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 投稿番号:101585 投稿日:2017年02月27日 22時23分51秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について38

コメントの種類 :その他  パスワード

たけぽん様、皆様
新しいスレッドを立ち上げました。

ここ数年間の調査や親戚への聞き取りなどが
ようやく実を結び始めています。

おっちょこちょいの私ですが
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

こちらは 平川家について コメント71より続きます(^'^)

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101581_70.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月28日 07時20分47秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

昨日、椎葉のおじから聞いた「新情報」ですが
とても気になる事がありますので早速書かせて頂きます(..)

※椎葉のおじとおば(妻)の其々の従兄の妻は須恵の平川家から嫁いで来られている。
この話は以前から書いています。
この事で間接的ですが須恵の平川家と椎葉家(岡原平川家の長女が跡継ぎとして養女に入る)は縁戚関係になる訳です。

新情報とは
その椎葉のおじとおば(妻)の”もう一軒”の其々のいとこ家についてです。
いとこ関係と言うのは・・椎葉のおじの父と椎葉のおじの妻の父は兄弟(宮司家の尾方家)。
こちらの兄弟(宮司家の尾方家)には姉妹もいてその方々の嫁ぎ先の事です。
こちらの宮司家「尾方家」は熊本県神社誌 記載の
古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 にもその系が載る「家」です。
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、現在、15代目となります。

その椎葉のおじとおば(妻)の”もう一軒”の其々のいとこ家
もう一軒とは「片山家」です。
球磨にはそんなに沢山ある姓ではありません。
椎葉のおじが言うには別の場所から球磨に来られたそうです。

代々宮司家である「尾方家」が大正時代に縁戚関係をもった「家」と言う事で
調べてみました。
日本の苗字七千傑様のサイトで片山氏を検索すると・・。
複数の「片山氏」が登場したのですが、その中で非常に気になる「系」がありました。

【桓武平氏良文流】《河越氏/高山氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

※上記の他【宮村氏】【夜久氏】が河越重時の裔、【葛貫氏】が河越氏族、【片山氏】が高山重遠裔を称する。

こちらの画面に「清和源氏頼範流 中川氏へ」と・・・あります。

すなわち高山重遠裔を称する「片山氏」と「清和源氏頼範流 中川氏」は同族となる・・と言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の清和源氏頼範流 《中川氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01007.htm#001

いずれにしても
本姓 大神 氏 尾方 であり、代々宮司家を務め現在15代目となる親戚の尾方家と大正時代に縁戚関係を持った
椎葉家(岡原平川家の長女が跡継ぎとして養女に入る)・広○家・片山家
そして後年、この縁戚関係に嫁がれてきた方は須恵の平川家(中川家から婿養子の方が入られた)の方。
この繋がりは非常に気になる所です。

所で・・
椎葉のおじの椎葉家ですが・・
江戸末期〜明治初頭にかけてのいずれかの時期に旧久米郷奥野村(現多良木町)から旧宮原村に移って来られているのは解っています。
旧久米郷奥野村には白木神社(妙見神社)が鎮座であり、こちらの宮司家も「椎葉家」です。
熊本県神社誌 記載の
古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 には
白木神社 椎葉家(姓 大神 氏 椎葉)とあり
初代 大神惟当 という方から始まり、代々「惟」の通字であり、現在13代目となられる系です。
9代目の方の名が「椎葉帯刀」であり、この方から「椎葉」氏を名乗られているようです。

椎葉のおじの「椎葉家」には先程書いた「尾方家」から『養女に入った私の祖母の姉の婿養子』と『椎葉のおじの妻』が二代続けて嫁がれています。
本姓大神氏の尾方家と縁戚関係を二代に渡って結んでいる「椎葉家」ですから
先程書いた「旧奥野村鎮座の白木神社宮司家である本姓大神氏の椎葉家」との繋がりは濃厚かと推測するのですが・・
補足 たけぽん様 大神氏とは・・ご覧ください(..)
大神氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F

大神氏 (豊後国)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F_ (%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)


ただ、旧岡原村には大神氏ではなく別の系を称したとても気になる「椎葉家」もありました。

平成五年 岡原村教育委員会発行
岡原村誌 編纂者 高田素次氏
こちらの岡原村誌 第一巻 に『熊本県球磨郡真宗開教史』に記載された「専立寺」についての記事が記載されています。
旧宮原村住の「椎葉常吉」氏について書かれています。
明治十三年当村に椎葉常吉と云へる篤信者あり。法義弘通の為め自己の宅地に教場を設置して是を提供し、宮原別府説教場と称す・・以下省略。

さらに・・
明治四十四年四月に、山門脇に建てられた「椎葉常吉翁」の顕彰碑文について書かれています。
そこには
『岡原村川辺家出襲椎葉家』という言葉が記されています。

すなわち
「専立寺」の建立に貢献された旧宮原村(後の岡原村)の椎葉常吉。この方の「椎葉家」は「川辺氏を出襲」した椎葉家である・・と言う事です。

ここで「川辺氏」が登場しました。

椎葉のおじの「椎葉家」と上記の「椎葉家」との関係は今の所解りませんが、しかし・・
やはり・・鹿児島永吉他『鹿児島地方』に関係した方々と平河氏所領地である球磨の永吉庄柳瀬の関係は無視するわけにはいかない!とあらためて感じています。

次のコメントで必ず書きます!

今日の朝一は
椎葉のおじから聞いた新情報からの調査を書かせて頂きました。
では(..)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月01日 05時06分23秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

早速、鎌倉時代の「鹿児島」と球磨の永吉庄柳瀬に関連した調査を御紹介させて頂きます。
かなり長くなりますが御了承下さい(..)

山江村誌歴史編 66ページに
岩戸合戦とその恩賞 について書かれています。
一部転記します。

〉霜月騒動、岩戸合戦については、弘安九年(1286年)閏十二月二十八日の蒙古合戦并岩戸合戦恩賞拝領人交名注進写(『比志島文書』所収)がある。
この注進写には、勲功人、敗北者、勲功人の恩賞地が書かれている。
このうち、肥後国球磨郡と関係ある部分を引用してみる。
一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 

と・・記されています。
嶋津大隅大炊助長久法師 には肥後国相良領 少卿入道殿跡が恩賞地となり
川辺次郎 には肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡が恩賞地となった
と言う事が解ります。

さらに山江村誌歴史編では上記の方々について以下のように分析されています。
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。

「矢上孫三郎泰継跡」は平姓鹿児島郡司の一族であり、「肥後国簗瀬宮・」とは人吉庄内簗瀬(柳瀬)、十島天満宮宮司のことではないだろうか。

と書かれています。

上記の分析を参考にさせて頂くと(p_-)
一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)

現相良村内「柳瀬(簗瀬)」と「深水」は平河氏の所領地でありました。
1290年代後半〜1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」でありました。
この事から推測すると・・
平河氏の所領地内には当時「平姓鹿児島郡司の一族」の矢上氏、その後「川辺氏」が在していた事が解ります。
肥後国簗瀬宮・・・とは以前、こちらで何度もコメントした『十島天満宮宮司職』を指すのでは?と山江村誌の編纂者の方は推測されています。

上記の件とは別に、私は以前、こちらのスレッドで「谷上氏」と「相良氏」の関係をコメントしていました。
平川家について34 コメント9 です。
「人吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号」掲載
当時の人吉市教育委員会文化課主任であった鶴嶋俊彦氏著の論文「人吉庄の歴史的景観の復元」を読ませて頂いての事です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101538_33.html

上記で書かせて頂いた中で特に今回の調査で重要な部分を整理すると
”相良氏・平河氏・税所氏・永富氏系図相関(推定)図”より
光考天皇・・(数代略)・・家継「大隅国在国 藤原綾氏」・・略・・@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 ⇒ A師継「税所氏を名乗る」 ⇒ B圓昭(員昭)「球磨入部」・・・以下略します(..)

系図では・・
※@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」
※大隅国正八幡地頭「頼忠」(佐原頼忠)の妻は上記「税所氏系図」のB圓昭(員昭)の娘
※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)。
妻は・・紀氏 西山九郎道房(税所氏被官向笠氏?)女子。
ここで「紀氏」に繋がります。
上記の相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)から・・略・・相良又三郎「薩摩郡光富領主」に繋がります。

(p_-)
※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)
ここでも「谷上氏」と「佐原氏(相良氏)」との姻戚関係が見えてきます。
さらに「良峰氏」「税所氏」「紀氏」との姻戚関係も解ります(p_-)

実は・・私、最近でも「矢上氏」の名は全く別の画面で見ていました。
私の曾祖父の実家の久保田家墓所で見た「家紋」の話を書いた時です。
※大村氏と有馬氏の家紋と同じ家紋がお墓に施されていた・・の話ですが・・削除してしまっていました(@_@。 おっちょこちょいです(..)
私が見た「画面」とは日本の苗字七千傑様の【藤原氏長良流】《有馬氏/大村氏》姓氏類別大観 です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02013.htm#002

有馬氏と桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」は縁戚関係が見えます。

そして・・
先に書いた「川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡」の件が
鹿児島市史のPDFに記載されている事に気が付きました。
こちらにはナント!平安末期〜鎌倉初期の球磨郡久米郷の地頭「久米三郎」と薩摩平氏の方々との姻戚関係を暗示する記述もありました。
さらにもちろん「矢上氏」そして「秦氏」である「惟宗氏」についての記述も多数あります。

長くなりますので、続けてのコメントにて転記させて頂きます(..)
コメント2に続きます(..)
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月01日 05時11分26秒 ) パスワード

コメント3より続きます(..)

〉先に書いた「川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡」の件が
鹿児島市史のPDFに記載されている事に気が付きました。
こちらにはナント!平安末期〜鎌倉初期の球磨郡久米郷の地頭「久米三郎」と薩摩平氏の方々との姻戚関係を暗示する記述もありました。
さらにもちろん「矢上氏」そして「秦氏」である「惟宗氏」についての記述も多数あります。

全てを転記する事は出来ませんので、皆様、よろしければじっくりとお読みください(..)
PDF 鹿児島市史 第三編 中世編 第一章 鎌倉時代の鹿児島
http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/2012510154859.pdf

(p_-) 特に気になる記述を抜粋させて頂きます(..)
まずは・・当時の薩摩地方の郡司他の勢力が理解できる内容が続きます・・(..)
129ページより
建久図田帳建久八年(一一九七)六月注進の薩摩国図田帳によれば
「鹿児島郡三百二十二町内島津同御庄寄郡、寺領三十七町五段安楽寺下司僧安静、社領八十町 正八幡宮領、府領社七町五段下司前内舎人康友、公領百九十七町郡司前内舎人康友地頭右衛門兵衛尉 但し本宮(郡司平忠純)」
とある。この中、安楽寺領とあるのは具体的には薩摩国分寺領であり、正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
正八幡宮領は大隅国において一二七〇町余を数えたが、薩摩国においても荒田庄を含め二二五町余を数える。正八幡宮領には一円領と正税官物は国衙に弁済し、公事は正八幡宮に納入する応輸田すなわち半不輸領とがあるが、荒田庄は一円領で両者共正八幡宮の収納である。現在の荒田八幡社付近一帯がその庄域であったと推定される。
中原親能の有する荒田庄地頭職はその後正八幡宮寺の愁訴によって廃されたが、また山北六郎種頼が補任され、元久元年(一二〇四)に至ってさらに正八幡宮寺の訴えによって大隅国帖佐郷地頭肥後房良西、万得名地頭馬部入道浄賢ら共々その職を止められている。
以後鎌倉時代を通じて荒田庄には地頭はおかれなかったのであろう。府領社とは大宰府所管の神社で薩摩国内に中島宮、新田宮、開聞宮、伊佐知佐の四社とここ鹿児島郡郡本社で府領五社とよばれる。郡本社は現在の郡元一宮神社であろう。
七町五段の所領も恐らくその近傍に所在したのであろう。地頭は島津忠久、下司は惟宗康友とある。公領一九七町が島津庄寄郡である。
寄郡は一円領と異なり半不輸領で国衙と領家(荘園領主は近衛家)に両属し、年貢公事等も両者に分納する。
郡司は同じく惟宗康友であり、地頭もまた同じく島津忠久である。
ただ本宮(郡)司平忠純とあるのは何であろうか。本とは旧来とか本来とかいう意味で、ここではもとの郡司は平忠純であったということであろう。すなわちつい最近になって平姓郡司から惟宗姓郡司に代わったことを記しているわけである。

