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 投稿番号:101605 投稿日:2017年09月14日 10時40分11秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について41

コメントの種類 :その他  パスワード

平川家について41を立ち上げました。

前スレッド「平川家について40」におきまして
たけぽん様、三つ柏服部様より
温かい御支援、ありがたい御教示を頂きまして
真にありがとうございました。

私の調査の目的の一つ
古代 → 中世 → 近世の 球磨における、豪族・御家人・相良氏・相良藩士の繋がり・謎を解く
大きな一歩となりました。

この大きな一歩はとても大切な一歩だと思います。
これからも、調査を精力的に進めて参ります。


今後とも、よろしくお願い申し上げます。

こちらは「平川家について40」コメント77より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101597_76.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月14日 12時27分30秒 ) パスワード

三つ柏服部様

コメント頂きましてありがとうございます。

頂いたコメント78の続きをこちらに書かせて頂きます。

〉古代―中世―近世も、原初の流れ(線)を継いでいる
〉次のターゲットとしては「卑弥呼」が呼んでいる

まさしくその通りです!!
実は、私が気が付いた事とは、御教示頂いた諸県君牛諸(もろあがたのきみうしもろ)と
卑弥呼の名が記された「系図」との繋がりです!

実は、数日前から、今日の午後に外出する予定を入れていまして(完全に忘れる程、興奮していました)
今から出かけますので
この続きは今日の夜、もしくは明日、必ず書かせて頂きます。

私は「平川家について38+1コメント60」で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101590.html

この事に近づいていたようでした。
でも、その事が何を意味するのか、この時点では全くわかりませんでした。

三つ柏服部様、重ね重ねに申し上げますが 
本当にありがとうございました。
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月15日 13時11分00秒 ) パスワード

たけぽん様、三つ柏服部様、皆様 今日は(^'^)

気が付いた事を書かせて頂く前に(..)
これから書く事は、もしかしたら後に書かせて頂く「気が付いた事」の序文になる事かもしれません。
しかし・・これから書く事を
『くだらない事を書いている(ー_ー)!!』とお思いになられる方もいらっしゃるかとは
思いますが・・・・
私は至って真剣です。
ぜひ、お付き合い下さい。

まず・・

たけぽん様
〉特に<鼻> が良く似てる様な
〉うちは<ま〜るい鼻>です

お聞きしてさらに親しみが湧きました。

ちなみに、家の方の一族・親戚の特徴はナント言っても「耳」ですね(p_-)
朝から、家にある沢山の写真を見ながら「耳」の遺伝は完璧?だ!と思いました。
祖母の実家の平川家繋がりの親戚だけでなく、本姓「大神氏」の親戚も
特徴は「耳」です(p_-)

母方の特徴は「鼻」です。
男性陣は鼻が高かったと父は言いますが、しかし・・
女性陣は鼻は・・・丸い だけじゃないです。
私も何となく記憶しているのですが・・・・(母方の御先祖様すみません(..))
鼻が丸くて、さらに大きかった・・・

私が思春期の時、鼻の事を気にしていたら父が
「お前の鼻は丸いけど小さいよ(^'^)。お母さんの鼻は形は似ているけどお前の2倍はあった!」
と。(ぎえ〜っ<m(__)m> さらに母方の御先祖様すみません(..))
でも・・・確かに特徴的な大きさのような気はする・・・

最近も、同じ事を言うので・・・
父に
「そんなにお母さんの鼻の事を言うけど・・でも、出会った時は、好きだったんでしょう。」
「そんなに言うなら何で好きになったと?」
と私が、母の悪口とも言えるような事を言うと父は・・

「ばか!そんな風に言うな!  可愛かったから・・・タイ」
と。
なんじゃそりゃ?と思いますが・・・

ちなみに父は子供の頃とても自分の耳の形をきにしていたそうで
ニックネームは「ダンボ」だったそうです。

何はともあれ、特徴的な容姿の事を言うのは良くない事だと思います。

ただ・・

父方は・・・一目みると「あっ耳が」大きい・・
母方は(祖母や母・姉妹)・・・鼻が丸くて大きい

この事って、実は私の先祖調査、特に「古代」まで遡った先祖に関しては「非常に重要な事」では無いかと思うのです・・

くだらない!とお思いの方すみません(..) しかし・・・
冷静に考えてみると
父方(平川の親戚を含め)は、相良氏が球磨に来られて700年以上の歴史の中で
殆ど、当地「球磨」から移動する事もなく過ごしてきた訳です。
さらに、相良法度による厳しい「縁戚関係」の管理の元、勝手な姻戚関係を結ぶ事は許されていなかった・・・
そう考えると、古代から繋がる「先祖」の特徴を強く引継いでいる可能性は高いのではないのか?
と考えるのです。

そして
母方は日向日下部氏であり、こちらも「宮崎(日向)」や「鹿児島」辺りを移動するくらいで、殆ど「動いてはいない」と推測します。
さらに、母の実家や一族は団結している・他を受け付けない雰囲気がある!
と言われる事から考えると、おそらく母方も先祖を遡っても、殆どが一族間の
縁戚関係だと考える事が可能かと。

そう考えると、やはり母方も古代から繋がる「先祖」の特徴を強く引継いでいる可能性は高いのではないのか?

例えば
古代の人の名前に「耳」が付く方多い事に関して、様々な方々が「説」を唱えていらっしゃいますが・・・
本当は、もしかしたら「単純」な事なのかもしれないな〜と
私は考えるのです・・・

平河氏は本姓 良峯姓である・・・
良峯安世を祖とする良峯氏は、数代しか続かず、その後を継いだ可能性があるのは
「多氏」の系の方でした。

多氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B0%8F

多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。
概要
皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もある。

※邪馬台国の女王の卑弥呼もまた・・この説を唱えた方は「太田亮」博士です。

私が興味を持つのは
神武天皇の子の神八井耳命の後裔・・・神八井耳命・・お名前に「耳」の文字が付く事です。

そこで、「耳」の付く古代の方々のお名前を調べたのですが
とても解りやすい表がありました。
サイト 耳の人々 様 です。
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E3%83%9F%E3%83%9F%E8%80%B3%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85/

表を拝見すると一目了然で
出雲の系の方々、神武天皇の皇子の系の方々が圧倒的に多くいらっしゃいます。

さらに
吉備臣の祖 御鋤友耳建日子 ・・・吉備氏
紀直の祖  豊耳・・・紀氏
高魂命の孫、日置部の祖 天櫛耳命
高魂命八世孫、久米直の祖 味耳命、味日命・・・久米氏

出雲・・大国主命・・後裔・・大神氏
神武天皇・・後裔 多氏 ・・・良峯氏は多氏の後裔の方が継いだ可能性が高い。

「耳」が名前に付く方々。
「耳」に特徴がある家の親戚一族(私も含め)

名前に「耳」が付く方々の名の由来は諸説ありますが・・
でも・・何だろう・・”そのまんま”じゃないのかな?と私は考えるのですが・・

歴史的根拠はもちろん全くありませんが
もし・・真摯な考えで諸説をお唱えになられる方々の前に
本姓「大神氏」本姓「良峯氏」の家の親戚一同が登場したら・・
きっと「あっ!耳・・」って  \(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・・
さらにくだらない!との声が・・すみません。
でも、私は本気です。

では
母方は・・どうなのか・・・

あの・・すぐに見つけてしまいました・・・
ぜひ、ご覧頂きたいサイトを・・

ひむか神話街道様のサイトより 第47話 髪長媛
http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/densetsu/047/

絶世美女 髪長媛

その昔、日向の諸県(もろかた)地方を支配していたオオハナモチノミコトには、それはそれは美しい妹がいました。心やさしく、髪がとても長いその姫は髪長媛(かみながひめ)といい、その美しさの名声は日向の国にとどまらず、人から人へと伝わり、都にまで届いていました。
「日向の国に髪長媛という、国で一番の美人がいます」
ある人から、こう申し上げられた応神天皇は、
「ぜひともその媛に会いたいものだ」
と、使いを出し、都へ呼び寄せました。
父の諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)は喜んで娘を送り出すことを決め、髪長媛は長い旅へと出かけました。

以下略します。

※日向の諸県(もろかた)地方を支配していたオオハナモチノミコト
※オオハナモチノミコトの妹 → 髪長媛
※オオハナモチノミコト・髪長媛 兄妹の父が 諸県君牛諸井

あの・・・決してふざけている訳ではありません。
私は至って真剣です。

『オオハナモチノミコト』・・何だろう、こちらも”そのまんま”のような気がします。


ブログに書きましたように
こってこての「新球磨人」と、こってこての「日向・日下部氏」のハーフ?である私の特徴は
「耳」が大きくて「鼻が丸い」(母は2倍?くらい・・でも父から見れば可愛い鼻・・・)

しかし、先にも書きましたように
父方「新球磨人」と、母方「日向・日下部氏」は、其々が
「球磨」と「日向」に長く在していて
古代から繋がる「先祖」の特徴を強く引継いでいる可能性は高いのではないのか?
私は・・やはり真剣に考えます・・・

くだらないとお考えになられた方々には申し訳ございませんでした。

でも・・私にとっては、今回のコメントは
「序文」のような気がするのです・・・

次のコメントからは
しっかりと「気が付いた事」を書かせて頂きます。
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月15日 18時15分58秒 ) パスワード

たけぽん様、三つ柏服部様、皆様
あらためての登場です。

非常に大きな台風が近づいています。
進路を見ると、私やたけぽん様の地元「球磨・人吉」も直撃を受ける可能性があり、朝から、外廻の片づけをしていました。
九州だけではなく、日本を縦断する予想進路となっていますが
皆様、十分にお気を付け下さい。

コメント2を書く前に、本当は今朝のあのニュースで怖い思いをされた方々のお気持ちを思うと、お気の毒で気が滅入っていたのですが
騒がず普段通りの生活で過ごす方が・・
と思いコメントを書きました。
ただ、何も考える事がなく、普通に過ごしていた日々とは全く違う時代に入って
あらためて、平和を祈る思いが強くなります。
地震を経験した際にも痛感しましたが「普通の日常」がいかに幸せな事なのか
今朝もその事を考えました。

三つ柏服部様から頂いたご教示のおかげで
私が気が付いた事とは
「平川家について38+1」のコメント60と、さらにコメント61で調べていた事との繋がりでした。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101590.html

景行天皇 妃:襲武媛(父:襲武)

皇子
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
別皇子『国乳別』 ※後裔氏族『水沼別、伊与宇和別』 筑後国三潴郡、伊予国宇和郡
国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
別皇子『宮道別(国背別)』 ※後裔氏族『宮道之別(宮首之別)』 三河国宝飯郡宮道郷
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)・・※火国別(ヒノクニノワケ)の始祖

同じく
景行天皇 妃 御刀媛
豊国別皇子
別皇子『豊国別』 ※日向国造、諸縣君 日向国諸縣郡

豊国別皇子は日向諸県君の祖でした。
日本の苗字七千傑様の【日向国造】姓氏類別大観を拝見して理解出来ました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01236.htm

【日向国造】
 景行天皇皇子の豊国別命の後裔にして、応神朝、三世孫老男主命を国造に定める。
 仁徳朝に牛諸井は諸県君を賜姓され、後裔は諸県郡司、本庄八幡宮大宮司となる。

本当に・・私は全く解っていませんでした・・・

さらに以前調べた時にこんな事も書いていました。

襲武=熊襲梟帥(熊襲建)ではありませんか!!!!?
と。

そこで、今回、とても気になって再度調べたのですが
サイト 【ホツマツタヱ解読ガイド】 【ミカサフミ解読ガイド】 【ふとまに解読ガイド】
様に書かれていた事がとても気になりました。

http://gejirin.com/src/So/sowotake.html

襲武
曽於の国造。 
景行天皇(ヤマトオシロワケ) の妻、タケ姫とミハカセ姫の父。

タケ姫
http://gejirin.com/src/Ta/takehime.html
武媛。 
ソヲタケ(曽於の国造) の娘。 
景行天皇(ヤマトオシロワケ) の妻。 
クニコリワケ、クニヂワケ、ミヤヂワケ、トヨトワケの母。クニコリワケとクニヂワケは双子。

さらに・・上記『襲武』の記述
襲武
曽於の国造。 
景行天皇(ヤマトオシロワケ) の妻、タケ姫とミハカセ姫の父。

※ミハカセ姫とは?
ミハカセ姫
http://gejirin.com/src/Mi/mihakasehime.html

御刀媛。 
曽於タケの娘。 
景行天皇(ヤマトオシロワケ) の内侍。トヨクニワケ(ソヲヒト) の母。 
景行のクマソ征伐の折、日向高屋に娶り、トヨクニワケを生む。 
その後も母子はこの地に留まり、日向国造となる。

すなわち・・・

★景行天皇 妃 御刀媛 と 景行天皇 妃:襲武媛は
姉妹である。
と言う事になります。

御刀媛がお産みになられた皇子「豊国別命」の後裔が『諸県君牛諸井』
髪長媛の父となられる・・・

襲武媛がお産みになられた皇子「豊戸別皇子」・・※火国別(ヒノクニノワケ)の始祖

気が付いた時には、鳥肌がたちました。

三つ柏服部様
上手にまとめる事が出来ずに申し訳ありません。

まだまだ、具体的に検証しなければいけない事は沢山ありますが
何か偶然であるとは思えない・・そう言う気がしています。

明るい内に、外廻を片づけてしまいますので
本日はここまでとさせて頂きます。

くれぐれも、皆様、大雨・大風には十分お気を付け下さい。
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月16日 08時13分11秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます(^'^)

明日、法事で椎葉のおじが●子おばさんと会います。

●子おばさんに聞いて頂く事をメモにして、椎葉のおじに渡しました(^'^)

たけぽん様がおっしゃっている事が(暗号など・・・)
今後、ちゃんと解るようになります(^'^)

楽しみにしています(^'^)

がっ・・・台風が心配ですね。
今日の家にお互い、しっかりと備えをしておきましょう((+_+))

ちなみに・・私は昨日の夕食を作ったあと、
家にあるペットボトルの水だけで足りるかな?と思い、他、備えておく食料を買いに
ドラッグストア コ○○○に行ったのですが
買い物に行く時間が遅かった(@_@。・・
地元の皆さん、備えが早かった!
水は確保しましたが・・
食料・・長い陳列棚のパンは全て売り切れでした(@_@。
やばい(;一_一)と思って
ドラッグ●●に行くと、売り切れ直前状態だったので、やっと2袋だけ確保出来ました(^'^)
色々廻って、結局、夕食の時間が遅くなっちゃいました。

がっ・・・冷静に考えると・・今日の午前中に買い物しても良かった・・
げげっ!(;一_一)

おっちょこちょいが、しっかりした所を家族に見せようと頑張っても
しょせん、「おっちょこちょい」なのでありました・・・
トホホ(@_@。

でも(ー_ー)!!
備えあれば憂いなし!

昨晩から、地元の町の放送で自主避難所開設の放送が頻繁に流れています。
大切な命は自らが守らなければいけません。

家も、川が家の前を流れているので
もしもの為に早め早めの避難を心がけます。

たけぽん様、お互い無事にこの台風乗り切りましょうね!

(実は、数日前から、いつものように頭痛がひどいのですが、
現代人離れした、動物のようなこの妙な体質には負けられません(ー_ー)!! )

では(^−^)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月16日 09時57分01秒 ) パスワード

追記

たけぽん様、皆様

今年のお正月に初詣に伺った 国宝 青井阿蘇神社で撮った写真を見直していたら
球磨の古代から伝わるであろう「御祭礼」について完全にスルーしていた事に気が付きました。

青井阿蘇神社で50年に一度、執り行われる「大寶御注連祭(だいほうおんしめさい)」に
ついてです。

ブログに御由緒書きを書かせて頂きましたので
よろしければぜひ、ご覧頂ければと思います。

※頂上部に日・月・星をあらわす3本の御幣
※森羅万象をあらわす青・黄・赤・白・黒の五色の御幣

など、とても興味が湧く記述が書かれていました。

御由緒書きには
※これまで50年に一度ずつこの特別な祭礼が営まれてきたということは、この土地を拓き生活のいしずえを築いた祖先たちの神祭りの方法と感謝の真のあらわし方を何時いつまでも忘れないように、そして世の中の平和と更なる発展を願ってのことだろう。

と書かれています。

しかし・・・9か月も経って気が付くとは
やはり、私はおっちょこちょいです(@_@。

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12311199366.html

皆様、よろしければ、ご覧ください。

では(..)
[6]たけぽんさんからのコメント(2017年09月16日 23時31分10秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
台風・・・

うちは、この台風が発生する数日前から
体調が何とな〜く悪かったと言うか・・・

こちら(人吉)も、自主避難の警報が
リンリンと鳴りました(>_<)

が、今の所
嵐の前の静けさ・・・と、言った
所でしょうか・・・余りの静けさに
台風がもしや反れたのでは?と
思える位、今の所な〜んにも無です

うちも、球磨川近くなので
とりあえず用心だけはしています(..)

鼻の件
祖母は、丸くて低いから嫌だ(>_<)
と、いつも愚痴ってましたf(^^;

しかし・・・

氏姓は、あれこれ途中で変わるので
調査がし辛いですね(ノ_<。)

ムムム・・・一筋縄ではいかない(..)

うちの単細胞の頭では
<ちゃんと家系図に記録しといて〜(>_<)>

って、感じですΣ(ノд<)(笑)
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月17日 10時31分41秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(..)

たけぽん様も、私と同じ『体質』のようですね。

父と私は、おそらく狩猟時代には必要だった「原始的な部分」が
未だに残っているのかな(p_-)
と思っていたのですが

おそらく、たけぽん様も同じ「体質」だと・・・

父は、先日
「早く人間になりた〜い!」 とベム・ベラ・ベロの真似をしていました。
(;一_一)

私は
今朝・・8:00過ぎ頃、突然、耳がキ〜ン!となって
何と表現すればいいのか・・
そう・・プールで耳に水が入ったあの、ボ〜ンという感じ。
または、ドライブしながら標高の高い所に登った時に感じるボ〜ンと言う感じ。

この状態になって、何故だろう?と思って
スマホの防災アプリを見ると、あさぎり町の気圧が「991ヘクトパスカル」になっていました。
おそらく、私の原始的な部分が気圧の変化を察知したのでしょう。
と、同時くらいに、球磨が暴風域に入っていました。

天気予報が無い時代までは、環境変化(気象の変化)を、
人は、自分が持つ「原始的」部分で察知していたのでは・・・・
何て事を考えました。

家の周囲は3:00頃から、激しい雨が降り続いています。
(この雨の中、主人は3:00に勤務先のえびの市へ出勤して行きました)

郡内で降った雨は球磨川に集まり、人吉に流れて行きますから
たけぽん様も十分にお気を付け下さい。

私も気を付けます!

〉氏姓は、あれこれ途中で変わるので

あの・・・最近『日向の諸県』が一つのキーとなっているのですが
実は、私、「平河氏」を調べ始めた頃(数年前)に、気になる記述を見つけていたのです。
しかし・・あまり気にしていなかったのですが・・・
最近、「以前見た記述」が頭の中によみがえって、昨日、もう一度見てみたのです。

googlebook で見れる情報なのですがプレビューが出ません。

ぜひ、たけぽん様、皆様にもご覧いただきたくご紹介致します。
文字ばけしている所もありますが、御了承下さい。

http://books.google.co.jp/books?id=YrcJAQAAMAAJ&q=%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E3%80%80%E8%AB%B8%E7%9C%8C%E3%80%80%E5%A4%A9%E5%8F%B0&dq=%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E3%80%80%E8%AB%B8%E7%9C%8C%E3%80%80%E5%A4%A9%E5%8F%B0&hl=ja&sa=X&redir_esc=y

天台學會
早田大學出版部
傳教大師研究, 第 2 巻 より

※貞倫はわからないが、彼に襲われた守高は師高で、木上の平川にいてそこを姓とした平西諸縣郡司の子孫であろう。
===========================================


上記の件は、以前、私が「平川家について38+1」コメント55で御紹介した内容です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_71.html

球磨の平安末期を記した、唯一の文書「肥後国訴訟状写」(高野山文書)に記された
天養元年(1144年)とその前年康治二年(1143年)に起こった動乱の内容です。

球磨の住人貞倫の事件
球磨郡の住人貞倫とその弟の重平らが、同じく球磨郡に住する「守高」を追い払い、城内に押し入って、種々の雑物や人馬をとらえ、田畑を奪いました。
加担したのは
日向真幸院の字小郡司貞重、波多利三郎別当正晴、入田太郎貞明、和良比草次末平、草藤次貞守、
及び肥後の住人八代藤三重永、同人の所住の四郎別当、同舎弟です。
「球磨郡の住人貞倫」と「日向真幸院の字小郡司貞重」には共に「貞」の文字が付いている事から、様々な書籍では当時の日向西諸県の郡司「日下部氏」の一族であろうと推測されています。

しかし・・・
天台學會
早田大學出版部
傳教大師研究, 第 2 巻
では・・・

※貞倫はわからないが、彼に襲われた守高は師高で、木上の平川にいてそこを姓とした平西諸縣郡司の子孫であろう。

と記されています!

以前、この記述を見た時には、そんなに深く考えていなかったのですが
今は、とても「重要な記述」ではないのか!と。

そこで、今までの調査をふり返ったのですが、先日、御紹介した「奥野城」の調査文献にも記されていたように
確かに、平河氏は南北朝時代「日向真幸院」を所領しています。

「日向真幸院」こそ「西諸県郡」であり古代の「諸県郡」となります。

真幸院 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B9%B8%E9%99%A2

真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。

かつて日向国は 5郡8院と呼ばれ、「宮崎郡」、「臼杵郡」、「児湯郡」、「諸県郡」、「那珂郡」の5郡と、「真幸院」、「三俣院」、「穆佐院」、「新納院」、「飫肥院」、「土持院」、「櫛間院」、「救仁院」の8院で構成されていた。

真幸院は今のえびの市に当たる地域、「加久藤」、「飯野」、「吉田」、「馬関田(まんがた)」と「吉松」を含めた地域の総称であったが、その後に「小林(旧名:三山)」もそれに加えるようになる。

後世において大隅国の「吉松」を除いた西諸県郡を総称して「真幸表(まさきおもて)」と呼ぶようになり、これのため「高原」、「野尻(旧野尻町)」も真幸院の中に加えて呼ぶようになったと思われる(文献に依って「小林」、「高原」は三俣院に、「野尻」は穆佐院に組み入れられている)。

古くから豊かな穀倉地帯であったため、「島津氏」、「伊東氏」、「相良氏」、「菱刈氏」、「北原氏」による奪い合いが絶えなかった。

南北朝期までは日下部氏により統治されてきた地域であるが、それ以降の200年近くは北原氏が、北原氏が伊東氏に領地を簒奪され、その伊東氏が島津氏により日向より追い出されると、廃藩置県に至るまで島津氏が領有する。

======================================================================

※南北朝期までは日下部氏により統治されてきた地域であるが、それ以降の200年近くは北原氏が・・

すなわち、日下部氏の後は北原氏が統治、その中の一部を所領したのが「平河氏」です。

ちなみに「北原氏」は本姓「伴氏(ともうじ)」です。
余談ですが「北原氏」と私の住む「旧宮原村」は非常に堅い絆で結ばれていました。(詳しくは後日書かせて頂きます)

ここまで、書いて感じる事は
やはり、古代 → 中世 → 近世 はしっかりと「繋がっている」のでは
ないのか!
と言う事です。

あらためて、考えるのです
※何故?平河氏の霊社には全て「大王」が付いているのか?

