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 投稿番号:101154 投稿日:2009年12月31日 09時11分27秒  パスワード
 お名前:赤石潤司
光野氏 考察
キーワード:佐賀肥前國山内郷の光野氏はどこから?
コメントの種類 :人物  パスワード

佐賀県佐賀市富士町に多い「光野」について調査しております。
近々、纏めて投稿したいと思っておりますので、ご意見や情報をお待ちしております。

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[1]赤石潤司さんからのコメント(2010年01月03日 12時25分41秒 ) パスワード

肥前國佐賀郡山内郷の「光野氏」について長らく調べておりますが、現在までの調査を踏まえて考察を行い、広く皆様からのご意見や情報などご教示願いたく投稿させて頂きました。
私も佐賀県佐賀市富士町の「光野姓」にはゆかりがあり家紋は丸に花菱です。

今までいろんな文献を調べ、出目については諸説あり信憑性は定かではありませんが「光野氏」についてはおおよそ次の事が載っていました。
@清和天皇-貞保親王-目宮王-善淵王(滋野朝臣)-滋野滋氏・・・の子孫説
A紀国造-楢原造-伊蘇志臣−滋野朝臣・・・・・・・・・・・・の子孫説
B清和天皇の貞固親王・貞秀親王・・・・・・・・・・・・・・の子孫説
C光孝天皇-源国紀-滋野公忠-信明 ・・・・・・・・・・・・・の子孫説

いづれにしても滋野氏族には間違いなさそうですが、その後海野氏を経て光氏(光之氏)へと続きます。

清和天皇説では、貞保親王-目宮王-善淵王(滋野朝臣)-滋野滋氏(滋野王)-為広-
為通-則-重道-海野広通-幸親−幸広(木曽義仲の挙兵に呼応し東信濃の兵を纏めて参陣)=幸氏(幸広の弟、源頼朝の御家人となる)-幸継と続きます。

鎌倉幕府は1272年「元寇の恐れあり」として九州内に領地を持つ全国の御家人に筑前博多津付近の警固を命じましたが、襲来が現実を帯びて来ると、それ以外の御家人にも西国防衛のため派遣しました。

海野家当主の幸継は弘安2年(1279年)、元寇襲来に備え信濃国塩田荘守護で鎌倉北条氏の一族塩田義政(連署北条重時の子)に従って西下します。
幸継は自分の弟や子供らを引き連れ警固の為に下向しますが、その中に信濃国南安曇郡豊科光を治めていた幸継6男の光(光之)幸元もいたと考えられます。

日本軍が勝利した後に、御家人や武士の中には領国に戻らずに九州各地で土着や居住する者も多くいましたが、光幸元の子(もしくは西国で生まれた利元?・・・公元?・・・)が、1285年頃肥前国佐賀郡山内郷に定住したものと推測しています。
光幸元は父幸継とともに領国の信濃国光城に戻ると、子孫は「飛賀留」と名を変えて一族とともに戦国時代を戦い抜きますが、天文22年(1553年)に武田晴信(信玄)のの先鋒隊に攻められ落城します。

肥前国佐賀郡山内郷には、1264年関東武士野田周防守大江清秀(嫡流は後の三瀬氏)が一族(松瀬氏、豆田氏、小副川氏)らを連れて下向すると、そのまま土着しており光之(利元?)氏は、南山内に居住していたので小副川氏に従った家臣ではないかと考えています(残念ながら、まだ光野の名は発見していません)
やがて戦国時代になると、山内郷の各城主や諸将は神代勝利を総大将として戦いますが、肥前国は竜造寺氏そして鍋島氏と覇権者が変わっていきます。

佐賀鍋島藩成立後の武士身分では支藩・親類・親類同格・家老(連判家老・加判家老)・着座(家老までになれる家柄)・独礼(藩主に単独で御目見え出来る)となります。
下級侍には、平時は農業や商業(職人や内職)に従事していますが、有事には槍を持って戦う「手明槍」(元和6年(1620年)佐賀本藩と蓮池支藩だけの制度)があり扶持米は15石です。
一方佐賀郡山内郷では、神代遺臣や竜造寺遺臣が鍋島氏の新規召し抱えを躊躇い多くの武士が帰農していますが、平時には専ら農業に専念していても有事には戦闘要員として駆り出されるので、藩主鍋島勝茂は明暦2年(1656年)に約200名の苗字帯刀を許しました。
それを「山内刀指」と言い、光野氏も「山内刀指」で平時は農業に従事して肝煎(庄屋の補佐役で交代制)だったと聞いております。

ちなみに最下級侍は徒歩(徒士)で扶持米10石以下、足軽(雑兵)は5石以下で、中には無給の者もいて上流武士宅に住み込んで世話をして生活していた。

先ほどの小副川氏は、佐賀本藩と小城支藩には名前は載っていますが、旧主の神代氏(親類で川久保鍋島氏と称し11.600石)については資料が乏しく不明ですが、光野氏も鍋島藩成立後に帰農したと考えております。

長くなりましたが、主題は光野氏の出目とその証拠捜しですが、残念なことに光野家のお寺は明治40年頃に雷で火災に遭い、墓石しか残っていません。
現在も調査中ですが、ご教示の程お願いします。

現在も、納富氏、嘉村氏、杉町氏、杠氏なども調べております。



[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年01月03日 21時13分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

赤石潤司さん へ
 
>肥前國佐賀郡山内郷の「光野氏」について長らく調べておりますが
佐賀の光野氏については解りませんが、佐賀郡富士町小副川に集住していることは確かです。
地名の点からは、丹波国何鹿郡光野邑が発祥候補地と思われます。
東国からは鎌倉時代以降西国や鎮西への新領地入部が多く、光野氏が丹波・肥前に移住したとしても不思議ではありません。
 
