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 投稿番号:101619 投稿日:2018年01月11日 09時08分30秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について43

コメントの種類 :その他  パスワード

2018年がスタート致しました。
私がこちらのスレッドを利用させて頂き、先祖の調査を始めたのは
2013年9月01日。

先祖の調査が5年目を迎えました。
最初は『すぐに色々と解るだろう』と簡単に考えていましたが
そんなに甘くなかった・・・とあらためて今思います。
球磨の古代から近世まで続く「謎」が大きな壁となって
立ちはだかっています。
しかし、勉強を積み重ねていく事によって
その壁の中に大きな扉を見つけて壁の向こうを見る事が
必ず出来ると私は信じています。

皆様方から頂くありがたい御教示。
ありがたいご支援の言葉。

私は感謝の気持ちと共にしっかりと胸に刻んで
今年も勉強・調査に精進してまいります。

皆様方
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは
平川家について40+2 コメント69より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101611_68.html


[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月12日 06時57分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

最近ブログの方で球磨の古代について調べていますが
大同年中に建立が続いた球磨の神社について書かせて頂いた際に
秋篠宮文仁親王様も御成りでいらっしゃった人吉の遥拝大明神 (遥拝阿蘇神社)と
球磨川を下り、八代市内に入る前(球磨川沿岸道路沿い)の山中に御鎮座の
豊葦原神社(遥拝神社)
この二社の神社様のトーテムが「鯰」である事に気が付きました。
「鯰」の装飾が施されたお寺や神社を私の住む地域(旧久米郷)で見かけた事が
今までにもあったので、「何故?鯰なのだろう?」と考えて
色々調べた結果、鯰をトーテムとしたのは
「古代久米族」もしくは「蘇我氏」であったのでは?と言う事に気が付きました。
よろしければ、詳しくはブログの方でご覧ください。
 ブログアドレス
@ http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12338064869.html
A http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12339558210.html
B https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html

さらに姫姓東周霊王の太子・姫晋を祖とする太原王氏「王 允(おう いん、137年 - 192年)
この方も鯰トーテムとする家であった事にドラマを見ていて気が付きました。
この件は、もっと詳しく調べなければいけないとは考えていますが
ドラマの制作者側も時代考証を行った上での「装飾」であるはずだ・・とは考えています。
C http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12342592277.html

鯰をトーテムとする神社仏閣が見られる九州の地域は
旧肥国(熊本・長崎・佐賀)に集中しています。
さらに、奈良県では久米寺にその「鯰」のトーテムが見受けられます。
久米寺は久米族だけではなく蘇我氏を祖母方(蘇我稲目の娘様)とする来目皇子(久米王)※聖徳太子の同母弟に
御所縁のお寺であり、さらに蘇我稲目の子息「田中刀名」は「久米臣」の祖である事も解りました。
蘇我稲目の先祖となられる武内宿禰。
『古事記』では武内宿禰は許勢臣(巨勢臣)・蘇我臣・平群臣・木臣(紀臣)を始めとする27氏の祖とありますが
武内宿禰の息女に久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)と言う名の方がいらっしゃり
さらに武内宿禰の多数の後裔の中に『新撰姓氏録』では
右京皇別 久米朝臣 が見られます。

私の推測ですが
結局、古代久米族・武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏は
遡ると古(いにしえ)からの「縁」で繋がっていると考えています。
この事は、私が今まで数年間調べて来た、古代の球磨について「気が付いていた事」と一致しています。
古代の「縁」と書きましたが、「同族」もしくはそれに近い「関係」であったのでは?と考えます。
その「縁」に深く関わるのが火国山門に住したとされる呉王夫差の系であった事は「鯰」のトーテムから推測して間違いないのでは?とも考えています。

古代久米族の元祖的本拠地であったと言われる球磨郡久米郷。
喜田貞吉氏は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、太田亮博士はそれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造(とものみやつこ)である・・と言われています。

その久米族と「縁」が確実にあると私が推測する武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏、
そしてその縁に深く関わる呉王夫差の系。
謎を解くべきその場所は・・やはり球磨ではないのか・・・

知識の浅い、歴史を本格的に学んだ(専攻した)訳ではない私が言うと
非難を浴びたり、一笑される事は覚悟の上で、お許し下さい。
私は今までの調査をふり返り、現段階では
久米族とは
@モン・クメール系倭人 = 久米部
古代、沖縄の久米島経由で九州南部に。球磨に拠点(古代の国)を形成。
A天津久米尊後裔 大久米命 = 姫姓 呉王夫差の系、もしくは何れかの中国王朝の王家の系(姫姓?)※江南地方から南海経由もしくは朝鮮半島経由
※久米部を率いて神武天皇御東征に従う
★元祖的天皇家に従った方々。
B元祖的天皇家に従わず、反発をした久米族(姫姓 呉王夫差の系+モン・クメール系倭人)
=熊襲の「熊」※曽人(後の隼人)と融合
★東征には従わず肥国や曽国に残る。
C反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々 = 火君の母方
D同じく反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々の宗家 = 後の松野連
※後に後裔(一族)は熊本県内の菊陽や菊鹿等に定住。
(今まで書くのを控えていましたが、この事は熊本県内の歴史研究家の方々は周知の事実です)

@〜Dここまでが、現段階の私の推測です。(今後の調査でもちろん変わる可能性はあります)

さらに姫姓の方々と木氏(紀氏)さらに蘇我氏は非常に「濃密な縁がある」と推測しています。

蘇我氏は・・・久米族・姫姓の方々だけではなく、さらに曽人(隼人)とも縁が深かったのではないか・・
(ここはあくまでも推測までとはいっていません。葛城氏と曽人(日向)の縁から少し気になっています・・・)
※同族と言われる平群氏。平群は奈良だけではなく日向にも地名がある(和名妙類聚抄)

ブログの方の調査で、久米族の系の方が『太伯地名がある吉備国』
大伯国造となられている事も解りました。
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』と言う方です。
『大伯国造 佐紀足尼』が大伯国造となられたのは応神天皇の時代とも言われています。
ウィキの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると
西暦270年〜西暦312年の間だと推測されます。

球磨の古代の遺跡からの出土品や墳丘墓より『吉備国』と古代球磨との関係が明白となっていますが
私は、上記の※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』
この方が球磨と『吉備国』を繋げる線の一つであると考えました。

もちろん、私は神武天皇の御東征が2675年程前、縄文時代の頃であったとは
考えてはいません。
百済や新羅の建国等から推測した年代を以前日本の苗字七千傑様より御教示頂いていましたが、
自分でも一応勉強させて頂いて、おそらく300年代ではなかろうか・・?
と考えるに至りました。
そうすると
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』(西暦270年〜西暦312年の間の人物)
この方と古代球磨との関係が解った事は『非常に重要な事』であったと思います。

ここで(..)
三つ柏服部様、
私の拙い調査をご覧下さって頂ける事を願って書かせて頂きます。

三つ柏服部様御自身の御調査の妨げになってはいけないと思い
お声掛けをさせて頂く事を控えておりました。
ただ、御報告をさせて頂きたい事がありまして
今回、書かせて頂きます。
申し訳ありません。

三つ柏服部様から御紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」 拝読させて頂きました。
実は、購入してすぐに読み始めたのですが、数ページ進んだ時に
ふと「来年の正月に読むべきだ」と考えたのです。
何故その時そう考えたのか、自分でも全く理由が解りません。
それから、突然、ブログの方で書かせて頂いた様々な内容が頭の中を駆け巡り
精力的に、次々と閃く事を書かせて頂きました。

そして、今年の正月を迎えました。

「正月に読むべきだ」と考えた事から、早速元旦にページを開くと
最初に驚いたのは
以前読んだはずのわずか数ページが、以前とは全く異なりすらすらと頭の中に入って来た事です。
不思議な感覚を覚えながら読み進めました。

すると、本当に驚い事が多数ありました。
まず、私がブログの方に突然閃いて書いた(紹介させて頂いた)
球磨川に渡来した「かっぱ」さんの話。
以前、こちらのスレッドでも数回御紹介させて頂いていましたが、ブログの方で
あらためて書かせて頂いた時に自分自身でも「かっぱ」と呼ばれた方々は
日本の建国(大和朝廷の成立)に何らかの関わりがあるのでは?と考えていた
その事が書籍「シュメールの天皇家」に書かれていた事です。

鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
「オーレイオーレイ デーライタ」(呉人呉人多来的)祭りの由来となる
球磨川河口に渡来した「かっぱ」に着目されて、その「かっぱ」と言われた方々は
三国時代の呉国から来た、後の「蘇我氏」であったのでは?と
推測されていらっしゃいました。
非常に驚きました。
先にも書いたように、久米寺・久米御縣神社は久米族に所縁の場所であり
さらに久米寺は「蘇我氏」を祖母方とされる(蘇我稲目の娘様)来目皇子(久米王)に御所縁の場所でした。
私は久米族と蘇我氏の関係に「縁」を感じていたからです。
最近、球磨周辺に関係する「呉国」とは、春秋時代の「呉国」と三国時代の「呉国」、両方の呉国であったのでは?
と考え始めていた矢先でしたので、書籍の記述を読んで、やはり驚きました。

次に驚いたのは
鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
狗奴国は沖縄(場所は明記されていませんでした)にあった古代国家でありその分国が熊本にあった。
後に熊本の狗奴国が吉備に東征した。
と推測されていた事でした。

先にも書いたように古代の球磨と『吉備国』を繋げる線の一つが
大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』。
「久米族」の方が『吉備国の太伯地名』である大伯国造となられていた事に気が付いていた私は
上記の狗奴国が古代の熊本(肥国)から吉備に東征したとの鷲見氏の推測に
鳥肌が立つ程驚いたのです。

「セム系」と「ハム系」の対立と言った「この書籍」の本質部分については
未だ私はその根拠的な所を含め理解出来てはいませんが(これから勉強致します)
しかし、「人の移動」については、『様々な分野からの研究』・『多方向からの視点』が一致すると言う事は
単なる偶然と、私は思う事が出来ません。

さらに書籍の中で『「熊本県」にあった』と推測されている「古代国家」、「狗奴国」・「多羅国」等他「複数の国」が登場した事も驚きでした。
自分自身も「多数民族の集合の地」であったと推測していましたので
非常に興味が湧きました。

他にも『23日の深夜』に関わりのある行事等「驚き」が多数ありました。

三つ柏服部様、
とても参考になる書籍をご紹介して下さって
本当にありがとうございました。
勉強をさせて頂きました。

大寒波ですが、
風邪などおひきになられませんよう
お身体十分にご自愛下さい。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月12日 08時56分05秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 お元気で何よりです。
 このところ、私は少しパワー不足となってまいりましたので、ミヤハラ様
のお声が聞けて、またパワーが湧いてきました。

 どうも、スハス(スバス)姫を中心として、謎の源がありそうな「勘」がし
ております――
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月13日 08時16分41秒 ) パスワード

三つ柏服部様
ご覧下さり、ありがとうございました。

私の住むあさぎり町の今朝の気温は−8.3度。
窓が凍って開かない状況です。
ここは九州南部との境なのですが・・・
(気象庁は球磨までを九州北部とされているようです)


日葉酢媛命でしょうか・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命
景行天皇の母君ですね。

私は以前『日葉酢』とは方喰草ではないか?と考えたのですが
三つ柏服部様の御調査を拝読して
東南アジアに分布するコショウ科の植物に「ヒハス」があると言う事を
勉強させて頂きました。

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)・・・久米・・
皇后 日葉酢媛命
景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこおしろわけのみこと)
おおたらしひこおしろわけのみこと・・・たら・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の前皇后は
日葉酢媛命の叔母にあたられる狭穂姫命。
狭穂姫命は火中出産をされた方でした・・

日葉酢媛命。
父君は第9代開化天皇の皇孫「丹波道主命」

不敬に当たる事かも知れませんが
第9代開化天皇様は欠史八代と言われる天皇様方のお一人で
欠史八代の天皇様方の「その八代」にあたられる御方ですね・・・

色々考える事があってウィキの欠史八代の記述を読みました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

実在説

記紀歴史書説
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
※乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。
この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。

プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。
欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。
また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。
=================================================

今まで欠史八代の様々な説をしっかりと読んだ事がなかったので
ウィキの記述でおおまかに理解させて頂きました。

ただ、実在説の「葛城王朝説」・「プレ大和王権説」も其々が
鍵を握っていらっしゃるのは
垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の父君
崇神天皇様であると言う事は解りました。

驚いたのは・・・
崇神天皇様をめぐって
@九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える説。
A崇神天皇の王朝を狗奴国に比定する説。
B崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国とする説。
C崇神天皇の王朝が邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説。
等です。

私がこの数年間、調べて「感じて」「閃いて」いる事は
どうしてこんなに「謎」に包まれているのだろうと度々考えていましたが
@〜Dの説を初めて拝見して
越えてはいけない壁の向こうを自分は調べているのかもしれない・・・
そんな事を考えてしましました。

ただ、その壁の向こうを見なければ、おそらく
私が知りたい先祖の真実や故郷の古代の真実には辿りつけない。
そう考えます。

今回、三つ柏服部様からお言葉を頂いて
ふと気になり
今まで理解していなかった「様々な説」を初めて拝見しました。

パワーを頂いたのは私の方です。
三つ柏服部様
本当にありがとうございました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 10時27分42秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 返事遅くなりました。うっかりしておりました。申し訳ありません。
 ヒバス姫のことも、うっかりして、「スバス」と書いてしまいました。
 このところの集中力の欠如は否めません。仕事、家庭、近隣、寒さ、体調
等いろいろな要素がからみますので、余り気にはしていませんが、ご迷惑を
かけないよう気をつけたいと思います。

 ヒバス姫という名前は全く理解を越えた名前で、人によるとインドの匂い
がするということですが、東南アジアの植物のヒハスと言葉がよく似ていま
すので、ひょっとしたらと思った訳であります。私は最近、この血圧に効く
というサプリメントを飲み出しました。結果としては、医者の薬程ではあり
ませんが、処方薬なしでもいいほどの一定の効果はあります。

 500年前の歴史でもなかなか真相はわからないのに、1000年、ある
いは1500年前の真相、ましてや2000年前の歴史の真相をつかむとい
うことは、実際、推測の推測……ばかりになってしまいます。
 それでも、大局的に、鳥瞰してみると、大きな流れは見えるのではないか
と感じております。

 歴史の変わり目というか、砂時計の首(ボトルネック)のところが、ちょう
ど「ヒバス姫」あたりのような「勘」がしております。表面の歴史では見え
ないですが、裏の歴史を見ると、やや透けて見えます。それは、王統、ある
いは皇統というものであると思っております。

 実は、「服部連」のルーツもそのへんでわからなくなっているのです。
 歴史はデジタルでなく、アナログの世界でありますので、数学のように解
くことはできないのが難点でありますが……。
 ただ、私が思うのは、ここらあたりが、「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイントかと思います。純日本的な歴史観
では解けない。かといってユダヤモードやシュメールモードに切り替えるの
には抵抗がある……いったいどうしたらいいのでしょぅかという訳でありま
す。

 最近斎藤忠著『裏天皇の謎と 安倍晴明』という本の理解に努めているの
ですが、なかなか歴史の把握が難しい。かいつまんで言いますと、安倍晴明
は、日本国によって滅ぼされた倭国王家の名称を継承する阿倍氏本宗の当主
であったということでありますが、これをすぐ理解せよと言われてもなかな
か難しい。たぶん、九州の地にある大和朝廷に対して抱く遺恨、失われてし
まった王国の遺恨というものを根底に持つ者達が存在し、その中に当事者と
しての安倍晴明がいたのではないかと考えます。

 皇統というものが、日本の歴史の骨格だと考えれば、ここを明確にすれば
歴史の謎は解けるということにはなります。ここが解けないから、いろいろ
な推測、またその推測に基づいた推測、というように推測の積み重ねになっ
てしまうのだと思います。でも、ここは致し方ないところであります。

 古代史探究には、茫漠の時間がかかりますので、それには没頭はできませ
んが、私は丹波王国には興味をもっております。ヒバス姫もそこに関係して
来ると思っています。

 いずれにしても、九州の球磨に絡む歴史の解明、ミヤハラ様の強い意思に
今後も期待しております――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 21時46分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様
 
 また、うっかりでした。私の飲みだしたサプリは、「ヒハツ」でした。
 「ヒハツ」と「ヒバ(ハ)ス」の違い、いずれにしても両方とも日本発祥の
言葉ではないような感じはします。ミヤハラ様の酢漿草説の方がわかりやす
く、正解かも知れません……。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 12時41分08秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様 今日は。

三つ柏服部様
ご教示ありがとうございます。

〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

非常によく解りました。
まさしく、おっしゃる通りだと思います。
最近、私は記紀等で気になる方が登場すると、
この方の時代を記紀ではいつ頃の「話」だとして描いているのか?
そう考えて、ウィキの「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を見るようにしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命

時代は紀元前29年〜70年にかけて、まさしく1世紀です。

記紀を編纂した方々は外国(中国や朝鮮半島)の史書を参考にして、
年代に整合性をとったのでは?と推測する事は可能だと思っています。
(100年〜200年程のずれは発生しているのでは?とは考えています)

三つ柏服部様のお言葉
〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

このターニングポイントは1世紀〜2世紀にかけてとなり
海外からの古代日本への進出がこの時代から応神天皇(270年〜312年)まで
めざましい勢いで進んでいったのではないのでしょうか・・・

ただ、このターニングポイントはもちろん縄文時代にも度々あったとは思いますが
縄文時代末期の紀元前400年代が九州における大きなターニングポイントであったと考えます。(文明が大きく変わる)

私は自分なりにど素人ながら少し勉強して考えるのですが
中国や朝鮮半島、さらには南島からの古代日本への「渡来」に際して
海を渡って来た人達が目の前に「陸地(日本)」が見えるのに
わざわざ遠回りして畿内まで進んで上陸するのだろうか???と。
南海経由であろうが、朝鮮半島経由であろうが、遥か遠くから海を渡って来て
最初に上陸する「地」は
目の前に見える「その土地」である事は間違いないと思います・・・

そこに上陸した後「拠点」として最も適した場所を見つけ「国(勢力域)」を造り
そこからさらに勢力を広げる為に日本列島を東に向かって行く(侵攻)したと考えるのは
不思議な事ではない・・・と。
(知識の浅い私が言うのは不相応で申し訳ありません(..))

