| [7] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月03日 16時40分24秒 ) |
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Guess_whoさんへ
夜半、同じ柳の木を見てもただの柳にしか見えない人もいれば、人影の幽霊に見える人もいるようで・・・。
同じ物を見ても見る人によってその感じ方が違うようなもので、Guess_whoさんから見た場合の・・「久」を単に「九」に当てたなんてものではい・・。・・・の考え方も面白いと思います。
しかし、今風に言えば「でもそんなの関係ない! でもそんなの関係ない」
貴方のヨタものでしょうね。
| [11] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月04日 10時21分16秒 ) |
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Guess_whoさんへ
数学的見地から『九』を捉え、深遠で普遍な代数構造としての『九』を一般に知らしめようとする御努力にはフムフム感はありますが、だとすれば、自らの論を
ヨタ等という必要もないし、素直に気楽にカキコすればいいのでは?
それにしても『九』を『久』にして『9』を語り始めるのもどうかと思っていますが・・・・。
高名な大学の教授がNHK教育番組などで数学を教えていますが、非常に判りやすくいつも感心しています。真にものを教えようとする気持ちがある人物は、どうすれば相手にわかってもらえるかということに心を砕くのだと言うことが良く判ります。
わざととか、ほのめかすとかでは本意は伝わりにくくなると思いますけど・・。
最後に「まぁ、誰が書いたかわからないし、気楽に読んでみてください。」では
残念という気持ちが残ってしまいますが・・・・・・・・・・・。
| [14] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月05日 21時39分23秒 ) |
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日本の苗字七千傑さんへ
ご教授下さい。
本邦では、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国。とありますが、
(筑州)−筑前国、筑後国
(肥州)−肥前国、肥後国
(豊州)−豊前国、豊後国
(日州、向州)−日向国
(隅州)− 大隅国
(薩州)−薩摩国
後から加えられた
(壱州)−壱岐国
(対州)−対馬 国
これらを数えると州としては『九州』あるが、『国』としては『11』になります。
四国の場合、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、近世以降は「四国」と呼ばれた。
とあり、このあたりに疑問を感じています。
よろしく。
| [15] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2008年01月05日 22時55分04秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
福岡さんへ
日本地図を見れば明白だが、対馬、壱岐を除き各国に矢筈岳(山)もしくは矢櫃岳(山、峠)などがある。
これは対馬の神域性を示すもので、その前方に位置する壱岐は対馬聖域を表示するために東触、西触、南触、北触、諸津触などの地名が異常に多く存在する。
従って壱岐、対馬は九州に属さないのである。
これら地名による太古からの統治権表示については、膨大で複雑な説明を要する。
興味がある人は桜井光堂著「古代日本の領土−領土画定と記紀解読の実証的研究」を読むことをお勧めする。
この書物は日本法制史学会誌「法制史研究」などに掲載されたものを一冊本にまとめ上げたもので、世間一般の古代史ヨタ本とは一線を画する。
| [16] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2008年01月09日 18時07分56秒 ) |
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展覧会のお知らせ(大分遅いです すみません)
岡崎市美術博物館において2月11日まで
中根家文書 刊行記念展 隼人がゆく を開催しております
午前10時から午後4時30まで(入場可能)月曜休館
13日午後2時より 講演会岡崎藩政の展開 本田氏時代を中心に
講師 国際日本文化研究センター 笠谷和比古さん
27日午後2時より 中根家文書の絵図について 城絵図を中心に
講師 姫路市立城郭研究室 工藤茂博さん
いずれも午後1時より 整理券配布予定 定員70名
会場 1F セミナールーム
興味の有る方は、お越し下さい
私は27日に行く予定です (ご希望があれば 目立つ姿で行きます)
東岡崎2番乗り場から中央総合公園行き 美術博物館下車3分
本数が少ないので、時間に余裕を持って下さい
タクシーは15分位です
| [18] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2008年03月03日 18時23分30秒 ) |
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展覧会 隼人がゆく を見に行ってきました
色々考えているうちに 遅くなりました
中根之秀さん(以前投稿されていた方)の家系について論議されていましたが
私なりにまとめてみましたので、紹介します
三河中根は平忠正の末と伝承されているが、現当主 忠之氏は14代を名乗っているので、初代は信長の末弟が家を継いだ時と考えるのが妥当である
又家光時代の幕府大目付に中根の名があるので、こちらが本流と考えれば
岡崎藩中根家は、先祖の伝承を省いた可能性はある。
中根党は古くより岡崎北部に繁栄していた一族で、岩津城(15世紀築城)の中根大膳は松平に城を渡した時(滅ぼしたと書く場合が多いが)臣下になっている。 この系統が忠正流である可能性は否定できないが、織田松平家で重用される理由には成りえない。
信長末弟が中根を継いだ理由を考えてみました
大橋広正の次男である中根忠良は、お大(家康生母)の松平方の仲人であり実質親代わりを勤める者であった(再婚して責務は無くなっているが) 大橋 織田は信長の姉を仲介とした姻族で(大橋、蜂須賀、前野等の川並衆の)分断統治にほぼ成功はしているが、いまだに大橋に気を使わなければならない時期ではなかったろうか。
織田家は、斯波氏の家来であったので本来の家紋は木瓜系の可能性が高い、津島神社の織田瓜の方が古い、大橋の同盟の証で使用したと見るのが有力ではないか
永楽銭の戦旗も三河水野(お大の生家 )の旗として紋帳に出ていますので、
こちらにも気兼ねがあったのではないか、以上2つから中根の家を重視したと
私は推量しますが、いかがでしょうか。
| [19] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年03月03日 23時55分05秒 ) |
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興味深いお話ですね。
>三河中根は平忠正の末と伝承されているが
そうなんですか。
清盛方でなくても
それでも複雑に絡み合って
後に南朝方となり
という感じで一筋縄で語れない結びつきがあるんですねえ。
こうやって日本人は生きて来たんですね。
自分が今こうして生きているというのは御先祖さまが岐路を頑張って生き抜いたから
我々は大切な命を頂いているんですねえ。
| [21] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2009年01月09日 18時07分09秒 ) |
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長田(平野系)さん
家毎に伝承が違っていて当然です。私どもの祖となる、
親致はその時には、船の準備か、逃げたか不明ですが居ないのですよ。
伝聞としての言い伝えがありますので、それを信じています。
野間にやってくる理由を考えてみます
直前の宿泊は中山道の青墓宿です、ここから何処を目指せば安全圏に
辿り着けるか?追手の目から逃げられるかがポイントになります。
人目を避けて陸路は困難ですし、落ち武者狩りにあってはと
舟を利用するのは納得がいきますが、当面の目的地は何処でしょうか?
