| [1] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年01月24日 11時26分12秒 ) |
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http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100367_88.html
「平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔」の続編です。
| [2] | ![]() | 黒髭さん からのコメント(2005年01月24日 23時25分05秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2005年01月24日 23時29分15秒
| [3] | ![]() | 黒髭さん からのコメント(2005年01月24日 23時28分46秒 ) |
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暇潰しのギャンブラーさん,ご配慮多謝。
ところで,頼盛の子孫の系図ってどうなっているんですか?
頼盛┬保盛┬頼清
│ └保教
├為盛
├仲盛
├知重
├保業
├光盛
└静遍
ひとまず,これでいいのかな
| [4] | ![]() | 黒髭さん からのコメント(2005年01月26日 21時12分05秒 ) |
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頼盛の系図,修正・追加します。只今,勉強中です。
頼盛┬保盛┬頼清
│ └保教
├為盛─家保
├仲盛
├知重
├光盛
├保業┬保秀
│ ├保則
│ └保定
└静遍
これでいいのかな?
| [5] | ![]() | 黒髭さん からのコメント(2005年01月29日 10時55分28秒 ) |
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紀伊那智山の平頼盛の子孫についての続報です。
>「取り敢えず尊勝院潮崎氏には平氏の子孫は入っていないことは以前のスレッドで確認できたと思います」と書きましたが,自らフェイント情報を提供。
実は尊勝院潮崎氏の嫡流の中に,泰済という人物がいます。泰済は父親の済賢が歳とってから授かった子供であったらしく,父親の死後,遺産をめぐる騒動に巻き込まれています。結局,1380年代まで生き抜き,那智執行という那智山の最高指導者になったようですが,この人物は『熊野那智大社文書』のなかで三位公とか三位房と名乗っています。尊勝院潮崎氏は,普通,寂○房と名乗るはずです,それが三位房と名乗っているわけです。三位とは鎌倉期における平保教(保業かな)の官位だったはずですね。
おや,これはと思いませんか? 興味のある人はこれを追及してみませんか?
>「問題は廊之坊塩崎(潮崎でもOK)氏ですね。この一族には頼盛末裔伝説があります。これはtakahiroさんのおっしゃる通りで『紀伊続風土記』に詳しいですね。それによると,頼盛の曾孫保秀が那智の社僧・御師の一族である廊之坊の養子になり塩崎氏を名乗ったとのことですが・・・・」について
現在,色々な情報を集めて系図を作っていますが,保秀って誰の子,誰の孫かな? 誰か知りませんか?
廊之坊は那智山史上に14世紀後半に登場し,末期に那智執行になる人物も出て来ています。これって状況は何を現わしているか?
さてさてどうなるか?
| [6] | ![]() | 黒髭さん からのコメント(2005年01月29日 11時12分25秒 ) |
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>「保秀って誰の子,誰の孫かな?」
だいぶ前のスレッドを見ていたら,「頼盛─**─保業─保秀」という系図ができそうです。でも,保業って頼盛の六男じゃなかったかな? このへんが言い伝え系図の限界かな?
| [7] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年01月30日 00時47分10秒 ) |
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黒鬚様
興味深い御説、ありがとうございます。
頼盛─保業の系譜については、『朽木文書』にて見る事ができます。
以下は、『朽木古文書・第十二軸・甲十號』における、「一三四」「一三五」「一三六」(池流平氏系圖)を纏めましたものです。
◎池大納言頼盛─池河内守保業─池宮内大輔光度─宮内大輔為度─河内大夫維度─河内大夫宗度─河内次郎顕盛─万寿丸経氏(出羽四郎兵衛尉・朽木兵庫助時綱子)
(朽木兵庫助時綱の子・万寿丸経氏が、外戚の因により、池大納言頼盛6代末裔・河内次郎顕盛の家統を引継ぐ。)
なお、『尊卑文脈脱漏』によると、
◎保業:河内守従五位下 元暦元年六月五日任河内守
◎保業の子息としては、先に挙げた宮内大輔光度の兄として、伊賀守従五位下保房の名が見えます。
◎また、宮内大輔光度の子として、先に挙げた宮内大輔為度(ここでは河内大夫為度)の兄として、近江守貞度の名が見えます。
ただ、先のスレッドにても記しましたが、承久の乱において京方につき、自害の果て相伝の領地没収の憂き目に合ったのは、平頼盛子息・保盛の子である『平保教』であります。
潮崎氏に入ったという「平保秀(あるいは保定)」は、承久の乱を逃れた末の紀伊下向と捉えるなら、この『平保教』の末裔であると思われます。
ゆえに、「保業」は「保教」の訛伝ではないかと、先のコメントにて挙げました。
この保教の子孫は、『尊卑文脈』においては記されておりません。(尊卑文脈脱漏』においても。)
(ちなみに、保教末裔を伝える『安村系図』においては、「保教(範)」の子として、若狭守保忠、成忠、保知の3名が記されています。)
「平保秀(あるいは保定)」については、もう少し資料を当たってみたいと思います。
今回紹介頂いた、「三位房泰済」については、大変興味深いですね。
ちなみに、頼盛の子息の中では、平光盛が「池三位」と称されていました。
「三位房泰済」について、何か新たな事が判りましたら、お教えいただければ嬉しく思います。
私も資料の内で関連しそうなものと出会えば、ここにおいて紹介します。
(また、他の池家に関する『朽木文書』原文についても、折をみて紹介します。)
| [8] | ![]() | 源太平太さん からのコメント(2005年04月10日 15時40分40秒 ) |
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ここで質問なのですが、頼盛流の嫡流はどこになるのですか?