もちろんある「一行」は到着した「その地」が日本海側であれば同じくそこに拠点を造り勢力を広げていった・・・

其々の拠点となる地の選択にもっとも必要となったのは「稲作が出来る土地」であり
「鉄の生産」が出来る土地であり、
もし「鉄の生産が不可能」な土地に拠点を持ったならば、「鉄」を輸入する事が
可能な土地でなければ、勢力を広げる為の十分な基盤を得る事は出来なかった
と推測します。

※稲作(特に水稲)に必要な水(川)に恵まれている。(焼畑に適した土地でも可能)
※武器や農機具を造る為の「鉄の原料」鉄鉱石の産地である。
※もしくは製錬された「鉄」の輸入が可能な地域である。

上記に該当する地域に古代国家が次々と形成されていった・・・
その古代国家同士が時には争い、時には連合して、時には争いの末に国を譲って
日本全体が一つの国へとまとまっていった・・・

ブログの方にも書いたのですが
私は何が一番良かった!と思うかと言いますと、
やはり「朝貢」と称して他国に「人」を「生口」する事が無くなった事です。
日本が統一されて、国としてのプライドが持てた事
その国の「国民」を外国に「朝貢」する事など無くなった事
『”真”の大和朝廷』の成立は素晴らしい事だと思います。

ただ、三つ柏服部様のお言葉にある
『失われてしまった王国の遺恨』
見えない部分で、何時の時代でも引継がれた「思い」なのでしょう・・・
とても納得致しました・・・

私は最近妙な事が気になっています・・・それは
熊襲とは・・・本当に「狗奴国」の事なのだろうか???
もしかしたら「邪馬台国」の政治の中心部の人達ではなかったのか???
元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力が拡大して、邪馬台国に侵攻し
邪馬台国内で元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力に「従った政治中心部」と
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)に別れ
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)が曽国に逃れて行ったのではないか・・?
その人達が「熊襲」ではなかったのか・・?

曽国に逃れた人達の中から元祖的天皇家に従う「姉妹」が現れて
妹の方が『母国』に戻る事が出来たのではないか?(火君与う)
しかし他の従わなかった人達は、曽国以外にも南下して離島に逃れたり
北上して筑紫国に逃れたのではないか?
北上した人達が 仲哀天皇紀に描かれている北部九州の熊襲と呼ばれた方々ではなかったのか?
と。
一般的な説「狗奴国」=「熊襲」とは全く逆の発想ですが
しかし、こう考えると記紀に書かれている内容とは一致してくるような
気がするのです・・・
景行天皇の「熊襲」征伐として書かれた地域はあくまでも「襲(曽)」国です(姉妹の方が居た地域)。
6年後の記述では
熊縣の熊津彦と言う方は 景行天皇に従っています。
球磨の隣である小林(夷守)・えびのを景行天皇に従って案内した方々は
兄夷守と弟夷守です。
この方々が熊津彦の子息二人であった事は十分に考えられます。
球磨はあくまでも熊縣であって「熊襲」の域とは書かれていません。
芦北も同じくです。芦北の住人(山部氏)も景行天皇に従っています。
この方々もあくまでも芦北の人であって、芦北も「熊襲」の域とは書かれていません。
八代も同じくです。
熊本県内で「熊襲」と書かれた人が居た地域は「益城」周辺だけです。
そこ(元の国)を離れなかった人達が残っていたのでは・・?
筑紫国(北部九州)に逃れた人達(熊襲)は制圧されて、結局は元祖的天皇家に従った・・
元祖的天皇家と従う狗奴国は九州全土を制圧して、さらに北上したのでは・・

松野連系図に見られる、天皇家に従って「火国造」を賜った市鹿文(姉妹の妹)
兄弟の宇也鹿文(火国菊池評山門里住)※火国菊池の評督となる。
襲(曽)国に逃れた後に、元祖的天皇家に従って母国に戻る事が叶った
二人の方々
私はそう考えます・・・

こう言う風に考えると記紀の記述と整合性があうのでは・・・
ただ、記紀の記述は先も書いたように100年〜200年のずれが発生している事は
確かなようですが・・・

卑弥呼という女性は、産まれは北部九州で、一族の代表として選ばれて
女王として「政治の中心がある場所」に来られたのではないのでしょうか・・
まるで、徳川家の『将軍』の継承のように・・・
その後の事は今まで書いたような流れとなってしまった・・・

私も時には「大胆な推理」を書いてみよう!と思いまして
ぶん不相応ですが、書いてみました。(お恥ずかしい限りです)


所で三つ柏服部様
今回も非常に長くなっている事をお許し下さい。
一つ、気が付いた事がありますので書かせて頂きます。

三つ柏服部様からご紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」の中に『23日の深夜』に関わりのある「事」が書かれていました。

天皇様の主要な祭儀の中で最も重要な祭祀は11月23日夕から翌午前1時までに行われる
「新嘗祭」であり
新嘗祭で、天皇様は新穀を天照大神様など神々に供え自らもお口にされる。
とありました。

私は11月23日の深夜に「新嘗祭」が執り行われるとは全く知らなかったので
この記述を読んだ時に恐れ多い事ですが鳥肌が立ってしまいました。
頭に浮かんだのは祖母の実家の氏神様として木札に書かれた
月讀廿三夜比賣尊

木札には左から
月讀廿三夜比賣尊
天津彦火瓊々杵尊
天津彦火火出見尊
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12274474875.html

以前三つ柏服部様は
月讀廿三夜比賣尊と記された所が天照大神となるのが普通ではないか?
と言う事をおっしゃっていらっしゃいました。

実は今朝、伊勢神宮の記述から進んで初めてウィキの九州王朝説を読んだのです。
そこには「淡海は古代球磨川河口」と言う記述がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

今更知ってお恥ずかしいのですが、非常に驚いて、ここから「淡海と天皇家」のワードで色々検索していた所
天智天皇が皇都とされた「淡海大津宮」の記述を知る事が出来ました。
さらに「淡海大津宮」を調べていた時にネット公開されていた
斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」
が目に留まりました。

https://books.google.co.jp/books?id=FMaKCwAAQBAJ&pg=RA1-PA33&lpg=RA1-PA33&dq=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&source=bl&ots=pzI3jZmZNW&sig=Ra4wpeE7EbwCSetKolmQiP1VPuc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi10PmeltvYAhUIF5QKHcAiCVoQ6AEILjAB#v=onepage&q=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&f=false

この書籍の中(表示されたページから3ページ程先最後の2行)に
衝撃の言葉が記されていました。
『推察するに皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
月神は古くから内宮、外宮それぞれの別宮に祀られるが、おそらく元明(天皇)の時には倭国皇統の故地から伊勢神宮のうちに強いて勧請したことによって必要となった新規月神用斉王の派遣であろう。
天皇の方の斉王は言うまでもなく日本国皇統の奉じる日神たる天照大神に対するものだ。
天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
むろん奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められたろうが
以下略・・・』
以上 斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」より

※皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
※天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
※奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められた・・・

私はついに祖母方の氏神様がどう言う意味を持つ神様であったのか
理解出来たような気がしました。

天照大神(月神/月讀尊)

月讀廿三夜比賣尊 は 天照大神ではないのでしょうか・・・!

鳥肌が立ちました・・・

しかし、続けて最大の疑問が湧きました。

日本全国、どこの神社様にもお祀りされていない
祖母の実家の氏神様
月讀廿三夜比賣尊

月讀廿三夜比賣尊と天照大神 同一であるとした場合
何故?この国の重要な秘密、隠された事を祖母の実家の先祖は知っていたのか!?

おそらく、知る方々はごく僅かだと思います。
公表されていない、時代の影に隠された事を何故?祖母の実家の先祖
いえ、私の先祖は知っていたのか?
何代にも渡り継承してきたのか?
おそらく、椎葉村以前、先祖代々受け継がれていたと推測しています。

私の先祖調査の最大の「謎」についに突き当たった
そんな気持ちです。

三つ柏服部様にお声掛けをして御調査をじゃまする行為をして申し訳ございません。

しかし
一番に三つ柏服部様に御報告をと考えて書かせて頂きました。

謎ではありますが、しかし、先祖の真実を見つける鍵なのでは?
とも考えています。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 16時01分56秒 ) パスワード

追記
ウィキの九州王朝説の解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

淡海は古代球磨川河口以外の記述を読みました。
(朝は淡海は古代球磨川河口のみの記述しか読んでいませんでした(..))

感想は・・・
なるほど・・と思った所もありますが
うん?????(?_?) 納得できない・・(本音)
と言う所の方が多々ありました。(勉強不足も原因でしょうが)
父は「諸説あり」と考えるのが一番と笑っていました。

九州の古代研究はおもに北部九州のみに視点が集中しているように感じます。

私は記紀の記述を完全に無視するのは・・抵抗があります

九州中南部の勢力と九州北部の勢力が合流、吉備経由で奈良に・・
記紀の神武天皇の御東征の内容は「この歴史」を描いているのでは・・・と(..)
私自身まだまだ頑固なのかもしれません
ただ・・西暦で言えば300年代かなぁ・・とは思います。

九州の古代研究の視点が北部九州に集中しているのであれば
私は球磨からの視点で、別の方向から九州の古代を感じていたい・・
そう考えます(^'^)
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月17日 08時35分11秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 古代史についてのご見識、尊崇に値します。ヤマト政権の前後のことは、
私自身もスッキリさせたいと思っています。といってすぐに結論を出せる
訳でもないので、並行して探究して行きたいと思っています。
 今、「阿倍氏」の謎に囚われています。古代氏族ということですが、本
を呼んでも、なかなかスッキリとはわかりません……。
 古代史については、この方向からアプローチしてみたいと思っています
ので、新しいことがわかりましたらお知らせいたします――
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月18日 05時52分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ミヤハラ様にはそんなことはないと思いますが、古代史は一旦理解しても、
すぐ忘れてしまいます。
 それは何故かと考えてみますに、この説は正しいと思っても、すぐに次の
説によって迷わされ、くらついてしまう。つまり、いつも半信半疑な状態の
把握であるのが原因なのかと思っています。

 私にとってこれはいい本だなと思われるものには、その本の表紙に「テキ
スト」と書いたシールを張ります。
 その一冊に、壇国大学特別教授の金容雲氏の書いた『「日本=百済」説 
原型史観でみる日本事始め』(三五館 1,500円+税 2011年)という本があ
ります。以前にも書かせていただいたかも知れませんが、この本を読むと、
九州の古代が、朝鮮半島との関係の中でよくわかります。特に108頁に出
ている「熊襲征伐の必要性」というところを読むと、狗奴、邪馬台、高千穂、
大和の関係がよくわかりますし、全体を通して半島との関係・事情がよくわ
かります。

 私にとっては、古代史本は一度読んでもすぐ忘れてしまいますので、余り
意味をなしませんが、ミヤハラ様でしたらスイスイと理解されることと思い
ますので、是非一度読んでいただきたいと思うのですが、既にお読みでしょ
ぅか?
 
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月18日 12時48分04秒 ) パスワード

三つ柏服部様
御教示ありがとうございます。

昨日、来客がありお礼が遅れました。
お詫び申し上げます。
身に余るお言葉を頂いて恐縮致しております。
まだまだ、不勉強でお恥ずかしい限りです。

古代史の理解と迷い。
私もその繰り返しです・・・

「阿倍氏」「安倍氏」「安部氏」
武内宿禰と同じく孝元帝裔氏族であり
那須国造後裔「那須氏」とは同族ですね。

球磨視点で申し訳ありませんが
以前から、私は不思議に感じていた事があります。
九州中央山地内の球磨盆地を取り囲む山々の集落地域。
球磨の「皆越」(現あさぎり町)・「槻木」(現多良木町)には
通字を「貞」とする本姓「阿部氏」の皆越氏と槻木氏。
※麻郡神社私考には「安部氏」とあり。

山の稜線で繋がる椎葉村には「那須氏」。

両氏は時を同じくして平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて
「逃れて」来られたとの伝承があり
私は「逃れて来られた」と言うよりは古(いにしえ)の縁地に戻って来られたのでは?
と言う不思議な感覚を持っていました。
さらに皆越氏と槻木氏は「遠江国」から球磨へ・・と言う伝承が残っています。

三つ柏服部様の阿倍氏からの古代の御探求。
新しい事がお解りになられましたら
ぜひ、ご教示を頂きたいと
心から楽しみにお待ち致しております。

御紹介頂いた
『「日本=百済」説 
原型史観でみる日本事始め』

拝読した事はありませんでした。
早速購入します(^'^)
スイスイ・・・
とんでもありません。
三歩進んで二歩下がる・・の繰り返しだと思います(..)。

百済・・・
実は昨晩眠れずに、寝室で多良木町史を読んでいた時に
朝鮮半島と古代球磨との関連で「完全に見落としていた」遺跡について
記されていた事に気が付きました。

以前御紹介した「わんちゃん」の土偶とも繋がってくるので
詳しくはブログの方にまとめるつもりです。

三つ柏服部様
重ね重ね、お礼を申し上げます。
御教示ありがとうございました。
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月22日 11時55分46秒 ) パスワード

勝間田様
平川家について31 コメント83より続けます。

江戸時代における相良藩(人吉藩)内の勝間田氏の記録ですが
肥後相良藩士分限帳には

勝間田八之助
元禄十五年十月朔日申付之 親平八延宝八年三月十七日於濱松頓死
此勝間田帳尾ニ有之候得共余白ニ付爰ニ記之

とあります。
元禄十五年(1702年)10月1日 申し付けとして
勝間田八之助と言う方の父「勝間田平八」。
この方が
延宝八年(1680年)3月17日に濱松(浜松)にて頓死(急死)された事が解ります。

父「勝間田平八」と言う方が濱松(浜松)で亡くなって、約20年後
勝間田八之助と言う方の相良藩士としての記録です。

もしかしたら・・・離婚ではなくて、お亡くなりになられて妻の方が御実家に
帰られたのでは・・・?(すみません(..)あくまでも、推理です・・)

勝間田八之助と言う方以降は、相良藩士分限帳では
享保三年(1718年)「勝間田藤八」
同じく
享保三年(1718年)「勝間田平助」「勝間田久左エ門」と言う方の名が並んで書かれていて
「勝間田平助」と言う方の添え書きに
正徳元年辛卯六月十五日亡父久右エ門跡式被仰付之
※正徳元年辛卯(1711年)

さらに「勝間田久左エ門」と言う方の添え書きには
享保七年壬寅養父平助跡式無相違被仰付之
※享保七年壬寅(1722年)

と書かれています。

勝間田様の御参考になればと思い書かせて頂きました。

ただ、私ごとですが
平川家について31 コメント83で書かせて頂いたように
以前から、新堀氏・横地氏・勝間田氏の繋がりが非常に気になっていました。
そもそも、新堀氏の遠江国での縁地は一説では勝田(勝間田)にあると言う事は
ネットを介して知っていました。

サイト 日本姓氏語源辞典様 より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2479260.html

シンボリ 新堀 中略・・
A鹿児島県薩摩川内市永利町では静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。時代、位置不詳。静岡県牧之原市勝田付近が比定地。

とあります。
※静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀。
静岡県牧之原市勝田付近が比定地。

勝間田氏と新堀氏はかなり縁が深いのでは?と推測しています。
地図 静岡県牧之原市勝田周辺
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.76527207&lon=138.17948309&ac=22226&az=8.3101a&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82%E5%8B%9D%E7%94%B0%E5%8B%9D%E7%94%B0%E4%B8%8B

球磨における勝間田氏について、私が今まで自分の先祖を調べる上で知り得た情報を
御紹介させて頂きました。

勝間田様の御先祖様の御調査の
ご参考の一つとされて下さい。

ミヤハラ
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月23日 11時48分16秒 ) パスワード

皆様、今日は。

多良木町史(昭和55年1月1日発行)をじっくり読んでいた所
見落としていた多数の記述があり、その中から
内部構造が全国的にも非常に珍しい球磨の古墳についてを
ブログの方で詳しくご紹介させて頂きました。

内部構造が全国的にも非常に珍しいとは
多良木町史編纂時の昭和54年当時、国内の何処にも見つかっていない
『階段式通路』があった古墳です。
階段を持つ古墳が球磨の多良木町に存在していました。
さらに、これも全国に類が無いと書かれた玄室があり
玄室の構造
床の平面が多角形(八角形)をなすように側壁をたてめぐらした例は他に類をみない。
側壁の左側は整然とした三つの辺と角をなして立て並べられている。
と記されていました。

この不思議な古墳等の御紹介を書かせて頂いたブログのアドレスです。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12345669084.html

皆様、よろしければご覧ください(..)

あの・・・ここでなのですが・・・
皆様、私が以前書かせて頂いた「夢」の話をご記憶でしょうか・・・
あの時、私は夢の中に登場した
「階段のある古墳」について書いていたのです・・・
階段のある古墳が全国的に類が無いと言う事は
今回初めて知りました。
これまた鳥肌が立ってしまいました・・・

さらに、あの時に見た「夢」の中で
今でも鮮明に覚えているのは
一人の男性(執事のような方)から
「皆に伝えなさい。大王様がお目ざめになられます」と言われた事です。
不思議だったのは、その直後に
『蘇我稲目』の古墳ではないか?と言われる古墳が見つかった事でした・・・
(妙な事を書いてすみません<m(__)m>)

人間って、何かDNAを介して不思議な夢を見る事があるのでは???
などと、科学では証明出来ない何かを
今回の調査・勉強で感じています・・・

夢の話から戻して(ー_ー)!!
今回、ブログを書くにあたって才園古墳から出土した鎏金獣帯鏡の記述を
あらためて読んで気が付いたのですが

金メッキされた鎏金獣帯鏡
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)相当の実力者の墓とみられる。

日本では3枚しか出土していない。
才園古墳:熊本県球磨郡あさぎり町(旧免田町)
一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市
城塚古墳:岐阜県三野

そこで、日本では3枚しか出土していない内の一枚が見つかった
一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市
を調べた所
『九州王朝説』(あえて北部九州王朝説と私は書かせて頂きます)
の確固たる証拠であると言った記述を多数目にしました。

例えば
こちらのサイト様
http://www.torashichi.sakura.ne.jp/michikusa11shikanoshimasimpo.html
黄金鏡について

(Q)福岡の一貴山銚子塚の黄金鏡について、考古学会はあまり重要視していない。古田先生は、これこそ王墓の証拠とされる。しかし、熊本にも黄金鏡が、時代は遅れるが出土しています。そうすると、その地にもそれなりの王が存在した、ということになりますが。
(A)黄金鏡は、他に大分でも出ている。それなりの権力者の象徴であったということ。私は銚子塚の黄金鏡の金がどこからもたらされたのか興味がある。成分分析で産地が特定できたら面白い。時代的に、魏から卑弥呼が貰った金8両が使われたのではないか、と推測しているのだが

(゜-゜)
あまり、あさぎり町にはご興味がおありにならないようで・・・((+_+))

他、こちらのサイト様
倭国(九州王朝)遺産10選
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki784.html
第7〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」
 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されています。
なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

\(^o^)/ 古賀様はあさぎり町にも視点を向けて下さってありがたい事です。(@_@。

九州王朝説は、今だ私は理解不足というか
理解してみよう(^O^)/と言う気持ちが湧いていないのが本音ですが
ただ、九州王朝説を抜きにして「北部九州」だけではなく
球磨の古代にも視点を向けて下さる方がいらっしゃったと言う事を知り
とても嬉しく思いました。

ただ、非常に残念な事は、ブログにも書いたのですが
球磨や熊本県内の古墳や遺跡は、戦後の農地構造改善等により破壊されている例が多々ある事です(@_@。

さらに球磨の古墳の中には才園古墳と同規模の古墳が、古(いにしえ)の時代に
荒らされて、むき出しの状態になっている所もあります。
もちろん出土品も不明です(@_@。

鬼の釜古墳
http://5.travel-way.net/~niemon/kumamoto/asagiri/dotyu/oninokama.html

石室は巨石を用いた単室の横穴式石室で、才園古墳群2号墳の石室とならび、球磨地方の代表的な巨石墳である。
 羨道部(古墳の玄室に通じる通路)は短く、羨門(羨道部と玄室の境にある門状の入口)は厚さ約80cmの巨石をくり抜いたもので、高度な石材加工技術がうかがわれる。

高度な石材加工技術が確認出来る写真が掲載された
山歩き 古墳巡り様 サイトより
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-734.html


(@_@;) 確かに
約80cmの巨石をくり抜いたもので、高度な石材加工技術がうかがわれる。
と記された意味が解りました。

しかし・・・出土品等は不明でございます(@_@。

出土品はどこに行ったのだろう・・・
罰あたりな事をする人達がむか〜しから居たと言う事ですね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

他、神殿原(こうどんばる)台地にも遺跡があったはずなのですが・・・
その遺跡発掘を含めて、江戸時代まで手つかずの状態であった神殿原(こうどんばる)を開拓した元細川藩士が主体となった
明治初頭の神殿原開拓団。
記録では遺跡発掘調査の結果「何も見つからなかった」との報告があったようです。
神殿原開拓団のメンバーの方々は
後に貴族議員になられたり、東京都知事になられたりと、とてつもない出世を遂げられた方々が多数。
さらに、旧黒田藩の藩士の方々と政治結社を結成した方もいれば・・
私が今、はまって見ている(^'^)
ドラマ「朝鮮ガンマン」に直結する事件を起こした方もいらっしゃいます・・
https://www.twellv.co.jp/event/gunman/

皆さん、多数の方が旧岡原村(私の住む)に籍を移して活動されていました。
上記の「事件」に関係した方は生涯本籍を岡原村から動かす事が無かったと言う事です・・・

何故だろう??
何故?神殿原に関わった方々は、明治以降の激動の時代に
其々が歴史の中心域に名を残す事になられたのだろう・・・??

