| [1] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月18日 10時36分42秒 ) |
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市川善右衛門どの
全く分りませんが
アカコッコさんからレスがつくと良いですね。
まず
・岡崎市奥山田町
・南北朝期の新田義興の家臣市川五郎忠光の長男太郎光重
・三河武士の家々には浪合合戦に参加した先祖の末裔とする家が多く
こういう情報からしますと
近くに松平郷もありますし
状況証拠からしますとひょっとすると酒井家や松平家と御親戚かもですね。
有名な市川昆監督は三河松平流だそうですよ。
深溝家の流れなのかしら?
とりあえずアップしますね。
| [2] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月18日 10時55分48秒 ) |
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>新田義興の家臣市川五郎忠光の長男太郎光重が世良田政義に属して
「世良田」
この地名と姓がすごいインパクトがあると思うのです。
徳川家康の先祖と称する(詐称だなんて反徳川方は言いますが)御先祖さまは
清和源氏
八幡太郎義家の孫・新田義重
その末っ子が義季
この義季が上野国(群馬県)新田郡世良田郷得川(徳川)という所に住んでいた。
得川の場所の御近所に「市川」という地名が見つかったらなかなか面白いですよね。
| [3] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月18日 11時02分55秒 ) |
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次に「市川氏」について
大きく4つに分けられるそうです。
・清和源氏(須田氏より)
・三河深溝松平家
・甲斐国佐々木義清より
・甲斐西八代郡市川出身
分布は
関東・甲信越・東海地方
市川房江女史も三河松平流だそうですよ。
| [4] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月18日 12時01分28秒 ) |
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取り敢えず三河国の歴史資料を読みまくることですね。
それから群馬県太田市の歴史も。
江戸時代の記録が読めると良いですね。
武士の分限禄や庄屋の記録など手に入ると良いですね。
岡崎市立図書館に何か古い歴史の記録が読めると良いですね。
市川昆氏や房江女史の偉人伝のような記録も読めると良いですね。
| [5] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年05月18日 14時21分21秒 ) |
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ご無沙汰しております。
まず私も最初にまったく解りませんので。
ザット調べました。姓氏事典では「市河に通じる」『曾我物語』に甲斐の住人市川党の別当大夫とあるが、これは西八代郡市川に発祥した桓武平氏城氏流。信濃高井郡の市川城々主も甲斐城氏と同族。
察するに武田家滅亡以後徳川家に属したのではないかと?
そこで『家康の族葉』をめくると、「市川氏於竹の方(良雲院)」という名前が、
幕府祚胤伝には、次のように記してある。
良雲院(於竹)、振姫君母堂 ○振姫ノ母ハ秋山氏デアル。
市川十郎左衛門尉昌永 甲州ニ住ス、武田氏ニ仕フ ノ女。西福寺記・由縁随筆
市川氏ノ女、御外戚伝・柳営婦女伝・東曜婦女伝・玉輿記・柳営女録
市川大隅昌永ノ女、一本市川氏譜
武田氏、名ハ竹、父ノ名未詳、御系図大全
信玄息女、大樹寺記
於竹、兄平右衛門召出サレ 備前守昌忠ト改ム、一本市川氏譜
按ズルニ、諸記異説之レ有リト雖モ、唯、西福寺記ヲ以テ当ニ正ト為スベキカ、方今麾下市川氏数家ノ譜、之ヲ載セズ、然ラバ則チ天正・慶長ノ前後、父子兄弟御尋ネ之レ在ルト雖モ、武田族滅以後之レ無キニ依テ、其氏族ノ輩召出サレ、麾下ニ属セラルルカ、又按ズルニ、兄弟ノ中、召出サルル以後、蒲生氏ニ属セラルルカ、又今三家方越前家・浅野氏等ニ於テ、其氏流有ルカ、寡聞ニシテ未ダ其詳ヲ得ズ。
