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 投稿番号:101586 投稿日:2017年03月19日 03時48分30秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXX[(課題確認31)市野氏
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LXXXZ(課題確認30)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101584_57.html
スレッド87の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

箱柳さんからの情報:

長上郡の市野惣大夫という代官
小早川金吾さんの家老職を務めた方ですね。
失業後、馬の見立てと調教の才を認められ、市野の牧場を任せられていますね。


       遠州市野村の富民に市野惣大夫実久といへるもの。
       天性馬をこのみ馬の鑑定に達せしと聞し召。
       御馬ども預けられ。
       近江の代官たらしむ。
       慶長十六年拝謁せし折。
       御厩別当諏訪部惣右衛門定吉を召出し。
       ともに牧場にて馬を養たつる様をかたらしめて聞せ給ひ。
       御気しきうるはしかりしとぞ。

      (駿府記、古老物語抜粋) 東照宮御実紀附録巻二十三 抜粋  

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 09時38分13秒 ) パスワード

ケーブル会社が3月の終りに替わるので
録画してあったものを見ています。


本日は柳生宗矩を見てたら

太閤検地で隠田がバレて先祖代々の領地を没収されて滋賀に行ってたと紹介がありました。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9

元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる[1]。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。



           若年時の行動は記録にないが、
           父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、
           仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている[2]。

                                         ココですね


文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に[3]、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。[4]



父上の柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%8E%B3



筒井順慶、後に松永久秀の家臣となる。織田信長の大和国入りの案内もした。しかし永禄9年(1566年)には久秀の配下として多武峰衆徒と戦って拳を射られたり、永禄11年(1568年)には柳生谷への帰路で落馬して重体に陥るなど、不幸もあった。更に元亀2年(1571年)には嫡男である厳勝が辰市合戦で鉄砲によって重傷を負ったために剣を振るう事が出来なくなってしまった。このため、ほどなくして宗厳は柳生に隠遁し、松永久秀が信長に謀反を起こした後は、その影響下からも離れ、代わって大和の支配者となった筒井順慶にも従わなかった様子で、筒井氏と当時敵対関係にあった十市遠長と結ぶなど独立体制を保った(多聞院日記)。


           しかし、天正13年(1585年)に羽柴秀長が大和に入国すると、
           太閤検地の際に隠田が摘発されて、所領を没収され浪人となり近衛前久に寄食したという。


                                         ココですね


文禄3年(1594年)5月、豊前国の大名・黒田長政が取成して京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ、家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した。そして剣術指南役として出仕を請われたが、宗厳は老齢を理由に辞退し、代わりに五男の柳生宗矩を推挙した。後に柳生に500石の所領を受けた。1606年 死去。享年80。墓所は奈良市の芳徳寺。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。




なるほど三成や島左近との関係があったはずですね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 10時24分23秒 ) パスワード

新陰流が家康に気に入られたハナシ:


柳生宗矩の若い頃の時代は戦国時代で、いかに敵の首を戦場でゲットするかだった。

        柳生剣法の特色は「待ち」で
        相手が振り下ろして来るのを待って敵の小手を打ち
        手を使えないようにしてとどめを刺す
        そういう剣術だったのを

柳生宗矩は戦の無い時代には敵のクビを取るための剣法では新しい時代に合わないと思い悩んでいた。


そこへ24歳の時、京にいた家康が柳生剣法を見たいと言って召したので
父と出向いたところ家康が刀を持って、自分にどんなものかやって見せろと言い

父は刀も持たずに
刀を振り下ろした家康を引っ繰り返らせたのだそうです。

                         これが父子で編み出した無刀


                         戦国時代は相手をいかに留めを刺すかだったが
                         平和な時代は相手をいかに無力化するかに特化するか

これに家康は感動した。



それで家康が言うには
大将たる者は敵と刀を打ち合わせて戦う必要は無い
大将たる者は窮地をいかに避けるかが肝要。


こうして柳生剣法が徳川政権に重宝されていったのだそうです。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 13時25分59秒 ) パスワード

無刀取りを披露して宗矩はすぐさま家康に召し抱えられ


宗矩30歳の時に関ヶ原があって
新陰流で活躍できるかと思っていたら
家康から牢人を集めて後方攪乱を命じられたそうです。

この時、奈良あたりには家康方に味方する者がいなかったので
宗矩は近隣豪族に家康の味方になるよう頭を下げ回り

また新陰流を習いに来ていた若者達は伊賀や甲賀の出身者が多かったので
忍者として活躍することになったそうです。


関ヶ原の戦いでは全く誰がどっちの味方か分からずにいたけれど
東軍の圧勝で
宗矩は褒美に柳生の里を返してもらうことが出来ました。


そして2代将軍秀忠の剣術指南にもなりました。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 14時10分40秒 ) パスワード

