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| [1] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2001年12月29日 23時51分52秒 ) | パスワード |
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越前比企物語 初代 比企数馬義重について
元祖は相州鎌倉比企ケ谷比企判官能員子孫十代相続その後二代之処不詳十四 代比企藤四郎榮興孫藤四郎義包次男、『比企数馬義重』(福井比企初代)
比企系図に紹介されてある。
本国は相州、生国武蔵、姓は源、後名は頼母亦佐左衛門、隠名号休心
別記に長谷川藤五郎姪也?とある。
@能員 A時員 B圓顕 C員茂 D員長 E満長 F守長 G之長
H重長 I補榮 J久榮 K晴榮 L秀長 M包永 N榮興 O義包
P義重(数馬)
M包永1543年(天文12年)卒 上杉憲政に仕う
N榮興1595年(文禄4年)相州卒 北条氏直に仕う
O義包1620年(元和6年)49歳卒 松平忠輝公(元和元年相州蟄居)
P義重1689年(元禄2年)72歳福井卒 越前福井松平藩
『比企数馬義重』(福井比企初代)の欄に記してある事
*隆芳院殿(3代松平忠昌)の御代寛永10年(1633年)に義重6歳に て御小姓として300石で召し抱えられた。
*大安院殿(4代松平光通)の御代明暦元年(1655年)に28歳で10 0石加増され御先武頭として400石を下置された。
*義重父、元和6年(1620年)6月26日卒、寺不詳「龍億宗蓮居士」
母、寛永10年(1633年)3月25日卒、寺不詳「盛寂妙慶信 女」
*妻は、仙石万右ヱ門娘、先祖有賀小右ヱ門の姉也
万治2年(1659年)4月16日卒 寺町教徳寺に葬る。
「空閑院處在日徳大姉」
*後妻は、菊地猪右ヱ門娘、先祖有賀小右ヱ門姪也り
元禄10年(1697年)2月27日卒 妙法寺に葬る。
「正隆院妙受日全比丘尼」
*子は、女子 早世
女子 山原傳左ヱ門友勝室 「浄光日清」
元禄2年(1689年)6月7日卒、教徳寺に葬る。
男子 藤四郎 故有って、延宝5年(1677年)12月2日
に板取駅にて殺害、同所に葬る。
「浄入圓郭居士」
男子 弥三郎 仙石喜左ヱ門養子と成る。仙石弥三郎と号す。
女子 高塚甚兵衛室 「到譽西尾比丘」
寛文6年(1666年)8月28日卒、清源寺に葬る。
男子 孫三郎 大安院殿御代、別家して召し抱えられる。
寛文11年(1671年)11月5日病死
孫三郎妾腹女子有り、後に門村次左ヱ門の母と也
「花岳長永信士」
とある。
特に、嫡男『藤四郎』の故有っての出奔、板取宿での殺害は謎で あるし、『義重』を苦しめた大きな事件であったと考えられる が、
次回に回すこととする。
| [2] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月30日 10時29分15秒 ) | パスワード |
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>1633年(寛永10年)に福井松平藩に
>『比企数馬義重(福井比企初代)』が、若干6歳で、
>時の福井松平藩の3代当主『松平忠昌(隆芳院殿)』の小姓として
>300石で召し抱えられた。
江戸時代に埋もれていた名門の末裔を捜し出して仕えさせたというのが
行なわれたそうですが比企一族もこうして名誉を回復されたのですね。
日本っていくら政治的に混乱しても名家の末裔というのは一目置かれますから
その土地では代々知られていたということですね。
非常に日本的な精神を感じます。
どういう事情で殺人事件を起こし出奔したのでしょうね。
では次回を楽しみにしております。
| [3] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年01月07日 11時58分13秒 ) | パスワード |
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林原さん、どうもお久しぶりです。
こちらはお母様方のご先祖様のお話ですね。
一族の歴史に浮き沈みはあっても、現在まで生き残って来た道のりを考えると、とても感慨深いものがありますよね。
私は残念ながら越前方面にはあまりご縁がないのですが、
この掲示板をご縁のある方が見つけてご連絡下さると楽しいですね。
今年も林原さんにそんな楽しいご縁がありますように、お祈り申し上げます!
| [4] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月08日 20時53分18秒 ) | パスワード |
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越前比企物語A
初代『比企数馬義重』のことを考える(英祐)
1)嫡男『藤四郎』の不幸と養子縁組(二代比企四郎兵衛榮翦の相続)
2)山原傳左エ門の次男(後の比企四郎兵衛榮翦)は数馬義重の実孫
3)山原傳左エ門の次男(後の比企四郎兵衛榮翦)の先祖である『長谷川藤五郎秀一』のこと。
4)初代『比企数馬義重』は福井清源寺(浄土宗…比企菩提寺)に眠る。
5)初代『比企数馬義重』が比企系図の別記に『長谷川藤五郎秀一』の姪也とある謎。
1)嫡男『藤四郎』の不幸と養子縁組(二代比企四郎兵衛榮翦の相続)
延宝5年12月(1677年)数馬義重が60歳(還暦)を迎えた年に、嫡男『藤四郎』が、父の命に背き、出奔(逐電、脱藩か?)した。その儀は比企家にとって不行跡につき『家名』により板取駅にて『殺害』したとある。『故有り…』の表現で記されてあるが、それ以上の詳細は残っていない。数馬義重の苦しみは如何ばかりかと推察される。
本来、は嫡男の不始末につき、お家断絶が筋なれど、『家名』による殺害(始末)により養子をもって相続願いを申し出た。とある。
それから9年後のこと、探源院殿(7代松平吉品)1686年〜の御代に御意をもって、養子、山原傳左エ門の次男(後の比企四郎兵衛榮翦)が許される。
貞享3年6月11日(1686年)に儀重家督拝知400石の半減(200石)にて、御代様の御朱印書を以て家中一統の儀とされた。宝永4年11月15日(1707年)2代比企四郎兵衛榮翦は御使番役に任じられ、相勤める中で、宝永7年4月28日(1707年)享年44歳で卒とある。
2)山原傳左エ門の次男(後の二代比企四郎兵衛榮翦)は数馬義重の実孫
初代『比企数馬義重』の次女(長女早世)は山原傳左ヱ門友勝の室として嫁いでいる。その、次男として四郎兵衛は1663年(寛文3)に生まれている。数馬義重の娘の子供と言うことである。
山原傳左エ門友勝の父『山原勘左ヱ門友政』の妻(友勝の母)は東郷城主長谷川藤五郎秀一』の姉也とある。
『四郎兵衛』は『長谷川藤五郎秀一』の姉の孫にも当たると言うことである。
多分、そのことが、『比企家養子縁組による再興』御意の大きな理由に成っていると想像する。
3)山原傳左エ門の次男(後の比企四郎兵衛榮翦)の先祖である『長谷川藤五郎秀一』
さて、その『長谷川藤五郎秀一』なる人物が如何なる人か、その点について調べた。
時は『織田:豊臣の時代』、織田信長の小姓として登場する『竹』『藤五郎』『羽柴東郷侍従』『葉栗郡北方の人(尾州)』、豊臣秀吉時代には『越前東郷城主15万石』であったとされる。
徳川家康の伊賀越えに信長の命で随行したともいわれる。
1594年(文禄3年)に高麗(朝鮮出兵)戦地で病死したとされる。(若死に)
豊臣秀次の重臣であったことで秀次の高野山追放の『連座』にあい、お家断絶となったとされる。(1595年のこと)
福井市東郷二ヶ町にある『永昌寺(曹洞宗)』に残る。『長谷川藤五郎秀一』の持槍は永く福井比企家の『白山神社』に保管されていたものである(由緒書…大正3年6月22日)。秀一の高麗での『槍持』が『山原勘左ヱ門友政』であったとある。
『友政』から、息子『友勝』に譲られ、孫『四郎兵衛』が比企家に伝えたと記されてある。
4)初代『比企数馬義重』は福井清源寺(浄土宗…比企菩提寺)に眠る。
元禄2年(1689年)正月17日、享年72歳の長寿をまっとうして、『比企数馬義重』は福井清源寺(浄土宗…比企菩提寺)に眠る。
戒名は、『誓光院本良休心居士』と清源寺の過去帳に記されてある。
5)初代『比企数馬義重』が比企系図の別記に『長谷川藤五郎秀一』の姪也とある謎
比企家系図に別記、数馬義重が『長谷川藤五郎』の姪也と記されてあるのは…
多分、二代比企四郎兵衛榮翦(養子)の父親(実際は実孫)であることを、四郎兵衛の実母(数馬義重の娘)に置き換えて、義姪(女)と表現しているのであろうと推察する。
こんな表現が使われたとしたら、歴史書を読む時の参考になると考えます。 以上
| [5] | ![]() | 源三さんからのコメント(2002年01月08日 23時40分46秒 ) | パスワード |
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林原さん始めまして。源三といいます。
早速ですがお尋ねします。
googleで検索していると、唐津に津々見姓発見、他に、国東半島24国人衆
に津々見氏を発見、国東の津々見氏は藤原姓だそうです。
が、鎌倉初期の若狭守護職の津々見(若狭)忠季は島津一族ですよね?
