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 投稿番号:101611 投稿日:2017年11月05日 12時10分25秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について40+2

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様方から頂いた温かいお言葉を胸に
私は前を向いて先祖の調査、球磨の古代の謎に挑んでいこうと思います。

皆様、本当にありがとうございます。
心から感謝申し上げます。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。

こちらは平川家について41 コメント62より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101605_61.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月05日 13時00分02秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様
しばらく、調査に関するコメントをお休みしていましたが
本日から再開させて頂きます。
今後ともよろしくお願い致します。

最初に書かせて頂こうと考えていた内容は多々あったのですが
その中で、今朝、ぜひ書かせて頂こうと考えた事がありました。

三つ柏服部様
私の拙いコメントをご覧頂いて下さる事を願って書かせて頂きます。

三つ柏服部様が御調査の長上郡の服部氏族XC\(課題確認42)を拝読させて頂き
勉強をさせていただいています。

現在、三つ柏服部様がお調べの
「服部中家」その祖は「平宗清」と言われていらっしゃる事。
「平宗清」この方は平頼盛に仕えていらっしゃった事。

上記のお話を拝読しながら、私は少し気になる事がありました。
「服部氏」に関する事を勝手ながら私が書かせて頂く事をお許し下さい。

球磨は平安時代「球磨荘」と呼ばれる荘園で王家領でありました。
ウィキより 球磨荘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98

球磨荘(くまのしょう)は、肥後国球磨郡一郡を領域とした荘園。球磨御領とも称された。
概要
元は平家政権の下で設定された蓮華王院を本所とする王家領であり、平頼盛をはじめとする平家一門もその経営に関わっていた。
治承の乱の後、球磨荘は平家没官領として一部が没収の対象(ただし、頼盛の所領は後日返還)となり、建久3年〈1192年)に該当部分を王家領・関東御領・公領などに分割する片寄が実施され、人吉荘・永吉荘などが成立した。

鎌倉時代以降、球磨荘は解体されて中でも人吉荘は
預所は平頼盛の子息「平光盛」となりました。

この平安時代までの球磨荘において平頼盛、この方はその経営の主たる立場にありさらに人吉の原城(人吉城)は平頼盛が城主であり、代官矢瀬主馬介が城代として在城されていました。

月刊ムーに記載であった現球磨郡水上村、旧湯山の城主
湯山氏は平安時代平頼盛が球磨荘の開発を行っている時からの
湯山の領主であり本姓は「平」通字は代々「宗」です。
実はこの湯山地区には代々続く「服部家」があります。
私の高祖父の出自に由来する椎葉村矢立はこの湯山地区から一気に山を登った所にあるのですが、
その矢立に向かう湯山地区の一番奥にあるとてもりっぱなお屋敷が服部家のお屋敷です。
後世、湯山の服部氏は相良村の柳瀬地区(旧平河氏所領地)にも見えるようになりました。
外城 柳瀬(現相良村) 城代
服部惣助 → 服部宗助 → 服部宗助 (時代が異なるので宗助は通称か?)
こちらも「宗」です。

湯山氏 本姓「平」通字は「宗」
球磨の服部氏 通字「宗」

以前、コメントしたように
深水氏と平河氏と球磨の服部氏は姻戚関係にありました。

実は、1600年代中頃に建立された私の住む集落の庚申塔にも湯山氏の名が残り
さらに、分限帳にも旧宮原村の在郷の藩士の中に湯山氏の名前は江戸末期まで残っています。

三つ柏服部様の御調査とは全く無関係な事を私は書いているのかもしれません
お許し下さい。

しかし、湯山氏も平安末期「平頼盛」に仕えていらっしゃった事はおそらく間違いないと私は推測しているのです。

気になっていた事なのです。
しかし
もちろん三つ柏服部様の御参考の対象外とは思いますが
球磨の本姓「平」通字を「宗」とする湯山氏と球磨の「宗」の名が付かれる服部氏について書かせて頂きました。

申し訳ありませんでした。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月05日 19時32分20秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ミヤハラ様、喪中の所、誠申し訳ありません。正に乾坤一擲の魂の奥底から
の呼び声のように聞こえてきました。何か不思議なご縁の糸でつながっている
ような直感が感じられます。はっきりとはわかりませんが、「永井氏」もそう
ですし、「服部家」、「宗」……確かに何かあるのではないかと思います。

 急な用事ができ、中断させていただきます。すみません――
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月06日 10時32分17秒 ) パスワード

三つ柏服部様、たけぽん様、皆様 今日は。

三つ柏服部様
私のコメントをご覧頂きありがとうございました。
このような折の最初のコメントを
三つ柏服部様の御調査を拝読して気が付いた事を書いてしまった事を
お詫び申し上げます。

三つ柏服部様、たけぽん様、皆様
しばらくは調査(コメント)をお休みしようと考えていたのですが
今の私は、何故か大きな不思議な力に背中を押されているような
不思議な力に後押しされているような
そのような感じで、今まで気が付いていなかった事が次々と目に入るようになっています。
その事を今書き留めておかなければいけない!そう感じているのです。
本来であれば不謹慎な事と思いますが皆様お許し下さい。

三つ柏服部様、皆様
今朝、また一つ気が付きましたので書かせて(書き留めさせて)頂きます。

「平宗清」。この方の記述をウィキで読ませて頂きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85

平 宗清(たいら の むねきよ)は、平安時代末期の武将。伊勢平氏の傍流、平季宗の子
平頼盛の家人[5]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。
仁安元年(1166年)、正六位上で右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる[7]。また、後白河院の北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている。
治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。
子の家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。

=====================================
※家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。

三日平氏の乱をウィキで読ませて頂いたのですが
★ここに、私の住む集落「宮麓」に繋がる記述がありました!

三日平氏の乱 (平安時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1_ (%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)

三日平氏の乱(みっかへいしのらん)は、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦元年(1184年)7月から8月にかけて、前年の平氏都落ち後に、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。
『平家物語』では「三日平氏の乱」と記されているが、本来3日間で鎮圧され「三日平氏の乱」と称されたのは、この20年後の元久元年(1204年)に発生した事件であって、この1184年の平氏反乱は長期間にわたり大規模なものであった。

中略
寿永2年(1183年)7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、元暦元年(1184年)3月に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国の御家人大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。7月7日辰の刻(午前8時頃)に平家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺したという(『玉葉』7月8日条)。
19日には近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。平信兼・藤原忠清は行方をくらました。反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。

★侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。平信兼・藤原忠清は行方をくらました。

中略
藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。一ノ谷の戦い以降、源範頼以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。
平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経の屋島出撃を引き留めており、義経の検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。
近年の研究では、義経が平氏追討から外されたのは、後年の編纂書『吾妻鏡』が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に義経が必要であり、法皇や貴族たちの強い反対があったためと考えられている。
なお、平信兼と平家継は源義仲打倒の立場から、義経の入京に協力した京武者たちであった。『吾妻鏡』では信兼の息子たちが事件の張本であったとするが、彼らは義経の屋敷に出向いていることから反乱と深い関わりは持っていなかったと見られる。信兼追討の背景には、独立性の強い京武者の排除、従属させようとする頼朝の方針があったと考えられる。

★藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。

=========================================

★を付けて書かせて頂いた事

@★侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。平信兼・藤原忠清は行方をくらました。
A★藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。

私が理解していなかった事がここにありました!
三日平氏の乱 (平安時代)には『藤原忠清。この方が大きく関わっていた』この事です。

藤原忠清 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85

子息は 忠綱、忠光、光景、景清

子息の藤原景清
この方の娘様、姫様は私の住む集落「宮麓」でお亡くなりになられました。
お墓は私の住む集落「宮麓」内にあります。
お供の方のお墓と共に、800年以上もの間、私の住む集落の方の「家」が代々お祀りされています。
さらに藤原景清。この方の母君、すなわち藤原忠清の妻である御方も、この地「宮麓」でお亡くなりになられ
藤原忠清の妻である御方の御魂は、集落内に大同元年(806年)建立、御鎮座であった切畑大明神(切畑神社)に鎌倉時代「合祀」されて御祭神となられていらっしゃいます。

切畑大明神(切畑神社)は平安時代末期に平頼盛、この方が中興された神社です。
上記の内容は江戸時代の切畑大明神(切畑神社)の宮司「星原内記」が記録した
神社由来記に記されています。
切畑大明神(切畑神社)の宮司「星原内記」
この方は、家の親戚である「星原氏」の一族の方です。
本姓大神 「星原内記」こと大神惟久
以前ブログにアップさせて頂いた『親戚の本姓は「大神氏」でした』をご覧頂くとお解り頂けます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html

さらに・・・・
藤原景清の姫様のお墓を代々お祀りされているのは切畑地区の「宮原家」です。

三日平氏の乱 (平安時代)
近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。
平家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。
平信兼・藤原忠清は行方をくらました。

私は・・・今まで何故気が付く事が出来なかったのだろう
とてつもなく重要な事に何故気が付いていなかったのだろう

三日平氏の乱に関わった藤原忠清。この方と私の住む集落は繋がっている・・
藤原忠清の妻の方の御魂を御祭神としてお祀りの神社「切畑大明神」
藤原忠清の孫娘である景清姫のお墓
私の住む集落内です。
「宮麓」です・・・・

しかし、今、やっと気が付く事が出来たのは
不思議な大きな力から後押しされている事もあるかとは思いますが
しかし最も「大きな力」であったのは
三つ柏服部様の御調査を私が拝読させて頂いた事でありました。

三つ柏服部様
本当にありがとうございます。
言葉では表す事が出来ない程、心から心から感謝申し上げます。

三つ柏服部様がおっしゃった
〉何か不思議なご縁の糸でつながっているような直感が感じられます。

不思議な御縁の糸・・・今朝、その御縁の糸の一端を私は見つけたような
そう考えています。

ありがとうございました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月06日 15時00分38秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 今、驚きで、鳥肌がブルブルと立ち、心拍数も上がり、発する言葉が見
つかりません!
 本当に、球磨―都―伊勢・伊賀―遠江の間には、目に見えない底流が流
れており、確実につながっているということが見えて来たような気がいた
します!
 私も、今後、古代―中世―近世と、更にできる限りの調査を続けて全貌
を見てみたいと思っています!

 とりあえず、感激の気持ちをお伝えいたします!
[5]酒井ともさんからのコメント(2017年11月06日 16時48分03秒 ) パスワード


ミヤハラさま、こんにちは。

サイト拝見しております。
悲しみの中におかれてもご先祖さまとの絆を得る探究を積極的にされることに頭が下がります。

「平川家について」の文章より与えられるものには、あっと!驚かされる事が多々あります。


ところで、お読みになっておるかもしれませんが、現牧之原市(旧相良町)に境内地を構えられます
「大澤寺」のご住職さまのブログ、2017.10.30分より本日までも「平河郷」及びその周辺が日毎アップされております。

https://www.daitakuji.jp/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0-%E5%A2%93%E5%A0%B4%E6%94%BE%E6%B5%AA%E8%A8%98-%E7%9B%B4%E8%BF%91100%E6%97%A5%E5%88%86/

ミヤハラさまとは底流にては繋がっておる地ですが、土地勘がなければ頷けぬ地理地名が多々あると思います。
(私自身にもこんな地名が、こんなお城があったの?と驚愕することばかりです)

その平河堤城跡の辺りは古代史の前の段階の民が暮らした、遺跡や出土品があると聞いております。

この地が平河郷に移行する前は荒木郷の一部だったことは間違いないと思うのですが、
いつ頃に分郷したのかは、資料に乏しく判らないままです。

不思議なのですが、菊川市に「荒木郷」由来の地名が残っているのかも不勉強にて判りません。


ところで「横地」を出発して、「平河」の南は「赤土」さらに南下すれば「高橋・新野」に至ります。

ミヤハラさまのサイトで拝見したのかは憶えておりませんが、
朝廷関係者が赤土に土着して、赤堀氏に、その影響で新野関係者が分家して新堀氏を
興したのではとの記載には凄い着目点だと感嘆したのを覚えております。

平安期に活躍した主な氏族だけ書き出しても、横地・相良・新野・勝間田氏でしょうか、
四氏血族を中心にしてこの地域の開拓・開墾がされてのですが、
悲惨な戦乱により、良質な資料が失われた結果解らないことばかりです。


では、ミヤハラさまが得度したい事柄は、私なりにいつも心掛けしておりますので、
あまり無理をなさらずに、これよりも「平川家について」のサイト運営をお続け下さい。

失礼します。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月07日 18時53分38秒 ) パスワード

