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 投稿番号:100714 投稿日:2004年11月24日 18時59分31秒  パスワード
 お名前:夜代
家紋「菊水」について。橘姓楠木氏則岡家
キーワード:楠木正成
コメントの種類 :質問  パスワード

我が家の家紋は「菊水」と言うそうなのですが、
鎌倉時代後期に、楠木正成が貰い受けた家紋なんだそうです。
祖母に聞いてみると、我が家は楠木正成の子孫の直系に位置するとか‥。
・・・信じられません;
誰かこの家紋について詳しく知っていらっしゃる方は情報を教えてください。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月25日 06時17分46秒 ) パスワード

菊水紋はイコール楠木正成というイメージです。

我が家も当時菊水紋を使ってたと聞いてます。
(わたしも嘘だろ〜と思ってましたが他からも聞いてへえ〜っと改めて日本の紋ってややこしいと思いました)


楠木正成の場合は後醍醐天皇さんが盃に菊を浮かべて下賜して以降使用したと言われてますから
楠木氏もその前は橘紋を使ってたかも知れないですし他の紋だったかも。

楠木正成にあやかって他の家でも菊水紋を使用したでしょうし。


他には楠木正成の一統の橘さんや楠さん和田さんその他橘姓系の家が使用してますね。
源氏系や穂積系の鈴木さんも使用だそうです。

源氏系でも南北朝の時、新田側で楠木氏と懇意にして養子など頂いてたら当然菊水紋使用ということもありますでしょう。


家紋は錯綜するから何ともいえませんが
ホンヤさんにあたるお家が系図をお持ちでしょうから早めにコピーなさいますように。
[3]太郎さんからのコメント(2004年11月26日 00時44分07秒 ) パスワード

私の知り合いで、菊水さんという人がいます。

家紋名がそのまま苗字になっているような苗字ですね。
こういうのって、珍しいのでしょうか?
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月26日 02時10分55秒 ) パスワード

菊水なんて変わってますね。
初めてです。

でも蚊取り線香のブランドに菊水というのがあったような?



昔、徴兵制度があった時、新兵さんは殴られるのが当たり前で
足利出身という地名でさえ殴られる理由だったと聞いたことがあります。逆賊扱い
でしたら新田さんとか楠木さん菊水さんなんて殴られるところ免除だったかもですね。忠臣扱い


やっぱり名字とか家紋とかいろいろ奥が深いですね。
[5]布袋竹さんからのコメント(2004年11月26日 10時46分44秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

新田といえば、鹿児島・宮崎の県境近くに、新田山という場所があります。
ニッタでなく、シンデンと呼ぶようですが、ここは平家落人集落とか
刀鍛冶の子孫が住み付いたと言うことでしたが、それらしい佇まいはみせていましたが
二人にハナシを聞いたら、ひとりは全然知らず・もうひとりは、そんな話を聞いたと
だんだん風化されているのですね。
先日11.23の祭日、末吉町の住吉神社の流鏑馬の帰り、近くだったので寄ってみました。
あ、また付近に悪七兵衛景清の墓と呼ばれる石塔群があり、ここにも寄ってみました。
景清の墓との伝承は、この付近は平氏の所領が多かったので、鎌倉時代の古墓を琵琶の音で語った
盲目の僧の物語と結び付けられたものでしょうネ。

菊水から外れました。菊水紋は東シナ海の甑島に行くと、いくつか見られます。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月26日 12時40分28秒 ) パスワード

>菊水紋は東シナ海の甑島に

菊水紋と甑島ですか。

組み合わせが謎です。
東シナ海にも南朝方の武士が亡命したんでしょうかねえ。


足利義満の時代に南朝方の武士が捕らえられ偽って倭寇として中国に引き渡されて釜炒の刑に処されたと聞くので
やっぱり東シナ海にも落人として渡ったんでしょうかねえ。

それとも時代がもっと下がって元寇の時代に東シナ海に取り残された?移った?のでしょうか?
こういうお話はちゃんと記録されるといいなと願っています。
[7]布袋竹さんからのコメント(2004年11月27日 09時25分36秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

甑島は九州本土から40−60キロの西の、東シナ海に浮かぶ列島です。
大きく上・中・下の3つの島からなり、この中甑島・下甑島に菊水の紋があります。
各島の集落は数えるほどしかない島ですが、その半数以上に
平家のオチノヒト(落人)の伝説が残されています。

楠木正行は軍に殉死したとされているが、難を逃れて船で甑島に逃れてきたという
伝説が残っています。その墓と言われる供養塔もあり、正行の子孫として菊水の紋の
和田家があります。

楠木一族はこの正行の名前の付いた中甑の山だけでなく、下甑島にも逃れてきて
下甑島にも、武家屋敷町の中に菊水のついた家が残っているので、小川・島津氏の中で
うまく士族「郷士」で続いていたのでしょう・

島だけでなく、本土・国分方面にも、楠木正勝らが隠遁したと伝えられているそうです。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年11月28日 03時07分25秒 ) パスワード

布袋竹さん
ありがとうございました。


>正行の子孫として菊水の紋の和田家があります。

和田氏はもともと楠木氏と親戚だそうですからこれはすんなり理解出来ます。


源氏系池田氏は正行の末裔として菊水紋を使用だそうですから
なるほどと思いました。
南朝方の源氏系でしょうね。
[9]楠木正子さんからのコメント(2007年05月17日 09時25分43秒 ) パスワード

私の実家も菊水のご紋で子供の頃から、先祖は楠木正成だと聞かされていました。同じ菊水のご紋の方って先祖は親族?家族?え?
[10]楠木正子さんからのコメント(2007年05月17日 10時31分42秒 ) パスワード

元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。
 先にも述べたように、楠木氏は勢力を持つとはいえ所詮河内地方の土豪にすぎない。それにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。『太平記』には、天皇が京都を脱出して東大寺から鷲峰山を経て笠置山に行在された時、南訶の夢により、「この辺に楠木と名乗る武士やある」と下問し、これにより正成は召し出されたことになっている。他方公家方の歴史書である『増鏡』には、勅命によって笠置山に集結した武士の中に正成の姿が見えたことで、天皇が安堵したという記述がある。楠木氏と関係の深い金剛寺や観心寺が歴代天皇の庇護が篤かったことを考えると、両者は以前より何らかの形で結びついていたと考えるほうが自然であろう。
 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。この族には「非利法権天」としたためられている。
  非は利に勝つことあたわず
  利は法に勝つことあたわず
  法は権に勝つことあたわず
  天は明にして私なし
あやまりやまちがいは利、すなわち力にはかなわない。この力も取り決めや法則によって執行できるものである。しかし、この法則は権力によってつくられるものであり、最高のものではない。天、すなわち真理の前においては権力も束の間のものでしかない。いつの時代でも天こそが私心なき平等な心なのである。つまり、真実に基づいて行動すれば、必ず至誠天に通ずるということであり、正成の信念を軍旗が象徴しているのである。
 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わる。天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、正成の天皇方への参戦は重要な意味を持っていた。すなわち、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになったからである。正成の情勢判断の確かさが遺憾なく発揮されたのである。それは決して勢力の勝る方に靡いて時流に乗るという軽薄な判断ではない。忠孝の理想のもとに、歴史の流れを冷静な視点で見つめ、北条氏の前途を確固たる自信を持って見極めていたのである。そうした信念のもと、夥しい敵軍に包囲されながらも、孤立無援の奮闘した正成は大いに称えられてよいだろう
[11]SAKURAさんからのコメント(2007年05月17日 10時50分18秒 ) パスワード

実家は長野県下伊那なのですが我家も女紋は菊水です。
楠木正成の家来の恩地左近の子孫だと伝えられています。
新宮という地名や川がありお天皇様などの祠お神明様など…山の名前や地名に落ち延びる前の故郷の地名が付いているようです。
あまり古い物は残ってはいませんが、仏壇には古そうな山伏が背負っていたような箱の中に入った仏像があります。
母は落ち延びた時に背負って来た物では無いかと言っています。
お寺には過去帖が残っているとは聞いていますが…我家独自のお寺があったのを離れた経過があり見た事はありません。
太平記で楠木正成が菊水の家紋をいただいたのを見て、両親から聞いていた事は本当だったんだとびっくりしました。
以後、地主であったり古城という小さい城の家老だったとも伝えられていて跡地も我家が管理しています。
我家のルーツを父にもっとよく聞いておくべきだったと思っている所です。

朝、テレビで菊水楼(奈良)が出てきて家紋を見たので検索していて偶然にも辿り着きました。
楠木正子さんのご先祖の家来だったかなぁ…??
[12]mamboさんからのコメント(2008年01月09日 14時36分21秒 ) パスワード

和田氏の末裔の者です。
和田氏は楠木氏とは姻戚(親戚)関係となります。
和田とかいて「にぎた」と読みます。
私が父から聞いた我が家の祖先は正成(長兄)の弟、三男楠木正氏氏から連なるものと聞き伺っております。
正氏は三男坊という事もあり、和田氏へやられたんでしょうね、文献によって楠木正氏とかいてある場合と、和田正氏と書かれているもの、両方あります。
もちろん我が家の家紋は菊水紋となります。

ところでSAKURAさんの書き込みに非常に興味を持ちました。
女紋で菊水という事があるんですね?
女紋は母から娘、そしてそのまた娘へと継がれて行く紋なので、例えお父さんが菊水であっても、娘は母方の紋を継いで来たはずです。
また、恩地氏の家紋が菊水紋を使用しているという事も初耳です。
恩地氏は大阪府八尾市辺りの神主の出自であり、同地を統治していた名氏と考えられます。
おそらく楠木氏に仕えるまでは、楠木氏と同盟(対等)関係にあったのでは?と推測されます。(家格としては恩地氏の方が上と思われます)

そういった事を踏まえ考えた時、果たして恩地氏が菊水紋を使用するか?(歴史の古いお家柄だこそ、余計に自身の家紋を尊重するはずです、当時の通念で考えれば)という事です。
恩地氏が菊水紋を使用する事は楠木軍の一将として出陣時以外は考えにくいと思います。

しかし、確かに長野辺りには菊水と関係のある様な地名は沢山ありますね?
恩地氏の云々という事より、ご先祖が大楠公に肖って頂戴されたと考えられた方が現実的だと感じます。
[13]Goさんからのコメント(2008年03月29日 18時26分11秒 ) パスワード

家のら家も菊水紋です。
苗字は城なんですが関係あるんですか??
子供の頃から楠木家と関係があるように聞かされています。
最近結婚が決まり気になったのでよろしくお願いします。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年03月30日 07時29分05秒 ) パスワード

Goさん

全く分りませんが
平家+南朝方の流れ
というのは思います。


御名字の城氏とは
古代の「城氏」=きし
または桓武平氏平貞盛の弟の繁盛子孫の「城氏」=じょうし
から来ているのでしょうか?