ある本に北条一族ってのってたからきになって書き込みました。
| [6] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月08日 23時50分51秒 ) | パスワード |
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>織田信長の小姓として登場する『竹』『藤五郎』『羽柴東郷侍従』『葉栗郡北方の人』、
>豊臣秀吉時代には『越前東郷城主15万石』であったとされる。
はい。
長谷川秀一は尾張出身で織田信長の腹心で歴史書に名を残す人物です。
今でも長谷川さんというのは優秀な一族という認識があります。
逆上って、長谷川信連は以仁王の臣下で、
事が露顕して以仁王を三井寺に逃げさせ
1人踏み止どまって捕らえられ
拷問にも耐えて以仁王の居場所を明かさず
清盛が感心して罪を1等減じて伯き国に流した、そうです。
この人物の子孫の1流は頼朝によって能登大屋荘賜わった「長」氏を名乗ったそうです。
| [7] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月08日 23時52分21秒 ) | パスワード |
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そうそう、長谷川さんも藤原秀郷の子孫を称しています。
比企一族と同じですね。
| [8] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月10日 21時44分41秒 ) | パスワード |
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源三さんへ
お詫びと訂正
明けましておめでとう御座います。今年もご指導宜しくお願いします。
所で、先般の謙虚なご指摘ありがとうございました。訂正とお詫びを申し上げます。
『端書』の誤字や思い違いが多く反省しています。
*まず、比企朝宗の北陸道の検農使は間違いで「勧農使」が正しい。
*島津忠久は若狭国ではなく、越前国の守護職である(地頭職は間違い)
*名越流北条家は若狭越前福井方面ではなしに、正しくは北陸でも越中越後方面の守護職を勤めている。
次に、お問い合わせの『津々見忠季』氏のことでありますが、確かに記録によれば、「右衛門二郎 兵衛尉」は建久7(1196)〜に若狭国守護職にあったと記されてある。
後は北条義時に取られているが、何時からかは不明。
その津々見忠季が惟宗忠季、若狭忠季と同一人であることは間違いないと思います。
物の本によれば、「忠久」は越前国守護職や信濃国塩田荘、大田荘地頭職などにも任じられており、次男島津忠綱は越前島津家をおこしている。
また、忠久の弟忠季(実際は兄か)は若狭国守護職に任じられている。
北陸、信州地方は比企氏が勢力基盤としていたところでもある。云々〜
又、別に、頼朝の弟範頼の子孫『吉見氏』に伝わった『吉見系図』には、比企尼の嫡女「丹後内侍」は安達盛長に嫁ぐ前に惟宗広信との間に「忠久」「忠季」の二人の子を設けていると、、
「源三」さんの専門の九州に「津々見氏」が存在するか?又北条との関係などは小生は無学で解りません悪しからずご了承のほどお願いします。
以上、お詫びと訂正をいたします。又ご指導を宜しくお願いします。以上
| [9] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月10日 21時51分31秒 ) | パスワード |
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越前比企物語B
二代『比企四郎兵衛榮翦』の記事
義重養子実山原傳左エ門友勝二男義重孫也母者義重娘 後称 佐左エ門
(養子となった経緯は『義重』の項で述べたので略す。)
家族構成は…
妻は 高塚甚兵衛娘 『壽量院覺月日円大姉』
元禄13年(1700)12月23日卒 葬 教徳寺
同妾 江口良庵女 『實應永真大姉』
寛保元年(1741)10月5日卒 葬 清源寺
男子(長男) 宇内 亦 彦十郎 後 佐左衛門榮搶と号す。(三代当主)
女子(長女) 堀 庄左ヱ門の室 名 レン
『了寂院妙閑大姉』
明和7年(1770)正月9日卒 葬 関東妙国寺
男子(二男) 多喜田伴藏養子と成多喜田藤内と号 於 江戸卒
『法譽是心居士』
享保2年(1717)8月6日卒 葬 一乗寺
男子(三男) 長八 自身の意思で出家し、西山西巌寺に居住
『快元和尚』
宝暦3年(1753)11月9日60歳卒 同寺寂す。
女子(次女) 早世 『妙幼童女』
元禄15年(1702)3月4日卒 葬 教徳寺
妾腹(女子) 早世 『露幻童女』
宝永元年(1704)4月21日卒 葬 清源寺
妾腹(女子) 早世 『覺轉壽性童女』
宝永6年(1709)5月29日卒 葬 清源寺
*二代『比企四郎兵衛榮翦』を思う
山原傳左ヱ門友勝に嫁いだ母『比企義重の娘』が『里』の不幸、嫡男(藤四郎)の出奔による家命による殺害でお家断絶の危機に際し、次男故の里養子として、白羽の矢が当たった。家柄は『山原家(元越前東郷城主:長谷川藤五郎秀一の姉の嫁ぎ先)』が上位に有り『比企家』からは「三つ指をついて…」迎えられたと推測する。
本人も育ち良く、静かで平和な一生を送ったと考えるが、宝永7年(1710)4月28日
44歳の若さで死んでいる。戒名は『誠性院一譽到岳源智居士』と正室『壽量院』共々、立派な戒名がついて居るのは『比企家』と『山原家』の周囲の人の思いが感じられる。
同宝永7年6月25日嫡男『比企佐左衛門榮搶』に父『榮翦』の家督200石の相続が許されている。
以上
| [10] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月10日 22時03分05秒 ) | パスワード |
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ほんとうに立派な戒名ですねぇ〜
| [11] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月11日 20時54分22秒 ) | パスワード |
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越前比企物語C
三代比企佐左衛門榮搶の記事
父者四郎兵衛榮翦母者高塚甚兵衛娘 生國越前 始 宇内 亦 彦十郎
宝永7年(1710)6月25日、父榮翦家督200石相違なく下置され『大御番組』を仰せつかった。
享保4年(1719)『大御番組』三番筆頭役を仰せつかり、享保10年(1725)には『御使番役』を仰せつかり、御役料100石を下置きされ、同役につき江戸詰めを両度相勤めた。
享保16年(1731)正月14日齢47歳にて卒 葬 清源寺
戒名 『真證院慶譽浄林有功居士』
妻者鈴木彦太夫重英娘 リノ 享保3年(1718)10月23日卒齢19歳 葬 清源寺
戒名 『見相院寶譽榮林大姉』
後妻者生田十左ヱ門娘 鈴木彦太夫養女 リヨ
安永2年(1773)正月29日卒齢76歳 葬 清源寺
戒名 『心光院常譽妙照大姉』
男子 彦十郎 後 文左ヱ門榮禎と号す (四代比企文左ヱ門榮禎)
女子 加藤所左ヱ門室 ミヤ 天明2年(1782)5月8日卒 葬 阪の下妙国寺
男子(次男) 早世 鉄五郎と号す 享保19年(1734)8月10日卒齢10歳
葬 清源寺
*三代比企佐左衛門榮搶(後妻リヨ)を思う
養子三代榮翦の嫡男として、何不自由なく育ち、越前松平藩の重臣『鈴木家』から迎えた正室『リノ』には19歳の若さで先立たれたが、既にその時享保2年(1717)に嫡男彦十郎(後の四代榮禎)も生まれており、後妻『リヨ』(生田家から鈴木家養女として…)を迎えいれ、『リヨ』は76歳の長寿に恵まれた。
三代榮搶が不幸にも父と同様47歳の若さで世を去ってから『リヨ』は42年間の長きに渡り、後家を務め『比企家』を支えた。
想像であるが、この『生田十左ヱ門娘 リヨ』は越前比企家に登場する最初の『比企尼』ではないかと考えられる。
先妻『リノ』が残した『乳飲み子(榮禎テルヨシ1歳)』を育てる為に嫁いだと言っても過言ではなかった。記録には残っていないが、大変なものがあったと想像される。
私は『越前比企家』が養子二代榮翦(44歳)その子三代榮搶(47歳)で何となく危なげだったものを、四代榮禎(68歳)で不動のものにしたのは、この『三代榮搶』の後家『リヨ(76歳)』であったと考えている。
その意味では、『比企家』にはたした『鈴木家(越前松平藩の家老)』の存在は絶大なるものを感じる。『生田家』は『鈴木家』の親戚筋と考えている。
三代比企佐左衛門榮搶を思う欄で、後妻(後家)リヨの事を述べるのは、少し筋違いのようだが、鎌倉『比企一族』から伝わる『女系比企(尼)』の家系が顔を出したのは、この『生田十左ヱ門娘 リヨ』であったのではと言うのが私の筋書きである。
後にもふれるが、『女系比企』は『血の筋』では無しに『比企家に関わる女達』と言う意味合いが強いように思えてならない。
以上
| [12] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月11日 21時12分42秒 ) | パスワード |
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越前比企物語D
四代比企文左ヱ門榮禎(テルヨシ)の記事
父者佐左ヱ門榮搶、母者鈴木重英娘 始 彦十郎 隠名 号休夢
享保16年(1731)3月5日父榮搶家督200石相違なく下置きされ、『大御番組』を仰せつかった。度々江戸表へお供詰め相勤め、日光にも詰めお仰せ相勤めた。
寛延4年(1751)2月16日大御番三番筆頭役を仰せつかり、宝暦6年(1756)御水主頭の林亦左ヱ門の跡役として、御役料100石を下置きされた。
翌宝暦7年(1757)より江戸3年詰めを仰せつかり、同9年罷帰候う。
宝暦13年(1763)組の者に不調法が有り、同役と一所に御役御免となった。
大御番組へ仰せつかり、明和4年(1767)江戸御供詰め仰せつかった時、御道中御水主頭仮役を仰せつかるに付き、御貸馬有りの自分幕の為打ちを相勤めた。
同、明和5年(1768)御帰国の節にも御道中、前年同様相勤め明和6年(1769)5月16日御水主頭帰役を仰せつかるに付き三沢勘左ヱ門跡を相勤めた。
安永5年(1776)正月、御先武頭を仰せつかり、安永9年(1780)11月21日隠居を仰せつかった。
5年後、天明5年(1785)2月24日齢68歳にて卒、葬 清源寺
戒名 『實性院真譽休夢居士』
家族構成については…
妻者 生田六左ヱ門娘 宝暦7年(1757)9月2日卒 葬 清源寺
戒名 『本了院法譽妙響大姉』
後妻者 山本正伯娘 後離別
女子 早世 ステ 延享4年(1747)9月23日卒3歳 葬 清源寺
戒名 『如空了夢童女』
女子 早世 クラ 寛延3年(1750)8月10日卒2歳 葬 清源寺
戒名 『本空幼夢童女』
男子 平三郎 後 佐左ヱ門榮脩(テルヨシ)号す。(五代比企佐左ヱ門榮脩)
男子 岩五郎 亦 九助 門野九右ヱ門友利養子と成し。門野九右ヱ門古敷と号す。
文化14年(1817)7月7日卒65歳 葬 花藏寺(華藏寺)
戒名 『秋岳玄淳居士』
女子 早世 スエ 宝暦7年(1757)8月15日卒3歳 葬 清源寺
戒名 『秋夢露幻童女』
男子 佐太郎 府中 本多内藏助方家中 大橋猪左ヱ門養子と成し、
大橋猪左ヱ門と号す。
文化5年(1808)2月18日卒52歳 葬 府中引接寺
戒名 『泰祥院瑞應元了居士』
(後妻山本正伯娘腹)
男子 早世 宝暦11年(1761)10月3日卒 葬 清源寺
戒名 『秋紅童子』
男子 安次郎 後 長庵と号す。自身の意思で鍼医を志した。
天明5年(1785)6月3日卒25歳 葬 清源寺
戒名 『心眼院得譽長安居士』
女子 早世 明和3年(1766)9月12日卒2歳 葬 清源寺
*『四代比企文左ヱ門榮禎』(正室 生田六左ヱ門の娘)を思う。
前にも触れた『先代榮搶』が47歳、実母『リノ』も19歳の若さで『榮禎(1歳)』と死別している。
物心ついた時から後妻(継母)『リヨ(小生の言う初代越前比企尼)』に育てられた『榮禎』であるが、多分『リヨ』の思いの全てを独占した形で大きくなったと考えられる。
成人後、『リヨ』は正室を自分の里筋(生田家)から選んでいる。
その『生田六左ヱ門の娘』も比較的早く死別する事になるが、男子3名、女子3名(全て早世)の子宝に恵まれている。
特に、長男(平三郎)次男(岩五郎)三男(佐太郎)そして、後妻腹4男(安次郎)の4人の男子は最高の取り合わせである。 以上
