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 投稿番号:101624 投稿日:2018年02月08日 16時19分31秒  パスワード
 お名前:中村
美作官氏殿 教えて下さい。

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

☆前田氏 ―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」とありますがこの根拠は? ご存知の方も教えて下さい。

[1]中村さんからのコメント(2018年03月03日 12時56分21秒 ) パスワード

 美作菅氏殿教えて下さい。で検索したら以下の回答でした。

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答えられないのは何故?美作菅氏の原田氏(前田氏)に関する系図はデタラメだから都合が悪いのです。かって鳥越俊太郎氏の偽系図がありましたが、これよりも根が深く悪質なのです。

[2]中村さんからのコメント(2018年03月05日 15時17分26秒 ) パスワード

  美作菅家系図が偽造とする根拠!
 科学ならば再現性の可否で証明できますが、歴史と言う怪物を退治するには、言い伝えや伝説の類を廃した質の良い資料が求められます。次の両家の系図はどちらも公的機関津山藩の要請で書かれ残されたいわば一級資料に近いものです。

「元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)によって美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀200目と言う多額の土産を持参している。   Web有元氏参照

当時とすれば100年も過ぎればもう不明です。ならば偽造しかないのです。
この時書かれた美作菅家七家の系図がこれです。

 ※「国会図書館アーカイブス」(新訂作陽誌 有元氏157コマ)より転載
美穂満佐の子   
 忠勝 筑後守   號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳     
 佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主       
 周長 福光伊賀守前田氏         
 公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主
 佐利 鷹取長門守 領鷹取庄
 資豊 江見丹後守 領江見庄

(注)満佐は天福二年(1234年)二月、52才で死去となっている。
   余談ですが、★忠門(1187〜1221)なので逆算すると、忠門は満佐5歳の
   時の子になります。
  
  同じく藩の要請で残された※「国会図書館アーカイブス」
 (作陽誌西作誌中巻25コマ)より転載の原田氏の系図

 家系畧伝  
平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住二肥前原田一因號原田次郎一天喜五年春叙従五位下一任甞助源義家阿部貞任一康平二年出羽国杉谷戦中流矢隕命
                               (以下略)
 ◆原田氏について、平凡社『岡山の地名』 P238、に
 ◎『西幸との境界に稲荷山城跡あり、初名は狐山で、原田氏が代々居城したという(作陽誌)原田氏は平忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した。保安四年忠高曾孫興方が美作に流され、翌年許されて狐山に築城。以来元和七年に死去した同書)原田の北西に大谷城跡があり、これも原田氏の分城という(久米郡誌)。三河守貞佐は備前福岡(現邑久郡長船町)の戦いで左足に傷を受け、無足の三河といわれた。その子行佐は宇喜多に属した。行佐の子忠佐は朝鮮出兵に従うが騒擾を起こして豊臣秀吉の怒りに触れ帰国した。その子は父の遺命で出家し、誕生寺の住持となり、忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった。

(注) 忠佐は二十代で、「原田氏の武家としての歴史は(1597〜8年)には終っています」

 美作菅氏の系図について専門家は・・・

※「菅原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称 はいささか信憑性に乏しい。
        「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著(株)東京出版 P824
※「菅原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混淆して収拾できない。「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が美穂満佐の子に、「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守佐友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」
               「系図研究の基礎知識」近藤出版社 P1067

以下は原田氏の縦系図です。 
(桓武平氏良文流) 【平忠常】―@忠高―A忠次―B忠仲―❹興方―D忠光―E光沖(光興)―❼忠門(改菅原姓)―G忠頼―H頼興―I頼勝―
J忠勝―K忠平―L政平―M政頼―N忠行―O忠武―P忠長―Q貞佐―R行佐―S忠佐

 美穂満佐の子として★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主とあります。
この忠門は❼原田氏七代なのです。日向守?は❹原田四代興方初代稲荷山城主の弟沖春日向守とつないだのです。※沖春は前田氏の初代です。