三つ柏服部様、酒井とも様、皆様 今晩は。

三つ柏服部様、酒井とも様
コメントを頂きありがとうございます。
お返事が遅くなりました事をお詫び致します。


三つ柏服部様
本当に申し訳ございません。

私の住む集落と『三日平氏の乱・伊勢』・そして『平家清(平宗清の子息)・藤原忠清』この方々との関係。
もっと早くに気が付くべきでした。
私は気付くのが遅かったとつくづく痛感しております。

三つ柏服部様がおっしゃる通り
〉球磨―都―伊勢・伊賀―遠江の間には、目に見えない底流が流
れており、確実につながっているということが見えて来たような・・・
私もやっと理解出来ました。

さらに、もう一つ、私の住む集落に伝承されている言葉。
おそらく、日本全国でもここでしか言わない言葉だと思います。
私の住む集落ではクワガタムシの事を古くから「カケキヨ」と呼びます。
由来は、藤原景清、この方の兜の形がクワガタムシの角に似ていたからです。
藤原景清、この方の伝承は日本全国に在る事は知っていたのですが、その「日本全国に在る」と言う先入観が私が見るべき事、気が付くべき事を
遠ざけていたのかもしれません。

さらに
この私が持っていた他の事への『潜入観』が
とても大事な事を聞いていたのに、こちらにコメントしていなかった!
その事に気が付いたのです。

それは、球磨の斉藤氏についてです。

実は集落内の家の御近所の「斉藤さん」から伺った話でした。
球磨・人吉には「斉藤氏」は少なく29軒しかありません。
その中で12軒は私の住むあさぎり町です。
私は
@九州には斉藤氏が少ない事
A殆どが豊後の斉藤氏である事
を知って、先入観を持って、御近所の「斉藤さん」も、おそらく豊後の斉藤氏の流れかな・・?と思っていました。

しかし、御近所の「斉藤家」の方から伺った話は
『3代前の方から宮麓集落に来られたけれど、その前は皆越集落に先祖代々住まわれていた』
と言う事でした。

この話は、2週間程前に聞いたばかりだったのですが、その時も私の「先入観」がじゃまをして、深く考えていなかったのです。

しかし、昨日のコメントを書いた後に急に「皆越集落」について重要な事が頭に浮かびました。
「皆越集落」とは平家落人伝説の地であります。
ぜひ、三つ柏服部様、皆様に御紹介してご覧頂きたいと思いまして、
ブログに写真入りで「皆越集落の平家落人伝説について」書かせて頂きました。

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12326392216.html

集落の斉藤家が御先祖様より代々住まわれていた皆越集落。
ブログに書かせて頂いたように

旧上村(現あさぎり町)の皆越集落。
麓から谷を越え山をかなり登った先にある集落です。
この地に今から約800年程前に来られた皆越氏そして皆越衆。

壇ノ浦より、落ち延びた方々が九州の山々を越え、ようやく苦労の末に辿り着かれた肥後球磨の地。
しかし、九州山脈の山々は険しく、辿りつく事が出来た方々はわずかな人数のみだったようです。
上村史 統一巻 皆越姓の由来より
『やがて超すべき山も残り少なになりし時、落人頭の後ろをふりかへりて曰く、
「者どもは皆越えしか」と。然れども長途の旅につかれたる落人連には続くもの少なし。
よし然ならば越えし者にとて皆越の姓を賜りたりといふ。』

『此地即ち現在の上村大字皆越なりといふ』

ブログで書いたように
皆越家の総本家の方の本姓は「阿部(安部)」氏です。
さらに、解った事は皆越衆の中には「久間氏」がいらっしゃった事。
そして、その皆越には「斉藤氏」がいらっしゃった・・
と言う事に気が付きました。

「久間氏」
無関係かもしれませんが、しかし一番に頭に浮かんだのは
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏忠度流】久間氏でした。
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏忠度流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01106.htm

平忠度。この方の母は良峯姓「原 高成」、この方の娘様であったとも言われています。

球磨の平家落人伝説の地の一つ「皆越」には「斉藤氏」「久間氏」がいらっしゃった事。
私は、また、気が付くのが遅くなりすぎていたようです。

皆越集落からは山の尾根伝いに「椎葉往還」があります。
宮崎の西米良を通り、平家落人伝説のある椎葉村に抜ける道です。
皆越集落から球磨盆地をぐるっと取り囲む九州山地の山々の尾根伝いに進むと
平家落人伝説の地
五木村、五家荘、椎葉村へと繋がっています。

三つ柏服部様のお陰で、私は、頭の中の先入観を取り除いて、真摯に伝承に向かう事が出来るようになりました。
本当にありがとうございます。

酒井とも様
御教示ありがとうございます。
御紹介頂いたサイト様、拝見致しました。
遠江国の地名はまだまだ勉強不足の私ですが、驚いた事がありました。
平河郷の堤城。
堤城。 もしかしたら?ここに、堤氏はいらっしゃったのでしょうか!?
実は、相良藩の重臣に「堤氏」がいらっしゃいました。
平河氏系図に記されているように、平河氏は「犬童氏」を名乗っていた事もあるのですが、この犬童氏と堤氏は姻戚関係が見えているのです。
堤城と堤氏とは遠江国の知識が不足する私には関係が解らないのですが、「堤」と言う言葉の繋がりだけで驚いてしまいました。

さらに「荒木郷」
荒木氏も相良藩内に、在していらっしゃいました。
ちなみに、私の住む集落に御鎮座の岡原霧島神社の現在の宮司様も「荒木氏」です。
先代の宮司様まで、岡原霧島神社の宮司家は平河氏一族の「横瀬氏」でした。

こんな偶然ってあるのか?と
驚いてしまい、鳥肌が立ちました。

〉朝廷関係者が赤土に土着して、赤堀氏に、その影響で新野関係者が分家して新堀氏を
興したのではとの記載には凄い着目点だと感嘆したのを覚えております。

着目して下さったのは、私のブログをご覧下さっていらっしゃる
「河東村出身者様」です。
非常にありがたい御教示を頂いていました。


三つ柏服部様、酒井とも様
本当にありがとうございます。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。

ミヤハラ
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月08日 07時30分45秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様
おはようございます。

今朝は、早い時間からのコメントです。

実は、昨日、「皆越」に視点を向けたお陰で、新たな事が見つかりましたので
ぜひ書き留めておきたい!と思いました。

今朝、相良藩士分限帳をなにげなく見ていての発見がありました。

前スレッド「平川家について41」のコメント44で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101605_62.html

有智山 万福寺(現内山観音堂)の寺紋が「十六弁菊の御紋」であった事を書いた後、最後に書いた
=======================================
〉実は、親戚関係であらたに解った事なのですが
私の平川の曾祖父の弟の系の「平川家」。
縁戚関係で、『五家荘』の地名由来の姓のお家がありました。
こちらの親戚に、このスレッドで書いて良いか確認していないので
詳しくは書けませんが
椎葉村を出自の地とする家から平川家に養子に入った私の高祖父の孫は
五家荘を出自の地とする家に嫁いでいた事が解った・・・
と言う事です。

家の場合 やはり 五家荘・五木・椎葉村の繋がりがかなり深いような気がします・・・
============================================

と書いていたのですが
今朝、相良藩士分限帳を見ていたら
上記に書いた
〉『五家荘』の地名由来の姓のお家

高祖父の実家の「矢立氏」と同様に珍しい姓の親戚の・・その姓が分限帳の中の皆越の項にあったのです!

親戚には事後報告と言う事にさせて頂いて<m(__)m>
この発見は重要だ!と感じますので書きます!

皆越横目 溝口 源五

皆越庄屋(移行)
槻木 伊右衛門 → 岩奥 惣七 → 新堀 半六

上記の『岩奥 惣七』
祖母方の親戚、『「五家荘」の地名由来の姓のお家』とは『岩奥家』です!

岩奥家との縁戚関係、父はもちろん知っていたのですが、私は知らなかったのです。
前回のスレッドでコメントを書いた数日前に初めて知りました。
『岩奥家』の私の「はとこ」と初めて会って、そこで父から関係を教えてもらいました。

祖母の実家「平川家」の、私の曾祖父の弟の娘さんの嫁ぎ先が「岩奥家」でした。

岩奥とは八代五家荘の地名です。 旧八代郡泉村岩奥
地図
https://map.goo.ne.jp/map/address/43202151B25/


「岩奥家」が五家荘(旧八代郡泉村)の地名に由来する姓である事は知っていたのですが
球磨の落人伝説の地の一つである「皆越」に「岩奥氏」がいらっしゃったと言う事を知って衝撃を受けました。

同じく平家落人伝説で有名な椎葉村の矢立集落を姓の由来とする、私の高祖父の実家の「矢立氏」も
全国で45軒ほどしかない珍しい姓ではありますが
「岩奥氏」は全国で22軒しかない、こちらも非常に珍しい姓です。

しかし、「矢立氏」も「岩奥氏」も、相良藩内では名字帯刀を許されたれっきとした、明治以前からの姓であります。

関係を整理すると

@平家落人伝説で有名な椎葉村の矢立集落を「姓」の由来とする「矢立氏」から高祖父は旧宮原村宮麓の平川家に養子に入り平川家を継ぐ。

A高祖父の子供達の一人(私の曾祖父の弟)の娘は、平家落人伝説で有名な五家荘の地名を「姓」の由来とする「岩奥家」に嫁ぐ。

B「岩奥氏」は、球磨の平家落人伝説の伝承地の一つ「皆越」の庄屋であった。

C旧宮原村宮麓について
 ※三日平氏の乱に関わった藤原忠清。妻の方の御魂を御祭神としてお祀りの神社「切畑大明神」が鎮座
 
 ※藤原忠清の孫娘様であり藤原景清の息女「景清姫様」のお墓、お供の方のお墓を祀り御供養されている。
 
 ※景清姫様のお墓、お供の方のお墓を代々お祀り御供養されている家は宮麓集落内切畑地区の「宮原家」である。

★初めて書かせて頂く事です。
 ※景清姫様のお墓を江戸時代にあらためて立派な石塔として建て直し、お堂を創建した方は隣村「奥野村」の庄屋「那須甚七」と言う方である。
 
 ※墓石には『聞伝上古景清将息女之廟此所也、享保壬寅七年三月廿二日(1722年)施主那須甚七』と書かれている。
 
 ※那須氏は平家落人伝説で有名な椎葉村を出自の地とされている。

 ※親戚の椎葉家には、この地でお亡くなりになられた方々の御霊を「平家十八の神」としてお祀り、御供養させて頂いている。
 (詳しく書かせて頂いたのは初めてですが、やはり、御紹介しなければと思い、書かせて頂きました)

 ※椎葉氏は那須氏と同様に平家落人伝説で有名な椎葉村を出自の地とされている。

 ※親戚の椎葉家には高祖父の孫である私の祖母の姉が養女に入り椎葉家を継いでいる。
★すなわち・・・旧宮原村宮麓は球磨の平家落人伝説の伝承地の一つである。

最後に
 ※?? 旧宮原村宮麓集落に室町時代末期から見える「新堀氏」(宮原の曾祖母の実家)。新堀氏も皆越の庄屋であった・・・?
 


@〜C旧宮原村宮麓について までを頭の中で整理しながら書かせて頂きました。

昨日、書かせて頂いたように

皆越集落からは山の尾根伝いに「椎葉往還」があります。
宮崎の西米良を通り、平家落人伝説のある椎葉村に抜ける道です。
皆越集落から球磨盆地をぐるっと取り囲む九州山地の山々の尾根伝いに進むと
平家落人伝説の地
五木村、五家荘、椎葉村へと繋がっています。

しかし、私は、ここに重大な繋がりを書いていませんでした。
と言うか、やはり昨日まで頭の中でちゃんと理解出来ていなかったのでしょう。

それは、『私の住む旧宮原村宮麓は球磨の平家落人伝説の伝承地の一つである!』
と言う事です。

親戚関係を元にまとめて見てやっと気が付きました!

平家落人伝説の伝承の地
五家荘、椎葉村、皆越、五木、そして旧宮原村宮麓は繋がっている!