細い川が流れる青墓には小船しか無いのです、大河である揖斐川河口まで行くと、とる道は2つが考えられます。
熱田大宮司を目指す陸に近い海路では、危険は少なく、
3男頼朝の母の家ですから多分に匿ってくれると思われます。
海も今よりずっと北の津島市までありましたので、宮の渡し(熱田⇔桑名)
まで行き交う船もあるでしょうし、航路を外れる心配は有りません。
風は左舷後方から吹く季節です。
行方をくらます点を考慮し、平家の得意な船を使って
野間を目指すのは危険な要素が多すぎます。
(しかし揖斐川⇒野間は遭難すれば、簡単に辿り着けます。
洪水のあと、岐阜県の方が打ち上げられる、と聞いています)
実際にボロクズになって辿り着いたと伝えられています。
保元の乱で敗れた長田には、清盛も、義朝も仇であるのです。
そして、中立を保つ武力も失っているのです。
逃がせば清盛を敵に回し滅亡します。
(浜松や静岡からの援軍は直ぐには集まりません)
そう考えれば、常識的には絶対野間は選びません。
海流、風向きで野間に漂流であれば、すでに武運は尽きている訳です。
野間を目指す可能性としては
身の始末まで考えると、熱田に迷惑かけるより、野間なら気にしない、
もしもでも、雑兵に討たれる程には、名誉は傷付かない が出てきます。
そう思わないと 正月だから平家捜索隊も休む、尻に帆かけて逃げる
絶好のチャンスをのんびり4日も逗留した理由が思いつかない。
| [22] | ![]() | 永田末裔さん からのコメント(2009年03月12日 02時31分03秒 ) |
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永田のルーツを調べようと検索をかけたら,ここにたどり着きました.
こんなに詳しくお調べになっている方がおられるとは知りませんでした.
ちなみに私の家には「長田支流 永田家一門 (著 永田 一夫)」という著書がありますが,それによると知立永田らしいです.
| [23] | ![]() | 長田EZOさん からのコメント(2009年03月26日 16時53分58秒 ) |
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初めまして。
私は、北海道に住んでいる長田(おさだ)と申します。
我が家の家系を調べているところ、こちらに付きました。
私の家は、北海道の檜山地方にあり、北海道に渡る以前は、越中国であると
寺の住職が言っております。
越中国は現在の富山方面だと思いますが、さらに遡っていくと、平致頼まで
繋がるのではないかと、想像しております。
ただ、どうやって調べればよい物か判らず、なかなか先に進みません。
こちらで、ヒントがいただければと思っています。
全くの素人ですので、どんな情報でも結構です。
お知恵を拝借させて下さい。よろしくお願いします。
| [25] | ![]() | おさだ(豊田)さん からのコメント(2009年05月23日 06時26分20秒 ) |
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[23]長田EZO様
唐突で申し訳ありません
檜山地方にお住まいとありますが
差し支えなければ町名教えていただけないですか
(ひらがなではじめの一文字でも構いません)
もしかすると私と非常につながりが深い方かもしれません
ちなみに父親が檜山地方(町名は出しませんが・・・)出身です
もしかすると同じ町かも・・・
ひさしぶりに来てびっくりしています
よろしくお願いします
| [26] | ![]() | 長田EZOさん からのコメント(2009年05月25日 10時54分52秒 ) |
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おさだ(豊田)様
全く差し支えないので、お知らせします。
爾志郡乙部町です。
ちなみに書き方が悪かったので、訂正しますが、
× 私の家
○ 私の家の本家
結局、跡継ぎは私になるので、同じ様な物かも知れませんけど。
お墓もありますし。
| [27] | ![]() | おさだ(豊田)さん からのコメント(2009年05月26日 21時23分44秒 ) |
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長田EZO様
連絡ありがとうございます
そうですかー・・・
私の父も乙部町生まれです
たぶん・・・長田EZO様と私は縁者ではないかと思います
長田EZO様は本家筋で私は分家筋にあたるはずです
これもなにかのご縁ですので
ご先祖様に興味がおありでしたらいっしょにやりませんか
私も始めたばかりです(あまりうまくいってないですが・・・)
hi-ji-san@hotmail.co.jpまで連絡を頂ければうれしく思います
よろしくお願いします
| [28] | ![]() | ながい(永井)栃木さん からのコメント(2009年06月12日 16時47分15秒 ) |
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初めまして。
私は栃木県に住む永井と申します。
家系のルーツなどについて検索かけたらココに辿りつきました。
私の家の家紋は『五瓜に抱き柏』というものなのですが、平家と何か関わりあるのですかね?
