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 投稿番号:101630 投稿日:2018年04月10日 09時30分16秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について4

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、別系「平賀氏」との関係など
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

ブログの方で調べた事ですが
『井伊氏の系図で祖と書かれた藤原冬嗣は良峯安世と同母兄弟であり、後世の球磨の平河氏(良峯氏)と井伊氏は遡ると母系「百済永継」で同族となる・・・』
と言う事で、良峯氏と井伊氏の関係も見えました。

さらに藤原冬嗣と同じく良峯安世と同母兄弟である
藤原真夏
異父弟:良岑安世
藤原真夏の妻は・・・三国真人・橘清友の娘

『井伊氏の系図で祖と書かれた藤原冬嗣』の兄『藤原真夏』の妻は
三国真人・橘清友の娘
と言う事で
藤原冬嗣(後裔に井伊氏他多数)と藤原真夏(後裔に日野氏他多数)と
良峯安世(後裔に原氏・前野氏・丹羽氏・他多数、さらに球磨の平河氏等)
と『三国氏』は姻戚関係にあった事も解りました。
ここに(p_-)
『橘氏』が絡んでいます・・・

古代ではありませんが、ちょっと新しい時代?「平安時代」まで遡ると
自分が調べて来た事の方向性は間違っていなかった・・・のでは(p_-)
などと考えています。

今後もしっかりと、勉強をすすめて参ります。
皆様、よろしくお願い申し上げます。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 11時09分19秒 ) パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について3 コメント93より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_93.html

白石様、皆様、今日は(^'^)

先に書いたブログとは

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12357175102.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12357728806.html

です(..)
よろしければ、ご覧ください。

所で・・
私、最近感じている事があります。
球磨には
古代の元祖的「新羅」と
後世の「百済」が
共存しているような気がしています・・・
(妙な書き方になりますが・・何だかそう感じるのです・・)

それと、以前から気が付いていたのですが・・
私の周囲には「R」の付く姓が非常に多いです・・

ローマ字入力をしているとすぐに気が付くのですが・・
宮原(MIYAHARA)・平河(HIRKAWA)・相良(SAGARA)
新堀(SINBORI)・中村(NAKAMURA)等
私は以前から、自分の中では「R」のグループと呼んでいました・・

そう言えば・・白石様
白石(SIRAISI) 白石様も「R」のグループです・・

新羅(SIRAGI) 百済(KUDARA)も「R」が付く・・・

”ら”「RA」とか”り”「RI」の文字が自分の周りに沢山あります・・
何でかなぁ・・???

黒原山(くろばるやま)「KUROBARU」・・「R」が二回も入る・・
何だろう・・「R」の文字が怪しい(p_-)・・と最近妙な感が働いています。

ここ「球磨」は・・
縄文早期の「元祖的日本人」と紀元前の「中国」から来られた人達と(沖縄・久米島経由)と元祖的「新羅」に関わる人達と
三国志時代の「呉国」と「蜀漢」に関わる人達と
後世の「百済」に関わる人達・・他「高句麗」や「伽羅」
等に関わる人達が「共存」した場所のように感じます・・
さらに・・きっと新羅の建国にも何らかの関わりはあると・・
(詳しくは後々・・)

黒原山と白髪岳がそれを示す「証拠」なのかなぁ・・と。

そう言えば(p_-)
椎葉村にも「黒原山」がありました。(やっぱり(p_-))
詳しくはブログの方で書くつもりです。

上記に書いた球磨の「共存」した様々な人達は、出発点?は中国や新羅・百済等ではなく・・
本当の出発点は、もっとアジアの西じゃなかったのかなぁ・・

所で
最近、こちらで「ふと」書いた事により、白石様からのコメントを頂き
一気に中世の「グループ」・「ネットワーク」が見えました。

やはり、地元で聞いていた事や知っていた事は書くべきだ!と痛感したので・・
今日も書きます(p_-)

球磨と中国大陸や朝鮮半島との関わり・・と言う事で気になっていた事が
ありました。
以前も書いたのですが・・平川家について38+1 コメント28
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101590.html

私の家から川(井口川※久米川)を渡り、500m弱の所にある福元寺。
旧岡本村の福元寺は
上村重次氏著「九州相良の寺院資料」によりますと

福元寺 岡原村岡本 黄檗宗 現存
天和元年(1681年)人吉・東林寺天瑞和尚の開基(郡誌)
元禄十一年(1698年)は福元庵(元禄十一年寺院帳)
福眼庵とも書く(生善院蔵分限帳)
明治維新後に寺号にする。

とあります。
人吉・東林寺天瑞和尚については・・実は、以前、私がコメントから抹消した
「王政復古」に関わる方で・・
(やはり、この事はとても重要な事なので追々ブログで書くつもりです)

この福元寺の御住職家は代々「辛島」様でいらっしゃいます。
地元の歴史研究会の方から
『御住職が
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」
とおっしゃっている』
と伺いました。

ちなみに御住職様と私の父は幼馴染の同級生でして・・(..)

御住職がおっしゃている
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」

このお話、以前コメントを書いた時には軽くスルーしてしまったのですが・・
とても重要な事なのだ・・
と最近気が付きました。

古樹紀之房間様 サイト
豊前の辛島勝の系譜 より
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/karashima1.htm

転記させて頂きます(..)

1 豊前の辛島氏は、辛嶋・韓島などとも表記しますが、ここでは「辛島」としておきます。辛島氏は、宇佐郡辛島郷(宇佐神宮の西方近隣、駅館川下流西岸部で、宇佐市の辛島・樋田・中原の一帯)に起こり姓は勝(すぐり)で、宇佐氏(君、宿祢)、大神氏(君、朝臣)や田部(勝、宿祢)などと並ぶ古代宇佐神宮の有力祠官でした(宇佐四姓と呼ばれた姓氏は宇佐・大神・田部・漆島)。
 辛島氏では、欽明朝に大神比義とともに八幡神を祀る宇佐八幡宮の祝になったという乙目をはじめとして、奈良時代頃までは波豆米や与曽女などが祢宜に任じたと史料に見えますから、その有勢ぶりがうかがわれます。ところが、宝亀三年(772)の阿古米が祢宜補任、その翌年の解任を最後に辛島氏の祢宜は終わり、その後も祝や惣検校などの神官としてあったものの、中世までには辛島氏は絶えた模様で、宇佐神官には見えなくなります。宇佐郡辛島郷にはその後、漆島氏(宿祢姓で、樋田などの苗字がある)が居住したため、両氏は一般によく混同されますが、本来別氏で、漆島氏は皇別で多臣一族と称した大分国造大分君の一族です。
 こうした諸事情もあってか、その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残しております。五十猛神からつながる辛島氏の系譜は、宇佐関係史料や大分県史料集などに見えますが、祢宜に任じた女性を主体とする氏族のようで、系図の良本は伝わりません。現在に残るのはきわめて不完全であり、豊都彦・宇豆彦などの歴代の名前や続柄に様々な問題があるものの、それでも、その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられます。
 
2 なぜ辛島氏の先祖の所伝を正しいと判断したかというと、その理由は二つあります。 第一は、五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられることであり、第二に、辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられますが、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられます。豊前の宇佐周辺には辛島・酒井・桑原など多くの勝姓の氏が見られますが、この勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられます。なお、渡来系ということで、なんでも秦氏や東漢氏に結びつけるのには疑問が大きいところです。
 宇佐氏や辛島氏の上古関係の史料が乏しいため、検証するどころか、現状では以上くらいの記述しかできないのが、残念なことです。
========================================

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す
★その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられる
★五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる
★辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられ、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられる
★勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられ、なお、渡来系ということで、なんでも秦氏や東漢氏に結びつけるのには疑問が大きい

私の地元「旧岡原村」岡本の「福元寺」の御住職家「辛島家」。
御住職は御自分で
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」
とおっしゃっている・・・
上記のサイト様の記述を拝見して本当に、ビックリしました。

★韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖

★「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」

ううん(p_-)
韓地の前は・・中国だったのか・・
御先祖様からの言い伝えを末孫の方が知っていらっしゃる・・
とてもとても重要な事だと思いました!

