シャベリン(アーツ) 大阪屋 式日
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 投稿番号:100227 投稿日:2002年01月23日 20時50分34秒  パスワード
 お名前:林原英祐
比企一族(その3) 御影比企物語

コメントの種類 :その他  パスワード

『御影比企物語』を最後に書く事にしました。

 このスレッドは小生(林原英祐)の書き込みであります。
と言うことで、それなりに動機が必要です。少しクドイ(抽象的)に
なるかもっ知れませんが、お許し頂いて、思う所を書きます。

ちょっと 耳を澄してごらん…聞こえてくる!
 (58歳誕生日のお告げ)  

 はじめに   『貰ってくれない贈り物?』

 歳を取ってくると不思議なもので、今まで考えられなかったような事が突然自分の心のなかに芽生え、日増しに大きくなってくる。その事から逃れられない。若い頃には思いもつかなかったような事が、?………… そんな経験は御座いませんか??

 小生は現代の『IT』社会を風刺して、『優先順位を考慮して自動消滅するメモリ−』『忘却してくれるフロッピ−ディスク』等、漫画的に思い続けている。

 折しも、『ISO14000』時代…ゴミは掃除するのでは無く、出さないように!!パ−ソナル・コンピュタ−の初期的な病が『大容量のメモリ−』と『超高圧のペンティアム』…次から次へと『記憶保存の山』、二度とアウトプットする事の無い情報を記憶して残す。『使われない情報の山』…………………

 人間には『忘れる!』と言う大変便利な能力があることを今日ほど思い知らされた時代は無かったと思う。

 記憶容量(他人のポケット)の時代と名付けられる。
 風刺的に言うなら、『麻酔技術』が発達したことで『医学』が飛躍的な発展をした。のと同じように、『情報の消滅』技術が発達しないと『PC社会』の発展は無い。

 そんなつまらないことを考えている時、小生のコンピュタ−が強い反応を始めたように思える。

人間の脳(PC)も『入力(input) 』と『出力(output)』のバランスで成り立っていると思う。
若い時代に一生懸命入力した情報が、少しづつOUTPUTされ使い果して人生の終末を迎えるようにうまく造られているとしたら、残された人生でどうやって使い果してやるかが大切な仕事である。
『内なる声を聞かなければならない!!』

 学ぶ心は、情報が何かに役だった時に初めて生き甲斐を味わう事が出来る。

内なる声を聞く年齢に到達(35歳〜40歳)した頃、人々の記憶力は着実に低下を開始する。逆な表現をするなら、その歳をして、OUTPUT元年として位置付けられる。

神懸かりの時代(今の様にPCが発達していない時代)にあっては、人は天なる声を耳にした等とそのことを表現したのかもしれない。

又、時には『夢枕に先祖が……』と前置きしたかもしれない。

しかし、いかなる場合にあっても、『内の声』であると考える。

 人は、物心付きし『その日』からINPUTを開始して、自分のフロッピ−に情報の保存を開始する。

機械より便利な『忘却』と言う『フィルタ−』を通して、鮮明で大切な情報だけを残して、その他を捨て去る。

『ペンティアム』の電圧が高い人は、一度に多くの情報を処理出来るが、低い人は少しづつしか引き出せない。

 小生は『人間ペンティアム』の事を『愛着心』と呼んでいる。

『愛情…恋心』でも良い。『RAM(書き込み自由)』の事である。

 同世代の仲間達が、少しづつ記憶力が低下して、『メモ』を取る様になったころ、小生はよく『冗談』で

『書かなければ覚えられないような事は覚える努力をするな!』
『どっち道、そんなに重要な事では無い、直ぐ忘れるから!』
『気持ちだけ、覚えた気持ちになっても、本当は覚えていないから!』
『書き込むのには特性のインクが必要で…それは恋心のようなものだ(それが無い)』 
『でも、それは君の勝手だから、止めはしないけど??』

でも、ROM領域(読み出し機能)については無限大である。

但し、INPUTされている場合に限ってですが…(時々、他人の入力した情報を読み出す人と会いました。読書) 問題は読み出し効率が非常に低いそうです。

PCよりも『電圧』が低いのでしょうか?60歳を超える頃から、急に発起して『生涯学習』を云々される方にお目にかかりますが、無駄な抵抗だと思います。

その人の勝手だとおもいますが、『内なる声』に耳を澄される方が良いと思います。

『内なるフロッピ−』に保存された情報で出口を見失って窒息寸前の状態にあるものが沢山待機しているそうであります。
 
考えて見たら、自宅の書斎(本棚)に眠る未処理の蓄積DATAは際限がありません。

ちょうどそれと同様、いやそれより数十倍の規模で眠っていると考えます。

 考えただけでも、恐ろしくなる程の『ゴミの山』と言う事です。(ISO14000?)

 家電製品リサイクル法が実現して、エアコンやテレビが何千円出さないと廃棄して貰えない時代がやってきた。

同じような意味で、先日、亡くなった実弟の葬儀でのこと、納棺に際して、葬儀屋さんが『あれダメ、これダメ……燃えないゴミだから…』

 さて、皆さん、その内に人が『あの世』に旅立つ時の標準が制定され、『三図の川』の手前の関所で『この世』に残してきた『情報』が産業廃棄物で困るから、自分で処理をされた方だけに『通行証』を与えるが、未処理の方は「もう一度」帰って処理してからお戻り下さいと言われるかも知れません。

そんな時代に私達は不合格では………


 残された時間に於いて、『内なる声』に耳を澄して、聞き耳を立て…出口を失っているINPUT情報で忘却出来ない程鮮明な記憶DATAを整理して、地獄の『えん魔様』に嫌われないように努めたいものであります。まだまだ仕事は沢山残っています。

 素直になって、内なる声に命じられるまま… 小生は棄てるのに忙しいのです!                    合掌

[1]林原英祐さんからのコメント(2002年01月23日 20時56分48秒 ) パスワード
  

 御影比企物語                 


第1章 はじめに                   

  昭和34年2月24日、兵庫県姫路市(当時は印南郡)大塩町で『比企 雅』が妻の『比企 繁』と一人娘の『林原 禮(旧姓比企)』と『禮』の生んだ孫『大作』『英祐』『利彦』に見取られながら、静かに78歳で往生するのである。

 大塩町の『林原家』は二代御影比企家の当主『比企 雅』の一人娘『禮』の嫁ぎ先で、『禮』の夫『林原士朗』は、既に昭和23年(1948)8月に34歳の若さで没している。

 いわば未亡人家庭で、不憫に思った『祖父母』が娘の処に身を寄せていたのだろう。

『比企 雅』が本来初代御影比企であるのに、二代目とするのは、御影での『先代福造』の妻(後家)『たま(中川一歸の6女)』…小生の言う『4代目比企尼(後家)』に気を遣ってのことである。

御影比企家の初代は越前比企家の7代榮信の4男(福造)の別家をもって『初代』とした。

「福造」は東京に居宅を設けていたのであるが、39歳で若死にしたので残された後家『たま…当時37歳』が『雅…当時2歳』と実質2人で船出をしたことに敬意を示して、『たま(4代比企尼)…初代』『雅…二代』とした。

 ついでに書きますが…『御影比企家』とは…

比企福造−−+         +−比企 佐(長男)
比企たま−−+−−比企 雅−+--+   秀子        (比企尼C)      繁−+ +
                +−比企禮(林原)(比企尼D)
                + 林原士朗
                +
                +−比企 能(次男)
                +   和子
                +
                +−比企 重(三男)
                    富子
                        のことを言う。


御影比企家は平成7年(1995)の比企 重の卒去を以て絶えることになる。実質的には、林原禮が現在86歳で健在であるが、彼女と共に『終わる』ことになる。

 話がそれたが、元に戻して…

 昭和34年(1959)2月の『比企 雅』の葬儀が姫路の大塩町(田舎町)で取り行われた時のことである。
小生(英祐…雅の孫)は17歳(高2)であったと覚えているが、村の真言宗(亡父士朗の関係)の『御坊さん』が祖父(比企雅)の戒名を書くことになり、『比企の菩提寺(福井の清源寺…浄土宗)』から送られてきた『戒名』を見て、こんな「戒名」を書いたことが無い。
普通は『書くだけでも書き代を頂かないと、、云々』でもめていたのを覚えている。
その時初めて『比企家』に出会ったと言えば、少し大袈裟でありますが、物事との出会いは実際にはそんな出会いが多いものである。
とその後、知りました。

 『圓相院殿融譽雅山居士』と言うのが、その時の祖父(比企雅)の『戒名』であったのです。

私の『歴史』との出会いは『院殿号』との出会いであったと思っています。

 『院殿号』がどうのこうの言うのでは無しに、その事が『きっかけ』になって、日本史が自分(高2)に近付いてきたのです。正にその日から『私の歴史観』が動き始めたと思っています。

私はそのような『主観的な…』歴史観を恥ずかしいと思った事は一度もありません。勿論、『私の中には…』院殿号以外に「何十倍の不幸と」「何百倍の幸せが」付録として付いて来るからです。  

 間違っても『偏差値教育』の原点である『ナクヨ(794年)ホトトギス平安京』が歴史観の出発にならないと言うことだけは確かなことです。

『高2』の小生が、『比企尼』に興味を持ったのはそれからずっと後のことになります。

祖父『比企雅』の葬儀は神戸の寺院で再度行うということで、遺体を荼毘に付す程度の密葬がしめやかに行われたのであります。    
 序でに書いておきますが、御影比企家(菩提寺…福井清源寺の過去帳によれば…)
知り得る『院殿号』は…
『比企福造』の『神隆院殿』(1885) 妻『たま』の『淑芳院殿』(1929)
『比企 雅』の『圓相院殿』(1959) 妻『繁』の『宝樹院殿』(1977)
『比企 佐』の『正覚院殿』(1970)
『比企 能』の『香雲院殿』(1990)        以上6名です。

 さて、それから、約40年の歳月が流れ、2001年『天の声』が聞こえてくるのですが、具体的な『天の声』は、50年間以上も音信不通であった『比企本家の子孫(越前比企家の11代当主比企忠の実孫)である比企知子さん(北海道在住)』から『お便り』を頂戴することから始まるのである。確か平成12年の12月のことであったと記憶している。

 その『便り』のなかで、『比企本家』に伝わる『比企系図』を明治42年(1909)(約100年前)に『比企忠(タダス)』さんが『識者』となって再編集したものがあり、『変体仮名』で書かれてあるので『毛筆』と『変体仮名』を勉強しておくようにとの連絡があった。 
それから、1ヵ月程して『現物(写し)』が届いたのである。

それを私は『天の声』と名付けたのです。

 前置きが少し長くなりましたが、そのようにして私の鎌倉、越前、そして御影の比企の旅が始まったのであります。

 既に、『比企一族(鎌倉)』と『越前比企物語』を書き終えました。

 そして、滅びる寸前の『御影比企物語』を書き始めましたのですが、
 その『はじめに』において、『因縁話』を書き記(しる)します。

『御影比企邸』は第二次世界大戦の神戸空襲で全焼しました。現在は跡形もなく『他人手』に渡り、振興住宅に変わっていますが、場所(住所)は東灘区住吉町であります。

 JRの『住吉駅』から100M程西へ行った所にありました。JR『住吉駅』の50M程南西に『摂津住吉神社』があります。

なぜそんな事を書くかといいますと、かって『鎌倉比企物語』のなかに出てきました。薩摩藩島津家の祖と言われている『島津忠久』の生誕の秘密(源頼朝の落胤説)を思い出して欲しいのです。