(p_-)ここで・・
※正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
中原親能が大隅正八幡宮領荒田庄の地頭であった事が解ります。
※山北六郎種頼 という方の名も見えます。

さらに転記します。(p_-)
郡司平姓鹿児島郡司の初見は祢寝文書建部清忠解状断簡に「彼の清房は平家の与力の人、鹿児島郡司有平と同意して宣旨御使時遠を散々と射動かした」
とある有平が最初である。
そしてこの有平は薩摩平氏系図に平次郎大夫良道の子、多祢平次有道、あるいは給黎兵衛尉有道とあるものの子としてみえる人と思われ、また建久八年一一九七( 六月注進の大隅国図田) 帳に中略・・
この有道・有平は薩摩・大隅両国に跨って島津庄数郡の郡司職を兼有した勢力者だったのであろう。そして大隅国島津庄の場合、建久八年(一一九七)現在、なお依然としてその子孫が知行をつづけている状況であるというから、同様の事情が薩摩国の場合にあったとしても不思議ではない。
すなわち有平の没後、その後と思われる平忠純の党が依然として在地にあって権力を有しており、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍してその功を認められ、平姓鹿児島郡司にかわって鹿児島郡々司職に任ぜられた藤内康友の支配力はなかなか浸透しにくかったと考えられる。
新任の郡司藤内康友は薩摩国一宮社新田八幡宮の執印であり、同時に牛屎院(現在の大口市)木崎名一五町の名主職をも有している。藤内康友は惟宗姓であり・・中略・・平家与力人であった前郡司平有平―忠純にかわって鹿児島郡司職を獲得することに成功したものであろう。
中略・・
阿多郡地頭鮫島家高行願が康友の子の友久の子師久(尚)と相論した際・・中略・・。康友は薩摩国守護島津氏と何らかの特殊関係にあったのではないかと思われる。

中略・・
(p_-)惟宗氏・・秦氏ですね。

(p_-)・・ここから久米次郎・久米三郎の名が登場します!

惟宗氏の郡司職支配は一時的、形式的なものにとまり、間もなく平姓鹿児島郡司が復職することになる。建久九年(一一九八)関東御教書案はその間の事情を物語る史料といえよう。やや難解ではあるがその大意を記そう。
これは頼朝の側近者の一人が頼朝の意向を島津忠久に伝える形式をとっている文書である。
「久米次郎家願が鬼界島に渡って死去した後は子息があれば当然相続すべきであるのだが、一人の子もないので舎弟忠重に相続させるべきである。・・中略」
大意は右の如くである。ここに薩摩平氏系図の記載によると、良道の子忠吉(良)について「鹿児島太郎」と号す、兄忠景の養子たるにより、太郎と号す、鹿児島郡を譲る」
とあり、その子に女子とあり、その下に
「貴賀島に渡り死去し了んぬ、久目次郎と号す、久米郡司妻」
とある。この久米郡司妻とあるのは女子の説明であり、久目次郎とはその所生の一子を示しているのであろう。久目次郎と並んで忠重の名がある。久目次郎は右文書にみえる久米次郎家願であり、家願が貴海島(硫黄島)に渡って死去した旨を記しているのであろう。
貴海島に渡るとは、吾妻鏡、文治四年(一一八八)五月十七日条に鎮西奉行人天野遠景等が貴海島(現在の川辺郡硫黄島)を平定するとあるのに該当し、恐らく貴海島にザン入した阿多平氏を討つため渡海した軍中に家願も加わり同地で死去したものであろう。
そして右様の事情から家願の後一旦康友の有に帰した鹿児島郡司職をその弟忠重に与えるというのであろう。前掲系図の久目次郎と並んでみえる忠重の条には
「久目三郎と号す、鹿児島主」とある。建久図田帳に本郡司平忠純とあるのは或はこの家願のことではなかろうか。
有平―忠吉―忠純(家願)−忠重と鹿児島郡司職は相伝されたのであろう。
中略・・

(p_-) まずは当時の鹿児島郡司職に関わる全体像を知る事が出来ました。
上記にあった「久米次郎」「久米三郎」という方の名。
私は建久年中の肥後国球磨郡図田帳にあった球磨久米郷の領主「久米三郎」が頭に浮かんだのですが・・
鹿児島市史 167ページには
※久米次郎家願の出自については明確にしえない。久米の地名は肥後球磨郡にあり、早く相良文書に久米氏が見えるが、その関係は未だ詳らかでない。
と記されています。
非常に興味があります(p_-)

鹿児島市史の記述は、さらに・・時代が進んで行きます。
特に、宮原の一族の先祖である橘公業は承久の乱(1221年)後は、長門守護・薩摩守・下野守等を歴任し、一族は「橘薩摩」と呼ばれるようになりますので、当時の薩摩地方とは全く無縁ではありません。
ここまでの整理として
※平姓鹿児島郡司・・有平―忠吉―忠純(家願)−忠重と鹿児島郡司職は相伝された

続けて『矢上氏』が登場します(p_-)
転記を続けます(p_-)
中略・・しかしいかに康友の側から非難されようと現実に郡司職をもっていたのは忠重であったらしい。それは左の承久乱後の嘉禄三年(一二二七)。十二月二十四日の関東御教書案からもうかがえる。中略・・
康弘は執印氏系図によると康友の孫である。康友の後、鹿児島郡々司職を相承すべき権利者として忠重を退けようと訴訟をおこしたのであろう。すなわち承久の乱で康友が関東方に属し、上京の途次伊予攻撃の軍に加わろうとしたが、早く河野氏が降伏したので急いで上京し、北条泰時の見参に入ったのに比し忠重は京方に加担したらしい。この訴論の結果については明らかではないが、恐らくその責を問われ、忠重は所職を失うに至ったのではあるまいか。
しかしこの後、新たに鹿児島郡司として登場したのは惟宗氏ではなく、矢上氏である。
そしてその後惟宗氏はこの矢上氏を相手に郡司職について争を繰り返すことになるのである。
貞永元年(一二三二)閏九月八日の訴状により郡司職の事について対決のために矢上三郎盛澄を召し進むべきことを守護島津忠義に命じている。
中略・・
それならこの矢上氏とは一体どのような系譜の豪族であったろうか。それは実は明らかでないのである。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』は二説をあげ、一を先の平姓鹿児島郡司と同じ薩摩平氏の一流とし、一を肥前有馬氏の族矢上氏とし、その氏名は肥前矢上の地名を負った如くにしるしている。
一体薩摩平氏の系譜はいずれも肥前伊佐平氏との関係に縁故をもとめており、これは薩摩地方一帯に繁衍した在地の豪族が伊佐氏の勢威を慕い、或は何らかの縁戚関係により平氏同族を称したのであろうが矢上氏の場合もその例にて郡司職を襲ったものと考えられる。
そして矢上の氏名は同族長谷場の氏名が現在鹿児島市内に字地として残っているように、矢上の字名も残っており、やはり鹿児島郡内の地名を負ったものと考えられる。
長谷場は福昌寺墓地付近、矢上は西境を伊敷と接する(催馬楽)城付近である。矢上氏が他より移り来たったという伝承は薄く、むしろ古来鹿児島郡司の末とする伝承の強いことや、その後の矢上氏の在地性の強さなどからみて、たとえ縁族としてのつながりはあるにしても、同氏が全くの後来の豪族ではなく在地豪族平姓 鹿児島郡司の一流と見た方が妥当するように思われる。
矢上氏に関する系譜としては同族長谷場氏系図が伝えられているが、これはその最初の部分(十四代まで)は全く肥前有馬氏の系図と同じである。次に掲げる二系図を比較してみれば明らかであろう。

(p_-)・・ここで、矢上氏と同族の「長谷場氏」系図と「有馬氏系図」が記されています。
中略・・
このうち、矢上五郎時純については谷山氏系図に、河辺通綱の子久通、久通の子信通、その女子が鹿児島。五郎時純妻とあることにより、河辺氏と縁戚関係にあることをしる。
中略・・
矢上氏についてはその後、比志島文書所収、弘安九年(一二八六)閏十二月二十八日の関東式目案に付属した勲功賞受領者交名并所領注文に鹿児島郡司職矢上孫三郎泰継の名がみえる。すなわち河辺次郎には肥後国簗瀬宮・矢上孫三郎泰継跡が与えられ、次に同勲功賞として臼木七郎兵衛尉氏家子息をはじめ、米生又三郎種盛子息、田尻次郎種宗子息、同三郎子息、同四郎種継跡、米生九郎種有子息、矢俣兵衛尉跡信成子息野中左衛門三郎宗通法師、香西又太郎定慶跡等計九名にそれぞれ「薩摩国鹿児島郡司職内十分一矢上孫三郎跡」を分与しているのである。簗瀬宮・職については明らかでないが、鹿児島郡司職については九名に十分一あての配分となっている。

\(◎o◎)/!ここに!記されている「簗瀬宮・職については明らかでないが」!
これが! 今回のコメントで最初に書いた
一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 
でございます!!

中略・・
この史料によると矢上孫三郎泰継は何らかの原因によって、(或は前年の弘安霜月騒動と関係があるのかもしれないが明らかでない)郡司職を失い、その所職は蒙古合戦の恩賞として筑後、肥前等の北九州の御家人たちに分与されている。しかし彼らのえた郡司職とは恐らく郡司得分米等の得分権のみで、在地の支配権は依然矢上氏の手中に残されていたのであろう。
中略・・
矢上泰継については明らかにしがたいが、恐らくその後と思われる矢上弥五郎はそれから二年後・・・以下略

(p_-)以下略・・としましたが、ここから後、「鹿児島郡地頭職 同永吉」と言った鹿児島の「永吉」に関する記述へと繋がっていきます・・

今回、私自身がしっかりと全体を理解する為に、必要な部分のみを転記させて頂きましたが・・
まず・・単純に考えても・・「地名」が・・
球磨郡の平河氏所領地と一致し過ぎている・・
平河氏所領地の一つ・・球磨郡永吉庄「荒田」
鹿児島・・荒田庄。そして「永吉(永吉村)」
さらに・・矢上氏。有馬氏との縁戚関係はもちろんなのですが・・妙な感なのですが
私は・・肥前を中心に、九州一円と所領地を持っていた「橘薩摩一族」の影を感じてしまうのは何故なのだろう・・妙な感がビンビン働いています・・

さらに・・
鹿児島薩摩地方と肥後球磨地方とは、想像以上に「平安中期〜鎌倉時代」にかけて強く繋がっていたのではないか・・?
と考えます。

一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 

※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)

※貴賀島に渡り死去し了んぬ、久目次郎と号す、久米郡司妻
※「久目三郎と号す、鹿児島主」

他にも、平河氏・相良氏と姻戚関係であった税所氏に関連する鹿児島史誌を見つけているのですが・・
まずは、転記させて頂いた事を基に、「系」の確認等、「勉強」を致します(..)

大変、長くなりました。
(..)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月02日 10時53分23秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

コメント3では「矢上氏」を「谷上氏」と書いている個所が数か所(..)
お恥ずかしいです(..)
谷上氏 ⇒ 矢上氏 です。お詫びして訂正致します。(@_@。

所で・・
コメント3で
貴海島(現在の川辺郡硫黄島)の話が出ていましたが、私、昨年の夏、鹿児島の長崎鼻に行って「川辺郡硫黄島」を遠くに眺めて「心の海」だってコメントを書いた事を思い出しました(^'^)
ブログにも写真を載せていました・・
この時「何故?鹿児島なのに長崎鼻?」とはちょこっと不思議に感じたのですが・・

(p_-) マタマタ発見してしまいました!
書きます(..)

コメント3で
〉さらに・・矢上氏。有馬氏との縁戚関係はもちろんなのですが・・妙な感なのですが
私は・・肥前を中心に、九州一円と所領地を持っていた「橘薩摩一族」の影を感じてしまうのは何故なのだろう・・妙な感がビンビン働いています・・

と私は書いたのですが・・(p_-)
※宮原の一族の先祖である橘公業は承久の乱(1221年)後、長門守護・薩摩守・下野守等を歴任し、一族は「橘薩摩」と呼ばれるようになる。
※承久の乱後・・新たに鹿児島郡司として登場したのは惟宗氏ではなく、矢上氏である。
ここが妙に気になったのです。
タイミングが何だか一致しているような気が・・・???

さらに・・
※有馬氏と桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」は縁戚関係にある。
※橘の一族の「支配下」にあったと文献等に記されている、私の住む「旧宮原村」
私の家の近く、集落内の1655年に建立の庚申塔には「宮原姓」以外にも沢山の方々の名が残されていて、その中に3人の「有馬氏」の名があった・・
※曾祖父の実家「久保田一族」のお墓にあった「家紋」・・

何だか・・全て繋がっているような気がして・・??