でも・・何故?私の地元に「辛島氏」は来られたのか・・?

ううん・・
球磨郡久米郷・・

ここって・・やはり「古代」の謎が隠されている場所だと思います・・

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す

家の親戚には本姓「大神氏」が沢山・・
星原家(本姓大神氏)・尾方家(初代”緒方”後尾方。本姓大神氏)
皆・・宮司家である・・・

遡ると・・
藤原氏が台頭する前の球磨に関わるのじゃないのかな?(p_-)
と私は何だか・・そう考えるのでありました・・

しかし・・自分が住んでいる場所、宮原村・岡本村等「旧久米郷」の親戚や父の知人の方々・・
そのまんま・・「古代」に繋がる人達が多くて
やはり、ビックリです(p_-)

ここって・・きっとそう言う「場所」なのでしょう・・

では(..)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 11時37分53秒 ) パスワード

追記(..)

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す
★五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる

宮原(MIYAHARA)・平河(HIRKAWA)・相良(SAGARA)
新堀(SINBORI)・中村(NAKAMURA)・白石(SIRAISI)等
「R」のグループ

辛島(KARASIMA)・・「R」・・

辛島氏も「R」のグループ?です!! 先程気が付きました。
あれれっ(?_?)

所で・・
1600年代の球磨の「王政復古」に関わる人物人吉・東林寺天瑞和尚
天和元年(1681年)人吉・東林寺天瑞和尚の開基
福元寺 岡原村岡本(旧球磨郡久米郷) 黄檗宗 現存
住職家は五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す「辛島氏」
五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる

1600年代の球磨の「王政復古」
福元寺の住職家は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる五十猛神の後裔「辛島氏」

何だか・・スゴイ!!!!

そう言えば・・「王政復古」に関わった東林寺天瑞和尚は
球磨郡久米郷宮原村伊勢本(伊勢元)の皇大神宮内に
「王政復古」を願って書かれた経の入った経筒と共に
「王政復古」を願った「呪文」が書かれた沢山の「石」を埋めていらっしゃいます。
この経塚は「なんびとたりとも触れてはならぬ」そうです・・
恐るべし球磨郡久米郷!!

では(..)・・(p_-)
[3]白石さんからのコメント(2018年04月10日 16時38分29秒 ) パスワード

ひろっぷのブログ - アメーバブログ(アメブロ)|Ameba …
https://ameblo.jp/hirom0211
「続 祖父について

みやちゃん こんばんは
ブログを 読んでいて 姫島の言葉が・・・・

姫島には きつね踊りがあるそうです。
鎌倉時代の念仏踊りから発展したものらしいですが・・
なんで きつね でしょうね?

それは ともかく 
祖父母と探した大分県大在の墓というスレッドで
もともと これは 姫野さんという方が
かいておられたものですが
(ご先祖は平家総大将だったそうです)

みやちゃんの ブログより
※C愛媛県の★佐田岬半島にあたる西宇和郡三崎村は、防衛に関して★西部軍管区・熊本師管区の担任地域とされた。
宮原の一族の先祖「伊予橘氏 橘公長・橘公忠・橘公業」所縁の地です。
伊予灘側の仁田浜から、★縄文時代のものとみられる大分県★姫島産の黒曜石が出土しておりk地は古くから九州方面との交流があったことを裏付けている。

伊予出身の人とパート仲間だったことがありますが
平家の経塚が発見されたのだと言っていました。
[4]白石さんからのコメント(2018年04月10日 17時04分59秒 ) パスワード

何回もすみません
いまさらですが 
みやちゃん とこの おじいさまの兜についている
家紋 (おそらく そうだと思いますが)

私 うかつにも 知りませんでした

紋の名は なんというのでしょうか?
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 18時42分34秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^'^)
今日は私、お休みでした。(家事に追われていました(-.-) )

所で・・
姫野様ですか・・・
姫野氏・・あれっ?ビックリしました。
家とは直接は関係ないのですが、親戚の縁筋に姫野家あります。
何だか・・驚いてしまいました・・

愛媛県(伊予国)と九州の関係は古代から深く繋がっていたようですね。
実は、椎葉村史を購入したのですが、椎葉村の耳川沿いの古代史跡からも
伊予との関係が読み取れる出土品があるそうです。

家の刀掛用の「兜」ですが
写真が上手に撮れていませんで、申し訳ありません(@_@。

家紋は、家の家紋「丸に剣方喰」です。
金色にピカ〜ッと輝いています。
江戸末期製なのに・・今でもピカ〜ッです。
父が
「よっぽど、精巧に造られた”金メッキ”なんじゃろタイ」と言いますが・・
もしや(p_-)・・ピカ〜ッ・・
ムムムッ(p_-)・・・あれっ(゜-゜)・・ニヤ〜ッ(^◇^)
(ー_ー)!!・・・何も考えていません・・・(;一_一)
(じいちゃんに叱られます・・(-.-) )

兜の左側のパキ〜ンと折れてしまった所と同じ位置の右側
其々に「丸に剣方喰」が施されています。

私・・曾じいちゃん(曾祖父)に関係しているような気がしています。
曾祖父の実家の家紋も「丸に剣方喰」ですから・・

後、最近解った事なのですが
うちの宮原家に養女に入られた方(祖父の従姉。曾祖父の姪)の実家「淵田家」
は医者だったそうです。
だから、家にはドラマ「仁」に出て来た、「薬をゴリゴリと造る」機械?が
あったのかもしれません・・

つまり、曾祖父の兄もしくは姉が久保田家から病院を経営する淵田家に
嫁いだ、もしくは養子に入った・・と言う事になります。

この事を教えてくれたのは「親戚の野島家」からお隣に嫁いでこられたおばさんからでした。
親戚と書いたのは・・
実は・・野島家とはめちゃくちゃ繋がっていました\(◎o◎)/!

野島家には、祖母の実家「平川家」に嫁いでこられた高祖母の実家「林田家」から
高祖母の姪が嫁いで来られていました\(◎o◎)/!
さらに、その林田家から、多良木の平川家に嫁いでいらっしゃいます・・
その多良木の平川家を養子に入って継いでいたのは・・曾祖父の実家の久保田家の方でして・・
その林田家にはこれまた曾祖父の兄もしくは姉が久保田家から林田家に
嫁いだ、もしくは養子に入っていた・・と言う事になります。

実の所、その全ては「久保田家」繋がりである事がよ〜く解りました(p_-)。

でっ(p_-) その野島家には、矢立家と姻戚関係にある方が嫁いでいらっしゃいます・・
あと・・平川家についてで書いていた「別府家」とも、
間接的ですが家は姻戚関係にある事が解りました(p_-)

野島家は江戸時代に天草から宮原村に来られています。
別府家も、御先祖様は天草から江戸時代に来られています。
その先は「肥前国」、佐賀県にいらしたそうです(p_-)

野島家も別府家も、私はおそらく「伊予」繋がりだと推測しています(p_-)
日本の苗字七千傑様 《河野氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002

《河野氏(室町期以降)》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#003

「正岡氏」「一柳氏」・・球磨に江戸時代からありますねぇ(p_-)

淵田氏は松浦一族「値賀氏」の家臣・・
値賀氏も、江戸時代、宮原村の宮麓に住されていますし・・
淵田氏は1600年代に建立された宮麓内の庚申塔に名前を残されています・・
(有馬氏もありました・・アリマシモアリマシタ なんちゃって(-.-)・・)
おっ(p_-) 御先祖様が「このおっちょこちょいガッ!」と・・・(;一_一)

ここは(p_-)
伊予橘氏と松浦一族との関係からなのかな?(p_-) と推測しています。

曾祖父の実家の久保田家。
何故?上記の「伊予橘氏のネットワーク」に深く関わっているのか・・?
(゜-゜)

でも、だいぶ見えて来たでしょう〜白石様(p_-)

以前よりは少しは進化?した「ミヤハラ」でございます(p_-)

では(^'^)
[6]白石さんからのコメント(2018年04月11日 07時50分38秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
淵田 ・・・ わたくし 前にも書いたことが
あったと思いますが 就職先で知り合った淵田さん
私がインクをこぼしたとき さっと みかんの汁をしぼって
けしてくれました。
大柄の人で  身長は170位あったようです。
向学心があり 早起きし 勉強していて
大卒の人に見染められて 結婚しました。

鹿児島出身でした。
家紋は おじいさまの家紋と理解してよろしいのでしょうか?