 島津家に残る『島津家系図』によれば、現代訳で申しますと…

 『源頼朝の落胤を宿した丹後内侍(比企尼の嫡女)は北条政子(正室)の嫉妬を恐れて西国へ逃れようと、摂津国住吉神社まで辿り着いて、臨月を迎え、密かに神社の岩の上で独りで「島津忠久」を生み落とす』とある。……雨の日であったと、、、

 私は今も『御影比企家』が何故『摂津住吉』に住み着いたのか、『丹後内侍』に聞きたいと思っている。

 比企尼の偉大さは日本史の鎌倉幕府(源頼朝)とともに、必ず併記されているが、私は北条政子の向こう張って生きた『頼朝の恋敵』…『丹後内侍』の存在が『大和撫子』のもう一方の『顔』(妖婦)として好きである。

 少し言い方を変えると、『良妻賢母(建て前)』の比企尼の存在よりは、『妖婦的な(本音)』の丹後内侍の方が、何世紀にもわたる『子孫』への影響を持ち続ける『力』のようなものを感じるのです。

 私は『主観的な歴史観(院殿号との出会い)を恥ずかしいと思ったことは無い!』と前段で書きましたが、その昔、書物が発達する以前に人々が口から口へと語り伝えた歴史等はむしろ、そのような『主観』エネルギ−によって支えられて伝わったと思うことがあります。

 人類の歴史と言うものがあったとしたら、そのような期間の方が、ずっと長い期間の歴史であったと考えます。

 『戦争』の歴史観についても、いろいろ異論のある所ですが、私は敗戦で藻屑のように消えていった『小さな生命達』のなかに『主観的』な歴史を感じるのです。

 『平安京』を794年と覚えることは何かの『きっかけ』になることは有りますが、その事で、何かが『出発』すること(エネルギ−)に繋がる可能性は小さいと思います。

 自分自身の内にある『感性』のようなものが、『天なる声』を聞けるように研ぎ澄まされていないと、一生、聞こえずじまいになることが多いと考えます。

 講釈が長くなって恐縮ですが、この件(くだり)の『落ち』は『御影比企家が摂津国住吉に住み着いたのは、比企家の先祖(丹後内侍)の御導きによるものである!』と言う因縁めいた話で括りたかったのです。

 今一つは『比企の女系の歴史』観についてであります。

 『系図』などは『男性の血の流れ』を中心に繋がりを表しますが、女性の場合、外から流れ込む『他人の血』であります。

昔は『女紋』と言って、『嫁』が里の家紋を『紋付き』に刷り込み、「女の子」に引き継ぐという『慣わし』を聞いたことがありますが、それは形の問題で、『嫁と舅』の歴史に刻まれた『伝達』は非常に現代的(近代)なものを感じます。

 かっこいい言葉で言いますと『ソフトの伝達』であります。

 私は、『入り嫁(他人)』に乗り移る『血統』の『教え(家風)』等は現代でも興味深く、又新しい問題であると考えます。

 『比企家』が鎌倉、越前、御影と続く中で、『女系』によって特徴付けられるとしたら、どうしても、この『入り嫁(他人)』の『血』が何を以て「共通性」に繋がるかに応えなければならないと思うのです。

 そして、謎が謎を呼び、行き着く先が『丹後内侍』の『妖婦性』や『天なる声』や『夢を見た!』と言う話にしか、辿り付かないのです。

 このような『歴史』を勉強し始めてから、私は『出会う沢山の人々』を200年か500年前に『同じ谷に住んで居た人』とか、『前世の家族』とか、『戦場で共に戦った戦友』とか、『自分の御先祖様』とか、……ではなかったか??? と思えるようになりました。

 時々、そんな思いで振り返って『再会』を約束する場合も増えております。考えて見ましたら『こんな話』前に『お祖母ちゃん』に語って聞かされたことなかったかしら??


じゃあ、又
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年01月25日 03時04分58秒 ) パスワード
  

>村の真言宗の『御坊さん』が祖父(比企雅)の戒名を書くことになり、
>『比企の菩提寺』から送られてきた『戒名』を見て、
>こんな「戒名」を書いたことが無い。
>普通は『書くだけでも書き代を頂かないと、、云々』でもめていたのを覚えている。


これは本当にそうなんです。
戒名って書いて頂くのに「相場」というのがあるのです。

記憶にはっきりしませんが「院殿号」は想像を絶する金額を払わなければ書いては貰えません。

戒名で家格や階級が分かるのですよ。



摂津住吉村は私の母方の先祖が戦いに敗れ落ち武者となって隠れ住んだ場所であります。
ここで姓を河野から内野と変え、紋を折敷3文字紋を松皮菱の尻合せに替えた
と家書にあります。


まさか住吉が出て来るとは思いませんでした。。。
[3]林原英祐さんからのコメント(2002年01月28日 21時45分46秒 ) パスワード
  

第2章 『比企 雅』のこと …『活字型』ではなく『映像型』で…
 
神戸の六甲山に、日本で何番目かに古い『ケーブル・カー』があり。

 その頂上駅にある『ケーブル』引き止め部の直ぐ下に『真鍮』で出来た「古い銘板」があり、良く見ないと分からない程度の文字で『フレザ−商会』の名がある。

 これが、御影比企家の当主(2代)『比企雅』の勤めていた会社である。

 いつ頃から、勤めたのか定かな情報はない。

 京都帝国大學の工学部の卒業で当時としては珍しく『英語が堪能』であったと聞く。

 卒業して、直ぐにこの会社に入ったかどうかは別にして、計算で推測すると、30歳代は大正の初期(明治16年8月21日生)頃になる。

 とすれば、1910年頃のことである。

* 乃木希典夫妻殉死    1912.9
* 森鴎外『阿部一族』発刊 1913.1 
* 第一次世界大戦に参戦  1914.8

 そのような『世相』を背景に考えると、『航空機』の発達していない『船』の時代に米国の『フレザ−商会』(貿易商社)に入って、何度か『米国』に船で航海したと考えると、それなりに『凄い人』であったと想像する。

 最終は『フレザー商会 日本総支配人』であったと聞く。

 日本の『明治維新』から始まった『文明開化』『富国強兵』の歴史をまっしぐらに突き進んでいった真っ直中にいた人だろうと考える。

 『雅』お爺さんから直に聞いた話として、…

★『大阪道修町』の話 

 日本の『薬屋』は、ごく最近まで『富山のマン金丹』だった、西洋医学の輸入により『薬学』も西洋風に急速に変わっていった。
 当初は米国の『リリ−社』等の輸入品が主流であった。自分(雅、爺さん)はその輸入業に尽くした。だから『武田の長兵衛(武田薬品の祖)』や『塩野義三郎(塩野義製薬の祖)』は良く知っている。彼らと一緒に今日の薬品業界の発展に尽力したから……』と
 住んでいる居宅も御影の近くに沢山いたので家族で付き合っていた。

★又、別の話で、

『日本猟友会』に入って、『銃』をやっていたが、若い頃は100発98中程度にはクレ−射撃も当たっていた。『審査員』の資格も持っている。(自慢話の一つでした)
 御影の家は『洋館の4階建て』で地下室もあった。第二次世界大戦の神戸空襲で焼けてしまったが、確かに700坪程度の跡地は戦後、僕達の遊び場所であった。

★母(禮)に聞いた話

 母が娘の頃、宝塚歌劇団に熱中していた頃、父(雅)もよく一緒してくれた。何組かは忘れたが、『組長』をしていた『初音礼子』と懇意になり、『礼子』の名は自分の『禮子』をあげたのだ。私(孫、英祐)が成人してからも、『宝塚新芸座』の「座長」の「初音礼子」さん(生前)とはお会いしたのを覚えている。

★母(禮)が男兄弟の中の一人娘であったせいもあって、野球がすきで、『水原』『三原』黄金時代の『早慶戦』を見る為に、東京のホテルに泊まって観戦に出かけた話等…
 いまだに、別当、土井垣、時代からの『阪神』の熱狂的フアンが自慢話にでる。

★戦後、父(士朗)を34歳で失い、未亡人家庭で貧乏のどん底にあった姫路の内に、丹波地方から、時々、母(禮)の応援に駆け付けてくれる『その頃の女中さん達』を目にして、母がどんな家に育ったのか?『思い』が膨らむことがあった。

★今も『雅、爺さん』の私への伝言は『切手収集(国内外)』として伝わっている。
 時々、海外の使用済み『切手』(貿易商時代の)を整理していて、やっぱり『爺さん』は「偉い人やったんや!」と感じさせられることがあります。それも、もう『貰い手』が居なく淋しい限りです。

 そうそう、もう一つ「驚かされた話」は『雅、爺さん』が昭和34年に姫路でヒッソリと死んだ時、後に『一文』のお金も残さなかったという話、これも『爺さん』らしい『アメリカ風』の徹底した現実主義(合理的)と感心させられました。

 とにかく、きっちりとした『明治の気骨』と『鹿明館時代の匂いの漂う』『ゼントルマン(紳士)』でありました。

又、夢に出てくるでしょう(面識もあることですから)。

[4]服部 明子さんからのコメント(2002年01月28日 23時23分23秒 ) パスワード
  

「大正製薬」が出て来ましたね。

確か大正製薬には「長尾氏」という重役がいらっしゃったはず。
越後の長尾氏の末裔とお聞きしたように記憶しています。
上杉謙信がどうのこうのという長尾さんです。

ここでもそういうご縁があったかも知れませんね。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年01月28日 23時24分57秒 ) パスワード
  

書き忘れましたが
長尾さんのお屋敷は芦屋にあった筈。
記憶違いとしても神戸あたりというのは確かです。

いろいろな見えない糸で本当に繋がってるのを感じます。
[6]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月02日 00時02分37秒 ) パスワード
  


私は、1180年代に武蔵国に下って、蛭が小島の頼朝の成長を心待ちにして、仕えた「比企尼」のイメージを、現代のロマンとして想像し続けている。


随想 私達の両親(昭和の比企尼…林原禮のこと。……御影比企家の嫡女)

    昭和47年4月30日結婚に際して  林原英祐(当時29歳)

 不思議に、私の記憶の出発が、昭和23年8月4日に始まるのは面白いと思います。

向かえの『健午ちゃん』の庭で兄ちゃんとトッチン(弟)と三人で遊んでいました。

 夏の日差しが西に傾き、僕達やんちゃ盛りの子供が走り回るには最適の時間…その日もいつものように、暗い病床の父の傍から逃げ出した幼い三体は外気を一杯吸って汗みどろで遊んでいました。…………

 床に伏せる父を持つ私の家では私達は少なくとも母の負担であったろう。当時よく向かえの『梶原さん(健午ちゃんの姓)』の家にお世話になっていた事を覚えています。  

 その日もいつものように遊んでいました。母方の祖母(比企繁)が母の応援で私の家に身を寄せてからどれくらい経っていたかは忘れましたが、とにかく私達3人を向かえの家へ呼びに来たのは、確かに『お祖母ちゃん』であったと記憶している。

子供心に邪魔をするお祖母ちゃんの言葉が腹立たしく映った。
 そんな時、さすが年長の兄は聞き分け良く私達2人の手を取って帰宅させた。

夕食にはまだ早いのに私はそんな事を考えていたようだ。弟は黙ってしっかりした足取りで付いて来た。

 家に入ると、母さんはいつもの様に父さんの床の横に黙って座っていた。何も変わっていなかった。玄関の隣にある座敷の間、床は西向きであったし、父は眼を見開いて天井の一角を見据えている様だった。でもずいぶん前から父さんの眼はいつも焦点が無いようであった。