もしかしたら、絶対に触れてはいけないパンドラの箱なのかもしれない
そんな事を考えるのは私だけなのかなぁ・・・

最後は独り言のようになってしまいましたが(..)

開けて良いのであれば
このパンドラの箱ももっと調べて見たい!と言う好奇心はあります・・

球磨の内部構造が全国的にも非常に珍しい「古墳」等について書いたブログ
あらためましてアドレスは
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12345669084.html

でございます。
皆様方、よろしければご覧ください(..)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月27日 07時21分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

最強寒波が日本列島を覆っていますが
私の住むあさぎり町、今朝の最低気温は
−7.8度でした。
窓が凍って開きません((+_+))
球磨に戻って3回目の冬をむかえていますが
ほぼ毎日の氷点下の気温に身体が完全に慣れてきました。
朝の最低気温が0度の日に主人と交わす会話が
「今朝はあったかいね(^'^)」です・・・
小倉生まれの玄海そだち〜♪の主人が完全に球磨体質へと(現代の肥人体質)
変わって、氷点下の気温に慣れてしまったようです(p_-)
しかし・・・主人の御先祖様は
江戸時代までの小倉藩の庄屋家「中村家」で、縁戚の「望月家」から
主人の曾お爺さんが養子に入り「中村家」を継いだので
主人の血脈は紀氏族の滋野一族・・
球磨には御縁があったようです・・・
相良頼景。この方が球磨に来られた際に、「望月氏」は一緒に球磨に来られています。
以前は、どうしてなのか?意味がよく解らなかったのですが
最近は古代の遠祖に「地縁」があったからでは?と考え始めています(p_-)

義母や義母の兄(主人の伯父さん)、親戚の方に伺ったのは
主人の御先祖様は昭和の初め現在の小倉南区蒲生八幡の近くに住まわれていたと言う事は聞いていたのですが
主人の御先祖様「庄屋家 中村家」に関係があるのか?
小倉の大庄屋「中村家」についてネットで古文書が紹介されていました。
本当にビックリしました!

史跡訪問の日々様 サイトより
http://blog.goo.ne.jp/uemura1048/e/70d0e26c3790917a9607bcf54a6c834e

中村平左衛門は豊前国菜園場村(現・北九州市小倉北区)に生まれた。文化五年(1808)、十六歳で企救郡勘定役(人馬方)に就任した。文政五年(1822)、小森手永(手永とは小倉藩における行政区画のこと)の大庄屋に任命された。継いで富野手永、津田手永の大庄屋に転じた。天保六年(1835)、旱魃に悩まされていた下曽根村(現・小倉南区)のために大池を造成した。その後、京都郡の延永、新津両手永の大庄屋に任命された。安政四年(1857)、高齢と病身を理由に大庄屋退任したが、その二年後、城野手永の大庄屋として異例の再登板をすることになった。文久元年(1861)、ようやく退任が認められ隠居生活に入った。慶応三年(1867)、七十七歳にて没。平左衛門は、文化八年(1811)から慶応二年(1866)まで五十六年にわたって日記を残した。幕末期の小倉藩の政治動向や社会の様相が描かれた貴重な資料となっている。
 中村平左衛門の墓の隣には、平左衛門の息でやはり藩政時代に手永を務めたほか、維新後は企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧の墓もある(維新後、地名の津田に改姓)。

他、西日本シティ銀行様のサイトにも庄屋家「中村家」について記されていました。
http://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/019/

(゜-゜)
大庄屋「中村平左衛門」と言う方と、主人の御先祖様の繋がりは今の所
私は親戚に詳しく聞いていないので、よく解らないのですが
一つ聞いているのは
主人の御先祖様、戦国時代以前まで遡った方に白馬に乗られていた方がいらっしゃった・・と云う事です。

この「白馬」ですが
偶然か、平河義高、この方も白馬に乗られていたと言う事で
さらに宮原一族の八代氷川、宮原城城主「宮原公忠」、この方も「白馬」に乗られていたと言う事で・・・
何だか、「白馬」と言う言葉を頻繁に聞くのが不思議です・・

庄屋家「中村家」に「望月家」から養子に入った主人の曾祖父。
血脈で言えば、主人は「望月氏」のDNAがあり・・・
その主人と初めて会った時の椎葉のおじの言葉は
「●●ちゃん(主人)はこっち(球磨)の顔タイ(^'^)」
「こっちに(球磨)に戻ってきなったバイな!(^'^)」(球磨に戻って来られたようだ!)
でした・・・(p_-)
さらに、椎葉のふた従姉は
「わぁ〜初めて会った気がしない!懐かしい感じがする・・」
でした・・・(p_-)

でっ!その当人「主人」は以前から
「黒原山を見るとホットする」と言っています・・・(p_-)

人は確かに何かの記憶をDNAに留めているのでは?ないのでしょうか・・・
最近、色々調べていて、つくづくそう感じているのです・・・

父は日頃から私に
「宮原家を継いでくれた●●ちゃん(主人)にいつも感謝している」
「だからこそ●●ちゃん(主人)のお父さんやお母さんそして御先祖様に申し訳ない気持ちになる」
「●●ちゃん(主人)のご両親、そして御先祖様に感謝の気持ちを忘れないように」
と言います。

もちろん、私も同じ気持ちです。
毎朝、仏壇にお参りする時には主人の御先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしています。

人の縁とは本当に不思議なものです。
その御縁に感謝して日々を過ごしています。

最後になりましたが(..)
ブログの方で全国的にも珍しい球磨の植物や生物について書かせて頂きました。

@球磨では日本で初めて野生のモクセイ(中国原産)が発見されている。
A「ツクシガヤ」が国内で初めて球磨で発見された。
※「ツクシガヤ」は長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域、現在の「江蘇省」が中国での分布地であり、
日本国内ではごく限られた地域のみに隔離分布する。
★鹿児島県・九州の球磨を南端とした旧肥国(熊本・佐賀・長崎)・福岡県(旧筑紫国)・兵庫県南東部(摂津国)・奈良県(大和)・秋田県,山形県,福井県のみに隔離分布する。
B1973年に市房山で日本では初めて発見された「ゴイシツバメシジミ」(蝶)
※生息地は球磨郡・宮崎県・奈良県吉野郡のみ。

と言った事が解りました。
「ツクシガヤ」については
前原勘次郎氏が多良木町牛島集落で日本で初めてツクシガヤを発見した後、
当時日本の学者を驚かせ、1967年国立科学博物館では、再度写真入りで
中国大陸と日本との連携を示す植物として全国に紹介した。
と言う事も解りました。

詳しくはブログの方に書かせて頂いています。
皆様、よろしければご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12347579763.html

今までの私の調査で、無知識な私は
稲作について勉強した
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334764893.html

鉄について勉強した
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335294512.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335472032.html

と様々な角度から古代について基本的な事を勉強してきましたが
今回は植物・生物といった角度から古代を理解する事が出来ました。

記録が残らない古代。
今回の調査・勉強で様々な角度から古代を理解する事は非常に大事な事だと
あらためて考えました。

では。
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月28日 14時39分09秒 ) パスワード

皆様、今日は。

昨日、ご紹介した
B1973年に市房山で日本では初めて発見された「ゴイシツバメシジミ」(蝶)
※生息地は球磨郡・宮崎県・奈良県吉野郡のみ。

「ゴイシツバメシジミ」は局限分布の蝶です。
私は、さらに「ゴイシツバメシジミ」の国外生息地を追及して調べて見ました。
詳しくはブログの方に書かせて頂いています。
何故?「ゴイシツバメシジミ」に拘るのか?

それは、ブログの方でも書いたのですが
蝶が単独で、遥か遠く海を越えて日本のそれも球磨や奈良にピンポイントで飛んでくることなんて
想像出来ないからです!!!
きっと人の移動と共に海を渡って来た・・私はそう考えます。

今回の海外の生息地の調査は、かなり苦心しました。
特種な「蝶」と言う、情報はそれ程まで、一般の方が興味を持たれる事では
なく、
専門的な分野の方々の情報公開が少なかったという理由があります。
しかし、見つけました!
ウィキに記述があった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9F
★日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息する。天然記念物なのでもちろん採集はできない。国外では中国や台湾、インドのアッサム地方などにも生息している。
この国外では「中国や台湾」と言う記述。
場所を特定する事が出来ました。

やっと見つける事が出来ました!
1973年に熊本県の市房山で発見され、分布は局限されている「ゴイシツバメシジミ」
※日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息する。
海外の生息地は
台湾 台中県(現台中市)雪山渓
中国 浙江省龍泉鳳陽山
中国 浙江省遂昌県大西坑
でした。
詳しくはブログに書かせて頂いています。

国内の生息分布は
日本での生息地
※熊本県球磨郡:水上村、五木村、 あさぎり町上地区の白髪岳周辺や須恵地区
※熊本県上益城郡:山都町の内大臣峡(ないだいじんきょう)地区
※宮崎県:小林市
※奈良県:吉野郡川上村

国内の生息地はまとまっている
※球磨郡内の至る所で生息が確認。
※宮崎県小林市は白髪岳や黒原山の反対側(宮崎県側)。
※熊本県上益城郡:山都町内大臣峡(ないだいじんきょう)地区こちらは生息地の一つ球磨郡「五木村」と近い
すなわち、九州では球磨郡を中心域とした地域である。
※奈良県は吉野郡川上村(九州からかなり遠い)

と言う事が解りました。
国外での分布。インドアッサム地方については追って調べます。
しかし、
台湾 台中県(現台中市)雪山渓
中国 浙江省龍泉鳳陽山
中国 浙江省遂昌県大西坑

台湾経由か、もしくは浙江省から直接か?
いずれにしても、この地域から球磨に蝶が(ゴイシツバメシジミ)
海を渡って渡来したと私は推測しています。

中国 浙江省を調べた所
浙江省とは
※春秋時代の越国であり、戦国時代には楚に属した。
※三国時代には呉の領域に入った。
※五代十国時代には杭州を都とする呉越国が成立
※北宋が南渡して臨安(杭州)は南宋の都
※長江沿いの地域は日本の稲作伝来ルーツ地
★春秋時代の越国・戦国時代の楚国・三国時代の呉国の領域

と言う事が解りました。
非常に興味があるのは
戦国時代には楚、三国時代には呉の領域であったと言う事です。

楚国はウィキで勉強したのですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_ (%E6%98%A5%E7%A7%8B)

※楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。

※始祖は 熊繹
※国姓は 羋姓熊氏

覇者荘王と呉越の興隆
※6代目荘王の時代になると、強盛な楚は陳・鄭などを属国化して中原を窺うようになる。晋の大軍を邲(ひつ)の戦いで破り、春秋五覇の一人に数えられる。また、荘王の時代に楚は呉と同盟を結ぶ。

※覇権を得た楚であったが、荘王の次の7代目共王の代に、鄢陵の戦いにおいて晋に敗れて覇権を失ってしまう。
11代目の平王の時代に伍員(伍子胥)を国外に追放したことにより、伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭の軍に首都を陥落させられ、一時滅亡の危機を迎えたが、申包胥の必死の懇願により秦の援軍を取り付け、昭王が復帰することができた。

※紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。

★呉王闔閭・・闔閭(こうりょ、? - 紀元前496年、在位:紀元前514年 - 紀元前496年)は、中国春秋時代の呉の第6代の王。姓は姫。諱は光。家臣の孫武、伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の1人に数えられることがある。

★呉を滅ぼした「越」。その「越」を、滅ぼした「楚」。

※秦に仕えていた昌平君が項燕に奉じられて楚王と名乗るが、秦軍に鎮圧され、紀元前223年に滅びた。

以下、ウィキの記述を読むと
★始皇帝が死去し秦の政治が腐敗すると、陳勝が反乱を起こして張楚と呼ばれる国を建てたが、陳勝が敗北したために楚の旧公族出身である景駒という人物が、留で秦嘉(中国語版)と・君らによって擁立されて楚王を称した。
・・「景駒」 他に王家一族「景氏」・・「景」
★懐王の孫熊心を擁立して祖父と同じ「懐王」を名乗らせ・・「懐王」
など
楚の記述を読むと、妙に「見た事がある”文字”」が多いな・・・と?「熊氏」とか・・他にも気になるお名前、文字が・・・
「熊」「景」「懐王」・・何故だろう???

さらにゴイシツバメシジミの生息地「浙江省」は
三国時代には呉の領域でありました。
呉国(三国) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_ (%E4%B8%89%E5%9B%BD)

呉(ご、拼音: Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。
222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

呉国(三国)の記述は今後じっくりと読むつもりですが
とても気になる記述がありました。
★歴代皇帝 諡号『景帝』廟号 姓名『孫休』 在位 258年 - 264年
 

さらに気になる記述が最後に書かれていました。
関連項目 より
★倭人 - 戦乱などを避けて呉から日本に亡命移住したという説があり、
1999年には江蘇省と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したと報告されている。

あっ・・・
江蘇省とは南部を浙江省に接する長江下流デルタ地帯・・・
「ツクシガヤ」が国内で初めて球磨で発見された。
※「ツクシガヤ」は長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域、現在の「江蘇省」が中国での分布地であり、
日本国内ではごく限られた地域のみに隔離分布する。

どうやら、海を渡ったのは推測通り
「ゴイシツバメシジミ」や「ツクシガヤ」だけではなかったようです・・・


私はやはり
八代の球磨川河口に到着したかっぱさんがとても気になります・・・
球磨川の上流は球磨郡です・・
さらに球磨郡内の至る所でゴイシツバメシジミの生息が確認されています。
さらにさらに「ツクシガヤ」が球磨郡で自生している・・

球磨には・・・もしかしたら
異なる時代の其々の「呉国」が関わっているのでは・・・?

球磨の希少植物、希少生物を調べたら
ここまで解ってきました(..)

最後にブログアドレスをご紹介致します。

皆様、よろしければご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12348032549.html

では(..)
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月29日 17時41分16秒 ) パスワード

皆様、今日は。

新発見がありました。

まずは、「発見」の経緯からご説明致します。
相良氏について少し気になる事があり検索していた所
宮本常一氏著 書籍『山に生きる人びと』を偶然拝見する事が出来ました。
http://books.google.co.jp/books?id=vLw_DwAAQBAJ&pg=PT69&lpg=PT69&dq=%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F&source=bl&ots=APfhBMmNTd&sig=HE75tNX1zvSUAm1t58WUsl3cqWw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjB1YLEvfzYAhVCT7wKHdpLC_o4HhDoAQgoMAE#v=onepage&q=%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F&f=false

宮本常一氏著 書籍『山に生きる人びと』の中に
「太宰官内志」の記述がありました。

私は「太宰官内志」をぜひ読んでみたいと探した所
国立国会図書館のデジタルコレクションに - 太宰管内志. 下巻 がネット公開されていました。

早速、読んだ所・・・見つけたのは
知りたかった「相良氏」の記述ではなく
球磨郡久米郷の項に驚くべき記述が書かれていました。

国立国会図書館のデジタルコレクションに - 太宰管内志. 下巻
コマ番号 232 をぜひ、皆様ご覧になられて下さい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662

久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

★球磨郡久米郷・・・久米物部の住めりし處なるべし。

ビックリしました!
驚き過ぎて震えが止まらなくなりました!

