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投稿番号:26168 投稿日:1998年10月01日 03時10分21秒
お名前:服部明子
 

平家物語の雑談 その6(のコピー)

キーワード:平家物語 地獄の思想

コメントの種類:歴史


( Date: 1998年 6月 30日 火曜日 11:36:33 PM)

いんこさんへ:「地獄の思想」やっと読みました。買って良かったです。有難うございました。

さとこさん:「地獄の思想」とても良い本なので読んでみて下さい。梅原 猛著。
中公文庫。
「平家物語館」にも書き込んだのですが私は宗盛という人は評価の分かれる人で、当時の人
達にも毀誉褒貶、馬鹿にする人あり同情して涙する人あり、宗盛を語る人の心のあり方で評
価が変わったと思います。私としては「平家物語」の中で損な役割をになわされた人物だと
思います。「平家物語」に描かれた宗盛が実像じゃないと思うので。

中西さんへ:自分の書き込んだ「平家物語館」のコメントを読もうとしたのですがお倉入り
になっていたりして捜せませんでした。それにお部屋がいろいろ分かれると不都合です。や
っぱり「部屋数」は少なく「ツリー」式でないほうが新しく来て下さる人達に親切と思いま
す。雑談形式でいいと思います。




越智裕 さんからのコメント(1998年10月01日 03時10分47秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 5:07:11 PM)

中西さんへ
お久しぶりです。最近、検定やなんかで忙しくてここを覗けませんでした。
久しぶりに覗いたら、その6まで増えていて驚きです。
それに、新しく雑談に加わった方もいらっしゃって、すっかり浦島太郎な私。
さて、中西さんはたしか、「雑談のその5」の中で源平盛衰記を読みたいとおっしゃっていたと思うのですが、
壇ノ浦合戦の部分だけならコピーが私の手元にあります。よろしければ、コピーして送りましょうか?
他にも、卒論で使った資料がありますから興味がありましたら、メールでも送っていただければと思います。
メールアドレスは
 hs98403@core.ac.jpです。
ところで、「ツリー式」とはいったいどういうものを言うのでしょう。(不勉強なもので・・・)
それから、教経と菊王の話で男色の話題が振られていたんでとても驚きでした。
ここはそう言う話題もOKなんですね?(笑)
いや、でもよく考えたら、義経なんて鞍馬寺のお稚児さんだったんですよね。
その辺の話を膨らませた漫画が、角川書店から出てました。
えーと、すみません、作者とタイトル忘れました。
でも、あやしいと言えば、木曽義仲と今井兼平もですし、
(なんと言っても、高校時代の国語の先生をして、そう言わしめた人達ですから)
知盛も、○○家長(またも名前を忘れました。すみません。)という人と
「日頃の約束を違えまじ」といって海に入っちゃってたような・・・
ああ、まじめな平家ファンの方々すいませんっ!
でも、そう言う話も大好きな私。同士の方いらっしゃったらメールください。

さくのさんからのコメント(1998年10月01日 03時11分12秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 5:23:54 PM)

 はじめまして。「平家物語の館」から飛んできました。
平家物語というよりは能楽のファンですが、
平家物語から題材をとった能は悲劇性、優美さ、荒々しさが
程よくブレンドされていて、源氏物語系の能より好きです。
 さて、服部様の<重衡×千手>論を早く聞かせて欲しいので、
(私は平重衡の大大大ファンです。マニア入ってます)
呼び水効果を狙って重衡様について少し持論を。
 平家物語の中の平重衡は虜囚になってからの描写(女たらし?)
に力点が置かれていますが、他の文献の記述を繋ぎあわせると、
一の谷まで戦で負けたことがなく、実は相当、武勇の人だったらしいです。
その辺の記述は上横手雅敬『平家物語の虚構と実像』(下)
(塙進堂?・・・ごめんなさい、出版社名はちょっとうろ覚えです)
に詳しく、著者は重衡の武勇の側面が、
平家物語の平知盛像に投影されてしまったのではないかと記述しています。
私も賛成です(笑)。まあその辺はともかく、
戦には強いは女にはモテるは、南都は焼いちゃうは頼朝に見栄切っちゃうは、
万事に強気なお人・・・というのが私の重衡像です。
 うーん、本当に、愛ある人について語るのは難しいですね。
私の重衡様びいきは上述の本からはじまったのではく、
(これにたどり着いたのはつい最近です。でもお勧めですよ)
能『千手』に感動して、重衡様について調べまくってゆくうちに、
平家物語では無視されがちな側面が多いことに気がついてからです。
確かにこの人、「平家物語の平重衡」と限定したときは
あんまり魅力ないですね(涙)。平家物語も物語である以上、
ましてたくさんの人々によって語り継がれて作られた作品である以上、
バイアスがかかって当然ですし、
きっと他のキャラにも同じことが言えるんだろうなと思います。
 私のバイアスのかけ具合(またはひいきの引き倒し具合(笑))については、
白泉社メロディ9月号『短夜』をお読みください!
(あああ、ついに宣伝しちゃったよ、もう・・・)
でもこのWebはディープな方々ばかりなので、
読んだらこんなのアリかよって怒られそうで心配。
創作なんだからその辺は勘弁して下さいね〜。

いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時11分37秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 6:26:31 PM)


うわー、お客様が増えてますねぇ、最近(^O^)。皆様、よろしくお願いします。

服部さん、「地獄の思想」気に入っていただけてよかったです。って私が書いたんじゃないので、
えらそうに言えませんね(笑)古い本ですけど、この本は私が宗盛のことに興味を抱くきっかけを
作ってくれました。

越智裕さん、おひさしぶりです(^-^)。ひんしゅくをかいそうですが、私もその手の話は好き(!?)
ですよーん。もともとここのページであの話題を長々と書き込んだのは私ですし(爆笑)
私の大学の頃の教授も日本の歴史は近世まで男色がつきまとう(笑)というようなことを言っていま
したし、好き嫌い別にしても歴史が好きで色々勉強してると必ずどこかに出没(笑)してきますね。

さくのさん、はじめまして。
メロディで重衡のお話を描かれるとか・・。絶対に買いますわ。楽しみにしています(^O^)
平家でマンガをシリーズ化してくださいね(笑)アンケートもおくりましょうか?(よけいなお世話で
すね(笑))
「平家物語の虚構と真実」は私も読みました。なかなか興味深い本ですよね。
私は清盛と教経がひいき(笑)なので、重衡殿よりも教経は平家物語ではもっとあわれ(?)です(笑)
苦悩なし、猪突猛進の体育会系男みたいな印象が強いですからねえ。よよよ(あ、体育会系が悪いと
いうことではないですけど・・一応) おまけに重衡殿のようには女気はないし(笑)
能でもこれじゃあ素材にもしてもらえません。よよよ 重衡は私も好きな人物です。鎌倉に幽閉され
ていた約1年、彼は何を考えていたのでしょう。宗盛が鎌倉に連れてこられた時も二人は会わせてもら
えませんでしたね。彼らの苦衷を考えると・・・

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時12分03秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 11:13:06 PM)

さくのさま、いんこさん、重衡さまっていいですよね。私は一の谷 → 鎌倉 → 処刑まで
の重衡について書きたいと思いつつナカナカ書けずにいます。単に怠けているだけですが。
よく言われる重衡さまの「内剛外柔」のことをわたくしの独断と偏見と贔屓で。。。それで
能に書かれなくなったところ等をわたくしめが説明出来ると思うのです。ナァンチャッテェー
好きな男って「好きだから好きなのよ、ドコが悪いの!」と女の開き直りで書きそうなので頭
を冷やさなきゃと思っているのです。私には好きな男って書きにくいのです。

越智さま、「ツリー式」というのは「平家物語館」にアクセスして頂ければスグ分かって頂け
ると思います。1つの題材でいろいろな人が討論を書くには都合がよいのですが整理整頓され
過ぎていて私達のように1回のコメントでいろいろ書きたかったりすると不便なのです。結局
平家物語館も雑談形式の方に皆さん書き込んでいます。


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時12分31秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 11:39:47 PM)


 さとこさん、こんばんは。

 平宗盛は服部さんも書いておられますが、見方は人によって、また、源平の時代とどうからませるかによってかわってきますよねぇ〜。で、私の考え。

 平家物語では、なんか完全に引き立て役になっちゃって気の毒ですが、時代が平和なときならとっても良い人ですよね。お金持ちの余裕というと表現がストレート過ぎるでしょうか? (^^;)

 ただ、あぁいう戦乱の時代でしたので、「もっとしっかりしてくれよぉ」ってじれったく思うことも多いです。この点については、弟たちがあまりに、兄として宗盛を立てすぎたために舵取りを誤ってしまったのではないかとも思うのですが、なんだか、宗盛のために負けなくて良い戦に、数多く負けているようなきがして、なんだかとっても残念です。

 生まれる時代を間違ったというか、せめて重盛のような生き方を選んでいたら・・・良いお父さんの代名詞として名が残っていたかも知れませんね。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時12分56秒)
 

( Date: 1998年 7月 1日 水曜日 11:50:20 PM)


 さとこさんの

>平家物語の作者って運命論者だったのでしょうか?