| [13] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月11日 21時43分30秒 ) | パスワード |
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越前比企物語E
五代比企佐左衛門榮脩(テルノブ)ノ記事
父者文左ヱ門榮禎、母者生田六左ヱ門娘 始 平三郎 亦 六郎右ヱ門 亦 文左ヱ門
安永9年(1780)11月21日父榮禎家督200石を相違無く下置きされ、『大御番組』を仰せつかった。
天明7年(1787)御供詰めを仰せつかり江戸詰め中『仮筆頭役』を仰せ相勤めた。『御使番介』を仰せつかりに付き候う。
享和元年(1801)江戸御詰家仰せ中『御時宜役』を仰せつかり相勤め『御小袖』拝領した。
享和3年(1803)12月20日『大御番五番筆頭役』を仰せつかった。
文化元年(1804)江戸詰めを仰せつかり、江戸へ罷越に於いて『御紋御小袖』拝領掴まった。
文化9年(1812)7月3日、御前に於いて、『御使番役』林 忠太夫跡を仰せつかり、御役料 100石を下置きされた。
文化13年(1816)正月20日、病身にて内願いに付き隠居を仰せつかった。
同年4月11日、齢67歳卒 葬 清源寺
戒名 『速成院正譽覺心居士』
家族構成について
妻者 鈴木亦吉娘『ツル』 願い済みで婚姻前に病死
明和8年(1771)4月2日 葬 孝顕寺
戒名 『本然露心信女』
後妻者 筒井仁右ヱ門娘『チヨ』又は『モト』
天保5年(1834)9月21日卒75歳 葬 清源寺
戒名 『專求院清譽白法大姉』
女子 早世 『キク』 天明4年(1784)6月4日卒8歳 葬 清源寺
戒名 『法覺夢幼童女』
男子 早世 駒之助 天明元年(1781)10月26日卒3歳 葬 清源寺
戒名 『智月惠光童子』
男子 亀之助 亦 又三郎 又興三五郎、佐左ヱ門榮庸と号す。
(六代比企佐左ヱ門榮庸)
女子 早世 『テツ』 天明7年(1787)6月2日卒2歳 葬 清源寺
戒名 『喜光観了童女』
男子 捨五郎 真田五郎兵衛幸度養子と成し、『源五郎幸孝』と号す。
真田俊五郎兵衛と改名する。
天保10年(1839)8月其日卒51歳 葬 安隠寺
戒名 『法身院覺月了円居士』
女子 『ナヲ』 菅沼平兵衛室
弘化2年(1845)12月19日卒 葬 花藏寺(華藏寺)
戒名 『安道自楽大姉』
男子 三十郎 本多門左ヱ門養子と成し、本多門左ヱ門と号す。
*五代比企佐左衛門榮脩(後妻チヨ)を思う。
先代、『榮禎』は初代越前比企尼(先々代後家リヨ)の愛に育まれ、『越前比企家』を不動の中級武家として確立した。
特に『鈴木家(先々代の先妻の里)』は松平藩家老であり後妻(リヨ)の里は鈴木家の親戚筋の『生田家』(4代榮禎の正室…本了院も生田家から) 子宝に恵まれたことで、養子先、嫁入り先等、親戚は拡がった。
『堀家』『多喜田家』『高塚家』『加藤家』『門野家』『大橋家(府中本多家臣)』『筒井家』『真田家』『菅沼家』『本多家』等である。
4代榮禎が68歳、5代榮脩が67歳と二代にわたり長寿を全うしたことで、『初代越前比企尼(リヨ)』の功もあって、比企家は安泰の状態にあった。
又、5代『榮脩』の後妻、筒井仁右ヱ門の娘『チヨ』が75歳の長寿をもって、『第2代比企尼』を演じるのである。
『チヨ』の育てた6代『榮庸(テルツネ)』こそ『越前比企家』の最高峰を形成した人と私は位置付けている。
6代『比企佐左ヱ門榮庸』が何故偉大であったかは、次回の記事において詳しく述べる事として、その影に、私の勝手な想定である『越前比企尼(チヨ)』の存在を忘れてはならないと考えている。 以上
| [14] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月11日 23時50分28秒 ) | パスワード |
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詳しく家書に書かれているのですねぇ。
どなたが書き残したのか、そのお姿が浮かんで来るようです。
「比企家」の誇りというのを感じます。
貴重な資料を公開して下さって
福井やその他の土地にいらっしゃった「比企家」のご子孫達の参考になると思います。
ご連絡があるといいですね。
| [15] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月16日 20時54分43秒 ) | パスワード |
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越前比企物語F
江戸時代の中級武士の一生を知るために… (故比企忠『比企家系図』より)
『比企佐左ヱ門榮庸(テルツネ…67歳)』の生涯を追う (小生…英祐としては『越前比企家』で傑出した人物と思う)
年代(月日) 西暦年 年齢
天明 3年 (1783) 1 *先代比企家5代当主 比企佐左衛門榮脩(テルノブ)の嫡子として生まれる。幼名は亀之助、母は榮脩の後妻で筒井仁右ヱ門娘である。
参考までに、榮脩の正室は鈴木亦吉の娘で藩主に婚姻届書が済み許可された後、婚姻前に病死した。
明和8年(1771)4月2日の事である。榮庸の実母のチヨ別名モトはその後に後妻として入っている。
チヨは卒年は天保5年(1834)9月21日で75歳の長寿をまっとうしている。
榮庸(テルツネ)はチヨ『24歳』の子である。(母子はその後51年間、共に生活しており、平和で、比較的穏やかな一生であったと思われる。)
*榮庸(テルツネ)の兄弟関係は…女子3名、男子4名の7名兄弟である(内、3名早世)
長女:キク…早世 天明4年6月4日卒8歳 於 清源寺 戒名『法覺夢幼童女』
長男:駒之助…早世 天明元年10月26日卒3歳 於 清源寺 戒名『智月惠光童子』
次男:亀之助…嫡子 亦 又三郎 興三五郎 後 佐左ヱ門榮庸(テルツネ)
次女:テツ…早世 天明7年6月2日卒2歳 於 清源寺 戒名『喜光觀了童女』
3男:捨五郎…真田五郎兵衛幸度養子と成し源五郎幸孝と号す、後に五郎兵衛と改名、天保10年8月51歳で死去(於 安隠寺)戒名『法身院覺月了円居士』
3女:菅沼平兵衛室 ナラ 弘化2年12月19日卒(於花藏寺)『安道自楽大姉』
4男:三十郎…本多門左ヱ門養子と成す、本多門左ヱ門と号す。
『比企佐左ヱ門榮庸(テルツネ)』の生涯の記事
文化13年正月20日(1816) 34 *父、榮脩家督200石を相続が許された。役目は『大御番組』に入れられた。
6月 4日 *御近習番:坂井半十郎跡御書院番を仰せつかった。同日、御小姓不時介を仰せつかった。
8月24日 *御阪御用杭を拝領仰せつかった。
12月19日 *家督知之御書を頂戴した。
14年正月29日(1817) 35 *『御能』の御相手を仰せつかった。
3月19日 *江戸表へ御供にて罷越。3ケ月間東京出張 @
文政 元年6月19日(1818) 36 *御供にて越前に帰る。(罷帰)
4年3月19日(1821) 39 *御供にて江戸表へ罷越。1年2ケ月間東京出張A
5年5月 5日(1822) 40 *御裏役を仰せつかった。
5月28日 *御供にて罷帰す。
7年8月15日(1824) 42 *若殿様御付きの御納戸役を仰せつかった。
8年3月26日(1825) 43 *御供にて江戸表へ罷越。1年1ケ月間東京出張B
9年4月26日(1826) 44 *罷帰す。
5月24日 *御用人 秋田運之助殿宅に召され、当秋江戸詰めを仰せつかった。
秋8月28日 *江戸表に罷越。 9ケ月間東京転勤赴任C
10年5月15日(1827) 45 *御初入り、御供にて罷帰す。
12年2月14日(1829) 47 *御用人 毛受傳三郎殿宅に召され、当春江戸詰めを仰せつかった。
春3月28日 *江戸表に罷越。 1年2ケ月間東京転勤赴任D
7月14日 *御側御用人 永見主殿に召され『御内證御金係』を仰せつかった。
13年5月20日(1830) 48 *御供にて罷帰す。
8月28日 *御膳番(彦阪又兵衛跡)を仰せつかった。
天保 2年3月19日(1831) 49 *御供にて江戸表へ罷越。1年2ケ月間東京出張E
3年5月 9日(1832) 50 *御供にて罷帰す。
12月28日 *御膳番その儘で近習番頭取格を仰せつかった。
5年10月20日(1834) 52 *評定所に於いて御膳其俗格式未之番外仰せつかり、御板拝領した。
6年 3月19日(1835) 53 *御供にて江戸表へ罷越。 5ケ月間東京出張F
7月 2日 *『天染院様』御逝去された事で、同月11日、公儀に従って『千三郎様』御養子手続きが進められるにあたり、御養子手続きは御国元の為、御使が林和太郎に内意仰せ付けられ、副使役として御自分(六郎右ヱ門)儀が内意として命じられた。 松平主馬殿(7月8日)
7月11日 *於:松平主馬御屋形にて正式の命を受け、『御養子届け出』は兼ねての御内意の通り御国元へお使いに立つ事、道中5日間で江戸へ立ち返る事。16日には浅水宿着、17日に御本丸に着き、日没までに覚書を渡すこと。(その主旨で5日間罷帰した)
9月 4日 *於:岡部左膳殿宅で以下の通り申し渡された。『御自分の儀(比企六郎右ヱ門)は今度、御代替えに付御役御免に成る。』『御近習番は据え置かれるが、他は追って沙汰あるまで云々…』
9月16日 *御膳番を仰せつかった。
7年6月20日(1836) 54 *御使番格の御時宜役を仰せつかった。
8年7月11日(1837) 55 *正式に御使番役を仰せつかった。御役料として100石頂戴した。
10年12月28日(1839) 57ヨリ *佐左ヱ門と改名した。
12年 6月29日(1841) 59 *杉形御鎗奉行を仰せつかった。
15年 (1844) 62 *御先武頭を仰せつかった。
弘化 4年2月12日(1847) 65 *隠居を仰せつかった。嫡男7代比企五郎左ヱ門榮信(32歳)に家督相続を許された。200石 大御番組入る。
嘉永 2年5月27日(1849) 67 *卒 葬 清源字(比企家菩提寺) 戒名『實相院教譽亀友居士』
参考 榮庸(テルツネ)の家族
*榮庸の室は真田五郎兵ヱ幸度の娘、故有って離別とある。戒名『不詳』
*後妻、横田作太夫娘キン 明治3年(1870)10月14日卒81歳 戒名『智照院光譽妙貞大姉』葬 清源寺(3男3女 6名の子供を生んでいるが… )
長男 亀之介 文化6年(1809)4月28日卒(早世)戒名『法山智幽童子』
次男(嫡子)彦松 又五郎松 又五郎吉 後七代『比企五郎左ヱ門榮信』
長女 早世 文政2年(1819)2月28日卒 戒名『梅窓夢幻童女』葬 清源寺
次女 鈴木主税重榮室ジュン(さり気なく書かれているこの人に注目●●●●)
3女 真田源五郎室リュウ、故有って和順離縁榮信養子榮貞(八代比企幸次郎榮貞)の妻(この人も越前比企家の歴史に2度登場する注目●●●●)
3男 彦十郎後興三五郎 横田藤九郎養子 横田与三五郎号ス嘉永3年(1850)7月6日卒22歳、戒名『霊鷲院祐華激笑居士』
*『比企佐左ヱ門榮庸(テルツネ)』と後妻『キン』(横田作太夫の娘)を思う!
@比企佐左ヱ門榮庸が何ゆえ、越前比企家の最高峰なのか?
その1)越前松平藩の重臣『横田作太夫』の娘を後妻として迎えている。
その2)次女(実質嫡女…ジュン)を松平藩の家老家養子『鈴木主税重榮』の室として嫁がせている。……これは次回のテ−マとする。
その3)生涯を通じて、殿の参勤交代のお供を中心に7度に渡り江戸表への罷越をしている(往復)。…………当時の中堅管理職:サラリ−マン武士の生涯が見える。
A後妻『キン』(後家23年間)の偉業
その1)嘉永2年(1849)5月、夫に先立たれ、翌、嘉永3年(1850)6月に嫡男七代『比企五郎左ヱ門榮信』に失い、越前比企家が絶頂から『どん底』に落ち込んだ時に61歳の後家『キン』の『育ちと頭脳と取り巻き(親戚筋)』の全てが全開する。
その危機を救ったのが後家『キン』の偉業である。小生は越前比企家の三代目『比企尼』としている。
その2)3女『リュウ』真田家(源五郎の室)を和順之離縁をもって、『七代比企五郎左ヱ門榮信』の養子と成し、『八代比企幸次郎榮貞(養子)』の室として入れている。
『キン』の片腕となって働く『リュウ』が見える。(丹後内侍の再来である!!)
その3)『八代比企幸次郎榮貞(養子)』は先代(四代比企文左ヱ門榮禎)の息子(三十郎(後の本多門左ヱ門の養子)の実子2男(榮禎の実孫)である。
『リュウ』とは従兄弟同志と言うことである。これも『キン』の偉業と推察される。結果的に失敗するのであるがそれを予期する由もない。
本来の後家『キン』の評価は後世の今日にあって、初めて言える趣旨のものであるが、榮信(キンの実子)を35歳で失う不幸の2年後(1852年)に不幸が続く!