しかし(p_-)よ〜く考えてみると
〉桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」
を私はまだ・・調べていませんでした(ー_ー)!!・・あっ!(..)

すぐに・・
日本の苗字七千傑様のサイトで『桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」』を検索したのですが・・
ビックリしました\(◎o◎)/!
『桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」』とは・・長崎氏の一族でした!!
ぎゃ〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

日本の苗字七千傑様の《長崎氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01108.htm#001

わあああああ!!どうしよう!!妙〜な感が当たっていた〜(@_@;)
長崎頼綱(平頼綱)と宮原の一族の先祖「橘公綱」は父は違えど・・「同母兄弟」です!!!
橘公業の子「橘公員」の妻が実は「平頼綱」を産んだ女性であり・・その後「橘公員」との間に「橘公綱」を産む・・

うむむっ(p_-)
矢上氏の祖となる「長崎重綱」という方の母はどなたなのかな・・???(?_?)
もしや!!(p_-)

と言う事で・・
矢上氏とは・・宮原の一族の先祖『「橘薩摩 公員」さらに「橘薩摩 公綱」』とは縁戚関係にある一族の方々である!
と言う事が解りました。

所で・・相良長頼の子「佐原頼忠」
大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)

あああ〜ん???(p_-) な〜るほど(p_-)
そう言う事か・・!
この縁戚関係の影にも実は「橘薩摩」の影がう〜っすら見えているようです。 むむっ!!

薩摩の平氏の方々 まだまだ・・調査を進めます
(^O^)/

では(..)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月03日 08時48分14秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

コメント3で御紹介した鹿児島市史の内容の一部が解りやすい「系図」として
ウィキに載っていました。

薩摩平氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B9%B3%E6%B0%8F

薩摩平氏(さつまへいし)は、中世前期まで主に薩摩半島を支配した桓武平氏の一族。平貞時を祖とする。

概要[編集]
島津荘を開墾した平季基も同族であり、伊作良道の子らは川辺一族と言われ(良道の長男が川辺氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。
源為朝が阿多忠景の乱を起こした阿多忠景(もしくは忠景の子・忠国)の女婿だったとする説がある。

※源為朝が阿多忠景の乱を起こした阿多忠景(もしくは忠景の子・忠国)の女婿だったとする説がある。
スレッド『松葉宗益 後裔 平賀氏』で『六殿宮祭主家「平江家」』について勉強させて頂いた時に・・
松葉宗益 後裔 平賀氏について2
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101548_75.html
松葉宗益 後裔 平賀氏について3
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_11.html

上記の源為朝・阿多忠景(平忠景)と『六殿宮』との関係は????
と言う内容を書かせて頂いていました。
ころも様 こちらのスレッドご覧になっていらっしゃるかな?
何だか・・・(p_-) いつもの妙な感が動き始めています・・

ウィキの関係図
平貞時………………伊作良道┳川辺道房━川辺道綱
             ┣多禰有道━道高━給黎安道
             ┣頴娃忠永┳忠方━━┳福本忠保
             ┃    ┣指宿忠光┗奥忠房
             ┃    ┣知覧忠信
             ┃    ┗薩摩忠直┳忠友━是枝忠秀
             ┃         ┣山口忠宗
             ┃         ┗串木野忠道
             ┣阿多忠景┳阿多宣澄妻(宗阿弥陀仏)
             ┃    ┣伊作重澄妻
    ┃    ┗源為朝妻
             ┣別府忠明━┳加世田忠真━大浦忠光━坂本忠奥
             ┃     ┣谷山忠綱
             ┃     ┗谷山信忠(宣澄妻の養子)
             ┣鹿児島忠吉(忠景養子)┳久米郡司妻┳忠澄(久米次郎・家願)
             ┃          ┃     ┗忠重(久米三郎)
             ┃          ┗鮫島宗家妻━鮫島家高
             ┗彼杵三郎久澄妻┳和田八郎親澄(伊作氏の養子)━則澄━実澄━有澄
                     ┣重澄(忠景の婿養子)
                     ┗塩田三郎秋澄━塩田太郎光澄━益山太郎兼澄

うまく張り付くかな???

球磨郡久米郷の久米三郎について3年程前に色々調べていた事を読み返していたのですが
色々気が付きました\(◎o◎)/!
「藤原義孝の長男、行成を祖とする 世尊寺家」の藤原伊行 に繋がる調査です。

ただ・・
本日・明日と外出致しますので(..)
コメントは後日<m(__)m>

では(^'^)
[6]たけぽんさんからのコメント(2017年03月05日 22時25分26秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

花粉・・・
恐るべし( ノД`)(泣)

それより

ミヤハラ様

色々調べ物が進展している
ようですね(^-^)

うちは、林○と三○の
系図を調べてるのですが
思うように進まず( ノД`)

ですが、諦めずに
頑張りますo(`^´*)♪

[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月06日 12時05分29秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
家の親戚は(こう言う書き方なら問題ないかな(p_-))
曾祖父の実家の久保田家から林田家に婿養子もしくは嫁いでいて、その林田家から
祖母の実家の平川家に嫁いでいる方がいます。(明治時代?)

相良藩士の「林田氏」について人吉市史に書かれていた事が(p_-)
藩士諸家系図の最後に
『以上の他、本地方の諸家には相良氏出の豊永、稲冨、犬童、西、黒肥地、乙益、蓑毛、桑原、樅木、内田、久保田その他の支流最も多く、
又北家藤原氏の菊池、米良、岡本の諸氏、懐良親王隋従の新宮、大蔵姓高橋、薩州より来住の別府
高千穂明神系の神瀬、遠州隋従の西浦深水、井福、芦北の深水、椎葉地頭の林田、五木地頭の土肥
その他系図や由緒を伝える家筋は未群の諸家も多い事を記して後考に備えたいとおもう。』
とあります。

※椎葉地頭の林田
上記を裏付ける内容が記されていました。
林田盛衛 中略・・那須ト改姓

現在、球磨には多数の林田姓がありますが、少なくとも一系の「林田氏」は
椎葉地頭の「那須」氏の流れを組む「林田氏」であった事は間違いないようです。

先に書いた中に
※薩州より来住の別府 とあります(p_-)
なるほど・・別府氏は薩摩から来られた事がこれで判明しました(p_-)

所で・・
たけぽん様、皆様
実は、私、薩摩半島〜野間岬〜阿多の笠沙〜鹿児島〜垂水〜霧島
とめぐる旅をしてきました(^'^)

突然、主人が父に
「結婚記念日に鹿児島の野間岬・笠沙に○○さん(私)を連れて行きます(^'^)」と・・
何も聞いていなかった私はビックリ!!
主人は「ずっと、野間岬・笠沙に行きたい!って言っていたでしょ(^'^)」と。
父は「古代しか興味が無い」?人なので
「わあ〜良かったな〜行ってきなさい!!(^'^)」と。

車での旅でしたが・・
人吉から「伊佐(大口)」までは、トンネルが通ったのでわずか30分。
そこから、東郷経由でまっすぐ薩摩川内市。
薩摩川内市から吹上浜へ。(ここまで・・家から2時間かかっていません。近くてビックリでした)
この道なりですでに私は大興奮!
だって、今、調べている「薩摩平氏」「阿多平氏」の本拠地を通っている訳ですから・・
というか・・
私、主人には自分が何を調べているのかなど・・本当に一言ひとっこと!も喋っていないのですよ\(゜ロ\)(/ロ゜)/
こう言う所が主人の本当に不思議な所です・・
今までにも何度もありましたが・・

そしてニニギノミコト所縁の御地、阿多の笠沙『黒瀬』に。(^'^)

海を眺めていたら笠沙の地元の方が話しかけて来られました。
何処から来られたのか?と聞かれたので
「熊本の球磨郡です(^'^)」と答えると・・
「ありゃ!!おたくらは”球磨人(くまじん)”ねぇ!!(^'^)」と。
笠沙の人は球磨郡の人を”球磨人(くまじん)”と呼んでいる事を初めてしりました(p_-)・・(゜-゜)
主人は小倉生まれの小倉育ちと話すと・・
「ありゃ!球磨人(くまじん)に引きこまれたとやな!!(^'^)」と。
さらに・・その方から
「球磨郡にはねむか〜しからこの辺りの人達は縁があるとよ!今でも親戚がある人はいっぱいおるよ!」と。
その方も球磨郡水上村には縁戚がいらっしゃるそうで・・従弟は大口(伊佐)に住んでいらっしゃると言われていました。

というか・・・本当にビックリしました。
球磨郡に住んでいると解らない・・外部からのお話。
さらに・・ここは古代の「阿多」の地域です。

そのおじさんは「球磨郡は近い近い(^'^)」と笑っていらっしゃいました。
というか・・・私も来て見て「何だか思っていたより全然近い!」とは感じました。

しかし・・この車での旅・・
「地名」が今、調べている所がドンドン登場して本当に勉強になりました(^'^)
もちろん・・車中ではそのような話しはしていません(ー_ー)!!

笠沙の海岸線を走りながら車中で聞く「ONE OK ROCK(ワンオクロック)」の『We are』は最高でした!

しかし・・よ〜く考えると・・
阿多平氏の方々も薩摩平氏の方々も平安時代に治めていた場所は「天孫ゆかり」の御地だったのだな〜と言う事が解りました。

翌日は鹿児島からフェリーに乗り桜島へ。
『黒神』地区を目指して進んでいると、海を隔てて、向かいには霧島連山高千穂峰と韓国岳がそびえていました。
『黒神』地区から眺める桜島は迫力がありました。

帰りは、垂水から霧島神宮に向かって山を走り、霧島連山のすそ野を抜けて湧水〜えびの経由で帰ってのですが・・
垂水から人吉までこれまた2時間はかからなくて・・
やはり近かったです(p_-)・・(^'^)
旅の最後に主人がポソッと
「ねぇ?今回の旅”黒瀬””黒神”とか他にも”黒”の字が付く場所が多かったね・・?」と。
私も実はその事に気が付いていたのですが・・主人が言うので驚きました。

今回
沢山のパワーを頂いたので、これからの調査も精力的に進めます(^O^)/
ブログに美しい海の写真をアップ致しましたのでよろしければ皆様ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12253800270.html

では(^'^)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月06日 15時54分46秒 ) パスワード

追記です(..)

コメント7で人吉市史記載の明治以降に改姓された「林田氏」について書きましたが・・
ちょっと気になる改姓をされている方がいらしゃいまして・・
書きます(..)

内田輪助 久世ト改名ス 子榮ト稱ス浪床二移リ後西村湯前ニ住ス

(p_-)内田輪助という方は「内田」から「久世」に改名されています。
子供さんは湯前に住していたと言う事ですね・・

「久世」氏???
内田輪助氏の『内田氏』は・・元は「久世氏」だったのかな????
今現在、球磨郡に「久世」と言う姓はあったかな・・(?_?)

それと・・
私の曾祖父繋がりの親戚は何故か「畠山」「千葉」「片岡」「久我」と
やはり人吉・球磨郡にはとても少ない姓が多いのは何故だろう????(?_?)

追記でした(?_?)・・・(..)
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月07日 11時50分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

実は・・・
昨日書いたコメントが妙に頭から離れなくなって・・
意識が薩摩に行ったり遠江国(井福氏?)に行ったり、あと・・すごく内田氏と久世氏の関係が
気になったり・・・
おそらく(p_-)
昨晩はコンパスで書いたような丸い顔のように見える”物体”?が全国を飛び回っていたのではないでしょうか(p_-)
目撃情報があったりして・・(;一_一)・・(ー_ー)!!
いつもの妙な感が働き過ぎています((+_+))

所で・・昨日の追記ですが
〉私の曾祖父繋がりの親戚は何故か「畠山」「千葉」「片岡」「久我」と
やはり人吉・球磨郡にはとても少ない姓が多いのは何故だろう????(?_?)