今朝、やっと気が付く事が出来ました。
ここまで、辿り着くのに、私は何年かかったのだろう・・・

しかし、前スレッドで書いた五家荘の地名由来の姓、実は「岩奥家」との縁戚関係を知った時から
おそらく、私の背中を押している何か不思議な「大きな力」から私はお導きを受けていたのだと
今朝、しっかりと感じました。

祖母や弟が言っていた言葉が「確かなもの」であった事を
今朝、しっかりと理解出来た
そう感じています。

しかし、私は、皆様ご存知の通り「極度のおっちょこちょい」です。
まだまだ、気が付いていない事が多々あると思います。

私なりにしっかりとこれからも調査を進めて行こうと思いますが
私の知識はマダマダ浅はかなものです。
どうか、皆様、これからもお気づきの事がおありになられましたら
ぜひ、御教示を賜りたいと心からお願い申し上げます。

よろしくお願い致します。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月09日 00時19分45秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 またまたビックリ、スゴイの一言です!
 薄っぺらい言葉では、言及できない歴史の重みを感じます。
 「皆越」のイメージは何となく「エクソダス」のイメージと重なります。

 やはり、球磨地方は、百済(狗奴)、平家、南朝等を背景に考えないと、
語れないような気がします。隼人の時代から歴史が重層的に重なっており
ます。
 平家の落人伝説、ある意味で里帰り(百済=狗奴)だったのかも知れませ
ん……。

 本日、ずっと考えておりましたが、古代史そのものも難しいですが、
球磨地方の歴史も特に謎に富んでいて奥が深い。ミヤハラ様には、是非共
解明して行っていただきたく存じます。
 準日本的なアプローチでは、限界が来るかも知れません。その時は、
思い切ってユダヤモード(シルクロードの向こう)に切り替えざるを得ない
かも知れません――
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月09日 12時08分43秒 ) パスワード

三つ柏服部様、ご覧頂いている皆様、今日は。

三つ柏服部様
御教示を頂きましてありがとうございます。

〉平家の落人伝説、ある意味で里帰り(百済=狗奴)だったのかも知れませ
ん……。

実は、私も昨日、一日中考えていたのです。
球磨、そして球磨周辺に何故?・・・と。

球磨が王家領であったから?
王家領球磨の開発に平頼盛をはじめ平家一門の方々が開発にあたっていたから?
平頼盛、この方が人吉城(原城)の城主だったから?(代官 矢瀬主馬介)
平 清盛公の妻であった平 時子(二位尼)の父であり、高倉天皇の外祖父であった「平時信」。
球磨の須恵阿蘇谷平等寺を創建された永厳法印と「平時信」、この方々は同じ【桓武平氏高棟王流】と言うだけではなく近い縁戚関係にあったから?

このように色々頭の中で「理由」を考えていて、何か一つにまとまるような気がしていたのですが、思いつきませんでした。

所が、三つ柏服部様のお言葉を今朝拝見してようやく頭の中を駆け巡っていた事が一つにまとまりました!
『平家の落人伝説、ある意味で里帰り(百済=狗奴)だったのかも』

三つ柏服部様、敬服致します。
すばらしい御視点です。

そもそも、
治天の君が一大荘園領主である王家領の球磨御領の開発を
平頼盛をはじめとする平家一門がその経営に関わっていた。

この事から解るように、源平の合戦の前から球磨と平家一門の方々は深い関わりを持っていた。

その理由は・・・
三つ柏服部様がおっしゃる通り
ある意味で里帰り(百済=狗奴)だったのかも知れません!
すなわち「地縁」ですね!

百済(狗奴) 狗奴国 球磨 久米郷
肥人(こまびと。古代球磨川上流に住んでいた人達)の住む 久米の 「クメ」はスメル語の「クメ」であると
天孫人種六千年史の研究の著者 三島敦雄氏は、はっきりと記されていらっしゃいました。
先日、やっと、そこまで辿りついて読む事が出来ました。
(中々、私の頭では読む事が難しく途中で止まっていたのです。お恥ずかしい限りです)
詳しくは後日書かせて頂きます。

狗奴国の「狗」は中国語で「犬」「子犬」を指す。
この事は調べて知ってはいました。
しかし、この言葉はあまり良い言葉、印象ではない!という内容を目にする事が多かったので、
私も、気にしないでいたのですが・・・

今朝、先入観を外して「狗」と言う言葉の意味を考えていた所、気が付いたのです!

※「狗」は中国語で「犬」「子犬」を指す。
※「子犬」、犬の子供・・・ワンちゃんの子供・・犬の子・・!
※犬の子 → 犬童 あっ!! 犬童(インドウ)・・犬の童

家の親戚にも数軒ある「犬童氏」の「犬童」は地名なのか?といつも考えていました。(確かに鎌倉時代には球磨に犬童名と言う地名があったようです)
しかし、冷静に考えると「犬童」とは犬の童、すなわち子犬 → 「狗」です!

私は偶然ではないと考えるのですが・・・

三つ柏服部様のお言葉
〉球磨地方は、百済(狗奴)、平家、南朝等を背景に考えないと、
語れないような気がします。

実は、皆越氏と南朝で活躍した菊池氏との明確な繋がり!
さらに椎葉村と米良氏(菊池氏)との関係に気が付きました!
長くなりますので、次のコメントで書かせて頂きます。

最後に、どうしても書き留めておきたい事があります。

三つ柏服部様、皆様
平安時代まで、球磨川は、球磨郡・人吉を抜けて八代に向かう途中(球磨村を過ぎると)球磨川ではなく「木綿葉川」と別名で呼ばれていました。

家の親戚でもある名城大学杉下名誉教授が詳しく記されています。
http://asagiri-chubu-furusato.jp/topics/2016/09/post_37.html

万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌
『「肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉」。この漢文の読み方はこうである。肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや。 意味は、球磨人(くまひと)が草木染めの麻で髪を結われていた珍しい姿が心に染みついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない。この歌では、「木綿 ゆふ」は麻のことであると解釈されている。』

『平安時代後期の公卿であった藤原定隆(ふじわら の さだたか)
という人の和歌に、麻の木綿葉川という歌がある。
「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊(みそぎ)しつらむ」 
この歌からも木綿葉は麻の葉であることがわかる。意味は、夏になると球磨川に麻の葉が流れてくるけど、上流では誰かが麻を使い禊(みそぎ)をしているのだろうか、ということだろう。』

=============================================

「木綿葉川」の木綿葉は麻の葉である。

球磨を求麻と書くように、球磨の歴史研究家の方々の話では
古代の球磨人(肥人)は麻を植え、収穫した葉を球磨川で洗い、水に落ちた麻の葉が
八代の方まで流れていっていた
と聞いた事があります。

ぜひ、御紹介させて頂こうと思いまして、書かせて頂きました。

先にも書きましたように
皆越氏と南朝で活躍した菊池氏との明確な繋がり!
さらに椎葉村と米良氏(菊池氏)との関係については
次のコメントで書かせて頂きます。

三つ柏服部様
御教示、ありがとうございました。

頭の中の考えを一つにまとめる事が出来るようになりました。
感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
[10]たけぽんさんからのコメント(2017年11月10日 01時59分39秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お久しぶりです(..)

最近、雨やら寒さで
ちょいと体調を崩してました

ま、何時もの事なので
ちょっとゆっくりしてました

調査の再開始めから
凄い話の内容がΣ(・ω・ノ)ノワォッ‼

ミヤハラ様
ちょっと聞いた話ですが・・・

ひらかわごろはち←漢字がわかりません

って方、ご存じですか?(・・;)

何やら、昭和天皇と関係がある
みたいな話を聞いたのですが・・・

家とは親戚みたいなんですが
どの平川と親戚かわからなくて(T-T)
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月10日 09時08分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

たけぽん様
最近は、朝夕の冷え込みが厳しくなりましたね。
朝の霧が午前中ずっと続いてお日様が恋しいです。

体調をくずされていらっしゃったのですね。
大丈夫ですか?
無理はなさらないで下さいね。

平川ごろはち様

私は存じていません(..)
ただ、六の付くお名前は何かで見た事がある記憶が・・

椎葉のおじや多良木の平川のおじにも聞いてみますね。

『昭和天皇様と御関係がおありになる。』
戦時中の方なのかな??
勝手な推測をして申し訳ございません。

何故、『戦時中』と書いたかと言うと・・
実は、私の祖父が第二次世界大戦以前、中国でお側にお付きしていた御方は・・
すみません(..)
これ以上は書けません。

ただ・・20年以上前に
その「御方」と、その「御方」の横に座り勲章を沢山付けて正装(軍服)した祖父や、数人の方々が写る写真が
新聞に掲載された事があります。
私の事ばかり書いてすみません。
このお話は、初めて書かせて頂きました。
(調査を開始して以来、書かせて頂いたのは初めてです。書かせて頂く事に躊躇していました)

たけぽん様、勝手な推測をして申し訳ありませんでした。

『平川ごろはち様』
先にも書きましたが、お役に立てるかは解りませんが
親戚に聞いてみますね。

私も、早く和●おばさんにお会いしたいのですが
もう少しお待ち下さい(..)

しかし・・今朝も寒いですね。
まだ、外は霧で真っ白です・・・・

たけぽん様
お互いに、体調を見ながら無理をせずに
出来る事をやっていきましょう(^'^)
[12]たけぽんさんからのコメント(2017年11月10日 15時17分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
いつもお気使い
ありがとうございます(..)

後遺症なので仕方がないのですが
暫く書込みが無いときは
へばってる時なので申し訳ありません
(ノ_<。)

ごろはちさんの件

もしかしたらあだ名かも
しれませんね・・・(..)

六のつく方
多分、うちも(名前だけ)
知ってる方かもしれませんね

うちの畑をお貸ししてた方
が 、たしか六のつく方
だった様な・・・(..)

ごろはち様
昭和天皇が即位して間もない
位?の時の話
らしいのですが・・・

すみません
こちらにはお聞きできる
方々がいらっしゃらないので
ミヤハラ様にお願いするしか
Σ(ノд<)

宜しくお願い致しますm(_ _)m

和○おば様にお会いして
正体がバレるのを
楽しみにお待ちしてますd(^-^)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月11日 11時42分05秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様、今日は。

たけぽん様
私が見た「六」の付く方は、明治時代の県会議員の方だったと思います。
(記憶が違っていたらすみません)
どの書籍で見たのか・・・
探してみます(..)

和●おばさんとお会いする日が私も待ち遠しいです。(^'^)
その時に、ごろはち様の件、必ず聞きますね!

所で・・・
先日、コメントした
犬童氏 → 犬の子供(子犬ちゃん) → 中国では「狗」は子犬や小型犬の意

考えていたのですが・・・
「狗」・・犬・ワンちゃん・・

そう言えば・・神社・・狛犬(こまいぬ)
狛犬(こまいぬ)・・コマ?・・肥人(こまびと)・・コマ?
「コマ」繋がり・・・? ましてや犬・ワンチャン

そこで調べたのですが
狛犬(こまいぬ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%9B%E7%8A%AC

狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。
像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。

※狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。

中略・・・
起源
古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。
また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。明治神宮では、起源は古代オリエント・インドに遡るライオンを象った像で、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクスであるとしている

※古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。
※古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。

中略・・・
隼人の遺風説
犬については隼人の狗吠との関係が指摘されている。
一説によれば、隼人は熊襲と同族で、熊襲の国が狗奴国であったとされる。

(p_-)
「狗」の文字が気になって「犬・わんちゃん」・・狛犬と意識が何故か動いて調べたら
結局『熊襲の国』や『狗奴国』に到達しました。

★「狗」・・犬・ワンちゃん・・
★狛犬(こまいぬ)・・コマ
★肥人(こまびと)・・コマ

そうか・・コマです!

太田亮博士は『姓氏家系大辞典』で
久米 クメ また来目に作り、九味(クミ)ともあり。
なほクマとも通ずるが如し
此等によれば、久米は、クマ、クミ、クメと通ずる語にして、貴田博士が、
「久米は玖磨にして、久米郡は玖磨人(くまびと)、即ち肥人(こまびと)ならん」と云われし説に同意せざるを得ず。
即ち久米部は南九州の大種族・肥人(こまびと)にして、魏志東夷傳に狗奴国とあるが、此の久米部の本■ならんと考へられる。
詳細は「日本古代史新研究」を見よ。

と書かれています。
★クマ、クミ、クメと通ずる語 = 玖磨人(くまびと)、即ち肥人(こまびと)・・狗奴国
★「狗」・・犬・ワンちゃん・・
★狛犬(こまいぬ)・・コマ
★肥人(こまびと)・・コマ

クマ、クミ、クメ = コマ なのですね!

