| [7] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月03日 16時40分24秒 ) |
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Guess_whoさんへ
夜半、同じ柳の木を見てもただの柳にしか見えない人もいれば、人影の幽霊に見える人もいるようで・・・。
同じ物を見ても見る人によってその感じ方が違うようなもので、Guess_whoさんから見た場合の・・「久」を単に「九」に当てたなんてものではい・・。・・・の考え方も面白いと思います。
しかし、今風に言えば「でもそんなの関係ない! でもそんなの関係ない」
貴方のヨタものでしょうね。
| [11] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月04日 10時21分16秒 ) |
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Guess_whoさんへ
数学的見地から『九』を捉え、深遠で普遍な代数構造としての『九』を一般に知らしめようとする御努力にはフムフム感はありますが、だとすれば、自らの論を
ヨタ等という必要もないし、素直に気楽にカキコすればいいのでは?
それにしても『九』を『久』にして『9』を語り始めるのもどうかと思っていますが・・・・。
高名な大学の教授がNHK教育番組などで数学を教えていますが、非常に判りやすくいつも感心しています。真にものを教えようとする気持ちがある人物は、どうすれば相手にわかってもらえるかということに心を砕くのだと言うことが良く判ります。
わざととか、ほのめかすとかでは本意は伝わりにくくなると思いますけど・・。
最後に「まぁ、誰が書いたかわからないし、気楽に読んでみてください。」では
残念という気持ちが残ってしまいますが・・・・・・・・・・・。
| [14] | ![]() | 福岡さん からのコメント(2008年01月05日 21時39分23秒 ) |
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日本の苗字七千傑さんへ
ご教授下さい。
本邦では、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国。とありますが、
(筑州)−筑前国、筑後国
(肥州)−肥前国、肥後国
(豊州)−豊前国、豊後国
(日州、向州)−日向国
(隅州)− 大隅国
(薩州)−薩摩国
後から加えられた
(壱州)−壱岐国
(対州)−対馬 国
これらを数えると州としては『九州』あるが、『国』としては『11』になります。
四国の場合、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、近世以降は「四国」と呼ばれた。
とあり、このあたりに疑問を感じています。
よろしく。
| [15] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2008年01月05日 22時55分04秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
福岡さんへ
日本地図を見れば明白だが、対馬、壱岐を除き各国に矢筈岳(山)もしくは矢櫃岳(山、峠)などがある。
これは対馬の神域性を示すもので、その前方に位置する壱岐は対馬聖域を表示するために東触、西触、南触、北触、諸津触などの地名が異常に多く存在する。
従って壱岐、対馬は九州に属さないのである。
これら地名による太古からの統治権表示については、膨大で複雑な説明を要する。
興味がある人は桜井光堂著「古代日本の領土−領土画定と記紀解読の実証的研究」を読むことをお勧めする。
この書物は日本法制史学会誌「法制史研究」などに掲載されたものを一冊本にまとめ上げたもので、世間一般の古代史ヨタ本とは一線を画する。
| [16] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2008年01月09日 18時07分56秒 ) |
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展覧会のお知らせ(大分遅いです すみません)
岡崎市美術博物館において2月11日まで
中根家文書 刊行記念展 隼人がゆく を開催しております
午前10時から午後4時30まで(入場可能)月曜休館
13日午後2時より 講演会岡崎藩政の展開 本田氏時代を中心に
講師 国際日本文化研究センター 笠谷和比古さん
27日午後2時より 中根家文書の絵図について 城絵図を中心に
講師 姫路市立城郭研究室 工藤茂博さん
いずれも午後1時より 整理券配布予定 定員70名
会場 1F セミナールーム
興味の有る方は、お越し下さい
私は27日に行く予定です (ご希望があれば 目立つ姿で行きます)
東岡崎2番乗り場から中央総合公園行き 美術博物館下車3分
本数が少ないので、時間に余裕を持って下さい
タクシーは15分位です
| [18] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2008年03月03日 18時23分30秒 ) |
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展覧会 隼人がゆく を見に行ってきました
色々考えているうちに 遅くなりました
中根之秀さん(以前投稿されていた方)の家系について論議されていましたが
私なりにまとめてみましたので、紹介します
三河中根は平忠正の末と伝承されているが、現当主 忠之氏は14代を名乗っているので、初代は信長の末弟が家を継いだ時と考えるのが妥当である
又家光時代の幕府大目付に中根の名があるので、こちらが本流と考えれば
岡崎藩中根家は、先祖の伝承を省いた可能性はある。
中根党は古くより岡崎北部に繁栄していた一族で、岩津城(15世紀築城)の中根大膳は松平に城を渡した時(滅ぼしたと書く場合が多いが)臣下になっている。 この系統が忠正流である可能性は否定できないが、織田松平家で重用される理由には成りえない。
信長末弟が中根を継いだ理由を考えてみました
大橋広正の次男である中根忠良は、お大(家康生母)の松平方の仲人であり実質親代わりを勤める者であった(再婚して責務は無くなっているが) 大橋 織田は信長の姉を仲介とした姻族で(大橋、蜂須賀、前野等の川並衆の)分断統治にほぼ成功はしているが、いまだに大橋に気を使わなければならない時期ではなかったろうか。
織田家は、斯波氏の家来であったので本来の家紋は木瓜系の可能性が高い、津島神社の織田瓜の方が古い、大橋の同盟の証で使用したと見るのが有力ではないか
永楽銭の戦旗も三河水野(お大の生家 )の旗として紋帳に出ていますので、
こちらにも気兼ねがあったのではないか、以上2つから中根の家を重視したと
私は推量しますが、いかがでしょうか。
| [19] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2008年03月03日 23時55分05秒 ) |
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興味深いお話ですね。
>三河中根は平忠正の末と伝承されているが
そうなんですか。
清盛方でなくても
それでも複雑に絡み合って
後に南朝方となり
という感じで一筋縄で語れない結びつきがあるんですねえ。
こうやって日本人は生きて来たんですね。
自分が今こうして生きているというのは御先祖さまが岐路を頑張って生き抜いたから
我々は大切な命を頂いているんですねえ。
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