やがて宗矩は大目付となり大名の監視役になりました。

    家康と宗矩が願った平和な世の中を裏から支えた。


3代将軍家光は問題児で1年後には剣術の印可状を欲しいと言い出し
宗矩は「技はいくらでも教えるけれど印可状は別だ」と答えて与えなかった。


怒った家光は平伏する宗矩に刀を振りかぶったけれど
宗矩は家光を引っ繰り返した。

20歳で将軍になると、家光は「自分は遊びで剣術をやっているのではない。もっと厳しい稽古をつけて欲しい」と要求するようになった。


そこで将軍が人殺しをしたがるようではと、宗矩は家光を立派な将軍にするために、新陰流の精神の極意を家光に伝えようと
新陰流の心得を纏めることにし
沢庵和尚に剣術の精神を表す禅の表現の仕方を学んだ。


そして62歳でやっと書物を書き終えた。
兵法家伝書「活人剣」かつにんけん。

この中で宗矩は新陰流の極意は「活人剣」であって殺人剣ではない、と。
人々を活かす剣だ、と。

無用な争いを避け、平和な世を維持するために振るう剣が新陰流の目的だ、と。


それまで剣術の技術ばかりに目を向けていた家光の心に刺さり
「天下統御の道は宗矩に学びたり」
と述べている。

こうして家光は名君となった。

さらに新陰流は将軍が学ぶ剣術ということで日本に広く広まった。
仙台から熊本まで新陰流の道場があった。


宗矩は66歳の時に1万石の大名となった。
剣豪から大名になった珍しい存在。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月19日 14時18分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芝刈りから御前崎沖出漁へと、思考に集中する時間がありませんでした。

 それにしても、市野氏についての永田様のご指摘があり、過去に遡って
「市野氏」・「袴田氏」・「寺田氏」・「原氏」・「小早川氏」、「松島氏」
・「小笠原系山下氏」・「松下氏」・「柳生氏」等、復習をしておりました。

 400年、500年前の人間関係は分断されているように思えますが、本当
のところ、みんな相関関係の糸でつながっているように思えます。

 松島氏は市野氏と関係が深いように推察されます。市野氏の一時的な家臣
のような気もいたします。
 それは、市野氏は信濃や陸奥へ馬の名目で北へベクトルが向いていますが、
松島氏は武田に攻められ、南へベクトルが働いたのではないか……つまり、
市野氏が松島氏を呼び寄せたのではないかという気がいたします。
 小早川氏と市野氏との関係もあります。これは、市野氏のルーツ的存在の
寺田氏、剣豪の世界での柳生氏との関係、またそこに松下氏が介在……。
 色々な人間関係が渦巻いておりますが、中心には徳川家康がおります。
 つまり、徳川家康勢力が、対武田、対豊臣の抱き込み作戦、シーソー作戦
で有利になるよう作戦を展開していた……と推察いたします。

 人間関係がはっきりしない、確証がないのは、多くははっきりさせてはま
ずいという秘密があったからではないでしょうか……すなわちどちらかと言
えば、諜報がらみ、でしょうか……。
 
 
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月19日 22時35分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『女城主 井伊直虎』(漫画小冊子A)によりますと――
 「元亀三年(1572)、三方原合戦のニケ月前、山縣昌景を大将とする武田
 の大軍が、井伊の支城である井平城の仏坂に迫ってきました。三方原合
 戦の前哨戦と言われる「仏坂の合戦」です。
  仏坂の竹馬寺には、村人の宝である行基作と伝えられる仏坂十一面観
 音があります。
  直虎は、この観音様が戦いによって傷つけられることを恐れました。
 直虎は、敵の大将山縣昌景に会って、十一面観音を避難させてくれるよ
 う頼むことにしました。
  山縣昌景は、敵ではありましたが、情けを知る名将でありました。
  十一面観音は、村人の手によって、気賀の観行院に無事遷されていっ
 たのです。」

 この山縣昌景という人は、赤備えの猛将でありました(長篠の戦いで死す)。

 さて、この「仏坂」の近くには、亀之丞が隠れたという「かくれ岩」が
ありました。仏坂から山の中一キロ位の所であります。誰も来ない山の木々
の間の細い道を登っていきましたが、途中で「熊注意」の看板があり、ビッ
クリ仰天……さっそく鈴を取り出し、また木々を打ち鳴らし、大きな声を出
しながら歩いて行きました。熊に会ったらどうしようと、頭の中はグルグル
回っておりましたが、なんとか現地に着くことができました。
 そこには、磐座のような大きな岩が露出しておりました。その陰で亀之丞
は一夜を過ごしたのかと想像いたしました。洞穴のようなものはありません
でした……。

 この井平や仏坂に、意外な事実が眠っていることに気が付いたのは、家に
帰ってから、色々調べた後のことでありました。
 それこそ、仰天することが二つ!! 次回に記します――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 22時57分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

仰天すること?
何だったのでしょう?