中古代の秋田城介は日本史上時々目にします。
九州では筑前・肥後に城氏がいらっしゃるそうです。


平家の城氏は歴史に出てきます(城助茂)。


ムカシ子供の時に「城」と書いて「たち」さんとおっしゃる家がありました。
多分三重県の館氏と関係があるのかなと思います。
やはり平家がらみでしょうね。


紋が菊水で家伝に南朝方のお話があるんでしたら
元は平家で南朝方だったということでしょうね。


名字や家紋は事情でしょっちゅう変わりますから
やはり御親戚の方の集まり(お正月とかお盆とか)で話題に出して
いろいろお訊きになったら良いと思いますよ。
[15]ミケーレさんからのコメント(2008年10月06日 14時37分12秒 ) パスワード

うちの家紋は菊水で、名も楠です。本家は浄土真宗本願寺派の寺です。みなさんが言う様に、名・家紋は変わる事があるので、家系図でも残っていない限り判断は難しいでしょう。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月07日 02時26分43秒 ) パスワード

ミケーレさん

バリバリ「楠で菊水」ですかあ!
その上
浄土真宗でしょ。

反織田信長ですね〜


江戸時代はどうなさっていらっしゃったんでしょう?
実に興味があります。
ミケーレさんの御先祖さまもどこかの藩に「名家」ということでお抱えになってたんでしょうか?


>名・家紋は変わる事がある

それは確かですが
御先祖さまのことを誇りになさってください。

お祖父さまや伯父様方は軍隊でも良い扱いだったのでしょうね。
(足利出身者は住んでた所が足利というだけで殴られたなんて話ですよ)

そういうのも含めて楠家のアイデンティティなんですから
しっかり一族の皆様からお話をお聞きになってください。


もし明治維新で姓を名乗る時に楠姓や菊水紋を使用したとしても
そこには何かの理由があったはずですから
      
>>家系図でも残っていない限り判断は難しいでしょう。

なんてお思いにならないでください。


世間に胸を張って「うちは楠姓で菊水紋」とおっしゃってください。
[17]案山子さんからのコメント(2008年10月27日 00時50分08秒 ) パスワード

私の実家の家紋も菊水です。
そういえば、浄土真宗でした。
父は香川出身で、姓は楠ではないのですが、先祖が平家の落人だと言ってました。
ここにカキコしている皆様と何か関係があるのかしら?
[18]楠木さんからのコメント(2008年12月06日 22時02分25秒 ) パスワード

我が家は楠木で菊水です。
詳しいことは分からないですが、浄土真宗はたしかです。
直系ではないでしょうが・・・・
[19]右田さんからのコメント(2009年01月16日 16時25分37秒 ) パスワード

うちの家紋も菊水です。
姓は「右田」みぎた で、楠ではないのですが、
以前の「和田」と書いて、にぎたさんとは
読み方が似ていてきになりました。

現在は、東海地方にすんでいますが、
親戚の話では、先祖は九州からきたらしいです。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月16日 23時25分33秒 ) パスワード

右田さん

大内氏を滅ぼした一門の陶氏は
大内氏の一門の重臣、九代大内盛房の弟で右田氏を称した盛長の末
だそうですよ。

陶氏が毛利に滅ぼされた時
杉氏・右田氏と共に亡んだそうです。


大内氏は日本の名族の1つですから
日本史の中にちゃんと書かれていますから
時系列的にお調べになれば「先祖は九州からきたらしい」という
「九州」というのが何故か
というのが分ると思いますよ。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月16日 23時33分25秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ou_migta.html

など右田氏はいろいろ出てますから必要無かったですね。
ごめんなさい。
消そうかと思いましたが記念に残しておきます。

他の人には検索しなくても済みますしね。
[23]橋本さんからのコメント(2009年01月17日 17時45分31秒 ) パスワード

我が家は橋本で家紋は菊水です。
実家は岐阜県、浄土真宗で楠木さんと同じです。
橋本正員の子孫とのことです。
楠木正成の家臣ではないかと思いますが
先祖は和田家から、わかれているようです。
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年01月18日 00時32分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

右田さんへ
 
貴家の伝承で先祖が九州から来たとすると、
周防国佐波郡右田保発祥の多々良姓大内氏族ではなく、
豊後国玖珠郡右田邑発祥の豊後清原氏族です。
 
右田氏に至る略系譜は下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01214a.htm
 
また菊水紋は、楠木氏族以外でも多くの家が使用しています。
 
 
橋本さんへ
 
橘姓楠木氏と熊野国造和田氏は親戚で、橋本氏は和田氏から分かれていますね。
橋本正員に至る略系譜は下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02125.htm
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年01月18日 10時35分42秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん

思い違いと訂正レス
ありがとうございます。
ぺこり
[27]いろいろ知りたい子さんからのコメント(2009年09月23日 18時49分34秒 ) パスワード

九州の福岡に住んでます。
私の実家も 楠姓で、家紋は菊水 宗教は、浄土真宗西本願寺派です。
名字の楠も “楠木”では無く あくまでも“楠”
家紋の菊水も 菊の部分に こだわりがあるようです。

「楠 正行」の 子孫だと 聞いた事がありますが、何せ 幼き時の事なので
詳細は 分かりません。
[28]前田さんからのコメント(2009年10月23日 15時38分47秒 ) パスワード

九州の前田ですが、家も菊水紋なんですが、何かわかりますか?
[29]中村岳夫さんからのコメント(2010年01月08日 00時29分21秒 ) パスワード

菊水家紋の長野県の北部の中村です。

楠系の祖先は、正成の三男の楠正儀の子、楠正秀らしいです。

正秀が長野に来たときの姓は芋川で、
140X年に芋川長知の若宮城が落ちて、
芋川氏が断絶したところに、正秀が芋川を復興したとなってます。

正秀は、1446年に阿瀬川城にて戦死しますので、
それより前となるようです。

私の祖先は、芋川のすぐ近くの字中村に引越し、性を中村に変えたそうです。

戦国武将の芋川親正は、1500年代後半の人ですが、
断絶したところから、それまでの記録がわかりませんので、
正秀とは系列が違うのかもしれません。
家紋も菊水とは違うようです。
芋川親正は、その後上杉家とともに、会津から米沢へ移ります。

[30]清水さんからのコメント(2010年03月07日 09時32分52秒 ) パスワード

東京に住む清水といいます。私の祖父の戸籍に「士族」と記述されていたそうです。家紋は菊水です。以前からどのような家系だったのか興味がありました。どなたかわかる方がいると嬉しいです。
「裏菊水」という家紋があると聞いたことがあります。この件もご存知の方はいらっしゃいませんか?
[31]石倉さんからのコメント(2010年03月13日 22時49分50秒 ) パスワード

兵庫の石倉と言います。

当家も菊水です。

本家は神戸市の西部ですが、先の大戦の空襲に遭い菩提寺・先祖の墓もろとも

爆砕され、また後に再建されたものの阪神大震災で全壊し、先祖にまつわる物

は全て消失しました。

残されたものは唯一家紋が入った風呂敷のみとなりました。

ただ幼少の頃の記憶の中に、水牛の角と思しき角が付いた甲冑が本家の床の間

に鎮座していたのがとても怖かったのが残っております。

親類一族も先祖にまつわる話を伝承された者もなく、今となってはたどるすべ

を知りません・・・。
[32]酒井さんからのコメント(2010年09月13日 00時03分08秒 ) パスワード

こんばんは〜私も菊水です!幼い頃親父に家の家紋わ菊水やから覚えとけとよくいわれてました!親父の出身地は分かりませんが大阪に住んでます
[34]さんからのコメント(2010年10月25日 14時45分25秒 ) パスワード

兵庫県神戸市にすんでいる平です。
うちは家紋は菊水というか「きくながれ」とおしえられてきました。
お墓の家紋を見るとにています。
うちの父方は沖永良部島で、浄土真宗西本願寺です。
たしか26代目と聞いたことがあります。
小刀と衣類が家宝としてあったそうですがおじいさんのころに
どこかに行ってしまったようです。
なにかおわかりになりますでしょうか?
(コメント再投稿をしました)
[35]山田さんからのコメント(2011年03月04日 16時40分03秒 ) パスワード

6年も前の記事に返事をするというのもなんですが、
皆さん最近まで語られているようなので便乗させてもらいます。

私の母方の祖父が言うには我が家も楠木正行の子孫のようです。
祖父は私が生まれる1年前に亡くなったので直接聞いたことは無いのですが、
先祖は長野の山奥に逃れ、その地形から性を取り「山田」と名乗って隠れたそうです。
私は未だ祖父の本家に行った事が無いので見た事はありませんが、
先祖が逃れた際に一緒に持ってきた摩利支天の像が大事に保管されているそうです。

第二次世界大戦時に祖父が天皇家の近衛の隊長(?)として選ばれたので、直系では無くとも分家の一つか近しい系列にあるのかもしれません。
ちなみに浄土真宗です。

投稿者様、ここにいらっしゃった近しい縁をお持ちの皆さまにとって少しでも有力な情報になればと思います。
[37]ようこさんからのコメント(2011年03月06日 18時43分14秒 ) パスワード

私の旧姓は、三田と言います。実家の父方の家紋が菊水です。浄土真宗西本願寺だとか・・あまり気にしないで過ごしておりましたが、4,5年前に占いで見てもらったら、「あなたの後ろに凄いご先祖様がいて、その方が守ってくれています。」と、言われました。それ以来、「ご先祖様」のことが気になり・・父方の祖父は朝鮮総督府のお役人であったことは聞いてましたが、菊水の家紋ということは、楠木正成の関係者だったのでしょうか・・どなたか教えていただけないでしょうか?
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月07日 01時00分25秒 ) パスワード

ようこさんへ

初めまして。
全く見当違いかも知れませんが。


菊水紋使用:
有名使用者は楠正成。
後醍醐天皇より拝領。
ということで  楠家の代表紋。


橘氏系:橘・楠・和田・甲斐・庄・内島・橋本・松村・吉川

源氏系:松平・正行子孫系池田・坂野・山瀬

藤原系:竹村・内田

穂積系;鈴木
[39]ようこさんからのコメント(2011年03月08日 06時37分11秒 ) パスワード

空の青海のあをさんへ

ありがとうございました。

今日は天気も良いとのことで、車で20分くらいに

ある千早赤阪村までドライブに行ってきます。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月08日 15時45分09秒 ) パスワード

ようこさん

いかがでしたか?


何か霊感を感じましたか?

