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 投稿番号:101619 投稿日:2018年01月11日 09時08分30秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について43

コメントの種類 :その他  パスワード

2018年がスタート致しました。
私がこちらのスレッドを利用させて頂き、先祖の調査を始めたのは
2013年9月01日。

先祖の調査が5年目を迎えました。
最初は『すぐに色々と解るだろう』と簡単に考えていましたが
そんなに甘くなかった・・・とあらためて今思います。
球磨の古代から近世まで続く「謎」が大きな壁となって
立ちはだかっています。
しかし、勉強を積み重ねていく事によって
その壁の中に大きな扉を見つけて壁の向こうを見る事が
必ず出来ると私は信じています。

皆様方から頂くありがたい御教示。
ありがたいご支援の言葉。

私は感謝の気持ちと共にしっかりと胸に刻んで
今年も勉強・調査に精進してまいります。

皆様方
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは
平川家について40+2 コメント69より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101611_68.html


[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月12日 06時57分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

最近ブログの方で球磨の古代について調べていますが
大同年中に建立が続いた球磨の神社について書かせて頂いた際に
秋篠宮文仁親王様も御成りでいらっしゃった人吉の遥拝大明神 (遥拝阿蘇神社)と
球磨川を下り、八代市内に入る前(球磨川沿岸道路沿い)の山中に御鎮座の
豊葦原神社(遥拝神社)
この二社の神社様のトーテムが「鯰」である事に気が付きました。
「鯰」の装飾が施されたお寺や神社を私の住む地域(旧久米郷)で見かけた事が
今までにもあったので、「何故?鯰なのだろう?」と考えて
色々調べた結果、鯰をトーテムとしたのは
「古代久米族」もしくは「蘇我氏」であったのでは?と言う事に気が付きました。
よろしければ、詳しくはブログの方でご覧ください。
 ブログアドレス
@ http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12338064869.html
A http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12339558210.html
B https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html

さらに姫姓東周霊王の太子・姫晋を祖とする太原王氏「王 允(おう いん、137年 - 192年)
この方も鯰トーテムとする家であった事にドラマを見ていて気が付きました。
この件は、もっと詳しく調べなければいけないとは考えていますが
ドラマの制作者側も時代考証を行った上での「装飾」であるはずだ・・とは考えています。
C http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12342592277.html

鯰をトーテムとする神社仏閣が見られる九州の地域は
旧肥国(熊本・長崎・佐賀)に集中しています。
さらに、奈良県では久米寺にその「鯰」のトーテムが見受けられます。
久米寺は久米族だけではなく蘇我氏を祖母方(蘇我稲目の娘様)とする来目皇子(久米王)※聖徳太子の同母弟に
御所縁のお寺であり、さらに蘇我稲目の子息「田中刀名」は「久米臣」の祖である事も解りました。
蘇我稲目の先祖となられる武内宿禰。
『古事記』では武内宿禰は許勢臣(巨勢臣)・蘇我臣・平群臣・木臣(紀臣)を始めとする27氏の祖とありますが
武内宿禰の息女に久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)と言う名の方がいらっしゃり
さらに武内宿禰の多数の後裔の中に『新撰姓氏録』では
右京皇別 久米朝臣 が見られます。

私の推測ですが
結局、古代久米族・武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏は
遡ると古(いにしえ)からの「縁」で繋がっていると考えています。
この事は、私が今まで数年間調べて来た、古代の球磨について「気が付いていた事」と一致しています。
古代の「縁」と書きましたが、「同族」もしくはそれに近い「関係」であったのでは?と考えます。
その「縁」に深く関わるのが火国山門に住したとされる呉王夫差の系であった事は「鯰」のトーテムから推測して間違いないのでは?とも考えています。

古代久米族の元祖的本拠地であったと言われる球磨郡久米郷。
喜田貞吉氏は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、太田亮博士はそれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造(とものみやつこ)である・・と言われています。

その久米族と「縁」が確実にあると私が推測する武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏、
そしてその縁に深く関わる呉王夫差の系。
謎を解くべきその場所は・・やはり球磨ではないのか・・・

