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 投稿番号:101634 投稿日:2018年05月20日 09時52分07秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について5

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、別系「平賀氏」との関係
他、全国の「平賀」「木原」「松葉」の地名由来等
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

★『井伊氏の系図で祖と書かれた藤原冬嗣は良峯安世と同母兄弟であり、後世の球磨の平河氏(良峯氏)と井伊氏は遡ると母系「百済永継」で同族となる・・・』

★藤原冬嗣と同じく良峯安世と同母兄弟である
藤原真夏
異父弟:良岑安世
藤原真夏の妻は・・・三国真人・橘清友の娘
三国氏・橘氏との姻戚関係が見える

★球磨郡皆越・槻木の地頭「皆越氏・槻木氏」も
系図で御先祖が「藤原冬嗣」であった事が判明

ネットワークは見えていますが
火の国肥後の益城「木原」との関連調査までには至っていません。

古代⇒中世⇒近世 は繋がっているはずだ・・

との私の「信念」(勝手ながら・・)を元に
今後とも、勉強を重ねて参ります。

[1]白石さんからのコメント(2018年05月20日 18時07分27秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ


遥拝神社(豊葦原神社) - とりあえずブログ - Yahoo!ブ …
https://blogs.yahoo.co.jp/betaroll/4618538.html

芦原様 ・・・ なんだかわからないけど 
芦原神社で 検索したら 上の表題がでました

資料的には 簡単すぎて 豊芦原神社が遥拝神社といわれて
八代にあり 懐良親王ゆかりの神社だとわかっただけですが・・


八代市豊原(ぶいわら)上町の通称遥拝神社(豊葦原神社
遥拝神社と言うのは、南北朝時代、征西将軍として派遣され
た懐良親王が

高田御所におられたとき、ここから奈良・吉野の後醍醐天皇
の御所を遥拝したことからこう呼ばれます。

で・・・ 懐良親王って?と思って検索すると

懐良親王(かねよし、かねながしんのう、
元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日
(1383年4月30日))
後醍醐天皇の皇子。
肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点とし
五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島
(現在の愛媛県松山市忽那諸島)

へ渡り
、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である
熊野水軍の援助を得て数年間滞在した

皇子に良成親王がいる
[2]白石さんからのコメント(2018年05月23日 15時04分54秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
五条頼元

五条家の遠祖は ★天穂日命
五条家の遠祖は天穂日命にあり、
天武天皇の皇子★舎人 (とねり) 親王の後裔。
その姓 (かばね) は真人 (まひと) 。
平安時代に夏野,
有雄,清少納言がいる

五条氏は、清原氏で明経家の家柄である。
五 条家の遠い祖先は天武天皇で、その孫が大原王、
その孫が夏野で、夏野はのち清原の姓を賜わり、
右大臣継二位となった。その夏野から十三世が
良枝であり、その長子宗尚は清原の正統の血筋
として続き、次子頼元が五条氏の祖となった。

 五条頼元は高辻為長の子高長を祖とする。

華族類別録には、天穂日命の裔として、
第三十八類に★出雲臣〔北島家・千家家。出雲大社神職〕
と、 第四十類に★大江朝臣〔★毛利家・北小路家・木戸家。

天穂日命十四世孫野見宿禰、三世孫身、十一世孫古人とある。


高辻家をみると
菅原道真の子大学頭高視の6世孫大学頭是綱を祖とする。



※尊卑分脈等平城天皇の後裔。元大枝姓。諸本によれば
桓武天皇の母 ★高野新笠の母が大枝真妹であることから
大枝姓を賜ったともいう〕が類別されている。

五条頼元の
子孫はそのまま九州に土着して大友氏
(義鑑・義鎮(宗麟)・
義統)や加藤清正、立花宗茂に仕えるなどしている
(五条鎮定もその一人である)。

宮は延元二年(一三三七)の 春、
伊予(四国)の忽那(こつな)島の忽那一族をたよっ て、
ここで三年ほど滞在された。
忽那島に滞在されていた宮の一行は、
興国三 年(一三四二)五月一日薩摩(鹿児島)の津に
上陸して、谷山隆信の谷山城に入られた。

※坊の津のことだろうか?
坊の津は屋島とともに 平家の本拠地で
中国からの船はここに 入った





[3]白石さんからのコメント(2018年05月24日 10時32分07秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
松葉 松葉と思っていますが
なかなか 頭がまとまりません

過日 ご紹介しました
松葉 名前の由来 | 松葉博雄の社長研究室
mazba.com/matsubaを もう一回みてみました

平賀氏の開祖、★松葉資宗 が壇ノ浦で★平家の
赤旗を射切り、 その功績で文永元年(1185)
後鳥羽院より、 御歌「出つ羽なる 平賀の庄に
咲花は 幾た
び見 ても 梅のから花」を賜った。 この時から
唐家紋が平賀氏の家紋となっ ...

勝手ですが 中をみて 転記すると

系図集の原典である「尊卑分脈」によると、

松葉氏は藤原氏の太祖、大織冠藤原鎌足より始まる。
淡海公不比等、参議房前、大納言眞楯、内大臣内麿、
左大臣冬嗣、太政大臣良房、利世、中納言共良、
内蔵頭良春、

遠江守、備中守共資、共保、共宗を経て、
松 葉氏の家祖、資宗となる

資宗は、松葉遠江次郎と称していた。

ウェブの中を根気よくみていると 投稿の欄があり

『 私は現在、愛知県に住んでいます。 私の周りにも、
松葉姓は数人いますが、すべて★宮崎県日向市の平岩
出身で
す。

詳細に言えば『鵜毛(うけ)』という部落出身者が
多いですよ!

ちなみに私の父母も、鵜毛出身です。
というのがありました。

また、昭和60年ごろまでは、鵜毛の世帯数半分近くが
松葉だったと思います

この地方の鎌倉時代以降の領主であった工藤祐経の
子孫である伊東氏の歴史を伝える「日向記」
に松葉六左衛門尉、松葉新九郎などの人名が見られる。
戦国末期の争乱の
時代には、松葉市左衛門が宮崎城に
討死した事が記されています。
明治の後期に弁護士より判事となり、政友会の県支部
の重鎮であった松葉秀太郎の名があります。

という部分がありました

平家の赤旗を 射きった
この人は 義経の陣営にいた 那須の与一では
なかったか ? と思いますが

那須の与一は ほかのブログでは 伊東氏となっていましたから
伊東氏 藤原氏でしょうね?
又 相良氏は 義経の陣営にいて
その 下にいたのが 那須の与一と思っております

すれば
上の 平家の赤旗を射きったという
松葉資宗が与一ということでしょうか?
[4]白石さんからのコメント(2018年05月24日 11時06分34秒 ) パスワード

今考えても どうして 南渓和商がでたのか
不思議ですが 日蓮 日蓮と 思っていたから
でしょうか?

パソコンにある時 ぱあーっと 南渓和商の
表題がでました

先に 順不同で めについたことを 列記しますと

◇禅の系譜◇   
釈尊から黄檗宗まで。 
( )内数字は、釈尊から何代目かを示す。
 (1)★釈尊 →…→  (28)★菩提達磨  →…→  
(33)慧能大鑑 →…→  (36)百丈懐海 →
     →(37) 黄檗希運  → 
(38)★ 臨済義玄(臨済宗を開創)  →…→  
(56) 中峰明本 →
         →(66)幻有正伝 → 
(67)密雲円悟 → (68)費隠通容 →  
(69)★隠元隆・禅師
ーーーーーーーーーーーーーーー


上杉 北条 との関わり

鎌倉市/明月院(臨済宗建長寺派)(めいげついん)
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/...

北条時宗が建立した禅興寺の塔頭(禅興寺は明治初年
に廃絶)。開基は上杉憲方で、開山は密室守厳。境内
を埋める数千本のアジサイは見事で、シーズンには多
くの人で賑わう。臨済宗建長寺派寺院。


臨済宗 建長寺派 - 足利学校ゆかりのお寺 本源寺
https://www.hongenji.org

1200年代に創建された臨済宗(禅宗)建長寺派のお寺
です。開山は義翁紹仁和尚といい鎌倉建長寺(本源寺の
本山です)の開山、蘭渓道隆和尚とともに日本に来た
渡来僧

鎌倉市/寿福寺(臨済宗建長寺派)(じゅふくじ)
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/...

寿福寺(臨済宗建長寺派)(じゅふくじ) 1180年
(正治2)に北条政子が頼朝の父、義朝の旧邸跡に
明菴栄西を招いて創建。三代将軍実朝もしばしば訪れ、
最盛期には十数か所の塔頭を擁する大寺であったという。

中国における臨済宗
臨済は黄檗希運の弟子であり、
河北の地の臨済寺を拠点とし、

新興の藩鎮勢力であった成徳府節度使王紹懿
(中国語版、英語版) ...


臨済宗_建長寺派_常福寺
www.jofukuji.or.jp/index.htm

七百年の歴史をもつ相模原の禅寺、臨済宗建長寺派
常福寺の紹介。樹齢四百年の名木に見守られ、
遠くに霊峰を仰ぐ安らぎの供養の地。開山以来この地
の文化、知識の中心的役割を担い、時代と共に寺子屋、
学校が開かれました。この ...


鎌倉市/明月院(臨済宗建長寺派)(めいげついん)
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou
/...

^ 黄檗山を山号とする寺院は全世界に1.黄檗山万福寺
(福建省福州市福清市永福郷)、2.黄檗山黄檗寺
(江西省宜春市宜豊県鷲峰山)、3.黄檗山万福寺(
京都府宇治市)の3ヵ寺。

 
ずっと下へみていくと

★黄檗山は将軍家菩提寺であり、

鎌倉五山、京都五山と
同格もしくはそれ以上の格を有する寺院として開かれ
ていた

★黄檗宗と九鬼氏
おんしん・びょうどうとう(怨親平等塔)

  黄檗山大雄寳殿東横、慈光堂南側に位置する場所に
設置された宝筐印塔(供養塔)。
  戦前から萬福寺には多くの★華僑が出入りしていたが、

昭和12(1937)年に勃発した支那事変で、
多くの戦死者が出たことを憂えた第四十九代玉田管長は、
「法華経」69,643文字を一字一石に書き、宝筺印塔に収め冥福を祈ることを発願された。 そのことに感激された信者の九鬼悠儼氏とその

一族により、昭和19(1944)年に建立されたのが
この「怨親平等塔」である。 
  以後、毎年、普度勝会(ふどしょうえ。→)
の際にはこの塔前で法要が挙行され、両国の末永い
友好と、親話親前の浄界が実現されんことを祈願し

ている。


九鬼家は 後醍醐天皇の頃 獅子奮迅の働きをし
その 働きは 人間一人のものではない
九人の鬼の働きに値する と

九鬼(上のノ の字がない 鬼)を 賜った
この ノの字ない鬼の字は 日本にはなく
半島の方にある

又 九鬼文書には 壮大な歴史が書いてあり
キリスト モーゼなども 出てくる

高槻の慶瑞寺
寛文元年(1661)頃、普門寺の★龍溪が再興
渓  が ついています

欄渓 龍渓 南渓
法脈でしょうね
普門寺は 細川晴元の首塚があります

慶瑞寺には
後水尾法皇の勅書をはじめ、後光明天皇の綸旨(りんじ)
や隠元・龍溪などの真筆が伝えられています。

後水尾法皇は徳川和子の夫
この寺には 法皇もしばしば 遊びに来られた

以前 ほかの スレッドで りんまんで こけちゃった 
記憶があります


[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月25日 22時26分35秒 ) パスワード

白石様、皆様、今晩は(^'^)

白石様
お返事大変遅くなりまして申し訳ございませんでした。
深くお詫びを<m(__)m>

今日は、朝から、歴史とは無関係・・全くの別件を
前々職までの技術(私、元システムエンジニアです。一応まだ記憶していました)を駆使して
調べていました(-.-)
冷静に考えれば、全くの無駄。私には関係ない!と考えると・・
無駄な時間を過ごしていました。
(クソ〜ッ貴重な時間を使ってしまった!!(−−〆) 心の声・・)

沢山の御教示、ありがとうございます。

〉上杉 北条 との関わり

あの・・宮崎には「上杉」さん結構いらっしゃいます・・
他県と比較しても・・人口の割合で見ても多いです・・
前から「何でかな?」とは思っていました
(実は・・間接的ですが存じている方が・・)
ちょっと気になるので調べてみようと思いました・・

黄檗宗。
明治以前までの家や親戚の宗派ですね・・(p_-)
庭柏寺は江戸時代に黄檗宗へと変わりました。

そう言えば・・錦町(旧西村)の新宮寺、こちらも江戸時代に
黄檗宗へと変わっていますね・・・(p_-)

黄檗宗は ウィキを見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97

黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派。
江戸時代初期に来日した隠元隆・(1592 - 1673年)を開祖とする。本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。