この家紋…うち以外で見かけた事が無く…情報が見付からなくて…(^−^;
何か情報をお持ちの方、いらっしゃったら教えて下さい。
| [29] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2009年08月27日 17時12分18秒 ) |
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ながい(永井)栃木さんへ
返事が遅く、大変申し訳ないです。
身内の永井には該当の紋はなかったです、色々調べた所
>http://nihonkamonken.hp.infoseek.co.jp/mokko.htm
ここを見つけました、時々平熱で見かける小林先生が関係しているので
見つけた途端、安心して(解決した!と)忘れておりました。
瓜と柏は平氏一般によく使うので、多分平氏であると思います。
あまり力になれず、面目ない。
| [30] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2009年09月25日 14時18分52秒 ) |
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村史、町史より大隅半島の城に長田致将の名があり
壱岐から何の理由でと不思議に思っていたところ
宮崎県に内木場城という城跡の紹介記事に致将の名を見つけ
詳細をお願いしていました。 以下です。
宮崎の鮫島さんから情報を頂きましたので紹介します。
致将の隅州祢寝に下向した経緯をお話します。
壱岐守忠致の名代として壱岐へ赴任した致将(30代)は、唐種を娶り
壱岐の住民として統治を行いました。
この時期において、海上航行術や異国との交易の経験が蓄積されたと考えます。
1177年に大隅国祢寝山本に下向し山田城を築城します。(50代)
理由として鎌倉実記には引き蘢りと書かれていますが、これでは不十分
実は忠致の娘が、源助能の室となり先に当地の高城に居ました。
致将家族は、源助能夫妻をたよりに祢寝まできました。
高城と山田城は隣り合わせであり、当時の役目は、海軍長田、陸軍源という
無敵の組み合わせであったと考えます。
なお山田城での活躍は、物語でしか伝わりませんが大隅の史書に致将は
全く登場しません。地元古参の豪族達の動静に隠れた様です。
もしくは、内木場城での敗戦で島津家により山田城の記述まで消された
のかもしれません。
以上です
本来は鮫島さんのHPを紹介したいのですが、更新のため
少し中断されるそうです、再開されたら、改めてお知らせします。
追伸 昭和5年に発行された野尻村史の捜索をしております
と 鮫島さんの資料探索に、何処かで見かけましたら
連絡くださるようお願いします。(平伏 箱永)
内木場城主長田(平)致将についての一文があるそうです。
| [31] | ![]() | やまとながたさん からのコメント(2010年06月17日 22時38分20秒 ) |
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自分の姓で検索したらヒットしたので覗いてみました。
私の姓は長田(ながた)です。
(おさだ)ではないのですが、同じ長田姓なので
何かヒントになる事柄でもあればと思いコメントしてみました。
昔のことは分かりませんが、私の知るところで
祖父の代には奈良県に住んでいたことは確かです。
家紋は丸に剣花菱だそうです。
| [32] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年01月31日 17時10分53秒 ) |
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私的情報です、すみません
先日 >http://www.bonnoukun.com/kaou/sobuno/jp/sobunosuke.html
このページを見つけ、舞い上がっています。
身内探しの難関の一つ、清蔵長男の子孫は転勤族?の武士になったので
痕跡(文書に残る)を探すのは土地の歴史館や図書館所蔵の
資料を探すしか方法は無いのですが、運の良い事にHPで当たりました。
抜粋>姫路永田家の家督を継ぐ者は祖武助の名を襲名します。
三代の五男蘇武之助(別名 穂積之助)は長篠で手柄を挙げた事は
伝わっていますし、戦記物語より討取った武将望月さんも判っていた。
以後、武家の永田は好んで蘇武00、そぶ00が多いようです。
(元鳥居家臣)尾張藩永田蘇武助家と巡り合い、
伝承の中に<信長から直接言葉を賜った>がありました。
又この家には叔父も そぶ、大叔父も そぶ と伝えています。
この事より、長男籐蔵兵衛の子か孫が5男蘇武の家を継いだと推測できる。
(5男蘇武は多分伏見城で戦死、記述のある本を探しています)
姫路本多家には家老と祖武の2軒あり、永田祖武助は鳥羽伏見の戦いから
藩士を無事に姫路に連れ帰った事しか判りませんでした。
家老伴正の家は幕末の主導権争いで、閉門蟄居し明治政府で活躍、
までは辿れましたが墓(子孫が建てのでは無い)が見つかっただけで、
子孫は不明です。
HPの山口氏を通して再会をお願いしている最中です。
| [33] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年02月04日 17時17分54秒 ) |
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空の青海のあを さんへ
<(嘘であれば、後ろからの矢が怖い、、のだが。)
これって、「自称」では見破られて許されない、ということですよね?>
実際に飛んでくるようです、そして後に<戦いぶり>を糾弾され
より危険な場所を任せるとか、名を変えるように仕向けます。
実際、戦場では誤射どころか、<味方撃ち> みたいな行為を
表す言葉が頻繁に出てくるのです。
