通字は「重」を使われています。
(p_-)

平川家についての方で少し書いた、
天正十八年「槻木四所神社」の御社殿の中興をされた方の
お名前は・・  『天氏重弘』と言う方でした。

やはり・・こうなるか!(p_-)

白石様が「藤田氏」「字藤田」について教えて下さった事により
「藤田氏」を調べたら・・
結局、今、私が調べていた事に繋がってきたようです(p_-)
まだ、コメントは書いていませんが・・

本当に、白石様、大ヒントを与えて下さって
心より感謝申し上げます。

「藤田氏」についてお伺いしていなかったら
ここまで、理解する事は出来ませんでした!

私の曾祖母の実家の深水家。
先祖は本姓は「源(みなもと)」であり、相良氏に「深水の姓」を頂いたと
言われています。
曾祖母の実家の深水家の御堂には・・西臼杵郡高千穂町のお寺の名が刻まれた鰐口が残っています。(永享五年※1433年)
先祖伝来の物と聞いていますが
ありがたい事に「九州相良の寺院資料」上村重次氏著
にも、曾祖母の実家に伝わる鰐口の写真が掲載されています。
そこには『宮崎県高千穂町から移動』と記されています。

白石様から頂いた「藤田氏」「字藤田」のお話から
私自身、色々調べたら『『宮崎県高千穂町』にようやく辿り着いた・・
そういう気持ちがしています。
(何だか良く解らないのですが・・先祖がすご〜く喜んでいるような気がするのです)

ちなみに・・曾祖母の姪(弟の娘)の方が深水家から「赤星家」に嫁いだ「赤星のおばさん」です(^'^)
私の祖母の従妹になります。

何故?深水家から赤星家に嫁がれたのかな?と以前から思っていたのですが
私・・もしかしたら、
白石様から、本当に凄いヒントを頂いたのでは!!
と感動しています。

この続きは、平川家についての方で検証していきますが
白石様
本当にありがとうございました。
[3]白石さんからのコメント(2018年07月01日 21時03分38秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
今日は 線路の向こうの 15階建てのマンションの 
外壁に無数のひびがはいっているのを
見つけました

住人の方は すでに お気づきなのだとは思いますが
住み続けるには 不気味だろうなあ と 思います

こわいですねえ
[4]白石さんからのコメント(2018年07月01日 21時24分19秒 ) パスワード

と いうことで 気も そぞろです
頭がまわらず ・・・・・

高橋氏
高岡女子の夫(故人)は 高橋氏
私は 球磨にいた 高橋だろうと 勝手に思っていたのですだ
長野から来ているそうです


長野なら 膳氏ではないのか?と おもうのですが 
わかりません

しかし 玄松子の記憶から
静岡の高橋神社をみると

高橋神社

静岡県三島市松本字★松葉298に鎮座
※ 松葉だって!!

祭神の磐鹿六鴈命は 第十二 代★景行天皇の叔父に当たる
※ 景行天皇!! 叔父だから 父か母が きょうだい!!

孝元天皇ーー 大彦命ーー比古伊那許士別命ーーーーー
『新撰姓氏録』左京皇別・和泉皇別によれば、★阿倍朝臣と同祖ともある。
※ 阿部朝臣!! 天氏にも 関係してくるのか?

膳大伴部や膳大伴部直は★武蔵国造や、★安房国造などに現れており、
★若狭国造には「膳臣」の名前が見受けられる。

684年★(天武天皇13年)膳臣一族は朝臣の姓をいただき、
※ 天武の 頃なんですねえ 天智も いたわけでしょう?
  黒田鎌子(中富鎌足)も いたころ
  死んだあとかも しれないけど ・・・

『新撰姓氏録』左京皇別及び『高橋氏文』では天武天皇12年に氏の名を
高橋氏と改めたと記されている。そして、令制の成立後、★阿曇氏と並んで
内膳奉膳(内膳司(ないぜんし)の長官)を世襲し、志摩国・若狭国の国司
に任じられたりしたという。


ひとつ お伺いしますが
ミヤちゃんは はじめの頃
インドではない と 書いておられたように

思っていますが インドでしょうか?

[5]白石さんからのコメント(2018年07月02日 15時31分43秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
高橋神社
いろいろ 見てみました

すると 白髭大明神 の 言葉が。
白髭神は 猿田彦と 思っていましたが
稲荷とのこと

あらかじめ ややこしく ならないうちに
書いておきます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
栲幡千千姫命

高橋神社をみているうちに この 姫の名がでます
栲幡千千姫命を祭る神社

塩沢神社(福島県二本松市塩沢)[1]
椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)[1]
泉穴師神社(大阪府泉大津市豊中)[1]
皇大神宮、相殿右方(三重県伊勢市)
機物神社(大阪府交野市)
高橋神社(奈良県奈良市八条)
池坐朝霧黄幡比売神社(奈良県磯城郡田原本町法貴寺)
真清田神社 愛知県

★椿大神社をみれば
三重県鈴鹿市★山本町1871

主祭神 猿田彦
相殿 瓊々杵尊
   栲幡千々姫命 
配祀 天之鈿女命
   木花咲耶姫命
前座  行満大明神
 別宮 天太玉命
    天之児屋根命

栲幡千千姫命ウィキより

神話での記述[編集]
葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。

『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の
一書では★高皇産霊神(高木神)の娘としている[1]。

『日本書紀』
第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として
高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。

天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ

栲幡千々姫命 は 高木神系統としている

皇統譜のはじまりの 人
ーーーーーーーーーーーー

橘かち子字がでません が 皇后に立った時
他の橘氏は 椿氏に 名を変えた

田道間守への系に 猿田彦がいる
(確かそうだったはず)

大国主も いた




[6]白石さんからのコメント(2018年07月02日 15時32分15秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
高橋神社
いろいろ 見てみました

すると 白髭大明神 の 言葉が。
白髭神は 猿田彦と 思っていましたが
稲荷とのこと

あらかじめ ややこしく ならないうちに
書いておきます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
栲幡千千姫命

高橋神社をみているうちに この 姫の名がでます
栲幡千千姫命を祭る神社

塩沢神社(福島県二本松市塩沢)[1]
椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)[1]
泉穴師神社(大阪府泉大津市豊中)[1]
皇大神宮、相殿右方(三重県伊勢市)
機物神社(大阪府交野市)
高橋神社(奈良県奈良市八条)
池坐朝霧黄幡比売神社(奈良県磯城郡田原本町法貴寺)
真清田神社 愛知県

★椿大神社をみれば
三重県鈴鹿市★山本町1871

主祭神 猿田彦
相殿 瓊々杵尊
   栲幡千々姫命 
配祀 天之鈿女命
   木花咲耶姫命
前座  行満大明神
 別宮 天太玉命
    天之児屋根命

栲幡千千姫命ウィキより

神話での記述[編集]
葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。

『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の
一書では★高皇産霊神(高木神)の娘としている[1]。