楽しみです。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月20日 09時56分03秒 ) パスワード

松下常慶
出てましたね。

あの時には既に家康の家来だった?
ビックリ
「あちこち回ってる風来坊」
と言われてましたね。


     アチコチ出入りしてたんでしょうね。
     それにしてもビックリ。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月21日 00時28分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「伊平」について、まだ入り口にたどり着いただけですので、深堀りも
検証もしていませんが、ビックリしたことは――
 @「三方ケ原の戦い」はなかった。
 Aここに「行基」の里があった。
ということであります。

 これらについては、「いだいら観音の里(最新情報):観音の里だより」
の「2017年1月23日号」、同じく「2017年2月4日号」を中心
として記載されていますので、一度ご覧下さい。
 http://idaira.hamazo.tv/c593162.html

 

 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月21日 14時27分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


ものすごい情報量でビックリ!



行基って日本中を隈なく助けて回った?
それとも弟子達が?

     こんな所にも疑問に思い始めました。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月21日 17時33分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川家康を神格化するための情報操作はかなり行われていると思います。
 三方ケ原の戦いがおおむね創作されていたという情報には、地元の私も
ショックを受けますが、負けた戦いを脚色して大げさにして何のプラスが
あるのでしょうか? そこが疑問です。

 行基についての話は、大変意味を持つ内容だと思います。この点は深く
考察したいと思います。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月22日 02時55分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


「スズキさん」はだいたいからして日本での1番の大勢力で
静岡には鈴木姓がやたら多い
さらに
愛知県でも鈴木姓は多い


鈴木三郎というお名前の同姓同名がやたらと多いというのが
お陰様で解けました。


     変なところで感動するワタシ
[13]箱柳永田さんからのコメント(2017年03月22日 11時33分52秒 ) パスワード

  三つ柏様 あを様

>@「三方ケ原の戦い」はなかった。
 軽微な敗戦を大敗に偽装は、不可解です。
 結構な死者が出てますので、参戦者(輜重部隊含む)の全員に偽情報を教える
なんて事が、可能なんだろうか。
 >静岡には鈴木姓がやたら多い さらに 愛知県でも鈴木姓は多い
 追加情報です、挙母の北東、足助周辺は鈴木さんの集積している場所です。
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_suzki.html
  戦で敗れると山越えで新城方面に、更に浜松まで移動してます。
 熊野神社の神主、御師なども鈴木(藤白)を名乗りますので、
  区別は 難しい。
 (三河鈴木氏は 熊野神社の藤白鈴木氏に行き着きます)
 