天正十年以後、奥勤ノ中、枕席ニ侍ス、
寛永九年、御遺金、金百枚ヲ賜ル。
同十四年丁丑三月十二日卒ス、浅草西福寺ニ葬ル。
良雲院天誉壽清大姉
こんなところです。寛政譜の市川氏を調査すれば、詳しいことが判明するかも。
だけど前文のように例によって、例のごとく、わかり難いがその市川氏の流れかと思えますが。
| [6] | ![]() | 市川善右衛門さん からのコメント(2008年05月18日 22時05分01秒 ) |
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暇潰しのギャンブラー様
アカコッコ様
早速のご返事ありがとうございました。
三河の市川氏で知りえていることは、岡崎市に新田義貞の末裔という古い市川氏があり近くの犬頭神社には義貞の首塚というものがあります。大久保彦左衛門の三河物語にも大久保党とともに家康方で戦った市川半兵衛があります。
蒲郡市形原には平安末期に形原を開発した領主で甲斐源氏義光流で義光の孫の方原師光があり、この師光の子に市川別当太夫高光があります。形原には市川氏が多くみうけられます。形原はご教示いただいた深溝松平氏の発祥地である深溝の隣接地ですので何らかの関係があるのかもしれません。
やはり関係する地域の郷土資料や歴史文献を読みあさることが大切ですね。
いろいろご教示いただき本当にありがとうございました。
お教えいただいた線でも調べてみたいと思います。
| [7] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2008年05月18日 23時14分57秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
武田氏族は甲斐国巨摩郡市河(市川)庄を本拠としている。
山梨郡、八代郡にも市川邑があり、地名遷移したものと見られる。
市川氏の多くがこれらを発祥地とするが、中でも有名なのが武田義光の子覚義の裔である。
市川教光は新田義貞に属し、子の忠光は新田義興に属した。
その後、甲斐に居た弟の正光の系は武田に属し、武田滅亡後徳川に属した事は市川昌忠、市川源五郎、市川内膳などの記載が本領安堵状、所領宛行状等に見られ、明白である。
略系は下記URLを参照のこと。
日本の苗字七千傑「姓氏類別大観」(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )清和源氏義光流
光重以降の系は残念ながら不明である。
| [8] | ![]() | 市川善右衛門さん からのコメント(2008年05月19日 06時02分57秒 ) |
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日本の苗字七千傑様
ご返事ありがとうございます。
やはり光重以降は不明ですか。
義光流市川氏のうち甲斐の一族はよく知られているんですよね。また上州の流れも詳細を調査されている方があるようですが、南北朝期に現在の愛知県へ流れた太郎光重の子孫については、とたんに情報がなくなるのが大変残念です。
日本の苗字七千傑「姓氏類別大観」すばらしいですね。本当に感心いたしました。
| [9] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月19日 09時02分45秒 ) |
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アカコッコさん
さすがですね!
感服致しました。
>西八代郡市川に発祥した桓武平氏城氏流
城氏ですと平家との関係もあるんでしょうね。
それで南朝方というのは揺ぎ無い(笑)
>そこで『家康の族葉』をめくると、「市川氏於竹の方(良雲院)」という名前が、
これはもうスゴイ!情報でさすがアカコッコさんですね。
やっぱり家康公が絡みますね。
市川家というのは元は松平家(徳川家)や酒井家がらみで
結局かなり前の時代から引っ張り合いがあったんでしょうね。
>於竹、兄平右衛門召出サレ 備前守昌忠ト改ム、一本市川氏譜
兄・平右衛門ですか
これからしますと「平氏」ですね。
それに
「備前守」
ここが面白いですね。
平氏・平家・南朝方
そんな背景が浮かびますね。
市川善右衛門どの
どうやら古くからの豪族らしいですね。
古代の姓氏に既に出ているのかも。
古代から各地の史料を読みまくることになりましたね。大変だ!
