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 投稿番号:101585 投稿日:2017年02月27日 22時23分51秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について38

コメントの種類 :その他  パスワード

たけぽん様、皆様
新しいスレッドを立ち上げました。

ここ数年間の調査や親戚への聞き取りなどが
ようやく実を結び始めています。

おっちょこちょいの私ですが
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

こちらは 平川家について コメント71より続きます(^'^)

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101581_70.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月28日 07時20分47秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

昨日、椎葉のおじから聞いた「新情報」ですが
とても気になる事がありますので早速書かせて頂きます(..)

※椎葉のおじとおば(妻)の其々の従兄の妻は須恵の平川家から嫁いで来られている。
この話は以前から書いています。
この事で間接的ですが須恵の平川家と椎葉家(岡原平川家の長女が跡継ぎとして養女に入る)は縁戚関係になる訳です。

新情報とは
その椎葉のおじとおば(妻)の”もう一軒”の其々のいとこ家についてです。
いとこ関係と言うのは・・椎葉のおじの父と椎葉のおじの妻の父は兄弟(宮司家の尾方家)。
こちらの兄弟(宮司家の尾方家)には姉妹もいてその方々の嫁ぎ先の事です。
こちらの宮司家「尾方家」は熊本県神社誌 記載の
古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 にもその系が載る「家」です。
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、現在、15代目となります。

その椎葉のおじとおば(妻)の”もう一軒”の其々のいとこ家
もう一軒とは「片山家」です。
球磨にはそんなに沢山ある姓ではありません。
椎葉のおじが言うには別の場所から球磨に来られたそうです。

代々宮司家である「尾方家」が大正時代に縁戚関係をもった「家」と言う事で
調べてみました。
日本の苗字七千傑様のサイトで片山氏を検索すると・・。
複数の「片山氏」が登場したのですが、その中で非常に気になる「系」がありました。

【桓武平氏良文流】《河越氏/高山氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

※上記の他【宮村氏】【夜久氏】が河越重時の裔、【葛貫氏】が河越氏族、【片山氏】が高山重遠裔を称する。

こちらの画面に「清和源氏頼範流 中川氏へ」と・・・あります。

すなわち高山重遠裔を称する「片山氏」と「清和源氏頼範流 中川氏」は同族となる・・と言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の清和源氏頼範流 《中川氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01007.htm#001

いずれにしても
本姓 大神 氏 尾方 であり、代々宮司家を務め現在15代目となる親戚の尾方家と大正時代に縁戚関係を持った
椎葉家(岡原平川家の長女が跡継ぎとして養女に入る)・広○家・片山家
そして後年、この縁戚関係に嫁がれてきた方は須恵の平川家(中川家から婿養子の方が入られた)の方。
この繋がりは非常に気になる所です。

所で・・
椎葉のおじの椎葉家ですが・・
江戸末期〜明治初頭にかけてのいずれかの時期に旧久米郷奥野村(現多良木町)から旧宮原村に移って来られているのは解っています。
旧久米郷奥野村には白木神社(妙見神社)が鎮座であり、こちらの宮司家も「椎葉家」です。
熊本県神社誌 記載の
古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 には
白木神社 椎葉家(姓 大神 氏 椎葉)とあり
初代 大神惟当 という方から始まり、代々「惟」の通字であり、現在13代目となられる系です。
9代目の方の名が「椎葉帯刀」であり、この方から「椎葉」氏を名乗られているようです。

椎葉のおじの「椎葉家」には先程書いた「尾方家」から『養女に入った私の祖母の姉の婿養子』と『椎葉のおじの妻』が二代続けて嫁がれています。
本姓大神氏の尾方家と縁戚関係を二代に渡って結んでいる「椎葉家」ですから
先程書いた「旧奥野村鎮座の白木神社宮司家である本姓大神氏の椎葉家」との繋がりは濃厚かと推測するのですが・・
補足 たけぽん様 大神氏とは・・ご覧ください(..)
大神氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F

大神氏 (豊後国)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F_ (%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)


ただ、旧岡原村には大神氏ではなく別の系を称したとても気になる「椎葉家」もありました。

平成五年 岡原村教育委員会発行
岡原村誌 編纂者 高田素次氏
こちらの岡原村誌 第一巻 に『熊本県球磨郡真宗開教史』に記載された「専立寺」についての記事が記載されています。
旧宮原村住の「椎葉常吉」氏について書かれています。
明治十三年当村に椎葉常吉と云へる篤信者あり。法義弘通の為め自己の宅地に教場を設置して是を提供し、宮原別府説教場と称す・・以下省略。

さらに・・
明治四十四年四月に、山門脇に建てられた「椎葉常吉翁」の顕彰碑文について書かれています。
そこには
『岡原村川辺家出襲椎葉家』という言葉が記されています。

すなわち
「専立寺」の建立に貢献された旧宮原村(後の岡原村)の椎葉常吉。この方の「椎葉家」は「川辺氏を出襲」した椎葉家である・・と言う事です。

ここで「川辺氏」が登場しました。

椎葉のおじの「椎葉家」と上記の「椎葉家」との関係は今の所解りませんが、しかし・・
やはり・・鹿児島永吉他『鹿児島地方』に関係した方々と平河氏所領地である球磨の永吉庄柳瀬の関係は無視するわけにはいかない!とあらためて感じています。

次のコメントで必ず書きます!

今日の朝一は
椎葉のおじから聞いた新情報からの調査を書かせて頂きました。
では(..)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月01日 05時06分23秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

早速、鎌倉時代の「鹿児島」と球磨の永吉庄柳瀬に関連した調査を御紹介させて頂きます。
かなり長くなりますが御了承下さい(..)

山江村誌歴史編 66ページに
岩戸合戦とその恩賞 について書かれています。
一部転記します。

〉霜月騒動、岩戸合戦については、弘安九年(1286年)閏十二月二十八日の蒙古合戦并岩戸合戦恩賞拝領人交名注進写(『比志島文書』所収)がある。
この注進写には、勲功人、敗北者、勲功人の恩賞地が書かれている。
このうち、肥後国球磨郡と関係ある部分を引用してみる。
一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 

と・・記されています。
嶋津大隅大炊助長久法師 には肥後国相良領 少卿入道殿跡が恩賞地となり
川辺次郎 には肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡が恩賞地となった
と言う事が解ります。

さらに山江村誌歴史編では上記の方々について以下のように分析されています。
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。

「矢上孫三郎泰継跡」は平姓鹿児島郡司の一族であり、「肥後国簗瀬宮・」とは人吉庄内簗瀬(柳瀬)、十島天満宮宮司のことではないだろうか。

と書かれています。

上記の分析を参考にさせて頂くと(p_-)
一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)

現相良村内「柳瀬(簗瀬)」と「深水」は平河氏の所領地でありました。
1290年代後半〜1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」でありました。
この事から推測すると・・
平河氏の所領地内には当時「平姓鹿児島郡司の一族」の矢上氏、その後「川辺氏」が在していた事が解ります。
肥後国簗瀬宮・・・とは以前、こちらで何度もコメントした『十島天満宮宮司職』を指すのでは?と山江村誌の編纂者の方は推測されています。

上記の件とは別に、私は以前、こちらのスレッドで「谷上氏」と「相良氏」の関係をコメントしていました。
平川家について34 コメント9 です。
「人吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号」掲載
当時の人吉市教育委員会文化課主任であった鶴嶋俊彦氏著の論文「人吉庄の歴史的景観の復元」を読ませて頂いての事です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101538_33.html

上記で書かせて頂いた中で特に今回の調査で重要な部分を整理すると
”相良氏・平河氏・税所氏・永富氏系図相関(推定)図”より
光考天皇・・(数代略)・・家継「大隅国在国 藤原綾氏」・・略・・@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 ⇒ A師継「税所氏を名乗る」 ⇒ B圓昭(員昭)「球磨入部」・・・以下略します(..)

系図では・・
※@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」
※大隅国正八幡地頭「頼忠」(佐原頼忠)の妻は上記「税所氏系図」のB圓昭(員昭)の娘
※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)。
妻は・・紀氏 西山九郎道房(税所氏被官向笠氏?)女子。
ここで「紀氏」に繋がります。
上記の相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)から・・略・・相良又三郎「薩摩郡光富領主」に繋がります。

(p_-)
※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)
ここでも「谷上氏」と「佐原氏(相良氏)」との姻戚関係が見えてきます。
さらに「良峰氏」「税所氏」「紀氏」との姻戚関係も解ります(p_-)

実は・・私、最近でも「矢上氏」の名は全く別の画面で見ていました。
私の曾祖父の実家の久保田家墓所で見た「家紋」の話を書いた時です。
※大村氏と有馬氏の家紋と同じ家紋がお墓に施されていた・・の話ですが・・削除してしまっていました(@_@。 おっちょこちょいです(..)
私が見た「画面」とは日本の苗字七千傑様の【藤原氏長良流】《有馬氏/大村氏》姓氏類別大観 です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02013.htm#002

有馬氏と桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」は縁戚関係が見えます。

そして・・
先に書いた「川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡」の件が
鹿児島市史のPDFに記載されている事に気が付きました。
こちらにはナント!平安末期〜鎌倉初期の球磨郡久米郷の地頭「久米三郎」と薩摩平氏の方々との姻戚関係を暗示する記述もありました。
さらにもちろん「矢上氏」そして「秦氏」である「惟宗氏」についての記述も多数あります。

長くなりますので、続けてのコメントにて転記させて頂きます(..)
コメント2に続きます(..)
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月01日 05時11分26秒 ) パスワード

コメント3より続きます(..)

〉先に書いた「川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡」の件が
鹿児島市史のPDFに記載されている事に気が付きました。
こちらにはナント!平安末期〜鎌倉初期の球磨郡久米郷の地頭「久米三郎」と薩摩平氏の方々との姻戚関係を暗示する記述もありました。
さらにもちろん「矢上氏」そして「秦氏」である「惟宗氏」についての記述も多数あります。

全てを転記する事は出来ませんので、皆様、よろしければじっくりとお読みください(..)
PDF 鹿児島市史 第三編 中世編 第一章 鎌倉時代の鹿児島
http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/2012510154859.pdf

(p_-) 特に気になる記述を抜粋させて頂きます(..)
まずは・・当時の薩摩地方の郡司他の勢力が理解できる内容が続きます・・(..)
129ページより
建久図田帳建久八年(一一九七)六月注進の薩摩国図田帳によれば
「鹿児島郡三百二十二町内島津同御庄寄郡、寺領三十七町五段安楽寺下司僧安静、社領八十町 正八幡宮領、府領社七町五段下司前内舎人康友、公領百九十七町郡司前内舎人康友地頭右衛門兵衛尉 但し本宮(郡司平忠純)」
とある。この中、安楽寺領とあるのは具体的には薩摩国分寺領であり、正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
正八幡宮領は大隅国において一二七〇町余を数えたが、薩摩国においても荒田庄を含め二二五町余を数える。正八幡宮領には一円領と正税官物は国衙に弁済し、公事は正八幡宮に納入する応輸田すなわち半不輸領とがあるが、荒田庄は一円領で両者共正八幡宮の収納である。現在の荒田八幡社付近一帯がその庄域であったと推定される。
中原親能の有する荒田庄地頭職はその後正八幡宮寺の愁訴によって廃されたが、また山北六郎種頼が補任され、元久元年(一二〇四)に至ってさらに正八幡宮寺の訴えによって大隅国帖佐郷地頭肥後房良西、万得名地頭馬部入道浄賢ら共々その職を止められている。
以後鎌倉時代を通じて荒田庄には地頭はおかれなかったのであろう。府領社とは大宰府所管の神社で薩摩国内に中島宮、新田宮、開聞宮、伊佐知佐の四社とここ鹿児島郡郡本社で府領五社とよばれる。郡本社は現在の郡元一宮神社であろう。
七町五段の所領も恐らくその近傍に所在したのであろう。地頭は島津忠久、下司は惟宗康友とある。公領一九七町が島津庄寄郡である。
寄郡は一円領と異なり半不輸領で国衙と領家(荘園領主は近衛家)に両属し、年貢公事等も両者に分納する。
郡司は同じく惟宗康友であり、地頭もまた同じく島津忠久である。
ただ本宮(郡)司平忠純とあるのは何であろうか。本とは旧来とか本来とかいう意味で、ここではもとの郡司は平忠純であったということであろう。すなわちつい最近になって平姓郡司から惟宗姓郡司に代わったことを記しているわけである。

(p_-)ここで・・
※正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
中原親能が大隅正八幡宮領荒田庄の地頭であった事が解ります。
※山北六郎種頼 という方の名も見えます。

さらに転記します。(p_-)
郡司平姓鹿児島郡司の初見は祢寝文書建部清忠解状断簡に「彼の清房は平家の与力の人、鹿児島郡司有平と同意して宣旨御使時遠を散々と射動かした」
とある有平が最初である。
そしてこの有平は薩摩平氏系図に平次郎大夫良道の子、多祢平次有道、あるいは給黎兵衛尉有道とあるものの子としてみえる人と思われ、また建久八年一一九七( 六月注進の大隅国図田) 帳に中略・・
この有道・有平は薩摩・大隅両国に跨って島津庄数郡の郡司職を兼有した勢力者だったのであろう。そして大隅国島津庄の場合、建久八年(一一九七)現在、なお依然としてその子孫が知行をつづけている状況であるというから、同様の事情が薩摩国の場合にあったとしても不思議ではない。
すなわち有平の没後、その後と思われる平忠純の党が依然として在地にあって権力を有しており、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍してその功を認められ、平姓鹿児島郡司にかわって鹿児島郡々司職に任ぜられた藤内康友の支配力はなかなか浸透しにくかったと考えられる。
新任の郡司藤内康友は薩摩国一宮社新田八幡宮の執印であり、同時に牛屎院(現在の大口市)木崎名一五町の名主職をも有している。藤内康友は惟宗姓であり・・中略・・平家与力人であった前郡司平有平―忠純にかわって鹿児島郡司職を獲得することに成功したものであろう。
中略・・
阿多郡地頭鮫島家高行願が康友の子の友久の子師久(尚)と相論した際・・中略・・。康友は薩摩国守護島津氏と何らかの特殊関係にあったのではないかと思われる。

中略・・
(p_-)惟宗氏・・秦氏ですね。

(p_-)・・ここから久米次郎・久米三郎の名が登場します!

惟宗氏の郡司職支配は一時的、形式的なものにとまり、間もなく平姓鹿児島郡司が復職することになる。建久九年(一一九八)関東御教書案はその間の事情を物語る史料といえよう。やや難解ではあるがその大意を記そう。
これは頼朝の側近者の一人が頼朝の意向を島津忠久に伝える形式をとっている文書である。
「久米次郎家願が鬼界島に渡って死去した後は子息があれば当然相続すべきであるのだが、一人の子もないので舎弟忠重に相続させるべきである。・・中略」
大意は右の如くである。ここに薩摩平氏系図の記載によると、良道の子忠吉(良)について「鹿児島太郎」と号す、兄忠景の養子たるにより、太郎と号す、鹿児島郡を譲る」
とあり、その子に女子とあり、その下に
「貴賀島に渡り死去し了んぬ、久目次郎と号す、久米郡司妻」
とある。この久米郡司妻とあるのは女子の説明であり、久目次郎とはその所生の一子を示しているのであろう。久目次郎と並んで忠重の名がある。久目次郎は右文書にみえる久米次郎家願であり、家願が貴海島(硫黄島)に渡って死去した旨を記しているのであろう。
貴海島に渡るとは、吾妻鏡、文治四年(一一八八)五月十七日条に鎮西奉行人天野遠景等が貴海島(現在の川辺郡硫黄島)を平定するとあるのに該当し、恐らく貴海島にザン入した阿多平氏を討つため渡海した軍中に家願も加わり同地で死去したものであろう。
そして右様の事情から家願の後一旦康友の有に帰した鹿児島郡司職をその弟忠重に与えるというのであろう。前掲系図の久目次郎と並んでみえる忠重の条には
「久目三郎と号す、鹿児島主」とある。建久図田帳に本郡司平忠純とあるのは或はこの家願のことではなかろうか。
有平―忠吉―忠純(家願)−忠重と鹿児島郡司職は相伝されたのであろう。
中略・・

(p_-) まずは当時の鹿児島郡司職に関わる全体像を知る事が出来ました。
上記にあった「久米次郎」「久米三郎」という方の名。
私は建久年中の肥後国球磨郡図田帳にあった球磨久米郷の領主「久米三郎」が頭に浮かんだのですが・・
鹿児島市史 167ページには
※久米次郎家願の出自については明確にしえない。久米の地名は肥後球磨郡にあり、早く相良文書に久米氏が見えるが、その関係は未だ詳らかでない。
と記されています。
非常に興味があります(p_-)

鹿児島市史の記述は、さらに・・時代が進んで行きます。
特に、宮原の一族の先祖である橘公業は承久の乱(1221年)後は、長門守護・薩摩守・下野守等を歴任し、一族は「橘薩摩」と呼ばれるようになりますので、当時の薩摩地方とは全く無縁ではありません。
ここまでの整理として
※平姓鹿児島郡司・・有平―忠吉―忠純(家願)−忠重と鹿児島郡司職は相伝された

続けて『矢上氏』が登場します(p_-)
転記を続けます(p_-)
中略・・しかしいかに康友の側から非難されようと現実に郡司職をもっていたのは忠重であったらしい。それは左の承久乱後の嘉禄三年(一二二七)。十二月二十四日の関東御教書案からもうかがえる。中略・・
康弘は執印氏系図によると康友の孫である。康友の後、鹿児島郡々司職を相承すべき権利者として忠重を退けようと訴訟をおこしたのであろう。すなわち承久の乱で康友が関東方に属し、上京の途次伊予攻撃の軍に加わろうとしたが、早く河野氏が降伏したので急いで上京し、北条泰時の見参に入ったのに比し忠重は京方に加担したらしい。この訴論の結果については明らかではないが、恐らくその責を問われ、忠重は所職を失うに至ったのではあるまいか。
しかしこの後、新たに鹿児島郡司として登場したのは惟宗氏ではなく、矢上氏である。
そしてその後惟宗氏はこの矢上氏を相手に郡司職について争を繰り返すことになるのである。
貞永元年(一二三二)閏九月八日の訴状により郡司職の事について対決のために矢上三郎盛澄を召し進むべきことを守護島津忠義に命じている。
中略・・
それならこの矢上氏とは一体どのような系譜の豪族であったろうか。それは実は明らかでないのである。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』は二説をあげ、一を先の平姓鹿児島郡司と同じ薩摩平氏の一流とし、一を肥前有馬氏の族矢上氏とし、その氏名は肥前矢上の地名を負った如くにしるしている。
一体薩摩平氏の系譜はいずれも肥前伊佐平氏との関係に縁故をもとめており、これは薩摩地方一帯に繁衍した在地の豪族が伊佐氏の勢威を慕い、或は何らかの縁戚関係により平氏同族を称したのであろうが矢上氏の場合もその例にて郡司職を襲ったものと考えられる。
そして矢上の氏名は同族長谷場の氏名が現在鹿児島市内に字地として残っているように、矢上の字名も残っており、やはり鹿児島郡内の地名を負ったものと考えられる。
長谷場は福昌寺墓地付近、矢上は西境を伊敷と接する(催馬楽)城付近である。矢上氏が他より移り来たったという伝承は薄く、むしろ古来鹿児島郡司の末とする伝承の強いことや、その後の矢上氏の在地性の強さなどからみて、たとえ縁族としてのつながりはあるにしても、同氏が全くの後来の豪族ではなく在地豪族平姓 鹿児島郡司の一流と見た方が妥当するように思われる。
矢上氏に関する系譜としては同族長谷場氏系図が伝えられているが、これはその最初の部分(十四代まで)は全く肥前有馬氏の系図と同じである。次に掲げる二系図を比較してみれば明らかであろう。

(p_-)・・ここで、矢上氏と同族の「長谷場氏」系図と「有馬氏系図」が記されています。
中略・・
このうち、矢上五郎時純については谷山氏系図に、河辺通綱の子久通、久通の子信通、その女子が鹿児島。五郎時純妻とあることにより、河辺氏と縁戚関係にあることをしる。
中略・・
矢上氏についてはその後、比志島文書所収、弘安九年(一二八六)閏十二月二十八日の関東式目案に付属した勲功賞受領者交名并所領注文に鹿児島郡司職矢上孫三郎泰継の名がみえる。すなわち河辺次郎には肥後国簗瀬宮・矢上孫三郎泰継跡が与えられ、次に同勲功賞として臼木七郎兵衛尉氏家子息をはじめ、米生又三郎種盛子息、田尻次郎種宗子息、同三郎子息、同四郎種継跡、米生九郎種有子息、矢俣兵衛尉跡信成子息野中左衛門三郎宗通法師、香西又太郎定慶跡等計九名にそれぞれ「薩摩国鹿児島郡司職内十分一矢上孫三郎跡」を分与しているのである。簗瀬宮・職については明らかでないが、鹿児島郡司職については九名に十分一あての配分となっている。

\(◎o◎)/!ここに!記されている「簗瀬宮・職については明らかでないが」!
これが! 今回のコメントで最初に書いた
一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 
でございます!!

中略・・
この史料によると矢上孫三郎泰継は何らかの原因によって、(或は前年の弘安霜月騒動と関係があるのかもしれないが明らかでない)郡司職を失い、その所職は蒙古合戦の恩賞として筑後、肥前等の北九州の御家人たちに分与されている。しかし彼らのえた郡司職とは恐らく郡司得分米等の得分権のみで、在地の支配権は依然矢上氏の手中に残されていたのであろう。
中略・・
矢上泰継については明らかにしがたいが、恐らくその後と思われる矢上弥五郎はそれから二年後・・・以下略

(p_-)以下略・・としましたが、ここから後、「鹿児島郡地頭職 同永吉」と言った鹿児島の「永吉」に関する記述へと繋がっていきます・・

今回、私自身がしっかりと全体を理解する為に、必要な部分のみを転記させて頂きましたが・・
まず・・単純に考えても・・「地名」が・・
球磨郡の平河氏所領地と一致し過ぎている・・
平河氏所領地の一つ・・球磨郡永吉庄「荒田」
鹿児島・・荒田庄。そして「永吉(永吉村)」
さらに・・矢上氏。有馬氏との縁戚関係はもちろんなのですが・・妙な感なのですが
私は・・肥前を中心に、九州一円と所領地を持っていた「橘薩摩一族」の影を感じてしまうのは何故なのだろう・・妙な感がビンビン働いています・・

さらに・・
鹿児島薩摩地方と肥後球磨地方とは、想像以上に「平安中期〜鎌倉時代」にかけて強く繋がっていたのではないか・・?
と考えます。

一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 

※大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)

※貴賀島に渡り死去し了んぬ、久目次郎と号す、久米郡司妻
※「久目三郎と号す、鹿児島主」

他にも、平河氏・相良氏と姻戚関係であった税所氏に関連する鹿児島史誌を見つけているのですが・・
まずは、転記させて頂いた事を基に、「系」の確認等、「勉強」を致します(..)

大変、長くなりました。
(..)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月02日 10時53分23秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

コメント3では「矢上氏」を「谷上氏」と書いている個所が数か所(..)
お恥ずかしいです(..)
谷上氏 ⇒ 矢上氏 です。お詫びして訂正致します。(@_@。

所で・・
コメント3で
貴海島(現在の川辺郡硫黄島)の話が出ていましたが、私、昨年の夏、鹿児島の長崎鼻に行って「川辺郡硫黄島」を遠くに眺めて「心の海」だってコメントを書いた事を思い出しました(^'^)
ブログにも写真を載せていました・・
この時「何故?鹿児島なのに長崎鼻?」とはちょこっと不思議に感じたのですが・・

(p_-) マタマタ発見してしまいました!
書きます(..)

コメント3で
〉さらに・・矢上氏。有馬氏との縁戚関係はもちろんなのですが・・妙な感なのですが
私は・・肥前を中心に、九州一円と所領地を持っていた「橘薩摩一族」の影を感じてしまうのは何故なのだろう・・妙な感がビンビン働いています・・

と私は書いたのですが・・(p_-)
※宮原の一族の先祖である橘公業は承久の乱(1221年)後、長門守護・薩摩守・下野守等を歴任し、一族は「橘薩摩」と呼ばれるようになる。
※承久の乱後・・新たに鹿児島郡司として登場したのは惟宗氏ではなく、矢上氏である。
ここが妙に気になったのです。
タイミングが何だか一致しているような気が・・・???

さらに・・
※有馬氏と桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」は縁戚関係にある。
※橘の一族の「支配下」にあったと文献等に記されている、私の住む「旧宮原村」
私の家の近く、集落内の1655年に建立の庚申塔には「宮原姓」以外にも沢山の方々の名が残されていて、その中に3人の「有馬氏」の名があった・・
※曾祖父の実家「久保田一族」のお墓にあった「家紋」・・

何だか・・全て繋がっているような気がして・・??

しかし(p_-)よ〜く考えてみると
〉桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」
を私はまだ・・調べていませんでした(ー_ー)!!・・あっ!(..)

すぐに・・
日本の苗字七千傑様のサイトで『桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」』を検索したのですが・・
ビックリしました\(◎o◎)/!
『桓武平氏敦盛(駿河守)流「矢上氏」』とは・・長崎氏の一族でした!!
ぎゃ〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

日本の苗字七千傑様の《長崎氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01108.htm#001

わあああああ!!どうしよう!!妙〜な感が当たっていた〜(@_@;)
長崎頼綱(平頼綱)と宮原の一族の先祖「橘公綱」は父は違えど・・「同母兄弟」です!!!
橘公業の子「橘公員」の妻が実は「平頼綱」を産んだ女性であり・・その後「橘公員」との間に「橘公綱」を産む・・

うむむっ(p_-)
矢上氏の祖となる「長崎重綱」という方の母はどなたなのかな・・???(?_?)
もしや!!(p_-)

と言う事で・・
矢上氏とは・・宮原の一族の先祖『「橘薩摩 公員」さらに「橘薩摩 公綱」』とは縁戚関係にある一族の方々である!
と言う事が解りました。

所で・・相良長頼の子「佐原頼忠」
大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)

あああ〜ん???(p_-) な〜るほど(p_-)
そう言う事か・・!
この縁戚関係の影にも実は「橘薩摩」の影がう〜っすら見えているようです。 むむっ!!

薩摩の平氏の方々 まだまだ・・調査を進めます
(^O^)/

では(..)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月03日 08時48分14秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

コメント3で御紹介した鹿児島市史の内容の一部が解りやすい「系図」として
ウィキに載っていました。

薩摩平氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B9%B3%E6%B0%8F

薩摩平氏(さつまへいし)は、中世前期まで主に薩摩半島を支配した桓武平氏の一族。平貞時を祖とする。

概要[編集]
島津荘を開墾した平季基も同族であり、伊作良道の子らは川辺一族と言われ(良道の長男が川辺氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。
源為朝が阿多忠景の乱を起こした阿多忠景(もしくは忠景の子・忠国)の女婿だったとする説がある。

※源為朝が阿多忠景の乱を起こした阿多忠景(もしくは忠景の子・忠国)の女婿だったとする説がある。
スレッド『松葉宗益 後裔 平賀氏』で『六殿宮祭主家「平江家」』について勉強させて頂いた時に・・
松葉宗益 後裔 平賀氏について2
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101548_75.html
松葉宗益 後裔 平賀氏について3
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_11.html

上記の源為朝・阿多忠景(平忠景)と『六殿宮』との関係は????
と言う内容を書かせて頂いていました。
ころも様 こちらのスレッドご覧になっていらっしゃるかな?
何だか・・・(p_-) いつもの妙な感が動き始めています・・

ウィキの関係図
平貞時………………伊作良道┳川辺道房━川辺道綱
             ┣多禰有道━道高━給黎安道
             ┣頴娃忠永┳忠方━━┳福本忠保
             ┃    ┣指宿忠光┗奥忠房
             ┃    ┣知覧忠信
             ┃    ┗薩摩忠直┳忠友━是枝忠秀
             ┃         ┣山口忠宗
             ┃         ┗串木野忠道
             ┣阿多忠景┳阿多宣澄妻(宗阿弥陀仏)
             ┃    ┣伊作重澄妻
    ┃    ┗源為朝妻
             ┣別府忠明━┳加世田忠真━大浦忠光━坂本忠奥
             ┃     ┣谷山忠綱
             ┃     ┗谷山信忠(宣澄妻の養子)
             ┣鹿児島忠吉(忠景養子)┳久米郡司妻┳忠澄(久米次郎・家願)
             ┃          ┃     ┗忠重(久米三郎)
             ┃          ┗鮫島宗家妻━鮫島家高
             ┗彼杵三郎久澄妻┳和田八郎親澄(伊作氏の養子)━則澄━実澄━有澄
                     ┣重澄(忠景の婿養子)
                     ┗塩田三郎秋澄━塩田太郎光澄━益山太郎兼澄

うまく張り付くかな???

球磨郡久米郷の久米三郎について3年程前に色々調べていた事を読み返していたのですが
色々気が付きました\(◎o◎)/!
「藤原義孝の長男、行成を祖とする 世尊寺家」の藤原伊行 に繋がる調査です。

ただ・・
本日・明日と外出致しますので(..)
コメントは後日<m(__)m>

では(^'^)
[6]たけぽんさんからのコメント(2017年03月05日 22時25分26秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

花粉・・・
恐るべし( ノД`)(泣)

それより

ミヤハラ様

色々調べ物が進展している
ようですね(^-^)

うちは、林○と三○の
系図を調べてるのですが
思うように進まず( ノД`)

ですが、諦めずに
頑張りますo(`^´*)♪

[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月06日 12時05分29秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
家の親戚は(こう言う書き方なら問題ないかな(p_-))
曾祖父の実家の久保田家から林田家に婿養子もしくは嫁いでいて、その林田家から
祖母の実家の平川家に嫁いでいる方がいます。(明治時代?)

相良藩士の「林田氏」について人吉市史に書かれていた事が(p_-)
藩士諸家系図の最後に
『以上の他、本地方の諸家には相良氏出の豊永、稲冨、犬童、西、黒肥地、乙益、蓑毛、桑原、樅木、内田、久保田その他の支流最も多く、
又北家藤原氏の菊池、米良、岡本の諸氏、懐良親王隋従の新宮、大蔵姓高橋、薩州より来住の別府
高千穂明神系の神瀬、遠州隋従の西浦深水、井福、芦北の深水、椎葉地頭の林田、五木地頭の土肥
その他系図や由緒を伝える家筋は未群の諸家も多い事を記して後考に備えたいとおもう。』
とあります。

※椎葉地頭の林田
上記を裏付ける内容が記されていました。
林田盛衛 中略・・那須ト改姓

現在、球磨には多数の林田姓がありますが、少なくとも一系の「林田氏」は
椎葉地頭の「那須」氏の流れを組む「林田氏」であった事は間違いないようです。

先に書いた中に
※薩州より来住の別府 とあります(p_-)
なるほど・・別府氏は薩摩から来られた事がこれで判明しました(p_-)

所で・・
たけぽん様、皆様
実は、私、薩摩半島〜野間岬〜阿多の笠沙〜鹿児島〜垂水〜霧島
とめぐる旅をしてきました(^'^)

突然、主人が父に
「結婚記念日に鹿児島の野間岬・笠沙に○○さん(私)を連れて行きます(^'^)」と・・
何も聞いていなかった私はビックリ!!
主人は「ずっと、野間岬・笠沙に行きたい!って言っていたでしょ(^'^)」と。
父は「古代しか興味が無い」?人なので
「わあ〜良かったな〜行ってきなさい!!(^'^)」と。

車での旅でしたが・・
人吉から「伊佐(大口)」までは、トンネルが通ったのでわずか30分。
そこから、東郷経由でまっすぐ薩摩川内市。
薩摩川内市から吹上浜へ。(ここまで・・家から2時間かかっていません。近くてビックリでした)
この道なりですでに私は大興奮!
だって、今、調べている「薩摩平氏」「阿多平氏」の本拠地を通っている訳ですから・・
というか・・
私、主人には自分が何を調べているのかなど・・本当に一言ひとっこと!も喋っていないのですよ\(゜ロ\)(/ロ゜)/
こう言う所が主人の本当に不思議な所です・・
今までにも何度もありましたが・・

そしてニニギノミコト所縁の御地、阿多の笠沙『黒瀬』に。(^'^)

海を眺めていたら笠沙の地元の方が話しかけて来られました。
何処から来られたのか?と聞かれたので
「熊本の球磨郡です(^'^)」と答えると・・
「ありゃ!!おたくらは”球磨人(くまじん)”ねぇ!!(^'^)」と。
笠沙の人は球磨郡の人を”球磨人(くまじん)”と呼んでいる事を初めてしりました(p_-)・・(゜-゜)
主人は小倉生まれの小倉育ちと話すと・・
「ありゃ!球磨人(くまじん)に引きこまれたとやな!!(^'^)」と。
さらに・・その方から
「球磨郡にはねむか〜しからこの辺りの人達は縁があるとよ!今でも親戚がある人はいっぱいおるよ!」と。
その方も球磨郡水上村には縁戚がいらっしゃるそうで・・従弟は大口(伊佐)に住んでいらっしゃると言われていました。

というか・・・本当にビックリしました。
球磨郡に住んでいると解らない・・外部からのお話。
さらに・・ここは古代の「阿多」の地域です。

そのおじさんは「球磨郡は近い近い(^'^)」と笑っていらっしゃいました。
というか・・・私も来て見て「何だか思っていたより全然近い!」とは感じました。

しかし・・この車での旅・・
「地名」が今、調べている所がドンドン登場して本当に勉強になりました(^'^)
もちろん・・車中ではそのような話しはしていません(ー_ー)!!