久我家、曾祖父繋がりだけではなく(ー_ー)!!
実は、親戚の多良木の平川家から、久我家に一人嫁いでいます。

うん(?_?)・・しかし・・よ〜く考えると・・多良木の平川家は私の曾祖父の実家の久保田家から養子が入り継いでいた・・?
と言う事はやはり久保田家と久我家の関係が強い!と推測出来るのでした・・

でも・・何故?久我氏は上球磨に来られたのかな・・?
椎葉のおじの話では、久我家は球磨に来られた最初は黒肥地に住されて、その後、久米(奥野)村に来られて・・それから多良木と岡原に分かれた・・と言っていました。
(時代はいつの話かは解らん(ー_ー)!!と言っています)
しかし・・詳しい(p_-) 母(私の祖母の姉)から聞いたそうです。

あああ〜ん((+_+))・・「薩摩関係」の事を進めたいのに頭(意識?)が・・どうしても・・(@_@。

内田氏と久世氏の関係も気になる・・((+_+))
日本の苗字七千傑様のサイトで久世氏を検索すると・・。
と〜っても気になる系の方々が登場しました。

《勝間田氏/内田氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022d4.htm

きっと!うん?おそらく? ここではないのかな・・むむむっ(p_-)
内田氏と久世氏・・並んで表示されています。

横地氏 ⇒ 勝間田氏/内田 同族!
と言う事は!!相良氏と同族!

なるほど〜そういう事なのか・・
内田正衆と言う方の子となる「正広」と言う方から「久世」を名乗っていらっしゃるのですね・・

球磨の内田氏・・鎌倉初期からの相良氏族なのですが・・
そう言えば・・江戸時代?だったか「内田氏」が何処から来られたと人吉藩の史誌で読んだ記憶が・・鎌倉時代からの相良氏族「内田氏」とは別の「内田氏」であった可能性もあり・・
もう一度、確かめてみます・・

あっ!今気が付いたのですが・・私の曾祖母の実家「新堀氏」。
こちらの「新堀姓」の発祥は確か「勝田」(勝間田)だったような・・
(?_?) グルリンぐるりん 繋がりはじめました・・

気にはなりますが・・
まずは、一つ一つ整理して(..)
平安時代〜鎌倉時代にかけての球磨と薩摩・大隅の関係をまとめなきゃ!

とりとめのないコメントですみませんでした(..)

では(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月09日 09時32分31秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

〉まずは、一つ一つ整理して(..)
平安時代〜鎌倉時代にかけての球磨と薩摩・大隅の関係をまとめなきゃ!

と言う事で(p_-)
今日は、球磨・薩摩・大隅 に残る「紀平」・「紀平次」・「紀平二」に関して御紹介致します。

まずは建久八年(1197年)肥後国球磨郡図田帳(相良家文書)に残る各氏をご覧ください(..)
山江村誌 歴史編より引用

※蓮華王院人吉庄
領家 八条院
預所 対馬前司 清業 (中原清業)
下司 藤原友永 字人吉次良(人吉次郎)
政所 藤原高家 字須恵小太良(須恵小太郎)
地頭 藤原季高 字合志九良(合志九郎)
同  藤原茂綱
同  藤原真宗 久米三良(久米三郎)
同  尼西妙

※鎌倉殿御領 五百丁
預所 因幡大夫判官 (大江広元)
内永吉庄三百丁 地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名
須恵小太良(郎)家基領 百五十丁

※公田 (旧久米郷)
豊富 地頭 藤原真家 字久米三良(久米三郎)
豊永 地頭 藤原家基 字須恵小太良(須恵小太郎)
多良木村没官領 伊勢弥二良 不知実名(伊勢弥二郎 不知実名)
※その後久米氏は寛元二年(1244年)五月十五日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書)の署判に
「惣公文藤原真憲」として見える。と山江村誌には記されています。

平河氏に関係する「名」として
※永吉庄三百丁 地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名
が見えます。
『良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名』
先入観抜きで読むと 良峯師高子息は字平で紀平次 「不知実名」とは実名は解らない?(もしくは、今は理由があって書けません・・?)となるのかな???
様々な文献ではこの人物を良峯(平河)「師貞」であろう・・と書かれています。

私はこの「紀平次」そして「字平」ここがどうしても気になっていたのです・・(..)
そこで、当時、「紀平」及び「紀平次」を称した「字平」の方々が何処かにいらしたのではないのか?と推測して調べてみました。
そこで解った事を書かせて頂きます(..)

@「紀平」に繋がる「渋谷氏」について
相良藩の重臣として代々名が残る「渋谷氏」ですが、球磨ではなく薩摩の渋谷氏の記述にとても気になる内容を見つけました。
サイト【渋谷・東郷_系図上人物一覧】
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/11503834.html
・初代・実重〜渋谷光重の次男(婿養子。妻が光重の娘。)。実は紀平三武者実直の子。母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴。

・2代・忠重〜実重の嫡男。承久の乱で戦功。

・3代・重高〜忠重の嫡男。弘安の役で戦功。

・4代・頼重〜重高の嫡男。妻は寺尾重道の娘・竹鶴。

・5代・重親〜頼重の嫡男。弘安9年生まれ。別名:忠重。徳治3年9月23日、淵脇山の土穴に入り憤死。

・6代・氏親〜頼重の次男。別名:重清・重幸・氏重・氏清・武重・重年。妻は島津忠宗の娘・経阿

以下略・・

(p_-)・・・
※初代・実重〜渋谷光重の次男(婿養子。妻が光重の娘。)。実は紀平三武者実直の子。母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴。
★実は紀平三武者実直の子 母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴
紀平三武者実直とはどなただろう?と調べたのですが・・
上記の「渋谷実重」と兄弟の方が解りました!!

サイト 紀氏のルーツ より
http://zan35441.on.coocan.jp/sub19.html
1184 紀実春 平安時の武士、大井兵衛(兵三)次郎と称する。
    ・源頼朝に仕え、平家家人を追討するため伊勢国に下向 
    ・1185-1 因幡目代で源義経の邸に見参した。
        ・看督長たちへ実春が勤仕した
    ・1185-11 伊勢国香取五ケ郷を拝領    
    ・1190-11 頼朝の入洛の際、後陣一番の隋兵を努めた。

     兵三武者実直
       ‖―――紀実春
     渋谷重国の娘

うまく張り付くかな(..)・・

(p_-) ここで解ったのは!!
「渋谷実重」の兄弟とは「紀実春」大井兵衛(兵三)次郎 大井実春!!この方だったのです!!
かなり、以前、平河家文書にある「実春」(近衛中将実春)を調べた時に「大井実春」という方の名は見たのですが・・・
「近衛中将」からして「徳大寺実春」だと私は推測したのですが・・・
※藤原公国(徳大寺公国)の子が近衛中将実春朝臣こと「徳大寺実春」と兄「徳大寺実重(妻:平光盛娘)(二人の母は大江広元の娘)

しかし!!妙な事に気が付きました!!
良いですか!!皆様!
「紀実春(大井実春)」の兄弟は「渋谷実重」
そして・・
「徳大寺実春」の兄弟は「徳大寺実重」
偶然にしては・・・何だか変だ『一致』し過ぎる!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
なんだ!!??このモヤモヤ感は・・・
モヤモヤモヤモヤ〜〜〜((+_+))

モヤモヤしながら、次のコメントでは同じく薩摩の「紀平二」を名乗った別の方について書かせて頂きます(..)

ここで、別件ですが 一つ!
コメント7で、相良藩士 別府氏について
〉薩州より来住の別府
と人吉市史に書かれていた事をコメントしましたが・・
コメント5で書いたように
平貞時⇒・・・別府忠明(別府氏)
日本の苗字七千傑様の《伊作氏/英禰氏》姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm#007
伊作氏・河辺氏(川辺氏)・伊佐氏・別府氏・・
同族である事が解ります。
【桓武平氏良文流】・・・??あっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私はやはり・・おっちょこちょいでおバカです(@_@。
ここで気が付きました(@_@。(えっ??マジか!!今頃!!?との声が・・(..))

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観 を拝見すると一目了然(..)・・(@_@。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

別府氏だけではなく・・人吉市史より
〉五木地頭の土肥

土肥氏もそうでした。以前からコメントしているように相良藩には土屋氏も・・
私の住む集落にも遠縁となる「土屋家」があり、こちらには「土肥家」から跡を継ぐ為に明治時代に養女の方が入っていらっしゃいます。

さらに・・
日本の苗字七千傑様の《良文流分流略系》を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm#001

自分が今までの(数年の)調査の中で『何を調べてきたのか!』が一目了然となってきました。

※椎葉家の和鏡・・三つ引き両紋・・三浦氏(佐原氏)
※家の方の「宮原・平川」の共通の親戚(私の曾祖父の系を介する)・・千葉氏・畠山氏
※家の宮原家の親戚・・川辺氏
※祖母(平川家の娘)の従弟の養子先・・金子氏
※遠縁・・土屋氏
※旧宮原村に建立の庚申塔(別府地区)土肥氏の名が残る
※家の方の「宮原・平川」の共通の親戚・・中村氏
※祖母の実家の平川家の遠縁・・杉本氏・和田氏 (深水家と共通の親戚)
他にも多数の事が・・

さらに・・
本日コメントした・・渋谷氏

さらに・・
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観と良茂流鎌倉氏とは繋がっていて・・
【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm
本当に一目瞭然だと・・あらためて痛感します。
長田氏と繋がっている・・・
さらに・・梶原氏・長尾氏・・・
※梶原氏・・宮原の一族の先祖「橘公業」の妻は「梶原景高」の娘であり「橘公員」の母である・・
※橘公員の子「橘公綱」の母であり、「平頼綱」の母でもある女性は「豊田五郎景基の娘」
もしかしたら・・長尾氏かな・・?
《長尾氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117a.htm

ここ数年来の調査で頻繁に書いていた言葉は
「平河氏を調べているのにどうしてか?宮原氏(橘氏)に繋がってしまう・・?」

きっと・・”遅くとも”「鎌倉時代」初頭には「絡まって」いるような気がします。
あくまでも・・”遅くとも”です(p_-)

そして・・きっと私を含め、「平河氏」を研究されて来られた方々もかな?見落としている「名」があったのだと思いはじめました・・

平河氏の系は、系図・南藤蔓綿録・求麻外史・肥後国誌等
其々の内容が異なり過ぎると、研究者の方々は様々な文献に書かれていらっしゃいます。
しかし・・「内容が異なり過ぎる」平河氏の系の説明に必ず記されている
平河義高(義考)以外にもう一人の方の名があったのです。そう・・必ずです・・
ブログにアップしている平河氏系図にも記されています。
画像@を右方向から読み進めると「必ず記されている名」の方があります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

良峯三郎 貞時

「貞時」 この方の名は様々な文献等に記載されている平河氏の系に必ず書かれているのに・・
私も、完全に・・スルーしてしまっていました・・・

どちらの「貞時」という方なのだろう・・・?
最近の調査でよく拝見する方のお名前も「貞時」だな〜?とは気づいてはいるのですが・・

きっと・・残されている数少ない二つの”真実の情報”
※一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)
※地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名

武藤氏と平姓鹿児島郡司の一族と【桓武平氏良文流】と「紀平」氏・・が
関係している事は間違いないのかな・・と私は推測しています(..)

次回は

”薩摩の「紀平二」を名乗った方”について書かせて頂きます(..)

では(..)
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月09日 10時42分47秒 ) パスワード

追記です(..)

コメント10で長々と書いたのにめちゃくちゃ重要な事を書いていませんでした(@_@。

【桓武平氏良文流】
コメント1で書いた「片山氏」について
【桓武平氏良文流】《河越氏/高山氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

※上記の他【宮村氏】【夜久氏】が河越重時の裔、【葛貫氏】が河越氏族、【片山氏】が高山重遠裔を称する。

こちらの画面に「清和源氏頼範流 中川氏へ」と・・・あります。

すなわち高山重遠裔を称する「片山氏」と「清和源氏頼範流 中川氏」は同族となる・・と言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の清和源氏頼範流 《中川氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01007.htm#001

===============================================

そうです(p_-)
中川氏も【桓武平氏良文流】に繋がっているのでした(p_-)

では(..)
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月11日 12時21分46秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

”薩摩の「紀平二」を名乗った方”について書かせて頂くつもりなのですが・・
昨日も様々な文献を読んで、さらに驚愕の事実を知る事が出来ました。
『その件』を調べる為に私が所有する
元禄十二年(1699年)青井阿蘇神社第五十一代大宮司「大神惟董」編纂の『麻郡神社私考』を今朝、あらためて読んでいたのです。
残念ながら「簗瀬領 十嶋天満天神」については別當 蓮華院 とあり、宮司の名が記されていなかったのですが・・
その際に、他の神社の記述をパラパラと見ていて・・とても驚くべき事実に気が付きました!

