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 投稿番号:101636 投稿日:2018年06月15日 09時00分52秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について44

コメントの種類 :その他  パスワード

2018年もすでに半年を経過致しました。

私の調査も、「皆越氏・槻木氏系図」を拝見したお陰で、
今まで調べていた事、すなわち「点」の数々が
無意味な調査では無かった事が解り
とても、感動しています。

これからも、しっかりと勉強を重ねて、前に進んでいきますので
皆様方、不勉強な私に御教示の程
どうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは、平川家について43 コメント77より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101619_76.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月15日 09時19分32秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様
あらためまして、今日は(^'^)

早速ですが! たけぽん様

球磨の三宅氏についてなのですが
宮原公忠直系の宮原様のブログを今朝拝見した所
肥前島原の蘭医(らんい)三宅莞斉について
お書きになられています。

ぜひ、宮原様のブログをご覧になられてみて下さい。

https://ameblo.jp/mmmhide/entry-12376619613.html

医者繋がり・・・?
そう言えば、私、今まで何度もこの言葉を書いていました・・
家の宮原家に最初に養女に入られた方(公江おばの母)の実家、渕田家も医院を
営んでいました。
(後にこの方は公江おばを置いて、宮原家を出られました・・(..))

この渕田家も、林田家も、曾祖父の実家「久保田家」と姻戚関係にあり
偶然か?たけぽん様の御親戚も「三宅家」と「林田家」は繋がっている・・

冷静に考えると・・
私の高祖母(深水家)の実家も医院を営んでいた・・
私の曾祖母(宮原家)の弟も医院を営んでいた・・

何だか・・親戚に医者が多いのは何故だろう・・????
と今朝は、不思議に思ったのでした。

私は人吉宮原家様のブログを拝見して幕末、明治初頭の激動の球磨・人吉を
しっかりと勉強させて頂いています。

所で・・
実は、「何で今頃、教えてくれるの!!」と父と口喧嘩までした
「新情報」がございます(p_-)
さらに、その「新情報」から進んで調べた所
「ナンダこれは!!?」と言う事に気が付きました。

次のコメントで書かせて頂きます。
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月15日 17時18分01秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様
あらためましての本日の再登場です(^'^)

早速、先のコメントで書いた
「何で今頃、教えてくれるの!!」と父と口喧嘩までした「新情報」と
その「新情報」から進んで調べた所
「ナンダこれは!!?」と言う事に気がついた事までを一気に書かせて頂きます。
(..)

最近、宮原の高祖母の実家「久保本家」を調べているのですが
そう言えば・・美作は平頼盛の所領地の一つだったなぁ〜・・(p_-)
と考え、あらためて、平頼盛、この方について勉強をさせて頂きました。

ここから”父に「何で今頃教えてくれるの!!」と思わず言って口げんかになった”
事に繋がっていくのです。(p_-)

口喧嘩までの経緯(変なタイトルですが御了承ください(..) )

@日本の苗字七千傑様の【桓武平氏頼盛流】姓氏類別大観を拝見。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏頼盛流】姓氏類別大観を拝見すると
平頼盛、この方の後裔に
【池氏】【上神氏】【小谷氏】【鬼丸氏】【財部氏】【下村氏】【松尾氏】【瀬崎氏】
【尾池氏】【本居氏】【小津氏】【尾崎氏】
と言った方々が理解出来ます。

さらに平頼盛嫡男「平光盛」、この方の後裔に 【八木氏】【平川氏】

さらに安村氏系図を拝見すると【安村氏】【立野氏】【吉井氏】、姻戚関係として
藤原姓「筒井氏」・平城天皇裔「山田氏」が見えます。

私は、今まで、【八木氏】【平川氏】については、何度か調べた事はあったのですが、まだまだ不勉強過ぎました。(..)
八木氏については、薩摩八木氏を継いだ山名重村の子息「盛重」。
山名氏に注目すると山名重村の後裔の方々
山名時氏から惣領を継いだ長男の山名師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、
3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。 と言う事も解りました。
ウィキより 山名氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F

さらに・・
家督を継いだ・山名持豊(宗全)は1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で第6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、同1441年(嘉吉元年)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。この功績によって山名氏は、新たに備前・美作・播磨の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。
と言う事も解りました。

つまり、平頼盛の領地であった美作。
平頼盛一族と縁戚関係を結んだ「山名氏」
後裔は美作・備前・備中・播磨等の守護に任官されていらした事もよ〜く理解出来ました。

ただ、平頼盛一族の
他の姓の方々については大変不勉強でした。とても反省しています。

再度
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏頼盛流】姓氏類別大観を拝見。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm

非常に気になったのは平頼盛子息「為盛」、この方の後裔「鬼丸氏」に
「家貞」と言う方の名があった事でした。
以前、ブログにアップしていた「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」
この系図は幕府に提出された物で、信憑性の高い当時の平河氏・相良氏との関係を表している
と言われる系図です。
この「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」の中の「字牛 法名妙阿」、この方の
子息に六郎家貞と言う方の名前が見えます。

「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12146170264.html

私は「鬼丸氏」が非常に気になり、すぐに調べました。

以下のサイト様に驚くべき事が記されていました。
「鬼丸」名字の由来、語源、分布  人名力別館様サイトより
https://name-power.net/fn/%E9%AC%BC%E4%B8%B8.html

B宮崎県えびの市では京都府京都市左京区の北白川付近にあった鬼丸からと伝える。位置不詳。
宮崎県に来住したのは1189年(文治5年)との伝あり。

えびの市・・!! えっ!!?・・えびの! 近〜い!!
思わず、叫んでしまいました。
さらに現えびの市の「真幸」、旧真幸院は「平河氏」の所領地!
真幸と言えば・・つい最近ドライブしていて、「真幸」と「湧水」の中間に「字矢立」を
発見したばかりでした(コメントには書いていません)

京都府京都市左京区の北白川付近にあった鬼丸。

私は「鬼丸家貞」と言う方と尼妙阿の子息「家貞」と言う方。
非常に非常に気になり始めました!

実は、5月4日に「そら」様が新規御投稿された事により初めて私が気が付いた
黒髭様の御調査「頼盛の子孫は如何に行き抜いたか?」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100738_89.html

こちらを、拝見させて頂き、「鬼丸氏」が高鍋(財部)に下向された等の
お話を勉強させて頂いていました。
高鍋だけでも、球磨には近くて、さらに、私の生まれた場所でもある「縁」のある土地なので
非常に驚いていたのですが、
その「鬼丸氏」が球磨のお隣「えびの市」に御縁があられたと言う事に
気が付き、さらに、鳥肌が立つ程、驚いてしまいました。

この事により、再度
黒髭様の御調査「頼盛の子孫は如何に行き抜いたか?」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100738_89.html

そして
代理投稿様の御調査「平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100367.html

を拝見させて頂き、しっかりと勉強させて頂きました。

takahiro様の御投稿により 鬼丸氏・財部氏の系も理解させて頂きました。
コメント20 2002年09月25日 takahiro様の御投稿より
勝手ながら、転記をさせて頂きます。

鬼丸氏 桓武平姓 頼盛末裔為盛流

   京都北白川鬼丸(京都市左京区)から興る。
   桓武平姓で、桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-国香-貞盛-維衡-正
   度-正衡-正盛-忠盛-頼盛-為盛-家保(初代鬼丸氏)-家衡-家貞-家房
   -家政-家時-家知-家徳-家信-家盛-家親-家清-家俊-家通-家雅-彦次-
   家則-家次-<以下略>と続く。
   頼盛子息家保は京都北白川鬼丸に居住し、その子家衡が鬼丸氏を称す。
   平家没落後家衡は京都を遁れ、文治五年春日向国臼杵郡財部に下向す。
   現当主は初代家保より二十九代目を数える。

財部氏 桓武平姓 頼盛末裔仲盛流
   
   頼盛-仲盛-盛重-盛順-と続く。
   盛重が文治四年日向国臼杵郡財部邑に下向し、その子盛順が財部氏を
   称する。
   盛順-頼光-頼明-明元-頼徳-頼格-頼資-頼誠-頼興-頼節-頼譜-頼知-頼
   稔-頼守-頼経-頼郡-頼実-重実-忠重-<以下略>と続く。  

下村氏 桓武平姓 頼盛末裔仲盛流

   桓武平姓財部氏の同族で、始祖盛重の三男重兼が下村氏を称する。
   重兼-重氏-重連-頼重-重光-光盛-光明-重政-重房-重宗-重治-重本-重
   利-重興-重誕-重尚-重安-重僖-重苗-<以下略>と続く。

拝読させて頂き
鬼丸氏・財部氏・下村氏が平頼盛末裔であり、平頼盛の縁地「日向国富庄 財部」に下向された事を勉強させて頂きました。
さらに、驚いたのは「日向国富庄」とは コトバンク様より
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AF%8C%E8%8D%98-830872

宮崎平野一帯を占めた広域の荘園で,宮崎市,宮崎郡佐土原(さどわら)町・清武(きよたけ)町・田野(たの)町(いずれも現・宮崎市),西都(さいと)市,児湯(こゆ)郡新富(しんとみ)町にまたがっていた。1176年の八条院領目録に〈日向国富〉とみえ,1184年には領家職が平頼盛に安堵された。

1197年の日向国図田帳によれば,田数1502町(一円荘1382町・寄郡120町)で,一円荘のうち宮崎郡内加江田(かえだ)80町・加納200町以下の地頭が平五,同郡国富本郷240町ほかと那珂(なか)郡内那珂200町以下および児湯郡内佐土原15町ほかの地頭が土持宣綱で,寄郡(よせごおり)は児湯郡内穂北(ほきた)郷70町・鹿野田(かのだ)郷50町からなり,地頭は同じく土持宣綱であった。1306年には歓喜光(かんきこう)院(現京都市左京区)領となっている。1314年那珂郷五分の一知行分の荘官職などが日下部万却丸に,のち同郷の公文(くもん)職などが那珂(日下部)盛連に与えられた。鎌倉末期には北条氏の所領であったが,幕府滅亡後足利尊氏領となり,1333年尊氏は荘内佐土原郷を山城石清水(いわしみず)八幡宮に寄進している。

※新富町は、私が8歳まで過ごした場所です。
上記に記された『土持宣綱』、『日下部万却丸』、『那珂(日下部)盛連』
この方々は、私の母方の「岩切氏」と同族の日向日下部氏。

私は、領家職が平頼盛に安堵された「日向国富庄」を勉強して
自分の運命とは・・と感じました。
私は日向国富庄の財部(高鍋)で産まれて新富町で育ち・・
8歳で、同じく平頼盛に安堵された「肥後球磨荘」の「平川家」を実家とする祖母のもとに。
大げさかもしれませんが・・
私は、生まれた時から、先祖を調べる宿命を背負っていたのではないか・・?
そんな事まで考えてしまいました・・


A父との口喧嘩 理由は「財部氏」
財部=高鍋と勉強して知った私は、父は高鍋が「財部(たからべ)」であった事を
知っているかな?(p_-)
いつも、「漢字を知らない」と私を馬鹿にする父に、知ったかぶりをしてみよう(^O^)/・・(p_-)
と思いました。そこで・・父に
「ねえお父さん(^'^)。高鍋ってね、昔は財津一郎さんの”財”の字に”部”と書いてぇ・・」
と言った瞬間に父が
「たからべ」と答えました(>_<)
私が、「何で知ってたの?」と聞くと、父は
「高鍋の話?「高鍋」と「財部」何か関係あるとか? 
財部(たからべ)は財部さんがおんなる(いらっしゃる)から、知っとるタ〜イ!」
私・・「財部さんがおんなる(いらっしゃる)・・」(?_?)
ナンデスト!?
「何処に?(?_?)どこに(?_?)」

父「バ〜カお前も知っとるやろう〜が!(だろうが)」
※ここからは、個人情報が関係するので、暗号のようになりますが御了承下さい<m(__)m>

「湯●の■池のおばさんと那■のおばさんの家の近くタ〜イ!」
「あと・・平●のおじさん達(2軒)のすぐ近くにもあったろ」
「ばあちゃん(私の祖母)も、財部さんはよ〜知っとったぞ(良く知ってたぞ)」
「永●のばあちゃんの本家(もとや)にも近かぞ(近いぞ)」
「家の親戚はみんな財部さん知っとるタ〜イ!」
と。

私は、一瞬にして頭がパニックになり
「お前も知っとるやろ?って私は知らんかったよ!!」
「何で、今頃になって、財部さんの事を教えてくれるとね!! 今頃よ〜!!」
と。

すると・・父は・・ピッキーン(−−〆)
「何か!その言い方は!。今頃って!お前今までお父さんに財部さんの事聞いた事があったか!?」
「初めて聞いといて、親に向かってその言い方は何か!」
<(`^´)>と。
父は、普段はとても優しく、猫のにゃんと話す?時も
「にゃんちゃ〜ん(^'^) マンマ、食べましゅか〜」とか言っていますが
とても難しい所もあって、言葉使いを一つ間違うと、めちゃくちゃ激怒します(..)
確かに、私は、財部氏について、勉強をさせて頂いたのは最近で・・
父に聞いたのは初めてだ・・だけど・・すごく驚いてしまってパニクッテしまった・・
「ごめんなさい(..)」
父に謝ると
父は「ナンネ?財部さんがどうしたとね?」と・・

そこで、父に、私が勉強させて頂いた平頼盛末裔の財部氏について説明をすると
父は、少し考えて
「高鍋の財部氏との関係はお父さんは解らんけれど・・」
「確かに、家の親戚のすぐ近くには財部さんはいらっしゃる・・」
「それに、家のばあちゃんも財部さんは良く知っていた・・」
と言いながら
「お前、今度、湯●の平●のおばさんに、財部さんの事聞いてみたら?」
と言ってくれました。

結局「ごめんなさい(..)」と謝った事により父は冷静になってくれましたが
この件が、私が最初に書いた
「親子の口喧嘩」でございます(..)

だけど・・財部氏について勉強させて頂いた時には
「高鍋や新富町って国富庄は球磨に近いな〜。」
くらいだったのに・・
マサカ、家の親戚の近くに、私の祖母も父も、親戚も皆が知る「財部さん」がいらっしゃったとは
夢にも思いませんでした・・

後で調べたのですが、熊本県内の財部氏。以下の通りでした。
https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E8%B2%A1%E9%83%A8&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C

県内に少ない姓なのに・・何故か家の親戚の近くに集中している・・
この事も驚きました。

県内に少ない姓なのに・・家の親戚に何軒もある姓と言えば・・久我家もそうだ・・
https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E4%B9%85%E6%88%91&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C


親戚の久我家・親戚の近くに集中する財部家・祖母の実家の「平川家」に伝わる絵巻物
全て・・繋がっているようです・・
繋がっているとしか考えられない・・・

やっぱり・・そう言う事か・・

そう考えながら、私は
尼妙阿(字 牛)の子息「家貞」と言う方と鬼丸家貞と言う方もさらに気になり始めました・・

そこで、ふと思い出したのが
尼妙阿(字 牛)が譲られた「化粧田」についてでした。
平川家について28 コメント35に書いていました。
書籍を取りだすのが面倒だったので、過去のスレッドを読み返しました。

平川家について28 コメント35より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100738_89.html

『さらに時代を遡り、鎌倉中期の旧岡原村の土地は「尼妙阿」と繋がっているようです。
相良長頼の娘(尼妙阿)が持っていた「田地」の一つ「一丁三反三畝六歩の化粧田」は旧岡原村長北(永北)から旧久米村円八重にかけてであったとの検証が歴史研究家の園田健昌氏によって行われていました。』

私、読み返して、鳥肌が立ちました・・・
旧久米村円八重(えんばえ)って・・ここは・・平川の高祖父の実家がある場所だ!!
円八重(えんばえ)の数軒の家の内、2/3は・・矢立一族・・
何故?今まで気付かなかったのだろう・・!!?