笠沙の海岸線を走りながら車中で聞く「ONE OK ROCK(ワンオクロック)」の『We are』は最高でした!

しかし・・よ〜く考えると・・
阿多平氏の方々も薩摩平氏の方々も平安時代に治めていた場所は「天孫ゆかり」の御地だったのだな〜と言う事が解りました。

翌日は鹿児島からフェリーに乗り桜島へ。
『黒神』地区を目指して進んでいると、海を隔てて、向かいには霧島連山高千穂峰と韓国岳がそびえていました。
『黒神』地区から眺める桜島は迫力がありました。

帰りは、垂水から霧島神宮に向かって山を走り、霧島連山のすそ野を抜けて湧水〜えびの経由で帰ってのですが・・
垂水から人吉までこれまた2時間はかからなくて・・
やはり近かったです(p_-)・・(^'^)
旅の最後に主人がポソッと
「ねぇ?今回の旅”黒瀬””黒神”とか他にも”黒”の字が付く場所が多かったね・・?」と。
私も実はその事に気が付いていたのですが・・主人が言うので驚きました。

今回
沢山のパワーを頂いたので、これからの調査も精力的に進めます(^O^)/
ブログに美しい海の写真をアップ致しましたのでよろしければ皆様ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12253800270.html

では(^'^)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月06日 15時54分46秒 ) パスワード

追記です(..)

コメント7で人吉市史記載の明治以降に改姓された「林田氏」について書きましたが・・
ちょっと気になる改姓をされている方がいらしゃいまして・・
書きます(..)

内田輪助 久世ト改名ス 子榮ト稱ス浪床二移リ後西村湯前ニ住ス

(p_-)内田輪助という方は「内田」から「久世」に改名されています。
子供さんは湯前に住していたと言う事ですね・・

「久世」氏???
内田輪助氏の『内田氏』は・・元は「久世氏」だったのかな????
今現在、球磨郡に「久世」と言う姓はあったかな・・(?_?)

それと・・
私の曾祖父繋がりの親戚は何故か「畠山」「千葉」「片岡」「久我」と
やはり人吉・球磨郡にはとても少ない姓が多いのは何故だろう????(?_?)

追記でした(?_?)・・・(..)
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月07日 11時50分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

実は・・・
昨日書いたコメントが妙に頭から離れなくなって・・
意識が薩摩に行ったり遠江国(井福氏?)に行ったり、あと・・すごく内田氏と久世氏の関係が
気になったり・・・
おそらく(p_-)
昨晩はコンパスで書いたような丸い顔のように見える”物体”?が全国を飛び回っていたのではないでしょうか(p_-)
目撃情報があったりして・・(;一_一)・・(ー_ー)!!
いつもの妙な感が働き過ぎています((+_+))

所で・・昨日の追記ですが
〉私の曾祖父繋がりの親戚は何故か「畠山」「千葉」「片岡」「久我」と
やはり人吉・球磨郡にはとても少ない姓が多いのは何故だろう????(?_?)

久我家、曾祖父繋がりだけではなく(ー_ー)!!
実は、親戚の多良木の平川家から、久我家に一人嫁いでいます。

うん(?_?)・・しかし・・よ〜く考えると・・多良木の平川家は私の曾祖父の実家の久保田家から養子が入り継いでいた・・?
と言う事はやはり久保田家と久我家の関係が強い!と推測出来るのでした・・

でも・・何故?久我氏は上球磨に来られたのかな・・?
椎葉のおじの話では、久我家は球磨に来られた最初は黒肥地に住されて、その後、久米(奥野)村に来られて・・それから多良木と岡原に分かれた・・と言っていました。
(時代はいつの話かは解らん(ー_ー)!!と言っています)
しかし・・詳しい(p_-) 母(私の祖母の姉)から聞いたそうです。

あああ〜ん((+_+))・・「薩摩関係」の事を進めたいのに頭(意識?)が・・どうしても・・(@_@。

内田氏と久世氏の関係も気になる・・((+_+))
日本の苗字七千傑様のサイトで久世氏を検索すると・・。
と〜っても気になる系の方々が登場しました。

《勝間田氏/内田氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022d4.htm

きっと!うん?おそらく? ここではないのかな・・むむむっ(p_-)
内田氏と久世氏・・並んで表示されています。

横地氏 ⇒ 勝間田氏/内田 同族!
と言う事は!!相良氏と同族!

なるほど〜そういう事なのか・・
内田正衆と言う方の子となる「正広」と言う方から「久世」を名乗っていらっしゃるのですね・・

球磨の内田氏・・鎌倉初期からの相良氏族なのですが・・
そう言えば・・江戸時代?だったか「内田氏」が何処から来られたと人吉藩の史誌で読んだ記憶が・・鎌倉時代からの相良氏族「内田氏」とは別の「内田氏」であった可能性もあり・・
もう一度、確かめてみます・・

あっ!今気が付いたのですが・・私の曾祖母の実家「新堀氏」。
こちらの「新堀姓」の発祥は確か「勝田」(勝間田)だったような・・
(?_?) グルリンぐるりん 繋がりはじめました・・

気にはなりますが・・
まずは、一つ一つ整理して(..)
平安時代〜鎌倉時代にかけての球磨と薩摩・大隅の関係をまとめなきゃ!

とりとめのないコメントですみませんでした(..)

では(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月09日 09時32分31秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

〉まずは、一つ一つ整理して(..)
平安時代〜鎌倉時代にかけての球磨と薩摩・大隅の関係をまとめなきゃ!

と言う事で(p_-)
今日は、球磨・薩摩・大隅 に残る「紀平」・「紀平次」・「紀平二」に関して御紹介致します。

まずは建久八年(1197年)肥後国球磨郡図田帳(相良家文書)に残る各氏をご覧ください(..)
山江村誌 歴史編より引用

※蓮華王院人吉庄
領家 八条院
預所 対馬前司 清業 (中原清業)
下司 藤原友永 字人吉次良(人吉次郎)
政所 藤原高家 字須恵小太良(須恵小太郎)
地頭 藤原季高 字合志九良(合志九郎)
同  藤原茂綱
同  藤原真宗 久米三良(久米三郎)
同  尼西妙

※鎌倉殿御領 五百丁
預所 因幡大夫判官 (大江広元)
内永吉庄三百丁 地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名
須恵小太良(郎)家基領 百五十丁

※公田 (旧久米郷)
豊富 地頭 藤原真家 字久米三良(久米三郎)
豊永 地頭 藤原家基 字須恵小太良(須恵小太郎)
多良木村没官領 伊勢弥二良 不知実名(伊勢弥二郎 不知実名)
※その後久米氏は寛元二年(1244年)五月十五日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書)の署判に
「惣公文藤原真憲」として見える。と山江村誌には記されています。

平河氏に関係する「名」として
※永吉庄三百丁 地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名
が見えます。
『良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名』
先入観抜きで読むと 良峯師高子息は字平で紀平次 「不知実名」とは実名は解らない?(もしくは、今は理由があって書けません・・?)となるのかな???
様々な文献ではこの人物を良峯(平河)「師貞」であろう・・と書かれています。

私はこの「紀平次」そして「字平」ここがどうしても気になっていたのです・・(..)
そこで、当時、「紀平」及び「紀平次」を称した「字平」の方々が何処かにいらしたのではないのか?と推測して調べてみました。
そこで解った事を書かせて頂きます(..)

@「紀平」に繋がる「渋谷氏」について
相良藩の重臣として代々名が残る「渋谷氏」ですが、球磨ではなく薩摩の渋谷氏の記述にとても気になる内容を見つけました。
サイト【渋谷・東郷_系図上人物一覧】
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/11503834.html
・初代・実重〜渋谷光重の次男(婿養子。妻が光重の娘。)。実は紀平三武者実直の子。母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴。

・2代・忠重〜実重の嫡男。承久の乱で戦功。

・3代・重高〜忠重の嫡男。弘安の役で戦功。

・4代・頼重〜重高の嫡男。妻は寺尾重道の娘・竹鶴。

・5代・重親〜頼重の嫡男。弘安9年生まれ。別名:忠重。徳治3年9月23日、淵脇山の土穴に入り憤死。

・6代・氏親〜頼重の次男。別名:重清・重幸・氏重・氏清・武重・重年。妻は島津忠宗の娘・経阿

以下略・・

(p_-)・・・
※初代・実重〜渋谷光重の次男(婿養子。妻が光重の娘。)。実は紀平三武者実直の子。母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴。
★実は紀平三武者実直の子 母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴
紀平三武者実直とはどなただろう?と調べたのですが・・
上記の「渋谷実重」と兄弟の方が解りました!!

サイト 紀氏のルーツ より
http://zan35441.on.coocan.jp/sub19.html
1184 紀実春 平安時の武士、大井兵衛(兵三)次郎と称する。
    ・源頼朝に仕え、平家家人を追討するため伊勢国に下向 
    ・1185-1 因幡目代で源義経の邸に見参した。
        ・看督長たちへ実春が勤仕した
    ・1185-11 伊勢国香取五ケ郷を拝領    
    ・1190-11 頼朝の入洛の際、後陣一番の隋兵を努めた。

     兵三武者実直
       ‖―――紀実春
     渋谷重国の娘

うまく張り付くかな(..)・・

(p_-) ここで解ったのは!!
「渋谷実重」の兄弟とは「紀実春」大井兵衛(兵三)次郎 大井実春!!この方だったのです!!
かなり、以前、平河家文書にある「実春」(近衛中将実春)を調べた時に「大井実春」という方の名は見たのですが・・・
「近衛中将」からして「徳大寺実春」だと私は推測したのですが・・・
※藤原公国(徳大寺公国)の子が近衛中将実春朝臣こと「徳大寺実春」と兄「徳大寺実重(妻:平光盛娘)(二人の母は大江広元の娘)

しかし!!妙な事に気が付きました!!
良いですか!!皆様!
「紀実春(大井実春)」の兄弟は「渋谷実重」
そして・・
「徳大寺実春」の兄弟は「徳大寺実重」
偶然にしては・・・何だか変だ『一致』し過ぎる!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
なんだ!!??このモヤモヤ感は・・・
モヤモヤモヤモヤ〜〜〜((+_+))

モヤモヤしながら、次のコメントでは同じく薩摩の「紀平二」を名乗った別の方について書かせて頂きます(..)

ここで、別件ですが 一つ!
コメント7で、相良藩士 別府氏について
〉薩州より来住の別府
と人吉市史に書かれていた事をコメントしましたが・・
コメント5で書いたように
平貞時⇒・・・別府忠明(別府氏)
日本の苗字七千傑様の《伊作氏/英禰氏》姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm#007
伊作氏・河辺氏(川辺氏)・伊佐氏・別府氏・・
同族である事が解ります。
【桓武平氏良文流】・・・??あっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私はやはり・・おっちょこちょいでおバカです(@_@。
ここで気が付きました(@_@。(えっ??マジか!!今頃!!?との声が・・(..))

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観 を拝見すると一目了然(..)・・(@_@。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

別府氏だけではなく・・人吉市史より
〉五木地頭の土肥

土肥氏もそうでした。以前からコメントしているように相良藩には土屋氏も・・
私の住む集落にも遠縁となる「土屋家」があり、こちらには「土肥家」から跡を継ぐ為に明治時代に養女の方が入っていらっしゃいます。

さらに・・
日本の苗字七千傑様の《良文流分流略系》を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm#001

自分が今までの(数年の)調査の中で『何を調べてきたのか!』が一目了然となってきました。

※椎葉家の和鏡・・三つ引き両紋・・三浦氏(佐原氏)
※家の方の「宮原・平川」の共通の親戚(私の曾祖父の系を介する)・・千葉氏・畠山氏
※家の宮原家の親戚・・川辺氏
※祖母(平川家の娘)の従弟の養子先・・金子氏
※遠縁・・土屋氏
※旧宮原村に建立の庚申塔(別府地区)土肥氏の名が残る
※家の方の「宮原・平川」の共通の親戚・・中村氏
※祖母の実家の平川家の遠縁・・杉本氏・和田氏 (深水家と共通の親戚)
他にも多数の事が・・

さらに・・
本日コメントした・・渋谷氏

さらに・・
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観と良茂流鎌倉氏とは繋がっていて・・
【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm
本当に一目瞭然だと・・あらためて痛感します。
長田氏と繋がっている・・・
さらに・・梶原氏・長尾氏・・・
※梶原氏・・宮原の一族の先祖「橘公業」の妻は「梶原景高」の娘であり「橘公員」の母である・・
※橘公員の子「橘公綱」の母であり、「平頼綱」の母でもある女性は「豊田五郎景基の娘」
もしかしたら・・長尾氏かな・・?
《長尾氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117a.htm

ここ数年来の調査で頻繁に書いていた言葉は
「平河氏を調べているのにどうしてか?宮原氏(橘氏)に繋がってしまう・・?」

きっと・・”遅くとも”「鎌倉時代」初頭には「絡まって」いるような気がします。
あくまでも・・”遅くとも”です(p_-)

そして・・きっと私を含め、「平河氏」を研究されて来られた方々もかな?見落としている「名」があったのだと思いはじめました・・

平河氏の系は、系図・南藤蔓綿録・求麻外史・肥後国誌等
其々の内容が異なり過ぎると、研究者の方々は様々な文献に書かれていらっしゃいます。
しかし・・「内容が異なり過ぎる」平河氏の系の説明に必ず記されている
平河義高(義考)以外にもう一人の方の名があったのです。そう・・必ずです・・
ブログにアップしている平河氏系図にも記されています。
画像@を右方向から読み進めると「必ず記されている名」の方があります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

良峯三郎 貞時

「貞時」 この方の名は様々な文献等に記載されている平河氏の系に必ず書かれているのに・・
私も、完全に・・スルーしてしまっていました・・・

どちらの「貞時」という方なのだろう・・・?
最近の調査でよく拝見する方のお名前も「貞時」だな〜?とは気づいてはいるのですが・・

きっと・・残されている数少ない二つの”真実の情報”
※一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)
※地頭 良峯師高子息 字平 紀平次 不知実名

武藤氏と平姓鹿児島郡司の一族と【桓武平氏良文流】と「紀平」氏・・が
関係している事は間違いないのかな・・と私は推測しています(..)

次回は

”薩摩の「紀平二」を名乗った方”について書かせて頂きます(..)

では(..)
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月09日 10時42分47秒 ) パスワード

追記です(..)

コメント10で長々と書いたのにめちゃくちゃ重要な事を書いていませんでした(@_@。

【桓武平氏良文流】
コメント1で書いた「片山氏」について
【桓武平氏良文流】《河越氏/高山氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

※上記の他【宮村氏】【夜久氏】が河越重時の裔、【葛貫氏】が河越氏族、【片山氏】が高山重遠裔を称する。

こちらの画面に「清和源氏頼範流 中川氏へ」と・・・あります。

すなわち高山重遠裔を称する「片山氏」と「清和源氏頼範流 中川氏」は同族となる・・と言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の清和源氏頼範流 《中川氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01007.htm#001

===============================================

そうです(p_-)
中川氏も【桓武平氏良文流】に繋がっているのでした(p_-)

では(..)
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月11日 12時21分46秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

”薩摩の「紀平二」を名乗った方”について書かせて頂くつもりなのですが・・
昨日も様々な文献を読んで、さらに驚愕の事実を知る事が出来ました。
『その件』を調べる為に私が所有する
元禄十二年(1699年)青井阿蘇神社第五十一代大宮司「大神惟董」編纂の『麻郡神社私考』を今朝、あらためて読んでいたのです。
残念ながら「簗瀬領 十嶋天満天神」については別當 蓮華院 とあり、宮司の名が記されていなかったのですが・・
その際に、他の神社の記述をパラパラと見ていて・・とても驚くべき事実に気が付きました!

鹿児島関係の発見については、次のコメントで書かせて頂く事にして
今回は、今朝気が付いた驚くべき事実を書かせて頂きます。

平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて平河氏が所領していた「永吉庄」内の木上領。
平河氏の跡を継いだのは「窪田(久保田)氏」

この木上領内に鎮座の神社の当時「元禄十二年(1699年)」の宮司家についてです。

@木上領岩城鎮座の 木本権現 (岩城 頂上に鎮座)
岩城は平河義高築城の城と言われ、『平河氏』の後は、窪田(久保田)氏が居城。
窪田(久保田)氏の後は『犬童氏』が城代となります。
南北朝の乱後、懐良親王隋従の新宮氏は窪田(久保田)氏が居城する岩城内に住されていました。
※木上領岩城鎮座 木本権現 宮司 永井善六

A由留儀大明神(由留儀加茂神社) 木上領十日市
高原(たかんばる)下に鎮座の神社であり御祭神は洛陽加茂神社同體 とあります。
近年、木上の民に崇敬を受けた久保田越後守が合祀されました。
※由留儀大明神(由留儀加茂神社) 宮司 永井喜右衛門

B荒田大王(荒田大王神社) 木上領荒田
岩城城主、平川右衛門三郎義高霊社也
※荒田大王(荒田大王神社) 木上領荒田 宮司 永井善六

C山王権現 木下権現西脇 (木上領)
社家傳云北嶽日吉神同體
※山王権現 宮司 永井善六
補足・・北嶽日吉神とは
北嶽日吉神社 河辺領北嶽
※社家傳云近江国滋賀郡日吉神社同體 大同年中鎮座(806年〜810年)
北嶽日吉神社 宮司 坂本民部

D天満天神 木上領 上田山
社家傳云 筑前國三笠郡大宰府天神同體
※天満天神 木上領上田山  宮司 永井勘左衛門

E二宮大明神 木上 上居倉
社家傳云阿蘇神同體
※二宮大明神 木上 上居倉 宮司 永井庄之助

他、久保田氏が一部所領の「一武村」に鎮座の神社
F松尾大明神 一武領十日市
社家傳云山州葛野郡松尾神社同體
※松尾大明神 一武領十日市 宮司 永井甚六

実は「永井氏」が宮司を務めた神社は以上の「木上領」と「一武領」の7社のみです・・
全て・・「平河氏」そして「窪田(久保田)氏」が所領した地域の神社です。
今まで全く気が付いていませんでした・・・・
さらに「永井氏」の数軒は、家の親戚の椎葉家そして宮司家である尾方家とは親戚関係にあります。
宮司家間のネットワークに基づいた縁戚関係があったのではないでしょうか・・?
そして・・椎葉のおじや私の父の曾祖母であり、私の高祖母でもある「永田家の娘」

この事に気が付いたのは
空の青海のあを様、三つ柏服部様のスレッド『長上郡の服部氏族』の中で
三つ柏服部様がお調べの坂本神社の宮司家であった「永井氏」についての研究を
拝読して勉強させて頂いたお陰です。
心より感謝申し上げます。

永井氏は「平河氏」「窪田(久保田)氏」が所領した木上領・一武領の神社の宮司家として名を残していましたが
「永田氏」も人吉・球磨郡内の神社の宮司として名を残していました。

★永田氏が宮司を務めた神社について
@若宮神社 人吉梅花町
菊池氏夫婦之霊社也 宮前ノ古墳是其夜■也 藤原定頼(六代相良遠江守)公建立(記述内には永富彌三郎頼常當主ノ名代となった方で関東鎌倉で戦死された方御夫婦だと記されています)
※若宮神社 人吉梅花町 宮司 永田左京

A一條妙見 大村領 木末山
社家傳云 藤原頼俊(佐牟田六郎相良三代)公御夫婦ノ霊社也 或ハ息女トス
或ハ一條家ノ族也 中略・・故ニ祭テ之一條妙見トス
※一條妙見 大村領 木末山 宮司 永田左京

B祇園神社 大村領 辻村
社家傳云山城八坂祇園同體
※祇園神社 大村領 辻村 宮司 永田左京

以上三社が「永田氏」を宮司家とする神社でした。
大村領・・大村は以前コメントしたように、
※窪田(久保田)氏十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、母も若くして亡くなり、八才の時に弟と共に大村に移り住み他家に養われて成人した・・
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村・旧蓑毛村を指します。

宮司家「永井氏」「永田氏」。

椎葉家・尾方家の親戚関係に永井氏があり・・
家の宮原家の親戚関係を含めると
「平川」「深水」「久保田」「蓑毛」「犬童」「尾方」「永田」「永井」
とても偶然とは思えない気がします・・

『麻郡神社私考』から解った事でした(..) 
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月14日 19時17分49秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

実は、一昨日、マタマタ主人の発案で宮崎県日南市に御鎮座の鵜戸神宮にお参りに伺わせて頂きました。
(何だか最近の主人は・・? 何か・・奥底に眠る何かに目覚めたかな(p_-)・・?)

ブログに写真をアップ致しました(^'^)
皆様、よろしければご覧下さい(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12256236510.html


ただ・・私は・・今までに様々な神社様にお参りさせて頂いている中で、どうしても・・
御拝殿そして御本殿のお写真を撮る事に躊躇してしまうもので・・・
御本殿のお写真はウィキのページをご覧ください(..)
鵜戸神宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%88%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE

所で・・(p_-)
ウィキの鵜戸神宮の記述をあらためて読み、勉強すると知らなかった事が沢山書かれていました。

鵜戸神宮(うどじんぐう)は、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在神社本庁の別表神社に指定されている。
日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
創建 伝崇神天皇朝

「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。

祭神[編集]
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴以下の皇祖神と神武天皇を祀る。主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めている。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。

歴史[編集]
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。また、延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。
平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。

中略・・・
祀官[編集]
前述の通り、古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで、明治維新までは仁王護国寺を仁和寺が所管し、18の寺坊が神門に至る八丁坂参道の両脇に並んでいたが、明治の神仏分離で、第59世の観空法院を最後に廃され、寺坊も悉く棄却された。

中略・・・
境内社[編集]
本殿周りに以下の3社がある。
皇子神社 - 本殿左側に鎮座し、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山(ふながたやま)に鎮座し、明治維新後現在地に遷座したという。なお、1977年(昭和52年)に旧社地にも分霊、復祀している
住吉神社・火産霊神社・福智神社 - 3社が1宇に鎮座。祭神は底筒男神・中筒男神・上筒男神(住吉社)、火産霊神(火産霊社)、仁徳天皇(福智社)
九柱神社 - 神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀る
そのほか洞窟外に、門守社(楼門左右。左に櫛磐窓神、右に豊磐窓神を祀る)、鵜戸稲荷神社、波切神社(波切不動)が鎮座している。

上記の記述にあった以下の記述は全く知りませんでした・・(..)

※延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。

※古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は快久が勤め、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義真言宗に改まったようである。別当は智積院で学び、仁和寺で任官する習わしで・・・

★『第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。』
\(◎o◎)/!
仁和寺門跡一覧 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA%E9%96%80%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7

1200年代までの方々は・・
初世 空理(金剛覚)- 宇多天皇
第2世 性信入道親王(大御室)- 三条天皇第四皇子
第3世 覚行法親王(覚念、中御室)- 白河天皇第三皇子
第4世 覚法法親王(真行、高野御室)- 白河天皇第四皇子
第5世 覚性入道親王(信法、紫金台寺御室)- 鳥羽天皇第五皇子
第6世 守覚法親王(守性、喜多院御室)- 後白河天皇第二皇子
第7世 道法法親王(後高野御室)- 後白河天皇第八皇子
第8世 道助入道親王(光台院御室)- 後鳥羽天皇第二皇子
第9世 道深法親王(金剛定院御室)- 後高倉院第二皇子
第10世 法助(開田御室)- 摂政左大臣藤原道家五男
第11世 性助入道親王(後中御室)- 後嵯峨天皇第六皇子
第12世 性仁法親王(高雄御室)- 後深草天皇第四皇子
第13世 深性法親王(尊勝院御室)- 後深草天皇第六皇子
第14世 寛性法親王(常瑜伽院御室)- 伏見天皇第三皇子

しかし・・
私は本当に不勉強でした・・・

★平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。
※『両部神道』とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%83%A8%E7%A5%9E%E9%81%93
両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。
概要[編集]
密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされる。それは大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の儀規として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈した。

思想[編集]
両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮一光説)。両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目した命名である[1]。
また、日本書紀の三神に、仏教の如来の三身をあてはめ、国常立尊が法身、国狭槌尊が報身、豊斟渟尊が応身であるとし、この三神が合一して、密教の本尊である大日如来となるともした。
また古事記の天神七代は過去七仏に等しく、また北斗七星の各星を表しているとされた。またイザナギ・イザナミ、諏訪神社の上社・下社、なども両部曼陀羅になぞらえられた。

歴史[編集]
両部神道の萌芽は仏教伝来にまでたどることができる。
仏教伝来により日本古来の信仰であった神道も多大な影響を受けた。日本の神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われるようになり、神社の境内に神宮寺が建てられ、仏像の影響を受けて神像も製作されるようになった。
やがて8世紀末頃から、日本の神々は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿を変えて現れたとする本地垂迹説が発生し、のちの神仏習合思想の基礎となった。
平安時代後期には、神道を理論的に説明する教説として僧侶による仏家の神道理論が成立した。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。
両派とも大祓詞の解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の説明が、当時の仏教界の主流だった密教の教義を用いてなされている。
いずれも、最澄・空海などに選者を仮託する神道書によっており、各神社の秘伝として伝授され、また一部は、修験道などを介して民間にも知られていった。これらは鎌倉時代に理論化され、後世多くの神道説を生み出していった。
これらの神道書のうち、後世に最も大きな影響を与えたのが、醍醐天皇が神泉苑に出現した龍女から受けた秘伝と称する『麗気記』である。この書は、伊勢神宮に関する真言密教に基づいた深秘説を集成しており、南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった[1]。

影響[編集]
両部神道はのちの神道説の展開に大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって、御流神道、三輪神道などの多くの分流が生じた。
しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえる伊勢神道や吉田神道が現れ、江戸時代には神道の主流派の教義となっていく。
そして、明治時代、明治元年の神仏分離によって,両部神道は壊滅的な打撃を受け、神道教義の主流派の地位を失った。

・・・・・・

私・・主人が突然「鵜戸神宮にお参りに伺いたい」と言った時に何だろう・・その・・主人を突き動かしているものは何なのだろう?と感じたのですが・・

鵜戸神宮にお参りさせて頂いて、その結果・・私自身が全く理解出来ていなかった『神仏習合』について勉強する事が出来ました・・・
(勉強しましたが・・・理解出来ているかと言うと・・・難しいです((+_+)))
しかし・・・知りたいと思っていた事を『偶然』知る事が出来た・・こういうのは・・でも『偶然』なのかな・・
何かとても大きなパワーにお導き頂いたような気持ちになりました・・

この事はあくまでも主人の発案でした・・
今までも何度もこういう出来事があったと以前からコメントしていたと思います・・

余談ですが(..)
主人の母方のおじいちゃん。
主人のおじいちゃん(祖父)は四国八十八箇所全てを巡拝されて満願成就となられました。
主人の母方は真言宗ですが
宗教うんぬんとか違いとかではなくて・・
信仰心を持ったおじいちゃんに子供の頃から色々な話を聞かせてもらって成長した主人の心の内には、何だろう・・言葉には表現出来ませんが・・
温かい清らかな”もの”が自然と育まれたのではないのかな・・と思います。
主人が他人様の悪口を言ったり、非難したりした事は一度もありません。
私とは全く違う性格です(..) 私はおっちょこちょいで、のんびりしているようで時折気が短くなり・・イライラするし・・本当は意地悪です(-.-)・・(..)(@_@。

だから・・お導き頂いているのは・・きっと私ではなくて主人なのかもしれない・・
とこの頃感じていた所でした・・

今日は「鵜戸神宮」にお参りさせて頂いて、勉強もさせて頂く事が出来ました!
というお話でした。(..)

では(^'^)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月18日 11時10分58秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

先日からの調査の続きとその序文?を今日は書こうと思っていたのですが・・
今朝、もしやの『大発見か!?」と言う事に気が付きましたので・・
書かせて頂きます。

実は、昨日、彼岸入りと言う事で、現在親戚の星原家が管理して下さっている曾祖父と曾祖母のお墓参りに主人と行って参りました。
曾祖父と曾祖母は、星原家のおじ(先代)が新しく建てたりっぱなお墓に一族として眠っています。『墓誌』(法名碑)に宮原家の明治時代に亡くなった高祖父・高祖母と共に名前が刻まれています。
祖父と伯父の遺骨は祖母の意思で昭和50年代初頭にお寺の納骨堂に移されました。
子供の頃はお墓には祖母とお参りしていたのですが、納骨堂が出来てからは、曾祖父・曾祖母のお墓にお参りする事は殆どなく(お墓には祖母だけお参りしていました(..))
こちら(球磨)に帰ってからは、お墓が小高い丘の中腹にあるので、父が私の心臓を心配して、「家の御仏壇にお参りすると曾じいちゃんにも曾ばあちゃんにも繋がっているから」と・・
言い訳になりますが(..)お参りした事がなかったのです・・・・
しかし・・最近・・私は曾祖父に守って頂いていると感じていて・・主人にお願いして、山道を手を引いてもらいながら昨日お墓参りに行った・・と言う次第です(..)
そこで・・『ある事』に気が付きました。(この事は調べてからいつか必ずコメントします(..))

その『ある事』が気になって・・今朝、「求麻郷土研究会 益田敬三氏 著の「南無」(人吉藩 人名と法号)」に目を通していたのです・・

すると・・『ある事』と繋がるかどうか?は解らないのですが・・「南無」(人吉藩 人名と法号)に驚くべき内容が記されていました!

私の家の前を流れる川の名前は「井口川」です。(別名 久米川。地元の古老の方々までは鶴の川と呼んでいます)
「南無」(人吉藩 人名と法号)を読んでいると・・
球磨の「井口氏」の祖である井口(藤原公頼)の記述が目が止まりました。

「求麻郷土研究会 益田敬三氏 著の「南無」(人吉藩 人名と法号)」より
※井口(藤原)公頼
井口右京と称す。井口家の祖、多良木上相良家四代因幡守経頼舎弟大炊助頼師の長男。相良家に仕える。
※井口師頼 井口公頼嫡子 右京亮と称す

驚きました!!
因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』。この方の嫡子が『井口師頼』
球磨の井口氏の初代・二代の方々の「名」を見ると!
「頼」・「師」・「公」の文字が!!
当時の各氏の「通字」
『頼』の通字は相良氏
『師』の通字は平河氏 (税所氏も数代「師」の文字がみえますが・・)
『公』の通字は橘公業後裔の通称「橘薩摩」一族!(肥後国球磨郡久米郷を所領)
相良氏と平河氏と橘薩摩一族 の影(縁戚関係)が『井口氏』には見えるのでは
ありませんでしょうか!!?

日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見すると一目了然!でした。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』
因幡守経頼とは多良木(相良)経頼。窪田(久保田)氏の祖「窪田頼吉」の甥にあたる方です。
多良木(相良)経頼の父 多良木(相良)頼宗。この方は・・・
求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)
こちらに記載の論文、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」。
第三代六郎頼宗の項に
「永仁元年(1293年)に父、頼氏の跡を継いだ様である。
頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
と記されていました!

※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』。

さらに・・「師頼」と言う名を名乗っていた方は同時代もう一人いらっしゃいます!