もし、平河氏が中世、球磨以外、九州以外の地から来られたのだとしても
平河氏は古代の九州の「大王」に何らかの繋がりがあるのではないか?
と。

私の母方は「日向・日下部氏」。

日向日下部氏と同じく日向の「諸県君」は元を辿れば同族だと推測します。
しかし、その『違い』は何か?

豊国別皇子は日向諸県君の祖でした。
日本の苗字七千傑様の【日向国造】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01236.htm

【日向国造】
 景行天皇皇子の豊国別命の後裔にして、応神朝、三世孫老男主命を国造に定める。
 仁徳朝に牛諸井は諸県君を賜姓され、後裔は諸県郡司、本庄八幡宮大宮司となる。

では日向日下部氏とは
日本の苗字七千傑様の【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153.htm

【日下部氏】(隼人族)
 火闌降命の後裔にして隼人族なり、仁徳天皇の両日下王(大日下王、若日下王)の母が諸県君牛諸井の娘髪長媛なるに拠り御名代部が日下部を称する。

先に書いた
※日向日下部氏と同じく日向の「諸県君」は元を辿れば同族だと推測します。
しかし、その『違い』は何か?

それは
★「日向諸県君」の祖は「景行天皇皇子」の「豊国別命」(母は襲武の娘”襲武”)であり
「豊国別命」の後裔が『諸県君牛諸井』髪長媛の父となられる・・・
何重も天皇家と姻戚関係を結ぶ「天皇家」の外戚である。

では
★日向日下部氏とは、上記の「諸県君」の御名代部が日下部を称した事から始まり
御名代部とは三つ柏服部様から頂いた御教示のおかげで理解出来ました。

〉名代とは、大王直属の集団で、「王族の功業を後世に伝えるために置かれ
た部民」ということ。

★すなわち「諸県君」の直属の集団が「日向日下部氏」である。
と言う事です。

【日向国造】
 景行天皇皇子の豊国別命の後裔にして、応神朝、三世孫老男主命を国造に定める。
 仁徳朝に牛諸井は諸県君を賜姓され、後裔は諸県郡司、本庄八幡宮大宮司となる。

【日下部氏】(隼人族)
 火闌降命の後裔にして隼人族なり、仁徳天皇の両日下王(大日下王、若日下王)の母が諸県君牛諸井の娘髪長媛なるに拠り御名代部が日下部を称する。


さらに・・・平河氏は
傳教大師研究, 第 2 巻 より
※貞倫はわからないが、彼に襲われた守高は師高で、木上の平川にいてそこを姓とした平西諸縣郡司の子孫であろう。
★西諸縣郡司の子孫であろう。
(南北朝時代は日向真幸院の一部を所領)

では、私の母方は
※その祖は日向・日下部氏である。日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、日向真幸院の郡司を務めた家である。

もしも「平河氏」が西諸縣郡司の子孫であった場合
父方、母方の両家は全く無関係では無かったのだと言う事に気が付きました。

しかし・・・
何故?両親の離婚の理由は「先祖同士が合わなかった」と言われたのか・・

実は・・・
こちらのスレッドに書いていない「事」があります。

書いた後に必ず削除するつもりです。

次のコメントで書きます。

雨が降り続いていますが、一気に書かせて頂くつもりです。
(..)
[9]たけぽんさんからのコメント(2017年09月17日 23時51分54秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

台風、思ったより難なく通りすぎた
ようですね(・・;)

これも、仏様や御先祖様の
お蔭でしょうか・・・(..)

何の被害もなく、無事に台風通過で
ありがたい事だと思っております

氏姓・・・

うちの中では、また新たな
謎が(ノ_<。)

今度、人吉図書館に行く予定があるので
ついでに調べて来ようかしらん・・・(..)

・・・色々とあったのですね・・・(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月18日 10時34分38秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
新たな謎を紹介してしまって
すみませんでした(..)

平河氏は本当に謎だらけですね(..)

氏 姓・・・

家の方は、平川家を継いだのは、椎葉村の矢立を名前の由来とする
「矢立」家から養子に入った高祖父なので
何故?平川家を継いだのか?
ここは、謎です。
矢立家の先祖様は、椎葉村大河内矢立の地に最初に住んで開拓した方で
3月17日が御命日。
地主神となれています。
何故?矢立家から平川家に養子に入ったのか・・・?

それから「耳」の遺伝は矢立家からの事だと私は思います。
実は・・・見つけちゃいました(^O^)/
詳しくは後日(..)

所で
たけぽん様、皆様

先日、御紹介した
双葉文庫様の小説 空也十番勝負 に関連したサイトの中に
新たに気が付いた事が\(^o^)/
http://kuya10ban.jp/

「声なき蝉」の南九州略図 公開
http://kuya10ban.jp/map/

ひゃっほ〜\(^o^)/ 宮原村がありました〜\(^o^)/

でっ!気が付いたのですが(p_-)
飫肥藩内に「矢立峠」確かにありました!!

知らなかった(..)

非常に勉強になりました。

私の推論ですが「矢立」とは国境を指しているのかな?と。
以前、九州内を調べた時に、椎葉村の「矢立」以外に
対馬の最高峰の山「矢立山」は気が付いていたのですが
飫肥藩内の「矢立峠」は、こちらの書籍を拝見した事によって
初めて知ったので、本当に勉強になりました。

ちなみに対馬の最高峰の山「矢立山」には
矢立山古墳がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140520-OYS1T50033.html

話を戻します(..)

双葉文庫様の「声なき蝉」の南九州略図を拝見すると

黒原山(くろばるやま)さんが・・・な〜い(@_@。
残念です(@_@。

我ら、旧宮原村に住む人々・そして家の堅い絆の一族にとって黒原山(くろばるやま)はとても大事な山です。

おらが村の山と言えば「黒原山」!!と言うくらい大事な山です。
書かれて無かった(@_@。

私は家の親戚一族がこの旧宮原村に住んでいる理由の一つは
古代元祖的 久米氏の権利の象徴で、守護山である黒原山の真下、麓の集落だから
と思っているのですが・・・

何だろう・・家の親戚一族の先祖様をグゥオ〜ンと古代まで遡ると
黒原山を権利の象徴とする「方々」に何かしら繋がっているのだろう〜な〜と
考えている(あくまでも私見)私にとっては・・・
何だか残念です(@_@。

しかし(ー_ー)!!
いつか黒原山さんが登場するかもしれないので
まだまだ・・(@_@。のはやめておきます(^'^)

しかし・・
自分が住んでいる、日本国内殆どの方が御存じなかったであろう
旧宮原村が登場する小説
「空也十番勝負」

読みたいな〜\(^o^)/
と思うので、今日にでも書店で購入したいなぁ〜と思っています。

では(^'^)
[11]たけぽんさんからのコメント(2017年09月19日 01時31分13秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

明日は早く起きなきゃいけないのに
まだ寝れない(ノ_<。)(笑)

ミヤハラ様
本当に、平河家は謎に包まれていますが
それだけ、調査の遣り甲斐があると
思って、楽しむことにしますd(^-^)

うちの祖母が生前
<うち(平川家)を闇討ちした方も
また、闇討ちにあった>

・・・と、話していましたが
この<闇討ち>された平河は誰?
また<闇討ちした>の誰?

・・・と、ずっと不思議に
思っていました

祖母からは名前は聞いた記憶が
無いような気もするのですが・・・

ん〜・・・

まだまだ謎解きを楽しむべき
ですかね?(・・;)(苦笑)

自分の御先祖様や一族に関わる
話を題材にした物語があるのは
羨ましいですね(〃∇〃)♪
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月19日 12時32分29秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
〉まだまだ謎解きを楽しむべき

そうです(^◇^)
私たちは・・・・そう言う運命?にあるのです(p_-)
(^◇^)

所で、たけぽん様、皆様。
私、昨日、鹿児島の出水市に遊びに行って来たのですが・・・・

人吉からわずか30分で行ける伊佐市大口。
人吉から近年出来た、トンネルを抜けると・・・そこの地名が
伊佐市大口木ノ氏(きのうじ)だった事に気が付きました(p_-)
さらに、木ノ氏 地区にそびえる山は「大熊山」です。
地図
http://www.google.co.jp/maps/ @32.07984,130.617612,15z

何だか・・・もわ〜っ!とします(p_-)

昨晩から色々考えていて・・・・・
そこから・・・「曾祖父宛ての手紙」まで頭がめぐってしまいました・・・

そこで、あらためて、 
ブログに曾祖父宛ての手紙を含めて、頭で整理した事を書きとめておく事にしました。

よろしければ、皆様、ご覧頂ければと思います。

取り留めもない事を書いていますが
やはり
古代 → 中世 → 近世は
繋がっている・・・そう言う気持ちが益々高まっています・・・

ブログアドレス です(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12312088938.html

何故・・・曾祖父は「葦原様」と書かれたのだろう・・・?????

やはり もわ〜っ としています(..)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月21日 18時55分25秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

今日、椎葉のおじから
「重大ニュースがあるぞぉ!!」
と電話がありましたので
早速、椎葉家まで歩いて遊びに行って参りました。

やはり、先日、法要で●子おばさんと椎葉のおじが会って話した事が
そのニュースだったのですが・・・・

私が椎葉のおじに渡したメモを見て●子おばさんが話をしようとされた時に
お坊様が来られたので●子おばさんは
「解った(^'^)この事を詳しくは、○○ちゃん(私)に直接話すケン、今度、一緒に(椎葉のおじ)と遊びに来なる(来る)ように言って」
となりました(^'^)

法要には、●子おばさんの弟さんの奥さんも来られていたそうで
色々、皆で話していて・・・
椎葉のおじが言っていた重大ニュースが解ったのですが・・・・・

あの・・・私が書いていた家の親戚の中の1軒・・・
その姓を見られても反応が無かったので、おそらく、たけぽん様は御存じ無いと
思うのですが・・・・

あのですね・・・・ナント!!
私の曾祖母の実家の新堀家!!(今は、岡原ではありません)
繋がっていますよ!!
\(◎o◎)/! 

ビックリどころかひっくり返りそうになるくらい驚きました!!

●子おばさんと義妹の方と椎葉のおじの会話で判明しました
\(◎o◎)/!

でっ!新堀家から家の宮原家に曾祖母が嫁いで来ていた事を知った
お二人は
「やっぱ!平川家(岡原と須恵)の一族と宮原さんとこと、一族は、どこやここから(あちらこちらから)親戚同士で引っ張り合い(縁を)しとるとやね〜」
(p_-)
となったそうです。
(^◇^)

しかし・・・
驚きました!!
ここで、親戚関係に”新堀氏”が加わるとは・・・・

ただ・・・冷静に考えてみると(p_-)
祖母の実家のお隣の「平川家」
家を継ぐ為に養子に入ったのは・・・私の曾祖母の弟・・新堀家からです・・・
あんれ〜っ????

謎が深まるばかりですが(p_-)

しかし・・・
●子おばさんは、法事の後、椎葉のおじとおばを岡原まで送って下さったそうですが、その時も
「親戚じゃら(親戚なのだから)遠慮せずに遊びに来るように私に伝えてね」
と言われたそうで・・・
さらに、私が知らない所で
皆で
まずは●子おばさんの家に行って、その後「須恵」に伺い、その後「お堂」にお参りする・・・
という段取りも出来あがっていました。
(ありがたい事でございます)

お堂とは・・・・
また、ここで新事実判明(p_-)

●●●のお堂さんですが・・・
岡原の平川家と全く同じ、「お祀り」をされているそうです・・・
以前、岡原の平川家でお祀りしていた「掛軸」も同じだそうです・・・
でっ!
●●●のお堂さんは、年に一度、お祭りをされていらっしゃるそうですが
家の方は・・・代が変わってお祭りはされていません。
そいでヨカトかな????(それでいいのかな???)
と言う話になったそうです(..)
うううんんん・・・(..)

さらに「お伊勢講」の話も出たそうなのですが・・・(今は、そちらでもされていないそうです)
「お伊勢講」は、ナント!戦後少し経ったまでは・・・・・
私の住む集落「宮麓」の「侍村(まちむら)」で執り行われていたそうで!
椎葉のおじは
「お前のとこ(侍村・まちむら)が担当?やったとバッテンなぁ〜」(;一_一)
と・・・

げげっ!私に言っても・・・今更・・・ トホホ((+_+))

「お伊勢講」は椎葉のおじの妻である「おばさん」の実家、尾方家親戚一同でも行っていたそうで
今日、その習わしを聞いたのですが
何か御札とか?を箱の中に入れて1軒1軒周り、その時になんだろう・・・
不思議な歌?をとなえながら周っていたそうです・・・

須恵の一族の方々と・・家の方の平川家とその近隣(侍村地区)と宮司家尾方家一族の共通な習わしは
「お伊勢講」である事も解りました。

なるほど(p_-)

しかし・・・
あらためて・・私の曾祖母の実家「新堀家」も繋がっていた・・・・
ううううん・・・
新堀氏は・・遠江国の勝田が関係していましたが・・・
ううううん・・・・

最後に・・・
たけぽん様に私一度
「宮原家の親戚がありませんか?」と聞いた事がありましたが・・・

何だろう・・・
須恵の一族の方々と親戚の「宮原家」って・・・
ここまで、書いて気が付いたのですが・・・・・
「家」かな?(?_?)

あんれっ??(?_?)

と言う事で
●子おばさんと、椎葉のおじの会話でした(^'^)
[14]たけぽんさんからのコメント(2017年09月21日 22時08分35秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
・・・うちらは謎解き、まだまだ楽しむべき
運命のらしいですねΣ(ノд<)(笑)

葦原様・・・
豐葦原の中つ国・・・と、言う
言葉は聞いたこと
ありますが・・・(・・;)

それに関係する
んでしょうかね?(・・;)ヨクワカリマセン

新堀家・・・
やはりそこも繋がって
たんですね(゜Д゜)!!

まさかと、確証のなかったもの
ですから・・・(..)

確か、曾祖母辺りで
新堀家って書いてあった様な
感じだったんですが・・・

実は
椎葉家も、うちと親戚関係が
あるみたいです(..)

この椎葉家とは、平川か祖母の妹の
方の石○の方の親戚かは
詳しく聞いてないので
わかりかねますが・・・(..)

う〜ん・・・
わからんちん(>_<)(汗)

お堂の件
初めて聞きました(゜Д゜)!!
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月22日 07時36分01秒 ) パスワード

たけぽん様、おはようございます(^'^)

新堀家のお話・・・
ご存じではあったのですね(^'^)

しかし・・・・
本当に・・ビックリです。
椎葉のおじや●子おばさんが言われるように
何だか・・
本当に「縁のひっぱりこっぱり(引っ張り合い)」そのものですね・・・

だけど!確信しました(^'^)

私とたけぽん様がこちらのスレッドで、こうして出会えたのは
やはり、御先祖様のお導きですね(^'^)

あの・・実は、繋がっているのは、家の宮原家の曾祖母の実家「新堀家」だけではないのですよ!

ここでは書けませんが・・・
これまた、私の曾祖母の実家深水家と「須恵の方々」は縁戚関係にあります(^'^)

暗号で(p_-)
「某方」の従弟の方に、深水家から嫁がれていて・・・
その「某方」はおそらく、たけぽん様のお母様は「従兄」か「ふた従兄」と
なられるはずです(^'^)
実は、この事は以前から知っていたのですが・・・

椎葉家・・・そうか(p_-)
やはり・・遡れば”椎葉村の出自”である方々と、縁戚関係にあるのですね・・・
むむっ(p_-)

岡原の平川家には椎葉村を出自の地とする矢立家から高祖父が養子に入っていますが
しかし、平川の曾祖父の弟は、平安時代からの平河氏の一族、四男の横瀬高実後裔の横瀬家に養子に入っているので
家の方の関係からみると・・・
椎葉村と平河一族は何だろう・・・無関係ではないのでは?と推測しているのですが・・・

さらに、矢立家と縁戚関係にある「神瀬家」。

平河氏系図を見ると、系図上でも「平河氏」と「神瀬氏」は姻戚関係にあります。

この辺りの関係から・・・
きっと何かあるのだろう(p_-)と考えるのです・・・

何せ、たけぽん様
お互いの親戚関係はここまで
「ひっぱりこっぱり」ですからね(p_-)
(^−^)

私は26日まで、宮原観音様の御開帳(秋の彼岸)で、色々ありますので
●子おばさんのお家に行くのは10月に入ってからになると思いますが
色々話を聞いて、たけぽん様にググッとお近づき致しますよぉ〜
(^−^)

お堂のお話ですが
場所は須恵ではありません(ー_ー)!!

場所は●●●・・・
多分、お解りになられると思いますが・・・(^'^)

では(^'^)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月22日 09時16分53秒 ) パスワード

追記

たけぽん様、皆様。

私の自論ですが、おそらく、球磨の古代と中世以降に球磨に来られた方々は
何らかの繋がりがある・・・
古代 → 中世 → 近世 は繋がっているのでは・・・
と考えている事は以前から書かせて頂いていました。

と言う事は・・・
鎌倉時代の初頭に、球磨に来られた「新堀氏」の祖「新堀又四郎頼兼」と言う方も
古代まで遡った「先祖」は何らかの形で「球磨」に関係されていたのでは?
と考えたのです。

しかし、新堀氏と遠江国勝田を結ぶ「線」は以前調べた時には全く見えなかった・・・

そこで、遠江国内の勝田に限定せずに、「新堀」の地名が何処かに残っていないか、今朝調べてみました。

すると・・・非常に興味が湧いた「遺跡」に気が付きました。

全国遺跡報告総覧 様のサイトでダウンロード出来る「新堀遺跡」(にいぼりいせき)です。
遺跡所在地 静岡県磐田郡浅羽町新堀
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1361

序 の項に
『新堀遺跡の所在する磐田郡浅羽町は静岡県西部の東遠江地域にあたり、最近の発掘調査により、小笠丘陵末端に立地する5世紀の豪族居館跡の古新田遺跡、輸入品という説もある耳環が出土した五ケ山B1号填、沖積平野の低地では、砂堆列に立地する、松原・梅山地区等の遺跡群の様子も明らかにされつつある。』
と記されていて
最初に目に飛び込んできたのは「梅山地区」の文字です。
「梅山」・・・驚きました!
以前、コメントしましたが球磨の梅山無一軒!
この方の先祖は遠江国の「梅山」から球磨に来られていらっしゃいました!

さらに読み進めると

1ページの
第I章 位置と環境
第1節  位置と地理的環境

こちらに
『新堀遺跡は静岡県磐田郡浅羽町新堀に所在している。ここは静岡県西部、遠江地域の海岸に面した平野部の東端にあたり、小笠丘陵が目前に迫っている地域である。』

『自然堤防は浅羽町の平野部中央の南北方向に位置し、北から諸井・馬場・浅名・豊住・新堀の集落が立地し、新堀遺跡はこれらの自然堤防の南端にあたる。ここから東は小笠郡大須賀町から遠州灘に注ぐ弁財天川の流域となり、両者の間にかって大きなラグーンが存在したことが最近指摘されており、近世の絵図にもその名残の湖沼が表現されている。』

『新堀遺跡の立地する中央部の自然堤防の他に、西寄りに太田川の形成した自然堤防もあり、八幡・長溝・浅岡等の集落が立地し、その旧流路は現在の地形図の水路等からも推定することができる。』

『最奥のそれは、大須賀町にいたる旧道の通る、初越・松原・梅山・松山等の集落を乗せ、中間のは現在国道150線が走り、一番手前は現在の海岸を形成する。』
=================================================

新堀遺跡の近隣に
※初越・松原・梅山・松山等の集落がある・・と言う事が理解出来ました。

さらに2ページの地図を拝見すると明らかで
「新堀」地区と「梅山」地区は・・非常に近いですね!・・・・

3ページの末からさらに興味深い内容が記されていました。

『この新堀・青木遺跡の周辺は弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、海岸に画した平野部に営まれた拠点的な集落といえよう。
この後、この地域に展開した古墳時代の社会は、小笠丘陵に5世紀の豪族居館跡である古新田遺跡(柴田1992)を生じ、また輸入品といわれる金環を出土した五ケ山B−1号墳(山本1992)の首長クラスの支配者を出現させている。
また砂堆列に立地する埴輪列を伴う地蔵山古墳(柴田1987)の発見も、海岸に面した地域の古墳時代を考える上で重要な位置を占めている。』


『この周辺の古墳群はいくつか確認されているが、同じ地形の続く袋井・掛川市城程には集落も含めて明確になっていない。文献にみえる遠江地域の三国造(遠淡海・久努・素賀)のうち久努・素賀国造の本貴地は袋井・掛川市城に比定されており、この背景からも古墳時代中一後期にあっては社会的な生産力が弱く、後期古墳の在り方もそれを反映するものであろう。
しかし、海岸に画した浅羽町の平野部の地域が国造級の首長を持たなかったとはいえ、一方ではこの地域の古墳時代の社会も、先の豪族居館である古新田遺跡・五ケ山B−1号境の存在が示すような地域支配構造が確立していると推定される。
いずれにしても、今後の調査等による解明がまたれる。

主として8世紀からのこの地域は遠江国においても、磐田市二之宮にその所在が確定的である遠江国府を中心とする律令的な地域支配体制を整えるうえで重要な位置を占めるようになる。』

======================================================

※文献にみえる遠江地域の三国造(遠淡海・久努・素賀)のうち久努・素賀国造の本貴地は袋井・掛川市城に比定されており・・・

久努・素賀国造

そういえば!!!
ウィキで以前見た「狗奴国」の記述。
再度、確認したのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%A5%B4%E5%9B%BD

位置に関する説
在南説
南九州説
肥後国説。邪馬台国九州説・畿内説とわず、もっともメジャーな説である。熊襲は熊国と襲国の連称であるが、肥後国球磨郡は熊国つまり記紀の熊県(くまのあがた)の遺称地であってこれを狗奴国とし、同国菊池郡を狗古智卑狗と関係付ける。
水野佑も同じ説であるが、魏志倭人伝の習俗記事を2ヶ所に分割し、一方にしか南方系習俗が含まれないことから、これを邪馬台国の習俗と狗奴国の習俗が別々に記載されたものであるとし、南方系習俗は狗奴国のものであるとした。狗奴国の位置に関する限り上記の九州説論者と変わらない。内藤湖南も狗奴国を熊襲に比定した。

その他の南九州説(南九州の各地。邪馬台国九州説の場合で、狗奴国の位置を南九州のいずれかの地に比定するもの)
熊野地方説。邪馬台国畿内説においては邪馬台国は奈良盆地であることから、その南にある熊野だとする説。

そして・・・・・
在東説
魏志倭人伝は「東に海を渡る千里また国あり皆倭種」と「狗奴国」を別のものとしているが、後漢書東夷伝が両者を同一視していることから狗奴国を南ではなく東に想定するものであり、文献批判的にはやや弱い。

中でも以下の記述が以前からとても気になっていたのです!

