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投稿番号:42998 投稿日:1999年12月06日 06時04分12秒  パスワード
お名前:服部 明子
 

平家物語の雑談 その20


コメントの種類:歴史


<その19>に赤間神宮に「辰」の大絵馬登場と紹介されています。

>安徳天皇の左手は明るい新年を迎えるべく関門海峡を指しているのだそうです。

はい。
2000年が明るい1年でありますように祈らずにおられません。


G−CROWさんからのコメント(1999年12月10日 00時02分51秒)
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来年は、龍が昇るが如くの、勢いのある年になるといいですね

というか、私たち人間がそうしなきゃいけないんですよね

・・・ちょっとクサいセリフでした

なかにしさんからのコメント(1999年12月10日 00時31分29秒)
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 そうそう、忘れていました(これこれ ^^;)。

 半年ほど前に服部さんの方から、平家の家紋には「とまった形のアゲハ」と「開いたアゲハ」があるの?って件ですが・・・

 ちなみに、開いたアゲハというのはhttp://www2.tip.ne.jp/~nakani00/special_4/heike_odori.htm の写真の太鼓の緞帳に描いてある家紋です。

 開いているアゲハは、下関平家踊り保存会のマークだそうです。大昔に、平家踊り保存会のマークを考えた際、「平家と同じ家紋では畏れ多い」ということで、同じアゲハをモチーフにして、独自のマークを考えたのがアレだそうです。

 下関には平家踊りを伝承する会がいくつかあるそうですが、馬関連というところは、まさに平家の家紋を会のマークにしているそうです。

服部 明子さんからのコメント(1999年12月10日 10時31分01秒)
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ありがとうございます。

随分以前の事なので本人が忘れておりました。


服部 明子さんからのコメント(1999年12月13日 00時52分14秒)
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本郷先生の掲示板で面白い回答がありましたからまとめて転載します。


質問:
「世良田次郎三郎元信」みたいに、本来だったら何番目の男子かを示す部分が重複して
いる名前が結構ありますね。中には「茶屋四郎次郎」のように数字が逆転しているのも
あります。

何故こうした名前をつけたのでしょうか。


回答 by 本郷先生:

親父が次男で、その三男、こいつが次郎三郎と呼ばれます。
親父が伊予守で、その次男なら、伊予次郎。
親父が左衛門少尉で、その長男なら衛門太郎。

そんなところかな。

なお那須与(余)一は11番目の男の子。
次郎さんの二番目の子は次郎次郎じゃなくて又次郎、とか。

もちろん、これは大原則なので、バリエーションは様々です。

服部 明子さんからのコメント(1999年12月13日 01時01分24秒)
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以下も本郷先生の掲示板からの転載です。
素人には考えてもいなかった疑問ですから参考になります。


質問:「後醍醐院」

10月30日(土)の夕刊に「皇太子さま 天皇問題で初論文 学習院大学史料館紀要
に発表」という記事が出ていたので、さっそく、若干ミーハー気分で、『学習院大学
史料館紀要第10号』の徳仁親王殿下並びに学習院大学史料館特別研究員木村真美子氏
連名の「史料紹介 西園寺家所蔵『公衡公記』」を読んでみました。

まっ、史料紹介ですから手堅くまとめられていたのですが、ちょっと気になったのが
参考として掲げられていた<西園寺家と天皇家の関係系図>で、そこには北朝を含む
歴代天皇が亀山院・伏見院という具合に院号で書かれており、後醍醐天皇も「後醍醐院」
となっていました。

以前、藤田覚氏の本で、1925年になって、院号をおくられていた方も全て院を省いて
○○天皇と称することを政府が決めた、ということを読んでいたので、「後醍醐院」
という言い方もあることは知っていたのですが、何か落ち着かない感じがしました。

「後醍醐院」と書いたのは表記を揃えるためなのだろうな、と単純に思っているのですが、
何か他に理由があるのですかね。
ちなみに本文の方は「後醍醐天皇」となっています。