※日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)など少弐頼尚跡を給された平河又三郎師里、同国三俣院(同北諸県郡三股町内か)内の地を給された平河小三郎師頼
※「平河又三郎頼里」は 「平河子三郎師頼」とともに 人吉庄一分地頭であり 師頼は 永吉庄目良生村地頭で「目良生師頼」とも名乗っている。

偶然か!!?
「井口師頼」「平河師頼」・・二人の「師頼」という名の方々・・

さらに・・
※因幡守経頼舎弟大炊助頼師
「大炊助」・・ずいぶん最近”頻繁に”見かけています・・
(詳しくは後日、コメントを(..))

お墓参りをして気になった事を調べようと思ったら「偶然」見つけた上記の件です。

私、導いて下さった先祖に心から感謝しています。

では(..)
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月18日 17時42分43秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 マタマタの登場です(^'^)

たけぽん様、花粉症の具合はいかがですか?
今年は花粉の飛散量が近年に比べても多いようなので、
お身体十分にお気を付け下さい(..)

所で・・
コメント14を書いた後・・・色々調べてみました(p_-)
井口氏
※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』
井口氏は上相良氏族であるにも関わらず・・
人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地名を名前の由来としています。
さらに当時人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地頭は税所氏です。
私は・・ずっと家の前を流れる井口川の名の由来が解らなかったのです・・
井口の地名は人吉の北方にあるのに、何故?家の前の川の名は「井口川」なのか・・??
何度もコメントしていますが・・祖母は井口川を「家の川」と呼んでいました。(正確には国の河川です(p_-))


井口八幡宮について書かれたサイトを御紹介致します。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364077.html
井口八幡神社(いのくちはちまんじんじゃ)は、鎌倉時代の宝治年間(1247〜49)、相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられている。
相良氏の武神として歴代の崇敬が篤く、度々の戦に際しては戦勝祈願が行われたという。特に相良為続は、長享2年(1488)、明応元年(1492)の2度にわたり、百句連歌を奉納したという。
明治以前の神仏習合時代には、本寺として井口寺があり、境内向かって左側の堂にその本尊薬師三尊及び十二神将像が残されている。
社殿は元禄12年(1699)4月の火災ののち、相良頼喬が再興したもの。桃山様式を伝える優れた社殿である。

地図がありました。地図を上(北)方向にドラッグすると解るのですが
こちらは人吉市と北方の山江村の境界となる場所です。
http://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92868-0027+%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%B8%82%E4%BA%95%E3%83%8E%E5%8F%A3%E7%94%BA%EF%BC%99%EF%BC%94%EF%BC%99/ @32.2457394,130.7431992,17z/data=!4m5!3m4!1s0x353f70e4bbe92bbd:0x59bf1ad22c09ca!8m2!3d32.2442059!4d130.7453772?hl=ja

コメント2で書いたように
山江村誌歴史編 より
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。

※1300年代初頭、人吉庄の預所は「平河師種」。人吉庄の一分地頭職は「平河師頼」
※日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)など少弐頼尚跡を給された平河又三郎師里、同国三俣院(同北諸県郡三股町内か)内の地を給された平河小三郎師頼
※「平河又三郎頼里」は 「平河小三郎師頼」とともに 人吉庄一分地頭であり 師頼は 永吉庄目良生村地頭でもあり「目良生師頼」とも名乗っている。
※永吉庄目良生村とは、木上領目良生村である。
※少弐頼尚は「平河左近允頼尚」を名乗っている。
※平河氏系図に見える 頼貞(相良弥三郎)⇒ 貞継(小三郎次男)
貞継(小三郎次男)・・小三郎とは平河小三郎師頼であり、平河貞継は平河師頼の次男であった事が解る。
※平河貞継・・「継」の文字。「継」を通字とする税所氏(師継以降)
※因幡守経頼舎弟、『大炊助頼師』の長男『井口公頼』、嫡子『井口師頼』
★上相良氏族『井口氏』は人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地名を名前の由来とし、さらに当時人吉の”北方”の旧大村領井口(現人吉市井口町)の地頭は税所氏であった。
★当時の各氏の「通字」
『頼』の通字は相良氏
『師』の通字は平河氏 (税所氏にも数代「師」の文字がみえる)
『公』の通字は橘公業後裔の通称「橘薩摩」一族
※「橘薩摩」一族が所領した旧久米郷宮原村と旧久米郷岡本村の境界となる井口川
※因幡守経頼こと多良木(相良)経頼(窪田・久保田氏の祖「窪田頼吉」の甥)
★父 多良木(相良)頼宗。頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
(後に橘遠江入道道公が下着。南朝方として戦い所領の大半を失うが、橘公多の時代に旧宮原村の所領と地頭職は復活)
※木上城 城主 は平河義高 ⇒ 窪田(久保田)氏  と引継がれた。

以上をまとめてみました。
全て繋がっている気がします・・偶然ではないと思います・・・。

きっと・・おそらく・・
『平河』氏の名を残していく為に様々な系が「平河」を名乗って来られた。
その事によって「平河氏」は存続された・・
こう言う事ではないのでしょうか・・

その「系」を引継ぐ為に「平河」を名乗った様々な系。「系が様々」だからこそ
平河氏の「系」を記した史誌(求麻外史・南藤蔓綿録・肥後国誌他)や良峯氏先祖書は其々「内容が異なる」事が記されているのでは・・
※1050年代の『師澄(師純)』を球磨の最初の平河氏と記している書もあれば・・菊池氏を頼った『安則』を球磨の最初の平河氏と記している書もあれば(1140年代に球磨に下向とあり)
他にも内容が異なる記述が複数あり・・
「平河氏」を継いだ「異なる系」の其々の先祖を辿ると異なるのは当たり前のような気がします(..)
だからこそ「球磨の平河氏」の系が載った「系図」関係の書物が存在しないのでしょう。

ただ・・上記の他に・・何か・・隠さなければいけない「真実」が根底にあるのは確かなのでは・・??
(ここが一番の謎なのですが・・)
それが「平河義高」という方の『真実』なのか「平河師高」という方の『真実』なのか・・もしくは、『他の方』の真実なのかは・・
今はまだ解りませんが(..)

〉『平河』氏の名を残していく為に様々な系が「平河」を名乗って来られた。
その事によって「平河氏」は存続された・・

この推測に繋がる事を沢山発見しております(p_-)

明日は・・必ず「序文?」から書かせて頂くつもりです(..)

では(..)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月19日 19時26分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(..)

今日は、集落の会合とその後の宴会の準備、接待、片づけで・・
昨日、「書きます!」と言った事を書く時間がありませんでした(@_@。
すみません(..)

明日は、春のお彼岸中の唯一の宮原観音堂の御開帳の日となり
私は朝から、参拝のお客様の御接待に行きますので
明日も調査内容を書くのは無理かもしれません(..)

調査内容は後日、しっかりと書かせて頂きます<m(__)m>

明日は、御開帳を楽しみに宮原観音堂に来て下さる方々に
心ばかりのおもてなしをさせて頂きます。
(料理上手な集落の御婦人がたの迷惑にならないように・・私はきっとお笑い担当?でしょう(^'^))

では(^'^)
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月22日 10時57分36秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

宮原観音堂の御開帳の日は、どしゃ降りの雨と風の中、
九州各地から、沢山の方々が御参拝におこし頂きました。
ツアーバスで来られた方々の中や、自家用車で来られた方々の中には
20代〜40代前半の方々も沢山いらっしゃいました。
その方々の中に、今年で四年連続で春と秋の宮原観音堂の御開帳に福岡から
来られている・・と言う方もいらっしゃいました。
(相良三十三観音の御開帳を全て回るのは大変ですが、宮原観音堂には必ず来ています(^'^)と言われていました(^'^))
『日本の心』が若い方にしっかりと受け継がれている事がとても嬉しかったです。
集落の御婦人がたの手料理に皆様大変喜ばれていらっしゃいました(^'^)
(私は・・・殆どお笑い担当?でした)

所で・・
突然ですが・・・
江戸末期から大正時代にかけての祖母の実家の平川家に関わる重要な書類が見つかりました。

私の中に流れる「DNA」・・血脈のルーツは
宮崎県の『椎葉村大河内』にあるようです・・
何処からか・・遠い昔、そう・・八百年程前に椎葉村大河内におそらく『逃れて』来られた方の末孫家から
私の高祖父は平川家に養子に入っている事が判明致しました。

本日は外出致しますので・・
詳しくは明日、コメントさせて頂きます(..)

驚きの展開です・・・
では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月24日 10時19分19秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

今日から鹿児島(薩摩・大隅)と球磨の平河一族・税所氏、さらに武藤氏・少弐氏・橘薩摩一族そして「島津氏」との関係を順にコメントするつもりだったのですが・・
急展開?を向かえた『私の祖母の実家「平川家」の系』について
解った事を先に書かせて頂きます(..)

人吉市誌に
明治七年大蔵卿大隈重信から旧名と当時(明治七年)の名が異なる元相良藩士(当時の士族)を調べ直すようにとの達しがあり、その時に判明した30名の方の名が記されていました。
その30名の中に「堅助」⇒ 「平川堅治」 が・・。
人吉市誌を図書館で借りた時(1年以上前)にこの記述がどうしても気になりコピーしていたのです・・
理由は・・偶然か・・私の曾祖父の名にも「堅」の字があるからです・・

それから・・一年以上経った先日
コメント17で書いたように
〉江戸末期から大正時代にかけての祖母の実家の平川家に関わる重要な書類が見つかりました。
その書類に記されていた祖母の実家の平川家、明治初頭の当主の名は「堅治」。
私が、一年以上前にとても気になってコピーした記述にあった「堅助」⇒ 「平川堅治」は
私の高祖父の父にあたる人だった・・と言う事です。
「堅助」⇒ 「平川堅治」 こちらの「堅助」という名は江戸末期の相良藩を色々調べると「気になる事」が見つかったのですが・・
この事は後々書かせて頂きます(..)

さらに・・
堅助あらため「平川堅治」の養子となったのが、私の高祖父でした。
高祖父は養子となって岡原の平川家を継いでいたのでした!
書類で解った事・・私の高祖父の実家は旧久米村奥野の「矢立家」でした。
矢立氏・・?
今までの調査の中では一切登場していなかった「姓」です。
調べたのですが「矢立氏」はナント全国にわずか45軒しかない姓でした。
さらにその全国に「45軒」の矢立氏の内、熊本県内に12軒。内10軒は球磨郡多良木町。
他県では広島県に17軒。内11軒は山県郡安芸太田町在の方々。
九州内で「矢立姓」があるのは熊本県のみでした。

どうして・・?全国的にとても少ない姓である「矢立氏」から高祖父は岡原の平川家に養子に入ったのか????

そこで「矢立氏」について調べてみたのですが・・
球磨の「矢立氏」のルーツとなる「場所」を見つける事が出来ました!!
「宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内」です!!

大河内森林ガイドの会様が運営のサイト「宮崎県椎葉村 大河内癒しの森」
こちらのサイト内にある
『大河内の伝統文化、まつり』
国指定 重要無形民俗文化財 大河内神楽
<合戦原神楽、大河内神楽、矢立神楽、大藪神楽>
に「矢立氏」について詳しく記述されていました!

大河内森林ガイドの会 事務局の黒木様に御連絡を取り、こちらのスレッドへのリンク・文面のコピーを御了承頂きました。
黒木様には心から感謝申し上げます。

皆様、平家落人伝説の郷「椎葉村」の神事の伝承等が詳しく記されている
『大河内の伝統文化、まつり』のページです。
古代の神事に繋がるのであろう 国指定重要無形民俗文化財「大河内神楽」です。
こちらに「矢立氏」についても詳しく書かれています。
ぜひ、ご覧ください(..)

サイト
大河内森林ガイドの会
『大河内の伝統文化、まつり』
国指定 重要無形民俗文化財 大河内神楽
<合戦原神楽、大河内神楽、矢立神楽、大藪神楽>
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/culture.htm

サイトより幾つかの記述を転記させて頂きます(..)

(1) 国指定重要無形民俗文化財
 椎葉村には29の集落ごとに、それぞれ異なった神楽が伝承されています(うち4集落は廃絶)。そのすべてをひとくくりにした呼び名が「椎葉神楽」で、国の重要無形民俗文化財に指定(1980年)されています。つまり、椎葉の各集落で行われる神楽全てが、国指定重要無形民俗文化財なのです。

(2) 大河内神楽のあらまし
 大河内は、椎葉村西南部の、高塚山、三方岳、市房山、江代山(椎葉では津野岳と呼ぶ)に囲まれた一ツ瀬川源流域に位置する集落群の総称です。ここには、 いくつかの神社があり、4つの地区で神楽が伝承されています。大河内八幡神社での「大河内神楽」、合戦原王宮神社での「合戦原神楽」、矢立雪矢神社の「矢 立神楽」、今森神社・鹿倉神社の「大藪神楽」です。といっても、4地区の神楽は、同じ神楽保存会が同じ祝子(「ほうりこ」と読む=後述)で同じ演目を行う ので、ここでは総称して「大河内神楽」と呼びます。
ただし、大河内八幡で4年に1度行われる『注連の願(しめのがん)』の際は、他の地区にはない特別な演目が追加されます。神社の前庭には特殊な飾り付け が施され、演目には藁で編んだ大蛇なども出てきて、非常に興味深いものです。
 大河内神楽の発祥は定かではありません。
 ただ、それまでひそやかに営々と続けられ、守られてきた椎葉の神楽がはじめて外部に知られたのは、1964年、国の文化財保護審議会専門委員であった本 田安次氏による、大河内神楽の調査研究が最初といわれています。つまり、椎葉神楽が国指定重要無形文化財に指定されるきっかけを作ったのは、大河内神楽 だったのです。あちこちに伝承されている神楽の中でも、大河内神楽のかたちは最も古い形をとどめているといわれています。

(3) 神楽の基礎知識
中略・・
<御神屋・くも>
 神楽は、御神屋(みこうや)と呼ばれる空間で舞われます。四隅に竹を立て、注連縄(しめなわ)で囲まれたおよそ4畳半ほどの広さの空間です。文字どおり 「神の宿る場所」ですから、神主、祝子、氏子の主だった者以外は原則として足を踏み入れてはいけません。御神屋の正面は神を祀る祭壇で、そこには高天原 (たかまがはら)と呼ばれる、藁を束ねたものに御幣を立てたものと、さまざまな奉げもの(海のもの、山のもの、その年の生産物など)が12種類奉げられま す。

・・・・・・・・・・・・・・・
他、サイト内の「大河内神楽」についての記述を拝見する事によって、大変崇高な神事である事が解りました。

☆「矢立氏」についての記述
サイト内の『矢立 祭祀考(やたてさいしこう) <前事務局長の民俗レポート>』
こちらに「矢立氏」について記されていました!

はじめに

 椎葉村は広い。面積536平方キロ(役場資料より)という。が、平成の大合併後では、この広さもさほど珍し いものではなくなった。 面積を数字としてだけ見れば、ほぼ神戸市の広さに匹敵する。東京23区よりひとまわり小さいくらいである。
 だが、山と谷に隔てられた集落間を行き来してみれば、そのあまりの時間のかかりようによって、数倍、あるいは数十倍の広さとして実感されることだろう。 たとえば、私の住まう矢立(椎葉の南西部)と向山(椎葉の北西部)は、直線距離ではおよそ15kmしか離れていない。しかし、 矢立から向山まで車で行くとなると、いったん北東に峠越えの道を走り、村の中心部(上椎葉)に出て、さらに北に川沿いの道を走り、 それから西へ山に登る道を延々と走らねばならないのだ。平坦な直線距離であれば、15分で着くような距離しかないのに、実際は3時間ゆうにかかるのであ る。
 椎葉の集落は、大雑把にいくつかに分けられる。それぞれの集落群では、文化と習俗、言語が微妙に異なる。私の住居のある矢立は、 大きく「大河内」と呼ばれる集落群の中にある。ややこしいのは、この「大河内」という言葉が、この「集落群」を指す場合と、もっと広い範囲の 「大字としての地名」を指す場合とがあることである。ここでは、「大河内」を、文化、習俗を一定共通させた「集落群」の意味として使用する。 大字としての大河内を使用する場合は、その旨別途注記するものとする。
 さて、ここでは、大河内の中のひとつの集落である「矢立(やたて)」のまつりについて、民俗学上の資料としても通用する形でまとめてみようと思う。

中略・・
1.矢立の祭神

(1)雪矢神社(ゆきやじんしゃ)

 矢立集会所の左横からその上へ回る坂道を登りつめると、2軒の家が並んでいる。左の家の庭先を抜けると鳥 居が見えるが、 そこが雪矢神社の正面参道である。ちなみに、この地方では神社を「じんじゃ」と呼ばず「じんしゃ」と呼び習わしているため、ルビ表記もそのようにしてい る。
 男女対の夫婦神を主神として祀る神社である。この夫婦神のことを「雪矢さん」と呼ぶ。「雪矢」は「征矢」とも書かれるが、 最近は「雪矢」で統一されている。

神楽ができるほどの広さの社殿があり、正面には祭壇。その中央に、夫婦神を納めた小さな神殿がある。まつ りの時のみこの神殿の扉は開かれ、 真綿にくるまれた木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か=左の写真)を拝むことができる。
 この「雪矢さん」は、天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
が、どうもそれだけでは説明しがたいものがある。天満宮と異なり夫婦神であり、大河内の他の集落に存在する神社や祠の祭神と、 親子や兄弟の関係にあるとも伝えられているからである。

※木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か) 画像
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/img_access/yukiyatenjin.jpg

祭壇(写真1)には、夫婦神を納めた神殿に向かって右側に、山神(さんじん=山の神)、稲荷(いなり=田の神)の2神、 向かって左側に大神(だいじん=どのような神か不明)が祀られている。したがって、この社殿には、主神の雪矢天神も含め、4つの神が祀られているわけである。

(2)地主堂(じぬしどう=「堂(どう)」と簡略化して呼ばれる)

矢立集会所上の坂道で最初に出てくる人家のすぐ下にある、木造の小さな堂。
神体(右の写真)は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。 4畳ほどの広さのお堂の中に祭壇があり、石造りの像が3つ置かれている(写真左側の石像はその一つ)。 うち2つは古いご神体がそのまま置かれているものであり、本体は一つとみなされる。
堂の外には、苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。また、その奥に大石の碑が立てられている。 碑文はすでに風化して読むことができない。いずれにしても、地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。 地元の人々は、「地主さんは仏さんから神さんになった」と言う。明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。以前は集会所付近にあった屋敷に住まっていた ということである。
【作者註】神楽の幟に「矢立某」の奉納者名が染め抜かれているところを見ると、それほど古くない時代に この地を離れ、いまだにこの地との何らかのかかわりを保っておられるものと思われる。

矢立氏について書かれています!!!驚きました!!
※地主堂 御神体 衣冠束帯坐像
矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。
画像
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/img_access/jinusi.jpg

※「地主さんの墓」・・・奥に大石の碑が立てられている。
※地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。
※明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
※この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。
※神楽の幟に「矢立某」の奉納者名が染め抜かれているところを見ると、それほど古くない時代に この地を離れ、いまだにこの地との何らかのかかわりを保っておられるものと思われる。

椎葉村 大河内森林ガイドの会 事務局の黒木様と電話でお話した際に、
黒木様は宮崎県椎葉村大河内と
@熊本県球磨郡多良木村との関係
A相良藩と大河内との繋がり
等をお調べになっていらっしゃった事をお聞きしました。

私の高祖父が明治初頭(明治12年)旧久米村(現多良木町)「矢立家」より岡原の平川家に養子に入っていた事、
さらに偶然か・・私の祖母の姉が「椎葉家」に養女に入り跡を継いだ事
等をお話しすると
「矢立氏、間違いありません」
とおっしゃっていらっしゃいました。

さらに・・矢立集落の記述には非常に気になる事があります!

※雪矢神社 御祭神
木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か)
「雪矢さん」は、天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
それだけでは説明しがたいものがある。天満宮と異なり夫婦神であり、大河内の他の集落に存在する神社や祠の祭神と、 親子や兄弟の関係にあるとも伝えられているからである。

すでに皆様もお気づきの事と思いますが・・
私が拘り続けた・・「天満宮」・・天満天神・菅原神社
です・・

さらに「矢立氏」の祖に繋がる記述がサイトに記されています。
中略・・
3.年間の祭祀

(1)地主講
 旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。地租神の祭りである。 神事(神主及び世話役で執り行う)ののち、集落の全員(老若男女)が集まって、酒を酌み交わす。

※旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。

おそらく・・矢立氏は大河内矢立の地名から「矢立」を名乗られたのだと推測出来るのですが・・
では「大河内矢立」に来られる前はいったい「何と言う”姓”」だったのか・・?

私の高祖父は『実は矢立氏』であったと言う事が解った事によって
家の一族に伝わっていた「伝承」の意味がようやく理解出来ました。
椎葉のおじは
「先祖は米良か椎葉から来られた」と言っていました。
さらに・・
私の弟や父そして叔父(父の弟)さらに実は「私」も子供の頃・・
「平川は平家だった」と聞いていました(..)
私は・・近年の調査で平河氏は良峯氏であった事を勉強して理解しました。(その時に・・何だ聞いていた事とは違ったんだ・・と思ったのです(..))
弟や叔父にその事(良峯姓)を話した時に二人は
「違う!家は平家や!」と・・(叔父の”言葉”はかなり以前・・三年前位のコメントに書いたと思います(..))
弟も・・「ばあちゃんは平家と言っていた・・」と言って・・度々話す私の調査報告を不思議そうな顔で見ています・・
さらにさらに・・
椎葉のおじと叔父(父の弟)が共通して言った言葉が
「御先祖様はまるで山賊か?と見間違われるようなボロボロの格好で来られた」
です(..)

椎葉のおじにも叔父(父の弟)にも
「平河氏は平安末期には球磨の豪族だったのだから、そんなボロボロの格好で来られた訳はない(ー_ー)!!」
と、私は話していました・・(..)

もしかしたら・・もしかしたらですが・・
皆・・平川の高祖父の”御先祖様”の話(伝承)を伝え聞いていたのかもしれない・・
しかし・・早合点は出来ません(ー_ー)!!。
矢立氏の祖の「本姓」は今の所、まだ私には解っていないからです・・(勉強不足です(..))
ただ・・
矢立家から平川家に養子に入った高祖父の妻は(高祖母)は
「林田氏」から嫁いできています。
「林田氏」はコメント7で書いたように
〉相良藩士の「林田氏」について人吉市史に『椎葉地頭の林田』
とありました・・・(?_?)・・・(p_-)

さらに・・父に今回の調査で解った事を話すと
「父はやっぱりな・・」と言った後
「何故?矢立家から岡原の平川家に○○じいちゃんが養子に入ったのか?!。それを調べるのはお前の役目だ!」
と・・(..)・・((+_+))
私には大変難しい課題が追加されました・・((+_+))
(もう一つの父からの課題は”何故?久保田家から曾祖父が養子に入ったのか?です・・こちらも未解決(@_@。)

しかし・・不思議な事があります。
高祖父以降の・・私の曾祖父(平川家)の弟妹についてです。
実は・・曾祖父(長男)の弟妹・・私が理解していた人数?ではなく・・
もっといたのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

書類には、その弟妹が『横瀬氏』他、私が今まで調査して来た・・
平河氏繋がりの「多数の系(姓)」に養子に入っていた事が判明しました!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
さらに高祖父の養父となる「堅助」氏の後妻も、今までの調査で登場していた「姓」から嫁いで来られていました!
めちゃくちゃ「ビックリ!!」しました。
この内容は次のコメントで(..)
平河氏と矢立氏の関係は?????? (もちろん無関係の可能性もありますが・・(..))

と言う事で私の調査の急展開!
高祖父の出自について書かせて頂きました(..)

では。
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月28日 21時52分09秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は。
コメント19で書いた内容の中にあった椎葉家のお話ですが
やはり、ネットに公開すべき事ではないと判断致しましたので
削除させて頂きます。
修正した内容を以下に書かせて頂きます。
===============================================

コメント18を書いた後、4日間、色々な情報(文献等)を見ました。

今・・この数年間の調査で知った様々な「点」が線で結ばれたと感じています。

鹿児島(薩摩・大隅地方)の情報に気が付いたのも偶然ではないと思います。
しかし・・鹿児島(薩摩・大隅地方)の情報を優先して調査を進めていたら
きっと、「点」を結ぶ「線」に気が付くのはもっと遅れていたことでしょう・・
高祖父の系が「椎葉村」にあった事を気が付かせてくれたのは・・先祖の導きだったのだと思います。
その事により鹿児島(薩摩・大隅地方)との繋がりも・・”意味”が一気に解りました。

このコメント20と続けて次のコメント21で私が知った『繋がり』を書きます。

最初に
コメント18で書いた
〉書類には、その弟妹が『横瀬氏』他、私が今まで調査して来た・・
平河氏繋がりの「多数の系(姓)」に養子に入っていた事が判明しました!

ここから書かせて頂きます(..)

書類とは・・祖母の実家の平川家の祖母の兄弟姉妹までの除籍謄本です。

1.平川堅治(旧名堅助)の隠居と私の高祖父の家督相続の時期について
文久元年(1861年)八月に生まれた私の高祖父は明治十二年(1879年)一月、旧久米村奥野の矢立家から天保八年(1837年)八月生まれの平川堅治(旧名堅助)の養子となります。
※当時の二人の年齢 高祖父の養父平川堅治41歳 高祖父16歳
(高祖父の養父平川堅治の”後妻”は豊永氏の娘。当時35歳)

その後
高祖父の養父平川堅治は明治二十四年三月(1891年)54歳で退隠を届け出。
同明治二十四年三月(1891年)高祖父が家督相続。当時30歳。
※高祖父の養父(平川堅治)は54歳で退隠を届け出た後、隠居となり、大正四年(1915年)八月に78歳で亡くなりました。
祖母の実家の敷地内に隠居屋がありました。

この事で解る事は・・
高祖父の養父はかなり若い年齢(54歳)で隠居して高祖父へと家督を譲ったと言う事です。

2.曾祖父の事。そして、私が知らなかった曾祖父の弟達について
@高祖父から曾祖父への家督相続について
高祖父は大正十一年(1922年)一月、60歳で隠居届けを提出。曾祖父(長男)に家督が相続されました。
明治十四年(1881年)十一月生まれの曾祖父が41歳の時です。
高祖父は隠居となり、昭和三年(1928年)に67歳で亡くなりました。
※高祖父の妻、すなわち私の高祖母は林田家から嫁いできています。

A私が知らなかった曾祖父の『弟達』の事について
★二男 明治二十六年、8歳の時に旧久米村奥野「矢立氏」に養子に入る。
その後養子縁組を協議離縁。平川家の分家を起こす(妻は和田氏の娘)
※この方は平川家の親戚として知っていましたが、矢立氏に養子に入っていたとは知りませんでした。
★四男 西家に養子にはいる
★五男 西家に養子に入り、その後養子縁組を協議離縁。横瀬氏と養子縁組となる。
(上記、二人の弟は其々別の”西家”に養子に入っています)
★六男 佐藤家に婿養子に入る
★八男 平川家の分家を起こす。※この方が起こした分家平川家が今何処にあるのか、椎葉のおじさえ知らない方です。

3. 曾祖父母の養女(祖母の義妹)について
曾祖父母には養女がありました。この事は父も椎葉のおじも全く知りませんでした。
他家の「平川家」から養女に入っています。
父:平川久● 母:テ●● 長女のミ●● と言う方です。
ミ●●さんは昭和3年に理由は解らないのですが除籍となっています。
上記の平川久●と言う方は、元は「犬童」を名乗られていたような記述がありました。

1.平川堅治(旧名堅助)の隠居と私の高祖父の家督相続の時期について
2.曾祖父の事。そして、私が知らなかった曾祖父の弟達について
3. 曾祖父母の養女(祖母の義妹)について
で解る姻戚関係にとても驚きました。

「平川氏」「矢立氏(元椎葉村住)」「林田氏(椎葉村地頭家繋がりか?)」「豊永氏(高祖父の養父妻)」
「西氏」「犬童氏」「横瀬氏」「佐藤氏」

まず
「佐藤氏」は!ころも様 こちらのスレッドご覧になっていらっしゃるかな?
『六殿宮』の御祭神として佐藤氏の御先祖がお祀りされていたと記憶しています!

さらに
横瀬氏は・・
日本の苗字七千傑様の【良峰氏】姓氏類別大観を拝見すると解ります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
平河氏と横瀬氏は同族です。

「豊永氏」「西氏」「犬童氏」
こちらも日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見すると一目了然です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022b1.htm#005

山北頼平 ⇒ 長綱 ⇒ 「犬童氏」「豊永氏」「西氏」「原氏」
以前から書いているように「山北家」とは家の一族は親戚関係にあり、
驚きました!!系図通りの姻戚関係だった!!と言う事です!

犬童氏については以前からコメントしていました。
相良長頼の娘「尼妙阿」は良峯氏女「字牛(牛尼御前)」と言われ、さらに「尼妙阿」とは実は相良長頼の娘「犬童女」の法号であった・・と言う事を・・
相良長綱の母が相良長頼の娘「犬童女」であったと言う事もコメントしていました。
良峯氏女・・良峯氏とは平河氏の事か・・・?
殆どの書籍や論文では相良長頼の娘「尼妙阿」が平河氏に嫁いでいた・・すなわち平河氏と相良氏はこの事から姻戚関係にあった・・と推測しています。
尼妙阿の夫もしくは娘「阿夜」の夫は相良十郎三郎「助広」(資広の記述あり相良家文書)。

しかし・・
祖母の実家の平川家を継いだ高祖父は、上記には無い元椎葉村住の矢立氏。
高祖父の孫となる私の祖母の姉は「椎葉家」に幼い頃養女に入って椎葉家を継ぎました。
この椎葉家には平家一門の守り観音が代々受け継がれて、お祀りされています。
他、椎葉家の様々な『お話』を椎葉のおじにきちんと教えたのは・・林田家から嫁いだ平川の高祖母です。

椎葉村と平河氏。いえ!椎葉村の『椎葉氏・那須氏』と平河氏の関係・・
鎌倉時代の平河氏に関係する「武藤氏(少弐氏)」・「大江広元」・「税所氏」そして・・椎葉村の『椎葉氏・那須氏』の関係は・・
解りました!気が付きました!

全ては以前から何度も見てきた日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観そして《那須氏》姓氏類別大観そして《武藤氏》姓氏類別大観にあるのだ!と。

【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

《那須氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004a.htm

《武藤氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c3.htm#007

【藤原氏長家流】姓氏類別大観には鹿児島の正八幡宮に関係する税所氏も繋がっています。
様々な事・・詳しくは次のコメント21で書かせて頂きます!

《那須氏》姓氏類別大観に見えるのは、平河氏に関係する方々ばかりではありません。

旧宮原村在の在郷相良藩士(相良藩士分限帳に見える)「味岡氏」も見えます!
※旧宮原村 安政年間(1854年〜1859年)味岡門右衛門 と言う方の記述あり。

さらに【藤原氏長家流】姓氏類別大観には
同じく旧宮原村住の「馬鞍氏(馬倉氏)」も繋がっていました。
※旧宮原村の在郷相良藩士(相良藩士分限帳に見える)馬鞍金兵衛と言う方の名があります。
金兵衛の通称は新堀氏から馬鞍氏に動いたようです。この事が気になって実はコメントは書いていませんが以前調べていました(..)