久我家・・
平頼盛子息、平光盛の息女は「久我家」に嫁ぐ・・
肥後国球磨荘は平光盛の息女「冷泉局」が相続・・
姉妹・・姉妹・・

あっ!私は「冷泉局」この方について全く調べていない!!
この事に気が付いて
早速「冷泉局」この方について調べた所・・
本当に、これは偶然か!?と言う数々の事を見つける事になりました・・

非常に、長くなりましたので
続きは、次のコメントで書かせて頂きます。
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月16日 13時45分24秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

昨日書いた
『「冷泉局」この方について調べた所・・
本当に、これは偶然か!?と言う数々の事を見つける事になりました・・』

の続きの前に、今朝は
これは偶然か!? じゃなくて(ー_ー)!!
やっぱりそうだった!!\(^o^)/

の話から書かせて頂きます。
今回もかなり長くなりますが、御了承下さい。

「冷泉局」この方を調べながら・・
私は、今から4年程前
東大史料編纂所で一部公開されていた「平河家文書」や
球磨荘について鎌倉時代以降から南北朝時代にかけて記載された書籍を
歴史に疎いながらも必死に読んでいた頃に、こちらのスレッドに書かせて頂いた事を
あらためて読み返していました。

その中で、皆様に御紹介させて頂きたいのは
平川家について18 コメント85です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101393.html

私は平川家について18 コメント85で、それまで調べた平河氏の争論と
関わった人達を整理してまとめていました。


以下 平川家について18 コメント85より

平河の争論を登場人物と共に整理いたします。

※鎌倉御領(永吉庄・西村)の預所職を大江広元は外孫の徳大寺実春に譲る。
※徳大寺実春の現地代官は「賀来又二郎入道念阿」
※西村は須恵尼の狼藉にて所領を没収されたのち、実春朝臣の知行に属していたが、その後、弘安六年には賀来又二郎入道念阿が地頭に補任された。
補足・・西村は仮名千世松の多年地頭の地「仮名千世松多年地頭各別地也」とあり。
※賀来又二郎入道念阿は西村の地頭職だけではなく永吉庄地頭職までも横領。
※「地頭各別知行」「自嘉禄元年至建長三年知行無相違所」であったにも係わらず永吉庄を横領したと平河三郎観蓮(俗名良貞)が訴訟をおこす。
(文永二年にいたっては名主分まで混領された為、越訴)
※幕府は弘安六年七月三日付けで「永吉地頭職併せて名主職」を平河良貞に返付。預所職は同年十月に「豊前々司景資」こと武藤景資が給わる。
※弘安八年岩戸合戦にて武藤景資が亡くなる。
※翌年預所職は「備前々司入道」(北条一門の北条朝房であろう)に与えられた。
※備前々司入道(北条朝房)の現地代官は「竹井二郎右衛門入道行性」。
※入道行性は正応二年(1289年)「永吉地頭職併名主職」までも横領。
※平河弥五郎入道道照は関東下知状が守られていないと再び越訴を行う。

正応二年(1289年)備前々司入道殿代官と平河三郎入道観蓮が相論した「地頭名主職」については、越訴頭人「長井宗秀」・「二階堂行藤」があたったが、在職中には結審をみなかった。
そして、正安二年(1300年)には幕府有力者の諏訪左衛門入道真性の「奉行執沙汰処」となり、二番引付に与奪された。
その後、越訴期限の超過などを理由に越訴が棄却された。
この旨は奉行人明石民部大夫行宗によって伝えられた。
★そして何度も道照は不服として申状案(越訴)を提出したが、その後北条得宗被官の奉行によって裁許されて行く事となる。

以上 平川家について18 コメント85より
==========================================

私は当時、
『上記の越訴が結審しなかった事、越訴が棄却された事に関する、ターニングポイントは「幕府有力者の諏訪左衛門入道真性の「奉行執沙汰処」となり、二番引付に与奪された。」
ここだと思います。
その後、越訴期限の超過などを理由に越訴が棄却され・・
何度も道照は不服として申状案(越訴)を提出したが、その後北条得宗被官の奉行によって裁許されて行く事となる・・・

それでは「諏訪左衛門入道真性」とはいったいどのような人物なのか?』

と考え、諏訪左衛門入道真性・・・諏訪盛経と言う方を調べていました。

平川家について18 コメント85より
それでは「諏訪左衛門入道真性」とはいったいどのような人物なのか?

諏訪左衛門入道真性・・・諏訪盛経
諏訪盛経 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%9B%9B%E7%B5%8C
諏訪 盛経(すわ もりつね、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士。得宗被官。父は諏訪盛重。通称三郎、左衛門尉。真性と号する。文永3年(1266年)以前には出家していたと推定される。
生涯
建長3年(1251年)、藤原頼嗣の祖母が死去した折、北条時頼の使者として上洛したことが『吾妻鏡』に記載される。これが史料における初見である。佐藤業連、平頼綱らと共に被官として政務の中枢に携わった人物であり、「建治三年記」には寄合衆としての活動が記載されている。

以上 平川家について18 コメント85より
=========================================

このように、「諏訪盛経」この方を調べていたのですが
当時は、全く「知らなかった事」がありました。
それは
★佐藤業連、平頼綱らと共に被官として政務の中枢に携わった人物であり、「建治三年記」には寄合衆としての活動が記載されている。

平頼綱・・・この当時、この方と、宮原の一族の先祖「橘公綱」が同母兄弟であると言う事など全く想像すらしていませんでした・・

さらに、当時、私は
諏訪左衛門入道真性こと諏訪盛経、この方の父「諏訪盛重」と言う方も調べていました。

平川家について18 コメント85より
父の諏訪盛重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%9B%9B%E9%87%8D
諏訪 盛重(すわ もりしげ 生没年不詳)は、鎌倉時代中期の諏訪社大祝職・得宗被官御内人。諏訪信綱(盛信)の子。兵衛尉。出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。盛高、盛経、盛頼、重願、頼重らの父。
承久の乱の際、大祝として義時の戦勝を祈願すると共に一子を上洛させており、戦後間もなくして被官として泰時に出仕した。北条泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。1236年に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共に御内人として、その敷地内に屋敷を構えており、執権の信頼の篤さを伺わせる。

得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、1247年、宝治合戦の直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている(1247年6月4日の記述)。北条一門や安達氏のような外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(寄合)のみの協議である「深秘の沙汰」にもしばしば参加した。
以下省略・・
以上 平川家について18 コメント85より

================================================

私は、当時
諏訪左衛門入道真性こと「諏訪盛経」父「諏訪盛重」この方々を調べて
ある「推測」を持ちました。

それは・・
平河弥五郎入道道照は関東下知状が守られていないと再び越訴を行った最たる理由
※備前々司入道(北条朝房)の現地代官「竹井二郎右衛門入道行性」が
正応二年(1289年)「永吉地頭職併名主職」までも横領した。

この現地代官「竹井二郎右衛門入道行性」とは
竹井二郎右衛門入道行性。越訴文内では通称「入道行性」。
この方はおそらく知久左衛門入道行性こと知久敦幸ではないのか?

と言う事でした。

平川家について18 コメント85より
竹井二郎右衛門入道行性。越訴文内では通称「入道行性」。
この方はおそらく知久左衛門入道行性こと知久敦幸。この方だと思います。

実は、平川家について8コメント54でこの方について調べていたのです。
でも、繋がりが解らずに、そのまま、スルーしてしまっていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html
※知久左衛門入道行性は即ち知久敦幸である(Shimoina shi - 第 5 巻 - 80 ページより)

知久氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F
知久氏(ちくし)とは、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。
出自
『寛政重修諸家譜』には清和源氏満快流と記されているが、諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔とする説もある。
知久姓の初見は、諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。
清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としている事による。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子(被後見人ぐらいの意味)で実父は他田信隆(源義家に属して奥州合戦に参陣した記録が残る他田太郎重常の末裔)としている。
鎌倉時代[編集]
当初は知久沢に程近い上之平城を拠点としていたが、承久の乱で信貞が幕府側に属して伴野庄地頭(新補地頭)になったとされ、本拠地を知久平(現・長野県飯田市下久堅)に移している(ただし、諏訪大社の神官守屋家に伝わる「守矢文書」では、伴野庄の地頭として名がみえないことから、地頭職に関しては真偽不明)。また信貞は射術に長けていたらしく、正嘉2年(1257年)と弘長元年(1261年)、更に弘長4年(1261年)の「幕府的始」における射手に選ばれていることが「吾妻鏡」に見える。
また、長野県飯田市にある文永寺に残されている五輪塔(弘安六年(1283年)の紀年銘)には、信貞の子と見られる神敦幸の名が残されており、神氏を名乗っていることから諏訪神党に属していたことが判る。
南北朝期は南朝方として大河原を拠点とした「信濃宮」宗良親王に味方し、同じ諏訪神党に属する香坂氏や桃井氏らと共に親王を庇護した。この縁で、宗良親王の子尹良親王の生母は知久氏の女とも伝えられている。また知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも、個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」(諏訪大社の神紋、諏訪神党の諸家に多い)から「御所車」に改めたと伝えている。

(・_・)信貞の子と見られる神敦幸の名が残されており・・・

以上 平川家について18 コメント85より
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以下、平川家について18 コメント85では、私は当時、私が考えられる
精一杯の事のみを、幾つか書いたのですが・・
うまく、まとめられず・・
さらに・・頭の中で
「竹井二郎右衛門入道行性」=知久左衛門入道行性こと知久敦幸
ではないか?
と推測は出来ても、それを実証する物は何も無く
さらに、諏訪の知久氏が何故?球磨に?
何故?知久ではなく「竹井」なのか?
この辺りも全く解らず・・
備前々司入道(北条朝房)、この方と竹井二郎右衛門入道行性の関係も
理解出来ず・・
結局、このままになってしまいました。

所が!!当時から4年程経過した今朝
私、発見したのであります!!
目が覚めて、突然「竹井二郎右衛門入道行性」この方が気になり
調べてみたのです。

すると・・4年前には無かった「竹井氏」に関する情報が
ネットに公開されていました。
それは、
古地図に見る竹飯の歴史 様のサイトでの情報でございました。
皆様、ぜひご一読下さい。

古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト
http://www.geocities.jp/bicdenki/takeitizu.html

勝手ながら、「竹井氏」に関する情報のみ、抜粋して、転記させて頂きます。


古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト より

【牡丹長者伝説】
『南筑明覧』は満願寺の「寺記にいわく、牡丹長者は九州探題なりと云う」と記してあるが、.竹井庄を立荘し竹井城館を構築した、鎌倉時代の北条得宗の得宗被官である博多の「鎮西探題」の役割を指揮、監視していた竹井氏の役割を言い当てているであろう。.

【荘園時代の飯得(はえ)庄】
現在は高田町である飯尾、竹井、海津は山門郡に属し飯江はえは両郡にありました。律令りつりょう時代から荘園時代には、川に土居を造り農地を拡張した開墾がなされ、飯江川はえがわの上流の現在の高田町の東部にある飯江はえ一帯に安楽寺あんらくじ天満宮領の飯得庄はえのしょうがあったとみられる。

【鎌倉時代の竹井の起名】
鎌倉時代になると大友や島津や少弐の武士らが畿内や関東から九州へ派遣されているが、源頼朝が亡くなった後に北条氏の執権政治となり、承久3年(1221)、後鳥羽上皇による「承久の乱」を契機に信濃国諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって形成された武士団(諏訪神党)は2代北条義時に味方し勝利をなす。
承久の乱の手柄により、鎌倉に出向いて主従関係となり、北条氏家臣団の最有力者となる。また幕府は御家人の働きに対して領地を分け与えるなど、恩賞でこたえました。

【竹井城館の建築】
北条得宗家が権力を独占した時期は諏訪氏が、得宗家に仕え有力被官(御内人)として大きな勢力を持った。
鎌倉幕府第8代執権北条時宗は(文永11年(1274)の「文久の役」と弘安4年(1281)の「弘安の役」と二度にわたり元寇の来襲受けているが、諏訪氏とは血縁である竹井一族の御内人の中で城郭・防衛施設構築の専門家であり、軍事に通じていた竹井五郎入道、竹井又太郎らに鎮西探題の指揮・監督者として在地得宗被官に任じられ、九州に下向し、得宗の政治力、経済力を駆使して竹井村の東端にある長者原(みやま市山川町尾野)に自分たちの館である竹井城館を構築した。
竹井城館跡は東西約350m、南北365mに及ぶ極めて広い範囲で主郭、東の郭、.南の郭、西の郭から構成され、東、西側には三重の堀や土塁の遺構を明瞭に確認できる。
今は畑や果実園となっているが、北側の崖を除く東西と南側の各所に、幅7〜8mの空堀や土塁とみられる跡が残っている。鎌倉時代の城館としては西日本最大規模となる。
肥後との国境に近い竹井は軍事上の要衝であった。竹井氏が異国警固番役の配置や元寇防塁の築造の分担案を発案したとみられる。元寇研究会(福岡市)の佐藤鉄太郎会長=中村学園元教授、日本中世史=によると、元寇が博多に攻めてきた「文永の役」(文永11年(1274)において異国警護の直接に統率者は鎮西奉行であったが、のちには得宗と政権が統率するようになり、担当したのが得宗の譜代の御内人であった竹井たけのい又太郎である。
弘安9年(1286)12月28日の恩賞注文によると竹井五郎入道が元寇対策の功績で豊後国岩手彦太郎跡を配慮している。

【竹井庄の成立】
竹井庄は得宗領である。御内人である竹井氏が、自己が収集して所有した土地の領有を最も確実にする為に、それを得宗に寄進して得宗の荘園として成立させ、自己の領有を主張する為に庄号に自らの苗字をつけた竹井庄とし、北条氏得宗が世襲した所領の得宗領の竹井庄が成立していた。
竹井庄は、みやま市高田町竹飯を中心に存在していた荘園である。
竹井庄のCDE史料を検証すると確証できる。
北条執権時代には御案内人の諏訪氏の勢力が広がって、各地に諏訪神社が勧請された。竹井氏は氏神として竹井村から北北東に2.4Kmほど離れた薩摩街道に面したみやま市瀬高町本吉、諏訪から勧請した諏訪神社を建立している。
この諏訪神社の存在も竹井氏が諏訪氏であることが裏付けでいるだろう。
また、北条時宗も竹井又太郎も禅宗を保護しており、竹井氏は得宗家の政治力、経済力を以てみやま市瀬高町大竹に曹洞宗九州本山大慈寺の3代住職鉄山士安を招請し「大竹山二尊寺」を開山している。
推測ではあるが竹井庄は瀬高下庄の二尊寺や清水山の麓ふもとの本吉に及ぶ荘園であったかも知れない。
元弘3年(1333)5月9日、足利尊氏らの攻撃を受けて六波羅探題は全滅。
同じく菊池武時が後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎮西探題も襲撃され、鎌倉幕府は滅亡しました。北条得宗の御内人であった竹井一族は竹井城館を去り、薩摩(鹿児島県)に移り竹井村の名と竹井城館が残された。