太宰管内志とは
江戸時代の国学者「伊藤 常足(いとう つねたり)」が
福岡藩主・黒田長溥に献上。

伊藤 常足 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%B8%B8%E8%B6%B3
伊藤 常足(いとう つねたり、安永3年12月21日(1775年1月22日) - 安政5年11月19日(1858年12月23日))は、江戸時代の国学者、歌人、教育者。筑前国鞍手の人。号は槙家など。
経歴
古物神社に奉仕する神職の家に生まれる。亀井南冥に儒学を、青柳種信(本居宣長の高弟)に国学を学び、35歳を過ぎて京周辺に遊学、伊勢参宮を果たす。松阪を訪れて本居大平の門人となり、伴信友や足代弘訓と共に学び、香川景樹ら当時一流の文人と交際した。自宅に私塾を開き、国学・和歌を教え、桜井文庫の創設に関与した。天保12年(1841年)、68歳の時に『太宰管内志』全82巻を完成し、福岡藩主・黒田長溥に献上する。なお、長男の南華は画家として、次女のゆみは文学者として、孫の直江は国学者としてそれぞれ活躍した。

著作 『太宰管内志』 - 九州全域の詳細な地誌。

上記の『太宰管内志』に
球磨郡久米郷は『久米物部の住めりし處なるべし。』と記されていた・・・・
思いもよらぬ展開となりました。

久米物部氏とは饒速日尊に従い天降った武将・軍団の中の天物部(あまのもののべ)25部に含まれています。

邪馬台國研究本編様サイト
12.文献は語る −日本神話・その5
1.もうひとつの天孫降臨 の中に先代旧事本紀を参考とした記述に記されていました。

http://inoues.net/yamahonpen10a.html

3.先代旧事本紀巻第三・天神本紀 <饒速日尊、葦原の中国に降臨す>

先代旧事本紀の中で、天孫本紀、国造本紀と並んで重要視されるのが、饒速日尊の降臨伝承が載っている、この巻三・天神本紀である。三十二人の武将、五人の随行者、五集団の供、二十五の軍団、船長・梶取など六人の名前も見え、日本書紀・神武即位前紀にある「むかし天神の子・饒速日命が天磐船に乗って天降った」という記述を具体的なものにしている。またこの巻には、出雲国譲神話も収録されている。

天物部ら二十五部の人々が、同じく兵杖を帯びて天降り、仕えた。
二田物部(ふただのもののべ)。      当麻物部(たぎまのもののべ)。
芹田物部(せりたのもののべ)。      鳥見物部(とみのもののべ)。
横田物部(よこたのもののべ)。      嶋戸物部(しまとのもののべ)。
浮田物部(うきたのもののべ)。      巷宜物部(そがのもののべ)。
足田物部(あしだのもののべ)。      須尺物部(すじゃくのもののべ)。
田尻物部(たじりのもののべ)。      赤間物部(あかまのもののべ)。
久米物部(くめのもののべ)。       狭竹物部(さたけのもののべ)。
大豆物部(おおまめのもののべ)。     肩野物部(かたののもののべ)。
羽束物部(はつかのもののべ)。      尋津物部(ひろきつのもののべ)。
布都留物部(ふつるのもののべ)。     住跡物部(すみとのもののべ)。
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。 相槻物部(あいつきのもののべ)。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。  播麻物部(はりまのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

【天物部(あまのもののべ)25部】

1.二田物部 筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)。筑後の竹野郡二田郷とする説も。
2.当麻物部 肥後益城郡当麻郷。(大和説)葛下郡当麻郷。
3.芹田物部 鞍手郡生見郷芹田村。(大和説)城上、城下、平群各郡芹田。
4.鳥見物部 北九州の鳥美(登美)とすれば、豊前の国企救郡足立村富野とする説が有力。(現北九州市小倉北区富野)
馬見物部とすれば、馬見神社(福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群)(奈良説:奈良県大和高田市)
5.横田物部 嘉麻郡横田村。(大和説)添上郡横田村。
6.嶋戸物部 「島門は遠賀川西岸にある。埴生郷の北で垣前郷に属する村であろう。」(吉田東伍:大日本地名辞書)
高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡岡垣町)、
岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡芦屋町)
7.浮田物部 (大和説)添上郡浮田村。
8.巷宣物部
9.疋田物部 鞍手郡疋田。(大和説)城上郡曳田。
10.須尺(酒人)物部 酒人説は、須尺は、酒人の草書を見誤ったものとする。
11.田尻物部 筑前上座郡田尻村。(大和説)葛下郡田尻村。
12.赤間物部 筑前宗像郡赤間。
13.久米物部 ★
14.狭竹物部 鞍手郡粥田郷小竹村。
15.大豆物部 筑前穂波郡大豆村。
16.肩野物部 (河内)交野
17.羽束物部 
18.尋津物部
19.布都留物部
20.住跡物部
21.讃岐三野物部
22.相槻物部
23.筑紫聞物部 「聞」は、豊前の国の企救郡を指すと思われる。(現在の北九州市小倉区・門司区のあたり)
24.播麻物部
25.筑紫贄田物部 筑前の国鞍手郡新分(にいきた)郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)

まだ、詳しく邪馬台國研究本編様サイト
12.文献は語る −日本神話・その5 を読ませて頂いていませんが
他のサイトでは
久米物部 本拠地を伊予と推測されていらっしゃる方もいらっしゃいました。

しかし・・
「太宰官内志」では
和名妙に球磨郡久米郷あり
久米物部の住めりし處なるべし。

とあり、「あっ!」と叫んだ後、本当に驚き過ぎて声が出てきませんでした。

まさかの急展開です・・・

今晩、じっくり考えてみたいと思います。
しかし・・今まで物部氏に中々繋がらなかったので、(宮原の一族の系の縁から考えて)
やはり、このような急展開に頭の中が同様しています・・・
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月02日 10時00分04秒 ) パスワード

皆様、今日は。

コメント15で
「太宰官内志」球磨郡久米郷の項に
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

と記されていた事を知り、その後、久米物部について
色々調べてみました。
古代についてはブログの方で調べていますから、その流れから
詳細はブログの方に書かせて頂いています。
今回の調査、何度も何度も驚きで言葉が出なくなる事がありました・・・
調べた結果・・
球磨の久米物部。
古代の球磨と宮原の一族も含まれる「伊予橘氏」(物部氏の系でもあり紀氏の系でもある)は
無関係ではないと私は推測致しました・・・

皆様よろしければご覧ください。
ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12349112922.html

所で
「太宰官内志」には、球磨郡および周辺域の平家落人伝説にも言及がありました。
さらに、私の住む旧宮原村宮麓集落内にある切畑神社についても記されていました。
この事も非常に驚きました。
この件はまず最初に、一番に、こちらのスレッドに書かせて頂きたい!と思い
御紹介させて頂きます。
長くなる事をご了承ください。

国立国会図書館のデジタルコレクション - 太宰管内志. 下巻
コマ番号 230 以降に球磨郡について書かれていました。
PDFに落とし印刷をしてじっくり読んでみました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662

@熊縣熊津彦について
阿蘇都(津)彦・阿蘇都(津)媛・宇佐都(津)彦・宇佐都(津)媛
兄夷守・弟夷守なども同列なり
と記されていました。

A女良(米良)主膳 平重盛ノ裔 の記述について
太宰管内志より転記します。
扶桑紀勝五巻に 中略・・この領主(米良の領主)女良(米良)主膳といふ小松ノ重盛の遠孫と称して人に屈下らず
年始に相良家に行て賀するに相良家又是を敬せらる主膳は屈せず三年に一度江戸に参勤して相良家の第に居る将軍家お目見をゆるさる
勃女良(米良)にて上使に封せし時は烏帽子下垂を着して上使と同位の體をなす
江戸に行ては俗に随って肩衣装を着る相良家の取次なり此處の人里中の外に婚姻をむすばず常足按ずるに同じ平家の落人の中にも奈須は妻良氏にて玖麻に参勤し五家山は熊本に参勤するなるべし

★米良氏は妻を菊池武重の娘とされた懐良親王の御子、「源良宗」の系「米良氏(源姓)」と、米良に逃れた菊池氏二十二代菊池能運の子息「重次」から始まる「米良氏」の二系がある事は知っていたのですが
米良主膳、この方が小松ノ重盛(平重盛)の遠孫を称していらっしゃったと言う事は初めて知りました。
ただ・・・米良氏の中には椎葉村に移った庶家もあり、椎葉の「平家落人」の方々との姻戚関係もあるので、母系を指す・・と云う事も考えられるのでは?
と・・・

B五家山(五家荘)について
西遊記に 中略・・平家の人々此處にかくれて其子孫年々に繁茂して数千 萬人となる中略・・
五カ山より五人組頭分の者替る替る年始の禮詞をつとむる為に熊本に来る
五人の者其地を五ツにわけてたもつ
其人皆純朴にして武をはげみ男子皆長き大小を横たふ 自平家高貴の人の子孫を高ぶりて人を軽んず(軽んじず)此地■なければ近比迄数百年の問題を喰?ふ者なかりしと中略・・
此地別に君とよふ者もなく年貢を納むる事もなく皆穀物は其地廣ければ手柄次第に作り取りなり又賦役といふ事もなし
夫故人の心すなほに衣食も足りて争ひいかる事も(争い怒る事)なく上古の世に似たり又平家伝来の寶物甚多し

★五家山の方々は自ら平家の高貴な方の子孫であると云う事を高ぶることもなく、人を軽んじる事もなく、武にいそしみ、心が素直である・・・とても素晴らしい事だと思いました。
さらに『平家の人々此處にかくれて其子孫年々に繁茂して数千 萬人となる』
この記述ですが、数千 萬人とはいささか多すぎかとは思いますが、おそらく緒方家の子孫の方々では?と推測しました。
八代地方に多い緒方氏と、球磨の緒方氏・尾方氏の事ではないか?と・・・
※平家伝来の寶物甚多し

C椎葉村(奈須山)について
西遊記に肥後國五カ村の南につらなりて奈須と云所あり是も同じく平家の人々のかくれがにて五カ村同前の所なり中略・・
球磨の城下よりは東北の方にあたる。球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しより那須氏も出て客分の列に成りて久しく城下にありしが終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る
夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
此の地を那須と云よしは平家赤間■没落已後此山中にかくれすむよし、鎌倉に聞こえしかば頼朝卿より那須與市宗高が舎弟何某に命じて平家の余■追伐のために肥後に下し給ふ
那須氏此地に下りて見るに平家の人々いとかすかなる體にて二度事を起こすべきさまにあらねばあはれとかおもひ数ならぬ雑人の首少々切て鎌倉にのぼせ平家の余■悉く亡ほし候由鎌倉に披露す
平家の人々には皆那須の苗字ゆづりあたへて己か家族なりと披露す
自らも久しく其地に住けり故に平家の子孫つつがなくつたはり那須の子孫もつたはりて二家に那須を名のる
此地元来名もなき深山なれば初めて住所をなせる人々の氏をそのままに地名となせり
又斎(イツキ)谷椎葉山など云所あり皆昔の落人のかくれかの跡なりと云

★椎葉村(奈須山)に関しては非常に驚きました・・・
五カ山・椎葉村(奈須山)の記述は「西遊記」に記されている内容のようです。
東西遊記 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E9%81%8A%E8%A8%98
江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき[1])』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。
両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた。
橘南谿は確かに球磨郡に来られていらっしゃいます。
以前、ブログに書いた『球磨村神瀬鎮座 磐戸熊野座神社』ブログにはアップしていませんが、手元には『天明3年(1783年)に此の地を訪れた橘南谿が、西遊記の中に磐戸熊野座神社の洞窟について書かれている』といった内容が書かれた神瀬の石灰洞窟の説明板の写真があります。

驚いた理由は
椎葉村(奈須山)に関して相良藩史の数々には一切記載されていない事が書かれてるからです。
椎葉村(奈須山)の平家の落人の方々に『須與市宗高の舎弟何某』に皆那須の苗字を譲り皆は自分の家族です!と披露した事。
※自らも久しく其地に住けり故に平家の子孫つつがなくつたはり那須の子孫もつたはりて二家に那須を名のる
『須與市宗高の舎弟何某』と云う方は椎葉村の伝承では「那須大八郎宗久」。
『須與市宗高の舎弟何某』と云う方のお陰で平家の子孫が後世まで恙無く(つつがなく)伝わった・・・
心がじ〜んとしました・・
しかし・・・
椎葉村(奈須山)の記述でもっとも驚いたのは、その那須氏と相良氏との関係です!
一切、外部いえ内部にも知られていない(相良藩の史誌には記載されていない)事!
『球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しより那須氏も出て客分の列に成りて久しく城下にありしが終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る』
※球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しよりとは、
天明3年(1783年)に橘南谿が球磨を訪れた500年前、すなわち1200年代。
年代から推測すると球磨の城主(相良氏)の先祖とは「相良長頼」。
「相良長頼」が球磨に入部された時から椎葉村の那須氏(那須某氏から那須の苗字を譲られた平家の方々の一部)も椎葉山(那須山)から球磨に出てきて客分の列に加わった!
そんな事!一切、相良藩の史誌には記載されていません\(゜ロ\)(/ロ゜)/
※終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る
数十代とはかなりの年月『つつがなく仕へ来る』と言う事です。

私はこの記述を読んだ時に本当に驚いて鳥肌が全身に立ちました・・
皆様、ご記憶でしょうか?私が昨年の夏、こちらのスレッドに書いた祖母の実家の言い伝え・・・
先祖は『相良さんが来られたから山から下りて来た』と言う話を・・・
この時、私は戦国時代の事か?と推測しておじに聞いた所、「違う!相良さんがこっちに来られた時!」と言われていました・・
祖母の先祖からの伝承と橘南谿が書かれた「西遊記」の内容が一致している・・・・
どういう事なのだろう・・
ただ・・・祖母は私に「家(祖母の実家の岡原平川家)は平家だった」と言っていました。
弟も亡くなるまでその事を言っていました・・・
親戚は今でも「みなみ(祖母の実家の岡原平川家)は平家だった」と言っています・・・
確かに、「西遊記」の内容と祖母の実家の伝承は一致している・・・
しかし、相良藩の史誌では相良藩内において「那須氏」の名が登場するのは戦国時代からです。
それも椎葉山(那須山)在の「那須氏」からです。
鎌倉時代に相良氏球磨入部後、椎葉山(那須山)から降りて来て客分となった平家の方々の「那須氏」。
つつがなく数十代に渡って相良氏に仕えたと言うその「那須氏」の名は一切登場していない・・・
何故????何故???

推測出来る事の一つは・・・“その那須氏”が別の姓を使っていたか?

さらに、推測出来る事は
相良氏は上記の事を隠し通した・・・と言う事です。

他、とても気になった事があります。上記の椎葉山から下りて来た「那須氏」の方々が
※夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
『平家相傅の寶■杯』(■の文字は表示出来ませんでした)
私がこちらのスレッドをお借りして、先祖の調査を始めたばかりの頃、書いた事ですが
生前の祖母の元へ、祖母の実家の当主(祖母の長兄の長男、私の父の従兄)が来られて
歴史研究家の方が家に訪ねて来られて祖母の実家の事を色々話された時に
「剣(刀)が家に伝わっているはずだ」と聞かれたので、おじが今はもう無いと言う事を伝えると(祖母の長兄が戦時中、朝鮮半島に居た某方に渡した)
その歴史研究家の方が
「本来ならば国宝級の剣(刀)なのに!何てことを!」と非常に残念がっていらっしゃった
と言う話です。
私は国宝級の剣(刀)とは一体何なのだろう?と、こちらのスレッドで疑問を書いていたのですが、それ以降、この事はあまり考えてはいませんでした。
しかし、五家山の平家落人の方々と、椎葉山(那須山)から、相良氏の入部後に降りて来られた同じく平家落人であり那須の姓を譲られた「那須氏」の記述にあった
※平家伝来の寶物甚多し(五家山)
※夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
を見て、祖母の実家に伝わっていた「本来ならば国宝級の剣(刀)」の話が頭に浮かびました・・
祖母の実家に伝わっていたのはこの「国宝級であった」と言われた剣(刀)と
数巻の絵巻物でした。しかし、この絵巻物は当主以外は決して見てはいけない物でした。
ただ、その絵巻物の一つを見てしまった人がいました。
その絵巻物に書かれた「男の子」は美しい着物を着た女性と共に描かれていて、周りには従者の方々が描かれていたそうです。
絵巻物を見てしまった人が、『見てしまった事』を当時の祖母の実家の当主に素直に話し、詫びると
「この男の子が家の御先祖様だ」と言われたそうです。
さらに、その絵は「平川家(祖母の実家)の先祖の家にその“男の子”が来られた時の絵だ」と教えてもらったそうです。
しかし、その絵巻物は火事で燃えてしまいました。
この絵巻物の話。本来ならば祖母の実家の当主となった人のみしか知ってはいけない話だったのですが・・・
その絵巻物を見た人が次の代の方にも伝えて・・・結局その「次の代」の方が祖母の姉妹にも伝えて・・・と言った具合に親戚が知る事となりました(トホホ)
その「次の代」の方が祖母にコソコソとこの話を伝えているまさにその時、私の父も近くにいて、立ち聞きしてしまい・・・
後でその事を祖母に聞くと「お前は知らんでいいと!」と、すごく叱られたそうです。
私はこの話、冷静に考えて・・・きっと何処かで伝承が変わったのじゃないのかな?と推測しています。
その“男の子”がどなたなのか?は解りませんが、
「平川家(祖母の実家)の先祖の家にその“男の子”が来られた時の絵」の話がいつの間にか
「その“男の子”が御先祖様だ」と言う話に代わったのではないのかなぁ・・・と。
私はそう推測しています。

太宰管内志にあった西遊記の記述等とどう繋がるのかは解りませんが、もう一つ気になる事があります。
この話も以前、こちらのスレッドで書かせて頂いたのですが・・
私が球磨に戻って来たその年の秋、地元の歴史研究家の方から伺った話です。
私が住む旧宮原村の宮麓地区の古老の方が聞いていたと言う“伝承”を教えて下さったのですが、その話とは
『ここ(宮麓)には最初に平川家が来られた。平川さんは相良さんに土地とお金を頂き“ここで大人しくしていて下さい”と言われて来られた。
その後に星原家が来られた。平川さんは星原さんに土地を分けてやった。
最後に来られたのが宮原家だった』
と言う内容でした。
私はこの話を聞いた時に、自分が知り得ている相良藩・球磨郡の史誌等の内容とは異なっているので、妙な伝承だなぁ・・・と思っただけで
深く考えた事はありませんでした。
しかし・・・今回、太宰管内志を読んで、この“伝承”、もしかしたら非常に重要な事ではないのか?と考えるようになりました・・・

太宰管内志には、その私が住む“宮麓”集落の切畑地区についても書かれていました。
此の事も非常に驚きました・・・

D私の住む集落“宮麓”切畑地区について
太宰管内志より
西遊記に景清か墓は日向ノ國にありて世の人の知る所なり然るにいかなる故にか景清か母は玖麻の人吉城下より五六里ほど東の切幡村(きりはた)村に祭れり
此所に景清か娘のはかもあり切幡神社(切畑神社)とて一村の神に祭れり
此村甚盲人をいむ座頭たる者は他所よりも入来る事ならず
もしおして(押して)いる時(入る時)は惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり
世にいふ如く悪七兵衛景清に盲人と成し故にや