笑
今年のお盆をメドに早くお年寄り達と連絡がつくと良いですね。
家紋で同族になる市川さんのホンヤさんがみつかると良いですね。
| [10] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年05月19日 14時03分45秒 ) |
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>平氏・平家・南朝方
>そんな背景が浮かびますね。
新田義興が矢口渡で策略にあい従者とともに戦死し、その近く武蔵新田に新田義興を祀った新田神社が古色蒼然とした佇まいです。
私の良く出かける場所です。
近くに十騎神社があります。
伝えによると、主君である新田義興を祀った新田神社へ願をかける際は、まずここで従者たちに詣でないと願いを聞き入れてもらえないと言う。
新田義興の十人の従者、世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎)を祀ってある。
従者として市河五郎のお名前があります。
トップに新田義興の家臣市川五郎忠光の名前が記述してありますので同一人物か、私の知識・研究が足りないのでよく解らない、市川善右衛門様のお解かりの事がありましたらご披露下さい。宜しくお願いいたします。
| [11] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月19日 20時48分16秒 ) |
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アカコッコさん
>従者として市河五郎のお名前があります
新田家の
重臣だった
侍大将だった
そういうことでしょうね。
やはり古くからの関係がった
ということですね。
>新田義興が矢口渡で策略にあい従者とともに戦死
このお話は小説になってますね。
読んだことがあります。
引越の際に処分したのかどうか(謎)
ひょっとしますと、その時の記憶があったのか
それとも城氏系で平家のオカルトがかかったのか?
何か引っ掛かりますが99.999%霞がかかってます。
千葉の市川の古代史も参考になるかもですね。
| [12] | ![]() | 市川善右衛門さん からのコメント(2008年05月19日 21時07分57秒 ) |
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暇潰しのギャンブラー様
アカコッコ様
ご返事ありがとうございます。本当に感謝しています。
いろいろご意見をお聞きして大変参考になります。
以前から漠然と考えていたのですが祖父の故郷、愛知県岡崎市周辺の同姓の方の情報を如何に集めるか・・・荒っぽい方法かもしれませんが、地域の市川家に直接お聞きする方法で、情報を集約し整理する方法もいいのかもと思っているのですが、「見知らぬ者から立ち入ったことを聞かれた・・・」とか変に思われるのではと中々できずにいます。その地域には知り合いもいませんし、突破口が見出せないのが現状です。
なにかいい方法などございましたらご教示いただければ幸いです。
| [13] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月20日 00時26分55秒 ) |
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市川善右衛門どの
あらら
岡崎にはお住まいではなかったのですか。
では
「先祖の話をご存知の方はいらっしゃいますか?または詳しい方はいらっしゃいますか?」と
電話帳で住所を探して市川姓の方々にお送りになれば良いですよ。
当然返信用封筒を同封なさって。
取り敢えず御自分から遡って明治の初めの御先祖さまの除籍謄本をお取りになって
(取得方法は岡崎市役所にでもお尋ねなさっては?
理由として先祖供養のためとか)
御先祖さまが明治の初めにお住まいだったエリアの市川さんには特にお返事を期待しましょう。
一族の可能性が高いですから。
除籍謄本をコピーなさって
そして御自分の家紋もお書きになって(写真があると良いですね)
同封なさってください。
もちろん御自分の御存知のこともお書きになってくださいね。
岡崎周辺の電話帳が手に入ると良いですね。
ムカシは東京駅あたりに全国の電話帳がありましたが。八重洲口だったかな?
愛知県の特に西三河と東三河の市川さんに連絡がとれると良いですね。
名古屋あたりに出てらっしゃるかもですね。
お盆の時にでもお年寄りからいろいろ情報をお訊きになったら良いのですよ。
うちの先祖はどういう家だったか?とか(源平どっち?とか、南北朝どっち?とかね)
系図は誰が持っているか?とか
系図も1つだけとは限りませんからね
結婚式の時にコピーしたとかでありますから。
でも皆さんなかなか素直には教えてくれないですよ。
だけど必ず一族の中には御先祖さまに詳しいかたがいらっしゃるものです。
今、市川善右衛門どのにその役目が回って来ているんですよ。
こういう機会にやっておかないと、この先本当に伝承されなくなり途絶えます。
頑張ってね。
ライフワークとして30年ぐらいの期間でボチボチやってみてはいかがでしょう?