しかしながら、虚偽であっても名に相応しい働きがあると徐々に
認められていくみたいです(もれなく陰口は付いてきます)。
身近な例では、<刈谷の水野さん>
南北朝の時代(転戦に継ぐ転戦で伝承の不確かさ)があったようで、
官位の申請時に源姓水野になってます。
(公文書としてあやふやな記憶より、同僚(嫁の家)の由緒を正しくまねたと
個人的には、想像しています)
水野系図(後世に再整備されている)の通字に注目すると、
私(長田支流)と同系列と思われる0致、致0が多いのね。
既知の(知立永田の嫁<家老の水野家>は平氏になっていた )
で 平姓水野さんの系図を探すと>http://mizunoclan.exblog.jp/10969046/
水野青鷺さんのHPにありました。想像通り、でした。
徳川幕府内では、(源氏の方が居心地は良さそう)あえて変えないのも
選択肢の一つかとおもいます。
又、岡崎の中根さん(平忠正7男正持子孫 と言われてます)の例ですと
松平に与力して直に、中老を務めています、と お大の仲人も。
岡崎衆から見ると新参者が何故に?えこひいき?なんて嫉妬がでます。(多分)
@松平家は大老、老中、中老、若年寄り 奉行の順だったと思います。
津島大橋の次男には相応の扱いですが、(私的尺度は老中)
尾張まで目の届かない岡崎衆向けに、理解できる抜擢の理由として、
岡崎小呂に蟄居していた、正持の子孫。なら納得されるかな。
とこのように、想像する訳です。(中根家系図は 数代の略あり)
戦の場で背を預ける事が難しい時代の<知恵>と考えた方が良いようです。
源氏平氏の違いは母方の勢力、出自で決まるので、(極端かも)
戦国期は、あまり気にしてなかったのではと、この頃考えてます。
| [34] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年02月05日 15時30分53秒 ) |
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>戦国期は、あまり気にしてなかったのではと、この頃考えてます。
これは、そうでしょうね。
源平時代から随分経っていますから複雑に絡んでいるでしょうし
戦国時代は群雄割拠と申しますか草深いところに雌伏していた人物が躍り出て活躍したでしょうから。
大活躍をすれば当然「認められた」のでしょうけど。
こういうのは「実力」で認めさせるのが早道ですものね。
徳川家も家康が源氏の氏の長者として認められたのですから
天皇以外が異を唱える権利は無いわけです。
徳川家に繋がる水野家ですから、そりゃあ、清和源氏出身と称したいでしょうし
家康公の生母さまの御実家が源氏を称するのを偽源氏なんて言える立場の人はまずいなかったでしょうし
もしかすると、
水野も源氏を名乗れと許したのかも知れませんしね。
だいたい三河はもともと足利将軍家がらみで皆さん源氏を称したいんじゃないですか?
吉良(さん)とか一色(さん)とか。
そこに戦国時代以降の家康の源氏ですから、三河では源氏じゃないと肩身が狭いんじゃないですか?
| [35] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2011年02月06日 21時36分46秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net |
>徳川家に繋がる水野家ですから、そりゃあ、清和源氏出身と称したいでしょうし
徳川家の祖松平は在原姓、酒井は大江姓だが源姓親氏の入り婿に着目して清和源氏改姓を後世朝廷に奏請しただけ。
家系とは所詮そのようなもので、目くじらを立てる程のものではない。
水野は家号であり、尾張国春日井郡水野邑の邑名に基づいている。
従って、清和源氏浦野氏族と桓武平氏良兼流の二流が存在する。
足利だって源姓と藤姓が存在する。
平安時代は女系伝領で、父子代々の家号が異なるのが大半である。
鎌倉時代に入り徐々に男系伝領に移行する。
従って八島重実−浦野重遠−小河重房−水野重清となっている水野系図は信頼がおける。
水野重清は源頼朝に仕えた鎌倉時代初期の人物であり、男系伝領に移行して以後水野の家号が固定するのである。
この辺の事情に疎い曲学阿世の学者が妄説を流布している。
三河は清和源氏義康流(足利氏族)が多いが、ほかに義重流(松平氏族など)、義光流、頼親流、頼光流、満政流、義隆流のほか宇多源氏、村上源氏、嵯峨源氏なども多い。
また三河伴氏も頗る多く、諸家が揃って源氏を称しているわけでもない。
もちろん桓武平氏良兼流長田氏後裔の景俊、景清は水野氏を称しているし、後裔が致の通字を多用していることも真実であるが、徳川の大名家は平姓長田を嫌い大江に改姓して更に家号を永井に改苗していることも事実ではある。
| [36] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年08月03日 17時18分36秒 ) |
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日本の苗字七千傑さん
丁寧な御教示をありがとうございます。
最近見つけた本に、以下のような物がありました。
>http://www.oklab.ed.jp/kitano/kitano/kitasato/gakku_henka.htm
岡崎市立北野小学校 副読本<北野の里>学区の移り変わり より
小針城の阿部氏がまだ若い家康に仕えていた戦国時代に、橋目へ一人の侍がやってきました。その人の名は、山田源内といいます。源内は加賀の国(今の石川県)の侍でした。源内は、橋目に座敷城を作り、ここを居城としました。
加賀の国の白山社を氏神としていた源内は、座敷城の前に白山社をつくって祭りました。源内の子孫は農民となり,代々橋目村の庄屋をつとめました。
江戸時代の初めからは,母方の姓である永田となりました。
この家は、源氏?平氏?どちらを名乗るのかな?