『日本書紀』
第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として
高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。

天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ

栲幡千々姫命 は 高木神系統としている

皇統譜のはじまりの 人
ーーーーーーーーーーーー

橘かち子字がでません が 皇后に立った時
他の橘氏は 椿氏に 名を変えた

田道間守への系に 猿田彦がいる
(確かそうだったはず)

大国主も いた




[7]白石さんからのコメント(2018年07月02日 16時45分56秒 ) パスワード

崇神天皇のとき 疫病がはやり ★大田田根子が呼ばれた
その時 田根子が祖先の系譜をいい
大物主の子孫と知れた

三輪の神として 田根子は 祭られた


高丘系図では 大物主は 出ないけど
太田の言葉 大物主(大国主とも この人の子供が事代主)
富田 三輪神社 では 大黒様は 西宮のえべっさんの お父様としており

大黒様は 事代主とのこと
富田氏は 高岡系図からでる

私が 遠祖は 事代主と思っている理由のひとつです
三輪神社は 細川晴元が 富田に逃げ込んできたとき
奈良の大神神社を 勧請して 持ってきた

氏子など 奈良の人だそうです
ーーーーーーーーーーーーーー

上福井白髭の白髭神社は 

大田田根子を まつる

記・紀にみえる伝承上の人物。
大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。

崇神(すじん)天皇の代に疫病や災害がつづいたとき,
天皇の夢にあらわれた大和(奈良県)の三輪山の大物主神のお告げにより大神(おおみわ)神社の神主となる。その結果,疫病がやんだといわれる。「古事記」では意富多多泥古命。









[8]白石さんからのコメント(2018年07月02日 17時11分48秒 ) パスワード

https://makild.exblog.jp/15057824/

「さた」岬とよむ地名は、 鹿児島県の佐多岬 と 愛媛県の佐田岬があります。
そして、現在は「さた」 とは読みませんが、高知県の足摺岬も、蹉足它(あしずり)とも書き、これも「さた」岬と読むそうです。

*八幡神社
*西宇和郡伊方町佐田
*祭神
 大鷦鷯命(おほさざきのみこと)
 佐田彦命(さだひこのみこと)
*境内社
 厳島神杜(多紀理姫命、多伎都姫命、狭依姫命、大物主命、事代主命)

*応仁2年の創立という。
 当初佐田大権現と称し、佐田彦大神を祀り、そのため地名を佐田と称した。
 後に大鶴鵜命を勧請し、若宮大権現又は若宮八幡宮と称え、氏神として奉斎した。

大鶴鵜命は仁徳天皇のこと

[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月03日 08時51分55秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

昨日は、椎葉のおじが遊びに来ていました。
その後、台風に備えて、家の周りを片づけたりと
お返事がおそくなりまして、申し訳ありませんでした。

昨晩から、ここ岡原は豪雨です(@_@。
黒原山の反対側の槻木地区には避難勧告が出ています。

水上・湯前・多良木・あさぎり町、宮崎県との県境山間部付近に雨雲が次々と
流れ込んでいて、ずっと激しい雨音が響いています。

でも、球磨の旧久米郷地域以外では、大雨洪水警報は出ていません。
雨雲って不思議ですよね。
以前、経験したのですが、雨雲の境界
私が立っていた所にカーテンがかかったみたいになっていて、
目の前はどしゃ降り、自分が立っている所は全く降っていない・・
神秘的でした。

台風が進んでいますが、被害が出ない事を祈っています。

所で、椎葉のおじから
ものすご〜い収穫話が聞けましたので、
詳しくは平川家についての方で書かせて頂きます。

高橋神社
沢山の御教示を頂きましてありがとうございます。
後ほど、じっくりと読ませて頂きますね(^'^)

所で・・
〉ミヤちゃんは はじめの頃
インドではない と 書いておられたように
思っていますが インドでしょうか?

御質問の意味を私なりに考えたのですが
「球磨に来られた人達が何処から来たのか?」
と言う事でしょうか・・?

インドは経由地じゃないのかなぁ・・と
私は思います。

出発は、もっと西でしょうね(p_-)

では(^'^)
[10]白石さんからのコメント(2018年07月04日 06時39分16秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
大雨 こわいですねえ
故郷に居た頃 通学路は 横の山の上から 滝のように水が

落ちてきて 子供の体など ずるずると
大げさに言えば すぐ下の川へ転落しそうで
はだかになっている山のところなど
小石が ころころと 落ちてきて

それは 恐ろしいものでした
川水は みるみる 増水して あっと いう間に
道のあたりまで あがってきて 

学校帰りなど 帰れそうにもありませんでした
30年位 前でしたでしょうか
人吉間地区など 家がながされ

家族を失われたおうちも あり その頃 
一緒に働いていた 七地の方の人 池田さんでしたが
そこは 無事で良かったあ と ホットしました

この スレッドの ほかのスレッドで
九日町の人が 書いておられましたが
そこも 過去に 家がながされたと 書いておられました

つまり 人吉は はるか昔 干上がったとはいっても
雨が降れば 陥没する 恐れのあるところだったのですね

[11]白石さんからのコメント(2018年07月04日 06時49分00秒 ) パスワード

家の苗字が 我が家の親戚とは 違うところもあり
わかりにくいのですが 高岡は 

高岡は 岡原にも 嫁入っており
あさぎり方面にも つながりがあります

長岡
細川の 通称は 長岡ですね
長岡 中村

島津も細川 津軽も 金である と 本で読んだことが
あります
島津 細川 津軽 は 仲間ということになりますね

過去に寮生活をして居た頃 鹿児島出身の中村さん 男女
二人としりあいになりました
二人とも おんなじ顔立ちをしていました

色黒 逆三角形かと 思うほど
あごがきゅうっと すぼまっていました

[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月04日 09時47分02秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

こちらの雨は落ち着きました。
ただ、台風の北上で、大雨が降っている地域の方々は
今が大変な時だと思います。
自然の脅威は人の生活に多大な影響がありますね・・・

こちらあさぎり町は、2週間の間に大雨による避難勧告が2回もありました。
自然の脅威ではありますが・・・
線状降水帯などは、海水温と関係していて「地球温暖化」と直結している・・
自然の脅威を人がまねいてしまっている・・
そんな感じがしています・・

岡原の岡本の長岡の地名の由来ですが
元禄十二年十二月(1699年)青井阿蘇神社(青井大明神)51代大宮司大神惟董編纂の
麻郡神社私考によると
藤崎八幡 岡本長岡
當国熊本藤崎八幡同體
寛正六年(1465年)乙酉草創
社家傳曰 寛正年中熊本ノ士長岡播磨守藤原秀有大家ヲ頼テ當郡ニ来ル
藤原長続(相良長続)公ノ命ヲ以テ岡本野口ヲ賜フ
兩後當社ヲ勧請シ大家長久祈壇トス
元和九年(1623年)本殿修造
万治三年(1660年)庚子 社司重政拝殿改造

とあります。

岡原岡本の長岡の地名の由来は「長岡播磨守藤原秀有」
この方から・・と伝わっています。

いるのですが・・「長岡播磨守藤原秀有」
この方が「どなた」だったのか・・以前ちょっとだけ調べたのですが
解りませんでした(..)