| [14] | ![]() | 市川善右衛門さん からのコメント(2008年05月20日 06時33分16秒 ) |
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暇潰しのギャンブラー様
ご教示ありがとうございます。
私は岡崎市住でなく隣の豊田市におりますが、祖父の代というよりも曽祖父の代で奥山田町を離れ(祖父の幼い時分だったので記憶に薄かったと思われます)た関係で私の叔父叔母も奥山田のことはほとんど知らないのが現状です。
ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして「先祖調査をしている」ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。
暇潰しのギャンブラー様の電話帳による手紙の調査をきちんとした形で実行しようかと考えています。お金と時間はかかるでしょうが、やらねば、これ以上進んでいかないと思われますのでトライしてみます。
今回のご返事で少し希望がもてたような気がしています。ありがとうございました。
| [15] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月20日 07時32分24秒 ) |
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豊田にお住まいでしたか。
でも、豊田でも日進でも、結構奥山田町には御近所ですね。
やっぱり父祖伝来の地は離れ難かったのでしょう。
やっぱり松平郷に古くから関ってきたのでしょう。
御先祖さまは、奥山田町にいらっしゃったのでしょうね。
それが就職か何かで「出た」ということなんでしょう。
矢張り元は奥山田に永く住んでいらっしゃったのでしょう。
>ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして「先祖調査をしている」
>ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。
なかなかねえ、「家」のことは「難しい」ですよ。
いろいろな意味ですけど。
気持ちはあっても返事を書くのが面倒だったということもありますし
なんで教えてやらなきゃいけないんだという反発もありますでしょうし
魂胆は何だ?と疑われることもありますしね。系図を見せろと言われるんじゃないかとか
利用されるのではないかという不安に疑心暗鬼にもなるでしょうし。
そりゃ守るモノがあったら失うのを恐れますしね。
旧家はそりゃあ大変ですから。
でも、今、市川善右衛門どのに御先祖さまからコンタクトが来ているんですよ。
ちゃんとこの先、市川家のことを伝えていけ、って。
ですから高齢になって教えたくて教えたくてたまらない一族の長老もいらっしゃるんですよ。
この人が見つかると良いですね。
一生懸命努力していらっしゃいますとね
御先祖さまからパワーを頂けますよ。
土地の歴史家をどなたかが御紹介くださったり。郷土の史家、という方を。
(教育委員会に史料を請求なさいますと、紹介してくれたりしますよ)
もう矢のようにバンバン情報が飛び込んで来るようになります。
本を読んでたりテレビを見てたりしますとね。
こういうのは御先祖さまが助けてくれているって事だと思っています。
ですからとりあえず、あらゆる本を集める、資料を請求する
そういうことをなさって
一生懸命読んでいれば御先祖さまがヒントをくださいますよ。
わたくしもいろいろ不思議な経験をしましたから。
九死に一生を得るという経験も何度もしましたしね。
五体満足で病気もせずにいられるのは御先祖さまのパワーの御蔭だと感謝しています。
ムカシ先祖探しをする前に、
いろいろな人から「アンタには神様や仏様がついてる」なんて言われました。
当時は(何のハナシだ、不愉快な! 怒)という感じでしたが
今は「先祖って敬愛すると子孫を見守ってくださるんだ」というのが分ります。
どういう形かはいろいろと思いますけどね。
ですから「オーラの泉」なんかは自分の経験上なかなか好きな番組でしたよ。
今は「夢物語と思ってください」という表現になって残念に思ってます。
わたくしの経験上、皆さん、とても親切にしてくださいましたよ。
あ、1軒だけ、そうじゃなかったお寺さんもありましたっけ。
「皇太孫殿下がなんたらかんたら」というお寺さんでしたが。
でもそこの下の関係者はとっても親切でしたよ。
こうやって「格式が・・・」というのが絡むとややこしいことになりました。
笑
ヒトの善意とかね
生きる上でとっても大切なことをたくさん勉強しました。
「家の重さ」「家名」「子孫に繋ぐ」そういうことを考えさせられましたよ。
>ずいぶん前に奥山田に住む同姓の旧家(建物から、そう判断しました)のうち1件に対しまして
>「先祖調査をしている」ことを手紙でお送りし、返事が無かったことで、先祖調べを止めてしまった経緯があります。
どなたか、この御家に御紹介くださる方が見つかると良いですね。
突然訪ねては向こうも構えるでしょうしね。
ですからやはり明治の初めの除籍謄本と家紋から
一族らしきヒトを見つける
それが大事でしょうね。
御先祖さまや一族に係わる「知らなきゃ良かった悲しい事実」というのにもぶち当たるかもですよ。
御自分が生を受けて今生に存在しているのを感謝なさってくださいね。
| [16] | ![]() | 市川善右衛門さん からのコメント(2008年05月20日 22時51分33秒 ) |