>いづれにしても滋野氏族には間違いなさそうですが
滋野姓海野幸継の子、氏頼〔また光之〕(光野六郎)が始祖です。
 
姓氏類別大観滋野氏〔海野氏〕(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01210.htm#001 )を参照のこと。
 
>家紋は丸に花菱です
家紋はあてにはなりませんが、花菱紋は武田氏族の代表家紋で甲斐を中心に周辺地域に多い傾向があります。
肥前は武田氏族の宇久氏が花菱紋を用いており、その影響ではないかと考えます。
[3]江戸っ子プーちゃんさんからのコメント(2010年01月23日 18時09分21秒 ) パスワード

赤石潤司殿へ

 光野氏について、興味深く拝見いたしました。
佐賀鍋島藩の武家社会や神代遺臣、竜造寺遺臣の鍋島氏に対する
遺恨は理解できます。
佐賀と云えば、やはりお家乗っ取りで有名ですからね。
 
 光野氏はどこから?・・・・・・・・・・・
光野姓の発祥は苗字七千傑さんも教示されている通り丹波国何鹿郡
光野邑(現在の京都府綾部市)だと考えられます。
いつ頃誰が名乗ったかは、ハッキリせず不明ですが、いずれにせよ
滋野氏(海野氏)一族には間違いないでしょう!

 光城と光氏に関して記すと・・・・・・・・
現在の研究では、信濃国南安曇野郡豊科光の光城は海野一族庶流が
平安末期に築城したと考えられています。
 そうなると鎌倉期の幸継の子幸元(苗字七千傑殿は氏頼となっ
ている)以前に光氏を名乗る人物がいた可能性が高く、幸元=氏頼
は何らかの事情で光氏を継いだと思われますね。
 光城主であった光幸元の末裔を名乗る方も存在し、安曇野市豊科
郷土博物館公式ブログにコメントを出しておられます。
ちょっと拝借いたしますと、ご先祖様は幸元以後海野一族とともに
繁栄しますが、戦国時代には小笠原氏の旗下となりますが、武田氏
に攻められ落城後は越後に落ち延びます。
徳川時世に小笠原氏が松本城主になると光氏当主福清は、その家臣
となった。
 光氏は、小笠原氏に従って転赴し豊前小倉藩には光本家があり、
肥前唐津藩には分家があったと述べられてます。
肥前山内郷は豊前小倉と肥前唐津の中間に位置し地理的にも非常に
近いですね。
 何かの縁を感じましたので、一応ご紹介いたしました。

赤石潤司殿は、幸元(氏頼)を始祖とされていますが、私くしは海 
野一族しかも光氏の誰かが丹波国光野邑に任官し光野姓を名乗った
のではと思っています(推測ですが・・・・・・・)
幸元(氏頼)本人は、光城主ですから多分その実子(次男か三男)
あたりが光野邑に任官し、祖父幸継と父幸元が元寇襲来で西下する
途中に馳せ参じて筑前博多津の防衛に着き、そのまま土着したと考
えた方がいいのではないでしょうか。
 機会があれば明科町誌の光氏概略など、調査を進められたらいか
がでしょうか!
[4]SKさんからのコメント(2011年09月08日 04時39分06秒 ) パスワード

私の姓は 光野 (こうの) です。
以前、偶然に「みつの」と読む方と会った事があります。
これはどういう事でしょうか?
[5]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年09月08日 21時50分28秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

SKさん へ
 
同字異訓が多いのが日本の苗字の特徴で、何ら不思議でもありません。
光野は、ミツノ、ミズノ、コウノの三通りの読みが存在します。
下記URLをご参照ください。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a4.htm#033
[9]浜分の狐さんからのコメント(2018年05月29日 07時53分38秒 ) パスワード

こんにちは
滋野の話がでているのでコメントをさせていただきます。
よろしくお願いします。
最近、貴殿の縁の光野を光野町という形で地図から見つけ出しましたが、きった先述の何鹿の地名なのでしょう。私には何鹿の読みが不明ですが、若狭が望めるようです。
寺もいくらかあるようで常光庵と云うそうです。
それに光野を彷彿とさせる薦河の記事がここでないところにあるようで。
それは、宝泉寺や永昌寺のある薦河東部の話でしょうけども。
[10]通りすがりさんからのコメント(2018年05月30日 13時55分33秒 ) パスワード

何鹿=いかるが



https://www.google.com/search?ei=FC4OW4qcMoqa0gLnwLC4Aw&q=%E4%BD%95%E9%B9%BF%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E4%BD%95%E9%B9%BF%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2909.2909.0.4473.1.1.0.0.0.0.132.132.0j1.1.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.mlkh7eRWoZo
[11]浜分の狐さんからのコメント(2018年05月30日 23時40分32秒 ) パスワード

端的に言います。紀州南半分、前の川を是非参考に。
[12]浜分の狐さんからのコメント(2018年05月30日 23時41分27秒 ) パスワード

通りすがりのかた、有難うございます。
[13]連斉が気になるさんからのコメント(2018年10月31日 18時45分03秒 ) パスワード

また書き込みをしようかと
色々考えましたが、まずは変名を変えました。浜分です。
先に云ってしまうと、小副川の地名...認識してなかったです。
肥前の旧富士町内にあるのですね、三瀬 七山 などの近く
町内ではないが、以前より気にしていた野高山もあります。
玄界灘がみれるのですか、今は佐賀市ですか。

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