今日は次のコメントに先だって「馬鞍氏(馬倉氏)」についても書かせて頂きます。

サイト「仙北小野寺氏」に馬鞍氏について詳しく記されています。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/lineage/aiueo/senbokuonodera.html

1189年の奥州合戦での戦功により小野寺道綱は出羽国雄勝郡の地頭職を賜り、後に小野寺経道が雄勝郡に土着したのが仙北小野寺氏の始まりという。経道の子孫は小野寺氏の代官として出羽国の雄勝郡などを管理していたが、泰道の代に宗家に替わって仙北の領主となったとされている。小野寺氏は一時は北は山本郡(北浦)、西は由利郡、南は最上郡にまで勢力を拡大し、出羽国有数の戦国大名となるが、最上義光との戦いでやがて衰退し、1600年の慶長出羽合戦で上杉氏に連動して最上領へ攻め込んだため、戦後は徳川家康に敵対したとみなされて所領を没収された。そして小野寺義道は石見国津和野に流され、以後子孫は津和野藩士となったという。

歴代当主
【小野寺経道】 おのでら つねみち (1249〜1293)
 仙北小野寺氏初代。三浦泰村の次男で三浦景泰と称していたが、『宝治合戦』で三浦氏が滅亡すると、景泰は出羽国大泉庄へと逃れた。その後、姉の嫁ぎ先の小野寺道業の元に迎えられ、以後は小野寺経道を称して稲庭を領したという。

驚きました!
【小野寺経道】三浦泰村の次男で三浦景泰と称していた

サイトをご覧頂くと一門衆・家臣団の中に
★馬鞍氏 馬鞍城 一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。1596年には馬鞍右門尉が馬鞍城を守っていたが、最上軍に攻められ陥落した。

旧宮原村在の馬鞍金兵衛という方の「馬鞍」氏。珍しい姓だと思い調べた所、「三浦氏」にも繋がる姓である事が解り非常に驚きました。
さらに
※馬鞍氏 馬鞍城 一門衆。小野寺高道の次男の道当が馬倉に移り住んだのが始まり。

小野寺は【藤原氏長家流】です!!!!
日本の苗字七千傑様の《小野寺氏》姓氏類別大観を拝見すると「馬倉氏」が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm

《小野寺氏》は《山内氏》に繋がり
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004b.htm#001

さらに《山内氏》は《首藤氏》に繋がる
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004b.htm#000

そして・・首藤氏と那須氏は同族!
【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

旧宮原村住の在郷藩士 馬倉氏(馬鞍氏)は那須氏と同族であったと言う事です!(さらに三浦氏にも繋がる!)

【藤原氏長家流】姓氏類別大観には家の親戚と同じ姓「片岡氏」も見えます・・

「那須氏」は今まで何度もコメントしてきましたが、家の親戚に何軒もあります。

とても長くなりましたが今日書いた事は次のコメントに確実に繋がっていきます・・
皆様 お待ち下さい(..)

最後に・・たけぽん様
那須氏族「熊田氏」と「中川氏」について調べていた事があります。
明日、書かせて頂きます(..)

では。
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月29日 22時44分38秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は。

申し訳ありません。本日、来客と集落の用事で外出して、コメントが遅くなりました(..)

昨日からのコメントの続きを詳しく書かせて頂くのは次回からとさせていただきます。
すみませんでした。

たけぽん様
昨日、
〉那須氏族「熊田氏」と「中川氏」について調べていた事があります。

と書きましたが
よろしければ、たけぽん様にお読み頂きたい別府大学のリポートがあります。
『藩政成立期に於ける二・三の問題について 豊後岡藩中川氏の事例を中心として』
こちらに豊後岡藩中川氏の家老であった『本姓 熊田』の『中川氏』について
詳しく記されています。

たけぽん様の御参考になればと思いご紹介させて頂きます。(..)
『藩政成立期に於ける二・三の問題について 豊後岡藩中川氏の事例を中心として』
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk02202.pdf?file_id=1378
後・・
椎葉村との県境に位置する球磨郡水上村に中川氏がいらっしゃったと親戚から聞きました。
水上ダムの水没域に住されていたようで、今は”別の場所”にお住まいとの事です。
たけぽん様とは無関係かとは思いますが、よろしければ参考にして下さい(..)

それから・・
皆様!・・私はやはりおっちょこちょいです(@_@。
昨日のコメントで大抜けがありました。
先程、気が付きました。

曾祖父の弟
★六男 佐藤家に婿養子に入る

〉全ては以前から何度も見てきた日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観そして《那須氏》姓氏類別大観そして《武藤氏》姓氏類別大観にあるのだ!

と書いたのに(@_@。私は本当にアホです(@_@。
もし・・日本の苗字七千傑様がこのスレッドをご覧頂いていらっしゃれば
きっと私の事を
「この人、本当におバカだな!」とお思いの事でしょう(@_@。

曾祖父の弟
★六男 佐藤家に婿養子に入る

日本の苗字七千傑様の《那須国造》姓氏類別大観 を先程拝見して自分の大抜けに気が付きました(..)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208c.htm

藤原氏長家流と佐藤公光と守部氏と那須氏
繋がっていたのでした・・(@_@。

ただ・・・
ここであらためて確信したのです(p_-)(立ち直りが早い!?との声が・・)

鎌倉初期に「那須氏」が椎葉村や球磨の周辺に来られていたと言う事に対して否定的な事が書かれている記述や文献を何度も目にしたのですが・・
私は、きっと!いえ(ー_ー)!!
必ず”「来られていた!」と思います。

その為にも「今まで調査して来た事」の点と線の繋がりをしっかり書かなければ!

一例として
「じゃあ何故?稲積神社(稲積妙見)」が家の近くに鎮座していたのだ!?宮司は椎葉氏ですゾ!」
と私は声を大にして叫びたい!です。
(何の事やら??との声も・・?聞こえたような(..))
(..)・・自分でもやっと意味が理解できたのですが・・・
(さらに・・何の事やか??・・との声が・・)

次のコメントからしっかり書きます!。

では(..)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月30日 08時59分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

今日は、精力的に書かせて頂きます。
まず、初めに・・
調査の『序文』(で良いのかな?)を書かせて頂きます。

1. 椎葉村に伝わる平家落人伝説について
椎葉村に住していた矢立氏がおそらく江戸後期、もしくは明治初期に旧久米村奥野へと移り、矢立氏から祖母の実家の平川家を継ぐ為に、高祖父が養子に入った・・
この事実を知った時から、今まで、殆ど調べていなかった椎葉村(過去、大河内と言う地名に興味を持って少しだけコメントした事はありました)について、私なりに勉強しました。
知識が殆ど無いと言う事は逆に先入観を持たないで情報を見る事が出来たと思います。
@平家の落人伝説について
ウィキの『平家の落人』から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
平家の落人(へいけのおちうど)とは、治承・寿永の乱(源平合戦)において敗北し僻地に隠遁した敗残者のこと。主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられる。平家の落武者ともいうが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたため、平家の落人というのが一般的である。こうした平家の落人が特定の地域に逃れた伝承を俗に「平家の落人伝説」などという。

中略・・
平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という概念が形容するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の例もあった。
中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。
後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方城助職の起こした謀叛などをみても、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。学界で平家落人を研究したのは柳田國男・松永伍一・角田文衛らであるが、証拠があまりにも少なすぎるために推測を交えざるをえないことから、学者の間でも説が食い違うことはよくある。以下の平家落人集落の比定でも、ある学者は平家の落人の存在を肯定するが、別の学者が否定しているケースも少なからず存在している。例えば柳田が全否定した沖縄の南走平家については、大川純一ら、沖縄の郷土史家の間では肯定的な意見が強い。角田が肯定した対馬宗家の平家末裔説も、他の学者は否定的である。といった具合である。
問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生するのである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。これらの後世の捏造文書が非常に真実の探求を妨げているのである。
======================================================
上記にあった
※ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生するのである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。

木地師 とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%9C%B0%E5%B8%AB
木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。
9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。 蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ。
木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった[1]。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた[1]。
木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、 明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。
=======================================================
※木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
※中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。

確かに・・椎葉村は
★日本で唯一、伝統的な焼畑農法を守りつづけている宮崎県椎葉村
と言う記述を目にする事があります。

宮崎県諸塚山
日向地誌に「七ツ山村に8戸の木地師(きじし)がいて、1,700個の木器生産」と記すように、 かつて小原井には木地師が住み、小原井御器(ごき)と呼ばれる木器を産したことで知られていた
とサイトに記されていました。(諸塚村七ッ山向の原・小原井神社)
サイト 山里の文化を訪ねて より
http://www.geocities.jp/tknrjpn/006-yamazato.html


しかし・・椎葉村の方々は自分達の祖は
「平家の落人」であり、那須氏の子孫である「那須氏」そして平家姓と言われる「椎葉氏」である!とプライドを持って生きておられ、その事に基づいて
椎葉平家祭りなどを催されたり、さらには、この地に来られた御先祖様を供養する目的も含めた祭りを伝承されている。
『民俗学』と言う高度な学問の知識は、素人の私にはもちろん”全く”ありませんが、「椎葉村の方々の精神」の根底にはきっと何かがあるのだろう・・と私は強く感じました。
さらに・・もしも、私の先祖も含めて『木地師』の系である・・としたら
※1 何故?高祖父は球磨の平河氏の系である岡原平川家を継ぐ事が出来たのか?
※2 さらに・・後説しますが、相良清兵衛(犬童頼兄)の最初の妻は椎葉村の地頭であった椎葉向山城主「那須弾正」の娘・露袈裟姫です。
戦国時代当時、椎葉地方には那須大八郎の子孫と称する那須十三人衆と呼ばれる豪族が支配。
そのなかで椎葉向山城主「那須弾正」と小崎城主「那須主膳の兄弟」と大川内城主「那須兵部大夫」は那須三人衆と呼ばれていた。
他、多数の事。

ウィキの記述にあった
※問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生するのである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。
確かに柳田國男氏は明治時代に椎葉村に滞在して椎葉村の調査を行い「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著しています。
しかし、ウィキの記述にあった『平家落人伝説捏造説』
私が書いた※1と※2 他多数の球磨との関連は一体どう説明がつくのか・・・?
私は大変疑問に感じました。

椎葉村観光協会サイト
http://www.shiibakanko.jp/shiru/yanagitakunio.html

サイトに記述の
※柳田國男が椎葉村を訪れたのは明治41年7月13日から一週間。当時の中瀬すなお淳村長の屋敷に滞在しており、その屋敷は現在もそっくりそのまま残っている。庭先に昭和60年8月に建立した「日本民俗発祥の地」の碑が建てられている。

柳田國男が、この屋敷に滞在した数日間、中瀬すなお淳氏は、民俗学資料採集に積極的に協力。
また、柳田國男が椎葉を立つ時、中瀬氏は村境まで見送った。
中略・・
※中瀬氏は、後日同村大河内に所蔵している「狩の儀式」を記した巻物を復元し、柳田國男に送っているが、これが「後狩詞記」として世に出るきっかけとなったことはあまり知られていない。
(p_-)この事が大変重要な意味を持つ事が解りました。

私が持った『疑問』を解決する論文がありました。
宮崎公立大学 人文学部教授 永松 敦氏 が書かれた
『山の神信仰の系譜』です。
ネットでダウンロードする事によって読む事が可能です。
リンクが張られないので
サイト検索で 「山の神信仰の系譜」と入力して頂くとリストに表示されます。
(リストに複数の関連サイトが表示されますがアドレスは『https://miyazaki-mu.repo.nii 』から始まりますのでご確認下さい)

私が「疑問」に感じた事を解決して下さった内容は213ページにありました。

以下、拝読して理解出来ました。

※同類の猟師文書は神歌や経文に精通した修験者がもたらしたものという推測が成り立つのだが実はそうではないと言う事。
※「寛正五年 奈須資徳相伝也」とあり、奈須資徳とは当時の椎葉山大河内掛庄屋を務めていた方だった事。(寛正五年:1793年)
※椎葉村村長が柳田氏に送った文書類の写しの全ては「実は大河内掛庄屋の資料郡」であった事
※上記の書類郡を基に柳田氏が「諸国叢書」として綴っていた事(「後狩詞記」よりも内容が豊富であった)
※柳田氏の手元に残った未完の文書類の一つに当庄屋家系図があった(相続して庄官となった奈須資徳の墓地も同家に祭られていて庄屋の当主であった)事
※「諸国叢書」以外の未完文の資料の中に椎葉山の由来を記した「椎葉山由来記」「椎葉山根元記」なども残っていて、椎葉の平家落人伝説と山の神の伝説は修験者でもなく、民衆でもなく、「庄屋」が管理していたと言う事
※椎葉の平家落人伝説の元となる寛延二年作成の「椎葉山由来記」「椎葉山根元記」は寛延三年(1750年)に身分秩序整備のために幕領の士分以上の苗字帯刀調査を行い、その由緒書を提出させた事由により作成されたと言われている事。
※修験の祈書の所有者は修験者の場合もあれば、庄屋や役人などの権力者であったりする場合があることに留意する必要がある・・
と言う事です。

宮崎公立大学 人文学部教授 永松 敦氏 が書かれた
論文『山の神信仰の系譜』を拝読して
「疑問」が解決しました!(^'^)
=================================================
と・・・
このようにして、私は、椎葉村の平家落人伝説とは?を最初に理解したのです(p_-)

ここから・・自分なりに調べた事が『今まで数年間の調査の「点」と「線」』を結ぶ事に気が付きました。

大変長くなりましたので
続きは次のコメントで。

では(^'^)
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年03月31日 17時37分44秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

早速
コメント23で書いた
『1. 椎葉村に伝わる平家落人伝説について』
@平家の落人伝説について 続きを書きます(..)

A椎葉村に伝わる伝承
椎葉村 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E8%91%89%E6%9D%91
中略・・
歴史[編集]
戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大河内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。1618年(元和4年)、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。以降、天領となり1656年(明暦2年)隣接する人吉藩の預かり地となった。
伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)。
日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。
=====================================================
※1.伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)。
★平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという

那須大八郎(那須宗久) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%AE%97%E4%B9%85
那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎。
弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。
=================================================

※2.平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。
※3.元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。

ここまでで理解出来た事は・・※1.※2.※3.
椎葉村に伝わる伝承
※1.伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)

那須大八郎(那須宗久)と鶴富姫伝説
※2.平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。
※3.元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。


※1.と ※2.・・こちらについては、『言い伝え』ではなくもしかしたら、コメント23で書いた
※柳田氏の手元に残った未完の文書類の一つに当庄屋家系図があった(相続して庄官となった奈須資徳の墓地も同家に祭られていて庄屋の当主であった)事
※「諸国叢書」以外の未完文の資料の中に椎葉山の由来を記した「椎葉山由来記」「椎葉山根元記」なども残っていて、椎葉の平家落人伝説と山の神の伝説は修験者でもなく、民衆でもなく、「庄屋」が管理していたと言う事
※椎葉の平家落人伝説の元となる寛延二年作成の「椎葉山由来記」「椎葉山根元記」は寛延三年(1750年)に身分秩序整備のために幕領の士分以上の苗字帯刀調査を行い、その由緒書を提出させた事由により作成されたと言われている事。

上記が関係しているのか?
さらに・・『当庄屋家系図』にも繋がっているのでは・・?と推測します。

そして・・
※3.元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。
他の様々な『那須大八郎(那須宗久)』についての記述(サイトや文献等)を見たのですが、殆ど同様の内容『追捕使が那須宗久であったという記録は無い』が記されていました。
しかし・・
『元久元年(1204年)に平家追討の宣旨』についてに関連するのか不勉強なのですが、吾妻鏡等には一切記されていない事でも、球磨では事実として認識されている事があります。
コメント7で書いた人吉市史記載の藩士諸家系図の最後にあった『五木地頭の土肥』
土肥氏・梶原氏は鎌倉時代初頭に五家荘に逃れて来られた「平家一門」の方々を隣である五木側から「監視」する役割を持って関東から来られています。
さらに、五家荘そして椎葉山(那須山)さらには米良庄へは五木から山を伝って行き来する事が出来る・・そう言う場所です。
球磨には土肥氏の他土屋氏が現在も多数住されていて、大半の方は「先祖は最初は五木に居た」と言われています。
『追捕使が那須宗久であったという記録は無い』と言う事で、那須氏が椎葉山(椎葉村)に来られたと言う「伝承」を全否定する事は出来ないのではないでしょうか・・・?
「梶原氏」「土肥氏」「土屋氏」「那須氏」・・

「梶原氏」「土肥氏」「土屋氏」が五家荘に隠れた平家一門の方々の監視の為に関東から来られたという事・・すなわち鎌倉幕府は『五家荘に隠れた平家一門の方々』を認識していたのだと思います。(あくまでも私の推測ですが)
その事はあえて口外する事なく、公式の文書に残す事もせず、内密に理解していた事なのでは・・
五木は関東下知状により「良峯師高子息字平紀平次不知実名」に安堵された永吉庄の一部であり、その永吉庄は「鎌倉殿御領地」であり預所は「大江広元」であった訳ですから、「情報を内密」にする事など容易い事であったのだとさらに推測します・・
その永吉庄の一部である「五木」と山繋がりで行き来が出来る「椎葉山」内の情報が幕府に届いていなかったとは到底考えられません。
(私の推測は間違っているのでしょうか・・・)

一つの推測が発生した事で、何か「椎葉山」(現椎葉村)に椎葉村の伝承の謎を解く”鍵”・”物証”が残されていないのか?そう考えました。
すると以下の事に気が付きました。

2. 大河内矢立集落に伝承された「御祭り」から見つけた事

コメント18で御紹介した
大河内森林ガイドの会様が運営のサイト「宮崎県椎葉村 大河内癒しの森」
こちらのサイト内にある
『大河内の伝統文化、まつり』
国指定 重要無形民俗文化財 大河内神楽
<合戦原神楽、大河内神楽、矢立神楽、大藪神楽>
『矢立 祭祀考(やたてさいしこう) <前事務局長の民俗レポート>』(小川弘志)

私の先祖でもある「矢立氏」が残した「地主堂」
神体(右の写真)は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。 4畳ほどの広さのお堂の中に祭壇があり、石造りの像が3つ置かれている(写真左側の石像はその一つ)。 うち2つは古いご神体がそのまま置かれているものであり、本体は一つとみなされる。
堂の外には、苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。また、その奥に大石の碑が立てられている。 碑文はすでに風化して読むことができない。いずれにしても、地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。 地元の人々は、「地主さんは仏さんから神さんになった」と言う。明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。

私が着目したのは・・

年間の祭祀

(1)地主講
 旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。地租神の祭りである。 神事(神主及び世話役で執り行う)ののち、集落の全員(老若男女)が集まって、酒を酌み交わす。

こちらの「旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。」
この事です。

※衣冠束帯坐像としてお祀りの「矢立氏」の祖となる矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」。命日は『旧暦の3月17日』である。

矢立雪矢神社(男女対の夫婦神を主神として祀る神社)※天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
この事もふまえた上で
「菅原氏」もしくは「平家一門」の方々の中で『旧暦の3月17日』が命日の方がいらっしゃらないか!?
探してみました。

すると・・お一人「3月17日が命日かもしれないと云われている」と記されていた方を
お見つけしました。

御紹介致します(..)
伊勢氏観光協会様 サイト heike_map.pdfです。
http://www.ise-kanko.jp/download/heike/heike_map.pdf

こちらの2ページ目 平家ゆかりの地マップ に記されていました。
地図がコピー出来ないので、転記させて頂きます。
C知盛山久昌寺
清盛の四男、平知盛を草創として建立した寺
久昌寺は知盛が平家一族を弔うため、創建したと伝えられる曹洞宗の寺である。
本尊の阿弥陀如来に添えられた文からは「承久3年(1221年)8月20日の胎内銘があり、西海に沈んだ平家を弔ってこの仏を造らせた」と言う事がうかがえる・
場所 伊勢市(矢持町)

さらに・・
平知盛公の御位牌の写真の横にある「赤い吹き出しの文字」の中に書かれている内容は・・
久昌寺には平知盛の古位牌が2つ存在し、輪郭だけのものは15世紀末頃のものと思われる。
位牌裏面の3月17日は知盛の命日かもしれないと云われている。

=========================================================
とあります。

この記述を拝見した時は大変驚きました・・

伊勢市(矢持町)久昌寺
平知盛公の古位牌 
位牌裏面の3月17日は知盛公の命日かもしれないと云われている。

※衣冠束帯坐像としてお祀りの「矢立氏」の祖となる矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」。命日は『旧暦の3月17日』である。

椎葉村
※1.伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる

単なる偶然か?無関係なのか?全く解りませんが、しかし共通するのは
「平知盛公」「命日 旧暦3月17日」
さらに・・「矢」の文字が至る所にあるような気が・・
『伊勢市(矢持町)』『矢立』『雪矢』・・

『単なる偶然か?無関係なのか?』を検証するには物証となる物を今、見つける事は出来ていません。
しかし、「平知盛公」は今までの私の調査に頻繁に登場されて、何故繋がってくるのか?と何度かコメントした方です。
又、新たなる疑問が発生した事によりさらに調査を進めると・・一気に点と線を繋げる「事実」に気が付く事が出来ました。
詳細は次のコメントで書かせて頂きます。

所で・・「矢立集落」の矢立雪矢神社の御神紋についてなのですが・・
画像 矢立雪矢神社
http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/img_access/haiden.jpg

御神紋を皆様にご覧頂きたいのですが
矢が交差しているようにも見えます。
調べたのですが
丸に違い鏑矢紋にも近いような気が致します。
http://www.harimaya.com/kamon/column/mon3/ya03.jpg

ここでも「矢」です・・
御神紋については全く無知識であります(..)
皆様、何か御存じの事がおありでしたら、ぜひ、御教示を頂けませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

次のコメントでは(明日、外出予定なので明後日となるかもしれません(..))
五家荘の緒方氏と、親戚の「尾方家」、さらに五家荘「樅木」集落と平河氏が継いだ「樅木氏」他『五家荘』と『椎葉村』について
さらに、先程書きました
点と線を繋げる「事実」に気が付いた事 などを書かせて頂きます。
(本当は、コメントを一気に書きたい所なのですが、御了承下さい(..))

では(..)
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月01日 09時44分59秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます。

突然ですが
私が所有する
熊本県教育委員会発行の熊本県文化財調査報告 第四集(球磨地方)
を読んでいて気が付いた事があります。
内容は、後日 書かせて頂きます(..)

日本の苗字七千傑様、もしご覧頂けていらっしゃるのであれば
日本の苗字七千傑様にぜひ御教示頂きたい事があります。
鎌倉時代初頭、一定の地域に「ある一族」が60人以上、移り住んだ場合
明治初頭にはその一族の子孫は推定「何人」位になっているのでしょうか。
計算の方法等がよく解りません。
お忙しい所、大変申し訳ありませんが
よろしければ、御教示頂けませんでしょうか。
どうか、よろしくお願い申し上げます。

ミヤハラ
[26]たけぽんさんからのコメント(2017年04月02日 21時18分01秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様、色々調べて頂いたみたいで
ありがとうございますm(_ _)m

花粉症の方は、少しマシになって
きましたが、一時期、薬が合わずに
ちょっと体調を崩してしまいました
f(^^;

そんなに酷くはなかったのですが
初めて薬を飲んだので、からだが
ビックリしたのかな?(苦笑)

須惠の平川は、祖母が言うには
殿さまクラスしか泊まれない様な
陣屋だったみたいなので、もしか
したら、泊まりに来られた方の
ツテ?で、中川や三○、石○と
知り合った可能性も有りかと
考えています。
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月02日 23時02分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

たけぽん様
体調崩されていらしたのですね・・(..)
心配していました。
御無理なさらないで下さいね。

〉須惠の平川は、祖母が言うには殿さまクラスしか泊まれない様な陣屋だったみたいなので

幕末から江戸末期の平川氏(繁男氏)について、人吉市史に書かれていました。
原城が寅助火事によって燃えた後、明治初頭平川氏は人吉の田町に移られたと書かれていました。
人吉の田町、すなわち、あの「夏目友人帳」のオープニングで有名になった
「田町菅原天満宮」の周辺です。
http://ameblo.jp/totoko53/entry-11522200310.html
たけぽん様の御先祖様は、その後、須恵に移られたと言う事になるのですね(p_-)
田町菅原天満宮・・やはり菅原天満宮ですね・・

元々須恵は恒松氏が城主でした。一国一城令の後、城は廃城となります。

須恵の陣屋。
相良藩では陣屋を通称「外城」と呼んでいました。
須恵の在郷外城勤務の藩士(江戸時代)は
西氏(3名)・黒木氏・恒松氏(2名)・源島氏・小川氏・荒木氏・北門氏・北川氏・乙益氏・愛甲氏の名が分限帳に記載されています。
上記の中でも須恵の外城(陣屋)では「西氏」が責任者のような立場であったようです。

平川氏は須恵在郷の藩士には名前がありません。
たけぽん様の御ばあ様がおっしゃった「陣屋」。廃藩置県後、陣屋が廃止となり
人吉から平川氏が移られたと推測できるのかな・・と。これはあくまでも私の推測ですが。
むむっ(p_-)・・どうなのだろう・・?
しかし・・やはり豊後岡藩中川氏・・中川氏の一族・・たけぽん様の曾祖父様・・とても気になります。

所で・・たけぽん様、皆様
実は、今日は、私の祖母の命日でして
叔父の妻(普通は○○おばさんと呼んでいます(^'^))が仏様参りに来られました。
色々話したのですが
叔母も須恵の平川さんの事、よく知っていて、びっくりしました。
大きな古いお墓が建っていると言っていましたので、こちらがたけぽん様がおっしゃっていた、御先祖様のお墓じゃないのかな?と。

その後、椎葉のおじの家に用事で行ってきたのですが・・
今日は秋岡(伊藤)の叔母と椎葉のおじからの新しい情報で私の方も進展がありましたので書かせて頂きます(..)

とても驚いたのですが、秋岡(伊藤)の先代(秋岡のおじいさん)と多良木の矢立家の1軒はとても親しくされていらしたそうです。
叔母から聞いた最大のビックリは
矢立氏から「神瀬家」に嫁いだ方がいらっしゃいました!
平河氏系図を見ると江戸末期に平河幸三郎氏と弟の平川猪五郎氏の姉妹の方が神瀬氏に嫁いでいらっしゃるのが解ります。
何だろう??この関係?と・・今、調べている範囲の中に神瀬氏が含まれていなかったので、少し、混乱?致しました(..)

さらに・・
曾祖父の弟が養子に入った「横瀬氏」
こちらの「横瀬氏」と縁戚関係にあったのが、以前、コメントした「筑紫氏」でした。
こちらは、驚いたと言うより、「やはりそうなるか・・」と何だか納得した感じです。
平川家について35コメント38で書いています。 転記します。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101544_68.html

あれだけ武藤氏!少弐氏!と書いてきたのに・・私は「アホではないのか・・」と自分が悲しくなる程重要な事をスルーしていました(@_@。

日本の苗字七千傑様の《少弐氏》姓氏類別大観を拝見すると「筑紫氏」が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c3.htm#008

さらに筑紫氏の姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c4.htm

筑紫氏は・・以前もちょっとコメントして完全にスルーしていました(..)
筑紫氏は・・少弐氏(武藤氏)の一族です!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

肥後国相良藩士分限帳より
享保三年(1718年) 筑紫佐次兵衛
享保三年(1718年) 筑紫助右エ門
寛政十年(1798年) 筑紫助右衛門
天保元年(1830年) 筑紫助右衛門
安政年間(1854年〜1859年)筑紫文作
奥野村 在郷藩士 にも二名の筑紫氏の名。

私の住む集落のお隣が旧奥野村です(家からでも歩いて・・・トホホ(@_@。)
椎葉のおじは奥野の筑紫さんをよ〜く存じあげています(..)

完全にスルーしていた・・あんにゃ〜(@_@。
日本の苗字七千傑様のサイトで検索すると筑紫氏は
姓氏類別大観 高向氏
姓氏類別大観 物部氏/石上氏
姓氏類別大観 安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏
他にも見えますが・・・
何だ??こちらは今まで何度も拝見させて頂いた「姓氏類別大観」ばかりのような・・(?_?)

近い場所に大きなヒントが隠されていたのかもしれないのに・・完全スルー
本当に・・自分が悲しくなりました(@_@。

==================================================
と書いていたのですが・・
やはり・・曾祖父の弟が養子に入っていた「横瀬家」は筑紫氏と縁戚関係にあったと言う事が「ようやく」解ったと言う事です。

「横瀬氏」・「筑紫氏」 こちらの関係はおそらく、今、私が進めている調査と関連してくるのかな・・と・・考えています。

明日は精力的に書かせて頂くつもりです(^'^)
では。
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月03日 07時26分12秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)
早速「点と線」を繋げる調査・検証を書かせて頂きます。
コメント24からの続きです(..)

3.九州内の那須氏について

@姓氏家系大辞典での記述
2009年4月発行の広報しいば こちらの15ページに山中耕作氏記述の「椎葉の民謡」114話 が記載されています。
中に大変興味のある内容が書かれていました。
https://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/affair/pdf/kouhou-666.pdf
★那須氏は『奈須』と奈良の奈を書く奈須氏、須藤(首藤)氏を名乗る家系を含めて譜代に散って子孫多く、九州の場合、十二代資村の弟余ニ資久につき
『姓氏家系大辞典』には「弟資久は九州の那須の祖』とあり興味深い。
中略・・
肥後には相良藩用人に奈須氏がある。肥後五家荘に隣る旧保口村にも与一嫡男小太郎宗治の家系がある。
(山中耕作氏)
===================================================

『姓氏家系大辞典』太田亮氏 著には
※十二代資村の弟余ニ資久につき「弟資久は九州の那須の祖』とあり・・

早速調べました。
十二代資村 那須資村 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E6%9D%91
那須 資村(なす すけむら)は、鎌倉時代の武士。那須氏6代当主。
5代当主・那須光資の子として誕生。
念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。
ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟・伊王野資長及びその系統が継承したために資村は家督を継ぐことが出来ず[1]、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある[2]。
★念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。
『慈願寺』・・えっ??球磨にも多良木町に同名のお寺があります。

慈願寺 (八尾市) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E9%A1%98%E5%AF%BA_ (%E5%85%AB%E5%B0%BE%E5%B8%82)
慈願寺(じがんじ)は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。
歴史[編集]
親鸞の東国布教の際、那須資村が帰依して信願房法心と号した[1]。二十四輩のひとりでもある法心は、下野国那須郡志賀崎に念仏道場を開き、これを慈願寺と名付けた。その後、法心は親鸞とともに上洛し、終始親鸞に仕えた。親鸞の死後、親鸞の遺命を受けて河内国渋川郡久宝寺村に建立された[1]のが当寺である。本願寺の東西分裂期に顕証寺と対立し、江戸時代初期に旧大和川(現在の長瀬川)東岸の若江郡八尾へ移転した[2]。
1280年(弘安3年)、信願房法心により建立。
1470年(文明2年)、蓮如が久宝寺村にて布教活動を開始。当寺を中心とする久宝寺寺内町が形成されて行く。
明応年間、当寺住職の法円の協力を得て、蓮如が久宝寺村に西証寺(後の顕証寺。久宝寺御坊)を建立。
以降、久宝寺寺内町の中心は顕証寺に移り、慈願寺は顕証寺の世話寺として貢献する[2]。
1580年(天正8年)、石山合戦講和に際して教如の抗戦派に与し、顕如の講和派に与した顕証寺と対立する。
1602年(慶長7年)、本願寺東西分裂に際して大谷派に属し、本願寺派に属した顕証寺との関係がさらに悪化する。
1606年(慶長11年)11月、久宝寺村を支配する顕証寺および安井氏に対抗して、森本行誓ら17人の民衆とともに久宝寺村を出る[2]。
このとき久宝寺村の慈願寺は破却されている。
移転先の八尾(現在の八尾市中心部)は当時まだ荒地で、この移転集落が後に八尾寺内町となる。
1607年(慶長12年)3月、教如によって八尾に大信寺(八尾御坊)が建立され、大信寺の陰家(世話寺)となる[1][2]。
このとき移転集落は若江郡寺内村と称するようになった。
1660年(万治3年)、大信寺が現在地に移転した際に、大信寺の南隣に再建される。
1814年(文化11年)、本堂を焼失。
1817年(文化14年)、本堂再建。
2006年(平成18年)、本堂、山門など境内の建築物が登録有形文化財に登録された[1]。
=====================================================
★親鸞の東国布教の際、那須資村が帰依して信願房法心と号した[1]。二十四輩のひとりでもある法心は、下野国那須郡志賀崎に念仏道場を開き・・
ここで!!気が付いたのです!!
『二十四輩』のひとりでもある!
皆様!!ご記憶でしょうか!?椎葉家に残されていた書籍について!
ブログに写真をアップしていました。
ブログ 椎葉家の古い書籍 画像F以降です。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12107923495.html
※二十四輩順拝記
この写真をアップした時、こちらのスレッドへのコメントには「何故?この書籍が椎葉家にあるのか全く意味が解らない」と言った事を書いていました。

しかし・・
「那須資村」「慈願寺」「二十四輩順拝記」「椎葉家」
何か繋がっているのでは?ないのか!!
「那須資村」は九州那須氏の祖と書かれた「那須資久」の兄となる方・・!!
さらに・・ウィキにあった「大信寺」。
人吉にも同名のお寺「大信寺」が・・どう言う事なのだろう?
と・・

そこで現在多良木町にあるお寺「慈願寺」について調べてみました。
私が所有する書籍 九州相良の寺院資料 上村重次氏著 には
「慈願寺」明治十五年、京都下京区にあった慈願寺を移す(郡誌)
と書かれていました。

そこで「球磨郡誌」を読んだのですが・・
腰を抜かす程驚きました。
球磨郡誌 コマ番号339 に詳しく書かれていました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

本尊は阿弥陀佛で、明治十五年三月十日の創立である。是より先明治十四年現在の庫■が建設され、二十八日の講の集会所となっていただ、當時、京都市下京区にあって、住職の無かった慈願寺の移転を図り
遂にその目的が達せられ、本尊並びに五尊及び堂班餘間と共に、明治十五年三月十日地方■の許可を得て移転せられたものである。
中略・・
慈願寺は元承久元年二十八歳にして出家し親鸞上人の門に入った信願の創立せるもので、
其始めは下野國那須郡阿輪志賀崎に建てられたものである。

寺基の移転と共に、伝来された寶物に 見真大師木像一體、信願御房御影一幅、二十四輩御繪傳二幅、善道大師が圓光大師に六字釋御口授の御影一幅がある。

以下略
==============================================

繋がった!!繋がりました!!
多良木「慈願寺」は
※元承久元年二十八歳にして出家し親鸞上人の門に入った信願の創立せるもので、
其始めは下野國那須郡阿輪志賀崎に建てられたものである。

※十二代資村の弟余ニ資久につき「弟資久は九州の那須の祖』
※那須資村(信願房法心)
※京都市下京区にあった「慈願寺」は明治十五年旧多良木村に移転。
※椎葉家に残る「二十四輩順拝記」

この事実に気が付いた時はさすがに鳥肌がたちました。
実は、昨日椎葉家に行ったのも「二十四輩順拝記」を見る為です。

この調査から・・さらに「那須氏」の名跡を残す球磨の「神社」に気が付いたのでした・・

この続きは 次のコメントで(..)