その嫡流というのは伊勢平氏の嫡流だとみてもいいのでしょうか。
| [9] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月18日 16時18分51秒 ) |
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源太平太様
返信遅くなりました。
頼盛流の嫡流に関してですが、頼盛子息のうち、長男は保盛であり、嫡男は光盛であると思いますので、素直にみれば、頼盛嫡流家は光盛家とみてもよいのではないでしょうか。
ただ、光盛家は光盛の代にて断絶、あるいは女系を通して久我源氏の流れへと合流しています。
この周囲の事柄に関しては、『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)に非常に興味深い言説が展開されています。
同著においては、『「皇統」という幹を中心として、その周りを皇族や、源氏をはじめとする皇親賜姓氏族が取り囲んだところの、広い意味での「氏」的な存在を、仮に「王氏」という言葉でよぶ』こととしたい、として、「源氏と日本国王」に関しての言説が展開されています。
つまり、○○源氏、○○平氏をすべて「皇統」を幹としたその派生の「王氏」と捉え、その「王氏」を統率する氏の長者を「源氏長者」としてとらえ、ある意味、「王氏」の嫡流として捉えられています。
則ち、この「源氏長者」/「王氏の嫡流」は、時代により幾多の変遷を余儀無くされます。
詳しくは同著を参照願いたいのですが、その中に、平頼盛(その子息光盛)の池大納言領を相続した久我源氏に関して、次のような一文があります。
『源氏長者の権能とされるもののほとんどすべては、「平氏」をも含む「広義の王氏」全体の権能であった。とするならば、久我家がそうした源氏長者の地位を、「宣旨」によって公認されることで、公家社会に生き残った「平氏」所領の正統な継承者として認められたということも、十分に考えられる。』
同著には、「源氏長者一覧」として弘仁五年(814)から明治四年(1871)までの八十七代にわたる歴代源氏長者が挙げられています。
最後の源氏長者は「久我建通」であり、彼は清和源氏・徳川慶喜から源氏長者の地位を継承しています。
武家源氏(清和源氏)では、徳川家が十四代、足利家が六代、その地位に就いていますが、それ意外の六十七代はすべて公家系の源氏が就いています。
また、歴代源氏長者の元には、「宇宙といふ御印」および「応仁天皇の御物、按摩面の矢の羽八枚」が継承されてきたとされています。
そしてこの継承の品は、現在は、最後の源氏長者「久我建通」から預けられた石清水八幡宮に所蔵されていることが近年の調査で発見されたとも記されています。
源太平太さんがどのような観点から源氏の嫡流、および平氏の嫡流に関して調べておられるのかは判りませんが、上記紹介しました『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)は非常にお薦めです。
| [10] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月18日 16時44分58秒 ) |
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>その嫡流というのは伊勢平氏の嫡流だとみてもいいのでしょうか。
もう一つの御質問に関してですが、「嫡流」の定義が一つではないと思いますので、私もよくは判りません。
○忠盛─清盛(忠盛長男)─重盛(清盛長男)─維盛(重盛長男)─六代
○忠盛─清盛─重盛─清経(重盛正妻子)
○忠盛─清盛─宗盛(清盛正妻子)─清宗
○忠盛─家盛(忠盛正妻子)
○忠盛─頼盛(忠盛正妻子)─保盛(頼盛長男)─頼清─保清
○忠盛─頼盛─光盛(頼盛正妻子)
| [11] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月18日 16時57分27秒 ) |
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追記
なお、佐々木紀一氏の論文「小松の公達の最期」においては、重盛家の嫡男は都落ち前には「維盛」から「資盛」へ移っていたのではないかとの論考が展開されています。
追記2
平熱の皆様へ
諸事情の為、以前のようなペースでの返信投稿はできないかもしれませんが、今後とも宜しくお願いします。
| [12] | ![]() | 源太平太さん からのコメント(2005年04月20日 16時37分42秒 ) |
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お返事ありがとうございました。
ということは、頼盛流の男系での子孫で嫡流と言う事になれば
保盛の子孫となるのですか?