「天井の木目模様に恐れていたと言う…」父さんの話を後になって聞かされたが…多分、もう、その時、父さんは怖い天井を見ないで済んでいたのかも知れない。いつもより楽で安らかな顔立ちであった。

 父が、母さんに言った。『礼子!(本当は禮と言うが、父さんはいつもこう呼んでいた)ずいぶん薄暗くなったが、今何時か?』と…  母はその時少し驚いてはいたが、…

 『4時半よ?まだ明るいわ!変な事言わないで!!』と子供をさとすように言っていた。

私達にも少しその会話は妙に思えた。祖母の顔は既に崩れかかっていた。

一生懸命何かを堪える様子がうかがわれた。

 父は恐らくその時既に、自分の去る時を知っていたのであろう。考えるに、父の当時の生活を聞かされる所によれば半年も1年も前からその日を知っていたらしい。

 生命の限界の前で闘った父さんの勇気と人間味を少しでも今日理解出来ることは私にとって幸せである。

 次の言葉は『礼子!******居るか?』と、私達には母さんの名前しか聞き取れなかったが、母さんが私達を招き寄せるところから恐らく私達の名前を口にしたのだろうと思った。

私達3人はとにかく母の言うよう床の近くに寄った。父が床に伏してから、こんなにも父の近くに寄ったのは初めてだった。

母はいつも父の傍に私達を近寄せなかった。
父の病気が肺結核で、当時、感染を一番恐れていたと後に聞かされた。
 私達3人を前に、父は意外にもはっきりと言ったのを覚えている。

そして、『次の言葉』が父さんが私達に贈った最後の言葉になってしまいました。

 『3人共、母さんの言うことを良く聞くんだよ!それから立派な人間になるんだよ!………………………………。』後半に何を言ったか、いまだに知らないが、母は多分聞き取っているだろうと思う。

その事については今まで聞いたことがない所を見ると母さんとの内緒話を言い残したのであろう。

 一日置いての葬儀は、私達にとって楽しいものであった。たくさんの伯父ちゃんや伯母ちゃんが遠くの従兄弟達が…………複雑な大人の世界をよそに、兄弟3人は御祭りのようにはしゃいだ。

 でもその中でいまだに忘れられない光景が一つあります。

 父さんの葬儀はみじめな程質素であったと後にに聞かされたが当時私達がそんな事を知る由も無い。

とにかく、お花が必要だと言う祖母の発言で母は屋根に咲き誇った『カボチャの花』を沢山集めて来て、一つづつ私達の手に持たせ、最後のお別れに両手で合掌させた。

「カボチャの花」が棺桶を埋め、私達3人は順序よくカボチャの花と共に、父さんに『さようなら』をした。

「父は遠くへ行く!」と母は言う。

浅黒かった父の顔は透き通る様な薄青色に変わった。そんな父の鼻や頬が所々黄色く色付いて見えるのは先程の私達の入れたカボチャの花の花粉がついたのか、母が泣きながら指で拭き取っていた。その色相は美しいものであった。


 翌日の昼下がり、私達は『父の骨』をこの目で見た。母は又泣いた。

そして母は『これがお父さんだ!』と私達に教えた。私達は泣き崩れる母さんの姿を見て悲しかった。母さんが泣かねばならぬそんな出来事が悲しく思えた。

子供にはよくそんなことがあるものです。父は遠くへ私達の傍から去った。

 私達はその日以来『父さん』と呼ぶ事を知らぬ人生に旅立たねばならなかった。

その時、兄(大作)7歳、私5歳、弟(利彦)3歳のことである。
参考までに母さんが32歳、父(士郎)33歳であった。                       
 夏も盛夏から残暑に差し掛かりつつあった8月上旬の播州姫路大塩町の出来事である。

それが、第二次大戦の敗戦(昭和20年)3年後(昭和23年)敗戦から出発した日本国民の平均より少し過酷な私達の人生の始まりの日でありました。

 『父さんに……!』

・私達は貴方の事を忘れたのではありません。
・例へ、仏壇に塵が積もり、一輪の花が消えることがあっても「父さん」を忘れておりま せん。
・母の胸に、私達の身体のなかに、時々「父さん」は目覚めます。
・「父さん」は去世して無力です。でも私達は「父さん」を知っています。
・一本の線香をたくよりも、私達はする事がたくさんあります。
・「父さん」は私達の中にだけ残された潤いが有って幸せ者になれるからです。
・母さんは今でも貴方の事を愛しています。それは私達だけに解るのです。
・唯一つ「父さん」にお聞きして詫びたいのは…
・「父さん」の言った『立派な人間』の意味が未だに解らないと言う事です。
・そして、その為に「父さん」は私から離れるかもしれません。
・私は無智か、それとも父さんの子供なのでしょう。
・鳥はいつか、この大地から飛び立って天に向かうのです。
・そして、その鳥こそ父さんの落とし子なのです。
・今年の夏、父さんの帰りたかった向島(尾道)の山に貴方の墓標を立てます。
・もう25年(回忌)だそうです。そして私達3人もきっとそこへ参ります。

 『昭和23年の秋、屋根一面に蔦を這った「カボチャ」は120余個の大きな実をつけた。』………

この話は家族4人で語り伝えた『当家の不思議な話』である。

 父が生きている内から私達の家族は充分『貧乏』であったと言う。

数年間、一家の働き手が『肺結核』で床に伏した家族が、又、身体一つを財産として生きて行こうと言う家庭がこのような状況下で如何に生き続けるか以前から母の悩みの種であったろう。その多くは理解出来そうに無い。

 私達兄弟3人の幼い仕草は、母を益々孤独化し、生きることの難しさと重大性を毎日感じさせたに違いない。

後で聞けば、母は余りにも世間知らずであったらしい。娘時代をなんの苦労も味わう事なく過ごしたらしい。

人生のはりつめた緊迫を身を以て感じることは彼女の往年の生活を知るものにとっては余りにも痛々しく感じられたと聞く。

 そして、当時の世相からして、母の再婚ばなしと、私達幼児3人の身の振り方がしばらくの間、親類縁者の中で取り沙汰された。

 そんな中で私達は無気力な生活をした。考えるに、その時こそ「私の物心つきし日」と名付けるべきと思う。

 私達が能動的に「母を感じ」真にあらゆる物から離脱した純粋の母性の光が何であるかを知らされた。

そんな時、私達の母の中に、小さな、ごく小さな社会への、人間世界への一種の矛盾とそれに対する際だった選択の瞬間があったと今想像する。

 母さんは私達だけの母さんに、その日からなった。それは「大袈裟」なことである。当時の世相はそのような事を許す社会ではなかったし、マレな選択であったと思う。

 土曜日の夜になると、よく東灘の住吉に居る母方の祖父母の所へ私達は連れて行かれた。私達には楽しみの一つであったが、何の為に神戸に出掛けていくのか当時の私達にはよく解らなかった。

でも幼年時代の記憶の一頁によく古着屋らしき所へ出掛けたのをかすかに覚えている。後になって知ったのだが、その時、母は自分の持参した花嫁道具(着物)のほとんどを売りさばいていたらしい。

母は美しく高価な着物を数多く持っていたらしい。随分永く元町のガ−ド下の古着屋通いをしたものだ。

そしてこれまでの母に、よくそれだけのことがやってのけられたと感心する。これが母の最初のチャレンジだったと思う。

 娘時代を4階建ての洋館に2〜3人の女中を傍に育った母によくもそこまでの環境への順応が出来たと驚く他はない。

でも当時の敗戦の焼け野原のなかにはこんな女性はたくさんいたのかも知れない。

 時はしばらく流れ、そんな生活費もしだいに底をつき始めた頃、母は生活保護を受ける手続きを取った。

誰がそんな事を教えたか知らないがとにかく無事に貸与される運びとなった。

しかし、育ち盛りの私達3人を抱える家庭では当時の生活保護費は衣類代にもならなかった。

当時の金額にしていくらであったかは忘れてしまったがとにかく惨めなものであった。

よく母は自分の食べる物を食べずに私達に与える事があった。未だにその癖が治らぬ事がある。

習慣とは恐ろしいものであると考えさせられる。

 神戸帰りに元町で『うどん』を食べさせて貰うのが私達の外出の楽しみの一つであった。

古着屋の帰りによく連れて行ってもらった食堂の名前は『びっくり食堂』と言ったが今は痕跡も残っていない。

いまだにあんな『おいしいうどん』は食べたことが無い。とってもおいしかった。

でも母は殆ど注文せずに私達3人に食べさせ自分はお茶をのみ子供が残した残飯を整理するだけだった。
もちろん、自分の大切な着物を今日も一枚売さばいた淋しさ等、私達が知る由もない。

 母の着物姿を想像すると、常に思い浮かぶ姿がある。ここにも私達だけの共通の母さんのイメ−ジがあった。

ほとんど同じ柄の物であった。色こそ染め替えられて次第に地味になっていったが、縦縞の1.5センチぐらいの柄の着物であった。疎らに金糸が光るのを母が気にしていたようだ。この着物を忘れることは出来ない。

 そして寒くなれば、無地のビロ−ドの様なコ−トを一つ持っていた。今もこうしたものは持っていると思うが最近目に触れるのは『共通の帯』だけになってしまった。

 母はパ−マを決してかけなかった。化粧もほとんどしなかった。こんな中に私達に共通の母さんに対するイメ−ジがのこる。

何か暗闇ででも僕たちには母さんを見つけ出せるような自信がある。その時代の特有の母へのイメ−ジであったのかもしれない。

 私達兄弟3人が小学校に行き始めた頃、母は仕事をする事を真剣に考え始めていた。

そして、まず最初に手を付けたのが『和裁教師』であった。母が自分の娘芸で身に付けた腕が社会で仕事(プロ)として成り立つ事を知ったのはその時だったらしい。

 これが母の2番目のチャレンジであったと思う。

 私の家に町の年頃のお姉ちゃんが数多く出入りするようになった。私達にたくさんのお姉ちゃんが出来た。お姉ちゃん達は母のことを『先生』と呼ぶ。

私はとっても嬉しかった。他の母ほど外見こそ美しくは着飾っていないが私達は『先生』と呼ばれる母が自慢であった。

美しい盛りのお姉ちゃんと見比べてとても嬉しかった。母がとっても美しく大きく私達の目に写った。

 母が仕事をし始めた頃から、急に生活保護の調査員が私達の家庭を訪れる回数が増え始めた。

昼に来てお姉ちゃんの下駄の数を数えて帰ったり、食事時に茶の間につかつかと上って来て食卓のオカズを覗いたり、御飯の米と麦の比率を問題にしたり、随分ひどかった。

母はよく仏壇の前へ私達を座らせて泣いた。母は女であったし、私達は幼かった。全く抵抗する事は出来なかった。母が泣いている時何が悲しいかを理解することは出来なかったが、泣く母を見て3人共泣く他はなかった。………

 母が例え何人の生徒(針子)を教えたとしても当時の田舎町でいくばくかの月謝が私達の生活費に足りたとは今考えても考えられない。

 しかし、世間の実際はそんなに甘くはなかった。しばらくして、『生活保護』は打ち切られるはめになった。そして母は仕方無く内職の強度を増さねばならなくなった。

『和裁』『洋裁』『茶道』『華道』『刺繍』『機械編み』に渡る教師と内職の夜なべの仕事が続いた。

私達3人が寝付く時、傍に座って仕事をする母の姿は夜中に目を覚ましても朝起きても常に一緒であった。『母は何時寝るのであろう??…』私達は知らなかった。

 そして母は倒れた! 『結核性肋膜症』であった。母は背中を切った!そして入院した。傷は縫い合わせる事が出来ない程化膿が進んでいた。今でも母の背中にその傷跡が大きく残っている。