ところで お寺のことですが
うちのお寺 の ページを見ていましたら
不動 観音と なっていました。
真宗は 阿弥陀様ではないのか?と

目をひきました。
不動様は 平江のいる不動尊に
おられ ここは 平重盛 清盛など
また 源為朝 伊勢新九郎など
いたところです

不動尊は
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の
諸派および修験道で幅広く信仰されている

お寺の坊守様は八代から来られ
前住職さまは 佐賀からこられ
山頭火と友達

お寺の山号は 500mほどはなれた
同じ宗派のお寺と同じ
そちらには 高岡がお世話になっています

なんか 広く つながっていたような 感じが・・・

多良木か湯前にも jがつくお寺があり
久米氏の菩提寺として 建てられた。
沙弥浄心(久米三郎真家)の創建
本尊 阿弥陀像 
こちらは 阿弥陀様なのですよね。

私お寺や宗教のことはまるでわかりません
不思議 不思議です。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月12日 10時31分19秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

家紋は、家の宮原家の家紋。
すなわち祖父の家紋であります(^'^)

でっ(p_-)
何故か?家の集落にはこの家紋を使用する家が多いのです。
椎葉のおじが言う、家の親戚の「固い絆」を表す家紋でもありますが
親戚以外にも、丸に剣方喰紋を使用する家は「宮麓」区内の「侍村(まちむら)」地区には
多々あります・・(p_-)
何故だろう??

元々各家々が、使用していた家紋は何だったのか?は未だ解りませんが・・
家の集落内の親戚は丸に剣方喰以外に
「橘紋」「丸に三つ柏」「三つ柏に剣」「楓紋」「三つ麟」「寄懸り目結」「桐紋」等ですね・・・
遠縁は「丸に梶の葉」の紋でした・・
(最近、お寺に伺うと・・天井の家紋ばかり見つめています・・・)

後、私勘違いしていた事があります。
曾祖母の弟が継いだ「深松家」
集落内や熊野地区に深松家が数軒あるのですが
(集落内だけではなく熊野地区の深松家とも家は親戚です)
深松家の家紋は、「楓紋」だけではなく「丸に三つ柏紋」も数軒ありました!
(他の深松家の家紋も、今度お寺に伺った時に調べます(p_-) )

深松家はもしかしたら・・神社に関わりのある「お家」だったのでは?
などと、最近考えています。

神社と「紋」と言えば・・・
あの・・実は私、気が付いていたのですが意味が解らなくて書いていなかった事があります・・・

家の宮原家の、明治初頭以降の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母が眠るお墓なのですが
今は、宮原家の「名前以外」は全て継いだ「星原家」がお守りして下さっています。
(祖父母が大陸に渡る時に、岡原に残る曾祖母を見てもらう代わりに全てを渡した)

この宮原家のお墓は、星原の先代のおじさんが寄せ墓をして「星原家」の墓として今は大きなお墓を一基建てていらっしゃいます。
銘碑も立派に建ててあって、その中に、私の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母の名前が記されています。
高祖父は名前ではなくて戒名?法名?が書かれていて、何だか読めない難しい字が沢山並び「禅定門」?・・まるで、中世を調査している時に良く見かける戒名?法名?のようでした・・)
星原の先代のおじさんは「岡原村会議員」で議長を長く務められた方で
継いで頂いた「名前以外」の代々伝わるうちの「宮原家」の旧宮原村内の各所に広がる
田畑、山等をしっかりと守って下さいました。
旧宮原城跡の山も星原家所有(一部町所有)となっています
戦後の「改革」で、土地の大半が「別の方々」に渡ったそうですが・・星原の先代のおじさんは、後にかなりの土地を買い戻したと聞いています(..)


この宮原家(今は星原家のお墓となっていますが・・)のお墓の敷地はとても広く(何だか庭みたいで・・(..))
宮原家のお墓敷地入り口の両側には「門」が建てられているのですが(何故か門が・・)
その立派な「門」には「桐紋」が施されているのです・・・

星原家の紋は確か桐紋じゃなかったはず・・??(はず・・と書きましたが今度しっかりと確認します(..))

私、この「門」を見ると、まるで、「神社」みたい・・と感じてしまうのです。

桐紋は岡原霧島神社の御神殿の中の柱にも施されていました。
岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」です。
球磨の神社様の多くは御神紋は「違い鷹の羽」
でも、御神紋が「桐紋」の神社様も御鎮座でした。
人吉の老神神社様です。
以前、歴史研究会で伺って気が付きました。
【人吉市】老神神社(おいがみじんじゃ)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366672.html

この老神神社(おいがみじんじゃ)に深く関わっていらしたのは
江戸時代初期の相良家家老「宮原宇右衛門公全」の後裔「宮原内記」他、球磨村で「岡原の豪族」?と呼ばれた系の「宮原の一族」と
江戸時代に平河氏と何重も姻戚関係を重ねた「宮原権左衛門」の系
だったのです。
以前から調べて理解していました(p_-)

だから・・
家のお墓の入り口に建てられた「門」を見た後に
老神神社様にお伺いしたので、私、本当にビックリした事を記憶しています。
桐紋にも種類?があるようですが、うちのお墓の入り口の門に施された桐紋と
老神神社様の御神紋は全く同じでした。

でも、何故?家のお墓の敷地の入り口の門に「桐紋」が施されているのか?
未だに謎です(?_?)・・(p_-)

ただ・・家のお墓の敷地の下は遠縁の土肥家のお墓の敷地があって
とても立派な古いお墓には「居士」の文字が見えました。
こちらの土肥家は「橘紋」です。

さらに家のお墓の敷地の斜め下の敷地の某家は家紋がやはり「橘紋」でした・・

橘紋に囲まれた家(うち)のお墓の敷地であります(p_-)
そこに「桐紋」の門がある・・
何でだろう(?_?)・・・
と・・ずっと疑問であった訳です。
今回、初めて書きました(-.-)

白石様が「家紋」について何度もお聞きになられた事がきっかけです。
白石様、やはり(p_-)
私の頭の中が見えるでしょう・・?(-.-)
(何か大きな水晶玉か何かお持ちではあ〜りませんかぁ〜(p_-)・・(^◇^) )

でも、やっぱり書いた方が何かしら進展がある(p_-)と考えた次第です
(^'^)

白石様、ありがとうございました(^'^)
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月12日 10時31分23秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

家紋は、家の宮原家の家紋。
すなわち祖父の家紋であります(^'^)

でっ(p_-)
何故か?家の集落にはこの家紋を使用する家が多いのです。
椎葉のおじが言う、家の親戚の「固い絆」を表す家紋でもありますが
親戚以外にも、丸に剣方喰紋を使用する家は「宮麓」区内の「侍村(まちむら)」地区には
多々あります・・(p_-)
何故だろう??