東海道説。静岡県西部(遠江)説、同県東部(駿河)説がある。遠江説では久努国造と関係づける。久努国造はのちの遠江国山名郡久努郷で、今の袋井市のうち国本・広岡・村松。駿河説では駿河国安倍郡久能郷で、今の静岡市駿河区根古屋。この説では狗古智卑狗を菊川と関係づけることがある。

新堀遺跡は
旧 静岡県磐田郡浅羽町新堀
現 静岡県袋井市浅羽新堀

久努国造の本拠地には近いのでしょうか・・?


でも・・・
何だろう!このモヤモヤ感は・・・・・

新堀遺跡・・「新堀地区」のすぐ近くに「梅山地区」があり
鎌倉時代初頭「新堀氏」と「梅山氏」の祖は「遠江国」から球磨に来られて
その 「球磨」は球磨曽於(熊襲)の本拠地であり「狗奴国」の比定地とも言われ
さらに「新堀遺跡」のある袋井市は「狗奴国遠江説」の由縁となる「久努国造」の本拠地である。

モヤモヤ・・・と言うより・・・
何だろう・・・ズバリ!何か繋がっているような気がします!!?
あくまでも・・・私見ですが(..)

ただ・・・・
やはり・・・古代は私の調査からは切り離す事は出来ないように思えます。

では(..)
[17]たけぽんさんからのコメント(2017年09月24日 06時02分46秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様

新堀家の件
前に、家系図をチラッと見た時に
(確か曾祖母代辺りに)新堀家って
記載があった様な・・・と

深水家は・・・
書いてあったかな?(・・;)

そういえば
平川の方の従兄弟の話は
か○○さん兄弟以外に
従兄弟の話って
あんまり聞いたこと
ないなぁ・・・(..)

お彼岸
うちは、昨日お寺様で
させて頂きました(^-^)

ミヤハラ様も、頑張って
下さい(^^)/

本当に、ここでミヤハラ様と
お会いできたのは御先祖様の
お蔭でしょうね(^-^)

うちの正体がバレるのが
恥ずかしい(*ノ▽ノ)(笑)

平河家もそうですが・・・

球磨自体も謎が多いですね
(ノ_<。)ムムム〰
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月24日 08時31分33秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます(^'^)

たけぽん様
えへへへっ〜(^◇^) にや〜っ
私、たけぽん様に近づいてきましたよぉ〜

冷静に考えれば・・・(p_-)
こうやって、たけぽん様のお話を●子おばさんに聞く事が出来ると言う事自体
最初から私達、縁がちゃんとあったと言う事ですから
(^−^)

宮原観音堂の御接待。
がんばりま〜す (^O^)/
と言うか・・・
私、御接待・・・とても楽しみなのです(^'^)
球磨郡以外から(福岡や長崎、佐賀、大分の方もいらっしゃいます)、遠路はるばるマイカーでいらっしゃる方
ツアーでいらっしゃる方々も大勢いらっしゃって
御茶をお出しする時に
「何処からお見えになられたのですか?」
と、お話したり。
思いもがけないお話も聞けたり。
私自身、楽しいな〜と思いながら御接待をさせて頂いています(^'^)

ただ(;一_一)
料理は集落に御上手な御婦人がたが沢山いらっしゃるので
私は・・・お笑い担当です。

今回も・・・御もてなし料理・・私は何を作ろうかな〜(..)・・と考えていたのですが
「何を作ろうかな〜」と言いながら
主人の顔を見ていたら
「ハイハイ、解りました。何を作ればいいのかなぁ〜」と主人。

ニヤッ(^◇^)

実は・・・毎回・・主人が心を込めて「デザート」を作ってくれているのであります。

いや(ー_ー)!!
私の怠慢ではありません。
何せ、主人は衛生管理を徹底する「国の資格」をちゃんと持った人なので・・・
(主人が作った料理の方が、私が作るより、喜んで頂けると・・・)
私は、お笑い担当を忠実に遂行するのみです(^◇^)

ふぅ〜 ( ^^) _U~~ 御茶が美味しい・・・
と、皆様にホッと一息ついて頂く、そう言う御接待を心がけます(^O^)/

家の集落の担当日は目前に迫っています。
み〜んな集まれ(集まって下さい)宮原むらに〜 ♪ 
ど〜んな事が起きるかなぁ〜♪ (ど〜んな笑いが起きるかなぁ〜♪)
それ行けぴぴぴっ お楽しみ〜 ♪
(アラレちゃんかっ!)

所で!(p_-) (急に真面目に)

〉球磨自体も謎が多いですね

そうダス(ー_ー)!! 違った
そうです(p_-)

謎は「相良氏」にもありますね(p_-)

そもそも・・・・
なぁ〜んで! 相良頼景と言う方は「遠江国」から遠路はるばる「球磨の多良木」に来られたのか!?

文献等では「遠江国」で起こった「ゴタゴタ」が書かれていますが
今日は、簡潔なウィキの記述を引用させて頂くと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

相良頼景は、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。
しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。
さらに、頼景の長男・長頼も二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。

ここで(p_-)
何故?ピンポイントで「多良木」なのでしょうかねぇ〜(p_-)
球磨を九州の単なる「山奥」としか、御存じない方なら
「遠くの山奥に配流された」
と考える人もいらっしゃるかもしれませんが・・・

しかし(ー_ー)!!
そもそも、ここ「球磨」は平安末期まで「王家領」であった地です。
平安時代における「田」の数もかなりの穀倉地帯であり「荘園」だった「地」です。
その球磨の「多良木」を源頼朝、この方は御存じだった!と言う事でして・・
さらに、相良頼景、この方を多良木で預かる事になった人物は
「伊勢弥二郎 不知実名」さんでございます(p_-)

私は、相良頼景と言う方も、家の親戚同様
「相良氏の古(いにしえ)の先祖が古代において、何かしらの”縁”があった球磨に源頼朝の命を受けて来られた!」
と考えているのですが(p_-)

『相良氏』 (p_-)

藤原氏・・・
中臣鎌足(藤原鎌足)の祖母は久米氏「山部歌子の娘」

相良氏は藤原南家
藤原南家・・・祖の「藤原 武智麻呂」の母は蘇我連子の娘「蘇我 娼子」

蘇我氏・・・
蘇我氏は・・・武内宿禰を祖としている。

武内宿禰・・・蘇我氏(祖:蘇賀石河宿禰)・葛城氏(祖:葛城襲津彦) 他多数の後裔氏族がいらっしゃり
中でも・・
紀氏※きうじ (祖:木角宿禰) ・・木臣(紀臣)・都奴臣・坂本臣の祖。
さらに
武内宿禰の娘様のお名前は『久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)』


何だろう(p_-) 相良氏と球磨の関係
「見ての通り」・・・の様な気がするのですが・・・

@宇佐神宮 境内に御鎮座の「黒男神社」
「黒男神社」 御祭神は 武内宿禰
武内宿禰 娘様の名は『久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)』

A「黒男神社」・・「黒」・・・
「黒」・・球磨郡久米郷の「黒原山」は久米族の権利の主張であり守護山

B「黒」・・・相良頼景、球磨に来られて最初に住した地は「黒肥地(くろひじ)」

C木臣(紀臣)・・紀氏※きうじ
 呉王・・夫差・・姫氏※きうじ

D「刺青」(入墨)
 夫差・・・この方は刺青(入墨)をされていた・・・
 大久米命・・「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)
 熊襲と呼ばれた方々・・・刺青(入墨)をしていた

E景行天皇と熊襲と呼ばれた方々
 熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文
 景行天皇は二人の娘を幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れた。
 市鹿文・・火国造(ヒノクニノミヤツコ)を与える。

@ABCDE・・・頭の中をグルグルグル〜と回っています・・
まるで・・”円”を描くように・・

あの・・・
ブログに独り言を書いたのですが・・・
その中で書いているように

黒原山さんが喋ったら・・面白いだろうなぁ〜
例えば・・
「そうそう!あの時・・そう!つい最近の事だけどねぇ〜今から2000年くらい前に・・・」
みたいな感じで・・・

ありえませんが(ー_ー)!!
しかし(p_-)

日本の曙の九州の真実はかなり「黒原山」さんは御存じのような気がします・・

(゜-゜)

では(..)

あっ!!!
追記です  !!

先にアップしたコメント18を修正したのですが
その時、気になる事があったのでサイト検索をしていた所
今、初めて気が付いたサイトがありました!!

宮・ 照雄氏(著書)のサイト
「狗奴国」 狗奴国の卑弥弓呼と邪馬台国の卑弥呼
です!

ホーム
http://www.kunakoku.info/index.html

著書 宮・ 照雄氏 とは
http://www.kunakoku.info/tyosyasyoukai/index.html

今日は、じっくりと拝読させて頂きます(..)

あらためて
では(..)
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月24日 08時35分13秒 ) パスワード

再追記

みやざき様の「さき」の文字が表示出来ませんでした。

表示出来ないので訂正が出来ません。

申し訳ございませんでした。
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月25日 12時16分54秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

実は昨年
2016年11月1日〜2016年11月11日まで開催の
『才園古墳出土品「りゅう金獣帯鏡」レプリカ展示会』に行っていたのですが
その時に撮った写真等をブログにアップ致しました。

最近、その写真や説明書き等をじっくり読んでいると貴重な事が多数書かれていた事を
あらためて感じ、ぜひ、御紹介させて頂こう!と思った次第です(..)

あさぎり町教育委員会は、鎏金獣帯鏡がどのような姿であったのか「成分」も含めて完全復刻「模造品」を作成されました。
その「黄金に輝く 鎏金獣帯鏡」の写真もブログにアップ致しました。
成分分析結果等の情報も御紹介致しました。

さらに
弥生時代後期から古墳時代前期1世紀〜4世紀(西暦0年〜300年代)にかけての遺跡
本目遺跡からの出土品
3世紀頃(西暦200年代)、中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作された
方格規矩神獣鏡(破鏡・ペンダントとして使用)
の写真もアップしています。

皆様、よろしければご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html  

では(..)
[22]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月28日 19時12分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は (^'^)

宮原観音堂の秋の彼岸の御開帳も無事に終わりました。
最終日は、朝8:00から17:00まで、参拝の御客様の御接待をさせて頂きました。
遠方からの御客様も多くいらっしゃって、
私は地元のお笑い担当としての任務?を無事遂行致しました(^'^)

昨日は、弟に会いに菊池の合志市に行って参りました。
八代までの球磨川沿岸道路の景色が大好きだ!と、
最近、主人は、行きは高速道路ではなく球磨川沿岸道路を通っています。

そこで・・・偶然なのですが
球磨郡球磨村の神瀬で、変わった地名を発見致しました。
球磨村神瀬は江戸時代まで『神瀬村』でした。
この旧神瀬村の国道沿いで
「箙瀬」と言うバス停を見つけました。

何と読むのだろう?と気になり、(ずっと頭から離れませんでした)
今朝、調べた所、バス停付近の一体が
熊本県球磨郡球磨村神瀬(大字)箙瀬
くまむらこうのせ(大字)えびらせ

と言う事が解りました。

「箙瀬」(えびらせ)です。 たけ冠に服と書いて「箙」です。

そこで・・漢字 「箙」(えびら)の意味を調べたのですが
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AE%99

発音[編集]
音読み
呉音:ブク
漢音:フク
訓読み:えびら
名詞[編集]
矢を入れて携帯する容器。


「箙」(えびら) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%99

箙(えびら、英: quiver)とは、
●矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと。矢筒。「やなぐい」とも読む。靫(うつぼ、ゆぎ)とも呼ばれる。wikt:箙を参照。矢を差す箱型の「方立 (ほうだて) 」に、「端手 (はたて) 」と呼ばれる矢を寄せかけるための支えが付き、端手に紐をつけて腰や背につける。

●神社の儀飾としても使用される。「平やなぐい」や「壷胡やなぐい」などが一般的

=========================================

球磨川を挟んで、両側に球磨村神瀬 「箙瀬」地区が広がり
「箙瀬」は熊本県芦北郡内にも広がっていて芦北郡芦北町箙瀬となります。

「箙」(えびら)を調べ、さらに興味が湧いた結果・・・
球磨の遺跡との関連にも気が付く事が出来ました。

写真を添えての説明になるので、この件をブログにアップさせて頂きました。

結局・・・この件も
やはり・・・・景行天皇に球磨も芦北も繋がって行きます。

詳細を写真入りで書いていますので
よろしければ、皆様、ブログをご覧頂ければと思い
御紹介させて頂きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12314802139.html


さらに景行天皇に関連して、「家の家紋」についても気が付いた事がありますので
詳しくは、明日、こちらのスレッドで書かせて頂きます。

では(..)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月29日 11時40分01秒 ) パスワード

三つ柏服部様、
私のコメントをご覧頂いて下さる事を心より願って
失礼ですが、こちらの方で書かせて頂きます。

御調査、拝読して勉強をさせて頂きながら
沢山の書籍をお読みになられていらっしゃる事
御自身で、気になる場所に行かれて、情報を収集されていらっしゃる事
やはり、知識の深さからの視点でいらっしゃる事に
毎回、敬服いたしております。

今朝のコメントにお書きであった
「関裕二氏の著作 2003年発行の『天孫降臨』という本」について
実は、私の父も関裕二氏の著作本多数を持っていまして
父に上記の本を持っていないか?聞いたのですが
以前は持っていたけれど、友人に貸した所、「とても良かった!」と言われて
そのまま、さしあげたそうです。
父も、数多くの関裕二氏の著作本の中でも『天孫降臨』は特に心に残ったそうで
お話を伺い、父も「あらためて読みたい!」と言う事で、早速購入する事に致しました。

三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂いたおかげです。
ありがとうございました。

さらに
御調査の中で「景行天皇」に御所縁の方々に繋がる「地域」に
「丸に剣片喰紋」を使用されていらっしゃる家々が多いとのお話に
私は大変興味が湧きました。

私の住む、旧宮原村には「景行天皇」に御所縁の地名「天子」が現存し
さらに、家だけではなく親戚一同も使用する家紋は「丸に剣片喰紋」。
実は、遠縁の親戚も、集落に住する家は「丸に剣片喰紋」を使用している所が非常に多いのです。
他、ブログにも書きましたが集落には「三つ柏紋」「丸に剣三つ柏」を使用する家々や遠縁も多くあります。

旧宮原村内だけではなく、実は、球磨郡内では「丸に剣片喰紋」を使用する家がとても多い事には以前から気が付いていました。

ただ、全国的に「丸に剣片喰紋」を使用する家がとても多い事は知っていたので
それほど、気にした事が無かったのですが
三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂き、思い出した事がありました。

それは、球磨に鎮座する「天」の付く神社様に伺った際の事です。
郡内には「天子神社」が数か所、「天下神社」も数か所鎮座されていますが
その中の一か所に伺った際、
その神社様の「宮司家」を代々務める方の「家」のお墓が近くにあり
そちらの家紋が「丸に剣片喰紋」であった・・・と言う事です。
気が付いたのですが、その時は、単純に
「あっ、家と同じ家紋だ」
くらいしか思いませんでした。

しかし、御調査を拝読して、この事を思い出し、
さらに「景行天皇」に御所縁の『天子』地名のある旧宮原村にも、家と同様の「丸に剣片喰紋」を使用する家が多いのは一体何故だろう?と
疑問が湧いてきました。

そこで、今までしっかりと調べていなかった「丸に剣片喰紋」について
勉強をさせて頂いた「視点」を持って調べてみたのですが
そこで、気が付いた事があります。

これも、全て三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂いたおかげです。
詳しくは、次のコメントで書かせて頂きますが
あらためて、お礼を申し上げたく
勝手ながら、こちらのコメントの方に書かせて頂きました。


三つ柏服部様
心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

ミヤハラ
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月29日 12時23分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 いつも拝読させていただき、刺激と謎解きのヒントを得させていただいて
おります。ありがとうございます。
 実は、三河地区に関しては、景行天皇や日本武尊と関係が深く、つまりは
近畿を中心として九州とは反対側であります三河も、なかなか歴史が深いと
いう感覚を抱いております。猿投神社に大碓が祀られているということが、
謎を解く原点でしょぅか……いずれにしましても、古代史探求は莫大な労力
がかかりますので、どうしても後回しになってしまいます。ミヤハラ様から
の情報をモチベーションに変えて、これからもがんばりたいと思います!
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月29日 13時11分55秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

あらためての登場?です(^'^)

先のコメント22で書きましたように
景行天皇に関連して、「家や親戚の家紋」でもある「丸に剣片喰紋」について
気が付いた事があります。

今まで、「丸に剣片喰紋」について殆ど調べた事がありませんでした。
全国的に「丸に剣片喰紋」を使用する家がとても多い事を知っていたからです。

知識と言えば片喰紋・酢漿草紋は
『繁殖力が強く、一度根付くと絶やすことが困難であることが、「(家が)絶えない」に通じることから、武家の間では、家運隆盛・子孫繁栄の縁起担ぎとして家紋の図案として用いられた。五大紋の一つに数えられる。』
等の内容くらいでした・・・・

そこで、今回、しっかりと調べてみよう!と考えました。

まず、「丸に剣片喰紋」について詳しく記されたサイトを見つけました。
発光大王堂様のサイトです。

http://hakko-daiodo.com/maruni-ken-katabami

発光大王堂様のサイトより、気になる箇所を抜粋させて頂きました。

==============================================

カタバミは、山野や農村など、どこにでも自生し、葉はハート型の三枚葉で、春から秋にかけて、5つの花弁を持つ黄色い花を咲かせます。

茎は地上近くを這って伸びる匍匐茎が非常によく発達するため、瞬く間に地表に広がります。多年草の割に繁殖が早く、また多年草であるがゆえに、ゆっくりと時間をかけ、根を地中深くに張る為、一度根付くと駆除が非常に困難な雑草の一つです。

別名を鏡草と言い、古代の日本では、その葉をすりつぶして鏡の表面を磨く為に使用されたり、また、消炎、止血、解毒、下痢止めなどの作用がある事から、酢漿草(サクショウソウ)と呼ばれる生薬の一種ともされてきました。

さらにその可憐で優雅な見た目から、古来より様々なところでその図案が、文様として用いられていたのです。カタバミとはこのように、道端やあぜ道などに生えるごくありふれた雑草でありながら、人々の生活に密接に関係してきた植物であったようです。

===============================================

※葉はハート型の三枚葉。5つの花弁を持つ黄色い花を咲かせる。
※別名を鏡草と言い、古代の日本では、その葉をすりつぶして鏡の表面を磨く為に使用されたり、また、消炎、止血、解毒、下痢止めなどの作用がある事から、酢漿草(サクショウソウ)と呼ばれる生薬の一種ともされてきた。

さらに続いて「剣」について詳しく記されていましたのでご紹介致します。


家紋における[剣]の意味合いは?

かつて人々に、主要な武器として用いられてきた[剣]も、尚武的な家紋のモチーフとして図案化されてきました。尚武とは、武道や武勇を重んじる心構え・「武」を尊ぶ価値観のことを言います。

剣紋に用いられている意匠は、日本固有の刀剣である日本刀のような、片刃で若干反りのあるのものではなく、それ以前に古代日本で用いられていた青銅製の両刃直刀のものがモチーフになっています。

なぜ、剣紋のモチーフが日本刀ではないのか?

日本刀の歴史は案外に浅く、源平を中心とした武家勢力の台頭があった、平安時代後期ごろにようやく現在知られるような型状になったとされています。その後の日本の刀剣類は大半を片刃が占めるようになり、両刃直刀のものは廃れてしまいます。

しかし、武器をモチーフとした文様が成立した時代はそれよりも古く、その当時に武器を象徴するものといえば、片刃の刀剣ではなく、草薙剣や天羽々斬のような両刃直刀の方だったのです。

それだけではありません。金属類の精製技術を持たない古代の日本では、大陸よりもたらされる金属製の武器というのは大変に貴重で、ただの道具と言うにはあまりに価値が高すぎました。

日本刀一千年の歴史も文様にはかなわない?