西暦1852年(嘉永5年)8代養子当主『比企幸次郎榮貞』が苦労の末の養子縁組にも関わらず若干25歳の若さで死去してしまうのである。
その時点での『越前比企家の家族構成』は悲運が『どん底』を語っているので記す。
越前比企家の後家(尼)軍団
●6代『栄庸』の後家 『キン』当時62歳(卒年81歳)●●●『比企尼』
●7代『榮信』の後家 『モト』当時30歳(卒年68歳)
●8代『榮貞』の後家 『リュウ』当時29歳(卒年63歳)
幼き子供達(7代榮信の子供)
◎@長男『榮徴』当時12歳(9代当主)
○A次男『信興』当時11歳(加藤家に養子)
○B三男『儀長』当時10歳(10代当主)
○C四男『福造』当時6歳である。(後の御影比企家の祖)
涙を誘う『キン』(比企尼)の『蛭ケ小島』が始まるのである。
私は、この『キン』尼が、小生の母(比企禮)の祖父(福造…御影比企家の祖)を育てた人と思っている。
比企一族にとって『中興の祖』的な人を揚げるなら、私はこの『越前松平藩』の重臣『横田作太夫』の娘キン『智照院』をあげる。
勿論、主人6代『榮庸』は凡人では無かったと想像するに値する。以上が『越前比企家』の最高峰の話である。
次回はその後続く激動の明治維新を超えて、『御影比企家』への繋がりを書くこととする。
その前に『鈴木主税榮重』(6代榮庸の娘『ジュン』の婿)について書きます。
越前福井松平藩で『比企家』に関わる人で『唯一』、歴史の表舞台に登場する人です。
詳しくは、分からない部分がありますが、福井在住の方に助けて頂いた資料などから、掻い摘まんで述べる事にします。
では次回を御楽しみに……
| [16] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 01時42分34秒 ) | パスワード |
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本当に凄く詳しいですね。
>榮脩の正室は鈴木亦吉の娘で藩主に婚姻届書が済み許可された後、婚姻前に病死した。
>次女(実質嫡女…ジュン)を松平藩の家老家養子『鈴木主税重榮』の室として
「鈴木亦吉氏」もきっと身分の高い武士だったのでしょうね。
更に横田氏とか毛受氏とか、越前藩の他の方にも大いに参考になりますね。
毛受さんなんて珍しいだけに参考になりますね。
キンさんやジュンさんなど比企の女性の強さ、どのような人生だったのか楽しみです。
| [17] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月17日 20時02分24秒 ) | パスワード |
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越前比企物語G
越前福井藩 比企家6代当主『比企佐左ヱ門榮庸』の次女『ジュン』の婿
鈴 木 主 税 重 榮 について
福井藩16代藩主 松平春嶽の参政(家老)
『引用文』初版発行(2000年12月20日発刊)
『麒麟 橋本左内』著者 岳 真也(1947年生れ)より
小説引用文///
著書『麒麟 橋本左内』の第5章 黒船の煙の179頁に水戸藩 藤田東湖と橋本左内の出会いの下りがある。その中で…
『貴藩の鈴木主税どのや中根雪江どのからも、似たような話を聞いた憶えがござる。』
鈴木主税は福井藩の参政、中根雪江は側用人の職にあって、共に藩公の信任あつく、実質的に藩政をきりもりする地位にある。下級藩医にすぎない『左内』からみれば、身分的に雲の上の人々であった。
又、第6章 春嶽景岳の項では… 201頁〜
この福井藩の上屋敷は江戸城の東の入り口、常磐橋御門をはいったところに位置している。当時のいずれの藩の上屋敷と同様、政務をつかさどる邸とあって、敷地内には大番所、御広間、伺候の間、書院など、大小の建物がたちならび、いちばん奥まったあたりに藩主の御座所があった。周囲には、国もとから随行してきた家臣たちの住む長屋がコの字のかたちにつらなっている。
その長屋の一角に、藩邸の門がある。くぐってすぐに、左内は足をとめた。この度の大地震で、福井藩邸もだいぶ被害をうけていた。そこかしこに折れ曲がった柱や軒板、割れた瓦などの残骸がつみあげられている。修理修繕に来た大工や左官などが、ここでもあわただしげに立ち働いていた。門ぎわに立って、しばし呆然とながめていると、……
『左内、ようやく着いたか』 うしろから声をかける者があった。ふりかえると、参政の鈴木主税が笑みをうかべて立っている。
『……待ちわびておったぞ』
『はい。道中、遠州中泉の林鶴梁先生をはじめ、幾人か著名な儒者のもとに立ち寄るなぞしておりましたので、遅れました。もうしわけございませぬ。』と言って、左内は頭をさげた。
彼が藩庁で御書院番の役を拝命した頃、ちょうど主税も用あって帰福していた。そこで左内は、役向きのくわしい段取りを聞いたり、今後の住まいに関する相談事などで何度か主税に会った。その結果、左内は、江戸では藩邸内にある主税の居宅に身をおくことになった。正確には、主税の家とひとつらなりになっている長屋の二間を借りて住むことにしたのである。
主税にうながされて、そちらにむかい、歩きだしながら、
『だいぶ、ひどかったようでござりますね』 左内は言った。
『地震のことか……わしはさいわいにも道中にあって、難をのがれたがのう』
江戸が大地震にみまわれた日、たまたま主税は江戸へむかう途次にあった。木曽路の藪原の宿で報に接し、それからは昼夜兼行で道を急いだが、入府したのは震災から7日ほどたった朝のことだった。
『殿がご無事か、藩邸がどうなっておるか、そればかりが気になってならなかったのじゃ』 板橋の宿に差しかかったころ、主税は人づてに、福井藩邸はさしたることもない、が、小石川の水戸藩邸がかなりやられ、壊滅寸前だという話を聞いた。
『なんでも藤田(東湖)殿が難に遭うたというではないか……わしは動転して、にわかには信じられんでおった』 とりあえず主税は、この常磐橋の藩邸にはいり、藩公をはじめ家の者の安全をたしかめると、旅装も解かず、そのまままっすぐに小石川にむかった。 『行ってみると、まこと、ひどいものであった。水戸さまの御座所も邸内のお長屋も、すっかり崩れ落ちて、見る影もない』
『それで、藤田さまはいかがなことに?』
『噂は本当じゃった。藤田どのは……東湖は、落ちてきた梁の下敷きとなって絶命したそうな』 左内は黙って、肩を落とした。その時分まだ福井にいた彼の耳にも、こんどの震災で水戸藩邸が大きな被害をうけ、藤田東湖やほかにも何人かの藩士が亡くなったという噂はとどいていた。左内としては、とても信じるわけにはいかず、なんとか東湖の安否をさぐろうとした。
ところが、江戸は混乱していて、正確な報を得ることができずにいた。道中、江戸に近づくに連れて、よりはっきりした話が聞かれるようになった。それでもなお左内は、なにかの間違いであってほしい、と願っていたのである。
『わしも誤報であればなにより、と思うておったのじゃが……』と主税はつぶやく。
主税が水戸藩邸に着いたとき、すでに東湖の骸は埋蔵されていて、にわか仕立ての小屋に位牌が安置されていた。彼はその位牌にとりすがるようにして、慟哭した。そのおりのことを思い出し、主税はいまも眼を潤ませ、しきりに瞬きをしながら言った。
『藤田どのの最期を目にした者の話であは、みずからはいったん外にでたが、ご母堂がまだ屋内におられると気づいて、とってかえした。そしてご母堂は助けだしたものの、刹那、頭上に太い梁が落ちてきたのだそうな…いかにも親思いの東湖らしい、と思うてのう。拭うても涙がとまらんじゃった』
年齢は東湖や中根雪江より十近くも若く、まだ40をいくつか過ぎたばかりだが、主税は痩せぎすで、髪には白いものが目立ち、実齢よりもだいぶ老けて見える。ここにきていっそう、やつれがきわだち、顔いろもわるかった。
あるいはどこか、わるいのでは……と、左内は思ったが、黙っていた。それよりも彼自身が、東湖の最期の模様を聞かされて、すっかり気落ちしてしまっている。
『藤田先生にはそれがし、一度しかお目にかかってはおりませぬが、人品卑しからず、碩学で古今まれなるお方と感じいりました。これからも、多くの教えをうけたいと願っていた矢先でござりますのに…』
しかも、この度の自分の拝命は、東湖の示唆によるものだという。それがなければ、こうして自藩の重鎮、鈴木主税と親しく口をきくこともかなわなかったのだ。その意味で、いまの左内にとっては、かけがえのない恩人といえる……。
主税の居宅が見えてきた。手前に、庭木の松が倒れている。これも先の震災によるものだろう、長の樹齢をへて四方八方に梢をひろげた大木だというのに、根もと近くから無残におれてしまっていた。 じっと見やりながら、
『国事多難のおりから、東湖の力がぜひとも必要じゃったにのう……天もむごいことをする』
つぶやくように言って、主税は目頭に手をやり、空をあおいだ。 …………(中略)……………………
229頁〜 五 安政3(1856)年になった。 先の震災の被
害が軽かった福井藩邸はすっかり修復がなり、平穏な年明けを迎えたが、一つだけ心配なことが起こった。参政の鈴木主税が、急に病に倒れたのである。
藩公の信任があつく、そうでなくとも多忙なところに、昨年藩校の明道館が創設されることになり、主税はいくどとなく江戸と福井のあいだを往復していた。おそらく、その疲れがでたのであろう。それに盟友、藤田東湖の頓死に対する衝撃も大きかった。心労がかさなったものと見える。
左内は江戸の藩邸で再会したとき、すでに主税の顔色が悪く、難儀そうだったのを思い出し、もっと早くに手を打てばよかったと思ったが、遅かった。主税の住居とひとつづきの長屋に寄宿して、左内はほとんど毎日のように彼と顔をあわせていた。それがかえって、的確な判断をにぶらせてしまったのかもしれない。いずれ容体を診なければならないが、もはや左内は藩医ではない。担当の医師には在府中の半井仲庵がつき、左内は仲庵の指示をあおぐかたちで日々の看護にあった。ただ食欲はまるでないと言い、放っておくと、何も口にしようとしない。起きるとひどい立ちくらみにおそわれる様子で、つねに誰かがつきそい、安静にして寝かせておかねばならなかった。そして何よりも、精神的な落ち込みが激しかった。実際、主税はせまりくる死の時を自ら感じていて、たびたび左内を枕頭によんでは、『わしはもう駄目じゃ。はや余命もつきようとしておる』とつぶやいた。
『わしの志をつぎ、なしとげてくれる者は、おぬししかおらん。藩のため、天下のためにしっかり尽くしてくれ』左内の手を握り締め、執拗にそう言って。後事を託そうとする。その都度、左内は…
『何をおっしゃるのです。鈴木様はまだ若い……これからなお、ひと働きもふた働きもしなければならない身ではござりませぬか』と励ましたが主税は黙って首を揺すり続けるばかりだった。2月にはいって主税の容体は悪化し、10日の夕刻、ついに息を引き取った。齢43歳、左内の父彦也の享年より更に若い。以前からその英名だけは聞いていたが、左内が主税と親しく口を聞くようになってから、まだ半年とたっていない。それだけに口惜しく、また一つ屋根の下にくらして実父のように慕いはじめた矢先のことで左内の落胆ぶりは尋常ではなかった。一人左内ばかりではない。藩主慶永(春嶽)にとっても、そして福井藩の今後にとっても鈴木主税の死はたいへんな痛手である。
主税の手腕と善政ぶりは、領内の民人の間にも知れ渡っている。ことに国元で町奉行の職についていたころには、つねに公平にして温情あふれる裁きをなし、町民たちのあいだでの評判はすこぶる高かった。彼の訃報を伝え聞いて、誰しもが嘆き悲しみ、いずれみなで金子を寄せ合い、主税をまつった社(世直神社)を建てようと言い出す者まで出るほどだった。
左内としても、このままではいられない。亡き主税のために、なにかしてやれることはないか、と彼は考えた。
鈴木主税の遺体は江戸品川の『天龍寺』に埋葬されたが、左内はまずそこに墓を建てるべく奔走した。ついで、その墓碑の題字を慶永に書いてもらうことを思い付いた。
その頃左内は足しげく水戸藩に出入りしており、震災で死んだ同藩の藤田東湖の墓標に前藩主の徳川斉昭が染筆するという話を小耳にはさんでいた。となれば、主税のいしぶみには福井藩主松平慶永みずからの御筆をたまわって、なんのふしぎもない。早速、左内は、側用人の中根雪江を通じて松平慶永(春嶽)にその旨のうかがいをたてることにした。
『純淵こと鈴木主税は終始、忠亮にして、公事に勤労仕り、私営陰蔵などいっさいつかまつらず……』その人徳と功績をたたえるべく、ぜひとも藩公の御染筆を賜りたい。…………慶永(春嶽)おおいに心を動かし、左内の申し出をうけいれようとしたが……