さらに!!
※狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。
※古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。
※古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。

皆様!!
天孫人種六千年史の研究の著者 三島敦雄氏は、はっきりと記されていらっしゃいました。
肥人(こまびと。古代球磨川上流に住んでいた人達)の住む 久米の 「クメ」はスメル語の「クメ」であると。

三島敦雄氏は肥人(こまびと)について
久米連・久米部のクメはスメル語のクメで武具の意、ベはベル(首長)、又はチアヌ語でベト雑人の義。
奮説に久米は組で軍隊の総轄といい或はクマ(熊)の傳で肥人族(前印度モン・クメールで倭人)と為し
神武天皇は東征に方りクメール族を率いて東上されたと為すのであるが・・

と記されています。
※この続きがあるのですが、詳しくは後日書かせて頂きます。要約すると三島敦雄氏はクメール人は温和なので大伴氏の配下であったのだろう・・と推測されていました。

スメル語の「クメ」が付く球磨の肥人(こまびと)族(前印度モン・クメールで倭人)

前印度とはモヘンジョダロで有名な古代インダス文明であり、古代インダス文明を築いたのは古代メソポタミア文明を築いた方々の移住。

すなわち球磨の肥人(こまびと)族(前印度モン・クメールで倭人)とは
メソポタミア(シュメール)⇒ 前印度(古代インダス文明) ⇒※おそらく中国江南地域 ⇒ 九州の球磨
このような移動経路だったのか?
もしくは※が朝鮮半島経由であったのか?
と推測可能かと考えます。

と言う事は! 「狛犬」と同じ移動?経路です!
※狛犬(こまいぬ)とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。
※古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。
※古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。

今朝、ひとつ発見したのかも知れません!

しかし・・・
相良長頼の子息からなる「犬童氏」。
最初に書いたように
犬童氏 → 犬の子供(子犬ちゃん) → 中国では「狗」は子犬や小型犬の意

私はこう考えました。
『きっと、相良氏は球磨の古代を何も知らずに遠江国から球磨に来られた訳ではないのでは!」
と。

きっと、相良頼景、相良長頼、この方々は
球磨の古代から平安時代末期までの事を熟知されていらっしゃったのだと
私はあらためてそう考えました。

だから・・・荒田大王神社 なのだ・・・
大王とは本来「おおきみ」とお呼びするのが正しいのでは・・
最後の二行は独り言です・・
詳しくは後日書かせて頂きます。

次のコメントでは
皆越氏と南朝で活躍した菊池氏との明確な繋がり!
さらに椎葉村と米良氏(菊池氏)との関係について
を書かせて頂きます。

今から沢山残っている所用を済ませますので、
コメントは夕方になるかもしれません(..)

では。
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月12日 07時24分56秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様、おはようございます。

早朝から深い霧に包まれて、外は真っ白です。
まるで、今までの私の調査のようです。
しかし、昼前には霧も晴れて、青空が見えるでしょう(^'^)

皆越氏と南朝で活躍した菊池氏との明確な繋がり!
さらに椎葉村と米良氏(菊池氏)との関係について
を書かせて頂きます。

@皆越氏と源平に合戦において平家方として活躍し、南北朝時代には南朝方で活躍した菊池氏との明確な繋がりについて

相良氏が球磨に入られた後、皆越氏は地頭として皆越の領主となられました。
後世の皆越氏、1500年代の皆越地頭の「皆越六郎左衛門」の妻は、皆越から白髪岳を下り狗留孫峡(クルソン峡)を抜けた「えびの側」、大河平(おこびら)地区の地頭「大河平隆次」の姉のナミと言う方でした。

大河平(おこびら)氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%B9%B3%E6%B0%8F

大河平氏(おこびらし)は、日向国の氏族で、肥後国菊池氏の庶流。
元の姓は八代氏で、弘治年間頃に日向の大名北原氏に仕えて大河平氏を名乗り、その後に島津氏に仕えて薩摩藩士として存続した。

菊池氏6代・隆直の三男・菊池五郎隆俊が八代に移り、八代隆俊を名乗り菊池宗家に従っていたが、菊池宗家は、隆屋が八代氏12代当主の頃に大友氏と争い敗れ、一族共々米良山中に逃れた。
一部は米良に留まり、あるいは須木に移住し米良氏を称したが、隆屋は部下66家を率いて北原氏を頼り、真幸院・飯野(現・えびの市)の大河平郷に移り住んだ。その際、姓も大河平に改めたとされる。本貫地は終生変わらず、大河平のままであった。

※補足します。
★菊池氏6代・隆直の三男・菊池五郎隆俊

菊池隆直 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E9%9A%86%E7%9B%B4
菊池 隆直(きくち たかなお)は、平安時代末期の肥後国の武将。九州において海陸の党類を広範囲に束ねる一国総梁的存在であった。
日宋貿易拡大による平家の九州支配に反発した隆直は治承4年(1180年)、肥後国の武士である阿蘇惟安、木原盛実らと共に鎮西反乱を起こす。畿内・東国での相次ぐ謀反への対応に追われる平家は、11月17日に熊野の湛増と共に隆直に対して赦免の決定を下している。湛増は平家に人質を出しているが、隆直の赦免に関しては、鎮西に兵を差し向ける余裕がないための体面的な処置と考えられる。
年が明けて治承5年(1181年)、隆直の軍勢が数万に及ぶという風聞が都に届き、正月11日に朝廷で討伐の宣旨が出された。4月、平家の縁戚で有力家人である原田種直が大宰権少弐に任命されるが、隆直追討は実行されず、8月になって都から平家の家人である平貞能が反乱鎮圧に派遣される。寿永元年(1182年)4月、隆直は貞能に降って平家に属した。
寿永4年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いでは平家方で戦い、敗北したのち源義経に投降する。文治元年(1185年)11月、『平家物語』「判官都落」によると、長年敵対していた緒方惟栄の要請によって義経から惟栄に身柄を引き渡され、斬首されたという。

★八代(菊池)隆屋は部下66家を率いて北原氏を頼り
ウィキの「北原氏」「大伴氏」から抜粋。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%B0%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F

北原氏とは本姓「伴氏」(大伴氏)。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族、佐伯氏とは同族関係。
大隅の肝付氏(きもつきし)の一族で勢力範囲は、真幸院(現・宮崎県えびの市)5ヶ郷(加久藤、飯野、吉田、吉松、馬関田)及び三ツ山(現・宮崎県小林市)に加え、東方面は穆佐院の野尻(現・宮崎県小林市野尻)、三俣院の高原(現・宮崎県西諸県郡高原町)、高崎、山田、志和池、西岳(以上 現・宮崎県都城市)付近までを、西方面は、財部(現・鹿児島県曽於市)、吉松、栗野(以上 現・鹿児島県湧水町)、横川(現・鹿児島県姶良郡)、踊、日当山(以上 現・鹿児島県霧島市)あたりまでを領有した。
真幸院を本貫地とし、宗家である肝付氏より独立しての政治や文化支援を行い、最盛期には一万余の兵を動員した。
南北朝時代に、真幸院司であった日下部氏(日向日下部氏)は九州探題・北条英時に従い北条氏残党の乱に加わったために没落した。兼綱の曾孫の北原兼幸は南朝方の命を受け、康永4年(1345年)後任の真幸院司に就任し飯野城に入る。系図では真幸院・北原氏の始まりである兼幸を、北原氏の初代と定めている。

※・・・突然、今、気が付いたのですが『真幸院司であった日下部氏(日向日下部氏)は九州探題・北条英時に従い北条氏残党の乱に加わったために没落した。』
確か、私の母方の先祖は『日向真幸院の郡司を務めた系』だったはずですが・・
あれっ???
北朝方だったのですね・・・

大河平氏(おこびらし)に戻します。
ウィキより 抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%B9%B3%E6%B0%8F

今城合戦
中略・・・
その後、北原兼親では真幸院は守れないとの理由で、飯野城には島津義弘が入るが、永禄11年(1568年)に伊東氏が相良氏と共に、菱刈氏の大口城攻略中で義弘不在の飯野城を攻略しようと計画しているのが発覚。それを義弘に知らせたのが球磨皆越の地頭・皆越六郎左衛門の妻であり、その妻は大河平隆次の姉のナミであったことから、義弘はナミに感謝し六郎左衛門に大河平氏を継がせて、名も大河平隆俊と改めさせ大河平氏の旧領を与えた。
なお、今城が落城した際に6歳だった隆堅の子・隆重は家人に救いだされていたため、隆俊の養子となり大河平家を継いだ(但し『本藩人物誌』は隆堅の孫の隆商が養子となったとし、後述の系図もそれに準拠する)。
=============================================

ここまでを、簡単に整理すると
※大河平氏とは菊池氏6代・隆直の三男・菊池五郎隆俊の後裔である。

※菊池宗家は、「八代隆屋」が八代氏12代当主の頃に大友氏と争い敗れ、一族共々米良山中に逃れた。一部は米良に留まり、あるいは須木に移住し米良氏を称した。

※「八代隆屋」は部下66家を率いて北原氏を頼り、真幸院・飯野(現・えびの市)の大河平郷に移り住んだ。その際、姓も大河平に改めたとされる。

※「八代隆屋」が頼った北原氏とは天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族「伴氏(大伴氏)」である。

※北原氏は、南北朝時代に、北朝方の真幸院司であった日下部氏(日向日下部氏)が九州探題・北条英時に従い北条氏残党の乱に加わって没落した為に、南朝方の命を受け、康永4年(1345年)後任の真幸院司に就任し飯野城に入った。

★後世の大河平氏
※球磨皆越の地頭・皆越六郎左衛門は大河平氏を継ぎ名を大河平隆俊と改めて大河平氏の旧領が与えられた。

となります。

源平の合戦で平家方として活躍した「菊池 隆直」の後裔であり、さらに南北朝時代に南朝方として活躍した菊池氏である「大河平氏」
この「大河平氏」を平家落人伝説の伝承地「球磨皆越」の地頭「皆越氏 皆越六郎左衛門」が継いで
大河平隆俊と改めて大河平氏の旧領が与えられた。
と言う事が解りました。

@皆越氏と源平に合戦において平家方として活躍し、南北朝時代には南朝方で活躍した菊池氏との明確な繋がりについて
を書かせて頂きました。

最後に・・・

「八代(菊池)隆屋」が頼った北原氏は、北朝方であり北条氏残党の乱に加わって没落した日向日下部氏の後に
南朝方からの命で後任として真幸院司に就任し飯野城に入った。
と言う事ですが・・
北原氏は、相良藩内で起きた稲留左近太夫長蔵(岡本城主)・実兄の上村頼孝・頼堅の反乱の際に、岡本方に加勢して戦われました。
岡本は、私の家から川を挟んだ対岸です。
北原衆(真幸衆)は、最後まで戦い続け、家のすぐ近くの宮麓集落内の貝崎(キャンサキ)で沢山の方々が戦死されました。
私の曾祖母の先祖「新堀右衛門」も岡本方として戦い討死されています。

私事ですが・・
この北原氏の居城した「飯野城」がある「現在のえびの市飯野」で、私の主人は仕事をしています。
車で山を越えての通勤です。

さらに、真幸院の郡司は北原氏に代わる前は「日向日下部氏」であった・・
北原氏は南朝方。「日向日下部氏」は北朝方。
さらにさらに
北原氏は私の住む、旧岡原村(宮原村と岡本村が合併)に深く繋がっていた・・

旧宮原村は宮原の一族の先祖「橘公業」が西園寺公経と替地した球磨郡久米郷の一部であり、他に替地した土地が、副田庄、現在の福岡県添田町。

私と主人が仕事で出会った場所は「福岡県添田町」です・・・

人の運命とは・・・
本当に・・本当に不思議です。
こんな事ってあるのか・・???と今朝、深い霧に包まれる外を見ながら考えました。

次のコメントでは
A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
を書かせて頂きます。

ただ、今日は、久しぶりに父と外出しますので、コメントは明日になるかと思います。
外出には星原家の本家のおじさんも一緒です。
星原のおじさんが、槻木に行ってみよう!と誘ってくれました。
(星原のおじさんは私が皆越氏について調べた事など全く知りません。本当に偶然です)
父の気分転換にもなると思いますので、久しぶりに父と娘とおじさんとのデート?です(^'^)

今回のコメントに関して、私が気が付いていない事も多々あると思います。
皆様、お気づきの点などおありになられましたら
ぜひ、御教示を賜りたいと思います。

よろしくお願い申し上げます。
[15]たけぽんさんからのコメント(2017年11月12日 23時15分04秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
六のつく方
うちの知ってる方は、明治の人
じゃ無いような・・・(・・;)

昔は、南北の争いが
大変だったんですね(・・;)

一族も、どちらに着くかで命運が
分かれますから、当主には相当な
先見の目が必用なんでしょうね(..)

今の時代が、いかに平和な
世の中なのかが、改めて
感謝しなければですね(..)

[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月13日 11時12分39秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様、今日は。

たけぽん様
お名前に六の付く方は明治の方では無い・・・
と言う事は私が見た県会議員の方では無いと言う事ですね(p_-)
やはり、和●おばさんに聞くしかありませんね(p_-)
もう少しお待ち下さい(..)

〉今の時代が、いかに平和な世の中なのかが、改めて感謝しなければですね

そうですね。
命をかけて「系」を守る、「家」を守ってこられた
古(いにしえ)の方々は、今とは全く異なる考え・日々の生活を
送られていたのですね・・・

本当に感謝しなければいけませんね。

所で
たけぽん様、皆様
私、今朝、椎葉村矢立集落と米良(内の特定の場所)に伝わる民俗学的にもここにしかない!(この2か所しかなり)祭祀の風習に気が付きました。

その事も含めて
A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
を次のコメントで書かせて頂きます!