確かに一部の日本刀にも、単なる武器以上の価値を見出す個体も存在しますし、その根拠も妥当に感じます。しかし、その歴史の長さと当時の希少性を考えれば、かつての日本人には、どちらがより武器としてシンボリックであったかは想像に難くはありません。

それは、十束の剣などのように、神話の時代のエピソードには、ほぼ剣が付き物である事、草薙剣が天皇の即位の正当性を担保する三種の神器に含まれている事などからも明らかではないでしょうか。

古代の刀剣は、武器としてだけではなく、祭祀用の祭器としての側面も色濃いもので、日本刀が主流になった後は、その側面がより顕著なものとなったようです。

このような背景を考えると、尚武の象徴として剣を捉えた時、その用いられた意匠が後発組の日本刀ではなく古代の剣の方であったのは、ごく自然な成り行きだったといえます。家紋を含む、日本の文様の歴史の深さを象徴するエピソードともいえますね。

========================================

※剣紋に用いられている意匠は、日本固有の刀剣である日本刀のような、片刃で若干反りのあるのものではなく、それ以前に古代日本で用いられていた青銅製の両刃直刀のものがモチーフになっている。

================================================

※武器をモチーフとした文様が成立した時代は古く、その当時に武器を象徴するものといえば、片刃の刀剣ではなく、草薙剣や天羽々斬のような両刃直刀の方だった。

※歴史の長さと当時の希少性を考えれば、かつての日本人には、古代の両刃直刀の方が武器としてシンボリックであった。

「丸に剣片喰紋」について、こちらのサイト様の記述を読み、目からウロコのような気持ちになりました。

★方喰、別名を鏡草と言い、古代の日本では、その葉をすりつぶして鏡の表面を磨く為に使用されたり
酢漿草(サクショウソウ)と呼ばれる生薬の一種ともされてきた。

★剣紋に用いられている意匠は、日本固有の刀剣である日本刀のような、片刃で若干反りのあるのものではなく、それ以前に古代日本で用いられていた青銅製の両刃直刀のものがモチーフになっている。

さらに、興味が湧き「カタバミ」と言う植物について、もう少し勉強してみました。

「カタバミ」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%90%E3%83%9F

カタバミ(酢漿草、片喰、傍食[4]、学名: Oxalis corniculata)はカタバミ科カタバミ属の多年草。日本の地方名には「かがみぐさ」、「すいば」、「しょっぱぐさ」、「すずめぐさ」、「ねこあし」、「もんかたばみ」などがあり、『日本方言大辞典』[5]には180種以上が記録されている。中国では「三葉酸草」、「老鴨嘴」、「酸味草」、「満天星」などの別名がある。


形態・生態
地下に球根を持ち、さらにその下に大根のような根を下ろす。匍匐茎をよく伸ばし、地表に広がる。このため、繁殖が早く、しかも根が深いので駆除に困る雑草である。
葉は球根の先端から束に出る。葉は、ハート型の3枚がとがった先端を寄せあわせた形。三出複葉だが、頂小葉と側小葉の区別はつきづらい。マメ科のクローバー(シロツメクサなど)とよく間違われるが、クローバーは葉の形状が丸く白い線があり、全く異なる植物である。しかし、ロゴマークなどでクローバーのかわりにカタバミが用いられるケースがある

春から秋にかけ黄色の花を咲かせる。花びらは5弁。日向では花を出すが、日陰に咲いてしまうと花がしぼんでしまうのが大きな特徴である。

葉や茎は、シュウ酸水素ナトリウムなどの水溶性シュウ酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱい。シュウ酸は英語で oxalic acid というが、カタバミ属 (Oxalis) の葉から単離されたことに由来する。

=======================================

※春から秋にかけ黄色の花を咲かせる。花びらは5弁。日向では花を出すが、日陰に咲いてしまうと花がしぼんでしまうのが大きな特徴。
『日向(ひなた)でなければ美しい花をさかせる事ができない』

※葉や茎は、シュウ酸水素ナトリウムなどの水溶性シュウ酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱい。

だから・・・日本の地方名には「かがみぐさ」、「すいば」、「しょっぱぐさ」とあり中国では「三葉酸草」「酸味草」など呼ばれていたのですね・・・


さらに・・・別のサイトを拝見すると
http://www.geocities.jp/deji_taru/hana/katabami.html

酢漿草(かたばみ)科
 
学名は、「Oxalis corniculata」
 
「Oxalis(オキザリス)」は、ギリシャ語の「oxys(酸っぱい)」が語源で、葉や茎に蓚酸(しゅうさん)を含んでいて酸味があることから

さらに、中国では
http://www.nhps.tp.edu.tw/camplant/i5.htm

黄花酢漿草(酢漿草科)
と書かれていました。
「酢」・・やはりスッパイ事が漢字で読みとれます。

ここまで、調べて解った事は「カタバミ」は
※学名は、「Oxalis corniculata」
 「Oxalis(オキザリス)」は、ギリシャ語の「oxys(酸っぱい)」が語源で、葉や茎に蓚酸(しゅうさん)を含んでいて酸味がある

※中国では黄花酢漿草(酢漿草科) 「酢」・・すなわちスッパイ

※葉や茎は、シュウ酸水素ナトリウムなどの水溶性シュウ酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱい。

「カタバミ」の葉や茎はスッパくて、さらに地下に球根を持ち、さらにその下に大根のような根を下ろす。匍匐茎をよく伸ばし、地表に広がる。このため、繁殖が早く、しかも根が深い。
と言う植物である事がよく理解出来ました。


非常に長くなりましたが、私なりに「丸に剣片喰紋」の
「カタバミ」と「剣」について勉強致しました。
「カタバミ」は三つ葉であり、花は黄色、日向でなければ咲かずに、葉や茎は酸っぱく、根が深く、広がる。
※中国では黄花酢漿草(酢漿草科)
剣は古代日本で用いられていた青銅製の両刃直刀のものがモチーフになっている。

この「丸に剣片喰紋」
「景行天皇」に御所縁の『天子』地名が23か所もある球磨に家も含め親戚も、他多数の家々が「丸に剣片喰紋」を多く使用しているのは何故だろう?

色々調べたのですが、私、気が付いた事があります。

皆様、「景行天皇」の母君は・・・日葉酢媛命(日葉酢根命)
垂仁天皇の皇后でいらっしゃる日葉酢媛命(日葉酢根命)でした・・・

日葉酢媛命(日葉酢根命)・・・日葉酢根・・・
もしかしたら、お名前の御由来は「カタバミ」ではないのでしょうか・・!?

偶然かもしれませんが、「景行天皇」と「丸に剣片喰紋」の関係を調べる為に、植物「カタバミ」を調べた結果
カタバミ(中国名 酢漿草)は葉や茎がとてもスッパイと言う事が理解出来た後に・・

「景行天皇」の母君は日葉酢媛命(日葉酢根命)であったと言う事を知った私は
非常に驚いたのですが・・!

やはり、もしかしたら・・・
日葉酢媛命(日葉酢根命)・・・日葉酢根・・・
お名前の御由来は「カタバミ」ではないのかな!?と
私は考えるのですが・・・

皆様、いかがお考えになられますか?

もちろん、私の推論を「邪道だ!」と言われる方もいらっしゃるとは思いますが
私は、とても気になります。

では。
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月29日 13時30分01秒 ) パスワード

三つ柏服部様

私が簡潔にまとめる事が出来ずに長々とコメントを書いている間に
三つ柏服部様からコメントを頂いていました。

ありがとうございます。

私の推論や私見は真摯に古代を追及なさっていらっしゃる方々からは
「邪道だ!」と一笑されてしまう事ばかりかと思います。

しかし・・・おっちょこちょいで、知識の浅い私なりに
真剣に古代の事を知りたい!と言う気持ちでいます。

〉私の情報をモチベーションに変えて・・
とんでもありません。

私こそ、三つ柏服部様の御調査をモチベーションに変えさせて頂いております。

三河地区が古(いにしえ)よりの深い歴史を持たれていらっしゃる事。
御調査を拝読して大変、勉強させて頂いております。

三河地区も景行天皇や日本武尊と関係が深く、さらに私の住する「球磨」や南九州も同様に
景行天皇や日本武尊と関係が深い。

古代の謎、点と線が繋がる事が非常に楽しみです。

私も、自分なりに頑張らせて頂きます!

寒暖の差が厳しい季節ですが
お身体十分にご自愛なさって下さい。

ミヤハラ
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月02日 13時44分02秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は。

たけぽん様
今朝、所用で、実は親戚の「中川家」に伺いました。
(椎葉のふた従兄を車で送る為)
以前、コメントで「親戚の中川家は某駅の近く」と書きましたが・・・
行ってみたら、「駅」のすぐ近くではありませんでした(ー_ー)!!
もう!(-.-) プンプン (私なりに怒って?います)
みんな(親戚)、広い田園地帯に住んでいるので、表現が大き過ぎます。
(隣と言えば100〜200メートル離れていても”隣”・・の感覚ですね・・(p_-))
駅とは、違う場所でした・・・
駅周辺とは言えない(通常は)距離でした(..)

間違った事を書いてしまっていました((+_+))
行ってみたら、親戚の「中川家」は某駅の近くでは無かった事をたけぽん様にお伝えしたくて
コメント致しました(..)
すみません。

ちなみに・・・親戚の「中川家」はあさぎり町の「お隣」・・・・うんがっ(-.-) ここまで・・・

(^−^)

所で・・
椎葉のおじと、●子おばさんのお家に伺う予定ですが、色々あって
もう少ししてからになりそうです。
色々とは・・・親戚一同の中に大怪我をされた人がでまして・・・(..)

怪我をしたのは、私が大好きな○○○姉さんで、いつもお世話になっている方なので
こう言う時は、親戚同士一致団結して事態を乗り切ろう!と
私も微力ですが、何かしら協力して少しでも役に立てればと思っています。

という理由で、●子おばさん家の訪問は少し先に延ばされますが
たけぽん様、すみませんが
もう少し、お待ち下さい。

所で! たけぽん様、皆様
私、また新たな事に気が付きました!

今回、気が付いた事は、かなり「平河氏」に近い系の方々の”事”です。

次のコメントで詳しく書かせて頂きます。

では(..)
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月02日 22時55分20秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

コメント27で書きましたように
かなり「平河氏」に近い系の方々の”事”で気が付いた事を書かせて頂きます。

それは「税所氏」(さいしょ氏)についてです。

まずは
相良長頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC

建久9年(1198年)12月、長頼は源頼朝より命を受けて人吉に下向した。先に下向した相良頼景は上球磨(多良木、湯前、湯山、江代)を領していて、中球磨は木上岩城主の平川義高が領し、下球磨は公領であったが、平頼盛の代官であった矢瀬主馬佑が領していた。
長頼は鎌倉幕府の命令であることを示して矢瀬に人吉城の明け渡しを迫ったが、拒否された。
長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼した。平川義高はこれを快諾し、大晦日の川狩の際に矢瀬一族を胸川(球磨川支流)に誘い出して、尽く討ち取って滅ぼすと、人吉城を奪取。長頼は義高に迎えられて人吉城に入城することができ、任務を果たして帰還した。

==============================================

※相良長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して・・

球磨・人吉では有名なこの”件”で平河氏と共に登場する「税所氏」。

以降、「税所氏」は相良藩史である求麻外史や南藤蔓綿録 他に多数登場し
さらには、鎌倉時代のおける平河氏の訴訟の際にも、平河氏を影でささえた記録が残る
「税所氏」です。

時は下り、
1496年、家の宮原家のすぐ近くに鎮座であった「稲積神社」(稲積妙見)の
中興の記録にも「税所氏」の名が残されています。

麻郡神社私考より

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。

明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トス
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)

代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興

天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)

★代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼
最取とは「税所」であり、相良藩史には「税所氏」を「最取」と記す事が多々あります。

宮原出雲橘続久、税所式部少輔綾末継(アヤノスエツグ)、石井太郎兵衛 阿部貞豊。
この方々が「稲積神社」(稲積妙見)を中興された・・という記録です。

以前から・・ずっと気になっていたのです。
『税所式部少輔 綾末継』・・・何故「綾」氏なのか・・・?

人吉市史に記載の「税所氏系図」にも
「藤原綾氏 税所系図」と記されています。

さらに「藤原綾氏 税所系図」によると
光孝天皇 → 寛明親王(朱雀天皇) → 敦實親王 → 篤光 → 信賢 → 
信應 → 家継 → 康継 → 實継(実継) →

続けての方々詳細を(..)

圓實(円実) 隅州ニ入國噌唹郡ニ住ス 税所ヲ名乗ラス小名字ナリ
 ↓
師繼(師継) 子無クテ卒ス 
被官六笠宗信入道ト云ウ者アリ 主家ノ絶ユルヲ憂ヘ上洛シテ帰途豫州ノ師継ノ妾宅ニ寄ル、
妾時ニ師継ノ子ヲ産ム、宗信大イニ喜ヒ奉シテ隅州ニ帰ル、之ヲ税所助三郎圓昭ト為ス

圓昭(円昭)
助三郎、島津判官ノ為ニ戦功アリ、串良三百町ヲ當行ハレシカ、後島津ト不和ニナリ、文治五年求麻ニ来リ
井口村ニ住シ、井口十二町ヲ領ス 建仁三年八幡宮并薬師堂ヲ建ツ
建久九年長頼公ノ入郡ノ時御味方ニ参リ平川ト共ニ矢瀬ヲ抹シテ功アリ

以下は略しますが、上記のように記載されており
こちらの系図のどこに「綾氏」が登場するのか全く意味が理解出来ないでいました。

ただ
@圓實(円実)と言う方が大隅国に入国後「噌唹郡(曽於郡)」に住された事
A※相良長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して・・の住人・税所助三郎とは税所圓昭(円昭)と言う方である事。
B税所圓昭(円昭)「税所助三郎」。この方は税所師継の子息であり
 被官六笠宗信が主家が絶えたと憂いて上洛した後に、伊予の税所師継の妾の方の家に寄ったところ、産まれていらした。
C税所圓昭(円昭)が球磨に来られた理由は、島津氏と不和になった事が関係している事。
 ※文治五年とは「承久の乱」が起こった年でもあります。

と言った事が「藤原綾氏 税所系図」で解りました。

しかし 税所氏が何故「綾氏」なのか・・・?

サイト「武家家伝」様の税所氏を見ると
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saisyo_k.html
税所氏
亀甲に花菱
(称藤原姓/檜前姓?)

税所氏は奈良・平安から鎌倉時代にかけて、南九州の大隅国曽於郡・小河院を中心に勢力を振るった、いわゆる在地豪族である。
 税所とは国衙における役所名(職名)で、文字どおり税の徴収などにあたった。税所氏はこの職を世襲したことから、やがて名字とするようになった。藤原姓を称しているが、本来は檜前姓であったようだ。ちなみに、税所は「さいしょ」と読むが、「ぜいしょ」と呼ぶときもあるようだ
 税所氏のように職名を名字とした例としては、鎮西の少弐氏、常陸の大掾氏、安芸の田所氏などが知られる。

税所氏の出自と勢力拡大

 税所氏系図によると、治安元年(1021)光孝天皇八代の孫敦如が京都から大隅に下り、曽於郡に居を構えて「曽於殿」と呼ばれ、その子義篤は襲山村重久の「関の坂」に居を移して「坂ノ上殿」と呼ばれたことに始まるという。
 一方、『薩隅日地理纂考十七之巻』の「税所祀』には税所氏の出自について、「宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如が、後一条天皇の代に大隅国国府郷八幡宮と霧島神社との神職となり、治安元年に大隅国に下向し曽於郡に住した云々」とある。現在、霧島神宮の一角に税所神社が祀られているが、これは、税所氏が霧島神宮の神領の租税徴収に関わっていたいたことを裏付けるものであろう。
 いずれにしろ、税所氏は鎌倉時代において、大隅国在庁官人・国方御家人・曽於郡郡司・薩摩満家郡郡司・正八幡宮政所職・霧島神宮座主職などを有した、大隅における一大豪族であった。建久八年(1197)の図田帳によれば、税所篤用(茂)は曽野郡重富・重武・桑東郷松永に田地を所有し、大隅国衙の税所検校、押領使職をつかさどる国方御家人として「大隅国注進御家人交名等事」に名を連ねている。同じく長兄の篤守が曽野郡司として、次兄の篤真も重久の名主として名をつらねており、税所一族が繁衍していたことが知られる。
 税所篤用の子篤満は、和田義盛の乱(1213)に出陣し、義盛の子四郎左衛門以下三人を討ちとった。しかし、みずからも負傷して、三日後に死去した。篤満の弟祐満は兄の軍功により薩摩満家郡を与えられ、大隅国大介税所職・押領使職・曽野郡郡司職・止上大宮司職・厚地山座主職・薩摩満家郡郡司職となった。
 かくして、税所氏は曽於郡城(橘木城)を本拠に、姫木城、隈部城などを支城として、やがて大隅の有力国人領主に成長していったのである。

========================================

※ 藤原姓を称しているが、本来は檜前姓であったようだ。

と記されていますが、こちらの記述にも「綾氏」との関係は記されていませんでした。
 

「綾氏」と言えば・・・
日本の苗字七千傑様の【綾 氏】姓氏類別大観を拝見すると
【綾 氏】
 景行天皇の皇子日本武尊の孫爾彌麻命が綾氏を称する始まり、後裔の綾貞宣の娘が讃岐に赴任した藤原家成との間に章隆を生み、以後藤原姓を称し、この系統は讃州藤氏と呼ばれる。

※『日本武尊の孫爾彌麻命が綾氏を称する始まり』

しかし・・【綾 氏】姓氏類別大観から進む「羽床氏」姓氏類別大観にも「税所氏」は見えません・・・

ただ・・平河氏に非常に近い関係であった「税所氏」。
旧宮原村の稲積神社(稲積妙見)の中興の記録にも税所式部少輔綾末継(アヤノスエツグ)と名前が見える「税所氏」。
「税所氏」は・・私が推測している球磨の
古代 → 中世 → 近世 は何らかの繋がりがあるのではないか?
この事に関係されているような・・気はしていました。

所が!
私の「税所氏」に関する疑問が、今回ようやく解け始めたのです!

それは
三つ柏服部様がお調べであった『建部朝臣近藤秀用』この方に繋がる宇理庄の「建部氏」についてのコメントを拝読させて頂いた事がきっかけでした。

私の知識不足で全く見えてこなかった、「税所氏」を含む「点」と「線」の謎が
三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂いて
ようやく、そうです、ようやく見えて参りました!

詳しくは、次のコメントで明日、書かせて頂きますが
「建部真道」「近藤氏」「球磨の税所氏」「武藤氏」「小弐氏」「三池氏」は
全て繋がっているようです!

小弐氏・・小弐頼尚は平河左近允頼尚と名乗られた。
三池氏・・三池貞家と三池親元は、私の住む旧岡原村に隣接する旧上村の領主であった。

そして・・・そして近藤氏は・・
藤原師高は近藤師高でもあった・・

最後になりましたが
三つ柏服部様、ご覧頂いて下さっていらっしゃる事を願って書かせて頂きます。
こちらスレッドで勝手ながら御調査の内容を書かせて頂き
申し訳ありません。
しかし、三つ柏服部様の宇理庄の「建部氏」についての御調査の内容を拝読させて頂いた事によって
私の調査は一気に「点」と「線」が繋がって参りました。
私には全く想像もつかなかった「線」でありました。

明日、内容は詳しく書かせて頂きますが
今回も、三つ柏服部様の御調査が私の疑問を解く「鍵」であった事
心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。

ミヤハラ
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月03日 00時35分04秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 昨日は法事があり、神道の祝詞を聞きながら感じたことがありました。
 祝詞の中で、神主が「ウォーーー」と叫ぶ所があるのですが、それは
「隼人」が叫んだという犬のような、あるいはオオカミのような遠吠え
なのではないか―と直感しました。

 私は直感を大事にしたいと思っております。当たる確率はなんとも言え
ませんが、そもそも推理とは直感=ヒラメキから始まるものだと思って
おります。
 そういう意味において、ミヤハラ様の持たれる感性・直観力は素晴らし
いと思いますので、今後も大事になさって下さい。きっとどんな謎も解け
てくると思います――
 
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月03日 12時38分55秒 ) パスワード

三つ柏服部様、
コメントを頂きありがとうございました。

三つ柏服部様、の直感。神主様の「ウォーーー」と叫ばれる声。
私も聞いた事があります。
地元の岡原霧島神社の大祭の前夜に行われる儀式に一昨年参加させて頂いた時です。
非常に厳粛な厳かな儀式でした。
儀式が始まる前に、御本殿(御神殿)に神主様が一人で行かれて
(一般の人は決して立ちいる事は出来ない場所で、もちろん見えませんがお声だけ聞こえました)
神主様の「ウォーーー」と叫ばれる声が最初に聞こえ、そこから祝詞が始まりました。
声だけが聞こえている闇の先が、鳥肌が立つくらいに厳粛な場所である事を感じました。
その後、一般の参加者に神様にお供えであったお神酒がふるまわれ
そこから、球磨神楽の奉納が始まりました。
白い矢を持たれての舞が最初にありました。

私も神主様の「ウォーーー」と叫ばれる声が非常に心に残り
大祭の後に親戚の椎葉のおじに話した所
『神主様の「ウォーーー」と叫ばれる声は、今から儀式を始めますという事を神様にお伝えする意味であり、さらに、その言葉を神様にお伝えする前に、それを邪魔しようとする周囲の”魔”を除ける為の声でもある』
と教わりました。

確かに三つ柏服部様がおっしゃる通り
「隼人」が叫んだという犬のような、あるいはオオカミのような遠吠え
に非常に近いのでは?と感じます。

今まで、三つ柏服部様の直感をお伺いするまで、私は全く気が付きませんでした。
「隼人」が叫んだと言われる『遠吠え』はもしかしたら「魔除け」の意味があったのではとさらに考えています。

すると、神道において、古代の「隼人」の風習がしっかりと受け継がれていると言う事にもなります。

確かに、
阿比留草文字は、各地の神社において神璽や守符、奉納文などに用いられている文字であり神代文字の一つともされています。

阿比留文字 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%94%E7%95%99%E6%96%87%E5%AD%97

対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれる文字で、阿比留家の文書に阿比留草文字や対馬文字と共に書かれている。江戸時代の国学者である平田篤胤が『神事日文伝』で「阿比留文字」として紹介し「日文四十七音」とも呼んだ。

また、平田篤胤が『神事日文伝上』で『釈日本紀』に述べられていた「肥人之字」であると書いたのは、篤胤が阿比留文字の草書体と考えていた「阿比留草文字」である

「肥人之字」とは「肥人書」(こまびとのて)であり、真偽は解りませんが、古代球磨川上流に住んでいた人達が使っていた文字と言われており

さらに
阿比留草文字は・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%94%E7%95%99%E8%8D%89%E6%96%87%E5%AD%97

阿比留草文字(あひるくさもじ)は、各地の神社において神璽や守符、奉納文などに用いられている文字である。神代文字の一つともされている。

各地の神社において神璽や守符に用いられ阿伎留神社には神符の発行に用いられた版木が残されている。
伊勢神宮に奉納された神代文字によ奉納文の中では、最も多く用いられている。 また、幾つかの書体がある。
=======================================


※阿比留文字(あびるもじ)は 「肥人書」 『こまびとのて』と呼ばれ
※阿比留草文字(あひるくさもじ)は 「薩人書」『はやひとのて』とも呼ばれています。

日本における「神道」の中にも、おそらく「古代の謎」がしっかりと受け継がれているのでは?・・
と感じています。


三つ柏服部様の直感、すばらしいと思います。
私の「妙な感」とは比較になりません。

しかし、私の「妙な感」を直感=ヒラメキと感じて下さって
本当にありがとうございます。
おっちょこちょいなので、別の方向に「感」を走らせる事が私は多々あります。
そんな私の「感」をお褒め頂いて、身に余る思いです。

三つ柏服部様
今回も、また、三つ柏服部様から頂いたお話により「神道」について新たな謎に
私自身も気が付く事が出来ました。

本当にありがとうございます。

次のコメントで昨日書かせて頂いた
『三つ柏服部様の御調査が私の疑問を解く「鍵」であった事』
を書かせて頂きます。

重ね重ね ありがとうございました。

ミヤハラ
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月04日 16時56分50秒 ) パスワード

皆様 今日は。

早速、
『三つ柏服部様の御調査が私の疑問を解く「鍵」であった事』について
書かせて頂きます。

三つ柏服部様
御調査の内容を幾つか引用させて頂きます。
申し訳ありません。

三つ柏服部様、空の青海のあを様、お二人の御調査
長上郡の服部氏族XCZ(課題確認40)
こちらの、コメント26で、三つ柏服部様が「建部家」のお墓にあった
墓誌の説明部分をお書きになられていらっしゃいました。
徳川家康に仕えた建部朝臣近藤秀用、祖父と父でいらっしゃる近藤忠用、近藤康用に繋がる遡ること奈良時代の「建部氏」についてもお書きでいらっしゃいました。

『十二代景行天皇の御子である倭健(ヤマトタケル)皇子
 が皇別により、「建部(タケベ)」姓を賜る。神孫建部伊賀麿は、伊賀伊勢
 三河へと、一族は近江建部大社を中心に広がり、朝廷守衛を任とした氏族
 である。』
『奈良時代は、宇理庄建部宿祢とあり、鎌倉時代には宇理庄冨賀寺願主
 建部真道と、室町中期の宝徳二年の古鐘に大檀那建部為行入道と刻まれ、
 宇理に栄える』

私は拝読させて頂き、以前、こちらのスレッドで、平安時代末期の肥後にも
「建部氏」の名が残っていた事を思い出し
非常に気になりました。

平川家について38+1 コメント60で書かせて頂いています。
肥後国訴状写についてです。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_71.html

この時に特に気になっていたのは
『田口新大夫行季の事件』の被害者
※国司権介近依、権介季宗らは益城の郡司が火君(肥公)の子孫「肥宿祢」で、鎌倉初期に九人の雑任国司のうち三人を占めているのをみると、その一族であろう。 との記述があり
殴打された方は
※権介季宗の私領にいた「建部成末」・「菅野為国」

この時、私はコメントに
『日本武尊の子稲依別命の裔「建部氏」が何故「火君((肥公)」の子孫「肥宿祢」の私領地にて動乱に巻き込まれなければいけないのだろう??』
と書いていたのです。

そこで、「建部氏」を調べてみようと考えました。
「建部氏」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E6%B0%8F

著名な建部氏としては、日本の古代氏族の一つである建部氏がある。日本武尊の名代部(ヤマトタケルノミコトを奉斎する軍事的部民)で、倭建尊から建部を正字とする。『日本書紀』の景行紀や『出雲国風土記』に景行天皇の勅によって定められた旨の記述があるようだ。
古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団であったとされる。壬申の乱(672年)では反乱者であった大海人皇子に敗れることとなったが、当初は正規軍であったはずの大友皇子の側で戦闘に加わったと伝えられている。
違う作りの武部氏や竹部氏、字の通う武氏、武内氏なども同じ流れをくむらしいが、もっと明瞭な名高い一族は建部姓で名字が禰寝氏を名乗る一族であろう。

建部氏
氏姓 建部朝臣
始祖 稲依別王
(日本武尊の王子)
種別 皇別

ここで気が付きました!
氏姓 建部朝臣・・・建部朝臣 建部氏は姓(カバネ)が「朝臣」

しかし・・
奈良時代・・宇理庄建部宿祢 ・・「宿禰」・・姓(カバネ)が「宿禰」である・・?