では(^'^)
[29]たけぽんさんからのコメント(2017年04月03日 15時05分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様、いつも色々
ありがとうございますm(_ _)m

祖母から聞いたはなしでは
須惠の祖母の実家が陣屋?を
していたみたいです。

叔母(母の姉)がよく、従姉妹達と
床下等に潜り込んで遊んだらしい
ですから・・・(..)←刀等を隠したと思われる所です

叔母からは、人吉の平河に家系図が
あるらしい?と話は聞いていますが
いかんせん、叔母のお仕事の都合で
未だに行けず(>_<)(汗)

やはり、曾祖父母が祖母に何も
話していなかったのは痛かったです
( ノД`)(泣)

祖母も、自分家の家柄を近所の方に
教えて貰うくらいでしたから(..)

うちも、須惠の平川の事を知る
叔母様に会って直接お話を
きいてみたいですね(^-^)

あ、それと

昨日はうちの行ってる人吉の
お寺で法要会?みたいなのが
ありましたので、勝手ながら
ミヤハラ様の御先祖様も御回向
させて頂きました(>_<)(汗)




[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月04日 10時41分31秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

お返事遅くなりまして申し訳ありません。

家の先祖の御回向までして頂いて、本当にありがとうございます。
奇しくも、一昨日は祖母の命日。
祖母も大変喜んでいたと思います。
先祖に変わってお礼を申し上げます。

しかし・・祖母の命日・・
本当に不思議です。
たけぽん様との御縁・・・目に見えない何かが結びつけて下さっているようです。

所で
たけぽん様の御ばあ様がおっしゃっていた
〉実家が陣屋?を・・

このお話にはやはり何か大きなヒントが隠されているような気がします。
人吉そして球磨の郷土歴史研究会が初刊から今まで発行された「郷土史」の研究書籍。
実は、私、全巻揃えています(p_-)
(働いていた時に貯めていた貯金は殆ど、様々な書籍代へと・・・(p_-)・・((+_+)))

揃えているだけで、未だ、殆ど読んでいませんので(トホホ)
「陣屋」をキーワードとして、じっくり今度読んでみます(p_-)
何か出てきたら嬉しいのですが・・(^'^)

たけぽん様
あらためて、
ありがとうございました。
(^'^)
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月04日 11時50分42秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 マタマタの登場です(..)

コメント30の追記ですが

たけぽん様が私の先祖の御回向供養をして下さった一昨日。
本当に奇しくも、私、相良藩内の記録に先祖「矢立氏」の名が残されていた事に
気が付く事が出来たのです!

椎葉村から球磨に来られた先祖「矢立氏」の名は
相良藩士分限帳の諸郷役人として記されていました。
享保三年(1718年) 諸郷役人 久米横目 矢立庄内
※諸郷役人「横目」とは 解りやすくウィキの目付の項に書かれていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%98
中略・・
諸藩[編集]
諸藩の場合は馬廻格の藩士より有能な人物が登用され、大目付や家老の統括に置かれることが多い。配下に徒目付・歩行目付・横目などといった足軽や徒士の戦果及び、勤務を監察する役職を置くことが一般的であった。

横目とは目付の下で『足軽や徒士の戦果及び、勤務を監察する役職』
※享保三年(1718年) 諸郷役人 久米横目 矢立庄内
なるほど(p_-)

さらに・・一昨日、旧宮原村住の「矢立氏」の記録にも気が付いたのです!
岡原村誌に記されていました。
弘化四年(1847年)〜慶応四年(1867年)に記録された肥後国内某所に志納金を献じた人達の名の中に
旧宮原村熊野 矢立喜左衛門 の名がありました。(他にも那須氏・椎葉氏・樅木氏・中神氏・宮原氏・土肥氏・・ここでは書ききれないもっともっと沢山の「姓」が記されています)
上記の件は・・おそらく椎葉村の那須氏が信仰した「宗教」と関係しているのだろうと推測しているのですが・・詳しくは後日書きます。

実は・・私・・
先祖の姓が全国にあまりにも少ないので・・もしかしたら明治に入ってからの「姓」かな・・?などと・・先祖には大変申し訳ない事をチラッと考えていたのです(@_@。
「このバカタンが!!」と先祖から叱られそうです(@_@。

だけど・・苗字帯刀を許されていた「姓」なのに・・何故?少ないのだろう?
それも・・球磨と言う訳じゃなくて、椎葉村にも全く無いと言うのが・・
とても不思議で・・こう言う場合、何か理由があるのかな???(?_?)
椎葉村は「椎葉氏」・「那須氏」が大姓です。
椎葉村大河内矢立の地主神となられた先祖を持つ「矢立氏」の姓が少ない(椎葉村には現在全く無い)のは何故?なのだろう・・??
多良木の「矢立氏」で、久米地域以外の矢立氏と叔母の父である(伊藤のおじいちゃん)はとても親しくされていたと書きましたが・・
こちらも、山林や田畑を沢山所有されていたと聞きました・・

しかし・・調査を始めてこの数年・・私の調査にはいつも謎だらけです(..)

ただ(ー_ー)!!
私があやうく「勘違い」する所だった先祖の「姓」(もしかしたら・・明治に入って・・・)
たけぽん様が御回向供養をして下さったその日に、勘違いを解く事が出来ました。
たけぽん様のお陰です。
本当にありがとうございました<m(__)m>

全国内に非常に少ない先祖の姓は相良藩士の諸郷役人として名が残されていました。
と言うお話でした(..)
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月07日 12時11分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

一昨日、高祖父の先祖由縁の地
宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内の矢立集落に行って参りました。
行ってみて解ったのですが矢立集落は、いつも、眺めている市房山の頂上より左、
何故か私がいつも「市房山のあの凛々しい岩肌が好き!」と言っていた
遠くから見ると稜線の岩肌が「ガタガタ」して見える(妙な表現ですみません)
正しくは「ふたご岩」と呼ばれる山が真正面となる場所に位置していました。

まずはいつも?の珍道中から(-.-)

市房ダム湖の先にある熊本県球磨郡水上村湯山から国道388号線(起点 大分県佐伯市⇒終点 熊本県湯前町)を椎葉村方向へ進むと・・
方向音痴の私は、地図を事前に見た時に、てっきり、「谷」を進むのかな?と思っていたのですが・・
国道388号線は、一車線の険しい山道へと変わり、急なカーブの連続でドンドン山を登って行きます。
いつも遠くから眺める市房山の頂上が目の前に迫る、そんな高い場所を車は進み、木々の隙間から、眼下遠くに先程通った湯山集落が見えると
高所恐怖症の私は、目がクラクラとなり、運転する主人に
「どうしよう・・高くて怖い(@_@。」と言うと
主人は「どうしようって、どうしたいの?行くのを辞めるの?」と聞くので
「行きたい!!」と答えると、主人は「うん(^'^)」とニコ〜ッと笑って運転を続けました。
(後で知ったのですがそこは「湯山峠(標高944m)」。峠を越えていた訳です)
その「湯山峠(標高944m)」を越えた辺りで、道は市房山が見える方向から、左方向へとカーブ。
この時、私は、「きっとここから一気に下るのだな(p_-)」と考えたのですが・・
違いました!!
ナント!そこには!「高原」が広がっていたのです!
「ええええっ??!どう言う事??」頭の中が?????となった所に
水上村クロスカントリーコースの看板が!
「高原」のイメージがお解り頂ける、水上村の公式サイトがありました。
http://www.vill.mizukami.lg.jp/q/aview/1112/656.html

※標高が1,000m付近ということもあり、雲が非常に近くにあるのが良くわかると思います。

と書かれた写真が記載されていますが、まさに、このような感じで、急な山道をドンドン登ると別天地が広がっていた・・と言う事です(^'^)
建設中の
九州中央山地国定公園 〜クロスカントリーコース〜 水上スカイヴィレッジ
の横をすぎるとすぐに熊本県と宮崎県の県境の標識があり、すぐに標高1000mの矢立高原キャンプ場。
その先に宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内矢立集落がありました!(^'^)
ブログに写真をアップ致しましたので、皆様、よろしければご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12263109339.html

矢立集落の集会所付近に矢立氏の御先祖様をお祀りする「地主堂」があるとサイトに書かれていたので、まず、矢立集会所の駐車場に車を停めました。
そこから、散策をはじめたのですが・・
一番驚いたのは、目の前に私が大好きなあの「岩がガタガタとなった」市房山の稜線が広がっていた事です。
とても感動しました。

集会所前の元?観光案内書の横の建物で、薪を積んでいる御高齢の男性がいらっしゃったので、「こんにちは(^'^)」と御挨拶。
すると・・「何処から来られたのかね?」と聞かれるので、矢立集落に伺った「目的」をお話しました。
御高齢の男性は「椎葉」とおっしゃる方で、私の話を聞かれてとても驚いていらっしゃいました。
さらに椎葉様は
「矢立氏は昔”熊本に行かれた”と聞いていたが、自分が若い頃、一人”矢立さん”がこっちに帰って来られて、15年程住んでいたけど、10数年前に亡くなった」
と言う事を話して下さいました。
(p_-)・・※矢立氏は昔”熊本に行かれた” ※一人”矢立さん”がこっちに帰って来られていた・・
椎葉様から貴重なお話をうかがう事が出来た事にお礼を申し上げて、お堂の場所をうかがい、散策を再開。
集会所左横に上に登る坂道があり、坂道の上には数軒のお家が見えました。
坂道の登り口に自然石で出来た大きなお墓があり、榊がお供えされていました。
拝見すると、一番上に大きな梵字が刻まれています。
戒名は読めなかったのですが、左下に何か書かれている事に気が付いて、見ると
他の文字は消えて読めなかったのですが、唯一「矢立」の文字ははっきりと残っていました。
「矢立氏」に関連するお墓かもしれないと、手を合わせてお参りしました。

さらに、坂道を進むと、畑仕事をされている、中年の男性がいらっしゃいました。
方向音痴の私は、先程の「椎葉様」に伺ったお堂の場所が解らなくなり(@_@。あらためて、こちらの男性に、御挨拶。
私の高祖父が明治初頭に久米の「矢立氏」から祖母の実家の岡原の「平川家」に養子に入って岡原平川家を継いだ事、インターネットで「お堂」のお話を見て、こちらに伺った事をお話すると・・
畑仕事をされていた方もお名前は「椎葉」様でした。
こちらの椎葉様からも、さらに貴重なお話をうかがう事が出来ました!
サイト内の
『矢立 祭祀考(やたてさいしこう) <前事務局長の民俗レポート>』を書かれた「小川様」は、故郷(他県)に帰れたと事で、小川様はとても熱心に集落の方々お一人お一人に聞き取り調査を行われて「矢立集落」の研究をされていたそうです。
椎葉様も矢立集落の歴史に興味をもって小川様と親しくされていたと言う事でした。
椎葉様は、球磨には頻繁に出かけていらっしゃるそうで、かなり、以前、用事で向かった先の近くの家の表札に「矢立」と書かれていたのを見て
「球磨に行かれたと聞いていた”矢立氏”の一軒はここにおられるのだな〜」と気が付かれたそうです。
さらに、
「球磨から矢立さんが一人、帰って来られて、しばらく住まわれていたけど、すでに亡くなりました。この方には兄弟の方が沢山いらしたそうなので、自分が見た球磨の”矢立家”は、兄弟の中の一軒かと思っていた」と話されました。
私が、
「享保三年(1718年)約300年前の記述に諸郷役人 久米横目 矢立庄内の名が相良藩士分限帳にあった」と言う事を話すと
「300年前にはすでに相良藩士として名前があったのですね・・」と。
さらに
「球磨の矢立氏はこちらから出て行かれていますよ!間違いないです(^'^)ここが所縁の地ですよ(^'^)」と。
私も嬉しくなり思わず涙が出てきました。
椎葉様からはさらに
「水上の湯山や湯前には家は親戚が沢山います。ここの集落の他の家も球磨から嫁いで来られた人や球磨に嫁いで行かれた人、親戚は沢山います。昔から交流していたそうですよ」と。
椎葉様の御親戚の一軒は「右田家」だとおっしゃっていました。
「昔から球磨の方とは血をひっぱり合っているようです(^'^)」と。
ただ・・椎葉様は「矢立家から岡原の平川家に養子・・。平川氏と言えば、球磨の豪族ですよね・・?」と、私と同じように疑問をお持ちになったようです。
矢立集落内でも、集会所近辺に住まわれている方の姓は殆どが「椎葉」家で、他に「黒木家」。矢立家は今はもう無いと言う事でした。
私が
「祖母の実家の平川家の親戚も”椎葉家”と”黒木家”あります。椎葉家には祖母の姉が養女に入り、黒木家は曾祖父の弟が養子に入って跡を継ぎました」と話すと
椎葉様は「そのまんま!ですね」と笑っていらっしゃいました。
ここで、私は遠縁の”樅木家”を思い出し、集落内に樅木家はないか?伺うと
「樅木さんはいらっしゃいません」とおっしゃいました。
椎葉様から「地主堂」の場所を教えて頂き向かおうとすると
「ここを登っていくと雪矢神社があります。ぜひ、お参りされて下さい。拝殿の扉は開ける事が出来ます。」と言われ、場所を教えて頂きました。
私も雪矢神社にはお参りしたいと思っていたので、椎葉様にお礼を申し上げて、雪矢神社へと向かいました。

坂道を登ると、沢伝いに山に入りました。
そこからは、急に空気感が全く異なり、とても静寂で、神聖な地に入った事が現代人の私にも解りました。
幹の大きな、とても高い木々が立ち並ぶ中進むと、鳥居が建っていました。
鳥居の先に雪矢神社が鎮座。
大きな御拝殿の扉を開けさせて頂くと、サイトで拝見した
〉神楽ができるほどの広さの社殿があり、正面には祭壇。その中央に、夫婦神を納めた小さな神殿。
こちらが目に飛び込んできました。
御祭壇は、サイトの写真で拝見したより、ずっと大きく(写真はおそらく縮小されていたようです)、私が気になっていた御神紋も大きく描かれていました。
御神紋は、やはり、私が今まで見た事がない紋でした。
鏃の付いた矢が交差して描かれていて、さらに矢が交差する部分?(中央)にも鏃が描かれていました。
社殿の中は国の重要無形文化財”矢立神楽”が奉納される場所なので、恐れ多く感じ、御拝殿の外からお参りをさせて頂きました。

雪矢神社にお参りして、坂道を下りながら、小さな沢を見ると、そこにはとても綺麗な豊かな水が流れていました。
古にこの地に来られた方々は、清らかな水、そう”清流”に恵まれていらしたのだな〜と感じました。

坂道を下ると、教えて頂いた「地主堂」が見えました。
地主堂は サイトの記述では
※御神体は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。
※矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。
※最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
※堂の外には、苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。
※墓所の主である「矢立氏」

とてもドキドキしながら、「やっとお伺い出来ました」という気持ちが溢れてきました。
お堂には鍵がかかっていて、格子の間から御神体を拝見する事が出来ました。
※御神体は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。
じかに拝見するとサイトの写真で拝見したお顔立ちよりも、
『眉は黒く凛々しく、きりっとされていて、目は大きくなお且つ切れ長でもあり、眼光がするどく、鼻筋が高い』とても美しくさらに精悍なお顔立ちでした。
球磨からお伺い致しました・・と御挨拶をさせて頂き、手を合わせてお参り致しました。

矢立集会所より先に少し国道を進むと、小学校があるそうですが、そちらまでは今回は行かずに集会所付近のみを散策しました。

「地主堂」そして「雪矢神社」が御鎮座の集会所近辺は、沢山の石が積まれて出来た棚田が広がっていました。
古の方々が御苦労されて造られた棚田なのだな・・ととても感慨深く見ていました。
大河内矢立集落は広大な椎葉村内でも、南西に位置して、球磨郡との県境です。

那須大八郎(那須宗久) ウィキの記述では
江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。

上記の※向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃・・
向山は矢立集落からはかなり先の日向や延岡に近い地域で椎葉村内で言えば北東にあたるようです。
日向や延岡方面から、源氏方が追撃してきたのであれば、矢立はずっとその先(奥)にあたります。

ふと、考えたのです・・
壇ノ浦から平家一門の方々が九州中央山地を抜けて逃げて来られたと想定した場合・・
矢立は、その・・もっとも”先”・”奥”の地域であった訳です。
しかし・・その地は、九州中央山地の先の「球磨」に最も近い場所でもあった・・
逃げてこられてずっと奥に進んだ結果、逆に、もっとも里(球磨)に近い場所に行きついた・・
しかし、その土地(矢立)は里(球磨)には最も近いが、球磨からは山を800メートル程一気に登らなければ行けない場所でもあった・・

球磨の人達からみれば、「矢立」は天空の里のような土地です。
私は矢立集落に初めてうかがって、そう感じました。
そして、先人の御苦労に心から敬服して、矢立集落を後にしました。

所で・・
お二人の椎葉様とお話して一つ気が付いた事があります。
それは・・言葉・・方言というか・・イントネーションなのです。
私は、生まれが宮崎県児湯郡新富町ですから、宮崎方面の方言やイントネーションは聞くとすぐに解るのですが、矢立集落の椎葉様お二人の言葉・イントネーションは全く違いました。
なんだろう??九州の熊本・長崎・佐賀・福岡(北九州を除く)地域のイントネーションとも違い・・
どちらかと言うと北九州や大分の方のイントネーションに近いと感じました。
(私は九州内の色々な場所に住んできたので、すぐに解りました(..))
「●●やけぇ〜」と言われていたのですが、これは、まさに北九州方面の言葉です(p_-)
球磨弁にも近い言葉もあったのですが・・(確かに球磨郡内でも、ナント家によって方言が微妙に異なるのです)
気になって家に帰って調べてみたのです。

椎葉村観光協会様のサイトに椎葉村の方言について書かれていました。
http://www.shiibakanko.jp/shiru/hougen.html

椎葉村は面積も広く、複雑な山岳地形に集落が分散している。また、村の西南部を広く熊本県と接しており、古くから球磨郡や人吉市との交通路が開けていたため、肥筑方言の影響も大きい。

村の方言として一括しがたい個性をそれぞれの地域が保有している。西の不土野・尾向、南の大河内、北の下福良・十根川、東の松尾とおよそ4つの地域に区分できます。

中略・・
南の大河内小崎の談話
(p_-)とても興味深い言葉(方言)があります。
転記します。
『ま〜こけへ〜ってから、おも〜ぞんぶん、たもってくれめせ』

『まあ、ここに入ってから思う存分召しあがって下さい』

\(◎o◎)/!「たもる」「召しあがる」!!
家の祖母や平川の曾祖母が言っていた言葉と同じです。(かなり、以前、数年前にこちらのスレッドでもコメントしていました)
家の場合は「ご飯をたもれ〜」です!同じです。ビックリしました〜!!
父は曾祖母から同じく「ご飯をたもれ〜」と言われていたそうです。
色々な人に聞いたのですが、親戚以外は「ご飯をたもれ〜」と言われた事はない(ー_ー)!!と言われていたので、まさか、椎葉村大河内に言葉の縁があったとは
本当に驚きました!

言葉にも『何かの秘密』がありそうな気がしています(p_-)

今回のコメントは
宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内の矢立集落に行って参りました(^O^)/
でした。

では(..)
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月07日 18時10分34秒 ) パスワード

皆様、コメント33の追記です(..)

先程のコメントを書いた後に考えました・・・
〉壇ノ浦から平家一門の方々が九州中央山地を抜けて逃げて来られたと想定した場合・・
矢立は、その・・もっとも”先”・”奥”の地域であった訳です。
しかし・・その地は、九州中央山地の先の「球磨」に最も近い場所でもあった・・
逃げてこられてずっと奥に進んだ結果、逆に、もっとも里(球磨)に近い場所に行きついた・・
しかし、その土地(矢立)は里(球磨)には最も近いが、球磨からは山を800メートル程一気に登らなければ行けない場所でもあった・・
====================================================
大河内矢立集落から800メートル程、一気に下った先にある「里」は水上村。

平安時代の承平年間(931〜938)編纂の『和名類聚抄』によれば、平安時代球磨郡には六郷が置かれていました。
『千脱(ちぬぎ)』郷・・・水上村
『久米(くめ)』郷・・・湯前町・旧久米村(奥野を含む。現多良木町)・旧岡原村・旧上村の一部(岡原村・上村は現あさぎり町)
『東村(ひがしむら)』郷・・・多良木町・旧黒肥地村(現多良木町)
『球玖(くく)』郷・・・旧須恵村・旧免田町・旧深田村・旧上村の一部(現あさぎり町)旧木上村(現錦町)
『西村(にしむら)』郷・・・旧西村・一武(現錦町)
『人吉(ひとよし)』郷・・・人吉市・旧川村(現相良村)・山江村
※大河内矢立集落から800メートル程、一気に下った先にある「里」は水上村であり、平安時代は『千脱(ちぬぎ)』郷であった。

平安時代、球磨の六郷は球磨荘(くまのしょう)と呼ばれた荘園でした。
球磨荘 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98
球磨荘(くまのしょう)は、肥後国球磨郡一郡を領域とした荘園。球磨御領とも称された。
概要[編集]
元は平家政権の下で設定された蓮華王院を本所とする王家領であり、平頼盛をはじめとする平家一門もその経営に関わっていた。
治承の乱の後、球磨荘は平家没官領として一部が没収の対象(ただし、頼盛の所領は後日返還)となり、建久3年〈1192年)に該当部分を王家領・関東御領・公領などに分割する片寄が実施され、人吉荘・永吉荘などが成立した。王家領とされた人吉荘には後に相良氏が地頭として入り、勢力の基盤としていくことになる。

※球磨荘は平安期は『蓮華王院を本所とする王家領』
王家領 ウィキより(皇室財産へ転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E8%B2%A1%E7%94%A3
皇室財産(こうしつざいさん)は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。
中略・・
古代における皇室財産の実態は不明な部分も多いが、屯倉・御厨などの所有の形で保持されてきた。『日本書紀』の記述を信じるならば、垂仁天皇27年(紀元前3年)に最初の屯倉が設置されたとされている。これらは律令制以後は大炊寮・内膳司の管理下に置かれて皇室の直接支配からは離れた。
平安時代に入ると、これらに替わるものとして勅旨田・勅旨牧などの設定が行われた他、上皇の生活保持のために後院による私領が形成された。院政成立後は上皇(院)の元に大量の荘園が集中したこと、院宮分国の確立によって、治天の君が一大荘園領主となるとともに国衙領や女院領・御願寺領などを含めた膨大な皇室財産を運営するようになった。
※院政成立後は上皇(院)の元に大量の荘園が集中した
※院宮分国の確立によって、治天の君が一大荘園領主となるとともに・・

治天の君 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%90%9B
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場[1][2][3][4][5]と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場[6]とがある。
上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。

中略・・
平安後期[編集]
応徳3年(1086年)に白河天皇が皇子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河天皇は皇位にありながら、政治の実務は白河上皇が行っていた。堀河天皇が崩御してその皇子鳥羽天皇が即位しても白河法皇が政務を担った。白河法皇が崩御すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽上皇が治天となり、院政を開始した。白河法皇も鳥羽法皇も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。
保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年(1158年)に退位すると院政を開始した。平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。

※球磨荘は平安期は『蓮華王院を本所とする王家領』
蓮華王院(三十三間堂) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区にある寺院の仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称・蓮華王に由来する。
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
========================================================

と言う事は・・
※球磨荘は平安末期は『蓮華王院を本所とする王家領』すなわち
平安末期、治承・寿永の乱(源平合戦)当時、球磨荘は蓮華王院(後白河上皇が自身の離宮内に創建した蓮華王院本堂)を本所とする王家領であり
王家領とは『皇室財産』であり、治天の君(天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇)が一大荘園領主となられていた荘園であった。

その球磨荘内『千脱(ちぬぎ)』郷(現水上村)から一気に800メートル以上山を登ったその場所が
宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内の矢立集落。
矢立集落から椎葉村役場がある地域まで行くには谷を下り、又登りと・・数時間かかると聞きました。
ここ(矢立)に・・もし・・壇ノ浦の戦いの後、逃れて来られた方々がいらっしゃったとしたら・・
この地はとても安全な場所であった?・・もしくは大変危険な場所であった?
どちらなのだろう?
そう考えるのは・・先も書いたように眼下に広がるその「里」は
『蓮華王院を本所とする王家領』である球磨荘だからです・・・
さらに・・平頼盛。この方の旧球磨荘内の所領は一旦没官されましたが、後に返還されています・・

まだまだ、勉強不足なので、よく理解出来ていませんが・・
日本全国に広がる「平家落人伝説」の場所は、球磨のような「王家領」の周辺であった・・と言う事では・・?

それと・・
もしかしたら・・「大河内・矢立方面」に逃れて来られた方々は、九州中央山地を進んで来られたのではなく・・球磨荘から山を登って来られた・・
そう言う可能性は???
ここは、あくまでも私の全く意味のない推測ですが(..)・・・

あと・・一つどうしても知りたかったのは
平安末期、治承・寿永の乱(源平合戦)当時、球磨荘他、王家領の一大荘園領主でもあられた『治天の君』はどなたであったのか・・?でした・・。
後白河上皇・・?・・高倉天皇・・?
先程、御紹介したウィキの「治天の君」 解説を読んでも今一つ、私の頭では理解出来ないでいますが、少しは解りました(@_@。。

※保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年(1158年)に退位すると院政を開始した。平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。


高倉天皇 ウィキによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
高倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。
中略・・
翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。
とあります。

ウィキ 後白河天皇 記述では・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
※高倉上皇の病状が「今においては起き揚り給ふ能はず」(『玉葉』12月21日条)というほど悪化していたことが、清盛が譲歩した要因の一つとして考えられる。高倉院が崩御すれば幼児の安徳天皇が政務を執れない以上、後白河院の院政再開しか道は残されていなかった。清盛は後白河院の院政を無条件で認めるつもりはなく、園城寺・興福寺を焼き払う(近江攻防・南都焼討)とともに、翌治承5年(1181年)には東大寺・興福寺の僧綱以下の任を解いて寺領荘園を没収(『百錬抄』正月4日条)、院近臣の平知康・大江公朝、甲斐源氏の武田有義などの危険分子を解官するなど(『玉葉』正月8日条)、可能な限り後白河院の勢力基盤削減を図った。

※14日に高倉上皇が崩御したため、「天下万機、法皇元の如く聞し食す」ことになり後白河院の院政が再開される(『百錬抄』正月17日条)。高倉院の崩御で平氏の動きは慌しくなり、16日、高倉院の遺詔により畿内惣官職が設置される。これにより平氏は、後白河院政下でも軍事的権限を行使することができるようになった。さらに2月4日には、高松院領がやはり高倉院の遺言により中宮・徳子に伝領される。これは高倉院庁別当・中宮大夫の平時忠が強引に処理したもので、後白河院は内心喜ばなかったという(『玉葉』同日条)。院政再開により治承三年の政変で後白河院から没収した院領は返還しなければならず、皇位に付随する後院領も後白河院の管理下に入ることは目に見えていた。徳子への伝領は、王家領が後白河院に流出することを食い止めるための防衛策であったと考えられる。

とあります。

勉強して、少しだけ理解出来ました。(でも・・まだまだ・・難しいです(..))

先に書きました。
〉球磨荘内『千脱(ちぬぎ)』郷(現水上村)から一気に800メートル以上山を登ったその場所が
宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内の矢立集落。
矢立集落から椎葉村役場がある地域まで行くには谷を下り、又登りと・・数時間かかると聞きました。
ここ(矢立)に・・もし・・壇ノ浦の戦いの後、逃れて来られた方々がいらっしゃったとしたら・・
この地はとても安全な場所であった?・・もしくは大変危険な場所であった?
どちらなのだろう?

この答えは、少しだけ勉強したくらいでは、まだまだ見つける事は出来ませんでした。

マタマタ、長くなりましたが
※大河内矢立集落から800メートル程、一気に下った先にある「里」は水上村であり、平安時代は『千脱(ちぬぎ)』郷と呼ばれ、そこは『蓮華王院を本所とする王家領』球磨荘でした。
というお話でした。

では(..)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月09日 05時58分10秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます。
現在、朝の4時過ぎですが、昨日、新たに発見した事がありますので
書かせて頂きます(..)

私の高祖父の実家の姓は全国でもとても少なく45軒しかない姓です。
その中の1軒の方は・・
延喜式神名帳 に載る古からの神社の宮司家の方でした。
昨日、色々調べていて気が付きました。
御迷惑がかかるといけないので、あえて、今回のコメントでは高祖父の実家の姓は
書きません(..)

高祖父の実家の「姓」が、”まとまって(2軒以上)所在”されている地域をあげると
@福島県伊達市に3軒 A愛知県岡崎市に3軒 B大阪府豊能郡能勢町に2軒
C広島県山県郡安芸太田町に11軒 D熊本県球磨郡多良木町に10軒
となります。

上記のBの地域にお住まいの方が延喜式神名帳 に書かれた古からの神社様の宮司家の方でした。

サイト名は書けませんのでご了承下さい。
以下、御紹介するサイトの220ページにお名前があります。
http://templeinfo.net/PDF/25syuukyouhoujinnmeibo.pdf

上記サイト内にあった『高祖父の実家と同じ姓』の方が宮司をされていらっしゃる神社様のページは複数ネットに公開されていました。
その中からピックアップさせて頂いたサイトが以下の3件です。
今回は、神社様の名称及びサイト名を書く事は控えさせて頂きます(..)