知識の浅い、歴史を本格的に学んだ(専攻した)訳ではない私が言うと
非難を浴びたり、一笑される事は覚悟の上で、お許し下さい。
私は今までの調査をふり返り、現段階では
久米族とは
@モン・クメール系倭人 = 久米部
古代、沖縄の久米島経由で九州南部に。球磨に拠点(古代の国)を形成。
A天津久米尊後裔 大久米命 = 姫姓 呉王夫差の系、もしくは何れかの中国王朝の王家の系(姫姓?)※江南地方から南海経由もしくは朝鮮半島経由
※久米部を率いて神武天皇御東征に従う
★元祖的天皇家に従った方々。
B元祖的天皇家に従わず、反発をした久米族(姫姓 呉王夫差の系+モン・クメール系倭人)
=熊襲の「熊」※曽人(後の隼人)と融合
★東征には従わず肥国や曽国に残る。
C反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々 = 火君の母方
D同じく反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々の宗家 = 後の松野連
※後に後裔(一族)は熊本県内の菊陽や菊鹿等に定住。
(今まで書くのを控えていましたが、この事は熊本県内の歴史研究家の方々は周知の事実です)

@〜Dここまでが、現段階の私の推測です。(今後の調査でもちろん変わる可能性はあります)

さらに姫姓の方々と木氏(紀氏)さらに蘇我氏は非常に「濃密な縁がある」と推測しています。

蘇我氏は・・・久米族・姫姓の方々だけではなく、さらに曽人(隼人)とも縁が深かったのではないか・・
(ここはあくまでも推測までとはいっていません。葛城氏と曽人(日向)の縁から少し気になっています・・・)
※同族と言われる平群氏。平群は奈良だけではなく日向にも地名がある(和名妙類聚抄)

ブログの方の調査で、久米族の系の方が『太伯地名がある吉備国』
大伯国造となられている事も解りました。
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』と言う方です。
『大伯国造 佐紀足尼』が大伯国造となられたのは応神天皇の時代とも言われています。
ウィキの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると
西暦270年〜西暦312年の間だと推測されます。

球磨の古代の遺跡からの出土品や墳丘墓より『吉備国』と古代球磨との関係が明白となっていますが
私は、上記の※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』
この方が球磨と『吉備国』を繋げる線の一つであると考えました。

もちろん、私は神武天皇の御東征が2675年程前、縄文時代の頃であったとは
考えてはいません。
百済や新羅の建国等から推測した年代を以前日本の苗字七千傑様より御教示頂いていましたが、
自分でも一応勉強させて頂いて、おそらく300年代ではなかろうか・・?
と考えるに至りました。
そうすると
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』(西暦270年〜西暦312年の間の人物)
この方と古代球磨との関係が解った事は『非常に重要な事』であったと思います。

ここで(..)
三つ柏服部様、
私の拙い調査をご覧下さって頂ける事を願って書かせて頂きます。

三つ柏服部様御自身の御調査の妨げになってはいけないと思い
お声掛けをさせて頂く事を控えておりました。
ただ、御報告をさせて頂きたい事がありまして
今回、書かせて頂きます。
申し訳ありません。

三つ柏服部様から御紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」 拝読させて頂きました。
実は、購入してすぐに読み始めたのですが、数ページ進んだ時に
ふと「来年の正月に読むべきだ」と考えたのです。
何故その時そう考えたのか、自分でも全く理由が解りません。
それから、突然、ブログの方で書かせて頂いた様々な内容が頭の中を駆け巡り
精力的に、次々と閃く事を書かせて頂きました。

そして、今年の正月を迎えました。

「正月に読むべきだ」と考えた事から、早速元旦にページを開くと
最初に驚いたのは
以前読んだはずのわずか数ページが、以前とは全く異なりすらすらと頭の中に入って来た事です。
不思議な感覚を覚えながら読み進めました。

すると、本当に驚い事が多数ありました。
まず、私がブログの方に突然閃いて書いた(紹介させて頂いた)
球磨川に渡来した「かっぱ」さんの話。
以前、こちらのスレッドでも数回御紹介させて頂いていましたが、ブログの方で
あらためて書かせて頂いた時に自分自身でも「かっぱ」と呼ばれた方々は
日本の建国(大和朝廷の成立)に何らかの関わりがあるのでは?と考えていた
その事が書籍「シュメールの天皇家」に書かれていた事です。

鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
「オーレイオーレイ デーライタ」(呉人呉人多来的)祭りの由来となる
球磨川河口に渡来した「かっぱ」に着目されて、その「かっぱ」と言われた方々は
三国時代の呉国から来た、後の「蘇我氏」であったのでは?と
推測されていらっしゃいました。
非常に驚きました。
先にも書いたように、久米寺・久米御縣神社は久米族に所縁の場所であり
さらに久米寺は「蘇我氏」を祖母方とされる(蘇我稲目の娘様)来目皇子(久米王)に御所縁の場所でした。
私は久米族と蘇我氏の関係に「縁」を感じていたからです。
最近、球磨周辺に関係する「呉国」とは、春秋時代の「呉国」と三国時代の「呉国」、両方の呉国であったのでは?
と考え始めていた矢先でしたので、書籍の記述を読んで、やはり驚きました。

次に驚いたのは
鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
狗奴国は沖縄(場所は明記されていませんでした)にあった古代国家でありその分国が熊本にあった。
後に熊本の狗奴国が吉備に東征した。
と推測されていた事でした。

先にも書いたように古代の球磨と『吉備国』を繋げる線の一つが
大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』。
「久米族」の方が『吉備国の太伯地名』である大伯国造となられていた事に気が付いていた私は
上記の狗奴国が古代の熊本(肥国)から吉備に東征したとの鷲見氏の推測に
鳥肌が立つ程驚いたのです。

「セム系」と「ハム系」の対立と言った「この書籍」の本質部分については
未だ私はその根拠的な所を含め理解出来てはいませんが(これから勉強致します)
しかし、「人の移動」については、『様々な分野からの研究』・『多方向からの視点』が一致すると言う事は
単なる偶然と、私は思う事が出来ません。

さらに書籍の中で『「熊本県」にあった』と推測されている「古代国家」、「狗奴国」・「多羅国」等他「複数の国」が登場した事も驚きでした。
自分自身も「多数民族の集合の地」であったと推測していましたので
非常に興味が湧きました。

他にも『23日の深夜』に関わりのある行事等「驚き」が多数ありました。

三つ柏服部様、
とても参考になる書籍をご紹介して下さって
本当にありがとうございました。
勉強をさせて頂きました。

大寒波ですが、
風邪などおひきになられませんよう
お身体十分にご自愛下さい。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月12日 08時56分05秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 お元気で何よりです。
 このところ、私は少しパワー不足となってまいりましたので、ミヤハラ様
のお声が聞けて、またパワーが湧いてきました。

 どうも、スハス(スバス)姫を中心として、謎の源がありそうな「勘」がし
ております――
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月13日 08時16分41秒 ) パスワード

三つ柏服部様
ご覧下さり、ありがとうございました。

私の住むあさぎり町の今朝の気温は−8.3度。
窓が凍って開かない状況です。
ここは九州南部との境なのですが・・・
(気象庁は球磨までを九州北部とされているようです)


日葉酢媛命でしょうか・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命
景行天皇の母君ですね。

私は以前『日葉酢』とは方喰草ではないか?と考えたのですが
三つ柏服部様の御調査を拝読して
東南アジアに分布するコショウ科の植物に「ヒハス」があると言う事を
勉強させて頂きました。

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)・・・久米・・
皇后 日葉酢媛命
景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこおしろわけのみこと)
おおたらしひこおしろわけのみこと・・・たら・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の前皇后は
日葉酢媛命の叔母にあたられる狭穂姫命。
狭穂姫命は火中出産をされた方でした・・

日葉酢媛命。
父君は第9代開化天皇の皇孫「丹波道主命」

不敬に当たる事かも知れませんが
第9代開化天皇様は欠史八代と言われる天皇様方のお一人で
欠史八代の天皇様方の「その八代」にあたられる御方ですね・・・

色々考える事があってウィキの欠史八代の記述を読みました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

実在説

記紀歴史書説
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
※乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。
この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。

プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。
欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。
また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。
=================================================

今まで欠史八代の様々な説をしっかりと読んだ事がなかったので
ウィキの記述でおおまかに理解させて頂きました。

ただ、実在説の「葛城王朝説」・「プレ大和王権説」も其々が
鍵を握っていらっしゃるのは
垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の父君
崇神天皇様であると言う事は解りました。

驚いたのは・・・
崇神天皇様をめぐって
@九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える説。
A崇神天皇の王朝を狗奴国に比定する説。
B崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国とする説。
C崇神天皇の王朝が邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説。
等です。