結局ここは「村」のままのようですね。
大阪府唯一の村というのもいいですね。


楠正成が生まれた場所、という感じはありましたか?
[41]ようこさんからのコメント(2011年03月20日 10時33分41秒 ) パスワード

空の青海のあをさんへ

千早赤阪村は、以前、仕事場所のひとつだったので良く知っている場所です

が、占ってもらう以前のことだったので、無意識で働いていましたが、今回は

意識過剰のハイな気分でドライブしてしまいました。もう少し春めいていたら

ヨモギとか採れるんですが、ただ寒くて・・・(笑)

四季の移り変わりがはっきりしたいい場所ですよ。吸い込まれるとか霊感とか

は感じられる様な感じないような・・でした。


[42]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月20日 11時46分33秒 ) パスワード

ようこさん


車で簡便に行ってしまうより
電車とかバスとかで時間をかけて足でも歩いて
心の摺り合わせをなさりつつの方がパワーが「来易かった」かもですね。


何度もいらっしゃってたら、そのうちに向こうから来ますよ。
御先祖さまが「なんだ、もう来て行っちゃったのか」と思っていらっしゃるかも。
ふふふ
「最近の馬は足が早いのお」とかおっしゃっているかも。
[43]ようこさんからのコメント(2011年03月20日 17時37分09秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

そうですね・・・近鉄富田林駅から金剛バスってのが出ているらしく、そのバ

スだと、思い過ごしかもしれないご先祖様に会えるようです。もう少し暖かく

なってきたら、リュックでも背負ってハイキングに出かけてみようかと思いま

す。日ごろの仕事から離れてゆっくり空気を吸うのもいいかも・・ですね

ありがとうございました。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月21日 01時59分54秒 ) パスワード

ようこさん


わたくしの場合はいろいろ体験がありますが

伊賀に行った時
名古屋方向からで

別に何も期待はしてなかったのですが

その電車内はすごく寒くて(山の中だから、しょうがないのね)と思ってました。


ところが、突然、顔の辺りのみ  ボウ〜  っと生暖かいというか
                       ヒトの体温というか

感じましたよ。

他の部分は寒かったです。


あ、迎えに来てくれた
って思いました。


それで先祖って守ってくれているというのを実感しています。

ようこさんも御先祖さまが守ってくださっているようでお幸せだと思います。


うちも楠正成がどーたらというのは母方父方双方にありますから  (母方は菊水紋を使ってた時期がありましたから)
ようこさんが御先祖さまを実感できますように
と願っているのですよ。にっこり
[45]ようこさんからのコメント(2011年03月22日 17時07分51秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

無性に行きたくなって、やはり車で行きました。仕事の合間に向かったので急

ぎ足でしたが、楠公産湯の井戸を階段を下りて見てきました。後は車で、金剛

山麓にある千早城跡、下千早城跡、上千早城跡を通っただけでした。途中、頭

が重くなってきて、気が遠くなってくるような感じがして、空の青海のあをさ

んみたいに顔の周りのみが・・・とか全然ありませんでした。山の上まで行っ

たので、気圧のせいかも知れないですね(笑)。時間がある時に再度行ってみ

ます。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月23日 01時41分27秒 ) パスワード

ようこさん


お仕事の合間、ですか。

いいですね。


>頭が重くなってきて、気が遠くなってくるような感じがして、
>山の上まで行ったので、気圧のせいかも知れないですね(笑)。

あらあら

よく分かりませんが「気圧」が関係するというのは「高い山」なら分かりますが。


なんだか不思議な体験ですね。


いよいよ御先祖さまに御対面というのでしょうか。
また行ってみてください。
[48]さなえさんからのコメント(2011年04月12日 11時05分02秒 ) パスワード

おじゃまします。

ようこさんも、伊賀にいってらしたのですね(^^)。わたしも、また行きたいです。千早城とかも・・・

わたしは、最近まで歴史とかぜんぜんわからなかった人ですが、先祖をたどって・・・平熱さんにお邪魔させていただいているしだいです。パソコンも上手く使えませんので、そのところ許してくださいませ。

ところで、以前スレッド・伊賀餅と伊賀忍者の関係のほうで、ときおさんに教えて頂いた本「鬼の太平記・まんじゅう伝来史」があるんですが・・・楠木正成さんのことや菊水紋のこと「非理法権天」の本当の意味(作者の想像かもしれないけど、こちの方がしっくりする)など書かれていて、興味深い本でしたので、お知らせしますね。ときおさんの言われるとおり、わたしには難しい本でしたが・・・何かに読まされた気がします。先祖の気概のようなもの感じましたよ。不思議ですねええ。        では(お邪魔しました)。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月14日 01時25分31秒 ) パスワード

昨日NHKの番組を見ていたら
「菊水」という御名字の麻布大学の先生が出演なさっていました。

「極める」というシリーズの「動物行動学」についての番組です。


良い名字ですよね。
トクですよね。
軍隊に行っても殴られずに済む名字でしょうね。



日本人には「楠」とか「菊水」とかには、良いイメージがありますよね。
[50]さなえさんからのコメント(2011年04月14日 09時05分32秒 ) パスワード

[48]で、わたしまちがちゃったので、訂正します。
伊賀にいったのは、空の青海のあおさんで、ようこさんが、千早へですね?

こんらんさせました、ごめんなさい。
[51]さなえさんからのコメント(2011年04月14日 09時15分59秒 ) パスワード

楠木正成さんは、忍者の親分的存在、弱者の見方、反勢力側なイメージですが・・・わたし(服部党?)にとったら、「カッコイイ!!」の一言です。菊水紋もなんだか、意味深・・・です。

今日も、思ったことをかいちゃったけど・・・よかったかな?どうも〜(^^)
[52]今井 綺羅さんからのコメント(2011年07月24日 00時29分03秒 ) パスワード
URL=http://yamabukimiku@yahoo.co.jp.

私の家も、菊水です。
家は何百年も昔お寺だったそうです。上杉謙信もいらした寺です。印もあります。もう自分の家じゃないからあるか分かりませんけど・・・。他の人に譲って分家になってしまいました。苗字は、今井です昔は斉藤でした。私の家はひいひいおじいちゃんの時代まで名前が戦国武将に近いように心がけていたそうです。高熱で亡くなったといわれているおじいちゃんは今井信秀だったそうです。まあ、こんな感じです。
[53]さんからのコメント(2011年08月05日 15時56分57秒 ) パスワード

私の母方が、姓『楠』、家紋『菊水』です。
曾祖父が貿易を生業としていた、というのは聞いたことがあるんですが、先祖については知りません。
楠木正成がご先祖様なんでしょうか??
それとも、たまたま…?
当方、山口県の者です。
[55]庄司さんからのコメント(2013年03月17日 22時12分47秒 ) パスワード

庄司ともうします。私の里は、和歌山の龍神ですが、家紋が菊水です。楠から和田ではなく、庄司を名乗った人がいるようです。お婆さんが十津川村の玉置氏で、何れも熊野国造です。
[56]さなえさんからのコメント(2013年03月18日 18時15分46秒 ) パスワード

庄司さんへ

 わたしは、一昨年十津川村に少しですが行くことができ、玉置神社で神秘的な体験ができました。近くに龍神温泉があることも知り、「すごい地名だな・・・」と思っていました。何の参考にもなりませんね。先祖(服部)がお世話になったかもしれませんので、「ありがとうございますね。」

お彼岸のせいか・・・、頭がほわほわしています。ごめんなさいませ。

[61]颯風さんからのコメント(2013年08月20日 13時41分09秒 ) パスワード

こんにちは。私の家の家紋も菊水です。

祖父の出身が大分県日田の津江です。
姓は室原で、祖父は蜂の◯城の室原◯幸氏の従兄にあたります。

日田は豊後国玖珠はすぐ近くのようですのでルーツは
清原源氏なのかな…?

しかし菊水紋の方が多くてびっくりしました…
とても珍しがられるので…先祖がどこかでつながってるのかな?
と思うとワクワクします。
[69]辻の坊さんからのコメント(2013年10月28日 00時23分12秒 ) パスワード

我が家も菊水、浄土真宗です。
現在、宮城県に住んでいますが、祖父の代まで奈良県の下市におりました。
楠木正成の子、正行から池田教正の流れだと確認出来ています。
江戸初期には天河で能楽に携わっていました。
古くから伝わる家系図は偽物だと思っていましたが、専門家に鑑定を依頼したところ、
本物であると確認され驚いています。
又、天河神社にて当家の位牌を見ていただいたところ、遠縁であることも確認できました。
全く、驚いております。
[72]和田 倭さんからのコメント(2013年12月16日 18時05分00秒 ) パスワード

我が家も 祖父の代まで下市に住んでおりましたが その前は天川村和田です。
苗字も和田ですが 宗派は浄土宗です。多分下市に 「西迎院」が 浄土宗なので
改宗したのでしょう。

天川村和田は 和田孫三郎正頼が天川に移り住み 和田という地名になったと聞き及んでおります。(近くに天河神社あり南朝天皇や皇子が住んでいた)そこで南朝をお守りつつ天川和田に住んだものと考えます。その天川村和田は 浄土真宗の「豊永時」なので和田に住んでいた頃は 浄土真宗であったと思います。以前天川村和田を訪れた時には お寺の中に石碑があり 和田某(多分ご先祖様)と有りましたが今はもう石碑は無くなっているようです。また 現在天川村和田には 和田姓はどなたもおられない。

和田正頼の父親は 和田和泉守正武で岸和田古城 堺城岸寺城(大饗城 オワイジョウ)を拠点として南朝側として戦っていた模様です。

その家系を辿りますと 5代前に和田成氏と言うご先祖があり 熊野国造家 和田に繋がります。

この和田家の読み方は ワタ若しくはワダであり ニギタやミギタとは 読みません。 ニギタやミギタは 橘系又は藤原系で 河内に来たものです。

その 成氏の子供に正俊 その息子正玄(正遠)が 楠木正成の親となります。
では なぜ楠木と名乗ったのでしょう。

私は成氏より数えて13代前に 真主と言うご先祖がおられますが その真主は橘島田麿(奈良麻呂の子供)の子供で 熊野国造家に養子に来られた後 その三代後の広方が 橘の姓を後醍醐天皇時代 改姓許された経緯がありますので その橘と熊野本宮に関わる楠木で 橘朝臣楠木と名乗ったものと解釈しております。

なので 楠木家も元々は 和田(ワタ、ワダ)上古(646年)までは熊野国造家として名乗っており 広方より3代のみ橘で 又和田庄司、和田国造を朝廷から賜りまた和田の姓に戻しています。

その正成の子供で正儀 末裔の方々が又熊野に戻り神職を現在もしていると聞いております。

鎌倉後期より南北朝時代に河内を拠点としたので 同じく河内拠点の和田という姓が 3系(熊野国造家、藤原系 橘系)入り乱れて混乱する所以です。

参考ですがhttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02125.htm
[73]和田 倭さんからのコメント(2013年12月16日 18時44分22秒 ) パスワード