※1の神社様
http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st061202-01.html

※2の神社様
http://www.town-of-nose.jp/map/index.php?mode=show&seq=127

※3の神社様
http://kamnavi.jp/en/settu/utagaki.htm

=======================================================

まず・・
※1の神社様 について
http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st061202-01.html

【御祭神】賀茂別雷神 (合祀)猿田彦命 大歳神 速素戔嗚尊 応神天皇
    『神社覈録』『特選神名牒』天穂日命

 元々は土師部の祖神である天穂日命を祀っていたと思われる
【関係氏族】土師部氏
【鎮座地】移転の記録はない

御由緒
※和銅6年(713年)創建、延喜式内の能勢三社の一つの神社で官幣小社に列せられ、昔から大宮と称し、近郷の崇敬厚く、草々明神とも云われた。
中略・・
地名の久佐々は「日本書紀」巻十四巻雄略天皇の条「摂津国来狭々村云々」と見え、「続日本紀」巻六元明天皇の条「玖左佐村山川遠隔道路嶮難、由是大宝元年始建館舎、雑務公文准一郡例云々」とあり、当社はこの館舎の地であり、郡司によって奉斎せられたものである。
神社本庁

社頭掲示板 より
和銅6年(712)に創建されたと伝えられる「延喜式」内の神社である。「延喜式神名帳」能勢郡の条に「久佐々神社」と見え、他に「久佐々大明神」、「賀茂久佐々大明神」「宿野大明神」「草々明神」など、多くの呼び名があるが、これは往古より、広い地域まで知られた「大宮」であることに起因するのであろう。 しかし当初の社名について、「日本書記」雄略天皇17年3月2日の条に、
「詔土師連等使進応盛朝夕御膳者清器者於是土師連祖 吾笥仍進 摂津國来狭村(中略)私民部名曰贄土師部」とある。
これは、「天皇が朝夕の食事に使われる食器を、献納する詔がくだり、土師氏の祖である吾笥が、摂津國来狭村などに居住している部民を、贄土師部(土器を作る職人)として朝廷に献上した」というのである。文中の「来狭村」は当地に比定ざれ、社名もこれに拠ると考えられる。
祭神は「加茂別雷神」のほか、末社の「大国主命」、「豊受比売命」「事代主尊」「宇賀御魂神」「応神天皇」と、明治40年含祀の神々となっている。主神の「加茂別雷神」については、大宝元年(701)の能勢郡の設置に伴い、能勢郡郡司となった神人為奈麻呂が、賀茂氏とは同祖であることから、祭祀された可能性が大きいと思われる。
また、当社の文書断簡に「祭神天穂日命、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806〜9)奉祭ス」とあり、「天穂日命」は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は「天穂日命」が奉祭されていたように思われる。
このように当社は、悠久の大化前代から土地を開いた祖神や先人を土産神として祀り、当初は社名・村名を同じくし、以後千有余年の星霜を重ねてきた。近世では宮寺として真言宗「寛学寺」があり、当寺の別当が代々寺社の祭事をつとめた。
===============================================
こちらの神社様は
※当社の文書断簡に「祭神天穂日命、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806〜9)奉祭ス」とあり、「天穂日命」は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は「天穂日命」が奉祭されていたように思われる。
とあるように、『当初は贄土師部の遠祖「天穂日命」が奉祭されていた』と言う事ですね。
さらに・・
※近世では宮寺として真言宗「寛学寺」があり、当寺の別当が代々寺社の祭事をつとめた。
とあります。

続けて
※2の神社様 についてです
http://www.town-of-nose.jp/map/index.php?mode=show&seq=127

天喜2年(1054)領主源頼基が山城国北野天神の分霊を歌垣山の頂上に勧請し祀ったのが起源とされ、祭神は言うまでもなく、菅原道真公である。参詣の便をかんがみ、天正12年(1584)現在の場所に造営された。
参道の近くには銀寄せ栗の原木があったとされている。宝暦3年(1753)のころ、肥後熊本へ行っての帰り、広島より栗の実を持ち帰り植えたところ良い味ができたので、盛んに栽培されるようになった。大干ばつの際に都で販売したところ、銀札が箱詰めになるほど集まったので「銀寄」と名付けられた。
==================================================
御祭神は菅原道真公
とても気になる事が書かれています。
※宝暦3年(1753)のころ、肥後熊本へ行っての帰り、広島より栗の実を持ち帰り植えたところ・・・
『肥後熊本へ行っての帰り、広島より』
皆様・・
高祖父の実家の姓
最初に書きましたように
@福島県伊達市に3軒 A愛知県岡崎市に3軒 B大阪府豊能郡能勢町に2軒
C広島県山県郡安芸太田町に11軒 D熊本県球磨郡多良木町に10軒
偶然か?!
御由緒の記述の中にある言葉『肥後熊本へ行っての帰り、広島より』と上記の
D熊本県球磨郡多良木町 ⇒ C広島県山県郡安芸太田町 ⇒ B大阪府豊能郡能勢町
本当に偶然かもしれませんが・・一致しています・・・?

さらに・・サイト内の御由緒に書かれている
※2の神社様の”いちょう”について
歌垣山から現在地に造営になった天正12年(1584)にはすでに「翠枝千年なりき」といわれるこのいちょうは、植物学上からは中国渡来説により樹齢400年といわれている。
どう言う事なのだろう・・???
天正12年(1584)にはすでに「翠枝千年なりき」といわれるこのいちょうは・・
この時点で今から433年前です・・
なのに・・『植物学上からは』・・”いちょう”の中国渡来説により樹齢400年といわれている・・???
とても、気になりますが・・

※1の神社様、そして ※2の神社様 の御由緒で解った事は
『高祖父の実家と同じ姓』の方が宮司をなさっていらっしゃる神社様は
「天穂日命」に由縁する神社様である!と言う事です。
菅原道真公は「天穂日命」を遠祖とする「菅原氏」。
さらに「天穂日命」を祖とする土師氏・出雲氏

天穂日命 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%9B%E3%83%92
アメノホヒは、日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。
天照大神とスサノオが誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て[1]、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。
任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子を天照大神にきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。

日本の苗字七千傑様の【土師氏】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02124.htm
菅原氏・大江氏・・
私の今までの調査に繋がっています・・
大江氏はさる事ながら・・菅原氏・・何度もコメントしていますが、先祖を調べるとそこには必ず「菅原神社」・「天満天神」・「天満宮」が鎮座されていました・・
さらに・・【凡河内氏】
『凡河内』・・「大河内」  偶然なのでしょうか?!

「天穂日命」を祖とする後裔の土師氏・出雲氏
日本の苗字七千傑様の【出雲氏】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02119.htm

神門氏が見えますが・・椎葉村に隣接する宮崎県東臼杵郡南郷村には『大字神門』地区があります。

さらにかなり、以前、日本の苗字七千傑様から『素賀国造』との関係があるのでは?という御教示を頂いていました。

『高祖父の実家と同じ姓』の方が宮司をなさっていらっしゃる神社様を調べたら
このような事が解り・・鳥肌が立つ程、驚いています・・

さらに・・続けて
※3の神社様 について
http://kamnavi.jp/en/settu/utagaki.htm
御祭神
速素盞嗚命、天御柱命、國御柱命
御由緒
もと後背の山腹の大巖石の上に岩神と称して祀られていた。古老は宇賀御魂神と伝えている。建久七年(1196)社殿を現在地に移転、寛永二年(1625)牛頭天王を勧請した。
=============================================
御祭神
速素盞嗚命、天御柱命、國御柱命
※古老はもとは宇賀御魂神と伝えている。
宇賀御魂神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%9E
カノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた[1][2]。
伏見稲荷大社の主祭神であり[3]、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである(後述)。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
記紀神話[編集]
『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がいる。大年神は一年の収穫を表す年穀の神である。
『日本書紀』では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢えた時に食を要することから、穀物の神が生じたと考えられている[4]。『古事記』『日本書紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
また『書紀』には、神武天皇が戦場で祭祀をした際に、供物の干飯に厳稲魂女(いつのうかのめ)という神名をつけたとあり、本居宣長は『古事記伝』において、これをウカノミタマと同じとしている。

中略・・
神道五部書
鎌倉時代に伊勢神宮で編纂された「神道五部書」には、内宮と外宮の主な社殿と祭神が記されている。その一つ、『御鎮座伝記』では内宮について、「御倉神(みくらのかみ)の三座は[7]、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女(とうめ)[8]とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。
外宮についても、「調御倉神(つきのみくらのかみ)は[9]、ウカノミタマ神におわす。これイザナギ・イザナミ 2柱の尊の生みし所の神なり。また、オオゲツヒメとも号す。また、保食神(うけもちのかみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳神(みけつかみ)[10]とはこれなるなり。また、神服機殿に祝い祭る三狐神とは同座の神なり。故にまた専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊もウカノミタマ神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記される。
============================================================
※3の神社様
御祭神
速素盞嗚命 宇賀御魂神
出雲に繋がっていくのですね。

『高祖父の実家と同じ姓』の方が宮司をなさっていらっしゃる神社様を調べました。
・・・・・

所で・・
大阪府豊能郡能勢町は平家ゆかりの土地でもあった事が解りました。
http://www.town.nose.osaka.jp/13/24/000546.html

さらに、かなり以前(数年前)にコメントした安徳天皇の潜幸伝説が残る地の一つが、こちらの能勢町だった事に気が付いた時には、とても驚きました。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1093.html

http://namusaijo.blog.fc2.com/blog-entry-1015.html

=====================================================
所で・・
高祖父の実家の「姓」が、”まとまって(2軒以上)所在”されている地域
@福島県伊達市に3軒 A愛知県岡崎市に3軒 B大阪府豊能郡能勢町に2軒
C広島県山県郡安芸太田町に11軒 D熊本県球磨郡多良木町に10軒

能勢町以外も調べてみたのですが・・
広島県山県郡安芸太田町 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%94%BA
※2004年(平成16年)10月1日 - 山県郡加計町、戸河内町、筒賀村が合併(新設合併)し安芸太田町が成立する。同時に町章と町旗を制定する。[1] [2]役場の本庁は旧戸河内町役場に置かれた。

上記の『戸河内町』を調べて驚きました!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%94%BA
中略・・
大字
大字は編成されていないが、以下の小字が存在した。
こちらの中に・・・
※那須
※与一野(よいちの)→安芸太田町成立後寺領に変更。
どう言う事だろう!?と思い調べたのですが
サイト 安芸大田ナビより
http://www.akioota-navi.jp/html/kankou_spot_yoichino_sidarezakura.html
屋島の源平合戦で有名な「那須与一」が鎌倉幕府から西国に送られ、晩年にこの地で田畑の開拓をすすめたことから、このあたりを“与一野”というようになったようです。「那須与一」の墓と現地の人々の間では言い伝えられている宝篋印塔も近くにあります。
====================================================
安芸太田町は「那須氏」に所縁の地のようです。

続けて・・
@福島県伊達市に3軒
福島県伊達市 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%B8%82_ (%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)

中略・・
歴史 平安時代
10世紀初頭、各郡の大きさ(人口、経済力)を平均化するために全国的に郡の分割や再編を行った。福島盆地域では、信夫郡から伊達郡を分割した。ここに始めて伊達郡が誕生する。信夫郡には8つの郷(ごう)があったが、そのうち小倉郷(福島市南部、大森川以南で阿武隈川以西)、安岐郷(福島市中心部、大森川以北で松川以南で阿武隈川以西)、岑越(みねこし)郷(信夫山周辺、松川以北で摺上川以南で阿武隈川以西)、曰理(わたり)郷(福島市南部、阿武隈川以東の南部)が信夫郡として残り、伊達郷(福島盆地北部、摺上川以北で阿武隈川以西)、靜戸(しずりべ)郷(伊達市主要域、阿武隈川以東の北部)、鍬山(くわやま)郷(伊達市月舘町や伊達郡川俣町、伊達郡飯野町などの阿武隈高地域)が、新しく伊達郡となった。 当時の松川は信夫山(当時は岑越山)の南側を流れていたため、信夫山は松川以北となる。 11世紀末になると、奥州藤原氏が東北地方のほぼ全域を直接的間接的な支配下においた。信達地方(信夫郡と伊達郡)は、福島県中通りと会津をほぼ支配下におさめた藤原氏の一族である信夫佐藤氏の本拠地となった。
=============================================
※藤原氏の一族である信夫佐藤氏の本拠地となった。
信夫佐藤氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B0%8F
信夫佐藤氏(しのぶさとうし)は、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われ、公清が佐渡の守に任じられたことにより「佐渡」の「藤原」ということで佐藤を名乗った。あるいは、藤原の出自で藤原氏の補佐の意味「佐・(すけ)」で佐藤とも。信夫佐藤とは、他の佐藤氏と区別する際、信夫地方(福島県福島市)を出自本拠地としたことによる一般呼称で、自ら「信夫佐藤」と称していたということはない。
源義経の郎党として治承・寿永の乱で活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟もこの佐藤氏の出身で、その父佐藤基治(元治)は信夫(福島県福島市)飯坂温泉付近に荘園を所領し信夫荘司・湯荘司と称したといわれる。佐藤基治の妻(乙和子姫・佐藤兄弟の母)は藤原清衡の孫に当たり、その縁で奥州藤原氏の一族として源頼朝の奥州討伐の際、石那坂に陣を敷き防戦した[2]。
その後、佐藤氏は赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが、南北朝期に伊勢へ移住する。一部が故地・信夫周辺で生き残り、相馬氏、佐竹氏に仕え、幕末には陸奥白河藩の代官となっていた。医王寺や、舘の山公園・(大鳥城・福島市)に佐藤氏の遺跡が残存する

=====================================================
ここでも、また、鳥肌が立ちました・・高祖父の実家の姓を調べたら・・
やはり・・何か 繋がっている・・偶然なのか????
日本の苗字七千傑様の《那須国造》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208c.htm

結局・・昨日”高祖父の実家の姓を調べてみよう”と考える前から、最近ずっとコメントしていた
日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

こちらには・・何を調べても繋がってくるような気がします・・(..)

今朝は
全国にとても少ない45軒しかない高祖父の実家の姓を調べて解った事を
書かせて頂きました。

今後も『高祖父の実家の姓』については調査を続行するつもりですが
前にも進まなければいけませんので、
コメント28の続き、次のコメントから再開するつもりです。
おそらく明後日以降になるかもしれませんが・・(..)

しかし・・・
さすがに・・今朝、書いた事については・・
驚きました・・(..)

では(..)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月11日 18時48分44秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

繋がっていく「点」と「線」について
ドンドン書きすすめていこうと思います(p_-)

コメント28の続き
4.「那須氏」の名跡と同じ『名称』が残る球磨の「神社」について  です(..)

家の宮原家が戦後現在の場所に家を移す前に、元々宮原家があった場所。
家のすぐ近くに明治初頭まで鎮座だった「稲積神社」(稲積妙見)
麻郡神社私考には久米領稲積山に鎮座と書かれていますが
旧宮原村内において「稲積神社」(稲積妙見)は久米領の飛地でした。
さらに「稲積山」とありますが、神社鎮座の土地は、私が住む、宮麓集落のちょうど中心部に位置する平地で真正面に黒原山を望む場所でもありました。
麻郡神社私考では御祭神は 八代郡白木社妙見同體 とあります。
※補足 皇紀二千六百年記念事業として編纂された球磨郡誌には、御祭神 天之御中主神 右五神(別天津神)とあります。
さらに麻郡神社私考では 草創年紀未考 此社は當郡妙見勧請の最初也 と記されています。 

稲積神社(稲積妙見)については、今まで何度もコメントして参りました。
そして・・ようやく稲積神社(稲積妙見)を調査の一つの「点」と考えた場合、他の様々な「点」と線で繋がる事に気が付きました。
今日のコメントもかなり長くなりますが、御了承下さい(..)

@「点」を繋げる各地の神社 御祭神 『八代神社』

旧宮原村内 久米領飛地 稲積山鎮座 稲積神社(稲積妙見)八代郡白木社妙見同體 
八代神社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
八代神社(やつしろじんじゃ)は、熊本県八代市妙見町にある神社である。妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さん。旧社格は県社。上宮、中宮、下宮の三宮からなるが、現在は下宮が本宮である。福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれる。

※@福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つ
こちらについて、実は今日、コメントを書きながら気が付きました!
『大阪の能勢妙見』・・能勢町御鎮座ですね!
ウィキの記述では https//ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%8B%A2%E5%A6%99%E8%A6%8B%E5%B1%B1_(%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97)
能勢妙見山(のせみょうけんざん)は、大阪府豊能郡能勢町にある日蓮宗の霊場。妙見山の山頂付近にある。親師法縁。
大辞林や大辞泉によれば能勢妙見堂(のせみょうげんどう)、また神仏習合時代の名残で境内入口に鳥居があることなどから、能勢妙見宮(のせみょうげんぐう)との通称もある。
正式名 無漏山眞如寺 境外仏堂 能勢妙見山
大阪府豊能郡能勢町野間中 ・・・能勢町野間中・・あれっ?・・・

(p_-)八代神社 転記続けます。
由緒[編集]
1730年(享保15年)に書かれた『妙見宮実紀』によれば[1]、795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。1160年(永暦元年)、中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された[2]。
1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。1871年(明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となった
11月22日、23日の妙見祭は、九州三大祭りの一つで「八代妙見祭の御幸行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

※A1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。
大江朝臣隆房・・大江氏です!大江朝臣隆房八代神社 外宮 創建!

補足します(..) 「八代妙見祭の御幸行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定・・2016年12月1日にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。
転記続けます(..)

境内社[編集]
大宮神社
祭神 - 日本武尊。
稲荷神社
祭神 - 保食神。

※補足 稲荷神社 御祭神 保食神
保食神(うけもちのかみ) ウィキより
保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる
中略・・
同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味である。
食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということから牛や馬の神ともされる。東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、さらに「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されている。
食物とそれが生じた体の各部との関係は、朝鮮語に訳すことで説明がつくことが知られている。一方で、古事記にあるオオゲツヒメの説話ではこのような対応関係が見られない。このことから、日本書紀の編者に朝鮮語を解するものがいて、生成物と体部を結びつけたと考えられる(『日本書紀(一)』59頁、61頁)。

※B稲荷神社 御祭神 保食神 同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視されている。
コメント35で書きましたが
高祖父の実家と同じ”姓”の方が宮司家である『能勢町』鎮座の
※3の神社様
http://kamnavi.jp/en/settu/utagaki.htm
御祭神は
速素盞嗚命、天御柱命、國御柱命
※古老はもとは宇賀御魂神と伝えている。

※C馬頭観音とも同一視されている。
特に気になるのは『日本書紀の編者に朝鮮語を解するものがいて、生成物と体部を結びつけたと考えられる』・・ここですね(p_-)

続けて転記します(..)
境外末社
霊符神社[編集]
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興

※D百済国聖明王の第3王子琳聖太子 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B3%E8%81%96%E5%A4%AA%E5%AD%90
琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。義照。
概要[編集]
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。
この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。義弘は朝鮮半島との貿易を重視した。
(p_-) 大内義弘
旧宮原村にあった「宮原銀山」で産出された「銀」を相良氏は大内氏の力を借りて八代港から中国『明』へと輸出していました。
さらに・・
※E八代神社 境外末社 霊符神社と宮原一族について
橘公業 後裔 宮原の一族のお一人「宮原公忠」。この方は相良長毎の命によって「霊符」の版をつくっています。
八代郡誌には「公忠妙見霊符を信じ、天文年間霊符の版を奉納し」とあります。
これは、一時紛失していた『霊符の金版と御免皮』が見つかり、その『霊符』を宮原公忠(現八代郡氷川町 宮原城主)が修復して上記の八代神社境外末社霊符神社に納めた・・と言うお話です。 (宮原町郷土誌記載)
宮原公忠の居城「宮原城」は氷川町の「宮原三宮」(妙見宮)に隣接していました。
=========================================================
旧宮原村内 久米領飛地 稲積山鎮座 稲積神社(稲積妙見)八代郡白木社妙見同體 此社は當郡妙見勧請の最初也・・
 八代神社をあらためて調べた結果
※@福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見(大阪府豊能郡能勢町野間中)と並んで、日本三大妙見の一つ。
※A1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。
※B境内社 稲荷神社 御祭神 保食神。同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視されている。
高祖父の実家と同じ”姓”の方が宮司家である『能勢町』鎮座の神社「一社」の御祭神は 速素盞嗚命、天御柱命、國御柱命 ※古老はもとは宇賀御魂神と伝えている。
※E八代神社 境外末社 霊符神社と宮原一族について
『霊符』を宮原公忠(現八代郡氷川町 宮原城主)が修復して八代神社境外末社霊符神社に納めた

このような事が解りました。

続けて
@「点」を繋げる各地の神社 御祭神 『稲積神社』
先にも書いた、家の宮原家が元あった場所のすぐ近く(厳密に言うとお隣です(..))に鎮座の『稲積神社』(稲積妙見)。
かなり、以前に他地域の『稲積神社』を調べたのですが、該当する場所は三か所でした。
●大分県宇佐市 稲積六神社
●山梨県甲府市太田町 正ノ木稲荷大明神・稲積神社
●栃木県那須烏山市下境 稲積神社

以前、調べた時は(コメントも書いていました(..))旧宮原村の『稲積神社』(稲積妙見)と上記の『稲積神社』の繋がりが・・全く意味が解らず・・(御祭神も異なり・・)
しかし・・ようやく、その「繋がりの意味」が見えて参りました。

●栃木県那須烏山市下境 稲積神社 那須鳥山市公式サイトより
https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/index.cfm/9,1288,38,html
稲積神社は勧請由来に次のように述べられています。「那須宗資-なすむねすけ-(須藤三郎)が平治の乱の時に源義朝-みなもとのよしとも-の軍に味方し、平清盛-たいらのきよもり-の軍と戦い敗れ、兄資房-すけふさ-と共に甲斐国稲積庄に逃げ隠れた。その際、土地の鎮守である稲積明神に本国帰参を祈ったところ、永万-えいまん-元年(1165)勅免により帰国を許された。帰国後、宗資は那須家を相続し、神田城(那珂川町)から下境の地にあった城に移り住み、甲斐国より稲積明神を城内に勧請して鎮守とし、城を稲積城と名づけた。」(大略)
以後、那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけ、那須家改易の後も歴代藩主の崇拝と保護をうけました。 現在、神社には多くの文化財が残り、秋の例大祭(8月最終日曜日)には、獅子舞も奉納され多くの参拝客で賑わいを見せます。
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※E栃木県那須烏山市下境 稲積神社とは
那須宗資が兄資房と共に甲斐国稲積庄に逃げ隠れた後、本国へ無事帰国、後、宗資は那須家を相続し、神田城(那珂川町)から下境の地にあった城に移り住み、甲斐国より稲積明神を城内に勧請して鎮守とし、城を稲積城と名づけた。
以後、那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけた神社である。
そうです!
栃木県那須烏山市下境 稲積神社とは、那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけた神社であったと言う事です!

※F那須宗資が勧請した甲斐国稲積庄 土地の鎮守である稲積明神 とは
正ノ木稲荷大明神・稲積神社 公式サイトより
http://www.inazumijinjya.com/yuisho
御由緒
今から約2,080年前、上古時代湖沼地帯であった甲府盆地を第十代崇神天皇の御代四道将軍武淳川別命東征の折、御入国があり、湖岸を切り開き湖水を富士川に落として涸燥して、田圃を造り蒼生愛撫、五穀豊穣、祈願のため、丸山に奉斎したと伝えられる(丸山は今の舞鶴城址)甲斐源氏の祖、一条次郎忠頼丸山に館するに当り、庄城稲荷と呼ばれ氏神として甲斐源氏一条忠頼一族の崇敬する所となっていたが文録年中浅野長政の築城に当り一蓮寺と共に現地に遷された。
御祭神 … 宇迦之御魂大神 大宮能売大神

那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけた『稲積神社』の御祭神は
宇迦之御魂大神 大宮能売大神

コメント35以降・・御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と記された神社を幾度目にした事か・・

さらに・・
『一条次郎忠頼丸山に館するに当り、庄城稲荷と呼ばれ氏神として甲斐源氏一条忠頼一族の崇敬する所となっていた』
一条忠頼。この方は元暦元年6月16日(『延慶本平家物語』では4月26日)、鎌倉に招かれた一条忠頼は酒宴の最中に、源頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。
一条忠頼。この方は数年前に調べていました。
天野遠景からの平河氏宛ての下知状の中に、平河家文書には珍しく『6月16日』と言う日付が記されていて気になって調べてコメントしていました。
この件とは無関係だと思いますが・・。

旧宮原村に鎮座の『稲積山 稲積神社(稲積妙見)』。全国に現在同名の『稲積神社』は三社。
その内の二社●栃木県那須烏山市下境 稲積神社 ●栃木県那須烏山市下境 稲積神社は那須氏ゆかりの神社であったと言う事が解りました。

旧宮原村に鎮座の『稲積山 稲積神社(稲積妙見)』
元禄十二年(1699年)編纂の麻郡神社私考では
社人 椎葉久左衛門

明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼・・・税所式部少輔綾末継
宮原出雲橘續久・・宮原出雲橘続久
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興

※阿部氏は他の麻郡神社私考内の記述では「安部」ともあり、那須氏と安部氏・阿部氏は同族でした・・。
=================================================

元禄十二年(1699年)編纂の麻郡神社私考
元和5(1619)年に起きた椎葉山騒動の80年後です。
さらに椎葉山は天領となり1656年(明暦2年)隣接する人吉藩の預かり地となりました。
社人 椎葉久左衛門 

しかし・・椎葉氏の名は椎葉山が人吉藩の預かり地となる一年前にすでに旧宮原村にあったのです。
何度もコメントしています、家のすぐ近くに1655年2月に建立された庚申塔。
刻まれた「氏名」の中に『椎葉宗衛門』という方の名が残っています。

さらに『社人 椎葉久左衛門』
この方は稲積神社(稲積妙見)の社人以外にも
若宮大明神 久米六反田村鎮座
新八幡宮 久米古城鎮座
上記の神社の「社人」でもありました。
若宮大明神 久米六反田村鎮座 の中興に関わった方は
藤原長陸(上村長陸)と安部若狭 この方々です。
上村長陸(奥野地頭)の娘は鶴満。那須重康室となった方です。
上村長陸 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%95%B7%E9%99%B8
中略・・
相良義陽の弟・相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、更に相良氏20代当主・相良頼房が、文禄・慶長の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。慶長年間、その企てを知った者らにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。
※『文禄・慶長の役に伴い』『慶長年間』とありますが文禄・慶長の役は
文禄元年(1592年)に始まって慶長3年(1598年)に終結しています。

上村長陸。この方について、私は、今までの調査、特に前々スレッドあたりから何度もコメントに書いた記憶があります。
奥野地頭 上村長陸。娘は鶴満。那須重康室となった方でした・・。

所で・・
後年、旧奥野村の白木妙見の宮司となられた「椎葉氏」は以前コメントしましたが本姓「大神」とありました。
家(宮原)の親戚に複数ある「那須家」ですが、最近知ったのですが、一軒の遠縁の那須家の家紋は『三つ麟紋』でした・・
次のコメントでは
親戚の『椎葉家・尾方家・そして緒方家』の関係で気が付いた事を書かせて頂きます。

最後になりましたが・・
「稲積神社」の「稲積」と言う言葉に関して驚くべき事を知る事になりました。
「稲積」と言う言葉を調べていて偶然見つけたサイトです。
http://yatusiro.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d3d4.html

こちらのサイト様に記述されている内容の中にあった記述です。
「大宰府管轄下の稲積城」が「どこにあった」か・・
新日本古典文学大系「続日本紀一」では、この『稲積』に、
 ≪地名辞書は、筑前国志麻郡志麻郷(現在の糸島郡志摩郷町)の稲留とし、青木和夫はその地にある火山(ひのやま=244メートル)をこれにあてる。≫ との註を付している。

★★★
『稲積』・・『稲留』

驚き過ぎて・・一瞬血の気が引く思いでした・・

相良長頼の五男・稲留頼貞。
平河氏系図に見える相良弥三郎 頼貞。
さらに旧宮原村にあった「庭柏寺」は相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺であり、建立したのは「稲留某氏」
上村長陸の父「上村頼孝」の兄弟であり岡本城主であった「稲留長蔵」
他にも、平河氏を調べると、頻繁に登場していた「稲留氏」。

那須宗資が甲斐国より稲積明神を城内に勧請して鎮守とし、城を稲積城と名づけ、以後、那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけた神社が「稲積神社」
『稲積』・・『稲留』

こんな偶然て・・あるものでしょうか・・

非常に長くなりましたが、今日は
4.「那須氏」の名跡と同じ『名称』が残る球磨の「神社」について
を書かせて頂きました。

明日は
親戚の『椎葉家・尾方家・そして緒方家』の関係で気が付いた事を書かせて頂きます。

では(..)
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月12日 16時12分28秒 ) パスワード

追記です(..)

大秦是清もしくは定清 播摩氏女

大秦は「大」の文字です。
「太」の文字ではありません(ー_ー)!!

銘文の写しが記載されていたのですが
「太」ではなく「大」の文字でした。

すなわち「太秦」ではなく「大秦」でございます(p_-)

追記でございました(..)
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月12日 22時23分51秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(..)
コメント37で書かせて頂いた事について、『惟宗聿高』と言う方の件等再度、書き換えさせて頂きます(..)
すみません。表の見方を私が理解していなかったようです。
申し訳ありませんでした。
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昨日のコメントの続きの前に・・・
私が今まで調べてきた事等の「点」と「線」の繋がり・・と最近書いていましたが
こちらのスレッドにはコメントしていない「点」が幾つかありました。
(昨年、足を怪我して本ばかり読んでいた時に勉強させて頂いた事の数々です)

今日はまず、そのコメントしていなかった「点」についてを書かせて頂きます(..)