 私と兄が台所の仕事を覚えたのはその頃からであったと思う。自分が食べる為に仕方無かった。

弟が空腹のため泣くのがやりきれなかった。カマドで炊く御飯の煙に悩ませながら泣き泣き兄と御飯をよく炊いたものです。オカズに苦労したのも覚えています。

小学3〜4年の私達には少々無理だったのかも知れません。学校で友達もそんな事は教えてくれそうにありませんでした。

 小学校も高学年に入った頃、僕達3人で内職に『にわとり』を飼いました。最初に飼ったのは雑種の3羽の「にわとり」でした。山で『竹』を切ってきて鳥小屋も造りました。

 兄ちゃんの鳥は『ブリマスロック系』で『親ドリ』と名付けました。

僕のは『雉』に似ていたので『キジ』と名付け、弟のは真っ黒だったので『カラス』と名付けました。

 3羽共、僕達の本当の友達で僕達の事を良く知っていて良く言う事を聞いてくれました。

卵をよく生んでくれました。
僕達の口に入るのは少なかったけれど、お母さんのお手伝いだ出来たことが私達の喜びでありました。
母さんは僕達に何時もこんな宿題を課せ自分達の力で解決させるように導きました。

その内に3羽とも死にました!!母が処分した鶏の死骸を鳥屋さんに返して貰いに…泣き泣き行くのを母は止めませんでした。
結局死んだ鳥は帰って来ませんでした。幾度もそれから同じ事を繰り返したようです。

母に話すと不思議にその話を何時も一生懸命に『そうか…そうか…』と聞いてくれました。
 
今考えると、母さんはその頃全ての事を知っていてまるでなにも知らないような顔をしていたのが解ります。教育とはそんなものかも知れませんねえ…。

 僕達が中学に入る頃、母さんが和裁を止めなければならなくなった理由を知ったのはそれからずっと後のことであります。

 僕達3人の男の子が成長して、大人に近付くにつれての悩みがあったと後に聞かされました。町の年頃の娘さんが家に出入りする事を避けようとしたんですってね。

 僕達が高校に入学する少し前から、母さんは今までに無い『喜び』の様な物を顔に現し始めたのを覚えています。

そして、あの痛々しくハラハラした「母さんの仕事」は全盛期を迎え、自信に裏打ちされた。

誰にも後ろ指差されない「胸を張った仕事」を選ぼうとしていたのです。   

 最後の母さんのチャレンジは『学習塾(寺子屋)』の開業だったのです。

地元の田舎町ではありましたが、町の小学校、中学校で3人の兄弟を全て『首席』で卒業させたのは「母さんの塾」の宣伝にはこれ以上のものはありません。

学校の先生も全員を味方に巻き込んでの開業でありました。
そして私達はいつの間にか『ジャッキ』で物を挙げるように逆さ吊りにされていたのです。

高校に入ってからは兄弟3人は『母さんの寺子屋』の講師にさせられました。私達3人は『マザコン』であります。

本当の『マザコン』であると思います。胸を張った『ナザコン』かも知れません。(嫌われます!)

 『母さんに……
・他人が僕達に苦労をしたかと問えば…
・母は別にして…
・私達3人は口を揃えて『苦労をした!』とは答えないだろう。
・なぜなら、少なくとも、僕達の中に苦労の…貧乏の…何であるかを知る者がいないから、・間違って他人がその幼年期の楽しい思い出を聞くなら…
・私達3人の話の中に物の欠乏と愛の存在を感じるだろう。
・そして、3人の話が余りにも楽しそうで、余りにも目が輝いているのを見て…驚かされ るだろう。ある人は感謝に満ちた大人っぽさを感じるかもしれない。
・その時、人々は僕達の母の存在が何であるかを知るだろう。
・真の母性はどこにでもある。誰にでもある。人々が気付かないだけである。
・教育とはそんなものであると母から教えられたと思っている。
・私達はそんな母のことが自慢である。
                                以上

          ……1972年4月30日 当時、英祐29歳
              原文のままを(写)としてワ−プロで整理した………
                  (昭和の比企尼…林原禮のこと…)

 
 平成10年11月 三男 利彦が死去した。(卒年 54歳)
 
 母(禮)を一番大切にした末っ子「利彦」が、不幸にも…先に旅立った…
母(禮)は86才で尼崎市武庫之荘に健在である。(H13.12)


弟(利彦)の通夜の席でのこと、弟の嫁(明美)に母(禮)が指図するように言った言葉、『明美ちゃん!その「ご飯」の盛りをもっと多くしてやって!!』

傍で聞いていた私が思わず「詰まる」ものを感じたのを「誰か?」が気付いただろうか?????

次回は5歳で別れた「父(士朗)」のことを書きます。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年02月02日 12時53分10秒 ) パスワード
  

32歳で3人の男の子を抱えての未亡人生活は本当に大変だったでしょうね。
でも身につけた教育や教養って支えになるものなのですねぇ。
手に職を付けるという言葉がありますが
大切なことなんですねぇ。
真剣に考えたことがありませんでした。

本当に立派なお母さまですね。
そして子供達もまっとうに育って、そして主席で卒業出来て、
お母さまは孟母でいらっしゃったのですね。

お父さまはご心配でしたでしょうね。
時代が時代ですから。


ではお父さまのお話の続きを楽しみにしております。
[8]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月02日 18時24分53秒 ) パスワード
  

随想:昭和の比企尼(禮)の夫:父『林原士良』 について    林原英祐

 父の事は余り詳しく知らない。

5才で死別しているので知っていればおかしい。

母とか祖父母とか伯父さんとかに『聞かされたこと』が中心となって頭に入ったと思う。

 例えば、尾道の向かえの『向島』の『江の奥』と言う谷には『林原』と言う『家』ばかりで、父の祖父の代以前から『庄屋』をしていた。だから「墓地」があんなに立派なのだ。

 又、その谷(江奥)から、当時、兄弟3人(省三:栄:士良)全て『大学』を卒業するなどは稀な事であった。等『田舎の自慢話』も随分聞かされた。

 父(士良)は広島の中学を出て、旧制の『大阪高等学校』を卒業後、大阪大学の工学部(造船科)を卒業し、三井造船(玉野造船所)に入社したそうである。

その後、戦前は、満州鉄道の『大連造船所』に勤務していた。と母(禮)によく聞かされた。

父母にとって『大連』は『スィ−トホーム』の地であったせいか、引き揚げる前の大連はそんなに悪い印象の地としては語らない。

むしろ良い想い出として聞いた(何故か、仲代達也と新珠三千代の演じた『人間の条件』の中国の光景が頭に浮かぶ…)勿論、小生(英祐)は未だ生れていない昭和17年未明の話である。

 その後、昭和17年になってから、日本に引き揚げて『尼崎(立花)』で私が生れる。

その頃、に父(士良)は、迫りくる『第二次世界大戦』を意識していたかどうかは別にして、播州姫路の海岸にある『塩業の町』大塩町で『武智造船所』を開くのである。

 後に聞かされた話であるが…

武智さんは、私の同世代の方なら、『武智鉄二』(白日夢…ポルノ監督)を御存知と思うが、その方の『お父さん』が御影(芦屋)の大富豪で当時『造船王』とまで言われた方だったそうで、その方に『認められ』…海軍の造船所『武智造船所』を開設したそうです。

 父を知る『父の友人(故人)』や『伯父さん達(故人)』の話によれば、『頭がすばらしく良い人間』でそのため『ヤマ気』が多く、『一発屋的』な面が、沢山のエピソ−ドを残しているそうです。(冗談半分に…生きて居なくて良かった!苦労させられていただろう。大金持ちになるか?乞食をしているか?どちらかである。云々……)

 そういえば、少し前(昭和50年代後半)の話ですが、母の友人がNHKのテレビを見ていて『特集…浮体工法「関西新空港」』の中で、姫路(大塩町)の武智造船所が出てきていた。

その中で、戦前戦中に鉄材が不足してきた時に『コンクリ−ト』の『タンカ−』を研究していた『造船技師』がいて、何隻かの『コンクリ−トタンカ−』を姫路で進水させている。

現在調査しているが所在が掴めない。生存も定かでない等アナウンサ−が言っていた。と… 多分御主人のことだと思うという電話が入った。

 母から聞いて、感激して(少し大袈裟だが…)NHKのディレクタ−に電話して話を直にききました。その時、母が密かに死んだ父から預かっていた『20枚程度のキャビネ版の白黒写真』をお送りして関係者にこれは貴重な資料だと感心されたのを覚えている。

 当時の海軍の造船所の中で『極秘裏』に進められた『秘密の計画(コンクリ−トタンカ−)』は多分表沙汰になると処罰される計画だったと思う。

にも関わらず、父(士良)が『造船技師魂』でどうしても『内緒』で写真を取って残したかった気持が伝わってきて、何かジ−ンとくるものを感じました。何となく、嬉しかった。そんな父が自慢でした。

 昭和23年8月4日に父は結核で亡くなっていますが、その後35年も経ってから、その写真が一度は表に出たのだから、それは素晴らしい事だとおもいます。

 母は(平成13年4月現在…86才)で存命ですが、残念ながら、その父の形見の写真は『結婚写真』と一緒に『阪神大震災』の時に家屋全壊で失ったそうです。

それでも、私達の記憶のなかに立派に残っているのですから、良いと思います。

 私はこの『コンクリ−トタンカ−の話』を戦中の全ての欠乏した中での『知恵の実例』として『語り伝える』つもりです。

 結局、関西新空港は『埋立て方式』で『浮体工法』は採用されませんでしたが、関西新空港を見る度、聞く度に『父(士良)』が蘇ります。

 武智鉄二監督のポルノ映画を見た時も『父(士良)』を思い出したのを覚えています。

考えてみたら、人々が過去を『歴史』を思い返すのは。必ずしも、一般論として思うのではないと思います。

関わり(主観的)のようなものが出発になるものです。
 
『西暦794年…平安京…ナクヨ、ホトトギス平安京!』等は漫画であって、歴史の初等教育が、このような形で年表を暗記することから始まるのはおかしいと考えます。

 父方の祖父(頑固者だったそうです)『庄吉』の口癖が『禮子さん!(母の事)…ワシは世が世なら「切腹者」じゃ!』『比企家(母の里)』と縁組をするなど考えただけでも恐ろしい!』と言ったという話を聞きました(父の兄伯父さん…省三)その事が、母方の歴史に興味を持たせました。

その事で『日本史』を良く知っています。鎌倉時代から現代まで興味を持ちました。それは別におかしいことでは無いとおもいます。

 父が早く亡くなったお陰で、父のことも以外と良く知っているのかも知れません。

現在のような『平和』で『物に満たされた』時代に浸っていると『どちらでも良い話』で片付けられる話です。

『中国』等は良く学習していて驚かされることがあります。家族団欒の夕食の席で、急に自分達の祖先の話をとうとうと話始める等、よく見かける光景です。

私たちの世界にも以前はそんな光景を目にすることがあったのですが、今は皆さんテレビなどで忙しくそんな光景は昔の話になってしまいました。 (完)

それじゃ又、夢を見たら書き込みます。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年02月03日 00時03分54秒 ) パスワード
  

阪神大震災でお父さまの記録になる物が無くなってしまって残念ですね。
でも1つはNHKで、1つはこの「平熱」で、そしてもう1つ原稿として残っているのですから
お父さまの記録は全てこの世から消えてしまった訳ではなく
いつか将来どなたかが堀り起こして再び世間に出るかも知れません。

「コンクリート・タンカー」のお話で、か
「比企家の歴史」で、か

検索なさった時に林原さまのお父さまの研究が再び人々の記憶に残されるでしょう。
お父さまはお喜びと思いますよ。

凄い時代になったね、と。


本当に素晴らしい歴史のお話をありがとうございました。
ネットで検索なさる方達のお役に立ちますから
蔭ながらその方達にも感謝されると思います。
[10]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月16日 11時54分46秒 ) パスワード
  

続編 『林原 禮』(昭和の比企尼)の独り言(86歳)

平成14年2月15日
母(禮)から『一通の手紙』が届いた!(前文は略しますが、小生の要請に応えてのものでした。)
86歳の高齢ですが、文章がしっかりしているので、原文のまま写して残す!