宿禰 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E7%A6%B0

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺))は、古代日本における称号の一つ。
大和朝廷初期(3世紀〜5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた[1]。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。
8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。

========================================

※氏姓 建部朝臣・・・建部朝臣 建部氏は姓(カバネ)が「朝臣」
※奈良時代・・宇理庄建部宿祢 ・・「宿禰」・・姓(カバネ)が「宿禰」である

この違いが・・・妙に気になって、宇理庄以外に「建部宿禰」を名乗られた「建部氏」なかったか調べてみました。

すると・・・・検索ワードに「建部宿禰」と入力して登場するのは殆どが鹿児島大隅の「大隅建部氏」の記述でした!

@ 扶桑家系研究所様 サイト 建部氏一族 より
http://www.kakeiken.com/report0017.html

大隅禰寝氏は、在庁官人の末裔だが、一説によると近江建部氏(日本武尊の末裔と称する古代建部君の末裔)の庶流が九州に下ったとも伝える。とりあえずその系譜を『新編姓氏家系辞書』によって紹介しよう。
同書に寄れば、筑前に移動した近江建部氏の庶流が在庁官人となり、更にその庶流が大隅に移り、建部宿禰を称し、その大隅建部氏が禰寝院司となり、子孫が禰寝氏を称したのが、大隅の戦国大名「禰寝氏」のルーツということになる。
一方近江に残った一族は、建部神社の神職や荘官になり、後に鎌倉幕府の御家人となる。近江の守護佐々木一族に属し、戦国時代は六角氏に仕えるが、没落すると織田家に仕え、信長の死後秀吉に仕え、尼崎郡代になった家系が、関ヶ原で西軍に加担したが、池田輝政の尽力で改易を免れ、そのまま尼崎郡代を努め、大坂の陣では豊臣家を離れ、後に一萬石の大名となり近世大名として明治に至る。この家系は、近江佐々木一族庶流山内氏の末裔と称するが・・・
以下略します。

※筑前に移動した近江建部氏の庶流が在庁官人となり、更にその庶流が大隅に移り、建部宿禰を称し、その大隅建部氏が禰寝院司となり、子孫が禰寝氏を称したのが、大隅の戦国大名「禰寝氏」のルーツということになる。

つづけて
A家族の幹 様サイト 鹿児島県の御先祖調べ より
http://www.kakeisi.com/survey/survey_kagosima.html

多くの庶流を輩出した大族は、肝属郡におこる伴姓肝付氏、建部宿祢姓建部(たけべ)氏、大隅郡禰寝におこる禰寝(ねじめ)氏、霧島神社社家の檜前姓税所(さいしょ)氏、姶羅郡蒲生院におこるです。

建部氏流…税所・田所・佐多・田代
建部姓禰寝氏流…佐多・松沢・小松・宮原・川窪・西本・在留・野間・丸嶺・
今村・嶺崎・七目木・角・池端・山本・北・島浜・竹崎・野久尾・堀内
藤原姓禰寝氏流…富山・郡本・浜田・横山・大姶良・宍目
檜前姓税所氏流…重枝・重久・最勝寺・上野・野添・白坂
藤原姓蒲生氏流…脇元・永山・開佐良・沙汰浦・北村・二階・木佐木・西俣

※建部宿祢姓建部(たけべ)氏
ここで・・「税所氏」が建部氏流に含まれている事に気が付きました!

さらに・・
B鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第48巻(1997)
大隅国建部氏系図考証(1) 日隈正守氏

をダウンロードして拝見しました。
(検索サイトに『大隅国建部氏系図考証』と入力すると鹿児島大学リポジトリがダウンロード出来ます)

平安後期から鎌倉初期における建部氏
※建部氏に関する最古の文書は,保安二年正月十日付権大掾建部親助解状である事
※建部氏の姓は宿称である事,建部親助は保安二年正月十日の時点で権大掾である事,親助は頼親の嫡男である事,親助は先祖相伝の所領である祢寝院南俣を父頼親から天永三年(1112)に継承した事
※大隅の建部氏は大隅正八幡宮と非常に関係が深い事
(建部頼親、建部親助は大隅正八幡宮一宮の神官を兼任していた事)
※建部親助の妹の夫が薩摩国の在地領主平行道である事

等、平安後期から鎌倉初期における大隅の建部宿禰「建部氏」の
記録を拝見しました。

C大隅の建部宿禰「建部氏」と檜前姓「税所氏」建部姓「税所氏」の関係
大隅の建部宿禰「建部氏」は大隅正八幡宮と非常に関係が深く
建部頼親、建部親助は大隅正八幡宮一宮の神官を兼任していた事
さらに税所氏は
※税所篤如が、後一条天皇の代に大隅国国府郷八幡宮と霧島神社との神職となり、治安元年に大隅国に下向し曽於郡に住した云々」
※鎌倉時代において、大隅国在庁官人・国方御家人・曽於郡郡司・薩摩満家郡郡司・正八幡宮政所職・霧島神宮座主職などを有した。
上記を踏まえ、大隅の建部宿禰「建部氏」と檜前姓「税所氏」は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)を格として姻戚関係が発生したのではと推測しました。

★ちなみに檜前姓「税所氏」とは前漢高祖(劉邦)の後裔となられます。

補足ですが、球磨郡深田村(現あさぎり町)柿木丸に御鎮座の鹿児島神社は
草創の年記は詳でないが『平河三郎師高』勧請と云われています。
※鹿児島神宮も古名を「鹿児島神社」という。と言う事を以前勉強致しました。


D大隅の建部宿禰「建部氏」は何時から「大隅」に来られたのか?
それは サイト武家家伝様の 禰寝氏系図で確認する事が出来ました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nezime_k.html

系図を拝見すると
日本武尊・・・(略)・・・建部宿禰 大隅掾「建部真清」 と言う方の名が記されていました。

E建部宿禰 大隅掾「建部真清」の時代を探るべく、
日本の苗字七千傑様の【建部氏】姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm#000

禰寝氏の祖「建部清近」と言う方から3代遡った方に「真清」この方の名が見えます。

《禰寝氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231a.htm

鹿児島大学リポジトリにあった
保安二年正月十日付権大掾建部親助解状 から推測すると「保安二年」とは1121年。
「建部真清」と言う方は日本の苗字七千傑様の《禰寝氏》姓氏類別大観を拝見すると
「建部親助」から遡る事、6代前の方と言う事が解りますので、早くて奈良時代末期〜平安時代初期の方なのか?と推測しました。

さらに建部姓「税所氏」とは上記の「建部親助」の子息「重延」と言う方が「祖」となられる事が理解出来ました。

F奈良時代の宇理庄建部宿祢。鎌倉時代の宇理庄冨賀寺願主「建部真道」と言う方々を検証。

@〜Eまでの調査により鹿児島大隅国にあった大隅建部氏は姓(カバネ)が建部宿祢(宿禰)であり、
建部宿禰 大隅掾「建部真清」と言う方が「祖」となる事が理解出来ました。
宇理庄の建部氏も建部宿祢(宿禰)を名乗られている・・
さらに鎌倉時代の「建部真道」。
着目したのは「真」の文字です。

あらためて、
日本の苗字七千傑様の【建部氏】姓氏類別大観を拝見すると、「真」の文字が付く方は
建部宿祢 大隅掾「建部真清」と7代遡った「建部真枝」この方々「二人」だけである事に気が付きました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm#000

※奈良時代の宇理庄建部宿祢。鎌倉時代の宇理庄冨賀寺願主「建部真道」
※建部宿禰 大隅掾「建部真清」 大隅建部氏の祖。
※徳川家康に仕えた建部朝臣近藤秀用
※大隅 建部姓「税所氏」 檜前姓「税所氏」
※球磨の「税所氏」さらに稲積神社(稲積妙見)を中興された税所式部少輔綾末継(アヤノスエツグ)
※球磨の平河氏と税所氏は鎌倉時代初頭において縁故の中である。
※平河師高は鹿児島神社(鹿児島神宮:大隅正八幡宮)を球磨の深田に建立。
※藤原師高・・近藤師高

この時点で、頭の中の今までの調査の「点」が次々と目に浮かんできました。

そこで
※徳川家康に仕えた建部朝臣近藤秀用。この方を「建部氏」姓氏類別大観を見て探したのですが見つかりませんでした。

そもそも「近藤秀用」と言う方は、どちらの「近藤氏」となられるのか?
そう考えて日本の苗字七千傑様のサイト内で「近藤氏」を検索して探したのですが・・・

見つかりました!

藤原秀郷流 「近藤氏」姓氏類別大観 でした!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4.htm#004

近藤忠用 近藤康用 近藤秀用・・・こちらにお名前が記されています。

さらに・・
藤原秀郷流 「近藤氏」姓氏類別大観 に見えるのは!
小弐氏・・小弐頼尚は平河左近允頼尚と名乗られた!。
三池氏・・三池貞家と三池親元は、私の住む旧岡原村に隣接する旧上村(球磨郡久米郷西方)の領主であった!。

鳥肌が立ちました・・・
近藤秀用・・こちらの「近藤氏」は武藤氏・小弐氏・三池氏と同族であった・・

今まで、私の思考回路は何故か何度も「武藤氏・小弐氏・三池氏」に意識が集中したり
そうかと言うと・・「鹿児島」 薩摩大隅地方に意識が集中したりと
自分でも何故?こうなるのか全く理解出来ず
其々に「点」があるのに、線では全く繋がる事が出来ないでいたのです。
しかし
本来「建部氏」は「建部朝臣」であるのに何故「建部宿禰」なのか?
ここに興味を持った結果
鹿児島薩摩大隅地方と藤原秀郷流「近藤氏」の線が見えてきたのです・・・
本当に鳥肌が立って、震えが止まりませんでした・・


藤原秀郷流「近藤氏」近藤秀用。この方の記録に「建部朝臣近藤秀用」とあると言う事は
建部氏と藤原秀郷流「近藤氏」が何れかの段階で「縁戚関係」を結ばれた・・
と推測する事が可能かと思います。

そこで、今まで全く勉強していなかった「近藤氏」を少し調べてみたのですが
武家家伝様サイト 近藤氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kondo.html

 藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである。藤原氏で左兵衛尉でったところから佐藤氏を生じたのと同じ型である。

そうか・・・
最初から「近江」が登場するのですね・・
※神孫建部伊賀麿は、伊賀伊勢三河へと、一族は近江建部大社を中心に広がり・・
※大隅禰寝氏は、在庁官人の末裔だが、一説によると近江建部氏(日本武尊の末裔と称する古代建部君の末裔)の庶流が九州に下ったと伝える。

近藤氏と「建部氏」の関係は私が想像するより、ずっとずっと以前からあったのでは?

実は、今回の調査で、先日コメントした「税所氏」についても、新たに気が付いた事が発生しました。
非常に長くなりましたので、次回、書かせて頂こうと思います。

しかし・・・
私は、平河氏の調査を始めてすぐの5年以上前に
藤原師高・・近藤師高
この方の事が気になって仕方なくなったのですが、それ以降今に至るまでの調査の中で「近藤氏」に繋がる「点」や「線」は全くあがってきませんでした。

先にも書きましたように
今まで、私の思考回路は何故か何度も何度も「武藤氏・小弐氏・三池氏」に意識が集中したり
そうかと言うと・・「鹿児島」 薩摩大隅地方に意識が集中したりと
自分でも何故?こうなるのか(意識が動くのか)全く理解出来ず
其々に「点」があるのに、「線」では全く繋げる事が出来ずにいました。

所が
三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂いた事によって
自分では繋げる事が出来なかった「線」が見えて参りました。

心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。

やはり、
古代 → 中世 → 近世は、何らかの形で繋がっている
私はそう考えます。

建部氏は景行天皇の御子である日本武尊の後裔。
景行天皇御所縁の地である球磨。
球磨の深田(あさぎり町)には平河師高建立と伝わる鹿児島神社が鎮座。
そして、その深田こそが
景行天皇が熊襲(隼人)を親征された時、しばらく神輿(みこし)をおとどめになられた聖地「天子神社」が御鎮座する場所であり
景行天皇が御愛飲になられたと言われる、影向(よごう)後の「天子の水」が
湧き出る場所であります。
さらに
この「深田」を所領していたのは「平河氏」でありました。
その「平河氏」と深い絆を有し、支えてこられた記録を残す「税所氏」。

先にも書きましたが
今回の調査の段階で「税所氏」について気が付いた事が多々出て参りました。
次回のコメントで詳しく書かせて頂きます。

重ね重ね
三つ柏服部様 ありがとうございました。

ミヤハラ
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月04日 23時15分40秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 拝読させていただきました。見事な洞察力に、感動いたしました!

 近藤氏については、こんな深い祖先からの流れがあったのかと、改めて
見直しています。金指・近藤秀用の子・貞用が、映画「旗本退屈男」のモ
デルになったということも、そんな祖先があったればこそと、少し納得い
たしました。

 いずれにしても、景行天皇は古代史を解くキーマンだと思っています。
その子日本武尊については、半分神話化されていますが、父親の景行天皇
との関係で、そのへんがアンバランスなので、ひょっとしたらそこが謎解
きの切り込み口かなと思っています。「白鳥伝説」について、少し掘り下
げてみようかと思っております――
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月05日 12時41分24秒 ) パスワード

三つ柏服部様

『三つ柏服部様の御調査が私の疑問を解く「鍵」であった事』について
ご覧頂きありがとうございます。

「洞察力」
とんでもございません。
身に余る思いです。

映画「旗本退屈男」のモデルが藤秀用の子・貞用、この方であったとは
全く存じていませんでした。
また、一つ勉強させて頂きました。

〉景行天皇は古代史を解くキーマン

私も同じ思いでございます。

〉日本武尊については、半分神話化されていますが・・

日本武尊。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」

「建」(たける)の文字について 古事記では ウィキより
熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。
誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。

とあり
さらに「倭建命」(日本武尊)の後裔となられた「建部氏」。
「建」(たける)の文字・・この繋がりがやはり気になる所です。

実は
三つ柏服部様、空の青海のあを様、お二人の御調査
長上郡の服部氏族XCZ(課題確認40)を今朝、拝読させて頂いて
さらに、気が付いた事がありました。

申し訳ございません。
勝手ながら、こちらで書かせて頂く事をお許し下さい。

空の青海のあを様がお調べであった
コメント37にある
古代交通研究第7号 の 飽田郡の車路についてを拝読したのですが

律令制時の飽田郡大領に建部氏一族があった事
飽田郡内に中世に「建部桑園」「建部村・竹部村」が存在した事など全く存じていませんでした。

非常に勉強になりました。

その中で、私が気が付いた事とは

飽田郡大領建部公貞雄
一族として
建部君足国

畿内に移った一族に
飽田郡建部君虫麻呂 肥後国飽田郡郡人建部公弟益

この方々のお名前が
日本の苗字七千傑様の【建部氏】姓氏類別大観に見える!と言う事です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm#001

非常に驚きました。
飽田郡建部君虫麻呂。この方の後裔が畿内より鹿児島大隅に移られたと言う事が
理解出来ました。

三つ柏服部様、空の青海のあを様、お二人の御調査を拝読させて頂き
勉強をさせて頂いたお陰でございます。

お二人には心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

建部氏についてさらに心が引きつけられ
今朝、建部大社についてウィキの記述を読んだのですが

建部大社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E5%A4%A7%E7%A4%BE

御祭神
本殿:日本武尊 (やまとたけるのみこと)
本殿相殿神:天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる]。
権殿:大己貴命 (おおなむちのみこと)
大神神社(大和国一宮)からの勧請。

創建
社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる[2]。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

実は非常にきになった末社がありました。

桧山神社
祭神:伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿禰大臣、住吉大神
本社境内北方にある御旅山に鎮座する、境外末社である。熊野神社、山神社、鞭指神社を合祀し改称した。本社境内には遙拝所がある。

桧山神社
「桧山」 実は、私の住む旧宮原村にも「桧山」という集落があります。
「桧山」と付いていますが「山」ではなく、村の中心部にあり
集落名は「桧山」ですが、ここは旧宮原村内の小村「竹野村」の一部です。

今まであまり深く考えた事が無かった地名ですが
「竹野村」(たけの)「桧山」
私にとって非常に気になる地名となりました・・・ 

三つ柏服部様、空の青海のあを様、お二人の御調査を拝読させて頂いたお陰です。

重ね重ね お二人にお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

ミヤハラ
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月06日 17時33分53秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

実は、集落に多くあった家紋「楓に剣」の紋について調べました。

詳しくは写真入りでブログに書かせて頂いていますが

結局解った事は
「楓紋」 主な使用家と私の住む集落は繋がっているようだ・・と言う事でした。

【主な使用家】
@西園寺公経の後裔、右大臣西園寺兼季を祖とする今出川氏が使用
  ※西園寺公経と橘公業は肥後国久米郷他と伊予宇和郡を替地

A伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」
  ※伊予の西園寺氏・・・
   橘公業の本領地であり替地となった伊予宇和郡に入った西園寺公経の後裔

B日下部氏流の八木氏が使用
  ※日向日下部氏と日下部氏は結局、
    日向諸県君牛諸井の女であった日向髪長媛で繋がる

C西園寺公経の曾祖父である平頼盛。この方の子息「平光盛(八木光盛)」は八木氏を名乗り、さらに「平光盛(八木光盛)」は人吉庄の預所でもあった。
子息は
 八木盛定(薩摩八木氏) 八木宣盛 平川景家(薩摩八木氏と共に行動)

と言った事が解りました。
詳細はブログに写真入りで詳しく書きましたので
皆様、よろしければ、ご覧ください(..)

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317196195.html

最後に「紋」繋がりで・・・

上記には関係ないのですが
実は、一昨日「中秋の名月」の日に、私の家から1Kmほど先、旧岡本村斉堂(ときどう※旧岡原村)に鎮座の
「正八幡社」でお祭りが催されました。

偶然、旧岡本村斉堂(ときどう※旧岡原村)の「正八幡社」前を通って
お祭りが催されている事に気が付いたのですが・・・

ここで、初めてこちらの「正八幡社」の御神紋を拝見したのです。
大きな旗にしっかりと描かれた御神紋は
『丸に並び矢』紋でした・・・!

すごく驚きました!
球磨に鎮座の神社様は「違い鷹羽」の紋が多いのですが
『丸に並び矢』紋が家のすぐ近くの「正八幡社」の御神紋であったとは
全く知りませんでした。

旧岡本村斉堂(ときどう※旧岡原村)に鎮座の「正八幡社」の御由緒は
麻郡神社私考によると

正八幡 岡本大炊神山
社人 尾形藤兵衛

相良相模守藤原頼春霊社 
弘治元年草創 同四月十四日鎮座
一曰 稲冨左近大夫長蔵建立 (岡本城主 稲冨長蔵)
一曰 相良義陽公建立 
とありました。

相良相模守藤原頼春 とは岡本城主「岡本 頼春」。この方です。
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E6%98%A5

岡本 頼春(おかもと よりはる、永正7年(1510年)[1] - 天文19年4月14日(1550年4月30日)[2])は、戦国時代の肥後国相良氏の武将。官位は相模守。父は上村長国。子は東頼兼、東藤左衛門、娘(詳細不明)。

生涯
上村長国の子として生まれるも、岡本の地頭に任じられたことから岡本姓を名乗った。妹婿は相良氏17代晴広の実父上村頼興であるが、この頼興が頼春の暗殺を企てる。
頼興は相談ありとして、自らの城である上村城へ頼春に来訪するよう求めるが、頼春臣下の上田杢之丞は頼興の芳しくない評判を語った上、昨晩は夢見が悪く、また本日が返報日であるからと頼春に行かないよう諌めた。
しかし頼春は、返報日であるならば頼興が自分を害せば上村の家の命運も長くは続くまいとして、天文19年(1550年)4月14日に上村城へと上がったが、頼興の命により玄関口に潜んでいた峯山讃岐と栗幡六郎左衛門の両名により殺害された。享年41。法名は「雲庭清栄」。

頼春死後の弘治2年(1556年)、相良氏18代義陽は頼春を弔うべく、岡本の大吹山に社壇を立て正八幡として崇めた。
また、頼春には男子二人と女子一人があったが、頼春殺害時は全員が幼少であったことからその命は助けられた。長男の頼兼は相良氏に仕え朴河内城主を経て岡本地頭になり、次男の藤左衛門も相良氏に仕えたが、永禄10年(1567年)の大口城での戦いで討ち死にしている。
============================================

「正八幡社」
相良相模守藤原頼春霊社 (岡本城主 岡本頼春) 
弘治元年草創 同四月十四日鎮座
一曰 稲冨左近大夫長蔵建立 (岡本城主 稲冨長蔵)
一曰 相良義陽公建立 

上記の「岡本城主 稲冨長蔵」に関連する内容を実は今日午前中に、ブログに家紋とは別の内容で書いていたばかりで
先程、上記の事を調べて、鳥肌が立つ程、驚きました。

そのブログは
『遠江国を出自の地とする曾祖母の実家「新堀氏』 と題して書いています。
皆様、こちらもよろしければご覧ください(..)
アドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317128956.html

しかし・・・
何故? 相良相模守藤原頼春霊社 (岡本城主 岡本頼春)
である岡本斉堂(ときどう)の「正八幡社」の
御神紋が『丸に並び矢』紋なのだろう・・?
球磨の多くの神社は御神紋は違い鷹羽なのに・・・何故だろう・・?