以上 古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト より抜粋。

★諏訪氏とは血縁である竹井一族の御内人の中で城郭・防衛施設構築の専門家であり、軍事に通じていた竹井五郎入道、竹井又太郎らに鎮西探題の指揮・監督者として在地得宗被官に任じられ、九州に下向

★竹井氏は氏神として竹井村から北北東に2.4Kmほど離れた薩摩街道に面したみやま市瀬高町本吉、諏訪から勧請した諏訪神社を建立している。
この諏訪神社の存在も竹井氏が諏訪氏であることが裏付けでいる

さらに
古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト より抜粋させて頂きます。

古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト【出典史料】 より
A太田 亮の『姓氏家系大辞典』の、竹井氏の項には「大江姓(後藤原姓)筑後国山門郡竹井邑より起こる」とある。
また竹井氏は、諏訪氏・金刺氏と同じく諏訪大社の大祝を務めてきた家系で、武井祝と称していた。
苗字の竹井はその屋敷があった諏訪湖の北岸の下社武居(長野県諏訪郡下諏訪町武居)に由来するが、武居の地名は武井、竹居などとも記しており、竹井も武居の宛字の一つであり、竹井氏はそれを苗字諏訪神氏の一族である。
竹井氏は筑後山門郡竹井を本拠地とした在地得宗被官となり、鎮西探題の引付役となっていたであろう。

C永仁5年(1257)10月22日の筑後国近藤文書の大江宗心所領處分状案の文中に記されている「・・・・たけのゐの四らうひょうゑにうたう(竹井四郎兵衛入道)にうりわたすといへとも・・・・」.は竹井庄の庄号の「たけのい」と、苗字の「たけのゐ」と一致する。
苗字と荘園の庄号は偶然に一致することはありえないので、苗字の竹井は古くからの御内人である諏訪氏に由来しており、筑後国の地名の竹井に由来している苗字ではない。
従って、荘園の庄号は竹井の苗字にから荘園の庄号や村名は竹井氏の苗字に因ちなんで付けられたことになる。竹井の呼称は「たけのい」である。.

D薩摩比志島文書には弘安9年(1286)に、少弐の嫡子、武藤四郎右衛門尉盛資に、モンゴル戦(弘安の役)の恩賞地として筑前療病寺および極楽寺の地頭職と、岩門合戦の勲功賞として筑後国竹井庄の領家職が与えられ、竹井氏はそれらの代官職を勤める構造で領家職の代官職をそのまま保有することで竹井庄の領家職の支配を行っていたとみられる。
得宗は竹井氏から竹井庄を寄進され、.竹井庄の領家職、預所職、地頭職を領有し、竹井氏はそれらの代官職を勤める構造で竹井庄の支配を行っていた。(九州中世史研究第1輯・川添昭二著より)

以上 古地図に見る竹飯の歴史 様のサイト より抜粋


以上の事から、私が4年前に推測していた
「竹井二郎右衛門入道行性」=知久左衛門入道行性こと知久敦幸
ではないか?

※@知久氏は諏訪氏の一族である。
※A諏訪氏一族の「竹井氏」の竹井。苗字の竹井はその屋敷があった諏訪湖の北岸の下社武居(長野県諏訪郡下諏訪町武居)に由来する。
※B諏訪氏一族であり、軍事に通じていた竹井五郎入道、竹井又太郎らに鎮西探題の指揮・監督者として在地得宗被官に任じられ、九州に下向。
※C球磨の永吉庄の預所である武藤景資が弘安八年岩戸合戦にて亡くなる。
※D翌年永吉庄預所職は「備前々司入道」(北条一門の北条朝房であろう)に与えられた。
※E備前々司入道(北条朝房)の球磨永吉庄現地代官は「竹井二郎右衛門入道行性」。
※F武藤四郎右衛門尉盛資に、モンゴル戦(弘安の役)の恩賞地として筑前療病寺および極楽寺の地頭職と、岩門合戦の勲功賞として筑後国竹井庄の領家職が与えられ、竹井氏はそれらの代官職を勤める構造で領家職の代官職をそのまま保有。


以上の事から
竹井氏と同じく諏訪氏であり同族である「知久氏」の知久左衛門入道行性こと知久敦幸、この方が在地得宗被官として現みやま市である「竹井」に下向。

後に、備前々司入道(北条朝房)の代官として球磨に来られた
と考える事は可能だと考えました。

やっぱりだった・・・
「竹井氏」は諏訪氏だった・・・

だけど、4年前には、このような記述は一切見当たらず、
今回、このようにして、私がずっと気になっていた「謎」が
古地図に見る竹飯の歴史 様のサイトを拝見した事によって解明出来ました。
古地図に見る竹飯の歴史 様で文責を担当された方に心より感謝申し上げます。


所で・・
古地図に見る竹飯の歴史 様のサイトに記載されていた【諏訪氏家系図】を拝見して・・
ミヤハラ(@_@;) ここで・・
鳥肌が立ってしまいました。

【諏訪氏家系図】
 諏訪氏は出雲神の嫡裔大国主神の子の健御名方神の後裔と伝えられ、平安時代の初期に御衣木祝有員が諏訪上社大祝おおほうりとなり大祝を世襲する。

記載された系図には「竹井氏」について
諏訪為重(片倉為重)から「片倉氏」「武居氏」「武井氏」が出たとの記載があります。

日本の苗字七千傑様 サイトより
《諏訪氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02120.htm#001

確かに・・諏訪為重(片倉為重) いらっしゃいます・・・

何故?私が鳥肌が立ったのか?
何に驚いたのか・・?

皆様、御記憶でしょうか・・・

私、「片倉家」について、以前、一年半程前に書いています・・

平川家について37のコメント15です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101581.html

「椎葉のおじの衝撃発言」
深水家から養子に入り椎葉家を継いだ「源一おじいさん」が
明治中期から営んでいた会社の名前は
「片倉家織物工場」

私は、コメントを書いた当時、椎葉のおじに「何故?片倉家なのか?」と
尋ねましたが、おじも理由が解りませんでした。
あの時、おじは
※うちの片倉はね!東北におんなった(居た)片倉と同じげなぞ!
※「適当に付けた会社の名前じゃなかぞ!うちの片倉はってお袋が言いよったけん!」
と言っていました。

東北にいらした「片倉氏」は・・そもそも諏訪氏一族「片倉氏」であり・・

しかし、コメントを書いた当時、何がどうして諏訪氏一族の「片倉氏」と
繋がっているのか・・
全く意味が解らなかった・・・
こう言う形で「片倉氏」が登場するなんて、夢にも思わなかった・・

これが、今の私の心境です・・

ただ・・
平川家について37のコメント15を読み返してみると
結局「大江広元」・「橘公業」に繋がっていました・・・

しかし・・平河氏の訴訟の相手側が「片倉氏」と繋がる諏訪氏一族「竹井氏」
もしくは諏訪氏一族「竹井氏」と繋がる「知久氏」
つまり・・家の親戚関係には「訴訟の相手側」との縁戚関係が見える事になります。

椎葉氏は平姓・宮原氏は橘姓・祖母方平川氏は良峯姓(祖母の実家はおそらく平姓)
どこに・・あるんだ?
椎葉家の「片倉家織物工場」の由来は・・!?

そう考えた時に、もしかしたら・・「深水家」ではないか?
と、ふと、頭をよぎりました・・

深水家は元は源姓だとおじが言っていた・・
「知久氏」も清和源氏満快流の「源信貞」と言う方が養子に入られている・・

清和源氏満快流と言えば、曾祖母の実家「深水家」のお隣「万江家」も清和源氏満快流だ・・・

すごく、スッキリとやっぱりだ!!と終わるはずだったのですが・・
結局、最大級のモヤモヤが発生する事になりました・・

私のモヤモヤは置いといて(ー_ー)!!・・・(>_<)

今回は、四年前に推測していた事が検証出来ました!
と言うお話でした。

非常に長くなりましたが、ご覧頂きありがとうございました。
(..)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月17日 04時45分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今朝は、主人が3時に出勤しましたので早起きです。

昨日、片倉氏と竹井氏の関係を知ってから
どうしても、モヤモヤが止まりませんでした。

昨晩は短い睡眠時間でしたが、何故か・・
「そんな簡単な話では無い・・」そういう「言葉」が頭を駆け巡り
どうしても、気になって・・
今まで、不勉強であった「諏訪大社」様についてウィキを見て勉強したのです。

ウィキの記述には、自分が完全に先入観を持っていた
と、考えさせられる記述が記されていました。

私の先入観とは・・諏訪大社は源氏・北条氏のイメージ・・この事でした。
不勉強過ぎたと反省しています。

諏訪大社 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE

私が、最も驚いた記述は以下の内容です。

歴史 中世より
平安時代末期には平頼盛領となっており、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付された。
頼朝は諏訪大社に神馬を奉納し、信濃御家人に対しては、毎年恒例の重要祭事である五月会や上社南方の御射山で行われた御射山祭における頭役(祭礼の世話役)を務める神役勤仕(しんやくごんじ)を徹底させ、大祝に従うべきことを命じている。
==========================================

諏訪大社は平安時代末期には「平頼盛領」であった・・・


全く知りませんでした・・
本当に・・不勉強でした・・・

このような「形」で「平頼盛」この方に繋がるとは思ってもいませんでした・・

家の親戚関係
昨日までは、単純に「平河氏の訴訟の原因となった一族との縁戚関係・・何故?」
というくらいの疑問でしかなかった・・

でも、もっともっと・・「真実」が別にありそうな・・
そんな気がして参りました。

椎葉家が営んでいた会社の屋号「片倉家織物工場」。

この屋号に基づく「片倉家」は・・何時?球磨に来られたのだろう・・?
鎌倉時代1300年前後なのか・・?

それとも、本当は・・もっと以前なのか・・?

やはり・・簡単な事では無いような気がします・・
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月18日 04時16分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

私、高祖母の実家の事で、完全にスルーしていた事がありました。
高祖母の実家「久保本家」の家紋ですが「丸に剣方喰」です。

太田亮博士の著書 姓氏家系大辞典に記載の「久保本氏」
「久保本」  備前、美作(三輪庄原口庄屋)等の名族也。
高祖母の実家の「久保本家」の家紋は・・「丸に剣方喰」
・・・・あれっ!?

あれっ!?・・あれっ!?・・あれれっ!?

備前、美作の名族と言えば・・
「宇喜多氏」や「三宅氏」・・家紋は「剣方喰」・「丸に剣方喰」

あれっ!?・・あれっ!?・・あれれっ!?

わたし・・私、完全に家紋の事スルーしていました!!
(@_@;)・・\(◎o◎)/!

だって・・だって・・
「丸に剣方喰」紋は、あまりにも見慣れた家紋なので・・
気に留めていませんでした!

見慣れた家紋・・
家の親戚一族は「固い絆」を示すように同じ家紋「丸に剣方喰」を使用している。
「姓」は違っても固い絆の一族とは
深水家・椎葉家・平川家・宮原家・・・

つまり、この固い絆の一族には「久保本家」は入っていない・・

だけど・・「久保本家」の家紋は「丸に剣方喰」

私、すごく重要な事を・・スルーしていたのかもしれません
\(◎o◎)/!

どうしよう・・本当に・・私・・おっちょこちょいです(@_@。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月20日 10時46分10秒 ) パスワード

たけぽん様、今日は。

雨・・物凄かったですね(>_<)

お家が球磨川の近くとおっしゃっていたので
心配していました。

自分の身は自分で守る事を念頭に
お互いに十分気を付けましょうね。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月24日 10時30分10秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

最近の調査の流れから、記録を調べようと、所有する
梅山無一軒著 南藤蔓綿録をじっくりと・・じっくりと読んでいたのですが・・

そこに記載されていた事で、最近の調査とは無関係なのですが
大ドンデン返し!の「数行」の記述に気が付きました!!

私が住む「宮原村」の最後の城主「犬童十兵衛(宮原十兵衛)」にも
繋がるかもしれない・・
そう推測する事も可能か?
平河氏が「犬童」を名乗った事にも繋がる可能性が高いのか?
そう推測する事も可能か?
と・・
長年の「謎」の解明に非常に大きな関わりを持つ「鍵」となる可能性の高い
「犬童氏」の存在に気が付きました!
大ドンデン返し!の「犬童氏」が存在したのです!

早速、書かせて頂きます。

梅山無一軒著 南藤蔓綿録 より

犬童七兵衛
元は矢野孫七郎と申して八代居住仕候、若時より方々走廻り堅き侍にて候とて、
長毎公求麻へ召寄せられ、扨方六つか敷所へは七兵衛を差遣わされ候、
無事首尾克く相調り候、其後岡本の城代に仰付らし岡元に居住仕候、
先年肥後の日高城にても鎗無類の事共に候也

★犬童七兵衛 もとは 「矢野孫七郎」と申して
相良長毎公求麻へ召寄せられ、岡本の城代に仰付らし岡元に居住仕候

『相良長毎公求麻へ召寄せられ』
時代は! 相良氏の第13代当主「相良長毎」の当主期間内『1499年〜1518年』の
出来事!!

つまり
岡本には「矢野姓」から「犬童」に改姓した「犬童氏」があった!!!
と言う事です!

私は、この記述を見た瞬間に
やの・・やの?・・・矢野〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 
と大きな声で叫んでしまいました!

すでに、皆様、お気づきの事と思います。
矢野家は家の宮原家とは縁戚関係にあります!