実現は家中の反対があり、かなりの時をへてからのこととなった。……………(中略)……………………
安政6(1859)年10月7日の5つ刻(午前8時頃)左内はあらためて評定所に呼出され、北町奉行石谷あつ清によって裁決をもうしわたされた。『死罪』である。同日、刑場の露ときえるのである。
鈴木主税より3年後のことである。
橋本左内は幕末期の志士のうち、土佐の坂本龍馬とならび、もっとも異彩をはなった人物であった。
かの維新の英傑『西郷隆盛』をして、『もしや橋本どんとの出会いがなかったら、その後のおいはありもさん』とまで言わしめたほどの男なのだ。
にもかかわらず、なぜかその名のみが残され、実態は余り良く知られていない気がする。志なかばで夭折したとはいえ、決して平坦ではなく、むしろ波乱万丈とすら言える生涯を考えると、不思議でならない。
橋本左内綱紀は越前福井藩の医家に生れ、緒方洪庵の適塾で蘭方を学びながら、政事をこころざし、藩主松平慶永(春嶽)の懐刀となって一橋慶喜の将軍擁立に奔走する。ために、政敵井伊直弼ににらまれ、20代のなかばの若さで刑場の露と消えるのだが、……
同じ『安政の大獄』の犠牲となった吉田松陰や梅田雲浜などとちがい、彼は攘夷論者ではない。反対に開国を望み、龍馬と同様、海の向こうへの飛躍を夢見た。
夢を翔け、夢に殉じた………そんな『騏麟児』の短い青春を…と
著者 『岳 真也』さんは結んでおられる。
(ここまでが、岳氏の小説文の引用である)
小生(林原英祐)はその陰にある『鈴木主税』の『左内への思い!』と「一度も形を現さない妻『ジュン』」に大きなロマンを覚えるのである。
多分『日本の志士達の陰』に沢山の『支えた女性達』がいると想像するのである。
先日 福井の『孝顕寺』の住職が昭和38年の福井新聞の記事を送って下さいました。
その中に 鈴木主税重榮の墓石がみつかった! 号『重榮』が書かれてある。『鈴木重榮』の墓 ……云々
その『福井新聞(昭和38年5月11日(土))』の『見出し』では……
「鈴木主税の墓を発見!……今成住職:福井の孝顕寺墓地で…幕末の福井藩士で、松平春岳のブレ−ンとして、又、橋本左内に大きな影響を与えた鈴木主税 (1814〜1856) の墓がこの程福井市常磐木町の孝顕寺墓地で今成覚禅住職によって見つかった。同寺にはこれまでも鈴木主税の墓はあったが墓石も新しく大正か昭和になって作られたもの。この為ほかに本当の墓があるのではないかと思われていたが、確認できなかった。ところが『純淵斉繁林重榮居士』という戒名が彫られた『鈴木主税之墓』というのがあり、死亡月日が安政3年2月10日となっており、同寺に残っている過去帳とぴったり合致したため鈴木主税の墓とわかった。 『重榮』というのはあまり知られていないが主税の号らしい。
主税は行政的手腕にすぐれ福井藩士に新鮮な気風を起こし、一方『春岳』の側近として幕末に活躍した。また悪税を廃止して『世直し明神』として祭られている。…云々』とある。
その時の、現住職の手紙の中に、「最近まで御子孫の方がおられましたが、御亡くなりになられたそうです。『主税』の墓の隣には『重榮の女蝶子』と書かれた墓が並んでおります……と記されてありました。(2001年1月23日の便りより)
隣に、ヒッソリと眠る 『女 蝶子』の墓とは「誰」のことか??
『比企系図』にある6代比企佐左ヱ門榮庸の次女『ジュン』(鈴木主税重榮の室)は何処に眠るのか???
多分、女系『比企』の血を引く『女』は嫁ぎ先で『後家』になって『長寿』をまっとうしていると考える。
限り無く続く『比企』のロマンを追って………
『岳 真也』さん、夢をありがとうございました。
その後、2001年4月12日に福井市みのり2丁目の『世直神社』の世話人を勤めていらしゃる「山本典和」さんから「お便り」と資料を送って頂きました。
『数年前になりますが…、鈴木主税先生の御子息の方が東京から尋ねて来られたと近所委の清水様から聞きましたが、清水さんが訳が分からず、何か証拠になるものはないか?と…尋ねられたら、後日、同封の資料を送ってこられたそうです。
その資料がバラバラであったものを、清水さんが小冊子にしたそうです。***』との前置きで……
」 別冊 『世直神祠と鈴木主税先生』(小冊子)
永井 環著 昭和6年5月14日発行
その中で… 先生をこのように紹介されている。
『先生(鈴木主税のこと)の名乗は重榮(ジュウエイ)、通称は主税(チカラ)、小字は小三郎、純淵(ジュンエン)亦は鑾城(ランジョウ)と號し、文化11年(1814)3月の生れである。福井藩士海福瀬左衛門の次男にして出てて、鈴木彦太夫長恒の養子となった。
鈴木家は定座番外禄450石、先生長じて英資俊邁識量宏遠、『彦太夫』町奉行の要職に在りしが、天保8年(1837)10月病死した為、同年11月家督を相続し、天保13年8月29歳、選ばれて町奉行となった。当時藩の財政、、、(中略)……
別に四項において、家族のことを、……
『元来先生には、始め實子なかりしかば、福井藩士雨森藤四郎の弟傳之丞(重徳)を以て養嗣子とした。然るに間もなく實子を挙小三郎(重弘)と名をつけた。先生逝去の當時傳之丞は年18歳、小三郎は僅かに6歳の幼年であった。しかして、その後程なく傳之丞が病死し、小三郎が相続したのであるが、その小三郎重弘の嗣子『薫』氏から頂戴した資料とある。』………以上が福井在住の山本様からの『便り』の要点(引用)である。
前にも触れましたが『越前比企家』と『鈴木家(家老格)』との関わりは永く続いている。少し要約すると、
@三代『榮搶』の正室は鈴木彦太夫重英の娘『リノ』である。又、後妻も重英の養女『リヨ』(生田家…鈴木家親戚筋)を迎えている。
A四代『榮禎』も『生田六左ヱ門(鈴木家親戚)』から正室を迎えている。
B五代『榮脩』も『鈴木亦吉の娘』ツルを正室として届けるも婚前病死で成就しなかった。
C六代『榮庸』の時、始めて比企家の娘(ジュン)を鈴木彦太夫長恒の養嗣子である『『鈴木主税重榮(海福瀬左衛門の次男)に嫁がせている。
………そのようにして、『鈴木家』と『比企家』は越前松平藩の中で、随分深い関係にあったと想像される。
後に出てくる、『キン』の里(横田作太夫の娘)の『横田家』も何等かの形で『鈴木家』の縁者であると考えられる。(『世直神祠』の神位の表に名がある)
以上で『鈴木主税重榮』先生の紹介を終わります。安らかに御眠りください。
合掌
次回は『御影比企家』の祖とされる『比企外五郎福造 亦 朔輔』の謎に迫ります。
御楽しみに…
追記、別記に…鈴木主税重榮先生を褒めて書かれた下りが見つかったので附記すると、
*「水戸の藤田東湖が『今や真に豪傑と稱すべき者天下唯鈴木主税、西郷吉之助あるのみ』と言ひ」
*「肥後の長岡監物が『資質豪邁にして才略あるは東湖に如くはなく、学術正大にして徳義智識兼備はるは重榮に如くは無し、余最重榮に服す』と言ふ。」
以上
| [18] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月19日 10時32分14秒 ) | パスワード |
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越前比企物語H
御影比企家の祖
7代比企五郎左ヱ門榮信(テルノブ)の別家
故比企忠『比企家系図』ヨリ
『比企外五郎福造』 (39歳の短命と院殿号の謎)
福造が育った環境(背景)
年代(月日) 西暦年 齢 記事
弘化4年 (1847) 1 比企家7代当主『比企五郎左ヱ門榮信』の4男として生まれる。幼名朔輔 後に『福造』号を名乗る。母は榮信の正室で津田弥太六の娘モト*モトは明治23年12月19日卒68歳 於清源寺 戒名『清壽院儀譽賢哲大姉』
嘉永3年 6月4日 (1850) 4 母『モト』は嘉永3年6月4日当主榮信(35歳)と28歳の若さで死別している。(28歳で後家になった)その後、嫡男榮徴が幼かったため、本多多門左ヱ門二男を8代当主、『比企幸次郎榮貞(テルサダ)』を養子として迎えいれている。
榮貞は血統としては、比企5代当主比企佐左衛門榮脩(テルノブ)の4男:幼名三十郎が本多家に養子として入り、本多門左ヱ門を継いでいるので、『5代榮脩』の実孫に位置する。
嘉永5年 正月7日 (1852) 6 榮貞も又、25歳の若さで他界している。(時に、養母モト30歳)
実子『比企家9代当主 比企他五郎榮徴(後名佐門)は年齢12歳で家督相続することになる。
嫡子(幼少)『榮徴』が家督相続を許された時点での、越前比企家の家族構成は、
実母 比企モト(当時30歳)
当主 比企他五郎榮徴(後佐門)(当時12歳) 1841年生
3男 比企三五郎儀長(後佐門養子)(当時10歳) 1843年生
4男 比企外五郎福造(後に別家扱い)(当時 6歳) 1847年生
次男 虎五郎は加藤家に養子縁組(当時11歳)(加藤虎五郎信興号)
★祖母 先々代 榮庸の後妻 比企キン (当時62歳) 1789年生 ★義母 先代 榮貞の妻 比企リュウ (当時29歳) 1824年生
◆リュウは6代榮庸の娘で母はキン(横田作太夫の娘)**実の母娘関係
*初婚は真田源五郎(5代榮脩3男:捨五郎が養子先の息子:リュウの従兄弟)も…7代榮信(卒35歳)死去の時、後の9代榮徴幼少の為、8代榮貞の養子縁組の流れを受けて「御家」の犠牲者として、協議離婚を強いられ8代榮貞の正室と成るも…僅か2年間で榮貞と死別29歳の若さで後家となる。(母キンとの絆は強い)
別家 比企外五郎福造 の生涯年表
元治元年11月 (1864) 18 茂昭公、長州御征伐副将を仰せつかったに付、御供を命じられた。
慶応元年 2月 (1865) 19 罷帰する(福井に帰った)
明治元年 9月 (1868) 22 奥羽御征伐に付、会津地方へ罷越する。
明治2年 2月 (1869) 23 罷帰する
明治3年 (1870) 24 福井藩に於いて『3人扶持』で召し抱えられた。第2番遊撃隊に編入、藩兵を以て東京取締を仰せつかり、同月出発した。
明治4年11月2日 (1871) 25 東京府取締組を仰せつかった。同月9日同組取締組小頭を仰せつかった。
明治5年5月14日 (1872) 26 司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。
明治6年1月14日 (1873) 27 1等巡査 兼逮部を仰せつかった。同年同月16日大分県出張を命じられた。3月6日御用済みにて帰京した。17日司法省邏卒小頭 兼逮部小頭を仰せつかった。5月18日一等巡査を仰せつかった。
明治7年1月10日 (1874) 28 権少警部 1月22日 警視庁権少警部 2月22日 少警部 3月19日 一等功労金10円賜明治8年1月20日 1875年 30歳 *権中警部に任じられる。12月8日 中警部に昇格する。
明治10年1月4日 (1877) 31 権大警部に任じられる。1月15日 二等中警部 2月15日 九州地方に出張を命じられた。4月1日 陸軍中尉(征伐総督本営)兼二等中警部、、4月4日 別働第三旅団第三大隊第一中隊長(征伐総督本営)、5月16日 別働第三旅団歩兵第三大隊副官、8月1日 御用で帰京した。12月2日 権大警部(太政官)兼務を任じられた。
明治11年2月19日(1878) 32 御用有り、鹿児島へ出張を命じられた。3月30日 二等警視補(太政官)を兼任、6月28日 今般、鹿児島の逆徒(注:西南の役)征伐の際、尽力その功少なからずに付…『叙勲五等』 金 500円を賜った。
明治12年1月19日(1879) 33 御用済み(鹿児島警視出張所)にて帰京した。
明治13年1月17日(1880) 34 一等警視補を兼任 2月12日 『従七位』(太政官)を叙す。3月、明治10年『九州騒乱(西南の役)』の際、出張軍務従軍の外、警察本務に服し勉励に候うに付『慰労手当金20円』を賜った。3月25日 後備軍躯員(太政官)を仰せつかった。
明治14年1月13日(1881) 35 兼補八等出仕(陸軍省) 4月9日 陸軍憲兵大尉(太政官) 同日 東京憲兵分隊長(陸軍省)、4月22日 東京憲兵第四分隊長を仰せつかった。7月26日 『正七位』(太政官)に叙す。
明治16年 (1883) 37 8月21日 私儀、嫡子『雅(マサシ)』誕生
12月15日 補東京憲兵隊第一大隊中隊長(陸軍省)、12月17日 東京憲兵第一大隊第一中隊附(陸軍省)を仰せつかった。
明治18年 (1885) 39 3月19日 本職を免じられた。『補東京憲兵隊第三大隊中隊長(陸軍省)』、『東京憲兵第一大隊第一中隊付(陸軍省)』、4月7日 叙『勲四等旭日小綬章』(太政官)を賜った。(39歳での高位叙勲である)、6月29日 本職を免じられた。『東京憲兵隊第二大隊長心得(陸軍省)』、7月20日 大阪に於いて、39歳という若さで死去している。