私も「細川しか?」と疑ったのですが(p_-)
でも、時代は寛正六年(1465年)の事なので、何だか違うようでした・・(..)

ただ・・実に面白い(p_-)
と思うのは
この方「長岡播磨守藤原秀有」が、球磨を完全制覇?した「相良長続を頼って来られた」と言う事ですね(p_-)

相良長続 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A

何だかムムム〜ッ(p_-) と思うのは・・

熊本の藤崎八幡宮 様 サイトより
http://www.fujisakigu.or.jp/shrine/

藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。

藤崎八旛宮の「旛」は、天文11年(1542)、後奈良天皇宸筆の勅額に拠るものである。創建以来、歴世朝廷の御尊崇はもとより、世々の国司、地頭、藩主から万民に至るまで広く信仰をあつめ一国の宗廟と称され、神威は赫赫として四隣に輝いた。往時の社殿は壮大を極め、修造は常に勅命によって、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていた。それらの実情は、社蔵の文書記録に詳しく記されている。
=================================================

私、藤崎八幡宮様の「御由緒」を拝見して
『古代と中世・近世は繋がっているな〜』と感じました・・
(何を言わんとしているかは・・御察し下さい・・)

さらに、藤崎八幡宮と「橘氏」の関係は何重もございます(..)

http://www.fujisakigu.or.jp/shrine/keidai.html

荒人社 :末社
御祭神
左中将 橘能員神霊
由緒
神託により之を祀る、本宮創祀の際、神輿を奉じ総官として下向、
其のまま神官に補任。社家の長官たり。
例祭
12月1日

こちらのページに記されていた「摂社」「末社」「歌碑」「句碑」をご覧ください。

何だろう・・”すごく感じるもの”があります。(いつもの妙な感です)

清原元輔歌碑 清原氏で思い出しました!
詳しくは平川家についての方で今後書くつもりなのですが、球磨の清原氏が判明致しました!
本姓「清原氏」でいらしたのは球磨の井上氏です(p_-) 
詳しい内容は今後お伝え致します(p_-)(南藤蔓綿録に記載がありました)

話を戻して(..)

荒人社 :末社
御祭神
左中将 橘能員神霊

宮原の一族と同族の鹿児島の「藤崎氏」
名前の由来は、一族の先祖「橘公綱」が『肥後の藤崎の地』を賜り、その地名から
「藤崎」を名乗った事にあります。

藤崎八幡宮が勧請された岡本長岡の地に本姓橘の矢野氏のお墓。
さらに本姓橘の中村氏が在る・・

私は実に面白いな〜(p_-) と思います。
(家は他人事ではないのですが・・)

さらに・・
荒人社(あらひとしゃ)
荒人(あらひと)は『こうじん』とも読めますよね(p_-)

家の宮原家・・昭和の初めまで、地域の人から「こうじん屋敷」と呼ばれていたそうです。
地域の古老の方々は皆さん御存じです。

しかし・・相良長続と言う方は・・岡本に御縁がおありだったのですなぁ〜と
つくづく、そう思います(p_-)
左近城も岡本、岡本に藤崎八幡の勧請・・(p_-)

所で・・
〉高岡は 岡原にも 嫁入っており
あさぎり方面にも つながりがあります

あさぎり町の高岡様。
以前にも書いたと思いますが
家の親戚の本姓橘の中村家や矢野家のすぐ近くでした。
今はもうお住まいでは無いようですが・・

中村家の方に、椎葉のおじから聞いてもらったのですが
「高岡家」との縁戚関係は無いとの回答でした(@_@。

しかし(ー_ー)!!
親戚の中村家・矢野家が在する地区を
家の親戚一同は皆「四国」と呼んでいます(p_-)
「字」ではありません(ー_ー)!!
あくまでも、親戚間での通称です。

「四国」に「高岡さん」かぁ〜と私はあらためて、今朝、そう思いました(p_-)

家の親戚「本姓橘」の家々と「四国」の通称の関わり・・
ようやく!私、気が付きましたので
詳しくは平川家についての方で書きます(^'^)

最後に(p_-)
〉島津も細川 津軽も 金である と 本で読んだことが
あります
島津 細川 津軽 は 仲間ということになりますね

思わず・・
ヲォ〜!!!!\(◎o◎)/!
と叫んでしまいました・・

(^◇^)

では(^'^)
[13]白石さんからのコメント(2018年07月04日 20時56分42秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
高岡から 嫁入っている だから ほかの苗字です
宮崎を連想させる苗字です

父たちの頃は 冠婚葬祭に顔出しに来られていましたが
私たちのだいになったら 余り交流していません

なので 苗字は勘弁してください
四国の高岡

高岡親王の墓があるというところですね
うちの地域では 余り四国方面の意識はなく
加藤清正公で 熊本城を意識しているようです

[14]白石さんからのコメント(2018年07月05日 07時42分14秒 ) パスワード

みやちゃんとこは 湯前とばかり おもっていたので
認識が ずれていました
今日 初めて 岡原の地名由来をみてみました

★あさぎり町
岡原村

2003年4月1日、同郡内の★上村、免田町、須恵村、深田村と新設合併し、
あさぎり町となった。

岡原村の由来は、1889年4月1日の町村制施行に伴い★岡許村と★宮原村
が合併した際、両村の名を一字ずつとったことからである。


★岡原観音堂や ★黒原山がありますね
[15]白石さんからのコメント(2018年07月05日 12時38分06秒 ) パスワード

インドということで 一般的に
釈迦は キリストよりはやく この世に出ている

しかし キリストにいたるまで 数世代あり
インドから 広まって という認識は ?

しかし また 天孫ににぎの 諡号には
蕃 の 文字があり
この 蕃とは 仏教伝来の神道の神に対し
仏教の仏のようである

宮原宿禰の番良朝臣
仏教に関与しているのでは ないか?