[14]箱柳永田さんからのコメント(2017年03月22日 15時17分56秒 ) パスワード

  三つ柏様 あを様
 <静岡戦国ロマン>
  副題 静岡県から戦国が見える

http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/
 私が高く評価している今川義元公の調べの中で見つけました。
義元公は、不遇な一戦をしたため、歴史上の評価は不当に低いのですが、
 公の戦績は、ほぼ全勝で、最後の一敗で全ての人が誤解してます。
 初期戦国大名の手本ですね。公の師(雪斎)の選択(親も偉い)から
(孫子とかの兵法書や経済学も取り入れる宗派)の秀才であったと思われます。
 ただ、駿河、遠江は農業的には少し不利なので、不安定な60万石です。
 当時の経済は貨幣に重きを移してますので、信長公の膝元(津島・熱田)での
  銭の価値が倍近くの差があるのです。
 例 津島では永楽銭一枚で米が一升買えるとすると、駿河では2升買えます。
  故に、武器を買ったら義元公は倍の値段で買うことになります。
 桶狭間がギリギリの勝負時で、以降は差が大きくなるばかり、だと思います。
 たぶん、水野さんの裏切りが無ければ、(水野信近が岡部氏に殺されている)
 義元公は米を奪う、信長は撃退したと公表で、領土区分はそのまま、だから
 痛み分けでしょうね、が私の考える桶狭間の戦いです。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月23日 00時10分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 三河鈴木氏については、伊奈森太郎氏の『三河のお祭』の中でこう書かれ
ております――
 「鎌倉時代の初期になって、源義経の奥羽落ちに随伴しようとした熊野の
 鈴木重行(重善ともいうのか?)が、病気のために矢作の宿に滞留している
 間に、奥羽に下った義経の高館での最期をきいて、今はこれまでと賀茂郡
 の矢並に土着し、剃髪して善阿弥と称し、猿投山の上に七堂伽藍を建て、
 猿投神社の崇敬に力を入れた。今なお山上に七堂伽藍の址だけは遺ってい
 る。神仏混淆の両部時代に猿投神社の隆盛を極めたのはこの鈴木の力であ
 り、神社の繁栄と共に三河鈴木の繁栄もこれより起こるのである。」
 また――
 「猿投神社の祭神は、大碓命を主神としている。景行天皇の長子で、日本
 武命の兄である。この宮は宮内省の直轄になっている。(要約)」
 また――
 「サナギが鈴の古語であるとしても、そのサナギの語源がわからない。我
 が民族は往古においてサナギの語を重要な名詞に用いている。例えば、イ
 サナギ命、クサナギノ剣など……。(要約)」

鈴木の姓はあまりに多く分布しているので、我々の地元の鈴木氏について
は、ただ熊野系かと推測するくらいがせいぜいであります。
 ただし、磐田の池田村の鈴木氏というのは、足助助次郎重成の末孫であり
ます。その鈴木孫兵衛の娘お市は、徳川家康の胤を宿しています。――話は
長くなりますので止めておきます。
 

 
[16]箱柳永田さんからのコメント(2017年03月23日 01時20分10秒 ) パスワード

  三つ柏様 あを様

 >剃髪して善阿弥と称し
 >https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_ (%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82) 善阿弥の墓のある 光恩寺(豊田市 竹村駅の近く)

  〇阿弥を称する方は、時宗の方ですので、一偏上人が、悟りを開いた地が
 紀州の熊野本宮ですので、善阿弥さんも熊野神社を勧進すると思います。

 三河矢作に住み着いた鈴木氏は、もう一人いて浪合記に登場する方です。
   浪合記 より
 > 鈴木三郎兵衛政長 三州矢矧に住む。
 
 良王が尾張に隠棲された後は、宮方の武士は諸国に蟄居した。それらの武士の大略は、次のとおりである。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101586_15.html  

 光恩寺さんの寺紋と鈴木善阿弥さんの家紋は   
  鈴に鉾と御幣の組み合わせですが、通称では鈴御幣です。
 岡崎では、20軒はある?筈です。(墓苑や寺の墓地でのカウントです)
  
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月23日 13時10分38秒 ) パスワード

箱柳さん


>三河矢作に住み着いた鈴木氏は、もう一人いて浪合記に登場する方です。

なるほど。


わたくし的には  鈴木さんでも家康と仲の悪かった鈴木氏がいた記憶ですが
もう混乱して誰が誰やら、です。

     たぶん一向宗系の鈴木氏かなというのは合ってるかも。
[18]箱柳永田さんからのコメント(2017年03月23日 15時11分48秒 ) パスワード


   あを様
>鈴木さんでも家康と仲の悪かった鈴木氏がいた記憶ですが

 はい、足助の鈴木党は後に松平さんと戦ってますので、
(義元公の命令であるので)仕様が無いですね。
 なにせ、義元さんには斯波氏(尾張)との戦いで決着がつく前に
 織田さんが、斯波氏から実権を奪ってしまっているので、織田×今川は
 前の代からの因縁ですね。応仁の乱の領土配分の決着の付け方が
 著しく今川家に不平等で、原因がありもしない謀反の疑いですから、
   著しく高い評価の斯波氏には、、こいつが?、と恨んでるでしょうね。
 >https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%B1%8A
 今川氏豊さん=那古野城主 織田信秀(信長の親)さんは恨まれますね。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月24日 09時37分10秒 ) パスワード

箱柳さん

足助の鈴木さんでしたか。
ありがとうございました。



兄弟
氏輝、彦五郎、玄広恵探、義元、氏豊、瑞渓院(北条氏康室)、松平親善室(後鵜殿長持室)、中御門宣綱室、関口親永室、瀬名氏俊室


先週の「直虎」で瀬名達が鵜殿と人質の交換になりましたね。



今川 氏豊

戦国時代の武将。尾張国那古野城主。
兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。
また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。