 で思ったのですが、平家物語の作者って、みなさんの心の中では誰だと思っておられるのでしょう? 信濃前司行長? アエラムックの「平家物語がわかる」には「最近は作者が誰かという議論はみられなくなった」という内容のことが書いてありましたが、雑談ネタとしては興味のあるところですよね。

 熊谷直実じゃないか、と小説家の方だったか、評論家の方だったかが書いておられたのを読んで「なるほど」と思ったこともあるのですが、私は最近は安徳天皇ではないかとおもったりもして(これこれ ^^;)。

 その一方では「平家物語」を書いた(というかおそらくは編纂したという方が正しい??)のは、女性なんじゃないだろうか、なんて思ったりもするんですが・・・。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時13分28秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 0:04:26 AM)


 「地獄の思想」・・・太宰治の項がおもしろかったです(これこれ ^^;)。平家物語の項は、筆者が「あ、アンチ義経だな」って思えて好感が持てました(笑)。

 服部さん、ここの雑談部屋の運営へもご意見ありがとうございます。私はこのシステムを借りているだけで真の運営は「彦島」を置いているプロバイダがやっているのですが、先日お話しした、「ここのシステムをツリー式に変更したいと打診された」件、私の方からお願いしてとりあえずは保留にしていただきました。

 プロバイダの方では一つのシステム上で多くの電子会議室を動かしていまして、よその電子会議室では、「未読の管理」をしたいという要望が多いそうで、1発言が独立して管理される「平家物語館さん」にもあるような形式を選択したようです。現在の形式だと、常に先頭の発言から表示されるというデメリットはあるものの、ダラダラ書けるこういう形態が好きですので、できる限り現状を維持したいと思います。

 「部屋数」については、この「雑談部屋」を1本用意して、それ以外は特に意識的な分類はしないでいます。ただ、参加者が誰でも新しい部屋を作ることができますので、各論で別の場所に書きたくなったら各自で別に部屋を作って話を進めていただけたらと思います。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時13分53秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 0:11:27 AM)


越智裕さん、お久しぶりです。がんばってますか?

>「雑談のその5」の中で源平盛衰記を読みたいとおっしゃってい
>たと思うのですが

 私が読みたいと書いていたのは「玉葉」でしたが、ぜひ、源平盛衰記を含めおもしろい資料がありましたらご紹介下さい。ところで、当時の一般論的史実としては男同士というのはどうなんでしょう (^^;)。


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時14分28秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 0:28:08 AM)

 さくのさん、こんばんは (^_^)。

 塙進堂→塙書房の塙新書 ですね (^_^)。

>白泉社メロディ9月号『短夜』をお読みください!

 って、なんですか?? (^^;) 是非機会があれば読ませてください。「安徳天皇は女の子だった」と言い張った私ですから、少々のことでは驚きません(これこれ ^^;)。安徳天皇がやまたのおろち・・・には負けますが・・・

 重衡といえば、悲しい性か千手前の方が気になります。なんだか、すごいおしとやかそうで、かわいい感じで、重衡の気持ちを推し量って詩を詠んだり琴をひいたり、こういう女性に巡り会いたいもんです。と思いませんか? 越智さん(これこれ ^^;)。

 千手前は「平家物語」では、重衡の死後、出家して菩提を弔ったとあったと思いますが、「吾妻鏡」によると、重衡の死後まもなく死んでいるそうですね。「平家物語」では、関連する男性が物語から消えるとそれに対応する女性は皆出家して天寿を全うしてしまいますから、やはり「吾妻鏡」の方が真実でしょうか? きっと、寂しさに耐えながら4年は菩提を弔ったものの、何かをきっかけにして重衡の後を追ったんでしょうか? 愛する男の死後を弔うことは当時の女性の大切な役目ですから、それから考えるとずいぶん思い切ったことをしましたね。

 ちなみに「新平家物語」では、重衡が斬られると同時に、重衡のすぐ側で自害していますね。感動するシーンです。


さくのさんからのコメント(1998年10月01日 03時14分55秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 0:14:20 PM)