あの!!白石様!!
私、このコメント事前に調べた上で書いているのではなく
リアルタイムで書いているのですが

ウィキの記述に「鉄眼道光」この方のお話が書かれていました!
隠元の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。

私!!実は、先月「鉄眼道光」この方に御所縁のお寺様に伺って来たばかりです!
「鉄眼道光」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%9C%BC%E9%81%93%E5%85%89

鉄眼道光、正字: 鐵眼道光(てつげん どうこう、寛永7年1月1日(1630年2月12日) – 天和2年3月20日(1682年4月27日))は、江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。諡号は宝蔵国師。肥後国益城郡守山村(後の下益城郡南部田村、現・熊本県宇城市小川町南部田)の生まれ。最初、徹玄と号していた。
佐伯浄信という守山八幡宮の社僧を父として生まれる。
当初は、父の影響で浄土真宗を学んだ。出家(13歳時)の師は、浄土宗僧侶の海雲である。が、本願寺宗徒では才徳がなくとも寺格の高下によって上座にあることを潔しとせず、1655年(明暦元年)隠元隆・に参禅して禅宗に帰依し、隠元の弟子木庵性瑫の法を嗣いだ。後、摂津国難波村に瑞龍寺を開建[1]。1674年(延宝2年)に、肥後国益城郡守山村に三宝寺を創建。
また宇治萬福寺(京都府宇治市)山内に大蔵経保管のため宝蔵院を開いたほか、金禅寺(大阪府豊中市)、海蔵寺(東京都港区北青山)など7か寺を開いた。

上記にあった「お寺様」に求麻郷土研究会の例会でお伺いして参りました。!
問題があっては失礼になりますので、「お寺様」のお名前は御控えします。
こちらのお寺様です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E5%AF%BA_ (%E5%AE%87%E5%9F%8E%E5%B8%82)


実は・・ここで・・私・・物凄い体験をさせて頂いたのです・・
この体験はコメントには書くつもりは無かったのですが・・
白石様が私の心中をまた・・引きだして下さったようです・・

こちらのお寺様の御住職様からお受けした大変不思議な「お話」です。
御住職様は、大変な修行を御積みになられた方です。

実は、御一緒に伺った方の中に「こちらのお寺様」とは「実は大正時代の縁戚関係」にあたる方がお一人いらっしゃいました。
何も、この方が「その話」をされる前に・・お寺にお伺いしてすぐ
御住職様は、沢山の人数の中から、「その方」に突然お声をかけられて
皆の前で「あなたとはただならぬ御縁を感じます」とおっしゃったのです!
私は、「その方」から、こちらのお寺様との御関係をあらかじめ聞いていたので
すごくビックリ致しました!
「この方」は御住職様からのお話を聞かれて、こちらのお寺様とご自身の御縁を
御住職様にお伝えになられました。
御住職様は「そういう事でしたか!」と、御自身で納得されていらっしゃいました。

私は本当に・・凄いな!・・と思ったのですが・・
驚く事は「このお話」だけでは、ありませんでした。

実は・・私にも・・

研究会の皆さんと、御本尊様にお参りをさせて頂いた時の事です。
御本尊様には、其々会の方々が一人づつお参りをさせて頂いたのですが・・
私がお参りをさせて頂こうと御本尊様の御前に座らせて頂いた所
突然!御住職様が・・
「貴女、貴女は!・・大変な名●の系の御方です。
貴女はお気づきではないでしょうが・・いや、御存じのようだ・・
さらに、貴女の御周囲には、お一人お二人どころではない!
沢山の名だたる名●の方々が貴女をお守りになられていらっしゃいます!」

「しかし、この方々の御力(パワー)はあまりにもお強い!
時として、生身の人間である貴女にその御力は強すぎて、貴女の心臓に
不整脈のような症状をもたらしてしまいます。
その事を、皆様、御心配になられていらっしゃいます!」

と御住職様はおっしゃると、突然、私の後ろに回られて
「怖くはありません。気持ちを安らかに持っていて下さい」
と言われて
私の肩、背中を御経をお唱えになりながら、ぐぐ〜ぅと押さえられ
そして、一か所を強く押しながら、大きなお声で御経を唱え続けられました。

御住職様は
「御自分で、御力が強いと感じられた時は、今、私が強く抑えた場所(右肩の少し下)に手を当てて御覧なさい」
「そこに御経を封じさせて頂きました」

とおっしゃいました。

私は「怖い」と言う気持ちは全く此の時ありませんでした。

しかし・・御住職様がおっしゃった
「貴女はお気づきではないでしょうが・・いや、御存じのようだ・・」
と言うお言葉にはやはり驚きました。

何故ならば、御住職様と同じように「沢山の方々がお守り下さっている」
と言われたのは、初めてでは無かったからです。

かなり、以前、コメントに書いた事があります(其の後削除しました)
20歳位の頃、福岡県内にある「あるお寺」に伺った時に、お寺の参道にいらした
高齢の女性から突然呼びとめられて、御住職様と同じように
「あなたは、沢山の御方がたからお守り頂いていらっしゃいます」
「とてもお偉い御侍様がたです」
と言われた事がありました。
その数年後にも、同じような事を「初対面の方」から突然言われた事がありました。
(でも、この2回とも、全く歴史については興味が無かった時期なので、この方々は何を言われているのだろう?と、少し困惑した事を記憶しています)

こう言う経緯があり
御住職様の「いや・・御存じのようだ」と言うお言葉の方が
本当にビックリしました。

ただ、先の2回の時とは、今回は明らかに違った事があります。
それは・・私がお受けした御住職様からのお言葉や背中に押されて御経をお唱えになられたその時に
歴史研究会の方々が、その場にいらして、しっかりと「目撃」された事です。
皆さん、後で「本当に驚きました」とか
「宮原さんどうなるのか、心配した・・」とか言った「言葉」を発せられていました。

私は、先の「2回の件」の内、1回目の事をコメントに書いていましたが
その時、実は・・「このお話、きっとどなたも信じては頂けないだろうなぁ・・」
と思っていました・・
きっと、妙な事を書く「変な人」・「妄想か?」と思われただろうな・・と
思っていました・・

しかし、今回は沢山の方々(20人以上の方々)の目前での出来事でしたので
私が、「妙な事を書く人」・「妄想を書く人」では無い事を
目撃された方々が「真実だ」と証言して下さる・・
そう思うと、本当にありがたい・・と思いました。

この場には「槻木さん」もいらっしゃいました。

御住職様はさらに・・弟の事もおっしゃいました・・
私は、その「お言葉」に涙が出てしまいました・・

この出来事を書くとは思っていませんでした・・
しかし、「鉄眼道光」この方のお名前をウィキで拝見して
やはり、書くべき事なのかもしれない・・そう感じて書かせて頂きました。

実は、最初に書いた「こちらのお寺様」と大正時代の縁戚関係でいらっしゃる御方なのですが・・
「こちらのお寺様」から、他県のお寺様に移られた方々のお嬢様は旧岡原村に
嫁いで来られています。(元々、お母様が球磨の御方でした)
その方の事も実は、私は以前コメントに書いた事がありました。
家も遠縁にあたる「おうち」で、祖母の大親友でいらっしゃいました。
お名前は●塚さんです。

私、今回、白石様から「黄檗宗」について御教示を頂いて
自分が経験した不思議だけれど、とてもありがたい出来事を書いて
初めて気が付きました!

私の住む集落、そして旧岡原村と「黄檗宗」はとても深い繋がりがあるのでは!?
と言う事を。

その御縁を証明するのが
※「鉄眼道光」この御方の御所縁のお寺様
※「こちらのお寺様」に球磨から嫁いで行かれた方
※「その方」の娘様であり、旧岡原村に嫁いで来られた、さらに最初に書かせて頂いた「ある方」の御親戚であり、
私の祖母の大親友であり、家の遠縁でいらした●塚のおばさん。
であったのでは!?

私・・ようやく、この繋がりの「意味」が見えたのでは・・

白石様
今回も、白石様からお導き頂いた・・そう思います。

白石様、皆様
今回は、不思議な出来事を書かせて頂きました。
でも・・今回は沢山の方々の目の前で起こった・・出来事です・・

私は・・やはり世の中には、化学では説明出来ない事は「ある」そう思います。
つい最近、沢山の方々の目の前で、私は身を持って経験しました。
[6]白石さんからのコメント(2018年05月26日 09時18分05秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます

遠江守、備中守共資、共保、共宗を経て、
松 葉氏の家祖、資宗となる

共資は日蓮(日蓮宗の祖)の遠祖である

村櫛の歴史| 村櫛町自治会
murakushi.net/information/history_04.htmlより

村櫛の歴史4
藤原共資と志津城  松下康文というのを 見ると

藤原共資について井伊家伝記(注1)によれば、「大織冠藤原鎌足12代の子孫で、備中守(藤原)共資公は 公家こうけ にて天皇の命令で遠州村櫛の郷に住む。
遠江国を巡検して毎年禁裏へ年貢を納める。数年経ち、
遠州一国を預かり村櫛の入江のところにある城に住んだ。」
(注2)とある。

次に彦根藩主の「井伊家」との関係

子が居なかった共資が井戸そばに置かれていた
赤子を我が子( 共保ともやす )として育てた。


[7]白石さんからのコメント(2018年05月26日 10時55分03秒 ) パスワード

遠江井伊氏の系譜 - 光インターネット接続サービス「U …
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/iishik1.htmより

宝賀  寿男
井伊家の遠祖は海神族ではないか?としている

遠州西北部の引佐郡井伊谷に古代から続いた豪族
井伊氏は、初祖的な存在の「利世」なる者

や当時の信頼できる諸史料になんら見えず、系図の初期
段階は存在が疑わしい虚構の人物からなるではないかと

みられる。・・・
井伊氏の系譜は大別して三種類ある・・・

井伊氏が初めて史料に見えるのは、保元の乱のとき
とされる。『保元物語』に登場する「井八郎」が初見

とされ・・・★唐の玄宗皇帝の頃の留学生・井真成は関係
あるか?
他国での 資料になる

『東鑑』には、★近江佐々木氏の定綱・定重親子
とその一族郎等の動向に関連して、
建久二年に井伊六郎列挙を見るように
★佐々木同族ではないかとみられ

遠州井伊一族ではない。・・★→読み進むと 相良にわかれる井伊氏があるが
相良氏も佐々木と書いてあると みやちゃんが教えてくれました

今川了俊が応安三年(一三七〇)に九州探題に任じ
られると、井伊一族や横地・勝間田など遠江の諸氏が

これに随って★九州北部に転戦する。・・・

為憲流藤原氏
★為憲後裔の維頼の長男が頼兼

次男の維弘の子が周時★(井伊の祖)及び
周頼★(相良の祖)であって、周時の

子が遠江権介で鎌倉右大将家に仕えた兼政で、

更にその三子で井伊・赤佐・貫名の三流が生じたとある・・・

井伊谷には家紋を橘とする二宮神社があり、
これが引佐郡式内社の三宅神社の論社とされる。


井伊郷の荘司であった三宅氏の始祖「多道間守」
を祀る神社であった・・・

[8]白石さんからのコメント(2018年05月27日 06時38分07秒 ) パスワード

小野政直・政次は井伊家家老なのになぜ直虎を陥れ …
taigadorama.net/2017/01/10/小野政直・政次は井伊...
より

うまく頭がまとまりませんが

【譜代】高岡井上家|名字(苗字)・名前・家系図/家 …
https://mnk-news.net/detail.htm?articleId=828 より

井上政次をウィキでみると

下総国高岡藩初代藩主・井上政重の長男。
慶長7年(1602年)、井上政重の長男として生まれる。父と共に徳川氏に仕え、使番を務め、★島原の乱でも父と共に参加して武功を挙げるなど
したが、慶安3年(1650年)8月22日、父に先立って
早世した。享年49。

政重は
自身も元
★キリシタンであったとされる。
父:井上清秀、母:★永田氏
正室 政次母 ・★太田重正娘

太田重正はウィキより
父:太田康資?
曾祖父:太田道灌のひ孫 これは間違いない
★重正が康資の子であるかは不明である という

今日は 
★球磨に 県重要文化財の 太田家 があること
★井上政次は 島原の乱でも父・政重 と共に参
加している
★ 島原 と 球磨は近く
球磨の太田家は 島原から 来ているのかも?
★ 井上先生がおられた. 小柄な方だった
★ 高槻に太田というところがあり 
継体天皇の陵というものがある。
そこの近くの畑の中に 江戸城築城した 太田道灌
がいたことが書いてある立札があった
★太田道灌は 高岡系図から 引き出せる

 摂州多田院御家人高岡系図をあけ
 池田奉政(養子實馬場下野守仲政四男)
婿養子 がおり 仲政をクリックすると

★ 多田氏系図が出る
★源頼政の下 仲綱をクリックすると
太田氏系図がでる

★資 の 通字がついている
★ 太田道灌がおり
★ 東照公ご側室の 英勝院がおり
★ 仲綱の 子孫は 太田亮氏です

こんなことが 出てきました

[9]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時39分24秒 ) パスワード

太田資宗の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 江戸ガ …
https://edo-g.com/men/view/252 より

江戸時代に活躍した太田資宗。

太田資宗(おおた すけむね)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/ 太田資宗

浜松藩主・幕府の六人衆の一人。重宗の子。大阪の陣の功績により、従五位摂津守・御小姓組番頭と累進し、寛永10年には松平信綱等と共に六人衆となる。後奏者番となり、命を受け『寛永諸家 ...