概要

永正12年(1515年)、父・今川氏親は遠江国で尾張守護・斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。
大永年間(1521年 - 1528年)に氏親は今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き(那古野城、後の名古屋城)、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ城主とした。


氏豊は斯波義達の娘を娶り斯波氏と姻戚の関係になった。
那古野氏は明徳・応永年間に今川仲秋が尾張守護となった際、尾張に代官として封じられた今川氏の一族(仲秋の庶子とも)で、氏豊はその家の養子となったとされている。


享禄5年(1532年)、勝幡城主・織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。
『名古屋合戦記』によると、氏豊が連歌を非常に好み、そのことに目をつけた信秀が那古野城に催される連歌会に足繁く通い何日も逗留するようになり、氏豊に信用されるようになった。


信秀が城の本丸に窓を開けるが、氏豊は夏風を楽しむ風流のためだろうと信頼しきっていた。
ある日、信秀は城内で倒れ「家臣に遺言をしたい」と頼み、同情した氏豊はこれを許し、信秀の家臣が城内に入った。

その夜、信秀は俄かに城内に引き入れた手勢を使って城に火を放ち、城の内外から攻め寄せて城を乗っ取ってしまった。


氏豊は命乞いをして助けられ、女方の縁を頼って京に逃れた。



天文2年(1533年)、尾張に下向した山科言継と飛鳥井雅綱が勝幡城で織田信秀ら織田家家中に蹴鞠の指導をした際に今川竹王丸(氏豊)も招かれていたと『言継卿記』に記されていることから[1]、那古野城の奪取の時期については天文7年(1538年)年説もある。


那古野城を奪われた後、駿河に帰らず京に逃れた理由は不明で、今川家の家督争いの花倉の乱にも関与していない。

そのため氏親の子ではなかったのではないかという説もある。


また、弘治3年(1557年)3月、山科言継は駿府から京へ帰る途中、駿河藤枝で「今川那古屋殿」に病気見舞いの使者を遣わしている(『言継卿記』)が、この「今川那古屋殿」を氏豊とみれば、那古野城を追われた後、一時京に逃れたかもしれないが、最終的には今川義元の許に迎えられたと考えられる。


義元の尾張侵攻の目的の一つとして、氏豊の旧領地回復及び那古野城の奪還をあげる考え方がある(参考文献参照)。


                           へぇ〜
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月24日 09時39分28秒 ) パスワード

そうするとウチの先祖はこの時、織田信秀という大波に揉まれてたのか。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月24日 23時20分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回、鈴木氏について学ばせてもらっておりますが、私の曾祖父も羽鳥
の鈴木家から服部家に婿養子に入っています。

 この地方で有名な鈴木家は、中郡の独礼庄屋、鈴木権右衛門。阿茶の局
を家康が預けていたといいいます。

 そして、森の一宮、小國神社の鈴木家――これは、鈴木重勝も神主をや
っているようですので、三河鈴木党でありましょうか?

 井伊谷三人衆の鈴木重時――重勝の子であります。

 東三河八名郡大野の服部宮(服部神社)の鈴木伊兵衛。

 長田重元の妻(永井直勝の母)――鈴木弥右衛門の娘。

 服部中保次の三男保久の四代孫の保房の妻――鈴木甚八郎某の娘。

 こう拾って行くとたくさん出て来ると思いますが、家系的な筋を読むの
は難しいですね――
[22]箱柳永田さんからのコメント(2017年03月25日 00時56分43秒 ) パスワード

 三つ柏様
>三河鈴木党でありましょうか?  どんぴしゃりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%99%82
  鈴木重時さんはウィキにありました、室 奥山朝利の娘!

奥山 朝利(おくやま ともとし)の子を覗くと
朝宗[1]、朝重、朝家、勘三郎、井伊直親室[1](おひよ)、中野直由室[1]、小野朝直室[1]、西郷伊予守室、鈴木重時室[1]、菅沼淡路守室、橋本四方助室、平田森重室(於徳)  
          井伊直親室<おひよ>       
 長田重元の妻(永井直勝の母)――鈴木弥右衛門の娘。 (西尾には弟の子孫)
 永田清蔵の妻  西尾平口   鈴木弥右衛門の末娘です。
   
 雑談 熊野三社のうち 熊野本宮の仏様(当時は神仏習合)阿弥陀如来です。
    
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月25日 11時52分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 箱柳永田様、ありがとうございます。長田重元の妻が鈴木弥右衛門の娘
であったのは、熊野神社の神官・荘官関係からだと推察いたしますのです
が、たぶんこの鈴木氏は、鈴木重勝・重時・重好とつながっているのでは
ないでしょうか、濃いか薄いかは別にして……。