ーーーーーーーーー
仏教伝来直後、引き続き神道の神を信仰すべきだとする保守派と、
今後は仏教を信仰すべきだとする革新派との間で激しい争いが展開された[1]。それら、保守派には物部尾輿や中臣鎌子が、革新派には蘇我稲目ら
が属していた

このとき、神道(古神道)の神は「国津神」、仏教の仏を「蕃神」として
区別されたという
ーーーーーーーーーー
上杉には 毘沙門天の生まれ変わりという 伝説がありますが

時は下って鎌倉時代以降、次第に、他の神とは別に、北方の守護神である
多聞天(毘沙門天)が独尊で祀られるようになります。
多聞天は四天王のリーダーであり、最強の守護神であるという信仰が
高まっていくのです
ーーーーーーーーーーーー
坂上田村麻呂が、戦勝を祈って建立した奥州平泉の達谷の窟毘沙門堂には、
鞍馬寺の毘沙門天から分霊してもらった108体もの毘沙門天が祀られています。

坂上田村麻呂自身が毘沙門天の化身と言われるようになり、東北には、
成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂と多くの毘沙門堂が建立されます。

さらに時が下って、鎌倉時代になると、信貴山の毘沙門堂に祈って生まれたとされる、楠木正成が大活躍をし、さらには戦国時代最強の呼び声が高い上杉謙信が毘沙門天を厚く信仰し歴史に名を残しました。
ーーーーーーーーーー









 
[16]白石さんからのコメント(2018年07月05日 12時48分33秒 ) パスワード

鮪の言葉に共通してくる人に 朴井(榎井)連雄君と同一人物
と思われる物部朴井鮪という人がいます

蘇我氏の頃ですから 天智天皇より はやいですが

(蘇我赤兄は馬子の孫にあたり、入鹿とは従兄弟の間柄になります。
また倉山田石川麻呂、日向、連子、果安たちの兄弟でもあり、
天智天皇のもとで左大臣の地位まで上り詰めています)


榎は 朴であり 朴は 劉である
と 過去に書いたと思いますが(他のスレッドだったかも?)

劉の漢王室の間に王氏の新があり 
劉氏とは 違う系のようで
みやちゃんとこと なかなか つながらないのは
このせいではないか?と 思うのです


[17]白石さんからのコメント(2018年07月05日 12時55分10秒 ) パスワード

インドということで 一般的に
釈迦は キリストよりはやく この世に出ている

しかし キリストにいたるまで 数世代あり
インドから 広まって という認識は ?

しかし また 天孫ににぎの 諡号には
蕃 の 文字があり
この 蕃とは 仏教伝来の神道の神に対し
仏教の仏のようである

宮原宿禰の番良朝臣
仏教に関与しているのでは ないか?

ーーーーーーーーー
仏教伝来直後、引き続き神道の神を信仰すべきだとする保守派と、
今後は仏教を信仰すべきだとする革新派との間で激しい争いが展開された[1]。それら、保守派には物部尾輿や中臣鎌子が、革新派には蘇我稲目ら
が属していた

このとき、神道(古神道)の神は「国津神」、仏教の仏を「蕃神」として
区別されたという
ーーーーーーーーーー
上杉には 毘沙門天の生まれ変わりという 伝説がありますが

時は下って鎌倉時代以降、次第に、他の神とは別に、北方の守護神である
多聞天(毘沙門天)が独尊で祀られるようになります。
多聞天は四天王のリーダーであり、最強の守護神であるという信仰が
高まっていくのです
ーーーーーーーーーーーー
坂上田村麻呂が、戦勝を祈って建立した奥州平泉の達谷の窟毘沙門堂には、
鞍馬寺の毘沙門天から分霊してもらった108体もの毘沙門天が祀られています。

坂上田村麻呂自身が毘沙門天の化身と言われるようになり、東北には、
成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂と多くの毘沙門堂が建立されます。

さらに時が下って、鎌倉時代になると、信貴山の毘沙門堂に祈って生まれたとされる、楠木正成が大活躍をし、さらには戦国時代最強の呼び声が高い上杉謙信が毘沙門天を厚く信仰し歴史に名を残しました。
ーーーーーーーーーー









 
[18]白石さんからのコメント(2018年07月05日 13時05分07秒 ) パスワード

夏 の 重臣で 

劉累(りゅうるい、生没年不詳)は、夏王朝の重臣。帝堯の子孫。

劉氏の始祖で、漢の劉邦は劉累の123世の孫と称した。『新唐書』によると、祁氏・杜氏も劉累の子孫という。

祁氏
周は 代々 き姓の人と通婚していたが
周武発にいたって ついに 国号を 姫に改めた

この き が 祁氏なのか
人偏の 為なのか わからないが
人偏の 為のとき
太公望呂尚が出て 呂皇后などもおり
漢王室にも つながってくる





[19]白石さんからのコメント(2018年07月05日 15時04分27秒 ) パスワード

朱鮪は平狄将軍兼ねて扶溝侯に任ぜられた。後に九卿きゅうけいの一つ、
少府しょうふにまで登りつめ、累代に封土を伝え 子孫がいるという

ということで
つながりがあるかどうか
わからないが 同じ 朱 ということで

チュモンの祖父は天上のの支配者「帝釈天」その息子が「ヘモス」
水の支配神・竜宮王の次女が
柳花(ユファ)

一目惚れをして救い王宮に連れて還ったのが金蛙王クマワン

チュモンは祖父の帝釈天に守られて扶余国を抜けだし高句麗を建国し、
息子達は百済、新羅を建国しそれぞれの子孫が今の朝鮮族です。


7000傑様は 仮説として 4世紀頃
国をあげて 我が国に やってきた 百済といっておられ
半島の人との 直近の血縁関係はなさそうですが

アジア人同士 はるか昔には 同祖だったのでしょうね

前に 解樹の話がありましたが
木の ことでなく 今回は 解という族というか 氏というか
について お話しますと

解は 高麗にきて 高になった 
と いうことです
解の本姓は 金と 過去に 小さい本でみたことが あります

金が 高になった
ーーーーーーーーーーーーーーーー

また ドラマですが
高句麗の王のことを 
ワン・ユ 殿とよんでいました



[20]白石さんからのコメント(2018年07月05日 23時25分48秒 ) パスワード

遅いですがみやちゃん 水位の方は大丈夫でしょうか?
こちらは 大げさでなく しょっちゅう避難勧告が出ています

昔は 富田あたりまで 海だったというので
今年のように 何年かに一度のことでは

川の氾濫も 考えられ
土砂災害も考えられます

ただ うちの家のところは
業者が ここが つかる時は 大阪中が 
水没してますわと 豪語したところで
勧告がでても どこへ 行けというの

と いうようなところです
家にいます
ただ 地震が来ないことを 祈るだけ

みやちゃんとこの ご無事を祈ります

[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月06日 18時09分04秒 ) パスワード

白石様、今日は。
お返事遅くなりまして申し訳ございません。

大雨の方は如何でしょうか?
地震の後で地盤が緩んでいる所に豪雨。
地域の方々は不安でいらっしゃったでしょうね。
屋根からの雨漏り等、お困りの事だったと
御察し致します。

白石様の御自宅は大丈夫との事で
ほっと致しました。

今朝は、北九州小倉に住む、主人の両親や、娘達、友人に電話をかけて
家の状態などを聞いていました。

娘もさすがに、今回は不安なようで、朝から頻繁に連絡してきています。
御返事を書こうと思っていたのですが
遅くなって申し訳ございませんでした。

日本全国いたる所で、猛烈な雨となっていますね。
早く、雨がやむことを祈るばかりです。

白石様も、体調は大丈夫ですか?