鹿児島関係の発見については、次のコメントで書かせて頂く事にして
今回は、今朝気が付いた驚くべき事実を書かせて頂きます。

平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて平河氏が所領していた「永吉庄」内の木上領。
平河氏の跡を継いだのは「窪田(久保田)氏」

この木上領内に鎮座の神社の当時「元禄十二年(1699年)」の宮司家についてです。

@木上領岩城鎮座の 木本権現 (岩城 頂上に鎮座)
岩城は平河義高築城の城と言われ、『平河氏』の後は、窪田(久保田)氏が居城。
窪田(久保田)氏の後は『犬童氏』が城代となります。
南北朝の乱後、懐良親王隋従の新宮氏は窪田(久保田)氏が居城する岩城内に住されていました。
※木上領岩城鎮座 木本権現 宮司 永井善六

A由留儀大明神(由留儀加茂神社) 木上領十日市
高原(たかんばる)下に鎮座の神社であり御祭神は洛陽加茂神社同體 とあります。
近年、木上の民に崇敬を受けた久保田越後守が合祀されました。
※由留儀大明神(由留儀加茂神社) 宮司 永井喜右衛門

B荒田大王(荒田大王神社) 木上領荒田
岩城城主、平川右衛門三郎義高霊社也
※荒田大王(荒田大王神社) 木上領荒田 宮司 永井善六

C山王権現 木下権現西脇 (木上領)
社家傳云北嶽日吉神同體
※山王権現 宮司 永井善六
補足・・北嶽日吉神とは
北嶽日吉神社 河辺領北嶽
※社家傳云近江国滋賀郡日吉神社同體 大同年中鎮座(806年〜810年)
北嶽日吉神社 宮司 坂本民部

D天満天神 木上領 上田山
社家傳云 筑前國三笠郡大宰府天神同體
※天満天神 木上領上田山  宮司 永井勘左衛門

E二宮大明神 木上 上居倉
社家傳云阿蘇神同體
※二宮大明神 木上 上居倉 宮司 永井庄之助

他、久保田氏が一部所領の「一武村」に鎮座の神社
F松尾大明神 一武領十日市
社家傳云山州葛野郡松尾神社同體
※松尾大明神 一武領十日市 宮司 永井甚六

実は「永井氏」が宮司を務めた神社は以上の「木上領」と「一武領」の7社のみです・・
全て・・「平河氏」そして「窪田(久保田)氏」が所領した地域の神社です。
今まで全く気が付いていませんでした・・・・
さらに「永井氏」の数軒は、家の親戚の椎葉家そして宮司家である尾方家とは親戚関係にあります。
宮司家間のネットワークに基づいた縁戚関係があったのではないでしょうか・・?
そして・・椎葉のおじや私の父の曾祖母であり、私の高祖母でもある「永田家の娘」

この事に気が付いたのは
空の青海のあを様、三つ柏服部様のスレッド『長上郡の服部氏族』の中で
三つ柏服部様がお調べの坂本神社の宮司家であった「永井氏」についての研究を
拝読して勉強させて頂いたお陰です。
心より感謝申し上げます。

永井氏は「平河氏」「窪田(久保田)氏」が所領した木上領・一武領の神社の宮司家として名を残していましたが
「永田氏」も人吉・球磨郡内の神社の宮司として名を残していました。

★永田氏が宮司を務めた神社について
@若宮神社 人吉梅花町
菊池氏夫婦之霊社也 宮前ノ古墳是其夜■也 藤原定頼(六代相良遠江守)公建立(記述内には永富彌三郎頼常當主ノ名代となった方で関東鎌倉で戦死された方御夫婦だと記されています)
※若宮神社 人吉梅花町 宮司 永田左京

A一條妙見 大村領 木末山
社家傳云 藤原頼俊(佐牟田六郎相良三代)公御夫婦ノ霊社也 或ハ息女トス
或ハ一條家ノ族也 中略・・故ニ祭テ之一條妙見トス
※一條妙見 大村領 木末山 宮司 永田左京

B祇園神社 大村領 辻村
社家傳云山城八坂祇園同體
※祇園神社 大村領 辻村 宮司 永田左京

以上三社が「永田氏」を宮司家とする神社でした。
大村領・・大村は以前コメントしたように、
※窪田(久保田)氏十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、母も若くして亡くなり、八才の時に弟と共に大村に移り住み他家に養われて成人した・・
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村・旧蓑毛村を指します。

宮司家「永井氏」「永田氏」。

椎葉家・尾方家の親戚関係に永井氏があり・・
家の宮原家の親戚関係を含めると
「平川」「深水」「久保田」「蓑毛」「犬童」「尾方」「永田」「永井」
とても偶然とは思えない気がします・・

『麻郡神社私考』から解った事でした(..) 
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月14日 19時17分49秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

実は、一昨日、マタマタ主人の発案で宮崎県日南市に御鎮座の鵜戸神宮にお参りに伺わせて頂きました。
(何だか最近の主人は・・? 何か・・奥底に眠る何かに目覚めたかな(p_-)・・?)

ブログに写真をアップ致しました(^'^)
皆様、よろしければご覧下さい(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12256236510.html


ただ・・私は・・今までに様々な神社様にお参りさせて頂いている中で、どうしても・・
御拝殿そして御本殿のお写真を撮る事に躊躇してしまうもので・・・
御本殿のお写真はウィキのページをご覧ください(..)
鵜戸神宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%88%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE

所で・・(p_-)
ウィキの鵜戸神宮の記述をあらためて読み、勉強すると知らなかった事が沢山書かれていました。

鵜戸神宮(うどじんぐう)は、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在神社本庁の別表神社に指定されている。
日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
創建 伝崇神天皇朝

「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。

祭神[編集]
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴以下の皇祖神と神武天皇を祀る。主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めている。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。

歴史[編集]
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。また、延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。
平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。

中略・・・
祀官[編集]
前述の通り、古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで、明治維新までは仁王護国寺を仁和寺が所管し、18の寺坊が神門に至る八丁坂参道の両脇に並んでいたが、明治の神仏分離で、第59世の観空法院を最後に廃され、寺坊も悉く棄却された。

中略・・・
境内社[編集]
本殿周りに以下の3社がある。
皇子神社 - 本殿左側に鎮座し、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山(ふながたやま)に鎮座し、明治維新後現在地に遷座したという。なお、1977年(昭和52年)に旧社地にも分霊、復祀している
住吉神社・火産霊神社・福智神社 - 3社が1宇に鎮座。祭神は底筒男神・中筒男神・上筒男神(住吉社)、火産霊神(火産霊社)、仁徳天皇(福智社)
九柱神社 - 神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀る
そのほか洞窟外に、門守社(楼門左右。左に櫛磐窓神、右に豊磐窓神を祀る)、鵜戸稲荷神社、波切神社(波切不動)が鎮座している。

上記の記述にあった以下の記述は全く知りませんでした・・(..)

※延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。

※古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで・・・

★『第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。』
\(◎o◎)/!
仁和寺門跡一覧 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA%E9%96%80%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7

1200年代までの方々は・・
初世 空理(金剛覚)- 宇多天皇
第2世 性信入道親王(大御室)- 三条天皇第四皇子
第3世 覚行法親王(覚念、中御室)- 白河天皇第三皇子
第4世 覚法法親王(真行、高野御室)- 白河天皇第四皇子
第5世 覚性入道親王(信法、紫金台寺御室)- 鳥羽天皇第五皇子
第6世 守覚法親王(守性、喜多院御室)- 後白河天皇第二皇子
第7世 道法法親王(後高野御室)- 後白河天皇第八皇子
第8世 道助入道親王(光台院御室)- 後鳥羽天皇第二皇子
第9世 道深法親王(金剛定院御室)- 後高倉院第二皇子
第10世 法助(開田御室)- 摂政左大臣藤原道家五男
第11世 性助入道親王(後中御室)- 後嵯峨天皇第六皇子
第12世 性仁法親王(高雄御室)- 後深草天皇第四皇子
第13世 深性法親王(尊勝院御室)- 後深草天皇第六皇子
第14世 寛性法親王(常瑜伽院御室)- 伏見天皇第三皇子

しかし・・
私は本当に不勉強でした・・・

★平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。
※『両部神道』とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%83%A8%E7%A5%9E%E9%81%93
両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。
概要[編集]
密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされる。それは大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の儀規として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈した。

思想[編集]
両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮一光説)。両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目した命名である[1]。
また、日本書紀の三神に、仏教の如来の三身をあてはめ、国常立尊が法身、国狭槌尊が報身、豊斟渟尊が応身であるとし、この三神が合一して、密教の本尊である大日如来となるともした。
また古事記の天神七代は過去七仏に等しく、また北斗七星の各星を表しているとされた。またイザナギ・イザナミ、諏訪神社の上社・下社、なども両部曼陀羅になぞらえられた。

歴史[編集]
両部神道の萌芽は仏教伝来にまでたどることができる。
仏教伝来により日本古来の信仰であった神道も多大な影響を受けた。日本の神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われるようになり、神社の境内に神宮寺が建てられ、仏像の影響を受けて神像も製作されるようになった。
やがて8世紀末頃から、日本の神々は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿を変えて現れたとする本地垂迹説が発生し、のちの神仏習合思想の基礎となった。
平安時代後期には、神道を理論的に説明する教説として僧侶による仏家の神道理論が成立した。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。
両派とも大祓詞の解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の説明が、当時の仏教界の主流だった密教の教義を用いてなされている。
いずれも、最澄・空海などに選者を仮託する神道書によっており、各神社の秘伝として伝授され、また一部は、修験道などを介して民間にも知られていった。これらは鎌倉時代に理論化され、後世多くの神道説を生み出していった。
これらの神道書のうち、後世に最も大きな影響を与えたのが、醍醐天皇が神泉苑に出現した龍女から受けた秘伝と称する『麗気記』である。この書は、伊勢神宮に関する真言密教に基づいた深秘説を集成しており、南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった[1]。

影響[編集]
両部神道はのちの神道説の展開に大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって、御流神道、三輪神道などの多くの分流が生じた。
しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえる伊勢神道や吉田神道が現れ、江戸時代には神道の主流派の教義となっていく。
そして、明治時代、明治元年の神仏分離によって,両部神道は壊滅的な打撃を受け、神道教義の主流派の地位を失った。

・・・・・・

私・・主人が突然「鵜戸神宮にお参りに伺いたい」と言った時に何だろう・・その・・主人を突き動かしているものは何なのだろう?と感じたのですが・・

鵜戸神宮にお参りさせて頂いて、その結果・・私自身が全く理解出来ていなかった『神仏習合』について勉強する事が出来ました・・・
(勉強しましたが・・・理解出来ているかと言うと・・・難しいです((+_+)))
しかし・・・知りたいと思っていた事を『偶然』知る事が出来た・・こういうのは・・でも『偶然』なのかな・・
何かとても大きなパワーにお導き頂いたような気持ちになりました・・

この事はあくまでも主人の発案でした・・
今までも何度もこういう出来事があったと以前からコメントしていたと思います・・

余談ですが(..)
主人の母方のおじいちゃん。
主人のおじいちゃん(祖父)は四国八十八箇所全てを巡拝されて満願成就となられました。
主人の母方は真言宗ですが
宗教うんぬんとか違いとかではなくて・・
信仰心を持ったおじいちゃんに子供の頃から色々な話を聞かせてもらって成長した主人の心の内には、何だろう・・言葉には表現出来ませんが・・
温かい清らかな”もの”が自然と育まれたのではないのかな・・と思います。
主人が他人様の悪口を言ったり、非難したりした事は一度もありません。
私とは全く違う性格です(..) 私はおっちょこちょいで、のんびりしているようで時折気が短くなり・・イライラするし・・本当は意地悪です(-.-)・・(..)(@_@。

だから・・お導き頂いているのは・・きっと私ではなくて主人なのかもしれない・・
とこの頃感じていた所でした・・

今日は「鵜戸神宮」にお参りさせて頂いて、勉強もさせて頂く事が出来ました!
というお話でした。(..)