| [13] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月26日 13時11分57秒 ) |
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先の『源氏と日本国王』(岡野友彦氏著・講談社現代新書刊行)からの引続いての引用ですが、
『…承久三年(1221)、池大納言家領の一つである播磨国在田荘を「安堵」された平保業(頼盛の子)の子孫は、その後、鎌倉に下向して、幕府滅亡に至るまで歴代の将軍家に勤仕し続けている。また池大納言家領の内、半数近くを父頼盛から伝領した平光盛も、建保7年(1219)の源実朝右大臣任官に際して、坊門忠信や西園寺実氏らとともに鎌倉に下向し、実朝の鶴岡八幡参詣に付き従っている。
ところが光盛は、この参詣の最中(帰路)、雪振る鶴岡八幡宮の大石段で、主君実朝が甥の公暁に斬り殺される現場に遭遇してしまう。ほうほうのていで京都に逃げ帰った光盛は「あんな恐ろしいところに二度と行けるものか」とばかりに二度と鎌倉へと足を向けることはなくなり、その子たちも関東に伺候することなく出家するなどして、その「家」は事実上断絶する。そして、それに対応するかのように池大納言家領は、久我家へと流出していくことになるのである…。』
先のコメントにて記しましたが、頼盛家の嫡流は光盛の流れであると思われ、そしてその光盛家は上記のように、半ば意図的にその「家」を断絶してしまっています。
生残った「王氏・平家」の嫡を継ぐ光盛家は、「王氏」の嫡流である「源氏長者」の宣旨を受けた久我家へ吸収されたとみるのが最も妥当ではないでしょうか。
私は[9]においても、「光盛家の断絶」について記していますが、しかしそれは上記のような意味、中央(京都・鎌倉)においての光盛家という意味においてであり、薩摩八木氏に見られるように、地方に下向したという光盛末裔(男系)の伝承は存在します。
またそれと同じ意で、地方に下向した保盛末裔(男系)の伝承を伝える家系も、和泉国大鳥郡の上神・小谷氏、伊賀国山田郡の安村氏等、存在します。
(京都においては、仁和寺宮諸大夫家として近世まで存続した尾崎・若林家が保盛末裔の伝承を伝えています。)
それらのどの家が頼盛家の嫡流を伝えているのか、今の私の手持ちの資料では判明し得ません。
頼盛家の嫡流の証の一つになり得る平家宝刀「抜丸」については、以下に二点の参考資料を上げることができます。
○頼盛子息仲盛の末裔を伝える「平氏下村家系図」からの抜粋
『平家相傳守刀並法華経所持也 文治四年戌申賜日向國臼杵郡之内財部村』
○「朽木文書所収・平宗度譲状」からの抜粋
『 「池殿」(包紙)
たいたい(代々)このいへ(家)につた(伝)へ給ハるうちかたな(打刀)二郎あきもり(顕盛)にゑいたい(永代)をかき(限)りて、ゆつ(譲)りわた(渡)すところなり、…(後略)
かりやく(嘉暦)三ねん(年)六月十三日
たいらむねのり(平宗度)
(花押) 』
*頼盛-保業-光度-為度-維度-宗度-顕盛-(朽木)経氏
2点の資料とも、「平家相傳守刀」、「たいたい(代々)このいへ(家)につた(伝)へ給ハるうちかたな(打刀)」とのみで、残念ながら「抜丸」との固有名は出てきませんが、「抜丸」の可能性もないことはないとのことで、ここに上げておきます。
(なお、「朽木文書」においては、顕盛から経氏への『平顕盛譲状』にも、「ちうたい(重代)の大刀うち刀の事」ととして、上記「刀」は再度登場します。)
頼盛家の嫡流はどの家が継いだのか。
光盛家の意図的な断絶により、より広義の王氏「源氏長者」久我家へ吸収されたのか、あるいは頼盛家の中での何らかの合意がなされ、地方への下向により嫡流血脈の存続は図られたのか、史的真実はどこにあるのでしょう。
また源太平太さんのお考えもお聞かせ下さい。
| [14] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月28日 15時03分38秒 ) |
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追記
[13]にて平仲盛末裔下村氏について少し言及しましたが、もう少し補足します。
◎平頼盛の三男仲盛の子、若狭守盛為(或いは盛重)は文治四年に日向国臼杵郡の内財部村を賜り、平家相傳守刀並びに法華経を所持して下向す。
○若狭守盛為(或いは盛重)の長男、三河守盛順、財部と号す。
○若狭守盛為(或いは盛重)の二男、治部少輔盛朝、池上と号す。
○若狭守盛為(或いは盛重)の三男、伊代介重兼、下村と号す。
◇下村伊代介重兼の長男、孫三郎重氏、下村家を継ぎ法華経を相伝す。
◇下村伊代介重兼の二男、左馬頭重治、平家相傳守刀を相伝し木下を号す。
また同系統の系図を伝える平為盛末裔「平氏鬼丸系図」によると、
◆財部三河守盛順の二男、河内守頼実、森山と号す。
以上にみるように、平仲盛の末裔は鎌倉初期、日向の地において数流の苗字を輩出しています。また財部三河守盛順の三代孫・頼明の娘は、日向の領主伊東家の当主である伊東佑安の室となっており、伊東家の史書「日向記」においても、財部氏が「倍木」の地を知行している記録が残っています。この「倍木」とは、現在の「日置」であり、仲盛末裔が下向したという「財部(現高鍋)」のすぐ隣接地に当たっています。なお、この伊東氏は平家全盛期、小松家の家臣であった伊東家の末裔に当たります。
また、後(十六世紀末)に上記下村家の一流は、大隅国にて平維盛の子、六代御前の末裔を伝える根占領主・禰寝重長の後見役に就き、また平光盛末裔を伝える薩摩八木氏はこの時期、敵対関係に合った島津十六代大守義久と禰寝重長の間の折衷役の役目を果たし、両者を和睦せしめています。