★以前から何度も書かせて頂いている切畑大明神(切畑神社)の御祭神として藤原景清(平景清)の母君が合祀である・・と言うお話です。
太宰管内志にも書かれていたとは驚きました・・・
景清姫のお墓も切畑地区にあります。お墓をお守り続けていらっしゃるのは切畑地区の宮原家の方です。
さらに切畑大明神(切畑神社)の代々の宮司家一族が、家の親戚の星原家(本姓大神氏)です。
ブログにも写真をアップしていました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html
家の宮原家に養女に入った私の祖父の従姉。嫁ぎ先の星原家の御先祖様は写真の中央
『奉切畑社人 星原権大夫大神惟吉』と言う方です。
『星原権大夫大神惟吉』と言う方の非常にりっぱな大きな御位牌が星原家にあります。
この御位牌、実は、上記の星原家の現在の当主であるおじさんが、私に見せたい!と何故か?家にわざわざ持って来られた事がありました。(おじさんはテーブルに御位牌をポンと乗せられたので、私はビックリして、そこで思わず手を合わせました・・・面白い親戚が多いのも家の特徴?かな・・・)
(このおじさんのお父さんの弟が、私の祖父の従姉の夫となる方で、このご夫婦が、私の祖父母が中国に渡る時に、宮原家の全てを継いで下さりました。)
この星原家は宮麓地区の古老の話では、祖母の実家の「平河氏」が相良氏に「ここでおとなしくしていて下さい」と言われて宮麓に来られた後に、この地に来られた星原家です。
私は、御祭神として藤原景清(平景清)の母君をお祀りの切畑大明神の宮司家が星原家であった事も本当は重要な意味があるのでは?と考え始めています。
星原家は本姓大神氏。球磨近隣の大神氏と言えば宮司家尾方家。
家の親戚の尾方家は代々宮司家で『本姓大神 氏尾方』15代前の方の名は「緒方太郎右衛門(元禄十二年)」。代々「惟」と「清」の通字を持つ方々です。
15代前までは「緒方氏」でした。
緒方氏と言えば、先のB五家山(五家荘)についてで書いた『平家高貴の人の子孫』と太宰管内志・西遊記に記された「緒方家」。
私は太宰管内志を読んで、家の親戚関係、全て太宰管内志記載の内容に繋がっているのではないか?そう考えはじめました・・・

さらに切畑地区の伝承には、恐ろしい事も記されていました。
『此村甚盲人をいむ座頭たる者は他所よりも入来る事ならず
もしおして(押して)いる時(入る時)は惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり』

父とも話したのですが、このような言い伝えは聞いた事がありませんでした。
(黒猫を切畑では飼ってはいけない・・の伝承は800年近く受け継がれていますが・・・)
今から300年近く前までは残っていた伝承のようです。
ただ・・・普通は怖い伝承・・と言う事で終わりそうなのですが
私は、この伝承の奥を考えたのです・・・
目の不自由な方(盲目の方)は切畑には入ってはいけない・・・
もし、この事が鎌倉時代初頭からの伝承であれば・・・どうなのだろう?と・・・
『他所よりも入来る事ならず』
すなわち目の不自由な方(盲目の方)が他所から切畑には入ってはいけない・・
鎌倉時代初頭で目の不自由な方々で(盲目の方)他所に移動する事が出来る方々とは・・・?
もしかしたら・・・琵琶法師の方?
琵琶法師の方は切畑には決して入ってはいけない。もし押して入り来ることがあったならば惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり。
考えすぎでしょうか・・しかし・・・此の地は平景清(藤原景清)の母君、姫君が来られた土地。
さらに、お供の方のお墓もあり、さらに切畑にほど近い親戚の椎葉家では此の地でお亡くなりになられた「平家十八の神」をお祀りさせて頂いています・・・

でも、もし琵琶法師の方を指すのであれば、何故?此の地に入って来てはいけない!と言われているのか・・・・

考えると頭が混乱します・・・

混乱しながら、頭に浮かんだのは宮原観音堂の御詠歌です。
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる(井口武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや  のはらのかぜに 明日も散りなん(井口美辰)

共通の言葉は『露のみや』『野はら』
最も気になるのは 『うき身も終の 宿ぞここなる』
うき身とは『憂き身』・・?『憂き身』も終の宿ぞここなる・・・
『露のみや』・『野はら』・『うき身も終の 宿ぞここなる』・・・
以前から考えていたのですが、此の地にはやはりどなたか来られて、終の宿、すなわちここに住まわれたのはないのでしょうか・・・?

皆様、
非常に長くなりました申し訳ございません。
ただ、私は今まで自分なりに調べて来た事、幼い頃から聞いてきた事、等
それらは全て、太宰管内志を読む為のステップだったような気がしています。
まだまだ、気が付いていない事が多々あると思いますので、これからも、太宰管内志の記述の検証は続けて行こうと思っています。
少しだけ・・・平安時代以降の自分の先祖の姿が見えてきたのかもしれません・・・

では(..)

[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月03日 11時32分10秒 ) パスワード

皆様、今日は。

昨日のコメントに書いた切畑大明神(切畑神社)のお話追記します。

切畑神社が岡原霧島神社に合祀された後
藤原景清(平景清)の母君の御魂、そして景清姫の御魂は
現在、切畑地区にお堂が建てられて
そちらでお祀りになられています。

年に一回御供養祭りがあります。

その時のお参りの際の礼儀は
『決して自らの願い事をしてはいけない』
と言う事です。

あくまでも、お二人の御魂に礼を尽くす
と言う事に徹してお参りをする
それが、習わしです。
(集落の方や、父に聞きました)

さらに、もう一つとても不思議な話が集落にあります。
平成の世になってからの出来事です。

お堂の横に建立されていた景清姫のお供の方のお墓を
「集落内のお寺にて御供養しては」と言う話が出て
お墓を動かす事になったのですが
いざ、移築となったその時
お墓の石を動かそうとしたら、それほど大きくない石が
突然重くなり
大人3人がかりでも重くて動かす事が出来ず
何人もで抱えようとしても重くて動かず・・
お寺の方と集落の方々がその場で
「お供の方は姫様のもとを離れたくないと言われていらっしゃるのではないか」
と言う事になり
結局、お墓の移築は行わない事となりました。

平成に入ってからの話です。
現代でも、こう言う事が本当にあるのだと
集落の方はつくづく
お供の御方の姫様に対する忠義の心に
とても感動されたそうです。

このお話は集落の方々、殆どご存知です。

(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月25日 16時02分20秒 ) パスワード

皆様、今日は。
久しぶりにコメントを書きます(..)

今朝、松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方で
白石様からのコメントに対して、私の今の頭の中に描いている事の一部を
書かせて頂きました。
この事を引き出して下さったのは白石様です。
白石様には感謝申し上げます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_57.html

白石様がこちらのコメントをご覧下さっている事を祈りながら
白石様、皆様
今朝、松葉宗益 後裔 平賀氏について3のコメント56・57で書いた事。
その中で書いた「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」について
ブログで書く前にまず、皆様に御紹介させて頂きたい事があります。

私はこちらのスレッドをお借りして、調査を数年間続けさせて頂いている中で
何度も「三浦氏」について書かせて頂いてきました。

@平河氏の訴訟に関連した法名観蓮と言う人物。
※法名観蓮とは佐原時連の法名と同じである事。
A佐原氏と相良氏は姻戚関係が存在している可能性が高い事。
※相良長頼の兄弟に佐原頼忠あり。
B平河氏が居城した木上城(岩城)は平河氏の後に窪田(久保田)氏が城主となり
窪田(久保田)氏の元へ、南朝方であった「新宮氏」が来られた事。
※佐原時連の後裔にも新宮氏あり。
C遠江国笠原庄。三浦義明の子「佐原義連」は紀伊、和泉両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所でもあった事。
※遠江国笠原庄に平川あり
Dうちの親戚の椎葉家に丸に三つ引き紋の和鏡が伝わっている事。
佐原氏の家紋 ウィキhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E6%B0%8F

等、様々な事をこちらのスレッドで書かせて頂いていました。
さらに
E家の縁戚関係には平良文流「中村宗平」を祖とする「土肥氏」・「土屋氏」がある事。
F宮原の一族の先祖「橘公業」の後妻は梶原景時の孫娘にあたる方である「梶原景高の娘」である事。
※梶原氏は三浦氏と同じく桓武平氏平良文流。
G同じく宮原の一族の先祖「橘公綱」の母は豊田五郎景基の娘であり、長尾氏の可能性が高い事。
※長尾氏も三浦氏と同じく桓武平氏平良文流。
等も書いてきました。

皆様、
「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」ウィキの記述をもう一度
こちらに転記します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F

大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の豪族で源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫である。
三浦氏は宝治元年(1247年)に法華堂にて一族のほとんどである五百余人が自害して滅亡したが(宝治合戦)、三浦員村(自害)の次男盛明は無事であり、その子義継は相州三浦郡石井庄(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある)に居城し石井と号した。
石井氏は宝治合戦を生き延びた三浦氏の一族であるが、建久3年(1292年)、大隅守護職は千葉氏から北条氏に代わっていることから、北条氏の御内人となり垂水地頭として赴任してきたものと考えられる。
鎌倉時代末期(1330年頃)、義継の子石井重義が下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。


『橘氏との関係』の項の記述です。

ウィキより
義継以前の石井氏の系図をさらに遡ると為通のところに「此時三浦と号し始め」とあり為通が三浦氏の初代となっている。その為通の父忠通についてであるが、平良文の末子ということになっているが、父である平良文の没年(天暦6年(953年))と子の三浦為通の生年(寛弘7年(1010年)頃)から推定して、平良文と忠通の間に実の親子関係があった可能性はほとんどないものと思われる。

系図には忠通のところに源頼光朝臣四天王也と記載されている。
源頼光四天王の一人に碓氷貞光という人がいるが、最近の研究で、この人物が忠通又はその父親であったといわれている。
碓氷貞光(橘貞光)は、碓氷貞光霊社の霊社記によると、碓氷周辺を領土とする武将であった橘貞兼の子で、姓橘氏、代々文武の誉れ高い家柄であったという。碓氷峠山中にて生まれ、その後京に出て活躍、源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治などで活躍した。

このことから、宝治合戦を生き延びた数少ない三浦氏嫡流の末裔である石井氏は、本来橘氏の子孫で、何らかの事情で平姓を名乗る前は、橘姓であったのではなかろうかと推定される。
橘紋を定紋として使用している石井家が現存しており、家紋がより真実を物語っているのかもしれない。また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。

さらに平姓石井氏略系図 をご覧ください。
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─★為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村―朝村─員村─盛明─★義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)─2.重信─3.久義─4.孝義─5.元義─6.重義─7.義春─8.義定─9.義辰─10.義高─11.義泰(鹿児島移住)─12.義知─13.義家─14.義教─15.元明……才援─元亭(医師)─元信(教育家)

ウィキの記述から推測すると上記の系図は
平良文─忠通(橘貞光)─★為通(三浦姓)となります。
三浦姓を名乗られた為通と言う方が三浦を名乗る以前に「橘為通」であったと
推測した場合・・・

皆様にぜひご覧頂きたい系図があります。
日本の苗字七千傑様 【良峰氏】(良峯氏)姓氏類別大観です。
良峯氏は椋橋姓の丹羽玄理以降、一度良峯に復姓して、すぐに「橘姓」に変わっています。
橘姓に変わって二代目の方の名前に着目して下さい。
日本の苗字七千傑様 【良峰氏】(良峯氏)姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm

「橘為通」です・・・・・・

「橘為通」(椋橋氏・良峯氏・丹羽氏)については大田亮博士も姓氏家系大辞典の遠江橘氏の項のすぐ横に
書かれていらっしゃいました。

私はこの事を単純なる偶然とはどうしても思えないのです。
何故ならば
@平河氏(良峯姓)と相良氏と佐原氏(三浦氏)との姻戚関係。
A1年以上前にこちらのスレッドに書いた橘薩摩一族と書かれていた
「橘為通」後裔の「橘公兼・橘公俊」この方々と橘薩摩氏との関係。
B橘薩摩一族と平良文・平忠通(橘貞光)後裔との姻戚関係。
これら@ABが全て、偶然とは思えない理由です。

さらに「石井氏」は私の住む旧宮原村宮麓地区に住されていました。
稲積妙見の由緒がちゃんとその事を伝えています。

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門 ★@
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
★A宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)


★@椎葉久左衛門  
★A宮守石井太郎兵衛

皆様、もう一度「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」ウィキの記述をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F

石井を名乗られた義継と言う方の通称は「石井太郎」です。
さらにウィキの系図考察を見ると
義継(石井太郎)以降7代目の「義治」と言う方以降、大隅(薩摩)石井氏嫡流は『子孫不明』となっています。

明應五年(1496年)球磨郡久米郷宮原の稲積妙見の宮守は
★石井太郎兵衛

さらに中興した人物の中に薩摩・大隅に勢力を持っていた「最取式部少輔綾(アヤノ)末繼」こと税所末継、「税所氏」の名が残されています。
私はこの事も決して偶然とは思えません・・・・

★@椎葉久左衛門  
★A宮守石井太郎兵衛
★三浦氏から改姓「石井義継(石井太郎)」 嫡流は7代目以降行方不明・・・

椎葉家には丸に三つ引き紋の和鏡が伝わっている・・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html

今までずっと調べ続けていた「謎」の一つがその前にあった重たいカーテンを
大きな風が開いてくれた
そう願いたいと思います・・・

私の住む集落に住していた本姓三浦氏は「石井氏」だけではありません。
馬鞍金兵衛と言う方もその一人です。
馬鞍氏(馬倉氏)も、実は「三浦氏」がその系を継いだ方々でした。
(以前、コメントを書いています)

この事も、橘氏と三浦氏との関係を暗示しているのだと思います。

ただ、今日書いた事は単純な話ではないと・・そう考えます。
おそらく・・・古代が深く関わっていると・・・
その事は今朝、白石様宛てに書いた私の言葉通りです・・・

皆様
最近、ブログと並行して調査を進めていました。
こちらのスレッドを介して、拙い私を応援して下さって頂いている皆様には心から感謝申し上げます。
さらに、ブログの方でも、私を応援して下さっている方々が沢山いらっしゃいます。
本当にありがたい事だと心から思います。

今回書いた事を含め、私の頭に中にある事を「一つ一つ」まとめて精査しながら
ブログの方へ書いて行くつもりです。
進捗情報は必ず、こちらに御紹介させて頂きます。

これからもよろしくお願い申しあげます。
[19]たけぽんさんからのコメント(2018年02月27日 14時56分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
長らくこちらに来れなくて
すいませんでしたm(_ _)m

年はじめから寒さとインフルエンザで
身体がショートをおこしかけ
やっと馴れて来たと思ったら
今度は杉花粉(>_<)

まだまだ試練が続きそうな
予感です(苦笑)

ミヤハラ様はお体の具合いは
如何ですか?(・・;)

少し来れなかったですが
こちらの調査の方は
またしても色々順調に進んでる
様ですね(^-^)

もう少し体調が良くなったら
じっくりと読んで勉強させて
頂きますm(_ _)m

いつも、ミヤハラ様の調査に
頭が下がります

うちも、まだまだ
ミヤハラ様に追い付ける位には
頑張らなくては(-_-;)(汗)
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月28日 05時14分54秒 ) パスワード

たけぽん様 お久しぶりです(^'^)

インフルエンザの後に花粉症・・

実は
そろそろ花粉症の季節で、たけぽん様お辛いだろうな・・・と
最近、思っていました・・・
(去年も体調をくずされていた事を記憶していました(..) )

待ち遠しかった春を迎えるのは嬉しい事ですが、
花粉症をお持ちの方は一番苦しい季節ですね
花粉症が引き金になって、体調がすぐれなくなるのは
尚更、きついですね。
御無理なさらないで下さいね。

インフルエンザと言えば、実は家も主人が治った後、
2週間くらい後に父がかかったのです。
主人はA型で父はB型でした。
二人とも、外出時は必ずマスクをしていたし、手洗い、うがいもちゃんと・・・
今年のインフルエンザは何と言うか・・・感染力がすさまじかったですね
しかし・・・二人の看病をした私には
うつりませんでした\(◎o◎)/!
2回とも病院では「奥さん(娘さん)も感染していると思います」
と言われたのに・・です。
一番身体が弱い私なのに・・・何故だろう?と思ったのですが
おそらく・・・寒波に対応出来る「肉襦袢」がしっかり付いていたからだと
そう思います(p_-)
・・・・・・・・・・あはっ( ^)o(^ )

父のインフルエンザ・・何だか家らしい?エピソードがありまして・・
父はその症状「しゃっくり」から始まりました(p_-)
「しゃっくりが止まらなくなった」のです。
ある日・・突然しゃっくりが始まって・・・中々止まらない・・
でっ!私はネットを駆使して「止まる方法」を父に試してもらったのですが・・
止まらない・・
まる一日経過しても止まらない・・ので「病院に行こう!」と父に言っても
「大丈夫!(-.-)」と頑固・・言う事を聞かない(ー_ー)!!
主人も「お父さん病院に行った方が良いですよ」と優しく言っても
「大丈夫だから」と聞かない(ー_ー)!!

二日目には「薬を買ってこい!」と私に・・
ここでも「病院に行こう!」と言っても・・言う事を聞かない(ー_ー)!!
この時に本人は「少し風邪気味だ」と言っていました・・
「熱を測って!」と行っても
「熱はない!(ー_ー)!!」と測ってくれない・・
病院には行かない!の一点張りで・・とは言っても、大騒ぎで・・
私は心配で心配で・・
しかし、歳を重ねると、人はこうまで頑固になるのか?と言うくらい
私の言葉を聞いてくれませんでした(@_@。
三日目・・(普通の人はこの時点ではすでに病院に行ってるはずなのに)
父は「私が暖房をケチっているから部屋が寒い!だからしゃっくりが止まらない」と
訳の解らない事を言って怒りだし・・
寒い寒い((+_+))と・・
暖房はちゃんと入っているのに・・それに言う事が「理不尽」な事ばかり・・
でも、いつもはこんな父じゃないのに・・・
そこでついに!私は頑固な父に我慢の限界が(>_<)
「どんなに心配してると思ってると!娘の言う事を全く聞かないで!」
「こんな事だったら、私達がここに帰って来た意味がないでしょう!!」
「今すぐ熱を測りなさーーい!!」(−−〆)
と大きな声を出してしまいました。
「ひぇ〜!お前は怒るとばあちゃんや曾ばあちゃんみたいだ、怖いよぉ・・」
と言う父に対して無理やり熱を測ると・・38.8度
「おっお父さん!!」\(゜ロ\)(/ロ゜)/
父も自分の熱にビックリ!
すぐに病院へ・・(初めから素直に聞いてくれていたら・・・)
早速インフルエンザの検査。
しかし・・結果待ちの間、ずっと
「お父さんは若い頃身体を鍛えているからインフルエンザにはかからない(ー_ー)!!」と・・
そして
結果は「B型」でした・・・

私は、父が高齢なので肺炎を併発していないか心配で
「ああ・・もっと早く連れて来れば良かった・・」と反省。
そんな私に父は
「お前がネットでしゃっくりが止まる方法を調べた時にインフルエンザの症状とか書いてなかったのか?」
「お前の検索不足だなぁ(p_-)」と言うので
私は・・ギロッ(;一_一)・・ピッキ〜ンとキレテ(−−〆)
テーブルをバーン!と思わず叩き・・
低い声で「これからは娘の言う事はちゃんと聞く事!解った!」と言うと
「はい(..)」と言っていました・・・
帰りの車の中で父は
「やっぱり、怒ると怖い・・怒ると怖いのは遺伝だぁ・・」と
独り言を繰り返していました
(−−〆) (-_-)/~~~ピシー!ピシー!