補足

楠木正成が 何故楠木姓を名乗った原因は 前回橘姓の関係もありますが

正成の父親が 橘盛仲の娘を嫁に迎入れた後 和田姓から 楠木姓を名乗ったようですね。 
父親は千早七郷領主 和田正玄(正遠) 左近大夫・千剣破館に住す。

長男 楠木俊親、 次男 楠木正成、 三男 楠木正氏、 四男 楠木正季、

五男 楠木恵秀 となりますが この楠木姓は 元々和田姓です。
[74]名無しさんからのコメント(2013年12月29日 17時02分09秒 ) パスワード

はじめまして

我が家は、菊水紋を使用しております、姓は「中村」と申します。
浄土真宗西本願寺派です。
出身は甲信越地方です。

何か皆さんと関係があるのでしょうか?
[75]中村岳夫さんからのコメント(2014年07月26日 21時42分35秒 ) パスワード

名無しさん、2010/01/08のコメントを書いた中村です。
もちろん浄土真宗です。
祖先は長野県北部の芋川です。
共通するところがあるなら、遠縁かもしれませんね。

[76]ヤスさんからのコメント(2014年09月20日 11時32分23秒 ) パスワード

私の家紋も菊水です。
苗字は「大塔」、かつて本籍は奈良県吉野郡大塔村戸野でした。
現在は大塔町となっているみたいですね。
現在の戸籍は何かと面倒だったので、現在両親が住んでいる静岡の住所に移してしまいましたが。
[77]名無しさんからのコメント(2014年12月27日 01時51分58秒 ) パスワード

中村岳夫さん
2013/12/29に投稿したものです。

私自身は違うのですが、曽祖父は長野県の黒姫付近の出身なので、おそらく遠縁ですね。
びっくりしました。
[78]青木どなうさんからのコメント(2015年02月03日 23時11分52秒 ) パスワード

「芋川」姓についてですが、1189年、藤原鎌足の後裔といわれる弥次郎兼定が信濃の国の上水内郡(現在の長野市飯綱町)に来て、荘園を築き、地頭となり、姓を改め「芋川弥次郎兼定」と称したのが始まりだそうです。

その後、楠正成の子、正儀の四男正秀が芋川長知の娘を娶り後を継いだため、
「菊水」紋を使うようになったようです。

ただ、家紋は「対い鶴に若松」で「菊水」は裏紋として使われたようです。

何年も前に、長野県立博物館で「武田・上杉 信濃武士」展が開かれ、
芋川家伝来の甲冑が展示されていましたが、「対い鶴に若松」紋が使われて
いました。

私もかつて芋川姓を名乗っていた一人です。



[79]中村岳夫さんからのコメント(2015年04月08日 17時02分38秒 ) パスワード

私の祖先(中村で菊水紋)も柏原(黒姫あたり)の出身です。

中村祖先と小林一茶の祖先が、
芋川を出て、柏原(黒姫あたり)を開拓(に参加)したと記録に残ってました。

私の祖母も一茶の末裔か親戚らしいです。

青木どなうさん
当家菊水紋の中村(芋川)と違う、芋川親正の家紋が、
「対い鶴に若松」だったのでしょうか?
その展覧会見たかったですね。
[80]庄司さんからのコメント(2015年11月20日 07時43分14秒 ) パスワード

私の親方の父親は、和歌山の庄司で、家紋は菊水です。
和田から楠へ、そして庄司を名乗ったとみています。
父方の母親は、十津川の玉置です。何も熊野国造系との認識です。
[81]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月12日 22時48分17秒 ) パスワード

今は亡き父方のご先祖が楠木氏で、菩提寺の墓の家紋も菊水だそうです。戦前のある日、当時の国民学校の宿題で、各家の家紋を持って来ることがあったそうです。その時大層先生はびっくりしたそうです。そのときは話半分で聞いていましたが、良く考えれば、当時の世相からして相当の根拠と説得力がなければ掲げることの出来ない家紋であると私でもわかります。最近我が家の戸籍をとりましたが、江戸時代の萬延年間生まれのご先祖様まで遡れました。姓は「則岡」亡き父曰く家各は家老級で子爵の資格があったとのこと。以上長々と書きましたが、私は「則岡」家の菩提寺さえわかりませんので、それだけでも判れば満足です。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月13日 02時47分39秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


全く分かりませんが、関連することを調べてみました。
有田市や和歌山県の教育委員会の編纂する史料に出ているかも知れません。
大きな図書館で土地の歴史の本をお読みになって
そこからいろいろ辿ってみてください。


ネットでいろいろ検索してみました。

わたくしとは父方母方で南朝方時代に繋がっているということで
下記の情報をコピペしておきます:



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%89%87%E5%B2%A1


【名字】則岡
【読み】のりおか

【全国順位】 12,654位
【全国人数】 およそ500人


現和歌山県と三重県南部である紀伊の豪族は古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏楠木氏族。

近年、和歌山県に多数みられる。「岡」は岡(丘)の地形を表す。




http://norioka-derma.com/index2.html

八尾の美容皮膚科の女医さんのサイトです。
八尾とか東大阪は四条畷に近いのでご先祖さまがいらっしゃった所かも知れないですね。
八尾や東大阪にも親戚があるので四条畷が近いというのを知りました。


則岡氏関連のポータルサイト:

http://www.google.com/search?q=%E5%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E5%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...9427.17429.0.18251.18.18.0.0.0.0.379.2245.0j13j0j1.14.0....0...1.1j4.64.psy-ab..4.6.1160...0j0i7i4i10i30i42k1j0i4k1j0i7i4i30k1j0i4i30k1.-GdDYQ53mGA


こんな記事がありました。
菩提寺捜しの最短距離かも。

http://www.sankei.com/region/news/150816/rgn1508160031-n1.html

有田・豊龍山無縁寺、引き取り手ない3736体守り続け 和歌山


■「英霊たちの礎あって今がある」 

 太平洋戦争の戦場で散り、祖国に戻っても引き取り手がないままとなっていた英霊3736人の遺骨が、有田市宮崎町の山上にある豊龍山無縁寺で、長年にわたって手厚く供養されている。

 昭和25年、放置された遺骨に心を痛めた地元の男性が引き取ったことが始まりで、60年以上たった今も、地域の人たちが供養塔を清掃するなど大切に守り続ける。「英霊たちの礎があってこそ今がある」。平和への祈念の思いは、年月を経ても変わることはない。

 「周囲に植わっているのは桜の木。戦場で散っていった英霊の思いを表現しようと植えられたと聞いています」

 無縁寺の世話をする住民らによる「講」の代表、桝井陽造さん(82)は、真夏の青空を見上げながらつぶやいた。紀伊水道を見下ろす高台にたたずむ山寺には、再び故国の地を踏むことなく戦場で命を落とした英霊たちが静かに眠る。

 この地に英霊が安置されたきっかけは、終戦直後にさかのぼる。有田郡箕島町(現・有田市箕島)で興行師をしていた故・則岡豊松氏が、舞鶴港(京都府舞鶴市)や文里港(田辺市)などで、引き取り手のない遺骨が放置されていることを知った。

 「祖国のために命を落としたのに、放置されているのは気の毒だ」と、供養を決意。昭和25年4月に舞鶴港に引き揚げられた270体の遺骨を引き取り、無縁仏となった英霊を祭るため、慰霊塔を建立。「無縁塔」と名付けた。その後も遺骨を引き取り、同年12月には陸軍兵ら2874人、27年8月には海軍兵ら592人を祭った。

 則岡氏はさらに同年ごろ、有田市宮崎町の高台に無縁寺を開き、英霊の供養にあたった。44年に則岡氏が亡くなった後も、毎年春と夏に市内仏教会の協力で大法要が営まれ、毎月29日の月例法要では読経と慰霊塔の清掃を行っている。同寺周囲は「ウエノ公園」と名付けられ、花見など住民らの憩いの場として愛されている。

 ただし、戦後70年を経て住民らの高齢化も進み、活動の拡大には課題も多いという。それでも桝井さんらは、新たな桜の植樹など供養の地の保全を検討したいとしている。

 桝井さんは「戦場で散っていった英霊たちがいたことを風化させてはならない。将来にわたって供養していきたい」と話した。(秋山紀浩)



*数年前に有田市の住民を紹介した番組には母や伯母にそっくりな顔の女性がたくさん映っていました。
     南朝方の子孫なのだろうなと眺めていました。
[83]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月13日 22時33分20秒 ) パスワード

「空の青海」様、早速のコメントありがとうございます。父の所在地も全く記載せずに投稿してしまいました、申し訳ございません。「則岡」家は代々和歌山県和歌山市に居住しております。私自身は、現在大阪府南部の泉佐野市に住んでいます。貼り付けていただいたサイトで、「則岡」家が【楠木氏正儀】流「河内 正則」の流れを汲む家系であるとわかり、冗談半分で聞いていた父の話が、まんざら偽りではないと感じ、感激しました。それと先ほどのサイトで、もう1つ興味深い記述がありました。この家系は「河内」氏の後に、「畠山」姓を名乗っていたことです。すっかり忘れていましたが、父は生前、先ほどと同様のことを言っていました。近々本腰をいれて菩提寺を探し、お参りしたいと思います。これから私は「楠木」氏の末裔との誇りを持って、微力ながら、世のために生きたいと思います、本当にありがとうございました。

            「則岡」流島崎氏
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時18分11秒 ) パスワード

では役に立つかも知れないサイトのご案内です:
http://24senzo.net/blog-entry-52.html
武士の先祖探し・家系図作成 

則岡家も載ってますよ。<の>欄にあります。我が家の親戚も載ってます。にっこり


江戸時代には各藩で土地の名家を召し抱えたのです。
支配するのに楽ですからね。

その時に紀州家に仕えたのかも知れないし
もっと前の南朝方の時代に新田家=徳川家=と御縁があったかも知れないし。


土地の史料を読めば出てるかも知れないですよ。




■紀州藩士に見られる名字(苗字)
〜文久元年(1861)『文久元紀士鑑 乾』より〜

相川 青木 赤尾 赤城 赤沢 赤堀 赤見 浅井 朝岡 朝倉 朝比奈 芦川 阿曽沼 安達 渥美 阿部 天方 天野 雨森 鮎沢 荒井 荒川 荒木 荒巻 有賀 有地 有馬 有本 淡輪 安藤 


飯田 飯村 飯室 井内 猪岡 井口 池内 池田 池永 石井 石川 石黒 石桁 石田 石谷 石野 石橋 井関 井田 板坂 板橋 伊丹 市川 井出 伊東 伊藤 糸川 稲生 稲垣 稲川 稲葉 乾 井上 猪飼 猪谷 茨木 井辺 今井 今村 妹尾 入山 岩倉 岩田 岩西 岩根 岩場 岩橋 岩本 