今から父のご飯を作るので(..)
コメントはしばらくお待ちください(..)

では。
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月13日 18時07分07秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様、
あらためまして、今日は。

早速
A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
続けて
B椎葉村矢立集落と米良(内の特定の場所)に伝わる民俗学的にもこの2か所にしかないと言われる祭祀の風習
について書かせて頂きます。

A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について

※1,はじめに

コメント5で三つ柏服部様から頂いたお言葉
〉本当に、球磨―都―伊勢・伊賀―遠江の間には、目に見えない底流が流
れており、確実につながっているということが見えて来たような気がいた
します!

先日このお言葉を頂いた時に、
球磨―都 球磨と都・・・
と考えてふと思い出した事がありました。
それは、朝廷からの使者の方が、毎年、相良氏のもとに来られていた事。
その際に、必ず青井阿蘇神社にお参りをされていらっしゃった事。
この「行事」は、江戸時代まで続いていた事。
でした。

この事が記されていた「相良藩史」は・・・と思いながら
南藤蔓綿録をとりあえず読んでいた時に、全く別の記述に気が付いたのです。

それは、那須氏に関しての記述でした。
転記します。

那須氏霊社岩野八幡宮草創ノ事
岩野上久留須尾野山八幡ノ祠ハ以前於獺野原被致討死候 小崎地頭那須下野武晴、
向上那須左兵衛尉、大河内那須兵部大夫武宗 以上三人ノ為追善祭彼霊魂、号三田八幡、但元亀年中ノ草創
本願主那須紀伊助武治並那須氏一族中勧請修者施無畏山普門寺四世ノ住阿闍梨ト也
普門寺其此ハ岩野有今千光山生善院境内・・・
以下略させて頂きます。

この記述は球磨で起きた内乱「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」において討死をされた
椎葉山の小崎地頭那須下野武晴、向上那須左兵衛尉、大河内那須兵部大夫武宗
この方々の霊社として草創された現水上村岩野八幡宮について書かれていました。

「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%BA%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)は、永禄2年(1559年)5月中旬から8月16日[1]にかけての約3ヶ月間、肥後国相良氏の領内で続いた内乱を決することになった戦いである。些細な私事を発端とする内乱ながら戦国時代の球磨郡内で最大の合戦となった。
主戦場の場所は、球磨川の北岸、現在の多良木町黒肥地の付近であった。

発端
永禄2年(1559年)、人吉城(通称:中城)の城詰め衆である児玉弥太郎、早田平八郎、深水新左衛門の三人が、人吉奉行丸目頼美の母に仕える多数の侍女とそれぞれ密通しており、三人がこの侍女らを奪おうとしたことに端を発する。
三人は、相良の両輪ともいうべき人吉奉行の丸目頼美と東長兄を争わせて、その隙に侍女を連れ出す(または丸目を亡き者にしてその財産である婢を奪う)という計略を宗慶寺(人吉市新町)の僧・智勝より授かり、それを実行に移した。

※この事が発端となり、戦へと発展していきます・・・
湯前方
湯前城主東直政、弟恒松蔵人、人吉奉行丸目頼美、恒松蔵人の軍勢に加え日向国向山城の那須武綱、大川内(大河内)城の那須武宗、小崎城の那須武晴ら地頭衆も援軍として獺野原に布陣

人吉衆・多良木衆
犬童頼安の人吉衆・深水惣左衛門の多良木衆、須恵、深田、木上の兵 他 宮原衆、八代衆も加わりました。
※丸目頼美の兵と犬童頼安の兵は知り合い同士で、尚且つ親戚や兄弟同士で戦うことになりました・・
※二度目の戦いであった恒松蔵人の兵に疲れが見え始め、人吉衆がこれを押し始めたことで乱戦となり直政の軍は壊滅。
丸目頼美は日向へ逃れたが、東直政、及び恒松蔵人を含めた180余名が討ち死に、一方の人吉方は62人が死去した(『南藤蔓綿録』での数字)。
また、敗戦を聞いた湯前城代・中山和泉は城に火を付けて、自害した。
東直政の妻子及び、頼美の母と侍女らも逃れていた西光寺谷で自害した。
乱の原因となった侍女(つまり婢)もこの時に全員殉死した。 
※乱後
家臣同士・同族同士の争いであったが、乱が人吉衆によって鎮圧されたこと、および多良木衆が多く亡くなったことにより、相良義陽の統治能力は高まったと一般的には解釈される。
義陽は木上地頭窪田(=久保田)越後の功を特に賞して加増し、太平山を与えた。
湯前城には、東能登が入った。
ウィキペディアより抜粋しました。

この相良藩の内乱「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」で討死された
椎葉山の小崎地頭那須下野武晴、向上那須左兵衛尉、大河内那須兵部大夫武宗
この方々の霊社として草創された現水上村岩野八幡宮。

南藤蔓綿録の記述にはさらに
『本願主那須紀伊助武治並那須氏一族中勧請修者施無畏山普門寺四世ノ住阿闍梨ト也
普門寺其此ハ岩野有今千光山生善院境内・・・』
とあり、水上村岩野八幡宮の創建には、月刊ムーで、紹介されていた
「普門寺」「生善院」の記述がある事が解ります。

「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」は永禄2年(1559年)。
椎葉山の那須一族他椎葉全村が立ち上がった椎葉山騒動 元和四年(1618年)の前です。

そこで、私は気が付いたのですが
小崎地頭那須下野武晴、向上那須左兵衛尉、大河内那須兵部大夫武宗、那須紀伊助武治
通字が「武」である・・・
さらに、矢立集落のある大河内の城主は那須武宗。
「武」と「宗」が付いていらっしゃる・・・

「宗」の通字と言えば湯山氏。本姓「平」で通字が「宗」。

さらに
「武」の通字と言えば「菊池氏」です!

永禄2年(1559年)・・・すでに菊池氏は椎葉山に隣接する米良に住されて「米良氏」と名を変え勢力を増強されていた時期でした。

大河内城主那須武宗。この方のお名前から推測すると
矢立集落のある大河内城主の系はおそらく本姓「平」で通字が「宗」の湯山氏と
「武」を通じとする菊池氏(米良氏)とは
何らかの姻戚関係が生じていたのではないでしょうか?

そう考えて、米良氏(菊池氏)について、あらためて一から勉強したのですが
今までの勉強不足のせいで、全く気が付いていなかった事、知らなかった事が多数ありました!

今回は
A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
※1,はじめに
と題して書かせて頂きました。

次のコメントでは
A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
※2,米良氏と米良山について
B椎葉村矢立集落と米良(内の特定の場所実は銀鏡)に伝わる民俗学的にもこの2か所にしかないと言われる祭祀の風習
を書かせて頂きます。

最後に皆様にぜひ記憶して頂きたい事があります。
今回のコメントに登場された方々の中にあった「東氏」です。
東氏は米良山に御隠れになられた「後醍醐天皇の御子息の系」に繋がっていらっしゃいます。
おそらく、今後の鍵となる「東氏」だと私は推測しています。

では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月13日 22時55分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

コメント17の追記です。
「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」の乱後 追加します。

乱の湯前方の一人 丸目頼美、この方のその後。
丸目頼美 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E7%9B%AE%E9%A0%BC%E7%BE%8E

丸目 頼美(まるめ よりよし、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は戦国・安土桃山時代の武将。肥後相良氏奉行、後に日向伊東氏家臣。兵庫丞。

頼美は球磨の相良義陽に仕え奉行職にあった。しかし同じ奉行である東長兄と不仲となり、長兄が義陽とその生母「内城様(上田氏)」に取り入ったために頼美は謀反人とされてしまう。
隔して永禄2年(1559年)、縁者である湯前城主・東直政と共に「獺野原の戦い」を引き起こすが、破れて日向国に逃れ伊東義祐の家臣となった。
その後、元亀3年(1572年)5月4日、米良重方の率いる三ツ山衆として木崎原の戦いに出陣しそこで討ち死にする。

乱後
※破れて日向国に逃れ伊東義祐の家臣となった。
※元亀3年(1572年)5月4日、米良重方の率いる三ツ山衆として木崎原の戦いに出陣しそこで討ち死にする。

★米良重方の率いる三ツ山衆 
米良重方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%89%AF%E9%87%8D%E6%96%B9
米良 重方(めら しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。三ツ山地頭。
須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職を務める家系。薩摩国島津氏と接する小林村(現・宮崎県小林市真方)に小林城を作るよう命じられ、かつその城主にも任命され須木城と小林城を領有することになる。
永禄9年(1566年)10月26日(永禄10年10月25日説も)、築城中の小林城に島津義久・義弘・歳久が攻め寄せた際、重方は弟・矩重と共に奮戦。須木城からの援軍を得て、義弘を負傷させ島津軍を退却させる。

※須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職を務める家系。

弟 米良 矩重(めら のりしげ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%89%AF%E7%9F%A9%E9%87%8D
米良 矩重(めら のりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。一部史料に重矩と表記。
中略・・・
島津に寝返った際に、須木地頭には宮原景種が任命されたが、その後 宮原が肥後国佐敷の地頭になると、今度は島津配下として須木地頭に任じられる。

先日、コメントした皆越氏と大河平氏との関係。
大河平氏も菊池氏。
菊池氏6代・隆直の三男・菊池五郎隆俊が八代に移り、八代隆俊を名乗り菊池宗家に従っていたが、菊池宗家は、隆屋が八代氏12代当主の頃に大友氏と争い敗れ、一族共々米良山中に逃れた。
一部は米良に留まり、あるいは須木に移住し米良氏を称したが、隆屋は部下66家を率いて北原氏を頼り、真幸院・飯野(現・えびの市)の大河平郷に移り住んだ。その際、姓も大河平に改めたとされる。本貫地は終生変わらず、大河平のままであった。

★「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」 湯前方
湯前城主東直政、弟恒松蔵人、人吉奉行丸目頼美、恒松蔵人の軍勢に加え日向国向山城の那須武綱、大川内(大河内)城の那須武宗、小崎城の那須武晴ら地頭衆も援軍として獺野原に布陣

上記の人吉奉行丸目頼美。
※破れて日向国に逃れ伊東義祐の家臣となった。
※元亀3年(1572年)5月4日、米良重方の率いる三ツ山衆として木崎原の戦いに出陣しそこで討ち死にする。

この方も結局、米良氏と繋がっていました・・・

一つ気になる事があります。
最近、私が調べる事に関して、偶然か?何故か島津藩の「宮原氏」が登場します。
米良矩重 この方の記述にも
※島津に寝返った際に、須木地頭には宮原景種が任命されたが、
その後 宮原が肥後国佐敷の地頭になると、今度は島津配下として須木地頭に任じられる。

実はブログにアップした有智山 万福寺の調査でも
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12321185882.html

有智山万福寺近くに住まわれていた「千手局」は島津氏第15代当主「島津貴久」の側室となり島津家久の母となられました。
島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女(千手局)。
中略・・・
永禄12年(1569年)、大口城に籠る菱刈氏および相良氏からの援兵に対し家久は5月8日、戸神ケ尾と稲荷山にそれぞれ大野忠宗、宮原景種に率いらせた伏兵を潜ませ、自らは雨の降る中を荷駄隊を装った300を率いて大口城の麓の道を通行、誘い出されてきた大口城兵を伏兵の元へ誘い込んで首級136を討ち取った。

「宮原景種」。この方が登場されます・・・
須木地頭「宮原景種」。
系は異なる「宮原氏」ですが、須木とは、私の住む集落から見て黒原山の反対側にあたる地域です。

何か・・よく解らないのですが・・偶然?とは思えないような気がしているのです・・・

「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」の乱後 その後
最後に
発端
永禄2年(1559年)、人吉城(通称:中城)の城詰め衆である児玉弥太郎、早田平八郎、深水新左衛門の三人が、人吉奉行丸目頼美の母に仕える多数の侍女とそれぞれ密通しており、三人がこの侍女らを奪おうとしたことに端を発する。
※計略を宗慶寺(人吉市新町)の僧・智勝より授かり、それを実行に移した。

ウィキより
宗慶寺は平安時代に建立された由緒ある寺で、往時は十三坊もあったが、この乱への関与により無住となって一気に衰退し、現在は地蔵堂しか残っていない。

知らなかったのです・・・
宗慶寺・・平安時代に建立された由緒ある寺

すなわち・・宗慶寺とは平家全盛期の平安時代に建立された由緒ある寺だったと言う事を・・・

「宗慶寺」・・このお寺にも「宗」の文字が付いていました・・

「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」の乱後 追加でした。

では(..)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月14日 14時06分01秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様、
今日は。