「正八幡社」に繋がる方々は
岡本城主 相良相模守藤原頼春 岡本頼春
岡本城主 稲冨左近大夫長蔵  稲冨長蔵
相良氏18代当主 相良義陽

この方々です。

岡本斉堂(ときどう)※旧岡原村に御鎮座の「正八幡社」の御神紋は
『丸に並び矢』紋であった・・
と言う事を最後に書かせて頂きました。

では(..)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月06日 17時51分12秒 ) パスワード

追記

実は集落に多くあった家紋「楓に剣」の紋を使用する家々なのですが
ブログには書かなかったのですが
私の曾祖母(新堀家の娘)の弟の方が養子に入って継いだ「深松家」もそうです。

と言うか・・・
「楓に剣」の紋を使用する家々の大多数は「深松家」の方々でした。

では(..)
[37]たけぽんさんからのコメント(2017年10月08日 23時59分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
最近、リアルがバタバタしており
なかなか来れなくて
すいませんでした(>_<)

・・・ちょっと来ないうちに
スケールが、また大きくなって
る様な・・・(・・;)

あ、今日は
青井阿蘇神社のおくんちまつり
がありましたね(^-^)

家にいても、お囃子が聞こえて
来ましたよd(^-^)

ところで
うちの正体が
お分かりになりましたか?(・・;)

ちょっとドキドキ
しております(〃∇〃)(笑

平河氏も謎だらけですが
球磨自体も謎が多くて
調査の遣り甲斐が
ありすぎるのも
困ったものですね(ノд`;)(苦笑)
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月09日 10時06分08秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
お身体の具合を心配していましたが
お忙しかったのですね。
たけぽん様がお元気そうで安心しました(^'^)

●子おばさんのお家への訪問は、コメント27で書いた事が・・・
椎葉のおじの予定が可能になったら伺いますので
もうしばらくお待ち下さい(..)

所で・・・・
私の住む集落に多くある家紋「楓に剣」(正式名称が解りません)の紋を使用する家々。

写真をアップして、調査する事によって
もしかしたら「あっ!家と一緒だ!」と全国のどなたかがお気づきになられたら・・
と情報を集める為に、ブログの方で「数回に渡って」調べています。

最新 ブログ アドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317704907.html

たけぽん様、皆様 よろしければご覧ください。

そこで、気が付いた事は多々あるのですが
たけぽん様にも何らかの繋がりがあるのでは?と思っているのです。

それは、ブログで書いた
【主な使用家】の中の
桓武平氏良文流の高山氏に関してです。

日本の苗字七千傑様の《河越氏/高山氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

私がブログで書いた
「高山右近」。この方の「叔父」にあたる高山重清。
この方から「清和源氏頼載流 中川氏」に繋がっています。

すごく気になります。

数回に渡ったブログでの調査で、まとめると

天正15年(1587)、桓武平氏良文流の高山氏である高山右近は豊臣秀吉のキリスト教禁止策により明石の領地を奪われ、流浪の身となった高山右近とオルガンチノ神父を庇護したのが、当時、小豆島を支配していた小西行長であった。
★小西行長は豊臣秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封され、関ヶ原の合戦の敗北によりキリシタンであったことから切腹を拒否し、京の六条河原で斬首された。
島原の乱には行長の家臣だった多くの浪人が加わっていたといわれている。荒廃してしまった島原半島南部には小豆島から沢山の方々(八木氏を含む)が移住された。

と言う事が解りました。

この小豆島から、宮原村へ沢山の方々が移住されて小村「小豆島村」が形成されました。

小豆島・小西行長(宇土24万石に転封)・高山右近・中川氏・宮原村内の小豆島村・
関係が何だろう・・カーテンの向こう側に見えるような気がするのです・・・

たけぽん様の曾おじい様の御実家・・・中川家
家の宮原家の親戚にも・・・中川家

偶然ですが「楓に剣」の紋を調べていて気が付きました。

カーテンの向こう側をもっと検証しなければ「関係」は解りませんが
私は「キリスト教」が何らかの形で関係しているような・・・そんな気もしています。

所で・・・
たけぽん様、皆様

私はきっと変わり者なのかもしれないのですが

「楓」紋について、雅な「モミジ」の方では無く
その形の方が気になって仕方ないのです・・・

紋章上では紅葉に「楓の葉」を採用している。この紋はカエルの手の形をしている。これは、 楓の葉が蛙の手のように見えることから、カエルデがカエデに訛ったことに由来するという。

カエル 蛙の手 

そう、私が気になって仕方ないのは この「カエル」さんの方なのです。

記紀に「蛙」さんの神様が登場されますね・・・

気になる事は沢山あるのですが、詳しくは後日書かせて頂きます。

〉青井阿蘇神社のおくんちまつり

そうですね(^'^)

子供の頃、尾方のおじさんが青井阿蘇神社で球磨神楽を舞っていらっしゃる(奉納)のを
祖母や親戚と一緒に拝見した記憶があります。

今日、お祭りに行ってみようかな・・・(^'^)

本日は今から外出しますので
「気になる事」については後日コメントさせて頂きます。

では(^'^)
[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月10日 14時02分44秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

昨日のコメントの追記ですが・・・・

私、昨日のコメントを書いた時に”非常に重要な”事に気が付いていませんでした。

家の親戚関係にある「中川家」ですが

二重に親戚関係があって

@家の親戚の「宮原家」に中川家から嫁いで来られている。
A家の親戚から、上記の中川家に嫁いで行かれている。

上記のAの親戚ですが・・・実は!
「楓に剣」の紋を使用されている「家」の1軒です!!
(曾祖母の弟が継いだ家とは別の「家」です)

今日、考え事をしている時に急に気が付きました!

何で、昨日、気が付かなかったのだろう(@_@。

ちなみに、その親戚は、先代に子供さんがいなかったので
相良氏族の家から養子に入られて、その方の妻も同じく相良氏族の家から
嫁いで来られています。

相良氏族が「楓に剣」の紋を使用されている「家」を継いだ訳です。

こちらの親戚には、コメントに書いていいか?確認していないので
どこの相良氏族の家だったかは書けませんが・・

しかし、言える事は
家の方の親戚関係の場合
親戚の「中川家」には「楓に剣」の紋を使用されている「家」から嫁いで行かれている。
これだけは、はっきりしています。

しかし・・・
こんなに「偶然」?って重なるものなのかなぁ?
と考えました・・・

では(..)
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月13日 12時01分51秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方で
白石様が入院なさっていらっしゃった事
現在は大部回復なさった事
等をお伺いする事が出来ました。

私にとって白石様は、『歴史は面白い』と教えて下さった大恩人です。
そしてもうお一人の大恩人が『日本の苗字七千傑様』です。
白石様と、日本の苗字七千傑様は歴史に関しては全くの無知識、
まるで赤子のような私に御丁寧に様々な事を教えて下さいました。

白石様とこちらのスレッドを通じて知り合う事が出来て
最初は「平河氏とは?」と言う事くらいしか興味が無かった私が
古代から近代まで続く「球磨の謎」を知りたい!と心から思うようになったのも
白石様と日本の苗字七千傑様のおかげです。

白石様の御健康が早く回復される事を心よりお祈り申し上げます。

松葉宗益 後裔 平賀氏について3
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_44.html

こちらで書かせて頂きましたが
霧島連山の新燃岳が6年ぶりに噴火しました。

松葉宗益 後裔 平賀氏について3でも書きましたが
昨日の朝は、球磨の盆地でも白髪岳方向から
ドドドドドッ ドドドドドッという
雷のような・・大きなオートバイのエンジンを吹かすような
自衛隊のジェット機が通過する時のように空から響き渡るような
音が絶え間なく聞こえていました。
ニュースで知ったのですがその音は、噴火に伴う「鳴動」と呼ばれる音だったようです。

音だけ響き渡る球磨の「山」の向こう側。
新燃岳周辺地域の方々は、噴煙を見ながら大変不安な気持ちでいらっしゃると思うと
大変お気の毒です。
さらに、降灰による被害が深刻化しています。
こちらのスレッドで最近何度かとりあげた高原町の方々が降灰により
大変な御苦労をされていらっしゃる事をテレビのニュースで見ました。

新燃岳の噴火が早く収束する事を祈るばかりです。

新燃岳は有史以来、何度も噴火を繰り返していますが
そのつど、古(いにしえ)の方々は苦難を乗り越えてこられているのですね。

現代に生きる私達は情報をいち早く見る事が出来ます。
私の家は霧島連山から直線距離で35kmほど離れていますが
噴火の規模や風向きによれば、こちらにも降灰が予想されるので
喘息の持病と循環器(心臓)に持病がある私は、一昨日から
気象庁が発表している
一定の時間事に更新される「降灰予想」のページを見るようにしています。
http://www.jma.go.jp/jp/ashfall/scheduled_551.html

古の方々はこういう情報を見る事が出来なかった訳ですから
私は、情報をいち早く知る事が出来るようになった状況を
ありがたいと思います。

家から見える「黒原山」や「白髪岳」は一昨日から霧に包みこまれているように
「真っ白」になっています。
しかし、今日は昨日に比べるとその「白さ」は薄くなっているような気がします。
ドドドドドッ ドドドドドッという「音」も午前中は聞いていません。
このまま、噴火が収束する事を祈るばかりです。

ただ・・・
昨年から何度、自然の脅威を目の当たりにしてきたのだろう・・・

実は、噴火が起こる2日前(噴火が発生したのは午前5時半なので正しくは1日半前)
私は霧島連山の生駒高原にコスモスを見に出かけていました。
晴天に恵まれ、コスモス祭りも開かれていて沢山の方々が
楽しそうに景色を楽しまれていました。

私は夷守岳を背景にする生駒高原が大好きで
この時も夷守岳を背景にして美しいコスモスの写真を撮りました。

その一日半後に夷守岳の後ろにそびえる新燃岳が噴火するなど夢にも思っていませんでした。

南九州は火山がもたらした、風光明美な景色が広がり
その景色には心を癒されます。
しかし、その火山が一旦本来の姿を現したら
自然の脅威へと形を変えてしまう。

つくづく、痛感しました。

だけど・・・
古(いにしえ)の方々はその「本来の姿」を含めて
「土地」を大事に愛して来られたのですね・・
度重なる噴火の被害を乗り越えて、「土地」を守ってこられたのですね・・・

6年前の噴火の際は、私はまだ球磨に戻っていなかったのですが
今回の噴火に際し、考えた事があります。

球磨の神社様は
球磨川をはさみ北川には「阿蘇神社」が多く鎮座されていて
球磨川の南側(宮崎・鹿児島側)には「霧島神社」が多く鎮座されています。
この事にはちゃんとした意味があるのでは?と
今回考えています・・・
古(いにしえ)の方々の祈りには「意味」があるのだと考えます。

今はあまり「精力的に調査を行おう」という心境ではありません。
ただ、前向きな気持ちでなければ
実際に重大な被害を受けている方々に申し訳ないと
そう考えます。

皆様、もうしばらく、お待ち下さい。
きっと、すぐに「妙な感」が働き始めると思います。

最後に
たけぽん様。
お身体の具合はいかがですか?
私は、ずっとキーンという耳鳴りが続いています。
たけぽん様もお身体十分にお気を付け下さいね。

では(..)
[43]たけぽんさんからのコメント(2017年10月15日 14時31分12秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
最近、寒暖差?が激しいですね(・・;)

体調、崩されぬように
お気をつけ下さいね(..)

うちは、気圧差が激しいらしく
最近ずっと頭痛がします(ノ_<。)

体調を崩す程度まではいかないのですが
やる気が何も起きない(>_<)

ダメですね(ノ_<。)

ミヤハラ様も体調にお気をつけ下さいね


ところで
親戚の方の具合いの方は
大丈夫でしょうか?(・・;)

今からは寒くなるので、大変(..)


あと
ミヤハラ様の調査をいつも
拝見していると
平河一族は、凄い方々と繋りが
有ることに、大変驚いております

生前、祖母から
こんなに色々な話を聞く
機会がなかったので
ミヤハラ様から
色々な事をお聞きでき、大変
ありがたく思っておます(*^^*)

色々と教えて下さり
ありがとうございます(^^)

今まで、色々と
〈あれ?〉と、思うような
御利益?やお計らい?が
沢山ありましたが
それは全て?御先祖様の
色々なご尽力や功徳積みが
あったからこそなんだな・・・
と、改めて実感している
ところです

御先祖様のお蔭で
今の私達が平穏無事で過ごせる
事を、改めて感謝しなければと
思う今日この頃です(..)
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月18日 12時27分31秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は。

たけぽん様、コメントを頂いていたのにお返事が遅くなりまして
申し訳ありませんでした。

実は、先日、コメントを書いた日に、平川繋がりの親戚のおじが亡くなりました。
おじの通夜が行われる日の朝には、私の家の御近所の方が亡くなりました。
親戚の葬儀に参列した後は、集落の倫保班(りんぽはん)として
お通夜・ご葬儀とお手伝いをさせて頂いていました。
今日、ようやくパソコンに向かう時間が取れました。

実は、たけぽん様や皆様にご覧頂きたい情報があったので
写真をブログにアップして内容を書いていたのですが、何故か突然パソコンの電源が落ちてしまい、書いていた事が消えてしまいました(@_@。

今日は、今から用事で外出するので、明日以降、再度書かせて頂きます。

ただ、内容を簡単に御説明すると
平河氏が平安時代末期に深田村(現あさぎり町)に建立した「有智山 万福寺」跡に建てられた
『内山観音堂』に残る寺紋についてなのですが
何故かお寺なのに・・・『十六弁菊の御紋』だったのです・・・・

「有智山 万福寺」は平河氏が「永厳法印」を塊基として建立、後に平河氏の氏寺となっています。

神社様では十六弁菊の御紋はお見かけする事は多々ありますが
平河氏の氏寺「有智山 万福寺」。 神社ではありません・・・お寺です・・・

求麻郷土研究会の例会に参加して、内山観音堂に伺って、初めて気が付きました。

詳しくは、先にも書いたようにブログの方に写真入りで詳細を書かせて頂きます。

それと・・・・
実は、親戚関係であらたに解った事なのですが
私の平川の曾祖父の弟の系の「平川家」。
縁戚関係で、『五家荘』の地名由来の姓のお家がありました。
こちらの親戚に、このスレッドで書いて良いか確認していないので
詳しくは書けませんが
椎葉村を出自の地とする家から平川家に養子に入った私の高祖父の孫は
五家荘を出自の地とする家に嫁いでいた事が解った・・・
と言う事です。

家の場合 やはり 五家荘・五木・椎葉村の繋がりがかなり深いような気がします・・・

(..)
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月22日 14時29分55秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は。

巨大台風が近づいています。
台風の進行方向にお住まいの方々は大変不安をお感じの事だと思います。
大きな被害が出ないようにただただ祈るばかりです。


前回の続きを精力的に書きたかったのですが、
現在、調査に神経を集中出来る状態ではありませんでした。

実は、新燃岳の噴火と同時期に弟の具合が急激に悪くなってしまいまして
弟の事と、火山に対する不安で頭がいっぱいになっていました。

弟は以前から書いているようにデュシャンヌ型筋ジストロフィーで闘病しています。
3歳児検診で病気が発覚して、両親が離婚した後は球磨の祖母の元で私と二人で過ごし
その後6歳の時に合志市の病院に入院。
それから、何度も何度も危機を乗り越えてきました。
20歳の時に、気管切開をした時に声を失いましたが、
会話は唇の動きを読む事で出来ました。

声を失ってベットに寝たきりの状態になっても、弟は自分に出来る事に
次次とチャレンジしてきました。

パソコンを使用しての文書の作成。
マウスは特種な機械で、口に含んで舌で動かすものです。
姉の私には到底無理な、すばらしい文書を沢山書いています。

筆を口にくわえ、沢山の絵を描いてきました。
作品は様々な場所で展示されました。
口に筆をくわえる力が無くなって、最後になってしまった作品が
以前、ブログにアップした馬の絵です。
私にはもちろん到底描ける絵の数々ではありません。

沢山の危機を乗り越えてきた弟は50代に入りました。私とは年子です。
医師の方から昨日も、
「3歳児検診で病気が判明して今に至っていらっしゃる弟さんは、世界的にも非常に珍しい方なのです。凄い事なのですよ」
と言って頂けました。

弟は、先に天国に逝かれた友人達の御冥福をいつも祈っています。

その弟が今が一番きつい危機をむかえています。
意識ははっきりしているので、昨日、私と一緒に弟に会いに行った父を見て
ポロっと涙をこぼしていました。
会話は出来ませんが、私や父の言葉には、唯一動く眉毛で答えてくれています。
眉毛を上下に動かして、私のくだらない冗談にも反応してくれています。
私には弟の「生きたい!」と言う気持ちがしっかりと伝わってきました。

病院の医師の方がおっしゃっているように、確かに弟は奇跡の人です。
私は、問題ばかり起こして今まで弟に心配ばかりかけてきました。
しかし、私が2年前の3月に宮原家を継ぐ事を決め、球磨に戻り、父と主人と3人で暮らし始めて
弟は「安心した。良かった。姉ちゃん、宮原家を守ってね」
と言ってくれました。
主人には
「僕がこういう身体に生まれたから、宮原家を守る事が出来なかった。すみません
養子に入って下さってありがとうございます。お父さんをよろしくお願いします。」
と言っていました。

弟は20歳の時に、母方の姓になる事を自分で決めました。
それまで、毎週父は弟に会いに行ってました。
宮崎での勤務の時は、土曜日の午前中まで仕事をして、仕事が終わると球磨の私の元へ。
次の日に、高速道路がまだ整備されていない時代に国道を使って菊池郡合志市の弟の元へ私と二人で会いに行き
勤務地が福岡に代わってからは、弟の元へ寄って、球磨の私の元へ会いに来る。
32歳で母と別れた父の若い時代は全て、私と弟と共にありました。
しかし、20歳の時に弟は母方の姓を選んだ・・
この事は父にとって、私には想像出来ない程の苦しみだったと思います。
祖母は、私が子供の頃からずっと、宮原家の跡継ぎは弟なのだから!と言っていました。
私自身もそういう教育を祖母から受けてきました。
祖母もこの時は私が想像する事が出来ない程の苦しみを受けたと思います。

でも
父は、毎日毎日、般若心境を唱えて、弟の無事を祈り続けてきました。
何十年も祈り続けてきました。
親戚も皆、弟の無事を祈ってくれていました。

母も、ある宗教の信者となり弟の無事を祈り続けてきました。

弟の奇跡はきっと「弟の生きたい!」という強い心と
父や母、ほか沢山の人達の弟を思う心があったから
だと私は考えています。


弟の病気はデュシャンヌ型筋ジストロフィー
https://www.jmda.or.jp/mddictsm/mddictsm2/mddictsm2-1/mddictsm2-1-1/

私は、保因者(キャリア)です。
私の心臓疾患は因者(キャリア)の特徴の一つで、全身の筋肉には異常はありませんでしたが、心臓と肝臓に影響が出てしまいました。
この事が解ったのは数年前の事で、その時から薬を飲み始めました。
二十歳を過ぎた頃から原因不明の不整脈がおこり、精密検査を行っても当時原因は解りませんでした。
その後、40歳の時に突然の心筋梗塞。
それ以降、血圧が突然高くなったり、そうかと思うと血圧が突然低くなったり、
数回に渡り救急車で運ばれた事があります。
原因不明の心臓疾患・・・心臓の動きが不安定でストレスや緊張で突然急変する事までは解っていたのですが
それが、実は筋ジストロフィーの保因者特有の症状であった事が数年前に研究でようやく判明しました。
この事が判明した時は、さすがにショックでしたが
判明した事により、適切な薬を飲む事が可能になり、症状は落ち着いています。
私は、この事をありがたいと思い、見えない力によって守って頂けていると感じました。

しかし私は・・・
今回、父に心の内にあった「とんでもない事」を口走ってしまい
父を泣かせてしまいました・・・

私が言ってしまったのは・・・ずっと心の中にあった私の心の黒い闇の部分です
私は父に
「私は、ずっと遺伝を憎んでいた」
と言ってしまいました・・・

私の心の中の闇は
健康な身体に生まれる事が出来ずに、一般の方が持つであろう沢山の夢を持つ事も出来ず、結婚も出来ずに
生涯を過ごしている弟と
弟のように全身の筋肉には障害が無かったけれど、心臓に爆弾を抱えた身体に生まれた自分
私達姉弟にこのような運命をもたらした「遺伝」を憎む心でした。

ずっと、口に出した事が無かったのに、今回、つい父に口走ってしまいました。
父の涙を見て、何て事を言ってしまったのだろうと反省しました。

さらに、懸命に今、病気と闘う弟の姿を見て、私は弟にも大変申し訳ない事を言ったのだと痛感しました。
弟は自分の運命を、私よりずっと早くから悟り、その運命を受け入れて今まで頑張ってきたのです。

たけぽん様が先日コメントに書かれていた
〉御先祖様のお蔭で
今の私達が平穏無事で過ごせる
事を、改めて感謝しなければ

この言葉を、あらためて、昨日読みながら、私の心が闇に満ちていた事に気が付きました。

遺伝を憎むと言う事は、言うなれば自分の先祖を憎むと言う事になります。
たけぽん様の言葉は私の胸に強烈な光として突き刺さったようでした。

私達姉弟の疾患がどのような形で、遺伝として受け継がれてきたのかは全く不明ですが
私が、母方に対する複雑な気持ちを持ち続けていた事は隠しようがありません。

ただ、先祖を憎む事にあたる・・そう考えると、なんと愚かな事を今まで自分は心の隅に抱えてきたのかと・・・
いくら反省しても足りない程の罪です。

弟が奇跡の人だと言って頂けるのも
私が今、健康に過ごせるようになったのも
全ての先祖様が守って下さっているからこそ
沢山の方々が、弟が無事に過ごせるようにと祈って下さっているからこそ
感謝の気持ちが自分には全く無かったのだと
今は心から反省しています。

弟は、弱りかけた心臓を回復する為に、治療を受けています。
必死に頑張っています。
私は、弟の生きたいと願う気持ちを信じています。
そして、抱えていた心の闇を反省して
心から先祖に感謝の気持ちを持って、弟をお守りくださいと祈っています。

それに、私は弟との約束を果たしていません。
御先祖様の真実がまだ何も解っていないからです。
もちろん、球磨の方の宮原家や平川家の先祖の真実もそうですが
母方の先祖についてもちゃんとした事を弟に伝える事が出来ないでいます。
私はもっと、もっと頑張らなければいけません。

弟や私の障害等をあからさまに書いた事には理由があります。

先日、三つ柏服部様はわたくしの直感をありがたい事にお褒め下さいました。
私にもしも、直感が働く何らかの力のようなものがあるのであれば
私がずっと気になっていたのは、自分姉弟が背負った運命である「疾患」に関してです。

父からはいつも先人の方々に対して不敬にあたる事は決して書いてはいけないと
言われ続けています。
今から書く事は、父が言う不敬にあたる事かもしれませんが
書かせて頂きます。

私は記紀を読んでいて、おそらく他の人が気に留めていらっしゃらない記述が
とても気になっていました。

記紀には、最初から何らかの疾患を抱えていたであろうと思われる方々が度々登場されています。

木花開耶姫(神阿田鹿葦津姫)のお姉様にあたる石長姫(イワナガヒメ)もその中のお一人だと私は考えています。

もし、私と弟の抱えた運命が、何らかの意味を持つものであれば
歴史に刻まれた謎を解き明かす一つの鍵であるのでは・・
と考えるのです。

記紀の記述を、歴史研究の視点からだけではなく、そこに生きた方々の生きた証だと考えて
「何らかの疾患」という新たな視点を持って、そう別の視点で歴史を検証する事が出来ないのか・・・

私のあくまでも推論ですから、大多数の方々からは一笑されたり反論されたりする事は覚悟の上で
私と弟の抱えた運命を、何らかの形で歴史研究の一環として利用して頂ける方がいらっしゃれば、私は幸せです。
疾患に対する差別ではなく、歴史の真実を解き明かす一つの鍵に
自分と弟が抱えた運命が活かされたら私は幸せです。

今、弟が一生懸命頑張っているのです
私も弟との約束を果たす為にがんばります。
[46]たけぽんさんからのコメント(2017年10月23日 05時32分10秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
今日(日にちは変わったので
昨日になりますが)

うちのお寺(日蓮宗の一派)で
日蓮様(お祖師様)の法要?がありました

ので、最近バタバタしててナカナカ此処に
来れなくてすいませんでした(>_<)

ミヤハラ様も、色々とあり大変な中
平河一族の調査までやりこなしてて
大変立派だと思います

世間では病気や色々良くない事は
過去の因縁?罪障?とも言われて
いるようですね(..)