和睦後、禰寝氏は義久臣となり、島津氏の薩摩大隅平定に貢献しますが、同時期、平為盛末裔を伝える鬼丸氏もまた義久臣であり、先の禰寝重長没後、禰寝一族は重長を祭神として祖霊神を祀る神社を建立しますが、この神社は鬼丸神社と命名されています。(禰寝氏と鬼丸氏との関係は、同じ平氏末裔であるという関連のみ意外は現在のところ判っていません。)
十六世紀末というと、平家一族の壇之浦の滅亡後、およそ四百年後となりますが、薩摩・島津氏の元でも、同じ平孫を伝える家同士、意識の上では親近性を有し続けていたのかと、興味は尽きません。
また上記、木下左馬頭重治の末裔に相伝された「平家相傳守刀」は、木下家において、昭和20年までは相伝継承され続けてきたとのこと、しかしながら日本の敗戦により占領軍から武器供出令が発せられ、米軍の手に渡るよりはということで、自家で廃棄処分になされたとのこと、また現在でも木下家においては、「木下家氏神講」を組織され、『此の会は祖先(桓武天皇の後裔平家系図に拠る)を同ふし血の通って居る同族または、縁故関係者が相椅り相助けてお互いに協力し、良く祖先を祭ると共に…<後略>』と始まる9項目に渡る規約を定められ、互助会を運営されているとのこと、HN布袋竹様に提供頂いた資料にて、頼盛末裔の現在の一端を知ることができました。
| [15] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月28日 16時24分09秒 ) |
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追記2
◎平保教に関する資料
石清水文書之四・石清水皇年記下 承久三年七月二十八日・自害事より
『内蔵頭平保範逃隠善法寺故検校房、宮寺守護武士息津四郎、京使内記左近等搦取之間、伏釼畢、為追討同類各乗馬登山、彼房主卿寺主於房武士等足ヲハサム、付縄将去武士之許了、』
承久の乱に京方として破れ石清水八幡宮に隠遁中を発見され自害し果てた平保教に関する資料ですが、ここでは平保教は「内蔵頭平保範」として記述されています。
尊卑分脈においては、平保盛の二男として「保教 左兵佐・内蔵頭・木工頭 承久乱於八幡自害了」と記されています。
「教」「範」ともともに「ノリ」と訓じるのだと思われますが、平保教末裔を伝える「安村系図」においては、石清水文書と同記述である「保範 内蔵頭」として記されています。
ただ「安村系図」においては、保教は頼盛の子の位置に記されており、これは訛伝であろうと思われます。
*頼盛末裔に関する資料、引続き、折をみてではありますが、当スレッドにて紹介していきます。
| [16] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月28日 17時07分29秒 ) |
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◎平保教に関する資料2
藤原定家著「明月記」・正治元年四月十九日より
『…年来所養育小男(保教)、保盛朝臣子□□□庶子自鎌倉被召出。此事親能卿触申入道(俊成)殿。事甚恐惶。今朝相具冠者行向謝披、大略優免之由語之。件男(保教)本自元服、極不可有事也。自今以後猶可招殃禍事歟。…』
上記に見えるように、平保盛の子(庶子であったようです)、保教は幼少の頃、歌人として著名な藤原定家の猶子に入っていました。正治元年、則ち1199年に至っても、平家末裔への目は厳しかったのか、保教に対して「鎌倉被召出」との命が定家の元へ発せられ、定家をして「事甚恐惶…、自今以後猶可招殃禍事歟…」と不安に陥れています。
『明月記』からはその後、保教は更に藤原保家(藤原基家と平頼盛娘の子)の元へと猶子に入った事が判り、また承久の乱の後、自害した保教の父・保盛が愛息を失った悲しみを定家に歎いている記述も見られます。
| [17] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月29日 01時26分17秒 ) |
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スレッド「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」から[62]菊千代様の御投稿、平頼盛にも関連してきますので、勝手ながらこちらにも資料として転載させて頂きます。
『原田家譜「霊光史略」によると原田種直の室は重盛の養女(右馬助平家盛の娘)となっています。この家盛という人物は清盛の弟で、早世したとか源平合戦を逃れたとかちょっと伝説的な人物ではあります。頼朝が池の禅尼に助命されたのも、我が子の家盛によく似ていたからだとか。<菊千代様御投稿 >』
原田種直の室は平頼盛の娘であるとの記事は以前より諸所にて散見しておりましたが、実はこの女性が、頼盛の同母兄家盛の娘であり、重盛の養女となっていたとは、菊千代様御紹介の原田家譜「霊光史略」にて初めて知りました。
一般に伝わる原田種直の室は平頼盛の娘であるとは、「家盛の娘」が「頼盛の娘」と訛伝したのか、或いは「重盛の養女」が「頼盛の養女」と訛伝したのか、或いは実際に「重盛の養女」から「頼盛の養女」になり、種直の元へ嫁いだのか。
重盛の養女が原田種直の元へ嫁いだのは永歴元年(1160)二月、家盛の生年は1120年代前半、死去が久安五年(1149)三月、頼盛の生年は天承元年(1131)。両者の生年より見れば、「霊光史略」『重盛の養女、実は右馬助平家盛の娘』は史実に則しているように感じられます。