植木 上田 植柘 上野 植野 上原 上松 上山 宇佐美 宇治田 臼杵 宇多 内田 内村 宇藤 宇野 海野 梅沢 梅田 梅本 浦上 


江川 榎坂 榎本 江原 江馬 遠藤 


大井 大石 大岡 大草 大崎 大嶋 大須賀 大菅 太田 大高 大竹 大谷 大野 大橋 大畑 大村 大森 大屋 大藪 岡 岡井 小笠原 岡田 岡野 岡部 岡見 岡本 岡山 小川 荻野 奥津 奥野 小倉 小栗 尾崎 長田 小関 尾関 小田 小田切 落合 小野 小野田 尾寄 


垣村 垣屋 角谷 筧 蔭山 葛西 笠原 笠本 梶間 柏木 数見 片岡 片切 片野 片山 勝 勝田 勝野 加藤 金沢 金田 金谷 金津 金森 金原 加納 神中 神前 神谷 亀井 川合 河角 川角 川上 川北 川口 河嶋 川尻 川瀬 河村 川村 


木川 菊嶋 貴志 岸田 岸和田 祇薗 喜多 北沢 喜多野 喜多村 北村 木梨 衣笠 木野 木下 木村 木本 


九鬼 切刀 久喜 草野 楠見 久世 工藤 久野 久保 久保田 窪田 熊倉 熊沢 久米 倉垣 倉地 倉林 栗生 栗原 栗本 黒川 黒田 桑原 桑村 桑山 


小池 小泉 小出 幸田 上月 河野 小浦 小久保 小坂 越場 小芝 小島 小嶋 越山 小谷 後藤 小波 小林 小堀 駒木根 小森 小柳 小山 権田 近藤 


西郷 斎藤 才村 佐伯 坂井 酒井 榊原 坂西 坂部 崎山 佐久間 桜井 佐々木 佐武 幸野 佐津川 里 佐藤 里村 佐野 寒川 沢 三刀屋 山東 


塩路 塩谷 志賀 茂田 芝井 柴田 柴山 渋谷 嶋 嶋川 嶋田 鳥淵 嶋村 嶋本 清水 下条 下村 下和佐 十倉 十河 白井 城 新 仁井田 新喜田 新谷 新藤 神野 陣屋 


菅田 菅谷 菅沼 菅野 須川 杉浦 杉田 椙谷 杉山 鈴木 鈴村 須田 墨田 住山 諏訪 


関 関口 関根 千 千賀 仙石 千本 


外山 曽根 薗田 大沢 


高 高井 高岡 高垣 高木 ・木 高瀬 高田 高橋 瀧本 田口 武井 竹内 武内 竹下 竹田 武津 武光 竹村 竹本 竹森 田代 伊達 立石 田所 田中 谷口 田原 田淵 玉井 玉川 田宮 田村 田屋 多羅 田和 丹沢 


筑紫 千田 

月山 辻 辻野 辻村 津田 土田 土生 土屋 筒井 堤 妻木 津山 


出嶋 寺内 寺崎 寺嶋 寺田 寺村 


藤堂 土岐 徳田 戸口 徳永 得能 豊嶋 戸田 殿井 土橋 土肥 富上 富田 富永 鳥居 


名井 内藤 仲 中井 永井 長井 中尾 中川 長坂 長阪 中沢 中嶋 長嶋 永田 中西 中根 中野 長野 中原 中村 長屋 夏目 名取 七沢 波切 奈良 成田 成瀬 南部 


二上 西浦 西川 西田 仁科 西端 西村 西山 丹羽 根岸 根本 根来 


能得 野口 野沢 野志 野嶋 能勢 野田 野々山 信時 野間 野村 野本 則岡 野呂         ココですね
 
                          あとは手抜きで編集無し(笑)





萩原 橋垣 橋爪 橋本 長谷川 初嶋 服部 花井 花岡 花房 羽端 馬場 浜田 浜名 浜野 早川 林 早瀬 早淵 速水 原 原田 畔田 伴村 畔柳 日井 日置 東 東使 彦坂 久田 肥田 日根 百武 平井 平尾 平賀 平川 平田 平塚 平野 平松 広井 広田 深津 福岡 福嶋 福田 福富 福原 藤井 藤木 藤田 藤野 藤宮 藤村 藤本 淵村 舟橋 古田 古屋 北条 星野 細井 堀田 堀 堀内 堀江 堀尾 本間 前川 前嶋 前田 前野 真木 牧 牧野 牧村 正井 正木 真崎 真下 益田 増田 増山 松尾 松岡 松沢 松下 松嶋 松田 松平 松原 松見 松村 松本 松山 的場 真鍋 間宮 丸井 丸山 三浦 三上 三木 三雲 三倉 三毛 三嶋 水上 水嶋 水野 三田 三谷 三田村 三井 皆川 南出 美濃部 三橋 宮井 宮居 三宅 宮崎 宮地 宮本 宮脇 三好 三輪 向笠 武藤 宗方 村井 村岡 村上 村河 村田 村辻 村中 村松 村山 室 室川 毛利 望月 守 森 森上 森川 森沢 森下 森田 森本 門奈 安井 保田 安原 矢田 柳河 矢野 八幡 藪 矢葺 薮谷 藪見 山川 山岸 山口 山崎 山沢 山下 山澄 山田 山高 山名 山中 山野井 山林 山村 山本 結城 湯川 遊佐 由比 由布 由良 横井 横山 吉岡 吉川 吉田 吉見 吉村 吉本 四宮 李 若尾 若林 脇 脇田 和佐 和田 渡辺 郭 諌川 鷺谷 衝 巽浅 堀場 
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時26分32秒 ) パスワード

江戸時代の掟として藩主や上司より家格の上の名字や家紋を使用することは遠慮したのです。

それで楠木姓を遠慮して「河内」姓を名乗ったかも知れないし。

ということで「河内」さん:
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B2%B3%E5%86%85

【名字】河内
【読み】かわうち,かわち,こうち,こううち,こおち
【全国順位】 525位
【全国人数】 およそ37,900人

由来
祖先の領地を称号とする、地名から発したものなどがある。

清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏などがある。   ココ

他にも全国の河内地名より多流の起源(ルーツ)がある。また、現広島県西部である安芸国佐伯郡下河内村が起源(ルーツ)である。近年、現広島県西部である安芸地域に多数みられる。河内に関連する氏は多い。



楠木正成なんてモロに「河内のおっちゃん」って感じじゃないですか?

それで「楠木姓」を遠慮して「河内」で登録したかも、ですね。

「畠山」姓については全く想像が付かないです。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時46分40秒 ) パスワード

有田ですが

http://www.norioka.com/
「かねしん」則岡醤油さん
明治40年創業

かねしん 則岡醤油醸造元
〒649-0313 和歌山県
有田市千田357
TEL 0737-82-2620 
FAX 0737-82-4552
フリーダイアル 0120−82−2621
mailto:kaneshin@norioka.com


もしかするとご先祖さまがいらっしゃった場所は
和歌山市内かも知れないし、有田かも知れないし、新宮か、田辺かも知れないし。

この醸造屋さんのご本家さんが和歌山の菩提寺をご存知かも知れないし。
もし機会がお有りでしたらいらっしゃってみてはいかがでしょう?
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 14時59分18秒 ) パスワード

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000211112

 紀州藩士を調べる資料として、主に次の資料がある。



1.『和歌山県史 近世史料1』(和歌山県史編さん委員会/編 和歌山県 1977年)
2.『和歌山県史 人物』(和歌山県史編さん委員会/編集 和歌山県 1989年)
3.『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上・下』(和歌山県立文書館/編 和歌山県 2011-2012年)
4.『南紀徳川史 第5冊・第6册』名臣伝部分(堀内 信/編 南紀徳川史刊行会 1931年)
5.『三百藩家臣人名事典 5』(家臣人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1988年)
6.『舊和歌山藩士族名簿』(徳義社/編 和歌山県立図書館 1977年) 
7.『元禄期紀州藩士名簿 和歌山城下町絵図にもとづき作成した』(結城 進/編 結城進 1990年)
8.『紀伊国地士由緒書集』(結城 進/編 結城進 1995年)

 その他、『和歌山県立図書館郷土資料目録』(和歌山県立図書館/編集 和歌山県立図書館 1983年)p65-67に掲載されている「A18 伝記 印譜 家史」「A18.1 伝記−江戸時代以前−」に所蔵資料の記載があるので、最寄りの都道府県立図書館等で確認することができる。






意外でしょうが


http://www.jtb.co.jp/kokunai_guide/area/wakayama/kainan_arida/spot/kainanshi/A3500440/

長保寺

紀州徳川家歴代藩主の眠る寺。

国宝の大門、本堂、多宝塔のほか、鎮守堂(重要文化財)、紀州徳川家廟所(史跡)と歴史的価値が高い。

住所
和歌山県海南市下津町上689

TEL073-492-1030

交通
公共交通: JR下津駅→徒歩40分
車: 阪和道海南ICから15分
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月14日 15時02分11秒 ) パスワード

http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9_%E5%AE%B6%E8%80%81


紀州藩


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/13 13:38 UTC 版)

家老
附家老•安藤家 - (紀伊田辺城主3万8千石)幕末に紀伊田辺藩として独立、維新後男爵
•水野家 - (紀伊新宮城主3万5千石)幕末に紀伊新宮藩として独立、維新後男爵
家老連綿•三浦家 - (紀伊貴志領1万5千石・藩主外戚)維新後男爵
正木頼忠(藩主・頼宣の外祖父)- 為春−為時−為隆=為恭=為脩−為積−為章−為質=三七−英太郎−修−孝昭•久野家 - (伊勢田丸城代1万石)
久野宗成−宗晴−宗俊−俊正−俊純−輝純−昌純−純固•水野太郎作家 - (7千石、正知の代に1万石格)安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。
水野正重−義重=重増=忠知=知義−正実=正珍−正純=正清=正知=正義•渡辺主水家 - (3千石 恭綱は松平頼純の庶長子)
渡辺恭綱−豊綱=則綱=親綱−載綱=登綱−沿綱−為綱•村上与兵衛家 - (3千5百石)
•伊達源左衛門家 - (3千石)
•戸田金左衛門家 - (3千2百石)
•加納平次右衛門家 - (4千石)
•水野多門家 - (3千石)
•朝比奈惣左衛門家 - (3千石)
•岡野平太夫家 - (4千石)

支城
•松坂城 - 松坂城代預かり(三重県松阪市)
•田丸城 - 城代久野家預かり(三重県度会郡玉城町)

別邸など
•巖出御殿の臨春閣は、慶安2年(1649年)の建築だが、現在は神奈川県横浜市の三渓園にある。
•西浜御殿は、文政4年(1821年)に建てられたもので国の名勝に指定されている。
•田母沢御用邸(栃木県日光市)は、紀州藩江戸上屋敷の一部を移築し、それを核に明治、大正時代に建て増した建物である。
•和歌山城二の丸御殿は明治18年(1885年)大阪城に移築されたが、昭和22年(1947年)失火により焼失した。
•和歌山城本丸御殿は取り壊されたが、御台所のみが和歌山市の光恩寺に庫裡として移築された。