こんにちは。早速、重衡様の話題が持ち上がってて嬉しい私です。
なかにし様>そうそう塙新書でした^^; フォローありがとうございます。
ちなみに書名も間違ってますが、こちらはいんこ様のフォローで助けていただきました。
メロディは「花とゆめ」を出している出版社の少女漫画雑誌です。
やおいじゃないので(笑)びびるような内容ではありませんが
(でもちょっと×維盛でやってみたいよーな・・・越智裕様 、いかがでしょうか)、
私的千手は乱暴モノなので、がっかりしちゃうこと必定です。
ところで最近「平安時代の公家社会も男同士はアリだった。しかし愛情だけじゃなく
立身出世の下心つきだった」という内容の朝日新聞文化欄の記事を読みました
(いつの記事だったかな。ごめんなさい。詰めの甘いやつです)。
閨の営みってやつは今も昔もそんなに違わなかったのではないでしょうか。
いんこ様>アンケート出してください! 全然、余計なお世話くないです〜(涙)。
私は重衡様の次に教経が好きです。凄味を感じさせるストイックな男
・・・という妄想があるんですがいかがですか?
(・・・教経×もいいかもしんない。ああっ、ばかばかっ!)
まんが描きのいいところは妄想をカタチにできるところですね。
重衡様については他に内裏女房との挿話を軸に、
正室輔子や南都炎上を絡めた話を考えていますがどうなりますやら。


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時15分22秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 2:21:12 PM)

>メロディは「花とゆめ」を出している出版社の少女漫画雑誌です。

 ふぅ〜ん、9月号っていうのはこれから出るんですよね? 乱暴ものの千手さんも良いのではないでしょうか (^^;)。

#今日は会社を休んで、北九州市で開催中の「大英科学博物館展」なるものを見に行ってきましたが・・・産業機械なんてものは動いてこそのものですよね。それが、静かに展示してあるのをみてもそれほど感動はなかったです。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時15分52秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 3:13:36 PM)

さくのさま
教経殿がストイックっていうのには大賛成。自分に自信があるっていうか自分に酔ってる
っていうか。でも教経殿の場合は自己陶酔とかナルシストとは違うのよね。そういう軟派
系じゃなくて。。。いんこさんの表現をお借りすると体育系。バンカラですね。豪傑系。
ナルシストの代表は資盛だと思います。資盛って生意気なガキの印象が強くて、その上
女に手が早い印象が強く、嫌いだったんですけど、でも右京大夫との悲しい恋で
鼻持ちならないイヤなヤツという先入観がすっかり消えました。
この辺りも書きたいのですが、もう少し時間が必要です。


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時16分20秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 6:14:19 PM)

服部さんへ、お返事ありがとうございました(^-^)
こんどまたゆっくり名前のことなど(笑)メールいたしますね。よろしく!!
資盛ですかあ、私も服部さんとほぼ同じイメージ持ってました。建礼門院右京大夫
を読んでから少し印象は変わりましたが、それでもやっぱり都合のいい公家的な
部分を多分に持つ男という部分はありますねぇ・・・(やっぱり小松の御曹子??)

>凄味を感じさせるストイックな男

さくのさん、そうっすよ!!そうなんすよ!! イヤーいい男ですよねー。(壊れて
ます。私(笑)) 教経のイメージについては、「その5」か「その4」の私と服部さん
の書き込みを読んでいただけたらうれしいです。服部さんがズバリ(笑)私のイメー
ジを言葉にしてくださってます。ほほほ
「新平家物語」、都落ちしてからの教経の描写がものすごく気に入ってます。
ちょっと太平洋戦争終局まぎわの若手将校などのイメージはいってんじゃないのお??
と思わせるようなところもありますが・・・(苦)
容姿の描写がとても好きです。あーとまらない。私、教経マニアはいってます(笑)
教経×・・・ですか?(爆笑) さくのさんの好みは教経が前にくるんですね(は、
私ったら何て話題を・・)

朝日新聞の男色記事? 私も読みました。もし、院政期の恋愛(?)などに興味がおあり
でしたら、あの朝日の記事にも書かれていた研究者の方の本ですが 
 ・「平安期の男と女」 服藤早苗著  中公新書
 ・「院政期社会の研究」 五味文彦著  山川出版社
などにけっこう詳しく載って(笑)います。もし、御存じでしたらすみませんです。
メロディ読んだら必ず(笑)アンケート書きます!! がんばってくださいね。(^o^)

いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時16分46秒)
 

( Date: 1998年 7月 2日 木曜日 6:52:16 PM)

すみません。
上記に書いた 
       「平安期の男と女」は「平安朝の女と男」(笑)の間違いです。
失礼いたしました。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時17分36秒)
 

( Date: 1998年 7月 5日 日曜日 0:56:21 AM)

やっと「重衡と千手の前」について書ける心境に至りました。

私にとって重衡は一の谷以前の「骨のあるかわいい男」の第1ステージ、千手の前に出会うま
での「苦悩する青年武将」の第2ステージ、そして最終ステージとして千手の前により「昇華
した魂」の3つの姿があります。

「第1ステージの重衡」
生まれが気楽な3男坊だから明かるくって、ユーモアがあって、良く気がきいて、その上、
牡丹の花に例えられる豪華で美しい男だったから、重衡が出現すると場が一瞬のうちに楽
しく華やかな雰囲気に包まれて、女達には可愛がられて人気があったことでしょう。重衡
が微笑むとエクボの辺りにりりしい若武者のキゼンさも加わって女房達の目がハート型に
ウルウルしたのではないでしょうか?でも人気があったのは女達の間だけでなく、女達を
虜にした魅力がそのまま男の魅力にも変じて、頭が切れて決断力に富む重衡はなかなかの
器の武将であるよ、と男達の間にも期待が高かったと思うのです。

この頃の重衡は父・清盛の気性を1番強く受け継ぎ、南都が焼けてしまったのをほんの「業務
上過失」と捉らえ、清盛と重衡父子は「仏罰?そんなものが存在するものかよ!」と笑い飛ば
したことでしょう。それに実際重衡の戦さぶりはいよいよ活躍に満ちていました。

「第2ステージの重衡」
重衡が変わるのは一の谷で。一の谷の合戦で馬を射られた上に乳母子の後藤盛長に裏切られて
置き去りにされた時、さしもの強気の重衡も我が運の尽きたのを認めざるを得ませんでした。
この時の重衡の心の中はショックの余り「我が首をはねよ」の思い1つでした。「まさか、ま
さか」の乳母子の裏切りで愕然とする重衡の狼狽振りを想像してみて下さい。一の谷のほんの
少し前、今井兼平の壮絶な死に様に「男とは兼平のように死にたいものよ、乳兄弟の絆の固さ
の鑑よ」と2人で語り合ったものなのに(我が乳母子の盛長は自分の馬を俺に取り上げられる
のを恐れて尻に帆を掛け逃げよったとは。。。)と。
盛長については軽率で頼りにならない男であるとは分かっていたが乳母子だからと信じていた
だけに重衡の裏切られた心の隙に入り込んで来たのが、(これが仏罰なのか?)という恐怖心。
(俺ともあろう者が生け捕りの恥に遭うなんて!)、(俺があんなに臆病で卑怯なヤツを乳兄
弟として信じて来たばかりに)と繰り返し繰り返し自分を責め、苛み、抑さえの効かない激し
い怒りと悲しみの感情に東大寺を焼いた後悔が恐怖心を伴なって更に追い打ちをかけるのでし
た。(俺はこんな弱い人間じゃなかった筈なのに)と自分を励ませば励ますほど心と体がバラ
バラになって焦るのでした。(俺は死など恐れた事は無かったのに)と思う途端に蘇るのは父
・清盛のあっち死の姿が浮かび(大仏を焼いたのはこの俺だ)と思うともっとひどい地獄の責
めを受けるのだろうと想像して心は闇の底に落ちて行くのでした。

「第3ステージの重衡」
法然上人から出家のまねごとを受け「汝の罪は既に仏の許しを得た」と言われても心は晴れず
重衡が本当に自分自身を開放したのは鎌倉で千手の前に出会ってからでした。

都にいた時はブランド名に飾られた女房達に取り巻かれて美しい女には不自由しなかった重衡
でしたが鎌倉で出会った千手の前という女性は彼の前にオズオズと現われ、余計な言葉を口に
せず視線を外してひたすら重衡の身の回りの世話をするだけで、重衡の心に彼女から踏み込ん
で来るようなことをしませんでした。千手の前は現代語で表現すると「心理療法セラピスト」
のような立場を取れる女性だったのです。「首をはねて欲しい」「出家を望んでいる」と心の
苦しみをもらす重衡に彼女は耳を傾け、自ら返事をする替わりに重衡の心の訴えに的確に応じ
た琵琶や琴、和歌や漢詩で答えるのでした。それが重衡の望んでいた的を得た曲であり心境を
慰める言葉であったので、(これほどまでに俺を理解してくれる女性が鎌倉にいたとは)と、
重衡は千手の前に心を重ねるようになりました。「あな思はずや、東にもかかる優なる人のあ
りけるよ」と。