平川家について28+1で、関係についてでも、詳しく書いた事がありました。

平川家について28+1 コメント12より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101506.html

『免田某地区の中村家本家から尾方家に嫁いでこられたのが「椎葉のおばさん」のお母さんで・・その方の姉が・・免田某地区中村家本家から平川家に嫁いできた「みなみのおばさん」。
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家(椎葉のおじの妻である椎葉のおばさんの母と平川家の私の祖母の兄嫁は姉妹で其々中村家から嫁いで来られた)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家
矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されている。』

さらに、この関係に書き足すと
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家(平川家から養女が入る)⇔犬童家(上村)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家⇔犬童家(2軒※犬童家より養女(祖母の義妹。※岡本犬童家に祖母の従妹が嫁ぐ)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家
となります・・!
そして・・
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家←「須恵の平川家」 でもあります。

何と言う事だろう・・
この「縁戚関係」の元になる可能性が非常に高い記述が「南藤蔓綿録」に記されていました・・
私は・・茫然となりました・・

偶然なのですが・・実は昨日「求麻郷土研究会」の例会で梅山無一軒(実は般若院の平河氏の子息)所縁の
人吉「観音寺」様にお伺いして、半日以上過ごしていました。
梅山無一軒作の「役行者像」を拝見したり、平川氏が描いた「観音寺」歴代御住職様のお一人の掛軸を拝見したりと、大変貴重な時間を過ごさせて頂きました。
これも偶然なのですが・・
昼食中に、家の縁戚関係となる上村の犬童家のお話が出て
「犬童家が白髪岳の大半を所有する家である」と言う事も、聞かせて頂きました。
実は、この話、椎葉のおじからは聞いていたのですが、若干「本当かな?」と思っていた所もあり
研究会の方々が御存じだった事には非常に驚きました。
白髪岳の頂上付近のみが国有地。それ以外は「犬童家所有」との事でした。
この犬童家の明治時代に活躍した方は、熊本県内の中学校で使用されている道徳の教科書にも「伝」が記されている方で
その方の姉が椎葉家に嫁いできた●●おばあさんです。
そして・・求麻郷土研究会の方々と「この話」をしている時に、ふと・・
椎葉のおじが言っていた事が頭をよぎりました・・
『上村の犬童は元は岡本におんなった(居た)んぞ!古い大きな墓が何基かあって
今でも、岡本の●●さんに墓守をお願いしている』
私は、この事を話そうか・・と一瞬迷ったのですが、又の機会で良いか・・と思い
そのまま、お話はしませんでした・・

その後、帰宅して、先に書いた「記述」に気が付いたのです!
皆様、私が、如何に驚いたか!・・御察し頂けますでしょうか!


私は、ずっと不思議だった事がありました。
お下の乱
お下の乱 / 御下の乱(おしものらん)は、別名、相良清兵衛事件あるいは田代半兵衛の反とも呼ばれる。2代藩主頼寛は寛永17年(1640年)重臣であり次第に権力を増幅していった相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の専横を、幕府に対し訴え裁可を仰いだ。頼兄は江戸へ召還され小田原藩仮預かりとなった。この間に江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。使いの内容は、頼兄の養子(義子)である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。これがお下の乱と呼ばれる事件である。
頼兄は幕府の裁定により遠流(津軽藩預かり)となり、弘前で明暦元年(1655年)に88歳で客死している。

※結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。これがお下の乱と呼ばれる事件である。

しかし・・家の親戚には「犬童家」が多数ある・・?
さらに御下の乱以降の江戸時代「貞享三年(1686年)」の分限帳には
犬童彦右衛門(称犬童十兵衛)が相良家重臣として名を連ねている・・
この犬童彦右衛門(称犬童十兵衛)、実は「平河高政」であった事は
何度もコメントに書いてきました。
この犬童家とは一体、どこの系の「犬童家」なのか!?
私は・・ずっとずっと疑問だったのです。

この事を疑問@とすると
もう一つの疑問がありました。

私の地元「球磨郡旧宮原村」の宮原城、最後の城主であったと言われる
犬童十兵衛(宮原十兵衛)と
岡本城主であった「犬童頼兄」とのタイムラグでした。

寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白 
※あさぎり町岡原北 宮麓地区 庭柏寺跡

寛永十二年(1635年)心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛  三月二十八日
※※人吉市浪床町中尾墓地

久米郷宮原村の宮原城最後の城主「宮原十兵衛」(犬童十兵衛)

寛永十二年(1635年)三月二十八日 に亡くなっています。

相良頼兄が岡本城麓に居館を造ったり、城下町を造り始めたのは
寛永十二年(1635年)です。
相良頼兄が岡本に居城したのは、わずか4年間の間、其の後1640年に津軽に配流。

この
宮原城最後の城主「宮原十兵衛」(犬童十兵衛)と犬童頼兄との
わずかな「タイムラグ」がずっと・・どうしても気になっていたのです・・

所が!今回解った事は
犬童頼兄が城主となる前の岡本城。
この岡本城には別の「犬童氏」があった! 「矢野氏」から改姓した「犬童氏」であった!
と言う事でした。

謎の宮原城最後の城主「宮原十兵衛」(犬童十兵衛)この方が、宮原村の城主として
宮原村に居城・活躍されていたと思われる時期の岡本村。
岡本城の城代は「矢野氏」から改姓した「犬童氏」の系であった・・
おそらく、上記の「犬童氏」は数代に渡り、岡本にいらしたと思います。
親戚の犬童家(上村)の「岡本」の数基のりっぱなお墓が
この事を示しているのでは?
私は、そう、推測する事は可能なのでは・・と考えています。

わたし・・御先祖様の御加護、御仏様の御加護
心より信じ、感謝致します。

昨日、観音寺様にお伺いした事は、きっと、私にとっては
お導きであったような
そういう事まで、考えてしまいました。

宮原城最後の城主「宮原十兵衛」(犬童十兵衛)の「謎」の解明に
私は・・何歩も何歩も・・近づいたのではないでしょうか。

しかし・・
大ドンデン返しでありました・・

でも。。
心から思う事は
親戚関係を重視してきて本当に良かった(@_@。
と言う事です(^'^)
[8]白石さんからのコメント(2018年06月24日 19時41分18秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
犬童家 中村家 尾方家 は 集落にあります

犬童家は 田代集落にもあったか?と
思っていますが 川下の川辺の方にあったようです

中村は川向にあり 同級生がおり
そこから 尾方へ男子がいき
その女子が うちの平川のおばあさんで

平川に嫁にきていました
その女子に 高岡から婿養子(父といとこ)に
入っています

高岡に 五藤から嫁
平川は後藤と親戚
と 田代集落に 平川と 姻戚関係の家が
あります

[9]白石さんからのコメント(2018年06月24日 19時44分19秒 ) パスワード

松葉宗益の
方のコメントと 間違えて
こちらにのせました

すみません
松葉宗益の方を 御覧ください
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月25日 10時15分09秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

白石様から頂いたお話に対して
私が、まとめて感じた事等を
松葉宗益 後裔 平賀氏について5 コメント79に書かせて頂いたのですが・・
最後に衝撃発言を致しました!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101634_79.html

私に繋がるDNAの矢立氏については後ほど詳しく書きますが

松葉宗益 後裔 平賀氏について5 コメント79で書いたように
私の住む、旧久米郷宮原村だけではなく、球磨郡久米郷・・いえ
球磨郡全体について考えると

宮原の一族の先祖「橘公業」の「伊予橘氏」だけではなく
様々な系の「橘氏」が球磨には深く繋がっているような気がするのです・・

橘諸兄を祖とする「橘氏」だけではなく・・
田道間守命を祖とする古代系の「橘氏」も・・・

もしかしたら・・もっともっと古代には、今は「別の言葉」で表わされている「橘族?」が
あったのかもしれない・・

かなり以前に
日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
『白髪岳は辰韓系の部族の守護山であり、権利の主張である』

その御山を殆どまるごと所有する、家の親戚って・・・
そのまま、古代と直結してるように感じます。

「辰韓」は後の「新羅」・・・

この事については、もっとしっかりと様々な文献を拝読して、
自分なりに理解していこうと思っています。

所で、
先週の土曜日に、テレビ番組「世界不思議発見」を見て
私・・すごく感じる物がありました。
ご覧になられた方々もいらっしゃると思いますが
水戸光圀公は考古学者でもあった!と言う内容の構成でした。

そこで・・すごく驚いた事がありました。

徳川家に伝来する「祇園精舎」の図面が
実は、カンボジアのアンコール・ワットと全く同じであった!
と言う事でした。

私「祇園精舎」と「アンコール・ワット」に物凄く反応してしまいました。

番組を見終わった後に「祇園精舎」についてウィキで勉強したのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ Jetavana-vihāra、正式名:祇樹給孤独園精舎、ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ、梵語: jetavane ’nāthapiṇḍadasya-ārāme)は、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、現ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県にあった寺院である。釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つである。

名の由来
梵語名は、「ジェータ太子の森(林)」 (祇陀林, Jetavana) と「身寄りのない者に施しをする」 Anāthapiṇḍada) を連記した名であり、以下の由来による。
コーサラ国のシュラーヴァスティーに、スダッタ(Sudatta 須達多)という富豪がいた。身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」あるいは「給孤独長者」 (アナータピンディカ Anāthapiṇḍada) と呼ばれていた。


ある日、スダッタは、釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院(精舎)を寄付しようと思い立った。以前の仏教教団は一年中歩きまわって布教・托鉢などの修行(遊行)を行っていたが、雨季での遊行は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、雨季だけは建物内で修行するようになっていた(安居)が、教団にふさわしい施設を欠いていたからである。

そして見つかった土地が、ジェータ(jetṛ、祇陀)太子の所有する園林(vana) であった。
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、ジェータ太子が「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言った。
しかし、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付して、寺院建設を援助した。
そのため、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園と呼ばれ、そこに建てられた精舎を「ジェータ太子の森(漢訳で「祇陀樹」、略して「祇樹」)、身寄りのない者に施しをする長者(漢訳で「給孤独長者」、略して「給孤独」)の園林(園)にある精舎」と呼び、漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。
鳩摩羅什などが漢語に訳した表記が「祇樹給孤独園」であるが、玄奘三蔵の訳では「誓多林給孤独園」となっており原語により近い表記となっているが、あまり広まらなかった。
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★祇園精舎
梵語名は、「ジェータ太子の森(林)」 (祇陀林, Jetavana) と「身寄りのない者に施しをする」 Anāthapiṇḍada) を連記した名
一年中歩きまわって・・
そして見つかった土地が、ジェータ(jetṛ、祇陀)太子の所有する園林(vana)
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、ジェータ太子が「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言った。
しかし、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付して、寺院建設を援助・・・

太子の所有する園林(vana)・・・
身寄りのない者・・・

私・・
祇園精舎・・・最も豊かな隠れ里・・・オーバーラップして感じるのは・・何故だろう・・


以下、ウィキには世界不思議発見で紹介されていた内容が記されていました。
(若干、視点は違うようですが・・)

ウィキより
日本での受容
徳川家伝来「祇園精舎図」
江戸幕府三代将軍・徳川家光は、長崎のオランダ語の通訳・島野兼了(嶋野兼了)に仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じている。
その頃、カンボジアのプノンペンの日本人町の人達は、アンコール・ワットが祇園精舎であると誤認していた為、その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていた。
島野兼了もその誤った情報により、そこが天竺(インド)の「祇園精舎」であると思い込んだままアンコール・ワットを視察し、一枚の「見取図」を作成した。
また、一説には森本一房が作成したとも考えられている。
それが当時の長崎奉行・藤原忠義によって正徳5年 (1715年) に模写され、その後所有者の変遷はあったものの『祇園精舎図』と題された古地図は、今も彰考館(茨城県水戸市)に保存されている。
明治末期になって、建築史学者の伊東忠太がこの見取図を鑑定した結果、全体構造から推してアンコール・ワットの見取図であることが判明した。
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私、カンボジアのプノンペンに「日本人町」があったことすら全く無知識でした。
※日本人町の人達は、アンコール・ワットが祇園精舎であると誤認していた為・・
その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていた。

誤認・・誤認?・・本当に単なる「誤認」なのでしょうか・・
アンコール・ワットとは・・
モン・クメール系の方々が1100年代に造った遺跡・・
サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。

モン・クメール系の倭人が「久米族」

その「久米族」の古代の元祖的本拠地と言われているのが「球磨郡久米郷」

祇園精舎・・太子の所有する園林(vana)・・・身寄りのない者・・・
最も豊かな隠れ里・・球磨・人吉・・

本当に・・単なる「誤認」で
沢山の日本人がアンコール・ワットへ出かけていたのでしょうか・・?

ウィキの祇園精舎の記述転記を続けます。

平家物語
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
と、『平家物語』の冒頭に詠われているところから、特に日本ではよく知られている。
実際の祇園精舎には鐘は無かったが、2004年に日本の「日本国祇園精舎の鐘の会」が梵鐘と鐘楼を寄贈した。なお、梵鐘は中国起源で日本に伝わったもので、元来インドには無かったものである。

牛頭天王との関係
出自不明の習合神「牛頭天王」は、祇園精舎の守護神とされる。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と呼ばれ、祇園天神を祀る神社を祇園神社という。八坂神社、天王神社など別の名称の祇園信仰の神社も、「祇園神社」や「祇園様」と呼ばれる。八坂神社の祭礼を祇園祭という。総本社の京都八坂神社の門前町「祇園」は、花街として有名である。

私、全く無知識で申し訳ございませんが
京都に「祇園精舎」と言う場所があるのだろう・・と思って今まで生きてきた(大げさですが)のですが
「一体何処なのだろう」と、今朝、初めてネット検索をしたのです。
(何だろう、学校で習ったような記憶があるような無いような・・)
でも・・確実に「ここが祇園精舎です」と記されていた場所が見つかりませんでした。
色々な解釈がある事も解りました。

でも、私は
平家物語の作者の方が、平家物語の冒頭に
「祇園精舎」と言う「言葉」を使われた事には・・
学校で習った事のような「単純な意味」だけではなく・・
もっともっと・・深い、意味が隠されているような
そんな気がしてしまうのです
もちろん、全くの無知識同然の私が、こう言う事を言うのは
素晴らしい御見識をお持ちの方々からすると
「言語道断」なのだと思います。
申し訳ございません。

しかし、身体の中から湧きあがる物が・・そう感じさせてくれている
そんな感じなのです・・

今日は、初めて「祇園精舎」という言葉の意味を勉強しました。

でも・・本当に、私は今まで、何をやっていたのだろう・・
一番大事な事を勉強していなかった・・
と反省しています。


標高1000メートルに程近い「椎葉村大河内矢立」
先祖は何故?こう言う場所まで来なくてはいけなかったのか・・
でも、「椎葉村」は、神々を感じる、とても素晴らしい場所でした(^'^)

今から約460年程前の私の先祖の名前は「矢立後藤左衛門」でした。
那須氏よりも先に球磨に降りてきていたようです。
おそらく・・「醍醐院氏(高橋氏)」や「米良氏」が球磨に登場される時期と
ほぼ重なっているようです。

後藤氏と何が椎葉村に繋がっているのだろう・・?
米良氏は何故?菊池氏であるにも関わらず「平重盛」この方の後裔も名乗られたのだろう?
そう考えて、自分なりに調べた事があります。

家事をすませて・・
次のコメントで書かせて頂きます。
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月27日 07時57分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

後藤氏と何が椎葉村に繋がっているのだろう・・?
米良氏は何故?菊池氏であるにも関わらず「平重盛」この方の後裔も名乗られたのだろう?
そう考えて、自分なりに調べた事を
一回のコメントでは記す事が出来ませんので、数回に分けて書かせて頂きます。



今から約460年程前の私の先祖の名前は「矢立後藤左衛門」でした。

梅山無一軒著 南藤蔓綿録 巻之十一
戦死並御追腹陣中病死等於殿中盆御手向水之人数
に記載の方々の中に「矢立後藤左衛門」の名が記されていました。
「矢立後藤左衛門」この方は戦死でありました。

相良氏の第18代当主相良 義陽(初名は頼房)。
この方の時代の事です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E9%99%BD