私は、久しぶりに先日から軽い喘息が出てしまっています。
カラッとした青空とお日様を拝めれば、絶対に元気が出そうだ・・
そう思います。

沢山の御教示ありがとうございます。
後ほどじっくりと拝読させて頂きます<m(__)m>

気分的に、調査は控えようかな・・と思っていたのですが
元気を出さなければと奮起致しました。


所で・・
〉みやちゃんとこは 湯前とばかり おもっていたので
認識が ずれていました

えっ!?・・(?_?)・・・えっ!?(;一_一)

えええ〜っ!?\(゜ロ\)(/ロ゜)/  ・・(@_@;)

しっしらいしさまぁ〜?? 今頃ぉ〜!? ・・ \(゜ロ\)(/ロ゜)/
(−−〆)・・・・・嘘です(^'^)

家は、宮原村の宮原さんでござりまするぅ〜!!

でも、きっと私の今までのコメントの書き方がややこしかったのですね。
すみません(..)

今住んでいる所は、元宮原家(現星原家)の近くです( ^)o(^ )・・400m位離れていますが・・
元々、宮原家が所有していた土地に、家は建っています。
祖父が亡くなって、祖母が元宮原家(現星原家)を出て今の家を建てました。
元々祖父は、ここに、新しい家を建てるつもりだったようですが・・
(色々事情があった事は御存じの事と思います)

ですから
旧宮原村宮麓からは動いてはいません(ー_ー)!!

でも・・
家は元の場所から動いたのですが・・
『本籍だけは絶対に動かしてはいけない!』 これは、亡くなった祖父からの
残された家族への「命」「言いつけ」でございます。
稲積妙見(稲積神社)が御鎮座であった「馬場田」の地に1軒しかなかった
「こうじん屋敷」の「宮原家」の本籍地は絶対に動かしてはいけない!
これが、祖父からの「命」「言いつけ」でございます。

だから・・・私が主人と球磨に戻った時に大騒ぎがあったのです・・(@_@;)
改正された法の兼ね合いで、主人と私は、祖父や父と同じ本籍地(番地)には
籍を置く事が出来ないそうで
今の住所に本籍地をされますか?と役所の方から言われて、父に電話すると
「宮原家の者は、”あの地”以外に本籍地を置く事は許さん!」と
物凄い剣幕で怒るので・・色々思案して、ようやく父の希望通りに事を納めました・・・
何であんなに怒るのだろう?・・と父に聞くと
「平川のじいちゃん(私の曾祖父)から、家を出ても、馬場田は宮原家代々の土地だから、本籍地は動かしてはいけない」
と、平川の曾祖父は亡くなった宮原の祖父の意思を伝えてくれていたそうです。

現代人の私には良く解りませんが
余程、”あの土地”には意味があるのだろうな・・と言う事は何となく解ります(..)

その”意味”を父に尋ねても「お父さんも良くは解らない・・」と
言うのであります(-.-)

宮原の曾祖父から祖父が家督相続によって、相続した土地は「旧宮原村」の
字「馬場田」以外に「外園」、その他”字まるごと”の、字「五反田」・字「和田」・字「高鳥」・字「風山」等の水田地帯。
ちなみに、岡原中学校が建っている土地も、元はうちの宮原家の土地です(..)
岡原中学校が建設される前に、曾祖父が村へ土地を譲渡した契約書が家に残っていました(..)
他、旧岡本村と旧久米村等の「某字(今の所有者の方の手前・・書けませんが)」の水田地帯。

他、宮原城跡を含む「城山」一体の村有地以外と、宮原銀山の麓の字「舟川」
他、山・・
(ここは、全て祖父の従姉が嫁いだ星原家の一族へと継承されましたが・・)

あと・・何だか意味が解らないのですが・・
何故か?球磨村神瀬にも土地があったようです・・(?_?)
書類が残っていました・・
何でだろう・・(?_?)
そう言えば・・祖母の実家の「平川家」も、何故か?意味が解らないのですが
人吉に土地があったのですよね・・?
何でだろう・・(?_?)
そう言えば・・椎葉家は木上に土地を持っていたのですよね・・・?
何でだろう・・(?_?)


宮原家の土地は殆どが「星原家」の所有となり(祖母は七反位戻してもらったそうですが・・)、
其の後、星原家の所有する「元宮原家の土地」はマッ●ーサーさんと、農地改革により、他の人に殆ど渡ってしまったようです(..)

でも(ー_ー)!! 私の祖父の従姉の旦那さんの「星原のおじさん」は立派でした。
一生懸命働いて、元の宮原家の土地のかなりを買い戻されたそうです。
星原のおじさんは、私の曾祖父が務めていたように村会議員になられて
後に村会議長まで務められました。
私の祖父は、天国でとても喜んでいた事と思います。

と、土地は色々動いた・・と・・このような中・・
本籍だけは、「宮原家」の誇り?として動かしてはいけない(ー_ー)!!
何だか、従姉の方々には決して「言葉では言わなかった祖父のプライド」が感じられる・・
と私はそう思います(..)

と言った具合で、
家は旧宮原村の宮麓の宮原さんのままでございます(^'^)

だから・・黒原山さんが言葉を話せたら色々伺えるのに・・
と、私はいつも黒原山さんを見上げながらそう考えている・・と
頻繁にコメントに書いていたのであります(^'^)

白石様、お解り頂けましたでしょうか(^'^)

でも、白石様が御混乱されるのも無理はありません(ー_ー)!!

何せ、家の一族の親戚関係は
旧宮原村だけではなく(ー_ー)!!
球磨郡全体にありますので(特に上球磨地区)

明治維新の後から明治10年代の事を書くと

旧宮原村の家や親戚一族
●私の曾祖父は多良木「久保田家」から、宮原家に養子に入り・・
(其の後宮原家の養女は多良木から来られて・・その方の夫は、上村の蓑毛家の方で・・)
●平川の高祖父は久米村から養子に入り・・
●平川の高祖母は多良木から嫁いできて・・
※二人の子供達は・・次男が初代湯前区長「平川氏」(元の名は平川惣左衛門、江戸時代の湯前村の大きな庄屋家)に養子に入る等、免田・久米・湯前・多良木の家々の跡継ぎとなり・・)
●深水の高祖母は湯前から嫁いできて・・
※連れ子の源一氏は宮原村麓の椎葉家を継ぎ、妻は上村の犬童家から嫁いで来られて・・
●平川の高祖父の養父の後妻の方は人吉から嫁いできて・・

と言った具合に、明治の初めの姻戚関係だけでも旧宮原村内にはとどまっていないからですね・・
ややこしいのは当たり前です(ー_ー)!!