元々各家々が、使用していた家紋は何だったのか?は未だ解りませんが・・
家の集落内の親戚は丸に剣方喰以外に
「橘紋」「丸に三つ柏」「三つ柏に剣」「楓紋」「三つ麟」「寄懸り目結」「桐紋」等ですね・・・
遠縁は「丸に梶の葉」の紋でした・・
(最近、お寺に伺うと・・天井の家紋ばかり見つめています・・・)

後、私勘違いしていた事があります。
曾祖母の弟が継いだ「深松家」
集落内や熊野地区に深松家が数軒あるのですが
(集落内だけではなく熊野地区の深松家とも家は親戚です)
深松家の家紋は、「楓紋」だけではなく「丸に三つ柏紋」も数軒ありました!
(他の深松家の家紋も、今度お寺に伺った時に調べます(p_-) )

深松家はもしかしたら・・神社に関わりのある「お家」だったのでは?
などと、最近考えています。

神社と「紋」と言えば・・・
あの・・実は私、気が付いていたのですが意味が解らなくて書いていなかった事があります・・・

家の宮原家の、明治初頭以降の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母が眠るお墓なのですが
今は、宮原家の「名前以外」は全て継いだ「星原家」がお守りして下さっています。
(祖父母が大陸に渡る時に、岡原に残る曾祖母を見てもらう代わりに全てを渡した)

この宮原家のお墓は、星原の先代のおじさんが寄せ墓をして「星原家」の墓として今は大きなお墓を一基建てていらっしゃいます。
銘碑も立派に建ててあって、その中に、私の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母の名前が記されています。
高祖父は名前ではなくて戒名?法名?が書かれていて、何だか読めない難しい字が沢山並び「禅定門」?・・まるで、中世を調査している時に良く見かける戒名?法名?のようでした・・)
星原の先代のおじさんは「岡原村会議員」で議長を長く務められた方で
継いで頂いた「名前以外」の代々伝わるうちの「宮原家」の旧宮原村内の各所に広がる
田畑、山等をしっかりと守って下さいました。
旧宮原城跡の山も星原家所有(一部町所有)となっています
戦後の「改革」で、土地の大半が「別の方々」に渡ったそうですが・・星原の先代のおじさんは、後にかなりの土地を買い戻したと聞いています(..)


この宮原家(今は星原家のお墓となっていますが・・)のお墓の敷地はとても広く(何だか庭みたいで・・(..))
宮原家のお墓敷地入り口の両側には「門」が建てられているのですが(何故か門が・・)
その立派な「門」には「桐紋」が施されているのです・・・

星原家の紋は確か桐紋じゃなかったはず・・??(はず・・と書きましたが今度しっかりと確認します(..))

私、この「門」を見ると、まるで、「神社」みたい・・と感じてしまうのです。

桐紋は岡原霧島神社の御神殿の中の柱にも施されていました。
岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」です。
球磨の神社様の多くは御神紋は「違い鷹の羽」
でも、御神紋が「桐紋」の神社様も御鎮座でした。
人吉の老神神社様です。
以前、歴史研究会で伺って気が付きました。
【人吉市】老神神社(おいがみじんじゃ)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366672.html

この老神神社(おいがみじんじゃ)に深く関わっていらしたのは
江戸時代初期の相良家家老「宮原宇右衛門公全」の後裔「宮原内記」他、球磨村で「岡原の豪族」?と呼ばれた系の「宮原の一族」と
江戸時代に平河氏と何重も姻戚関係を重ねた「宮原権左衛門」の系
だったのです。
以前から調べて理解していました(p_-)

だから・・
家のお墓の入り口に建てられた「門」を見た後に
老神神社様にお伺いしたので、私、本当にビックリした事を記憶しています。
桐紋にも種類?があるようですが、うちのお墓の入り口の門に施された桐紋と
老神神社様の御神紋は全く同じでした。

でも、何故?家のお墓の敷地の入り口の門に「桐紋」が施されているのか?
未だに謎です(?_?)・・(p_-)

ただ・・家のお墓の敷地の下は遠縁の土肥家のお墓の敷地があって
とても立派な古いお墓には「居士」の文字が見えました。
こちらの土肥家は「橘紋」です。

さらに家のお墓の敷地の斜め下の敷地の某家は家紋がやはり「橘紋」でした・・

橘紋に囲まれた家(うち)のお墓の敷地であります(p_-)
そこに「桐紋」の門がある・・
何でだろう(?_?)・・・
と・・ずっと疑問であった訳です。
今回、初めて書きました(-.-)

白石様が「家紋」について何度もお聞きになられた事がきっかけです。
白石様、やはり(p_-)
私の頭の中が見えるでしょう・・?(-.-)
(何か大きな水晶玉か何かお持ちではあ〜りませんかぁ〜(p_-)・・(^◇^) )

でも、やっぱり書いた方が何かしら進展がある(p_-)と考えた次第です
(^'^)

白石様、ありがとうございました(^'^)
[8]白石さんからのコメント(2018年04月13日 16時56分26秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
ばらばらの話ですが また すでにご存じでしょうが

日蓮の出自
『長禄寛正記』によりますと、長禄4年(1460年・聖滅179年)8月18日に日実上人と同年代の久遠成院日親上人が細川勝元に、★日蓮聖人は藤原冬嗣の後裔備中守共資が遠州村櫛に住み、その後、5代の裔赤佐太郎盛直の一男が井伊良直、二男が赤佐俊直、その弟が貫名政直で、政直の孫の重実(真)、重実の子重忠のときに伊勢平氏に与力して安房片海の市河に配流され、その配流先で生まれた子が日蓮聖人であると言上したといいます(『日蓮教団全史』24頁、『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟504頁)。

義経伝説の史跡を巡る 平重衡受戒の地より
平家一門と藤原家成の家系とは深い姻戚関係にあり、
忠盛の後妻の池ノ禅尼が家成のいとこにあたり、
清盛の嫡男重盛は、家成の三男で後白河法皇の近臣の藤原成親の妹
経子を正妻にし、二人の間には、清経・有盛・師盛・忠房がいます。
さらに重盛の嫡男維盛と清経の妻は、成親の娘であり、
清盛の弟の教盛の娘は、成親の嫡男成経の妻です。
このように両家は、二重三重の姻戚関係によって結ばれていました。


家成の系 成親の系 との ドッキングが 清経
清経は 五家荘に来た人ですね


三浦道寸の妻:小網代の森からこんにちはより
三崎の★油壺にある新井城  籠城の末、★伊勢宗瑞に攻めら永正13年(1516)7月11日に落城
城主の★三浦道寸、嫡男の荒次郎義意(よしおき)をはじめ家臣、一族郎党は果敢に戦ったが、力及ばず、450年間続いた相模の名門三浦一族は滅亡した。三浦道寸の奥方は、落城の際に道寸の家臣である★川島吉隆に守られて、新井城から3qほど離れた川島氏の治める、原の里に身を隠した。
奥方は横須賀連秀の娘であった。
横須賀氏は佐原盛連を祖先とする三浦一族
[9]白石さんからのコメント(2018年04月13日 17時05分05秒 ) パスワード

最寶寺中世文書(さいほうじちゅうせいもんじょ)|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/shi...
より
最寶寺は五明山と称し、寺伝によると源頼朝が鎌倉扇ヶ谷(五明は扇のこと)に創建したが、建久6年(1195年)寺地を鎌倉弁ヶ谷に移した。開基は明光で、始め天台宗で薬師如来(県指定重要文化財)を本尊とした(後に浄土真宗に改宗)。大永元年(1521年)の火災で堂宇が焼失したため、現在の横須賀市野比に移った。

天台宗 薬師如来 浄土真宗
なんだか わたくしの故郷の お寺の変転に似ています
[10]白石さんからのコメント(2018年04月14日 18時45分52秒 ) パスワード