では(^'^)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月18日 11時10分58秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

先日からの調査の続きとその序文?を今日は書こうと思っていたのですが・・
今朝、もしやの『大発見か!?」と言う事に気が付きましたので・・
書かせて頂きます。

実は、昨日、彼岸入りと言う事で、現在親戚の星原家が管理して下さっている曾祖父と曾祖母のお墓参りに主人と行って参りました。
曾祖父と曾祖母は、星原家のおじ(先代)が新しく建てたりっぱなお墓に一族として眠っています。『墓誌』(法名碑)に宮原家の明治時代に亡くなった高祖父・高祖母と共に名前が刻まれています。
祖父と伯父の遺骨は祖母の意思で昭和50年代初頭にお寺の納骨堂に移されました。
子供の頃はお墓には祖母とお参りしていたのですが、納骨堂が出来てからは、曾祖父・曾祖母のお墓にお参りする事は殆どなく(お墓には祖母だけお参りしていました(..))
こちら(球磨)に帰ってからは、お墓が小高い丘の中腹にあるので、父が私の心臓を心配して、「家の御仏壇にお参りすると曾じいちゃんにも曾ばあちゃんにも繋がっているから」と・・
言い訳になりますが(..)お参りした事がなかったのです・・・・
しかし・・最近・・私は曾祖父に守って頂いていると感じていて・・主人にお願いして、山道を手を引いてもらいながら昨日お墓参りに行った・・と言う次第です(..)
そこで・・『ある事』に気が付きました。(この事は調べてからいつか必ずコメントします(..))

その『ある事』が気になって・・今朝、「求麻郷土研究会 益田敬三氏 著の「南無」(人吉藩 人名と法号)」に目を通していたのです・・

すると・・『ある事』と繋がるかどうか?は解らないのですが・・「南無」(人吉藩 人名と法号)に驚くべき内容が記されていました!

私の家の前を流れる川の名前は「井口川」です。(別名 久米川。地元の古老の方々までは鶴の川と呼んでいます)
「南無」(人吉藩 人名と法号)を読んでいると・・
球磨の「井口氏」の祖である井口(藤原公頼)の記述が目が止まりました。

「求麻郷土研究会 益田敬三氏 著の「南無」(人吉藩 人名と法号)」より
※井口(藤原)公頼
井口右京と称す。井口家の祖、多良木上相良家四代因幡守経頼舎弟大炊助頼師の長男。相良家に仕える。
※井口師頼 井口公頼嫡子 右京亮と称す

驚きました!!
因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』。この方の嫡子が『井口師頼』
球磨の井口氏の初代・二代の方々の「名」を見ると!
「頼」・「師」・「公」の文字が!!
当時の各氏の「通字」
『頼』の通字は相良氏
『師』の通字は平河氏 (税所氏も数代「師」の文字がみえますが・・)
『公』の通字は橘公業後裔の通称「橘薩摩」一族!(肥後国球磨郡久米郷を所領)
相良氏と平河氏と橘薩摩一族 の影(縁戚関係)が『井口氏』には見えるのでは
ありませんでしょうか!!?

日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見すると一目了然!でした。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』
因幡守経頼とは多良木(相良)経頼。窪田(久保田)氏の祖「窪田頼吉」の甥にあたる方です。
多良木(相良)経頼の父 多良木(相良)頼宗。この方は・・・
求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)
こちらに記載の論文、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」。
第三代六郎頼宗の項に
「永仁元年(1293年)に父、頼氏の跡を継いだ様である。
頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
と記されていました!

※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』。

さらに・・「師頼」と言う名を名乗っていた方は同時代もう一人いらっしゃいます!

※日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)など少弐頼尚跡を給された平河又三郎師里、同国三俣院(同北諸県郡三股町内か)内の地を給された平河小三郎師頼
※「平河又三郎頼里」は 「平河子三郎師頼」とともに 人吉庄一分地頭であり 師頼は 永吉庄目良生村地頭で「目良生師頼」とも名乗っている。

偶然か!!?
「井口師頼」「平河師頼」・・二人の「師頼」という名の方々・・

さらに・・
※因幡守経頼舎弟大炊助頼師
「大炊助」・・ずいぶん最近”頻繁に”見かけています・・
(詳しくは後日、コメントを(..))

お墓参りをして気になった事を調べようと思ったら「偶然」見つけた上記の件です。

私、導いて下さった先祖に心から感謝しています。

では(..)
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月18日 17時42分43秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 マタマタの登場です(^'^)

たけぽん様、花粉症の具合はいかがですか?
今年は花粉の飛散量が近年に比べても多いようなので、
お身体十分にお気を付け下さい(..)

所で・・
コメント14を書いた後・・・色々調べてみました(p_-)
井口氏
※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』
井口氏は上相良氏族であるにも関わらず・・
人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地名を名前の由来としています。
さらに当時人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地頭は税所氏です。
私は・・ずっと家の前を流れる井口川の名の由来が解らなかったのです・・
井口の地名は人吉の北方にあるのに、何故?家の前の川の名は「井口川」なのか・・??
何度もコメントしていますが・・祖母は井口川を「家の川」と呼んでいました。(正確には国の河川です(p_-))


井口八幡宮について書かれたサイトを御紹介致します。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364077.html
井口八幡神社(いのくちはちまんじんじゃ)は、鎌倉時代の宝治年間(1247〜49)、相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられている。
相良氏の武神として歴代の崇敬が篤く、度々の戦に際しては戦勝祈願が行われたという。特に相良為続は、長享2年(1488)、明応元年(1492)の2度にわたり、百句連歌を奉納したという。
明治以前の神仏習合時代には、本寺として井口寺があり、境内向かって左側の堂にその本尊薬師三尊及び十二神将像が残されている。
社殿は元禄12年(1699)4月の火災ののち、相良頼喬が再興したもの。桃山様式を伝える優れた社殿である。

地図がありました。地図を上(北)方向にドラッグすると解るのですが
こちらは人吉市と北方の山江村の境界となる場所です。
http://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92868-0027+%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%B8%82%E4%BA%95%E3%83%8E%E5%8F%A3%E7%94%BA%EF%BC%99%EF%BC%94%EF%BC%99/ @32.2457394,130.7431992,17z/data=!4m5!3m4!1s0x353f70e4bbe92bbd:0x59bf1ad22c09ca!8m2!3d32.2442059!4d130.7453772?hl=ja

コメント2で書いたように
山江村誌歴史編 より
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。

※1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」
※日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)など少弐頼尚跡を給された平河又三郎師里、同国三俣院(同北諸県郡三股町内か)内の地を給された平河小三郎師頼
※「平河又三郎頼里」は 「平河小三郎師頼」とともに 人吉庄一分地頭であり 師頼は 永吉庄目良生村地頭でもあり「目良生師頼」とも名乗っている。
※永吉庄目良生村とは、木上領目良生村である。
※少弐頼尚は「平河左近允頼尚」を名乗っている。
※平河氏系図に見える 頼貞(相良弥三郎)⇒ 貞継(小三郎次男)
貞継(小三郎次男)・・小三郎とは平河小三郎師頼であり、平河貞継は平河師頼の次男であった事が解る。
※平河貞継・・「継」の文字。「継」を通字とする税所氏(師継以降)
※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』
★上相良氏族『井口氏』は人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地名を名前の由来とし、さらに当時人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地頭は税所氏であった。
★当時の各氏の「通字」
『頼』の通字は相良氏
『師』の通字は平河氏 (税所氏にも数代「師」の文字がみえる)
『公』の通字は橘公業後裔の通称「橘薩摩」一族
※「橘薩摩」一族が所領した旧久米郷宮原村と旧久米郷岡本村の境界となる井口川
※因幡守経頼こと多良木(相良)経頼(窪田・久保田氏の祖「窪田頼吉」の甥)
★父 多良木(相良)頼宗。頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
(後に橘遠江入道道公が下着。南朝方として戦い所領の大半を失うが、橘公多の時代に旧宮原村の所領と地頭職は復活)
※木上城 城主 は平河義高 ⇒ 窪田(久保田)氏  と引継がれた。

以上をまとめてみました。
全て繋がっている気がします・・偶然ではないと思います・・・。

きっと・・おそらく・・
『平河』氏の名を残していく為に様々な系が「平河」を名乗って来られた。
その事によって「平河氏」は存続された・・
こう言う事ではないのでしょうか・・

その「系」を引継ぐ為に「平河」を名乗った様々な系。「系が様々」だからこそ
平河氏の「系」を記した史誌(求麻外史・南藤蔓綿録・肥後国誌他)や良峯氏先祖書は其々「内容が異なる」事が記されているのでは・・
※1050年代の『師澄(師純)』を球磨の最初の平河氏と記している書もあれば・・菊池氏を頼った『安則』を球磨の最初の平河氏と記している書もあれば(1140年代に球磨に下向とあり)
他にも内容が異なる記述が複数あり・・
「平河氏」を継いだ「異なる系」の其々の先祖を辿ると異なるのは当たり前のような気がします(..)
だからこそ「球磨の平河氏」の系が載った「系図」関係の書物が存在しないのでしょう。

ただ・・上記の他に・・何か・・隠さなければいけない「真実」が根底にあるのは確かなのでは・・??
(ここが一番の謎なのですが・・)
それが「平河義高」という方の『真実』なのか「平河師高」という方の『真実』なのか・・もしくは、『他の方』の真実なのかは・・
今はまだ解りませんが(..)

〉『平河』氏の名を残していく為に様々な系が「平河」を名乗って来られた。
その事によって「平河氏」は存続された・・

この推測に繋がる事を沢山発見しております(p_-)

明日は・・必ず「序文?」から書かせて頂くつもりです(..)

では(..)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月19日 19時26分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(..)

今日は、集落の会合とその後の宴会の準備、接待、片づけで・・
昨日、「書きます!」と言った事を書く時間がありませんでした(@_@。
すみません(..)

明日は、春のお彼岸中の唯一の宮原観音堂の御開帳の日となり
私は朝から、参拝のお客様の御接待に行きますので
明日も調査内容を書くのは無理かもしれません(..)

調査内容は後日、しっかりと書かせて頂きます<m(__)m>

明日は、御開帳を楽しみに宮原観音堂に来て下さる方々に
心ばかりのおもてなしをさせて頂きます。
(料理上手な集落の御婦人がたの迷惑にならないように・・私はきっとお笑い担当?でしょう(^'^))

では(^'^)
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月22日 10時57分36秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

宮原観音堂の御開帳の日は、どしゃ降りの雨と風の中、
九州各地から、沢山の方々が御参拝におこし頂きました。
ツアーバスで来られた方々の中や、自家用車で来られた方々の中には
20代〜40代前半の方々も沢山いらっしゃいました。
その方々の中に、今年で四年連続で春と秋の宮原観音堂の御開帳に福岡から
来られている・・と言う方もいらっしゃいました。
(相良三十三観音の御開帳を全て回るのは大変ですが、宮原観音堂には必ず来ています(^'^)と言われていました(^'^))
『日本の心』が若い方にしっかりと受け継がれている事がとても嬉しかったです。
集落の御婦人がたの手料理に皆様大変喜ばれていらっしゃいました(^'^)
(私は・・・殆どお笑い担当?でした)

所で・・
突然ですが・・・
江戸末期から大正時代にかけての祖母の実家の平川家に関わる重要な書類が見つかりました。

私の中に流れる「DNA」・・血脈のルーツは
宮崎県の『椎葉村大河内』にあるようです・・
何処からか・・遠い昔、そう・・八百年程前に椎葉村大河内におそらく『逃れて』来られた方の末孫家から
私の高祖父は平川家に養子に入っている事が判明致しました。

本日は外出致しますので・・
詳しくは明日、コメントさせて頂きます(..)

驚きの展開です・・・
では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月24日 10時19分19秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

今日から鹿児島(薩摩・大隅)と球磨の平河一族・税所氏、さらに武藤氏・少弐氏・橘薩摩一族そして「島津氏」との関係を順にコメントするつもりだったのですが・・
急展開?を向かえた『私の祖母の実家「平川家」の系』について
解った事を先に書かせて頂きます(..)

人吉市誌に
明治七年大蔵卿大隈重信から旧名と当時(明治七年)の名が異なる元相良藩士(当時の士族)を調べ直すようにとの達しがあり、その時に判明した30名の方の名が記されていました。
その30名の中に「堅助」⇒ 「平川堅治」 が・・。
人吉市誌を図書館で借りた時(1年以上前)にこの記述がどうしても気になりコピーしていたのです・・
理由は・・偶然か・・私の曾祖父の名にも「堅」の字があるからです・・

それから・・一年以上経った先日
コメント17で書いたように
〉江戸末期から大正時代にかけての祖母の実家の平川家に関わる重要な書類が見つかりました。
その書類に記されていた祖母の実家の平川家、明治初頭の当主の名は「堅治」。
私が、一年以上前にとても気になってコピーした記述にあった「堅助」⇒ 「平川堅治」は
私の高祖父の父にあたる人だった・・と言う事です。
「堅助」⇒ 「平川堅治」 こちらの「堅助」という名は江戸末期の相良藩を色々調べると「気になる事」が見つかったのですが・・
この事は後々書かせて頂きます(..)