私が所有する書籍「麻郡神社私考(平成復刻本)」の巻末に
昭和62年11月に発行された『神道大系』月報69(神道大系編纂会様 発行)に
佐藤光昭氏の論文”「麻郡神社私考」について” が記載されています。

佐藤光昭氏は、論文”「麻郡神社私考」について”の中で
三、大神惟基は阿蘇神社の神主か と題して
青井阿蘇神社の宮司家「青井家」の家系図が相良頼兄に取上げられ、「お下の乱」で焼失してしまった事により、五十代惟治が叙任奏請のため「青井大明神社職之系図」を作成し、寛文六年十月、卜部兼連に辞を請い確かなものとして子孫に遺そうとした事。
上記によれば「惟基、姓は大神、氏は緒方なり」と見える。
がしかし「青井家簿」には「青井氏出於阿蘇氏、阿蘇大宮司之留胤尾形権之助大神惟基ナル者・・・(略)」とあるが、阿蘇文書によると阿蘇氏は宇治氏であり、大神氏とは全く見えない・・
この事から佐藤氏は平安末期から鎌倉時代にかけての球磨の寺社に残る、『仏像』や経筒、さらに他県に残る「球磨の人々」の軌跡を辿って調査を行われた事が書かれていました。

上記の『球磨の寺社に残る・経筒』が昭和十一年三月に黒肥地(現多良木町)東光寺より発掘された、文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個です。
文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個の中に「大神宗氏」の名が残されていた事、奉納者「藤原頼氏」「大神氏」「大秦氏」を含む五名二夫妻の名が記されていました。
(東光寺より発掘された経筒については、後ほど、詳しく書かせて頂きます(..))
東光寺について、佐藤氏は
『寛元元年(1243年)十二月廿三日関東下知状」に初見する「多良木内古多良木・竹脇・伊久佐上・東光寺村」村にあったと考えられ、東光寺がなければ東光寺村とは言わない筈だし、すでに門前村が成立したのであろう。』
中略・・
『文応元年(1260年)、相良頼氏草創の独集覧の伝承は再興の誤りであろう。明応年間には十六坊あったという。』
と記されています。

さらに
『経筒に見える大神氏は、東光寺八幡の神主で頼氏と強く結ばれ、蒙古襲来の国難を憂慮して、埋納されたと考えられ、その指導者の一人であったと思われる。』
と推測されています。

四、国東半島との関係 の中では
球磨には鎌倉期以前、平安末の様相を語る文書は唯一「高野山文書1746号『肥後国訴状写』の最後の七行のみである事が書かれています。

※当時の球磨郡は郡全体が半不輸の王家領荘園であり平頼盛が強く関与していた。

『国東仏教文化と結ぶ資料は何もない。ところが金石文を見ると、深い交流があったことが理解されている。』
『多良木黒肥地の鍋城に左の二寺夫々本尊に僧快暹の銘があり・・中略・・この僧快暹の名は豊後国高田長安寺の太郎天像の結縁交名衆の中にも見出され、同じ年代であり同一人物と思われる。中略・・(交名衆)は六郷満山の僧衆と宇佐神人と関係官人とみてよいのだろう』
と書かれていました。

さらに・・球磨郡山江村高寺院所蔵の勢至菩薩(承久二年六月二十二日 仏師源覚 造立)の胎内銘に残された「惟宗聿高」と言う名について
『(惟宗聿高)の惟宗氏も太郎天像に見え、「宇佐大鏡」には那珂庄の地頭惟宗高安は、後に日向国諸県に本拠を持つ田部忠綱が知行し、惟宗氏は永仁五年、日向真幸院の預所職となっている』
とあり、さらに、私が以前から何度かコメントしました多良木黒肥地の王宮神社の練札について書かれていました。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364065.html
古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称された。
創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に墨、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。

さらに
佐藤光昭氏は、論文”「麻郡神社私考」について”の中で
『王宮神社には金銅板の径十三.八糎の毛彫の聖観音が伝来していた。「奉納人 王御前 文永十二年正月 内蔵金弘」と記す内蔵氏は太郎天像に四名も見え「宇佐大鏡」にも記されている。その外、建久八年閏六月の図田帳にも見える久米氏・紀氏も太郎天像にあり、須恵氏は応永廿八年二月廿七日・日向国図田帳写には諸県郡内安楽寺領馬関田庄の地頭須恵氏と見えている』
と書かれており
『中略・・大神氏は太郎天像にも五名も見え、大鏡には播摩・大秦・大神氏も見える。大神氏は宇佐宮の神人であったのだから当然と言えよう』
『このように、球磨郡の古代末・中世中期の氏族名に、日向国から国東にいたる氏族名と共通なものが多い事は、両者の間に緊密な関係があったことを物語り、早くからこの山中に交通路があった事であり、多良木町より遥かに遠い国境の山奥に・・中略・・ここが重要な道であり始めは塩の道ではなかったかと思われる』
とあり、
さらに
『中略・・尾形権之助大神惟基は姓は大神、氏は尾方で、大神氏は宇佐大宮司系の大神であり、古代球磨と宇佐地方の交流の濃密さからみて疑う余地はないであろう』
とありました。

佐藤光昭氏は球磨郡の平安末期の豪族と他国の同姓氏族と題した表には

球磨郡山江村高寺院所蔵の勢至菩薩(承久二年六月二十二日 仏師源覚 造立)の胎内銘に残された「惟宗聿高」と言う方の名もありました。
@豊後国高田長安寺の太郎天像の結縁交名衆銘文
A八幡宇佐宮御神領大鏡
に惟宗氏。
「惟宗聿高」と言う人物は実在したのか?
しかし「承久二年(1220年)」の前後、球磨の地に「惟宗氏」もしくは「惟宗氏」に繋がる何れかの人物が関係されている事は確かのようです。

さらに同表により
東光寺より発掘された、文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個に遺された「大秦■清」と言う方の姓「大秦氏」が
@豊後国高田長安寺の太郎天像の結縁交名衆銘文
A八幡宇佐宮御神領大鏡
に残されていた事が解りました。

佐藤光昭氏の論文”「麻郡神社私考」について”
他に、九州の金石に記された僧名と球磨に名を残した僧の方の比較等もあり
佐藤光昭氏の膨大な史料を元にした御研究により、平安期から鎌倉中期にかけて全く見えなかった球磨の有り様が『見えてきた』事に心から敬服致します。
大変勉強になりました。

続けて
東光寺より発掘された、文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個について書かせて頂きます。

ひとよし歴史研究会 平成23年度 第15号 人吉市教育委員会 人吉市文化財保護委員会 発行
こちらに
中世のタイムカプセル 和田好史氏 の論文が記載されています。
中に東光寺より発掘された、文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個について詳しく御研究されていらっしゃいます。
項目『経塚造営に携わった人達』の中に奉納者「藤原頼氏」「大神氏」「大秦氏」を含む五名二夫妻の名が記されていました。


第一号経筒の願主  藤原頼氏(相良頼氏)
第二号経筒の願主  藤原氏女
第三号経筒の願主  藤原頼隆 藤原氏女
第四号経筒の願主  大神宗氏
第五号経筒の願主  比企尼如阿弥陀仏
第六号経筒の願主  比企尼如阿弥陀仏
第七号経筒の願主  大秦是清もしくは定清 播摩氏女
第八号経筒の願主  不明

和田好史氏は論文「中世のタイムカプセル」項目『経塚造営に携わった人達』の中で上記の方々を平川家文書「人吉荘南方寅丘名地頭職相傳系図」と対比して研究されています。

第一号経筒の願主  藤原頼氏(相良頼氏)
上相良氏二代当主 相良頼氏(研究者間で一致している)

第四号経筒の願主  大神宗氏
宇佐神宮社家一門に属する人物と考えられ東光寺八幡宮の神職関係者と想定される。(研究者間で一致している)

第二号経筒の願主  藤原氏女
銘文に「慈父」とあり、頼氏の父親である相良長頼と考えれば、頼氏の妹「妙阿」が想定できよう。

第三号経筒の願主  藤原頼隆 藤原氏女
藤原頼隆については飯沼賢司教授は、頼氏の三男「頼兼」を指摘している。
もし指摘通りとすれば「藤原氏女」は「頼兼」の妻、もしくは「妙阿」の子「阿夜」が想定できよう。 

第五号経筒の願主  比企尼如阿弥陀仏
第六号経筒の願主  比企尼如阿弥陀仏
「比企尼如阿弥陀仏」は尼であることが想定でき、当時、二人の尼の存在を示している。

第七号経筒の願主  大秦是清もしくは定清 播摩氏女
文書等にも記載のない人物で関西地方に関わる名前とも考えられる。

今後解明していかなければならない人物達である。
==============================================
実は、私が、ずっと知りたかった「名」の方々で、和田好史氏の論文「中世のタイムカプセル」読ませて頂き、その「名」を知る事が出来て、本当に感動致しました。

球磨の平安期から中世にかけて、「真実」を知る、手掛かりの重要な鍵だと思います。

所で・・
非常に気になるのは「尼妙阿」と娘「阿夜」の名があがっている事です(p_-)

さらに
第七号経筒の願主  大秦是清もしくは定清 播摩氏女
大秦氏・・

先に書いた佐藤光昭氏の論文”「麻郡神社私考」について”を読ませて頂いて「球磨」と「宇佐地方や国東半島」との緊密な関係が理解できたので・・
大秦氏・・宇佐地方と何か関係があるのかな?と・・

とりあえず、何かネットであがってこないか?と調べたのですが・・
大秦是清もしくは定清では何も登場しなかったのですが、別の方法で調べた所
ちょっと気になる事が・・登場?しました。

サイト 公卿類別譜 公家の歴史 西園寺家 です(..)
http://www.geocities.jp/okugesan_com/saionji.htm


★@藤原 実持 [ 文治5(1189)年 〜 建長8年5月8日(ユリウス暦:1256年6月2日) ]
公定一男。母藤原成親女。
文暦元年12月21日(ユリウス暦:1235年1月11日)叙従三位。
建長5年9月12日(ユリウス暦:1253年10月5日)出家。
正二位・権大納言。

★A藤原 公蔭 [ ? 〜 文永8年3月4日(ユリウス暦:1271年4月14日) ]
実持男。母宇佐大宮司公通女(家本云源定清女)。
文永元年12月21日(ユリウス暦:1265年1月9日)叙従三位。
正三位・非参議。

★B藤原 公兼(本名公遠) [ 仁治元(1240)年 〜 正和元年4月17日(ユリウス暦:1312年5月23日) ]
実持二男。母宇佐大宮司公通女。
弘安元年3月14日(ユリウス暦:1278年4月7日)叙従三位。
正二位・非参議。

★Bの藤原 公蔭 [ ? 〜 文永8年3月4日(ユリウス暦:1271年4月14日) ]
実持男。母宇佐大宮司公通女(家本云源定清女)。
(?_?)・・
母宇佐大宮司公通女(家本云源定清女)
宇佐大宮司家・・あれっ???

※家本云源定清女
と言う事で「源定清」この方を調べたのですが。。
中院 定清 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E5%AE%9A%E6%B8%85
中院 定清(なかのいん さだきよ、生年不詳 - 建武2年12月12日(1336年1月25日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した公家、武将、越中守(国司)。
中院定平(源定平)の子であり、源定清としても知られる。

何だか・・年代が合わないような気がします(..)
★A藤原 公蔭 [ ? 〜 文永8年3月4日(ユリウス暦:1271年4月14日) ]
実持男。母宇佐大宮司公通女(家本云源定清女)。
★B藤原 公兼(本名公遠) [ 仁治元(1240)年 〜 正和元年4月17日(ユリウス暦:1312年5月23日) ]
実持二男。母宇佐大宮司公通女。

何だか・・妙に・・そう妙に・・気になります・・
何せ、こちらは西園寺家ですから・・球磨には十分関わりがあるのです・・
さらに「球磨」と「宇佐」との緊密な関係から言うと『宇佐大宮司家』とは無縁ではありません・・
それに、「真実」を書いたタイムカプセルにあった名「大秦 是清(定清)」の「定清」と何故か一致している・・

『宇佐大宮司公通』氏とは コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E5%8F%B8-1273592
平安末期に平清盛・頼盛兄弟が大宰大弐になると神宮と平氏の結びつきが深まり,1166年(仁安1)宇佐大宮司公通が大宰権少弐に任命され,さらに平氏政権が成立すると大宮司公通が豊前国司に補任された。このため源平合戦時には,源氏に味方した豊後の緒方惟栄(おがたこれよし)のために神宮が焼打ちされる事件が発生した。…

宇佐公通
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%85%AC%E9%80%9A-1057623
宇佐公通 うさの-きみみち

?−? 平安後期-鎌倉時代の神職。
天養元年(1144)豊前(ぶぜん)宇佐神宮(大分県)の大宮司(だいぐうじ)となる。平氏政権との結びつきがつよく,対馬守(つしまのかみ),のち豊前守に任じられる。寿永2年には都落ちした安徳天皇を自邸にむかえた。平氏滅亡後は破壊された宇佐神宮を再建し,子の公房(きみふさ)が大宮司に再任された。建久4-5年ごろ没したという

こちらは・・
東光寺より発掘された、文永十年(1273年)十一月四日銘の経筒八個に残された方の「名」とは年代が合いませんね・・(p_-)

だけど・・何だか妙に
第七号経筒の願主  大秦是清もしくは定清 播摩氏女
この方々が気になります・・(..)

と言う事で・・
今回は今まで『コメントしていなかった点』についてを書かせて頂きました(..)

では。

[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月13日 11時24分04秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

朝から、お昼過ぎまでは、一応主婦なので家事が忙しいのですが・・
「点」と「線」が繋がった!\(^o^)/と喜んでいたのにも関わらず
どうも・・数日前から昨日にかけて頭が混乱している所がありまして・・
いつもの・・妙な感なのですが・・
頭の中で「ゴ〜ン」と言う音が鳴っていて・・

そこで・・独り言を・・(..)

何だか・・・古代と中世が融合?しているような気がする・・・
古代の中国と朝鮮半島とに繋がる方々と・・日本の古代系の方々と・・中世の方々が・・
平安末期〜鎌倉初期にかけて九州中央山地の中とその周辺域で融合?しているような気がする・・
さらに・・
その事に、九州各地の『神社』が関係しているような気がします・・・

独り言でした(..)
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月17日 16時18分28秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

熊本地震から一年が経過しました。
3月14日の前震、16日の本震。
今月13日現在で、225名の方々の尊い命が犠牲となられました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
被災地では未だ、4万8千人近くの方が仮設住宅などでの仮住まいを余儀なくされていらっしゃいます。
同じ、熊本県内ではありますが、建物に重大な被害などを受ける事がなく、家で当たり前のように生活出来る自分。
被災地の方々に対して申し訳ないと言う気持ちになります。

熊本地震の後、球磨・人吉でも被災地の復興を支援する催しが各地で行われています。
自分ひとりの力では何も出来ませんが、復興支援の催しが行われる時には出来るだけ出かけて、支援金に繋がる物を購入したりしています。

ここ数日は1年前の事を思い出し、コメントは控えさせて頂いていました。
あらためて、思う事は、災害はいつ何時発生するか解らない・・と言う事です。
人は、苦しかった事を出来るだけ早く忘れようとします。
しかし、地震などの災害は、『古(いにしえ)』の方々が、その時に受けた事を教訓として、未来の人達に伝え残して来られた事が現代にちゃんと残っていたのだと思います。
その事を現代の人達がうまく受け止める事が出来れば、その「教訓」は生かされてくるのでしょう。
歴史を学ぶと言う事は、『古(いにしえ)』の方々からのメッセージを受け取る事でもあるのかな・・と。

数日前の地元紙「人吉新聞」の記事に
『熊本地方台は「地震調査委員会の報告にもあるが、一連の熊本地震は減衰しながらも続いている状況。
県内で過去に大きな地震から数年以内に同程度の強い地震が発生した記録もあるので、引き続き警戒を。
球磨地方には人吉盆地南縁断層、位置関係でいうと県内には緑川断層帯もある。
熊本地震以外にも今後の推移に注意してほしい」と話す。』
と書かれていました。
※県内で過去に大きな地震から数年以内に同程度の強い地震が発生した記録もある。
記録とは『古(いにしえ)』の方々からのメッセージでもあると思います。
この事を「不安をあおる材料」と考えるのではなく、『教訓』だと考えて、いつ何時発生するか解らない災害に対してしっかりとした備えを行わなければいけない!と痛感致しました。

熊本地震直後は不安と恐怖で考える事が出来なかった事ですが、1年を経過して、私自身が学んだ『教訓』です。
不安を感じるよりも、その事に対して前向きに備える事がとても大事な事なのだと・・微力な自分が書くと偉そうな言葉になってしまいますが(..)・・そう考えます。

人吉盆地南縁断層についてですが・・
人吉盆地南縁断層とは人吉盆地(球磨盆地)の南縁、湯前町から多良木町(久米・奥野地区)、あさぎり町(旧岡原村・旧上村)、錦町を経て人吉市東部までの長さ約22キロの活断層です。
この断層は、盆地を取り囲む南部の山々の麓を通っています。
私の住む集落は直下が人吉盆地南縁断層です。
以前から、不思議だったのですが、人吉盆地南縁断層上には各地に神社が建立されています。
例えば
私の住む集落(旧宮原村宮麓)に明治初頭まで鎮座の『稲積妙見』『切畑大明神』『中島大権現』
お隣の旧岡本村の『大炊神権現』
さらにお隣の旧奥野村白木妙見神社。
人吉盆地南縁断層上です・・

他、湯前町、多良木町久米、あさぎり町(旧上村)の人吉盆地南縁断層上には
今までこちらのスレッドでご紹介させて頂いた数社の神社が御鎮座です。
人吉盆地南縁断層の最新活動時期は、約7千3百年前以後、約3千2百年前以前。
どうして・・人吉盆地南縁断層上に『古(いにしえ)』の方々は神社を建立したのか?
例えば・・『中島大権現』・『切畑大明神』の建立は大同元年(806年)。(郷土の歴史研究家の方の中にはそれ以前から神社は鎮座していたとおっしゃる方もいらっしゃいますが・・)
約7千3百年前以後、約3千2百年前以前に活動した断層上に、大同元年(806年)当時の方が何を知り得て?
何故なのだろう?偶然なのか?と以前考えていたのですが・・
この1年間の中で、私なりに故郷の歴史を少しずつ勉強して、最近この謎?の答えを自分なりに導く事が出来ました。

古代遺跡がその答えを導く「鍵」でした。
熊本県教育委員会等の調査報告書なども読みましたが、とても解りやすく以下のサイトが紹介しています。
肥後国 くまもとの歴史 サイト
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366182.html
旧石器時代 中略・・
人吉球磨地方の発掘調査により確認された最も古い遺跡は、人吉市大野町の大野C・D・E遺跡で、年代測定の結果、今から8〜5万年前のもので、小型の石器を主に使用していました。

次に古い遺跡は、人吉市鬼木町の血気ヶ峯遺跡で、今から2万8000年前のものです。この遺跡は、発掘調査により、今から2万2000年前に鹿児島県姶良火山の爆発により火山灰が降って堆積した『シラス層』の下から刃の一部を磨いている石斧、台形の形をしたナイフが発見され、火山灰が堆積する直前にヒトが住んでいたことが明らかになりました。

シラスの降灰が終わり、植生が回復してくると、今から1万8000年前頃、人吉市にもふたたびヒトが住み始めます。城本町・村山闇谷遺跡、七地町・天道ヶ尾遺跡、鬼木町・血気ヶ峯遺跡、願成寺・鼓ヶ峰遺跡、願成寺町・石清水遺跡でき、狩猟に使われた『槍先』、ナイフ形石器などがシラス層の上から発見されています。

旧石器時代も終わりになると、組み合わせ石器として細石器が使用され始め、球磨村・久保遺跡、山江村・城馬場遺跡、七地町・原畑遺跡で確認されています。


縄文時代
人吉市の縄文時代の遺跡は、約60か所あり、最も古い草創期の遺跡として、赤池原町の白鳥平遺跡があります。この遺跡は、今から約1万年前のもので、土器の表面に爪で文様をつけた『爪形文土器』が発見されています。

これに続く早期(8000年前)の遺跡として、城本町の村山闇谷遺跡があり、押型文土器、塞ノ神式土器が発見されています。

さらに、前期(6500年前)の遺跡として、願成寺町の鼓ヶ峰遺跡があり、曽畑式土器が発見されています。

中期の遺跡は、現在のところ、人吉市では発見されていません。しかし、相良村から五木村の川辺川沿いに、中期の遺跡が集中し、野原遺跡が代表的です。
後期(4000年前)から晩期(2500年前)の遺跡の代表として、中神町の中堂遺跡があります。
この中堂遺跡は、球磨川の河川改修により大規模な発掘調査が行われ、その結果、堅穴式住居61軒、赤ちゃんを埋葬した棺38基、石器を作った場所、土器の捨て場があるムラの跡が、景観とともに現代人の前に現れました。また、集落内からは、縄文時代晩期の土器、石斧、矢じりなどの様々な石器、翡翠製の勾玉、菅玉なでの装飾品が発見されました。

=======================================================

上記は主に人吉市内の遺跡を紹介されていますが、もちろん、球磨郡内にも数多くの縄文遺跡が残っています。
名城大学名誉教授「杉下潤二氏」著 人吉・球磨100万年の歴史 縄文人は肥薩線に乗って
杉下潤二名城大学名誉教授は実は家とは遠縁にあたる方です。(父の従姉の義弟)
『人吉・球磨100万年の歴史 縄文人は肥薩線に乗って』の中で杉下氏は
九州各県内の旧石器時代遺跡・縄文時代遺跡の調査を行われ図表で表わされています。
中でも、注目すべきが
縄文時代遺跡の分布で最も多い地域が佐賀県唐津市『385か所』
2番目に多い地域が佐賀県伊万里市『261か所』。
3番目に多い地域は・・熊本県球磨郡『192か所』。隣接する熊本県人吉市『110か所』
球磨・人吉地域合わせて『302か所』の縄文遺跡が存在する・・と言う事でした。
私の住む、球磨・人吉地域は九州各県内の中で3番目に多く縄文遺跡が存在する場所だったと言う事です。

※人吉球磨地方の発掘調査により確認された最も古い遺跡は、人吉市大野町の大野C・D・E遺跡で、年代測定の結果、今から8〜5万年前のもの。
※球磨・人吉地域は九州各県内の中で3番目に多く縄文遺跡が存在する場所
※人吉盆地南縁断層は約7千3百年前以後、約3千2百年前以前に活動した断層

何故?人吉盆地南縁断層上に神社が多数建立されているのか?
答えは・・もしかしたら
最新活動時期、約7千3百年前以後、約3千2百年前以前に人吉盆地南縁断層による地震を経験した縄文時代の方々が後世に伝える為に何らかの言い伝え、「言葉」を残してきたのではないでしょうか。
もちろん「文字」の無い時代ですから「言葉」「言い伝え」によるものだと思います。
その「言葉」が後世まで言い伝えにより確実に残され続けてきた・・
私はそう考えました・・

おそらく、このような「縄文時代からの言い伝え」は球磨・人吉に限った事ではないと思います。
日本各地に存在していると・・推測します。

『古(いにしえ)』の方々からのメッセージはある時代までは確実にその当時の方々は受けとめる事が出来たのだと思うのですが
現代社会においては「意味」さえ、解らなくなった・・伝わる事が出来なくなったのかな・・

先祖を調べたいと考えた時から、歴史に全く興味が無かった私が少しずつ勉強を積み重ねて、まだまだ、解らない事だらけですが
しかし・・ようやく
歴史を学ぶと言う事は、『古(いにしえ)』の方々からのメッセージを受け取る事でもあるのかな・・と考える事が出来るようになりました。

最後に
昨年の地震の際には、皆様方から沢山の温かい励ましのお言葉を頂きましてありがとうございました。
皆様から頂いたお言葉のお陰で不安で押しつぶされそうになった心を正常に保つ事が出来ました。
あらためて、お礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

この1年で、私の調査も新たな局面を迎え始めました。
ただ・・おっちょこちょいなので、歴史を学びながら『古(いにしえ)』の先祖からのメッセージをうまく受け止められない事も多々あります(..)
このような私ですが皆様、今後ともお付き合いの程どうかよろしくお願い申し上げます。

次のコメントですが
コメント39に続き
今まで『コメントしていなかった点(調べていた事)』についてを書かせて頂くつもりです(..)
中々先を書かないな(ー_ー)!!とお思いの方もいらっしゃるかとは思いますが
書いていなかった事も・・どうも・・「点」と「線」の繋がりに大きく関係しているような気がしまして・・
ご了承ください(..)

では。
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月20日 12時22分01秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

早速
今まで『コメントしていなかった点(調べていた事)』についてを書かせて頂きます(..)

まずは
@親戚の「千葉家」と同じ姓の球磨の『千葉様』について   でございます(..)

以前からコメントしていますが、家の親戚には球磨では珍しい「千葉家」「畠山家」「久我家」があります。
(球磨・人吉内では千葉家3軒 畠山家12軒 久我家9軒)

親戚の千葉家ですが今は旧岡原村(旧宮原村内)には在されていません。(先代の方が亡くなって他の地域に子供さんは行かれたそうです(..))
旧岡原村(旧宮原村内)の千葉家には、うちの宮原の曾祖父の姪が嫁いでいます。
※久保田家から宮原家に養子に入った曾祖父の兄弟姉妹の娘すなわち姪の嫁ぎ先は以下の通りで・・
@祖母の実家の平川家 矢立家から養子に入った平川の高祖父の妻 つまり私の高祖母です。(平川の高祖母は、宮原家から見ると私の曾祖父の姪・・ややこしいですが(..))
A旧宮原村の千葉家 B旧宮原村の畠山家 C旧宮原村の桑原家 他
この事でお解り頂けるように、家の宮原家と平川家と千葉家と畠山家と桑原家は私の曾祖父の系を介して(実は久我家も)皆親戚でございます(..)

先程も書きましたが現在球磨・人吉内では千葉家3軒。
内1軒の千葉家の方が御住職をなさっていらっしゃるお寺が
熊本県球磨郡水上村大字岩野の生善院(しょうぜんいん)です。
ネットには生善院についてのサイトが多数ありますが、とても解りやすいサイトがありましたのでご紹介させて頂きます(..)

九州八十八ヶ所百八霊場会様 サイト
第98番
千光山 生善院 (せんこうざん・しょうぜんいん)
http://www.kyushyu88.com/temple98.php

生善院は寛永2年(1625年)に創建され、熊本県南部に位置する真言宗智山派の寺院です。
 謀反の疑いで非業の死をとげた普門寺第5代住職盛譽法印と後を追って死んだその母玖月善女を 祀るために人吉藩主相良長毎公により建立されました。本堂には盛譽法印の影像である阿弥陀如来が、 観音堂には母玖月善女の影像である千手観音がそれぞれ納められています。
御住職
千葉弘実(第30代生善院住職)
  本院初めての尼僧住職

===================================================
実は、父から現在の御住職様が先代の千葉家の御住職の後を継がれたいきさつ等を聞いていたのですが、父も家の親戚の千葉家との繋がりは解らないそうで、今までコメントしていませんでした(..)

しかし・・以前平川家について36コメント43で書いたのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html
「永富長重(相良長続)」を最大の後援者とした仏師慧麟。
「永富長重(相良長続)」から命を受け仏師慧麟が最初に建立した仏像は旧宮原村に鎮座の熊野神社(熊野権現)の千手観音座像(寛正二年・1461年)
それ以降「永富長重(相良長続)」から命を受け仏師慧麟が建立した「仏像」は
※寛正三年(1462年)作の縛婆仙像・功徳天像 (水上村岩野竜泉寺観音堂)
上記の水上村岩野竜泉寺は旧宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神社)の別当寺の「竜泉寺」が移ったお寺です
================================================
『水上村岩野』に何故「竜泉寺」は移ったのか・・?この事が・・ずっと頭に残っていて・・
さらに・・同じ水上村湯山の戦国時代の領主「湯山氏」は江戸時代以降、旧宮原村在郷の藩士として名前が残っていらっしゃいます。(分限帳で確認出来る江戸時代の湯山氏は3名いらっしゃいます)
旧宮原村と水上村岩野そして水上村湯山との繋がりは一体何なのだろう?
さらに偶然か?水上村岩野の生善院の御住職家は家の親戚と同じ姓の「千葉」様。
あまりにもモヤモヤするので調べてみました(..)
※謀反の疑いで非業の死をとげた普門寺第5代住職盛譽法印と後を追って死んだその母玖月善女を 祀るために人吉藩主相良長毎公により建立

普門寺第5代住職盛譽法印 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E8%AA%89
盛誉(せいよ、生年不詳 - 天正10年3月16日(1582年4月18日))は、戦国時代から安土桃山時代の肥後国球磨の僧侶。普門寺[1]5代院主で、号は・然坊(ちょうねんぼう)。父は湯山宗豊、母は玖月善女、兄は湯山宗昌。
生涯[編集]
湯山地頭の湯山宗豊の次男に生まれるも、11歳で出家し普門寺3代阿闍梨真盛に随い、・然坊盛誉と号した。その後、願成寺11世法院真誉に密灌を受け、日向国佐土原の黒貫寺にて数年間修学した後、元亀年間に普門寺4代朝弁に密伝を受けると普門寺5代院主に任じられた。
しかし、天正9年(1581年)12月、相良義陽の実弟相良頼貞が、兄の死後に相良家を継がんと挙兵する。頼貞は深水長智らに説得され後継を諦め日向国に逃れたが、翌天正10年(1582年)この頼貞の乱に盛誉と実兄の宗昌が与したと讒言される。義陽の跡を継いだ相良忠房は二人を成敗するよう、須木米良の黒木千右衛門に命じたが、身に覚えのない二人は普門寺にて謹慎する[2]。やがて、讒言は虚実と判り、成敗は中止と決まった。忠房は打ち手にそれを伝えるべく犬童九助という者を遣わしたが、九助は途中の築地村に立ち寄った上に、馬療治の家で酒を飲んだ挙句に途中で寝入ってしまう。黒木らは命令撤回を知らず普門寺を夜襲、兄の宗昌は日向国に逃亡したものの、盛誉は道場にて観音経を読経しているところを刺殺された。盛誉の弟子は抵抗するも多勢に無勢、一人残らず討ち取られ普門寺も焼亡した。
その後、盛誉の実母である玖月善女は相良家を深く恨み、市房山で呪詛をして、最期は飼い猫に自分の血を舐めさせ、自殺した。それから不吉な出来事が続き、呪いは幾ら祈祷しても祓われずに、とうとう忠房も疱瘡を患って没した。跡を継いだ相良頼房は、慶長2年(1597年)青井阿蘇神社に祠を立てるが、それでも鎮まりきれず、寛永2年(1625年)、普門寺の跡地に千光山生善院を建立、盛誉に「権大僧都法院」を贈号し、盛誉の命日である3月16日に当主と領民が参詣するようになったことでようやく治まった。
==============================================
あまりにもお気の毒な話です・・・。
しかし・・
※天正9年(1581年)12月、相良義陽の実弟相良頼貞が、兄の死後に相良家を継がんと挙兵する。頼貞は深水長智らに説得され後継を諦め日向国に逃れたが、翌天正10年(1582年)この頼貞の乱に盛誉と実兄の宗昌が与したと讒言される。義陽の跡を継いだ相良忠房は二人を成敗するよう、須木米良の黒木千右衛門に命じたが、身に覚えのない二人は普門寺にて謹慎する
上記の『相良義陽の実弟相良頼貞』
相良頼貞は・・実は挙兵するまで・・
旧宮原村の庭柏寺の住職をされていらしたのです!!!!!

もしかしたら・・
普門寺第5代住職盛譽法印。この方と兄の湯山宗昌。この方々が何らかの形で『旧宮原村』もしくは『宮原』と繋がりがあり、その事が無実の罪を疑われるきっかけとなったのでは!!??

湯山宗昌 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B1%B1%E5%AE%97%E6%98%8C
湯山 宗昌(ゆやま むねまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の家臣。肥後国湯山城主。
生涯[編集]
天文11年(1542年)、湯山地頭・湯山宗豊の長男として誕生。父の跡を継いで湯山地頭となる。
天正9年(1581年)12月、戦死した相良義陽の実弟・頼貞が、兄の跡を継ごうと企てて挙兵するも、深水長智に説得され取りやめ日向国に逃れる。この頼貞が翌天正10年(1582年)、宗昌とその実弟・普門寺5代院主である・然坊盛誉が与して謀反を企てたと讒言する。身に覚えのない二人は普門寺にて謹慎に及んだが、義陽の跡を継いだ相良忠房は宗昌らを成敗するよう、須木米良の黒木千右衛門を打ち手と放った。その後、讒言は虚実と判り命令は撤回、忠房はそれを黒木らに伝えるよう犬童九助という者を使いに出した。
しかし、九助は途中の築地村(現:球磨郡あさぎり町)に私用で立ち寄った上に、その村の馬療治の家で酒を飲んだために途中で寝入ってしまう。黒木らは命令撤回を知らぬまま3月16日に普門寺を襲ったため、宗昌は日向に逃亡、盛誉法院は殺され普門寺は焼亡した(犬童九助は責任を取って切腹)。二人の実母である玖月善女はこれを恨み、相良家を呪詛している(後述)。
その後、宗昌は相良家に帰参、文禄の役に従軍するも、釜山海にて病死する。享年53。
========================================================
文禄の役で釜山海にて病死されたのですね・・
久保田大蔵(木上城主)も文禄の役で釜山にて戦死されています。

このコメント内で私は
〉もしかしたら・・
普門寺第5代住職盛譽法印。この方と兄の湯山宗昌。この方々が何らかの形で『旧宮原村』もしくは『宮原』と繋がりがあり、その事が無実の罪を疑われるきっかけとなったのでは!!??
と書きましたが(..)・・理由があります。
文禄の役(1592年〜1593年)の後・・享保三年(1718年)の江戸時代中期から後期の相良藩士分限帳に湯山氏の記述が登場します。
岩下御門番 湯山弥兵衛 と言う方です。
先にも書きましたが相良藩士分限帳に見える「湯山氏」は3名の方。内のお一人が湯山弥兵衛。この方です。
『岩下御門番』・・この記述を見て、驚いて・・私は鳥肌がたちました・・
岩下御門とは・・宮原宇右衛門が増築した門です!
サイト 球磨と相良氏の歴史・近世 こちらのページ内の下部に主な城跡の項があり、岩下御門について書かれています。
http://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei5/kinsei5.htm

岩下門跡  
総曲輪の南西にあり、胸川に向かって門あった。元禄4年、家老の宮原右衛兵門が造築したが、幕府への申請許可に問題があったらしく、宮原右衛兵門は隠居を命じられている。現在は石垣の一部を残しているのみで、殆ど痕跡を残していない。
※家老の宮原右衛兵門とは『宮原宇右衛門 公全』です(..)

★『宮原宇右衛門 公全』増築の岩下御門番 湯山弥兵衛

これだけではありません。
江戸時代中期から後期の相良藩士分限帳に記された湯山氏。三名の内の後のお二人は・・
旧宮原村 在郷藩士
寛正十年(1798年) 湯山与左衛門
天保元年(1830年) 湯山与左衛門

どう考えても・・そうどう考えても・・湯山氏と旧宮原村・・いえ・・宮原氏は何らかの繋がりがあると思えて仕方ありません。

湯山氏とは??
サイト 肥後・湯山城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/yuyama-jyo/
歴史
築城年代は定かではない。城主は湯山氏で本姓平で水上の地頭として下向したのが始まりという。

天文年間(1532年〜1555年)には湯山左京亮宗豊、天正年間(1573年〜1592年)にはその子の湯山佐渡守宗昌が城主であった。

所在地
熊本県球磨郡水上村大字湯山字高城
============================================

驚きました!!
湯山氏は『本姓 平』
水上の地頭として下向したのが始まり

それから・・皆様、サイトの地図をご覧になって、すでにお気づきかとは思いますが
所在地 熊本県球磨郡水上村大字湯山字高城

コメント33で書いた椎葉村大河内矢立集落とは、熊本県球磨郡水上村大字湯山から国道388号線を一気に800メートル程登って湯山峠を越えた所にあります(..)