やがて重衡は南都に送られることになり、途中で日野に住む妻の1人に会うことを願い出まし
た。この妻は平家の一族と彦島にも同行していたので重衡は源氏方の兵士達の狼籍ぶりは知っ
ていたと思います。自分が生き恥さらしているように、この妻も耐え難い恥を忍んで必死に耐
えているのだから、自分が千手の前に心を慰められたようにこの妻を慰め共に涙を流そうとし
たのです。心の傷付いた者は心の傷付いた者同士で涙を流し合うのが1番の慰めとなるのです
から。

私は1説にある「あなたは私の後を追ったりせず、出家もしたりせず、良い人が現われたら再
婚なさい」と言った重衡が好きです。重衡は鎌倉で千手の前という素晴らしい女性に出会って
心を慰められたのですから自分の死後、心優しい男性に巡り合って妻が慰められて余生を送る
ことが出来たらこんなに自分の望むことは無いと願った、と思います。
私の夫は「自分が死んだら天国から明子に良くしてくれる人を捜して頼んであげるね」と言う
人なのです。自分が死んでも嘆いたりしないで、後を追う事を望んだりしないで、楽しく余生
を送って欲しい、と言う人なのです。

重衡の妻「大納言の典侍」はこうして大原の女院徳子を慰めることが出来たのでは、と思いま
す。

千手の前が信濃の善光寺で重衡の菩提を弔った話は信じられません。どうせ出かけて行くなら
重衡の斬られた所でしょう。でも私は「行かなかった」と思います。それより重衡が南都に送
られた後、斬られる時を同じくして鎌倉で自害したのでは?と思います。というのは20才を
過ぎて当時としては結婚しそびれて、鎌倉には重衡のような豊かな教養を身に付けたりりしい
武将は見あたらないし、心を重ねたい男性はもう現われる可能性が全く無いし、もはやこの世
に思い残すことは無い、と。千手の前が平家の男の後を追って自害したというのは当時タブー
だったのではないかと思うのです。それで信濃の善光寺が唐突に出て来たのではないかと思い
ます。

平家の公達の中でも、牡丹の花のように華やかで美しく、教養豊かで、勝者の頼朝に気後れす
ることなく対等に渡り合い、男とはかく死に臨みたいものよ、と重衡は「平家物語」の語り手
達に1番愛された人物だったのではないかと思います。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時18分09秒)
 

次回は「資盛と右京大夫」について書こうと思っています。来週には、と予定しています。

今回「平家物語」を読み返して重盛の乳兄弟が「後藤盛長」と分かってハッとしました。
私は以前から人の苗字に拘るところがあって仕事柄不特定多数の人を相手にしているのですが
近づくだけで不愉快な思いにさせられる人がいたのです。名前を見てみると「佐々木」なので
す。子供の時から「佐々木」という名前が嫌いでしたが理由が分かったのはつい最近。母方も
父方も「佐々木」さんとは犬猿の仲だったことが分かってから今では大丈夫になりました。

さて「後藤」姓は私の出身地名古屋ではありふれた苗字の1つでウチも遠縁になると分かって
いても(何か後藤さんにはバカにしてる気がしていた)のです。今回「後藤盛長」のことから
だったの?とスッキリしました。

まだ他に、全く知らない人なのに何か親しい気がして調べてみるとXXという苗字の人で、な
るほどと思ったり、先祖代々OOという苗字にはいいように利用されたりということがありま
した。私達の血のなかのDNAに刷り込まれた過去の記憶が反応しているのでしょうか?仕事
柄相手は100%初対面の人達です。(なんだかサイトがだんだん身の上相談室風になってし
まいました。ごめんなさぁーい。 m(__)m

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時18分36秒)
 

 以上は旧電子会議室からのコピーです。各発言は旧電子会議室の発言をそのまま移動しています。もともとの発言のタイムスタンプはコメントの先頭行に書いてあります。また、メールアドレスは個人のメールアドレスを第三者が公開することは支障があるので、便宜上WS彦島のメールアドレスを使用しています。

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