ありがたい事に肺炎を併発する事はなかったのですが
しゃっくりが止まったのは、解熱後二日目で・・
このしゃっくり約1週間続いていて、本当に苦しそうでした。
(その間、救急外来にも心配で連れて行きました)

治ったら、いつもの父に戻り、そんなに理不尽な事は言いません・・
(あの頑固も症状だったのか?(p_-)・・・(ー_ー)!! )

父も反省してくれて
先日も、別の件ですぐに病院に行ってくれました(^'^)

だけど・・・主人や会う親戚達に「私は怒ったら怖い(@_@。」と言うので・・
止めて欲しいです(;一_一)
(皆、笑っています)

今回は父のしゃっくり騒動を書きましたが
マダマダ、宮原家の面白騒動は続きます(^O^)/
じゃなかった(ー_ー)!!
マダマダ、御先祖様の調査、精力的に頑張ります(^O^)/

たけぽん様
いつもの合言葉(私はいつも心に(^'^))
無理せず出来る事をボチボチ頑張りましょう(^O^)/

たけぽん様も無理をなさらないで下さいね。
お互いに身体は十分に気を付けましょうね(^'^)
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月09日 10時42分42秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

今朝、過去の私の調査を御検証下さっていらっしゃる方のサイトを
発見致しました!!
とてもビックリ致しております。
資料の声を聴く様 サイト 近衛中将藤原実春について
http://zisaku.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-ff32.html

御検証の結果は
「私の推理は当たっていたようです」(^'^)

鎌倉時代の平河氏の訴訟の相手は
「徳代寺実春」に間違いないようです(-.-)

やった!!\(^o^)/

ここで(..)
資料の声を聴く様
私の拙い調査、ご覧頂きまして本当にありがとうございます。
これからも、私は先祖の調査に励んでまいります。
お気づきの点がございましたら
ぜひ、コメントを頂ければ幸いです。

皆様
私は新燃岳の噴火による降灰等で気分が滅入っていたのですが
先も書きました通り
これからも私は先祖の調査に励んでまいります。(^'^)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月13日 12時55分59秒 ) パスワード

皆様、今日は。

最初に
私は、今まで数年間に渡る私の調査を温かくお見守り頂いた皆様に
お詫びを申し上げなければいけません。

私は、こちらのスレッドをお借りして、先祖の調査を始めた
「平川家について」の最初の「文章」の中に「祖父の真実」を書いては
いませんでした。
祖父が中国で仰せつかった「任務」について、真実を書く事を躊躇して
今まで書かせて頂く事を控えていました。
さらに「平川家について」の最初の「文章」の中に
『祖母がお優しくして頂いた』方々について「華族」の方々と書きましたが
本当はもっと別の「御方々」でした。
この事も、調査を始めるきっかけとなる「文章」に、真実を書く事を
最初に躊躇して「華族の方々」と書かせて頂いていました。
2013年9月1日以降、私は「この事」を皆様にずっと隠して、先祖の調査を行ってきました。
申し訳ございませんでした。
皆様、本当にごめんなさい。

今回、祖父が「仰せつかった任務」について「やはり、書いておくべき事だ」と考えて
ブログの方に「私は何故?先祖を調べるのか」と題し、その中に「初告白」と項を付けて「祖父の任務」について書かせて頂きました。
さらに、祖母が何故亡くなる前に、私に祖父が負傷した後の事を話してくれたのか?その「きっかけ」も「本当の事」をブログの方に書かせて頂きました。
その「きっかけ」も、私は最初から書いていませんでした。
皆様、本当に ごめんなさい。

こちらのスレッドにコメントとして書かなかった理由はその「内容」によって
こちらのスレッドの運営事務局様に御迷惑をおかけする事を恐れたからです。
ブログであれば、その内容は「私の責任に於いて」書く事が出来る そう判断したからです。

今まで、皆様に明かしていなかった「祖父の任務の真実」を書きました。
ブログ アドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12359064164.html

ブログでは祖父がお側にお付きした御方のお名前を書いてはいません。
もちろん、私も父も親戚も皆知っていますが、この御方のお名前だけは
書かせて頂く事を控えさせて頂きます。

父は、私が球磨に戻ってすぐに
「じいちゃんの任務についても、書いたのか?」と聞きました。
私が詳しくは書いていない事を説明すると
「人に軽々しくお話する事ではない」
「お前の書く文章によってはそれを”自慢”だと受け止める人もいるだろう。
じいちゃんは、きっと”自慢”だと受け止められる事を嬉しくは思わないはずだ。
この事はお前の心の中でじいちゃんに対する”誇り”として、持っておく事にしなさい
じいちゃんに対して恥ずかしくない生き方を今からすればいい」
と言っていました。
私も、父の言葉通り、自分の胸の中にある祖父への誇りとして今まで胸に秘めてきました。
しかし、ブログの方にも書きましたが
氷川の宮原城城主「宮原公忠」、この方の直系にあたられる「宮原様」に書かせて頂いたコメントへの宮原様から頂いた「お言葉」
その内容は
『橘公業の替地の球磨郡久米郷や氷川町その他の領地はどうも元々橘氏が発祥した土地のようである』と言う事、さらに
『古代の橘は沢山のグループがいて、九州王朝をお支えした氏族であると宮原様が伺われている』と言う事でした。
私は『九州王朝をお支えした氏族である』と言うお言葉に、震えがきました。
祖父が恐れ多い御方のお側にお付きした「その任務」が、『九州王朝をお支えした氏族である』と言うお話と重なって感じたからです。
「祖父の任務」今だからこそ、本当に書くべき時ではないか・・・
そう感じて、今まで「他の人に伝える事は恐れ多い事だ」と書く事を躊躇していた、隠していた「祖父の任務」を初めて「書かせて頂こう」そう決心する事が出来ました。

三つ柏服部様、ご覧下さる事を心より祈りながら書かせて頂きます。
以前、三つ柏服部様は私へのコメントの中で
私が先祖の調査を進める、その原動力が何かを知る為に、
私の調査「平川家について」を最初から読んで見られた・・・
と言う内容をお書き下さいました。
私は、このお言葉を読んだ時に、本当は「先祖の調査を始めるきっかけとなった」
祖母との会話。そして子供の頃から知っていた「祖父の任務」について
書かせて頂こうか・・と本当は悩みました。
だけど、やはり躊躇してしまいました。
内容があまりにも恐れ多い方にお繋がりしてしまう事なので
やはり、本当の事を書く事が出来ませんでした。
申し訳ありませんでした。

皆様、私は今まで、祖父の事を断片的にですが、数回書かせて頂きました。
椎葉のおじと祖父の関係についてもそうですし
ノモンハン事件に関連する事についてもそうです。
祖父が大事にしていた掛軸(書)についてもそうです。
時折、祖父の生きた証を思い、祖父の”誇り”を胸に思い
書かせて頂いていました。
ブログの方では、幾つか書かせて頂いた内容をまとめて書いています。
ただ祖父の仰せつかった任務について、祖父が御頂戴した「御手紙」・「御品」については、全く今まで伏せて来た内容です。

皆様
私の調査を応援して下さり本当にありがとうございます。
心から感謝申し上げます。

そして、心からお詫び申し上げます。
今まで、隠していて本当に申し訳ございませんでした。

ミヤハラ
[24]たけぽんさんからのコメント(2018年03月20日 02時45分45秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
うちの花粉症も、やっとこさ慣れて
来たかな?と言う所です(^^;

先日、ちょっと鹿本町に用事がありまして
そこにあるうちの宗派のお寺にお参りに
行きました(^^)

そう言えば
旧?山本郡?がどこら付近にあったのか
急に思い出して・・・

さて、目が覚めたついでに今から
探すかな?(^^;(笑)

ミヤハラ様

言いたい事と言わなくて良い事
言いたくても言えない事は違うと
うちは思います

誰にでも、聞かれたくない事も
あるだろうし、絶対に言っては
いけないこともあると思います

あまりご自身を責められますな

本当に必要性があるものは、必ず
どこかでその様に回って行くと
思うのです

うちは、ただ純粋に
平川家の歴史が知りたい

義高公の事が知りたい

こう、強く思ったのは
祖母が亡くなり、従兄弟に子供が
生まれた事がきっかけでした

子供達に、平川家の事を、祖母の
代わりにとは言えませんが
キチンと伝えて行かなければと
思ったからです

うちも、祖母に色々聞いておけば
良かったと、今更ながら後悔を
している所です

しかし、少しばかりでも、探せる
手がかりを残してくれた祖母には
感謝しています

祖母が平川の話をしてくれてなければ
こうして、ここでミヤハラ様と
知り合えなかったのですから(^^)

とは言うものの
殆ど平川の事を知らないうちには
調査は至難の技です(苦笑)

でも、まだまだ負けませんよ〜(^皿^)

諦めの悪いおなごですから(笑)

あ、それと

いつか、ミヤハラ様とは
ゆっくりお話したいですねぇ〜(^^)

うちが知らない、色々な事を
教えて頂きたいです(〃∇〃)♪
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月20日 14時42分36秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
花粉症の症状、お辛いですね。
身体が慣れて来られた・・・人間の身体って不思議ですよね。
私も、最近は喘息は完全に治まっています(^'^)

たけぽん様のコメントを拝見して、朝から勇気が湧いてきました。
〉本当に必要性があるものは、必ずどこかでその様に回って行く

そうか・・そうなのですね!
書いて良かったのか・・と実は内心不安でしたが
今、ようやくその時が来たのだ・・と「本当に」考える事が出来ました。
ありがとうございます。

山本郡
良峯安則について
永吉荘と平河氏嫌倉将軍家領たる永吉荘地頭職平河師高は、良峯安世「桓武天皇皇子、延暦二十一年(802)に良峯朝臣の姓をえて臣籍に入る)の末孫で、良峯四郎安則の代に、菊池経頼をたよって肥後国山本郡(鹿本郡植木町山本.楠原附近)に住んでいた ...
かなり、以前、私は平河義高の祖父である「安則」と言う方が居城された
山本郡の城についてコメントに書いています(^'^)
ブログにも地図をアップしていますのでご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-11931315528.html

★「良峯(平河)安則」居住跡地 楠原須屋城跡
実は、私の弟が6歳から過ごしていた病院のすぐ近くだったのです。
コメントは確か2014年の9月〜10月頃書いていたと思います。
山本郡楠原は現在、「熊本市北区楠原」となっています(^'^)

たけぽん様、私もぜひお会いしてゆっくりお話したいです(^'^)
実現しましょうよ!たけぽん様\(^o^)/
私、人吉にはショッチュウ行っています(^'^)
鮮度市●によく出没しているのですよ(p_-)・・・・(^O^)/

私、和●おばさんのお家にはまだ行けていません(@_@。
(行けそうだ!\(^o^)/と言う時に主人や父がインフルエンザ(@_@。
私の都合の良い日は椎葉のおじが難しい(@_@。・・と言った具合です)
こちらも早く実現出来るように椎葉のおじに話します(^O^)/

所で・・
先程も書きました「その時が来た・・・」
たけぽん様、皆様(..)
実はブログの方に、ここ数日間、家に残っている祖父の思い出の品々を見ていて
気が付いた事等を書かせて頂きました。
祖父の叙勲賞状やトランクケース等の写真も載せました。
それと・・・
ブログ最後の方に、私がまだ小倉に住んでいた時、4年前に里帰りした時に
気が付いた「衝撃」もついにブログに写真を載せました・・・
こちらもずっと胸にしまい込んでいた事です。
床の間に飾ってある刀掛(兜)です。

たけぽん様、皆様
よろしければ、ブログをご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12361471048.html

刀掛(兜)について
里帰りした時に、刀掛(兜)のホコリを取ろうと掃除していて、偶然「前立て」の部分が
取り外せる事に気が付いて・・・
実は・・おっちょこちょいなので、触っていたら少し傾いて、ヤバイ\(◎o◎)/!と思い
真っすぐにしよう(p_-)と又触ったら・・・前立てが抜ける事に気が付いたのです・・・
な〜んだ(^'^)と思い、一旦抜いて、前立ての後ろ(兜)を掃除して・・
前立てを拭きながら・・裏側も拭いていたら・・・
見つけました・・
この時は本当にビックリしました!
こっこんな所に何故!!??って腰が抜ける程驚きました。
すぐに父に見てもらうと、父も「あれっ?本当ねぇ〜」と言いましたが
父は「何かあるとだろう(笑)」と言うだけで
そんなに気にした様子もありませんでした。
そのかわり「このおっちょこちょいが!あまり触るな」とは言われましたが・・
おっちょこちょいは・・どっちだ(-.-)
兜の左側がパキーンと割れているのは、子供の頃の父と叔父に関係あるのは
聞いています(-.-)
其の後、叔父やいとこ、椎葉のおじや、ふた従兄等に見てもらったのですが
皆「本当だ!でも何でだろう??」と言うだけで
理由は誰も知りませんでした・・・

だけど・・
最近、ブログの方で球磨から移動した「久米氏」と鯰さんを調べて
久米寺に聖徳太子の弟君であられる来目皇子(くめのみこ)※久米王が関係されている事が解り
聖徳太子・来目皇子(久米王)の父君であられる用明天皇は
和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)
であられる事を、氷川宮原城主「宮原公忠」の直系でいらっしゃる「宮原様」のブログで勉強させて頂いて
家の兜の前立ての裏に刻まれた「十字架」がすごく気になったのです。
用明天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。また、高向王(寶女王(のちの皇極天皇)の最初の夫)の祖父とされる。

第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう) - 同母妹の推古天皇の皇太子・摂政
第四皇子:来目皇子(または久米王) - 撃新羅将軍。登美真人の祖(→山村王)

厩戸皇子(諡号は聖徳太子) 妻は橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)
ウィキの聖徳太子の頁を拝見すると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

厩戸前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある。また母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。

とあり、さらに脚注を見ると中に
※久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。
佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。

とあり、「橘」・「久米」の文字がお付きになられる名を持たれた「方々」が
周囲にいらっしゃる聖徳太子が「十字架」の鍵を持たれているのかもしれない・・
そんな事を考えてしまいました。
遡った所に家の兜の前立てに刻まれた「十字架」の意味があるのかなぁ・・と。
正史で言う所の「橘氏」とは別に、本当は「橘」と言う「言葉」・「名」には
もっと、別の「意味」があるのではないか? そんな事に最近気が付き始めました。
そこに繋がるのが「久米」。「久米」と言う「言葉」・「名」なのではないか・・?

もちろん、宮原の一族だけではなく「橘」には平河氏も無関係ではありません。
何せ、良峯氏系図では、「良峯氏」は「良峯」から一旦「橘氏」に変わり、その後「良峯」に復姓しています。

結局、私の調査の周囲には「橘」・「久米」の「言葉」が溢れかえっているようです。

それと、もう一つ気が付いていたのですが(p_-)
厩戸皇子(諡号は聖徳太子) 妻は橘大郎女
橘大郎女 ウィキを見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A4%A7%E9%83%8E%E5%A5%B3

橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。
聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。
子に白髪部王、手嶋女王。

白髪部王

聖徳太子の弟君は来目皇子(くめのみこ)※久米王
子息は白髪部王

久米・白髪・・・
なんだろう・・そのままのような・・・
何がそのままかと言うと・・
私が住む場所は旧球磨郡「久米郷」で・・
家から見える山は「白髪岳」・・・
うううぅん・・・
父に、上記の事や垂仁天皇様「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」
仁徳天皇の曾孫様となられる清寧天皇
御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
のお話をすると・・
父は
「古(いにしえ)に御所縁の地の名を御記憶されていらっしゃるんだよ」
と良く解らない事を言いながらニコニコ笑っていました。
(父が言わんとする事は何だろう・・??)
確かに「藤原氏」が台頭する時代より以前の事を調べると
何だか不思議と「球磨」の地名や「山の名」に関わりがあるような
記述が多数見受けられます・・・

ただ・・私より「妙な感」が強い父ですが
DNAからの発信?なのか何なのか?良く解らないのですが・・・
「藤原不比等」 この方を父は物凄〜く嫌っているのです(..)
何かあるとすぐに「藤原不比等のせいで!」と言います・・(@_@。
私が「お父さん、家は相良氏の一族の血が入っているのだから繋がっているとよ!」と言っても
「それでも、好かん!」と言います・・・
何様なのか?父上?と思ったりします・・・
初めて書きました(@_@。

何だろう?父の記憶のDNAの中によっぽど「藤原不比等」この方を「嫌う」何か?が残っているのかな〜(?_?)
と思うほど、まるで「藤原不比等」この方が「最近の人」のように嫌うのです・・
そう言う父を見ながら私は
面白い(p_-) ・・と感じています。
あの父が言う事だからきっと何かあるのかもしれません(p_-)
(マタマタ(ー_ー)!!と全国から声が・・(;一_一))

話を兜の十字架に戻しますが(..)
古代に繋がる話だけではなく、確かに戦国時代から江戸時代初期にかけても
家の兜に十字架が刻まれる要因となる「可能性」がある事は多々ありまして・・
家の宮原家がある旧宮原村の川を挟んだ向こう側の旧岡本村。
岡本村の岡本城主であった相良清兵衛こと「犬童頼兄」。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84

最後に記されている相良清兵衛屋敷
頼兄の屋敷は、通称「御下(おしも)」と言い、相良清兵衛事件(=御下の乱)の際に、田代半兵衛(犬童半兵衛)が藩主から誅殺されるのを恐れて叛乱を起こし、屋敷に立て籠もって戦った末に火を放ったために焼失した。
後年、その遺構から地下室が発見された。絵図によると、屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」と書かれた位置から発見されており、地下室の構造は、石積みの階段、踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていたが、これとほぼ同じものが、嫡子・頼安の屋敷内の蔵に当たる位置からも発見されている。
井戸を持つ地下室の発見例は世界的に例がなく、またこの地下室が作られた目的はいまだ解明されていない。
========================================

上記の地下室について、球磨郡では沢山の推測がなされています。
最も有力視されているのは
「キリスト教の礼拝所であったのでは?」と言う事です(..)

家は岡本村の岡本城主であった相良清兵衛こと「犬童頼兄」とは無関係ではありません。
犬童頼兄、この方は岡本城主ではありましたが、城には住まず
城の麓の「居館」に住んでいました。
「犬童頼兄」が津軽に配流された後、その「居館跡」に代々住んでいるのは
家の親戚です(..)
以前から書いていました。

他にも・・
兜を曾祖父が久保田家から持参した可能性も捨てきれません(..)
こちらも以前から書いていましたが
窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、残された二人の子息は
大村に移り住み他家に養われて成人したとあります。
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村を指します。
当時の旧深水村・旧柳瀬村の地頭は「深水氏」と「平河氏」です。(其々のむらに深水氏・平河氏あり)
さらに、実は・・犬童頼兄(相良清兵衛)居館跡に住んでいる親戚の名は「柳瀬家」です(..)