幕末の領地
•紀伊国 ◦海部郡 - 59村
◦名草郡のうち - 147村
◦那賀郡のうち - 170村
◦伊都郡のうち - 87村
◦有田郡のうち - 134村
◦日高郡のうち - 115村
◦牟婁郡のうち - 272村(うち60村を度会県に編入)

•伊勢国 ◦飯高郡 - 115村
◦三重郡のうち - 1村 
◦河曲郡のうち - 35村
◦一志郡のうち - 58村
◦多気郡のうち - 97村
◦度会郡のうち - 147村

•近江国 ◦坂田郡のうち - 2村(大津県に編入)


明治維新後に、大和国吉野郡1村(五條代官所管轄の旧幕府領)、北見国紋別郡が加わったほか、一志郡1村(津藩領との相給)、飯野郡1村(津藩領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。
[89]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月14日 23時36分16秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 度々とても詳細な情報提供ありがとうございます。早速今週末にも、和歌山県立図書館、余裕があれば、有田市の「かねしん」則岡醤油店さんにも訪問したいと思います。
 実は亡き父も、生前に有田市は「則岡家」ゆかりの地であると言っていました。 彼の地には「上野山家」という一族がいて、この一族も「則岡家」と何らかの関係があったようです。
 それと、先の書き込みで「畠山氏」との関係について触れましたが、あなた様に貼り付けていただいたHPに以下の記載がありました。

「南朝北朝御和睦足利将軍義満公厳命依りて
管領畠山右衛門佐基国家に養育、成長後、家名を則岡氏と号する。」
※【楠木探訪録 その62 則岡氏】より抜粋

 また当家の菩提寺の件ですが、父より聞いた私の記憶では、和歌山市内の「寺内町?もしくは寺内通り」にあると言っていましたが、宗派は全く判りません。
 話は全く変わりますが、今年のGWに長男と「観心寺」・「桜井の駅」そして「湊川神社」を巡りました。息子は大変感動していました。どうやら我が子にも「大楠公」の血が流れているようです。
 来年息子は大学受験ですが、「神戸大学」に入学し、そのかたわら「楠木同族会」に入会し、活動したいとのことです。
 その為にも、早急にご先祖と我々を結ぶ証拠となる資料等を手に入れたいです。

             則岡流島崎氏




[90]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月15日 15時20分41秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さんへ

息子さん、志望校に合格できると良いですね。
応援していますね。


>息子は大変感動していました。どうやら我が子にも「大楠公」の血が流れているようです。

きっとご先祖さまからのパワーが来ているのかも、ですね。
将来、息子さんが則岡氏の長老になって、一族の菩提を弔ってくださる存在になるかも、ですね。



上野山氏というのは初でしたので調べてみました:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1


【名字】上野山
【読み】うえのやま,かみのやま
【全国順位】 3,430位
【全国人数】 およそ3,700人


現和歌山県と三重県南部である紀伊の豪族、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)佐原氏流がある。近年、和歌山県に多数みられる。 

「山」は山の地形を表す。「野」は自然のままの広い地を表す。「上」は下や中に対し、高いところや奥を表す。


もともとこの辺りは、源平時代に平家との関係が出来て、南朝方だったということで
戦国時代は浄土真宗=本願寺=一向宗=ということで信長に敵対したのでしょうね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1

上野山(うえのやま/かみのやま)は、日本人の姓。日本の地名。

上野山(うえのやま)は、和歌山県有田地方の姓。
有田市では最多、有田郡一帯に多い。
紀伊国那賀郡上野山村(貴志川町)にその地名がある。

ただ紀州藩士の上野山氏は、元は上山氏だった[1][2]。                へぇ〜
上野山(かみのやま)は、出羽国上山に由来。                    斎藤茂吉の出身地ですね。山形県上山市



うえのやま
上野山 - 新潟県糸魚川市の大字。
上野山 - 新潟県三島郡出雲崎町の大字。
上野山 - 新潟県岩船郡関川村の大字。


上野山 - 和歌山県東牟婁郡串本町の大字。                  ココ
上野山 - 和歌山県紀の川市貴志川町の字。                  ココ


かみのやま
上野山 - 福島県郡山市の大字。
上野山 - 宮城県仙台市太白区の大字。


驚きました:

「南朝北朝御和睦足利将軍義満公厳命依りて
管領畠山右衛門佐基国家に養育、成長後、家名を則岡氏と号する。」

畠山右衛門佐基国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%9F%BA%E5%9B%BD


畠山(河内)氏
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/hatakeyama.html
県立図書館でこの史料が手に入ると良いですね。




お寺さん捜し:恐らく、寺町通り、のようですね。または「元寺町」
http://www.jiin-bochi.com/area/wakayama.html

こちらが面白かったです。
http://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298204-d8828256-r354768136-Teramachi_Street-Wakayama_Wakayama_Prefecture_Kinki.html

以下の情報はコピペ
多くのお寺が並んでいます。
1633年の紀ノ川大洪水のさいに、城の東北部(現元寺町)にあった寺の多くが、お城の南側の、現在地に移転して新しい寺町となったそうです。

首大仏のある無量光寺など、見どころの多いスポットです。



“紀州徳川家により寺院が集積された通り”

和歌山市内中心部にある日赤和歌山医療センターの近く、国道42号線の小松原4丁目交差点から東に向かい、屋形通りへ抜ける道を「寺町通り」と呼びます。

もともとは、紀州藩の初代藩主である浅野幸長公が現在の「シティ ワカヤマ」のあるあたりを「寺町」と定めたことから、この周辺に寺院が多く建立されていたのですが、紀州徳川家の初代である徳川頼宣公が藩主になった頃に多くの寺院が和歌山城の南側に移転し、現在の寺町通りが形成されてきたようです。

これに伴い、以前の寺町は「もとの寺町」、つまり現在の地名である「元寺町(もとでらまち)」と呼ばれるようになったのです。

寺町通りには現在もなお多くの寺院が建ち並んでおり、周辺地域にはかつての城下町のたたずまいを偲ばせる景観を残した場所も数多くあります。

コピペ終了


何宗だったのでしょうね。
和歌山には3000ぐらいお寺があるようで?
見付けるのはなかなか難しいでしょうね。

宗派が分かれば検索し易くなりますのにね。


則岡流島崎氏さん

父方母方で何かすっごく近いものを感じます。
わたくしの母方も南朝方として菊水紋の旗も使っていたと聞いています。

今に至る間にはいろいろあったのでしょうね。
ひょっとすると  有田  では親戚だったかも知れないですしね。
にっこり

[91]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 02時10分07秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

 今年は私にとって生まれて初めてと言っても良いくらい、「楠公」フィーバーに沸いた1年となりそうです。
 GWの息子との「楠木氏」ゆかりの地を巡った後すぐに、私のスマホのフェイスブックに【楠木 正儀】の末裔の「初田 弘枝」様のサイトが現れました。
 この方は皆様ご存知の「楠木同族会」の代表者?で、私は初めてこの会の存在を知りました。仕事面では、7月から戸籍謄本等を請求するなどして、お客様の相続人調査を行う業務の担当となりました。
 その一環として、勉強のために、我が家の戸籍謄本を取得し、自分の出自がある程度の年代まで判明しました。
 そして今週に入って、このサイトを通じ「空の青海のあを」様との運命的な出会いがありました。
 冗談半分で聞いていた、いくつもの亡き父の「楠木氏」の話が、あなた様の数多くの詳細な情報提供により、次々と現実味を帯びていきました。
 また、内向的な私が何かに背中を押されるように行動するようになったのは、あなた様を始めご先祖様や亡き父が、私を動かしてくれているように思えてなりません、これらの出来事を通じ、私の人生も大きく変わるような気がします。
 一度「空の青海のあを」様とお会いしたいです。


               則岡流島崎氏

【追伸】

「則岡家」の爵位の資格の件ですが、あなた様からいただいた資料を拝見するに、亡き父の誤解であると思います。
 当時、明治新政府は、「楠木氏」一族に石高に関係なく優先的に爵位を付与する方針をとっていたそうです。
 その方針を受け父曰く、当時の「則岡家」の当主が東京に赴き、爵位の申請を行いました。結果的には爵位は頂けず、ある一定の金銭を貰って来ました。当時は「日露戦争」まっただ中であったことが原因だったとのことです。
 家系図、刀剣などの宝物は、没落士族の例に漏れず、ある寺院に借金のかたにとられたそうです。その後、一族の者が金銭を都合し、家系図等を返還してくれるよう働きかけましたが、相手にされなかったそうです。
 たらればの話は不毛ですが、これらが手元にあれば、「則岡家」も現在とは違った境遇となっていたかもしれません。私の祖母が常に「世が世であれば…」と口癖のように言っていたそうです。
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月16日 04時00分15秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


ウッカリ消してしまいました。汗


簡単に書き直します。


ご先祖さまからパワーが来てますね。
本当に「向うから」情報が飛び込んで来るんですよね。
今はスマホ経由ですか。
わたくしの時代は本屋さんの棚からでしたが。その後、テレビになりましたが。




一族の中には数人ご先祖さまのことを話したくてしかたない人がいるものですよ。
皆さんが大勢集まる席が出来ると良いですね。

なぜなら  系図のコピーを誰が持っているか  など思わぬ情報が得られます。
当然菩提寺のことも知っている人がいるものですよ。

ムカシは電話帳で住所が分かったものですが
とにかく則岡姓の方と連絡が取れると良いですね。


今のところは 醤油屋さん  でしょうか。



>「則岡家」の爵位の資格の件ですが、あなた様からいただいた資料を拝見するに、亡き父の誤解であると思います。

これはあながちお父さまの勘違いということではないと思います。
ムカシは養子や猶子などの制度がありましたから、その関係上の事だったかも知れません。
お嫁にいらしゃった方の御実家の事だったかも知れないですし。

      こういうお話を一族の皆さんと共有できると良いですね。
      必ずどなたかがご存知ですから。
      でもどんどん鬼籍に入られてしまうので急がないと、ですね。

>当時、明治新政府は、「楠木氏」一族に石高に関係なく優先的に爵位を付与する方針をとっていたそうです。

分かります。
何故なら明治天皇が「正統は南朝方」と言ったから。
(それで伊藤博文は明治天皇のお言葉に冷や汗を流したなんてハナシですね)