(その家のアイデンティティによるのだが、、。)
家紋は家と同じ?山田さんの紋?。替え紋、副紋?もあるか。
宗派はやはり浄土真宗?当時のまま続いてる?。
この時期(江戸へ家康退去、田中氏統治)は庄屋層の交替が盛んに行われ、苗字を変える例が、しばしば視られるのです。
(皆、14代位前と言ってます、が
関ヶ原の後、家康家臣が統治する時と区別できませんでした。)
秀吉配下の田中さんに、スパイ扱いされる恐れがあります、が理由?かな。
家康が一向一揆を嫌っているから?。
どちらも、一揆の本場ですから、(人的交流は盛んであったと想像できる)
秀吉さんは特定の宗旨宗派に依怙贔屓が、有ったっけ?。
| [37] | ![]() | 橋目在住者さん からのコメント(2011年09月13日 01時12分46秒 ) |
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橋目在住の永田です。
たまたま橋目で検索したらたどり着きました。
今でも橋目には永田姓が数十軒ありますが、ほぼ全てが真宗大谷派です。
ただ寺の多い岡崎には珍しく橋目には町内に1つも寺がありません。
(寺の代わりが毘沙門堂との言い伝えもある)
そのため、檀那寺は知立八橋の浄教寺になります。
家紋は木瓜紋になります。ただ源氏なのか平氏なのかははっきりしません。
もしかすると本家なら、何か残っているかも知れません。
山田源内は永禄三年(1560年)に橋目に来たそうです。孫の減七は
天正元年(1573年)に庄屋になっているそうなので、一人ではなく
一族で来住したのかも知れません。本家の話では、織田信長に二千俵の
米を出した褒美として庄屋になったとのことで、その時の書状が残って
いるとの話です。
なお、親戚のおじさんの話では、源内の直系は源七で絶えたため、
江戸時代初期に養子が入り、名字も永田に替わったとの話があるそうです。
その時に兄(そのおじさんの家)が源内の家を継ぎ、弟(本家)が
庄屋を継いだ、その名残で橋目の田扇祭りは、兄の家から始まり町内を一周し
弟の家で終わるという道順だったそうです。
なお江戸時代の当主藤兵衛は岡崎藩の御用聞三十人組の一人で、地廻帯刀を
許されていたようです。
ちなみに橋目の集落から西に200mほど行った辺りには長田(チョウダ)と
いう字名があります。
なぜナガタではなくチョウダと呼ぶのか、またこれが長田氏と関係があるのか
どうかは、全く不明です。
| [38] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2011年09月13日 11時56分14秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
>江戸時代の初めからは,母方の姓である永田となりました。
源内だから源氏でしょう。 絶対ではありませんが、通称がひとつの目安です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/tsuushou.htm
>秀吉配下の田中さんに、スパイ扱いされる恐れがあります、が理由?かな。
家康が一向一揆を嫌っているから?。
どちらも、一揆の本場ですから、(人的交流は盛んであったと想像できる)
永禄六年(1563)に勃発した三河一向一揆に淵源があります。
家康の父広忠が認めた三河三箇寺不入権の侵害で門徒衆が家康方に対戦。
松平家は浄土宗だが、家臣には一向宗(浄土真宗)も多かったが、これを契機に多くの上級家臣は浄土宗に改宗している。
石川家成、同数正、本多広孝、同重次、同忠勝、内藤義清、天野康景、植村正勝などで、家康方優勢の中で最終的に一揆方は鎮圧された。
鎮圧後は、多くの一揆方家臣も許された。
戦国時代というのは宗教戦争の時代でもありますから、後世まで尾を引くもので江戸期の大名の宗旨に顕れています。
大名の宗旨 http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/daimyou_religion.htm
| [39] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年09月13日 17時17分39秒 ) |
パスワード |
橋目在住の永田さん
歓迎いたします、先月、橋目永田の本家さんを訪ねました。
>檀那寺は知立八橋の浄教寺になります。
ここまで詳細に聞けませんでした、ありがとうございます。
床の間に、酒井包一の掛け軸が飾ってありました。
(昔から有るので由来は?偽物だろう!と言ってましたが、、、。)
絵心は皆無の私ですが、永田繋がりで移動したような気がしました。
抱一の葬儀は永田祖武助(遊び仲間で姫路藩目付)が行っているらしい。
(抱一研究者の説があると聞いております)
知立本陣はその時期には、永田であった。と 風が吹けば桶屋が
儲かる、に近い話が成り立つのです。
浄教寺が知立と橋目の接点になればと考えております。
>橋目には永田姓が数十軒あります
>兄の家から始まり町内を一周し弟の家で終わるという道順だったそうです 橋目永田は2つのグループになっていて、あまり交流しないと
聞きましたが、そのグループ分けでしょうか?
私は、知立から来た、新田開発のグループと想像しておりますが。
(知立には長田町ながた があるので区別の為かしらと 想像する)
個人的追伸 橋目町永田さんへ
お閑がありましたら、我が家を尋ねてください。
何軒かの嫁さんの実家の中から、何故永田を選んだかが
腑に落ちるかも知れません。 長田支流永田の墓守
| [40] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年09月14日 01時19分15秒 ) |
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ちょっと乱入。
橋目町のことが出て、知立が出たので、乱入させてください。
目障りだったら(笑)削除するので
以下のことで、新しいスレッドを立てて下さったら、これはきれいさっぱり削除します。
最近友人と秀康の母・於万さまのことを話していたのですが
永田家と永見家と何かありますか?