[10]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時40分58秒 ) パスワード

太田資宗 相関図 - あのひと検索スパイシー
spysee.jp/太田資宗/10639/profile

太田資宗の相関図。
相関図でつながっている人には、太田資次、太田重正、太田康資、
阿部重次、三浦正次、阿部忠秋、太田資直、太田資政、青山宗俊、
内藤弌信、水野忠職、水野忠春、徳川家康、太田道灌、太田資正、
太田資高 ...

太田資宗とは - goo Wikipedia (ウィキペディア)
https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/ 太田資宗

太田資宗とは?goo Wikipedia (ウィキペディア) 。
出典:Wikipedia(ウィキペディア)フリー百科事典。
太田資宗とは - goo Wikipedia (ウィキペディア) gooトップ
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太田資宗 | 浜松情報BOOK
www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e7fe05b3f0ae.html

3代将軍徳川家光の信頼が厚く、『寛永諸家系図伝』の編纂を行い、
その責任者になっている。また、浜松在城中には国政として日
光奉幣使の接待や三河国(現:愛知県)鳳来寺の ...

[11]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時42分47秒 ) パスワード

オオタ シ ムネ【太田資宗】の例文集・使い方辞典 - 用 …
yourei.jp/太田資宗

寛永6年12月1日、浜松藩の初代藩主・太田資宗の次男として
生まれる。 死後に子の太田資宗が大名に列した。
太田氏の家系図は信憑性が低いとされているものが多く、
太田資宗の代に改竄があった可能性 ...

下野山川藩/太田家1万5千6百石:太田資宗 三河国西尾 …
www.jp-history.info/all-han/6613.html

下野山川藩/場所・アクセス・地図 太田家1万5千6百石:
太田資宗 三河国西尾藩へ移封とり廃藩【幕末維新写真館】
日本の歴史ガイドでは日本の城・史跡・銅像(アクセス・地図・場所)
をご紹介。戦国時代、江戸時代、幕末(新撰組 ...
太田資政 - 譜代大名 太田資宗 | 死去ネット
sikyo.net/-/1016398
[12]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時45分41秒 ) パスワード

太田資宗 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 太田資宗

太田資宗1644-1671 太田資 次1671-1678 畿内周辺に転封 青山家 青山宗俊1678-1679 青山忠雄1679-1685 青山忠重1685-1702 丹波 亀山藩に転封 本庄松平家 松平資俊1702-1723 松平資訓1723-1729 三河 吉田藩に転封 大河内松平家 ...
松葉ヶ谷について高橋俊隆より
www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index102.htm

松葉 入道が松葉遠江次郎 資宗 です。資宗は源実朝の学問所番衆を務め、文人としての才能もあったといいます。 参考として、松葉氏の系図をみますと、三
国氏・井伊氏・そして、貫名重忠氏に関連していることがわかります。 ...
[13]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時47分02秒 ) パスワード

名越には名越ヶ谷・松葉ヶ谷・経師ヶ谷の谷
(やつ)があります。
名越の谷をでて西に向かった中心地が
材木座でした。材木座は
商業地として繁栄していました


日常生活をしていたところに、あえて
庵室を構えた
山王信仰は 釈尊の垂述 とされる
釈尊の垂迹とされる山王信仰

★宇佐八幡山王日吉社の 神紋は 橘紋

この松葉氏は「平賀氏」のことだといいます。
(山口晃一著『法華仏教研究』第六号一五一頁)。
『吾妻鏡』によれば、頼朝・実朝のときの
有力御家人七人のなかに松葉次郎の名前があり、
建長・正嘉の条に名前が記載されているとのべて
います。
大慈寺供養の間の事、肥前の前司・三井左衛門の
尉・
松葉入道等御旨を奉り・・・・
この松葉入道が松葉遠江次郎資宗です
[14]白石さんからのコメント(2018年05月27日 10時48分21秒 ) パスワード

鎌足から 冬嗣まで
藤原鎌足―淡海公不比等―参議房前―大納言眞楯―内大臣内麿―左大臣冬嗣

良房から 友資まで
―太政大臣良房―利世― 中納言共良―内蔵頭良春―遠江守備中守共資

千佳――共資―共保―共宗―宗綱―共章――共家とおりてきて
共家の枝分かれに ┌共政―政保【井伊氏】    ―貫名政直・・重忠
(三国氏)・・・ 井伊氏 貫名氏 三国氏

共家の次は――共直―惟直―盛直―――赤佐俊直
赤佐氏 に なります

共資から 分かれて 共茂―致貴【三国氏】
共資の子孫の 共直からわかれて 惟共―【松葉氏】宗益―★資宗―惟長(平賀氏)
松葉 氏 平賀氏になります


Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-い …
www.hikoshima.com/bbs/heike/101262.html

神社のつながりの紹介 正和二年(1313)に成立した八幡宇佐宮
御託宣集」所引の阿蘇縁起によれば、 熊本県の「阿蘇神」、宮崎県の
「高知尾神」、大分県の「八幡神」をきょうだい神として、高知尾は神武
天皇の二郎の子と ...
 

大阪府藤井寺市
唐の玄宗皇帝の頃 遣唐使として 中国へ渡り その地で
没したという 井真成

井真成が「葛井(ふじい)氏」または「井上(いのへ)氏」の
一族であるという説が有力であるが

彼の出生地は 大阪藤井寺とされる

神風連の乱のとき 小山勝清氏の本によれば
平川氏は 九州北部へ転戦していった
とする

井伊氏は 今川の時 九州北部へついていった
島原の乱で 長崎にも行った

その前 磐井の乱のとき
磐井の勢力範囲は 八代を含み
九州北部である

後年 白石正一郎 真木和泉 平野國臣は
福岡あたりにおり・・・(ウェブでは 白石は山口で紹介されるが 
本では 福岡であった)

又 大川家具 八女茶などの 収益は 
今でも 真田の里におくられるという

九州は古代には 神武天皇東遷の話もあり
エネルギーの源であったと思える

[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月27日 22時25分15秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^'^)

沢山の御教示ありがとうございます。

今日、平川家についての方でコメントを書いた後、来客があり
お返事が遅くなりました事をお詫び致します。

沢山の御教示、明日の朝じっくりと拝読させて頂きます。
(明日は、3時起きです)

コメント7での御教示。
私も実は、以前からこちらのサイト様の記述は拝読していました。
白石様も、同じ記述に着目されたのですね・・(^'^)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月29日 12時26分06秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

太田氏。
「松葉」と「太田資宗」の関係
さすが、白石様でいらっしゃるな〜!
と思いました。

私、太田氏との関係、殆ど意識が向いていませんでした。

江戸城は・・元は「平河城」であった・・

白石様、
やはり、全て「根本」は繋がっているような・・
そんな気がしませんか・・
[17]白石さんからのコメント(2018年05月29日 16時44分28秒 ) パスワード

ミヤちゃん 今日も暑かったです
お体大丈夫ですか?

私は ディサービスの新しいところと契約しました
たまにですが 外へも連れて行ってくれるみたいで
期待しています

みやちゃんの はじめの頃のお話では
良峯氏以前も 平川だったはず
そう思っている というような
お話だったと思います

松葉氏も 出自の 説が三種くらい
そのおうちの はじまりの 古さ 新しさ
で ちがうのでしょうね

こちら 高槻の 方は 結構
古い陵なども あり 歴史ロマンをたずねるには
楽しみなところです

高岡系図も 御覧のように
秦 始皇帝祖先の兄弟からはじまり
半島をとおり 百済にいて 我が国にはいってきて
います
饒速日を 祖先とする高岡系図
これら 二つの祖先が 同じなら いいのですが
天穂日=饒速日なら よいのですが・・・

池田氏と同祖の 肥後守貞望 は 丹後男山に戦い
一色の陣代

中国以前は 7000傑様ご指摘のように 
西から 走ってきたのでしょう
と 思っております

秦人として 区別される前は 
中国 西アジア ほか 同種の人たちが
国というより 群れ集って 暮らしていたのでしょう

鉱山の知識を持つ人もいたのでしょう
鉱物は 体に良くなく
彼らは 娘婿をもらい 我が息子は
旅に出したようです

大きく移動しているのですね
家康 
 など 菅原朝臣 藤原朝臣 平朝臣
豊臣朝臣 源朝臣
 と つぎつぎ 朝臣名を変えていますが

毛利なども 菅原朝臣 を はじめにしていますね
たか の 仲間です




[18]白石さんからのコメント(2018年05月31日 20時35分37秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
今日はテレビでおもしろいことをやって
いました

井真成のこと
藤井真成 葛井真成 であり
現在活躍している 将棋の天才
藤井君のご先祖というのです

DNAが伝わっている
と思われることですね

御耳をみました
耳殻の外が 大きかったです
対する 羽生氏も 耳が大きかったです


[19]白石さんからのコメント(2018年05月31日 22時05分20秒 ) パスワード

ウェブで おもしろいものを 見つけました

伊勢の坂本神社
『新選姓氏禄』左京皇別下に「上毛野坂本朝臣 上毛野同祖。豊城入彦命十世紀孫佐太公之後他」とあり、一説に当地に来た佐太公の子孫である坂本朝臣の氏人等が自らの氏号を以て村名とし、ここに自身の祖とされる豊城入彦命(崇神天皇の皇子)の神霊を奉斎、産土神として祀ったのが始まりという。尚、当村の北に佐田村があり、また当社地は坂本朝臣の古墳であったとの伝承も残されている。

佐田と坂本
私の母の実家は 山口県の佐田です
防府市 佐波郡ともいっていた

坂本は 父の 義弟です

戦時中 父は母の家に下宿していたそうです
又 都濃郡に籍を置いていました

伊勢神宮は 丹後から来ていて
丹後籠神社の祭神は 猿田彦 妃神は 弁財天
小さい神社ながら 菊紋をつけています

又 佐太と書くとき 漢王室に関与するようです




[20]白石さんからのコメント(2018年06月01日 08時26分34秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今朝は悲しいことがありました

愛犬が 旅立ってしまったのです
静かに いきました

18歳2か月でした
黒柴としては 長生きだったと思います

今となっては ああしてやれば よかった
こうしてやれば よかった
と 思うことがいろいろありますが

その時その時は 精一杯でした
人間でもそうなのでしょうね
のちの世の人がみれば

まあ っと 思うようなことでも
その時 その時 その人たちは
精一杯生きたのだと思います

私も この頃は 息子に
もっと しっかりしろよ と
後ろから 背中をおされることが
ありますが 

命ある限り精一杯生きたいと思います
生きたいです
愛犬も 骨川筋男のような状態になって
寝たきりで 息をしているのも やっとの
状態で 生きたいのだろうか?と 思うことも

ありましたが 生きたい 生きたいと
頑張ったのだと思います

そして 不思議なことに
陛下への ことに 思いが生き
不敬ながら

お二方誰もみていない部屋で
赤ちゃんをはさんで 川の字になり
「ひ孫はむぞかなあ」

と 目を細められる時が早くきてほしいと
切に 願います
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月01日 09時57分19秒 ) パスワード

白石様

御愛犬が天国に旅立たれ
お寂しいですね
今朝のお話であれば 今は悲しみの中にいらっしゃる事と
お気持ちをご察し致します

白石様の御家族の一員だった御愛犬 お名前が解らないので
失礼ながら親しみを込めてわんちゃんと呼ばせて頂きます

3月で19歳になられるとお伺いしていましたが
その19年間
わんちゃんを白石様が大事に大事にされてこられた事が
よく解ります

わんちゃんも沢山の愛情を白石様から受けて
お幸せだったと思います
わんちゃんはきっと白石様を大好きだったのですね
だから生きたいと懸命に頑張ってこられたのでしょう

わんちゃんは最後は寝たきりの状態だったと伺いましたが
今は天国の美しい花々が咲く広い野原を
思う存分走り回りながら
白石様に ママ今までありがとう 幸せだったよ って
言われていると思います

深い悲しみは身体にもこたえます
白石様は懸命に御病気と闘っていらっしゃるのですから
私は白石様のお身体が心配です

今はお辛いでしょうが
御自分のお身体を一番に考えて
御無理なさらないで下さいね

[22]白石さんからのコメント(2018年06月01日 20時33分38秒 ) パスワード

宮崎県西都原に三宅という地があります
ここは 瓊々杵尊・木花開耶姫とその三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)
の伝承がある地です