「覚えていることを書きましょう。あやしい覚えですよ。

雅(マサシ)のこと(解説 御影比企の当主、禮の実父)
 
明治16年の生まれ、2歳の頃父(福造)死亡、母(たま)と福井(手寄上町拾番地)の家に皆で同居(忠・彰・しげ(忠の妹)達の両親など)

県立福井中学を卒業後、京都の家へ同居、京都には忠(雅より15歳位年上と思う、京大に勤めていた)がいたから、学校は大阪の工業専門学校(阪大の前身:工学部機械)に京都から通学。

 卒業後、大阪に独立している。
今の、大阪駅の近く(此花区福島)に家を持ち、『日支テレジン商会(貿易商)』(神戸の海岸通り昔の居留地にあった)

 結婚は大正のはじめと思う。長男『佐(タスク)』大正3年2月12日うまれ(福井の堀家(母の里))、その頃(母親タマ)大阪に連れてきていた。
 
私(大正4年5月15日生れ、大阪福島)、私が病弱なので、空気のきれいな武庫郡住吉村へ転宅する。次男『能(シノブ)』からは住吉村で生れる。

『能』大正6年生、『重』大正7年生、だから『住吉』へは大正5年に来たと思います。

 阪大の工学部が出来たのは遅いと思います。

 会社が合併して、『フレザー商会』になったと思います。

 アメリカへ行ったのは、、、
その頃は外国へ行く人は普通には無く、華族か(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵〜戦後なしになった)大変な用事のある人でないと行けなかった。

『ハワイ』「ロサンゼルス」「ニューヨーク」「ワシントン」と廻ってきています。

 お船で「近衛」さんと一緒だったと話してくれました。

 会社が招いてくれたので、行けたのでしょう。
 大正7年か8年の頃と思います。

 丁度、私が親和高女を卒業して、京都の女専(今、府立大学に合併した)の寄宿舎に居た時に外国から手紙が良く来ていたので覚えています。

『フレザー商会』は東京と横浜と大阪と神戸、、、くらいかしら??
日本の総支配人ということです。英語がペラペラでした。

 『シオノギ』等は小さい薬局の頃からの出入りです。「薬」を輸入していた。

 ピアノもドイツ製で、私が小学校2年頃輸入してきた物です。

 戦争で20年に全滅です!(解説、ここでぷっつりと終わっている)



中川稔子のこと(解説、私が今回一番知りたかった人、すごい人だと思っている。)

比企たま(旧中川たま)の兄の子、「たま」(雅の母)の里である中川の嫁が亡くなって、後に来た嫁の子供で、「たま」の兄がなくなったら、稔子(小さい子供)を置いて帰ってしまった。

      ので、兄の子供なので「たま」が引き取って育てた。

 私より、7つか8つ年上だと思う。 
 「繁(私の母)」が良く育ててくれたと思う。

 独りで生きる為に、大阪の日本赤十字の学校へ入れ卒業する。
『緒方先生』が大阪日赤病院に居られた頃に、看護婦をしていた。
梅田で独立開業された頃、引き抜いて病院を止めて『緒方病院(眼科)』に勤めていた。

 緒方先生が、大分の臼杵(うすき)というところの出の人で、別府の駅前の流川の所に、500坪の病院を建てて『眼科病院』を開く。母屋も同じところに有った。

 奥さんが病弱で早く亡くなられた。先生の姉さんが「出戻り」で居られて、お世話されていたのを手伝っていた。

 まだ大阪に居た頃に、次男の彰(?)NHKのアナウンサーをしていた、後に出世して『総合論説委員』になった「あの緒方さんのこと」を連れて住吉の家へよく遊びにきていた。のを覚えている。

 緒方病院の婦長として最後まで先生を見送って上げた。籍は入れなかったけれど、母親(あきらちゃん等へ)の役目は通していた。

 先生の死後、「あきら」が東京へ『稔子』を引き取る話も度々出たけれども、『稔子』が別府の地を離れたくないと言い『独り暮らし』をして残った。

 ある昔からの知人が世話(老後を考えて)をしてくれて、『上野』という独り暮らしの老人と60歳をすぎてから結婚した。

『雅(父)』が生きていて、後(自分の死後)が心配だから結婚してくれと許した。

『上野稔子(中川)』となった。(別府でなくなった。)

上野さんは山口県萩市の人で前の奥さんが萩焼の名人(田原陶兵衛)からでているそうです。(亡くなったときに、田原陶兵衛の萩焼の食器がひと揃え置いてあった)

疲れましたので、今日はここまでにします。続きは又かきます!

[11]服部 明子さんからのコメント(2002年02月16日 12時34分19秒 ) パスワード
  

皆さん優秀なんですねぇ。

お母さまのお父上さまは当時、日本をリードなさるお立場にいらっしゃったのですねぇ。

大正時代に洋行って普通の人には考えられない「夢」のお話ですね。
ドイツからピアノを輸入なさったのですか。
凄いですね。
どんなピアノだったのでしょうね?
日本ではスタインウエーが有名ですが
オーストリアに手作りのピアノを作ってるところがあって
そこのをドイツ経由で輸入なさったのかも知れませんね。


戦災に遭うまで、どんなに豊かな生活をなさっていたか
ちょっとだけ拝見しましたが
日本のエリートの暮らしをなさっていらっしゃったのですねぇ。
[12]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月18日 20時27分48秒 ) パスワード
  

結び 『後書き』     林原 英祐(禮の次男)

 鎌倉比企家が『女系』と歴史家に言われたとあるが、その後、越前比企家にその伝統はどのように伝わったかを探索することが、小生のロマンであった。
 
そして、結果として『家風:後家猛女』の流れを検証した。その代表選手として、ベストEを以下に上げて、『女系比企一族』の謎の結びにしたい。

前に、『女紋』の話を述べたが、『比企家』への「入り嫁」が血筋(ハ−ド)とは関係無しに、嫁ぎ先で家風(ソフト)に染まるなどは、現代にあっても、『貴重な教訓』に思えてならない。

 考えて見れば、今日のコンピュ−タ−社会(全盛期)にあっても、ハ−ドの恐しいまでの発達と、それを補完するソフトの遅れが『漫画的』に浮き上がって来ている中で、比企家の入り嫁(猛女達)の奮闘は教示的で意味深い物を感じさせる。

 鎌倉時代から伝わる『比企尼』の話、『松下禅尼』の話等は比企一族の血筋の中にある話であったが、越前福井の比企家の話は、入り嫁達(他人)の話であります。

 そして、E代比企尼とした林原禮(小生の母)は御影比企家(比企雅)の嫡女の話であり、その『禮』と共に、女系が絶えるという話であります。

 何か、鎌倉中期の『竹御所』の悲話を思い出すような話であるが、多分『血筋(ハ−ド)』は絶えるが、お婆ちゃま達が残した『家風(ソフト)』は「とこしえに…」生き続ける信じます。

そして、大袈裟な話とすれば、『東洋』が『西洋(アングロサクソン)』に勝利するのはそのような『ソフトの継承』技術であると考えます。

 地下に潜った『比企筋』の血が『女紋』のようにして、生き続ける話は楽しいと思いませんか?

 隣の家で、そして街角で『比企尼』の『猛女』達に出会う時、鎌倉時代から永く引継がれた我が国の文化そのものを感じ『誇り』に思えませんか?

 私は、戦後(比企の乱)800年の比企残党の戦いを感じるのです。そして、その事が歴史そのものであると考えています。
 
イメ−ジとして、薩摩の国から『サツマ芋』を代用食にしながら、青年達を送り出す家族愛に勝るものは無いと思い続けています。(明治維新にあった話…)

最後になりますが、、、越前福井『比企家』の比企尼E名の駅伝レース(タスキ渡し)

●初代越前比企尼『リヨ』(1697〜1773)享年76歳…生田十左エ門の娘
           『3代比企佐左衛門榮搶の後妻』…心光院常譽妙照大姉
 先妻『リノ』が1歳の乳飲み子(4代榮禎)を残し19歳の若さで他界する。
先妻の鈴木家は松平藩の重臣(家老)の出で、苦心の策として鈴木家の親戚筋の
生田家から、一度『鈴木家』に養女に入れて『比企家』の後添えとして、入っている。

後妻『リヨ』の役割は、嫁いだその時から嫡男『榮禎(1歳)』の養育が待っていたことである。

私はこの『後家リヨ』は『乳母』のような存在の人でまさに『比企尼』そのものであったと考えている。
 3代「榮搶」が47歳という比較的、若死であったことを考えると、『後妻リヨ』の比企家に於いて果たした役割は大変なものであったと推察する。

●二代越前比企尼『チヨ』(1754〜1834)享年75歳…筒井仁右ヱ門の娘
           『5代比企佐左衛門榮脩の後妻』…専求院清譽白法大姉
 6代榮庸(越前比企家の最高峰)の実母であり、その嫁『キン(3代尼)』を育てた姑である。

 『チヨ』は「亀之助(後の6代榮庸)」と『捨五郎(後の真田源五郎幸孝)』と「三十郎(後の本多門左エ門)」の3名の男子と菅沼平兵衛室『ナヲ』を育てている。                              

子宝に恵まれた『比企尼』であったと考える。

●三代越前比企尼『キン』(1789〜1870)享年81歳…横田作太夫の娘
           『6代比企佐左ヱ門榮庸の後妻』…智照院光譽妙貞大姉
 福井松平藩の重臣『横田家』から『比企家』に後妻として嫁いだが、嫡男『榮信』を35歳の若さで失い、『跡目相続』で活躍する。
 
養子『8代比企幸次郎栄貞』(先代の孫)の相続に成功するが、『栄貞』も25歳で病死する。
 不幸の連続の中で、『7代栄信の妻』…『モト』に思いを託し、孫『9代栄徴』の養育に全てを掛ける。

『榮貞』(キンの養子)の死亡時点での、、、
 『キン』(当時62歳)の取り巻き…
  ★3人の娘達  @嫡男『榮信』の後家『モト』(当時30歳)
            A8代榮貞の室(キンの実娘)後家『リュウ』(当時29歳)
            B鈴木主税重榮の妻(キンの実娘)『ジュン』(当時30歳)
  ★3人の孫達  @9代当主『榮徴』(当時12歳)
            A10代『儀長』(当時10歳)
            B別家『福造』(当時6歳)
 
明治維新の松平春嶽の片腕といわれた『鈴木主税重榮』の妻『ジュン』(キンの嫡女)の事が知りたいが、記録が残っていない。

●四代越前比企尼『モト』(1822〜1890)享年68歳…津田弥太六の娘
           『七代比企五郎左ヱ門榮信の室』…清壽院儀譽賢哲大姉
 上記の家族『後家キン一家』の後継者は自然な形で『キン』から『モト』に移って行った。