今日は、最初に昨晩書いたコメント18で書いた
〉宗慶寺は平安時代に建立された由緒ある寺で、往時は十三坊もあった

こちらの宗慶寺について調べた事がありますので、

A椎葉山の地頭「那須氏」と米良氏(菊池氏)との関係について
※2,米良氏と米良山について
B椎葉村矢立集落と米良(内の特定の場所実は銀鏡)に伝わる民俗学的にもこの2か所にしかないと言われる祭祀の風習
の前に書かせて頂きます。

★人吉 宗慶寺について
サイト 肥後国 くまもとの歴史様 から
http://yumeko2.otemo-yan.net/e369716.html

新町地蔵堂
元、宗慶寺(寺町)十三坊のひとつ。
相良氏入国(1198年)以前に、平朝臣笠山周防守宗慶の建立といわれ、寺には十三坊があった。明応7年(1498)、宗慶寺堂再興。

地蔵菩薩像
平安末期、定朝の作との伝承があるが明らかでない。

※@相良氏入国(1198年)以前に、平朝臣笠山周防守宗慶の建立といわれる。
※A地蔵菩薩像は平安末期、定朝の作との伝承があるが明らかでない。

他、多数のサイトに上記の内容が記されていました。

九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中 様のサイトでは
写真を公開されていらっしゃいました。

新町地蔵堂由来
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/GALLERY/show_image.html?id=41840210&no=11

※地蔵菩薩像
平安末期 定朝の作との伝承があるが明らかではない。
それにしても地蔵の尊容はすぐれた仏師の作であると思われる。

地蔵菩薩像
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/GALLERY/show_image.html?id=41840210&no=12

※@相良氏入国(1198年)以前に、平朝臣笠山周防守宗慶の建立といわれる。

「平朝臣笠山周防守宗慶」 この方を調べたのですが全く情報は出ませんでした。
「平朝臣笠山周防守宗慶」・・この方は「周防守」、すなわち国司である。

「周防守」を調べたのですが
周防国(すおうのくに) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%9B%BD

残念ながら国司の項には
藤原長房:永保4年正月29日(1084年3月8日)還任(権守)
こちら以降が記されていませんでした。

しかし・・・
相良氏入国以前の球磨荘は
治天の君が一大荘園領主である王家領の球磨御領と呼ばれる場所だった
と言う事は、
宗慶寺を建立した「平朝臣笠山周防守宗慶」と言う方が勝手に「周防国の国司」を名乗る事など到底不可能だと考えるのです。

さらに・・
※地蔵菩薩像
平安末期 定朝の作との伝承があるが明らかではない。
それにしても地蔵の尊容はすぐれた仏師の作であると思われる。

定朝について調べたのですが
定朝 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%9C%9D

定朝(じょうちょう、生年不明 - 天喜5年8月1日(1057年9月2日))は平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる。

略歴
仏師康尚の子。治安2年(1022年)法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、仏師として初めて法橋になった。
定朝が法橋を望み、前例のない叙位に藤原道長もためらったが、藤原実資の助言を得て、開眼供養の翌々日に与えられた(『小右記』『左経記』『初例抄』『僧綱補任』)。定朝の主宰する工房はきわめて大規模であった。
万寿3年(1026年)8月から10月にかけて行われた中宮威子の御産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している(『左経記』万寿三年十月十日条)。
晩年の天喜2年(1054年)に造仏した、京都西院の邦恒朝臣堂の丈六阿弥陀如来坐像は、当時の公家たちを魅了したらしく、「尊容満月のごとし」(『春記』)、「天下これをもって仏の本様となす」「その金躰まことに真像にむかうがごとし」(『長秋記』)などと激賞された。
京都市の上品蓮台寺に墓所が現存する。

作品
文献上は多くの事跡が伝えられるが、現存する確実な遺作は平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)とされる。

歿後の展開
定朝没後は、息子の覚助と弟子の長勢が勢力を持ち、覚助の系統から院派と慶派、長勢からは円派が生まれた。
また、僧綱位の授与は、天皇や上皇の御願寺、或いは藤原氏ゆかりの法成寺・興福寺の意義深い造仏に携わった定朝直系の子弟に限定される慣習となった。
定朝様はその後12世紀に到るまで仏像の規範となった。
当時の日記類を読むと、貴族達が定朝仏をもてはやし、仏師らはその注文に応じ、ひたすら定朝仏の模倣に努めていたことが伝わってくる。
例えば、定朝から数えて4代目の円派仏師・賢円の工房を訪ねた貴族は、製作中の仏像を定朝仏と比較して、細かく注文をつけた。
また、長承3年(1134年)定朝から5代後の院派仏師・院朝は、定朝仏と同じ阿弥陀如来像を作るため、西院の邦恒朝臣堂へ赴き、その寸法を一日がかりで約70箇所にわたり詳細に計測している(共に『長秋記』)。
============================================

※また、僧綱位の授与は、天皇や上皇の御願寺、或いは藤原氏ゆかりの法成寺・興福寺の意義深い造仏に携わった定朝直系の子弟に限定される慣習となった。

※当時の日記類を読むと、貴族達が定朝仏をもてはやし、仏師らはその注文に応じ、ひたすら定朝仏の模倣に努めていたことが伝わってくる。

相良氏入国以前の球磨荘は
治天の君が一大荘園領主である王家領の球磨御領と呼ばれる場所だった
と言う事は「定朝作」もしくは貴族達がもてはやされた定朝仏が球磨御領に建立された宗慶寺にあってもおかしくはない・・・
と私は考えました。

しかしその宗慶寺を建立した「平朝臣笠山周防守宗慶」と言う方がいったいどなただったのか、解らないというのは「いたって不思議」です!
「定朝作」もしくは貴族達がもてはやされた定朝仏を寄贈する事が出来ると言う事は
「平朝臣笠山周防守宗慶」と言う方が、かなりの「力」を持っていらした
と言う事は推測可能です・・・

ふと・・平朝臣笠山周防守宗慶の「宗慶」とは建立されたお寺の名を通称されたのか?と考えました。

さらに「笠山」とは何だろう??

周防国の「笠山」・・カサヤマ?

先にも書いたように
『相良氏入国以前の球磨荘は
治天の君が一大荘園領主である王家領の球磨御領と呼ばれる場所だった
と言う事は、
宗慶寺を建立した「平朝臣笠山周防守宗慶」と言う方が勝手に「周防国の国司」を名乗る事など到底不可能だと考えるのです。』

そこから
平朝臣 すなわち本姓「平」で「周防守」、「周防国」に関係された方は?
と考えてネットでワードを駆使しながら検索したのですが
ナント!
こちらの 平家物語を熱く語る様のスレッドの中に唯一記載がありました!!

服部 明子様のスレッド
「平家の知行国・荘園・家人」の中で
隈さん様がお書きであったコメントに目を惹かれました!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100340.html

勝手ながら転記させて頂きます。

『これを見てへぇ!と思ったのが、現在私が住んでいる辺りにも、
平家の家人が居たこと。
周防国都濃郡富田・富田高綱だそうです。

まぁ、周防は平知盛の知行国だったそうですから、この辺に家人が居たって全然不思議はありませんが。』

※周防は平知盛の知行国だったそうですから

驚きました!
そして、さらに鳥肌が立ってしまいました・・・

王家領 球磨御領に宗慶寺を建立した「平朝臣笠山周防守宗慶」
「定朝作」もしくは貴族達がもてはやされた定朝仏を寄贈する事が出来た「平朝臣笠山周防守宗慶」
隈さん様のコメント
※周防は平知盛の知行国だったそうですから

全く無関係なのでしょうか!!?

しかし・・冷静に考えてみると
ご紹介した
「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」
発端に関係された方々、さらに「湯前方」の方々
宗慶寺(人吉市新町)の僧・智勝
児玉弥太郎、早田平八郎、深水新左衛門

湯前方
湯前城主東直政、弟恒松蔵人、人吉奉行丸目頼美、恒松蔵人
日向国向山城の那須武綱、大川内(大河内)城の那須武宗、小崎城の那須武晴ら椎葉山(那須山)の地頭衆

★宗慶寺(人吉市新町)の僧・智勝
宗慶寺は相良氏入国(1198年)以前に、『平朝臣笠山周防守宗慶』の建立といわれ、寺には十三坊があった。

★椎葉山(那須山)の地頭衆・・椎葉村の伝承・・
伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという

「獺野原の戦い(うそのばるのたたかい)」は永禄2年(1559年)。
平安時代末期から400年近い時を越えて
結局、何かが繋がっているような気がしています・・・
[20]たけぽんさんからのコメント(2017年11月16日 17時00分46秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
調査の進み具合が捗ってるみたいで
何よりです(^-^)

ところで

人吉球磨の歴史もそうですが
(他のどの歴史もそうなんでしょうが)

特に、平河に関する記述があまりにも
少なすぎるのではと、この頃
改めて思う次第であります(..)

相良文書にしても
平河一族は相良と同族?と記述してる
割には、余り記述が残ってないし
他の文書にも、余り残ってる
様子もないし・・・

やはり、この〈残ってない記述〉が
平河の一番の謎が隠されてる
のかなぁ・・・・・

と、変な考えが頭のなかを
横切ります(..)・・・
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月18日 11時35分00秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様 今日は。

たけぽん様、お返事遅くなりまして申し訳ございません。
写真入りのブログと並行してこちらのコメントを書かせて頂こうと
進めていたのですが、一昨日、昨日と来客があり
パソコンに向かう時間が取れませんでした。
すみません(..)

たけぽん様の疑問
〉平河一族は相良と同族?と記述してる
〉割には、余り記述が残ってないし・・・

そうですね。
私も、数年前に調査を始めた頃、たけぽん様と同じ疑問を感じました。

たけぽん様、皆様
確かに、相良氏6代当主「相良 定頼」。この方の『相良定頼并一族等所領注文』
には、確かに平河氏は一族として所領を受けていますね。
日向真幸院(現えびの市)など「少弐頼尚跡」を給された「平河師里」。
この方を始め複数の平河氏が一族として名を記されています。
『相良定頼并一族等所領注文』。
「少弐頼尚」この方は
観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されました、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えています。

平河氏系図を見ると一目了然で
良峯師貞(平次) ⇒ 良峯師良(沙弥観阿) ⇒ 良峯良貞(三郎) ⇒ 良峯法師(法名観蓮) ⇒ 相良弥三郎頼貞 ⇒ 小三郎次男 貞継・・・
『相良弥三郎頼貞』 。この方の弟は『相良藤三郎長貞」。
この方も平河氏系図に記されています。

つまり、平河氏を継いだのは、相良氏。もしくは母方が相良氏であった、もしくは相良氏から養子に入った、可能性大の『相良弥三郎頼貞』です。

じゃあ・・・平河氏には謎が無いのではないか・・・
そうじゃ、無いと私は思います。
謎があるのは、平河氏だけではなく、相良氏も同じ。謎だらけです・・・

相良氏は、源平の合戦の際に、平家方を貫いた方々です。
相良頼景。この方は伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、肥後国多良木荘に追放された。
しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。
(ウィキペディアより)
他、城郭放浪記様のサイト
肥後・相良頼景館 より
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/sagarayorikage-yakata/
築城年代は定かではないが鎌倉時代に相良頼景によって築かれたと云われる。 相良頼景は上相良氏の祖で、治承4年(1180年)伊豆で源頼朝が挙兵したときにこれを拒み、球磨郡多良木の伊勢弥次郎に預けられた。その後、源頼朝のおぼえもよくなって多良木荘の支配が認められたと云う。

もちろん、この事は求麻外史、南藤蔓綿録等の相良史誌に記載されていて、殆どの方が周知の事ですが
ただ、相良頼景、この方が、頼って行かれた先にいらっしゃった方、預けられた方は、後に平家没官領となった多良木の伊勢弥次郎(不実名)。
つまり「伊勢氏」です。
平安末期まで、王家領であり、平頼盛をはじめ平家一門が開発にあたっていた球磨御領には「伊勢氏」がいらした・・
と言う事になります。
この「伊勢氏」。実は私の住む旧宮原村に代々系を繋げて来られています。
家の宮原家も、祖母方の平川家も曾祖母の実家深水家も、伊勢家とは遠縁になります。

相良頼景・・上相良氏の祖。
この方と後妻であった須恵氏の娘「青蓮尼」
菩提寺にも謎が含まれていると私は思います。
青蓮寺阿弥陀堂の『阿弥陀如来像と両脇侍 : 国指定重要文化財』について以前書かせて頂きました。
3尊は法印院玄の作で・・「法印院玄」とは
蓮華王院本堂千躰千手観音の内、7体が法印院玄の作でした。
蓮華王院本堂(三十三間堂)。
つまり都!。