 さて――
 @井伊直政の曾祖父(父直親の母の父)は、鈴木重勝であります。
 A井伊直親の妻、即ち直政(虎松)の母は、奥山朝利の娘であります。
 B鈴木重勝の子の重時は、井伊直親の妻(奥山氏)の姉か妹を娶ってお
  り、従って、井伊直政の叔父になります。
 Cよって、鈴木重時の子の重好は、直政の従兄弟となります。

 つまり、この鈴木重勝(曾祖父)の血が直政に入っており、叔母の夫の
重時=叔父も、重勝の子であったということになり、かなり濃い親族と
なります。
 後、小牧長久手の戦いより、井伊谷三人衆(鈴木家は重時、菅沼家は
忠久、近藤家は康用)は、家康から井伊直政附属の寄騎を命ぜられており
ます。

 足助鈴木党は家康と今川下で一時戦ってはいますが、家康下に組み入ま
れられて行きます。足助氏の名跡を継いでいるということは、南朝方であ
りました。井伊谷三人衆のもう一人の菅沼氏も南朝方であります。
 ちなみに、この菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘であります。
 また、鈴木重勝の娘(重時の姉妹)は、松平親忠に嫁いでいるようです。

 本日は、午後から、鈴木重勝夫婦と重好夫婦の墓のある、新城市の満光
寺を訪ねてみたいと思います――


 

 

 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月25日 12時11分05秒 ) パスワード

三つ柏さん
箱柳さん


羽鳥神社というか服織神社の氏子代表の鈴木氏。

    そして近くに源長院があって蛭子森古墳があって天竜川があって。


鈴木家と服部家の関係は
恐らく初めは平家あたりで熊野神宮と関係し、後に、南北朝の戦いがあり、更に、対信長があったと思います。


今川〜家康〜江戸時代を経て服部家と鈴木家の関係がより強固になったのかも。



それにしても奥山さん。
子だくさんというのは「いいもの」ですね。
直政のお蔭で子孫繁栄ですね。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月25日 21時08分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 あを様のご推測、一つの可能性として信じます。というのは、本家(ほん
や)の当主(またいとこ)は、37代目と親から言われているそうです。
ということは、一世代25年として約900年前、つまり西暦1100年
代に始まったということになります。
 その頃は平家全盛の時代…1181年には、羽鳥庄は平清盛を通じて、
後白河上皇の新熊野(いまくまの)神社に寄進されました。つまり、その時、
出雲より勧請した服織神社も、熊野権現社の影響下で服織権現社となって
しまいました。この時に、信仰上の激変があったものと考えられます。
 ひょっとすると、その頃に我々の祖先は羽鳥庄の北端に移動したのかも
知れません。熊野からは、神職の鈴木氏が入って来た……。
 平家つながりがあったかも知れませんが、やがてお互い融合して行った
……。
 長田(永田・永井)氏も神道がらみかも知れません……。長上郡は長田郡
上半分ということで、もともと長田氏が住んでいた……。

 ま、推測はこの辺にしておきます――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月26日 04時48分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>新城市の満光寺

いkがでしたか?



http://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=170

本堂に十一面観世音菩薩が祀られている、奥三河七観音霊場の五番寺です。
元々は天台宗のお寺として建立されたものの、一度戦火に焼かれ、その後曹洞宗のお寺として再興したそうです。

このお寺には徳川家康にまつわる有名な逸話も残されています。
その昔徳川家康 が若かりし頃、武田軍に追われて逃走の途中ここに宿をとった時、鶏の声に命を助けられたと言われます。

家康はその恩に報いるため、寺領三石の黒印状を与えたそうです。


またこのお寺の庭園は素晴らしく、山門は新城市、庭園は愛知県の指定文化財にそれぞれ選ばれています。

背景にある山の地形を活かし、書院庭園(北庭)と庫裡庭園(東庭)の二庭から成り立っています。
庭園の文化財としての指定面積は指定面積1,143平方メートルに及びます。



                                      確かに古えの時代の庭のみごとさは想像ができます。
                                      予算が十分にあったら、と気の毒です。



http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/tera/mankoji/
満光寺・鈴木重勝の墓  新城市下吉田字田中140