戒名『神隆院殿福譽造本大居士』 墓地 福井清源寺(比企家菩提寺)
『嫡子:雅(マサシ)』が数え『3歳』の時のことである。
後家 タマ(福造死亡時点での…余命45年)
(当時27歳−卒年72歳)
比企タマ(福造の室 中川一歸の6女)
卒年 昭和4年(1929)2月20日 於 清源寺 戒名『淑芳院殿明譽玉成大姉』
*御影比企家の祖『比企福造』と後家『タマ』を思う!…『4代比企尼(後家)』
若干39歳の若さでこの世を去った『福造』の生涯は謎に包まれている。
そして、死後、比企家の菩提寺、清源寺より末代の『院殿号』が授けられている。
越前比企家で最初の『院殿号』であることは、記録上も明らかであり、その意味する処が不透明である。
多分、「死者に口無し!」の言葉の意味する様な何かが存在したと想像する。
この『福造』氏が偉大な人物であったことだけが、『御影比企家』の家族達全員に『院殿号』の拝受と共に語り伝えられて来た。
『福造』が大阪で死去したことの連絡を東京で『妻タマ』が受けて、船で大阪に出向き『福造』の遺骨を取りに行く下り(タマ27歳、ツネ5歳、雅3歳、付添:儀長伯父)は悲惨な光景であっただろう。
次回に比企雅が手紙(比企忠宛)の中に書く『福造の死の謎』を書くことで、『比企タマ』が越前比企家の『4代比企尼(後家)』を名乗るに相応しい人であることが理解いただけると考えます。
私は45年間の後家を通した『タマ』祖母さんのことを、実母『禮』から何度も聞かされて、この『称号』を与えることにした。
次回をお楽しみに
| [19] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月19日 22時35分47秒 ) | パスワード |
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>『キン』の里(横田作太夫の娘)の『横田家』も何等かの形で
>『鈴木家』の縁者であると考えられる。
でしょうね。
安政の大地震や安政の大獄に繋がっていたとは
凄い「歴史発見」でございますね。
「院殿」号とか「寺殿」号というのは1国の殿さま級の号なので
本当にどのような経緯が「福造公」にあっての事か中々興味が尽きませんね。
今では私達が戒名にこの号をお願いしたい時は大金を積まなくてはならないと聞いていますが、どういう謎が隠されていたのでしょうね。
戒名の11字とか13字は本当に身分の高い人に限られていたそうでございますよ。
| [20] | ![]() | 源三さんからのコメント(2002年01月21日 01時28分18秒 ) | パスワード |
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★林原さんはじめまして!早速の返信レス書き込みありがとうございます。
本当に恐縮致しております。林原さんはかなり克明詳細に比企氏や島津氏のことに
お詳しいんですね。僕の場合は九州通史や大友家以外の知識は空白って感じです。
比企氏のことは余り知らないんですが、島津氏のことは興味をもって少しですが
知識はあります。南北朝期には大友家とも婚姻関係があり仲が良かったみたいで
すね。最後はあのようになって残念です。
次に、お問い合わせの『津々見忠季』氏のことでありますが、確かに記録によれば、「右衛門二郎 兵衛尉」は建久7(1196)〜に若狭国守護職にあったと記されてある。後は北条義時に取られているが、何時からかは不明。
その津々見忠季が惟宗忠季、若狭忠季と同一人であることは間違いないと思います。
物の本によれば、「忠久」は越前国守護職や信濃国塩田荘、大田荘地頭職などにも任じられており、次男島津忠綱は越前島津家をおこしている。
また、忠久の弟忠季(実際は兄か)は若狭国守護職に任じられている。
北陸、信州地方は比企氏が勢力基盤としていたところでもある。云々〜
又、別に、頼朝の弟範頼の子孫『吉見氏』に伝わった『吉見系図』には、比企尼の嫡女「丹後内侍」は安達盛長に嫁ぐ前に惟宗広信との間に「忠久」「忠季」の二人の子を設けていると。
★先日高校時代の日本史の地図みたいなのを見ていたら鎌倉初期の若狭守護に津々見
忠季って載ってましたから何者?って感じで調べていましたら、ある本には、北条一族って載ってました、げどうも間違いみたいですね。本当は島津忠久の兄弟だったん
ですね!。しかし島津兄弟は色んな所に守護所領を貰っていたんですね。かなり頼朝
公から厚遇されていたんですね。これも比企氏のバックアップがあってのことなんでしょうね。でもそれ以上に何かあると思うのは僕だけではないでしょう。大友能直や結城氏、伊達氏など何かあるのではないかと思うのも又、いと楽し!ですね。
「源三」さんの専門の九州に「津々見氏」が存在するか?又北条との関係などは小生は無学で解りません悪しからずご了承のほどお願いします。
以上、お詫びと訂正をいたします。又ご指導を宜しくお願いします。以上
★こちらこそご丁寧に教示を賜りありがとうございます。
九州国東国人の津々見氏は藤原姓を名乗ってますが、案外、名跡(家の起り)は島津
系かもしれませんね。そして途中藤原系一族から養子が入っての血流から藤原氏と名乗ってるのかも知れませんね・・・。他に若狭守護の津々見氏は若狭氏とも称してますね。その子孫は今なんて名乗ってるのでしょうかね?若狭氏や津々見氏などの姓名
は最近見かけますけど・・・。このスレッドを見ているとすごく細かくお調べになってるんですね。何か文脈を拝見していると林原さんは人格、見識共にとても勝れた現代の
鎌倉武士と見受けましたよ!同じ鎌倉武士の苗裔として共に色んなことをお互いにそれぞれスレッド立てて書き込めて行けたらいいですね。
最後に29歳の若造が偉そうなこと言ってすいません・・・。
| [21] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月21日 20時40分40秒 ) | パスワード |
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御影『比企家』の…『祖』
比企外五郎福造の『死の謎』 読み 林原 英祐
比企家に語り伝えられている事実
*西南の役で大きな功績を認められて勲4等旭日章(若干39歳)を賜った。
*福井の清源寺(比企家菩提寺)で末代の『院殿号』を約されている。(大きな寄付?)
*その経歴にかかわらず、詳細が残っていない。(意識的に消している感がある)
*昭和30年1月28日付の比企雅(東灘区魚崎町)…比企福造の息子…から比企元様(東京都中野区)…比企本家(比企忠氏の長男)宛の手紙のなかで…………
*昭和25年に『比企本家』が福井清源寺(比企菩提寺)から墓地を東京青山墓地に移すに際して…
*『青山墓地に比企福造の分骨埋葬の痕跡があるとの情報を得た…云々』の便りがあった。
比企雅の『比企元様』への返信(手紙)の形で書かれた手紙である。
手紙文の写(引用)
前文、略す…
先日、お手紙頂き内容拝見いたし実に驚きました。なにしろ、今日ではその時の事情を知っている関係者は全部他界後ですから、更に判りませんが私の聞き伝えておる所では、……
★私の父、福造は東京に住うて居て私も東京で生れましたが、私の2歳の時に東京から大阪の鎮台(戦前の第4師団の事でしょう)へ単独転任となって翌明治18年7月20日に大阪で病死した訳です。
★その当時、私の母(たま)は私の姉(明治19年福井にて病死)と私とを連れて船で東京から大阪へ来て、大阪で福井から『儀長伯父』(彰サンの父)と加藤伯父(比企家から加藤家へ養子に行った)との2人の伯父と落合って父福造の遺骨を持って直接、福井へ落ち着いた。
★大阪で葬送した事は確実で、その時、神式にて葬儀を営んだものらしく、神前に誅言(その時のノリト)も大阪神宮教會所の斎主少教正大野阿曽美氏及び、大原美能理氏によりて書かれたものが私の手元に残って居ります。
★東京へ分骨したと言う事は何も聞いていませんでしたが、もしお申し越しの様に比企福造としての墓地が青山にあったとか遺骨と言う箱があったとか言うことから考えると元様のお考えの様に『西南戦争』の功労者とか何とか言う事で…
★或いは東京へ分骨して納骨して居たのかも知れません。
★又或いは青山墓地が軍とか警視庁の合同墓地であったかもしれぬ等と言う考へも無駄ではないと思います。
★戦前に私が遊就館へ行って西南戦争の只一枚しかない想像油画につき説明を求めた時も何等の記録もないので説明が出来ぬ。
これは警視庁の管轄時代のもので大震災で総ての記録がなくなって居て判らぬと言われた位で、とても此の墓地の記録も残って居りますまい。
尚又、我々の此の事については少しも考えも及ばなかった事で全然無智の事ですから仕方ありません。
もし、昭和18年まで台帳に在りながら無縁となった事は返す返すも惜しい事で七坪半もあったと言う墓地を失った事は実に残念千万と存じます。
勿論、一度無縁と処理せられた以上、例え遺族が残っていて異議申し立てをしてもそれは取り上げない事と存じますがどんな物でしょうか、
いずれにしても、こう言う事実が判った事については父福造の霊も浮かばれた事と存じます。
尤も福井の清源寺に遺骨を納めて以来引続き供養回向はして来ましたし、昨年は私の戦後の宿望がかなって墓石も新しくして『シゲ』と共に父の70回忌を懇ろに営んで来ましたので何の遺憾もないのですが、仰せの通り25年に元様が青山へ墓地を移されたために此の問題が判った訳で、さもなかったら暗から暗に葬られた事でしょう。
これ全て墓地を新設されたためのお引合わせとしか思えず誠に有り難いことと存じ厚くお礼申し上げます。 ………………後略…………… 以上が『手紙文』の抜粋です。
小生(林原英祐)の想像ですが、比企福造が「大阪で病死」とありますが、前後の記録から考えて不自然に思えます。
警視庁(憲兵隊)の上層部に配置され、西南戦争でも特務機関的な仕事に従事し、その功績が大きかったと記されていますが、本当に普通の病死であったかどうかは疑わしく思えます。
『御国の為に…殉じた死が…』想像されてならない。
その後の「若年叙勲」とか、「院殿号」とか、「青山の軍?、警視庁?墓地」とか、を考えると「ひょっとしたら…親戚の誰か…儀長伯父?妻比企たま?が内緒で聞かされた話があったのではないか??…
いずれにしても今となっては知る術もありません。
『死者に口無し!』の話の『謎』としておきます。 以上
| [22] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月21日 21時14分42秒 ) | パスワード |
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越前比企物語I
七代『比企五郎左ヱ門榮信』の記事
父者佐左ヱ門榮庸 母者横田作太夫娘 童名 彦松 亦 五郎松 亦 五郎吉
弘化4年(1847)2月12日、父榮庸家督200石相違無く下置きされ、『大御番組』入り仰せつかった。
嘉永元年(1848)4月20日、表御小姓西村小平次跡を仰せつかり、
同年 10月15日、江戸御供詰め仰せつかり、
翌嘉永2年(1849)3月13日御腰物亦奥納戸荷物引取りにて罷越。同2年11月御婚姻御用相勤め候うに付き仰せつかった。嘉永3年(1850)5月8日御腰物亦奥納戸荷物引取りにて罷帰。
同嘉永3年 6月4日卒、齢35歳 葬 清源寺
戒名『現光院浄譽教信居士』
妻者 津田弥太六娘 『モト』明治23年(1890)12月19日卒齢68歳 葬 清源寺
戒名『清壽院儀譽賢哲大姉』
家族構成
長男 他五郎 亦 佐門 後 幸次郎榮貞に家督相続(9代比企他五郎榮徴のこと)
次男 虎五郎 加藤文太養子 加藤虎五郎信興と号す。
三男 三五郎 後 儀長 後 佐門家督相続 (10代比企儀長のこと)
四男 外五郎 塑輔 亦 福造と号す。(御影比企家の祖…比企雅の父)
*七代『比企五郎左ヱ門榮信』と妻『モト』を思う
6代比企佐左ヱ門榮庸の子『榮信』が若くして35歳で世を去ることで、越前比企家は明治維新の流れを背景にして、江戸時代と共に幕を下ろす方向へ『雪崩』現象が始まる。
その後の経過を記録から『抜粋』して書き込むが、新しい時代の幕開けが近付いていることは、あきらかであった。
前項で『鈴木主税重榮』と『橋本左内』が一生を懸けた『松平春嶽』との『夢』が地鳴りと共に実現し始めていたのです。 『御影比企家』へ続く!