地理的に近いから何か面白い話なんかあるんじゃないか?と。
既に出てたらごめんなさい。
当時は永見家について興味が無かったので。
永見家は於万さまの身元引受人になった本多作佐と全く関係が無かったわけじゃないでしょうし。
| [42] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年09月22日 17時12分51秒 ) |
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>永田家と永見家と何かありますか
希望に添えず申し訳ない、永見さんは全く調べてないのです。
知立の永田が本陣を務めたのは、初めからではなく途中からなんです。
その時には、永見さん主流は越前に引っ越していた。
(勿論、神主の方は居ます)
永見さんは古くから知立神社神主の家と認識しています。
江戸期には、知立永田諸家は本陣,問屋、農民までいますから、
普通以上の係わりがあると思いますが、調べる時間が無い状態なのです。
神社と氏族の関わりを、明治期の神社合祀と寺の分離を整理して
氏子住民の記憶話を突き合わせていくと、、、、。
調べるほどに判らなくなると言う混沌状態に、当惑しています。
身近な例では、豊田の宮口神社があります。
>http://blog.goo.ne.jp/deko40168id/e/f4927cdfec4723ebeab687d0f8dfaaba
篠田氏の勧進で社主長田氏と書かれております。
想像するに長田氏の要請により
伝長田忠致の屋敷跡開拓を知立が請け負い、六兵衛新田とし、
豊田宮口、宮上に土着したと思われる。
八王子(八柱)神社の世襲神主を大正まで務めた永田家の話では、
氏子は一族と郎党だけでした。と伝わっています。
社主と神主はどう違うか?、(今風に)想像では篠田社長と長田重役、
永田支店長、に相当する?かな?。
(豊田には八柱神社が異様に多いのです、
神社の鳥居、玉垣等には多くの(永田名)寄進者があり、
色々調べていました、そして訳が判らなくなりました)
ここのHPは非常に参考になりましたので紹介します。
(図書館通いと身内の聞き取りで篠田、永田の関係が見つからず
諦めかけていた時に、一気に腑に落ちた幸運な例です)
次回訪問する時、長田さんと永見さんの関係、(南朝絡み)を
知立長田さんに聞いてみます。
| [43] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年09月23日 07時22分13秒 ) |
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永田さん
ありがとうございました。
ぺこり
社主の方が上なんですか。
言われて考えれば、確かに、そうですね。
笑
>次回訪問する時、長田さんと永見さんの関係、(南朝絡み)を
>知立長田さんに聞いてみます。
興味あります。
また南朝がらみということで、徳川家の秘密に迫れるかも知れないですしね。
今川にいた時の元康とお万の関係もちょっと覗けるかも知れないし。
| [44] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年10月11日 17時22分10秒 ) |
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>永田家と永見家と何かありますか
わずかな期待は有りましたが、見つけて吃驚しました。
樹童様のHP(解答)の中より
>http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keijiban/nagai1.htm
>やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、
宝飯郡の名族にも永井氏があった、と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。 を見つけました。
恥ずかしながら、知立神社は永見さん。
これが、私の認識でしたので今、空転状態なのです。
貧乏な私の町内の神社では、常駐の神主さんは居ないのです、
周りも同様で、各町の祭礼に徳王さんの神主さんが
見えられるので、2軒の神主家なんて!お伊勢さんや、熱田さん
(もっと多いけど) みたい?と再考、再認識しております。
で、いつから永井さんが神主を務めたか?どの永井さん?と
ビクビク、ドキドキしながら知立図書館の散策を計画しています。
| [45] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年10月12日 13時58分45秒 ) |
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ご紹介のURL
見て来ました。
思わぬところで思わぬ名字が出てきて
永見と永井は親戚だったのかな?
などと想像が行きました。
その上に三河大橋氏は尾張大橋氏と一族のようですね。
ま、南朝方が移動した時の縁なんでしょうけど。
それにしてもややこしい。
アタマがクラクラしましたよ。
笑
ワケ分からなくなりました。
あはは
| [46] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年12月09日 18時46分56秒 ) |
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永見さん(長見さん)ちょっと横道な話ですみません。
しっかり<三河武士>もしていた模様です。
三方原戦死者名簿より
>長見次平衛、長見茂兵衛、永田藤三郎、 を見つけました。
(もう少し資料文献を当たってみます、別の家もありうる)
今風のあいうえお順ですので、偶然にも枕を並べてました。
藤三郎は酒井さんに与力した惣領で(直系は姫路藩に2軒あります)
親藩、譜代の家は藤三郎の子孫の可能性が高いのです。
<5男蘇武之助(鳥居、与力)伏見落城後、跡継ぎがここから来ています>
私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。
名簿にあった、長田又蔵(家康小姓)は、3男永田又蔵で
兄と、三方原で枕を並べてます。(と伝わっています)
又蔵の娘?が榊原さんとこに嫁いで、生まれた子が永田又蔵を名乗る
は記載されている が、どこの榊原さん?は不明なのです、
女性の名は 例により記載されて無いので、手詰まりです。
| [47] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年12月10日 07時33分21秒 ) |
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箱柳永田さん
興味深い発見ですね。
ありがとうございます。
>私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。
書き間違い、というよりは
漢字は当時は細かいことを言わない時代ですから
永見=長見
で普通に使っていたか
知立の神官の永見家と区別して(たとえば本家ではない。次男三男系とか庶子系とかで)
遠慮して長見と記したか
それか全く別のナガミ家か。
>どこの榊原さん?
やっぱり安城〜碧南あたりの榊原さんでしょうか?