突然ですが 高岡に 越王勾践を祖先とする
家系がありました
コピーをするなとあるので
これだけですが

祖父母と探した 大分県大在の墓も
みておられ
その上の書き込みなので 
根拠がおありのようです



[11]白石さんからのコメント(2018年04月14日 18時49分01秒 ) パスワード

突然ですが 高岡について
越王勾践を祖先とする系が
ありました

コピーをするなとあるので
これだけですが
祖父母と探した大分県大在の墓も

みておられ
根拠がおありのようです
[12]白石さんからのコメント(2018年04月15日 19時09分43秒 ) パスワード

私が子供の頃聞いた(えんや)のことば・・・
祖先伝承なのかどうかは子供のことだからわかりませんが・・・
今考えると 高岡はえんや と宇多源氏佐々木氏 富田で
つながっていると思います。

投稿番号:100165 投稿日:2001年09月07日 21時30分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子よりコピーさせていただきます

2001年ですから 大分古いですね。
当然私はこの書き込みをみておりません
大分後で 地域の子供たち向けに
高岡系図より見たことや 平川との
つながり 平貞能のこと 平川の地蔵堂のこと
など 書きました

投稿番号:100165 投稿日:2001年09月07日 21時30分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平 貞能は、平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。

宇津宮に仕えて
★宇都宮佐田氏というのがある。
常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。
その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。
そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

頼朝は貞能を捜索した。
尾張国の、★原の太夫高春が扶助していると耳にして、
原の太夫高春は平川遠祖ですね。

梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。

貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。
景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、
父の生死を知るために鎌倉に下った。
鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、
父のことを祈ること数カ月に及んだ。
その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、
事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。
そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。


一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。
頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。
これが大橋の元祖である。

この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。
貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、★千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、
後に頼朝卿が鎌倉に召して、

一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。
これが真野五郎胤連の母である。

一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。
これは小三郎盛季の母である。

一人を安芸国羽山介宗頼に下された。

そして一人を大友四郎経家に下された。

これは豊前守大友能直の母である。
★大友能直に関与する言葉から 古庄先生が出ました。


尾張の大橋氏は日本史で有名な人物で話すと蜂須賀小六の継母が大橋氏出身です。

大橋氏は伊勢・尾張の南朝方の拠点であっった尾張の津島神社の神官で
後醍醐天皇の皇子を戴いて転戦した家です。浪合記参照
後醍醐天皇のひ孫?に娘を嫁がせています。

[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月17日 14時50分45秒 ) パスワード

白石様、皆様 今日は(^'^)

白石様
中々、パソコンに向かう時間が取れなくて、
お返事遅くなりました。
申し訳ありません(@_@。

沢山の御教示ありがとうございます。

まず(p_-)
〉★大友能直に関与する言葉から 古庄先生が出ました。

白石様の恩師でいらっしゃる「古庄先生」、免田の久鹿(くしか)にお住まいであったと伺いましたが
実は、書こう書こうと思っていたのに遅くなりましたが・・・
家の親戚も免田の久鹿(くしか)にあります。
父の従姉(椎葉家の長女)の嫁ぎ先です(..)

この久鹿(くしか)と言う地名・・前からずっと気になっていたのですよね・・
久鹿(くしか)からちょっと行った所に本目遺跡があります・・
何だか、近い(p_-)
それに地名に「鹿」が付いているし、久鹿(くしか)には「天子」の地名も残っています(p_-)

ここは、以前から「古代に繋がる地名」?かな・・と思っていました。

平 貞能。
球磨にも「ものすご〜く」関わりのある方ですよね。
九州八十八か所百八霊場会様サイトより
http://www.kyushyu88.com/temple52.php

球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。
平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立した山江村山田の高寺院。


(p_-) ここで・・
平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた毘沙門天立像。
現在は国の重要文化財ですが、実は大正時代には「国宝」に指定されていました。

肥後国 くまもとの歴史様 サイトより
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366444.html

人吉球磨地方で最古の寺院。高野山真言。
相良氏が人吉球磨に入国する以前、建久9年(1198) 平家の重臣で人吉城代であった矢瀬主馬祐が平重盛の菩提を弔うめたに建立。
365段の石段を登ると頂上に奥の院があります。高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。その内の2体は、国の重要文化財になっています。

375段の石段を登ると奥之院があり、毘沙門堂(登録文化財)が建っています。球磨地方に現存するもっとも古い瓦葺き建造物。
その中に三躯の毘沙門天立像(二躯は国指定重要文化財)が安置されていましたが、現在はの収蔵庫に移されています。

中央と左の二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

上記の御尊像「毘沙門天立像」がこちら「山江村役場」公式サイトで拝見出来ます。
http://www.vill.yamae.lg.jp/index.php?type=article&mode=articleView&articleid=1716&categoryid=26

高野山真言。宗相良氏が当地に入国する以前の、正徳2年(1198)に平重盛の菩提を弔うために建立されました。高寺院は、球磨郡で一番古い寺院です。375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。
==========================================

球磨は平安時代「王家領」「治天の君が一大荘園領主」であられた土地であり
開発をされたのは「平家一門」の方々。

平重盛公の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を躯内に納めて祀った毘沙門天立像。
この毘沙門天立像は大正時代には「国宝」に指定されて
今は国の重要文化財に指定されている・・・

このお話・・・
「全国には同じような伝承が各地に残っているから・・・」
などと、簡単にスルーすべき「話」ではない! と私は今朝あらためてそう思いました。
(と言うか・・以前から何度も書いていた事なのに・・国宝の件は今朝、初めて気が付きました。おっちょこちょいです(@_@。)

平貞能の妻は良峯姓「原氏」の方。
後裔に「大橋氏」。
「大橋氏」は後に、「井伊氏」と姻戚関係を持った・・・

Weblio辞書より
https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%B0%8F

桓武平氏の流れで、平貞能が肥後国山本郡大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるとされる。 宗良親王の末裔を称する一族。

尾張の大橋氏。姓の由来は、「肥後国山本郡大橋」に始まります。
この事をちゃんと頭の中にインプットしていなければ
鎌倉時代以降の遠江国や尾張国と、肥後国の上記の系の方々との「繋がり・関係」が見えなくなってしまうのだ・・
と私は思うのです・・・(今更ながらですが・・(..))

あらためて、白石様のご教示を拝見してそう感じました。

それと・・今更ですが・・
「肥後国山本郡大橋」

大橋って・・山本郡だったのですね!
平河氏の先祖「安則」と言う方が居城された土地も「肥後国山本郡楠原」
大橋と楠原って近いのかな??
後で調べてみます(p_-)

さらに・・
平安時代にはそもそも「人吉城」は無かったのです(p_-)
人吉にあったお城の名前は「原城」。
あらためて(p_-)・・何で「原」なんだぁ〜???(p_-)
あの辺り「原」って地名じゃないはずですけど・・?
ここも、今まで完全にスルーしてしまっていました・・・

平貞能の妻は良峯姓「原氏」の方。
なんだかなぁ〜・・モヤモヤし過ぎです・・


平頼盛の代官「矢瀬主馬介」。
平河氏と同じく相良氏に滅ぼされたと言われる方・・
この方は本当は何方だったのかな?(p_-)

矢瀬氏の城は「人吉城」ではなく(ー_ー)!!
本当は「原城」・・
やはり・・何だかなぁ・・矢瀬氏の真実が知りたい!と・・思います・・

所で(p_-)
長くなりましたが、私、新たな事実を得ました(p_-)

私の曾祖母の弟(新堀家の方)が継いだ「深松家」。
こちらの曾祖母の弟の妻となられた方は「森家」の娘さんでした。
(曾祖母の実家の新堀家は、宮原公行金兵衛が継がれた可能性が大で、実は宮原公行金兵衛の父宮原長盛と言う方のお墓にまつわる話も解ってきました。
詳しくは後々で・・)

曾祖母の弟の妻となられた方は「森家」の娘さん
こちらの「森家」は代々「茂」の文字が名前に付かれている方がいらしゃるのですが・・
上記の「森家」のおじさんから重要なお話を聞かせて頂きました。
森家。実は、明治初頭に「益城」から岡原に来られたそうです。
御先祖様は士族。元細川藩士です。

岡原に来られた方の娘さんが、私の曾祖母の弟の妻となられていました。
「他所」から来られた「お家」とすぐに姻戚関係を結ぶとは「どう言う事だぁ〜」(p_-)
と私は考えました。
それに、岡原村第六代村長も「森氏」。
(ちなみに、曾祖母の別の弟の方は医者で病院を開業されていました)

家の親戚関係は昭和の初めまで、相良御法度に基づく「姻戚関係」が続いていた・・
なのに・・明治時代に益城から来られた「お家」とすぐに(明治時代に)姻戚関係を結んでいた・・
益城の「森氏」と岡原村の関係って何だろう???と考えながら・・
森氏森氏・・モリ・・?と考えながら、今まで調べていなかった分限帳で「森氏」を見たのですが・・
気が付いていませんでした(p_-)
森氏・・相良藩士「人吉 麓」の相良藩家老家の方々と名前を並べてありました!
「森 茂兵衛」と言う方でした。
この方の次の代の方も「森 茂兵衛」。

あれっ?「茂」の文字が付かれる・・? 親戚の森家は益城から来られたけれども・・
同じく、名前には代々「茂」の文字が付く・・何で(?_?)