中略・・・
一族の反乱
弘治3年(1557年)2月21日、上村頼興が死去したため親政を行えるようになったが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父・上村頼孝が、弟の上村頼堅(肥後国豊福城)・稲留長蔵(岡本城主)と共に頼房に対して謀反を起こした。
3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたが、家臣団の支持は集まらなかった。
頼房は老臣と協議して、まず6月10日に豊福城主の頼堅を八代の兵で討ち、福善寺に逃げた頼堅を捕えて同月13日に斬った。
頼孝は久木野城に籠ったが、頼房の包囲軍は、頼孝の援軍に来た菱刈重任も返り討ちにし、7月25日にこれを落して、頼孝は菱刈に逃亡した。
薩軍の増援を得て、大畑城・上村城・岡本城を攻撃して鎮圧。頼孝・長蔵は北原氏を頼って日向飯野に逃亡した。後の永禄3年(1560年)、僧を派遣して説得した結果、7月29日に士卒700名と共に頼孝が、その後に長蔵も帰参するが、これは偽計で、ほとぼりの冷めた永禄10年(1567年)に共に攻撃されて切腹を強いられた。
同じ年、追放されて出家していた犬童伝心が帰参し、頼房により還俗を許されて、美作守の通称を与え、上村地頭(上村城主)とした。

※補足 コメント7で書いた
★犬童七兵衛 もとは 「矢野孫七郎」と申して
相良長毎公求麻へ召寄せられ、岡本の城代に仰付らし岡元に居住仕候
犬童七兵衛は第18代当主相良 義陽(初名は頼房)の代にも、家臣として活躍されていた事が南藤蔓綿録の「別の記述」で解りました。
その「記述」の中に・・ナント!!「宮原十兵衛」の名があった事を
昨日ようやく気が付きました!「宮原十兵衛」の名は、お墓だけでなく南藤蔓綿録にも記されていた・・私は今まで何をやってきたのだろう
昨日は、驚いたと共に自分の不甲斐なさに一日中落ち込んでいました。
詳しくは次のコメントで書かせて頂きます。


ウィキの第18代当主相良義陽のページに記されていた弘治3年(1557年)の「一族の反乱」の中で
※頼孝は久木野城に籠ったが、頼房の包囲軍は、頼孝の援軍に来た菱刈重任も返り討ちにし、7月25日にこれを落して、頼孝は菱刈に逃亡した。
と記されていますが

頼房(相良義陽)の包囲軍も7月9日の激戦では、戦死をなさった方々が多数あり
その方々の名の中に
「矢立後藤左衛門」の名が記されていました。

那須氏が相良史に登場した「1559年(永禄2年)、獺野原の戦い」
湯前城主「東直政」の求めに応じ肥後に出兵。大河内城主那須兵部大輔武宗、小崎城主那須下野武晴、向山城主那須左兵衛武綱ら130余人が敗死した。
この記録よりも、2年前にすでに「矢立後藤左衛門」の名は
相良氏の第18代当主相良 義陽の家臣の一人として在ったと言う事になります。
ウィキ「椎葉村」 及び 「獺野原の戦い」 を参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E8%91%89%E6%9D%91
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%BA%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

実は、南藤蔓綿録には上記の「獺野原の戦い」で戦死された「人吉方」の方々の中に
後醍院(後代院)喜六 と言う方の名も記されていました。

参考 後醍醐天皇と後醍醐源氏-公卿類別譜(公家の歴史)様サイトより
懐良親王孫 〔後醍院〕をご覧ください。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/minamoto-godaigo.htm


懐良親王 ━ 良宗 ━ 良忠 ━ 宗親 ━ 良春 ┳ 宗能 ⇒
┣ 良明 ┳ 宗寅(新左衛門)
┃ ┣ 女子(東氏妻)
┃ ┗ 喜六★
┗ 女子

⇒ ┳ 宗利 ┳ 良高 ━ 宗貞(助六.為武者。修行赴関東)
┃ ┗ 女子
┗ 良任 ┳ 宗重 ┳ 頼次(高橋勝三郎。半右衛門。母愛甲氏女。
┃ ┃ 天正元(1573)年生於肥後八代)
┃ ┗ 義信 ┳ 宗恒 ┳ 良乙 ━ 良政(八郎。喜兵衛)
┃ ┃ ┗ 良紀(新三郎)
┃ ┣ 女子
┃ ┗ 良以(於萬。新左衛門。半左衛門)
┗ 頼演(主税助)

うまく張り付いていなければ、申し訳ございません。

系図で見える「後醍院(後代院)喜六」
この方の兄でいらっしゃる「宗寅 新左衛門」
天文十二年(1543年)のお亡くなりになられた方々の記録に「高橋新左衛門」
と言う方がいらっしゃり、
「新左衛門」の通称が見える後醍院氏系図から推測すると
この方は後醍院宗重(高橋宗重)より、先に球磨に在った「高橋新左衛門」の
可能性も否定出来ないと考え、現在、より深く南藤蔓綿録の記述を熟読している
最中であります。

参考 後醍院宗重(高橋宗重) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%99%A2%E5%AE%97%E9%87%8D
後醍院氏は後醍醐天皇の皇子・懐良親王の正平18年/貞治2年(1363年)生まれの子という後醍院良宗(越後守)の子孫にあたるという。
天文20年(1551年)、後醍院備後守良任の長男として肥後国八代で誕生。天正年間始めに肥後国の戦国大名・相良義陽に仕え、佐敷量石の戦いで島津氏の物頭・大磯平内左衛門を討ち取った武功により、主君・義陽より弟・主税介頼演と共に相良氏の庶流高橋姓を賜姓され、一時高橋氏を称す。


後醍院良宗(越後守)の子孫の方々は、本姓を「源」とされ、米良にて「天氏」を
名乗られていました。
実は、ウィキの後醍院宗重(高橋宗重)のページには触れられていませんが
後世の球磨には分限帳にて「後醍院氏」の名が確認出来、
さらに、多良木町槻木の四所神社様の社殿中興を江戸時代「天氏」が行われた記録も残っています。
(詳しくは、後日書かせて頂くつもりです)
おそらく、嫡流以外の「後醍院氏」(高橋氏)は球磨に残られていたのでは?
と私は推測しています。

「天氏」と「米良氏の関係」
武家家伝様サイト 米良氏 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kik_mera.html

米良氏は肥後守護職を世襲した菊池氏の後裔で、二十二代能運の子重次に始まるという。
中略・・
 宇土為光の乱によって、能連の幼子を守って肥後から米良山中に逃れた重房は、すでに米良に住していた叔父武照をたより、さらに西郷・赤星ら菊池一族とともに銀鏡の地に落ち着いた。
菊池氏の幼君の入山に対して、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えた。
米良に拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。これが、米良氏の始まりである。
 ところで、銀鏡の地には南北朝時代における九州宮方の中心であった征西宮懐良親王の一族が入山し、天氏一族が繁栄していたとされる。
また、重次の入山以前に重為・国重らがすでに米良に入っていて、重次は三代目とする説もあるが、年代的にうなづけないものである。一説にいわれる重為・国重は重次と同一人物とする方が妥当であろう。
======================================

※菊池重房は、すでに米良に住していた叔父武照をたより、さらに西郷・赤星ら菊池一族とともに銀鏡の地に落ち着いた。
銀鏡の地には先に南北朝時代における九州宮方の中心であった征西宮懐良親王の一族が入山し、天氏一族が繁栄していたとされる。
★『銀鏡の地』・・銀鏡とは「しろみ」と読みます。

実は、私
米良と椎葉山大河内矢立の関係は、以前からとても気になっていました。

大河内森林ガイドの会様のサイト内にある「大河内の伝統文化」のページ
こちらの『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』の記述の中に
椎葉村大河内矢立と先に書いた『銀鏡の地』のみにしか存在しない
民俗学的にみても、他に類がない「風習」が残っていたからです。
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/culture.htm

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より

(5)ササワキ(漢字不明。「笹湧き」あるいは「笹脇」か?)

雪矢神社社殿のすぐ下に、次の「モリ」と並んで祀られている。「モリ」とは別に供え物をする。伝承、起 源、どのような神であるかは不明。
【作者註】西都市東米良の銀鏡(しろみ)地区では、「ササワキ」は御幣の形であって、流れ 潅頂として川に流すものというが、それ以外の民俗資料で「ササワキ」の名を見つけることが今のところできていない。
椎葉の他の地区で同じ神が祀られている かどうかも、寡聞にして知らない。ために、ササワキが何を意味するのか、どのような神であるのか、あるいは仏教の影響を受けたものか、など、分からないこ とだらけである。

(6)モリ(漢字不明。「森」あるいは「杜」か?)

ササワキの項参照。起源、伝承不明。古老に聞いても「モリは森じゃろうかね?」と返ってくる。
【作者註】もし、この「モリ」が「ソシモリ」のこととすれば、牛頭天王(スサノオ)信仰と かかわりがあるのかもしれない。が、「ササワキ」と並んで祀られていることについても考える必要があるだろう。大河内神楽には、「森」という舞があり、関わりがあるものと思われる。
しかし、これもまた分からないことだらけである。

★ササワキ
西都市東米良の銀鏡(しろみ)地区と椎葉村矢立地区 
それ以外の民俗資料で「ササワキ」の名を見つけることが今のところできていない。

実は、私・・
かなり以前から、この事が非常に気になっていました。
西都市東米良の銀鏡(しろみ)地区と椎葉村矢立地区には、日本全国ではこの2か所のみしか存在しない
祭祀が存在する・・
深い繋がりが「両地」に存在するような気がしてならなかったのです。

そして、気になる理由のもう一つが
祖母の実家の「平川家」に残る、先祖の供養塔である五輪塔です。
かなり以前にコメントに書いた事があります。
五輪塔に刻まれた文字の中で唯一判読可能であったのは「銀水」の文字でした。
銀鏡(しろみ)・・銀を「しろ」と読むのであれば
銀水は・・もしかしたら「しろみ」と読む事が可能なのではないか・・?

銀鏡(しろみ)と銀水
西都市東米良の銀鏡地区と椎葉村矢立

天氏・・米良氏・・椎葉村矢立・・

以前、私は「南朝繋がりか?」と考えた事もあります。
しかし、かなり以前にコメントした米良氏が平重盛の後裔であると自ら公言していた事を知り
それだけではないのでは?と考えていたのです・・・

親戚の話では、私の先祖「矢立氏」は
相良さんが来なったから降りてきた(相良氏が来られたから球磨に降りてきた)
と言う言葉が残っています。

相良さんが来なったから・・・

相良頼景父「相良頼繁」この方は・・平重盛の家臣(求麻外史より)

頭の中に
平重盛・相良頼景・天氏・米良氏・・そして椎葉山矢立・・
百数十年程の間に一体何があったのだろう・・?

昨年の暮れから、今年の正月にかけて、父や椎葉のおじ、他、親戚のおじさん達から聞いていた事で
気になっていた事がありました。
その事を、ブログの方に書こうと、少し書いていたのですが「下書き」に入れて
そのままになっていました・・((+_+))

気になっていた事とは・・
昭和20年代初頭まで続いていた、親戚一同の「米良詣出(めらもうで)」についてです。

父や親戚のおじ達からの話を統合すると
平川の曾祖父(当主)・深水の曾祖母の弟(当主)・多良木平川家の当時の当主(榮次おじ)
黒木家・田山家(曾祖父の弟達)
久米の平川一族(曾祖父の弟達)
湯前の平川一族(曾祖父の弟達)
佐藤家に養子に入った曾祖父の弟
横瀬家に養子に入った曾祖父の弟
新堀家の私の曾祖母の弟(深松家に養子に入る)
祖母の実家の平川家のお隣の平川家の当時の当主(実は新堀家から養子に入る)

皆揃って、年に一度、「米良詣出(めらもうで)」に歩いて行っていたそうです!
歩いてです!それも・・わざわざ、黒原山を越えて、槻木に立ち寄り、槻木経由で山道を進み「米良」へ・・
と言うコースを使いです!
湯前の平川一族(曾祖父の弟達)は、湯前から横谷経由で米良へ・・
米良に到着した「一行」は必ず、米良の宿に2泊はしていたそうです。
泊まりがけで、米良の神社様にお参りをしていた
これが、「米良詣で」です。

曾祖父の弟達は戦前・戦中にかけて亡くなった方もいらっしゃいますので
残った兄弟で「米良詣で」を続けていたようです。
そこに「深水家」・「新堀家(深松家)」も同行していたのであります。
ただ・・曾祖父兄弟一行が椎葉山にも寄っていたかは?残念ながら解りません。

この事を、昨年末から正月にかけて、父や親戚から聞いていて
「いったい何でだろう・・?」とは思ったものの
今まで、コメントに書く事はありませんでした。

米良と矢立との繋がり・・
銀鏡と矢立との繋がり・・祭祀の風習 共通点・・

そこに・・平重盛公の何が繋がるのだろう・・

どうして「矢立後藤左衛門」なのだろう・・

平家の落人伝説と後藤氏と平重盛公・・共通するのは何だろう・・

ここからが、私なりの「調査」の始まりでした。
もちろん、未だ調査途中ですが
今の所、解った事を次のコメントで書かせていた題きます。

どうも・・私の曾祖父の弟達の養子先(平川家以外)が
何か「鍵」を持っているような
そんな気がしています。

では。
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月27日 07時59分06秒 ) パスワード

追記
系図・・うまく張り付いていませんでした(@_@。

皆様、すみません<m(__)m>
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月01日 17時22分40秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

先日のコメント11で書いた事に
曾祖母の実家「深水家」も・・何だか加わってきたようです(..)