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暇潰しのギャンブラー様
明治初めまでの除籍謄本と家紋から一族の可能性の方を見つけることが重要とのこと、もっともだと思います。
手間隙かかることですが、まず奥山田を中心に先祖調べを再開していきたいと思います。いい反応があると良いのですが・・・
いろいろご意見いただき本当にありがとうございます。
| [17] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年05月24日 07時06分02秒 ) |
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[10]の補足です。
十寄(騎)神社の由緒 案内板より(以前写真を撮ってあったがヤット探出した)
祭神 源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵、
世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、 進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥、南瀬口、市河)
付記、典拠には矢口渡の自刃戦死者として大島兵庫頭義世、松田與一、宍道孫七、堀 口義満もある。
創記 天平十三年(一三五八年)
祭事 春季大祭四月十日 例大祭十月十日
祭神事跡 正平七年二月十五日(一三五二年)足利尊氏追討のため宗長親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた、世にこの戦を武蔵野合戦と云う。
正平十三年(一三五八年)四月丗日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。
足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢、江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平十三年十月十日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し、江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した(矢口渡、津の戦)
その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠をお輿し一社の神とし合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を賞賛した。
縁由の古跡
新田神社(大田区矢口)新田左中将義貞公の二男新田義興公を祀る。
愛宕神社(埼玉県入間市)祭神は天照皇大神ほか二神と新田義興公、元は新田大明神と称していた。足利基氏が義興公および祭神将兵らの首実見を行った地と伝えられ社殿前に義興公首塚がある。また古老によると付近高台に十騎士の首塚もあったと伝えられているも宅地化により現存していない。
女塚神社(大田区西蒲田)義興公の寵姫少将の局を祀る。
三体地蔵(大田区下丸子)土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川五郎を祀る。
多摩川兵庫島(世田谷区玉川町三の一)由良兵庫助の憤死体が漂着した処に由って名付けられた。
光明寺(大田区鵜の木)江戸遠江守および一族の墓碑あり。
頓兵衛地蔵(大田区下丸子)謀殺に加担した船頭頓兵衛が義興公、十騎士らの冥福を祈り建立したもので、風化しているので「とろけ地蔵」とも云われている。
昭和四十八年十月吉日
宮 司 大村 博 撰文
大島兵庫頭義世末裔 大島康夫 奉納
以上です。
それと検索のキーワードを変えて、市河 家系などで検索すると、ヒットするのがあります。
中には同じ市川姓の人も見受けられます、根気をだして、あせらずに調査を進めたほうが宜しいかと思います。
| [18] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年05月24日 08時09分25秒 ) |
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アカコッコさん
さすがでございますねえ。
にっこり
>祭神 源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵、
>世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、 進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、(土肥、南瀬口、市河)
やはりかなり近い関係ですね。
義興公関係の資料に市川家について詳しく出て来そうですね。
| [19] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年07月06日 09時01分08秒 ) |
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2007年8月26日の朝日新聞(日曜日)14版 社会 P36
「報国レジームの記憶」に
市川房枝女史御自身は愛知県明地村(今の一宮市)の農家に生まれたと書かれていました。
| [20] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年07月06日 09時09分20秒 ) |