■この菅家の偽系図で、問題が発生しました。
上記 平凡社『岡山の地名』P238の文中「忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった」とありますが菅家が原田四代興方を★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主とすり替えたが為に@忠高―A忠次―B忠仲―❹興方・・・@〜Bのカウントがされいが為に「忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振るった」とありますが忠佐は2原田二十代です。

★前田氏の始祖は原田四代興方の弟沖春日向守です★

 四代 興 方(1141)
嘉承二年(1107)父忠沖カラ家督(かとく)ヲ嗣グ
尉ニ任ゼラル保安四年(1123)発(ミズノ)卯(トウ)二
月藤原之仲時等ニ命ジテ
高科(タカシナ)師(モロ)春(ハル)ヲ殺ス君ハ此ノ事ヲ
咎(トガ)メテ原田ヲ美作ノ国葛(クズ)虫(ムシ)ニ配セラル
コレカラ此ノ地ヲ原田村トシタ
保延五年(1139)己(ツチノ)卯(トウ)年先ノ罪ヲ免ゼラレ五月ニ
葛(クズ)虫庄(ムシショウ)ヲ給ワル同年
十一月ニ狐山下葛虫ニ住ム
稲荷山ト云ウノハ是山デアル永治元(1141)
年二月ニ死ス、弟ノ沖春日向守ハ
曾(カツ)テ肥前ノ国ニ住ンデイタ

次回は原田に戦後多くの歴史家が、菅家?とばかり尋ねてこられても系図を門外不出としたことについて、


 
[4]中村さんからのコメント(2018年03月06日 17時11分40秒 ) パスワード

■この菅家の偽系図で、問題が発生しました。の文中
―❹興方・・・@〜Bのカウントがされいが為に「忠佐まで十七代四百七十年間
               ➡されないが為に訂正して下さい。
美作に勢威を振るった」とありますが忠佐は原田二十代です。

     注)@〜Bとは―@忠高―A忠次―B忠仲のことです。
[5]中村さんからのコメント(2018年03月07日 17時34分29秒 ) パスワード


■原田に戦後多くの歴史家が、菅家?とばかり尋ねてこられても系図を門外不出                          としたことについて■
 明治時代から、「足利尊氏は逆賊」「楠正成は忠臣の鏡」とされ太平洋戦争がおわるまで、戦意高揚で人の心を操る宣伝(プロパガンダ)に使われ、戦時軍部の発表する「大本営発表」は信用できない情報の代名詞でした、当時の時世は

※1)足利尊氏と口にするのさえタブー視され、「太平記」には40巻の内、22巻  の欠落があり、はっきりしないが、天皇や武家方の不都合な事は削除され   たと考えられている。
※2)昭和5年(1934)時の商工大臣(古川電工・横浜ゴムの設立に尽力、社   長)の中島久万吉が“客観的に 「足利尊氏は人間的に優れた人物だ」と論  じたところ、当時の熱狂的な皇国史観に押し流され、商工大臣を辞任した。  これを菊池寛著「四條畷の戦」で、中島商相位に賞められてもいいのである  が、人間として純粋無垢な楠公父を相手にしなければならなかった所に、   彼の最大の不幸があると思う。と、大臣を庇う程度でした。
※3)軍隊では、足利の生まれと言っただけで往復ビンタされた。
※4)吉川英治「随筆 私本太平記」に足利出身の子が東京に徒弟に出ると逆賊  の土地ッ子かなんてよくいじめられたものですし、足利織物のレッテルでさ  え、逆賊織かと嫌われた。
※5)例えば「戦争は嫌だ」「日本は負ける」いった。当然、与謝野晶子の「君  死にたまうなかれ」こうした当時の世の流れに逆行した出版物も思想犯罪と  して特高(特別高等警察)に捕まり、拷問を受けた。
※6)「無声日記」講談社・徳川無声さんが父親から、先祖は足利尊氏の子供だ  が決して口外しないよう口止めされたと書かれていました。     
        --以上はほんの一例です。
訪ねてこられたのは太平記、菅家一族が船上山の戦で戦死の事績で、昭和七年
原田に対して恩賞があった。件で原田の文章系図の確認のためでした。
            つずきは次回に・・・