日向国の日向津姫(古代史の復元)
www.geocities.jp/mb1527/N3-10-3hyuugaseitan.html

という ブログで みたのですが
全部を丸のみには できませんが

三宅の言葉
三宅は 海神族にみられることば
西都原あたりには こ湯郡があり ここらに 
有● 有●● 姓があり

どちらも 黒髪 直毛 目が印象的で
美人といってよい 姿形をしていました

そして 
このブログで 気になったのは
日向向津姫です

向津姫は しどみ 様と おっしゃる方が
伊勢神宮にまつられる方のことで

向津姫であると教えてくださり
向家の姫だそうです

出雲大社は そもそも 向家で 独自でたてたのだそうで

神話の世界に 出雲が 先にある
ということでしょうね





[23]白石さんからのコメント(2018年06月01日 21時05分08秒 ) パスワード

「中宮天皇」と野中寺の謎 「サイトの歩き方」も参照してください。

というブログからもらいました
ほとんど まる写しですが・・・

栢寺と「かや」と吉備の謎
お寺の縁起は「聖徳太子」と蘇我馬子のコンビが建てたと云い、
石造物や塔の礎石そして弥勒さまの銘文などからは吉備国の国造
との関連も浮かび上がってくる野中寺とは一体全体、不思議な
お寺です。

管理人は未見ですが、東大寺・正倉院に伝わる文書の中に
河内国野々上と渡来系氏族の一派・船氏との密接な関係を示した
ものがあるそうです。また、船氏と言えば日本書紀、
欽明天皇十四年(553)七月の行に、


  船氏の祖・王辰爾(おうじんに)が、蘇我稲目の命令により
  淀川を往来する船から通行税を徴収して記録することに功績があった
ので朝廷から「船史」の姓を授けられたという記述があります。

蘇我氏と渡来系氏族との繋がり、そして言うまでも無く蘇我氏は
天皇家と密接な繋がりのある大豪族で「聖徳太子」の父母は
いずれも蘇我氏の血を引く人物でした。厩戸太子が歴史のなかで
「聖徳太子」に昇華して行く過程において、全国の渡来系氏族の
間で「太子信仰」が大きく波紋を広げた結果が野中寺の「伝承」
を生んだとも考えられます。また古代の飛鳥と河内において
蘇我氏の持っていた影響力の大きさにも注目すべきだと思います。
(船氏は、後、天武十二年に「連」姓となり、
延暦十年正月には宮原宿禰に改姓しています)

[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月03日 08時16分17秒 ) パスワード

白石様 おはようございます。

沢山の御教示ありがとうございます。
先のコメントにも書きましたが、お身体を心配していました。
御力を落としていらっしゃるのでは・・と案じていましたが
精力的なコメントを拝見して安堵致しました(^'^)

西都の三宅
西都は私の幼稚園があった場所で、古墳群は遠足で頻繁に行っていました(^'^)
さらに三宅は良く知っています。
三宅の近くが幼稚園だったのです(^'^)
昨年、主人と、懐かしい幼稚園を見に行ってきました(^'^)

でも・・何だか・・本当に偶然です・・

蘇我氏と百済姓「宮原氏」との関係。
御教示頂いて、本当にありがとうございます。
全く知りませんでした・・

色々・・繋がってくるものなのですね・・・

ありがとうございました<m(__)m>
[25]白石さんからのコメント(2018年06月04日 07時44分26秒 ) パスワード

おはようございます
今日もからりと晴れた良い天気です
沖縄の梅雨明けはまだでしょうか?

井は また ★井上ではないか?という説もあります
井上
★岡山の倉敷で桃を食べたとき
あたりを散策しました
井上門というのがあり 案内板に
★坂上一族とありました


井上には 井上皇后の言葉もあります
光仁天皇皇后で
★光仁天皇は施基皇子の子供

施基皇子の子孫が今上天皇といわれる
母は★紀橡姫
皇后
★井上内親王 母は ★縣犬養広刀自
夫人
★高野新笠・藤原産子・藤原曹司・紀宮子
子女
桓武天皇・早良親王・他戸親王ほか
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


井上先生がおられました
小柄な方でした
井上内親王の母は 縣犬養広刀自
縣犬養は 橘喜智子もおりますね

弘仁の子供が桓武天皇
このあたりは 過去にも話題になったと思っております

桓武の頃 でるのが 良峯朝臣
さらに前
仏教の伝来の頃 聖徳太子の頃

<葛井寺> (ふじいでら)

百済辰孫王の後裔氏族である、
船、津、白猪の一つ、白猪氏の氏寺として
7世紀中葉に建立が開始されます。
奈良時代、 白猪氏は葛井氏に改姓し、
一族の広成が聖武天皇と近い関係にあった

関連がある寺に 大安寺があり
その後社伝では ブログの作者は
信ぴょう性に欠けるとしながら

大同元年(807)に葛井連道依娘の藤子
と後の平城天皇との皇子である阿保親王によって再建され
たことや、別に、阿保親王の皇子、在原業平が奥の院を造営
したことがいわれています。








[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月04日 13時08分12秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

「井」の姓が登場したので書かせて頂きます(..)

「井」姓が日本全国で最も多いのは・・・実は
熊本県です!!(^O^)/

それもダントツです(p_-)

全国に527軒ほどの「井」さんの中で・・
269軒は・・熊本県内の方々です(^O^)/

参考 全国
https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E4%BA%95&firstname=&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD

参考 県内
https://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E4%BA%95&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C

他にも
@熊本県内に100人以上いる、A熊本県に最多、B熊本県の占有率が全国の30%以上、の3条件をすべて満たす苗字
を紹介されたサイト様
http://myoujijiten.web.fc2.com/kumamoto.htm

「井(い)」は仮名でもローマ字でも一文字という点で珍しいが、阿蘇地方では一、二を争うほど多い苗字。

と記されています。

つまり、肥後は「井」姓の本拠地?みたいな場所のようですね(p_-)
[27]白石さんからのコメント(2018年06月04日 15時57分48秒 ) パスワード

『魏志』(倭人伝)に「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、もって蛟龍の害を避ける。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕り、文身しまたもって大魚を厭う」

夷洲(亶洲をふくめて)は『後漢書』(倭伝)と『呉志』
(孫権伝)では、徐福の止住した地として伝えられている。
また『太平御覧』(巻七八二、外国記)には、「周詳、海に浮かび、
紵嶼に落ちる。その中に紵が多く、三千余家あり、徐福

童男の後という。風俗は呉人に似ている」と記されている。

彼らは 漢民族ではない とする

聖徳太子に生まれ変わった慧思
 
中国の南北朝時代の乱世を力づよく生きぬいた高僧慧思
(五一五〜五七七)が亡くなってから、聖徳太子に生まれ
変わったと記されている。(3)
★『法華経』をはじめ大乗仏教をとなえて、他宗派から
しつこい迫害をしかけられ、幾度となく生死をさまよった

『浄名経関中釈抄注』という書名の敦煌文献にも、
中国の各王朝に転々と生まれ変わった慧思は、
とうとう海のかなたに再誕して国王となり、
『法華経』をひろく流布させたとみえる。

『大唐七代記』にひかれている。碑文の最後には、
「李三郎帝の即位する開元六年歳次戊午二月十五日」
という日付がつい★「李三郎」とは、唐の叡宗の三男に
生まれた李隆基のニックネームで、先天元年(七一二)に
即位してから、「玄宗皇帝」と呼ばれる。

ウィキ 慧思より
開悟の後、西魏と東魏に分裂し、それぞれ北周と北斉に交代した
北地の混乱を避けて、南方へと向かう。


聖徳太子にまつわる話でした
この頃 国語は 秦語だったが
上層では 漢語で 国民はまだ このことを
しらないから 今のうちに 書き換えてしまおう
と 四川語から 呉の言葉に かえられた

という意味のことが 聖徳太子皇太子伝暦 に
書かれているという ことが
過去にブログにありましたが

今そのブログは消えているのか ありません

[28]白石さんからのコメント(2018年06月05日 20時34分01秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
今日は 大阪天満の 梅サイダーの話

天満の地下水は名水 
それを 大学生が 梅サイダーにして
うりだしたそうです

夏に向け サイダーは 水みたいに売れますもんね

いくらでも 商売のタネはあるようです
[29]白石さんからのコメント(2018年06月06日 15時09分45秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
久●●家

前に 白石の祖父は 子供の頃 両親をなくし
叔父夫婦だか おば夫婦に育てられた

長じて 家をでて
ために 家紋を 二重丸にした

と 書きました
手書きの手紙に書かれていたので
字が 最後の部分が 書かれているけどわかりませんが


おそらく 合致しているようです

白石からは 伊達に関し
佐竹に関し

藤原は はじめ 北家嫡流は 伊達の姓系にあり
道長が出てから 系がうつった
と 本でみたことが あり
そのことを 書いたこともあります


東国には 東日流外三郡誌 があり 
その 和田家文書には
支倉常長の本名が 山口与一(余市か)
と 書かれているそうです

うちは 嫡流ではないけど
菊池に仕えたのも
もともと つながりが あった
と 思います







[30]白石さんからのコメント(2018年06月06日 15時53分02秒 ) パスワード

母方の佐田の姻戚関係に
平野 そのつながりに 白石 永田 ほか
佐田は今 真木家から 夫婦養子
夫婦どちらも 佐田の血がっている

幕末に働いた ★真木 白石 平野
平野は 京都北野天満隅の隣に 平野神社がある
白石正一郎の弟は 大庭家に養子

真木和泉の弟は 大鳥居家に養子

大鳥居家は 久留米より離れた下妻郡
水田村にいた 
もとは 滋賀県である近江国栗太郡大鳥居村が起源
(ルーツ)である、★伴氏(大伴氏の子孫、古来の大族)
大原氏族。現山梨県である甲斐、現大阪府南西部である和泉
(大鳥連子孫)などにみられる

高岡系図から出る 昭慶門院領が若松庄にあり
大鳥の言葉が
※大鳥氏の起源
大鳥氏 − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜
https://reichsarchiv.jp/ 家系リスト/大鳥氏
★新羅三郎義光の後裔を称し、始め小林姓で
池田輝政に仕えた。・・・
(白石は義光の子孫という 小林家の苗字は
うちの高岡から嫁にいっている)

さらに 佐田を見れば 新田義貞義弟脇屋儀助は佐田
つながりをたどれば 児島高徳や 徳川家康が

その 徳川家の旗本に鳥居がいる

鳥居氏
※鳥居氏の起源
鳥居氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 鳥居氏

本姓 熊野権現神職(称 平氏) 家祖 行範(重氏)
種別 武家 華族(子爵) 出身地 紀伊国 主な根拠地
三河国 矢作庄 下野国 都賀郡壬生 東京都 栃木県
著名な人物 鳥居忠吉 鳥居元忠 鳥居耀蔵(旗本家)
支流、分家 旗本鳥居氏 ...

と だんだん 平家に近づいてくる
おぼろおぼろながら 平家との関わりがみえます


[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月07日 06時23分02秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

お返事遅くなりまして
申し訳ございませんでした。


菊池氏に仕える

白石様は、「相良氏に仕えた白石氏」に関して
菊池氏に仕えた後に、相良氏に仕えた
と、言う事までをお調べであったと記憶しています。
今まで、何度もこの事を書かれていらっしゃったと思います。

そこで、今朝は、じっくりと(p_-)
太田亮博士の姓氏家系大辞典. 第2巻を読んでいました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/578

特に、コマ番号578 の 17「河野氏族 白石氏」
の流れを見ると、凄く良く解りました。

『肥前の白石氏も河野氏の族という』

そこから、22肥前の白石氏の項を見ると
時代は其々異なりますが
白石六郎通泰 「白石通泰」
白石六郎通遠 「白石通遠」
白石次郎通朝 「白石通朝」
河野六郎通有 「河野通有」
と言った方々のお名前が見えます。
肥前の白石氏の通字は「通」である事が解ります・

そこから、さらに24肥後の白石氏の項を見ると
菊池氏に仕えた白石氏の名前が記されています。

菊池持朝の侍帳に 白石常陸助頼道  「白石頼道」
菊池政隆の侍帳に 白石民部允朝通  「白石朝通」
と言う方々のお名前が記されています。

菊池氏の家臣
白石常陸助頼道 白石民部允朝通
「白石頼道」「白石朝通」

「通」の文字。さらに「道」は「通」に通じる・・・

「通」の通字と言えば「河野氏族 肥前白石氏」と同じである。

つまり、肥後の菊池氏に仕えた「白石氏」とは
「河野氏族 肥前白石氏」と「同族」の方々である・・・

と私は推測致しました。

白石様がおっしゃっていたように
相良氏に仕えた「白石氏」が
菊池氏に仕えた後に相良氏に仕えた
と言う事ですから・・

つまり!
球磨の相良藩 藩士「白石氏」とは
「河野氏族 白石氏」となる訳です・・・・!!!
\(^o^)/

数学の方程式を解くように、考えて見ました(^'^)