私がこの数年間、調べて「感じて」「閃いて」いる事は
どうしてこんなに「謎」に包まれているのだろうと度々考えていましたが
@〜Dの説を初めて拝見して
越えてはいけない壁の向こうを自分は調べているのかもしれない・・・
そんな事を考えてしましました。

ただ、その壁の向こうを見なければ、おそらく
私が知りたい先祖の真実や故郷の古代の真実には辿りつけない。
そう考えます。

今回、三つ柏服部様からお言葉を頂いて
ふと気になり
今まで理解していなかった「様々な説」を初めて拝見しました。

パワーを頂いたのは私の方です。
三つ柏服部様
本当にありがとうございました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 10時27分42秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 返事遅くなりました。うっかりしておりました。申し訳ありません。
 ヒバス姫のことも、うっかりして、「スバス」と書いてしまいました。
 このところの集中力の欠如は否めません。仕事、家庭、近隣、寒さ、体調
等いろいろな要素がからみますので、余り気にはしていませんが、ご迷惑を
かけないよう気をつけたいと思います。

 ヒバス姫という名前は全く理解を越えた名前で、人によるとインドの匂い
がするということですが、東南アジアの植物のヒハスと言葉がよく似ていま
すので、ひょっとしたらと思った訳であります。私は最近、この血圧に効く
というサプリメントを飲み出しました。結果としては、医者の薬程ではあり
ませんが、処方薬なしでもいいほどの一定の効果はあります。

 500年前の歴史でもなかなか真相はわからないのに、1000年、ある
いは1500年前の真相、ましてや2000年前の歴史の真相をつかむとい
うことは、実際、推測の推測……ばかりになってしまいます。
 それでも、大局的に、鳥瞰してみると、大きな流れは見えるのではないか
と感じております。

 歴史の変わり目というか、砂時計の首(ボトルネック)のところが、ちょう
ど「ヒバス姫」あたりのような「勘」がしております。表面の歴史では見え
ないですが、裏の歴史を見ると、やや透けて見えます。それは、王統、ある
いは皇統というものであると思っております。

 実は、「服部連」のルーツもそのへんでわからなくなっているのです。
 歴史はデジタルでなく、アナログの世界でありますので、数学のように解
くことはできないのが難点でありますが……。
 ただ、私が思うのは、ここらあたりが、「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイントかと思います。純日本的な歴史観
では解けない。かといってユダヤモードやシュメールモードに切り替えるの
には抵抗がある……いったいどうしたらいいのでしょぅかという訳でありま
す。

 最近斎藤忠著『裏天皇の謎と 安倍晴明』という本の理解に努めているの
ですが、なかなか歴史の把握が難しい。かいつまんで言いますと、安倍晴明
は、日本国によって滅ぼされた倭国王家の名称を継承する阿倍氏本宗の当主
であったということでありますが、これをすぐ理解せよと言われてもなかな
か難しい。たぶん、九州の地にある大和朝廷に対して抱く遺恨、失われてし
まった王国の遺恨というものを根底に持つ者達が存在し、その中に当事者と
しての安倍晴明がいたのではないかと考えます。

 皇統というものが、日本の歴史の骨格だと考えれば、ここを明確にすれば
歴史の謎は解けるということにはなります。ここが解けないから、いろいろ
な推測、またその推測に基づいた推測、というように推測の積み重ねになっ
てしまうのだと思います。でも、ここは致し方ないところであります。

 古代史探究には、茫漠の時間がかかりますので、それには没頭はできませ
んが、私は丹波王国には興味をもっております。ヒバス姫もそこに関係して
来ると思っています。

 いずれにしても、九州の球磨に絡む歴史の解明、ミヤハラ様の強い意思に
今後も期待しております――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 21時46分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様
 
 また、うっかりでした。私の飲みだしたサプリは、「ヒハツ」でした。
 「ヒハツ」と「ヒバ(ハ)ス」の違い、いずれにしても両方とも日本発祥の
言葉ではないような感じはします。ミヤハラ様の酢漿草説の方がわかりやす
く、正解かも知れません……。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 12時41分08秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様 今日は。