回答

院号について by 本郷先生:

院号ですけれども、たとえば『公卿補任』や『本朝皇胤紹運録』でも
「後醍醐院」と言う形で表記していますね。

ようするに、天皇であろうが上皇であろうが法皇であろうが、ひっくるめて「院」なんですね。

私は天皇親政と院政の差異を(鎌倉時代の場合)重視しない立場ですから、
上のように考えると都合がいいのかな?えへへ。

服部 明子さんからのコメント(1999年12月13日 11時27分18秒)
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日本経済新聞12月2日付け夕刊より:


「2度目の平 知盛、松本幸四郎が挑戦」

東京・国立劇場12月歌舞伎公演は3本のウチ、
松本幸四郎が10年ぶり2度目の平 知盛に扮する「義経千本桜」から
「渡海屋・大物浦の場」。

死んだはずの知盛が船頭に身をやつして宿敵・義経を狙う。
敗れた知盛がイカリを担ぎ上げて断崖から身を投げる最期は圧巻。

幸四郎は「足をV字にして落ちていくが、役に成り切っているので恐怖感は無い。
このような悲壮感を真っ向から描けるのは今や歌舞伎くらい」と語る。

服部 明子さんからのコメント(1999年12月13日 12時21分22秒)
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久し振りに知盛さまのことを書きました。

書こう、としてマシンに向かった時、心臓を把まれるような痛みが走りました。
「悔しい!」と知盛さまが叫んだような気がしました。

平家の最期は、知盛さまが病弱だったから?との吉川英治の呪縛から私は解放されて
いないので、未だ私の心の中では混乱したまま、結論が出ません。



重衡どのでは能でも歌舞伎でも絶対<怨霊>にはならないだろう、と思います。
この人については「明るさ」が好きです。

知盛さまのことは「深さ」が好きです。
考えれば考えるだけ「深さ」の魅力に捉らわれてますます好きになります。
「見るべきほどの事をば見つ」と言って入水した人が怨霊として描かれるのは何故?
彦島に<拠って>敗れた悔しさは分かるのです。
絶対負けない自信があった、って。
知盛さまも「明るく」入水した、と思います。


忠光や景清が壇の浦から脱出して頼朝暗殺に賭けた生き方も分かります。


勝利を信じて敗れ、脱出ならず命を落とした景俊どの等が怨霊となった気がします。
壇の浦の海に魂がうごめいている、って。
だから弱り目に祟り目の義経一行が大物浦で平家の怨みを受けた、というのは面白いです。
実際は大物浦から落ちて行く義経一行を平家の残党が嵐の中を襲ったのかしら?


でも、知盛さまにしないで欲しいです。

服部 明子さんからのコメント(1999年12月16日 13時29分05秒)
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1999年12月14日(火曜日)日本経済新聞(夕刊)より

国立劇場12月歌舞伎公演

品格高い幸四郎の「知盛」
演劇評論家 上村以和於



この月の国立劇場は第一線級の競演で賑やかな歌舞伎座に比べると、ひっそりと地味な印象だが、内容は必ずしも劣らない。

まず幸四郎が「義経千本桜」から「渡海屋・大物浦」の知盛で、この人の丸本時代物として上の部の成績である。夙に定評を得ている「逆櫓」の樋口兼光と同系統の役、というより、厳しく言えば知盛が樋口に近い感触で仕上っているのが難といえば難だが、悲劇の雄将らしい丈の高い品格と、スケールの大を感じさせるのがいい。欲には、体のこなしが軽く表面的に流れるのが不満。根の生えたような力感が、あのスケールとあいまつようになれば素敵なのだが。それと、入水の件りの碇の扱い方がおかしい。平素カットされる安徳帝の性の秘密を明かすセリフを言ったが、これは日によってまちまちらしい。何故か?