気になりますね。
笑
| [48] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年12月12日 17時32分35秒 ) |
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空の青海のあをさんへ
少し 情報 (榊原 永田)
>やっぱり安城〜碧南あたりの榊原さんでしょうか?
気になりますね
一向一揆の時、我が家の清蔵は酒井忠尚の与力として鴛鴨付近に居ました。
と 断言できるのは、当家の長子を名乗る家が埼玉土屋にあります。
ここの伝承には、鴛鴨生まれで、伊奈の家老で、陣屋を拝領して後、
伊奈の家が無くなり、現在に至る。 としています。詳細は略。
この家では、父親は永田清蔵、母親は三河代官西尾鈴木の娘としており、
西尾市の史誌にも清蔵の妻は西尾鈴木家、は確認できます。
忠尚と共に一揆直前は上郷在住、がほぼ決定と考えられます。
>http://shiro728.web.fc2.com/shiro/saitama/tutiya/tutiya.html
参考になるか、紹介します。他にも見たい方は
(土屋陣屋 長屋門 永田)で検索。
*すると、家康方で奮戦した、直近の上郷城に榊原氏が居るのです。
矢作川、逢妻川流域は河口の大浜湊抜きでは話せない所が
難しくしてるのね、三河の江戸期は長田には逆風ですから
重要な話も隠してしまうのね。
雑談)西尾鈴木の長姉は長田重元、末娘が永田清蔵へと、判りますが、
娘の名は不明に近いのね。(諸説ある)
重元母は酒井清秀の娘、家祖家次(神職の後、独立)は長田の次男なのね。
男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?と
単純な疑問から始まった、古い書物の乱読です。
(我が家の古文書は4男が石数さん仕官と共に信州大町へ)
清蔵は一時(碧南)川湊・鷲塚に住み、松本城の瓦を運ぶ荷物と一緒に
4男伊兵衛と武具、古文書を、、が私の想像です。
石川数正さんは、瓦運びの采配者として
瓦の産地で採用(旧知ですから、書面による採用)かな。
@嫁に出した娘可愛さに、兄弟の中から番頭として
(世話係の爺や?)一緒に行け、と解釈しています。
(大名の婚儀には守役家臣が付属する例は多い。
そんな大層な家??かな。)
@昔の話・再登場 会津藩から野辺地・斗南藩の永田二平は
後日、函館に羅卒として勤務しています。(函館市史より)
野辺地を探しても、手懸りが無かった訳です。
| [49] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年12月13日 02時46分05秒 ) |
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箱柳永田さん
土屋陣屋の画像を拝見しました。
維持費がすごいですね。
家の名が次々と出て来て空想しますが
やっぱり「地」と「血」で婚姻して、それが何重にも繰り返されて、
人は動くから
ややこしいけど、結局は、三河出身に収束しますね。
瓦、と言えば三州瓦で、高浜あたりかな?とか。
>男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?と
大橋、と言えば
やっぱり南朝方つながりかな?と思うし
津島神社絡みの神職絡みかも知れないし、
華陽院さま絡みの 川口ー大橋 関係かも知れないし
やっぱり日本ですから
遠縁と関係を近縁に改めて結び直すためだったのかな?とか
なかなか興味深いですね。
| [50] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2011年12月13日 12時17分23秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。
旗本永見氏も知立神社神主家永見氏も小野姓で同族。
恐らく、永見氏も小野姓人見氏と同じ丹波が本貫ではないだろうか?
即ち丹波国氷上郡長見邑発祥で長見を称していたが、長田を嫌い永井に改称した様に永見に改称したのが実情と考える。
>男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?
大橋貞省に宗良親王の娘桜子女王が嫁しており、津島七苗字筆頭の家柄。
津島神主家氷室氏、津島神社神楽家祖父江氏にも養子を出しており、川口氏や長田氏に養子が入るのも当時としては自然な流れと考える。
下記のURLを参照されれば、南朝系の閨閥関係が見えてくる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01059.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01115.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02102a.htm#002
| [51] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2011年12月19日 17時32分36秒 ) |
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日本の苗字七千傑様
御助言をありがとうございます。
>丹波国氷上郡長見邑発祥で長見を称していたが、長田を嫌い永井に改称した様に永見に改称したのが実情と考える。
名前(名乗り)の改名は、一生で3−4回あって、間違いがあっても
驚きませんが、名字だけは正確に書くと思っていました。
腑に落ちました。
空の青海のあを 様
>維持費がすごいですね
一揆(打ち壊し)の集団が通った時に多くの金持ちが襲われた中で、
ここだけは避けて通ったそうです。それで少ない維持費ですんでいる
と奥さまは言われてましたが、相当優しい庄屋さんを営んでいたと、、、。
これもかなりの経費がかかりますね。 箱永
| [52] | ![]() | 空の青海のあをさん からのコメント(2011年12月19日 18時26分18秒 ) |
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箱柳永田さん
>一揆(打ち壊し)の集団が通った時に多くの金持ちが襲われた中で、
>ここだけは避けて通ったそうです
人徳ですね。
そして
良い先祖を持つと子孫は助かりますね。
昔の日本の借金は「春借りて秋返す」式だったそうです。
要するに、
春、田植えの時に種籾を借りて、
秋、収穫して返す。
借りたら1粒の籾から200粒の米に増えますから
本来は借りたらトクなんですよ。うまくいけばの話ですが。
天変地異が無ければうまく返せたそうで
これが冷害とか旱魃に遭うと、返せない。
結局、返せないと小作になってしまう。
優しい庄屋でいるのには天の助けも要りますね。
ま、昔風に言えば、天の助けも「人徳」に依る、かな?