相良藩内の「森氏」と益城の「森氏」には其々共通の「茂」の文字・・
森氏と言えば・・宮原一族の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」の夫は
源頼定(森頼定)。「森氏の祖」
※源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。

あれっ(?_?) 何だか妙だぞ(p_-) と思いながら細川藩藩士の「森氏」を調べたのです。

親戚の「森家」との関係は全く不明ですが、以下の記述を見つける事が出来ました。
田辺城籠城衆の子孫について - 肥後細川藩・拾遺様 サイトより
http://www.shinshindoh.com/tanabe-terai.html

「森氏」以外の系の方々の中にも、とても気になる記述がありましたので、勝手ながら転記させて頂きます。(..)

肥後細川藩・拾遺様 サイトより
以下に現在まで判明している籠城衆とそのご子孫の方々について簡単にご紹介いたします。
■中村甚左衛門(東京在住 沢村高志氏)

 元禁裏の士ともいわれ、駿府城主十四万石中村一氏の三男。田辺籠城時には禁裏への密使をつとめ、籠城第一の働きと称せられ、忠興公御自筆の哥と左文字の刀を賜る。又九曜の家紋をも賜る。その後甚左衛門並びに子孫は豊前、熊本と随身し、その間三斎様(忠興公)より名を沢村と改めるよう仰せ付けられ、沢村家として明治ご維新に至っています。

■森四郎次郎(熊本在住 森 茂氏)

 宮津杉之末村の豪族ともいわれ、細川幽齋公の宮津入城時からの知己である。田辺籠城にあたり城外にあって城内と連絡をとり奮戦するも、当主を含め一族十三人が戦死する。又米百俵を十五歳に満たない遺児の裁量で城内に運びいれる。関ヶ原以後細川公よりのお誘いで豊前で家臣となり、熊本へも随身する。肥後釜尾の地に御赦免開きを許される。

■坂井半助(宮津在住 前野幸夫氏 及び 下世屋前野氏)

 前野幸夫氏他のご研究によりますと、前野宗定殿は細川忠興公玉夫人の味土野隠棲警護の責任者であり、その親は一色氏重臣で丹後下世屋城主前野半助宗央です。その後玉夫人が許されて大坂に戻った後、前野宗定殿は、出石藩主の前野長康の馬廻り役に取り立てられます。

 しかし豊臣秀次事件で前野長康が出石藩を返上し自害すると前野宗定殿は農民に戻ります。田辺籠城の時農民に戻った宗定殿が恩を返すためとはいえ、武士として前野を名乗って城へ入ることは出来ず、家臣の坂野と井隼の名を借りて坂井半助と名乗ったとのことです。坂井半助殿は籠城時に亡くなりますが、そのご子孫は丹後半島の下世屋に住み現在に至っています。

■瑞光寺 明誓上人(瑞光寺 楠文範氏)

 瑞光寺開祖の釋明誓様は、俗名を楠源吾といい若狭小浜の京極高次の家臣楠伊賀正重の五男で幼い頃から、京都へ遊学し文武の研鑚に励みました。もともとは天台宗を信仰していましたが、明誓様は京都で本願寺11代顕如上人の阿弥陀信仰にふれて自ら進んで顕如上人から釋明誓の法名を拝受しました。天正八年ごろ明誓様の名を聞いた細川幽齋公は忠興公の文武の指南として丹後田辺に住まわせ、明誓様の願いを受けて瑞光寺を建立しました。

 幽齋公が明誓様を招いたもう一つの目的は、九鬼水軍ともつながりがあったといわれる楠家に田辺城の水際の警護をまかせることにあったともいわれています。幽齋公は明誓様に瑞光寺を開かせるにあたって二つの事を致します。ひとつは明誓様に幽齋公の妹(娘?)さち様を妻として娶らせ、妹の壻明誓様を猶子として処遇しています。さらに瑞光寺に1万3千坪の土地を与え寺の経済的な基盤を作り、寺の寺紋に細川家の九曜の紋を使うことを許しました。田辺城は北側が海に対峙して水城のようであり、南側は湿田でした籠城時には明誓様はこの水城の櫓を守り、楠家に伝わる夜戦の法にて勝利を得たといいます。なお、瑞光寺の表門は田辺城の黒金門を移したものといわれています。
======================================================

肥後細川藩家臣「森氏」
宮津杉之末村の豪族ともいわれ、細川幽齋公の宮津入城時からの知己である。

こちらの「森氏」と、宮原の一族の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」の夫である
「森頼定」の系の「森氏」との関係は?
とても興味がある事なのですが、何せ私・・戦国時代の事は、マダマダ勉強不足で(この時代から歴史に興味を持つのが普通なのでしょうが・・(..))
これから、勉強させて頂きます(..)

他の系の方々の中にコレマタ宮原の一族の先祖「橘公長」にお繋がりの系の方が
いらっしゃった事には驚きました!

■中村甚左衛門 駿府城主十四万石中村一氏の三男。

中村一氏。この方については以前「平川家について22」コメント26で調べていました。
(この時・・主人の御先祖様についてもチョコット書いていました)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html

武家家伝 中村氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakamura.html
大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。
=========================================

所で(p_-)
私、あらためて 武家家伝様サイト中村氏を拝見して鳥肌が立ってしまいました・・
※ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。
武家家伝様サイト中村氏 より

何で・・鳥肌が立ったかと言いますと・・
実は、ブログで書きますが・・宮原の一族が関係した「球磨郡球磨村の遠原」とは・・
和名妙類に書かれた「伴郷」のお隣だったのです!!
めちゃくちゃ近かった!! 山を越えれば「伴郷」でした!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

先日、現地に伺って、本当に本当に驚いたのです!!
(詳しくはブログの方に書きます)

だから・・・太田亮博士が「此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれる」と書かれた「中村一氏」の系の方が
森氏と同様に田辺城籠城衆にいらっしゃった・・と知った時には本当に驚きました。
後裔の方は肥後細川藩士であった・・・

何だろう・・細川藩士の「森氏」がとても気になってきました・・

さらに
■坂井半助  この方は・・
前野宗定殿は細川忠興公玉夫人の味土野隠棲警護の責任者であり、その親は一色氏重臣で丹後下世屋城主前野半助宗央です。

前野氏・・良峯姓・・こちらも肥後細川藩に後裔の方がいらっしゃった・・・

前野氏繋がりのお話・・実は「椎葉村」で発見してしまいました!
詳しくは「平川家について」の方で書かせて頂きます(..)

最後に
■瑞光寺 明誓上人 この方は・・
瑞光寺開祖の釋明誓様は、俗名を楠源吾といい若狭小浜の京極高次の家臣楠伊賀正重の五男。

※京極高次の家臣楠伊賀正重の五男。
楠木氏・・ですか!\(◎o◎)/!