ちなみに「筑後の白石氏」も同じく「河野氏族 白石氏」である事も
記されていました。

つまり、相良藩士 白石氏と
私ども、宮原の一族は・・遡ると「同族である」と言う事になります。

いかかでしょうか(^'^)
今朝は、何だか、凄く嬉しい気持ちです(^'^)
[32]白石さんからのコメント(2018年06月07日 14時31分10秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
やっと つながりが  みえてきました

過去に 7000傑さまから 河野のこと
ご指摘がありましたが
あの頃は 何が何だかわからない頃で

やっと はっきりしてきました
佐賀に 白石嬉野氏があり
鍋島に関与している


人吉永国寺は 化け猫寺ともいい
鍋島の化け猫の話のもとのようだ
と 書いたことがありました

西郷隆盛が 陣をしいたところで
うちの 白石が お願いしている
(祖父が子供の頃 育ててもらった 叔父か 叔母がいた川辺の家
ここが 久保●の言葉がある  古見院は 永国寺のながれで 明治
のころ 村役場が おかれた)

石田氏 - harimaya.com
www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/80-89/isida.html他より
いわた と 読むこともあるという

発祥は古く皇別に石田姓があり、由来は垂仁天皇の後裔まで遡る。
皇子の子孫が、山城国久世郡石田庄に住んで、石田君を称したのが
始まりという。

 中世になると、各地で武家の石田氏が起こった。

 相模国大住郡石田郷から桓武平氏三浦氏流が出た。
三浦義継の孫為綱が石田氏を名乗った。その甥石田次郎為久は
木曽義仲を討ち取ったことで知られている。

 武蔵国多摩郡石田村発祥の石田氏は、武蔵七党小野姓横山党石田氏だ。
この系統は三浦氏流と同じく、武蔵から相模に広がった。
岩代国伊達郡石田村発祥は、伊達朝宗の四男為家が石田を称し、
伊達藩の重臣として仕えている。

 近代の石田氏で有名なのは、石田三成だろう。
近江国坂田郡石田村の出身で、秀吉に仕え、
近江佐和山二十一万石の大名になった。秀吉死後
、関ヶ原で家康と戦い敗北、斬られた。

 代表家紋は、並び矢。石田三成は「大一大万大吉」
という縁起のいい字を並べた家紋を、創設している。
他に、沢瀉、柏、三つ目など。

■長慶天皇後裔の石田氏

後村上天皇−長慶天皇−盛徳(御母 石田徳前の娘 菊子、
宝徳三年六月八日卒)−盛岩−盛順−盛長−盛明、
その御子孫連綿として常照院とて、修験職にして上皇白山両神社

の祭祠を司り居りしが、明治四年後 神官に転職し、石田氏を名乗り、
今尚、陸奥国中津軽郡紙漉澤に住せり。石田は皇后伊勢宮菊子の姓
なればなりと。

■三浦氏族
相模国大住郡石田郷より起こる。三浦系図に
  三浦義継−芦名三郎為清┬為綱(石田)
             ├為長
             ├為景――┬清高
             ├為安  └為久(石田次郎)
             └圓海−為重−為家−義兼−幸尊−義定
*為久は木曽義仲を討ち取りし武将

■近江の石田氏
浅井郡石田村より起る、藤原とも 平氏とも云う。藤右衛門政成の子 三成 秀吉に仕え天下に名を成す。

■武蔵七党小野流
多摩郡に石田村あり、その地名を負いしか。小野系図に
「十倉長澄−長氏(石田)」と。

石井は いわい と よむこともあり 三浦から 石田と
関連あるようだ

七尾城(宝石城) 米子市 | 山城攻略日記
https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-11717751216.html

七尾城(米子市★橋本)は、尾高城を本拠とした行松氏の支城だ
城郭大系には石井要害(石井砦)の詰の城と書かれている

常照院 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/ 常照院

妙光山 常照院(みょうこうざん じょうしょういん)は、
佐賀県 佐賀市本庄町鹿子にある★日蓮宗の仏教 寺院である。
佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚家門で、代々重臣をつとめた
石井氏の菩提寺

人吉に石田さんという人がいたと思い
妙高山の野草取りの名人の人が石田さんで
耳が異様に大きいのが目を引き

検索してみました





[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月07日 19時30分45秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

〉やっと つながりが  みえてきました

良かった!!\(^o^)/
本当に良かった〜   \(^o^)/

私はじいちゃん(祖父)の言葉に従ったまでです(p_-)・・(^'^)
白石先生のお孫さん・・(^'^)
(何を言うやらでしょうが・・秘密です(^'^) )

でっ(p_-)
朝の調査は中途半端だったので、もう少し肥前の白石氏・・調べました(p_-)

太田亮博士の姓氏家系大辞典. 第2巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/578

22肥前の白石氏の項をあらためて「じっくり」読むと〜(p_-)

文永弘安の役に通泰あり。
と記されていて、つまり、この方が
白石六郎通泰 「白石通泰」 と言う方です。

文永弘安の役 つまり「元寇」ですね(p_-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87

太田亮博士の姓氏家系大辞典では
1274年と1281年の文永弘安の役で肥前の御家人「白石通泰」と言う方が活躍された
と言う事が記されています。

今朝、コメントに書かせて頂いた河野六郎通有 「河野通有」この方については
同じく太田亮博士の姓氏家系大辞典では
河上淀姫社文書として
正安二年に白石次郎通朝云々、無沙汰の間、豊前前司盛資、河野六郎通有と言う方を現地に遣わした。
と言った記述があります。
正安二年・・つまり1300年。


肥前の御家人「白石通泰」と言う方と河野六郎通有と言う方は
ほぼ、同時期の方なのだなぁ〜と推測。
さらに無沙汰と言う事は「白石通泰」と言う方に何かあったのか?と(p_-)

でっ調べました(^O^)/
「白石通泰」と言う方、ウィキの「元寇」のページに
すでに御名前がありましたよぉ〜\(^o^)/

めちゃくちゃ活躍されたようですね\(◎o◎)/!
戦力 の表にお名前があります!!

で〜!!ナント! ウィキに「白石通泰」と言う方記載がありました!!
「白石通泰」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E9%80%9A%E6%B3%B0


白石 通泰(しろいし/しらいし みちやす、道泰、生没年未詳)は、鎌倉時代中期の肥前国白石(現佐賀県杵島郡白石町)の武将。通称は六郎。鎌倉幕府御家人。
概略
文永の役では、竹崎季長ら主従五騎が赤坂の戦いに破れた元軍を追って鳥飼潟まで進出したが、麁原山に陣を敷く元軍もまた鳥飼潟まで進出してきたため、これに先駆けを行った季長以下三騎は負傷するなど危機的状況に陥った。
しかし、後続より肥前国御家人・白石通泰の手勢百余騎や同国御家人・福田兼重、筑後勢など日本軍が到着し、元軍を破った(鳥飼潟の戦い)。
そのため、季長らはかろうじて助かったという。通泰と季長はお互いの戦功の証人になった。
季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』前巻絵五には、通泰手勢である武士団が騎射をかける様子が描かれており、絵巻の中でも優れた描写で本格的な画技を供えた絵師によるものと考えられる。
通泰は後、季長を頼り肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区)に移り住んだ。
季長は、通泰を海東阿蘇神社の神職として迎えた。そして、白石家は現在に至るまで海東阿蘇神社の社家を代々勤めている。

\(◎o◎)/!・・・白石様!!
ひっひご・・肥後に移り住んでいらっしゃいますよぉ〜!!
肥後の白石氏・・お見つけ致しました\(◎o◎)/!

そうか!!「白石通泰」氏が肥後に来られたから「無沙汰」なんだ!!

だから!豊前前司盛資、河野六郎通有と言う方々が現地に遣わされた。

なるほど〜!!(なのかな?・・(?_?) )

ここまで、来たらミヤハラじっとはしていられません(ー_ー)!!
この件さらに調べました。(p_-)

すると・・白石様、見つけましたよ!!!

佐藤 鉄太郎氏の論文 「岩門合戦について」に記されていました!!
画面6ページ目 (論文内では54ページになっています)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180607184819.pdf?id=ART0001178258

武藤四郎右衛門尉盛資 武藤四郎衛門尉盛資は少貳氏の一族であり,少貳経資の弟で豊前前司である。
鎮西探題 北条実政の代の鎮西評定衆であり,二番引付である。
河上神社文書の正安二年十月廿六日前上総介北条政顕の鎮西御教書に
豊前々司盛資が 河上社の造営事についてみえる。

えええええ〜っ!!武藤四郎衛門尉盛資
えええええ〜っ!!
うっほ〜!!(妙な声が出ました<m(__)m> )

この後の記述に「白石氏」の事が記されていますので、御読みになられて下さい(^'^)

さらに(p_-)
河野六郎通有と言う方は?

河野通有 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E6%9C%89

河野 通有(こうの みちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。

元寇での活躍
元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。
博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。
博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。
通有は志賀島の戦いにおいて先に惣領の地位を争っていた伯父の通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。
『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。

★『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。

宇城・・
ええええっ!!「白石通泰」この方と同じ地域・・・!!?

私・・肥後に来られた「白石通泰」と言う方と、「河野通有」と言う方の関係が
めちゃくちゃ気になってしまいました・・・(..)

そこで・・日本の苗字七千傑様のサイトを拝見したのです・・
《河野氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002

そうしたら・・・・あんれ〜っ!!! 

「河野通有」この方の兄弟に「通泰」と言う方がいらっしゃる〜!!!!
\(◎o◎)/!

何だか・・ついに・・白石様・・・
私、発見したかも〜ですよ〜!!!!!!!!
\(◎o◎)/!

南氏と記されていますが・・この方が・・白石通泰と言う方ではありませんか!!?

あんれっ(?_?) 南氏・・みなみ・・何処かで聞いた事があるよ〜な〜(?_?)
うちの事は置いといて(ー_ー)!!

白石様
わたくしめ、今回、肥後の白石氏、さらに河野氏との関係
ここまで、調べ上げました(p_-)

でも・・良かった(^'^) じいちゃんの言葉・・(秘密です(^'^) )

そういえば・・・木上城主「久保田氏」のお墓の横には何故か河野氏のお墓が・・?
うちの事は今は置いといて(ー_ー)!!

白石様の御先祖様
ついに発見させて頂いたのかもしれません(^'^)
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月08日 12時11分05秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

私、今朝「矛盾」に気が付きさらに検証を重ねました(p_-)

「白石通泰」と言う方に系図を繋げる「白石氏」・「嬉野氏」について色々調べたのですが・・

和左衛門の佐賀の歴史あれこれ 様 サイトより
http://hizenkoku.sagafan.jp/e621595.html

白石氏は、肥前.肥後国の住人日向太郎道良が元治元年(1159)頃反乱を起こし鎮圧され、子供二人を含む数人が京にて梟首、難を逃れた子供が
      通秀(多比良祖)
      通俊(綾部祖)
      通益(白石氏祖)ー通常ー通遠ー通清ー通平ー通泰 となる。
      通宗(本居祖)
この功労により、平清盛は杵島郡に大功田を得る。

文治三年(1187)通益は、源頼朝より杵島郡白石郷の地頭職に任じられ、須古の高城を居城とし、支城の妻山城、南に稲佐城を築城。白石通益から通臣迄十二代に渡って最初は高城であったが、後に本城は妻山城に移っている。

「白石通泰」と言う方は系図では日向太郎道良の子息通益(白石氏祖)
この方から数えて5代目となられています。
★1.「白石通益」文治三年(1187)杵島郡白石郷の地頭職に任じられる。
系図でこの方の5代目となる「白石通泰」この方は・・
★2.「白石通泰」1274年と1281年の文永弘安の役で活躍された。

★1.と★2. 書いてみて・・・あれっ(?_?) となった訳です・・・
「白石通益」この方と「白石通泰」この方は、系図では6代も離れているのに
「1187年」と「1274年と1281年」
つまり、活躍時期が100年も離れていない・・・
何で????

さらに、深く考えてみると・・
「白石通泰」、この方が「1274年と1281年」の文永弘安の役で活躍された時に
生まれたばかりと言う事は到底考えられません(ー_ー)!! (当たり前ですが・・)
例えば、この時の年齢を、すご〜く若く考えて見ても「20歳」くらいなのかな・・?
であれば、遅くとも1250年代には御生まれでなければ、計算が合わない。

すると・・さらに・・計算が合わなくなる・・(?_?)
「白石通益」この方は文治三年(1187)杵島郡白石郷の地頭職に任じられる。
系図で6代目と記された「白石通泰」この方は
遅くとも1250年代くらいまでには御生まれのはずで・・「1274年と1281年」の文永弘安の役で活躍。

ナンダカ・・矛盾していませんか??? (?_?)
私の頭の中の方程式とは一致しない・・・?????