三つ柏服部様
ご教示ありがとうございます。

〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

非常によく解りました。
まさしく、おっしゃる通りだと思います。
最近、私は記紀等で気になる方が登場すると、
この方の時代を記紀ではいつ頃の「話」だとして描いているのか?
そう考えて、ウィキの「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を見るようにしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命

時代は紀元前29年〜70年にかけて、まさしく1世紀です。

記紀を編纂した方々は外国(中国や朝鮮半島)の史書を参考にして、
年代に整合性をとったのでは?と推測する事は可能だと思っています。
(100年〜200年程のずれは発生しているのでは?とは考えています)

三つ柏服部様のお言葉
〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

このターニングポイントは1世紀〜2世紀にかけてとなり
海外からの古代日本への進出がこの時代から応神天皇(270年〜312年)まで
めざましい勢いで進んでいったのではないのでしょうか・・・

ただ、このターニングポイントはもちろん縄文時代にも度々あったとは思いますが
縄文時代末期の紀元前400年代が九州における大きなターニングポイントであったと考えます。(文明が大きく変わる)

私は自分なりにど素人ながら少し勉強して考えるのですが
中国や朝鮮半島、さらには南島からの古代日本への「渡来」に際して
海を渡って来た人達が目の前に「陸地(日本)」が見えるのに
わざわざ遠回りして畿内まで進んで上陸するのだろうか???と。
南海経由であろうが、朝鮮半島経由であろうが、遥か遠くから海を渡って来て
最初に上陸する「地」は
目の前に見える「その土地」である事は間違いないと思います・・・

そこに上陸した後「拠点」として最も適した場所を見つけ「国(勢力域)」を造り
そこからさらに勢力を広げる為に日本列島を東に向かって行く(侵攻)したと考えるのは
不思議な事ではない・・・と。
(知識の浅い私が言うのは不相応で申し訳ありません(..))

もちろんある「一行」は到着した「その地」が日本海側であれば同じくそこに拠点を造り勢力を広げていった・・・

其々の拠点となる地の選択にもっとも必要となったのは「稲作が出来る土地」であり
「鉄の生産」が出来る土地であり、
もし「鉄の生産が不可能」な土地に拠点を持ったならば、「鉄」を輸入する事が
可能な土地でなければ、勢力を広げる為の十分な基盤を得る事は出来なかった
と推測します。

※稲作(特に水稲)に必要な水(川)に恵まれている。(焼畑に適した土地でも可能)
※武器や農機具を造る為の「鉄の原料」鉄鉱石の産地である。
※もしくは製錬された「鉄」の輸入が可能な地域である。

上記に該当する地域に古代国家が次々と形成されていった・・・
その古代国家同士が時には争い、時には連合して、時には争いの末に国を譲って
日本全体が一つの国へとまとまっていった・・・

ブログの方にも書いたのですが
私は何が一番良かった!と思うかと言いますと、
やはり「朝貢」と称して他国に「人」を「生口」する事が無くなった事です。
日本が統一されて、国としてのプライドが持てた事
その国の「国民」を外国に「朝貢」する事など無くなった事
『”真”の大和朝廷』の成立は素晴らしい事だと思います。

ただ、三つ柏服部様のお言葉にある
『失われてしまった王国の遺恨』
見えない部分で、何時の時代でも引継がれた「思い」なのでしょう・・・
とても納得致しました・・・

私は最近妙な事が気になっています・・・それは
熊襲とは・・・本当に「狗奴国」の事なのだろうか???
もしかしたら「邪馬台国」の政治の中心部の人達ではなかったのか???
元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力が拡大して、邪馬台国に侵攻し
邪馬台国内で元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力に「従った政治中心部」と
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)に別れ
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)が曽国に逃れて行ったのではないか・・?
その人達が「熊襲」ではなかったのか・・?