越前比企物語J 付記
八代養子
『比企幸次郎榮貞』
榮信養子實は本多門左ヱ門次男(5代比企佐左衛門榮脩の実孫)
嘉永3年(1850)6月5日榮信養子
但、榮信病死、実子榮徴幼少につき榮貞、當家の血統たるにより養子と為す。
嘉永3年(1850)7月29日家督200石相違無く下置きされ、大御番入り仕り候う。
嘉永5年(1852)正月7日卒齢25歳 葬 清源寺 戒名『春学院戒譽一乗居士』
妻者佐左ヱ門榮庸娘 五郎左ヱ門榮信養女 明治24年(1891)12月2日卒齢63歳
名『リュウ』 戒名『蓮光院乗譽妙心大姉』
男子 徳太郎 早世 嘉榮5年(1852)2月24日卒 葬 清源寺
戒名『壽幼童子』
越前比企物語K
九代『比企他五郎榮徴』後 佐門と改称
實、7代『比企五郎左ヱ門榮信』の嫡男、母者津田弥太六正作娘
嘉永5年(1852)正月7日、8代養子『榮貞』病死の為、同年2月29日、家督相違無く200石下置きされ、無役御留守番入りを仰せつかった。
但、茲時『榮徴』12歳と幼少につき無役入りを仰せつかったが、
安政6年(1859)7月、『大御番壱番組』入りを仰せつかった。
同年10月『茂昭公』の御供を仰せつかり、
文久3年(1863)正月お供頭取を仰せつかった。
元治元年(1864)11月には長州御征伐の副将を仰せつかり、お供をして、
慶応元年(1865)2月罷帰す。
明治元年(1868)奥州御征討に付き、同年9月御手許より軍事視察亦一戦争可致旨仰せつか理、罷越するも、会津降伏に付き11月剴陣す。
明治3年(1870)6月福井藩分隊長拝命10月予備分隊長拝命、明治8年(1875)家禄の称廃止となり『金禄』と称す。
但、家禄 米(明治5年〜7年までの3ケ年平均相場、壱石に付き参円90銭2厘4毛5絲にて、石高 48石1斗6升5合と……
明治9年(1876)8月第108号公布にて、金禄の義は廃止10ケ年は公債証券1973円60銭1厘、利子1ケ年6朱とされた。
明治22年(1889)11月21日卒齢49歳 葬 清源寺
戒名『龍門院雲譽帰山居士』
妻者加賀九郎左ヱ門成昴2女『サミ』、母津田弥太六長女『ユリ』
昭和6年(1931)6月3日卒
家族構成
長男 忠 後 儀長家督相続 (11代比企 忠のこと)…『比企系図』識者
慶応2年(1866)7月16日生れ
昭和2年(1927)6月13日卒 戒名『清山院教譽忠道居士』
(妻者)比企うめ 昭和15年1月13日卒 戒名『清泉院薫譽梅香大姉』
次男 榮次郎 早世 明治4年5月2日卒 戒名『玉顔清香童子』
長女 小マツ 明治28年9月8日東京にて卒
戒名『央玉院真譽妙松大姉』
次女 榮(シゲ)昭和20年7月19日 空襲中『行方不明』死亡届を出す。
戒名『心月院白譽喜法大姉』
他に10代『比企三五郎儀長桂介』
明治41年10月15日卒 戒名『異夢院空閑儀哲居士』の記録あるも略す。
以上
越前比企物語を『比企系図の記事』を中心に書き込みましたが、一応ここで結びといたします。
又、『夢に見た話が出てきましたら、その時に追記させていただきます。
これだけ書いたのですから、きっと夢を見るでしょう。お楽しみに、、、
なお、最後に『御影比企物語』を、流れとしましては予定しているのですが、現在、86歳で元気にしています『小生の実母』林原禮(比企雅の一人娘)と記憶をたどりながらのメモの整理中でして、そのうちにまとめたいと考えていますが、実在の人間が文章にするのは、少し照れくさく、気が重いものです。
それじゃあ、又
| [23] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月23日 00時21分30秒 ) | パスワード |
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凄いですねぇ。
福井県教育委員会はコピーが欲しいでしょうね。
加藤家の養子に出た方は加藤清正に縁のある加藤家に縁づいたのでしょうね。
お母さまのご記憶の薄れない内に書き留めてまとめて下さい。
貴重なお話があると思います。
| [24] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年01月23日 20時15分23秒 ) | パスワード |
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越前比企物語L
『比企系図』の編者
比企 忠(タダス)氏のこと…… そして、一言のお礼!
早速、夢をみました。
私(忠)が明治42年、当時(コピ−機もFAXも無い中で…)『毛筆』で過去の記録を整理して、『清源寺の過去帳(今は無い)』を拾い読みして、整理して……
『再編集』して作りあげた『比企系図』を『作者(編者)』の紹介がないのは「変」ではないか?? (プンプン!)
『恐れ入りました!』『小生の心得違いであります。深くお詫びして、ここに『編者(明治42年誌とある)』を謹んで御紹介します。
『比企系図』の編者の紹介
11代比企家当主『比企忠(タダス)』 始 虎太郎 後 忠太郎
『儀長(ノリタケ)』養子、實は他五郎榮徴長男、母者加賀九郎右ヱ門次女『サミ』
明治11年(1878)12月21日『10代儀長』の養子となり、明治16年(1883)12月5日家督相続。
経歴(『忠』年表)
明治24年(1891)7月 8日 25第一高等中学校2部卒業
27年(1894)7月10日 28帝国大學理科大學地質學科卒業
28年(1895)8月14日 29理科大學雇中付(帝国大學より)
29年(1896)1月22日 30理科大學地質学教務補助嘱託(帝国大學より)
31年(1898)2月14日 32京都帝国大學助教授に任じられ、高等官7等を叙した。(内閣より)、採鉱学第二講座の分担を命じられ、(文部省)
4月27日 京都市街上下水道改修調査委員を嘱託(京都市委員会)
4月30日 叙従7位(宮内省)
8月23日 採鉱学第一講座の分担を命じられた。(文部省)
9月 5日 第三高等學校土學部講師嘱託(第三高等学校)
32年(1899)4月24日 33当校の大學予科鉱物の講師を嘱託す(第三高等学校)
12月11日 本俸4級俸下賜る(文部省)
33年(1900)1月15日 34地質調査を嘱託す。(震災予防調査会)
3月26日 高等官6等を叙した。(内閣)
3月29日 職務勉励に付き、其賞として金百五十円下賜る(経□省)
6月11日 叙正7位(宮内省)
34年(1901)12月25日35本俸3級俸下賜る(文部省)
35年(1902)4月21日 36高等官5等を叙した。(内閣)
9月20日 叙従6位(宮内省)
36年(1903)12月23日37本俸2級俸下賜る(文部省)
37年(1904)9月 9日 38採鉱學冶金学第二講座の分担を命ず。(文部省)
39年(1906)4月10日 40本学年間本校地質学講師を嘱託す。(名古屋高等工業学校)
10月1日 本学年間講師を嘱託す。(大阪高等工業学校)
40年(1907)7月20日 41高等官4等を叙した。(内閣)
10月30日 叙正6位(宮内省)
11月30日 本俸3級俸下賜る(文部省)
43年(1910)12月26日44叙勲6等授瑞宝章(賞勲局)
大正 元年(1912)10月8日 46地質学及び鉱物学研究の為満1ケ年間、英国、独国、米国へ留学を命じられた。(文部省)
12月28日 叙従5位(宮内省)
3年(1914)3月10日 48本俸2級俸下賜る(文部省)
7月 6日 本俸2級俸下賜る(文部省)
4日 京都帝国大學工科大學助教授叙高等官4等(内閣)
5年(1916)2月28日 50叙勲5等授瑞宝章(賞勲局)
6年(1917)3月14日 51本俸1級俸下賜る(文部省)
11月24日 淀川流域に於いて地質及び地震に関する調査を嘱託す。(内務省)
7年(1918)2月12日 52叙正5位(宮内省)
8年(1919)4月 1日 53本俸3級俸下賜る(文部省)
7月29日 京都帝国大學教授に任じられ、高等官3等を叙した。(内閣)同日工学部勤務を命じられた。本俸6級俸下賜る(文部省)
9月 3日 工学博士の学位を授与(文部大臣)
11月24日 鉱物原料鑑定に関する事項を嘱託す。(大阪工業試験所)
10年(1921)3月28日 55教務特別勉励に付き、其賞、金弐百参拾円授与(京都帝国大學)
4月19日 本俸6級俸下賜る(文部省)
6月 6日 倉内吟二郎『鉱床学』研究のため大学院入学に付き、指導教授を命ず。 (京都帝国大學)
7月 2日 新井琴次郎『鉱床学』研究にため大学院入学に付き、指導教授を命ず。(京都帝国大學)
8月15日 叙高等官2等(内閣)
12月23日 教務特別勉励に付き、其賞、金参百参拾円壱円授与(京都帝国大學)
11月30日 叙勲4等授瑞宝章(賞勲局)
11年(1922)7月31日 56本俸5級俸下賜る(文部省)
12年(1923)3月10日 57叙従4位(宮内省)
12月20日 金四百四拾円賞与(京都帝国大學)
13年(1924)
12月23日 58金四百四拾円賞与(京都帝国大學)
14年(1925)1月30日 59本俸4級俸下賜る(文部省)
6月18日 願いに依り鉱物原料鑑定に関する事項嘱託を解く。(大阪工業試験所)
7月 2日 特旨を以て位一級被進、叙正4位(宮内省) 12月24日 叙勲3等授瑞宝章(賞勲局)同日金参百円賞与(大學)
15年(1926)6月12日 60依願免本官(内閣)同日 金壱万円特別賞与、金弐百円賞与(京都帝国大學)、同日、本俸1級俸下賜る(文部省)
昭和2年(1927) 6月13日 61永眠 戒名『清山院教譽忠道居士』
慶応2年(1866)7月16日生〜 齢61歳 葬 福井清源寺
妻者 東京府士族 須川賢久長女『梅』
明治28年10月11日結婚 29日入籍
昭和15年(1940)1月13日卒 戒名『清泉院薫譽梅香大姉』
家族 長女 『孝』明治29年生れ 後 工学博士 鈴木哲郎に嫁ぐ
長男 『元』明治31年生れ 後 国鉄 理事
次女 『久』明治33年生れ 大正4年死去
次男 『修』明治35年生れ 後 大學教授
三女 『信』明治37年生れ
四女 『頼』明治39年生れ とある。、、、
一言:
『忠(タダス)』お祖父さま、ご苦労様でした。
御先祖様に『尊台』のような御立派な『お人』を頂いたことは、小生の誇りであります。