うちのお寺で
過去の因果に対しての現世の今の姿
と、お坊様から教えて頂きました

良くも悪くも
原因と結果かあるのと同じで(..)

だけど
仏様におすがりし
感謝の心を持って
仏様へ一生懸命お参りし
仏様にご奉公すれば
必ず仏様からお計らい・御利益が
頂けると教えて頂きました(^-^)

勿論、その中には
御先祖様への、感謝とご意向も
含まれてますが(..)

自分の事で精一杯の凡夫の私達
だからこそ、此の世での罪障を仏様に
取り払って頂き、功徳を積み
あの世に行って仏様の足元へ行けるよう
功徳積みをしてまた、仏様の子供として
生まれ変われるように、菩薩になる
ためのお修行が大事だと

うちも、二十代の時に交通事故にあい
目に見えない所に
後遺症を抱えています

外見からは殆どわからない為
プロであるはずの医師からも
病気を疑われる始末です(苦笑)

事故当時は、大変悩み
人間不振にも陥りました(..)

それこそ、おおっぴろげに
言いはしませんでしたが
自分はなんでこんな事になったのか?
これでは将来どころか
夢も希望も無いと
全てに対して絶望と諦めしか
ありませんでした

あれから数十年たった今だから
言えることですか

丁度その頃
祖父母や養父母の介護(家族皆で)を
通して、色々な事を勉強させて
頂きました

そして祖父母や養父母も亡くなり
自分の時間が増えた中で思った事は
最近やっと自分自身でも
気持ちの上でも落ち着いて来たかな?
と思う、今日この頃ですf(^^;

これも、良いことも悪い事も
色々な世間勉強をさせて頂いたのだと
これも仏様からのお計らいだと
感謝しております(^-^)

うちは、以前は
病院に勤務しておりました

なので、事故した時には
あぁ・・・
と、要らぬ考えがよぎりました

ある程度?とは言え
病院で勤務して色々な患者様を
見てきただけに、これから先の
自分の事が予見出来る様な気がして
最悪の未来ばかり考えてきました

丁度その頃
祖父が倒れ、病院に運ばれ
あと半年、持って一年
と言われました

入院後すぐ位から
人工呼吸器を付け、家族皆が
毎日不安な時が続きました。

祖父が入院してからは、まぁ〜
色々ありましたが(笑)

祖父は14年
最後は老衰と言う形で
亡くなりましたが、医師からも
呼吸器の業者様からも
普通は、意識も殆ど無く
自発呼吸も長く出来ない
患者様が、呼吸器を14年も
付けて生きてるのは奇跡だと
言われました

九州圏内だけでみても
ここまで(呼吸器を)付けてる
患者は見たことも聞いた事もない

多分、○○さん(祖父)が
初めてじゃないかな?(・・;)
家族の献身的な介護と愛情(家族愛)
の賜物ではないか?
とも、言われました。


ミヤハラ様の弟様も
ミヤハラ様家族皆様の温かい愛情が
あったからこそ、奇跡が生まれた
のではないかと、うちは思います(^-^)

弟様の事は、勝手ではありますが
うちにも闘病平癒と身体回復の
御祈願をさせて頂ければ幸いです(..)

ミヤハラ様
人間は皆、凡夫
と、お坊様から教えて頂きました

雨降って地固まるではないですが
今回、闇が出てきたと落ち込まれる
のは、本当に辛いことだったのだと
文面からもお察しします(ノ_<。)

しかし、今回の事は
これからより良くなる為の
通過地点だったのでは
ないでしょうか?(..)

弟様の一日も早い回復と
闘病中の心身安定を
心からお祈りしております(..)

今回は、自分の話が多い上に
生意気発言の数々と無礼を
お許し下されば幸いです(..)

ミヤハラ様も

お互いにですが
無理せず、今、やれることを
やれるだけ精一杯
やって行きましょうd(^-^)
[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月23日 16時54分27秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は。

たけぽん様
今朝、頂いたコメントを何度も何度も読み返させていただきました。
たけぽん様の「言葉」の一つ一つが、ずしりずしりと私の心に刻まれていくようでした。

たけぽん様は、弱くなった私の心を立て直して下さいました。

事故にお遭いになられた事。
もちろん、私などには到底想像出来ない程お辛かったと思います。
おじい様の御看病を続けてこられた事
簡単な事ではありません。
たけぽん様、そして御家族の愛に
おじい様がしっかりとお答えになられていたのだと思いました。

お辛かった時の事、そして、その苦しみを乗り越えて来られた事。
私の為に、お書き頂いた事に大変申し訳なかったと思う気持ちと共に
そのお言葉に深く感謝致しました。

様々な出来事を「色々な事を勉強させて頂きました」とおっしゃる、たけぽん様。

過去の因果に対しての現世の今の姿
仏様におすがりし
感謝の心を持って
仏様へ一生懸命お参りし
仏様にご奉公すれば
必ず仏様からお計らい・御利益が
頂ける。

自分の事で精一杯の凡夫の私達
だからこそ、此の世での罪障を仏様に
取り払って頂き、功徳を積み
あの世に行って仏様の足元へ行けるよう
功徳積みをしてまた、仏様の子供として
生まれ変われるように、菩薩になる
ためのお修行が大事

人間は皆、凡夫

私の心にあった闇
『今回の事は
これからより良くなる為の
通過地点』

たけぽん様 本当にありがとうございます。

凡夫
私はそのものでした・・・

私の心の闇は
私達、姉弟の運命を怒り、腹立たしく思い 、人と比較して妬んでいたのだと思います。

弟が一生懸命病と闘う姿、父の涙を見て自分の心の闇がいかに浅はかな事だったのかと痛感しました。

私は普段、明る過ぎるくらいに明るいと言われてきましたが
それは、私が抱える心の闇を隠す為の事だったのだと今は思います。
無意識にと言うより、自分の凡夫たる所がそうさせていたのだと
その事に、やっと気が付きました。

『今回の事は
これからより良くなる為の
通過地点』

良くなる為には、自分の心の持ちようが重要なのですね。

弟の闘病平癒と身体回復の祈願をして頂けるとのお話
御迷惑をおかけして、申し訳ありません。
心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。


日蓮様(お祖師様)の御法要。

真に偶然なのですが
実は私の家に御祀りのお観音様(正式にはお観音様とお呼びするのか、父も私も解らないのですが・・)
仏間とは別に「観音様の間」を設けてお祀りさせて頂いています。
我家(宮原家)をお守り下さっていらっしゃいます。

家の観音様(正しい言葉ではないかもしれません。申し訳ありません)
実は、日蓮宗に関係するお観音様です。
家は、明治以降に集落に深水の高祖父がお呼びした浄土真宗のお寺様にお世話になっているので、毎朝仏壇にお参りする時は『南無阿弥陀仏』とお唱えしていますが
観音様に毎朝お参りする時は『南無妙法蓮華経』とお唱えしています。
子供の頃から、この事が私の日常なのです。

云われは父も私も全く聞いていないのですが
祖母が亡くなるまでは、毎月、わざわざ鹿児島から日蓮宗のお寺様がお見えになられていました。
鹿児島からお越しになられるお寺様は観音様にお参りされて
その後いつも、祖母と色々なお話をされていた事を記憶しています。
祖母はその時間をとても大事にしていました。
きっと、ありがたいお話を伺っていたのだと思うのですが
私は子供だった事もあり、さらに、当時の私は深く興味を持っていなかった事もあり、ちゃんとお話をお聞きする事は全くなかったです。

先も書きましたが
きっとありがたいお話を伺っていたのだろうと
たけぽん様から頂いたコメントを読ませて頂きながら、あらためて思い出していました。

ただ、何故、家に日蓮宗のお寺様がわざわざ鹿児島からお見えになられていらしたのか・・・
未だ深く調べた事がありませんでした。

やはり
私は、まだまだやらなければ(調べなけれ)いけない事が山積しています。

お互いに、無理せず、今、やれる事をやれるだけ精一杯やっていく・・・
そうですね。

無理をせずに、やれる事をやれるだけ精一杯やらせて頂きます。

ありがとうございました。
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月23日 17時52分40秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様
追記です。

実は、昨日コメントを書いた後、夜の事ですが父に叱られてしまいました。

父は、私が弟に話す言葉が、まるで子供に話すような話し方になっている!
と叱ったのです。

父は
「●●(弟)はりっぱな大人だ!そして立派に勇猛果敢に病と闘っているんだぞ」
「お前の話方は●●(弟)に対して失礼だ!」
「●●(弟)は本当にすごい男だ。男として一生懸命病と闘っている」

と言いました。

確かに、私はずっと以前から弟に対して、子供の頃の可愛い可愛い弟に話す時と
同じような話し方を続けていました。

父が言う通り
確かに、弟はりっぱな大人であり、病と一生懸命戦っています。

弟に失礼な言葉使いをしていた事を父に指摘されて初めて気が付きました。
何をしても浅はかな自分です。

ただ・・・
この話を父とした後に、今年の夏、8月頃に見たサイトの記述を突然思い出したのです。

今日、あらためて探して見つける事が出来ました。
亀松の森様のサイト クメール族  思い出したのはこちらのサイト様に書かれていた記述でした。

亀松の森様のサイト クメール族
http://blog.livedoor.jp/kame3328/archives/51617900.html

思い出した部分
亀松の森様のサイト クメール族 より 引用させて頂きます。

『日向の方から神武率いる天孫族が出現し、出雲に政権交代
を迫るわけだ。で、この天孫族とは何ものなりや? という話に
なる。司馬は「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を
多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、
中核は久米」と書いている。』

『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系
クメール族(地上のメル族)で、コウメイと転じた。もともとは
インダス文明の中心都市モヘンジョ・ダロを根拠地として交易
を行っていた海人族で、タイ、ビルマ、ラオス、ベトナム方面
にも進出。黒潮に乗って、中国長江から台湾・沖縄・九州へ
も進出し、大量のジャポニカ米をもたらしたものと思われる。
クメール語は現在のカンボジア語であり、コメの語源は
コウメイである。』

私が先に書いたように今年の夏、8月にこちらのサイト様の記述を拝見した時に
気になったのは
※『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが
もともとはシュメール系クメール族(地上のメル族)で、コウメイと転じた。

球磨・・シュメール系クメール族
この記述だったのですが

弟の病と戦う姿は男としてりっぱだと父が言った事により思い出した記述は
司馬遼太郎氏のエッセイにあったという
『司馬は「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を
多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、
中核は久米」と書いている。』
この部分だったのです。

※勇敢な隼人(はやと)であり、中核は久米

私は、今日、あらためてこちらの記述を読ませて頂いてハッとしました!

私の母方は日向日下部氏(隼人族)の後裔であり
父方は球磨郡久米郷、すなわち古代久米族、元祖的久米族の本拠地を西園寺公経と替地して領した橘公業を祖とする宮原の一族の一系である。
すなわち、宮原の一族は古代久米族ゆかりの地を継いだ一族である!

以前、「平川家について40」のコメント15で書いたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101597_3.html

中略・・・

神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、
久米氏・久米部の性格を考える上で重要である

太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第2巻がネットに公開されていました。
久米氏について記されています。
国立国会図書館デジタルコレクション より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/172

久米 クメ また来目に作り、九味(クミ)ともあり。
なほクマとも通ずるが如し。
姓氏禄に久米都彦を、一本に久米都彦に作り・・中略
此等によれば、久米は、クマ、クミ、クメと通ずる語にして、貴田博士が、
「久米は玖磨にして、久米郡は玖磨人、即ち肥人ならん」と云われし説に同意せざるを得ず。
即ち久米部は南九州の大種族・肥人にして、魏志東夷傳に狗奴国とあるが、此の久米部の本■ならんと考へられる。
詳細は「日本古代史新研究」を見よ。

======================================

先にも書きましたが
※父方の宮原の一族は太田亮博士がおっしゃっているような『古代久米族ゆかりの地球磨郡久米郷を継いだ一族である!』

そして母方は
日向日下部氏(隼人族)の後裔であります!

※「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を
多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、
中核は久米」
※『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系
クメール族(地上のメル族)

弟は
ここで書かれている勇敢な隼人(はやと)の後裔であり、同じく勇敢な古代久米族ゆかりの地「球磨郡久米郷」を領した(継いだ)宮原の一族の先祖の後裔である!と言う事です。

弟は
懸命に勇猛果敢に病と闘う戦士なのです。
弟は世界的にも珍しいと言われる奇跡を起こしている「病と闘う戦士」なのです。

子供扱いをしていた私は何と浅はかな人間なのだろう。

弟は懸命に病と闘い、今まで奇跡を起こしてきました。
弟の生きたい!と強く願う気持ちと
家族や親戚皆が弟を思う心と
そして、先祖から伝えられた「勇敢な心」が弟を強く支えてきたのだと
私はやっと・・そうやっと解りました。

心の中にあった「闇」、わだかまりを捨て去った時に
初めて・・やっと気が付いたのです。

弟が頑張っているのに、姉の私がメソメソしている訳にはいきません!

先のコメントに書いたように
無理をせずに、やれる事をやれるだけ精一杯やらせて頂きます!。
[49]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月24日 22時54分00秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は。

母の話で解ったのですが
弟は、何故、自分で出来る事にチャレンジを続けたのか
度重なる危機を懸命に乗り越えたのか

それは
同じ病気で苦しむ方々の一筋の希望になれれば
と言う願いがあったからだそうです。

弟の病気の研究は数十年前に比べて現在格段に進んできました。
弟はその研究の成果を得る前に進行が進んでしまいましたが、
自分が今まで頑張ってこられている事が、同じ病気と闘っている方々への
希望の光となれたら
そう願う気持ちが弟の力となっているそうです。

私が考えている以上に、弟は本当に凄い精神力の持ち主です。


所で、
先日、御紹介した
平河氏が平安時代末期に深田村(現あさぎり町)に建立した「有智山 万福寺」跡に建てられた『内山観音堂』に残る寺紋について

ブログの方に「有智山 万福寺」の詳細を写真入りで書かせて頂きました。
寺紋の由来について、今の所、全く解っていませんが
私なりに、書籍等に残る「有智山 万福寺」に関連する事をまとめさせて頂きました。

皆様、よろしければ、ご覧ください。
ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12321185882.html

では。
[50]たけぽんさんからのコメント(2017年10月24日 23時33分00秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
先ずは弟様の件

ミヤハラ様の一大事に、大したことは
出来ませんが、お祈りならうちにも
出きるかな?と思った次第なので

こちらの勝手で、させて頂くのですから
お気使いなく(..)

こちらこそ、まがりなりにも
何かさせて頂ける事があるのは
ありがたいことです

こちらこそ
ありがとうございます(..)

ここでこうして
お出会い出来たのも
何かの縁ですものd(^-^)

お父様や弟様も
ミヤハラ様も、皆様
色々な形で、それぞれの立場で
色々頑張って来られたのですから
仏様もちゃんと
見守ってくれてると、うちは
思っております

色々書かせて頂きましたが
うちもまた、未だに
闇を抱えています

ですので
人様に大層な事を言える立場では
ありませんが・・・

うちも未だに凡夫の域を
出れずにいる所があります

ですが、仏様におすがりして
お任せしているので
気持ち的にはずいぶん
楽になりました

しかし

お互い、姉という上の立場は
色々大変ですねf(^^;

うちは年が離れているので
未だに子供扱いに
なるんですよね(苦笑)

でも、すかさず妹から
お叱りを受けますが(笑)

どんな形になっても
いつまでたっても
自分の中では
小さい時のまんま
なんですよねf(^^;

うちも、ミヤハラ様を見習い
まだまだ頑張らねばo(`^´*)

ミヤハラ様もお体大切に
お互いやれるだけの
精一杯をやらせて
頂きましょう(^^)/

これからも色々
宜しくお願い致しますm(_ _)m
[51]たけぽんさんからのコメント(2017年10月24日 23時52分41秒 ) パスワード

あら、うちが書いてる間にf(^^;

弟様、ミヤハラ様と同じで
大変立派な方ですね

うちみたいな凡夫には
到底出来ない事です

うちも、弟様の様な方に
なれるように、少しでも
努力しなければ(ノ_<。)

上記の記事
今からゆっくり拝読させて
致します(..)
[52]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月28日 09時26分27秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます。

たけぽん様
お返事遅くなりまして申し訳ありませんでした。

弟の事を御心配下さりありがとうございます。
さらに
お祈りをして下さって
本当にありがとうございます。

弟は一生懸命がんばっています。
主人と二人で会いに行くと、
目をパッと開けて、
私を見ると、主人の顔をもっともっと大きく目を開いて見て
口を一生懸命動かそうとするので
「来てくれてありがとうございます と言いたいの?」
と私が聞くと
まゆげを動かしました。

状態が悪くなるまで、主人が行くと毎回、そう言って主人にお礼を言っていたので
どんなに苦しい中でも、感謝の言葉を主人に伝えようとしている弟です。

今は母と叔母が泊まりがけで側についています。

父にも会えて、弟は勇気が湧いてきたのだろうと思います。

たけぽん様
私はりっぱではありません。
ダメダメの姉で、凡夫そのものです(..)

弟は、今まで沢山の宗教に関する本を読んできたので
自分なりに出来る事を考えてきたのだと思います。

弟の生き方、弟の考え、弟の全てが、私に「教え」を伝えてくれているのだと
今は感じています。

私が調べている球磨や肥後の古代、平河氏をはじめとする球磨に繋がる方々の歴史。
この1カ月間の間に色々な事が見えてきました。
ちゃんと、文章としてまとめなければと考えています。


たけぽん様、皆様

弟の病院まで、家から120kmほど離れていますが、
道中、車窓から見える景色、標識等。
あっ!この地名は!
と言う事が度々あります。

宇土地方を通っていると特に頭がさえてしまいます。
何と言うか・・・いつもの妙な感が働き始めるのです・・・
宇土・・ウト

そこで、今朝、調べたのですが
ウィキペディアの宇土市を見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%B8%82

※今日の宇土市を含む宇土郡は古代から見られる地名である
※中世初期に紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成した。
※やがて、鎌倉時代末期に菊池氏の一族がやはり宇土氏を名乗り、宇土城の城主となった。

と言う事が書かれていて、今まで「宇土郡」について全く調べていなかった事に
気が付きました。

※紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成した。
この事も知らなかった・・・・

●良峯師高子息 字平紀平次不知実名(鎌倉時代初頭の平河氏)
●呉王 呉太伯 後裔「呉不差」・・姫(き)姓 と紀氏(き)
他・・・

あれだけ、「紀氏」が気になるとか、書いていたのに
私、自分の事が「本当にバカじゃなかろうか」と思いました。(..)

宇土と言えば「大王の棺(ひつぎ)」
宇土デジタルミュージアム様 サイトより
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hitugi.html

『大和朝廷の大王たちが静かに眠る古墳,その中でも6世紀前半の大王である継体天皇が葬られたとされる大阪の今城塚古墳,日本最初の女帝であり,聖徳太子とともに華やかに律令政治を繰り広げた推古天皇の陵墓である奈良の植山古墳などから,熊本県宇土地方にしか産しない馬門石(阿蘇ピンク石)で造られた巨大な石棺が見つかっています。』

『6〜7トンもの重さを量り,大王の遺体を収めるのにふさわしい偉容を誇る巨大な石棺が,遙か800km離れた大和の地まで,なぜ,どうやって,どのような経路を通って運ばれたのか。』

※大和朝廷の大王たちが静かに眠る古墳
※継体天皇 今城塚古墳・推古天皇 植山古墳などから
※熊本県宇土地方にしか産しない馬門石(阿蘇ピンク石)で造られた巨大な石棺

私はこう感じました・・
何故?大和朝廷の大王様がお眠りになられる石棺が、わざわざ、古代熊国(球磨国)後の肥国(後世の肥後・肥前)の
「宇土(ウト)」の地でしか採れない馬門石(阿蘇ピンク石)でなければ
いけなかったのか???

とても不思議です・・・?

全国には「石の名産地」が多数存在するのに、何故?わざわざ海路はるばる遠い
「宇土(ウト)」の地でしか採れない馬門石(阿蘇ピンク石)でなければ
いけなかったのか???

とても不思議です・・・?

今まで、何年もこちらのスレッドをおかりして、私は調査をしてきたのに
一度も「大王の棺(ひつぎ)」について書いた事が無かった・・・

私は本当にバカじゃなかろうか・・(..)

色々な事に何故かドンドン気が付くこの頃なのですが
実は、以前ご紹介した、球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)に御鎮座の天子神社の御神紋について
私、気が付きました。

線を二本加えると「ある形」になります。

詳しくはブログの方に写真入りで書こうと思います。
お待ち下さい(..)