窪田氏(久保田氏)十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。

窪田(久保田氏)甚助が仕えた中川内膳正。
この方は中川 久盛。

中川氏を調べたら「十字架」に繋がる記述があったのですが・・・
非常に長くなりましたのでこの続きは次回に(..)

ただ・・・この1年近くの間に調べた事が、今回書かせて頂こう!と
思っている事に繋がっている事は驚きでした。
詳しくは次回に(__)

兜の事も、もっと早く書こうか・・と思った事もあったのですが
内容が内容だけに・・やはり躊躇していました(..)
でも、きっとようやくその時が来たのかな・・と思います。
その時とは「私が少しは理解出来るくらいの勉強ができた時」なのだと思います。(あくまでも”少しは”なのですが・・)

たけぽん様、皆様
今回も非常に長くなってしまいまして申し訳ございませんでした。

続きは出来るだけ早く書きたいと思っています(..)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月27日 08時56分44秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

前回の続き、「出来るだけ早く書きたい」と書いてはいますが・・・
今、ちょっと忙しくて中々コメントに集中する事が出来ません(..)
理由は・・・
私、農作業のアルバイトを始めました(^O^)/
(ええええっ!との声が・・・)

実は、御近所の「斉藤家」の幼なじみのK君(私より一つ年が上)が2月の末に家に来て
「暇してるなら、家でアルバイトする?」
「H美(私)ちゃんは、農作業はもちろんやった事は無いのは知っているけど
興味があるならやってみる?」
「でも、お父さんに聞いてみて了解を得てからね」
と言う話になり
私は、今までやった事が無い農業のお手伝い、めちゃくちゃ興味があり
久米郷の土地に触れて見たい!との気持ちが沸々と込み上げてきました(^O^)/
さらに(p_-)
仕事を辞めて、球磨に戻り専業主婦を初めてやってきたこの3年間・・・
家で家事の傍ら先祖の調査をやりながら、歴史研究会にも参加して・・と
父や主人から私の好きなようにさせてもらっていましたが・・
一つ「モヤモヤする事」が・・(..)

今まで読みたい本があれば、自分が働いたお金で好きに買っていたのですが・・
専業主婦ともなればそうはいきません(ー_ー)!!
買いたい本があれば主人や父に相談して買ってもらったり
こっそりと貯めた「へそくりさん」で買ったりと
肩身が狭いなぁ〜(@_@。と・・
何せ私が欲しい本や資料はお金がかかります・・・
今まで相良藩史の数々や、麻郡神社私考、他、地元の研究会(3会)が発行した本を全巻揃えたりと・・・
かかったお金は・・実は総額二十万円を越える・・・
殆ど父や主人に買ってもらっていました・・・
このまま成果を出せずにいたら
「ただの道楽」と言われてしまいそうで・・・
本当に肩身が狭いかったのです・・
主人は優しいので何も言いませんが・・
父は「お前の本分は主婦だろう!”家事の合間に歴史”じゃなくてお前は”歴史の合間に家事だ”!!」
と叱られたり(..)
最近は、パソコンをボ〜ッと見ていると
「今のお前は●●ちゃん(主人)とお父さんのお陰でそうやってパソコンをボ〜ッと見る事が出来ているんだぞぉ〜」
何て言われたりして・・
父や主人にもちろん感謝の気持ちはあるのですが・・
こんな事を言われると「何だかめちゃくちゃムカツク・・」って思ったりもしていました。
こんな調子で過ごしていた私に「天の声」のように
斉藤さんちのK君からの誘いが・・やった!!\(^o^)/
となった訳です。

早速父に話すと・・・父は今まで「嫌味」を言ってたのに
「何で!働かんでも良いから・・」と・・
さらに
「お前・・お父さんが曾じいちゃんに叱られる・・」とか
訳の解らない事を言い出したのですが
私が「やりたい!」と言った事を絶対に諦めない、言い出したら聞かない・・
と言う性格である事をよ〜く知る父は結局
「そんなにやってみたいなら、無理をしないようにやってみなさい」
「そのかわり、お前の興味本位での仕事のお手伝いじゃ斉藤さんに御迷惑をかける」
「やるんだったら、ちゃんとやりなさい!」
と言ってくれたので
やった\(^o^)/と・・
ただ・・親戚にも言わなきゃな(p_-)
と思い、椎葉のおじにも相談すると
「何でも経験する事は大事だから、無理をせずに頑張りなさい(^'^)」
「でも、農作業は甘くないぞぉ!(ー_ー)!!」
と言われました(^'^)
椎葉のおじに話した事から、すぐに椎葉のふた従兄から
「H美(私)、農作業を甘く見たらだめよ(ー_ー)!!
H美(私)は身体が農作業が出来るようには生まれていない、身体が弱いのだから
朝”ラジオ体操”をして身体をほぐしてから仕事に行きなさいね」
と電話がありました。
家だけではなく(ー_ー)!!親戚をも巻き込んで皆が心配するなか
皆、私の我がままを聞いてくれて、最後は応援してくれました(^'^)

と言う事で(p_-) 私は斉藤さんの家でアルバイトを始めたのであります。
斉藤家のK君には以前ちょっとだけ今の状況を話していたので
アルバイトに誘ってくれたのだと本当に感謝しています(..)
K君は
「御主人がお休みの時とか家の用事の時とか、H美ちゃんの都合に合わせて
働いてくれたらいいからね」
と言って下さったので、本当にありがたいと思っています(..)

最初は「煙草の苗の植え付け」や「畑に煙草を植える」作業をお手伝いしたのですが・・
筋肉痛が凄かった(@_@;)
でも、黒原山や白髪岳を見ながら、何だろう達成感がありました(^'^)
(斉藤さんちは田畑を今は5町以上を抱えているそうです)

煙草って農産物なんだなぁ・・ってつくづく解りました。

そして今は(p_-)
何棟も連ねたビニールハウスで育った「サラダスナップ」の収穫のお手伝いをしています(^O^)/
まるで「ジャックと豆の木」みたいな感じの豆がずら〜っとハウスに何列も植えられて、プックリ美味しそうな豆だけを見つけながら収穫するのですが
本当に楽しいです(^O^)/
この「サラダスナップ」が絶品で、本当に美味しい!!!
採れたての規格外を頂いて、家で食べています(^O^)/
何と贅沢な\(^o^)/

農作物のありがたさを痛感して
本当にアルバイトを初めて良かった〜と感謝しています。

さらに・・・
「サラダスナップ」だけじゃなく(ー_ー)!!
新しい収穫もありました(p_-)

ここからが本題です(p_-)
斉藤家のK君は、農業だけじゃなく、様々な事に興味を持つ人で
子供の頃から「すごいな!」って思ってはいました。
めちゃくちゃ頭の良い人です。
日本刀に関しても知識が深く、他、明治以降の日本と海外との関係等も興味を持つとトコトン調べなきゃ気が済まないと、ビックリする程詳しく勉強していました。
他、政治の事や、自衛隊の戦闘機等についても「何で知ってるの?!」と
話していると驚く事ばかり・・
「百科事典を読むのが子供の頃から大好きだった!、興味が湧くと本を買ったり、今はすぐにネットで調べる」と笑いながら言うK君の顔を見ながら
「斉藤氏恐るべし(p_-)」と私は再認識していました(p_-)

そんなK君は私が球磨の歴史を調べている事はもちろん知っているのですが
親戚関係に謎を解く鍵があるとの私の考えも理解してくれて
私に「斉藤家」の縁戚関係を教えてくれたのです。

本題「斉藤家」と「永田家」

斉藤家のK君のお母さんの御実家は「永田家」でした。

私は知りませんでした\(◎o◎)/!
だって・・おばさん(K君のお母さん)の御実家の事を家の親戚一族は皆
「地名」で呼んでいたからです!
(家の親戚は姓ではなく地名で家を呼ぶ風習?があります)
その「地名」とは・・宮原の一族の先祖に関わりのある「地名」で
なお且つ、最近「古代」の事をブログで書いていて頻繁に登場していた
あの「地名」・・ヒントは「モォ〜」です(p_-)
橘公業の後裔にその「地名」の姓があり、家の親戚にも”その姓”があります。

その「某地」の永田家がおばさん(K君のお母さん)の御実家でした!
私、ビックリして
今まで、皆様方から頂いた御教示「斉藤氏と永田氏の関係」をK君に話した所
「面白いね!」と言っていました。
さらに、この事がきっかけでK君から教えてもらった「斉藤家」の縁戚関係にも驚きました。

K君のおばあさんの姉妹の方の嫁ぎ先は、家の遠縁にあたる「平川家」でした!
(こちらの平川家は湯前の平川家と繋がっています)
知らなかった!!!\(◎o◎)/!
私の曾曾ばあちゃん(高祖母)は湯前の「永田家」から嫁いで来られている事を
K君に話して
私が「何か全部繋がっているような気がする・・」と言うと
K君は「何か面白いね・・」って言っていました。

うん!!本当に「面白い」(p_-)
思わぬ展開になりました(p_-)

しかし・・この事を知ったのも私がアルバイトを始めたからこそで・・
何だか導かれているのかな・・と
感じました・・・

と言う事で、長くなりましたが
以前から何度か書いていた、御近所の「斉藤さん」こと「斉藤家」。
永田家と姻戚関係にあった事が判明した・・

と言うお話でした(^'^)

いやぁ〜実に面白い(p_-)
では(..)
[27]たけぽんさんからのコメント(2018年03月29日 12時10分53秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

山本郡の情報、ありがとうございます(^^)

早速調べてみたら・・・

現在地と照らし合わせると・・・

(間違ってなければ)城跡の近くの
お寺に、年三回位お参りに
行ってますΣ(・ω・ノ)ノ

不思議なご縁を感じました(゜_゜;)

ミヤハラ様

お話し出来るとは
嬉しいですね(〃∇〃)

是非、宜しくお願い致します(^^)

お仕事大変ですね(^^;
無理せず、頑張って下さいね(^^)b

新しい゛収穫゛もあったみたいで
喜ばしい事ですね(^^)

[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月30日 07時22分41秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

たけぽん様
山本郡の楠原城近くのお寺様に年に三回お伺いされていた・・・
本当に、不思議な御縁ですね。
私も、弟の病院の近くだった事に気が付いた時は
本当に、不思議な御縁だなぁ〜と感じたのでした・・

お会い出来る事を楽しみにしています(^'^)

新しい収穫。
たけぽん様、皆様。
こちらも、人と人の繋がり、御縁とは不思議な物だと感じました。
地元旧宮原村の同じ集落「宮麓」の中のさらに同じ地区「侍村(まちむら)」の
御近所の方々との御縁。
もちろん、「ここ」は、私が調べている、江戸時代までわずか3%に過ぎない
ネットワークの方々が居住する地域なので
「何かある」とは思ってはいたのですが・・・
皆様方に御教示頂いてきた事、自分が今まで色々勉強して来た事、に
繋がってくる事がようやく見えてきたのかな?と、そう感じた時に
やはり、先日書いた「その時がきた」のだと思いました。

私の住む集落「宮麓」の中の地元の呼称「侍村(まちむら)」には
明治の廃藩置県の後、宮原村の役場が置かれました。
さらに、府本小学校が創立されました。
いずれも、今は田んぼです・・・
宮原城があった「城山」の下から、遅くとも鎌倉時代には存在した道があり
その道なりに「表(おもて)」「門前(もんぜん)」「侍村(まちむら)」と言われる小集落が繋がっていて
江戸時代までは、「門前」「侍村」にかけて百軒以上の武家屋敷が建ち並んでいたそうです。
今は、三十軒程しか家はありません(@_@。
後は、全て田んぼとなりました(戦後の農地改革、構造改善により)
1600年代の庚申塔に残る「数々の姓」の方々や、分限帳等に残る「姓」の方々の中で
今は集落には無い「姓」も多数あります。
近隣の町等で、その「姓」を見かける事があるので、移られた事が解ります。
曾祖母の実家の「新堀家」も今は「侍村」にはありません・・
「宮麓」・・麓地区は以前から書いているように
在郷の藩士や郷士の方々の居住地域で相良藩内では
『人吉の麓』『上村の麓』『岡本村の岡麓』『宮原村の宮麓』があり
『岡本村の岡麓』には相良清兵衛こと犬童頼兄が、人吉城下より商人の方々等を
多数連れて来られて「城下町」を形成した事で有名です。
(この事が引き金となり、犬童頼兄は津軽に配流となりました)
『上村の麓』には家の親戚が数軒今もあり、こちらは最近『上村の麓・武家屋敷群』として、脚光を浴びています。
な〜んも(何も)残っていないのは「ここ」、宮麓だけです(@_@。 悲しい・・
肥後宮原銀山があった場所なのに・・本当に残念です(@_@。
でも・・私が「ここ」に帰ってきて3年経ちましたが
集落内の方々と話していて痛感した事がありました。
皆、自分の御先祖様にとても関心を持っていた!と言う事です。
私が歴史研究会に加入させて頂いた事を知ると、皆さん
「今の時代に言う事じゃないけれど・・実は家はね・・」と言ったお話を聞かせて下さいます。
例えば・・
家や親戚一族と代々とても親しくお付き合いをさせて頂いている「村山家」。
先日、「村山家」の奥さんが家に遊びに来られて聞いたお話もとても興味が湧いた「お話」でした。

「村山家」の奥さんは、嫁いで来られてすぐに御姑さん(私は村山のおばさんと呼んでいました)から
古文書を見せてもらって
「相良の殿様が、米良経由で参勤交代に行かれる時には、家に必ずお立ち寄りになられていらした」
「家は御殿様の御宿泊所にもなっていた」
と言った話や「代々伝わっていた刀」の事などを聞かれていたそうです。

この話を聞いて、私はすぐに「ピン!」と、きました。
以前、宮原村の江戸時代末期から明治初頭にかけての資料の中に僧 村山何某(資料が今手元に見つかりません(..))と言う方のお名前を見た事があり
さらに
人吉市誌記載の旧士族の氏名の中に宮原村「村山良吉」と言う方のお名前があったからです。(この資料はすぐに見つかりました(..))

村山家は旧庭柏寺のすぐ前・・
もしかしたら・・・村山さんのお家は「庭柏寺」に関わる「家」だったのではないか???
私はそう考えて「村山さん」の奥さんに話すと・・
「心当たりがあるので、今度、また調べて来るね!」と言われていました。

このように・・集落の家々には何かしら「言い伝え」が残っている事が
最近、解ってきました。
皆さん、ずっと「心に秘めていた」事があるようです。

同じ集落の「別府家」の私の同級生も御先祖様についてちゃんと調べていました。
別府家は、相良藩士分限帳の補足資料にも記載されている宮原村の在郷藩士のお家で
同級生によると、御先祖様は
佐賀県(場所は詳しく聞いていません)から天草に移り、その後宮原村に来られていた事が解っているそうです。

色々な地域から宮原村に来られている「3%のネットワーク」が存在する事も
見えてきました。

最後になりますが
実は先日コメントさせて頂いたK君のお母さんが、お亡くなりになられました。
私がコメントを書いた日の夕方でした。
私はK君のお母さんの具合が悪い事を知っていました。
K君、奥さん、妹さんは献身的な看護を続けられていました。
おばさん(K君のお母さん)とおじさんは
きっと、出会うべきして出会われて、結ばれるべきして結婚されたのだと
私は思い、K君に、皆様から伺っていた御教示を話していたのです。
この時、K君は「教えてくれてありがとう」って言ってくれました。

隣邦班として、お通夜、ご葬儀のお手伝いをさせて頂きました。
おばさん(K君のお母さん)は、お花がとても大好きな方でした。
私が子供の頃から、家にも沢山のお花を下さっていました。
祖母が亡くなってからも、父にお供え用のお花を届けて下さっていました。
桜の花が満開の中、おばさんは天国へ旅立たれました。
昨年、K君はお父さんも亡くされています。
妹さんは「お母さん、お父さんと会えるね。天国でも仲良くね」と言われていました。

おばさんの御冥福を心から祈っています。
今日から、斉藤さんのお家で豆ちぎりのバイトが再開です。
私も、少しでも斉藤さんのお手伝いが出来るように頑張ります。
[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月02日 10時53分27秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

先日、椎葉村の上椎葉に行って参りました。
本当は、西都市の西都原古墳群に行って菜の花と桜と古墳のコラボレーション?
を見に行きたかったのですが・・・
西都市に向かう国道219号線が、
横谷(球磨郡湯前町)と宮崎県児湯郡西米良村の間で山崩れがあり通行止めとなっていました(@_@。
横谷峠まで行って、球磨に引き返す事となり・・・
(湯前に通行止めの表示があったのですが、迂回路があるはずだ(p_-)と無謀にも進んでしまいました(..) )
引き返して・・唯一の迂回路となっている国道388号線は
水上村の市房ダム湖横を通り、「湯山」から椎葉村大河内矢立に進む道で
1年ぶりに先祖所縁の地、標高約1000mの「矢立」を通過、そこから山を下り、
途中で「西米良」に向かう道と「上椎葉」に向かう道とに分かれていました。
そこで、主人が突然
「右と左、どっちに行きたい?」と聞いたので・・・
思わず「左(上椎葉)」と答えると、主人も「僕も左に行きたかった・・」と・・不思議な事を二人で会話し・・・
西都に向かう予定が突如、上椎葉行きに変更!となった訳です。
(この間に見た矢立川の美しい景色等はブログに写真を載せるつもりです(^'^))
それから・・椎葉村大河内矢立地区は、思った以上に広かったです(p_-)
地図で周辺を見ていて、地名だけ理解していたので、見ると行くとでは大違いでした。
私が地図を見て「大河内」と理解していた所は・・国道の道路標識上ではずっと「椎葉村 矢立」であり、「椎葉村 矢立」を過ぎると、そこは「椎葉村 平」でした。
「椎葉村 矢立」から「美郷町(百済の里)」は道で繋がっていました。
椎葉村大河内矢立から上椎葉までは約30分程で行けたのですが・・・
分かれ道からまた、グルグルと山を登り、めちゃくちゃ標高の高い道を進みました・・・高所恐怖症の私は手に汗が・・・
山を越えて、今度は下ると・・そこが上椎葉でした。
鶴富屋敷の横には厳島神社が御鎮座。
そこで色々ありまして・・
詳しくはブログに書かせて頂きます(..)。
ぜひ、行かれて下さい!と係りの方に紹介して頂いた「椎葉民俗芸能博物館」へ・・
「椎葉民俗芸能博物館」には「矢立」にお住まいの方がいらっしゃり
ここでも「矢立集落」に関する貴重なお話を伺う事が出来ました!
御親切にお話を聞かせて下さった事務局の方には心から感謝致しております。
(この事も詳しくはブログの方で書かせて頂きます)

「椎葉民俗芸能博物館」で拝見した椎葉村の方々の伝統や暮らし・・
一言で言えば、椎葉村の方々は神様と共に生きていらっしゃる・・そう感じました。
神社での御神事はもちろんですが、日々の暮らしの中で、現代の日本では忘れ去られた
古代からの風習が今も残っている!そう感じました。
各家々の日々の暮らしの中に、厳粛な神様への御神事が今に受け継がれている・・
そこが椎葉村だ!・・そう感じました・・・
源平の合戦等、書きたい事は山積みなのですが・・追々書かせて頂きます(..)
その中で、私、過去の調査に繋がる「大発見!?」をしたので
次回のコメントは「この事」を書かせて頂きます。

何せ”じいちゃん”(父)が家事の合間に歴史!とうるさい(-_-)/~~~ピシー!ピシー!ので
お掃除を済ませて・・その後で(p_-)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月17日 16時00分21秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
今日は、豆ちぎりのアルバイトがお休みなので
椎葉村で発見した事等を精力的に書きたいのですが・・
先に、最近知った、家の親戚の「森氏」について等を
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13
の方に書きましたので、よろしければご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101630_13.html

親戚の「森家」が細川藩士の「森氏」だった事が解り・・
肥後細川藩藩士でいらした田辺城籠城衆の「森氏」について勉強させて頂いた所
何故か!!?
宮原の一族の先祖と関わりのあられる方々が田辺城籠城衆でいらした事が解り
さらに田辺城籠城衆には良峯姓前野氏もいらした事が解り・・
宮原の一族と同族の「楠木氏」もいらした事が解り・・
何だコレハ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
となった、わたくし「ミヤハラ」でございます(..)