曹洞宗の禅寺で山号は青龍山、本尊は十一面観世音菩薩、奥三河七観音霊場の五番寺。 山門は新城市の指定文化財 になっている。
徳川家康 が若かりし頃、武田軍に追われて逃走の途中ここに宿をとった時、鶏の声に命を助けられ、寺領三石の黒印状を与えたという話は有名。
戦国期に入った明応 9年(1500)の頃、戦乱により廃墟となっていた満光寺を、曹洞宗の禅寺として再興したのが 柿本城主の 鈴木長門守重勝 だという。 本堂裏手の山の斜面には鈴木重勝とその妻の墓碑が祀られている。 
また、満光寺庭園 は、愛知県の指定文化財 に選ばれており、春には水芭蕉、夏には睡蓮を、境内では秋の彼岸花、冬の蝋梅を楽しむことができる。



12等級 大室神社  新城市上吉田丙新多19
創建は大化4年(648年)10月16日という歴史ある神社。
大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭神とし、例祭日は4月5日。

                                         ただの大室神社?
                                         まさか!大室寅之助ゆかりの大室?明治天皇に入れ替わったという南朝方子孫の。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月26日 15時29分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 あを様、満光寺についての情報、載せていただきましてありがとうござ
います。
「灯台モト暗し」で、過去何十回も通り、その度に必ず寄っていた257
号線の「道の駅―鳳来三河三石」の裏山に、その満光寺はありました。井
伊谷から十キロ程北に行った所であります。

 また、満光寺からさらに山道を登った所に「柿本城址」がありました。
「かきのもと」という名前は、「柿本人麻呂」を思い浮かべさせ、何か
意味深な趣であります。

 まずは、「鈴木重勝・重時の墓」を探そうと、満光寺の左手奥の坂道を
少し登って行くと、墓群が見えてきました。頭部の丸いものでしたので、
歴代住職の墓群だなと判断、そしてその一段上に、宝篋印塔が見えました
ので、細い道をどんどん登って行きました。
 そこには小さな建物と左右にいくつかの墓がありました。建物の中を
格子の間から覗くと、そこには四基の宝篋印塔が並んでおり、下調べの通
りでしたので、これが「鈴木重勝・重時親子両ご夫妻」の墓であると確信
いたしました。
 そこで般若心経を、あを様、永田様の分と併せ、三巻唱え捧げさせて
いただきました。
 ここまで道に迷うこともなく、余りにもスムースに来ることができ、そ
して鈴木氏の墓に出会うことができましたので、とてもハッピーな気持ち
になりました。
 
 満光寺については、あを様の情報の通りですが、鶏小屋の中に「鶏」が
二羽飼われておりました。家康を早朝起した鶏とは、白い鶏ではなく、ま
だらしましま模様の羽毛の「小国(白藤)」という種類の鶏で、よく鳴くら
しいです。現に、私が近寄っただけで、クワーッ、クワーッと鳴き始めま
したので、すぐに遠ざかりました。

 小堀遠州流の庭と十一面観音像には未練がありましたが、今回はそれら
を見るのは止め、柿本城址の方に向かいました。
 坂道を登る――ちょうどこの二日位、花粉症で体調を崩し、ウォーキング
も止めていたので、ちょうどいい運動になるとズンズン登っていきました。
 やがて、山城の敷地跡が見えてまいりました。「女城主 井伊直虎」に
合わせ、森を整備したのでしょう。草が刈られ、木々も切られ、あるいは
間引きされ、丸太で柵と門が組まれておりました。曲輪・二の丸・三の丸・
本丸と、結構広い敷地でありました。
 本丸の中心に大きな石板の碑が建てられており、「鈴木長門守重勝之
城址」と刻まれておりました。ここで、また般若心経を三巻上げさせて
いただきました。
 
 ところで、満光寺の社紋は「丸に三つ柏」でありましたこと、報告させ
ていただきます。

 次回は、帰り道の不思議な寺のことを記します――
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月26日 23時00分43秒 ) パスワード

早く知りたい!
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月27日 22時46分38秒 ) パスワード

メールで頂きました:

以下コピペ


古来からの情報網に熊野修験道が大きく関わっていたのではと思うように成りました。




某村の熊野神社(上下那智の三社あり、本社です)の摂社祭礼を考察している時に
熊野修験道を認識しました。


古い古代からの伝承も巻き込んだものも存在して居るようです。

荒神信仰や御崎信仰・庚申信仰・かまど神・水神などにに成りすまして存在していました。
それは、荒ぶる神や祟り神と同化して居ます。


何故かと言うと、
「たたり」・「つきもの」の「つきもの落とし」や「霊鎮め」に携わった修験道の関わりが見えて来ました。



某地の熊野神社は天徳5年(961)勅名により紀州熊野三山をに分祀されたものです。
熊野の三社が鎮座して居ます。

http://www.jinja-net.jp/jinjacho-okayama2/jsearch3okayama.php?jinjya=29329

本権現社のお寺は円融天皇の勅願所と言われ円融寺と言います。



広範囲に存在する熊野修験道の痕跡は下記の修験道の影響の様でした。



備前の児島(宇喜多氏時代に陸地続きになる)にすごい熊野神社関連の修験者の本拠地がありました。

それも備前児島の修験道五流尊瀧院
http://kumano-jinjya.com/bird.html  
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%B5%81%E5%B0%8A%E7%80%A7%E9%99%A2