| [18] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年04月29日 01時59分50秒 ) |
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同じく、スレッド「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」より[35] 立梶の葉様からの御投稿もこちらに参照させて頂きます。
『高棟王流の公家平家諸流は、たしかに揚羽蝶や丸に揚羽蝶の家紋を現在も使用しています。西洞院家の庶流になる当家では、理由はよくわかりませんが、立梶の葉というのでしょうか、その紋も揚羽蝶と併用しております。 <立梶の葉様御投稿>』
当スレッド[14]において紹介致しました、平家末裔を伝える家々もまた、嫡庶により区分はありますが、財部家、下村家、木下家、禰寝・小松家、鬼丸家すべてが梶関連の紋を使用しています。
立梶の葉様の御投稿と合わせて鑑みますと、揚羽蝶紋と同じく梶紋もまた、平氏に共通する紋と捉えてもよいのかと考えられてきます。
メモのようになりましたが、ここに投稿しておきます。
| [19] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年04月29日 10時07分14秒 ) |
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takahiroさま
お疲れさまでございました。
連休始めということでごゆっくりお休みになってください。
| [20] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年05月03日 01時33分14秒 ) |
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ギャンブラー様、いつもながら温かいお言葉ありがとうございます。
私が初めて『平家物語を熱く語る』へ頼盛子息「平為盛」について投稿しましたのが、2002年の初秋の頃でしたので、もう既に2年半以上前のことになるのですね。
今回はここで、再度、「平為盛」についての関連資料を投稿します。
●「為盛塚」(小矢部市教育委員会による説明碑)
為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎をひきいて源氏に逆襲したが、義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので、墓は地、水、火、風、空を表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の建設である。市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
昭和46年12月 小矢部市教育委員会
上記は、小矢部市教育委員会による「為盛塚」の説明碑です。
おそらく典拠は、下記『源平盛衰記・巻第二十九』からであろうと思われます。
●『源平盛衰記』巻第二十九より
去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十餘騎を具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、餘すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其體等倫に異也。二百餘騎を率して、北の山の上より落し合て押圍み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を盡て討れにけり。知度朝臣は難遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。
上記に拠りますと、平為盛は寿永二年五月十二日に砺波山・倶利伽羅峠の合戦にて討死していることになります。しかしながらその後、様々な史料を探索していくと、倶利伽羅峠の合戦の以後における平為盛の生存を証す「4点の史料」に出会うこととなりました。
以下、その4点の史料を年代順に紹介していきます。
まずは、慈円著『愚管抄』における寿永二年七月二十四日の平家都落ちに関する記述からです。
●『愚管抄』寿永二年七月二十四日より
暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。
上記によりますと、平為盛は寿永二年七月二十四日の平家都落ち時においても生存しており、山科にて京の防衛に当たっている頼盛の使者として、先に都を落ち行く宗盛一行へと追い付き、一門の今後についての言葉を得ようと使者の役目に努めています。
後に、『愚管抄』の著者・慈円の元へは、平頼盛子息、光盛が師事しており、慈円はこの光盛から頼盛一族に関する情報を得ていた可能性が高く、慈円による『愚管抄』に描かれる頼盛一族に関する情報の信憑性はかなり高いものであると考えられます。
次に紹介しますのは、史料といいますより、平家物語の二つの異本からのものです。
●『平家物語・長門本』より
頼盛池殿ニ火懸テ。子息保盛。為盛。仲盛。光盛等引具シテ打出ラル。
●『平家物語・延慶本』より
八月六日平家解官事…<中略>…右兵衛佐為盛…<後略>