さらに・・
堅助あらため「平川堅治」の養子となったのが、私の高祖父でした。
高祖父は養子となって岡原の平川家を継いでいたのでした!
書類で解った事・・私の高祖父の実家は旧久米村奥野の「矢立家」でした。
矢立氏・・?
今までの調査の中では一切登場していなかった「姓」です。
調べたのですが「矢立氏」はナント全国にわずか45軒しかない姓でした。
さらにその全国に「45軒」の矢立氏の内、熊本県内に12軒。内10軒は球磨郡多良木町。
他県では広島県に17軒。内11軒は山県郡安芸太田町在の方々。
九州内で「矢立姓」があるのは熊本県のみでした。

どうして・・?全国的にとても少ない姓である「矢立氏」から高祖父は岡原の平川家に養子に入ったのか????

そこで「矢立氏」について調べてみたのですが・・
球磨の「矢立氏」のルーツとなる「場所」を見つける事が出来ました!!
「宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内」です!!

大河内森林ガイドの会様が運営のサイト「宮崎県椎葉村 大河内癒しの森」
こちらのサイト内にある
『大河内の伝統文化、まつり』
国指定 重要無形民俗文化財 大河内神楽
<合戦原神楽、大河内神楽、矢立神楽、大藪神楽>
に「矢立氏」について詳しく記述されていました!

大河内森林ガイドの会 事務局の黒木様に御連絡を取り、こちらのスレッドへのリンク・文面のコピーを御了承頂きました。
黒木様には心から感謝申し上げます。

皆様、平家落人伝説の郷「椎葉村」の神事の伝承等が詳しく記されている
『大河内の伝統文化、まつり』のページです。
古代の神事に繋がるのであろう 国指定重要無形民俗文化財「大河内神楽」です。
こちらに「矢立氏」についても詳しく書かれています。
ぜひ、ご覧ください(..)

サイト
大河内森林ガイドの会
『大河内の伝統文化、まつり』
国指定 重要無形民俗文化財 大河内神楽
<合戦原神楽、大河内神楽、矢立神楽、大藪神楽>
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/culture.htm

サイトより幾つかの記述を転記させて頂きます(..)

(1) 国指定重要無形民俗文化財
 椎葉村には29の集落ごとに、それぞれ異なった神楽が伝承されています(うち4集落は廃絶)。そのすべてをひとくくりにした呼び名が「椎葉神楽」で、国の重要無形民俗文化財に指定(1980年)されています。つまり、椎葉の各集落で行われる神楽全てが、国指定重要無形民俗文化財なのです。

(2) 大河内神楽のあらまし
 大河内は、椎葉村西南部の、高塚山、三方岳、市房山、江代山(椎葉では津野岳と呼ぶ)に囲まれた一ツ瀬川源流域に位置する集落群の総称です。ここには、 いくつかの神社があり、4つの地区で神楽が伝承されています。大河内八幡神社での「大河内神楽」、合戦原王宮神社での「合戦原神楽」、矢立雪矢神社の「矢 立神楽」、今森神社・鹿倉神社の「大藪神楽」です。といっても、4地区の神楽は、同じ神楽保存会が同じ祝子(「ほうりこ」と読む=後述)で同じ演目を行う ので、ここでは総称して「大河内神楽」と呼びます。
ただし、大河内八幡で4年に1度行われる『注連の願(しめのがん)』の際は、他の地区にはない特別な演目が追加されます。神社の前庭には特殊な飾り付け が施され、演目には藁で編んだ大蛇なども出てきて、非常に興味深いものです。
 大河内神楽の発祥は定かではありません。
 ただ、それまでひそやかに営々と続けられ、守られてきた椎葉の神楽がはじめて外部に知られたのは、1964年、国の文化財保護審議会専門委員であった本 田安次氏による、大河内神楽の調査研究が最初といわれています。つまり、椎葉神楽が国指定重要無形文化財に指定されるきっかけを作ったのは、大河内神楽 だったのです。あちこちに伝承されている神楽の中でも、大河内神楽のかたちは最も古い形をとどめているといわれています。

(3) 神楽の基礎知識
中略・・
<御神屋・くも>
 神楽は、御神屋(みこうや)と呼ばれる空間で舞われます。四隅に竹を立て、注連縄(しめなわ)で囲まれたおよそ4畳半ほどの広さの空間です。文字どおり 「神の宿る場所」ですから、神主、祝子、氏子の主だった者以外は原則として足を踏み入れてはいけません。御神屋の正面は神を祀る祭壇で、そこには高天原 (たかまがはら)と呼ばれる、藁を束ねたものに御幣を立てたものと、さまざまな奉げもの(海のもの、山のもの、その年の生産物など)が12種類奉げられま す。

・・・・・・・・・・・・・・・
他、サイト内の「大河内神楽」についての記述を拝見する事によって、大変崇高な神事である事が解りました。

☆「矢立氏」についての記述
サイト内の『矢立 祭祀考(やたてさいしこう) <前事務局長の民俗レポート>』
こちらに「矢立氏」について記されていました!

はじめに

 椎葉村は広い。面積536平方キロ(役場資料より)という。が、平成の大合併後では、この広さもさほど珍し いものではなくなった。 面積を数字としてだけ見れば、ほぼ神戸市の広さに匹敵する。東京23区よりひとまわり小さいくらいである。
 だが、山と谷に隔てられた集落間を行き来してみれば、そのあまりの時間のかかりようによって、数倍、あるいは数十倍の広さとして実感されることだろう。 たとえば、私の住まう矢立(椎葉の南西部)と向山(椎葉の北西部)は、直線距離ではおよそ15kmしか離れていない。しかし、 矢立から向山まで車で行くとなると、いったん北東に峠越えの道を走り、村の中心部(上椎葉)に出て、さらに北に川沿いの道を走り、 それから西へ山に登る道を延々と走らねばならないのだ。平坦な直線距離であれば、15分で着くような距離しかないのに、実際は3時間ゆうにかかるのであ る。
 椎葉の集落は、大雑把にいくつかに分けられる。それぞれの集落群では、文化と習俗、言語が微妙に異なる。私の住居のある矢立は、 大きく「大河内」と呼ばれる集落群の中にある。ややこしいのは、この「大河内」という言葉が、この「集落群」を指す場合と、もっと広い範囲の 「大字としての地名」を指す場合とがあることである。ここでは、「大河内」を、文化、習俗を一定共通させた「集落群」の意味として使用する。 大字としての大河内を使用する場合は、その旨別途注記するものとする。
 さて、ここでは、大河内の中のひとつの集落である「矢立(やたて)」のまつりについて、民俗学上の資料としても通用する形でまとめてみようと思う。

中略・・
1.矢立の祭神

(1)雪矢神社(ゆきやじんしゃ)

 矢立集会所の左横からその上へ回る坂道を登りつめると、2軒の家が並んでいる。左の家の庭先を抜けると鳥 居が見えるが、 そこが雪矢神社の正面参道である。ちなみに、この地方では神社を「じんじゃ」と呼ばず「じんしゃ」と呼び習わしているため、ルビ表記もそのようにしてい る。
 男女対の夫婦神を主神として祀る神社である。この夫婦神のことを「雪矢さん」と呼ぶ。「雪矢」は「征矢」とも書かれるが、 最近は「雪矢」で統一されている。

神楽ができるほどの広さの社殿があり、正面には祭壇。その中央に、夫婦神を納めた小さな神殿がある。まつ りの時のみこの神殿の扉は開かれ、 真綿にくるまれた木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か=左の写真)を拝むことができる。
 この「雪矢さん」は、天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
が、どうもそれだけでは説明しがたいものがある。天満宮と異なり夫婦神であり、大河内の他の集落に存在する神社や祠の祭神と、 親子や兄弟の関係にあるとも伝えられているからである。

※木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か) 画像
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/img_access/yukiyatenjin.jpg

祭壇(写真1)には、夫婦神を納めた神殿に向かって右側に、山神(さんじん=山の神)、稲荷(いなり=田の神)の2神、 向かって左側に大神(だいじん=どのような神か不明)が祀られている。したがって、この社殿には、主神の雪矢天神も含め、4つの神が祀られているわけである。

(2)地主堂(じぬしどう=「堂(どう)」と簡略化して呼ばれる)

矢立集会所上の坂道で最初に出てくる人家のすぐ下にある、木造の小さな堂。
神体(右の写真)は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。 4畳ほどの広さのお堂の中に祭壇があり、石造りの像が3つ置かれている(写真左側の石像はその一つ)。 うち2つは古いご神体がそのまま置かれているものであり、本体は一つとみなされる。
堂の外には、苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。また、その奥に大石の碑が立てられている。 碑文はすでに風化して読むことができない。いずれにしても、地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。 地元の人々は、「地主さんは仏さんから神さんになった」と言う。明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。以前は集会所付近にあった屋敷に住まっていた ということである。
【作者註】神楽の幟に「矢立某」の奉納者名が染め抜かれているところを見ると、それほど古くない時代に この地を離れ、いまだにこの地との何らかのかかわりを保っておられるものと思われる。

矢立氏について書かれています!!!驚きました!!
※地主堂 御神体 衣冠束帯坐像
矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。
画像
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/img_access/jinusi.jpg

※「地主さんの墓」・・・奥に大石の碑が立てられている。
※地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。
※明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
※この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。
※神楽の幟に「矢立某」の奉納者名が染め抜かれているところを見ると、それほど古くない時代に この地を離れ、いまだにこの地との何らかのかかわりを保っておられるものと思われる。

椎葉村 大河内森林ガイドの会 事務局の黒木様と電話でお話した際に、
黒木様は宮崎県椎葉村大河内と
@熊本県球磨郡多良木村との関係
A相良藩と大河内との繋がり
等をお調べになっていらっしゃった事をお聞きしました。

私の高祖父が明治初頭(明治12年)旧久米村(現多良木町)「矢立家」より岡原の平川家に養子に入っていた事、
さらに偶然か・・私の祖母の姉が「椎葉家」に養女に入り跡を継いだ事
等をお話しすると
「矢立氏、間違いありません」
とおっしゃっていらっしゃいました。

さらに・・矢立集落の記述には非常に気になる事があります!

※雪矢神社 御祭神
木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か)
「雪矢さん」は、天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
それだけでは説明しがたいものがある。天満宮と異なり夫婦神であり、大河内の他の集落に存在する神社や祠の祭神と、 親子や兄弟の関係にあるとも伝えられているからである。

すでに皆様もお気づきの事と思いますが・・
私が拘り続けた・・「天満宮」・・天満天神・菅原神社
です・・

さらに「矢立氏」の祖に繋がる記述がサイトに記されています。
中略・・
3.年間の祭祀

(1)地主講
 旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。地租神の祭りである。 神事(神主及び世話役で執り行う)ののち、集落の全員(老若男女)が集まって、酒を酌み交わす。

※旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。

おそらく・・矢立氏は大河内矢立の地名から「矢立」を名乗られたのだと推測出来るのですが・・
では「大河内矢立」に来られる前はいったい「何と言う”姓”」だったのか・・?

私の高祖父は『実は矢立氏』であったと言う事が解った事によって
家の一族に伝わっていた「伝承」の意味がようやく理解出来ました。
椎葉のおじは
「先祖は米良か椎葉から来られた」と言っていました。
さらに・・
私の弟や父そして叔父(父の弟)さらに実は「私」も子供の頃・・
「平川は平家だった」と聞いていました(..)
私は・・近年の調査で平河氏は良峯氏であった事を勉強して理解しました。(その時に・・何だ聞いていた事とは違ったんだ・・と思ったのです(..))
弟や叔父にその事(良峯姓)を話した時に二人は
「違う!家は平家や!」と・・(叔父の”言葉”はかなり以前・・三年前位のコメントに書いたと思います(..))
弟も・・「ばあちゃんは平家と言っていた・・」と言って・・度々話す私の調査報告を不思議そうな顔で見ています・・
さらにさらに・・
椎葉のおじと叔父(父の弟)が共通して言った言葉が
「御先祖様はまるで山賊か?と見間違われるようなボロボロの格好で来られた」
です(..)

椎葉のおじにも叔父(父の弟)にも
「平河氏は平安末期には球磨の豪族だったのだから、そんなボロボロの格好で来られた訳はない(ー_ー)!!」
と、私は話していました・・(..)