それに「白石通泰」と言う方は肥後に来られている・・

あまりにも、モヤモヤするので、さらに調べてみました。

武家家伝様サイトより 白石嬉野氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uresino.html

嬉野氏は宇礼志野とも記し、杵島郡の白石氏から分かれたとされている。
『白石系図』によれば、肥前総追補使に任じられた日向太郎通良と子の通秀・親良・親秀らは、平清盛のために叛逆人となり、討ち取られてしまった。
難を逃れた通益は高来郡に下り、文治三年(1187)、杵島郡白石郷の地頭職に任じられた。そして、地名にちなんで白石五郎を称し、須古の高岳に城を築いて本拠としたのであった。
 『肥前旧事』によれば、通益から六代の白石六郎通氏(通泰)の子息(通秀か)は、弘安四年(1281)の「弘安の役」の勲功賞として神埼庄内に知行を配分されている。また、『蒙古襲来絵詞』には、白石六郎通泰(通恭)が元軍と戦っている様子が描かれている。蒙古襲来に際しての白石通泰の高名は全軍に鳴り響き、戦後、功により藤津郡内に数カ所の地を給わった。この藤津郡は嬉野地方のことでもある。

やっぱり・・何か気になる・・(?_?)
普通に・・通益から六代の白石六郎通氏(通泰)と書かれているけれど・・
ハイ?(?_?) と言う感じです・・

『肥前旧事』によれば、通益から六代の白石六郎通氏(通泰)の子息(通秀か)は、弘安四年(1281)の「弘安の役」の勲功賞として・・・

また、『蒙古襲来絵詞』には、白石六郎通泰(通恭)が元軍と戦っている様子が描かれている。
蒙古襲来に際しての白石通泰の高名は全軍に鳴り響き、戦後、功により藤津郡内に数カ所の地を給わった。


★★★
この『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が描かせたものですよ(p_-)
理由は・・危機に陥った「竹崎季長」この方のもとに、「白石通泰」この方々が
来られて蒙古を打ち破ったから。
『そのため、竹崎季長らはかろうじて助かったという。通泰と季長はお互いの戦功の証人になった。』 ウィキより

何か・・何か気になります・・

私は・・白石様の御先祖様は、きっと「肥後に来られた”白石通泰”」
この方だと・・何だろう「直感」なのですが・・そう感じています。

それと・・
1274年と1281年の文永弘安の役で活躍された「白石通泰」
この方が白石通益から六代目と系図に記されているのも・・
普通に考えたら・・ありえないのかもしれない・・

「白石通泰」この方の身に何が起こったのか?
理由は・・肥後の竹崎季長を「頼った」から、肥後に来られた・・この事です。
「白石通泰」
この方は「本当はどなただったのか?」・・

この辺りが、昨日、ご紹介した
佐藤 鉄太郎氏の論文 「岩門合戦について」
画面6ページ目 (論文内では54ページ以降)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180607184819.pdf?id=ART0001178258

に関係しているのではないか??
そう、考えるのです・・

こちらの論文、白石様に御紹介した後は詳しく読んでいませんので
私も、じっくりと読んでみたいと思います。

ただ・・系図うんぬんの話は、肥前の白石氏に直接関わる事なので
後裔の方々も沢山いらっしゃいますから
あまり、言及しない方が良いのかもしれませんが・・・

私は、何はともあれ・・
白石様の御先祖様は、肥後に来られた「白石通泰」この方なのだろうな〜(^'^)
と、本当に直感ですが・・感じているのは確かです(..)
(直感で物を言うのは良くないかもしれませんが・・何だろう、そう強く感じます)

では(^'^)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月08日 12時23分57秒 ) パスワード

追記です。

「強く感じる」その理由の一つは

★竹崎季長は、白石通泰を海東阿蘇神社の神職として迎えた。そして、白石家は現在に至るまで海東阿蘇神社の社家を代々勤めている。

この海東阿蘇神社は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE

海東阿蘇神社(かいとうあそじんじゃ)は、熊本県宇城市小川町西海東に鎮座する神社である。旧社格は村社。

熊本県宇城市小川町西海東
実は、4月にこの宇城市小川町を中心に求麻郷土研究会の例会で散策して参りました。

宇城市小川町
ここは・・後世の相良藩にとてもとても所縁の地でございます(^'^)
[36]白石さんからのコメント(2018年06月10日 10時13分58秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
みやちゃん すごい!! 

元寇 ですか!!
つれさられてなくて 良かった!!
掌に穴をあけて ひきずられてたとこでした。

この頃 神風も吹き 運がつよかったのですね。

★竹崎季長ら主従五騎が赤坂の戦いに破れた元軍を追って
鳥飼潟まで進出したが、麁原山に陣を敷く元軍もまた鳥飼潟まで進出
してきたため、これに

先駆けを行った季長以下三騎は負傷するなど
危機的状況に陥った。
しかし、後続より肥前国御家人・白石通泰の手勢百余騎
や同国御家人・★福田兼重、筑後勢など日本軍が到着し、
元軍を破った★(鳥飼潟の戦い)。


うちの 白石は おじいちゃんの時 
福田からの 養子 に 
なっていたはずで
はず というのが 私 入退院を繰り返している間に

子供たちが断捨離をして 大事なものも
どこへやったやら
屋根裏にあがる 力も私にはなくなり

記憶の中になってしまったからです

福田という言葉は覚えています
後続より肥前国御家人・白石通泰の手勢百余騎
や同国御家人・★福田兼重

この時の つながりから 
うちの 白石 佐平 の 養子に入ったのか
又は 秀蔵が 福田からの 養子だったか

そこらあたりを はっきりさせたいと
おもっていますが
外付けの記憶も 娘が捨てたというし

過去にもっていた 四角い 小さなディスクの
ものは あるのですが
これは 今のパソコンには
仕えないようで 

何とか 使えるようにならないか ?
と 思います
家の系図とも いうべきものが入っているので

私が 家のことを 気にしているのは
歴史が出てくるのよ という ことなのです

ここで いったん アップ
私が 家のことを




[37]白石さんからのコメント(2018年06月10日 12時46分28秒 ) パスワード

岡山池田氏と相良氏と 徳川氏のからまりは
摂州多田院御家人高岡系図から引き出せます

みれば 最初に 
摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔
にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、
源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたる
によりて高岡氏もまた源姓を称す。


とあり
系図の最初のポッチリをおせば アゲハ蝶紋をつかう
池田氏系図がでます

下までスクロールすれば
嶋津斉興二男
奥平昌高十男
徳川斉昭九男 
章政は相良頼之二男
とあります

嶋津 徳川 相良がからまってきている
ということです
さらに 
相良頼之の

側室:慶寿院(侍女)

★長福、準之助、於栄、★於保(米良則忠室のち宮原健之助室)
池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎


と 宮原氏の室になる人もいます




[38]白石さんからのコメント(2018年06月10日 20時20分31秒 ) パスワード

宮原健之助を検索すると 不思議に ウィキの池田章政が
表示されます


下まで見て 細川護熙のことがでるので
表示とあるところをみると
近衛 毛利 前田 いろいろ
からまりが でます


[39]白石さんからのコメント(2018年06月11日 15時36分52秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
白石先生のお孫さん

それは 姉のことだと 思います
姉は私と七つ違いでした

先妻が病死したあと 腕白盛りの兄二人と
手がかかるあね二才 を 残され

すぐすぐ 子育てをしてくれる人を必要として
姉は 祖父母に預けられ
兄二人は母が 育てることになりました

商業高校に入り 簿記二級をとり
永田製材所に勤め
結婚の時 奥さんが 着物をつくって
くださったそうで

大事にもっていました
年より二人の面倒をみて
体をこわした 義妹を家に住まわせて


苦労続きの人生でした
姉は 私がいうのもなんですが

若いころは 美人でした
すれ違うと 思わず振り返るような

母は 姉ちゃんは気位がたっか子だから
といっていましたが
やさしい人でした


[40]白石さんからのコメント(2018年06月11日 15時51分32秒 ) パスワード

福田が きになるので
少しみてみました

ウィキや 福田さんのルーツなどをたよりに
しましたら 
肥後に帰農した一族がいるようです

ネットより
それで、「福田」の姓になる前を調べてみましたが、
「福田」の前は「高橋」で、高橋家の次男やったみたいです。
その「高橋家」も「原田」から「高橋」に代わってまして、
原田家の次男が高橋という土地に移って高橋と名乗った
そうです。

この原田家・高橋家は、鎮西の大蔵氏の一族で、大和
朝廷に仕えて、その祖先は、後漢の霊帝に始まると言わ
れています。鎮西の大蔵氏が、原田に移り「原田」と名乗り
、また高橋に移り住んで「高橋」・・・それから福田に移り住み
「福田」と姓を替えてきています。

「福田大蔵朝臣」をなのっているそうです

大友吉統改易後、福田氏の一族は元の所領である肥後に戻り、
帰農している。


又 もうひとつ それらしいのが
[引用元:Wikipedia「高山城」の項目]
高山城(こうやまじょう)

は、鹿児島県肝属郡肝付町新富本城にある城。形式は山城に属する。別名「肝付城」。国の史跡。
【沿革】
平安時代末期、島津荘の弁財使(荘園監督官)に任じ
られた平兼貞の子孫が土着しこの地に定住したことが
始まりと伝える。現在に残るような壮大な城郭が調え
られた時期ははっきりしないが、南北朝時代、戦国時
代の争乱に備えるため城郭
が形成されたと考えられる。

兼貞の子・兼俊は「肝付氏」
を名乗る。肝付氏は12世紀から約400年間、
ここを拠点として大隅国の最大領主であった。
肝付兼続の時に薩摩国の最大領主であった島津氏
と日向国の最大領主であった伊東氏の間で巧みに
バランスよく立ち回り肝付氏の絶頂期を築くが、

やがて島津氏と対立して天正元年(1573年)に
高山城は落城。その後も領地を大幅に縮小したものの
引き続き肝付氏はこの地の領主を務めたが、天正8年
(1580年)に肝付氏は阿多(現南さつま市金峰町)
に移封され、高山城は廃城となった。

また、外城としての機能は、支城であった弓張城
に高山麓が設置されて遷移した。
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月11日 18時00分03秒 ) パスワード

白石様、今晩は(ちと早いかな(^'^))
沢山の、御教示、お話、ありがとうございます。
お返事遅くなりまして申し訳ございません(..)

白石様のお姉様と、祖父母様のお話、初めて伺いました。
そうだったのですね!
そうか・・祖父の言葉は・・
でも、この話・・夢での話なのです・・
今まで、何度かあったように、夢が気になって調べた結果です。

でも、白石様の御先祖様の調査が一気に進展して
本当に良かった〜(^'^)と思っています。

所で(p_-)
福田氏。

白石様の御親戚にも「福田家」様がおありでしたね・・

私は、ブログにアップしていたように
福田家とは親戚です。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12306647918.html

この湯前の福田家と、家の親戚の湯前の「黒木家」とは、コレマタ親戚同士です(p_-)

白石様の御教示を拝見して
そう言う事か・・・!
って思いました。


何だか・・色々見えて参りましたね(^'^)

湯前・・(^'^)・・あっ\(◎o◎)/!
実は、湯前の親戚繋がりで、超・・超・・ビックリする新情報が
あります!
平川家についての方で書きますので
ご覧ください(^'^)
[42]白石さんからのコメント(2018年06月12日 06時51分53秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
宮原のこと

みやちゃんが 前に 雨宮神社の話をコメントしていて
それを思い出し 雨宮神社を見ていました

雨宮(あまみや)神社 【相良村】
www.kumatop.com/index.php?
水田の中に孤立した高さ約35mの森で、
相良村を代表する風景の一つです。
112段の急峻(きゅうしゅん)な石段は、
江戸時代に付近の住人★上田廣助の発願により、
およそ800人の村人が協力をし、嘉永5(
1852)年に完成をしました。時の相良藩主は、
石段を造った功績をたたえ、廣助に★「宮原」の姓を与えた
ということです

上田廣助→宮原氏へ


上田氏は お茶のことで
同級生の溝口君のいとこが
お茶で成功していて その ブログで
上田のことばがありました

溝口氏
相良氏に 養子に来た人

越後平野をはるかにみはるかすところに
新発田藩があり その 藩主

うちの 白石の祖母によくしてくれた 免田の
溝口があり 
五木に一家5人で 移り住んで 
洪水に会い 一家全滅した

四浦の家の坂の下に溝口家があり 同級生の家
お父さんは 役場に勤めていた
川向に お茶工場の溝口家があり

熊本城を解体した時の木を柱につかっている
ということで 村でも大事にしているようです

ここに 平野さんが お茶の製茶を頼んでいるとのことです


[43]白石さんからのコメント(2018年06月12日 07時19分46秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
宮原のこと

みやちゃんが 前に 雨宮神社の話をコメントしていて
それを思い出し 雨宮神社を見ていました

雨宮(あまみや)神社 【相良村】
www.kumatop.com/index.php?
水田の中に孤立した高さ約35mの森で、
相良村を代表する風景の一つです。
112段の急峻(きゅうしゅん)な石段は、
江戸時代に付近の住人★上田廣助の発願により、
およそ800人の村人が協力をし、嘉永5(
1852)年に完成をしました。時の相良藩主は、
石段を造った功績をたたえ、廣助に★「宮原」の姓を与えた
ということです

上田廣助→宮原氏へ


上田氏は お茶のことで
同級生の溝口君のいとこが
お茶で成功していて その ブログで
上田のことばがありました

溝口氏
相良氏に 養子に来た人

越後平野をはるかにみはるかすところに
新発田藩があり その 藩主

うちの 白石の祖母によくしてくれた 免田の
溝口があり 
五木に一家5人で 移り住んで 
洪水に会い 一家全滅した

四浦の家の坂の下に溝口家があり 同級生の家
お父さんは 役場に勤めていた
川向に お茶工場の溝口家があり

熊本城を解体した時の木を柱につかっている
ということで 村でも大事にしているようです

ここに 平野さんが お茶の製茶を頼んでいるとのことです


[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月12日 10時32分00秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

雨宮神社での功労により「宮原姓」を相良氏から
授かった「上田廣助」この方についてですが
其の後の続きがあります。

「宮原姓」は・・・
何故か?「身に余る」と、殿様に御返還を願い出て
「上田」の姓に治まった・・
という後の経緯がございます(..)