上記に見ますように、『平家物語・長門本』においては平家一門都落ちの時点においても平為盛は頼盛一族と共に行動しており、また、『平家物語・延慶本』においては、都落ちの翌月における平家一門解官事の項に「右兵衛佐為盛」の名を連ねています。
次に紹介します史料は、大きく年代が飛びますが、『吾妻鏡』の建保六年・六月二十一日、二十七日、七月五日の項目です。
建保六年とは、1218年であり、鶴岡八幡参詣時に源実朝が甥の公暁により暗殺された建保七年の前年に当たります。建保七年の実朝暗殺の場には、平光盛が居合わせますが、それは実朝の右大臣任官の拝賀に光盛が鎌倉へ赴いていたからでした。その1年前、建保六年には平為盛が、源実朝の右大将任官の拝賀に鎌倉へ赴いていたことが、『吾妻鏡』の建保六年・六月二十一日、二十七日、七月五日の項目から判ります。
●『吾妻鏡』建保六年より
六月二十一日
午の刻、忠綱朝臣件の調度等を御所に運ばしむ。御車二両(檳椰・半蔀)・九錫の彫弓・御装束・御随臣の装束・移鞍等なり。これ皆仙洞より調え下さると。仲章朝臣奉行としてこれを請け取る。小時将軍家忠綱朝臣を簾中に召し御対面有り。慇懃の朝恩殊に賀し申さると。数刻の後退出す。晩に及び池の前の兵衛の佐為盛朝臣・右馬権の頭頼茂朝臣等また下着す。凡そこの御拝賀の事に依って、参向の人すでに以て数輩、皆御家人等に仰せ毎日経営す。贈物花美を尽くす。これ併しながら庶民の費えに非ざると云うこと莫し。
六月二十七日
将軍家大将に任じ御うの間、御拝賀の為鶴岡宮に参り給う。早旦行村の奉りとして、御拝賀有るべきの由を下向の雲客等に触れ申す。申の斜めにその儀有り。先ず南面に出御す。文章博士仲章朝臣(束帯)御簾を上ぐ。陰陽少允親職(束帯)車寄の間に参り反閇に候す。陰陽権の助忠尚(束帯)廊根の妻戸に入り御祓いを勤む。伊豫少将實雅御車を寄す。南門を出御し西行す。
行列
<中略>
殿上人(一行)
新蔵人時廣 一條大夫頼氏 花山院侍従能氏 一條少将能継
伊豫少将實雅 前の因幡の守師憲 右馬権の頭頼茂朝臣
前の左兵衛の佐為盛朝臣 文章博士仲章朝臣 一條中将信能朝臣
<後略>
七月五日
下向の雲客前の兵衛の佐為盛・花山院侍従能氏等帰洛す。
以上、平為盛に関する箇所のみ抜粋して紹介しておりますが、ここにおいて平為盛は、「池の前の兵衛の佐為盛朝臣」、「殿上人・前の左兵衛の佐為盛朝臣」、「雲客・前の兵衛の佐為盛」として記述されています。
『尊卑分脈』、『尊卑分脈脱漏』より判明しています平為盛の官位官職は、「従四位下 紀伊守 加賀守 (左)兵衛佐」ですので、『吾妻鏡』における為盛に関する肩書きはすべて正確に著されていると思われます。建保七年の平光盛による源実朝・右大臣任官拝賀の為の鎌倉下向は比較的よく知られていますが、その前年、建保六年に平為盛が源実朝・右大将任官拝賀の為に鎌倉下向を為していたことは、『吾妻鏡』に記載されていながら、あまり知られていないようにも思えます。
以上、計5点の平為盛に関する史料を紹介してきましたが、倶利伽羅峠の合戦における討死を描く『源平盛衰記』と、平家一門都落ち後における生存を描く『愚管抄』、『平家物語・長門本』、『平家物語・延慶本』、『吾妻鏡』、どちらが史的真実を伝えているのでしょうか。2年ほど前、「為盛塚」に関してその説明板を建てられた小矢部市教育委員会へ問合せの連絡を取りましたが、何か行違いがあったのか未だ返信をもらえていません。(同じく平家関係で他の市町村、あるいは教育委員会へ問合せを行った際はどこも迅速・丁寧に返信をいただいているのですが。)
平為盛に関し、この場において引続き考察を続けてまいります。
| [21] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年05月03日 23時48分45秒 ) |
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【訂正】
『…上記は、小矢部市教育委員会による「為盛塚」の説明碑です。おそらく典拠は、下記「源平盛衰記・巻第二十九」からであろうと思われます。』
として、先項においては「為盛塚」と「源平盛衰記」との関連を示しましたが、しかし、熟考してみるなら、「為盛塚」の建立時期は鎌倉期とされており、一方「源平盛衰記」の成立時期は鎌倉後期以降(〜南北朝期)とされている事から、決して、「源平盛衰記」を典拠に「為盛塚」が建立されたわけではなく、両者はほぼ同時期に建立・成立されたと見る方が適当であると思われます。
即ち、鎌倉期には既に、砺波山にて平為盛は平知度とともに戦死したとの伝承が存在していたと思われます。
ではなぜ、後に、「愚管抄」「吾妻鏡」に死したはずの為盛の名が登場するのか、現在私の手元の諸資料ではその矛盾は解明し得ませんが、ただ、考え得ることは、砺波山にて平知度とともに戦死した為盛に近しい者(為盛子息、或いは頼盛子息)が実際に存在したのではないかということです。
参考としてですが、為盛末裔を伝える鬼丸系図においては、為盛の子は早世しており、その子(為盛の孫)が文治五年春に播磨国を経、日向国臼杵郡財部(仲盛末裔の下向先)へ、家人十九人を率い下向したと伝えられています。
現在再び、「為盛塚」に関する資料を小矢部市役所様へ請求していますので、また何か判明すればここに投稿します。
なお、系図纂要「平朝臣姓」によると、平為盛<討死倶利伽羅>、平知度<死于倶利伽羅>とともに、知度の子として「重義」の名が記載され、<与父同死>として、知度には子息「重義」が居り、父子ともに倶利伽羅において戦死している旨が記載されています。他の資料では見えない所見ですので、ここに補記しておきます。