もしかしたら・・もしかしたらですが・・
皆・・平川の高祖父の”御先祖様”の話(伝承)を伝え聞いていたのかもしれない・・
しかし・・早合点は出来ません(ー_ー)!!。
矢立氏の祖の「本姓」は今の所、まだ私には解っていないからです・・(勉強不足です(..))
ただ・・
矢立家から平川家に養子に入った高祖父の妻は(高祖母)は
「林田氏」から嫁いできています。
「林田氏」はコメント7で書いたように
〉相良藩士の「林田氏」について人吉市史に『椎葉地頭の林田』
とありました・・・(?_?)・・・(p_-)

さらに・・父に今回の調査で解った事を話すと
「父はやっぱりな・・」と言った後
「何故?矢立家から岡原の平川家に○○じいちゃんが養子に入ったのか?!。それを調べるのはお前の役目だ!」
と・・(..)・・((+_+))
私には大変難しい課題が追加されました・・((+_+))
(もう一つの父からの課題は”何故?久保田家から曾祖父が養子に入ったのか?です・・こちらも未解決(@_@。)

しかし・・不思議な事があります。
高祖父以降の・・私の曾祖父(平川家)の弟妹についてです。
実は・・曾祖父(長男)の弟妹・・私が理解していた人数?ではなく・・
もっといたのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

書類には、その弟妹が『横瀬氏』他、私が今まで調査して来た・・
平河氏繋がりの「多数の系(姓)」に養子に入っていた事が判明しました!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
さらに高祖父の養父となる「堅助」氏の後妻も、今までの調査で登場していた「姓」から嫁いで来られていました!
めちゃくちゃ「ビックリ!!」しました。
この内容は次のコメントで(..)
平河氏と矢立氏の関係は?????? (もちろん無関係の可能性もありますが・・(..))

と言う事で私の調査の急展開!
高祖父の出自について書かせて頂きました(..)

では。
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月28日 18時40分04秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年03月28日 21時52分40秒
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月28日 21時52分09秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は。
コメント19で書いた内容の中にあった椎葉家のお話ですが
やはり、ネットに公開すべき事ではないと判断致しましたので
削除させて頂きます。
修正した内容を以下に書かせて頂きます。
===============================================

コメント18を書いた後、4日間、色々な情報(文献等)を見ました。

今・・この数年間の調査で知った様々な「点」が線で結ばれたと感じています。

鹿児島(薩摩・大隅地方)の情報に気が付いたのも偶然ではないと思います。
しかし・・鹿児島(薩摩・大隅地方)の情報を優先して調査を進めていたら
きっと、「点」を結ぶ「線」に気が付くのはもっと遅れていたことでしょう・・
高祖父の系が「椎葉村」にあった事を気が付かせてくれたのは・・先祖の導きだったのだと思います。
その事により鹿児島(薩摩・大隅地方)との繋がりも・・”意味”が一気に解りました。

このコメント20と続けて次のコメント21で私が知った『繋がり』を書きます。

最初に
コメント18で書いた
〉書類には、その弟妹が『横瀬氏』他、私が今まで調査して来た・・
平河氏繋がりの「多数の系(姓)」に養子に入っていた事が判明しました!

ここから書かせて頂きます(..)

書類とは・・祖母の実家の平川家の祖母の兄弟姉妹までの除籍謄本です。

1.平川堅治(旧名堅助)の隠居と私の高祖父の家督相続の時期について
文久元年(1861年)八月に生まれた私の高祖父は明治十二年(1879年)一月、旧久米村奥野の矢立家から天保八年(1837年)八月生まれの平川堅治(旧名堅助)の養子となります。
※当時の二人の年齢 高祖父の養父平川堅治41歳 高祖父16歳
(高祖父の養父平川堅治の”後妻”は豊永氏の娘。当時35歳)

その後
高祖父の養父平川堅治は明治二十四年三月(1891年)54歳で退隠を届け出。
同明治二十四年三月(1891年)高祖父が家督相続。当時30歳。
※高祖父の養父(平川堅治)は54歳で退隠を届け出た後、隠居となり、大正四年(1915年)八月に78歳で亡くなりました。
祖母の実家の敷地内に隠居屋がありました。

この事で解る事は・・
高祖父の養父はかなり若い年齢(54歳)で隠居して高祖父へと家督を譲ったと言う事です。

2.曾祖父の事。そして、私が知らなかった曾祖父の弟達について
@高祖父から曾祖父への家督相続について
高祖父は大正十一年(1922年)一月、60歳で隠居届けを提出。曾祖父(長男)に家督が相続されました。
明治十四年(1881年)十一月生まれの曾祖父が41歳の時です。
高祖父は隠居となり、昭和三年(1928年)に67歳で亡くなりました。
※高祖父の妻、すなわち私の高祖母は林田家から嫁いできています。

A私が知らなかった曾祖父の『弟達』の事について
★二男 明治二十六年、8歳の時に旧久米村奥野「矢立氏」に養子に入る。
その後養子縁組を協議離縁。平川家の分家を起こす(妻は和田氏の娘)
※この方は平川家の親戚として知っていましたが、矢立氏に養子に入っていたとは知りませんでした。
★四男 西家に養子にはいる
★五男 西家に養子に入り、その後養子縁組を協議離縁。横瀬氏と養子縁組となる。
(上記、二人の弟は其々別の”西家”に養子に入っています)
★六男 佐藤家に婿養子に入る
★八男 平川家の分家を起こす。※この方が起こした分家平川家が今何処にあるのか、椎葉のおじさえ知らない方です。

3. 曾祖父母の養女(祖母の義妹)について
曾祖父母には養女がありました。この事は父も椎葉のおじも全く知りませんでした。
他家の「平川家」から養女に入っています。
父:平川久● 母:テ●● 長女のミ●● と言う方です。
ミ●●さんは昭和3年に理由は解らないのですが除籍となっています。
上記の平川久●と言う方は、元は「犬童」を名乗られていたような記述がありました。

1.平川堅治(旧名堅助)の隠居と私の高祖父の家督相続の時期について
2.曾祖父の事。そして、私が知らなかった曾祖父の弟達について
3. 曾祖父母の養女(祖母の義妹)について
で解る姻戚関係にとても驚きました。

「平川氏」「矢立氏(元椎葉村住)」「林田氏(椎葉村地頭家繋がりか?)」「豊永氏(高祖父の養父妻)」
「西氏」「犬童氏」「横瀬氏」「佐藤氏」

まず
「佐藤氏」は!ころも様 こちらのスレッドご覧になっていらっしゃるかな?
『六殿宮』の御祭神として佐藤氏の御先祖がお祀りされていたと記憶しています!

さらに
横瀬氏は・・
日本の苗字七千傑様の【良峰氏】姓氏類別大観を拝見すると解ります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
平河氏と横瀬氏は同族です。

「豊永氏」「西氏」「犬童氏」
こちらも日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見すると一目了然です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022b1.htm#005

山北頼平 ⇒ 長綱 ⇒ 「犬童氏」「豊永氏」「西氏」「原氏」
以前から書いているように「山北家」とは家の一族は親戚関係にあり、
驚きました!!系図通りの姻戚関係だった!!と言う事です!

犬童氏については以前からコメントしていました。
相良長頼の娘「尼妙阿」は良峯氏女「字牛(牛尼御前)」と言われ、さらに「尼妙阿」とは実は相良長頼の娘「犬童女」の法号であった・・と言う事を・・
相良長綱の母が相良長頼の娘「犬童女」であったと言う事もコメントしていました。
良峯氏女・・良峯氏とは平河氏の事か・・・?
殆どの書籍や論文では相良長頼の娘「尼妙阿」が平河氏に嫁いでいた・・すなわち平河氏と相良氏はこの事から姻戚関係にあった・・と推測しています。
尼妙阿の夫もしくは娘「阿夜」の夫は相良十郎三郎「助広」(資広の記述あり相良家文書)。

しかし・・
祖母の実家の平川家を継いだ高祖父は、上記には無い元椎葉村住の矢立氏。
高祖父の孫となる私の祖母の姉は「椎葉家」に幼い頃養女に入って椎葉家を継ぎました。
この椎葉家には平家一門の守り観音が代々受け継がれて、お祀りされています。
他、椎葉家の様々な『お話』を椎葉のおじにきちんと教えたのは・・林田家から嫁いだ平川の高祖母です。

椎葉村と平河氏。いえ!椎葉村の『椎葉氏・那須氏』と平河氏の関係・・
鎌倉時代の平河氏に関係する「武藤氏(少弐氏)」・「大江広元」・「税所氏」そして・・椎葉村の『椎葉氏・那須氏』の関係は・・
解りました!気が付きました!

全ては以前から何度も見てきた日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観そして《那須氏》姓氏類別大観そして《武藤氏》姓氏類別大観にあるのだ!と。

【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

《那須氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004a.htm

《武藤氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c3.htm#007

【藤原氏長家流】姓氏類別大観には鹿児島の正八幡宮に関係する税所氏も繋がっています。
様々な事・・詳しくは次のコメント21で書かせて頂きます!

《那須氏》姓氏類別大観に見えるのは、平河氏に関係する方々ばかりではありません。

旧宮原村在の在郷相良藩士(相良藩士分限帳に見える)「味岡氏」も見えます!
※旧宮原村 安政年間(1854年〜1859年)味岡門右衛門 と言う方の記述あり。

さらに【藤原氏長家流】姓氏類別大観には
同じく旧宮原村住の「馬鞍氏(馬倉氏)」も繋がっていました。
※旧宮原村の在郷相良藩士(相良藩士分限帳に見える)馬鞍金兵衛と言う方の名があります。
金兵衛の通称は新堀氏から馬鞍氏に動いたようです。この事が気になって実はコメントは書いていませんが以前調べていました(..)

今日は次のコメントに先だって「馬鞍氏(馬倉氏)」についても書かせて頂きます。

サイト「仙北小野寺氏」に馬鞍氏について詳しく記されています。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/lineage/aiueo/senbokuonodera.html

1189年の奥州合戦での戦功により小野寺道綱は出羽国雄勝郡の地頭職を賜り、後に小野寺経道が雄勝郡に土着したのが仙北小野寺氏の始まりという。経道の子孫は小野寺氏の代官として出羽国の雄勝郡などを管理していたが、泰道の代に宗家に替わって仙北の領主となったとされている。小野寺氏は一時は北は山本郡(北浦)、西は由利郡、南は最上郡にまで勢力を拡大し、出羽国有数の戦国大名となるが、最上義光との戦いでやがて衰退し、1600年の慶長出羽合戦で上杉氏に連動して最上領へ攻め込んだため、戦後は徳川家康に敵対したとみなされて所領を没収された。そして小野寺義道は石見国津和野に流され、以後子孫は津和野藩士となったという。

歴代当主
【小野寺経道】 おのでら つねみち (1249〜1293)
 仙北小野寺氏初代。三浦泰村の次男で三浦景泰と称していたが、『宝治合戦』で三浦氏が滅亡すると、景泰は出羽国大泉庄へと逃れた。その後、姉の嫁ぎ先の小野寺道業の元に迎えられ、以後は小野寺経道を称して稲庭を領したという。

驚きました!
【小野寺経道】三浦泰村の次男で三浦景泰と称していた

サイトをご覧頂くと一門衆・家臣団の中に
★馬鞍氏 馬鞍城 一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。1596年には馬鞍右門尉が馬鞍城を守っていたが、最上軍に攻められ陥落した。

旧宮原村在の馬鞍金兵衛という方の「馬鞍」氏。珍しい姓だと思い調べた所、「三浦氏」にも繋がる姓である事が解り非常に驚きました。
さらに
※馬鞍氏 馬鞍城 一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。

小野寺は【藤原氏長家流】です!!!!
日本の苗字七千傑様の《小野寺氏》姓氏類別大観を拝見すると「馬倉氏」が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm

《小野寺氏》は《山内氏》に繋がり
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004b.htm#001

さらに《山内氏》は《首藤氏》に繋がる
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004b.htm#000

そして・・首藤氏と那須氏は同族!
【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

旧宮原村住の在郷藩士 馬倉氏(馬鞍氏)は那須氏と同族であったと言う事です!(さらに三浦氏にも繋がる!)

【藤原氏長家流】姓氏類別大観には家の親戚と同じ姓「片岡氏」も見えます・・

「那須氏」は今まで何度もコメントしてきましたが、家の親戚に何軒もあります。

とても長くなりましたが今日書いた事は次のコメントに確実に繋がっていきます・・
皆様 お待ち下さい(..)

最後に・・たけぽん様
那須氏族「熊田氏」と「中川氏」について調べていた事があります。
明日、書かせて頂きます(..)

では。
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