矢立集落にお住まいの椎葉様は・・
「水上の湯山や湯前には家は親戚が沢山います。ここの集落の他の家も球磨から嫁いで来られた人や球磨に嫁いで行かれた人、親戚は沢山います。昔から交流していたそうですよ」とおっしゃっていらっしゃいました・・

今日書いた事は親戚の「千葉家」と同姓の生善院御住職家「千葉様」から
生善院を始めとする調査の結果だったのですが・・
実は、全く上記の事を知らないで私は生善院に先々月お伺いしていました(..)

ブログに写真をアップしています。よろしければ皆様ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12266680222.html

所で・・
父は家の親戚の「千葉家」と生善院御住職家「千葉様」との繋がりは解らないと言っていますが・・
私は・・お寺との繋がりはもしかしたら何らかの形で・・何かあるのかな?とは思うのです・・
なぜなら・・

実は・・コメントに書いていなかった”親戚関係”がありまして・・
やはり色々気になるので、今日は思い切って書かせて頂きます(..)

あの・・
親戚の椎葉のおじの祖母なのですが・・(椎葉の●●おばあちゃん)
椎葉の●●おばあちゃんの・・甥の妻は・・
実は・・ブログにアップした写真のAのお寺の御住職家の娘様です・・(..)
書いてしまった・・・((+_+))

ブログにアップした写真のAのお寺(今回はお寺の名称はコメント内では書きません(..)ご勘弁を。)についても、色々勉強させて頂いた事がありますので
次のコメントで書かせて頂きます(..)

では(..)
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月22日 10時15分33秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

コメント42内で誤字がありましたので訂正を(..)
〉岩下御門とは・・宮原宇右衛門が増築した門です!
正しくは
〉岩下御門とは・・宮原宇右衛門が造築した門です!

でございます(..) 私はおっちょこちょいでお恥ずかしい限りです((+_+))

今日のテーマは
@青蓮寺阿弥陀堂 多良木町大字黒肥地 について  です。

まずは くまとっぷ様 サイトから(..)
http://www.kumatop.com/index.php?%E9%9D%92%E8%93%AE%E5%AF%BA%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A0%82

上相良氏三代・相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建しました。

永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立しました。寺名は頼景後室・青蓮尼に由来します。

御堂は4柱造りの茅葺で広さ9.09m、軒高約4.48m、軒から棟まで高さ約7.58m、阿弥陀如来像と両脇侍とともに国指定重要文化財に指定されています。県内最大の茅葺堂です。
3尊は法印院玄の作で、「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。

1994年から3年間の大改修で、創建当時の姿に復元されました。

阿弥陀如来像と両脇侍 : 国指定重要文化財
木造地蔵菩薩立像、古墳塔群 : 県指定重要文化財

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※相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建
※永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立しました。寺名は頼景後室・青蓮尼に由来

相良頼宗とは相良長頼の二男頼氏(相良頼景の後を継承した上相良氏・第二代)の子となる方で第三代上相良氏となります。
弟が頼吉。窪田(久保田)氏の祖となります。

サイトの記述にあった”相良頼景後室『青蓮尼』”は須恵氏の娘である方です。
相良頼景と青蓮尼の間に生まれた方が相良頼景と共に球磨に来られた新堀頼兼の妻となられました。
新堀頼兼は球磨における新堀氏の「祖」となられます(..)

ここで新堀氏について(p_-)
サイト 菊池家 のページに球磨においての新堀氏の系が解る記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html
新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫
頼良
頼代
頼里相良四郎?
頼光
頼門
頼秀
頼重
頼光
(p_-) こちらの内容で解る事は・・
※新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫
つまり
新堀頼政と言う方は
相良頼景の耳孫であり、新堀頼兼の玄孫であり、相良頼宗の曾孫でもあり
さらに頼益と言う方の孫であり、頼重と言う方の子供である・・
と言う事ですね(p_-)
そうか・・・新堀氏は相良頼景の系を引いているだけではなく、相良頼宗(相良長頼孫)の系も引いている・・
こう考えると・・窪田(久保田)氏とはかなり近い関係にもあったと言う事がよ〜く解りました(p_-)
ちなみに、久保田家から宮原家に養子に入った私の曾祖父。妻すなわち曾祖母は新堀氏の娘ですが・・
曾祖母の実家の「新堀氏」。役場で調べた所、兄弟の数名以外は皆、黒肥地(現多良木町)に明治以降移っていました。
私が聞いていた『伝承』は間違っていなかったと言う事です(p_-)

青蓮寺阿弥陀堂についての調査に戻ります(..)
※3尊は法印院玄の作で、「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。
こちらのサイトで美しいお姿が拝見出来ます(^'^)
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage23.html

他、多良木町公式ページ より
http://www.town.taragi.lg.jp/gyousei/soshiki/kyouiku_shinkou/kunishitei/135.html

※この三尊は、青蓮寺阿弥陀堂の内陣に安置され、鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。円満にして柔和、慈悲深い眼、親しみを感ずる面貌で、鎌倉時代を代表する気品高い彫作である。

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※3尊は法印院玄の作で、「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。
※鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。

鎌倉時代院派の仏師法印院玄 この方をネット上ですが調べてみました(p_-)

すると・・驚きの事実が・・!
探仏記V 〜気まぐれ仏像探訪〜 様のサイト内で「仏師法印院玄」と言う方のお名前を発見致しました!

三十三間堂・千体千手観音: 配置図更新(※要確認)
カテゴリ:考察三十三間堂・千体千手観音
http://tetsuumadouji-3.blog.jp/archives/2015-11-28.html

『蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書』(1957年刊行) 本文/図録の2冊

三十三間堂の千体千手観音の修理の際に判明した創建当初仏や仏師銘が明確になった像が記載されており、図録には一部の画像も掲載されている。

院派の仏師の方々のお名前の中に「院玄」とあります!
院玄 (7) 59 67 75 123 128 807 969

三十三間堂 (蓮華王院) (京都市東山区) サイト様より
http://www.kyotofukoh.jp/report49.html
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の境内は、総延長524mの築地塀に囲まれ、25073uの敷地を有している。平安時代、後白河法皇が法住寺殿内に建立した堂宇のうち、唯一残るものが三十三間堂になる。
正式には蓮華王院(れんげおういん)という。蓮華王とは千手観音を意味する。
中略・・

1221年、承久の乱に関わった法印尊長がかつて蓮華王院執行であったため、寺領が幕府により没収となり、第86代・後堀河天皇に献上、改めて後嵯峨上皇(第88代)に移譲される。

1246年、後嵯峨上皇により本堂の修理が始まる。公家・九条道家が資材を寄進している。

1247年、後嵯峨上皇の兄・円満院宮仁助法親王が蓮華王院の修理検校となる。

1249年、後嵯峨上皇による本堂の修理が終わる。仏像の修理は湛慶が統括している。だが、3月の建長の大火により法華堂以外の大部分が焼失する。本堂に安置されていた本尊の一部、千体仏156体と二十八部衆すべてはかろうじて持ち出された。ほかはすべて焼失した。

1251年、中尊を仏師・湛慶が製作し始める。
 
1266年、現在の本堂・三十三間堂、仏像が再建、再造された。第90代・亀山天皇、後嵯峨上皇、後深草上皇の臨幸により落慶法要が行われる。導師は東大寺別当・聖基、咒願は東寺長者大僧正道勝が任じられる。

1272年、後嵯峨上皇が亡くなり、亀山天皇は中陰御斎会として千僧供養を修した。
1282年、惣社祭を行う。

1291年、後白河法皇100日忌に、後深草上皇は院宣を下し、妙法院尊教大僧正により法会が修された。以後、開山忌に妙法院門主が修することが慣例となる。

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三十三間堂 (蓮華王院)
蓮華王院本堂千躰千手観音 
『蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書』(1957年刊行)仏師の方々の中に
『仏師法印院玄』この方の名が!

※上相良氏三代・相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建。
※永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立。寺名は相良頼景後室・青蓮尼に由来。
※三尊は、青蓮寺阿弥陀堂の内陣に安置され、鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。
※蓮華王院本堂千躰千手観音 仏師の方々の中に『仏師法印院玄』 

そして・・すでに皆様お気づきの事と思いますが・・
コメント34で書きましたように・・
平安時代、球磨の六郷は球磨荘(くまのしょう)と呼ばれた荘園でした。
球磨荘 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98
球磨荘(くまのしょう)は、肥後国球磨郡一郡を領域とした荘園。球磨御領とも称された。
概要[編集]
元は平家政権の下で設定された蓮華王院を本所とする王家領であり、平頼盛をはじめとする平家一門もその経営に関わっていた。
治承の乱の後、球磨荘は平家没官領として一部が没収の対象(ただし、頼盛の所領は後日返還)となり、建久3年〈1192年)に該当部分を王家領・関東御領・公領などに分割する片寄が実施され、人吉荘・永吉荘などが成立した。王家領とされた人吉荘には後に相良氏が地頭として入り、勢力の基盤としていくことになる。

さらに・・コメント10で書きましたように
建久八年(1197年)肥後国球磨郡図田帳(相良家文書)
山江村誌 歴史編より引用

※蓮華王院人吉庄
領家 八条院
預所 対馬前司 清業 (中原清業)
下司 藤原友永 字人吉次良(人吉次郎)
政所 藤原高家 字須恵小太良(須恵小太郎)
地頭 藤原季高 字合志九良(合志九郎)
同  藤原茂綱
同  藤原真宗 久米三良(久米三郎)
同  尼西妙

あらためて(p_-)
※相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建
※永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立。寺名は相良頼景後室・青蓮尼に由来。
※三尊は、青蓮寺阿弥陀堂の内陣に安置され、鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。
※蓮華王院本堂千躰千手観音 仏師の方々の中に『仏師法印院玄』

鎌倉時代・1295年(永仁3年)・1298年(永仁6年)においても、上相良氏三代・相良頼宗と『京都』は繋がっていたようです(p_-)

くまとっぷ様サイトにあった
※3尊は法印院玄の作で、「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。

自分なりに少しだけですが勉強して”ようやく”意味が理解出来ました(p_-)

『相良氏と京都とのつながり』・・
京都と言えば・・相良氏の名が全く出て来ない(不思議ですが(p_-))平河氏の鎌倉時代の永吉庄西村等に関連する訴訟。
平河氏の訴訟に関連した近衛中将実春朝臣(徳大寺実春)は北条泰時の娘婿であり大江広元の外孫でした。

むむっ(p_-)・・しかし・・何故?平河氏の訴訟には「相良氏」の名は全く出て来ないのかっ?・・・????
・・この疑問は一応置いといて・・

今回は青蓮寺阿弥陀堂 多良木町大字黒肥地 について を少しだけ勉強致しました(p_-)

では(..)
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月23日 17時57分36秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

今日はコメント36の続き 題して

5. 親戚の『椎葉家・尾方家・そして緒方家』の関係で気が付いた事  を書かせて頂きます(..)

以前から書いていますように
親戚の椎葉家には私の祖母の姉が平川家より跡を継ぐ為に4歳で養女に入りました。
祖母の姉(椎葉の○○ばあちゃん)の夫は代々宮司家である尾方家から婿養子に入り、さらに二人の子供である椎葉のおじの妻は同じく宮司家尾方家から嫁いで来られていて二人はいとこ同士でもあります。
(椎葉のおじの父は椎葉のおばの父”尾方家”の先代の弟です)
椎葉のおじとおばの其々の叔父は、宮司家尾方家から『緒方家』に跡を継ぐ為に養子に入っていらっしゃいます。
ここに補足すると・・
祖母の実家の平川家の現当主(祖母の甥であり私の父の従兄)は、母方を通して
青井阿蘇神社大宮司であった尾方のおじと椎葉のおじの妻、さらにその兄弟とはいとこ同士となります。(ややこしいですが(..))

先日、椎葉家に遊びに行ってお茶を飲みながら話をしていると、椎葉のおばが
「実家(尾方家)の曾じいちゃん、祖父、父、さらに兄、その孫、曾孫皆”清”の文字が付いているとよ(^'^)、ここに婿養子に入ったおじさん(椎葉のおじの父)も名前は清●で、”清”の文字。”清”の文字は代々絶やされんごたるよ(絶やせないみたいよ)」
と。
私がずっと気になっていた事”清”の文字について椎葉のおばが話すので・・
やはりこれは何かあるのじゃないか?(p_-)・・とその時思った訳です。

コメント1にも書いたように
椎葉のおばの実家であり、椎葉のおじの父の実家でもある宮司家「尾方家」は熊本県神社誌 記載の
古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 にもその系が載る「家」です。
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、現在、15代目となります。

平川家について36 コメント35でも書いたのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html
熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図より
※親戚の宮司家「尾方家」遡った14代
尾方家 (姓 大神 氏 尾方)
初 緒方太郎右衛門(元禄十二年)・・A左仲・・B右門・・C右源太・・D早馬惟利・・E太市惟金・・F早馬惟忠・・G右馬清雲・・H文平惟信・・I早馬・・J馬才・・K清治・・L清馬・・M現在(●●※椎葉のおじの妻の兄の名)
となります。
※13代「清馬」この方が椎葉のおじの妻の父であり、椎葉のおじの父(椎葉家に婿養子に入る。私の祖母の姉の夫)の兄です。
※12代「清治」この方が椎葉のおじ・おじの妻其々の「祖父」となります。

なお、12代「清治」。この方は市房神宮社司の項にも名が記されています。

緒方太郎右衛門 すなわち 緒方氏です。
初めは緒方で「惟」の文字と「清」の文字が代々継承されてきた「尾方家」。
さらに・・戦後上記の尾方家から「緒方家」に跡継ぎとして養子に入っていらっしゃる・・
上記の親戚の尾方家は旧岡原村ではありません。
椎葉のおじの父となる方は、”異なる村”の尾方家から旧岡原村の椎葉家に婿養子に入られた・・
椎葉家に養女に入った祖母の姉は平川家の娘。
しかし・・祖母の実家の平川家は明治初頭に椎葉村大河内矢立を起源とする矢立家から平川家を継ぐ為に養子に入った・・

「椎葉村」「緒方家」「尾方家」「椎葉家」「矢立家」・・「惟」と「清」の文字・・グルグルと頭を”言葉”がめぐりながらふと!気が付いたのです・・

平川家について28+1 コメント15で
五木に行って「椎葉」という標識に向かって進んだら、そこは宮崎県の椎葉ではなく、球磨郡相良村の「椎葉地区」であった事・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html
さらに・・球磨郡相良村の「椎葉地区」にお住まいの方は
従弟の奥さんの「あきちゃん」の話から「椎葉さんと尾方さんがおられます。1件は緒方さん・・」である事が解りました・・
さらに・・日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
〉熊本県の椎葉は相良村だけでなく、相良村の北の五木村にも椎葉の地名は存在します。
また宮崎県米良地区は、元々は肥後に属していましたからね。
宮崎県の椎葉村からは米良領を経由して、相良領椎葉に地続きだったのですよ。

米良領・宮崎県の椎葉村・相良領椎葉・・
宮崎の椎葉村・・大河内の矢立氏。親戚には那須氏も多く、椎葉氏も親戚・・
相良領椎葉・・現在住されている「椎葉家・尾方家・緒方家」・・
親戚の尾方家・・緒方太郎右衛門
初めは緒方で「惟」の文字と「清」の文字が代々継承されてきた「尾方家」さらに緒方家に養子に入られた方がいらっしゃる・・

緒方家・・・五家荘の「緒方家」・・!?
そうか・・五家荘は宮崎県の椎葉村とも相良領の椎葉とも地続き!?
さらに・・五家荘には椎原があり椎原と椎葉は・・同じ・・!?
あれっ???!!

ふと・・所有する書籍「宮原町郷土誌」を思い出して気になる個所を広げてあらためて読んでみました。
宮原の一族である八代宮原城主 宮原公忠が居城した宮原城は宮原三宮社のすぐ隣。
宮原三宮社大宮司家 廣松家の家系図内に記されていた五家荘に繋がる記述です!
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昭和34年発行 宮原町郷土誌 記載
八代郡旧宮原町(現氷川町)鎮座 宮原三宮社 大宮司 廣松家系図

平 重盛

平 清経
左近エ中将十七才而主従六人豊後国竹田庄尾形三郎実国ノ家ヲ出立同国倉岡過依山賊数馬案内入白鳥岳五ケ所ニ住ス故号五家
謚寿清門院殿昌教大居士 承安元年生 承久元年十二月十日薨 御台所時姫実尾形実円ノ女

清国
緒方一郎 八代郡五家荘久連子緒方氏祖
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平重盛。この方の子息「平清経」。系図では
※左近エ中将十七才而主従六人豊後国竹田庄尾形三郎実国ノ家ヲ出立同国倉岡過依山賊数馬案内入白鳥岳五ケ所ニ住ス故号五家
※御台所時姫実尾形実円ノ女

号五家・・五家・・ええええっっ!!!「五家」さん!!!!?????
えええええええええっ!!
あらためて、読むだけではなく、こちらにコメントを書く前に「系図」をワードに転記して初めて気が付きました!!
実は家の一族、球磨の「五家さん」とは御縁があります!!!
おそらく・・このスレッドを読んでくれているであろう、先程も書いた私の従弟の奥さんである「あきちゃん」も、この内容を見て・・
きっと驚いていると思います!!
私も気が付いた瞬間!驚いて後ろにひっくり返りそうになりました!

系図より解る事は
「平清経」この方は主従六人と共に豊後国竹田庄尾形(緒方?)三郎実国の家を出立して倉岡を過ぎ、数頭の馬で山賊さんの案内により白鳥岳に入り五ケ所(五家荘)に住んだ。故に号五家。すなわち此の事により「五家」を号した!
さらに・・
妻となられた方は実は尾形(緒方)実円の娘「時姫」様ですよ!
と言う事ですね!

さらに・・さらに・・
清国
緒方一郎 八代郡五家荘久連子緒方氏祖
すなわち
「平清経」この方と尾形(緒方)実円の娘「時姫」様の間に生まれた「清国」。この方が
八代郡五家荘久連子緒方氏祖!!

うわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!
五家荘の伝説を様々なサイトで見ましたが・・ここまで詳しく宮原三宮社 大宮司 廣松家系図に書かれていたとは・・
ビックリしました!

「平清経」「緒方清国」・・緒方氏・・「清」の文字さらに「緒方氏」は豊後大神氏・・

あれっ!!?
親戚の尾方家は
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、現在、15代目。
椎葉のおばの話では
「実家(尾方家)の曾じいちゃん、祖父、父、さらに兄、その孫、曾孫皆”清”の文字が付いているとよ(^'^)、ここに婿養子に入ったおじさん(椎葉のおじの父)も名前は清●で、”清”の文字。”清”の文字は代々絶やされんごたるよ(絶やせないみたいよ)」

あれっ??あれれっ!????

やはりこれは何かありそうです(p_-)!!

考えてみると・・家の宮原家そして椎葉家・平川家の共通の親戚には少なくとも二軒は家紋が『三つ麟紋』(ちなみに『寄懸り目結紋』も一軒(p_-))

やはりこれは何かありそうです!!!

さらに・・よ〜く考えてみると・・
宮原三宮社 大宮司 廣松家と後世、橘公業後裔の松橋地方の「宮原氏」は姻戚関係にありました・・

※宮原三神宮 第二十七代 大宮司 「重房」。
文化十一年正月十七日卒 室者 滝 馬場下宮原氏之女
※女 木原六殿宮祭主 平江近江守妻

何だろう?どうなっているのだろう?・・
どうして・・こちらでも・・宮原氏と姻戚関係にあるのだろう??
(ここを深く考えると・・訳が解らなくなるので・・とりあえず後にして・・)
ただ・・宮原氏の祖となる宮原公資が住した現氷川町宮原は・・
五家荘そして五木さらに椎葉村へ行く為の山の玄関口のような場所である事は確かです・・

ただし・・ここまでの調査で解る事は・・
どうやら『家の親戚一族』は陸続きで行ける『山の里々』とは深く関わっているようだっ!と言う事です・・

5. 親戚の『椎葉家・尾方家・そして緒方家』の関係で気が付いた事
を書かせて頂きました。(..)

では(..)
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年04月26日 13時06分00秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

今日から、主人の実家に里帰りをしますので、しばらくはコメントが書けません(..)
そこで・・
今日は、歴史の真相に迫るかもしれない?私の先祖にも繋がる今までの調査の「点」と「線」の関係の”序盤”を一気に書かせて頂きます(..)

「点」と「線」の関係に気が付いた経緯は色々あるのですが、今回は省略します。

まず・・
私はきっと・・
今までの調査の中の「平川家について13」コメント55で”真相”にかなり近づいていたのだと思います。
さらにコメント55に続いてのコメント56で日本の苗字七千傑様から頂いたご教示が「点」と「線」を繋げる重要なお話だった事にようやく気が付きました(..)
「平川家について13」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101358.html

「平川家について13」コメント55で私は
武藤氏さらに武藤頼平について勉強していました。
この時の内容を幾つか転記します(..)
さらに、当時のコメントに本日解りやすいように番号をふりました。
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「平川家について13」コメント55より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101358.html

武藤氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E6%B0%8F
藤原氏の一族である(藤原北家)。藤原秀郷の流れとも藤原道長の流れともいわれる。 武蔵に拠点を置いたため武藤氏と名乗ったとの説が有力である。平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことで有名である。
その末裔としては、出羽の大宝寺氏(頼平の子の氏平が祖)、筑前・肥前の少弐氏(頼平の子の資頼)がある。また、武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)。

武藤頼平 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%B9%B3
武藤 頼平(むとう よりひら、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。武藤頼兼の子。武藤景頼(近藤貞成)の猶子。
『武藤系図』によれば、頼平の姉妹が平知盛の妻で平知章の母とある。平知盛の目代として武蔵国に在住したという。治承・寿永の乱で源頼朝に臣従し、鎌倉幕府の御家人となる。養子に武藤資頼
(後に鎮西奉行として少弐氏と称する)がいる。墓所は師岡郷にあったという。

★1.武藤頼兼の子。武藤景頼(近藤貞成)の猶子。
★2.頼平の姉妹が平知盛の妻で平知章の母
★3.平知盛の目代として武蔵国に在住
★4.養子に武藤資頼(後に鎮西奉行として少弐氏と称する)

では養子 武藤資頼について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%B3%87%E9%A0%BC

武藤 資頼(むとう すけより、永暦元年(1160年) - 安貞2年8月25日(1228年9月24日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
出自は不詳。藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ。初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。頼朝の嫡男頼家の元服の式典において有職故実の指導をし、ついで奥州合戦に出陣し功を立て、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられる。この在任期間中、修験道の本拠・羽黒山領を侵し、羽黒山衆徒と抗争する。
建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。さらに、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となった。
一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。

★5.出自は不詳。藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ
???出自は不詳とは?
★6.平知盛の部将であった。
★7.梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
★8.建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。
★9.大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。

そしてもう一つ武藤資頼に関連する情報なのですが
平知宗について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%AE%97

平 知宗(たいら の ともむね)は平安時代末期から鎌倉時代中期の平家の落人。平家一門の平知盛の三男。惟宗 知宗(これむね ともむね)や宗 知宗(そう ともむね)、武藤 知宗(むとう ともむね)とも名乗っている。
寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
その後、武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。
建長7年7月5日(1255年8月8日)、大宰府北殿で死去。享年72。死去した日については異説あり、建長7年7月3日(1255年8月6日)とする説もある。

★10.壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。(゜-゜)平知宗の乳母は惟宗氏だったのですね。
★11.武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官
(゜-゜)ここで惟宗氏が登場いたしました。

以上「武藤頼平」と「武藤資頼」についてまとめたのですが・・・

やはり、見落としていました(゜-゜)
というか、以前調査した時には、スルーしてしまった事。
それは、「武藤頼平」と「武藤資頼」が「平知盛」の家人であったという事です。

これまでに調べた「平知盛」の家人又は関係者は・・
★11.橘公長・公業 ・・・私、宮原の先祖です。(2017/04/26追記 正しくは私を含めた球磨・人吉の宮原一族の先祖です)
★12.加々美長清(小笠原長清)・・・橘公長の幼なじみであり、加々美長清の仲介で橘公長・公業は源頼朝の麾下に入りました。
★13.紀伊次郎兵衛こと橘為範の妻・・・西光の娘。平知盛の子息「平知忠」の乳母。
★14.「平知盛」の妻 治部卿局(平知忠の母)・・・祖父「藤原忠宗」と須恵小太良こと藤原家基の父「藤原家光」そして「尋覚」(「平河師高」に補任された小値賀島地頭職であったが、実際に補任されたのは「尋覚」)は兄弟
★15.武藤頼平・・・姉妹が平知盛の妻で平知章の母。平知盛の目代として武蔵国に在住
★16.武藤資頼・・・武藤頼平の猶子。平知盛の部将であったが梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
★17.平知宗・・・平知盛の三男。壇ノ浦の戦後、鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。武藤資頼の養子となり太宰大監に任官。

上記の調査で惟宗氏が登場しました。
「惟宗」と言えば・・以前ご紹介しましたが
球磨の仏師源覚が青蓮寺の阿弥陀二尊彫った文字について「右為惟宗聿・尊霊往生極楽也」とあり、惟宗聿高の極楽往生を願って仏師源覚が彫った文字であると。
様々な書籍で、惟宗聿高については平川師高とする説のほか諸説があるとの事でした。????? (この件については解明されていません)
※2017/04/26追記
青蓮寺の阿弥陀二尊・・この時に私は間違って書いています。
正しくは球磨郡山江村高寺院所蔵の勢至菩薩(承久二年六月二十二日 仏師源覚 造立)の胎内銘に残された「惟宗聿高」です。
さらに「平川家について13」コメント55よりの転記を続けます。

「平川家について13」コメント55より
そして、武藤氏・小弐氏と平河の関係について見落としていた事がもう一つありました。
★18.武藤資頼の養子「平知宗」は太宰大監に任官
★19.武藤資頼は本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられ、大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。

では、平河は?
あらためて、以前ご紹介した訴訟の文書を転記します。
依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下文等、一類六十余人佗傺、交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也、但難無以歩(前?)所帯、遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也、可然者、任右大将家御下文并相伝知行八十余年々紀、返給彼永吉。欲令勤仕重代御家人役云々、爰如良貞等所進遣于遠景(天野)・盛時(平)時六月十六日付文治三年奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、早可安堵ノ由可下知也云々、如同所進遠景同年十二月状案者、下球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎良貞身事、右去六月十六日御教書今月三日到来、子細云々者、早任状如本可令安堵云々・・

★20.平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、
★21.遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也
遺子息は宰府にて勤務を行い忠節は十分尽くしていると書かれているのでしょうか?(と「平川家について10 コメント63では私、書かせて頂きました(゜-゜))

この「遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也」から
平河師高の遺子息は宰府で勤宿直事。

と言う事は・・太宰大監平知宗と武藤資頼その後、大宰少弐職を継承された資頼の子資能以降世襲となった少弐氏のもとで「平河師高」の遺子息は務めた・・と言う事になるのでしょうか?

大宰府に関係したのは「平河師高」の遺子息だけではありませんでした。

同じく訴訟で使用された文書で
観蓮陳情 本名良氏 於宰府 弘安八年番之
とあります。
ただ、以前もご紹介したか?と思うのですが、訴状の中で平河良貞は、何故か「良貞」本姓?本名?に関して「今は憚る」とあったのです。
何故だろう?(もう一度訴状を確認してみます)

弘安八年とは岩門合戦で少弐景資と安達氏一族の安達盛宗が討ち取られた年です。

やはり小弐氏のもと、「平河」は大宰府に務めていたと言う事ですね・・・

所で、こちらの調査を行っていて、また一つ新しい情報を見つけました。

福岡県の地名 - 435 ページ googleブック検索より
為頼は武藤資頼の子。宗像氏忠の妻張氏の養子 ... 天田坪二町小は一円神領であるとして、社家に沙汰させる応永五年二三九八)四月二日、守護少弍貞頼は稲本村内引父が譲られ、一一〇 0 年間知行が^ ^ないと注進している。所宛に出し、須恵,土穴,稱本三 ...

★為頼は武藤資頼の子。宗像氏忠の妻張氏の養子

調べたのですが
サイト 大日本史料第五編に
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/5-09.html

9月17日少弐為頼、宗像庄三村安堵さる

為頼は少弐氏庶流。宗像氏忠の妻、氏重の母である張氏(宋の人だそうです)の養子となり、譲与を受けた。で、氏重と相論。のち氏重後家や氏重の子の氏遠・氏村と相論になります。

宗像社が刊行された『宗像大社文書』を見ると解説があります。また、
「訂正宗像大宮司系譜」が史料編纂所にありますので(請求番号2075ー900)、ご覧下さい。

とありました。

以前ご紹介した相良家文書と宗像文書の相違「良峯女子」と「宗形女子」の記述が気になる所なので、こちらも、再度調査したいと思います。

非常に長いコメントになってしまいました。すみません(*_*;

最後に。
日本の苗字七千傑様、お忙しい所大変申し訳ございませんが、お教え下さい。
武藤資頼に関して出自不詳とありました。武藤資頼の本当の父はどなたか?と私も調べたのですが、わかりませんでした。
武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
本当に出自不詳なのでしょうか?
どうか、ご教示の程よろしくお願い致します。

===============================================================
以上が、「平川家について13」コメント55に私が書いた内容でした。

さらに私の疑問
〉武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
に対して日本の苗字七千傑様から頂いたご教示が続いての
「平川家について13」コメント56です。

「平川家について13」コメント56 日本の苗字七千傑様から頂いたご教示より
>武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
 
頼平の猶子とも言われるが出自不明。
恐らく那須氏や首藤氏と同様に守部氏と思われる。
守部氏と言えば尾張国造と祖を同じくする天忍人命の後裔。
資頼は梶原平三景時の娘婿、梶原氏の家紋が丸に四ツ石。
資頼後裔の少弐氏が寄せかけ四目結で似ているね。
島田氏も表面上は藤原秀郷流だが、丹羽臣の祖は島田臣、島田臣は尾張国造と縁戚。
============================================================

2014年7月31日
「平川家について13」コメント55で私が書いた事
さらに
「平川家について13」コメント56で日本の苗字七千傑様から頂いたご教示

2014年7月31日の時点では以下の事を未だ私は知る由もありませんでした。
それは
宮原の一族の先祖、橘公業の後妻が梶原景時の孫娘であり梶原景高の娘であった!と言う事です。
父が橘公業、母が梶原景高の娘。この人物こそ球磨郡久米郷を父より譲り受けた橘公員です!

日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
〉武藤資頼は梶原平三景時の娘婿

すなわち、橘公業の後妻であり橘公員の母であった梶原景高の娘と武藤資頼の妻は
叔母と姪の関係にあった!と言う事です!

武藤資頼の子息『少弐資能』と橘公員の母は『いとこ』となります!
さらに!
少弐資能の子息「少弐 経資」そして「少弐 景資」このお二人と球磨郡久米郷を父より譲り受けた橘公員は『ふたいとこ』となります!
武藤資頼は「平川家について13」コメント55で書いていた通り
★6.平知盛の部将であった。
★7.梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
★8.建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。
★9.大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。
★18.武藤資頼の養子「平知宗」は太宰大監に任官

そして
★17.平知宗・・・平知盛の三男。壇ノ浦の戦後、鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。武藤資頼の養子となり太宰大監に任官。
※寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
ここで一つ解らないのですが『長門国斎藤兵庫』とはいったいどなたなのか・・?

さらに・・
2014年7月31日の時点で、以下の事をやはり私は知らなかったのです。
こちらの平川家について38コメント2で書いた事です。

一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)

山江村誌歴史編では上記の方々について以下のように分析されています。
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。

「矢上孫三郎泰継跡」は平姓鹿児島郡司の一族であり、「肥後国簗瀬宮・」とは人吉庄内簗瀬(柳瀬)、十島天満宮宮司のことではないだろうか。

======================================================

実は・・上記に記載の
※「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
尼御前と言う方はおそらく・・・久留米に関係されている方ではないでしょうか・・この事は後日(..)

さらに・・
2014年7月31日の時点では以下の事を未だ私は知る由もありませんでした。
それは
椎葉村大河内矢立集落で地主神としてお祀りされた旧暦の「三月十八日」を命日とする先祖を持つ「矢立氏」が私の直接の先祖であった・・と言う事です。

椎葉村・・椎葉氏・那須氏
椎葉村の那須氏は平知盛後裔と言われる・・

〉武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
 
〉頼平の猶子とも言われるが出自不明。
恐らく那須氏や首藤氏と同様に守部氏と思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今までの調査の「点」と「線」の関係の”序盤” を書かせて頂きました。

では(..)
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