礼儀として『お祖父様』の原文のまま、写しに専念いたしましたが、能力が足らずに十分なる訳になっていません。お許しください。
唯、書いていまして、お祖父さまの几帳面さは元より、将来(100年後)にこのような『過去の慣わし…』が「きっと参考になるだろう!」「このような貨幣価値が参考に成るだろう」など。
時代を超えての『気配り』が随所に出てきて、『熱いもの』が込み上げてきました。
この歳(59歳)まで生きて、正直に申しまして、この種の過去からの手紙を拝見したのは初めてです。
生きて居て良かったと思えました。ありがとう御座いました。
『主観的』にしか学べない、比較的愚かな小生にとって、こんな贈り物は、一生の思い出になると考えます。
『比企知子さん(比企忠さんの実孫)』が北海道から45年振りに『お便り』下さったことが、このような展開を呼んだとしたら、『知子』叔母様にも感謝感激です。
何よりも、86歳の実母『禮』に親孝行の一片が出来ました。
本当にありがとう御座いました。
皆様と又、何処かでお会い出来ることが『楽しみ』です。
その時は、又『続編』についてご報告致します。 じゃあ… 『合掌』
| [25] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月25日 02時45分35秒 ) | パスワード |
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非常に貴重な資料ですね。
細かく書かれているというのが実に感謝であります。
部外者には伺い知れない階級とか待遇とか。
参考資料として実に価値が高いですね。
| [26] | ![]() | 林原 英祐さんからのコメント(2002年02月20日 20時05分44秒 ) | パスワード |
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『番外編』越前比企物語…真田家
越前福井松平藩の『真田家』について
『明子先生』が小生のレポ−トに好意を持って伴奏して下さることに何時も感謝しています。
本当はその都度、再返事(Re>Re)を書かなければ失礼なのですが、本論を進めるのに一生懸命になってしまい。申し訳ないと思っています。
返事を楽しみにしている小生と、感想を書いても、感想に感想を言わない勝手な弟子とでは『月とスッポン』程の隔たりがありますね。お許し下さいね!
さて、少し前になりますが、越前比企物語の中で、比企と親戚関係にある『真田家』のことを書き込みました時に、『明子』先生があの『真田家』とも親戚なのですね!!と伴奏されました。
その時小生は『乗りのいい、お世辞程度に軽く受け止めていました。』まさか、あの『真田家(真田庄城主)』と福井の『真田家』は無関係と決め込んでいましたから、特に、受け答えもせずに流していたのが本音です。
具体的に述べますと……
@5代比企榮脩(妻チヨ)の時代(1800年頃)に、3男『捨五郎』を真田五郎兵衛幸度の養子として縁組している。『真田源五郎幸孝』と号し、後に戒名し『真田俊五郎兵衛』とある。 天保10年8月 (1839) 51歳で安隠寺に眠る『法身院覺月了円居士』
A6代比企榮庸の正室(先妻)は『真田五郎兵衛幸度』の娘と記録にある。『有故離別』と追記してある。後妻(キン…横田作太夫の娘)『3代比企尼キン』の登場となる。
B『榮庸』の嫡女『ジュン』は有名な「鈴木主税重榮」に嫁ぐが、次女『リュウ』は…
『真田源五郎??』に嫁いでいる。これも追記があって、『有故和順之上離縁』とある。又、後に五郎左ヱ門榮信(7代)養子、幸次郎榮貞(8代)妻ト成す。
多分、この『源五郎??』は5代榮脩の3男『捨五郎』養子『真田源五郎幸孝』の子供であろうと考えると、『リュウ』とは従兄弟同志と言うことになる。
上記を整理して関係する『真田家』の人々をまとめると、…
@『真田五郎兵衛幸度』(幸孝…捨五郎の義父)(1750頃の生れか?)
A『真田源五郎幸孝』(比企から養子)(1788〜1839)
B『真田源五郎??』(リュウの先夫…従兄弟)(1810頃の生れか?)
以上が『比企系図』側の記事からの推論であります。
今回勉強した『戦武堂』さんの「HP 」によれば…
真田家の祖を、
子孫の小太郎幸氏は源頼朝に仕え騎射の名手として名を馳せた。
子孫の信濃守棟綱の子弾正忠幸隆が小県郡真田庄に住し真田姓を称したという。
@真田弾正忠幸隆(1513-74.5.19)
棟綱の長男。徳王丸。小太郎。弾正忠。号一徳斎。名は幸綱とも。
信濃国真田庄を領し真田姓を称す。天文十年、村上義清の攻撃を受け、上野国箕輪城主長野氏のもとに逃亡。天文十三年、武田信玄に招かれ、その麾下に入り佐久郡岩間城代となる。以後、武田軍の先鋒として上野国侵攻に活躍。天正二年、死去。享年六十二。法名長国寺月峯良
A真田兵部大輔昌輝(1543.6-75.5.21)
幸隆の二男。徳二郎。兵部丞。母は河原隆正の娘。
父とともに武田信玄・勝頼に仕え、兄の信綱と信濃国上田城を守る。永禄十二年、武田氏の小田原城攻めに参戦し活躍。翌年の長篠の戦いで戦死した。享年三十三。
■子の五郎兵衛信正(幸明)は松平忠輝、松平忠昌、本多忠国に歴仕した
B真田五郎兵衛信正
父は真田弾正忠幸隆の二男・真田兵部大輔昌輝。
昌輝は天正三年、長篠の戦いで戦死し、当時二歳であった信正は叔父・安房守昌幸に養育された。
信正は慶長十六年、松平上総介忠輝に七百石で仕えるも、断絶により浪人。
元和四年、三代・忠昌に召し出された。
と書かれてある。『名前(号)』から推察するに、「明子」先生の読み通り、これは間違いのない、あの『真田一族』であると確信した次第です。
比企家の7代『榮信』の早死(35歳)で6代『榮庸』の最高峰(全盛期)から転落します。
その時に『3代比企尼(6代榮庸の後妻)キン』の活躍で、次女『リュウ』の嫁入り先『真田家』から無理を言って呼び戻し(和順離縁)ます。
5代『榮脩』の外孫(本多家の次男)榮貞(8代『榮貞』)を養子として迎え、出戻り『リュウ』と再婚させた計らいは、『真田家』の協力なしには成立していない。
大変な苦労談である。結果はその『榮貞』が25歳の若さでこの世を去り、失敗するのであるが、その時は誰も知る由も無い話であった。
嘉永5年正月7日(1852)明治維新16年程、前の話であった。
私は『真田家』と『比企家』が100年間(1650〜1750)程の間、記録が残っていないが、もっと深い関係で結ばれていたと思えてならない。
上記の『シナリオ(6代『榮庸』)』が、遠い親戚との間に描ける「ストーリー」では無いと思えるからです。
先日出した福井『安隠寺』からの『便り』は返らなかった。
又、書きます!
| [27] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月20日 22時52分32秒 ) | パスワード |
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本多家も出て来ましたね。
あちこち繋がっていくのですねぇ。
せっかく協議離婚したのにリュウさんは「後家」さんになってしまったのですか。
お気の毒ですね。
>先日出した福井『安隠寺』からの『便り』は返らなかった。
諦め・忘れかけた頃にお返事が来るかも知れませんね。
楽しみですね。
| [28] | ![]() | 林原英祐さんからのコメント(2002年08月20日 19時28分23秒 ) | パスワード |
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しばらくのご無沙汰でした。お盆の供養話うぃ一節、、、
[1]項[3]項に書き込みました、、、
比企藤四郎(数馬義重の嫡男)の殺害に関して、『故有、、、』が気になって仕方がありません!!!
その後の勉強の成果を発表し、お盆の供養話に致します。
比企藤四郎(自害)と堀十兵衛(自殺)と松平直堅(権蔵)騒動
以前に『越前比企物語』の中で、、、
初代『比企数馬義重』の嫡男『藤四郎』が延宝5年(1677)12月に板取宿にて殺害され、同所に葬った。と書いて、その後2代『比企四郎兵衛榮翦』の養子縁組、お家再興に苦労した主旨のことを述べました。
少し、具体的に申しますと…
@初代『比企数馬義重』の記事(比企系図)の中では、、
男子 藤四郎 故有延宝5年12月25日於板取駅殺害葬同所
『浄入圓郭居士』
A二代『比企四郎兵衛榮翦』の記事の中では、、、
冒頭に、養父義重嫡子藤四郎儀不行跡ニテ出奔仕父ノ命ヲ背ニ付板取駅ノ寺ニテ殺害其 后養子モ相願不申処、、、
………と書き込まれてあります。
私はこの記事に接してから、ずうっと気になっていました。
あの『お家』大事の時代に『嫡男(藤四郎)』が父『義重』に背き、出奔し、身内の者が後を追い、板取宿で掴まえて、『殺害』(多分、自害させたのであろうが…)同所の寺に葬った。戒名も『浄入圓郭居士』と慎ましく、名も無い、寂しい扱いになっています。
この書き出しの『故有』の二字が、頭から離れないのです。
そして、私なりに「この重い二字」について探索が開始された訳です。
『福井藩の歴史』を勉強しますと…
越前福井藩はご家門筆頭。秀忠の兄、家康の次男結城秀康に始まり、将軍家にとっても、御三家から見ても兄筋にあたる親藩家門の重鎮である。
もともと北庄で、福井(最初福居)と名を改めるのは秀康の次男松平忠昌が越後高田から入ってからだが、当欄では便宜上、北庄時代から一括して福井藩として掲載する。
御家門筆頭と祭り上げられたとはいえ、藩主に恵まれず、幕府から意図的に力を弱められた感もあるが、代々石高を減らされていく。
福井藩史は、なかなか一筋縄では行かない。、、、云々と始まっています。
有名な古典とも言うべき、菊地寛著の『忠直卿行状記』の主人公である「松平忠直」はこの初代「結城秀康」の長男であります。
「忠直」の乱行によって、福井藩の最初の危機が到来します。「忠直の豊後への配流」「長男の光長は越後高田へ減転封」、、、
そして、越後高田から『秀康』の次男で「忠直」の弟、「松平(越前)忠昌」が藩主となります。当初の68万石は既に52万石になっていました。(隆芳院殿)約20年間
次の『光通』(大安院殿)の時代が約30年間続くのですが、、、
「光通」は脇