詳しくは、現地、雨宮神社の由来記に記されています。
3年近く前に、求麻郷土研究会の例会で雨宮神社にお伺いした際に
この由来記の話題となり
「宮原さん、こう言う事が書いてありますバイ(ありますよ)」
「”身に余る”と御返還されたという事は・・宮原の姓は、やっぱり重要バイ」
と言う事になり
私は、「あんれ〜っ!!」と思いまして・・
マイッタナ・・と(こんなおっちょこちょいの私は・・”宮原”ですから・・(..) )
照れ隠しに・・何か冗談を言った記憶がございます(..)・・トホホ・・

このお話、詳しく書くと
御百姓さんだった「廣助」と言う方は、とても親孝行で、さらに信仰の深い方でした。
それまでは簡単には登れなかった、小さい山の頂上にある雨宮神社。
歳をとられたお母さんの為に、最初は自分で階段を作り始め
その姿に地域の人達が感動して、皆で階段を造り上げた。
この「廣助」さんの、孝行心と信仰の深さに殿様が感動されて
「廣助」さんに、褒美として「宮原」の姓を授けた。
所が「廣助」さんは、「宮原」の姓を頂くのは恐れ多い身に余ると
殿様に御返還を申し出て
結局、その心に感動した殿様から上田の姓を授かり
「上田廣助」となられた。

と言うお話です(..)

所で「溝口氏」
私の住む集落に1655年に建立された庚申塔「2基」にも、沢山の宮原姓と共に溝口氏の名前が記されています。
この庚申塔には、合わせて30名以上の姓名が記されています。つまり当時
この集落には少なくとも30名以上の苗字帯刀の方々が住していた・・と
言う事です(p_-)

溝口氏ですが、八代氷川宮原に多数お住まいのようですから
氷川宮原の宮原一族と関係が深かったのは確かのようです(p_-)
父の大親友の方も、氷川宮原の「溝口」さんでした。

四浦の「溝口家」
やっぱり・・川辺や四浦地区は、宮原姓とは関わりが深いような気がします。

白石氏も遡れば「宮原の一族」とは同族ですからね(^'^)・・(p_-)
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月12日 11時18分45秒 ) パスワード

追記です(..)

先のお話・・ちょっと不思議なのですよね・・(?_?)・・(p_-)

何故?相良の御殿様は「宮原」の姓を与えたのか・・?
姓を与えると言う事は、相良氏に関係する姓を与えるのが一般的。
なのに・・何故「宮原」だったのか・・?

この話に関係するかもしれないので、
かなり、以前から「どう〜しても」気になる事があるので書きます(p_-)

上相良氏を滅ぼし、球磨・人吉をようやく統一した「相良長続」(永留長続)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A

ウィキより
相良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。分家の永留氏の出身。山田城主として多良木兄弟の乱を鎮定し、第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続した。通称は藤五郎または左近将監。

中略・・
再び兵乱があり、多良木頼観が鍋城、多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵し、久米の砦でもその家臣源島某が兵を挙げた。4日、長続は出陣すると、兵を三つに分けて久米雀ヶ森の堀川に伏兵を置き、まず久米の砦を襲って源島を斬り、煙を見て救援に駆けつけた頼観・頼仙兄弟と手勢を伏兵で破って、両将の首を取った。(雀ヶ森合戦 / 久米雀ケ森の合戦)
多良木氏を滅ぼした[3]ことで、相良頼景より数えて8代220年余り分裂してきた上相良氏と下相良氏の争いはついに解消され、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村を支配下にいれ、相良氏は初めて球磨郡内の統一を果たした。

あの・・・「相良 長続」
この方、平河氏では無かったのか?と言う話が、実際、現在多数あるのですが・・
最近の研究で
上記の「雀ヶ森合戦 / 久米雀ケ森の合戦」、平河氏の大半は上相良勢に協力している事が解ったようです・・
でっ(p_-)

「相良 長続」の後ろ盾をしたのは「宮原氏」だった・・と言う事のようです・・

つまり・・上相良の地区である久米郷宮原村を拠点とする「宮原氏」は・・
何故か?下相良一族の「相良 長続」この方の後ろ盾をして・・
上相良氏と戦った・・と言う事です。

何だかなぁ・・(p_-)・・???

そう言えば・・何故か?家の近くの山には「永留長続」が城主であったと言われる
「左近城」があった・・・

何でかなぁ・・(p_-)・・???

山田村の山田城の城主一族と言われる「永留氏」ですが
山田には「永留氏」の形跡は全く残っていない・・

何でかなぁ・・(p_-)・・???

それに・・一つ気になるのは・・
元、家の宮原家があった場所のすぐ近くに御鎮座の稲積妙見(稲積神社)

「稲積妙見」(稲積神社)を明應五年(1496年)に中興した方々の一人は
※宮原出雲橘續久 (宮原出雲 橘続久)

宮原出雲 橘続久
「相良長続」「橘続久」

何だか「お名前」が気になりませんか・・???
(p_-)(p_-)(p_-)

それと・・すごく変だな(p_-)と言う事に気が付いたのです。

肥後人吉藩の第11代藩主「相良 長寛」
備前岡山藩主・池田宗政の次男。

この方を養子とされた肥後人吉藩の第10代藩主「相良 福将」
この方に関して、気が付いたのです。
ウィキの記述より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%A6%8F%E5%B0%86

寛延3年(1750年)6月13日、美濃苗木藩主・遠山友明の次男として生まれる。初名は友充(ともみつ)。
明和4年(1767年)3月5日、(2人目の)第9代藩主・相良頼完が死去した。当初、相良家の重臣は幕府に秋月種武の弟・種穀との養子縁組を願った。しかし、老中松平武元は、年齢の高いことや異姓であることを指摘して却下し、人吉藩主家の別の姻族か、武元の実弟遠山友明の次男・友充のどちらかを要請した。相良家の姻族に他に適当な人材もないので、相良家の重臣は友充擁立案に同意し、友充を末期養子に迎えた。

秋月種武の弟・種穀との養子縁組
★老中松平武元は、年齢の高いことや異姓であることを指摘して却下

※相良氏とは「異姓であることを指摘して却下」

なのに・・・・

肥後人吉藩の第11代藩主「相良 長寛」この方は
備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれ、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。

※相良氏とは「異姓であることを指摘して却下」されなかった・・

ナンデですかねぇ〜・・・(?_?)・・(p_-)

私、さらにさらに気になっている事があって・・・

それまでの時代・・相良氏と宮原氏の姻戚関係は「公」に解っている中には
全く存在していなかったのに・・

何故? 以降・・
肥後人吉藩の第13代藩主「相良頼之」
子息・息女
長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)※宮原健之助は幼名。後に宮原健吉。
池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎

こうなるのですかねぇ〜(?_?)・・(p_-)

ず〜っと気になっていたので
ついに・・書いてしまいました・・!!

ヤバイ(;一_一) では(..)

[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月12日 11時35分25秒 ) パスワード

再追記(..)

さらに・・もう一つ(p_-)
〉再び兵乱があり、多良木頼観が鍋城、多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵し

この時ですね・・
多良木頼観・多良木頼仙に挙兵を止めるように説得した
上相良氏一族の
「久保田氏・新堀氏等」は・・事前に「須恵」に逃れていたのです・・
その事により、御咎めはなく・・
久保田氏・新堀氏等は無事でございました(..)

何でかなぁ〜・・(p_-)・・???

そう言えば・・
家の宮原家・・
私の曾祖父は実家は「久保田家」
曾祖母の実家は「新堀家」
私の祖母の実家は「平川家」

何でかなぁ〜・・(p_-)・・???

なんでかなぁ〜 ナ・ン・デ・カ・ナ・・

ちょっと・・怖くなってきたので
この辺りで(..)
[47]白石さんからのコメント(2018年06月12日 12時36分01秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
やっぱり みやちゃんは ご存知でしたね
雨宮神社について 菅原道真を書いておられた時から
しっておられるだろうと 思っていました

雨宮神社には 雨宮姫がいた
川筋は 阿蘇神社が 多くまつられており
奥の 五木の方は 祇園社がある

雨宮神社 熊本県球磨郡相良村川辺 - 神社と古事記
より

何故雨宮大明神と呼ばれていたのでしょうか?
確かに相良為続公による雨乞い故事はあるのですが、
雨宮姫が祀られていたものの都合が悪い事から隠され
た可能性もあるのではないかと考えています。

熊本市内の雨宮は、「熊本県神社誌」による建軍神社
の摂社 雨宮神社(雨宮大神)、小山諏訪神社の
摂社雨の宮社(祭神不詳)がありますが、情報を得られず、
今のところ探索はとん挫しています。


以下は、故)百嶋由一郎による話です

。高木大神の次女タクハタチヂヒメと草部吉見との間
に生まれた阿蘇ツ姫=天豊ツ姫が雨宮姫の母なのですが、
この女性は、神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により
第4代とされた本物の神武の子)の正室となります。
ところが、駆け落ちか略奪かは分かりませんが
(百嶋説では皇后陛下略奪)、阿蘇の主神である
健磐龍命の妻(妃)となり(後に寒川姫、杉山姫)産まれたのが
雨宮姫なのです

、雨宮姫の母は 天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比里刀売→
寒川姫→杉山姫 と名を変えた事が書かれています

子孫は
大神 大家 (大江)相可 に わかれる


上田の方は 服部に関係するようですね
[48]白石さんからのコメント(2018年06月12日 14時27分15秒 ) パスワード

池田と摂州多田院御家人高岡氏は 同祖
相良氏は 佐々木という

宇田源氏佐々木氏から 高岡になる
つまり 高岡 池田 相良は
古くには 同族


[49]白石さんからのコメント(2018年06月12日 21時26分08秒 ) パスワード

上田氏
うちの親戚には ありませんが
川下の 雨宮あたりに いたということで
上田も 何らかの形で 地域につながっていると
思います

★備後 尾道の宇治園
ここの 故郷は 四浦・溝口と書きました
この お茶屋さんは 上田流

上田重安(戦国大名)
改名・佐太郎(幼名)→重安→★宗箇
主君・★丹羽長秀→長重→豊臣秀吉→秀頼
→姻戚・★浅野幸長(紀伊和歌山初代藩主)
上田氏★(清和源氏 小笠原氏流)
正室:とく★(杉原家次娘)
その後、★蜂須賀家政に強く請われ、
その客将
重秀は★近江野洲郡に知行を与えられ服部村
に★服部陣屋(服部城)を構えた。子孫は
代々相続し、上級旗本として江戸幕府に仕えた。
次男・重政が広島藩浅野家の家老職を相続し、
上田家は藩士として続いた。★三男・可勝は細川氏に仕えた。

★印の中で 四浦 白石の 言葉が関わってくるのが
清和源氏小笠原氏 しっぽに 白石がついている

鷲尾も うちの関係の家から ことばつながりがある
杉原家 杉原は 木下(秀吉)と 関係ある


うちの 地域の川向は 平というところを 
山越えすると 山田村に行く

福島 木下 中村 尾方 山井 小川「こがしわ」

などなど 川辺 他も いろいろ 歴史に名が出る家も
あります

稲留長蔵というひとの妻
正室:名和武顕の娘(天正11年に離縁)
正室:内城★(上田織部允の娘)・・・上田氏はただの 人ではないわけですね
側室:於東★(恒松氏)


義陽、頼貞、亀徳★(島津義弘室・離縁。後に上村長陸室

備後尾道 
吉備国を備前国(後に★美作国も再分割、
備中国、備後国に三分して設けられ、藤原宮からでた木簡に
「吉備後」と表記したものがある。平安時代の『和名類聚抄』は、
備後国を★「きびのみちのしりのくに」と読む。


岡山津山藩 森忠政(森蘭丸の兄弟)
吉備    桃太郎の話 岡山に 井上家の門
      井真成の 井氏は 井上か?の説も

  

    
[50]白石さんからのコメント(2018年06月13日 07時45分39秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
みやちゃん
私 いろいろ お話をきいているうちに

頭がこんがらかって・・・
宮原宿禰 は わかりました
どうして 
藤原になったのでしょうか?
橘になったのでしょうか?