| [22] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年05月04日 00時35分47秒 ) |
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再びの訂正ですが、
先項にて、「系図纂要」からの引用として、平知度の子には重義が居り、父子共に倶利伽羅において戦死していると紹介しましたが、再度「源平盛衰記」巻二十九を精読しますと、平知度の敵方、源義仲臣・岡田冠者親義の係累に太郎重義が登場しており、重義とは平知度の子ではなく、岡田親義の係累(子?)であることが判ります。重義が平知度の子であるとは、系図纂要作成者の「源平盛衰記」の誤読であると思われます。
『知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。』
| [23] | ![]() | みつる さん からのコメント(2005年11月04日 22時12分34秒 ) |
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我が家の先祖は、真柄十郎と父から聞き、さらにその先を調べると頼盛の子、保盛の17代目と書かれていたHPをみつけてこのサイトに入ったのですが、どこにもその様な内容は無く、単なる伝承かと・・。もしご存知の方がいたら教えて下さい。
| [24] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2005年11月04日 23時39分58秒 ) |
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| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
みつるさん へ
越前国今立郡真柄邑発祥の真柄氏は八木氏の支流である。
八木氏は古代の八玉彦命後裔の八木造、八木宿禰を祖とするものと思われるが、
中世以降は源氏、平氏、藤原氏、菅原氏、日下部氏、滋野氏などを称する。
但馬発祥の八木氏は日下部氏と桓武平氏頼盛流の二流があるが本来は同族と考えられる。
系図纂要の日下部氏系図に拠れば、貞政を真柄氏の祖としている。
真柄十郎が日下部氏か頼盛流かは断定出来ないが、朝倉家臣という点からは日下部氏が妥当ではないかと思われる。
なお頼盛流八木氏の子孫は薩摩に下向している。
| [25] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年11月04日 23時40分30秒 ) |
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真柄姓とは旧越前国を発祥とされるのでしょうか、旧越前国は頼盛と大変由縁深い地であり、武生には頼盛の長男である保盛が開いたという城福寺が存在しますが、確か「真柄」とは武生市内の地名でしたでしょうか。なお城福寺の住職は保盛の後裔が代々継いでいると聞き、現住職は24代目であり「池」の姓を名乗られていると聞きます。「真柄」姓もその由縁の御姓なのでしょうか。今、手持ちの資料ではこのあたりまでしか書けませんが、また何か判りましたら投稿します。
| [26] | ![]() | takahiroさん からのコメント(2005年11月05日 07時52分06秒 ) |
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真柄姓とは、日下部氏流八木氏あるいは平氏頼盛流八木氏の系でしたか。平氏頼盛流八木氏であるなら、頼盛の嫡男光盛の後裔となりますね。光盛は京都では男系子孫を残しませんでした。子(男系)は皆地方へ下向させていたのかもしれませんね。
| [27] | ![]() | みつる さん からのコメント(2005年11月16日 18時23分44秒 ) |
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ちなみに、家紋は梶の葉です。
| [28] | ![]() | やわらさん からのコメント(2008年11月17日 10時31分42秒 ) |
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頼盛の子孫では池氏が御家人となりましたが、池顕盛の代に朽木家の者を猶子にしているみたいですね
朽木経氏は養子ではないようですが、顕盛には男子はいなく、男系の子孫は残っていないのでしょうか?
また池氏の分家などは存在していたのでしょうか?
| [29] | ![]() | super0さん からのコメント(2008年11月18日 12時50分02秒 ) |
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【桓武平氏頼盛流】
忠盛の五男、頼盛は清盛とは異母兄弟であり、平家西奔に従わずに後白河法皇を頼ることになる。
その後、池禅尼に恩義のある源頼朝に招かれて鎌倉へ赴き、厚遇を受けて官職所領を回復する。
江戸時代の国学者本居宣長は、池大納言頼盛六代の後胤、本居縣判官建郷の裔と称する。
┌心円
│
┌─保盛─┼【上神】頼清(政員)──保清……(2代略)……政有……(13代略)……匠鑁【小谷氏】
│ │
│ ├保教─┐
│ │ ↓
│ └光惟 ※
│
├─為盛─┬俊盛
│ │
│ └家保──家衡【鬼丸氏】
│
├─仲盛─┬貞成──貞親
│ │
│ └盛重─┬盛順【財部氏】
│ │
│ └重兼【下村氏】
│
【池】頼盛─┼─知重……【池氏】【松尾氏】