松葉宗益 後裔 平賀氏について の方で、
白石様から「相良村藤田」の事を伺って、気になって調べた事を
松葉宗益 後裔 平賀氏について6 のコメント1・2で書いています。
よろしければ、ご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101639_2.html

松葉宗益 後裔 平賀氏について の方でも書いたのですが
私が住む、旧宮原村宮麓にいらっしゃった「出田氏」は
日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101639_2.html

菊池隆則 ⇒ 兵頭経高 ⇒ 兵頭経頼 ⇒ 藤田経家 ⇒ 出田経信・・以降「出田氏」
となり、菊池隆則の後裔、すなわち菊池一族です。

菊池一族と言えば・・と、ここで久米村の在郷藩士「家城氏」が気になり調べた訳ですが
実は、「家城氏」が気になった理由は
家の宮原家のすぐ近くに御鎮座であった「稲積妙見」(稲積神社)は
旧宮原村宮麓内にあった「久米領の飛地」でした。
何時から、久米領の飛地になったかは全く不明です。
ですから球磨の歴史研究家の方々からは、
『宮原村を調べる上で分限帳を見る時は「宮原村」「奥野村」「久米村」を合わせて見た方が良いですよ』
とアドバイスを受けていました。
確かに、家城氏は旧宮原村の史跡にもその名前を残していらっしゃいました。
と言った理由で、「出田氏」と共に「家城氏」が非常に気になった・・と言う訳です。

家城氏を調べた結果
参考 日本の苗字七千傑様 サイトより
《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#002

菊池武本、この方の孫である「甲斐重村」。
「甲斐重村」この方の後裔が「家城氏」である事が解りました。

さらに初めて、ウィキで甲斐氏について勉強した事によって
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%B0%8F

★甲斐姓は、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。

★甲斐重村の曾孫の方が「家城誠昌」、家城氏の祖。

と言う事が理解出来ました。

ただ・・松葉宗益 後裔 平賀氏について の方でも書いたのですが
米良姓甲斐氏との関係も何だろう・・とても気になりました。

『西臼杵郡高千穂町』が登場した事によって
曾祖母の実家の「深水家」に先祖より伝わっている「鰐口」が非常に気になり始めました。
○銅製鰐口
 一面 永享五年(1433年)鋳銅製 撞座区は蓮華文 ・・以下省略します
 一面線刻銘 「奉大日本九州日尚国(日向国)高知尾(高千穂)横切村上寺(黄切竹上寺)」「□干時永享五年(1433年)癸丑年十一月十四日願主敬白」
 他 面線刻銘 「助宗」

「九州相良の寺院資料」上村重次氏著
にも、曾祖母の実家に伝わる鰐口の写真が掲載されています。
そこには『宮崎県高千穂町から移動』と記されています。

私は家城氏を調べた事により
ようやく『日向国高千穂』に近づいた! と言う気持ちになりました・・

補足すると、
深水家以外の集落内の家の親戚関係は、皆、其々の家に「お堂」を建てていて
御仏像・御神像 などをお祀りしていました。
もちろん、家の宮原家(元の場所)にもお堂が建っていて、祖父が
御仏像・御神像が複数御祀りされている事を、今では親戚の(叔父が養子に入った)「伊藤家(秋岡家)の先代」にも話ていた事が解っています。
しかし、星原家が家を継がれて、どうなったのか・・不安ですが解りません・・
(父は、おそらく、神社に合祀されたのだろうと言っています・・)
菊池一族が絡んできて、気になるのは
私の曾祖母の実家、新堀家の跡に家を建て、深松家を継いだ「曾祖母の弟」
こちらの元新堀家(今は深松家)の敷地内にもお堂がありますが・・
男神像と女神像がお祀りされていて、男神像の御胸には並び鷹の羽紋が施されています。
かなり、以前この事はコメントに書いていましたが
今になって、とてもとても気になり始めました・・・・
御堂と言えば・・何故?祖母の実家の氏神様をお祀りの「御堂」は、御堂ではなくて「御神殿」なのだろう・・?

深水家に話を戻して・・
曾祖母の実家「深水家」の御堂には鰐口を含め、

○木造地蔵菩薩立像
 鎌倉時代後期 檜材 一木像 掘眼 彩色像 ・・以下省略します

○銅製鰐口
 一面 永享五年(1433年)鋳銅製 撞座区は蓮華文 ・・以下省略します
 一面線刻銘 「奉大日本九州日尚国(日向国)高知尾(高千穂)横切村上寺(黄切竹上寺)」「□干時永享五年(1433年)癸丑年十一月十四日願主敬白」
 他 面線刻銘 「助宗」

○木像神像(男神像)2体

○将軍地蔵

○木像地蔵立像  室町初期の作か? と書籍に記述がありました。


何故?曾祖母の実家には
「鎌倉時代後期作の木造地蔵菩薩立像」
「日向高千穂から動いた鰐口」
「木像地蔵立像 室町初期の作?」
「将軍地蔵」
など、伝わっているのだろう・・???
と、凄く不思議だったのです。
これって・・普通の事なのかな???・・・と・・・

普通じゃないような気はしていました・・

しかし・・家城氏を調べて・・甲斐氏の記述に『日向国高千穂』が登場し
「鰐口」の謎にようやく、近づいた!と感じた事と同時に
曾祖母の実家の深水家の姻戚関係も凄く大事だったのでは?と言う事に気が付きました。
曾祖母の姪(曾祖母の弟当時の深水家の当主の娘)、つまり私の祖母の従妹の嫁ぎ先が実は「赤星家」だったのです。
(詳しくは書いた事がありませんでした。すみません(..))
私が、以前から何度か書いた「赤星のおばさん」です。
御歳、は90歳を越えていますが、凄くお元気で、私がプクプク太ったので
「家は、プクプク太る血統じゃなか!痩せなさい!」と叱られた事もありました。
トホホ〜・・・(@_@。 (脱線しました)

かなり、前から、何故?深水家から赤星家におばさんは嫁がれたのだろう??
とは、思ってはいたのですが・・・
ここ数日の調査で、真相に近づいているのかもしれない・・
そんな事も考えはするのですが
ただ、一つ、気になる事がありまして・・・

甲斐氏の通字は「重」、さらに米良姓甲斐氏の通字も「重」
もし・・曾祖母の実家が何らかの関わりがあるのであれば、通じが共通の可能性もあるはずですが・・
曾祖母の実家の深水家の御先祖、江戸時代中期以降の方々の通字しか
今の所調べてはいませんが
曾祖母の御先祖様の通字は「良」です。
通称は「源助」の深水源助 この方にも、深水作右衛門も、実名には「良」が付きます。
ちなみに・・深水作右衛門は明治以降「良一」と名を改めました。
深水作右衛門改め「深水良一」この方は私の高祖父であります(..)

曾祖母の実家の深水家、先代のおじは次男で、長男は教員をされていたので
次男が広大な農地を含め家を継いでいました。
この次男のおじさんは、深水家を「家は藤原氏だ」と言われていたのですが
教員をされていた長男の方は「家は元は本姓源(みなもと)で、相良の殿様から深水の姓を頂戴した」と自分の子供達には教えていらっしゃったのであります。
非常に貴重な話だと思います。
ちなみに、曾祖母の実家「深水家」の縁戚関係、明治以降、昭和20年代初頭までの事なら書いても差し支えないかな・・と思い
私が知っている範囲で書きますと
「深水家(湯前)」・「永田家(湯前)」・「平川家(私の祖母の実家)」・「椎葉家(曾祖母の兄が家を継ぐ)」
「福田家(湯前村第7代村長)」・「尾方家」・「赤星家」・「田原家」・「金子家」
「尾方家(元は緒方。五木村の代々の地頭家)」・「和田家」・「黒肥地家」・「愛甲家」
「宮原家(家の宮原家の縁戚)」・「那須家」
等となります。(あくまでも、私が知っている範囲ですが・・)

※本姓「源(みなもと)」であり、通字は「良」であった「深水家」
そこには、何故か『日向国高千穂』から動いた鰐口が今でも伝わっている。

やはり、甲斐氏・家城氏を調べるのは重要だ!と思い、さらに調査を進めてみました。

すると・・・今回も!「太田亮博士」が私に大事な事を教えて下さったようです!

皆様、ぜひ、ご覧になられて下さい。
国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典 1巻
コマ番号919以降に菊池一族「甲斐氏」について記されています。
そこには驚きの「言葉」がありました・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/919

私が本当に驚いた記述を書き出します!

コマ番号919より
時に武本(菊池武本)遺跡を相論し、遂に鎌倉に至りて北条家に訴え
判ありて地を時隆(菊池時隆)に■す。
武本之を憤り、鎌倉諏訪氏宅にて時隆と刺し違えて死す

コマ番号920より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/920

重安(甲斐重村子息)は「応永三十四年生、明応四年三月朔日死」※応永三十四年(1427年)〜明応四年(1495年)

家城長門守誠昌(※甲斐重安孫)は日向高千穂河内城主なりき。

親亘(甲斐氏4代当主。※甲斐重安孫)は日州高智穂の郷士也。

家城氏先祖「家城長門守誠昌」と言う方は日向高千穂河内城主でした・・!!
甲斐親亘(甲斐氏4代当主)はウィキによると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E8%A6%AA%E5%AE%A3

甲斐 親宣(かい ちかのぶ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。阿蘇氏の家臣。甲斐氏4代当主。
甲斐氏は菊池氏庶流で日向国高千穂鞍岡の国人。甲斐重綱の子として誕生。

と記されています。

私の高祖母の実家「深水家」に伝わった「鰐口」
銅製鰐口
 一面 永享五年(1433年)鋳銅製
つまり、鰐口が作成された当時の高千穂は、甲斐氏の一大勢力下にあった
と言う事が十分に理解出来ました。

ただ・・太田亮博士の姓氏家系大辞典に記されていた内容で
私が鳥肌が立つほど驚いたのは、以下の記述でした。
(皆様はすでにお気づきかと思いますが・・)

時に武本(菊池武本)遺跡を相論し、遂に鎌倉に至りて北条家に訴え
判ありて地を時隆(菊池時隆)に■す。
武本之を憤り、鎌倉諏訪氏宅にて時隆と刺し違えて死す

※鎌倉諏訪氏宅にて時隆と刺し違えて死す

鎌倉諏訪氏宅・・・えええっ!!?

諏訪氏が登場した・・!?

そこで、この内容をさらに調べたのですが
以下のサイト様に詳しく記されていました。

忠誠の菊池一族様サイト より
http://www.kaff.jp/page006.html

歴史の真実
菊池家の相続争い より、勝手ながら引用させて頂きます。

菊池武重の父、武時は、武房の子隆盛の二男(武房の孫)として生まれました。
隆盛は、父の武房より早世したため、隆盛の嫡子時隆が祖父武房の養子となり家督を継ぎました。
武房の没後、本家相続に関して惣領時隆と叔父六郎武本及び八郎武経が争い、これを鎌倉幕府に訴えましたが、裁判の結果、本家惣領の時隆が勝訴しました。
叔父の武本はこれを恨み、鎌倉の諏訪左衛門尉宅で甥の時隆と刺し違え、二人とも没しました。
時は、嘉元二年(1304年)、時隆は僅か十七歳であったと言われています。この後、叔父八郎武経も他国に去り、武本の子は逃れて甲斐の国、都留郡に滞在し甲斐姓を名乗りました。
その孫重村は延元年中、九州に下向しました。のちの甲斐宗運はその子孫となります。
惣領時隆が叔父の六郎武本と刺し違えて没した跡は、時隆の弟、次郎武時が十四歳で家督を相続しました。
これまで、菊池家の相続は父親の指名によって決定されましたが、父が早世したためでしょうか? このような家督騒動に発展してしまいました。
身内でも相続争いとなりますと、相当に激しい戦いとなるのがこの時代の特徴かもしれません。
その結果、特に戦国の時代ですから親子兄弟であっても家督を争った者が、何事もなかったように仲良く、同じ国(肥後)の中に存在することは、ほとんど不可能だったようです。
以上 忠誠の菊池一族様サイトより

★叔父の武本はこれを恨み、鎌倉の諏訪左衛門尉宅で甥の時隆と刺し違え、二人とも没しました。

鎌倉の諏訪左衛門尉宅
諏訪左衛門尉・・諏訪左衛門尉?・・!!

私! 今回のスレッドで何度も「諏訪左衛門」と言う方について書いていました!

コメント3です
諏訪左衛門入道真性・・・諏訪盛経
諏訪盛経 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%9B%9B%E7%B5%8C
諏訪 盛経(すわ もりつね、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士。得宗被官。父は諏訪盛重。通称三郎、左衛門尉。真性と号する。文永3年(1266年)以前には出家していたと推定される。

さらに
諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載された

と言う事から、平河氏の訴訟の相手となった
備前々司入道(北条朝房)の現地代官「竹井二郎右衛門入道行性」を調べ・・

結局「諏訪氏」・「片倉氏」・「竹井氏」が同族である・・
と言う事を理解したばかりでした・・

どうして・・こんなに、色々繋がってくるのだろう・・??

不思議というより・・今回ばかりは「信じられない・・」と言う気分です・・

ただ・・
曾祖母の実家深水家に「鰐口」が「日向高千穂」からどのように伝わったのか?
この部分が全く不明ではありますが
しかし
近くに「家城氏」が住されていたと言う事から、「家城氏」から深水家に伝わった・・
と推測する事も可能ですが・・
では・・
何故?深水家と赤星家は姻戚関係にあるのか・・?
と考えると

単純に「家城氏」から「深水家」に伝わった・・と推測するだけでは
何だか「重要な事」を無視してしまうような・・
そんな気がしているのです。

それと・・
深水の曾祖母の弟の方も、平川の曾祖父達と一緒に「米良詣出」に行かれていた・・
この事も、物凄く気になる事の一つです。

実は、私、気が付いていた事があるのですが
後醍醐天皇の皇子・懐良親王の正平18年/貞治2年(1363年)生まれの子という後醍院良宗(越後守)の子孫にあたる後醍院氏(高橋氏)
後醍院良宗(越後守)の子孫の方々は、本姓を「源」とされ、
米良にて「天氏」を名乗られていました。

先日、書いたのですが、通称は「新左衛門」

球磨に御醍院氏の名が江戸時代末期にも見られる事から
高橋新左衛門と言う方の後に「新左衛門」を名乗られた方がいらっしゃったのか
調べたのですが
すぐに見つける事が出来たのです。

高橋新左衛門、この方の時代のすぐ後の時代・・

その方は・・深水新左衛門
でした。

何だろう・・この事は偶然なのか??
しかし、当時、深水長智の系の深水氏(深水一族)は・・
犬童頼兄によって殆どが滅ぼされていました。

深水頼蔵 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%B0%B4%E9%A0%BC%E8%94%B5

文禄2年(1593年)、頼蔵派である竹下監物とその嫡子の知行が太閤検地により真先に召し上げられるのだが、監物はこれを頼兄の計略と訝った為に不穏な状況となり、深水一族600人は湯前城に籠城する。
ちょうど朝鮮に渡海していた頼房は、頼蔵を呼び出し詰問するが、自分は関知していない旨を伝える。頼房は籠城した者らに切腹を命じ、監物ら数名が切腹して事態は一応の沈静化をみた。
慶長元年(1596年)10月13日、相良頼房が大坂から球磨に帰還した折、頼蔵は加藤清正の元へ出奔、実父の織部もこれに続き佐敷(現:熊本県葦北郡芦北町)に住んだ。
頼兄は二人の妻子を捕えて監視させたが、これに深水一族は反発、恨みから町屋を殺掠する事件にまで発展する(犯行に及んだ9人が討ち取られ、残りは逃亡)。
また頼蔵の移り住んだ佐敷が深水氏縁故の土地であった為に、出奔を企てる深水一族が後を絶たず、犬童頼兄はその通路に待ち伏せさせ、一挙に73人を殺害した。
これらの事から頼蔵は、頼兄の深水一族への行為は私怨によるものであるとして石田三成に訴え出たが、頼兄は主君・頼房からの証文を所持していた為、逆に捕縛命令が出されてしまう。
その追手は山井五郎により殺害され、頼蔵は事無きを得たものの、清正に従い渡海した後、蔚山の戦いにて没する。
この犬童頼兄と 深水頼蔵ら深水一族の対立は人吉藩の藩内抗争を招き、版籍奉還を迎えるまで治まらなかった。


高橋新左衛門(御醍院氏)の後の「深水新左衛門」

気にし過ぎかもしれませんが・・何だか妙に気になります・・
がっ・・きっと、私の気にし過ぎでしょう(..)