雀右衛門の典侍(すけ)の局は何度も手がけた役だが、80の高齢にして少しの老いもマンネリも感じさせない。自害の場面の品格が特に美しい。八十助の義経の、知盛の述懐を聴く受けの演技の見事さと、知盛さらばと叫ぶ声の美しさ。

中幕が雀右衛門の小品舞踊「手習子」。さすがに動きは少なくなったが、現代なら女子中学生の町娘になって少しもおかしくないこの偉大なるカマトトぶり!

服部 明子さんからのコメント(1999年12月23日 15時01分10秒)
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朝日新聞11月29日(月)4面の広告より;

朝日ソノラマ

104-0061 東京都中央区銀座6-11-7
03-3572-3180

「能の平家物語」(新刊)

秦 恒平(文)
堀上 謙(写真・曲目解説)

3200円


世阿弥をはじめ能の作者が描いた「平家の人物たちの素顔や横顔を
典拠となった平家物語諸本に探訪する、能楽ファン・平家ファン待望の1冊

服部 明子さんからのコメント(1999年12月29日 13時56分11秒)
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1999年6月3日の中日新聞(夕刊)より


喜界島:きかいじま:

奄美大島の東隣にぽつんと浮かぶ喜界島は珊瑚礁が盛り上がって出来た。
今も年に2〜3ミリずつ隆起、地質学者が訪れたこともある。

海沿いを走る県道は約32キロ。
自動車で1時間あれば1周出来てしまう。

島には落人や流人伝説が多い。
平安末期、平氏覆滅を企てた僧侶・俊寛が流された「鬼界ケ島」と言われる島の1つだ。
平家物語などによれば仲間2人には大赦が出たが俊寛だけは許されず半狂乱になって赦免船に取りすがった。

中心部に近い坊主前(ぼうずんめえ)という地に俊寛の墓がある。
ほぼ直方体の石の柱は銘の彫られた跡もなく、縦にひび。
幾分右に傾き気味だ。

時の流れを感じる。
一瞬、風が吹いた。
近くの黄色い花と一緒に墓が揺れたように見えた。

昭和50年、墓からその当時の50歳前後の人骨と貴人を証明する木棺が見つかった。
俊寛といわれるゆえんだ。

人骨を基に復元された座像が墓の前にある。
武士のような顔つき。
意外だった。

喜界町文化財審議委員長の兜坂岩二さん(67)に、同じ薩南諸島にある、硫黄島との俊寛伝説の「本家」争いを尋ねた。
「どちらが本当か。わかりませんねぇ。伝説ですから」
穏やかな表情だ。


夕方、空港近くの海岸線を歩く。
珊瑚の岩が連らなる向こうにコバルトブルーの海。
水平線上に見える奄美大島に黄色い太陽が沈む。

「夏の太陽は真っ赤。大っきいです」と島で育った吉沢伸一 さん(33)。

夏の落日を想像した。
濃密な植物、荒い海岸線、燃える太陽。
俊寛の望郷の念にふさわしい舞台に思えた。


6年前、島の沖でダイバーが偶然遺跡らしい巨石群を見つけたが正確な位置は分からない。
そのせいか、ここ数年ダイバーの観光客が増えている、と町観光課。


また新たな伝説が見つかるかもしれない。


交通:

鹿児島空港から喜界島空港まで75分。往復3万9740円

島はバスが走るが1時間から1時間半に1本程度なので、レンタカーやタクシーが便利。


料理:

山羊料理。刺身、スープ、肉や内臓を炒めた料理など。
土産は黒砂糖や黒糖焼酎。
焼酎はほんのり甘い。


見どころ:

島で最も高い海抜203メートルの百之台からは島が一望出来る。
源為朝が放った矢を抜き取ったあとから湧き出たと伝えられる雁股の泉、
平家落人の史跡、村田新八(西南戦争の勇将)修養の地の碑も。

空港近くに珊瑚礁を掘り白い砂を埋めた長さ250メートルのスギラビーチがある。
ビーチ側のエメラルドグリーン、外側のコバルトブルーと海の色の対比が見事。
夕日も美しい。


問い合わせ:

喜界町役場企画観光課=電話=0997(65)1111



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