曽国に逃れた人達の中から元祖的天皇家に従う「姉妹」が現れて
妹の方が『母国』に戻る事が出来たのではないか?(火君与う)
しかし他の従わなかった人達は、曽国以外にも南下して離島に逃れたり
北上して筑紫国に逃れたのではないか?
北上した人達が 仲哀天皇紀に描かれている北部九州の熊襲と呼ばれた方々ではなかったのか?
と。
一般的な説「狗奴国」=「熊襲」とは全く逆の発想ですが
しかし、こう考えると記紀に書かれている内容とは一致してくるような
気がするのです・・・
景行天皇の「熊襲」征伐として書かれた地域はあくまでも「襲(曽)」国です(姉妹の方が居た地域)。
6年後の記述では
熊縣の熊津彦と言う方は 景行天皇に従っています。
球磨の隣である小林(夷守)・えびのを景行天皇に従って案内した方々は
兄夷守と弟夷守です。
この方々が熊津彦の子息二人であった事は十分に考えられます。
球磨はあくまでも熊縣であって「熊襲」の域とは書かれていません。
芦北も同じくです。芦北の住人(山部氏)も景行天皇に従っています。
この方々もあくまでも芦北の人であって、芦北も「熊襲」の域とは書かれていません。
八代も同じくです。
熊本県内で「熊襲」と書かれた人が居た地域は「益城」周辺だけです。
そこ(元の国)を離れなかった人達が残っていたのでは・・?
筑紫国(北部九州)に逃れた人達(熊襲)は制圧されて、結局は元祖的天皇家に従った・・
元祖的天皇家と従う狗奴国は九州全土を制圧して、さらに北上したのでは・・

松野連系図に見られる、天皇家に従って「火国造」を賜った市鹿文(姉妹の妹)
兄弟の宇也鹿文(火国菊池評山門里住)※火国菊池の評督となる。
襲(曽)国に逃れた後に、元祖的天皇家に従って母国に戻る事が叶った
二人の方々
私はそう考えます・・・

こう言う風に考えると記紀の記述と整合性があうのでは・・・
ただ、記紀の記述は先も書いたように100年〜200年のずれが発生している事は
確かなようですが・・・

卑弥呼という女性は、産まれは北部九州で、一族の代表として選ばれて
女王として「政治の中心がある場所」に来られたのではないのでしょうか・・
まるで、徳川家の『将軍』の継承のように・・・
その後の事は今まで書いたような流れとなってしまった・・・

私も時には「大胆な推理」を書いてみよう!と思いまして
ぶん不相応ですが、書いてみました。(お恥ずかしい限りです)


所で三つ柏服部様
今回も非常に長くなっている事をお許し下さい。
一つ、気が付いた事がありますので書かせて頂きます。

三つ柏服部様からご紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」の中に『23日の深夜』に関わりのある「事」が書かれていました。

天皇様の主要な祭儀の中で最も重要な祭祀は11月23日夕から翌午前1時までに行われる
「新嘗祭」であり
新嘗祭で、天皇様は新穀を天照大神様など神々に供え自らもお口にされる。
とありました。

私は11月23日の深夜に「新嘗祭」が執り行われるとは全く知らなかったので
この記述を読んだ時に恐れ多い事ですが鳥肌が立ってしまいました。
頭に浮かんだのは祖母の実家の氏神様として木札に書かれた
月讀廿三夜比賣尊

木札には左から
月讀廿三夜比賣尊
天津彦火瓊々杵尊
天津彦火火出見尊
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12274474875.html

以前三つ柏服部様は
月讀廿三夜比賣尊と記された所が天照大神となるのが普通ではないか?
と言う事をおっしゃっていらっしゃいました。

実は今朝、伊勢神宮の記述から進んで初めてウィキの九州王朝説を読んだのです。
そこには「淡海は古代球磨川河口」と言う記述がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

今更知ってお恥ずかしいのですが、非常に驚いて、ここから「淡海と天皇家」のワードで色々検索していた所
天智天皇が皇都とされた「淡海大津宮」の記述を知る事が出来ました。
さらに「淡海大津宮」を調べていた時にネット公開されていた
斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」
が目に留まりました。

https://books.google.co.jp/books?id=FMaKCwAAQBAJ&pg=RA1-PA33&lpg=RA1-PA33&dq=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&source=bl&ots=pzI3jZmZNW&sig=Ra4wpeE7EbwCSetKolmQiP1VPuc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi10PmeltvYAhUIF5QKHcAiCVoQ6AEILjAB#v=onepage&q=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&f=false

この書籍の中(表示されたページから3ページ程先最後の2行)に
衝撃の言葉が記されていました。
『推察するに皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
月神は古くから内宮、外宮それぞれの別宮に祀られるが、おそらく元明(天皇)の時には倭国皇統の故地から伊勢神宮のうちに強いて勧請したことによって必要となった新規月神用斉王の派遣であろう。
天皇の方の斉王は言うまでもなく日本国皇統の奉じる日神たる天照大神に対するものだ。
天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
むろん奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められたろうが
以下略・・・』
以上 斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」より

※皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
※天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
※奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められた・・・

私はついに祖母方の氏神様がどう言う意味を持つ神様であったのか
理解出来たような気がしました。

天照大神(月神/月讀尊)

月讀廿三夜比賣尊 は 天照大神ではないのでしょうか・・・!