くまとっぷ様 サイトには
http://www.kumatop.com/index.php?%E9%9D%92%E8%93%AE%E5%AF%BA%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A0%82

『御堂は4柱造りの茅葺で広さ9.09m、軒高約4.48m、軒から棟まで高さ約7.58m、阿弥陀如来像と両脇侍とともに国指定重要文化財に指定されています。県内最大の茅葺堂です。
3尊は法印院玄の作で、「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。』
と記されています。

冷静に考えると、
相良氏は元々、「遠江国」の国人だった方です。
その相良氏と京都の繋がり・・・

鎌倉幕府成立後、京都と繋がりがあったのは「平河氏」も同じです。
平河氏が起こしていた訴訟の相手は
大江広元の外孫である「徳大寺実春」。
「徳大寺」家です。

後世、「徳大寺家」から、相良家に嫁いで来られた方がいらっしゃいます。
肥後人吉藩十五代藩主 相良頼基。この方は
正室:栄姫(父:出羽米沢藩十二代藩主 上杉斉憲)
継室:永(父:右大臣 徳大寺公純)
息女:弘子(夫:子爵 京極高備)

京都、「都」と相良氏との姻戚関係はもっと遡ると
肥後人吉藩二代藩主 相良頼寛 生没年:1601-1667。 この方は
正室:明窓院 亀・(父:犬童頼兄)※相良清兵衛
継室:妙光院(父:参議 鷲尾隆尚)
側室:周光院(父:片岡正秀)
※参議 鷲尾隆尚。父は権大納言 四辻公遠

さらに・・
肥後人吉藩三代藩主 相良頼喬 生没年:1641-1703 この方は
正室:春晴院 於亀(父:相良長秀)
継室:月仙院(父:権大納言 鷲尾隆量)

さらにさらに・・・
「鷲尾家」からは
肥後人吉藩九代藩主 相良頼完。この方が養子に入られています。
父は権大納言 鷲尾隆熙
義父は肥後人吉藩八代藩主 相良頼央

相良氏と京都・都(みやこ)の繋がりは、地方の大名家の姻戚関係としては
私は特別だ・・と考えるのです・・

何故?都から、はるばる遠い、球磨の地へ・・

何重にも相良氏と姻戚関係を結ばれている「鷲尾家」ですが
「鷲尾家」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E5%B0%BE%E5%AE%B6

鷲尾家(わしのおけ、または、わしおけ)は、藤原北家四条流の公家である。
家格は羽林家。鎌倉時代に四条隆親の三男・隆良を祖とする。

四条隆親とは・・ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A6%AA

四条 隆親(しじょう たかちか、藤原 隆親(ふじわら の たかちか)、建仁2年(1202年) - 弘安2年9月6日(1279年10月12日))は、鎌倉時代の公卿。歌人。藤原北家魚名流、大納言四条隆衡の二男。正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。
経歴
父隆衡は平清盛の外孫にあたるが、母(坊門信清の娘)の姉妹は鎌倉将軍源実朝の正室でもあった。
※父隆衡は平清盛の外孫にあたる

さらに
系譜を見ると
※女子:近子(?-1259) - 大納言典侍、久我雅忠室、後深草院二条母

久我雅忠・・久我氏との姻戚関係

久我雅忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%BF%A0

父は久我通光。久我通平と久我通忠は兄にあたる。「とはずがたり」の作者とされる後深草院二条(あかこ)は娘。

※兄の久我通忠の妻は
正室:唐橋通時の娘
継室:平光盛の娘 ★平光盛は平頼盛子息。人吉庄の預所であった方です!。

四条 隆親。この方の父「四条 隆衡」。
ウィキの記述を見るともっと驚きます!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A1%A1

四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら)、承安2年(1172年) - 建長6年12月18日(1255年1月27日))は、鎌倉時代の公卿。
藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。
祖父隆季、父隆房は後白河法皇の近臣であり、また、平家とも近しい間柄にあった。隆衡の母は平清盛の女であり、隆衡は平清盛の外孫にあたる。

系譜から抜粋
妻:坊門信清の娘
女子:四条貞子(1196-1302) - 西園寺実氏室 
★西園寺実氏、父は准三宮太政大臣「西園寺公経」。
二男:四条隆親(1202-1279)
三男:四条隆盛(隆宣)(1211-1251) - 従三位内蔵頭
「西園寺公経」 この方が登場。
西園寺公経の曾祖父は「平頼盛」
球磨御領を中心的に開発された方であり、鎌倉幕府成立後はその子息「平光盛」が人吉庄の預所となられた・・


まとめますと
相良氏と何重もの姻戚関係を結んだ京の公卿家「鷲尾氏」。
@※祖の四条隆親。曾祖父は平清盛。
A※四条隆親の息女は久我雅忠に嫁ぐ。久我雅忠、兄の久我通忠の妻は平光盛の娘。
B※平光盛は球磨御領を中心的に開発された方平頼盛の子息。
★ ちなみに・・平光盛の子息は「平川景家」
C※四条隆親の姉は西園寺実氏室。
★西園寺実氏、父は准三宮太政大臣「西園寺公経」
D※西園寺公経。曾祖父は「平頼盛」
E※西園寺公経と宮原の一族の先祖「橘公業」は球磨郡久米郷を替地された。


相良氏と何重もの姻戚関係を結んだ京の公卿家「鷲尾氏」
縁戚関係だけではありません。
肥後人吉藩九代藩主 相良頼完。父は権大納言 鷲尾隆熙
つまり肥後人吉藩は鷲尾氏の子息が継がれた!

今回、調べた事をまとめると
結局は、私が今まで調べていた様々な「球磨」に関わる方々に全て繋がる訳です。

相良氏にも「謎」が多い・・
この「謎」は、おそらく「平河氏」と同じ「謎」なのではないのかな・・・
つまり
平河氏の「謎・」= 相良氏の「謎・」
です。
「謎・」とは・・

きっと、今、その「謎・」に私は近づいているのだと
何となくですが、感じています・・・

むむっ(p_-)
書きます(^O^)/と宣言?した事がまだ書けていません・・

今日、明日と精力的に書きたいのですが・・
父が色々用事を言いつけるので・・トホホ(..)

出来る範囲で無理なくです・・

では(^'^)
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月18日 12時42分22秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年11月19日 10時15分50秒
[25]たけぽんさんからのコメント(2017年11月19日 09時30分20秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
やはり、ミヤハラ様も
初めはそうだったんですね・・・

相良と同族な件
お嫁に来られた姫が
いてらっしゃるので
同族扱いも養子に来られた方が
いらしても、なんの不思議も
無いのですが・・・

余りにも記録が少ないのが
ちょっと・・・

そこまでする必要が
あるのかな?と、言う
くらい、記録が無いと
変な考えが沸き上がってきて
・・・(..)

しかし
平河もそうですが
ミヤハラ家も、凄い
家柄なんですね(・・;)

今日は、今から熊本市内の
お寺にお参りに行くので
御先祖様(ミヤハラ家も)の
御回向も、しっかり
して来ようと思っています
d(^-^)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月19日 17時06分13秒 ) パスワード

たけぽん様、ご覧頂いている皆様 今日は。

たけぽん様
宮原の一族の先祖供養、本当にありがとうございます。

電話帳によるデータベースから見ると
宮原姓は球磨・人吉地方に現在204軒あります。
あさぎり町には66軒。
家はその中の1軒にすぎません。
ただ、何らかの理由?で旧宮原村に沢山の土地を
第二次世界大戦中まで曾祖父・祖父が所有していたのだろうなぁ〜(?_?)
と、私はそれくらいの考えです。 おそらく先祖はトホホ〜((+_+))と泣いているかもしれません。

宮原の一族は南北朝時代に二系に分かれています。

一系は現在の氷川町宮原の宮原城城主であった「橘公忠(宮原公忠)」この方の系で、こちらのスレッドにコメントを数回書いて下さった
「人吉宮原家様」が直系となられます。(県外にお住まいです)

もう一系は、「岡原の豪族」と球磨村の御堂に書かれた相良家家老「宮原宇右衛門」の系で、
江戸末期の肥後人吉藩第13代藩主「相良頼之」、この方の息女「於保様」を妻とされた「宮原健吉(幼名健之助)」を惣家とする系です。

ただ、「宮原健吉(幼名健之助)」、この方の後は氷川町宮原の宮原城主「橘公忠(宮原公忠)」の系の方が養子に入られて継いでいらっしゃるので
二系の「宮原氏」は合流した・・と言う事になります。

私の住む旧宮原村の球磨の宮原城は一国一城令(1615年)の後、しばらくは存続したようですが、島原の乱を機に廃城になりました。
しかし1655年に建立された庚申塔には「宮原氏」は多数名を残されていますし
人吉城下の宮原氏と旧宮原村、旧宮原村に残った宮原氏とは、もちろん「縁」は続いていたと推測出来ると思います。
さらに、明治維新以降、人吉城下から多数の方々が縁地に戻って来られていますので
家の場合は何と言うか「直感」ですが、調べたらすぐに解りそうで・・・
家の宮原家の調査は後回しになっているのが現状です。
先祖には申し訳ないと思っています。

どうしても「謎」が多い方に興味が湧いてしまいます・・反省(..)

こんな私ですから、たけぽん様から頂いた「御回向」のお話。
心からありがたい事だと感謝しております。
本当にありがとうございます。

所で・・・
たけぽん様、皆様
「宮原氏」の話を書いたついでに(ぎゃ!先祖から叱られるかな・・トホホ)
一つ、新たに「宮原氏」の事で解った事がありますので書かせて頂きます(..)

平成24年3月に発行された「水上村誌」(全四巻)。
編著者は私が参加させて頂いている「求麻郷土研究会」の尾方保之先生です。
水上村に興味を抱く私に、尾方先生から、
「水上村の事以外にも宮原氏の事も書いていますから」と
『水上村誌 歴史編 第二巻 近世(江戸時代)』 をありがたい事に頂く事が出来ました。

『水上村誌 歴史編 第二巻 近世(江戸時代)』は
第一章 人吉藩の成立 第一節 関ヶ原の戦い から 始まります。

ウィキでも書かれているように
人吉藩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9

※@天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際、老臣の深水長智は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦衷を秀吉に訴えた。長智の奔走により当主の相良頼房(後の初代藩主・長毎)は領土を安堵された。

※A慶長元年(1596年)深水長智の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化しこれを石田三成が仲裁。結果、頼蔵が敗訴し彼の後ろ盾となっていた加藤清正の下に奔り、深水一族は頼兄により討たれた。これにより犬童頼兄は相良清兵衛頼兄と名乗り家老・執政となり相良家の中心的役割を果たしてゆくこととなる。

※B慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義から当初西軍に付いた。しかし頼兄は日向国の小領主である秋月種長・高橋元種らとともに東軍への寝返りを実行した。その結果、彼らは徳川家康より旧領を安堵され各自立藩した。

上記の※Bの件に関して
犬童頼兄 ウィキでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84

※C慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた相良氏は、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、大垣城にて西軍本隊が大敗したと知るや、徳川家臣・井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任された。


※B※Cの相良藩の西軍から東軍への寝返りの背後にあった
『犬童頼兄の井伊直政との内通』
この事を背景・時間軸に伴う経過と共に
尾方保之先生 編著 『水上村誌 歴史編 第二巻 近世(江戸時代)』
第一章 人吉藩の成立 第一節 関ヶ原の戦い
に詳しく記されていました。

ドラマ等では決してクローズアップされない、九州の相良藩が存続をかけてどう動いたのか
御紹介させて頂きます。

@伏見城の戦いでの、相良藩の本音(勝手に私が項の題を付けました)

慶長五年(1600年)七月十九日に始まった伏見城の戦い。相良家二十代当主「相良長毎(ながつね)」もこの戦いに参加しています。
所が・・・
本来、「相良長毎」、この方が上洛した目的は徳川家康の会津遠征に強力する為だったのです。
「相良長毎」は六月より球磨をたち、家康の会津遠征に協力する為に上洛、七月上旬大阪に到着しました。
所が、到着した時は、すでに遅く、家康が出発した後でした・・
そこに石田三成からの西軍への再三の要請がありしかたなく三成に味方する事になりました。
断る事が出来なかった理由は
先に書いた
※A慶長元年(1596年)深水長智の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化しこれを石田三成が仲裁。
※B慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義。
にあった訳です。