[6]中村さんからのコメント(2018年03月08日 09時39分27秒 ) パスワード

 つずき=× つづき=〇でした。

(太平記巻第八)一族の合戦の事績

美作国の住人、菅家の一族は、三百余騎の勢いで四条猪熊まで攻め入り、
武田兵庫介・糟谷・高橋の軍勢一千余騎と向かいあって、二時間余り戦ったが、
後陣の味方が退却してしまったのを見ながら、もともと退かない決心であったのか、また向かう敵に後を見せるのを恥と思ったからか、有本勘四郎左弘・同五郎佐光・同又三郎左吉の兄弟三騎は後にのこり、近づく敵に馬を並べて組討ちとなり、どうと地上に転がった。左弘は今朝の合戦に膝口を切られて、力が弱っていたのか、武田七郎に押さえこまれて首を切られ、左光はこの仇を返して武田二郎の首を取った。左吉は武田の家来のものと刺し違えてふたりながら死んだ。
敵二人も兄弟なら、味方の二人も兄弟だから、いまさら生き残って何になろう。さあともに勝負しようと 左光と武田七郎とは、持っていた首を両脇に投げ捨て、ふたたび組み討って刺し違えとなった。これを見て、福光彦次郎左長・植月彦五郎重左・原田彦三郎左秀・鷹取彦二郎種左らは同時に馬をひき返し、むずと組み合ってはどうと落ち、組み討っては刺し違え、二十七人の武士が同じところでみな討死にしてしまったので、菅家の陣営は敗れ去ってしまった。

「日本の古典 太平記」河出書房新社 訳者山崎正和
[7]中村さんからのコメント(2018年03月10日 13時44分00秒 ) パスワード

ここで一息、当時の本名に対する概念。

※当時本名という公文書に署名する場合や、亡くなった後に墓に刻まれるなど、極ごく限られたときにしか使われなかったのです。親しい友人でも本名を知らなということもよくありました。日本人は古来から個人の名前を直接言わないのが礼儀なのです。
       「学校では教えてくれない日本史の授業」 井沢元彦 PHP文庫

 後でも述べますがWebでの美作菅家系図は、忠門の時に改姓?
又千葉氏系図では【千葉】忠常ー忠高(美作菅家党)へ・・・作成された方のご苦労は理解できますが、歴史を学ぶ上で正しい系図を作成して欲しいものです。

法然誕生の地にある十八代 貞佐の墓碑は「原田三河守平貞佐」です。
これを見ても原田が菅家に改姓はない事が判明します。
[8]中村さんからのコメント(2018年03月17日 12時29分48秒 ) パスワード

   原田氏が系図を門外不出にしたか?の話に戻します。
 ★もし系図から下記系図の事が判明したら原田は逆賊で、非国民であり当時の 風潮からして決して國や世間から許されない家だったのです。

 十代 平 ・忠(1274〜1341)
文永(1274)拾一年生ヲ受ク永仁(1296)四
年父・興ヨリ家督ヲ嗣ク元亨(ゲンコウ)
元年(1321)二月京ニ上ル後醍
醐天王(天皇)ノ御味方ニツキ
八月二八笠木(笠置)山に籠ル
九月天王(天皇)笠木カラ退去サレタ後
笠木ノ城モ落チ・忠モ西ニ逃ゲ十月美作ニ
立帰ル、翌正慶元年(1332)ヨリ    
自分ノ館(ヤカタ)トシテ菅原山
城ヲ築キ住ム天神山ト改名スル
建武二年(1335)高師
直(コウノモロナオ)使者ヲ以テ・忠ニ味方スルヲタノム
原田・忠尊氏ニ味方スルヲ決シ備中ニ
出向キ、尊氏ニ合流筑紫(九州の古称)ノ国ニ下ル
秋尊氏再ビ九州デ蹶起(ケッキ)ス
・忠尊氏ト共ニ京ニ上リ尊氏ニ職ス(家来トナッタカ)     
同年十二(1335)月従五位下ノ宮ニツキ
太郎ニ信任サル暦應四年(1341)死ス
   北朝暦(建武四年南朝暦)