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蛇の足:笑
愛知県明地村(尾西市、今の一宮市)はひょっとすると、あの辺りは北朝方じゃなかったかなあ。
特に妙興寺は尾張の北朝方の本拠地だったから。
蛇の足のそのまたアンヨ:笑
尾張の南朝方の本拠地は津島の津島神社ね。
人間は移動しますからね。
兄弟は他人の始まりで、南と北と分かれて戦った、というのはどの時代のどの国でもありましたからね。
| [21] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年07月07日 10時44分11秒 ) |
パスワード |
遅々と進んでいませんね。雨で散歩もままならず。
以前のスレ『名古屋城下デジタル復元地図』で市川家探しの散歩をしました。
@市川余所吉 →六郎左衛門
A市川藤右衛門→音次郎
B市川新十郎 →新兵衛
C市川分左衛門→分左衛門
D市川加左衛門→庄吉
E市川鉄五郎 →ナシ
以上六軒の市川家が存在しておりました。
左側が弘化年間、右側が明治年間で一軒だけが明治には記載なしで跡地には他人名義になっておりました。
| [22] | ![]() | 井桁に一さん からのコメント(2008年07月08日 04時36分35秒 ) |
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市川善右衛門様
東京在住の市川です。
私の先祖も犬山城の南部あたりの村の出身だとのことです。
以前3件のお寺と繋がりを持っておりましたが、私の代で辞退させていただきました。その寺の幾つかの墓石には《井桁の一》の家紋がありました。
これからもこのページを見させていただき、いろいろ先祖のことを知りたいと思っています。
| [23] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年07月10日 05時25分23秒 ) |
パスワード |
| URL=http://www.aa.alpha-net.ne.jp/akokoco |
[10]市川家の家紋を調べてみました。
幕臣の市川家は松皮菱で武田の流れか。
尾張藩の市川家:丸に抱茗荷・丸に三引両。
加賀藩(家臣の大半は尾張・三河から召し連れて)
市川家:丸に橘・三つ茶の実・丸に三つ引き・丸に一文字。
引き両は新田の流れか、抱茗荷・一文字は大橋家の流れか。
以上ですが当家も丸に抱茗荷・丸に一文字で、何か親近感を感じます。
《井桁の一》の市川さん、はじめまして、大橋家の身贔屓な者としてどうもソッチを方に引っ張られてしまいますが、戯言(ザレゴト)として、聞き流してください。
大橋家でも井桁紋・一文字を使う、実際に「井桁の内に蔦」を使用しており、一文字の合体も十分に考えられますが。
棚橋家では「藤ノ丸内ニ一文字」を使用しており、
棚橋久利の娘は市川六郎左衛門の妻になっておりますが、
[21]に登場の六郎左衛門と同一人物かわかりません。
| [24] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年07月10日 09時37分54秒 ) |
パスワード |
アカコッコさん
>以上ですが当家も丸に抱茗荷・丸に一文字で、何か親近感を感じます。
わたくしも御両家の深い深いエニシは感じます。
どの辺りからでしょうね。
南北朝のあたり?
徳川家康のお祖母さまのあたり?
この辺りは確かでしょうね。
これを検証出来ると楽しうございますね。にっこり
| [25] | ![]() | アカコッコさん からのコメント(2008年08月01日 07時16分08秒 ) |
パスワード |
>南北朝のあたり?
>徳川家康のお祖母さまのあたり?
>この辺りは確かでしょうね。
たぶん南北朝のあたりからの付き合いが続いていたのでしょうが、武家の系譜がハッキリしてくるのは江戸時代になってからでしょうね大名しかり、旗本しかり。
またまた状況証拠ばかり、個々の家の系譜は武家しか発表されていないので、これもいたしかないのでしょうか。
棚橋姓についてはあちこちに書き込んでおりますが、千葉県館山のお寺に江戸川口家中、 棚橋茂左衛門の墓石があり、美濃時代よりの付き合いであろうと思われます。
また尾張藩士の赤林信家次右衛門の娘が市川文左衛門の妻になっており、赤林家の家紋は丸の内二引両を使用しております。
上記赤林家は織田信雄分限帳に甚右衛門、彌七郎、掃部と三家も記載があります。
市川家は新田義興の時代に登場してきますので、その時代から同じ行動をし、仲間として家紋を少し変化させ、類似性・共通性を保ち集団意識を高めていたのではないでしょうか(かってに推察しているだけ)。
お盆も近づいてまいりますので、頑張って!!。
| [26] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年08月01日 09時29分17秒 ) |
パスワード |
先週のNHKののど自慢の会場が群馬県沼田市でした。
出場者の女性お2人が母にそっくりでした。
我が家は群馬に親戚があるとは聞いていませんし
でも本当にソックリなんです。
これまで母にそっくりという人は母の従妹と同じ名字の女性でしたから納得でした。
群馬の女性がどうして?
この謎に答えてくれるとしましたら
やはり南朝方そして沼田という名前かしら?
と思います。
まるで新田義興一党の亡霊がニヤッと笑ったように思います。
笑
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