そういえば山形?酒井?の本間家がどんどん土地を手に入れたのも
優しい貸し手だったそうで
やっぱり「徳」を積まないといけませんね。
「徳」を積んでおくとどこかで助けられますね。
やっぱり栄える家というのは先祖を大切にしたり村人を大切にしたり
それだけのコトをしているんでしょうね。
| [53] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2012年01月13日 17時30分42秒 ) |
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橋目永田党の考察
橋目の山田さんが永田に変えた話しを書きました、何故山田さんが三河にやってきたか?を考えてみます。
家紋は丸に横木瓜、改姓時に変えた?我が家と同じ。
岡崎の山田さん達は白山神社と浄土真宗の信者で、加賀出国当時の状況は
富樫さん兄弟の争いに宗教勢力が巻き込まれ、本願寺派と高田派の対立だけでなく、白山神社も入り。その上、本願寺同士の争い(大小一揆)があったりして、三河の一揆以上の、親戚一族で争う状況が伺えます。
加賀の有力寺院山田光教寺(今は加賀瓢箪町に移動)の信者の中で
一部は、三河ヘ帰る一揆の援軍と一緒に移動したのでは、と考えています。
そこで、気になる存在は、安城の大岡党(白山、浄土真宗)で、
ひょっとしたら、加賀出身を名乗る多くの山田さんがいる可能性があるのです。耕作可能な土地だけでなく、バックアップ集団無しに集団移転を伴う、開拓事業が成功するとは思えません。
真宗寺院の受け入れ態勢を含めて、安城の歴博に行ってみます。
>http://kagaikkouikki.web.fc2.com/nenpyou.html
加賀一揆の年表
>http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10697203986.html
山田光教寺の紹介記事
| [54] | ![]() | 亡八の環境大学新聞 改竄室さん からのコメント(2012年01月26日 13時25分01秒 ) |
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三河平氏????聞いた事も在ません。
父@・母@や祖父A・祖母Aが何時から何処に棲み付かれたのか分りますか。
分脈系図を騙る時は充分御気を付て下さい。
94年頃から在日大使館(王国系)に通い接遇用タバコを連続詐欺した
防水元請会社々員(大和ノ某や大協ノ某ニ某)やオウム審理の弁護士などを御存知ですか。
皇室(光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成、)より親子(祭祀・資産ナド)相続
で厳密な31代目高梨氏(清和源氏河内流デスカ?)キッコーマン専務の二筋四人の孫娘を
幼児性玩具偏執狂者にし断絶させた、浅草橋久我屋渋柿庵社長S.7/慶応大卒
昭和64年正月頃に感情露に、オールド・ドラゴン。/デッド。デッド。/
スネーク・モンスター。/キル。キル。とテレビ画像で叫声を挙た、外務省職員S.7/東大卒
96年晩秋に起ったイスラエル、バチカン、英国、に浅草郵政.鴻巣住宅.
都知事公舎、国労会館に提出する有印防水保証書などの
有印公文書と有印私文書を損壊し焚書にした事件を100条委員会で追及しませんか。
| [55] | ![]() | 迷える長田さん からのコメント(2012年03月13日 19時02分13秒 ) |
パスワード |
初めまして。東京に住む長田(オサダ)と申します。
ルーツ探しをしている中でこちらのページを見つけ、皆様のやりとりをとても興味深く拝見させて頂きました。
私の父は北海道出身ですが、元々は高祖父が明治初期に山口県から北海道に開拓使として渡っており、江戸時代以前は厚狭郡船木(現在の山口県宇部市)で商人だったようです。家紋は丸に三つ柏です。地元の郷土史家によると安土桃山時代には既に商売をしていたみたいなので、長いことその土地にいたようです。
名前と家紋が良兼流の長田と同じようですが、良兼流の子孫の多くは関東にいることを考えると、西日本出身の我が家は別の流れでしょうか。あまりにも昔のこと過ぎて調べる術もないかもしれませんが、アドバイスが頂ければ幸いです。
| [56] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2012年03月14日 18時49分23秒 ) |
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迷える長田さん
良兼流の公雅は伊勢に来て、数代は伊勢在住でした、
中には、大宰府少弐、備中の次官を務める者も有りました。
ただ、公文書上は平の00ですので、100%の断定は難しいです。
>http://www7a.biglobe.ne.jp/~yossy-/kodai.htm
六番の紺瑠璃の壷解説を見てください、長田名は出ませんが、
間違いなく公雅の子孫です。この様な物が手に入ると言う事は
西国にも十分な勢力を持っていたと、想像できます。
以前、長田忠致の次男、致将(壱岐の守代行)を調べた時、
壱岐の教育委員会から、以下のような話を聞きました。
@残念ながら、致将については痕跡も見つけられません、
ご存じのように元寇の為、破壊と人的損傷が大きく、前後との
繋がりは断絶しています。 現在島で活躍している長田さん達は
元寇の後、福岡県からの移住者です。 との事でした。
壱岐の醸造会社に長田氏がいます、元市長も居ましたので、前の福岡では
かなり有力な一族と想像できます。
>西日本出身の我が家は別の流れでしょうか
江戸期に長田、三柏で通す家は、絶対とは言えませんが
可能性は高いと思います。
鹿児島には、致将の流れと島津に同伴した、二系統の長田さんが
存在してます。
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