非常に長くなりましたが
どうやら、家の親戚関係は、
1180年代から1400年代までの約250年間の中に
真実に繋がる「鍵」が隠されている
そう言う直感はしています。

では(..)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月03日 10時08分24秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日、椎葉のおじと久しぶりに沢山の話をしました。
おじは、約2カ月間、天草の方に行かれていたので
私は、聞きたい事が山積みで・・

でっ!
最近調べた事について、椎葉のおじから「大進展」となる話が聞けましたので
御紹介させて頂きます(^O^)/

題して
『私の直感は・・当たっていました\(^o^)/』 です(p_-)

コメント7で書いた

犬童七兵衛
元は矢野孫七郎と申して八代居住仕候、若時より方々走廻り堅き侍にて候とて、
長毎公求麻へ召寄せられ、扨方六つか敷所へは七兵衛を差遣わされ候、
無事首尾克く相調り候、其後岡本の城代に仰付らし岡元に居住仕候、
先年肥後の日高城にても鎗無類の事共に候也

★犬童七兵衛 もとは 「矢野孫七郎」と申して
相良長毎公求麻へ召寄せられ、岡本の城代に仰付らし岡元に居住仕候

こちらの「犬童七兵衛」さんと
親戚の犬童家(上村)の「岡本」の数基のりっぱなお墓
の関係を私は凄く知りたかったのです(p_-)。

そこで、椎葉のおじに質問をしました(p_-)

質問その@ 
親戚の犬童家(上村)と岡本の関係は?

おじの答え 
上村の犬童家は、むか〜しは、岡本におんなった(居た)。岡本から上村に移ったそうだ。

質問そのA
岡本にある上村の犬童家の御先祖様のりっぱなお墓。場所は?

おじの答え
岡本の長岡にある。『中村家』の敷地内で『中村家』がお守りしている。
上村の犬童からも、毎年、盆正月はお参りに来られるとバイ!
お墓は物凄く古〜かとバイ。「名前はしち・・?何じゃったかな?忘れた(-.-)」

私・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/ なっ!ナンデスト!? 『中村家』!!??


質問そのB
長岡の『中村家』って!? どう言う関係!?

おじの答え
バカ!!『中村タイ!』、ここ(宮原)とも親戚タ〜イ!

私・・ええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ あの『中村家』!?

ええええええ〜っ\(◎o◎)/!

椎葉のおじ
長岡の『中村家』と『中村(免田某地区、本姓橘)』は兄弟ぞ〜っ!!
ナンカ!? お前そんな事も知らんかったんかっ??(?_?)

私・・ええええええ〜っ\(◎o◎)/!
あっ!(p_-)・・そう言えば・・ばあちゃん(祖母)が何かそのよ〜な事を言っていたな・・(忘れてた・・)

復習します(..)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家(椎葉のおじの妻である椎葉のおばさんの母と平川家の私の祖母の兄嫁は姉妹で其々中村家から嫁いで来られた)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家
矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されている。』

さらに、この関係に書き足すと
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家(平川家から養女が入る)⇔犬童家(上村)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家⇔犬童家(2軒※犬童家より養女(祖母の義妹。※岡本犬童家に祖母の従妹が嫁ぐ)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家
となります・・!

ぎえ〜っ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「お墓」を守る一族・・上記の親戚関係そのままだ〜っ!!

椎葉のおじに、私が質問した意味、そして、今回、発見した
南藤蔓綿録に記されていた『★犬童七兵衛 もとは 「矢野孫七郎」と申して』の
犬童七兵衛さんのお話をすると・・

椎葉のおじも
わ〜っ!\(◎o◎)/! ナンカ!?
長岡のお墓は古か〜御先祖様とは聞いていたバッテン・・
家の親戚関係は500年前から続いているトカ!?凄かねぇ!!!
と(;一_一)

本当だ・・凄すぎる・・恐るべし・・家の親戚一族・・(@_@;)

でも・・まあ(p_-)・・遅くても500年前と言うだけで
本当は・・も〜っと前からじゃあ〜りませんかぁ〜(-.-) と推測(p_-)

しかし・・驚きの展開はこれだけではありませんでした(ー_ー)!!

椎葉のおじ
長岡の中村の『みどりシャン』がお墓ば守って来たとバイ
(みどりさんがお墓を守って来た)
『みどりシャン』は、家のばあさん(おじの母、つまり、私の祖母の姉)や
ここ(宮原)の叔母(私の祖母)が妹みたいに可愛がっていたとバイ!

ここまで、椎葉のおじと私の会話を
「ホ〜ッ!(p_-)」と言いながら聞いていた、父が・・突然!

『ミドリしゃん!?』 えっ!?『ミドリしゃん!?』
おい!早くあの書類を!!
と私に。

私は、祖母の平川家の縁戚関係等が記された書類を父に渡しました!

かなり以前にコメントした
祖母の実家の平川家に養女に入っていた「ミドリ」さん。
祖母達、姉妹の義妹になられていました。
「ミドリ」さんの実家は「犬童家」
「ミドリ」さんの実家の「犬童家」は、元は姓は「平川」で、
分家して「犬童」に改姓されたお家でした。

父が椎葉のおじに「この書類」を見せると・・

椎葉のおじは「あっ!このミドリさんタイ!」と・・

父と私(p_-)
「何で!?中村のミドリしゃんなの!?」

椎葉のおじ
ミドリしゃんは『中村家』に嫁さんに入ったとタイ(^◇^)
と・・

父と私
えええええ〜っ!!\(◎o◎)/! ナンデスト!!
犬童家(旧姓平川)から祖母の実家の平川家に養女に入った「ミドリさん」が「中村家に嫁いでた!?」

この500年以上前からの繋がり・・
尋常じゃない(ー_ー)!! 凄すぎるぅ〜!!

普段は冷静な父も凄く驚いていました・・

と言う事で(p_-)
私が南藤蔓綿録で発見した方
『犬童七兵衛 もとは 「矢野孫七郎」』 の犬童七兵衛さんは
家の親戚関係を結ぶ
とてもとても重要な方であった事がよ〜く解りました。

でも・・何だかとても嬉しい気分です(^◇^)

ただ・・・
もっと書きたいのですが・・今
避難勧告が出たので・・
家の事を今からします(..)

では(..)
[15]たけぽんさんからのコメント(2018年07月10日 19時21分05秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2018年07月10日 23時22分52秒
[16]たけぽんさんからのコメント(2018年07月10日 23時23分57秒 ) パスワード

ミヤハラ様、皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
梅雨とあの豪雨で、体調を崩して
辛うじて復活出来ましたm(_ _)m

三宅の事まで調べて頂いてるのに
なかなか来れなくてすいませんでした
(T-T)(泣)

宮原様
貴重な物を拝見させて頂き
ありがとうございました(^^)

ミヤハラ様
こちらは避難速報は夜通し鳴り響いてた?
ですが、うちの避難勧告は出ませんでした

仏様の御加護と、有り難く
感謝しています(^^)

ですが、今回の異常気象の様な・・・

被害に合われた方々の事を思うと
複雑な気分です(..)・・・

ミヤハラ様の所は、大丈夫でしたか?

調査の件

じっくり読んで、勉強させて頂きます
m(_ _)m
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年07月11日 19時23分52秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

今回の西日本豪雨により
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
行方不明の方々が、愛する御家族の元へ一刻も早く御帰りになられる事を
お祈り申し上げます。
被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

たけぽん様
体調を崩していらっしゃったのですね。
もう大丈夫ですか?

私も今回ばかりは、体調が崩れ、久々の喘息で・・
今日も人吉の医療●●ターで診察を受けて参りました。

心臓の疾患や喘息は苦しいものですが
しかし、それは、自分が生きている証であり
今回の豪雨で、あらためて「命」の尊さを
考えました。

生きてさえいれば、笑ったり泣いたり
怒ったり・・喧嘩したり・・
愛したり・・何でも出来る

その尊い命が沢山の方々の命が一瞬にして失われてしまった
テレビの映像を見ていて、
あまりの光景に、言葉を失いました。
大切な家を失われた方々、被害に遭われた方々の御心境を思うと
どんなに怖い思いをされたのかと思うと
いたたまれない気持ちになります。



ここ数日は
もちろん体調不良もありますが、
コメントを書く気力が起こりませんでした・・

この間、書籍を読んだり、旧宮原村の古地図を見たりして、
あらためて、勉強をしていました。

古地図から、気が付いた事等
もしかしたら、「今の自然環境に対して過去からの教えに繋がるのでは」と
思う事にも気が付きましたので
少しずつ書かせて頂こうと思っています。

たけぽん様
猛暑ですね。お互いに、身体は十分に気を付けましょうね(^'^)

では。
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年08月18日 07時31分20秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 お久しぶりです。

猛暑と逆走台風等で体調が悪くなり喘息が起きてしまいました。
喘息が治まっても、中々コメントを書くと言うか・・
言葉を書き留める気力が湧いてこなかったのですが
最近、ようやく元気が湧いてきました。

これからは、しっかりと、前にも増して「調査」を精力的に進めて参ります!
でも、無理はしません。体調に合わせて頑張ります!

私が言葉を書き留める勇気を頂いたのは「ある動画」がきっかけでした。

その動画に関してブログで御紹介しましたので
よろしければ、皆様、ご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12398607353.html

ブログでも書きましたように
神武天皇様が
『みつみつし 久米の子』と御歌いになられた
勇猛果敢な久米の子の古(いにしえ)から伝わる球磨の子(久米の子)の
魂・精神(スピリット)をSAKURA組さんと南陵高校ダンス部の方々の「ダンス」で感じました!

私も、球磨のスピリットを先祖の調査によって皆様へお届けしたい!と
心から感じました!

実は、こちらに今回コメントを書く前に、ブログの方で復帰?していました。
麻郡神社私考の記載の「中嶋大権現(中嶋神社)」の古の祭祀について
書かせて頂きました。
私の住む集落に御鎮座であった「中嶋大権現(中嶋神社)」の古の祭祀とは

七月七日社壇ヲ出シ奉テ神衣ヲ更(カユ)
是ヲ御濱出ト云

中嶋大権現(中嶋神社)の御祭祀
御濱出 七月七日 社壇を出し奉りて神衣を更(カユ)

でありました。
この事から調査した内容をブログの方に書かせて頂いています。

皆様、よろしければご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12396716659.html

地元の神社様に伝わっていた古からの祭祀が
私が知りたいと願う、古代の真実に繋がっているような気がして参りました。

実は、こちらにコメントを書いていない間、ブログを更新していない間
この間、書籍や色々な方々から頂いていた資料等を読みながら
沢山の事に気が付いていました。

その「沢山の事」もこれから、順を追って書かせて頂くつもりです。

その中の一つを今回御紹介させて頂きます。

私は、本当におっちょこちょいです!
こちらのコメント2で「財部氏」「日向財部(現在の高鍋町)について
書かせて頂いていました。

しかし・・実際には、私・・「財部」について書いていたのは
初めてでは無かったのです!!
平川家について28 コメント31・平川家について28+1 コメント74
等で、すでに日向財部について、私は書いていました!
全く気が付いていませんでした・・・(>_<)

平川家について28 コメント31
http://hikoshima.com/bbs/heike/101490.html

平川家について28+1 コメント74
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101506.html

相良定頼并一族等所領注文には
木公左衛門尉跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾五町
日向国財部郷田地

同新三郎跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国財部郷田地

と記されていたのです!!
私は・・・今まで全く気が付いていなかった・・・
本当におっちょこちょいです!!

平川家について28+1 コメント74では
『久米郷東方橘遠江入道跡 が三か所ありました。
相良定頼并一族等所領注文は年月日不詳とあります。おそらく1350年代の事かと推測されているようです。
その後、久米郷では1366年に橘薩摩公多所領譲状で、橘公多が橘左衛門に久米郷東方下分宮原を譲与している事がわかります。
1368年には薩摩の祢寝氏に八月二十二日多良木(相良)前上総介頼仲・橘前佐渡守公頼・相良近江守前頼等が書状を出し、さらに1377年「一揆神水契状案」では球磨郡内の複数の名が書かれていて久米郷からは「久米代 大善亮為頼」「奥野代 源助景」「岡本 筑前守頼季」「宮原 橘公冬」の名が記されています。』

と書いていたのですが
『日向財部』については、私・・全く触れていませんでした・・・(>_<)

式部丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾町
日向国三俣院内南方田地

木公左衛門尉跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾五町
日向国財部郷田地

中務丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国三俣院内南方田地

同新三郎跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国財部郷田地

日向財部郷、そして日向三俣院。

さらに平河氏に関しては
平河又三郎分
日向国真幸院引田貳拾町 頼尚跡
日向国三俣院内南方田地伍拾町


平頼盛、この方の後裔の方々が「日向」に来られた事を、最近勉強していたのに
私は「球磨と日向・・特に「財部(高鍋)」との接点とは何だろう?』
『何も見つからないな〜?』
などと、実は考えていたのです。

自分自身が情けなくなりました。

ちゃんと、今までの調査で、コメントに書いていたのに・・
気が付いていなかった・・
本当に情けない・・

しかし、非常に興味があるのは
久米の領主「橘遠江入道道公」と「日向財部郷」が
セット?となっている事です。

つまり・・
全く別々の方向から調べていた
私の今までの調査「2件」は『やはり「繋がっていた」』・・と言う事になります。

自分でも驚いています・・

相良定頼并一族等所領注文は非常に重要な史料なのだ!と言う事を痛感致しました。

そこで!意を決して、以前アップしていた相良定頼并一族等所領注文について書いたブログを
一般公開に切換えました。

球磨以外にも肥後国・日向国・肥前国に広がっている
相良定頼の一族と記された方々の所領地が確認出来ます。
皆様、よろしければ、ご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12099386694.html


次回は、相良長頼、この方と共に遠江国や他地域から球磨に来られたであろう方々について
先にも書いたように、新しく解った事がありますので
まとめて、書かせて頂きます。

気持ちもあらたに、調査を進めて参ります。
今後とも、皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

ミヤハラ
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年08月26日 09時09分42秒 ) パスワード

皆様、今日は。

先祖の調査とは直接関係はないのですが
この夏、あらためて、平和を考える二つの出来事がありました。

ブログの方にその二つの出来事を書かせて頂きました。

戦艦球磨の艦内神社について他、戦争に向かう時代の事を書いたブログ
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12399572697.html

平和を取り戻す為に御尽力された人吉出身の高木 惣吉海軍少将
そして「人吉海軍航空隊」さらに、初めて知った「オリンピック作戦」について
書かせて頂いたブログ
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12400426286.html

です。よろしければ、皆様、ご覧ください。

後のブログの最後に書いたのですが
『私は、いつの時代にも「影」の存在であるように”描かれる「球磨」”が、実は、
歴史の大きな流れにいつの時代も関わっているような気がしています・・
この気持ちは前にも増して強くなっているのも、事実です。』

この言葉が今の私の心境です。

ブログで御紹介したのですが
その日歴史が動いた様サイト 
日本列島を壊滅するおそれもあった「ダウンフォール作戦」 ご存知ですか? にも詳しい記述がありました。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2015/11/01/62310
『1945年(昭和二十年)11月1日は、第二次世界大戦の連合軍による「ダウンフォール作戦」の開始予定日でした。詳細を知れば知るほど、「この日、歴史が動かなくてよかった」と思わざるを得ない作戦です。』  その日歴史が動いた様サイトより

私も心からそう思いました。
そして、本土決戦(ダウンフォール作戦)を食い止めようと、戦争終結に身を呈して尽力された
人吉出身の高木 惣吉海軍少将を
郷土の誇りと尊敬致しました。

あらためて、戦争により犠牲となられた方々を思い、平和の願いを心よりお祈り致します。
[20]たけぽんさんからのコメント(2018年09月01日 17時13分01秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
今年の夏は、色々と異常な感じですね(-_-;)

やっと体調もましになってきたかな?と思ったら
今度は台風やらなんやらで、色々な事に
戦意消失しておりました。。(〃_ _)σ‖

その間には、隣保班のお葬式やらなにやらで
結局の所は戦意もどうにか持ちこたえてる
状態です('';)(苦笑)

ミヤハラ様
ご心配おかけして申し訳ありませんでした

ミヤハラ様は体調は大丈夫ですか?('';)

お互い、無理せず
ぼちぼちとやって行きましょう(^^)b

ところで

うちも、祖母のすぐ上の兄さんが戦死して
いるので、人事とは思えないです(..)