ちなみに(p_-)
明治22年(1889年)の岡原村発足後、第2代村長は「外山氏」
「外山氏」は人吉城下の藩士の方で、明治維新後、人吉から岡原に移って来られています。
人吉城下から、かなりの家々が岡原(宮原・岡本)に移られたそうですが
そこの辺り、調べた事がないので
今後の課題の一つです(p_-)

ナンダカンダと書きましたが(..)

白石様のお父様の姉妹の方。

私、ヒント(宮崎)で気が付いたのですが・・
もしかしたら・・家の集落の方じゃないのかな!?(p_-)

父の同級生の方がいらっしゃいました(^'^)

先にも書きましたが
御教示、しっかりと拝読致します。
ただ、コメントを書きながら、娘から何度もラインが入ってきますので
今日は、娘との連絡を優先させて頂きます(..)

・・・
古代九州内から海外へ?の出発地が皆・・御一緒かな・・
[22]白石さんからのコメント(2018年07月06日 21時20分59秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
娘様 皆皆様 ご無事とのこと なによりと 存じます
私の娘も福岡におり 陥没事故のニュースを聞き

メールしました
無事だよとの 返事にホットしています
改めて 距離の遠さに ただ 無事を祈るしかない 

ことを 痛感しました
昔は言っていましたよね
本籍と 寺は変わるな・・・ と

わからんごとなっばい・・・ と
しかし 私も こちらで 家を建て 長く住むようになったら
本籍を変え 墓もかわろうか?と 思っています

体がこんなになったら 墓参りどころでは なくなって・・・・
みやちゃん
今日の 新聞でしりましたが

遺体の処理も ボイル 冷凍解体に 変わっていくかも
しれません
地球温暖化にも 影響しないそうです

欧米では 始まっているとか・・・
頭ではわかるのですが 実際にするとなると なかなか・・・
古代 仏教檀頼の頃 なかなか 受け入れられなかった人たちが

いたわけですが そんなものなのでしょうかねえ

淡海三船は「大唐和尚東征伝」稽思という 人が 日本で 聖徳太子にうまれかわった というはなしですが
鑑真の頃の ことです

唐という国にしても 過去に 我が国が 大陸を意識していた
ということは ほかにもいろいろ ありますね
大陸 半島のすぐれた文化を積極的に吸収しようとした

国交があったということは 異族間では スムーズにいかず
また 我が国へ 過去 太秦の一族 漢王室子孫が
それぞれ 大挙して入ってきて もちろん

その前に 王朝があったわけで
なんとか おりあいをつけて 生活してきたのでしょう
こういう 現象は 民族間の争いに鑑みて 深く考えさせられるものが
あると 本にありました

学説的に 広く モンゴロイドで ひとくくりに なっているようですが
これも その中に 白もいれば黒もいる黄もいる 五色の人にわけられる
と 世界に広がって つまりは

アフリカの一女性が はじまり ということに
なっているのですね
聖徳太子
不思議な人ですね
父母共に 蘇我氏の血を受けているのでしょう?
藤原南家も 始まりは 蘇我氏の血を受けている女性が母

蘇我氏  物部と同族といわれる


[23]白石さんからのコメント(2018年07月11日 08時17分08秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
梅雨明け宣言を受けたとはいえ 台風8号が
やってくるとか

なきっつらに ハチにならないように 祈って35度
過ごしています
近くの まだ 30年位しかたっていない

高層マンション15階建の 外壁に
無数のヒビを見つけて以来
あの 豪雨の時 切りなしに入る 避難勧告に

血圧はあがりっぱなしで・・・・・

おまけに クーラーの一台のスイッチがこわれ
今週の35度ちかくにも のぼる 暑さに
たえられるかと びくびくものです
[24]白石さんからのコメント(2018年07月11日 08時25分31秒 ) パスワード

犬童家
川下にこの苗字の家があったことは 書きました
うちの 集落は 

昭和40年頃 相良村になりましたが
その前は 川村 四浦村と 分かれていました
四浦は その前は 四裏でした

合併の頃 子供も入れて 投票があり
みんなの考えの中で ふさわしいと思われる

相良村に なりました
相良藩に由来していることは もちろんで
相良氏の恩情忘れがたくという


のが 理由でした
勿論その前は 良峯師高所領だった という
認識はあり 村の識者は そういっていました

地域について 北 南と 呼びならわしており
川村は 南でした


[25]白石さんからのコメント(2018年07月12日 19時48分09秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
喘息
つらいですね

私も一時期なりました
咳こむと 30分位息をするのも つらく
浅く 横にもなれず うつぶせて

唇も紫になるほどでした
さいわい いつの間にかなおったようですが
思い出すとこわいです

姑もなっていました
アレルゲンが身の回りにあるのでしょうが
つらいですね

岡原から 人吉まで
車で行かれるのでしょうが
小一時間位 かかるでしょうか?

交通のことだけでも 大変なことと 思いおります
頑張ってね

口で言うだけしかできないのが もどかしいです

[26]白石さんからのコメント(2018年07月12日 20時07分06秒 ) パスワード

チャンネル銀河で 三国志をやっています
前に 赤壁の戦いで げんなりしてからこっち
三国志は 遠い 話になっていましたが

周瑜 曹操 関羽など でてきて
ながったらしい 本を ルーペを覗き込んで 見るより
楽です

でも わからない頭がますます いろいろな人が出てきて
? ? ? と・・・・・
しかし 歴史がどうの こうの と いうより
おもしろさ が 先です

伝説だけでなく 実際にあったのでしょうね
陸 将軍とか 馬 とか いろいろ・・・・・出てきます
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月13日 07時47分36秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

沢山コメントを頂いていたのに、お返事遅くなりまして
申し訳ございませんでした。

平川家についての方で、コメントを書いた後、こちらにお返事を!と
思っていたのですが、
コメントを書いた後に椎葉のおじが家に来られて、
さらに、昨日は来客があり、パソコンに向かう事が出来ませんでした(..)

血圧は大丈夫ですか?