無知な私にあきれないで
もう一度 教えてくださいな
おいそがしいのに ごめんなさい
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月14日 09時52分48秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

昨日は外出していまして、お返事が遅くなりました。
申し訳ございません。

宮原宿禰 ⇒ 藤原氏 ⇒ 橘氏・・・?

白石様のご指摘の意味が、私、今一つ理解出来ていません(?_?)
すみません(@_@。

逆に、御教示を頂きたいと思います。(..)

私が、現時点で、こうかなぁ〜と考えていた事は・・

@古代「三宅氏」 ⇒ 橘氏

県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族「橘氏」
は、何らかの繋がりがあったのでは?

A良峯氏と百済姓「宮原氏」との姻戚関係(良峯宗貞の妻は宮原氏の娘)

B良峯氏は後世「橘氏」を名乗った期間がある。

C菅原氏と百済姓の「宮原氏」の姻戚関係(菅原道真公の後妻は宮原氏の娘)

D岡山の三宅氏が本来「新羅姓」であるのに「百済王後裔」を名乗っている。

上記の@〜Dは全て、何らかの「関係」があるのでは?
と言う推測です。

それと・・別件ですが(何がどう繋がるのかは解りませんが)
昨日、外出して気が付いたのですが
人吉と球磨村の境界辺りの地域「下原田」(旧原田村)の地名ですが
「嵯峨里」でした!
人吉市下原田町字嵯峨里
初めて気が付きました。 何だか・・ビックリです。

嵯峨地名と「蘇我」の関係は、私よく理解していませんが
蘇我氏と百済姓「宮原氏」のお話を白石様が書かれていらっしゃいましたので
何と言うか・・
@〜Dと蘇我氏と百済姓「宮原氏」の関係と・・

何だろう(?_?) 球磨は・・関わりがあるような・・
グリングリンと繋がっているような気がしました。

さらに(p_-) 藤原南家と蘇我氏は繋がりが深い(p_-)

やっぱり・・グリングリンと繋がっているような・・・

だけど、上記の事を抜きにして
旧原田村の「字嵯峨里」は、心揺さぶられる地名でございました(p_-)

所で・・
上田織部允
この方は、木上の山下地区(高原のすぐ下)辺りに住まわれていた方です。
木上の山下辺りの地頭でいらっしゃいました。

当時の木上城の城主、木上一帯の領主は「久保田氏」

上田氏と久保田氏は御縁があるから木上の一部「山下」の地頭をされて
いらっしゃったのでは?
と私は推測していました(p_-)

相良 晴広、この方が市房山詣出の際に木上に一泊されて上田織部允の娘様と
恋に落ちられたようですよ(^'^)

ちゃんとした記述は、私色々文献を持っているので理解していますが
簡単に書くとこうなります(p_-)

では(^'^)
[52]白石さんからのコメント(2018年06月15日 17時28分11秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは
早速 丁寧に教えてくださりありがとうございます
年は取りたくないですね
さっき聞いたことも またいちから という状態になって・・・

★菅原氏と百済姓の「宮原氏」の姻戚関係★(菅原道真公の後妻は宮原氏の娘)

敦美親王と菅原道真との間には 血縁関係がある
と 平野神社の祠の立札にありました

敦美親王の子孫は 道長
とつながった方は 貴族になっていき
京極とつながった方は 武士化していった
京極氏から 佐々木道誉が出る

[53]白石さんからのコメント(2018年06月15日 17時54分20秒 ) パスワード

佐々木道誉については

高槻の 重要文化財になっている 
笹井家住宅の 資料で 佐々木道誉(笹井)
としており 屋根のつくりが 
古墳時代の神社の本殿と同じ ということで 文化財になっているということです
又 福島の方の神社の社家に笹井があり 
西園寺実氏の子孫とのこと
ここは 新羅の古書を持っておられるとの
こと
又 太田亮氏姓系辞典では 
信州篠ノ井の戦に敗れ
五郎六郎兄弟が作州に走り 森忠政(蘭丸弟)
に仕え(津山藩)た

つまり 先祖は 長野の方に いた
以上は 過去に調べたときしったことですが

新羅の古書→新羅ですね

百済姓宮原氏
贏姓 高丘系図1 をみると
島津候の先祖 の 兄弟から出る 高丘は 日本に来る途中 
百済にいた
百済の王の娘 真華姫を娶り 子孫 部寧王になる
秦だけど 百済と からまっているのですね

大阪高槻の鴨神社では 高倉天皇の安産祈願がなされ 
鴨氏とのつながりがみられ
全国の三島社の総本山といわれる


この 神社の近くに 初代天皇家の頃の 皇后の
話がある

高岡が 宮原家と の 関係が 濃いいと 思います
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月17日 10時40分32秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)
昨日、平川家についての方にコメントを書いた後、お返事を(^O^)/
と思っていた所に、来客があり
お返事が遅くなりました事をお詫び申し上げます<m(__)m>

「笠井家」
〉太田亮氏姓系辞典では 
信州篠ノ井の戦に敗れ
五郎六郎兄弟が作州に走り 森忠政(蘭丸弟)
に仕え(津山藩)た

私は、「高祖母」の実家の調査から
美作や備前を調べて、「津山藩」まで到達して・・
そこで、以前から白石様にお伺いしていた
御主人の「笠井家」との御所縁をひしひしと感じていました。

人の出会いは本当に不思議なものですね・・

でも・・最近、感じているのですが
人の移動にはちゃんとした意味がある・・と。

任官、地頭の補任、等、御上からの命令は無作為に行われているのかな・・と
思っていたのですが、実は「そうじゃない」と。

きっと、現代と違って、「皆、何でも知っていた」のだと思います。
人の移動は「地縁」に基づくものだと、そう推測しています。

「地縁」があったり、古(いにしえ)からの「縁故」の関係がある系の「いる場所」に
人は動いていた・・と言うか・・命令の場合は「動かされた」そう思うのです・・

だから・・球磨の場合
相良氏は、何らかの「地縁」・「縁故」の関係が球磨にあったはずだ・・
そう、私は推測します。

〉高岡が 宮原家と の 関係が 濃いいと 思います

私、「白石氏」と「高岡氏」両方の方々が「宮原の一族」と何らかの関係があると
考えていますよ(^'^)

きっと・・伊予繋がり・・「四国」繋がりではないのかなぁ・・

では(^'^)
[55]白石さんからのコメント(2018年06月17日 20時03分28秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
笠井 では なく
笹井です

白石ですけど
みやちゃんに しつこく
宮原そのもの の 系かと
お聞きし

おじい様に かかわっていること
お聞きしたと 思っております

宮原 は 葛井 
宮原は 王辰爾の子孫

王辰爾とのつながりは
まだ 私しりませんが
郎耶王氏 

この一族に司馬炎がおり
晋 魏に関与している

司馬氏は我が国で 鞍作であり
蘇我氏でもあり
入鹿が殺された時 村人が走りこんできて
「韓人 鞍作を殺しぬ」と 言ったという

韓人 これは 中大兄皇子のことなのか?どうか
同調したのは 曽我倉山田石川麻呂 島の大臣と言われた
この人の墓誌は こちらの近くから出たそうです

又 この場面に出る 中臣鎌足(黒田鎌子・藤原鎌足)の墓も
近くにあります

鞍作は 林の臣 であり
林とは 球磨では
相良氏のおじが 林氏であり

球磨川の大石を取り除いて
参勤交代にそれまでは 宮崎 鹿児島の方を つかっていた
道を 八代の方から抜けるように した


[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月17日 22時30分22秒 ) パスワード

白石様、今晩は。

笹井氏。
すみません(@_@。 おっちょこちょいでした<m(__)m>

所で・・
白石様、私、凄く凄く重要な事スルーしていました!!!!!

白石様の御教示「葛井氏(ふじい氏)」でその事に気が付きました!!!

藤井氏は・・相良長頼と共に球磨に来られています!!!!

末裔の方は、十島菅原神社の中興に深く関わっていらっしゃいます!

麻郡神社私考に記されていました!
私、何時かコメントしよう・・と考えてはいましたが
今、この事がいかに重要な事なのか
ようやく理解出来ました!

そうですよね!

「葛井氏(ふじい氏)」は「藤井氏(ふじい氏)」でもある・・!!

何で、こんなに重要な事をスルーしていたのだろう・・
自分が情けなくなりました・・
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月17日 22時42分31秒 ) パスワード

追記

十島菅原神社中興、他、江戸時代の球磨の神社仏閣に名前が残る「藤井氏」ですが
何故か分限帳には記載されていません。

どう言う事なのか・・深く考えてみました。

答えは・・
本姓が「葛井氏(ふじい氏)」・「藤井氏(ふじい氏)」でも「苗字」が違う・・

通常名乗った苗字は・・?
答えは・・もしかしたら「宮原」かもしれない・・

もしかしたら・・百済姓の宮原氏と橘姓の宮原氏、二系が球磨にあったのでは!?

もしくは・・合流しているのかもしれません・・

白石様
これは、凄い事です!
御教示ありがとうございました!!!
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月18日 10時12分20秒 ) パスワード

白石様

高槻市で震度6弱の地震。
怖かったでしょう。
御病気に対する影響
お怪我など、なさっていらっしゃらないか
大変、心配しております。

心より御無事をお祈りしています。
[59]白石さんからのコメント(2018年06月18日 14時57分52秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
地震のこと 私の体のこと ご心配くださり
ありがとうございます

家も何とか無事 体も無事でした
透析に行ったら
食器が散乱したとか 体をぶつけて

大事には至らなかったけど 
こわかったとか 結構いらっしゃいました

地震は これからいくぞ と
予告がないので こわいですね
そういえば というのは

いつもは 馬鹿みたいに どてんとしている
夫が 夕べから 何か そわそわと 
していたことです

これからは 夫のことに 注意して
みていようかな?と 思いました
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月18日 15時23分58秒 ) パスワード

白石様
お怪我も無く、御無事と言う事で安堵致しました。

今回の地震でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り致します。
地震の早期の終息を心よりお祈り致します。

今朝、主人が3時に出勤後、平川家についての方にコメントを書いて
少し、休んでいたのです。
目が覚めて、テレビのニュースを見て、本当に驚きました。

高槻・茨木・・白石様の地元

どうなさっていらっしゃるのか、心配で心配でたまりませんでした。

余震が続いているようですが
健康な方でも、乗り物酔いのような感じになり、体調をくずします
白石様は透析をお受けのお身体なのですから
絶対に絶対に、御無理をなさらないようにされて下さいね。

お家の方は、食器など大丈夫でしたか?
片づけは大変でしょうが
何度も言いますが、御無理だけはなさらないで下さい。

早く、お言葉が聞けて
本当に、安心致しました。
[61]白石さんからのコメント(2018年06月19日 09時40分29秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
ご心配頂きありがとうございます

王氏のことを 見ていました

王辰爾の先祖が 王しょう か 王しゃく? と
いうことを本でみたなあ と 思いまして

魏の司空をしていた ということなので
王しょう だと 思います

以下は ウィキからの抜粋です

王 祥(185年 - 269年)
中国後漢末期から西晋にかけての人物

★徐州琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市蘭山区
前漢の王吉を先祖とする琅邪王氏の一族
継母は★朱氏

王叡が孫堅に殺されると、継母や弟と共に★廬江へ避難した。
呂虔は彼に★徐州の統治を任せた。

昇進を重ねて大司農になった。

★曹髦(高貴郷公)が即位する
曹髦が太学へ足を運んだ際には
曹髦に対し南面(上位)して師父の地位に置かれた

司空にもなった

文帝(魏の初代皇帝曹丕(そうひ)の諡号(しごう))

の在位中は蜀漢の諸葛亮が北伐を行う事ができないほど
充実した治世であった。

★ 新 を 建てた王莽も 郎耶王氏の一族だということです
福岡あたりは 新のころの 甕棺がでるそうです

★ 諸葛亮などもいるので 赤壁の戦いの頃でしょうか?
★ 曹は 高でしょうか?

王氏と司馬炎
魏を滅ぼした★西晋の武帝司馬炎は

皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど
厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。


東北に来た 晋の 姫君
阿部氏と結婚と 東日流外三郡誌に 書いてあるとか・・・

その 子孫が 松浦氏とからみ 子孫続いているとか・・・ 





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