『モト』の苦労は、嫡男『榮徴』の育成と次男(加藤家養子)と三男(儀長)、四男(福造)の養育であった。男子4名の子育ては並大抵ではなかったかと創造される。

『モト』婆さんが『嫡男(榮徴)』を49歳(比較的若死に)で失うのであるが、その時点での「モト」67歳で次男儀長47歳が相続する。

1889年(明治22年)のことである。その当時の福井比企家の家族構成は、、、
後家『モト』67歳を中心に、家長(次男)『儀長』(47歳)妻『サダ』37歳、後家『先代榮徴の妻(サミ)』42歳、後家『別家比企福造の妻(タマ)』42歳と、

子供たち(従兄弟たち)
『忠』(9代榮徴の嫡男)23歳、『彰』(10代『儀長』の嫡男)5歳、『雅』(別家福造の嫡男)6歳のいとこ達が同居していた。

そして、『タマ』が中心的な後継者になっていくのである。
『モト』婆さんは若くして、名誉の死を見た『別家福造』の妻、『タマ』が気になって仕方が無かったと創造される。

●五代越前比企尼『タマ』(1857〜1929)享年72歳…中川一歸の六女
           『別家:比企外五郎福造の室』…淑芳院殿明譽玉成大姉

私の実母の『禮』の敬愛する「お婆ちゃん」は、この『たま』婆さんである。
実際は「禮」は3代「モト」婆さんと瓜二つの人生を送るのであるが、「たま」を通じて伝わるものがあるのか、とにかく「たま」婆さんの大ファンである。

 前節で「たま」の姪(中川稔子)について、「禮」の独り言を書きましたが、私はこの「稔子」婆さんの壮絶な生き方がこよなく好きである。
考えてみたら、実質的にこの「稔子」の母親的(伯母さん)な存在が「たま」婆さんであったことが今回始めて、私の知るところになったわけで、感激である。

「稔子」(私たちは通称『別府のお婆ちゃん!』と呼ぶ)の存在は「鎌倉の比企尼」そのものの面影を残す話である。

仏教的な表現になるが、別府で独り旅立った(死去)とき、片付けにいった「仏様」の脇に「田原陶兵衛」(萩焼の)名器(一人分、、自分が使っていたものらしい)が置いてあった等は、余りにも「美しい話」ではないかと思える。

母の口癖に、「中川家」は越前福井松平藩では比企の上席の家柄であったと言っていたが、何か、「稔子(別府の)お婆ちゃん」にノックアウトされた感じですね!!
すばらしい『品位』のある話に接して、心が洗われる気持ちである。

比企系図に出てこない『アングラ』な中川稔子婆ちゃん(失礼、上野稔子)に拍手喝采である。そして「たま」婆さんはその事一つを取り上げても、すばらしい5代比企尼に相応しい人である。


●六代(番外)越前比企尼『レイ』(1915〜2002)享年87歳…比企雅の嫡女
           『林原士朗の妻』      …

私の母親で、既に『主演女優賞』の人ですので省略します。

MEMO(猛女婆さん達)
               享年 『タスキ』期間   『後家』暦      記事 
『リヨ』婆さん(1697〜1773)76歳(19年間) 42年間  先妻の乳飲み子(榮禎)
『チヨ』婆さん(1754〜1834)75歳(45年間) 18年間  5代榮庸を手塩にかけて
『キン』婆さん(1789〜1870)81歳(48年間) 23年間  実子『榮信』35歳で死去
『モト』婆さん(1822〜1890)68歳(33年間) 40年間  主人「榮信」と35歳死別
『タマ』婆さん(1857〜1929)72歳(14年間) 45年間  主人「福造」と39歳死別
『レイ』婆さん(1915〜 2002?)87歳? 50年間を超える。主人「士朗」と34歳死別
以上
共通して言えることは、、、
@長寿であること。A後家暦が長いこと『尼』。B子育てに専念したこと。C主人と若く死別していること。D駅伝レースのように、タスキが繋がっていること。など、、、

また、母(レイ)から『独り言』が着いたら書きこみます。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 00時11分49秒 ) パスワード
  

>「比企の尼」達に共通して言えることは、、、
@長寿であること。
A後家暦が長いこと『尼』。
B子育てに専念したこと。
C主人と若く死別していること。

「比企の尼」達は800年に亘って大変な人生を生き
とうとう林原さまのお母さまで絶えてしまいますが

将来どなたかが「比企の尼」の存在を思い出した時
このスレッドが役に立つと思います。

800年頑張り通した「比企の尼」達の満足そうなお顔が浮かぶようです。
ご先祖さま達が林原さまに感謝なさっていらっしゃると思います。
[14]林原 英祐さんからのコメント(2002年02月19日 20時16分15秒 ) パスワード
  

 比企 佐(タスク) 比企雅の嫡男

手紙が出てきました!
昭和43年2月18日 『比企佐(タスク…比企雅の嫡男)』から比企 元(本家)へ

『元』氏は以前書きました「比企系図」ん編者「比企忠」の嫡男で日本国有鉄道の理事を勤めた比企本家最後の当主である。
 
 比企 佐は母(禮)の実兄で甲南高校から青山大学を卒業した温厚な長男で塩野義製薬の秘書部長が最後の勤めでした。歴史に大変興味を持って最後まで勉強していましたが、病魔には勝てず、不完全燃焼で56歳で亡くなりました。

 無念であったろうと、心境を推察して、ここに、小生の「まとめ」を供養する。天国でお楽しみあれ!!


 前文を略す。…(手紙文の引用)無念の跡

 私の道楽の御朱印船貿易の勉強…これは南方へ行って余り何も南方の事を知ら無さすぎだから日本に帰ったら、何ぞ南方関係の勉強をしてやろうと思っていたのが、結局これになってしまいました。

 そして、御朱印船を大阪より出した『くすりや』があるので『くすりや一族』を探していた処、くすりや一族が道修町でも相当盛業で明治前まで営業していたし、その前は堺におり、断続的に判ってきた。その協力を会社(塩野義)の社史編纂室長がしてくれていたのでした。

 彼は『薬屋甚右ヱ門』の御朱印船もよいが、お前の比企の家系の方が余程面白いのと違うかと言うことで、始まった家系の勉強に足を突っ込んだ訳です。彼は僕と入社同期で名前は(ひきめ)と言う変わった名前で彼も興味で(ひきめ)の研究を始めてそれで僕にも提案した訳です。

 そして、遂に『吾妻鏡』の古本を入手しました。本屋のおやじに先生ですかと問われた。古本で8,000円もするのだから仕方がないでしょう。

 太田亮著『家系・系図の入門』と言う本によると系図は殆ど偽作物らしいです。
藤原秀郷まで藤原で良いと言うことです。しかし、戦国以後は信用出来るものであるそうです。

 福井の比企が何故、江戸で16歳の子供が300石もの大禄で召し抱えられたか、この点何か訳がないといけないと思います。

 いずれ、会社へ出ることが出来、少し暇ができれば、昨年の丁度一年遅れになりますが、全国の比企姓に一度手紙してみます。中には一人や二人は興味のある人もいるでしょう。

 それはさておき、近き御先祖の儀長、福造、忠様等に関しては事細かに30、40項の履歴書が書いてあり、父『雅』のは小学校より書いてあります。小学校が4年制やったことが判ります。

 『元』様の分も紳士録で少々、写してありますが書き込むのには少なすぎ他人のことみたいですので、もっと詳しい履歴書とか、特徴とかを特別に作ってお送り下さい。お願いします。

 それから、初めに出て来る比企数馬義重は別にして、東郷城主長谷川藤五郎(姪…オイとこの頃は読んで良い)也。東郷は福井市郊外にあり、東郷城主11万石長谷川藤五郎秀一は小田原城攻めの北条氏に2度、豊臣方の大将として名が出てくるし、豊臣の姓を賜り東郷侍従豊臣秀一(亦、長谷川藤五郎)となる。

 今度はこの長谷川をどうしても調べたいと思っている。それには一寸達者になって図書館にいけなくてはどうにもならない。

 比企数馬義重は相州生国武蔵姓源とあり姓は源と言うのも一つの鍵である。

福井の鎧や兜をみられたことがありますか?、、僕のまことにおぼろげな記憶では中学3年頃に行った時に鎧等が『真っ黒』で「旗さしもの」も黒に金糸であると聞いて赤とか黄を想像していた年頃で失望した覚えがあります。

 しかし、福井は黒がどうも藩の色であったらしいことが判り、あの時に見せて貰っておけばやかったなあと今頃思っています。

 又、堀を埋めてからの大阪夏の陣で越前は抜け駆けをして真田幸村以下の首を上げて遂に城内に火をつけて落城させてしまうのであるが、大阪の堺の童歌に『かかれ越前衆、なんだかかれ越前衆、命知らずの真っ黒の旗』と言うのが本にある。

 しかし、比企数馬義重は寛永10年。16歳で召し出されるのであるから、この人は勿論、大阪の陣に参加している訳もない。

 朝起きて、床の中で『歯を磨く』ような生活しか出来ない今では、なかなか思うようには何も出来ません。

 先ず、御先祖様の加護により、健康を回復して、それから『謎の比企姓』に取り組んでみます。
 どうぞ、お手数ですが、履歴書詳しくお願いします。お体を大切に…敬具


 元 様                             佐より
                         S.43.2.17記


 英祐補足…昭和45年4月22日(その約2年後)御影比企の2代目『佐(タスク)』は、持病の『喘息』が悪化して帰らぬ人と成りました。

その思いが私に乗り移ったのでしょうか?『正覚院殿清譽佐山居士』の御冥福と、比企氏の謎の解明をお送りします。
                                  合掌   
 『佐』伯父さんは小生の母『禮』の実兄で、56歳の若さで死去している。

 従姉妹の『公子(長女)』『邦子(次女)』は、もう、その叔父さんの歳に近付いていると思うが、 先日、邦子(辰巳姓)に便りを出した。

[15]服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 22時51分09秒 ) パスワード
  

不思議なご縁があったのですね。
 
>比企 佐は母(禮)の実兄で甲南高校から青山大学を卒業した温厚な長男で
>塩野義製薬の秘書部長が最後の勤めでした。

>御朱印船を大阪より出した『くすりや』があるので『くすりや一族』を探していた処、
>くすりや一族が道修町でも相当盛業で明治前まで営業していたし、
>その前は堺におり、断続的に判ってきた。

>お前の比企の家系の方が余程面白いのと違うか
>と言うことで、始まった家系の勉強に足を突っ込んだ訳です。


見えない糸に結ばれている、というのを感じます。

「くすりやさん」と「比企家」は何等かの関係があったのかも、でございましょうね。
ヒキメ役とは昔、悪霊退散に弓を鳴らした係のことだそうで
藤原氏と昔お知り合いだったかも、ですね。

今は知らない同士だけど、昔は先祖が親しかったり、本当は血で繋がってたり、
そういう事があったのかも。


「御影比企家」が絶えてしまうのは惜しいですけど
御影比企家に繋がる方がこのスレッドをいつか見にいらっしゃるかも知れませんね。

そして越前比企家の流れの方にとっても非常に参考になりますから
佐伯父さまのなさりたかった事が完成されて
そして後世の「比企一族」の方達がお喜びでしょう。

「比企の尼」達の苦労が分かって貰えるといいですね。
[16]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 13時08分16秒 ) パスワード
  