こちらも、宮原の一族と同族の「楠木氏」・・・

しかし・・一体どうなっているのだろう???
田辺城籠城衆の方々は・・・
何だか・・宮原の一族の先祖とめちゃくちゃ繋がりが深いような気がします
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

さらに・・良峯姓前野氏・・
一体どうなっているのだろう???

細川藩を調べた方が・・自分の調査は一気に進展するんじゃあ〜りませんか!?
などと考えてしまいました・・(..)

長々と書きましたが・・
江戸時代まで『わずか3%のネットワーク』の中の「家の親戚関係」には
細川藩士「森氏」も含まれていた・・
と言う事が解りました!(おじさんの話から)
と言うお話でした(..)

しかし・・家の親戚関係は調べれば調べる程・・面白い(p_-) デス。
[14]白石さんからのコメント(2018年04月17日 16時06分41秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは

橘紋のこと
以前 京都のお寺を回った時
お坊様が 「橘紋は 藤原の紋です」
と 言っておられました。
そこには 近衛文麿候の扁額がありました。

そんなこんなしているうちに
日蓮正宗のことで こんな ブログを
見つけました。

近衛家と東京常泉寺&常在寺〜天皇家と日蓮正宗一考| …
https://ameblo.jp/renge20122013/entry-11749885385.html より

近衛家と言えば天皇家を支えた我が日本の歴史に欠かすことのできぬ名家で戦前は近衛文麿首相や戦後は細川護国首相を輩出した家系です!
近衛家から今の日蓮正宗信徒をたくさん出しております!

近衛家は日蓮・日興以来の正統派関係寺院の富士大石寺、京都要法寺、西山本門寺、保田妙本寺、などの本山と歴史的に関係し★近衛家から今の日蓮正宗信徒をたくさん出しております!

後水尾天皇の第一級皇女とそのお子様の近衛照子様のちの六代将軍徳川家宣夫人天英院様、

島津斉彬の養女から近衛家の養女になられ十三代将軍徳川家定夫人になられた篤姫など近衛から徳川家に嫁がれた姫君はすべてが

大石寺に関係されています!

詳しくはブログや関するブログを見ていただきたいと思いますが
富士宮の大石寺
日蓮正宗の総本山

開基檀那は★南条時光

南条氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 南条氏

経歴 伯耆民談記』、『羽衣石南条記』などの説によると、南条氏は出雲 守護 塩冶高貞の二男である南条貞宗(塩冶高秀)を始祖とする佐々木氏流塩冶氏の流れをくむ一族である。なお、南条氏の出自については佐々木流塩冶氏説と ...



なにやら 塩谷がでます。

鹽冶系図をみれば
∴第51代出雲國造義隆と覚日尼(鹽冶頼泰女(覺日尼))の
間の子の系から 尼子経時や南條氏が出る
【世系】尼子氏は佐々木京極流なり。佐々木高氏(道誉)の孫高久が 近江國犬上郡甲良荘尼子郷(現 滋賀県甲良町)を領してより氏と為す。

「大石寺」(富士宮市-寺院(観音/不動)-〒418-0116)の地 …
https://www.navitime.co.jp/poi?spt=00020.A2201640

★観音・不動ですね。

仁和寺の庭園と御朱印(後半)|京都の御朱印もらい隊
https://ameblo.jp/mtr-blis-3838/entry-12129183046.html

近衛文麿公、揮毫の扁額 本尊の★薬師如来を祀る。 霊明殿から続く回廊 黒書院前の庭 障壁画 白書院から宸殿の中には 数々の障壁画があります。 ...

このブログに 近衛文麿候の扁額があることが
書いてありました。
そして
これも 寄り道の話ですが

夫の家の宗派は「古儀真言宗仁和寺御室派」
三つお寺がかわっていますが 皆 一貫して
この宗派です。

そして 家紋屋が教えてくれた紋は
五枚笹 これは 佐々貴神社の紋です。
また 松本藩士戸田家(近衛門流)家臣笹井家に五枚笹 九枚笹を
使う家があります。
[15]白石さんからのコメント(2018年04月20日 08時24分01秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今日も絶好の日よりですね。
お仕事ご苦労様です

私の母は 山口の方 母の母は
離婚後 毛利氏同格の村上水軍の姫
が建てた寺に眠っているという
再婚後かどうかはわかりません。

戸籍にある母の母が死亡後 
佐田の籍に入ったという 平野の親戚に
白石 永田がついています。

村上氏 ?
海部氏同じ族 越智氏・・・三島水軍を指揮
             河野水軍
             村上水軍

    清和源氏源経基・・・村上師清・・・村上氏
   というが
  安波夜別命・・・海部氏と同族の越智氏・・・村上氏であろう。
 いろいろ ウェブを探した結果上のように なりました。

能島村上家・・周防大島へ・・・長州藩の船手組
因島村上家・・・毛利氏の家臣・・・長州藩の船手組
来島村上家・・・越智姓・・・・後に豊後国の玖珠郡に転封

新羅は海部氏の祖が建国
[16]白石さんからのコメント(2018年04月20日 17時33分01秒 ) パスワード

尾張氏系 …
g-village.net/iyasaka369/先代旧事本記系図.pdfで検索すると

十世孫
海部氏系図では
安波夜別命・乎縫命・小止與命・大原足
尼 [亦云、乎縫=小止與]

十世孫
尾張氏系図では
淡夜別命・大原足尼命(筑紫豊
後国造)・大八椅命〔成務斐陀国
造〕・大縫命・小縫命

海部氏系図と尾張氏系図の人物は同じと判断する

越智氏を祖とする歴史上の有名人
・一遍上人(時宗開祖)
・正岡子規
・伊藤博文
[17]白石さんからのコメント(2018年04月21日 11時47分29秒 ) パスワード

平賀源内は、もとは白石源内。
その白石家は ...- Yahoo! …
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/...

平賀源内について最も詳しそうな讃岐の記念館に資料がいくつかあります。

http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/023_tenji.html
家系図があり、その説明はこのようになっています。

「この家系図により、先祖に信州で武田信玄に討たれた平賀源心が居ること、
国家の代に奥州白石に住み伊達輝宗公の家来になり白石姓を名乗ったこと、

伊達政宗の命で伊予宇和島藩赴任したこと、国行の代で同僚の讒言により讃岐小田村に流れて来たこと・・・。」

平賀源内の墓があるお寺は 曹洞宗

信濃源氏平賀氏・大内氏について
www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/sinanogenji.htm

1、平治の乱
 源義家の弟新羅三郎義光の四男である盛義は、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き、平賀氏を名乗った。

佐久地方は良質の馬を生産する地域として古くから知られており、平賀郷の近く

望月「望月の駒」として和歌にも詠まれている。

八島重成は多田満仲の曾孫重実の嫡子。
重実は鳥羽院四天王に数えられた「都の武士」で、
彼の子孫は★山田氏・安食氏など、尾張源氏を形成した。

★★同門の小笠原長清は平知盛に仕えていた

★平賀惟義は大内惟義と称される

義信は比企の尼の三女を妻に迎えている

平賀源内は佐貫・高松藩の藩士・白石茂左衛門の三男として
現在の香川県讃岐市志度にうまれる。

先祖は戦国時代に武田信虎に滅ぼされた信濃佐久の平賀城主
である平賀玄信であるとされる。

[18]白石さんからのコメント(2018年04月21日 11時49分42秒 ) パスワード

自性院(じしょういん)

山号は微雲窟、寺号は常楽寺。本尊は★不動明王。

天正年間に摂津兵庫の豪族である多田和泉守によって復建された。
讃岐(白石)平賀家の菩提寺
[19]白石さんからのコメント(2018年04月21日 12時26分41秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは
良い天気が続きます

うちの白石は明治の頃村役場が置かれた
お寺によっており たくさんある 白石の中で
うちだけです。たくさんある白石はお寺を別に持って
いるそうです。
ここが 同じようで違い 悩ましい!!