ここは役小角の弟子達5人が五流の寺院を建造し、中でも尊瀧院が中心寺院となって修験者が活動したようです。
通称は五流山の修験者・修験道で通っていました。


後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王の子孫が当院の歴代大僧正です。


もちろん熊野神社境内に存在ですね。
ここも熊野の三社が存在ですね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月27日 23時11分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前回の「女城主 直虎」には、松下常慶が山伏姿でチョットだけ出ました。
 今回は、鈴木重時がチョットだけ出ました。
 松下常慶と鈴木氏については、少し深く探ってみたいと思います。

 さらに、吉野十一党の中の、大橋氏、平野氏、鈴木氏、服部氏についても
掘り下げて行きたいと思っています。

 本日は集中力がありませんので、明朝に――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月28日 10時32分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


今回の「直虎」は鈴木重時が出てましたね。今川方で。
近藤氏も出てましたね。菅沼氏も目付で。


それにしても戦国時代に生まれてなくて良かったと思います。
ただ、ああいう苛酷な時代を経て今があるのですから感無量。


どういう経緯で「しの」さんが松下常慶と結婚したのか楽しみですね。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月28日 11時29分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下常慶については、かなり情報もありますので、次回以降記します。
 鈴木氏については、太い流れがないので、なかなかつかみづらいですが、
情報を集めようと思います。

 さて、ビックリしたお寺とは、満光寺から井伊谷へ向けて南に四キロ位
戻った所の257号線沿いにありました。小山の上に堂宇がのぞいており、
大きな看板で「へその緒観音」とシュールな名前が出ておりました。
 第2東名の近くで、工事に伴い建て直したようです。また、道も整備さ
れており、二車線位の舗装道路が、山の上まで続いておりました。
 寺は新しく、「臨済宗方広寺派 龍翔禅寺」と書かれておりました。

 へその緒観音を拝みにいきました。観音様は1メートル位の座像で、
その側に句碑があり、こう刻まれておりました――
 「とおとしや へその緒に泣く 親の恩」
 この句を読んだ時、まざまざと自分のへその緒を思い出し、母との血で
つながった絆を思い出し、観音様に般若心経を捧げました。

 ビックリしたのは、もう一つあります。墓地に行き、墓石群を見た時で
あります。「鈴木」の墓石が多いではありませんか――それも、「熊野
新宮鈴木家」と書かれたものがとても多かったのであります。
 ここは、愛知県との県境に近い静岡県側の引佐地区、何でこの地区に
ばかり、「熊野新宮 鈴木家」と堂々と謳っているのであろうか……?
 我々の地区にも鈴木家の墓はたくさんあるけれど、「熊野新宮」と謳っ
たものはあまり見たことがない……。
 つまりは、熊野の藤白鈴木家の流れを堂々と打ち出したかったのでは
ないだろうか。そういう意味では、鈴木家の純粋種であるかも知れないと
思いました――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月28日 14時06分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「熊野新宮鈴木家」

すごい!
本物の鈴木氏ですね。


>鈴木家の純粋種であるかも

ですね。


はぁ〜〜〜
溜息


鈴木って日本で1番多いような苗字ですが
我が家には父方にも母方にも、いないように思います。
これまた不思議です。


    ワタシはかつてニアミスは有りましたが辛くも避けられました。

    佐藤もいないのです。高橋もいないです。田中も山田も。

苗字と苗字で  結婚の傾向  ってあるのかもですね。
結婚が「家制度」に縛られていた時は。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月28日 22時22分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、『八名郡誌』を調べておりました。鈴木氏の系図なども記されて
いて、少し進展がありました。
 「熊野新宮鈴木」氏は、表の言い表し方で、裏の意味は「穂積姓の足助鈴木
で南朝の遺臣」ということを表明しているのではないでしょぅか?
 穂積氏の神代における始祖は、饒速日命であります。服部連ともほぼ同根と
いうことになります……。

 明日は東京、明後日は大腸カメラと、思考する余裕がありませんが、少しで
も何とか記すことができるよう努力いたします――
 
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