│
│【山名】重国──重村──盛重─┐
│ ↓
│
├─【八木】光盛───┬盛定════盛重──盛武……〔薩摩八木氏〕
│ │
│ ├宣盛【八木氏】
│ ※ │
【藤原】通基─│─基家 ↓ └景家【平川氏】 ┌保光
│ ║ │
│ ╟──保家════保教─┬保忠──範正─┼盛真……【安村氏】
│ ║ │ │
├─女子 ┌保房──保長 ├成忠 └頼家
│ │ │
├─隆弁 │ ┌貞度 └保知
│ │ │
└─保業─┼光度─┴為度──維度──宗度──顕盛════経氏【池氏】
│
└保定──保秀【潮崎氏】 ↑
│
(宇多源氏)【朽木】義綱──時経──時綱──経氏──┘
コピーさせて頂いたものですがこの中にどれほど信用するに足りる家系図があるのかは不明です。池顕盛のみ子孫の中では確実なようですが。
| [30] | ![]() | 森本杜櫻さん からのコメント(2008年12月22日 15時20分48秒 ) |
| URL=http://www.miyazaki-web.net/ |
本人によりコメントは削除されました。 2008年12月22日 15時28分22秒
| [31] | ![]() | 森本杜櫻さん からのコメント(2008年12月22日 15時48分35秒 ) |
パスワード |
| URL=http://www.miyazaki-web.net/ |
森本と申します。初めまして。検索してたらこちらのサイトに来ました。
子供の頃、母から(旧姓 鶴田)都城市図書館館長を務めた鶴田本家の鶴田利業(としなり)氏が、自分の家系に興味を持って調べたというもののコピーを貰い、以来ずっと興味を持っておりました。
こちらの内容と少々関わりがあるようなので投稿させて頂きます。
少々読みにくいので誤字が出るかもしれませんが、引用(最近の者は男女として)致します。
系図が壊れたのでサイド投稿し直します。
鶴田姓の出自について
桓武天皇(第50代)−葛原親王−高望王(賜平姓)┬国香
├良将
├良兼−将門
└良文(村岡姓)→@
@┬忠道
└忠頼┬忠恒
└将恒┬武基┬武家
└武恒└武綱(秩父姓)┬重綱
└基家(河崎姓)−重家┬重実
├重国(相模国渋谷庄司)−→A
├金王丸
└家季
A┬光重┬重直(渋谷太郎)
├高重├実重(早川次郎)・・・・・・・後に東郷姓
├時国├重保(吉岡三郎)・・・・・・・後に祁答院姓
├重助├重諸(一説には重茂、大谷四郎)後に鶴田姓−−重行−頼重−重成
├盛重├定心(曽司五郎)・・・・・・・後に入来院姓
└近重└重貞(落合六郎)・・・・・・・後に高城姓
○高望王の子、良文は武蔵国大野郡村岡に住み村岡と名乗り、のち秩父郡に住み、武基は秩父別当と称した。武綱・基家はそれぞれ、前九年の役、後三年の役に源氏に従い戦功があり、武蔵国豊島郡谷盛庄、相模国渋谷庄を与えられ、重家の頃渋谷庄に移ったといわれる。
○渋谷重国は、源頼朝の挙兵以来、頼朝を助けて戦功があり、光重の代には承久の乱(1,221年)や三浦、千葉氏の誅伐(1,247年)に戦功があって千葉氏の遺領の東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城(たき)の地頭職が与えられた。
○応永八年(1,401年)島津家は総州家(伊久)と奥州家(元久)との間に反目が続いて不和であったが、鶴田氏は奥州家につき、他の渋谷四族は総州家についた。数度の合戦の結果、鶴田氏(重成)は破れて菱刈に遁れる。
○元久の用紙久照(伊久の第三子)は櫛間(現:串間と推測 投稿者注)を経て志布志に陣を構えたが敗戦の後、三股(北殿城)に逃れたが、その末路は明らかでない。
(都城島津家『諸家系譜』十五)
◎貞信(肥前守)−貞明(飛騨守){文禄二年没(1,593年)朝鮮出陣没}→B
B−貞隆{物奉行役、家禄百二十六石}−貞重−知貞┬典貞・・・早鈴町鶴田家
└貞経(貞長)−貞宣−貞清{寛延元年生(1,748年)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(私注:↓貞清が何処に繋がっているのかコピーでは解らず) 池田嘉右衛門長女
貞清−−−−−−−−−−┐ タイ(明治 3年)┐
(納右衛門・文化12年生)├┬休右衛門(天保14年)┐ ├→
ノブ−−−−−−−−−−┘| ├┬虎蔵(明治元年)┘
(高橋軍兵衛次女) | トヤ(寛永 2年)┘├福次(明治九年)
| (鎌松右衛門長女)├ユミ(明治19年)
├納助(嘉永 5年) └野右衛門(明治22年)
└小一郎(嘉永7年・山内)
→−源二(明治24年)−利業(調べた人)・男・男(安西)・男・女・女(中田)・女(山下)
├マツ−┐
| ├男
|持田氏┘
├虎吉−−−−┐
|(明治30年)├−男・女(秋沢)・女(酒見)・女(藤崎)男・女(山下)・男・男・男・男・女(田中)
|ヤナキ−−−┘
├貞清−−−−┐
|(明治33年)├女・女(竹之内)・女(丸目)・女┐・女(末長)・男┬男・女(上坂)
|スマ−−−−┘ 森本┴私 女┘
| テル−−−┘
├源一−−−−┐
|(明治37年)├男・男・男・女(山下)・女(岩元)・女(押川)
|キミエ−−−┘
├貞行−−−−┐
|(明治42年)├男・男・男・男・男(高畑)
|チエ−−−−┘
└貞則−−−−┐
(明治42年)├男・女(鶴)・男・女(神坂)
ミユ−−−−┘
私個人的に裏付けを行ってはおりません。
よって歴史的事実と人物との誤記や勘違いがあれば申し訳ありません。
以上サイトの隅を汚して申し訳ありません。
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