ドイツのピアノのお話で資料が出て来ました:

私が書いたピアノはウイーンの製造会社 Bo:sendorfer という会社です。
o: は Oにウムラートなんですがドイツ語のフォントが使用できないので o: で代用しました。

1828年から製造しているのですよ。
ベッセンドルファーとでも発音するのでしょうか?
今でも手作りなんです。
時々アメリカに売りに来るようです。


多分これが住所と思います:

L. Bo:sendorfer Klavierfabrik GmbH
1010 Vienna, Bo:sendorferstrabe 12 ← STRAβEだと思うのですけどね
Austria




他にもピアノで有名なところと言うと Schimmel のようです。
日本人はスタインウエイでしょうけど。


私のドイツ語はもう錆びて使いものにならないのですけど
以上が「夢」のドイツのピアノのお話のフォローです。
どんなピアノだったのでしょうね?
[17]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 14時41分39秒 ) パスワード
  

検索しましたところ、ありましたよ!
「ベーゼンドルファー」ですって。
やっぱり私のドイツ語はだめですねえ・・・

高価なピアノなのでアメリカのお金持ち(我が家のマザー)にご案内が来て知りました。


http://www.people.or.jp/~piano-world/shoukai/shoukai2.htm
以下コピーですがこれからサイトの方にご許可を頂きに行って来ます。

 4)ベーゼンドルファー
 現在でも製造を続けているウィーンのメーカーで、1828年にイグナツ・ベーゼンドルファーが操業を開始しました。創業以来、量産を試みず、丁寧にピアノを製作してきました。時代の変化にもうまく対応し、イギリス式アクション、鉄のフレームの他、ソステヌート・ペダル(グランドピアノの真中のペダル、アップライトの真中のペダルとはまったく違います)も採用しましたが、あの優しい、柔らかな音色は素晴らしいとしかいいようがありません。家主は現代において最高のピアノを製造しているのは、例外はあるかもしれませんが、ベーゼンドルファーではないか、と考えています。

 現在のベーゼンドルファーは他のメーカーと違った特色をいろいろ持っています。他のメーカーはケース(独特の形をしたグランドピアノの外枠)をしっかり固めて響板をきちんと鳴らそう、と考えますが、ベーゼンドルファーはピアノ全体を鳴らそう、と考えます。そこで、ベーゼンドルファーはケースの木を響板と同じスプルースという松の一種を使います。

 ということで、他のメーカーとかなり異なった特色をもっていますので、人によっては扱いづらい、と感じるようです。それは家主も同じです。とくにフォルテ(強く)の音をどう処理していいのか、いろいろ課題は残されています。

 とはいえ、あのピアニッシモ(非常に弱く)の美しさは比べるものがなく、家主は大好きです。

 もう1つ、ベーゼンドルファーの特色を紹介させていただきますと、エクステンドキーというのがあることです。現代の通常のピアノですと鍵盤は88鍵ですが、ベーゼンドルファーの場合、225cmや275cmのモデルでは92鍵、290cm(インペリアル)では97鍵と低音部にさらに鍵盤がつけられております。これはただ単に低い音が出る、というだけではなく、それだけ、とくに右のペダルを踏んで弦を共振できるようにした場合、これらの太い弦も共鳴してよりたっぷりとした音が出る、というわけです。
[18]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時13分02秒 ) パスワード
  

以下のメールでご許可を仰ぎました:


初めまして、も失礼なのですが
事後承諾で申し訳ございませんが

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100227_17.html

にベーゼンドルファーのピアノについてコピーさせて頂いてよろしいでしょうか?
もしご不快にお思いでございましたら
URLだけでもご紹介させて頂きたいのですが。


実は源頼朝の乳母だった比企家のご子孫の方が
お祖父さまが昔ドイツからピアノを輸入なさったというお話を書かれたので
ベーゼンドルファーかしら?
とわたくしがフォローの書き込みをしたのです。

それで検索しましたらお宅さまの「ぴあのわーるど」のサイトと出会いまして
どんなピアノなのか掲示板に許可無くコピーさせて頂いたのです。

わたくしの夫の両親は(義父の本職は物理学者でしたが)
義父はNYのメトロポリタンでトスカニーニの指揮でオペラ歌手になるか
物理学者になるか迷った人で
義母はピアノがうまく一族にはアメリカでは有名な指揮者がいてという家庭の出身で
義父は子供の時にドイツから亡命して来たバイオリンニストについてバイオリンを習ってた人で
義父の父親というのがこのドイツ人のパトロンをしていました。

義父の父親は医師で、その友人にはイングリット・バーグマンの夫だった歯医者もいます。
残念ながらイングリット・バーグマンは1950年ごろ不倫をして51年に双子を生んでいますが。
ロッセリーニ監督だったように記憶しておりますが。

それで今年の正月早々義母にベーゼンドルファーからピアノを買って欲しいという案内状が来たのです。
多分ウイーンの住所らしきものを上記URLに書き込みました。

という訳でベーゼンドルファーというピアノを上記のサイトで紹介するのに
お宅さまの書き込みを利用させて頂いてよろしうございましょうか?


ながながとお目障りなメールを致しました。
事後承諾で申し訳ございませんが
ご許可頂きたくメールを差し上げた次第でございます。

スミス 服部 明子
[22]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時50分36秒 ) パスワード
  

<11>に書き込んだ時はベーゼンドルファーからの手紙を処分してたと思いましたが
今日机周りの整理をしたらヒョッコリ出て来たのです。

1月25日から27日にかけてベーゼンドルファーがピアノをアメリカに持って来るから
1月25日は(先方が希望する?)予約客のみ
1月26日は希望者の予約を受け付け
1月27日に一般公開する
と書かれています。

として
These Viennese Masterpieces will be available for inspection and purchase <only> at
Keyboard Concepts.


アメリカでのベーゼンドルファーの代理店はキイボード・コンセプツというお店だけの
独占販売だそうです。
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 15時53分59秒 ) パスワード
  

更に案内状の紹介:

....direct from the Bo:sendorfer Factory in Vienna, Austria.
This collection will include the 290 Imperial, the new 280 Concert Grands, a rare 200
Chopin in Pommele Mahogany, and the extremely rare 214 in Satin Rosewood. Many are
"one of a kind" works of art that can be found nowhere else in the world.



案内状の質疑応答分より:

「どうしてベーゼンドルファーのピアノはそんなに高価なのか?」という
アメリカ人の素朴な質問にこう答えてます:


材質を揃えるのと人材確保が大変だから。
徒弟制度で、コースをマスターするのに12年以上かかる。
そして1台のピアノを作るのに5年かかる。
世界中で毎年400人しかベーゼンドルファーのピアノが持てない。


スタインウエイとどっちが良いのか?という質問には

The choice is obvious.
B:osendorfer.
[24]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 16時01分24秒 ) パスワード
  

英語の部分はかなりドイツ的な(オーストリア的な)語調の文章です。
[25]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 16時55分51秒 ) パスワード
  

30分ほど前に「ぴあのわーるど」の家主さまよりご許可頂きました。
<m(_ _)m>ぺこり


どうしてご報告の書き込みが遅くなったか、と書きますと
送付直後に例の(いつもの)「強制終了」が掛かってしまったので
マシンを切ってリスタートして
メールを再送付するのに
モタモタしていたのです。

このままで良いとおっしゃって頂きましたので
皆さんも詳しくは上記URLでピアノとは?というご説明を読んで下さいね。
[26]林原 英祐さんからのコメント(2002年03月19日 21時05分48秒 ) パスワード
  

しばらく、ご無沙汰していました。失礼の段お許しください。
今日は又、結構な(高尚な)お話をありがとうございました。
小生、ピアノの話は無学につき、今度母に会います時にこの服部先生のご教示をコピーして渡します。
ひょっとしたら、ボケが発覚するかも?リトマス試験紙に丁度良いと考えます。
とにかく、元気で仕方がありませんから、この英語も??
ところで、最近 ホームページビルダーの勉強をしていまして、出来れば、今日まで明子先生に教えていただいた「比企物語」を索引を付けて「ホームページ」に作ってみようと志しています。
さて、考えどおりに出来ますか、お楽しみに、、、じゃあ又、書きます。ありがとうございました。とりあえずお礼まで、、
[27]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 01時00分30秒 ) パスワード
  

下記でも検索出来ました。

http://www.boesendorfer.com/intro.html
http://www.bosendorfer-jp.com/

ただし、わたくしのマシンでは
上のURLのドイツ語または英語選択に英語を選択したところ出ませんでした。
下記のは日本語のHP(日本ベーゼンドルファー社のHP)で行けました。


どんなピアノだったか、他にもベヒシュタイン、シンメルその他ありますから
ロマンですね。
下のURLでは世界の名ピアノ勢ぞろいに行けます。
1800年代のピアノ達。
豪華けんらん!


ご自分のHPをお作りになられるのですか?
いいですね。
そうしますと画像も発表できますものね。
頑張ってくださいね。
ご先祖さま達もお喜びと思います。
[28]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 02時14分45秒 ) パスワード
  

http://www.bosendorfer-jp.com/

の下の方のアンティークのピアノの紹介サイトも素敵ですが
輸入中古ピアノの欄に行ってびっくりしました。

1998年のベーゼンドルファーが600万円
1940年代もののスタインウエイが850万円←こちらは鍵盤が象牙使用だから


お母さまが小学校2年生あたりでしたら当然鍵盤は象牙で
当時でももの凄い宝物だったのでしょうね。


お母さまの心のピアノ
せめて製造会社だけでも思い出して頂けるといいですね。
[29]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 02時44分25秒 ) パスワード
  

どうしてワタクシがピアノのお話に拘るのかと申しますと

母の家は海運業をしてましたが(後、没落)
近所の母の友人の家は陸送業をやってて(当時は馬を使用・現在も盛業)

母の友人の家にはピアノがあった、と。
母はせいぜいお琴でしたから。

ワタクシの子供の頃は友人宅に行けば床の間にキンキラキンの袋に入ったお琴が立てて
掛けてございました。


母の友人の娘がわたくしと同じクラスで
いかにもお金持ちのお嬢さま
それは母の友人の若い頃と同じ。


母は「あそこの家はお金持ちなんだから」とよく申しておりましたが
わたくしにはピンと来なかったのですけど
どの程度のお金持ちだったのかピアノ1つでも分かろうという事でして


「御影比企物語」にはそういう大正時代のロマンが残っているからでございます。
ロスに住んでいる旧華族の方達のお話の華やかさと違って個人が「脳力」で成し遂げた
という成功物語には今に生きる私達にも充分夢を与えてくれます。


そしてワタクシが子供の頃に母の友人の娘に対して持っていた対抗意識の愚かさも
ズバリわたくしには反省となって身に応えます。


昔の記憶を残して置かれるというのは子孫の方にはとても助かります。
子孫の方達にだけではありませんし。


林原さまの「比企物語」は本当に壮大なロマンでございますよ。
[30]服部 明子さんからのコメント(2002年03月22日 02時16分26秒 ) パスワード
  

キーボード・コンセプツのHPより
http://www.keyboardconcepts.com


ベーゼンドルファー:オーストリア製

B・endorfer is the most prestigious piano in the
world. Made in Vienna, Austria since 1828, by the
most experienced master-craftsmen, the tone and
touch are second to none. B・endorfer FAQ's
www.bosendorfer.com


シンメル:ドイツ製
Schimmel Pianos have been precisely handcrafted in
Braunschweig, Germany, since 1885. One of the
finest piano manufacturers in the world.
www.schimmel-piano.de
[31]林原英祐さんからのコメント(2002年09月01日 14時49分09秒 ) パスワード
  

 しばらくのご無沙汰でした。

 今年のお盆は無事に過ごせたと思っていましたら、、、、
 又、夢に悩まされています。

 比企筋が女系の家系だと歴史家は皆しっている!と言う「天の声」が今から30年も前に会社の友人によってもたらされ、、、

 そのことで、比企家の主観的な歴史観から逃れられなくなりました。と書きましたが、、

 私の比企家探索(物語)が「比企筋」の姫たちをないがしろにして、「入り嫁」達の話に集中したことが、どうもご不満な姫たちがいるのでしょうか?