 頼忠子 十一代 忠勝(1322〜1367)
母は足利次郎左右衛門氏夏ノ娘・・・この件について
「大日本地名辞書」吉田東吾 P103〜104に足利氏冬の女なり、
三村山城主秀仲を擊殺す。尊氏乃ち備中高松城与えて之を賞す。
尚、系図では二千貫ノ知行もらっています。二千貫とは何石?
 門外不出にした経緯は以上です。




[9]中村さんからのコメント(2018年04月11日 17時13分17秒 ) パスワード

◆ここで太平記の事績で恩賞にあずかった
原田左秀についての歴史家・郷土史家の検証について、

1)利家の出自について、原田彦三郎左秀が船上山の戦で戦死の後左秀の子孫は嘉吉の変(1441)で白旗落城後、尾張に移ったといい、利家を前田氏はこの後胤という。「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著
2)美作の武士団 「系図研究の基礎知識」p1065~1075原田氏は、承久の乱のとき、三浦胤義とともに院方に属し、伊賀光季の館を襲って、弟前田又三郎と同時に討死した。知貞の子、右馬太郎知明はまた美作に帰任し、その孫 三河    守左房(入道祐念)は元弘三年(1333)船上山の合戦で疵を蒙り、その子彦三郎左秀・彦四郎佐延・彦五郎佐仲は同年四月、あいともに京都猪熊で討死した。佐秀の子孫は赤松に属したが、左秀の孫式部丞左広は、嘉吉の変で白旗城落城後、尾張の国に移ったといい、利家を出した前田氏はこの後胤と言う。
3)「美作古城史 二」寺坂五男著に、「原田氏に就いては異説がある。其れは勝田郡勝田町眞加部に上の山城址があり、これは原田氏の在城が傳へられて居るのであって、菅原系図に原田日向守及その後裔は此の眞加部城主であったとの説である。これを勤王の事実と見るときは、南朝の勤王の士原田彦三郎左秀は此の系統に属するのではないかとの説である。此の眞加部に原田氏の在城を立證するものとして、(中略)
・・・後年研究の資料にもと考えて茲に録して置く、」と、原田は事実と認識しています。



[10]中村さんからのコメント(2018年04月22日 11時18分16秒 ) パスワード

ここで「誕生寺と原田氏の因縁」について、

 誕生寺は、浄土宗開祖法然の生誕地に創建された寺院。浄土宗知恩院派特別寺院。建久4年(1193 )に法力房蓮生(熊谷直実)が、法然上人の旧宅を寺院としたのが始まりとされています。

 誕生寺御影堂に原田三河守像が安置されています。その説明文は、天正年間当地方の守護職(法然上人母方の後継者)にあった三河守は天正六年念仏を忌む宇喜多直家ら二百余名が当寺へ攻めよせた時裸馬に乗り加勢に来た人物

また境内にある三河守の墓の前にある説明文は、原田三河守貞佐の墓 原田氏は平安末期から十七代四九八を美作に居城す。十五代稲荷山城主、三河守は勢力回復保持し当寺 寺領百石を寄進 願誉和尚天正六年の羅災の際、裸馬にて馳せつけ助援の他、多大なる貢献者。原田十八代は当寺十三世願誉和尚である。
三河守は天正十四年十二月寂

(注)スレッド2と同じく@忠高―A忠次―B忠仲―❹菅家が興方を初代としたが為に@〜Bのカウントがされない故にズレが生じています。正しくは原田三河守貞佐は、十八代でです。

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