ただ・・さらに!!
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13を書いた後で・・
気が付きました!!!

籠城衆・・籠城・・丹波の籠城
どこかで・・見た事があるような・・(?_?)

あああっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
こっこだい!!古代に繋がっている!!!!

新羅国 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

昔氏の始祖説話
昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。

多婆那国の比定地
この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。

えええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
脱解の出身地である多婆那国
※比定地は、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などの説
※『三国遺事』では龍城国とされる。

丹波の龍城衆・・宮原の一族と同族の方々・・さらに良峯姓前野氏・・

そう言えば!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
昔氏は鳥人クマソの族なり!・・と書かれた書籍・・
ああああっ・・書かなきゃと思いながら、中々書くまでに至っていなかった
あの書籍・・

新羅の建国に古代の球磨の人達が関わったと明記されていた、あの書籍・・
あの書籍には龍城国とは、その球磨の人達が以前住んでいた縁故の地「沖縄」だと書いてありました!
さらに、沖縄には「中国」から渡られた・・と書かれていました!
私のあまりにも乱雑な説明に頭が(?_?)となられた方々申し訳ありません(..)
詳しくは、必ず後日書かせて頂きます。

つまり(p_-)
『古代の球磨』と『新羅の建国』と『昔氏』と『多婆那国』と『龍城国』は繋がっていて・・
戦国時代に下ると・・
球磨の久米郷と丹波の龍城には・・同族の方々が其々住していた!
と言う事が解った!と言う事です。
な〜んだコレは!!!!(p_-)

家の親戚関係のネットワークを調べたら・・
結局「古代」に繋がってきます・・

今まで接点が無いと思っていた
「肥後国久米郷」や「肥後細川藩藩士」と「丹波国龍城」にはちゃんと「人」を介して繋がりが(接点が)あった!と言う事が解りました!

やはり 古代 ⇒ 中世 ⇒ 近世 は繋がっている!と私は思います。

さらに
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13で書いたのですが
宮原の一族が阿弥陀堂を建立した球磨村遠原とは
山を越えればそこは、和名妙類に記された「伴郷」であった事も解りました!
遠原は・・それはそれは・・ビックリする程「山の中」で
めちゃくちゃ標高の高い場所で・・
鹿児島県大口(伊佐)と芦北郡伴郷に隣接する地であり・・
しかし(p_-)
そこは・・
鉄鉱石の取れる山や砂鉄が取れる川が流れる
古代の鉄の民が住まう場所でもあり!

古代久米族の元祖的本拠地「球磨郡久米郷」を所領地とする「宮原氏」が
古代元祖的「伴氏」に繋がるであろう和名妙類に記された「芦北郡伴郷」に隣接する地に
何故?「阿弥陀堂」を建立したのか!?
私は、きっと、重要な「理由」がある!と考えました。

写真等を近くブログにアップさせて頂きます(..)
写真を見て頂くと解るのですが・・実際に行って見て
「阿弥陀堂を建立した宮原氏は何故?ここまで来る必要があったのか?」
と思う程「遠原」は山のまた山奥でした。
でも・・山の頂上付近なのに・・そこが標高の高い場所とは思えない程
平坦で、田園が広がる・・とても素敵な天空の地でした。

ここを古代に開発した人達と、椎葉村を開発した人達は同族のような気がします・・
その方々が平家の方々をお助けしたのだと私は確信する事を(あくまでも私が・・ですが)
椎葉村誌で見つける事が出来ました。
この事もブログの方で書かせて頂きます(..)
この方々はきっと「黒原山」を権利の象徴・守護山とする方々だったのでしょう・・
椎葉村にも・・「黒原山」がありました・・

前回の続きも書きたい!ブログも書きたい!と色々書かせて頂きたいのですが
今はあせらず、バイトをこなしながら・・何事にも一生懸命前向きに
進んで行くつもりです。
先祖からも「そんなにあせるな!」と言われている気がします・・

あせらなくても、次々と「鍵」となる事に遭遇している
最近の私です(^'^)

では(^'^)
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 08時57分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

「新発見」がありました。
あまりの驚きに茫然としてしまうような「新発見」でした・・・

昨日、求麻郷土研究会の例会で八代方面の探索に伺いました。
八代妙見神社にもお伺い致しました。
こちらでも「発見」はあったのですが
このお話は後日、ブログの方に書かせて頂きます。

本題に入ります。

ついについに!!大友能直に繋がる系の方を「球磨」で発見致しました。
大友能直
父:近藤能成、母:利根局(波多野氏)
養父:中原親能
叔父:大江広元

御本人からスレッドで書いても良いとの御了承を頂きましたので
書かせて頂きます!

昨日、御一緒させて頂いた「槻木様」(普段、槻木さんとお呼びしているので、以下、槻木さんと書かせて頂きます )
私が、球磨に戻り求麻郷土研究会に参加させて頂いて以来
大変、お世話になっている方です。

こちらの槻木さんと車中で色々お話していて、御先祖様の系図を調べて欲しいと
依頼を受けました。
槻木さんのお家に伝わる系図(原本)は、以前、某大学の方に調べて頂いたとの事で、車中にて説明書きが付箋で付いた系図のコピーを拝見しました。
(かなり古い系図で、読めない文字等を某大学の方に解読して頂いたとの事でした)
私は恐縮して「私なんかで良いのか?」と伺ったのですが
「宮原」さんとは縁がありそうだから、大丈夫と笑って言って下さいました。

私は、車中で「系図のコピー」をチラッと拝見した際に
「藤原冬嗣」、他「藤原忠平」と言った方々の名が記されている事に気が付きました。
「確か、槻木氏は阿倍氏のはずでは・・?」と考え
そこで「槻木さん」に
「もしも、相良史の正史とは異なる事が”真実”が解っても大丈夫ですか?」と
確認したのですが、「それは大丈夫!」と了承して頂けました。

槻木さんのお家に伝わる系図のコピーを頂き、
早速、家に帰り拝見しました。

そこには驚愕の事実が記されていました・・
私は驚きのあまりしばらく茫然としてしまいました・・

私が・・私が・・ずっと追い求めていた「系」に槻木氏が完全に繋がっていた事が解ったからです。

槻木氏系図

大織冠鎌足内大臣を祖とする槻木氏系図には、以降
藤原不比等 ⇒ 藤原房前と藤原北家の方々の名が記されていました。

藤原冬嗣以降の方々の名前は以下のように記されていました。

冬嗣 ⇒ 良房 ⇒ 基経 ⇒ 忠平 ⇒ 師輔 ⇒ 兼家 ⇒ 道長 ⇒
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲 ⇒ 某(以下安部姓)

私は、こちらのスレッドで、何年も何年も「調査」してきた方々の名が列記されていた事に驚きました・・
「平川家について」を立ち上げて以降、初期からの私の調査をご覧頂いて下さっている皆様には私の驚きがお解り頂けたと思います。

着目して頂きたいのは
「藤原長家」以降の方々です。
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲 ⇒ 某(以下安部姓)相良長頼公を頼り球磨に入られる(系図には経緯が詳細に記されています)
※某大学の方からの解読文より
皆越の元祖の名は欠けている。おそらく安陪蔵人三郎直貞から出たのであろうか。
そののち数代は虫食いがあって判然としない。
その家記がわずか残ったものを採って記録しておく。
相良三郎長頼公が、建久九年(1198年)遠州(現在の静岡県西部)から当郡に来て
のち安陪なにがしがその徳を慕って家族みな従え、山海の険、遥かな路を越えてきた。
公はその義に感じて、これに住所を与え、白髪野(※宮原補足 皆越)の辺りに置いてみな越してきたことから、その地を名付けて皆越といい
それをそのまま氏としたのである。代々地頭となった。
数代を経て、弘治の乱で皆越一族はことごとく早死にし、幸いその渦が及ばなかった者が地頭となった。
と記されています。

某(安陪氏)と記された方の後は『長門守 槻木地頭奉命 槻木為氏 米良山小原稲荷母方氏神・・以下略します』
兄弟の方々が『皆越地頭 安芸貞當』『越前 貞継』 と言った方です。
『長門守』の後が『出羽守』と続きます。

※『長門守 槻木地頭奉命 槻木為氏 米良山小原稲荷母方氏神』とあるように
早期に米良山の某氏との姻戚関係があった事が解ります。
さらに槻木氏系図には、早期の『緒方氏』と『笹木氏(佐々木氏)』との姻戚関係が記されていました。

※『皆越の元祖の名は欠けている。おそらく安陪蔵人三郎直貞から出たのであろうか。』

「藤原長家」以降の方々。
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲

日本の苗字七千傑作様のサイトより
【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm
※那須氏は同族。

槻木氏系図とほぼ「一致」!!
さらに
槻木氏系図 光能 ⇒ 親能 ⇒・・
ここで、私は気が付いたのです・・『「広元」「親能」』・・この方々は・・
えっ!えええええっ!!!と・・

大江広元と中原親能!!!!

さらに槻木氏系図では
親能 ⇒ 能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)


日本の苗字七千傑作様のサイトより
《近藤氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4.htm#004

「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「三池氏」・・同族
私は・・何度何度、今までこちらの画面を見て来た事か・・

さらに
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《大友氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm

大友氏 大友能直 ⇒ 泰広(田原氏へ)
槻木氏系図
能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全に一致!!!

さらに
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《立花氏/田原氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm#007

田原泰広 ⇒ 基直 ⇒ 直貞
槻木氏系図
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全に一致!!!

何と言う事だろう・・ナント言う事だろう・・
私が平河氏に繋がる系ではと考えて何年にも渡り調べ続けてきたこちらの「系」の方々は・・
実は「槻木氏」に繋がる系であった!!
そう確信しました・・

しかし、 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)
この方の役職「蔵人」と法名「正雲」が一致しなければ、完全一致とは言えない・・
そう考えて調べました。

その答えは
武家家伝様 サイト 田原氏にありました・・
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tahara_k.html
田原氏は志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(大友三家)の一つで、大友氏初代能直の庶子泰広が始祖である。泰広は京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得、国東郡田原別府に定住して田原氏を称した。のち沓掛田原・武蔵田原氏を分出し、さらに吉弘・如法寺・生石・田口氏などの庶流を生じた。

系図を拝見すると「答えが見つかりました」
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/tahara_k.jpg

直貞 田原豊前蔵人三郎正雲
槻木氏系図
直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全一致・・・完全に一致した・・一致した・・
「一致」と言う言葉が頭の中で何度も何度も繰り返されていました・・

先日、私はコメントの中で
『あせらなくても、次々と「鍵」となる事に遭遇している』
と書きましたが・・
本当に、あせらなくても「偶然」に『遭遇』してしまいました・・・
鳥肌が立って・・こんな事って本当にあるんだ・・と・・

私が追い求めていた「系」は「槻木氏」だったのか?・・・
「槻木氏」は系図より
「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」・・と同族であった事が判明。
さらに田原氏は立花氏と同族である・・
先日、私は集落内にいらっしゃる「立花氏」について
松葉宗益 後裔 平賀氏について3 コメント81以降で書いたばかりでした・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_93.html

さらにさらに、以前から書いていますように「田原氏」は家の親戚にもあります・・
祖母の従妹の嫁ぎ先で、昨年の末には、父のふた従弟となる「田原のおじさん」が家に来られて私は「田原のおじさん」と色々お話をしています・・

こんな事って・・本当にあるんだ・・きっと、必ず・・そう・・私は何かに導かれている・・

私が何故「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」等の方々を調べる事になったのか・・
そのきっかけ・・原点は・・
初期に感じた私の妙な「感」より
平河師高と藤原師高は同一人物ではなかったのか?・・
ここからが始まりでした・・

しかし、系図で判明した上記の方々に繋がる系は「槻木氏」であった・・
本当に・・驚いています・・

しかし、何故?槻木氏は「安陪(阿部)」を本姓としているのか・・?
一つ気になる事がありました。
槻木氏系図より
大友能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ ★直貞
★泰廣・★直貞 「泰」の文字と「貞」の文字・・

皆様、
日本の苗字七千傑作様のサイトより
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏】姓氏類別大観 以降の
安倍氏をご覧ください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm#000
※安倍氏と那須氏は同族・・
※安倍氏と

《安倍氏》姓氏類別大観
★通字が「泰」である方々が多数見えます。
さらに「貞行」と言う方の名も見えます。「貞」の文字。

「貞」の通字と言えば・・
陸奥安倍氏 「安倍貞任」
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《陸奥安倍氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm

槻木氏系図より
大友能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ ★直貞(安陪蔵人三郎直貞)

上記の事より、槻木氏が本姓を安倍とされた経緯として
大友能直以降の方々と安倍氏との姻戚関係が「その理由」ではなかったのか・・?
と私は推測いたしました。

では・・皆越氏に残る「平家落人伝説」は一体・・?
と考えた時に
槻木氏(皆越氏と同族)の、球磨に来られた当時に発生した「米良山」の某氏との姻戚関係。
さらに早期に発生した緒方氏(五家荘緒方家か?)との姻戚関係に
何らか関わりがあるのでは?と分不相応の私ですが、推測しています。

他にも、源氏の追及を避ける為・・との考えも浮かびましたが・・
しかし、系図では、皆越の「某氏」までは、名前がはっきりと記載されている事から、この考えはいかがなものなのか・・?とも・・頭をよぎります・・

皆越・槻木と言う、球磨を取り囲む山の地域より、尾根続きで繋がっている椎葉村に、
安倍氏と同族であり、さらには「藤原長家流」である「那須氏」が在している事も
私は、どうしても偶然とは思えません・・

ただ・・私の信念は あくまでも
古代 ⇒ 中世 ⇒ 近世は繋がっている! です。

私が系図をお預かりした「槻木さん」の御先祖様は・・
槻木から、球磨村の遠原に程近く、さらに芦北郡伴郷と隣接する
球磨村三ケ浦(さんがうら)に知行地を拝領して移られていらっしゃいます。
さらに、その後
球磨村の遠原に程近く、球磨村三ケ浦(さんがうら)そして芦北郡伴郷と隣接する
鹿目(かなめ)※旧山口村に移られています。

私は芦北郡伴郷と隣接する地域に「大友氏」や「波多野氏」の系をひく
「槻木氏」が住された事を単なる偶然とは思いません・・

そして、コメントを書いて、ようやく気が付きました。
私が、最近訪れた「場所」、そこで知った事、感じた事は・・
今回の「発見」の前の「周囲の状況」を理解する為の勉強であった・・
と言う事を・・

科学では証明出来ませんが
私は、見えない大きな力の存在、お導きを身を持って感じています。

所で・・
旧槻木村(現多良木町)に御鎮座の神社様の宮司家は代々「宮原氏」です・・
私は、一つ、気になる事があります。
槻木氏の系図に記されていた方・・
「長門守」「出羽守」・・

宮原の一族の先祖「橘公業」は
「長門守護」の後、承久の乱の軍功により「出羽国」の秋田県男鹿市、他現在の秋田市等を所領・・

槻木氏の系図に記されていた
「長門守」「出羽守」・・長門と出羽・・

槻木氏の系図には、「宮原の一族」の先祖「橘公業」との目には見えない関係を
感じてしまうのは、私だけでしょうか・・

槻木さんには、簡単にですが、「大友氏」との繋がりを電話で御報告させて頂きました。
槻木さんは、とても冷静に「大友氏・・か」と言われていらっしゃいました。

最後に槻木氏の祖でもある
大友能直 のウィキペディアの記述を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

出自
相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父・能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。
父・能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟・田村仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている。

あああ・・平河氏ではなく・・槻木氏であった・・

リフレインしています・・

皆様、御教示、そしてお感じになられた事等
ぜひ、コメントを頂ければ幸いです。

私の頭は、今、少し混乱しています。
しかし・・近藤氏・中原氏の姻戚関係を持つ系の方々が球磨にいらしたと言う事は
椎葉村で「発見」した事にも繋がっていきそうな気がします・・
それは「藤原師高」に繋がるお話です・・

あらためて、
皆様方からのお言葉を私はぜひお伺いしたいと願っています。
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 09時57分56秒 ) パスワード

追記

とても重要な事を忘れていました。

槻木さん(御系図を所有)の御先祖様が、旧槻木村(現多良木町)より移られた
現球磨村一勝地三ケ浦・さらに球磨村渡とは・・
平安時代末期の平河師高の所領地 一勝地村であり渡村であった・・
重要な事を忘れていました・・

平河師高の所領地跡を
父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能である
大友能直の後裔となる「槻木氏」が継いで所領していた・・
と言う事を、とても大事な事をスルーする所でした・・

さらに、宮原氏との関係において
とても大事な事をスルーしていました・・

大友能直 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4

父・能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされる・・

★武藤資頼は梶原平三景時(梶原景時)の娘婿
※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は宮原の一族の先祖、橘公員の妻※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は橘公綱の母。

すなわち!「槻木氏」と「宮原氏」は元々『縁戚関係にあった!』
何と言う事だろう・・

私の今までの疑問が、全て解け始めました・・
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