      この北朝方子孫であるはずの明治天皇は南朝方子孫の大室寅之祐という噂がありますね。

      
      だから南朝方の皆さんは明治時代に贈位・追位なんかされてますね。
     


>家系図、刀剣などの宝物は、没落士族の例に漏れず、ある寺院に借金のかたにとられたそうです。
>その後、一族の者が金銭を都合し、家系図等を返還してくれるよう働きかけましたが、相手にされなかったそうです。

我が家は明治時代にあるお寺に寄進しましたが、そこは江戸幕府の始まりから16代で終わって、
今は全く事情を知らない和尚さんになっています。
 
わたくしも明治時代の先祖が寄進した寺宝を見せて欲しかったのですが
そのお寺の事情が分かって頑張れませんでした。


相手にされなかったのは  もしかするととっくに売っ払らっていて、お寺には無いからかも  ですね。

名古屋の有名なお寺でも、勝手に土地を3桁億円で売って、裁判沙汰になってました。
戦後は、特に最近は、お寺も台所事情が大変ですからね。      


則岡系一族の皆さんと連絡が取れると良いですね。


わたくしも伯母が系図のコピーを持っていて、それをムカシのファックス用紙で巻紙状に印字して、知る限りの一族に郵送しました。
そして系図には書かれていない部分を知らせて欲しい、と添えたところ
コピーには書かれていない(本物には書いてあった)情報を知ることが出来ました。      
[93]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 20時06分53秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

今日、和歌山県立図書館に行ってきました。
あなた様に教えていただいた
『紀州家中系譜並に親類書書上げ 上・下』と「太田 亮 博士」が作成した『姓氏家系大辞典』のうち、紀州藩氏「則岡家」と「畠山家」に関する部分をコピーしました。
 前者の資料については、江戸時代に作製されたものなので、読むこと自体が難しく、内容を確認するにはかなりの困難が伴いそうです、当分この図書館通いは続くような気がします。
 それと、先ほど「則岡醤油」さんと連絡が取れました、やはり「楠木氏」の流れをくむ家柄だそうです。ただ、この一族は代々有田市に住んでいるとのことです。
 「則岡醤油」さんは、一族の中では、分家筋なのですが、本家は既に途絶えているので、有田市では事実上、最後の「楠木氏」となるようです。
 実はこの話の流れで、訪問をお願いしたところ、快く承諾していただきました。日程も決まったので、その時が非常に楽しみです。
[94]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月16日 20時30分06秒 ) パスワード

すいません、先程の書き込みの訂正です。

有田市では事実上、最後の「楠木氏」となるようです。
              ↓
            「則岡家」

と訂正させていただきます、お気を悪くされた方、申し訳ございません。       
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月17日 06時23分00秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
記念にたくさん購入なさって則岡流島崎家の一族の方にお配りになってください。


わたくしがとった方法は
まだバブル時代でしたから関係の市の教育委員会歴史編纂課にお手紙で史料を送ってもらいました。

そしたら!なんと!土地の歴史の学者を紹介してくださって冷や汗でした。
中には有名な国立大学の教授もいらっしゃったりして・・・恥


更にその土地の歴史の本の後書きに紹介してある色々な関連本を買うのに
大きな本屋さんに取り寄せて貰って
取りに行った時にその土地の歴史研究家を紹介されたり。


     もうね、いろいろな考えが噴き出すように湧くのです

     そして協力してくださる方やテレビの番組やらにも出会い
     先祖からのパワーが来ているのをつくづく実感しました。

     不思議な事もいろいろ起きましたし。


古文が読めると良いのですが、苦手でしたら
古文書の読み方を教えてくれる所が見つかると良いですね。
大学とか
教育委員会系とか
どこかでこの情報を得られると良いですね。

昔の文書は形式に則ってますから、それが分かったら固有名詞と繋げて解釈出来るかも。


先祖調べは1人でやるとしますと膨大な時間と大変なお金がかかりますが
お彼岸の時とか盆正月など、ご親戚の方が大勢気軽に集える機会が出来ると良いですね。
絶対いるはずです。話したくて話したくてたまらない人が。
その人をどうやって見つけるか。


醤油屋さんと楽しい時間を過ごせますように!
[96]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月23日 18時15分40秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 久しぶりに投稿します、かなり核心に近づきました。
 あれから2人の「則岡家」一族とお会いすることが出来ました。
 そのうち1人は「和歌山市 則岡家」のご本家の方です。
 いずれの方も、初対面とは思えないくらい歓待していただきました。
 お二人に菩提寺と「則岡家」の系図作成の2点について申し上げると、大層喜んでいただきました。
 また、ご本家より当家の菩提寺を教えていただき、ご本家自らお寺に連絡していただき、延宝年間まで遡った過去帳の一覧を入手することが出来ました。
 ご本家とお話していく中で、亡き父が言っていたこととつながった点がいくつかありました。
 やはり「則岡家」の出自の地は「空の青海のあを」様がおっしゃっていた「和歌山県有田市」でした。
 「紀伊続風土記二」によると、「在田郡 宮原荘 南村」現在の「有田市 宮原町」の豪族とのことです。
 もともとは楠木氏の拠点である「河内」の国に居住していましたが、南北朝統一後、足利管領家一門の「畠山氏」に仕え、「楠木正儀」の孫の「河内小次郎則綱」が有田市に赴任し、この地の「岩室城」の城代となりました。
 父が言っていた「則岡家」が家老の家柄というのは、このことから来ているのだと思います。
 当家が和歌山市に入ったのは、「則岡 甚兵衛 久宗」が「豊臣小一郎秀長」に仕えた後、初代紀州藩主「徳川 頼信」家臣となり、現在に至るようです。
 まだ例の「則岡醤油」様とはお会いしていませんが、家系図の作成に区切りが付けば、ご本家と一緒に有田市を訪問し、様々な「則岡家」ゆかりの場所を巡る予定です。


「則岡流 島・氏」

[97]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月24日 03時24分35秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

かなり詳細のお裾分けをありがとうございました。
それでタイトルをちょっといじっておきました。
     夜代さん、ごめんなさい。タイトルはいつでも変更し戻せますのでお知らせを。


なるほど  有田の豪族でしたか。

それでワタクシが有田に母や伯母の顔に似た人がかなりいらっしゃると書いたのでしょう。
だから、何か、「有田について書いてやれ!有田!」と吹き込むパワーを感じていたのかも。

もう忘れてしまいましたが  有田の山奥にも先祖がいたのをどこかで読みました。
それで  岩室城  という名前にひっかかりを感じます。



>延宝年間まで遡った過去帳の一覧を入手することが出来ました。

膨大な過去帳の中から古い資料を捜し出して来るのは結構大変なことなので
お寺さんにもしっかりお礼をなさってくださいね。
にっこり

延宝年間なんて江戸時代初期の方ですものね
かなり大変な作業だったと思います。


>「楠木正儀」の孫の「河内小次郎則綱」が有田市に赴任し、この地の「岩室城」の城代となりました。
>父が言っていた「則岡家」が家老の家柄というのは、このことから来ているのだと思います。

良かったですね。
お父さまのお話の欠けてた部分が見つかって、ちゃんと繋がって。
お父さまのご仏前には(勘違いしてたことを)しっかり謝ってあげてください。


           苦笑いなさるかもですね。
           (僕はきちんと教えたよ。君がちゃんと聞いてなかっただけ)  
           とおっしゃるかも。ふふふ



>当家が和歌山市に入ったのは、「則岡 甚兵衛 久宗」が「豊臣小一郎秀長」に仕えた後、
>初代紀州藩主「徳川 頼信」家臣となり、現在に至るようです。

母方の我が家の家書には「秀吉に仕えて2郡を拝領して何たら」と書かれています。
同じような流れだったのでしょうね。
我が家もその後江戸幕府に仕え、紀州の○家から嫁が来ています。



>まだ例の「則岡醤油」様とはお会いしていませんが、
>家系図の作成に区切りが付けば、ご本家と一緒に有田市を訪問し、
>様々な「則岡家」ゆかりの場所を巡る予定です。

とにかく系図を写して、流れを把握し、醤油屋さんのお話についていけるように予備知識が出来ているといいですね。


そして系図のコピーは近い御親戚にもあげてくださいね。
ただし写させてくださった本家さんのことや
日付や
則岡流島崎氏さんのご住所とお名前は
ちゃんと書いておいてくださいね。

      後世にとんでもないのが出て来る可能性も無きにしもあらず。
      和歌山の本家さんや有田の現宗家さんに後世に於いても敬意を払うようにとの老婆心からです。


           必ず出て来るから
           とんでもないのが
 
           筋目は通させないとね。


将来ご先祖さまが大勢でお迎えに来てくださった時に、すぐに、(あ、この人は誰々だ)と分かるといいですね。
いつかご先祖さまに会えると思うと楽しみですよね。


ひょっとするとワタクシとも平家時代・南朝方時代・反信長・桃山時代・江戸時代で800年+に亘って繋がっているのかもですね。
[98]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年09月29日 22時59分44秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 ご忠告ありがとうございます。あなた様のお言葉を肝に銘じ、慎重に事を運びます。
 先週、和歌山市の当家の菩提寺からいただいた、過去帳の一覧表を拝読し、気づいた点がありました。
 明治期以降に死亡された方は、『@戒名A没年月日B俗名』の全てが記載されていましたが、江戸時代以前になると、Bがありません。更に男性に至っては、Aも無く、@と命日のみでした、したがって、現在は江戸期の「則岡家」は空白状態となっています。
 これは、本丸に行くしかない‼と思い、本日有田市へ行ってきました、結果は以下のとおりです。


●有田市役所で現在よりもう一代遡った戸籍(除籍)謄本が手に入った‼

氏名は「則岡増右エ門」本籍地は【有田郡宮原村大字南**番地】、生没年は不詳ですが、長男の「文平」が【天保4年〜明治37年】の生涯ということを勘案すると、【文化】若しくは【文政】年間に活躍された方と推察されます。
 以上により、私のルーツが有田市にあると公的に証明されました。

●有田市役所の学芸員と情報交換できる関係を構築した‼

現地に訪問する前に、電話で私が「則岡家」の人間であると伝えたうえで、有田市での菩提寺等の情報を問い合わせすると、私に興味を持っていただき、本日1時間ほど、市役所内で懇談していただきました。
 その中で、先に述べた江戸期の「則岡家」の空白期間について問うたところ、男性と女性で違う寺院に葬られている可能性があるのではないか?という意見をいただきました。
 それを受け、有田市内でも比較的「則岡」姓の多い地区の寺院を教えていただき、早速訪問しました。
 ご住職にお話を伺うと、この寺院は例の「則岡醤油店」さんの菩提寺で、しかも檀家の代表的存在らしいです、びっくり‼
 本来なら、すぐに「則岡醤油店」さんにごあいさつすべきなのですが、時間の関係上できませんでした、明日再度訪問しようと思います。
 ご住職には、大変な作業になるとわかったうえで、江戸時代の当家の空白期間の方と思われる方8名の戒名一覧をお渡しし、俗名や没年を調べていただくようお願いしました。
 ここが埋まれば「則岡家」の系図はできたも同然なので、頑張ります。