 時々、出てくるのです???
 だから、想像も交えて書く事に致しました。


後編追章 比企家の嫡女達

『比企家』が女系で世継ぎに恵まれず、永い間常に「御家」が絶えることの危機に晒されてきたとすれば、神(もし存在すれば、、、)が、助け舟をだして「嫡女」の名に相応しい女性を「はめ込むこと」も又、忘れなかったのでは?と言うのが、私のひいき目にみた『歴史の仮説』なのです。

 以前、御影比企物語の終章に比企家の不思議「女系」を女紋の話など引用しながら、入り嫁達の話として、6名の代表的な「比企尼」の存在を上げてお話を締めくくりました。

 「系図」などに記事として残ります記録は「入り嫁」のことは比較的詳しく残っているのですが、比企家の実娘たちの話は、他家に嫁ぐことを最後に記録から消えてしまいます。

 ところが、何度も目を通していますと、その少ない「他家」の寂しい姓『二文字』の中に何かを言いたげな重みを感じるのです。

 そこで、残された嫁ぎ先「二文字」を頼りに、想像も加えながら推理小説を書くことにいたしました。

 まず『九人の比企娘』を選ぶことにしました。


@初代比企義重の嫡女『山原傳左エ門友勝の室(名前不詳)』(1636~1689)卒齢53歳

* 山原傳左エ門友勝の父は山原勘右エ門友政と言い、戦国時代『織田信長』『豊臣秀吉』の家臣であった「長谷川藤五郎秀一」の槍持を務めた家柄で、その誼で『藤五郎秀一』の実姉を妻としていた。

* 「傳左エ門友勝」は「長谷川藤五郎秀一」の甥(姉の子)ということである。

* その妻として、比企義重の嫡女(其)が嫁いでいたことが、後に二代越前比企家の世継(養子)を成功させることになる。それは後のことで、その段階では知る由も無い事でした。

* この『山原家』の次男(四郎兵衛榮翦)が二代越前比企家の当主となる。

A初代比企義重の次女『高塚甚兵衛の室(名前不詳)』(1646~1666)卒齢21歳

* 高塚甚兵衛の妻になった『義重』の次女は嫁いで直ぐに『娘』を産む事にになるが、「乳飲み子」を残して、若干21歳で若死にする事になります。

* その残された娘(其)が二代比企四郎兵衛榮翦(養子)の正室に迎えられるのであるが、多分『田原家』に嫁いだ『姉(叔母)』が早く母に死別した『姪』のことを不憫に思い、何くれと無く、世話をしていたのであろうと想像する。

* だから、『榮翦』と「高塚の姫」とは兄弟のように育った「幼馴染」(従兄妹同士)で自然な形で「言い名づけ」のような『縁』につながっていったと考えるのが妥当でしょう。

* この二人(『榮翦』と「高塚の姫」)の間に三代『比企榮禎』が産まれたときは越前比企家にとってこの上無い最高の状態であったと思います。

* 多分、21歳で『幼子』を後に『想い』を残しながらこの世を後にした『母の想い』が適えられたのだろうと思いたい。

B二代比企四郎兵衛榮翦の嫡女『堀庄左エ門の室(レン)』(1686~1770)卒齢84歳

* 二代比企榮翦には「比企榮禎」と言う世継に恵まれたことはもとより、84歳と言う長寿に恵まれた『レン』と言う嫡女がいた。

* この娘の嫁ぎ先「堀家」に私は興味を持っています。

* と申しますのは、以前、越前比企物語の最後に書きました1677年(延宝5)、「初代比企義重」の嫡男『藤四郎』の板取駅(宿)での自害(不審死)についてです。

* 私は、松平直堅(権蔵)騒動の犠牲と断じたのですが、真偽の程は分かりません。全て歴史の謎であります。そのときの犠牲者の一人に『堀十兵衛』と言う人が登場するのですが(史実)、、、

* 堀十兵衛は時の藩主(光通)の命で「直堅」の説得に当たるのですが失敗して、今宿の地で『腹を切ってしまいます!』

* その「堀十兵衛」の孫がこの『堀庄左エ門』だと思います。以前から「比企家」と「堀家」は親戚の間柄であったと推察されます。(私の祖母[比企雅の妻]シゲも堀家の出です)

続きは又書きます。
[32]服部 明子さんからのコメント(2002年09月01日 23時36分40秒 ) パスワード
  

今年のお盆は良いご供養が出来たものと思っておりましたが・・・

「堀家」とは深く強く結ばれた関係だったのですねぇ。
それは矢張り同じ血と涙を流した過去があるからでございましょうね。

早く続きを拝見させて下さいませね。
[33]林原英祐さんからのコメント(2002年09月02日 21時07分19秒 ) パスワード
  

昨日の続きです、、、

C三代比企榮搶の嫡女『加藤所左エ門の室(ミヤ)』(1719~1782) 卒齢63歳

* ものの本によれば、、、、曽祖父・加藤宇之助重成は肥後守清正の父・弾正右衛門兵衛清忠の弟。重成の孫・内蔵助重政は加藤家改易後の寛永15年(1638)、三代・忠昌に召しだされるが、越前に赴く道中病死し、子の『重直』が替わって召しだされたとある。

* その名を「加藤所左エ門重直」と記されてあります。

* 多分この「比企榮搶」の娘『ミヤ』の婿「加藤所左エ門」は上記「加藤所左エ門重直」の子になると考えます。

*七代比企榮信の次男『虎五郎』が加藤文太(福井士族)の養子になっている(明治11年)加藤虎五郎信興と号す。

D五代比企榮脩の嫡女『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』(1790~1845) 卒齢55歳

* 実は、夢枕に立つ女性は、この『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』と言う人です。何故か解かりません。

* 先日、仕事の関係で随分社会的には地位の高い人で「菅沼」姓の方にお会いしました。おもわず「貴方の故郷は福井ではありませんか?」と聞いてしまいました。

* 実はその方は『お父さん』を戦争で亡くされ。お母さんとご苦労されながら、今日大成された方で、ご本人は京都ですとおっしゃっていらしゃいましたが、、小生はほとんど病気と言う感じです。聞かれたご本人は変な気持ちになられたのではと少し心配です。

* 「北陸歴史ねっと」にも参加することに致しました。ひょっとしたら、『菅沼』さんが連絡をくれるかもしれませんから。

* お寺は『花蔵寺』と書いてありますが、福井の方にお聞きしますと、本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?

* 実は平成13年12月25日に足羽1丁目の臨済宗妙心寺派の華蔵寺の山内御住職様から頂戴しました「お便り」によりますれば、『当寺の檀家にお問い合わせの「門野家」「菅沼家」はあります。御子孫もご存命でっす』とありました。

* 多分、この『菅沼』さんは実在する方であると信じます。だって『テレパシー』のようなものが迫ってくるのですから、、、

E六代比企榮庸の嫡女『鈴木主税重榮の室(ジュン)』(1822~????)卒齢不詳

* 鈴木主税重榮は余りにも有名です。「橋本左内(安政の大獄で刑死)」の産みの親とされる越前松平藩の家老職であった鈴木家は比企家12代に渡る江戸時代の系図に4度も姻戚関係として登場してきます。「横田家」「生田家」なども縁者だと推察されます。

* お寺は「孝顕寺」が菩提寺です。

*孝顕寺の住職の便りでは、「主税重榮」の直ぐ横に『女;蝶子の墓』と言うお墓があると言われていましたが、娘(普通、女とは娘のことを言う)とはいったい誰なのか、『ジュン』の痕跡を探す旅に出たい心境です。

* 世直神社の世話人「山方典和」さんの便りによれば、鈴木主税重榮の子孫は養子「福井藩士雨森藤四郎の弟鈴木傳之丞重徳(若死)と実子小太郎重弘(相続)、そして実孫鈴木薫さん」、といわれていました。

* しかし、御子孫も絶え、現在はいらっしゃらないと言われていました。

F六代比企榮庸の次女『真田源五郎の室(リュウ)』(1824~1887) 卒齢63歳

* ものの本によれば、、、「真田五郎兵衛信正」のことを、父は真田弾正忠幸隆の次男・兵部大輔昌輝。

* 昌輝は天正3年、長篠の戦で戦死し、当時2歳であった信正は叔父・安房守昌幸に養育された。信正は慶長16年、松平上総介忠輝に7百石で仕えるも、断絶により浪人。

* 元和4年、三代松平忠昌に召しだされた。と、、、

* 間違いなしに、あの『真田家』であります。

* ところが、この『リュウ』は故有りの和順離縁をして里(比企)に帰っています。比企家の大事(七代比企榮信の若死による世継ぎ問題)により『御家』の犠牲になり8代比企榮貞の正室(再婚)として、役割を果たすことになります。 

* しかし、その八代当主「榮貞」も25歳で死んでしまいます。しかし、必死で御家の為に一生を捧げる「ジュン」に打たれるものを感じます。これが比企家の娘たちの家風であると思えるからです。

G九代比企榮徴の嫡女『比企榮(シゲ)』(1878~1945)終戦行方不明没 67歳

* この人は、越前比企家が仕事(サラリーマン)の関係で「東京」と「御影」に別れて出て行ったとき「戦前(第二次世界大戦)」のことですが、一人残って「比企の屋敷」と「菩提寺(清源寺)」の墓守を志した『女傑』だと聞いていますが、

* 結論から申しますと、、福井空襲の時に一人「福井の家」を守りながら、行方不明になられたと聞いています。記録によれば、昭和20年7月19日空襲で行方不明死亡届を受理(認定)してもらったと書かれてあります。

* 遺品を清源寺に葬り、祭ったとあります。

* 今回の私の探索で福井市の教徳寺からのお便りによれば、先々代の住職(現在の住職の祖父)の時代、住職は昭和17年に亡くなられたそうですが、、その時代(戦前)に永代経帳に「比企榮(シゲ)」の名前で『拾円』の寄贈が書き込まれてあります。御連絡して頂きました。

* 当寺としては稀な記録でありますので気が付きました。当時の額では「相当高額な金額です」と書いてこられました。

* 考えてみましたら、行方不明死亡(空襲)の福井残留の最後の女傑『榮(シゲ)婆さん』の足跡がこのような形で判明したのも、お引き合わせによるものと、感激です。(お便りを下さった教徳寺の現住職「羽野文雄」さま、ありがとう御座いました)

H別家比企雅の嫡女『林原士良の妻』(大正5年~)

* この方(私の実母)は、既に以前の結びの項に『6代比企尼』として登場していますので、省略致します。(現役?ですから、、、)


 以上で越前比企家の娘(姫)達の嫁ぎ先の詳細と致します。多分、比企筋の血筋を背負って活躍されたのだろうと想像されますが、今となっては「謎々話」として残るだけです。
 
 越前福井に在住のご親戚の皆様「や〜い」、お便りをお待ちしています。    それじゃ又
[34]服部 明子さんからのコメント(2002年09月03日 02時08分14秒 ) パスワード