球磨郡に戦争の資料館?が
できたそうですね(-.-)

一度、ゆっくり時間をとって
伺いたいですね(..)

しかし平河は・・・

どこまで行っても謎だらけ
ですね(T-T)(笑)
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年09月05日 08時32分53秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

たけぽん様
お返事遅くなりまして申し訳ございませんでした。
私・・台風が体調を崩す原因の一つである事は明確で、
ここ数日、ゴホゴホヒューヒュー咳が続いていました・・・
今回の台風で被害に遭われた方々、大変な怖い思いをされた方々に
御見舞い申しあげます。

たけぽん様の御ばあ様のお兄様が戦死なさったのですね。
家も、祖父は戦争での怪我が原因で亡くなりました。
戦争は絶対に起こってはいけない。
平和が続く事を祈る、と言うか平和を守るのが現代を生きる人達の役目だと
私は思っています。

今回、あらためて戦争について考えた時に、
旧日本軍が占領した地域について勉強しました。

画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/ee/292d27524c0a98ca0e1ebdaa2a560f5d.png

画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/75/379c401310fbf01248419cc45d3285ff.jpg

私が何年も調べてきた事・・古代・・
何か、関係があるのではないか? 
当時の日本軍は何か、勝手な思い込みの「正義」を貫こうとしたのではないか?
そんな事まで考えてしまいました・・・




所で・・話は変わるのですが
先日8月27日は亡くなった弟の誕生日でした。
この日に起こった、私にとっては「奇跡」を
たけぽん様、皆様にお話したいと思います。


御盆に、仏様まいりに家に来られた親戚(父のふた従弟夫婦)から、8月25日に電話がありました。
内容は
『父の身体や、私の身体が心配だから、使っている水素水の生成器を家にプレゼントする』
と言うお話でした。
高額な品を頂く訳にはいかないと、伝えると
親戚は、「他に同型の新しい生成器が家にあるから大丈夫、●●ちゃん(父)の身体も心配だし○○(私)にも出来れば飲ませてあげたいから」と。
私は、やはり高額な機械を頂く訳にはいかない・・と思い父にも気持ちを伝えたのですが、水素水の生成器以外に、おばさん手作りの「ラズベリー酵素」は
以前から頂く事にしていたので、酵素を頂きに伺う話となりました。

8月27日、いつものように、仏壇にお参りをする際に、
天国の弟に
「今日は誕生日だね。姉ちゃんは○○(弟)に心配をかけないように、ちゃんと頑張るからね。安心して御仏様の御膝元で幸せにお過ごしください。」
と話しかけました。

それから、すぐに、先の親戚から電話がありました。

「出来れば今日、遊びに来てくれたら嬉しい」と言われたので
私も、ラズベリー酵素を楽しみに、親戚に行く事にしました。

親戚に到着して、酵素を美味しく頂いて、おじさん、おばさんと話をしていると
おじさんが
「●●ちゃん(私の父)は、自分を子供の頃からとても可愛がってくれて、俺は本当に大好きだった(^'^)
それに、●●ちゃんは、凄くかっこよくて、俺の憧れだったとよ(^'^)
でも、この前仏様まいりに行った時に、●●ちゃん(私の父)の事がすごく心配になった。
●●ちゃん(私の父)にずっと元気でいて欲しい。
俺も、水素水を飲んで、体調が良くなったから、家で使っていた物だけど
もらって欲しい、家には他にもあるから」
と。
おじは、医療関係の仕事をしているので、個人的に健康を考えて水素水を飲んでいるそうです。
父もおじさん(父のふた従弟)が大好きな事は私も良く知っているので
おじさんの気持ちを考えると、断るのは失礼かな・・そう考えました。

さらに、おじさんは
「○○(私)は、病院の先生に水素水を飲んで良いか聞いてごらん」
と私の身体を気遣ってくれました。

おじもおばも、私の弟が筋ジストロフィーであった事、私がキャリアである事は
もちろん知っています・・

おじさん夫婦は、私の事もずっと心配してくれていた事が顔を見てよく解りました。
そこで、私は、おじさん夫婦の御好意をありがたく受け止め、機械を頂く事にしました。

帰りに、おじは、私を車の所まで送ってくれたのですが、ポツリと
「○○(私)が今日家に来たのは●●君(弟)の誕生日でもあって・・何か
●●君が導いたような気がする・・」
と言ったのです・・
私は・・おじさん、何か不思議な事を言われるなぁ・・とその時は思いました。

家に帰って、お礼の電話を入れると、おじもおばも
「あのね・・不思議なんだけど、○○ちゃん(私)が水素水の機械を受け取ってくれて、私達、何故か”ホッとした”ね・・って話していたの
何故ホッとしたのか良く解らんけどね・・」
と笑っていました・・

頂いたのは良いものの・・・
私、水素水については全くの不勉強で・・(?_?)・・(@_@。
そもそも・・水素水って何だろう?(;一_一)・・(?_?)
と思い、家に帰って調べて見ました(p_-)

水素水 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E6%B0%B4

凄く難しい事も書かれているので、抜粋すると
※2007年以降に水素に関する医学的な研究が日本、アメリカ、中国にて増加し、2015年6月までに水素水の臨床試験は14研究報告され有意な効果がみられている。電解水素水では、パーキンソン病患者での二重盲検法試験、人工透析の際の透析液としての利用研究がある。

生体研究
※1997年に、白畑實隆らは電気分解した水(電解還元水)を使った実験を行い、活性酸素種によるDNA損傷を抑制することを報告し、その作用は活性水素[26]と呼ばれる水素原子によってもたらされていることを示唆しているとの仮説を、Biochemical and Biophysical Research Communicationsにて報告した。

※2017年の研究では、電解水素水は単に水素を溶存させたよりも活性酸素消去能力が高く、白金ナノ粒子などほかの要因が仮定できるとされる。

※2007年には太田成男が、動物実験において脳虚血などによって生成されるヒドロキシルラジカル(・OHと表記される)に対して、水素がもつ抗酸化、抗アポトーシス作用によって選択的に保護できることを『ネイチャー メディシン』にて報告し、これ以降、水素の研究が進展している。

※東北大学病院の中山昌明と整水器メーカー日本トリムは、血液透析用水に水素水を使用することで透析患者の慢性炎症、酸化ストレスを抑制することを見出した

※福島県立医科大学の研究者らは水素分子を中心的な役割にあるとみなして、データ化のための指標とし、電解水を人工透析の際の透析液として利用し、2015年時点で多施設での観察研究が実施されていることを報告している[4]。2016年の報告では、酸化ストレスや炎症、血圧の抑制、降圧薬の使用量の減少などが見られている

※山梨大学教育人間科学部とパナソニック電工の共同研究では、二重盲検法によるランダム化比較試験において、水素を溶存させたとされる水素高溶存電解アルカリ水は、単に浄水を飲んだ場合と比較して活性酸素による生体内酸化ストレス値を40%と有意に低下させた[39][40]。
岡山大学病院における臨床試験では歯周病治療に加えて、7人に水素水を、比較対象として6人にただの水を飲んでもらったところ、8週間後には、歯周ポケットの深さと体内の活性酸素の量は、水素水を投与したグループのほうが低かった

※日本医科大学の太田成男らは、ストレスを与えたラットの脳細胞の増殖がストレスによって抑制された状態を改善した[42]。九州大学とパナソニック電工の研究グループは水素入りの水がマウスの脳細胞の破壊を抑え、細胞を壊す原因とされる活性酸素も減ったことを確認し、パーキンソン病などの予防の治療につながるのではないかとコメントした

等・・・・・

私に理解出来た事は・・
水素水は細胞を壊す原因とされる活性酸素を抑制する働きがある・・
と言う事などでした・・・



8月27日の奇跡
ここまで、書いたように、亡くなった弟の誕生日、私は親戚から
「細胞を壊す原因とされる活性酸素を抑制する働きがある」と言われる水素水の生成器を頂いたのですが・・
翌、28日。
私は・・この事が奇跡だ!と思う記事を目にする事となりました・・・

8月28日、朝一番にネットニュースを何気なく見ていた私は一つの記事に目が釘付けになりました。

酸化ストレスで筋ジス悪化 京大、iPS実験で治療法へ一歩 京都新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000005-kyt-sctch

患者由来のiPS細胞(人工多能性幹細胞)で作った筋肉細胞を使った実験で、炎症などで生じる酸化ストレスが、特定の筋ジストロフィー悪化の一因であることが分かったと、京都大iPS細胞研究所の研究グループが27日発表した。治療法開発につながる成果として、英科学誌に掲載された。

中略・・
櫻井英俊准教授らは、患者由来のiPS細胞から分化させた筋肉細胞で、原因遺伝子の発現を確認。培養液に過酸化水素水を加えて酸化ストレスを与えると、原因遺伝子の発現量が約3倍になった。酸化ストレス下で抗酸化剤を加えると、発現量が抑えられた。

原因遺伝子の発現を引き起こす別の小規模な遺伝子変異をゲノム編集で修復したところ、原因遺伝子の発現を抑える効果もあった。櫻井准教授は「まずは抗酸化作用のある治療薬の開発や、不明な点が多い病態の解明につなげたい」としている。
========================================================


★酸化ストレス下で抗酸化剤を加えると、発現量が抑えられた。

鳥肌が立ちました・・・
驚き過ぎて、言葉がしばらく出てこずに・・そして、わぁ〜っと涙が溢れてきました・・

本当は今まで怖かった・・
筋ジストロフィーのキャリアである自分が、心臓以外にこれから先・・
何か別の症状が現れるのではないか・・
自分はどうなるのだろう・・
それを考えると、本当は今までずっとずっと怖かったのです。
私の心の中を占める大きな闇でした・・

医学の進歩によりiPS細胞の研究により
筋ジストロフィー悪化の一因が酸化ストレス(活性酸素)であり、酸化ストレス下で抗酸化剤を加えると、発現量が抑えられた。
と言う所まで解明された!

本当に、嬉しくて涙が止まりませんでした。

そして、すぐに気が付いたのです。

私が昨日8月27日に頂いたのは
細胞を壊す原因とされる活性酸素を抑制する働きがあると言われる水素水の生成器。

こんな偶然って・・・
そう考えた瞬間・・また・・涙が溢れてきました。

きっと、弟が私を守ってくれたのだ・・。

亡くなった弟の誕生日、天国の弟に私は
「姉ちゃんは○○(弟)に心配をかけないように、ちゃんと頑張るからね。安心して御仏様の御膝元で幸せにお過ごしください。」
と話しかけました。

弟が、一番安心出来る事は、私が健康で、父と主人と3人で幸せに暮らして行く事

私は弟に心からありがとうと伝えました。
そして、弟と共に天国から見守って下さっている祖母や祖父、伯父、そして御先祖様に
心から感謝しました。

水素水の機械をくれた、おじ夫婦にこの事を電話で話すとおばは電話で泣いていました。
「本当に良かった・・
おじさんとね、○○ちゃん(私)に機械を渡した後、本当にホッとしたのよ。
何故か解らなかったけどね・・
本当はね・・御盆にお参りに行ってから、早く渡さなきゃって、すごくあせっていたの・・
本当に不思議でしょう・・何故、こんなにあせるのか解らなかったのよ・・
でも、やっと解った。
もしかしたら、弟さんが早く姉ちゃんに渡してあげて下さいって言われていたのかもしれないね・・
御先祖様の御力と弟さんの御力だと思うよ」
そう言って、おばは嬉しいと、また泣いて下さいました。

私は、今までこちらのスレッドのコメント内で、何度も
「科学で証明出来ない事はきっとあると思う」と書いてきました。

それは、精神的な事、先祖からの絆、不思議な縁、御導き・・等についてでした。

もちろん、そんな非科学的な事がある訳はない!とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう・・
しかし、私は、今回の事を
心から「奇跡」だと思っています。
奇跡は導かれたのだと、心から感謝致しております。

たけぽん様、皆様
歴史とは無関係のお話で申し訳ございませんでした(..)

私は導かれた奇跡に感謝して、頑張ります(^'^)
[22]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年09月05日 08時50分55秒 ) パスワード

追記です。

以下の記事もありました。
<iPS細胞>筋ジス仕組み解明 英科学誌に掲載 毎日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000133-mai-sctch


活性酸素(酸化ストレス)
日々の生活に気を付け、先祖の導き、弟の導きに感謝して
私は、頑張ります!

(^'^)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年09月18日 17時47分41秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は。

久しぶりのコメントになります。

実は、ブログの方に、
※天草とシュメールの関係
※矢岳とは古ヘブライ語で「神の峠」であった
と言う事等を書かせて頂きました。

以前から、興味を持っていた「事」が突然、「目の前の現実」として
現れたような・・そんな感じがしています。

よろしければ、皆様、ブログの方をご覧ください。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12403868777.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12405740986.html

所で・・・
人の縁とは、本当に不思議だな〜と痛感する出来事がありました。

実は、先日、親戚で祝い事がありました。
家の宮原家、祖母の実家の平川家、椎葉家が、何重にも縁戚関係を持つ親戚の
長男の結婚式があったのですが・・・
その親戚「某家」に嫁いで来られた花嫁さんの御実家は・・
武藤家でした。

椎葉のおじは、私から先祖の調査を色々聞いていたので
おじも凄く驚いていたのです。

そこで、私が「人の縁とは本当に不思議だね!!」と話すと
いつもは「こじつけはいけない!」と言う父までもが
「本当に、不思議だな・・」と。

さらに、もっとビックリするのは
花嫁さんのお父様は私の父の良く知る方でした!

そこで、私が
「あれだけ、武藤氏について私が話していたのに、何故?父さんは
お知り合いの武藤さんの事を私に黙っていたの!?」
と聞くと、父は
「お前がまた、何か騒ぐと思って黙っていた(ー_ー)!!
でも、何だかやはり御縁があったのだな〜と、今回は感じた・・」
と・・・

つくづく、人の御縁は何か「不思議な糸」で結ばれている
そう感じる、御祝い事でした。

しかし・・・
こちらの武藤さん・・
実は、私の祖父を生んだ「曾祖母」の実家一族とも縁戚関係がある事も解り
本当に驚いています!

では(..)
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