白石様は透析を受けていらっしゃるので、断水や停電は非常に怖い事です。
とても心配していました。
御無事で何よりです。

こちらも、避難勧告がある度に、町内放送が流れていました。
夜中には、サイレント共に放送が流れてきたので、緊張しました。

今回の西日本全体を襲った豪雨。
自分自身の事で反省する事が多々ありました。

私は、福岡で何度か豪雨を経験したので
雨音や、息苦しい感じにも、「危険な慣れ」があった事です。
1999年に福岡の地下街が浸水した豪雨の際、
私はその雨音、雨の勢いに恐怖して、祖母に電話をかけて
「ばあちゃん、こんな雨の降り方、生まれて初めてよ!」と
言った記憶があります。
其の後、15年間程の間に、先に書いた「生まれて初めて」と感じた
「バケツをひっくり返すような雨が何時間も続く」豪雨を数回経験しました。

父は、今回「生まれて初めて、雨に恐怖を感じた。こんな雨音は聞いた事が無い」
と言っていました。
つまり、父が生まれて初めて聞いた雨音に、私は、すでに慣れていたのです。
とても危険な慣れだと思います・・・

こちらは、6月の末から度々避難勧告が出る「雨」が降っていたのですが
6月末の豪雨の際、猫の「にゃん」は生まれて初めての激しい雨音に怯えて
その日以降、強い雨が降ると家の中の和室に置いてある座卓の下に隠れるようになりました。
動物の本能とは凄いもので、「危険な雨」を理解するのだと感じました。

猫が怯える雨に慣れている「人」
私は自分が怖くなりました。

私は慣れてしまったから、今までも「あった」と考えてしまったのでしょうが・・
今回の豪雨の際に、娘から何度も連絡を受けました。
今までの数回の豪雨(1999年以降の豪雨)では、被害が無かった
娘の友人の家の近く、八幡東区の冠水の写真を、娘の友人経由で送ってくれました
私が、娘とたまに散歩した道が、滝のように流れる水で完全に冠水した様子も
写真で送ってくれました。
私はこのような状態になった「散歩道」に唖然としました。
娘は「お母さん、この雨は、そのまま、九州南部に移動するみたいだから
くれぐれも気を付けてね。私が今まで経験した事のある豪雨以上の豪雨よ!」
と、電話で言ってくれました。

確かに、先にも書いたように、父が
「生まれて初めて、雨に恐怖を感じた。こんな雨音は聞いた事が無い」
と言った「豪雨」でした。
しかし、私は、娘が「今まで経験した豪雨以上の豪雨」と言った「雨音」に
慣れていた・・・

人が本来恐怖を感じるべき「猛烈な雨」に
私のように慣れていたのは、私だけじゃなく主人もそうでした・・
そのような現在の地球の自然環境が本当に恐ろしいと思います。
さらに、このような、今までとは全く違う自然環境に慣れて来る事も
とても恐ろしい事だと思います。

自分自身、凄く、凄く、反省しました。

一昨日、椎葉のおじが家に来た時に初めて知った事があります。

家から400m程上方に流れている「幸野溝」ですが
椎葉のおじが子供の頃や若い頃、何度か溢れたり、決壊した事があり
私の住む集落は冠水したそうです。
前から不思議だった「場所」があって、そこは溝がカーブしている所の道を挟んだ「場所」なのですが
何故か?そこだけ、高さ5メートル程、他の場所には無い崖になっていて
子供の頃、その付近では「高い」から遊んではいけないとは聞いていたのですが
そこは、溝が決壊して崩れた場所だったそうです。

幸野溝が溢れたり決壊した事があったなんて、今まで本当に「全く」知りませんでした。
椎葉のおじは89歳になられましたが、おじのように、何十年も前の事を知っている人が側にいてくれるから
初めて聞く事が出来ましたが、集落内のおそらく70代以降の方は、皆さんご存じ無いと(おそらくですが・・)思います。

私は「この集落は大丈夫」と思っていたので
『「知らない事」は恐ろしい』と、つくづく思いました・・

これから、どんな「自然環境」になり、どんな「自然の脅威」を目にするのか
とても怖いです・・

ただ、「恐怖」を感じる事、「恐怖」を察知する事は、
身を守る上で非常に大事な事なのだと思います。

今回、自分自身、沢山反省した事を書かせて頂きました。

白石様
私の喘息を御心配頂きありがとうございます(..)
アレルゲンは沢山あるのです(@_@。
抗生物質(種類によって)や鎮痛剤(ロキソニン)にも過剰反応してしまいます(@_@。
病院で、私の身体に合った薬を処方して頂いています。
だから市販の薬は殆ど飲む事が出来ません(@_@。
「蚊」にさされても、すぐにカブレテしまいます(@_@。
私、蚊にさされると、すぐに微熱が出るのです(@_@。
最近は日光による過剰反応も解りました(@_@。
何だかなぁ〜トホホ〜(@_@。の身体です(..)

喘息は遺伝です(..)
祖母の(平川の)兄姉妹、皆、喘息でした(..)
アレルギーがひどいのは祖母も同じでした(..)
祖母や祖母の兄姉妹、皆「糖尿病」でした。
父や叔父、親戚にも多数「糖尿病」
父は20代の頃「遺伝性」と言われています。

食物では、特に祖母は「豚肉」、私は「マトン(羊)」のアレルギーです。
「羊」さんにアレルギーがあるのは妙だと思います(p_-)
だって、子供の頃、「羊さん」は全く食べた事が無い(ー_ー)!! のにです(p_-)
そう言えば・・母は「甲殻類」のアレルギーです(p_-)
日向の「海人系」の末孫なのに・・です(;一_一)・・実に面白い(p_-)


私はさらに「痛風」一歩手前だそうです(@_@。
ビールは一口も飲めないのにです(@_@。
病院では私の「痛風」は遺伝性と言われています(@_@。
「痛風」は「宮原家系統」の遺伝で、宮原繋がりの親戚に「痛風」が多数(p_-)
私と同じように「ビールが飲めない」おばさんも痛風だそうです。

御先祖様からは、記憶のDNAだけでは無く(ー_ー)!!
痛風(宮原)・喘息(平川)等を受け継いだようです(p_-)
(平川家・深水家に多い糖尿病は私は大丈夫でした)

何だろう(p_-)
受け継いだ「遺伝性」の病気から、何か、昔の事が解るような気が少ししています(p_-)

特に「痛風」と「遺伝」で調べたら面白い記述がありました(p_-)
http://www.tufu.or.jp/gout/gout1/39.html

日本には痛風が無かった・・(?_?)
(;一_一)

おかしいな(?_?) 遅くても明治時代にはすでに家には痛風の人がいたそうなのですが・・(?_?)

きっと遠い遠いむか〜し、御先祖様達の一団が日本にやって来た時から
「その遺伝」はこの「国」にもたらされていたのでは
あ〜りませんかぁ〜(p_-)

脱線しました(..)