また そちらは 所右衛門 ですが
隠岐次郎左衛門広有
服部平左衛門
と もしかしたら
と 思うところは 左衛門
なのですね。
これも悩ましい。

満仲のひ孫・義光
新羅三郎 兵庫介 左衛門尉 右馬允 左兵
衛尉 刑部丞 甲斐伊豆相模常陸信濃等守
★佐竹・武田・平賀等祖
[20]白石さんからのコメント(2018年04月21日 14時11分13秒 ) パスワード

肥後の白石は清和源氏義光流
菊池に仕え菊池が滅んだあと相良氏に仕えた

以前みやちゃんから 相良氏家臣白石の家を教えてもらったと思います。

村役場がおかれた寺は永国寺の流れ
永国寺は相良家中

すれば
うちの白石は清和源氏の可能性がある。
家紋が橘
橘紋は  
清和源氏義光流 三巴、丸に橘
信濃国佐久郡平賀邑、平賀城
主な人物 
平賀惟義・・・平賀義信の長男  
(大内惟義)
平賀朝雅(この人の母が頼朝の乳母の比企尼)

支流や分家に
金津氏(武家)
竹内家(公家)・・・
がある。

松葉宗益後裔 平賀氏とは
ずれているようですが・・やってきた細川家家臣の方の検討は
佐田 から つながっているかも・・・

幕末頃 武士が失職した時 続々とやってきた地にいますが・・・
ただ
その前からいたようなのですよね。?
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 09時14分43秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

沢山の御教示、コメントを頂きありがとうございます。

後ほど、じっくりと拝読させて頂きます。

所で
ついに、「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」「那須氏」「佐藤氏」と
同族であった「系」の方を球磨で発見致しました。

私が、何年もかけて「気になって仕方なかった」上記の各氏に繋がる系の方とは
それは・・平河氏ではなく「槻木氏」でした!!

詳しくは平川家について43 コメント31に書かせて頂きました。
ぜひご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101619_31.html

ただ・・白石様
先日からやりとりをさせて頂いていた
「立花氏」・「三池氏」・「中原氏」・「古庄氏」等のお話ですが・・
系の繋がりが確実に判明したのは「槻木氏」でした・・

私は言葉が出ない程、驚きました・・

白石様・・
平河師高と藤原師高・・やはり・・本当は・・

・・・・・・
では(..)
[22]白石さんからのコメント(2018年04月22日 18時35分13秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
良い天気過ぎて 外を歩くとくらくらします
一日中部屋に閉じこもり 足の運動などしていました

槻木
長兄の嫁が 槻木の町長の娘だったこと
書いたことがあったかと思います。

尾方です。
今は男子がいなくなり どうなっているか
わかりませんが・・・

槻木に四所神社があり
天氏 阿部(安部?)氏のながありました。

丹生津姫など まつっていたのでは
なかったか? と 思っていますが・・・

安部には 阿部磐井の言葉があり
磐井は 白石が磐井を名乗ったということで

また
安部高田姫・・・川津姫
確か 中原に通じていったと思います

三代天皇の頃に手掛かりがあったはず・・・


そして
投稿番号:101230
6 で 高岡と佐田は血縁関係があったと思える。
と わたくし うすうす ではありますが
感じていました。

特に知盛の叔父、平宗清
落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また六人は柳川沖の端に逃れ永住した。

天台宗である清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍
大将平知盛(清盛の子)は、八女市八幡区 平うりあ住みついたそうで、この他にも平家の残党は、八女郡立花町白木など、八女周辺定住したようです。今でも各地に平家の末裔ではないだろうかと言われる人がいるそうです。

上はどこからひっぱってきたか
忘れましたが 
私の故郷のお茶はおいしくて
八女に送られ 八女茶とまぜてうれれていること

八女の近くに 大川家具などあり
よいつくりの 家具で
うりあげの一部は 今でも 真田の里へ送られている
という話をしたことがあったと思います

 
[23]白石さんからのコメント(2018年04月22日 20時36分41秒 ) パスワード

母(佐田)はよく 岩国の錦帯橋に船で繰り出し豪遊したと
話していました。
錦帯橋が創建されたのは岩国藩初代藩主、吉川広家公が関原の戦後、山陰地方のの月山富田城から岩国に移封された73年後 です。

塩冶系図の 出雲国造の妻となった 覚日尼と
兄弟の人の筋から 塩(異字体です)谷周防の守 師高
この系のしっぽに 宮原又右エ門の妻になった人
がいます。

宮原又右エ門
岩国の錦帯橋をつくった人
吉川候のもと 石工棟梁

錦帯橋の近くにある
佐々木小次郎像
錦川畔で柳の枝が燕を打つのを見て秘剣「燕返し」を生み出したと伝わっています
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月23日 07時04分45秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

沢山の御教示ありがとうございました。

佐久地方のお話
こちらも、私、以前調べていましたね・・・
白石様から、あらためて「思いだしなさい(^'^)」と言われたような・・
そんな感じでした・・

望月氏・・相良頼景と共に行動・・
源頼朝の鶴岡八幡宮参拝では許された「高齢の相良頼景」を囲むように望月氏・滋野一族が・・
めちゃくちゃ偶然ですが、私の主人の母方は「望月氏」で縁戚の「中村家」に養子に入られていました。

〉新羅は海部氏の祖が建国

はは〜ん(p_-) ナルホド・・そう言う事か・・
朝鮮半島で「新羅建国」について書かれた国史には「球磨」との関わりが記されていますねぇ〜・・
何だか、見えてくるような・・(p_-)

最近、ネットで書かれた「狗奴国」についての某方の御推論を読んだのですが・・
(支障があったらいけないので、サイト名は伏せます(..) )

「狗奴国」の球磨説に対して、海から程遠い山のまた山奥だから、そこに「狗奴国」の中心は無かったはずだ(ー_ー)!!
国の中心(王の所在)は八代辺りではなかったのか?
との内容の記述がありました。

私、大変失礼ながら・・(..)
おそらく、この方は、球磨に来られた事は無いのでは?・・と思いました(..)
八代=海 と考えれば、確かに球磨は海からは遠い・・
となりますが、球磨に一番近い海は八代ではなく芦北ですね・・
芦北の海までは、車で人吉から30分。
確かに山の奥である「球磨村神瀬」。でもそこから芦北方面に曲がれば・・
突然、、そこまでとは全く別の景色に変わります。
険しい山も無く、スムーズに海まで行けます。
「球磨村神瀬」から芦北の海までは車で15分位かなぁ・・
「球磨村神瀬」からだったら歩いても、半日もあれば行けると思います・・

それと・・
冷静に考えたのですが・・
「狗奴国」や「邪馬台国」の時代って、中国は脅威だったのですよね・・
だから朝貢していた・・
海の側に古代国家の中心があれば、もし、中国から船団でも襲って来ようものなら・・
すぐに攻め滅ぼされてしまいます・・

古代国家の中心地、私が造るとすれば(突拍子もない事を言いますが(..))
大きな川が流れる山で囲まれた要塞のような地が適地かなぁ〜と思うのですが・・
三国志時代の中国の国々も、殆どがそのパターン?だったと思うのですが・・
(分不相応な事を書いて申し訳ありません)

球磨(=久米)には・・私、海神系と言われる方々がいらしたのだと思います・・
その証拠が黒原山の雨引神社ではないのかな・・と。
麻郡神社私考では
雨引山王 宮原中峯山王山 とあり
社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

山の頂上付近に罔象女命ミツハメノミコト様をお祀りする雨引山王(雨引神社)

球磨(=久米)の古代を暗示するような気がするのです・・

所で(p_-)
私、佐田氏について気が付いた事があるのですが・・
今から、バイトですので、明日にでも書かせて頂きますね(^'^)

行ってきま〜す(^O^)/
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