姉はまだまだ頑張らなければ!
弟に対して申し訳がたちません。

私なりに出来る事を精一杯やるだけです!
[53]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月28日 10時08分42秒 ) パスワード

「大王の棺(ひつぎ)」について追記。

宇土デジタルミュージアム様のサイトを先のコメントを書いた後に
詳しく拝見していたら
次々と気になる情報を見つけました。

ご紹介します。
宇土デジタルミュージアム様 サイトより
馬門石とは
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html

『近年まで,馬門石が利用されるようになったのは江戸時代以降だと思われていました。ところが,20年ほど前から,この石は考古学の世界で大きく注目を浴びることになります。』

『関西や中国地方のいくつもの古墳で見つかっている石棺が実は馬門石製であることが判明し,さらに第26代継体天皇の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や,第33代推古天皇の初陵とされる奈良県の植山古墳など,当時の最有力者が葬られたとみられる古墳から,馬門石製の棺が見つかったからです。』

『地質学的にも解明されていない点の多い謎の「赤い石」。
この石がはるか古墳時代に860キロも離れた大和の地へ運ばれていた…馬門石は現代人のロマンをかきたててやまない「謎の石」なのです。』


※関西や中国地方のいくつもの古墳で見つかっている石棺が実は馬門石製であることが判明
※第26代継体天皇の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や,第33代推古天皇の初陵とされる奈良県の植山古墳など,当時の最有力者が葬られたとみられる古墳から,馬門石製の棺が見つかった

どうして!!?
何故??
古代の有力者の方々の棺は「肥国の宇土の馬門石(阿蘇ピンク岩)」を使用されたのか???
何処に運ぶにも、遥か遠い地なのに!
何故????

他、宇土デジタルミュージアム様 サイトには
私の心を揺さぶられる記述が満載でした!

修羅の復元 語源と歴史
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen2.html

※帝釈(大石)を動かせるのは阿修羅(修羅)しかいないという言い伝えから,巨石を動かすのは修羅であるという名があるといいます。

石棺の復元
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen1.html

※棺蓋・棺身 合わせて 約6000sです。


古代船の復元
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen3.html

※全長11.90メートル・最大幅2.05メートル(内径1.76メートル)・重さ推定約6トンの丸木船の船底と舷側版を組み合わせた木造の準構造船(丸木船の進化型)
※モデルとなった船は,宮崎県西都市・西都原古墳群第169号墳(5世紀後半)から出土した船型埴輪


台船の復元
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen4.html

※重さ約7トンの馬門石製石棺
※古代に石棺のような重量物を積載して搬送したような船の出土例はないため,台船の製作はまさに古代人との知恵比べ。


航海日誌とスケジュール
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/kokainisshi.html


表をご覧ください。
私には・・大和朝廷以前の古代連合国家の連携プレイのような気がします・・


大王のひつぎ実験航海事業
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/taiken.html

※「大王のひつぎ実験航海」において,宇土〜大阪間約1000qを航海した復元古代船「海王」

現代の人達が、大変な苦労のすえに達成出来たこのプロジェクト。
これを、古代の肥国の人達は、何度も実行していたのだ!
そう考えると、古代の方々の技術力・航海能力
物凄い!力を兼ね備えていた事がしっかりと理解出来ました!


しかし・・・
何故?私は、今頃、この事に突然興味を持ったのだろう・・?
もしかしたら・・・
この数年間の私自身の知識では、「大王の棺(ひつぎ)」を深く理解、読みとる事が出来なかったからか?・・

もしくは・・・
古(いにしえ)の方々が
「すこ〜しは、理解出来るようになったんじゃ〜ないか(^'^)・・」
と私に気づかせて下さったか・・?
(マタマタ(ー_ー)!! と・・・)

今朝は突然興味を持ってしまった(遅い!)
「大王の棺(ひつぎ)」について コメント52・53で
書かせて頂きました。

(..)
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月28日 11時39分04秒 ) パスワード

コメント52・53から続く
再追記です。
(今日は、妙に感が動いています(..))

宇土(ウト)産の馬門石(阿蘇ピンク岩)」を使用された「石棺」

大和朝廷の「大王様」の石棺としてだけではなく
関西や中国地方のいくつもの古墳で見つかっている石棺が
実は馬門石製であることが判明

宇土(ウト)
古代肥国の宇土の地だけではなく
実は、私の住む集落
旧『球磨郡久米郷(宮原※ミヤノハル)』にも
「宇土(ウト)」の地名が残っています。

黒原山(クロバル山)の麓
左すそ野に御鎮座であった「切畑大明神」(切畑神社)
切畑城(先祖”橘氏”の球磨における最初の城と言われています)
ここは字「宇土山(ウト山)」です。

黒原山(クロバル山)の中央から右よりのすそ野
御鎮座であった「中島大権現」(中島霧島神社 宮原神社)
宮原城(先祖”橘氏”が切畑城だけでは手狭になったと新たに本城として築城と言われています)
ここは字「宇土谷(ウト谷)」です。
この「宇土谷(ウト谷)」からは、古代「風葬」に用いられた「骨蔵器」が見つかっています。(宮原城跡)
さらに宮原城跡頂上には「風の神」がお祀り、御鎮座です。


かなり以前にこの事には気が付いていたのですが
深く考える事は今まで無かったのです・・

がっ!(ー_ー)!!
今は違います。

きっと「宇土山(ウト山)」「宇土谷(ウト谷)」の地名には
ちゃんとした「意味」があると感じています!

「宇土山(ウト山)」「宇土谷(ウト谷)」・・「ウト」
この言葉に今朝、突然興味が湧いて、調べた所・・・
今!気が付きました!

シャマシュ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5

シャマシュ(Shamash, šamaš)は、メソポタミアの太陽神。
シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。
シュメールにおける原初の5都市のうち、天から与えられた4番目の都市シッパル、ほかラルサにおいても都市神を担い、両都市に神殿「エバッバル」を持つ。
シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは「白く輝く神殿」の意を含み別名「白い家」とも呼ばれていた。
元来は女神とされていたが、アッカドのシャマシュにシュメールのウトゥが取り込まれていく信仰過程で、性別が反転し男神に変化していった。

==============================================

※シャマシュ(Shamash, šamaš)は、メソポタミアの太陽神。
シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。

宇土(ウト)・・宇土山(ウト山)・宇土谷(ウト谷)
ウト・・・ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。

あっ!!黒原山(クロバル山)は朝日が昇ってくる山です!(地元の人は皆知ってます!)

さらに・・・
※シュメールにおける原初の5都市のうち、天から与えられた4番目の都市シッパル、ほかラルサにおいても都市神を担い、両都市に神殿「エバッバル」を持つ。

★シッパル・・しっばる・・椎原(シイバ)・椎葉(シイバ)
あれっ!!?

さらに・・さらに・・・
※エバッバルは「白く輝く神殿」の意を含み別名「白い家」とも呼ばれていた。

★「白く輝く神殿」・「白い家」・・・「白」
黒原山の左すそ野「切畑大明神」「切畑城」がある「宇土山(ウト山)」に隣接して
「久米白木妙見社」が御鎮座です。・・・「白」
あれっ!!?


※『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系
クメール族(地上のメル族)

シュメール系クメール族(地上のメル族)

※私が住む球磨郡久米郷(宮原※ミヤノハル)は
古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の本拠地であったと言われている・・・
※黒原山(クロバル山)は古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の守護山であり権利の象徴
※シャマシュ(Shamash, šamaš)は、メソポタミアの太陽神。
シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。
※宇土(ウト)・・私の住む集落の黒原山(クロバル山)の麓
  ★宇土山(ウト山)・宇土谷(ウト谷)
※天から与えられた4番目の都市シッパル・・しっばる・・椎原(シイバ)・椎葉(シイバ)
※シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは「白く輝く神殿」の意を含み別名「白い家」とも呼ばれていた。
  ★黒原山(クロバル山)の左すそ野「「宇土山(ウト山)」に隣接して「久米白木妙見社」が御鎮座・・白

なんでしょうか!!!!!
全て・・繋がっているような!
全て・・私の住む集落の地名や鎮座の神社様にはちゃんとした「意味」があるのでは!

と言う事は・・・
黒原山(クロバル山)の麓中央、宮原(ミヤノハル)の馬場田(ババタ)に御鎮座であった
「稲積妙見」(稲積神社)
御祭神は
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)「右五神」別天津神(ことあまつかみ)

別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々を云う。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、
いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神[1])として成って、そのまま身を隠したという。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。神産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。


※黒原山(クロバル山)は古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の守護山であり権利の象徴
黒原山(クロバル山)の麓中央、宮原(ミヤノハル)の馬場田(ババタ)に御鎮座であった
「稲積妙見」(稲積神社)にも
きっと何らかの「意味」があるのでは!!?

宇土(ウト)に突然興味を持った事により
もしかしたら
私の住む場所と古代「シュメール」との繋がりが一気に見えてきたのかもしれません・・・

※私が住む場所は・・・肥後国球磨郡久米郷(宮原※ミヤノハル)

最後にまとめます。

肥後国球磨郡久米郷(宮原※ミヤノハル)は
※古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の本拠地であった・・・
※黒原山(クロバル山)は古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の守護山であり権利の象徴
※古代久米氏は神武天皇の東征に従う
※神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞
※久米舞は大嘗祭など宮中の儀式に行われる楽舞であり、現在まで継承され続けている。
※黒原山(クロバル山)麓の地名「宇土山(ウト山)」「宇土谷(ウト谷)」
※シャマシュ(Shamash, šamaš)は、メソポタミアの太陽神。
 シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。
※天から与えられた4番目の都市シッパル・・しっばる・・椎原(シイバ)・椎葉(シイバ)
※シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは「白く輝く神殿」の意を含み別名「白い家」とも呼ばれていた。
  ★黒原山(クロバル山)の左すそ野「「宇土山(ウト山)」に隣接して「久米白木妙見社」が御鎮座・・白
※球磨の地は平安末期まで「王家領」。天皇御領であった。
※球磨郡久米郷は平安末期まで藤原姓久米氏が勢力を持つ。
※鎌倉時代初頭までは
 ★鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である
「西園寺公経」の領地であった。
※「西園寺公経」との替地で「球磨郡久米郷」の領主となった、宮原一族の先祖「橘公業」


私が住んでいる場所を
古代から中世鎌倉時代初期まで、自分なりに検証した結果です。

今日は、久しぶりに家にいますので
出来るだけ精力的に調査したいと思っています(..)

では。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2017年10月28日 20時33分29秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 「ウト」は「宇都」でもありますでしょぅか?

 昔、鹿児島出身の人でその名前の人を知りました。珍しい名前なので、
ずっと興味をもって少しは調べておりました。

 川崎真治氏の『方舟に乗った日本人』によると、「ウトゥ」は「日
(太陽)」であり、「日神(太陽神)」であると書いています。
 古代エジプト語では「ラー」でしょぅけれど、こちらもシュメールから
派生しているはずですので、何らかの関係はあると思いますが、「ウ」
と「ラ」……シュメール語がわかれば、日本の古代のかなりの謎が解け
てくるとは思いますのですが。
 ウト=日神とすると、「宇都宮」は「日神宮」になるのでしょぅか。

 いずれにしても、今回、ミヤハラ様が踏み込んで探求してくれました
ので、私にとっても、二歩も三歩も進展したように感じられ、うれしく
思います。今後も、期待していますので、どうぞよろしくお願いいたし
ます。ありがとうございました。
[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月28日 22時17分35秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様、今晩は。

三つ柏服部様
コメントを頂きありがとうございます。

私も実は「宇土(ウト)」に興味を持って今朝調べた時に
※シャマシュ(Shamash, šamaš)は、メソポタミアの太陽神。
 シュメール語ではウトゥ(Ud)と呼ばれる。
シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意。

この記述を読んだ瞬間、拝読させて頂いていた
三つ柏服部様の御調査が真っ先に目に浮かびました。

以前から、メソポタミア文明、シュメール、については興味があり
数回コメントさせて頂いていましたが
御紹介させて頂いたサイト様の
※『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系
クメール族(地上のメル族)』

こちらの記述をあらためて読ませて頂いて
頭の中の点と線(球磨の古代)がス〜ッと繋がったような気持ちになったのです。

〉シュメール語がわかれば、日本の古代のかなりの謎が解け
てくるとは思いますのですが。

私も同感です。
きっと、「あ〜こう言う事だったのか!」と沢山の謎が解けるのでは・・
と考えます。

〉ウト=日神とすると、「宇都宮」は「日神宮」になるのでしょぅか。

実は、私も「ウト」の言葉から「宇都宮」が頭に浮かんだのです。
古代の言葉「ウト」「ウツ」「ウチ」は同意語だったと記憶しているのですが・・

私の周囲には「宇都宮」の言葉が幾つか見えています。

家の宮原家の縁戚である中村家と繋がる橘姓の矢野家に伝わる古文書には
『矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏』
と記されています。

※宇都宮城主

さらに、
氷川町宮原の宮原城城主「宮原公忠」。この方の直系である「宮原様」から頂いた
「宮原氏系図」には
宮原の一族の先祖「橘公長」の兄弟「橘公清」の項に
※父下野守佳国之時為宇都宮智■孫 號氏家 
とあります。

※宇都宮智■(パソコンでは漢字が表示されません)

矢野氏系図と宮原氏系図から
状況的には「橘氏」と「宇都宮氏」と地名「宇都宮」には何らかの繋がりが
あったのでは?と推測可能なのかと私は考えていました。

※「宇都宮(ウツノミヤ)氏」と地名「宇都宮(ウツノミヤ)」には何らかの繋がりがあったのでは?と推測可能な、「伊予橘氏」の宮原一族は、
球磨郡久米郷宮原(ミヤノハル)の「宇土山(ウト山)」「宇土谷(ウト谷)」に城を構えていた。

と言う事になります。

さらに平河氏の氏寺であった「有智山(ウチ山) 万福寺」。内山(ウチ山)観音堂

※古代の言葉「ウト」「ウツ」「ウチ」は同意語だった

この事から、考えますと
どうも、私の周囲には
「宇土谷(ウト)」「宇土山(ウト)」「有智山(ウチ山)」
「宇都宮(ウツ)」
「ウト」「ウツ」「ウチ」の言葉が溢れているような気がしているのです。

この事に気が付いた事で
おそらく、全国に「ウト」「ウツ」「ウチ」言葉は
溢れているのでは?
と考えました。

所で
三つ柏服部様、皆様
コメント52で書かせて頂きましたように
以前ご紹介した、球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)に御鎮座の天子神社の御神紋について
私、気が付いた事があります。

ブログに、「へたくそ」な絵を描いて、説明させて頂いたのですが
よろしければ、ご覧になられて下さい。

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html

結果は・・
天子神社の御神紋は
『六芒星』の中心部のみが『天子神社の御神紋』であった
と言う事が解りました。

しかし、これは、私が『天子神社の御神紋』をじっと見つめていて
フト気になり、描いてみて初めて気が付いた事ではありますが
由来については、未だ全く解りません。
さらに
本当に『六芒星』の中心部のみなのか・・も解りませんが
しかし、描いてみると確かに『六芒星』になりました・・・

球磨で目にする
「十六弁菊の御紋」「六芒星」「六芒星の中心部のみ?の御紋」

やはり、古代シュメールと何らかの関係があるのか?
想像すると、心が躍るような気分になります。

古代に思いを馳せる時が、私は一番幸せな気持ちになるのです。

最後になりましたが

三つ柏服部様
私は、三つ柏服部様の御調査を拝読させていただきながら
しっかりと勉強させて頂いています。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月29日 16時33分22秒 ) パスワード

皆様

本日、弟が旅立ちました。

生涯を通じて病気と立派に闘い続けた弟ですが
最後は、安らかに、静かに永遠の眠りにつきました。

私は、弟を心から誇りに思い、尊敬しています。
弟は本当によくがんばりました。

たけぽん様
おかげ様で、弟は、最後、とても安らかに苦しむ事も無く眠るように
旅立ちました。
心からお礼を申し上げます。

皆様方にはご心配をおかけ致しまして
大変申し訳ございませんでした。

私は姉として、心を強く持って
弟を送らせて頂きます。
[58]たけぽんさんからのコメント(2017年10月30日 19時41分31秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
・・・遅くなりまた

弟様の件
心から御悔やみ申し上げます

今日は、お寺での御導師役の
当番でしたので、お参りを
させて頂いたのですが・・・

何の力にもなれなくて
申し訳ありませんでした

弟様の立派なお姿は
ミヤハラ様の一生の宝物に
なるのでしょうね

これから先は、ミヤハラ様の
大事な御先祖様のお一人として
弟様があちらでなに不自由なく
仏様の足元へ迷わず行かれる様に
先祖代々で御回向させて頂いても
よろしいでしょうか?

ミヤハラ様

介護の大変さは、多少なりとも
理解できます
うちの介護の比ではない位
ミヤハラ様は頑張られたと思います

ミヤハラ様も
暫くは大変だとは思いますが
お体に気を付けて無理をせず
お過ごし下さい


最後に

弟様が苦しまず安らかに
逝かれたとの事

最後まで苦しみがなかった事に
安堵いたしました

今まで精一杯戦ってきた弟様への
仏様からのお計らいだったのだと
うちは思っております

この度は
本当に御悔やみ申し上げます

合掌
[59]酒井ともさんからのコメント(2017年10月31日 14時18分06秒 ) パスワード


ミヤハラさま

この度は実弟さまのこと、心よりお悔やみ申し上げます。

これだけ医学が発達したとしても、いまだ苦痛を伴う病魔と闘い
尊い命を散らせる方々がいることが悲しく思います。


私も14歳で心臓の手術を致しました。
その頃の医学では寿命は40歳前後と言われた先天性の病気でした。

手術の前夜に毛を剃られた、無傷の胸を鏡で見たのを憶えております。

あれから30有余年、現在は48歳になりました。
今でも胸には20センチ程の直線の手術痕があります。

この術痕があるゆえ、今の自分があるとおもうのですが、
術後の免疫低下による数年間の闘病を考えると内心は忸怩たる思いがあります。


身体の弱い身の上は、身体の弱い身の上の人間にしか分かりません。

弱い身で生きていても高揚もあれば、どん底もあります。
私も母親を責め、いまだに辛い気持ちを話すこともあります。

これは母親が鬼籍入るまで持ち続ける私の葛藤です。

ですのでミヤハラさまのご両親への葛藤は私なりに分かるつもりです。


今しばらくは、おいそがしい日々が続きますが、
落ち着きましたら、少し休息をされると良いですよ。

これよりもミヤハラさまには時間があります。

家系の成り立ちを紐解く旺盛な探求心を養って下さい。


合掌

[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月02日 07時32分56秒 ) パスワード

たけぽん様 酒井とも様 メールを下さった皆様 
お返事が遅くなりました事お詫び申し上げます

このたびは亡き弟の永眠に際し温かいお心遣いのお言葉を頂き
厚くお礼申しあげます
ありがとうございました

メールを頂いた皆様にはお礼の言葉を送らせて頂きました

たけぽん様
御回向の事 深くお礼申しあげます
御迷惑をおかけ致しますが
弟も御仏の元で大変喜んでいると思います
ありがとうございます

酒井とも様
酒井様がお抱えであった御病気の事
苦しい胸のうち 御葛藤
その中で一生懸命前を向いて来られたお話
お聞かせ頂いた事を私は一生忘れません
私も自分に出来る精一杯の事を無理をせずに頑張って行こうと
あらためて思いました
ありがとうございました


弟の葬儀はささやかながら とどこおりなく相営むことができました
父母は数十年ぶりに会う事となりましたが
そこにはわだかまりを越えた弟を思う両親の愛情のみしかありませんでした
父母 叔母 私達夫婦で亡き弟をしのびながら会話している時に
病院から若干痴呆があると言われている母の言葉に思わず微笑んでしまう父や皆の姿に
私は弟が一番望んでいた姿 家族の形がこの場にあるのだと思いました
きっと弟はにこにこ笑って喜びながら私たちを見てくれていた事と思います

弟の訃報を聞いて取り乱して大声で泣いてしまった私に
父から
泣いたら弟が心配してしまう 安心して旅立たせてあげる為には
決して取り乱して泣いたりしてはいけない
泣かずに よく頑張った と弟を褒めてあげる事が姉の役目だ
と言われました

父は私と共に弟の最後までの頑張りに心から敬意を表して涙を出さずに送ってあげようと心に決めていたのですが
身体が少し不自由になった母のかわりに
小さくなった弟を胸に抱いた父が
車に乗り移動先に向かう際に 叔母に対して
こうやって●●を胸に抱くのは何年ぶりだろう
と堪えきれずに涙を流していたそうです
私も主人の車から弟を胸に抱く父の姿を見ながら泣いてしまいました
弟は父の胸に抱かれて喜んでいたと思います

叔母から聞いたのですが不思議な事がありました
弟が天国へ旅立った日の朝
弟の病院の上にそれは見た事もないようなとても大きな綺麗な虹がかかっていたそうです
きっと弟はその綺麗な虹に乗って天国へ旅立ったのだと皆思いました

姉の私は継いだ家をしっかりと守り 父を大事にし 母を大事にし
弟との約束 皆様方からの温かい励ましのお言葉を胸に
これからも先祖の調査を含め色々な事を頑張って行こうと思います

あらためまして深くお礼を申し上げます
皆様
ありがとうございました

ミヤハラ
[61]たけぽんさんからのコメント(2017年11月02日 22時40分41秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お忙しい中、わざわざお返事頂き
ありがとうございます

弟様の件
ありがとうございます

こちらが勝手なから
させて頂く事なので
お気になさらず

まだまだ、暫くはお忙しいでしょうが
少しは落ち着かれましたか?

こちらも、最近は朝晩の冷え込みが
強くなって来たので
お風邪召されぬ様に
お体大切においで下さい
[62]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月05日 12時11分17秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様

温かい励ましのお言葉
本当にありがとうございました。

まだまだ、寂しい気持ちは続いていますが
私は弟との約束や祖母が伝えたかった言葉の意味を理解する為に
これからも、前を向いて進んでいきます。

弟は私が先祖調査の進捗を話すたびに、毎回
「ばあちゃんの先祖様は平家」と言っていました。
「僕はばあちゃんからちゃんと聞いている」と。
私も祖母からは聞いていたのですが、平河氏は良峯氏であるという先入観から
祖母と弟の言葉が今一つ ?(クエスチョン)であったのは確かです。

しかし
祖母方の高祖父が平家落人伝説で有名な
椎葉村の矢立集落を出自の由来とする家から
祖母方の平川家に養子に入っていた事を知った時に
私も「弟が言う言葉」、「祖母が言っていた言葉」の意味を
初めて理解する事が出来ました。

先祖の話を私が聞かせていた時に
弟が容体が急変する前、唇を動かす元気があった時の弟が最後まで言っていた
「ばあちゃんの先祖様は平家」
この言葉を私は忘れる事が出来ません。

古代 → 中世 → 近世
きっと、全て繋がって来ると私は感じています。

球磨の古代、そして中世の繋がりをこれからも探求していきます。

皆様、今後ともよろしくお願い致します。

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