鳥肌が立ちました・・・

しかし、続けて最大の疑問が湧きました。

日本全国、どこの神社様にもお祀りされていない
祖母の実家の氏神様
月讀廿三夜比賣尊

月讀廿三夜比賣尊と天照大神 同一であるとした場合
何故?この国の重要な秘密、隠された事を祖母の実家の先祖は知っていたのか!?

おそらく、知る方々はごく僅かだと思います。
公表されていない、時代の影に隠された事を何故?祖母の実家の先祖
いえ、私の先祖は知っていたのか?
何代にも渡り継承してきたのか?
おそらく、椎葉村以前、先祖代々受け継がれていたと推測しています。

私の先祖調査の最大の「謎」についに突き当たった
そんな気持ちです。

三つ柏服部様にお声掛けをして御調査をじゃまする行為をして申し訳ございません。

しかし
一番に三つ柏服部様に御報告をと考えて書かせて頂きました。

謎ではありますが、しかし、先祖の真実を見つける鍵なのでは?
とも考えています。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 16時01分56秒 ) パスワード

追記
ウィキの九州王朝説の解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

淡海は古代球磨川河口以外の記述を読みました。
(朝は淡海は古代球磨川河口のみの記述しか読んでいませんでした(..))

感想は・・・
なるほど・・と思った所もありますが
うん?????(?_?) 納得できない・・(本音)
と言う所の方が多々ありました。(勉強不足も原因でしょうが)
父は「諸説あり」と考えるのが一番と笑っていました。

九州の古代研究はおもに北部九州のみに視点が集中しているように感じます。

私は記紀の記述を完全に無視するのは・・抵抗があります

九州中南部の勢力と九州北部の勢力が合流、吉備経由で奈良に・・
記紀の神武天皇の御東征の内容は「この歴史」を描いているのでは・・・と(..)
私自身まだまだ頑固なのかもしれません
ただ・・西暦で言えば300年代かなぁ・・とは思います。

九州の古代研究の視点が北部九州に集中しているのであれば
私は球磨からの視点で、別の方向から九州の古代を感じていたい・・
そう考えます(^'^)
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月17日 08時35分11秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 古代史についてのご見識、尊崇に値します。ヤマト政権の前後のことは、
私自身もスッキリさせたいと思っています。といってすぐに結論を出せる
訳でもないので、並行して探究して行きたいと思っています。
 今、「阿倍氏」の謎に囚われています。古代氏族ということですが、本
を呼んでも、なかなかスッキリとはわかりません……。
 古代史については、この方向からアプローチしてみたいと思っています
ので、新しいことがわかりましたらお知らせいたします――
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月18日 05時52分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ミヤハラ様にはそんなことはないと思いますが、古代史は一旦理解しても、
すぐ忘れてしまいます。
 それは何故かと考えてみますに、この説は正しいと思っても、すぐに次の
説によって迷わされ、くらついてしまう。つまり、いつも半信半疑な状態の
把握であるのが原因なのかと思っています。

 私にとってこれはいい本だなと思われるものには、その本の表紙に「テキ
スト」と書いたシールを張ります。
 その一冊に、壇国大学特別教授の金容雲氏の書いた『「日本=百済」説 
原型史観でみる日本事始め』(三五館 1,500円+税 2011年)という本があ
ります。以前にも書かせていただいたかも知れませんが、この本を読むと、
九州の古代が、朝鮮半島との関係の中でよくわかります。特に108頁に出
ている「熊襲征伐の必要性」というところを読むと、狗奴、邪馬台、高千穂、
大和の関係がよくわかりますし、全体を通して半島との関係・事情がよくわ
かります。

 私にとっては、古代史本は一度読んでもすぐ忘れてしまいますので、余り
意味をなしませんが、ミヤハラ様でしたらスイスイと理解されることと思い
ますので、是非一度読んでいただきたいと思うのですが、既にお読みでしょ
ぅか?
 
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