           則岡流島崎氏
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2017年09月30日 02時23分24秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


良かったですね。
そしてワタクシともどこかで<<本当に>>繋がっていそうですね。


女性と男性では菩提寺が違う可能性があるのですか?
この可能性については知らなかったです。


>有田市内でも比較的「則岡」姓の多い地区の寺院を教えていただき

さすが!
プロはいろいろご存じですね。

市役所とか県庁とか、歴史編纂をしている処も!  情報  が欲しいのです。
この人達も 則岡流島崎氏さん同様  新たな発見が欲しいのです。


いろいろな知識を得ておいて、その後、醤油屋さん=現則岡家総本家さん=にお会いしたら
お話が理解し易そうですね。


和歌山で醤油というと「湯浅さん」しか知らなかったです。
古くは平家がらみ以降からになります。


最近、本当にごく最近ですが、和歌山の醤油って湯浅サンと則岡サンか、と思っていたせいか
明治維新で旧佐幕派の元尾張藩士が北海道の八雲に開拓に行き   (駅弁の烏賊飯で有名な「森」駅の、まぁ、近くです)
その旧藩士の中の服部というのが醤油屋さんになっているのを知りました。

                  北海道ですから昆布風味の醤油のようですよ(謎)



伊賀の服部というのは楠正成の姉妹(姉?)を妻にして
その子が観阿弥ということです。

母方が後南朝で最後まで頑張りました。菊水紋<も>使っていました。
今は・・・
戦国時代に大坂方として敗れ落人になり、住吉大社に保護を求め、この時、名字を変え家紋を替え
そのまま江戸時代を過ごし
幕末近くにやっと名字は戻せましたが家紋は許されませんでしたので
現在の家紋は落人時代のままのものを使用しています。

母方家書にはそういう事が記されています。


     母方の先祖が堺の浜で討ち死にした話には泣けました。


則岡流島崎氏さんのお家も家書にいろいろなエピソードを書き入れられると良いですね。

まだまだ階段の1段目2段目を上がったばかり。
ライフワークになさってください。
たくさんの本を読んで情報を得、ご先祖さまゆかりのいろいろな場所を訪ね、大勢の一族関係者に会ってください。

     そうしますと黄泉路の旅が楽しみになって来ますよ。
     キャハハ
[100]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月01日 12時07分51秒 ) パスワード

「空の青海のあを」様

 今日も有田市に行きました。
 例の「お醤油さん」にご挨拶した後、心当たりのあるもう一箇所の寺院を訪問しましたが、先代のご住職とお話が出来ました。
 その方は、「則岡家」一族のことは、あまりご存じではありませんでしたが、生まれ故郷が、私と同じ市で、町も同じでした。
 また、私が勤務する会社の社長とも懇意にしているとのことです。
 世間とはせまいものだと感じると同時に、有田市とは「ご縁のある土地なんだなあ」とつくづく感じました。
 今日は特段の成果はありませんでしたが、ご報告まで。


                則岡流島崎氏



 
[101]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月01日 16時02分50秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


>今日は特段の成果はありませんでしたが

いえいえ<<<世間とはせまいものだ>>>本当に世間は狭いってお分かりになったのは大きな収穫だと思います。


知らなかったとはいえ
本当に!
自分の周りは実はご先祖さまがらみの人が結構たくさんいらっしゃいます。

これは「日本」という島国ゆえの特殊な世界だからでしょうね。
日本人は8代遡るとみんな親戚、と言うそうですよ。
知らないだけ。

     知らないだけ。だって自分の祖父母達4人の数代前さえ既に知らないんですものね。

            ワタクシの場合は実家の近所が父方の親戚だらけでしたが
            父が言わない人だったので、
            つい最近まで、全く知りませんでした。
            小学校の同級生にも親戚の子達がいたのに全く知りませんでした。


                 これは祖父母が死んだら「代替わり制度」がある家だったので。
                 でないと最短でも600年間分の親戚一同と付き合わなきゃいけないですからね。笑

                  

            母方は
            母の従姉妹の旦那さんが甲賀出身で並び矢紋
            母の旦那さん(父)は伊賀出身で並び矢紋

                   甲賀と伊賀は山を挟んで北と南になります。

               母の従姉妹宅に行って袱紗包みを渡された時
               我が家の袱紗を母の従姉妹が返してくれたのだと勘違いしてしまいました。 


               この母の従姉妹の婚家の名字と母の姉の婚家の名字がこれまた関連性があります。
          

                  母の姉は八千草薫の顔にそっくりです。
                  若い時の母はNHKのアナウンサーの久能木=黒田=渡邊あゆみの顔にそっくりでした。
                  

                       
仕事で不特定多数(汗)の日本人と出会いましたが
(この人、いやだな)と思う人は名字が「先祖の敵」だったり
(この人、いい人だ)と思う人は名字が「先祖の友」だったり
知らない人を見ると「血わき肉おどる」感じがしました。

     DNAに先祖の記憶が刷り込まれていると思っています。


でも  1人だけ父方母方の敵に共通する名字でしたが  お殿様のような品性を感じました。
思わず「素敵なお名前ですね」と言ってしまいました。
今でも、その人がどういう人だったのか、思い出すと知りたくなります。
上記のレスに書いた母方が落人時代に替えた紋をその家は副紋で使っているのです。
その家の代表紋ではありません。



>有田市とは「ご縁のある土地なんだなあ」とつくづく感じました。

驚きますよね。
きっとご先祖さまがらみですよ。

ひょっとすると共通するDNAを持っているかもですね。


ネット上でも  時々  何か引っ張り合うパワーを感じる人がいます。
    同じ話題を共有しているのですから当然でしょうけど。

則岡流島崎氏さんもそのお1人です。
則岡流島崎氏さんとは有田がらみでしょうか?


そうかと思うと  この人は関係無い人  という遮断や拒絶を感じる人もいますし。


ネットなのにね。
先祖がらみなのかな、と思います。
[102]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月13日 23時06分06秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 お久しぶりです、前回の投稿から土日祝日、挙句の果てに平日にも休暇をとり、ひたすら和歌山県立図書館や有田市に通い詰めていましたが、大した成果はありませんでした。
 しかし本日、無いものと思っていた「則岡家」系図が見つかりました‼
 場所は、東京大学内の「東大資料編纂室」HPでも閲覧が可能で、プリントアウトも可能です。
 ついに「大楠公」と繋がりました、大感激です。
 今まで色々とアドバイスをいただきありがとうございした。

            則岡流島崎氏

 
    
[103]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月14日 01時55分21秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん


良かったですね。
これでハッキリ胸を張れますね。

「書式」で提示できるというのが一番ですよね。


思わぬ所にあった、というのが笑えますね
でも東大の編纂室なら箔付けになりますね。


こういう裏付けを手に入れていろいろな人からお話を伺うのがいいですね。
良かった良かった!
[104]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年10月17日 21時37分20秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 家系図と150年振りの再会を果たしてから、いまだに興奮が収まりません。
 ご本家に報告すると、涙を流して喜んでおられました。
 今週末、ご本家と家系図を持ってお墓参りに行ってきます。
 家系図を眺めていると、点であった父の話が更に繋がりました。
 「大楠公」から数えて現当主は第25代目にあたります。
 紀州藩士の「則岡家」は「有田市則岡家」の庶流で、当家の次男や三男など家督を相続できなかった者が、仕官したようです。
 「上野山家」との繋がりについては、同家は有田市宮原南村の大庄屋で、娘などを「則岡家」に嫁がせていたようですが、その逆に「則岡家」の娘も「上野山家」に嫁がせているなど密接な姻戚関係を結んでいたようです。
 また新しい発見があれば、報告させていただきます。

               則岡流島崎氏
[105]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月17日 22時50分14秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
ご本家さんにも喜んで頂けて、本当に良かったですね。

「あの事件の時は、このご先祖さまの時代だったのか」と分かるのがいいですね。
何百年も経っているのに、喜びや涙をご先祖さまと共有できるのは、良いご供養になります。


>家系図を眺めていると、点であった父の話が更に繋がりました。

良い親孝行になりましたね。
お父さまは草葉の蔭で喜んでいらっしゃいますよ。

     「僕はちゃんと事実を伝えていたけど、君はハナシ半分に僕の話を聞いてたのが、
      これからは書式で証明しながら後世に伝えることが出来るから
      僕は君を誇りに思うよ」

本当に良い親孝行と先祖供養になりました。


東大にあった系図は、ご先祖さまが御所に納めたものと藩主に提出したものでしょうね。
家宝になりましたね。
[106]則岡流島崎氏さんからのコメント(2017年11月19日 19時32分12秒 ) パスワード

【空の青海のあを】様

 ご無沙汰しております。
 今日一つの区切りを迎えました。
 様々な感情が錯綜し、気持ちの整理がつきません。
 が…
 これまでの報告です。

@父の遺影と供に、「則岡家」本家の墓参りを行いました。
A有田市教育委員会より、地元「愛郷会」の会長さんをご紹介いただきました。
B本日、「愛郷会」の会長及び副会長さんのご案内で、当家の菩提寺及び先祖の 墓参りを行いました。「愛郷会」の皆様が、当家の墓を定期的にお手入れして いただいていました。
 ちなみに副会長さんのご先祖は、「伊賀」におられたそうです。
C同じく、当家の縁者である「宮崎定直」公の墓参りを行いました。
D同じく、当家の屋敷跡をご案内いただきました。
E同じく、当家の先祖が務めていた「岩室城」跡をご案内いただきました。

 今はただ感謝の気持ちでいっぱいです。
 皆様、本当にありがとうございました。


               則岡流島崎氏


 
[107]空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月19日 22時29分55秒 ) パスワード

則岡流島崎氏さん

良かったですね。
読ませて頂いて鳥肌が立ちました。
ありがとうございました。


13世紀初めのわたくしの先祖の墓は某県の教育委員会が手入れしてくれていました。
本当に皆さまには感謝ですよね。


お父さまには良いご供養になりました。
則岡流島崎氏さんにはこの先の将来、ご先祖さまに会えるのが楽しみになりましたね。


「結果」が出て、良い先祖供養になりました。

でも「早かった」ですね。
きっと大変な努力をなさったのでしょうね。


ご先祖さまの記憶が途切れることが無く、ご子孫に繋げることが出来て、本当に良かったです。


いくら頑張っていても、方向違いを調べててはご先祖さまには辿り着けません。
良い時にお調べになりました。


日本人は繋がっていますが
本当に父方母方でわたくしも<伊賀と紀州とで>則岡流島崎氏さんと繋がっていたようですね。
しみじみ


ご報告をありがとうございました。
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