しかし、相良氏はここで、影でしっかりと動いていたのです(p_-)
「相良長毎」は、恒松吉助を使者として家康に手紙を送っていました。
それは
「家康殿にお目見えしたいと上洛したが、奥州へすでに下向され、すぐに後を追うつもりでした。
しかし、石田三成に引き止められどうしようもなくなりました。
もし上方へ出陣の時は、必ず見方するつもりです」
という内容でした。

恒松吉助は手紙を持って家康の後を追い、下野国古川で追い付き、井伊直政へ手紙を渡すと
家康から「御感浅からず」との返事をもらいました。

A大垣城の戦いでの相良氏の行動 (勝手に私が項の題を付けました)

伏見城の戦いの後、相良長毎は高鍋城主秋月種長、延岡城主高橋元種とともに大垣城へ入りました。
九月十五日、相良長毎は「宮原新助」「犬童三郎兵衛」を井伊直政へ遣わし、大垣城の石田一族、その他垣見、熊谷、木村などを近日中に討ち果たし、忠節を守る所存なので、検使の一人を送ってもらいたいと求めました。
井伊直政は勝野五郎兵衛を遣わしました。

大垣城での相良長毎・高鍋城主秋月種長、延岡城主高橋元種の寝返り決行の日
家康は西尾光教・水野勝成・中村式部少輔の三人を大垣城に差し向け、城を包囲させました。
決行前に犬童頼兄(相良清兵衛)と神瀬久兵衛は相良長毎の前に出て
もし、計略が失敗した場合、自分は自決するつもりである。殿が切腹せざるを得なくなったときは、久兵衛が殿の切腹の介錯をなし、自決する事を求め、
神瀬久兵衛もそれを了承したそうです。

相良長毎の下、
犬童頼兄(相良清兵衛)・神瀬久兵衛・井口権助・犬童覚兵衛・蓑田甚兵衛・東伝五・
豊永五助・犬童半助・尾方半右衛門・宮原新助
がこの事件に参加。
垣見家純、この方は犬童頼兄(相良清兵衛)に討たれ
木村宗左衛門、この方は蓑田甚兵衛に討たれ
熊谷内蔵允直陳とその子息勝兵衛、木村伝蔵三人の方々は犬童半助・尾方半右衛門・宮原新助に討たれたと言う事です。
※相良藩では後に、大垣城にて、討った方々の御魂を石塔を建てて御供養を続けました。

大垣城にて討たれた方々の首実検は勝野五郎兵衛が行い、水野勝成へ遣わされ、
水野勝成は井伊直政へ進上しました。

その後、水野勝成は相良長毎・秋月種長・高橋元種に石田三成の妹婿福原直高がいた大垣城の第一城の城攻めを命じました。

大垣城の第一城の城攻めの前
恒松吉助は水野の使者勝野五郎と同道し、家康上洛の後を追い、九月二十日大津において追いつき、井伊直政に垣見氏らの首を差し出しました。
九月二十一日、井伊直政は相良長毎に
「中略・・家康公は約束を違えなかった事を喜ばれ、出来るだけ早く福原(福原直高)を成敗してもらいたい。他の事は面会したときに・・・」
と言う手紙を送ったそうです。

相良氏の西軍から東軍への寝返りの裏側を
尾方保之先生 編著 『水上村誌 歴史編 第二巻 近世(江戸時代)』
第一章 人吉藩の成立 第一節 関ヶ原の戦い
を拝読、抜粋して書かせて頂きました。

しかし・・・ここで考えたのですが
この件は相良長毎・犬童頼兄(相良清兵衛)と井伊直政の間に何か・・信頼関係が存在しなければ決行出来なかったのでは?と。

相良長毎と徳川家康。二人の方々の間を取り持たれたのは井伊直政です。

さらに、不思議だな・・と感じるのは
相良氏、球磨衆は石田三成からの要請を断れずに伏見城では西軍として戦っているのにも関わらず
伏見城の戦いの後
九月十五日、相良長毎は「宮原新助」「犬童三郎兵衛」を井伊直政へ遣わし、大垣城の石田一族、その他垣見、熊谷、木村などを近日中に討ち果たし、忠節を守る所存なので、検使の一人を送ってもらいたいと求め、
井伊直政はすぐに応じ勝野五郎兵衛を遣わした・・
この事がとても不思議でならないのです。

普通だったら
「相良氏は伏見城では西軍として戦ったではないか!使いなど寄越しおって!」
と・・・「宮原新助」「犬童三郎兵衛」この方々は命の危険もあって当然・・

しかし、井伊直政は相良氏の言葉を信じ、勝野五郎兵衛を遣わし、「宮原新助」「犬童三郎兵衛」も無事に戻る事が出来た・・・

信頼関係がなければ、あり得ない事だと思うのですが・・

ちなみに、相良氏側の方々の名は殆どが通称や別称で書かれていますが
宮原氏「宮原新助」
後に、寛永十七年犬童頼兄(相良清兵衛)が岡本城に居城し、私利私欲を高めたと藩主相良頼寛が幕府に訴えた際に、江戸からの使者として球磨に使わされた方は「宮原佑助」
「宮原佑助」とは「宮原内記」こと「宮原頼慶(橘頼慶)」。
相良家家老「宮原宇右衛門公全」の父で
つまり、岡原の豪族と呼ばれた系の方となります。

球磨の旧宮原村の橘氏・・・
そう言えば・・南北朝時代の久米の領主「橘遠江入道道公」この方の真実もまだ解っていませんでした・・(..)

先に
〉どうしても「謎」が多い方に興味が湧いてしまいます・・反省(..)
と書きましたが
宮原の一族も「謎」が多かったのでした・・・反省(..)

しかし、相良氏と井伊直政、この方々にある信頼関係とは
やはり辿れば「同族」だからかな・・と考えます。

日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm

から続いて
《井伊氏/赤佐氏/貫名氏》姓氏類別大観 を拝見すると解りますね・・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm


相良氏と辿れば同族の井伊氏の元へ遣わされた球磨の橘姓宮原氏・・
と言う事になります。

・・・・むむっ(p_-) 何か妙〜に気になります・・・
気のせいかな・・・(?_?)

と言う事で宮原氏の名が出たので
今日は関ヶ原の戦い前後の相良藩の動向について書かせて頂きました。

では(..)
[27]たけぽんさんからのコメント(2017年11月22日 13時50分01秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
詳しく書いて頂き
ありがとうございます(^^)

この書込みを見て、また
勉強させて頂きます(^-^)

あと、たまたま調べてたら
何方かのかはわからないの
ですが・・・

すみません、平河の部分だけ
書込むことをお許し下さい
m(_ _)m

その方の調査?の所に


平河師里相良流平河又三郎
 師頼小三郎三郎左衛門
 貞家八郎
 行親

と、ありました。

他の相良流は、相良○○流と
ちゃんと名前が書いて
あるんですが、師里の相良流だけは
ただの〈相良流〉だけなんですよね
(・・;)

ん〜・・・

〈誰〉の流が書いてあれば
謎解きの手掛かりが1つ
あったかなぁ・・・

と、勝手に期待して
しまいました(..)
[28]たけぽんさんからのコメント(2017年11月22日 13時57分38秒 ) パスワード

追記

ミヤハラ様
御回向は、うちのもして来ました(^_^)v

勿論、うちが知ってる親戚筋の
先祖代々でさせて頂きました

うちも、御先祖御回向させて頂き
御先祖様や仏様への御奉公ができ
有り難く思っています

ミヤハラ家
色々な意味で、まだな私ですが
これからも色々
宜しくお願い致しますm(_ _)m

[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月22日 23時27分23秒 ) パスワード

たけぽん様、今晩は(^'^)

御回向、本当にありがとうございます。
先祖も大変喜んでいる事と思います。

実は、私、こちらのコメントにもブログにも書いていない「発見」を致しました。
たけぽん様のお祈りのお陰です。
心よりお礼を申し上げます。
内容は、もうしばらくお待ちください。
ヒントは・・・全く興味が無いと書いていた場所が
興味が無かったのに何処だったのか(●●辺り)解ってしまった・・・です。

所で・・
平河師里相良流平河又三郎
 師頼小三郎三郎左衛門
 貞家八郎
 行親

菊池氏 の系図が記されたサイトですね。
私も、ずいぶん前に見て、何度かコメントした事があります。

平河師里相良流平河又三郎
この方が、『相良定頼并一族等所領注文』で
日向真幸院(現えびの市)など「少弐頼尚跡」を給された方です。

相良流と言うのは、先日コメントした平河氏系図に記された
良峯師貞(平次) ⇒ 良峯師良(沙弥観阿) ⇒ 良峯良貞(三郎) ⇒ 良峯法師(法名観蓮) ⇒ 相良弥三郎頼貞 ⇒ ★小三郎次男 貞継・・・

相良弥三郎頼貞の後裔であると言う意味ですね。
ちなみに★マークを付けた『小三郎次男 貞継』
小三郎とは『師頼小三郎三郎左衛門』。
つまり平河師頼、この方の次男が平河氏を継いだという事になります。
じゃあ長男の方は?となりますね・・・・(p_-)

290年代後半〜1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」でありました。

人吉庄の一分地頭職であった「平河師頼」。この方の次男が 平河貞継。
何故か次男が平河氏を継いでいる訳です。

何だかやはり謎解きは面白い(p_-)
ワクワクします(^'^)

謎に挑む方が自分には合っているのかもしれないと・・・
最近、思い始めました。

あと・・その「謎」は宮原の一族もやはり多い・・
と言うか、「全く興味が無い」と私が書いていたその「場所」を
教えた、もしくは、某方、もしくは某方の先祖様に教えたのは
宮原の一族の先祖かもしれない・・・
と言う事にまで気が付きました。
何せ、宮原の一族が「宮原」を名乗るきっかけとなった「地」は火の君が
いらっしゃった「地」ですから・・・

何を言いたいのかは
お待ち下さい(..)

では(^'^)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月22日 23時32分35秒 ) パスワード

訂正です(..)

290年代後半〜1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」でありました。

訂正
1290年代後半〜1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」でありました。

でございます。

290年からだったら・・・弥生時代からです
全く私はおっちょこちょいだ(@_@。
「平河師種」さんから
『ええっ(゜-゜) 1000年も生きてませんけどぉ』
とお叱りを受けますね。
(@_@。

では<m(__)m>
[31]たけぽんさんからのコメント(2017年11月23日 17時47分59秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
新たな発見の書込み
楽しみにして
おりますd(^-^)

菊池一族のだったみたいですね
f(^^;

なるほど・・・Ф(・。・.)フムフム

平河家は、長男より下の
兄弟が継ぐ方が多いですね
(・・;)ん〜・・・


[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月23日 22時35分26秒 ) パスワード

たけぽん様、今晩は(^'^)

〉平河家は、長男より下の
兄弟が継ぐ方が多いですね

確かにそうですね・・・・
深田盛高(長男)山田藤高(次男)平河師高(三男)横瀬高実(四男)
三男の平河師高、この方が惣領になっていますしね・・・

しかし・・・山田氏も平河氏も横瀬氏も現在まで続いているのに
深田氏は・・・鎌倉時代以降、全く名が見えませんね・・

なのに! 平河氏は明治維新以降、国に提出した系図には
深田(平河)盛高の後裔としています!

何もかも謎です(p_-)
[33]たけぽんさんからのコメント(2017年11月24日 08時11分21秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

本当ですね(・・;)

深田氏は・・・(..)

系図提出時に、長男でなければ
不都合があったのですかね?(・・;)

しかし、三男は、長男から所領を
譲り受けてるんですよね?(・・;)

ん・・・(-_-;)

何故に、こんなややこしい事を
わざわざしたんだぁ〜(-_-;)???
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月24日 17時21分53秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

たけぽん様
本当に・・・こんなややこしい事を何故?ですね・・・
しかし・・・もしかしたら・・・長男は別の系の嫡流であったりして・・・
独り言です・・・

所で
たけぽん様、皆様
ブログの方に、
全く興味が無いと書いていた場所が
興味が無かったのに何処だったのか(●●辺り)解ってしまった
の件を書きました。

最近、矢立氏について、多くの情報が見つかればと考えブログの方に
シリーズのような形で次々と書かせて頂いていました。

しかし・・・今回の内容は、初めて「批判」のような内容もあるので
こちらのスレッドを運営されていらっしゃる方に御迷惑をおかけする訳にはいかないと
私なりに考えてブログの方に書かせて頂きました。

興味が無かったのに何処だったのか解った場所について、
その事に気が付く過程も含めて書かせて頂いています。

先に批判と書きましたが
私のような若輩者が、先人の御苦労を批判するとは言語道断である事は
十分に解っています。
その事は反省していますが、「謎」に気が付いたのに書かないではいられない!
そう言う心境でした。

皆様、よろしければご覧ください。
ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12330650189.html

ご感想・御教示をお待ち致します。
よろしくお願い申し上げます。
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