所で、白石様
家から人吉までは車で25分くらいです(^'^)

ドラマ「三国志」
面白そうです\(^o^)/

私・・白状しますと・・
三国志の時代の事、何を読んでも、登場人物の名前が「漢字」でややこしく
頭が混乱して・・全く理解出来ていなかったのですが・・
ドラマ「趙雲伝」を見て、ようやく、何となく全体を大まかに解るようになりました(^O^)/

趙雲伝を見てからと言うもの・・
ウィキの三国志時代の記述も、頭混乱する事なく(ー_ー)!!
読めるようになりました(^'^)

でも・・一つ問題が(p_-)
ウィキの記述を読むと、イケメンの俳優さん達の顔が浮かんでしまいます(*^_^*)

(*^_^*)・・・(;一_一)・・・
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

〉伝説だけでなく 実際にあったのでしょうね

そうでしょうね!
免田の才園古墳から出土した黄金の馬具とか鎏金獣帯鏡がそれを証明しているのでしょうね(p_-)
http://wajinden.com/blog/item/%E6%89%8D%E5%9C%92%E5%8F%A4%E5%A2%B3/

色々、長々と書いてすみませんでした(..)

白石様
猛暑が続きますが、
お身体十分にお気を付け下さいね。

では(^'^)
[28]白石さんからのコメント(2018年07月13日 20時17分54秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
お元気そうでなによりです
お元気といっても おつらいことはよくわかります

ひどい雨で 本当にこわいことですね
こちらは 今日は カラッと晴れて セミがいっせいに
ワンワンとないていました

一週間ほど例年より早いです
暑さも暑さ うだるようです

ーーーーーーーーーーーーー

★南家には 蘇我氏(曽我氏)の血が入っている

宗我坐宗我都比古神社
奈良県橿原市曾我町

由緒「曾我は古名を蘇我と記し、8代孝元天皇の御子・彦太忍信命
(ヒコフトオシマコト)の孫に当たる★武内宿禰の第三子・石川宿禰
が大家を賜って、大阪河内から移り住み、このために宿禰がここに社殿
を改めたという。

(略称・五郡神社記、1446)には
帳に云 宗我坐宗我都比古神社一座 久迷(★久米)郷★宗我村
石川辺に在り。

宗我大神伝記(成立時期不明、宮座・★井上氏所蔵という)

「持統天皇(686–97)が蘇我一門の滅亡を憐れんで、倉山田石川麻呂
の次男・徳永内供に蘇我氏の一支族・★紀氏を継がせ、内供の子・永末に
祖神を祀るための土地を賜い、社務と耕作を行わせたことに始まる。

> 古代の「石川氏」は大族「蘇我氏」の直系である。蘇我入鹿の従兄弟・倉山田石川麻呂が河内国石川郡を本拠として「石川姓」を称した。
「大化の改新」以後は宗家に変わって「蘇我氏」一族の本流となった。
> のち主流が★加賀に移って栄え、その勢力地域を石川郡とした。
これは姓氏が地名となった例で、明治に「石川県」と県名にもなった。

★殷王朝末裔(紂王のおじの 箕子の子孫)の準王一族は★馬韓から対岸の列島に渡り、のちの★藤原氏
の基礎を築いた。
★扶余人が「★殷暦を用い、殷人と同じく★白い肌を尊んだ★(三国志扶余伝)
」とある



★徳永内供は持統天皇の伯父に当る」
ーーーーーーーーーーーーーー

ここで 王氏はつながりがわからないが 高句麗王のことで
ドラマだが ワン・ユ と 言わせている

王モウは田斉の 最後の王・王建の子孫。
高句麗が滅んだ頃 王氏は ★田 全 玉に 改姓している。


[29]白石さんからのコメント(2018年07月14日 07時11分33秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
車で25分ですか
前に走った時は 40分位だったので 道路事情がかわっているのでしょうかね

父は 岡原まで 家から 裏の山道に入り
昔の道 北岳神社のところを通って 岡原まで
朝8時ごろ出て 夜8時ごろ帰ってきていました

ずいぶん 変わったのですね
ーーーーーーーーーーーー

今朝は 松の連系図のうちの 一つを見ていました
そしたら あらら
宇都宮が ついています


宇都宮の 建久図田帳の ことばがあるから
何か つながりが あるかもしれませんね
でも 松野は 娘婿様の 苗字でしたね

[30]白石さんからのコメント(2018年07月14日 07時18分03秒 ) パスワード

熊本城と 王昭君の間
加藤清正が 熊本城を築いたとき
王昭君の間というのを つくった

王昭君は 単于に 嫁いでいる
息子も出来た

というだけだが 嫁ぐときの衣装は
蒙古族の 衣装だったと・・・・・

王氏は 漢人なのか もともと 蒙古系なのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
藤原鎌足の弟は 稽氏で アマテラスを名乗ったという
稽氏は 太洛稽氏で のちに 稽氏とした
蒙古の一部族
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
[31]白石さんからのコメント(2018年07月17日 14時42分57秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
暑いですねえ

足元から 熱気がむんむん と・・・
お体 気を付けてね

ーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑 松野連と 他のブログのところを 見ていました

以下 コピペです

★周の武王の後裔に★魏の司空★王昶あり、末裔の王柳貴は欽明朝
に五経博士として来朝帰化する。
系譜は★山田宿禰を参照。

推古朝、筑紫国★夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。

 ★小早川秀秋の重臣松野主馬首正重は、徳川方への内応を諫めたが
聞き入れられず浪人となる。
 夫差〜牛窓の系譜には魏志倭人伝でお馴染みの★卑弥呼ほかの人名が
見える。
ーーーーーーーーーーーーー
※みやちゃんとこは 王昶の子孫 ・ 王辰爾の子孫となるから 枝分かれの
一族が
山田宿爾になる  山田の地名は 球磨郡にもある

※夜須とは 児島高徳の話で賑やかしいところ
※小早川秀秋は秀吉のおい 毛利に養子に入る
 うちの周りには 木下 福島 など 秀吉軍団の名前があり
 加藤清正公の熊本城を 意識しているなど
 うっすらと 上の話が下敷きにあったのではないか?と思われる

※松野主馬首正重は、徳川方への内応を諫めたが
聞き入れられず浪人となる。
この松野が 宇都宮だろうか?





 
 

 


[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年09月05日 14時59分50秒 ) パスワード

白石様、今日は。
長らく、お返事出来ませんで申しわけございませんでした。

昨日、大阪を直撃した台風。
被害は無かったでしょうか?
とても、怖い思いをなさった事と思います。

テレビの映像は26年前に九州を襲った台風19号を思い出し
あの時の恐怖がよみがえり、白石様も、どれだけ怖い思いをなさっているのか・・
と、
大変心配致しておりました。

私は、平川家についてやブログの方で、復帰して、白石様にもコメントを!
と思っていた矢先に、体調が悪くなり
お返事が遅くなりました事を、あらためてお詫び申し上げます。

地震、台風と、今年は次々と自然の脅威に直面なさり
心身ともにお疲れの事と御察し致します。

どうか、お元気でいらっしゃる事を祈っています。
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